囲炉裏夜話過去ログ (1〜300)



1 まずは、 M.K. 2000/12/10 01:10

まずは、おめでとうございます。待ちかねたホームページの立ち上げですね。読者からの、或いはそうではない方からの、いろんな意見が寄せられる場になるよう願っています。

2 制作者より MS 2000/12/12 00:02

このホームページを立ち上げるにあたり、ネット上での反響が気になるのが風琳堂より、むしろ制作者なのです。カウンターを見て順調に数が伸びているとホッとします。このHPをネットに乗せてから一週間とチョット、とりあえずカウンターの数字が伸びているので一安心
 このHPについて注文等ありましたら連絡ください。

3 おめでとうございます! かごあね 2000/12/24 11:39

HP完成、おめでとうございます。
ひょんなことから、風琳堂さんとお知り合いになり、
なんだか私もいろんな事を勉強させてもらってます。
今後もますますのご活躍を期待しています。

7 ご迷惑お掛けしました MS 2001/02/18 01:11

この掲示板をご利用の皆様へ
書き込みが出来なくなっていたのを忘れていました。ゴメンナサイ!!
取り敢えず書き込みが出来るようになりましたので、連絡させていただきます。
今後は、この掲示板の模様替えもしていきますので、皆さんで気楽に書き込んでください。

8 お久し振りです 高原健一 2001/02/22 21:59

何度かHPを覗きました。風琳堂のご主人がお元気そうで安心いたしました。
風琳通信の最終号(?)の在庫がありましたら10冊ほど注文したいのですが・・・。
私の手元には1冊もなくなってしまったもので・・・。ありましたら、ご一報いただければ幸いです。
今後のご活躍、お祈り申し上げます。

9 そのうち私も書きます。 SIBATA Hal'hiro 2001/02/23 00:19

穂國の古代史そのうちに書きます。「エミシの国の女神」の援護射撃になれば・・・砥鹿神社の真の祭神・朝廷別王=ホムツワケノミコト―丹波―元伊勢 石座神社ー三河冨永の長髄彦伝説−安日伝説等々

10 本、届きました。 高原健一 2001/02/28 13:31

ありがとうございました。懐かしく、読みました。明日、送金いたします。

11 送金完了しました。 高原健一 2001/03/01 15:27

遠野は寒そうですね。こちら(神奈川)は、昨日は春一番が吹きましたが、今日はみぞれのような雨です。ご主人。お体に気をつけて、よい本をたくさん出版してください。
また、うかがいます。

12 リンクのお願い 高原健一 2001/03/02 20:53

こちらのHPのリンクを私のHPに貼らせていただきたいと思います。都合が悪いときは、お申し出ください。よろしくお願い致します。

13 リンクのお願い ども(^^; 岩手のGO 2001/03/15 22:30

福住さ〜ん!やっとHPが完成したよ。
ところでリンクを貼ったけどいいよね?(^^;

14 どもども。 のほほん人 2001/04/16 23:45

どこにもメールアドレスが見つからないので
ここに書き込みます。
お元気そうでなによりです。
H.Pのぞいてみてください。

15 素敵なホームページですね 風琳堂主人 2001/04/17 13:43

今、「リンクの輪──風琳堂リンク集」という見出しで、新しいリンク集がつくれればと準備しているところです。
そこに、「のほほん人」さんのホームページ「風の散歩道」も入れさせていただきます。近日中に更新します。

16 読者の皆さんへ 風琳堂主人 2001/04/17 13:59

風琳堂の主人も、少しホームページに慣れてきましたので、お便り(公開でよければですが)などここに書き込んでください。これから、なるべくご返事させていただきます。プライベートなお便りは、「Mail」の方へお送りください。

17 リンクありがとうございます。 つも 2001/05/04 06:56

おはようございます。
早速リンクありがとうございます。
「民話の宝庫」遠野での御活躍、楽しみにしております。宜しくお願いいたします。

18 つもさんへ 風琳堂主人 2001/05/04 15:01

リンクの件ではこちらこそありがとうございました。まだ「リンクの輪」は更新整備中なのですが、あと「出版の現在と未来を考える」の見出しで関連HPの紹介ができればと考えております。まだ発展途上の風琳堂のHPですが、あらためてよろしくお願いします。

19 東北伝説について 風琳堂主人 2001/05/23 15:38

ただいま、ホームページの改定作業に入っています。新しいHPのタイトルは「東北伝説──遠野物語の里から」の予定です。東北の歴史と文化の新しい魅力を特集形式で構成できればとおもっています。新タイトルだけが一人歩きしているようで、責任編集者としては、すこしあせり気味です。近日に公開しますので、折をみて、またのぞいてみてください。

20 風の通信─1 風琳堂主人 2001/06/05 13:59

早池峰の山開きは6月10日。多くの人が山頂をめざします。風琳堂の新ホームページ「東北伝説」の公開日は、せっかく早池峰の女神=瀬織津姫(せおりつひめ)を特集しますので、なんとかこの日にはと改訂作業をすすめています。
なお、この掲示板のタイトルは、新HPでは、風の便りの意味もこめて、「風の通信─自由掲示板」に変わります。風琳堂からの近況等の小さなお知らせは、ここに掲載していくつもりです。ご覧いただいた方で、新ホームページの感想・ご意見・風琳堂へのメッセージ等があれば、どうぞお気軽に書き込んでください。

21 風の通信─2 風琳堂主人 2001/06/10 05:37

どうにか6月10日にはまにあったようです。少しおそるおそるの新HP公開です。
深夜の逍遥を楽しむ感覚でご覧いただければとおもいます。
積み残したページもありますが、これは追って立ち上げていきますので、また真夜中のティータイムにでものぞいてみてください。東北伝説は、夜の時間帯のほうが相性がよさそうです。

22 おめでとうございます 高原健一 2001/06/12 23:01

新装開店、おめでとうございます。
また、ゆっくりお訪ねいたします。取り急ぎ、お祝いまで。

23 持統時代のエミシの国・三河から 柴田 晴廣 2001/06/13 08:39

今朝の東愛知新聞1面に蒲郡の赤日子遺跡で環濠発見されるのニュース掲載される。赤日子神社の成立を含めて、菊地氏の新たな展開を望みます。当方、去る5月20日に弁理士一次試験合格し、7月7日から13日の二次試験向け精進しております。今年こそ最終合格し、落ち着いたら、三河の古代史推敲するつもりです。

24 風の通信─3 風琳堂主人 2001/06/13 11:33

高原さま
お祝いのメッセージをありがとうございます。高原さんの「大野物語」は出色です。柳田の信奉者には一部ヒンシュクを買ったようですが、遠野のフツウの人たちには笑って受け取られたようです。この程度のユーモアがわからない学問の世界では、読者はますます遠のくのでは、などとついおもったものでした。[読者の方は、リンクの輪から「大野物語」がご覧になれます。]

柴田さま
東北最南端の国=三河からのお便りありがとうございます。柴田さんの三河古代史論も過激といえば過激で、ぜひホームページを立ち上げて、「情報公開」をしてください。
瀬織津姫ゆかりの古社と弥生遺跡はかなりの重なりがあるという以前のご指摘は、とても興味あるところで気にしています。今回の環濠遺跡の発見は、さらに仮説を真説へ近づけるものなのでしょう。貴重な情報をありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

25 リンク 感謝! 遠野リンク 2001/06/25 18:19

この度はリンクありがとうございます。同じ遠野ということで、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

26 こちらこそ、です 風琳堂主人 2001/06/27 06:13

遠野リンクさま
リンクのことでは、こちらこそありがとうございました。
このホームページが、どのくらい遠野に関心をもつ人たちの出会いの場になるのか自信はありませんけど、もしそういう方がいらしたときに、という気持ちでリンク紹介させていただきました。こちらからそちらへワープするより、きっと、遠野リンクからこの東北伝説へやってきてくれる人の方が多いだろうことはまちがいありません。
これを機会に、こちらこそよろしくお願いします。

27 とにかく二次試験終わったら 柴田 晴廣 2001/06/28 19:56

弁理士二次試験終わったら、今までの原稿整理し、『過激な穂国の古代史』のホームページ立ち上げに向かおうと思います。その前に、会社(サンキュープラ)のホームページもやらなきゃならないし・・・ マァとにかく二次試験終わるまでは、工業所有権法にどっぷりつかります。てなこと言いながらも、『記紀』特に、天孫降臨については、天武生存中に編纂された部分と、持統が改訂した部分に分けられ、天武朝の『原記紀』を復元すれば、アマテル神からアマテラスへの変遷の残りの謎が解けるのではと思っております。

28 原記紀の復元 風琳堂主人 2001/06/30 02:52

柴田さま
天武時代の天孫降臨の段を復元できたら、これはたしかによりはっきりと神々の改ざんの様がみえてくるでしょうね。持統の背後の藤原=中臣氏の国家構想に基づく神々の改ざんはとても巧妙でしたから、ぜひ復元の研究を公開してください。楽しみにしています。

29 穂國常左府から 柴田 晴廣 2001/06/30 18:06

『女神』の本の梅原説を発展させた菊池説・『逆説の日本史U』で井沢元彦が展開する天智・天武非兄弟説・籠神社所蔵の海部氏本紀、この三つの資料を材料に展開すれば、天武時代の天孫降臨段復元できるのではとおぼろげながらに思っております。

30 古事記の挫折 風琳堂主人 2001/07/02 05:44

柴田さま
古事記(712年)、日本書紀(720年)の成書の時間差も気になるところです。記の序文にあります「王化の鴻基」をはっきりさせ「帝紀(王統譜)」と「旧辞(伝承)」の「偽りを削り実(まこと)を定め後の世に伝えよ」という天武の意向なんですが、実際は元明天皇から、712年の正月に「はやく撰上しろ」と急かされ、4か月ほどでバタバタとできるのが古事記なわけです。じゃあ、序文にあるような天武の意向が古事記に反映していたのかと問うてみますと、推古までの王統譜はなんとかできたにしてもその後が書かれていませんし、王統譜を支える伝承の収録編集も中途半端で、これはどうも古事記の編集は、挫折しているとみるしかないようです。いいかえれば、「王化」の思想が充分に反映した仕上がりではないようなのですね。おそらくこのことが、その後の歴史書(続日本紀)に古事記成立の記述がない理由なのかもとおもっています。
としますと、古事記の編集の挫折を踏まえて、日本書紀は国家の歴史書=正史としてつくられたともみられます。まさに国家プロジェクトチームによって、本気でつくられたのでしょう。
古事記の不備な部分を補うこと、と同時に、古事記に記してしまった余分な話を削ること、あるいはつくりかえることもなされたはずです。
『エミシの国の女神』では、この余分なことと改ざんは何だったのかという視点で、大年神とその后神などが記から紀への編集過程で消去された問題にふれています。
それに、元伊勢とされる丹波(丹後)の籠神社の伝承を洗えば、火明命=ホアカリというもう一人のアマテル神がみえてくるはずですから、もしオオトシとホアカリが同神であることが証明できれば、いよいよアマテル→アマテラスへの改ざん問題の核心に入っていくこととおもいます。
いずれにしましても、天武─持統以降の1300年が「日本」なわけです。この歴史時間に伊勢神宮の歴史が重なることも重要です。網野善彦さんは、この1300年の「日本」(その虚偽)を「白日のもとに」さらす編集思想で新しい「日本の歴史」シリーズを立ち上げました。これは「日本」が封じてきた多様性の発見でもありましょう。丹波─三河もまたその多様性のひとつを主張しうるところで、柴田さんの探究が楽しみだとおもう理由でもあります。
つい長くなりました。

31 古事記の挫折 柴田 晴廣 2001/07/02 09:12

古事記と日本書紀の成立のタイムラグ、福住さんと同様に考えております。拙論『穂國幻史考』では、記紀の闕史八代、記をもとに紀の「あるにいわく」を補充し、クロハヤ―川俣姫の兄のハエ―安寧―太真若彦―和知津美―大田田根子―ヤマトトビモモソヒメという磯城県主の系図を復元しました。また、『穂別の祖・朝廷別王の正体は、悲劇の皇子・本牟津別王だ。』では、記紀で狭穂彦の子孫については、記載されているのに、丹波道主王の子孫が朝廷別王意外に記載されていないことから、崇神―垂仁の条の出雲の記載は、実は、丹波の事をモデルにしているのではないかとの仮説のもとに、記紀の開化条及び先代舊事本紀を補助資料として、狭穂彦=丹波道主王、本牟津別王=朝廷別王を立証しました。指摘の通り、古事記が推古朝以降を記載していないというのも712年時点で推古以降の王統譜をどのようにするかということについては、ペンディング状態であったことが読み取れます。この712年時点でということが重要で天武朝にいったんは、できあがっていたものの持統の即位以後、それをどうするかについて、ペンディングされたのではと推測します。持統の三河行幸については、菊池説と同様に思っています。ただ、砥鹿神社創立の淵源については、火明―丹波道主―朝廷別王―草鹿砥(日下部)氏に求めており、大海人(天武)−草壁ラインも火明の系譜に属するのでは考えています。井沢氏は、『逆説の日本史U』で天武の母は、斎明にしても、父に問題があり、皇統を嗣ぐに適しくないとしていますが、私は、むしろ、天智に問題があったのではないかと思っています。そもそも、天智は、乙巳の変(クーデター)により中臣鎌子(藤原鎌足)とともに権力への足がかりをつかみます。持統は、天智の娘であり、天智の出自に問題があれば、飾らなければ、皇位につけなかったからです。父の出自を飾りたい不比等の思惑とも一致するわけです。上述のように、古事記は、推古以降の記載がないため、比較による系図復元という得意の手法は、用いれませんが、『女神』の本のお陰で何とか糸口はつかめそうな気がします。私もつい長くなりました。

32 古事記挫折のその後 風琳堂主人 2001/07/05 01:25

柴田さま
記憶で書くとひょんなまちがいがあります。ちょっと訂正しておきます。元明が古事記を撰上せよと命じたのは711年の9月、そして太安万侶が「できました」と献上したのが712年の正月のことでした。いずれにしても4か月ほどの荒仕事で、その内容・仕上がりが納得できるものでなかったことは前に書いたとおりです。
古事記の編集・編纂の挫折が、明確になった年が712年であったということはよく記憶しておきたいところですね。
王統譜を支える伝承のあまりの不足──これが、翌年(713年)の風土記撰上の命令の意図だとおもいます。また、これには、各地の、王統譜の虚偽を明かしてしまうかもしれない伝承の洗い出しの意味も含まれていたでしょう。
それと、この713年という年も大事な年で、といいますのも、柴田さんもたしか触れていましたが、好字令、つまり諸国の郡郷名に「好い字」をあてよという命令が出されたのもこの年でした。これは、「蛮夷」の地だと王権が一方的に決めつけて命名した地名なども「好い字」に変更せよという内容でしょう。
なぜ方針が変わったのかといえば、これは710年に奈良の都(平城京)に遷都した意味と関わっていることが考えられます。この新都は、唐を最大に意識してつくられた都でした。つまり、「日本」は「蛮夷」の国ではありません、長安に劣らない都もあります、というわけです。大唐が「日本」をどうみるかという意識の延長上に「悪字」の地名を好字に変更する命令の意味があったとおもわれます。
また、この意識は、「国史」編纂にも投影していたはずで、やはり国史は、古事(フルゴト)を記したというだけの意味である「古事記」ではいけなかったのだとおもいます。書名には、国家である「日本」の歴史書であることがわかるように、やはり「日本紀」でなくてはならなかったと想像できます。
こういった体裁を取り繕おうとしたヤマトなのですが、対唐との関係を考えますと、国内の不統一の様はあってはならなかった、つまり一刻もはやくヤマト化すべき課題として再認識されたにちがいありません。古事記ができた年の秋には出羽国を建て、日本海側の東北への侵攻の領土確定がなされた様がうかがえます(実態はともかくとして)。太平洋側には大野東人が派遣され、それは718年のことで、このとき、瀬織津姫も東北の地に刻印されることになります(この話はリンクの「室根神社特別大祭」をご覧ください)。
古事記(712年)から日本書紀(720年)という時間は、ヤマト側のプロジェクトチームにとってはそうとうに緊迫した時間だったことを確認しておきたいとおもいます。日本書紀の完成後は、いよいよ東北へヤマト=「日本」が波状的にやってくることになります(多賀城ができるのは724年)。
こういった「日本」の内実を問う女神として瀬織津姫があるわけですが、認知にはまだまだ時間がかかりそうです。1300年という「日本」の虚の時間の刷り込みを相対化するのはそうかんたんにはいかないようです。
三河に限っていいますなら、持統三河行幸(702年)から日本書紀成書の年(720年)に絞って、御地の伝承を洗いだしてみたら、まだまだおもわぬ話と出会えるような気がしています。三河の歴史的な反骨の風土は、『エミシの国の女神』でその一端にふれてあるかとおもいますが、三河には眠れる伝承がまだ多くあると確信しています。楽しみです。また長くなりました。

33 蚕影神社等々おもうこと 柴田 晴廣 2001/07/05 08:37

穂国の中心部にあり、草鹿砥氏の同族・トガリ氏も多く住む大崎及び長草に蚕影神社及び蚕影山神社。大崎住吉神社末の蚕影神社の祭神は、小錦姫とされています。さて、この小錦、天武時代の位階に由来するのではないかと思います。小錦は、確か後の従五位に相当したんですよね?地方豪族に与えられたと考えれませんか?とすれば、草鹿砥氏の同族・トガリ氏の娘を祭神にしたと考えられます。一方、蚕影神社の元締・常陸筑波の蚕影山神社は、欽明天皇の娘・『かぐや姫』をその由来としています。欽明の娘に『かぐや姫』がいるとの記載は、記紀にはありません。記紀でかぐや姫の名が記されるのは、記垂仁条で垂仁の妃の一人として記載されています。垂仁の妃として記載される『かぐや姫』は、丹波大県主の血を引く彦湯産隅の孫に当たります。紀『一曰』に従えば、丹波道主王は、この彦湯産隅の子ということから、記紀の記載に従っても、朝廷別王とかぐや姫は、従兄妹の関係になります。小錦姫とかぐや姫の等式も成り立つのでは?さらに、丹波道主直系の草鹿砥氏と同族のトガリ氏の娘・小錦姫こそが後に東北に派遣される『拓殖婦人』の原像になったのではと想像できます。天白神―早池峰・穂の国―東北ラインの一助になるのでは?
系図上は、三河大伴氏とする富永氏、実は、トミナガの由来は、トミノナガスネヒコの登美那賀に由来するとの母方祖父の伝承。東北『安日伝承』が記載される最古の文献・藤崎文書の成立が、富永氏が菅沼氏に乗っ取られ、没落した翌年であることも穂の国―東北ラインが後々まで続いていたことを証明します。
『東日流誌』に「神武に敗れたナガスネヒコが伊勢から船で三河に渡って、東北に逃れた」と記載があるようですが、これも、穂の国と東北の交流にまつわる種々の伝承を江戸後期(あるいは明治か?)に再構築したものと考えられます。
またしても長くなりました。明後日から試験です。頑張ってきます。では、試験が終わったらまた会いましょう。

34 遠野も暑い、です 風琳堂主人 2001/07/12 19:24

柴田さま
話が細かいところへ入っていきそうですので、これは電話でお話したように「保留」です。
ここ数日、遠野もようやく夏らしくなってきました。7月のあたままでは朝方にストーブをつけたりする日もあり、これはまた冷夏かと心配していましたが、どうにか平年の暑さになってきたようです。ヤマセの冷気は海岸部のほうが影響が強いですが、北上山地を越えて、居座ったりすると、江戸から昭和にかけても記録されていますけど、冷害即飢饉ということになります。この飢饉を堪え生き延びてきたことが遠野物語の大きな発生の基盤としてあり、またこれは、物語の伝承の時間を色褪せないようにしている要因でもあるとおもっています。

35 そろそろ資料まとめますか 柴田 晴廣 2001/07/17 18:57

長いこと外ってある『穂国幻史考』そろそろ手を入れますか。
でも気が重い

36 はじめましたよ! 柴田 晴廣 2001/07/25 19:55

会社のホームページと併行してだけど、『穂国幻史考』補正し始めました。
燃え盛る稲城で生まれた本牟津別
迦具土を思わせることは、以前にも指摘しておりました。
しかし、考えてみれば、丹波道主と同人異名の大筒木垂根の娘が迦具夜姫。
迦具土と迦具夜姫が兄妹であってもおかしくありません。そして、筑波の蚕影山神社の由緒に係るカグヤ姫。

砥鹿神社社家・トガリ氏
式内社に出雲国出雲郡に都我利神社(ツガリ)、加賀国江沼郡に刀何理神社(トカリ)神社、河内国古市郡に利雁神社があります。
出雲の都我利神社の東には、久佐加神社があり、神官・草鹿砥氏とトガリ氏の関係さらに補強します。
また、刀何理神社は、普久良神社(白山社)に合祀されており、祭神は、品陀別(応神)です。例の上記宮記逸文を考慮すれば、品陀別=本牟津別の混同ととらえられます。
利雁神社は、現在、富田林市(旧石川郡)の式内社・美具久留御玉神社内に合祀されています。どうして合祀されたかは調査中ですが、この美具久留御玉神社ってのが、崇神六〇年の氷香戸辺の子の神託と関ってるんです。利雁神社の祭神については、諸説あるんですが、品陀別とするのもあるんですよ。
それと、牛久保の岸天神の祭神が、敷島主神で、これが養蚕神。父は、迦具土なんです。
草鹿砥(クサカベ)と養蚕繋がってきますよ。

出雲神宝事件の振根=丹波道主=狭穂彦を裏切るイイイリネは、彦意須の弟・イリネですよね。籠神社神官・海部氏は、イリネの末裔ですから、大海人(天武)の出自、海部氏と関係があるのでは、そうなれば、丹波道主直系の養蚕神抹消図るのも納得できます。
おぼろげながら、天武時代の記のイメージ浮かんできます。

37 教えて下さい dash 2001/08/01 03:49

『キョンシーぶるーす』というタイトルの本の内容を知っている方がいたら教えて下さい。

38 七夕と他界の女神 風琳堂主人 2001/08/01 10:15

dashさま
『キョンシーぶるーす』は不肖この主人の10年前の詩集です。「キョンシー」という他界の視線で現代をみようとしています。少しコミカルか哀愁の情感もあるかもしれません。

キョンシーは少しドジだが奈落のマジシャン
「あの世へのトラバーユ」に失敗したのはいつの日のことか
この世とあの世との谷間で口ずさむ
ちょっと切ない他界のブルース

棺をかついだ彼は街の反■掃除人
空中楼閣から身投げした
中年オトウサンやアイドル少女の沈黙は拾わない
いつまでもへらへら笑っている男の口に手を突っ込み
小さなサンドバッグをくすぐり笑い殺しにする
愛人少女と懇ろになり俗悪ペアの秘密組織だってつくる
……

表題の詩の書き出し部分です。詩集はこの表題の詩を含めて20の詩とエッセイで構成されています。あまりいい紹介ができませんけど、主人が出版世界へ深入りすることとどこか呼応していたなという感覚が残っています。
まだこのHPの作成は半端で、既刊本の紹介をすべてしなくてはいけないのですけど、余裕がないままの現在です。

柴田さま
便りの返事が電話だったりして、この掲示板の話だけ読みますと、なにか音信不通のような印象がありますね。
養蚕神の系譜もとても大事で、ワクムスビとアマテラスの二系統の神が確認できますけど、しかしこれはひとつの神が分化した、あるいはさせられたものかもしれません。
養蚕神=天照大神の系は、実は瀬織津姫に渡来の養蚕神が習合したのではないかとおもっています。そして持統の時代に、瀬織津姫はアマテラスにとってかわられました。七夕という男神と女神の逢瀬という鎮魂の行事を歴史上初めておこなうのが、持統女帝であることは暗示的です。現代のほとんどの人は七夕まつりに隠された神について思いをはせることをしませんけど、七夕神(の一神)が瀬織津姫であることはまずまちがいないです。このHPの瀬織津姫の部屋のリンクの福島と長野の祭りにその痕跡がみられます。瀬織津姫という織姫は、京都の宇治では宇治川の神で橋姫ともよばれ、源氏物語にも登場してきます。文学の世界からも瀬織津姫を明かすことができそうで、これからの楽しみです。
dashさんへのご返事とも重なりますけど、瀬織津姫は1300年にわたって他界の女神として遇されてきました。しかしこの女神は、すこぶる現代を明かす神でもあります。たとえば、今の時の人である小泉純一郎の思想の虚と嘘を明かすことも、この女神の視点をもってすればそんなに難しいことではないとおもいます。小泉思想の母胎は神道政治連盟と、つまるところ神社本庁の思想ですからね。昨年の森前首相の「天皇を中心とした神の国」発言も、また、現在の「新しい歴史教科書」の思想も、すべて同根から現代に顔を出したものです。

39 遅々として進まず 柴田 晴廣 2001/08/01 18:03

やり始めたものの遅々として進まず。
電話の依頼の件もまだ調べていません。
狂人小泉や西尾の発想の淵源については、まったく同感。
しかし、寅さんの名台詞『それを言っちゃーおしまいだよ』が疑問なく受け入れられるうちは、表現及び言論の自由はなく、なかなか受け入れられないのでは?
はやく『それが言える日本』にしなければ...
それと、瀬織津姫を祭神とする神社の一覧と地図、サイトに加えて、「情報求む」っていうのやってくださいよ。
ウズウズしている人もいると思いますよ。

40 狂と鬼と女神 風琳堂主人 2001/08/08 02:14

柴田さま
小泉氏が「狂人」かどうかはわかりませんけど、近代日本のある残滓を引きずっていることはまちがいないとおもいますね。東北の古代にさかのぼりますと、桓武─田村麻呂のエミシ征討軍は抵抗するエミシやその神を「鬼」と称しましたが、これはヤマトに抵抗するのは「狂」っているという一方的な認識だったのでしょう。
桓武という天皇は、ゆるんだ律令制度を再生させようとしたわけですが、これはとりもなおさず、天皇を中心とした国家統一の思想の表れでもありました。
時代は下って、これと同じ発想をとったのが明治日本の伊藤博文でした。実は、今、中学の歴史教科書関係の仕事をしている関係で、いくつかの出版社の教科書に目を通す機会がありまして、例の話題の教科書も拾い読みしたりしているのですが、これがまた、神武・伊藤博文・昭和天皇の美化を一生懸命していて、西尾幹二や小林よしのりの諸氏はまったく歴史認識がそれこそ戦後の時代感覚に対して大真面目で「狂」っていることを再認識したところです。
伊藤博文は既成の神道も仏教も、西欧のキリスト教に対抗できる宗教に値しないことから、天皇を「神」と見立ててこれを日本の新しい「宗教」とし、これをベースとして強力な近代国家をつくろうとしたわけですが、この過程の表現が、対外的には明治憲法であり、対国内的には教育勅語の表現になります。その国家思想の根幹に新しい神道(=国家神道)を据えたこと──これは昭和20年の敗戦によって無に解体されることなく、戦後まもなく神社本庁へと再生・継続していきます。その神社本庁と「表裏一体の関係にある団体」(神社本庁のホームページ)が神道政治連盟で、その国政面における賛助団体が、例の神道政治連盟国会議員懇談会。そして、この会の副会長が小泉純一郎だったわけです。ここに200人以上の自民党員が名を連ねていますが、ならば自民党は、CIではありませんけど、党名を神道政治党とか、その中身がはっきりとわかるように変更したほうがいいのではないかという気もします。
靖国へ参拝することも、教科書を「新しい」ものにするのも、また教育基本法や憲法を改定しようとする発想なども、すべてこの神社本庁=神道政治連盟の発想ですから、ここを基点に考えますと、小泉氏のオリジナルな思想は皆無だということが見えてきて、構造改革の題目の派手な雲海の隙間からは、なにも新しい国家ビジョンがみえてこないという恐るべき空虚さです。
ここで床屋政談をしてもはじまりませんけど、瀬織津姫を歴史の闇に排除しようとしてきた思想が現在も健在であることで、「日本」は相変わらず「懲りない」国だなとおもっています。
それはともかく、鬼を排除するのではなく、鬼を味方に、あるいは鬼に味方できる発想は捨てたくないですね。HPの立ち上げ、楽しみにしています。またこちらの宿題である、瀬織津姫に関する情報募集のページの立ち上げ──なんとかカタチにしてみます──n。

41 『頑張りましょう勝までは』 穂国常左府住人 2001/08/08 09:28

タイトルは冗談です。
神道政治党はいいですね。ついでに、世襲の独裁政治やってるくせに民主主義とか人民共和国だとかつけてるとこも、ゴールド王国とか変えた方がいいと思いますよ。
それにしても野中さん(はじめて、この人に『さん』なんてつけちゃいますけど)、注目してます。真意は量り兼ねますが...

私も風琳堂主人も変人ですが、小泉、私らと違いますよ。やっぱり狂人ですよ。

瀬織津姫の情報掲示板楽しみにしています。

42 囲炉裏夜話 風琳堂主人 2001/08/17 07:35

囲炉裏の火はなぜかなごみます。
「風の通信」の掲示板タイトルを変更し、もくじにそれらしく囲炉裏の写真を入れてみました。
写真は、遠野の「民宿曲り家」さんのところで撮影させてもらいました。夜になると、この火を囲んで、遠来のお客さんたちが曲り家ご主人を中心に談論がはずみ、またお酒もすすんだりします。
人がもっている、ある凶暴な気を無化あるいは浄化する力が囲炉裏の火にはあるようです。これは風琳堂主人だけの主観かどうかわかりませんけど、外界の喧騒・狂気・厚顔な常識etc.から自由になれる場所があってもいいのではとおもい、少しこの掲示板もマイナーチェンジしてみました。お酒はでませんけど、火を囲んで一献かたむけながら、と想像しながら、みなさんのとっておきの話を置いていってください。

43 主人、蓬莱泉もってきたぞ。 穂国常左府住人 2001/08/17 18:03

まずは、一献。
思い出しますね。
女神の本の調査中に穂国常左府のお宮の矢場の囲炉裏で呑んだの
主人と俺じゃ一本じゃ足らなかったか?

44 三河の著者を募集します 風琳堂主人 2001/08/18 12:52

奥三河の蓬莱泉は地味だがいい酒です。特別銘柄の「空(くう)は襟を正していただくお酒ですが、小生は、蓬莱泉の「ただの」純米酒が好きです。日常したしむお酒としては、このさりげない酒づくりに杜氏さんの隠れた気概を感じます。
なんでも瀬織津姫と結びつけるようで恐縮ですが、酒の生命である水──、その三河の水をつかさどる女神が瀬織津姫である可能性がとても高いことは、奥三河の花祭の中心の神として天白神=瀬織津姫が見え隠れしていることや、三河の大河である豊川の水神が瀬織津姫であることでもわかります。
そういえば、豊川の河口に水神としてまつられる瀬織津姫ですが、ここ(下地町の水神社)は、あの「世界のトヨタ」の創業者である豊田佐吉氏が徒弟時代にとても大切にしていた社です。トヨタの人たちは、たぶんほとんどの人が知らない現在ですが、トヨタの創業の地である現在の豊田市挙母(ころも)町も、その名のとおり繭の集積地で、ここもまた瀬織津姫と縁があります。
まず、三河の水をつかさどる神が花祭の主神と同神であり、さらに白山の女神も同神、つまり伊勢のアマテラスの元神の一神が瀬織津姫であることを論証するような、そんな三河古代論が誕生したら楽しいです。これができたら、「日本」の庶民がほんとうに大切にしてきた神がはっきりするでしょうし、また、三河だけでなく「日本」の古代史のイメージがいよいよ根底から変わるはずです。あとはおまけですが、現行の「新しい歴史教科書」問題や首相・閣僚たちの靖国参拝問題など、あっというまに吹っ飛んでしまうことはまちがいありません。
今夜は蓬莱泉で少しほろ酔いですが、この企画を一冊の本として実現してくれる三河の著者を募集したい気持ちになってきました。

45 台風11号 穂国常左府住人 2001/08/22 07:34

昨日、広瀬神社の大忌祭でしたよね?
台風11号と瀬織津姫関係あるんじゃない?
紀伊半島通過して、豊橋付近再上陸するって言うし...
これって瀬織津姫のコースですよね。

46 瀬織津姫台風 風琳堂主人 2001/08/22 23:22

今回の台風を瀬織津姫と結んで語るという発想はスゴイです。たしかに紀伊半島から三河へ、そしてニュースによると、太平洋沿岸部を北上だそうで、今これを書いている時点のニュースによれば、台風の中心は福島県と宮城県の境界あたりの海上50キロメートルのところにあって、ゆっくりとやはり太平洋沿岸を北上とのことです。まさに瀬織津姫が伊勢&熊野(那智)から三河を経て東北へやってくるコースと不思議なほどに重なっています。それにしても、太平洋沿岸部を北上するという変わった動きをしている今回の台風です。ここだけの話題でしょうが、台風11号は「瀬織津姫台風」と命名してもよさそうですね。
それと広瀬神社の大忌祭(日にちは手元に資料がなくてはっきりしませんけど、旧暦の7月、つまり新暦の8月だったことはまちがいありません)、これは竜田神社の風祭(内宮では「風日祈宮」の例祭でもあります)とたしかセットになっていて、広瀬の大忌神とは瀬織津姫の別名でしたから、まさに雨と風の季節を意識してまつられたようです。1300年前の時間がこの現在にも生きているということでしょう。
それから、先日の「お約束」でした、瀬織津姫がまつられる全国神社一覧の公開と伝承情報の募集ページは、データがそろいましたので制作にかかります。近日には公開できそうです。そのときはまたここでお知らせします。
今夜は瀬織津姫台風を迎えながらイッパイやりましょう。

47 瀬織津姫は狭依毘売命? クミコ 2001/08/23 21:33

はじめまして

神様の名前がいろいろあるので、混乱しています。

教えていただきたいのですが、「特集-瀬織津姫」の
女神三神は宗像三神と同じでしょうか?
もし、そうなら瀬織津姫は市寸島比売命=狭依毘売命
でよいのですか?
そして、そうであるならば、弁財天として全国各地に
奉られていますが、なぜここでは東北に向かう神として紹介されているのか、よく理解出来ないのです。

よろしくお願いします。

48 水神の発生 風琳堂主人 2001/08/24 03:59

クミコさま

はじめまして。
記紀を最初に読んだとき、どうして日本の神様はこんなにたくさんの名があるのか、めまいがする感覚をもったのはわたしも一緒でした。
ただ瀬織津姫というキーワードの神を追うように再読・三読してみましたら、記紀の神々は、読むものに「混乱」を与えるように意図的に書かれたのではないかということがみえてきました。もっとも、記紀には瀬織津姫という神の名はただの一箇所も出てきませんから、再読してさらに「混乱」が深くなったのも事実でした。
記紀に登場しないから、どうでもいい神、さして重要ではない神──そうこちらがおもえば、それでおしまいなのですが、それにしては瀬織津姫は全国各地に、とびっきりの水の神として大切に現在もまつられていて、これは「どうでもいい神」であるはずがないとおもうようになりました。そこで記紀以外の瀬織津姫伝承を集めてみますと、どうでもよいどころかまったく逆のイメージのほうが強いことがみえてきました。
神様は、たとえば宗像の神というように、もともとその土地や豪族の名を冠して呼んでいたもので、その意味ではたくさんの呼び名があっておかしくないわけです。しかし、記紀の時代に、つまり日本国家としてヤマトを中心に国家統一をしようとする構想は、各地の神様をランクづけして、その頂点に天照大神をすえたわけです。その頂点の神の末裔が現在の天皇である、この天皇を中心に「日本」をつくろうというわけです。このとき神様の世界も、天照大神を中心・頂点に性格づけと系譜づくりがなされたのでしょう。
宗像の神が三女神に分身・分神化されたのもこのときなんでしょうね。
三女神でいいますと、瀬織津姫がヤマト側の文献で唯一登場する大祓祝詞にも、瀬織津姫を含めて祓いの三女神がいます。しかしこの祓いの中心の女神は、やはり瀬織津姫なんですね。このHPの絵や遠野物語の三女神は、祓いの三女神を反映したものですが、遠野では瀬織津姫だけがその名を現在に伝えられています。ヤマトが東北にやってくるときには多くの血が流れました。この東北の血を「穢れ」として祓うために、ヤマトは瀬織津姫たちを利用しました。それと、瀬織津姫がもっている「力」を利用しようとしたということもあります。しかし、長い時間の淘汰によっても、なおその名が消えなかったのが瀬織津姫なのです。ここからも三女神の中心の神が瀬織津姫であることがわかります。
宗像三女神にタキツヒメという女神の名がありますね。これは滝津姫つまり滝の姫で、瀬織津姫の水神・滝神の性格の痕跡かなとおもっています。
弁天さんの最初の登場に関わるのが修験の元祖といわれる役小角ですが、弁天信仰が庶民レベルで各地に広まるのはかなり後世のことです。弁財天はもともと吉野・天河の最重要な水神ですから、弁天=水神信仰が流布していくときに、そこに瀬織津姫の名があってもおかしくないわけですが、なぜかイチキシマヒメが多いですね。イチキシマヒメの「イチキ」はイツク=斎く、つまり斎宮に関わりのある名かとおもいます。天照大神との関係でいえば倭姫命ですね。弁天信仰に変容したとはいえ、瀬織津姫の名が広く伝えられていくことをいやがった人たちがいたということなのでしょう。弁財天の背後の神は瀬織津姫ではなくイチキシマヒメとせよとする力がはたらいたと考えられます。
瀬織津姫が分身化され、その名を伏せられた例はほかにもありますけど、では瀬織津姫はもともとから祓い=禊ぎの神だったのかという疑問があります。『エミシの国の女神』は、祓い=禊ぎの神に「させられた」という視点で書かれています。
よく調べきれていませんけど、宗像の神が三神化されたのと、祓いの神が三神化されたのは関係があるだろうとおもっています。三神化という曖昧化は、古代国家の祭祀思想の大きなパターン化された方法のひとつのようです。曖昧化する必要がなぜあったのかということですが、これは皇祖神創作の意図に起因するものでしょうから、「こういう理由でそうしました」とは、それこそ関係者は口が裂けてもいえないことなのでしょう。当然、証拠文献もないわけです。
この肝心かなめのポイントをはずして、どれほど精緻に日本の神々を分類しても、ちょっと空しい研究にしかならないことははっきりしています。それをやってくれる学者はこの国にはまだいないんですね。
話が飛ぶようですけど、先日、沖縄・八重山の離島に行って気がついたんですけど、そこは真水が湧き出すところが一箇所しかなく、ここに命に大いに関わる水神=竜神がまつられ、絶対的な聖域なんですね。人が生命を維持していくときに必要なのは、水と火ですから、それをつかさどる(と感じる)のが神様の発生ではないかとおもったのでした。この感覚を「ややこしい」日本の神々にあてはめて考えてみますと、火=日=太陽の神と水=雨=川・滝の神が基本で、あとは生活が複雑化・多様化したときに、その必要に応じて登場した神だろうとみることができます。しかし記紀の創作者たちは、この原初的な神への「思い」をねじまげました。つまりわたしたち「普通」の人間の神に対する感覚を封じると同時に利用しようとさえしました。この封じ込めの作為の延長上に、まだこの「日本」という国はあるようです。
ちょっと長いお答えになってしまいました。また囲炉裏の火を囲みにやってきてください。

49 柔肌の熱き血潮 風琳堂主人 2001/08/29 06:36

やは肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君   与謝野晶子
柔肌の熱き血潮を断ち切りて仕事ひとすじわれは非情か     小泉純一郎

マスコミ報道によりますと、首相にしては長い夏休みをとった小泉氏が、休み明けの8月24日に記者団に公開した短歌が後者だそうです。
記者からこの歌の主意(こころ)を聞かれて、首相は「それは皆さんに考えてもらうこと」「男はつらいなあ」とコメントしたそうですが、では「皆さん」であるマスコミはこの小泉短歌をどう「考えて」みたかということでインターネットで少し検索したところ、「公務に戻る気持ち」(毎日新聞)、「激務に戻る切なさ」(読売新聞)、「(構造)改革への決意」(時事通信)を歌に託したという理解らしいです。どうやら「仕事ひとすじわれは非情か」のみを「考えた」ことが共通しているようです。
その他の解釈として、首相は独身だから断ち切る「柔肌」の表現は意味深であると、うがった解釈をした某ワイドショーもありましたが、この理解はまさにワイドショー的で、首相の女性ファンの「血汐」を騒がせることはあるかもしれませんが、歌の理解としては論外でしょう。
わたしがこの小泉短歌を最初目にしたとき、小泉の「熱き血潮」とはなにかということが頭に浮かびましたが、マスコミ解釈はそこにまったくふれていませんので、忘れないうちにここに書いておくことにします。
この、近年まれにみる、ケ恥ずかしくなるような駄歌の本歌は、最初の引用にありますように、いうまでもなく明治時代の与謝野晶子のものです。
晶子の歌と小泉短歌のちがいはなにかといいますと、晶子は歌に他者としての「君」を登場させているように、人との関係への思いを歌いこんでいることで、小泉短歌にはそれがないということです。いいかえれば、小泉短歌は自身との関係だけが歌われていて他者がないという歌です。したがいまして、歌の「柔肌」は自身の身体の比喩であって、他者としての女性の「柔肌」という理解はムリとなります。これは「熱き血潮」は首相自身のものと理解できます。歌は、それを「断ち切りて」なのです。
辞書によりますと、「血潮」は「熱血・情熱のたとえ」とありますように、断ち切られた「熱血・情熱」の無念をこの歌は表現したものです。首相の情熱の在処は「仕事ひとすじ」の構造改革にあるのではなく、別のところにあるという理解をすべきことをこの歌は表しています。
小泉氏の首相就任以来の、あるいは、この8月の断ち切られた「情熱」による無念とは、いうまでもなく靖国参拝を8月15日に公言どおり実行できなかったことでしょう。
静養先の箱根では前首相の森氏と同宿だったようで、二人のあいだでこの無念が話題になったことはまちがいないです。「また来年がある」と一年の「断ち切り」を確認したということかもしれません。
この小泉短歌の「情熱」の場所・志向が、もうひとつの公言=公約である構造改革という「仕事」にあるのではないということは大事な点で、ここをみないマスコミばかりですので、ここではっきりさせておくことにしました。
自分が本来したいことを断念して公の「仕事ひとすじ」──たしかに一見「男はつらいなあ」なのですが、しかし寅さんには、マドンナという他者への思いを心に抱え身を引く切なさを耐えるのが「男」だというやさしさの美学があります。つまり寅さんとは似て非なる「男はつらい」なのです。近年まれにみる駄歌という所以でもあります。

50 はじめまして。読書感想文です。 三船あめ 2001/08/30 14:56

「エミシの国の女神」大変興味深く読ませていただきました。延喜式にある「瀬織津姫」について調べ初めて、にっちもさっちも行かず、行き詰まっていたときに、貴著書にめぐり合えました。私は臨床心理学を大学で教えていて、精神療法の実践を長年行ってきたものです。大祓いの祝詞に心引かれたのは、西洋的な克服、戦い、殲滅思想ではなく、日本の穢れに対する姿勢が、底佐須良姫によって、根の国に届けられた穢れが、抱かれつつ失われていく、優しさにありました。多くの患者さんとから学んだことは治療者も含む穢れをいかに優しく、丁寧に丁重に浄化するか、そのプロセスこそ重要な心的な作用でもあると感じています。病は悪ではないのです。死と再生への参与を促す生命の内奥からの呼びかけだと考えています。沖縄のユタやその他俗信、憑依にも関心があります。そのような経緯でこの本に出会ったのですが、私の想像をはるかに越えた刺激的な、貴重な本でした。臨床心理学の世界でも神話や昔話の研究−深層心理学的な観点からの研究は盛んで、私もその学派の末端に身を置いています。しかし、アマテラス神話における解釈にはどうもしっくり来ないところがあり、それが為政者の支配者の歴史であることによるのだ、とおぼろげながら感じていました。私の出発点は大学学部は古代史を専攻していたので、余計にそう感じていたのだと思います。以下は臨床心理学的な私の勝手な連想なのですが、アマテラス=男神=太陽神=陽、瀬織津姫=女神=水神=陰というバランスを古代の人々、すなわち私たちの深層心理に根ざした非常に自然な成り立ちだと考える。アマテラスが瀬織津姫を葬り去り、自らが太陽神にして水の神、農耕の神、国の祖となった流れは決して古代の支配者のあり様だけではなく、現代様々な心的な問題に苦しんでいる私たち自身の中で絶えず繰りひろげられている、悲しいもの語りだと読みました。さらに原典にあたって、瀬織津姫をもっと知っていきたいと興味をかき立てられています。今後ともよろしくお願いいたします。

51 瀬織津姫という心 風琳堂主人 2001/08/31 10:40

三船あめさま

まず本をお読みいただいたことにお礼申し上げます。
そして、この本のモティーフの最深部まで届く「感想」をお寄せいただき、重ねてお礼申しあげます。
わたしは心理学を特別に学んだわけではありませんので、学説的にはどうなのかわかりませんけど、自分の体験といいますか、あるいは表現論の感覚からといいかえてもいいのですが、人が心を病むというのは、「関係」を病むということだろうとおもっています。
この「関係」とは、自分との関係と他者との関係の二重の意味がありますが、ともかく、その総和が「心」かなとおもっています。
古代の人びとは、自分との関係を神との関係として、まさに自然性として受容していたとおもいます。神は「他者」ではなかっただろうとおもいます。お読みいただきましたとおり、その自然性をもった、神々への「心」を支配の思想として巧妙に取り込んでいったというのがアマテラス創作の意味と意図でした。これは、日本の場合、天皇へと直結するという時間の永遠性を仮装した、強迫をともなうかたちでの国家の誕生を意味してもいました。
人びとが「自分」とみていた神(日神)はいつのまにか天皇の祖神に変えられ、一対であったもう一方の神(水神)もそこに吸収され、つまりは、その対なる関係の自然性を否定されるという、途方もない心的負荷を抱えることになりました。この支配のメカニズムがみえないとき、心は「病」という自己防御の方法をとるのかもしれません。
また、支配の側にいる者も、天皇との関係を自分との関係として演じるわけで、ここでも病は潜行しているとみることができます。日本は本音と建前社会とよくいわれますが、その淵源に、この、神との関係にねじれを強いた国家構想=思想があります。
それにしましても、この長い時間にわたって葬りさられようとしてきた瀬織津姫でしたが、各地の伝承はこの女神を「やさしい神」として手放していないことが散見されます。これはとりもなおさず、この神を伝えつづけてきた人びとの「やさしさ」を反映したものかとおもいます。
瀬織津姫に関する全国の伝承の拾い出しは本では限界がありましたので、このインターネットをつかって、皆さんの協力が必要ですけど、これから広く収集してみたいとおもっています。またその過程で、すでに関係資料が手元にありますけど、既成の神と仏に隠された真相の神が明かされることにもなるかとおもいます。
どうぞたまにアクセスしてご覧になってください。
まずはお礼まで。こちらこそよろしくお願いします。

52 急がない公募 風琳堂主人 2001/09/01 22:57

瀬織津姫についての歴史・伝承を募集するページを立ち上げましたので、この場を借りてお知らせします。
橋姫神社を紹介しているホームページ(当HPの「瀬織津姫の部屋」からアクセスできます)によれば、瀬織津姫は「女性の味方の神様」だそうです。ただ、これは橋姫神社に限られるものではなく、瀬織津姫を大切に今に伝えつづけてきている各地の伝承にも共通しているだろうとおもっています。
ふりかえれば、この女神についての伝承収集はまだほんのさわりを本で紹介できたにすぎませんでしたので、これから少しずつ、瀬織津姫伝承を、プラスマイナス含めて公平な視野の場所で総合できればという思いがあります。
もし身近に瀬織津姫の関係社があり、そしてこの唯一、いや正確にいえばスクナヒコ(ナ)もそうかもしれませんが──、怒りを露骨に表に出すことなく(耐えて)きた女神に関心をもっていただける人がいらしゃるようでしたら、どうぞ町村史や氏子の人の話などから、瀬織津姫関係社に伝わる伝承を、風琳堂までお知らせ、お寄せください。
しかし、これはまったく急ぎません。ほんとうです。ゆっくりゆっくり、こんな神様として伝わっているという全国の伝承が無理なく寄せられることを希望しています。1300年間、この国で、もっとも過酷な待遇を笑顔で耐えてきた神が瀬織津姫ですから──。

53 始めまして(と言うことにしときます) ピンクのトカゲ 2001/09/02 19:02

いま、近所の煙火好きのおやじと話していて、面白い話を聞きました。
何年か前の旅行の際、豊橋観光のバスガイド(ベテランの部類に入るらしい)が、わざわざ地元の話しなくてもってことだったんだけど
話の成り行きから地元の話になったらしいんです。
その中で、伊勢神宮の候補地として、菱木野神社(豊橋市日色野町)があがってたが、結局、伊勢になったって

煙火好きのおやじの知り合いが豊橋観光にいるみたいで、詳細確認してくれるそうです。
菱木野神社、菟足神社(宝飯郡小坂井町)の「風祭」(旧暦3月11日)の神饌(雀12羽)は、菱木野神社から供してるんですよ。
菱木野神社、ここ祭神不詳なんですよね。
豊川河口近くってことも考慮。

それと「女神の本」の執筆中に、ちょっと行ったと思うんですけど
豊川市下長山の熊野神社、今は、弁財天の裏(北側)に鎮座してるんですけど、江戸時代中期までは、弁財天の西側に並んで鎮座してたんです。
縁起等も疑問あるって、手紙出したと思いますが、もう一度、洗いなおしてみます。

54 熊野神と弁財天 風琳堂主人 2001/09/03 02:43

トカゲさま

三河の菱木野神社が神宮の鎮座候補地だったというのは初耳です。情報がまだ雲をつかむような段階ですので、これについてはもう少しまとまった話としてお寄せいただけるとありがたいです。
熊野神と弁財天というのは、解き明かすのが一見やっかいですが、おそらく関係があるかとおもっています。
熊野は一般的には「くまの」と読んでいますが、しかし、和歌山県の御坊市の熊野神社の熊野は「くまの」ではなく「いや」と読ませています(神奈備さんの資料)。「いや」といえば揖夜神社という、出雲の最古社が浮かんできます。ここの現在の祭神はイザナミを主神とし、ほかに、オオナムチ、スクナヒコナ、コトシロヌシらしいのですが、もともとここにイザナミがまつられていたとはちょっと考えにくいです。といいますのも、ここに奉納される「わらの蛇」が、なんと「アラハバキ」と呼ばれているらしいのです(アラハバキ、揖夜神社でネット検索してみてください)。イザナミとアラハバキが結びつくには相当に無理がありましょう。
また、イザナミといえば、やはり和歌山の熊野も関係地で、どうも「くまの」の古名は「いや」だったのかもしれません。
とすれば、熊野川の古名はなんだったのかは知りたいところですが、それは今はおくとして、この熊野川を十津川から天の川へとさかのぼった源流部には、いわば弁天さんの総本家といってもいい天河弁財天がまつられていますね。そして天の川という名に端的に表れていますが、ここには七夕祭もあります。
弁財天は古インドのサラスバティという川の女神ですから、熊野川の源流部に、天河弁財天という謎の水神=川神がまつられていることは、この謎の川神が熊野(川)の水神でもあると考えていいでしょう。じゃあ天河弁財天に隠された水神はイザナミかとなりますが、これはだれも納得しないでしょう。弁財天は一般的にはイチキシマヒメとされていますからね。では熊野(川)の水神はイチキシマヒメかとなりますが、これはイザナミ以上に、だれも納得しないでしょう。
としますと、イザナミでもない、そしてイチキシマヒメでもない水の女神が熊野(川)のほんとうの水神、天河弁財天の背後の神ということになります。
この女神は、出雲の揖夜神社にみられるアラハバキと関係のある水神であり、さらに七夕祭と関係のある神でもあり、さらにさらに、天河をのぞく吉野各地の水分神である水神名を拾い出していけば、この川=水の女神の名は自ずと見えてきます。
熊野神(の一神)はゴトビキ岩に降り立った太陽神がもともとの神かとおもいます。これがのちに牽牛とよばれることになる、弥生最初期の農耕・太陽神でもありましょう。そしてこの牽牛と一対となる織女、つまり織姫の名は、もうあらためて書く必要はないかもしれませんね。
本にも紹介がありましたが、愛知県知多半島の恋の水神社に伝わる話──、スクナヒコナが病気になってオオナムチが困っていたとき、天から「美都波能女(みずはのめ)の神」が龍に乗って降りてきて、スクナヒコナの体を3回なで清水を飲ませると病が治ったという話ですが、この謎の水神をイザナミと考えることは無理でしょう。出雲の揖夜神社の神々をみていて、ふとこの美都波能女の神という心やさしき水の女神の話をおもいだしました。

55 宗像神と瀬織津姫 風琳堂主人 2001/09/09 11:32

岩手県の太平洋沿岸部に位置する陸前高田市(気仙地方)で、瀬織津姫をまつる神社が6社みつかりました。ほとんどが<滝>がらみの社です(主祭神社の岩手県の項をご覧ください)。そのなかに「四十八瀧神社」という名の社があります。四十八滝といえば、熊野・那智の滝が那智四十八滝として知られています。瀬織津姫が熊野・那智の滝神であることを強く示す社名です。
それから、鹿児島県に、安芸の厳島神社から神様をいただいてきたとする同名の社があり、ここに瀬織津姫の名が記されています。宗像の三女神の一神とされる湍津姫のかわりに瀬織津姫の名が刻まれています(リンクの「瀬織津姫の部屋」か主祭神社の鹿児島県からご覧ください)。
湍津姫の「湍」は、意味としては「早瀬」を表しますから、ここに瀬織津姫の名が登場しても不思議ではないのですが、しかし、これは途方もないことを暗示して余りあります。
弁財天の背後の神の問題、宗像の女神の三神化の問題(これは消された宗像の男神の問題でもあります)、また宇佐八幡の謎の「姫大神」とはなにかということ、さらに、コトシロヌシからタケミナカタにいたる、神の名のすさまじい改ざん問題にまで波及するからです。これは天智・天武・持統から聖武にかけての時代のことかとおもいますが、むろんそこで終わっているわけではありません。宗像氏の末裔の名を匂わせる南方熊楠が神社合祀に反対した近代にまで、見え隠れしながら継続していく問題です。
瀬織津姫の情報募集のページは、まだ境内社などの所在情報がはいっておらず未完成ですが、折をみて掲載していきます。ゆっくりいきます。

56 下長山熊野神社遷座の件 ピンクのトカゲ 2001/09/12 13:35

菱木野神社については、確認中です。しばらくおまちを
下長山熊野神社が、弁天堂西側から弁天堂北に遷座したのは、1736年のことです。
1710年の社領没収がきっかけです。
下長山は、吉田藩に属し、社領没収時の藩主は、牧野成央(1698〜1719)。
牧野氏は、成央の父・成春(1686〜1707)が八万石に昇進し1706年に吉田藩になる。
成春の父・備後守成偵は、幕府中枢におり、赤穂事件の折には、柳沢と敵対します。
牧野氏は、家康の関東移封前は、牛久保城主であり、熊野神社、若宮殿(現牛久保八幡社)及び稲場天王社(現牛久保八幡社末)を『氏神三社』として崇めていました。
伊雑宮遷宮事件=寛文事件が1663年、「伊雑宮旧記」事件(伊雑宮旧記→菟道宮をニニギ、五十鈴宮=伊雑宮を天照、豊受宮を月読とする)が1681年であることから柳沢を意識しての社領没収だと考えられます。
一方、熊野神社所蔵の『弁財天縁起』には、その昔、熊野神社境内に弁財天の社宇があったが、いつのまにか社宇もなくなり、田地と化していたところ、子の病気平癒を弁財天に祈念していた母親の夢枕に弁財天が立ち、社宇を建立せよとのお告げがあった旨が記載されています。
熊野神社に祀られていた弁財天がいっとき祀られていなかったことを意味します。
なお、熊野神社縁起には、大宝3年に奉幣したと記載があります。

57 湍津姫の誕生 風琳堂主人 2001/09/14 14:52

熊野本宮大社の摂社に滝姫神社がありますが、そこの祭神は湍津姫とされています。では熊野の滝の女神は湍津姫かなとおもって熊野那智大社第一殿の滝宮の祭神をみますと、「第一殿(滝宮)は鎮守社」とされ、祭神表示は大己貴命。那智大社側は湍津姫を滝神とは認識していないだけでなく、あろうことかオオナムチを那智の滝神としています。もう無茶苦茶な祭神表示ですね。
ただ、この無茶苦茶な祭神表示で気になるのは、丹後国にある天蔵社の宮司さんの系図に、オオナムチと湍津姫(表示は多岐津姫)のあいだに生まれたのが天火明命で、このホアカリを「始祖」とする伝承があることです。那智の滝神をオオナムチとするには、それなりの関係伝承が反映しているのかもしれません。
持統が三河に謎の「行幸」をした702年の翌年に熊野神社に「奉幣」が記録されているというのは、この持統時代再末期には(持統は三河行幸から飛鳥に帰ると、たしか1週間後に亡くなります)、熊野神社はすでにヤマト化していたことを告げるものかもしれません。とすれば、熊野神の最初期の勧請記録ということにもなります。熊野神が東北へやってくるときにはエミシ征服の祈願神としてですから、熊野神の祭神表示の曖昧化は、飛鳥時代にまでさかのぼって考える必要があるということでしょうね。
「熊野権現御垂迹縁起」によれば、熊野神は九州の英彦山に降臨したあと四国の石槌山から淡路を経て熊野へという<西から>という伝播伝承を記していますが、ここで湍津姫という宗像の女神に焦点をあててみます。
たとえば斉明=皇極が雨乞いをしたことで知られる大和・南淵ゆかりの神社で、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社というなんとも長々しい名の神社があります。ここの祭神であるウスタキヒメですが、「奈良県高市郡神社誌」によれば、この女神は「宗像三女神と異名同体の神」だそうです(神奈備さんの資料)。
ウスタキヒメ一神を三女神と「同体」とみる指摘は貴重です。記紀における宗像三女神誕生の創作と宗像大社伝で、神名として必ず登場していたのはタキ(ギ)ツヒメだけで、あとの二神は神名が一定していません。これも傍証となるかもしれませんが、宗像三女神の中心の神はタキヒメ=湍津姫とみてよいようにおもいます。
ここで九州の宗像の地に飛んでみましょう。
大分県の速見郡日出町に、湍津姫ゆかりの神社である八津島(嶋)神社があります。ここの縁起に「宮川霊地ハ昔、湍津姫ガ降臨シ、影向ノ旧跡ナリ」とあります。また、「八霊石」が天空から落ちてきて「五男三女」が鎮座したというのです。この「五男三女」鎮座の話は、アマテラスとスサノウの「誓約=うけひ」を反映させたものとみることができます。また、この記紀の話への追随伝承は、八津島神社の「八」の表示にも反映しています。なぜなら、ここの祭神表示は、「津嶋大明神」ですから、なにもわざわざ「八」をつける必要はないのです。
社名のことはおくとして、この縁起のポイントは、湍津姫降臨のあとに三女神の鎮座を伝えていることでしょう。湍津姫は、いわば祖神であり、しかし、記紀に付会したために、湍津姫は三女神の一神の名でもあるという奇妙なことになっていきます。こういった矛盾をそのまま伝えていることが、この八津島神社の縁起の大きな価値といえます。
ところで、この矛盾パターンは、実は、遠野の三女神伝承とまったく同じなのです。瀬織津姫は、遠野三山の女神の母神であると同時に、その子神である三女神の一神でもあるのです。
実に奇妙な矛盾した伝承ではありますが、中心の神が遠野では瀬織津姫であり、宗像では湍津姫ということはまちがいないでしょう。
弁財天へと変容していく、させられていくのは、次の段階ですが、宗像三女神の中心あるいは総称神、あるいは「同体」の神が湍津姫であることをメモしておきます。
蛇足をひとつ──。大分県中津市にある闇無浜神社の祭神に宗像三女神が登場しますが、ここは、鹿児島県出水市の厳島神社とまったく一緒で、湍津姫ではなく瀬織津姫と表示されています。なぜ瀬織津姫か──この囲炉裏夜話を訪れていただいた方も、どうぞ一緒に考えてみてください。

58 不言島の神 風琳堂主人 2001/09/17 06:56

熊野縁起の追加の話をひとつ。
熊野神は九州の英彦山に降り立ち、四国の石鎚山から、淡路の遊鶴羽の峰へ、そして和歌山の切目から熊野川辺の矢渕の里へとやってきたそうで、ここに「熊野川辺」とありますので、それだけでも水神の要素がみられます。これは、英彦山に降り立ったのが「水の精」とされていたこととも対応しています。
ちなみに、英彦山の神は天火明命とされ、切目の切目神社の祭神は天照大神。また、この切目神社の元社といわれる地宗神社の祭神は猿田彦神とされ、「水の精」=水神はどこかに消えてしまっています。
この水の精=水神が途中で消えただけでなく、天火明や猿田彦というアマテラスの前の太陽神がみられるものの、この元の太陽神がそのまま熊野神とはされていないこと──まったく、神々の名を追おうとする者に二重三重の混乱をもたらしてくれます。
しかし、切目神社の元社の祭神が猿田彦だというのは、宗像の神々を考える上でも大きなヒントを与えてくれています。
猿田彦は、天孫降臨創作の場面では、導きの神、道の神として登場していましたが、宗像の神々の総称神は「道主貴=ちぬしのむち」「道の祖(おや)」とされています。これは、海の道の神で猿田彦とは別神だと考えるかどうか、ここでも「混乱」が予想されますが、わたしは同神とみています。
「防人日記」に興味深い記述があります。
「宗像大神が天降り、青い玉を奥津宮に、紫の玉を中津宮に、八咫の鏡を辺津宮に、それぞれ御神体として納め祀った」(「印旛郡内の宗像神社13社」より)。
一般的に、宗像の三女神は同格神として理解されています。しかし、ここには、奥津宮と中津宮の二神は玉を御神体とし、辺津宮の一神は鏡を御神体としていると書かれています。この日記を信用しますと、辺津宮神だけが異質な神になります。これが、おそらくイツキシマヒメのほんとうの姿を暗示しています。
どういうことかといいますと、この女神は、自身は島神ではなく、宗像の沖ノ島と大島という二つの島=島神を鏡(八咫の鏡)に影向させて、その鏡をいつきまつる存在だということです。天照大神に対する倭姫命の立場と同じです。
沖ノ島=奥津宮の神と大島=中津宮の神が、宗像の神々で、辺津宮の神は、これらの二神をいつきまつる存在だとしますと、では、これらの二神はなんだとなります。中津宮には天の真名井がありますから、ここは水神=湍津姫の表示をそのまま(とりあえずですが)信じてよさそうです。
問題は、記紀創作時にも一定していなかった、奥津宮=沖ノ島の神です。この島は「不言島=おいわずのしま」ともいわれるように、「島のことは絶対口外してはならず」という他言無用の絶対タブーを伝えています(神奈備さんの資料)。
不言島は何を語るか、です。
この不言島の神は、日本海側を伝わりますと、出雲で佐太大神として、さらに東の丹後の籠神社では火明命として、瀬戸内海を東に突き当たれば、つまり難波へ上陸すれば住吉神として、そして紀淡海峡を南下して黒潮に乗れば、熊野神へ、さらに伊勢神宮の元社である志摩の伊雑宮では大歳神=猿田彦となるものとおもいます。もっと広範囲に拾い出すことは可能ですが、宗像の奥津宮の神はまさにタブー神です。むろんこれは、伊勢神宮と記紀と祝詞(特に大祓祝詞)、そして延喜式をつくった人たちにとってということですが──。

59 聖戦と正戦を越えよ 風琳堂主人 2001/09/17 16:35

過熱する報復戦争肯定論に、どうやら日本も賛同する動きがはっきりしてきました。
ブッシュは「野蛮な連中」とよび、ヨーロッパの首脳たちは「文明社会への宣戦布告」といった声明が出され、テロリズム支援国家と断定されたアフガニスタンへの報復戦争が現実化しようとしています。
湾岸戦争のときもそうでしたが、今回も日本は同様のジレンマをかかえ、小泉首相は、さかんに「憲法の制約」=「枠」を口にしています。憲法の枠内で、日本はアメリカに対してどのような「支援」ができるかという発想です。ここでなにか足かせのようにいわれている「憲法」とは日本国憲法第9条ですが、この条文をあらためて読んでみます。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

これは9条の第1項ですが、見事な文言です。小泉首相は、これを制約、枠と感じているのです。湾岸戦争のときもこの感覚があり、多額の<支援金>だけで「血を流さない日本」との国際評価にホゾをかんだのでした。今回も同じ評価をされたくないという焦りが小泉首相にあります。
日本が戦後、国家として世界に誇れる唯一のことがあるとすれば、それは、奇蹟的ともいわれる、その経済的な復興力にあるのではなく、この憲法の宣言を国是としてきている以外になにがありましょうか。
アメリカと中東・イスラム世界との関係の歴史的な蓄積の結果として、今回のテロ行為はあります。少し前のではありますが、ラディン(まだテロの張本人と決まったわけではありませんし、本人はテロ否定の声明を出していますが)──彼への貴重なインタビュー記事があり目を通してみました。このなかで、ラディンは、たとえばイラク爆撃において、アメリカは数十万のイスラムの子どもたちを殺したと語っていました。その事実は西欧側のメディアはとりあげないともいっていました。犠牲者の数の真偽はわかりませんけど、そのように感じ認識しているイスラムの民がいるということは事実でしょう。また、広島・長崎の原爆投下を例にあげ、アメリカは民間人と軍人を区別する宗教はもっていない国だとも述べていました。
もし自分がイスラムの民だと仮定してみます。このラディンの言葉どおりだとして、そして、自分の子どもが殺され、しかも自分たちの至高の聖地に自国の国益だけのために土足で駐留しつづける大国=アメリカがある。自分たちには経済的にも軍事的にも、この国を追い出すことができない。世界世論の応援もない。どうする? これがイスラムテロリストの心情と真情でしょう。もし自分がイスラムの民で若ければ、たとえば対アメリカの特攻テロの一員に志願するかもという可能性は否定できません。追いつめられた民は、たとえ非文明的=「野蛮」といわれようと、個の死を賭けて、死者と同朋のためになにごとかを実行することは、だれにでもありうるものと考えます。
今、イスラムのジハード=聖戦とアメリカの「正義」を標榜する、いわば正戦へむかう双方に、きちんと平和のなんたるかの言葉を届かせる可能性をもつ国家は、世界中に、この憲法の宣言をもっている日本以外にありましょうか。
日本という国家がその国家理念において世界の先端に立つ、つまり思想的にも国際的にも独り立ち、自立できるのは、あの憲法=理念を世界理念にまで結晶させること、そのように世界に働きかける過程以外にないのです。アメリカのグローバリズムと「正義」の戦争に感情的な同調・付和雷同をする首相の国家理念があまりに底が浅く、一言だけ書かせてもらいました。

60 青玉&国譲りについて質問 ピンクのトカゲ 2001/09/18 11:12

崇神条の武埴安彦の乱の武埴安彦の母は、河内の青玉の娘・埴安姫とされています。
イザナギ・イザナミの子として、埴安神が記載されていますが、イザナミの糞から産まれたとされています。
武埴安彦の乱で楠葉の地名由来を糞袴がなまったものとしてます。
記紀においては、土の神は、糞の神と賤しめられているように思うのです。
禍津日の神にしても、そうですが、三尊子以外のイザナギイザナミの子は、どうも、賤しめられているように思うのです。
このあたりを主人に解説願いたいのですが

三尊子が出たついでに
記紀には、三尊子、三女神等、三神とする場合が多いです。
国譲りにしても、オオクニヌシ、コトシロヌシ、タケミナカタと三神がセットで出てきます。
ミナカタ→宗像として、ほかの二神は、何に比定されるでしょうか?
解説願います。

61 青玉の月 風琳堂主人 2001/09/19 09:13

素敵な難問です。
記紀をつくったのは自分ではありませんから、どこまであたっているかわかりませんけど、少しおもうところをメモふうに書き出してみます。
まず、武埴安彦の乱ですが、これはヤマトへの叛乱の話ですね。安彦は殺され、しかし鬼神となって祟り神となります。これは魂鎮めをしなければということで創建されたのが祝園神社(京都府相楽郡)。ただ、この鬼神はあまりに強力でしたので、そんじょそこらの仏や神では抑えきれないだろうということで、国譲りの筆頭神=タケミカズチなどの最強神=春日神をここに据えるわけです。これは聖武─称徳時代のことです。
ところが興味深いことに、この祝園神社の前身は羽振苑社で、このときの社の主祭神は大歳神と謎の女神=伊怒比女神(おそらく井の姫=水神)、そして會富理神です。つまり、大歳神と謎の女神に春日神をかぶせてできたのが祝園神社なわけです。
さらに、祝園神社の伝承に、この鬼神=祟り神は武埴安彦ではなくナガスネヒコだという「別説」もあるそうです(神奈備さんの資料)。
いずれにしても、ヤマトにまつろわぬものたちの記憶・記録は記紀創作時に当事者たちにありましたでしょうから、その関係神を系譜づけるときに、トカゲさんのいうように、おとしめて、その神名と性格と由緒をつくったものとおもいます。
さて、青玉のはなしです。
「防人日記」は大変な記録を残してくれていたものです。
国譲りの話とも関わりますけど、青玉は「出雲国造神賀(寿)詞」に天皇への恭順の印=神宝のひとつとして献上されています。つまり出雲のおそらく最重要な神宝をヤマトに差し出すことで、恭順と服属の意を表明することと、さらに天皇の安心立命と天皇の御世を讃えるというおべんちゃら=媚態の言葉がこの出雲の祝詞の基調です。
青玉は9月の石でサファイアの和名でもあります。主産地は東南アジアとインドだそうです。海幸山幸の話ともつながりますけど、潮満つ霊力をもつ玉でもあります。
宗像の奥津宮の御神体の玉がサファイアかどうかはわかりませんけど、青の力は海の民の力を表していることはまちがっていないとおもいます。出雲はその力の象徴ともいえる青玉を手離してヤマトに恭順したわけです。つまりヤマト化した代償として大社を建てる、建てられるわけです。
ところで、出雲に関しての国譲りの話は、出雲風土記には記録されていませんし、また、ヤマタノオロチ退治の話も記録されていません。
オロチの話はひとまずおくとして、国譲りの話を出雲風土記が記していないという事実は多くのことを示唆します。もっとも端的なことは、たとえば、オオクニヌシとコトシロヌシ・タケミナカタの親子関係は成立しないということです。これは、コトシロヌシとタケミナカタの兄弟関係も成立しないということでもあります。
出雲の祝詞は、大穴持の和魂は三輪の神=大物主で、天皇の守護神といたしますと、書紀に準じながら宣誓しています。このほか天皇の守護神として、大穴持の子神として、アジスキタカヒコネとコトシロヌシとカヤナルミをも差し出しています。これら四神をヤマトの守護神として、例の青玉と一緒に差し出しているわけです。
コトシロは言代・言依せの神で、のちに一言主ともよばれ、雄略伝承においては土佐へ飛ばされています。また、弁財天創始の立役者でもあります役小角によって、金縛の呪をかけられたりもします。コトシロは葛木・葛城の神であり鴨の神でもあります。京都の上賀茂・下鴨や貴船神社とも、まためぐって熊野とも関わってきますが、ここではふれません。
ここで青玉と類縁がありそうな神名をこの出雲の祝詞にさぐってみますと、「倭大物主櫛厳玉命」つまり三輪山の神が浮かんできます。この「櫛厳玉」はクシタマニギハヤヒのクシタマか、瀬織津姫の別名とされるツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコトのイツノミタマ=「厳御魂」とも関係してきそうです。また、三輪山には、宗像の三宮を擬して、磐座に奥津・中津・辺津の三座を山中にまつったりしていますし、前にふれましたウスタキヒメの飛鳥川の上流の地には、出雲から差し出されたとされるカヤナルミの社もあります。
これらのことを総合してみますと、出雲の秘めた最高神は宗像の不言島の神たちと関係があることを指摘できそうです。「防人日記」は不言島=沖ノ島の神と大島=中津宮の神が宗像の原型の二神であることを教えてくれました。
神々の系譜はその神をまつるものの系譜でもあり、けっきょくは、ヤマトの中央集権体制に各地の豪族がどう対応したかという目安以上ではありません。その地その地で自分たちの大切な神をまつることが、ヤマトの神祗官の統制下で歪められたわけですが、同じ神が何通りの名にも変貌したこととおもいます。ヤマトは各地の神様をひとつひとつ洗い出していきました。風土記提出の命令の大きな意図もそうですし、延喜式で神社を朝廷からの奉幣授与の対象社として確定していくときにもそれはされました。
わたしたちが延喜式内社をみるときに忘れていけないのは、延喜時代の927年の時点に、その神社はたしかにそこに存在した、その事実以上でも以下でもないということです。朝廷からの格付けにおいて優遇された社は、その分だけ大きな代償としてなにかを手放しているということ──それが真の神名であるか、ほんとうの由緒であるか、あるいは出雲のように、大事な神宝かはわかりませんけど──、そういった大事なものの手放しがあってこその式内社だということなんですね。
「埴」といえば大阪堺にあります陶荒田神社が浮かびます。ここを基点にたどっていくと、また瀬織津姫がみえてきます。いずれ東播磨へ飛ぶことになりそうですが、青玉の話のつづきはまたということで。

62 青玉 あかね 2001/09/19 17:49

ピンクのトカゲさんから、こちらで青玉の話題が出ていると教えていただき早速、覗きに参りました。お書きの↓のお話し、もうワクワクする内容でいっぱいです。
東播磨へ話しが飛ぶとのこと大変に楽しみです。是非々、お聞かせ下さいませ。東播磨には伊和神に加えて、天日槍命、宗像女神とその関連で住吉社がたくさんあり、特に加古川沿いの朝廷直轄杣山地帯があった辺りに多いです。大津乃命を祀る式内社も残ります。
青玉神社の話題もされるのでしょうか。楽しみです。
この神社のある辺りには、伊和神としての天目一命、そのお子神をなした道主日女命、お子神と大人としての天日槍命だけでなく、猿田彦、タケミナカタ、熊野神社、火の神等も多いです。楽しみにしております。
あ、青玉神社のある地は、古代の斎場であり、玉憑姫神に三国山(播但丹の国堺にある山)の大魂が魂憑せられた地とされ、青玉=青魂=大魂のことだと伝わると、郡誌にはみえます。ではまた。

63 確認 ピンクのトカゲ 2001/09/20 08:51

私は、崇神条の『出雲神宝献上事件』は、丹波の事件であり、これに端を発して、狭穂彦の乱、丹波五姫の献上、そして、ミカソの玉=狭穂姫が掌に巻いていた玉等は、『出雲(丹波)神宝』と考えているわけですが、このミカソの玉が、青玉あるいは紫玉と考えればいいでしょうか?
宗像=ミナカタは、諏訪神の祖神、コトシロヌシは、鴨氏の祖神、オオクニヌシ→大穴持&大物主は、磯城県主の祖神と考えればいいでしょうか?
主人の東播磨の話、それに突っ込むあかねさん
創造しただけでワクワクします。

65 龍の玉 風琳堂主人 2001/09/21 07:09

丹波・播磨は特にやっかいなところです。
丹波の甕襲=ミカソが朝廷に献上したというのは勾玉でしょうから、また、その素材からいえば翡翠で、どうも青のイメージからは少しずれるような気がします。それと狭穂姫が腕に巻くといったイメージからも、青玉とはちがうような気がします。
出雲の祝詞の青玉献上は丹波の話じゃないかというのは、どうなんでしょう。わたしは、あの祝詞はやはり出雲国造の媚態の呪文とおもっています。丹波ではない理由を挙げますと、それは出雲大社の「元社」を自認する出雲大神宮が丹波国(現在の京都府亀岡市)にありますが、ここはなかなか骨のあるところで、大国主と三保津姫の「二柱を合わせ特に出雲大神」というのであって、「兵乱のない島根半島の大社は国譲りました大国主一柱を祀る慰霊の社にすぎない」と断言しています。さすが大本ゆかりの地の社ですね。明快です。祭神名の是非はおくとして、一対の神をまつることを明言しているのは卓言です。こういった元出雲がありますから、あの祝詞を丹波に引っ張ってくるのはどうかなとおもっています。
もし出雲のほんとうの神をさぐるなら、わたしはやはり佐太神社だろうとおもっています。出雲大社は、空疎に朝廷にこびた分、のちのち日御碕神社の分離独立を許しています。それに、神在月を出雲大社の特許とみることが一般化していますけど、これも佐太神社のほうが元なんですね。
佐太神社の祭神は、佐太大神を中心に何神かをまつっていますけど、そこに「秘説神四柱」とわざわざ「秘説神」としているところがおもしろいです。この秘説神四柱を調べる手立てが遠野にいてはありませんけど、可能性としては春日神の四柱かなとおもっています。ただし、もしそうだとしますと、秘説神のなかのさらなる秘説神である比売大神が根本の秘説神ということになってきます。
なぜなら、この「秘説」の女神こそ宗像の真の女神にちがいないからです。もし、佐太神社の「秘説神四柱」についてご存知の方がいらしたら教えてください。
さて、出雲とおおいに関わります播磨です。播磨といえば伊和神。大国主=伊和神=天目一命といえば、そのペアの女神は佐用都比売、道主日女でしょうか。播磨風土記では佐用都比売を玉津日女と表記していますね。それとあかねさんご指摘の青玉神社の女神さんである、玉憑姫神。この玉憑姫は玉依姫=玉津日女とみてよいでしょう。
ここに書き出した女神たちを、わたしはすべて異名同神とおもっています。また、これらの女神は、すべて宗像のまだ明かされていない女神から派生したものとみています。
たとえば、道主日女は、その名のとおり、宗像神の総称名である「道主貴=ちぬしのむち」との濃厚な類縁性を認めざるをえません。
播磨国には興味深い社がたくさんあります。たとえば、龍野市に阿宗神社がありますね。ここの伝承によれば、大友狭手彦が宇佐八幡宮の分霊を勧請したとされ、その祭神は神功と応神、それと玉依姫としています。宗像の女神を明確に玉依姫としています。さらに、意味深いのは大友狭手彦の伝承があることです。
九州の松浦に飛びますけど、ご存知のように、狭手彦といえば松浦佐用姫の悲恋物語がうかびます。そして、播磨の佐用都比売が類縁の女神であることはまちがいありません。佐世保の加部島にまつられる田島神社の祭神は宗像の三女神、そして境内末社が佐與姫神社。
これらの例を挙げただけでも、播磨の女神たちは宗像の謎の女神に収斂していく、ヴェクトルの照準を定めているとみるしかありません。
松浦の佐用姫伝承で、肥前風土記はこれまた興味深い話を記録しています。長くなりますから結論だけ書きますけど、佐用姫は狭手彦の去ったあと、狭手彦と瓜ふたつの「いい男」とまぐわいます。しかしその男の正体は蛇頭人身だったとあります。この謎の蛇男の正体を明かす下りは三輪山の蛇婚伝承と一緒なのです。
これはどういうことを表しているかといいますと、佐用姫の真に愛した相手は蛇だったということです。播磨において狭手彦が勧請した宗像神=玉依姫という伏線があるだけに、よけいそのことを感じます。
さて、話はまた出雲へ飛びますが、佐太神社に伝わる神事に「お忌み祭」というのがあります。この祭りには「龍蛇の出現」という奇瑞が必ずともなうそうで、これを「佐太の龍蛇」とよぶそうです。また佐太神社の舟庫には「神光照海」という額がかけられているそうで、これはもうそのまま古事記に記されていた大年神=大物主の原像である「海を照らして依り来る神」=海蛇のイメージへつながっていきます(出雲ではセグロウミヘビ)。
そしてこの海蛇である海照神=アマテル神=大年神の稲作神の側面に、大事な象徴として「鶴」があります。鶴が稲穂をくわえてそれを落としたところから稲作がはじまったとするもので、これは伊雑宮ほか、宗像ゆかりの島々だけでなく沖縄にまでみられる稲作起源神話です。鶴が穂を落とす⇒ホオトシ⇒大年の神ということです。
大国主=伊和神の社が北を向いているそうですが、もしそうなら、正確な方位を確かめたわけではありませんけど、これは出雲と対しているのかなという気もします。それと、伊和神社の創建説話に二羽の鶴の話があるのも暗示的です。
鶴は稲穂と一緒に銅鐸の思想と初期産鉄の秘法も落としていったことでしょう。
神社の手洗場の龍がくわえているあの玉──おそらく海の民の魂が宿った玉で、あれこそ龍の民にとっての青玉かとおもいます。青玉が真光を受ければ、おそらく金色に輝くことでしょう。
唯一の青玉神社が播磨にあるというのもすごいことです。大年神とのゆかりで添えておきますと、神崎町にあります扁妙の滝神は瀬織津姫です。青玉神社の近くに神威を感じさせる滝があるようでしたら、要チェックかなとおもっています。それと、調べる手立てが遠野にいてはありませんけど、天目一命をまつる荒田神社──ここを洗うとおっとおもうことが出てきそうな気がしています。これはあかねさんのテリトリーで、ついでのときにご教示ください。
ちょっとハードな仕事が入っていますので、長い囲炉裏夜話はこれからは慎みます。

66 しつこく丹波の玉依日賣 ピンクのトカゲ 2001/09/21 17:58

賀茂御祖神社の祭神・賀茂建角身命は、丹波国神野の神伊賀古夜日賣を娶り、玉依日子、玉依日賣を産んだとされています(神奈備さん&玄松子さんの資料)。
丹波国神野の神伊古夜日賣とは、古事記垂仁条の迦具夜姫と思われ、父は、大筒木垂根(実は、丹波道主王=狭穂彦)です。
丹波の賀古夜日賣の娘が玉依日賣となれば、狭穂彦の妹とされる狭穂姫が掌に巻いた玉の中に青玉があったようにも思えるんですが
賀茂御祖神社の境内社・井上社の祭神は、瀬織津姫
三井社の祭神が、賀茂建角身命、神伊賀古夜日賣、玉依日賣となってます。
東播磨、邪魔しちゃってすみません。
あかねさん
早く聞きたいな。
青玉神社

67 オオナムチ女神説 風琳堂主人 2001/09/22 10:36

系図の森の魍魎を解き明かすのはトカゲさんのテリトリーですから、なんともいいようがないのですが、青玉献上の話を載せる出雲の祝詞についてちょっと補足──。
自分の青玉のイメージは、やはり球の感じなので、腕(掌)に「巻く」というのとどうもしっくりきません。穴をあけて使用する装飾的な神具・呪具にはなじまないといった気がしています。なにかもっとそれ自体で完結した絶対世界を青玉はもっているような気がしています。
ところで、あの神賀詞が述べていたこと──つまり大穴持が出雲の地からアジスキタカヒコネやコトシロヌシたちをわざわざ大和の地に差し出す話ですが、葛城の地にはもともとから(少なくとも)この二神は存在していたと考えるほうが自然です。にもかかわらず、記紀やこの出雲の祝詞は在地神の出自を消そうとしているわけです。
葛城の神を在地の神とみなさないという記紀や祝詞の意図は、かなり陰気です。これは妙だなとおもうもうことのひとつに、オオナムチのことがあります。この神はほんとうに出雲の神なのかということです。
といいますのも、葛城の地(御所市)にある大穴持神社──ここは元三輪神社ともよばれ、吉野三山の遥拝社でもあります(元三輪はたしか氷室でしられる都祁(=つげ)の地にもありますが)。そして、この吉野の地には、もうひとつ大名持神社があり、ここは吉野の禊ぎの絶対聖地とされています。
大穴持・大名持・大己貴などは、これはこれで尊称でしょうが、しかしここには、なにかもうひとつその背後に大事な神の名が隠れていることを匂わせます。オオナムチを大国主の別名とする記紀の表記によって、国つ神の系譜は大国主を頂きに整理統合、つまり無茶苦茶にされてしまいました。
ところで、この吉野の大名持神社ですが、この神は『三代実録』によりますと、859年=貞観元年に正一位という最上位の格を与えられています。枚方神社という中臣神=藤原の神と同格とするというのはただごとではありません。
この社の神体山は妹山(=イモヤマ)といい、山頂部には謎の池があるそうで、またここには潮生淵(=しおうぶち)という海水が湧き出す場があったといいます(明治時代につぶされます)。
この潮生淵なのですが、『吉野名勝誌』によりますと、「三月三日」と「六月晦日」に「潮水湧出す」とあり、まさに不思議を絵にかいたような「淵」です。このゆえに禊ぎと祓いの聖地でもあったのでしょう。雛流しという祓いの神事の日と、大祓いの日が特定されているのは象徴的です。この「六月晦日」と関わるのが禊ぎの最高神とされた大祓神=滝神=瀬織津姫でした。
大名持神社の現在の祭神表示は、オオナムチとスセリヒメ、そしてスクナヒコナの三神とされていますが、貞観時代は「一坐」と表示されていますから、現在のスセリヒメたちを祭神とする表記は記紀に準じて整合・付会したものとおもいます。貞観時代の前の前はわかりませんけど、ここはオオナムチ一坐の社だった──。
オオナムチの呼称はそれ自体「蛇」の意味が含まれていますし、この神には、神体山の頂きにある池の存在からも水神の匂いがします。ここがヤマトにとっての禊ぎの聖地となりますと、記紀に表された別名の大国主=出雲大神という等号も怪しくなってくるどころか、オオナムチは男神ではなく水神=女神説を想像したくなってきます。
現場を見ていないのでなんですが、ここは持統女帝の禊ぎの場とされた吉野の滝の地なのかどうか、これも詳しい方がいらしたら教えてください。
瀬織津姫のことはいったんおくとして、オオナムチ女神説の可能性も大いにありかとおもって、追加します。記紀の狂言まわしの役を演じる三大神は、スサノウ、オオクニヌシ、そして猿田彦かとおもいます。出雲の佐太神社の祭神表示は猿田彦とせずに佐太大神としています。記紀に都合よく登場させられた猿田彦を自社の祭神表示としない姿勢は立派だとおもいます。対極は、伊勢の椿大神社かもしれません。猿田彦神=大歳神=大物主神=石大神=白髭神の沈黙。カモタケツヌミはヤタガラスという、これも導きの神=道の神ですから、この等号式に鴨大神も加えられます。これらの神は道主貴=チヌシノムチ=宗像の不言島の神から派生した別称神でしょう。京都の上下の賀茂=鴨神社にふれるには、鴨神=貴船神にふれる必要があります。丹波の神と鴨の神はやはり籠神社の秘伝どおりで同神とみてよいかとおもっています。貴船=鴨の神にふれるについても、そのキーワードはやはり玉依姫で、ここも宗像の海の匂いがします。海→川→水源をたどると、神々の足跡がよくみえてくるようです。これはわたしの神明かしの小さな方法ですが、トカゲさんの系譜くずしの手法と、どの社で交点の像を結ぶか、楽しみです。

68 竹生神社 ピンクのトカゲ 2001/09/23 00:59

主人の神明かしと、俺の系譜崩し交わるのは、意外と、主人思いでの地、初デートの待ち合わせ場所・新城竹生神社あたりになるのでは?
荒羽々気社と滝神社(祭神・瀬織津姫)境内社にある。

69 大己貴という滝神 風琳堂主人 2001/09/24 01:15

瀬織津姫を調べはじめたのはここ数年ですから、奇縁というものがこの世にはたしかにあるのかもしれません。
この風琳堂の所在地の地名ははからずも早瀬、主人の本名は丹波・播磨に散見されますし、また奈良の都祁氷室のまたの名は福住氷室といい、この都祁の水神=水分神(ミクマリ神)が瀬織津姫である可能性が濃厚ですから、奇しき綾の糸が張られているのかもと、ふとおもうこともあります。
おいおい解き明かしていきたいですが、新城竹生神社については、やはりその本社である琵琶湖の竹生神社を明かす必要があります。ただ、これをやろうとしますと、弁財天のこと、また宗像のこと、そして中臣祓創始のこと、藤原不比等たちのこと…と、まさに綾が複雑に絡みあっていて、もう掲示板の話題を越えてしまいます。
先回の大己貴女神説ですが、これはトカゲさんのお膝元の砥鹿神社=本宮山と石巻神社=石巻山の神ともされていますから、川の発想からすれば、新城の豊川下流域にあるこれらの社を洗い出す必要もありましょう。これは、とうぜん、砥鹿神社奥宮=本宮山に堂々と現在も鎮座しているアラハバキ神を明かすことにもなります。
大己貴が那智の滝神だとする、那智大社側の祭神表示は、存外、途方もないことを告げているのかもしれません。
三河の大河=豊川の河口にあるふたつの水神社ですが、このうち一方の社はおそろしく立派なのですが、もう一方の瀬織津姫を祭神とする水神社はもう情けないくらい朽ちつつあります。この川をはさんで対面する両水神社の極端な差はなにかということが気になっています(トカゲさん、ぜひ調べてみてください)。このことは、東京・府中の二つの小野神社にもいえます。多摩川をはさんだ同名社の極端な処遇のちがいの意味は調べるに値するものとおもっています。

70 吉野・勝手神社全焼 風琳堂主人 2001/09/29 07:59

天武天皇・静御前・後醍醐天皇ゆかりの吉野神社が、27日正午ごろ、本殿から出火、全焼したとのことです。
この勝手神社の「勝手」ですが、うまくその名称の意味を解いた説がないようです。
ここでそれこそ勝手な想像をめぐらせば、やはり天武天皇の伝承をヒントにするのが妥当かとおもって、少しメモしておくことにします。
ときは壬申の乱前夜のことです。大津から吉野へ逃れてきた大海人(=天武)は、この勝手宮の神前で琴を弾いていると、社背後の袖振山から五色の雲とともに天女が袖を舞わせて現れた──これは吉兆だという話です。
この天女伝説は、同地の役小角の伝承と相俟って弁財天創始にもつながっていくかとおもいますが、「勝手」の話に絞るならば、ここで大海人は、壬申のクーデターに先立って、最初の必勝祈願をおこなったと想像できます。開戦の最中では、伊勢の大神に必勝祈願をした記録が日本書紀にありますが、吉野の地でまず祈願をしたのが、この袖振山の神だったのでしょう。天武はこの古代史最大の内戦に勝利し、つまり「勝ち手」となったことで、それがこの勝手神社の名称創始につながったとおもわれます。
この勝手神社と吉野水分(=子守)神社と金峯神社は一体の神の地だったとおもわれます。勝手神社にオシホミミの祭神名がありますから、ここも饒速日系の日神─水神信仰がベースにあったものでしょう。
壬申の乱後、天武─持統による強引な伊勢神宮創始によって、伊勢の元神の、これも饒速日系の神々は闇に押しやられることになりますが、この勝手神社=袖振山の神も同断だったことが考えられます。ただし、これらの基層の神々はその名を変えられただけで、その地の神であることに変わりはありません。
天武─持統とその背後の藤原の者たちは、伊勢の新しい神=アマテラスの創始の秘密を明かす神々に的を絞るようにして、当該の神に様々な神名を付与して「ぼかし」をしていきます。しかし彼ら=朝廷方は、やはり神罰を恐れていましたから、神の名や由緒を変えても、その分丁重に斎いまつることだけは忘れていません。
ところで、伊勢神宮が誕生した直後から記紀の編纂が本格化するというのは象徴的です。といいますのも、このことは、これから各地の神の名の出自を変更し、ぼかし、祭神名を新たに確定するための神々の基本台帳ができたということでもあるからです。
それでもおさまらない場合を考えて、二の手として登場するのが神仏一体の思想です。仏名が基層の神の名にかぶさることで、いよいよその元の神たちをたどることが困難にさせられますが、しかし、なにごとも完璧に隠しきれるものではありません。
本家=本社筋の神名変更はやれても、その前に本家の神をいただいて遠地の山間部などでしっかり本社の元の神をまつっていることがありますから、そこまでは消しきれるものではありません。ただし藤原の王権思想は、ほんとうにしつこくも徹底的に、その後の1000年以上の時間をかけて、それをやりつづけるわけです。風土記編纂にはじまり、延喜式神名帳の作成という名の消すべき神々の洗い出し、時代はずっと飛んで、明治最初期の各地の神社の由緒書の提出にかこつけた由緒書没収(遠野の早池峰神社の県社昇格申請書がそれを証言しています)といった具合です。
にもかかわらず、元の神々は生きている──このことを瀬織津姫という神は証明しつつあります。
愛知県にあります籠守勝手神社の水神の名として瀬織津姫が伝えられています。また、ヤマトを中心とする各地では天水分神や罔象女神などとされていますが、それでも、社格としては最下層(以下)かもしれませんけど、ヤマトの山中の水分社には瀬織津姫の名が散見されます。消しきれない、隠し切れないことの証かとおもっています。
ところで、一昨年から、瀬織津姫ゆかりの社が、これで三社焼失したことになります。不思議です。

71 修正と自戒 風琳堂主人 2001/09/29 08:20

前のコメントの書き出し部分の「吉野神社」は「吉野の勝手神社」のまちがいです。大きなミスです。
この掲示板に書き込むときに、打鍵ミスやら勘違いやら、やたら校正不備があって、出版の仕事をしている人間からすると冷や冷やものだなとよくおもいます(ほかにも、枚岡神社を枚方神社とまちがえたり…まだあります)。
このミスがそのまま<情報>として一人歩きするとすれば恐いことです。ほかのインターネットの情報を参考にするときにも要注意かもしれません。紙の出版の現場では初校(以下の)レベルのゲラや情報がそのままこのインターネットの世界を飛び交っています。
貴重な情報を入手はできますけど、その情報の根拠や現場を自分の眼で確かめる習慣がおろそかにならないように、自戒をこめて修正のメモをしておきます。

72 Re:急がない公募 みほ 2001/09/30 14:31

> 瀬織津姫についての歴史・伝承を募集するページを立ち上げましたので、この場を借りてお知らせします。
> 橋姫神社を紹介しているホームページ(当HPの「瀬織津姫の部屋」からアクセスできます)によれば、瀬織津姫は「女性の味方の神様」だそうです。ただ、これは橋姫神社に限られるものではなく、瀬織津姫を大切に今に伝えつづけてきている各地の伝承にも共通しているだろうとおもっています。
> ふりかえれば、この女神についての伝承収集はまだほんのさわりを本で紹介できたにすぎませんでしたので、これから少しずつ、瀬織津姫伝承を、プラスマイナス含めて公平な視野の場所で総合できればという思いがあります。
> もし身近に瀬織津姫の関係社があり、そしてこの唯一、いや正確にいえばスクナヒコ(ナ)もそうかもしれませんが──、怒りを露骨に表に出すことなく(耐えて)きた女神に関心をもっていただける人がいらしゃるようでしたら、どうぞ町村史や氏子の人の話などから、瀬織津姫関係社に伝わる伝承を、風琳堂までお知らせ、お寄せください。
> しかし、これはまったく急ぎません。ほんとうです。ゆっくりゆっくり、こんな神様として伝わっているという全国の伝承が無理なく寄せられることを希望しています。1300年間、この国で、もっとも過酷な待遇を笑顔で耐えてきた神が瀬織津姫ですから──。

73 判じ物? ピンクのトカゲ 2001/09/30 19:54

みほさん
始めまして
これって判じ物?
うぅ〜ん。
俺に直感ないからなぁ。
悩んでます。
教えてください。

74 白山の瀬織津姫 風琳堂主人 2001/10/03 05:09

白山の女神といえば全国的にも菊理姫あるいはイザナミとされる社が圧倒的に多いのですが、その祭神を瀬織津姫とする社がみつかりましたのでご紹介します(瀬織津姫の部屋のリンクでご覧ください)。
尾張の黒田神社──行ってみれば実は白山神社だというのもおもしろいです。
尾張国の神社は、国府宮の裸祭りで知られる尾張大国霊神社を筆頭に、なかなかの気骨を伝える社が散見されます。尾張の総社であるここ大国霊神社でいいますと、その祭神「大国霊」を記紀に準じて大国主としたままでもよかったものとおもいますが、昭和15年という国家神道盛んなときに、しかも国幣小社に列格されるときに、うちの神様は(記紀でいうような)大国主ではない、「本来の真面目に還して、尾張大国霊神を祀る」と改めたといいます(神奈備さんの資料)。
さすが真清田神社の国、火明=ホアカリの国というべきかもしれません。天武は壬申の乱のときには、この国や隣の美濃の、つまりホアカリの末裔たちの強力な応援によって勝利しますが、その後、伊勢神宮の創始によって、これらの応援を裏切ることになります。
彼の病が深まる最晩年に、クサナギ剣の祟りかということで神剣を熱田神宮にもどしたりしていますが、その程度でコトが済むはずはありません。天武の死に深く関わる瀬織津姫は伊勢の元神の一神で、その女神と一方の本来の日神を闇に封じることで、天武たちは伊勢神宮を創始=創祀しました。天武のこの元神たちを封じた自罰意識が「祟り」に置き換えられ、その延長上に、瀬織津姫は「天の悪い星神」=アメノカカセオ(書紀)とともに天白神から最強の祟り神でもある大将軍=金精神ともされていきます。
ちなみに天孫降臨・国譲りの話で、天孫方の急先鋒、最強力な武神として登場する藤原神=春日神=タケミカヅチですが、この神=鹿島神の常陸=東国平定時、その討伐対象の神はカカセオでした。しかし常陸の民間伝承では、カカセオは庶民の味方です。
熊野神が岩手の室根山に鎮座したあと、きっと遠すぎて(紀国→陸奥国)息切れしたのか、次は常陸国のタケミカヅチの武の席捲が東北にもたらされます。鹿島神の動きはそのまま藤原氏の思想の動きでもあります。常陸国風土記が藤原不比等の子である藤原宇合の作であることを忘れてはなりません。
ところで、鹿島神の誕生はウシトラの金神の誕生を意味していたのかもしれません。しかし、カカセオ&瀬織津姫→天白神→金精神は、遠野まできますと、その強力な祟り神的な要素は無化され、コンセイサマというユニークな結びの神にもどります。神は人の心がつくるものです。人の心まではだれも支配できないということなのでしょう。
白山と早池峰の神の同神の可能性については女神の本でもふれていましたが、今回の尾張の白山神社の発見はその可能性をさらに強く肯定する傍証になりそうです。
白山の神として尾張に舞い戻った瀬織津姫──この女神が早池峰の神、遠野郷の守護神でもあることは感動的ですらあります。遠野のコンセイサマの信仰を神社の祭礼として現在にまで伝えている大県神社も、そういえば尾張国二ノ宮の社です。
春日大社・鹿島神宮ほか国家神道に順じた各地の有名社には申しわけないのですが、その神まつりの仕方や神の由緒・神名はすべて洗い出される必要があります。悪神=祟り神という瀬織津姫のイメージは、まだこれからどんどんひっくり返っていくものとおもいます。

76 天疎向津姫 ピンクのトカゲ 2001/10/07 00:07

瀬織津姫の別名・天疎向津姫(アマザカルムカツヒメ)
名前消されて、ムカツイテいるよ。
だから、向津く姫(ムカツクヒメ)。
復権しましょう。
消された神々
妥当しましょう天皇制
皇祖神を中心とした神社庁御用達のゆがんだ神道から本来の八百万の神祭りの国に戻しましょう。

77 元鹿島の女神と星神 風琳堂主人 2001/10/08 08:22

「妥当しましょう天皇制」──味のある誤植のメッセージをいただきました。
辞書によりますと、「妥当」とは「扱いや判断が正当でふさわしいこと。また、そのさま」とあります。
「扱いや判断」が「正当」になされる必要がある神が、まずは瀬織津姫です。
天皇制を「打倒」することは容易ではありませんけど、その根を相対化することは可能でしょう。
少なくとも、天皇制を支える神まつりの動脈根については女神の本で亀裂が入ったはずで、あとは張りめぐらされた静脈根を明かしていけば、いずれ天皇制の幻想はミイラ化するだろうとおもっています。
東北サイドからいいますと、まずは常陸国の藤原神=鹿島神の存在が大きな静脈根としてありますから、藤原神の本丸ともいうべき春日大社にふれる前に、この鹿島神=タケミカヅチについて、少しメモをしておきます。
鹿島・香取の神はセットですが、より武の性格を主張しているのは鹿島神ですから、この神と瀬織津姫の不倶戴天の問題にふれてみたいとおもいます。
タケミカヅチ──この神は、常陸国においては、香香背男=カカセオという星神を討伐した神として知られています。
鹿島神社の要石は、大ナマズを押さえて地震の害からこの日本を守護しているとされていますけど、江戸時代までさかのぼりますと、要石が抑えているのは大ナマズではなく「龍」だという伝えでした。
タケミカヅチの最強の対抗神であるカカセオなのですが、この伝承は、いうまでもなく日本書紀の記述を発生の根拠としています。天孫族に対抗して最後まで従わない「悪い神」が星神=天香香背男、またの名は天津甕星だというものです。
三河の伝承に天白神があり、その神の名として、この香香背男と瀬織津姫の名があります。瀬織津姫は天にのぼりますとアマチカルミズヒメという天の水姫ともなりますが、この天の水姫は織姫ともなり、七夕の女神ともなります。
香香背男が星神としますと、この神は牽牛=彦星という七夕の男神ともなるはずで、織女=織姫=瀬織津姫と一対の関係にある神が香香背男だとみてよいでしょう。
ちなみに、古事記では、天孫族の最強の対抗神としては天香香背男は登場していません。古事記は日本書紀とちがって、タケミナカタをタケミカヅチと闘わせています。出雲の国譲りに最後まで抵抗して、しかしタケミカヅチに敗れ、タケミナカタは諏訪に幽閉されるという筋立てになっています。
諏訪湖から唯一流れ出すのが天竜川ですが、この川の流域には天白神がいくつもまつられています。当HPの「瀬織津姫の部屋」のリンクにも長野県伊那市の天白伝承があります。ここにも七夕と瀬織津姫のまつりが伝えられています。天竜川の水源である諏訪湖の水神は瀬織津姫とみてよいはずで、これは別に明らかにしたいとおもっています。
さて、まずは東北により近い常陸国の鹿島神の話です。
鹿島神社はその名のとおり、もとは鹿島=香島という島だったようで、かつては入り江だったのが現在の霞ヶ浦です。この霞ヶ浦の北に流れ込む川に桜川があります。
この桜川の源流部は鏡池といって、現在の茨城県岩瀬町になりますが、ここに「元鹿島」とされる磯部稲村神社があります。
磯部稲村神社の由緒伝承には興味深い要素がいくつもあり、あらためて藤原神とはなにかを考えさせられます。
この神社の創建伝承はどうかといいますと、「景行天皇四十年十月、日本武尊伊勢神宮荒祭宮礒部宮を移祀す」となっています。また祭神については、「御祭神は天照皇大神外十一神」と「参拝のしおり」に記されているそうです(神奈備さんの資料)。
「伊勢神宮荒祭宮」の神はいうまでもなく瀬織津姫ですし、「礒部宮」は、神宮の元社である伊雑宮が、江戸時代に、倭姫命の放浪伝承に登場する磯宮を自社とする主張をしていたことがおもいだされます。
磯部稲村神社は、別称として、磯部宮・磯部大明神・桜川大明神などがあり、ここが伊勢の神=元神をまつる伊雑宮の分社であることはとても重要な伝承というべきでしょう。伊雑宮が「元鹿島」でもあるということは、鹿島神宮には伊勢の元神が本来まつられているということを証言していることになります。
同神社の祭神の「外十一神」には、まさに荒祭宮の神(一対神の一神)であった瀬織津姫の名があり、ほかには、伊雑宮の変転する祭神名に登場していた玉柱屋姫命も含まれています。また、ここにも玉依姫命の名がみられます。磯部稲村神社の祭神表示は、その由緒伝承どおりに「天照皇大神外十一神」ではなく「荒祭宮」=瀬織津姫を筆頭神としたほうが自己矛盾しないんじゃないかという気がしています。
玉柱屋姫を祭神とする(させられていた)伊雑宮についての神明かしの話は女神の本に譲るとして、磯部稲村神社には、まさに「元鹿島」にふさわしく、ここにも「要石」が存在しています。
霞ヶ浦の水源の川のさらなる源に元鹿島を自称する神社があり、そこに「荒祭宮」の神がまつられている──鹿島神宮側は黙して語らず、つまり無視といったところでしょうが、この元鹿島と鹿島に共通して登場する「要石」とは、もともとは神の依り石だったはずで、それを「龍」を封印する石に言い換えた者こそ、常陸国風土記の作者である藤原宇合だったのでしょう。
この藤原宇合という男の動きは、その父である不比等の意志を反映したものとみられ、瀬織津姫との関連でいいますと、宇合の作為は、ひとり常陸国ばかりでなされたわけではありませんでした。
彼は、按察使として常陸国にやってきて同地の風土記を作成したあと、次は西海道の節度使として九州・佐賀の肥前国風土記や豊後国風土記の作成にも関わっています。宇合は、この佐賀の地で、先回ふれました白山(黒田)神社の瀬織津姫と並んでまつられている淀姫の創始をしています。
彼はかなり大胆厚顔にも、淀姫=与止日女を神功皇后の妹神だとしたようなのです。また、それだけでなく、荒ぶる水神を鎮める善なる水神として淀姫を創作したようなのです。
考えてみれば、白山(黒田)神社における、瀬織津姫と淀姫の並祭神表示は象徴的で、ここでも瀬織津姫=荒ぶる水神、淀姫=荒ぶる水神を鎮める善なる水神という、藤原氏による瀬織津姫「ぼかし」がみられます。
また、白山神社のこの並祭神表示は、木曽川の水神をやはりまつる籠守勝手神社にもみられます。しかし常識的に考えて、美濃─尾張の大河である木曽川に、二種類の、しかも九州の佐賀の地の水神をわざわざもってきて、元の水神=瀬織津姫と一緒にまつる必要はまったくないのです。この奇妙さを平然と行使するというのが、藤原の祭祀思想の厚顔ともいえる大きな特徴といってよいかもしれません。
こういった藤原宇合の祭祀意志の動きをみていますと、逆に、淀姫もまた瀬織津姫の異称神である可能性さえ出てきます。佐賀の淀姫を明かすことは、これも次の作業としますが、ただひとつ補足しておきますなら、佐賀の民間伝承においては、「神功の妹与止日女」は、「どうぞお姉さまお元気でお暮らしください」と皇后にさようならを告げているのです。このあとの神功皇后の反応はなにも伝えられていませんけど、淀姫は皇后と決別し、その後、川上川=嘉瀬川の善なる水神として暮らしたことになっています(「与止日女伝説」)。佐賀も常陸と一緒で、民の心意=真意は、藤原思想と相容れないことをうかがわせてくれています。
さて常陸の鹿島神の元社にまつられる瀬織津姫と、鹿島神にとっての最強の対抗神=香香背男の存在──。鹿島神にとって、さらに香取神にとって、この二神は要石で封印する必要があった、つまり最大のタブー神であるということなのでしょう。つまり伊勢の元神の男性神のひとつの名が香香背男であったということになります。太一という星神を中心とする伊雑宮のお田植祭りも想起されるところです。
鹿島・香取神=藤原神は、東の国で、元神である香香背男と瀬織津姫を封印して立ち上げられました。鹿島・香取はまさに「東の伊勢」ということなのでしょう。鹿島神の創始=創祀の怪しさは、つまるところ、磯部稲村神社の伝承に端的に表れていますが、伊雑宮と荒祭宮のほんとうの祭神を封じた、伊勢=アマテラスの創作・創始問題を淵源としています。
ところで、天香香背男=天甕星と一対の神として表れる瀬織津姫の異称名は、おそらく天甕津媛となります。まさにミカツヒメ→ムカツヒメでしょうか。このミカツヒメをたどっていきますと、出雲の隠された大いなる水神にゆきつきますし、その先には、やはり宗像の神が見え隠れしています。
鹿島神の致命的ないかがわしさについては、瀬織津姫との関連伝承も含めて、春日神にふれるときにまとめて取り上げてみたいとおもっています。
話が全国の神まつりに波及していきますので、ひとつひとつ明かしていかないと、こちらも頭が混乱してきます。

78 星と玉 ピンクのトカゲ 2001/10/08 18:52

天空に輝く「星」を象徴として表したのが「玉」とは考えられないでしょうか?
水晶珠なんかは、占星術と結びついてますし、星と玉と関係があるのではと思います。
これが成り立てば、甕星=甕玉の等式も成り立ち、瀬織津姫解明、一歩前進するのではないかと思います。

79 お久しぶりです あかね 2001/10/09 13:43

ご無沙汰して大変失礼しております。ごめんなさい。
ようやく今週の休みには、体があきそうなので、その折にレスさせていただきますね。あれもこれもと、とっても長くなりそうなんで、もしかすると、メールとなるかもしれませんが…
ところで、玉は星の象徴かもしれないと私も思います。東播磨の奥にも妙見山が二つあって、これらの山は、丹波の妙見と能勢妙見と、一直線上に並んでますし。玉の概念について、手元に資料があったと思いますので調べてみますね。ではまた。
レス遅くなってホントにすみませんでしたm(__)m。

80 星を隠す神 風琳堂主人 2001/10/09 14:17

古代の人にとっての星への感覚、おもいは、現代人の感覚では測れないほど、きっと桁外れで、星の存在感は圧倒的だったとおもいます。
香香背男という星神は、その音に含まれる「香香=カカ」から、相当に強く輝く星のイメージがあります。また「背男=セオ」は、妹背=イモセという対なる関係の一方のセオなのでしょう。
神話の天孫族たちは、この天空に強く輝く星神を「悪い神」とみた。いいかえれば、みざるをえなかったわけです。この星は、夜はもちろんのこと、ときには昼にさえその姿をみせるほど強い光をもっていました。平田篤胤の感覚はそれを金星とみました。この星神が天白神=金精神=金神となります。
そんな香香背男を隠す=消すには、どうすればいいのかと考えますと、これは雨雲・叢雲の「雲」で覆ってもらうしかないのかもしれません。ムラクモの必要は、神宝の方向で考えれば、まさにムラクモ剣に具現化されますでしょうし、神話に仮装した争闘の場面では、このムラクモを発生させる特別の雷神を想起できます。つまり、建御雷=タケミカヅチやタケハヅチという雷神です。
しかし雷神にしても、天の水神の使徒神であったはずで、いわば、外来の天孫族に寝返ったかたちでの神話への登場でした。それが鹿島の神であり、倭文の神でもあります。
雷雲に隠された星神たちを地上でまつること──それが玉の意味かもというのがトカゲさんのコメントですね。
青玉の「青」は五行の思想からしますと東方を意味し、朝陽さす日の神とみることができましょうか。また、薬師という瑠璃光の神=仏が、元の日神にかぶってくるのも、青の思想の関連性があります。青玉は瑠璃玉でもあります。青玉が強く光を発したとき、それは金色に輝くとすれば、裏=夜の太陽としての金星は意味深いものとなります。
仮装の日神=アマテラスは、たえずこの香香背男という裏の日神=金神に監視されていることになります。
水をつかさどる星である月の神ともども、不毛な星神消去の歴史を藤原の王権思想は歩みはじめたものです。
蛇足ながら、月読=ツキヨミ=ツクヨミは、その名からわかりますが、「月を読む神」でこの神は月神そのものではありません。しかし、日本書紀の一書によれば、アマテラスによって、「お前は悪い神だ。もうお前に会いたくない」と「悪い神」と決めつけられていたのは月夜見尊でもありました。ここでは月を読む神ではなく、夜見=黄泉の国の神ということです。金星と月──新しい太陽神は昼の世界=国を支配できても、夜の世界=黄泉までは及ばないということなのでしょう。ムラクモの神たちは生まれるべくして誕生した、誕生させられたということかもしれません。
ところで、占星学の世界では、21世紀からの2100年間は水瓶座の時代=アクエリアス・エイジだそうです。九州の英彦山に降り立った熊野神は水精神でしたが、この水精神は熊野へやってくるどこかで消えてしまっています。消えた水精神とはなにか、です。水の時代(の出現)は、現代のリアルな生活感覚にも訴えてきますね。

81 伊豆の謎の女神 風琳堂主人 2001/10/09 15:56

星神の話をメモしていたら、あかねさんのコメントがすでに入っていました。
青玉と名のつく神社は播磨のほかにもうひとつ、伊豆にもあることを知りました。青玉比売神社という式内社で、今はそれ以上のことはわかりませんが、伊豆は瀬織津姫の匂いがかなり強いところです。
伊豆といえば、遠野の瀬織津姫の基点となる神社が伊豆神社=伊豆権現社で、本社は現在の熱海にあります伊豆山神社=伊豆大権現社のようです。ところが本社の方からは瀬織津姫の名は出てきません(延喜時代の祭神は火牟須比命、現在は伊豆山神)。
この伊豆山神社は、朝廷の勅願所として、ほかに類をみないほどの遇されかたをしています。孝昭天皇時代の創建伝承からはじまり、仁徳・清寧・敏達・推古・孝徳といった天皇たちの勅願所だそうです。そして役小角や空海の伝承がかぶり、武門の世界では、源頼朝の源氏復興神として「幕府最高の崇敬社」「関八州総鎮護」とされ、家康は「三百石の朱印領」を寄進したというものです。
さらに明治近代になってもこの厚遇はつづき、大正七年には宮内省から「金参万円」が下されたり、昭和六年から5年間は、あろうことか内務省が直々に出てきて、社殿の改造をしています。
遠野からすると、その本社に瀬織津姫の名が消えてしまっていてもかまわないのですが、ただ神名のつながりを直接にたどれなくともその類縁性は拾い出すことはできます。たとえば、伊豆山神社の数ある「神徳」のなかでも「殊に禊道」とありますから、これだけで充分に瀬織津姫を告げています。また、そのご神体が走湯の湯滝だということも重要です。また、境内末社ですが、ここには破格の扱いで白山神社もありますし、摂社の、火牟須比命の「荒魂」をまつる雷電社の存在など、周辺の状況証拠はかなりそろっています。それに追い討ちをかけるように決定的なのは、内務省の介入です。
伊豆半島の西の土肥を所在地とする青玉比売神社を基点にしますと、ウシトラ=東北の方向に、まず半島の内陸部に、かつて瀬織津姫をまつっていた広瀬神社、そしてその先に伊豆山神社となります。あまり方位にこだわっても意味はないのかもしれませんけど──。伊豆の謎の女神=青玉比売と瀬織津姫がいつかピタッと重なる予感はあります。先の楽しみにします。

82 北の北の太一 風琳堂主人 2001/10/11 08:49

伊雑宮の太一は北極星で、香香背男の金星とどう関係するのか──。

匿名のお便りです。
うまく説明できるか自信ありませんけど、大事な問題ですので少しメモをしておきます。
太一は伊雑宮の星神でもありますが、同時に内宮の星神でもあります。いつからこの太一が登場してくるのかははっきりしませんが、太一とアマテラスと北極星を結び、それと天帝=天皇大帝と結びつけるという発想は、中国の天帝思想が伝わってからだろうということだけはいえそうにおもいます。ここでも、占星台を設置した最初の天皇として、また占星術にかなり精通していた天皇として、天武の名が浮かんできます。彼はまた、伊勢神宮を創始した天皇でもありましたし、天皇という称号を最初に用いた、用いられたことがおもいだされます。
記紀の時代の祭祀思想と神話創作者にとって、香香背男との関連でいえば、「悪い神」=金星を隠す、雷雲でおおうためのタケミカヅチたちの登場だけでは、きっと一時しのぎのことだったとも想像できます。「悪い」星には、「善い」星、しかも絶対的な「善い」星で対抗するしかない。では、どんな星がもっとも有効かと考えたとき、ここに中国の星祭りの思想が導入されたとみることができます。
天武亡きあとの陰陽師たちの天文思想は、ちょっと自分の手には負えませんけど、彼らの知恵は相当なものだったことはまちがいありません。つまり、彼らは、自分たちの知を応用して、「悪い星」に対抗できる絶対の星として、天帝=北極星=不動星=太一を登場させたことが考えられます。
ただし、科学的にいえば、北極星という星が不変に存在するのではありませんから、これを不動の星とみることは無理なそうです。それに、現在の北極星であるこぐま座α星は、1000年前には北天の位置にはありませんでしたから、当時、視覚的に認知できる星として太一が用いられたのではなかったものとおもいます。つまり観念的な絶対星として、中国の思想を利用して創作されたのが伊勢の太一だったと考えられます。
天子は南面すというように、太一を北の絶対星とみようとすれば、南面する「悪」の星こそ金星かとなります。北極星は「北の明星」ともよばれますから、太一はやはり南を意識した絶対星、つまり天皇と伊勢の神の比喩として創作されたようにおもいます。
しかし、たとえそうだとしても、太一は、伊雑宮の神を大事におもう人たちにとっては、内宮と同名であろうが、自分たちが信奉するアマテルさんの別名だったはずで、この太一をいただいて船の小さな守護神とすること(御田植え祭りの竹取り神事)は、やはり海の民の記憶からくる祭りの情念によって受け入れられ、受け継いだものとおもいます。
伊雑の神を信奉する人たちにとって、太一はアマテルさんの代名詞であることが重要で、陰陽師たちが思い入れた、方位としての「北」とか、始原の神=アマテラスとしての「太一」といった観念付与などは、あまり関係がなかったのではないかとおもえます。
ともかく、アマテラスとアマテルが二重化された象徴の、絶対的な星神として「太一」は立ち上げられたのでしょう。
太一=北極星が妙見信仰に発展してからのことですが、『梁塵秘抄』に、この複雑かつせつない太一へのおもいを述べた言葉がありますので引用しておきます。

妙見大悲者は、北の北にぞおはします、衆生願を満てむとて、そらには星とぞ見えたまふ

これは、ほんとうの太一=妙見は、かたどおりの北にではなく、その背後=奥である「北の北」にいらっしゃる、星とみえるのは仮の姿だという意味に理解できます。意味深い表現です。

85 瀬織津姫情報 ピンクのトカゲ 2001/10/18 18:53

尾張国旧山田郡に大井神社が鎮座します。現在の名古屋市西区稲生町です。
祭神は、ミズハノメ、ハヤアキツヒメ、ハヤアキツヒコと言うことになってますが、ハヤアキツヒメと言うことになれば、ミズハノメは、瀬織津姫でしょう。
旧山田郡の坂庭神社。相殿の祭神は、カカセオ、織姫、牽牛です。鎮座地の住所が、小牧市多気東町というのも滝の女神・瀬織津姫を匂わせます。

86 大いなる井の神 風琳堂主人 2001/10/20 06:07

瀬織津姫を集中してまつっているところの筆頭県は岩手県と静岡県といってよいかもしれません。これは現在判明しているもの、という限定をしておく必要はありましょうが、その静岡県の大河のひとつである、大井川の流域に集中してまつられている大井神社の祭神は瀬織津姫であることが確認できています。瀬織津姫はまちがいなく大井川の水神です。
名古屋の大井神社の祭神に瀬織津姫が登場していてもおかしくはありませんけど、いただいた情報だけでは、その可能性、とても高い可能性を示すものではありますが、まだ断定はできません(できれば、瀬織津姫の名を明確に伝えている情報をいただけるとありがたいです)。
現在、インターネット上で確認できる瀬織津姫の情報は、全体に潜在している情報・証言のおそらく1%くらいじゃないかとみています。延喜式内社の対極にあるような、山間の小さな社でそっと大切にまつられている多くの瀬織津姫がいることは、一部の町村史(誌)でしたけど、通覧していたときに得た確信でした。
ところで大井の「井」ですが、これは井戸の井あるいは泉=出水をさすことはもちろんですけど、古くは川そのものをも意味していました。静岡の大井川がよい例です。五木寛之さんじゃないですが、大河の一滴ともいうべき湧き水が海と出会う全過程の様が川=河かとおもいます。そして、泉の湧出を促すものが山でありますから、瀬織津姫は水神であるとともに山神ともなります。この山神は、もともとは海から川をさかのぼってまつられたものでしょうから、さらに海の神ともなりましょう。
ところで、古代日高見国→陸奥国の母なる川として北上川=日高見川があります。この川の源流の山は岩手県の最北部にあります七時雨山=ナナシグレヤマなのですが、この七時雨山の神が瀬織津姫であることを記したサイトと出会いましたので、よかったら「瀬織津姫の部屋」からご覧ください。この山の西の山麓には、日本滝百選にも選ばれている不動の滝=桜松神社(岩手県安代町)があり、瀬織津姫がとても大切にまつられています。
七時雨山は地図でみるとわかりますけど、東の八戸(青森県)へ向かう馬淵川の支流である安比川の水源の山の一つでもあり、さらには西の能代(秋田県)へ向かう米代川の源流部に近い山でもあります。馬淵川の河口の八戸市には、青森県で唯一確認できる瀬織津姫をまつる神社があります。
北上川の水源の山神が瀬織津姫となりますと、北上川の大いなる井の神としても考えてみる必要が出てきましょう。これは北上川を考える人たちにも参考にしてほしいとおもいます。
井の神としての瀬織津姫は、京都の下鴨神社ばかりでなく、春日の神ゆかりの社とも、また出雲とも関わってきます。出雲の隣の大山=火神岳(出雲国風土記)を中心とするハハキの国に瀬織津姫が集中してまつられているのに、出雲国には本殿主祭神としてはわずか二社が確認されるのみです。この対照的な落差、その事実の奇妙さはなにか、ということです。

(追伸)
先日、「元鹿島」の磯部稲村神社(茨城県岩瀬町)の話をメモしましたけど、もうひとつ、これも鹿島・香取両社にかかわります利根川本流の上流(群馬県玉村町)の神明宮の境内社である、荒祭神社の祭神としても瀬織津姫がまつられています。また、ここにも磯部稲村神社と同じように、伊勢の元社である伊雑神社が(よく消えずにですが)まつられています。瀬織津姫は利根川の大いなる井の神でもある可能性もアリでしょうか。としますと、利根川の支流である鬼怒川上流部の華厳の滝も調べてみる必要がありそうです。東の伊勢である鹿島・香取にならえば、華厳の滝は「東」の那智の滝かもしれません。

87 菱木野神社の件 ピンクのトカゲ 2001/10/21 18:28

そのガイドさんが、豊川の図書館にあった資料から原稿を起こしたそうです。
大分前のことなので、資料名は思い出せないそうですが、とにかく文献にのっているそうです。
一度、暇を見て当ってみます。

88 ダムに沈んだ女神の地 風琳堂主人 2001/10/25 03:33

瀬織津姫を「勅命」によって大祓いの神として策定した伝承をもつ佐久奈度神社のサイトをご紹介します。瀬織津姫の部屋からご覧になってください。なかなかドラマティックなトップページです。
ところで、由緒説明で、最初から「祓戸大神四柱を奉祀した」とあるのは正確ではありません。あとから、神道世界の絶対的な基本となる大祓いの祝詞=中臣祓に整合・付会させたということでしょうが、こういう由緒情報は貴重なものだけに、正確に記してほしいとおもいます。

八張口(やはりぐち)の社。すなわち伊勢の佐久那太李(さくなだり)の神を忌んで祀っているのは瀬織津比唐ナある。

これは、近江国風土記逸文の明記です。
「伊勢の佐久那太李の神」は現在はっきりとしませんけど、これはアマテラスの前の消された日神を指しているのでしょう。あるいは内宮の元宮である荒祭宮からその名を消された水=滝の女神である瀬織津姫自身を重ねてみることができます。
のちに、この日神は男神の祓戸神=息吹戸主神と変名して追加され、瀬織津姫を基本とする祓戸神化とセットになるのかもしれません。さらに念のいった操作ですが、瀬織津姫を三分身=三分神化して、「祓戸大神四柱」が確定されます。くりかえしますが、この神社の元々の祭神は瀬織津姫一神でした(延喜式神名帳の原本〔なるべく古い〕資料が今手元になく、これはいずれ確認しますけど、おそらく佐久奈度神社は現在のように、当初から「四座」とはなっていないはずです。まちがっていたら訂正します)。
この社のもともとの所在地は、神社の由緒説明にありますように、瀬田川の現在地よりももっと下がったところにあったようで、現在は天ヶ瀬ダムとなっています。「天ヶ瀬」──これもなにか瀬織津姫と縁ある名の匂いがします。
このダムの地の地名に「桜谷」があります。佐久奈度神社の説明にも「八張口、桜谷と呼ばれ」とありますから、まさにダムに沈んだ神の地ということになります。
琵琶湖を水源とする瀬田川は宇治川と名を変え、鴨川→桂川・木津川を合流して淀川となって難波の海=瀬戸内海へ流れていきます。
この宇治川の水神といってよい橋姫の名として瀬織津姫が表に出てきたことに、やはり「戦後」を感じます。また、その並祭神が天照大神だというのも貴重な由緒証言です。その宇治川に関してですが、山城国風土記逸文に、次のような一行が残されています。

宇治の滝津屋は祓戸(はらひど)である。

この「滝津屋」の地が、おそらく現在の天ヶ瀬ダムの桜谷の地でしょう。滝津屋=滝津谷=滝のある谷、サクラダニ=サクナダリです。そういえば、鳥取の桜谷神社の主祭神は瀬織津姫です。

ここからは蛇足のような仮説ですが、この宇治の桜谷に「六石山」の地名があります。遠野の三女神伝承をもつ山のひとつは六角牛山(ろっこうしさん)で、ここは六神石山とも記されます。遠野のある村誌には、遠野の三山には祓いの三女神が配された記録もありますので、案外無縁ではないのかもしれません。ロッコウシという地名潭の新しい解釈の可能性として付記しておきます。ちなみに、六角石山の不動滝の神は、ここも瀬織津姫です。

89 ロッコウジ ピンクのトカゲ 2001/10/25 07:59

六角牛がでたついでに
豊川市財賀町に六興寺なる字名があります。
アイヌ語解釈では、ルー・コッパ・ウシ(道が交わるところ)の意味になると思いますが

90 お邪魔します D.K 2001/10/27 01:29

瀬織津姫ですか、謎の神ですね。

私はアラハバキに縁があり色々とフィールドワークを
して情報を集めて来ましたが、アラハバキは香香背男・
スサノオではないかと思われる関連情報が多く、何れ
まとめようと思っていますが、紀紀で悪神として封じ
込められたアラハバキ、スサノオ、聖書でも同系の
金星絡みの記述が多いですね。”我はダビデのひこばえ
その一族、輝く明けの明星である”等・・・日本でも
高名な宗教家達は金星に纏わる記述が多く、これらの
研究は一神教対立の現在、少しは有効な物に成らない
かと思っている所です。

この話は今の所、此処だけの話です。一応、古墳の
保護目的でやっているのでアドヴァイス、ご協力、
出来たらお願いします。

91 かぐや姫の前提へ 風琳堂主人 2001/10/29 05:18

古事記(712年)から日本書紀(720年)の推敲・創作過程で、神功皇后との関係で新しく付加された神として天照大神荒魂があります。この神は神功つまり天皇のそばにおいてはよくないという神託で摂津国の広田の地にまつられ、それが現在の廣田神社ということだそうです。
この天照大神の荒魂こそが瀬織津姫の別名でした。
また書紀は、この荒魂の名を次のような長々とした、しかし風格をもった名として記してもいました。

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

これはツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコトと読ませています。
古事記の国譲りの最強の抵抗神は出雲の建御名方神とされ、この神は諏訪の地へ蟄居した、させられたことになっています。つまり諏訪の大神となります(念のために添えておきますが、出雲国風土記にはタケミナカタの抵抗→降参の話は出てきません。古事記の創作なのです)。
その諏訪湖から、琵琶湖の瀬田川と同じように、唯一流れ出す川が天竜川です。
天竜川の古名を記しておきますと、奈良時代は「麁玉川」、平安時代は「広瀬川」、鎌倉時代は「天の中川」、そして室町時代になって現在の呼称である天竜川となります(後藤総一郎『神のかよい路』)。
後藤さんもこの本でふれていますが、天竜川流域の古層の神として天白神と「ミサグチ」の神があります。
遠江国の西の三河国では、天白神の名として、筆頭神は瀬織津姫、ほかに香香背男、ウカノミタマ、スサノウなどの名が伝えられています。
DKさんのアラハバキの名として登場する神々は天白神の背後の神でもありますが、基本的には縄文と弥生の境界期の日神で、記紀に準じた神名を挙げれば。ホアカリ、ニギハヤヒとなりましょう。もう少し正確にいえば、ヤマトに順化しなかった一族の信奉する神=日神に命名された「荒ぶる神」の意が込められています。この神が衰落していくと石神=シャクジン=シャグジ=ミサグチとなります。また、根強くがんばれば石大神=アラハバキ神として伝えられることになります。またこの神は荒ぶるハハキの国の神でもあり、これは出雲の話のときにふれます。
遠江国は、ここは古代物部氏関係の開拓地で、古墳はその関係墳だろうとおもいます。天竜川河口部西岸は早くから開け、あの浜北人でもよく知られますが、縄文晩期の遺跡である北谷遺跡があります。ここから出土した石鏃の素材である黒曜石は、その産地は諏訪地方、伊豆の神津島、同じく伊豆の天城山とされ、かなり活発かつ広範囲な交流をうかがわせてくれます。
天竜川の最古名として確認される麁玉川なのですが、これは奈良時代の郡名である遠江国麁玉郡の川であることからの名称であるとひとまずいえます。ただし、ではその郡名かつ川名である麁玉=アラタマはどこからきたかとなりますと、だれもよく答えていません。わたしは、麁玉=荒魂とみていて、遠江から駿河に顕著にみられる瀬織津姫の祭祀分布と関係があるだろうとみています。
瀬織津姫が天照大神荒魂とされ、また三河では天白神とされ、その天白神が天竜川流域を守護するようにまつられていることは重要な事実です。
天竜川の河口には、まさに川の守護神として天泊水神社が確認されますし、さらに、同社の河口対岸部には貴船神社がまつられ、その少し北には白山神社までまつられています。もうひとつ付け加えれば、この天泊水神社の北には延喜式内社であろう椎河脇神社(祭神:闇淤加美命、豊玉比売命)もあります。錚々たる水神がまつられています。
これらを別々の水神と考えるほうが不自然で、これらの神社=神名には共通した水神の名が隠されています。この水神は、郡名と川名にも登場していた麁玉の神とみてよいかとおもいます。
ここ天竜川西岸部には天白山もあり、その北の滝沢町にある四所神社の祭神に「麁玉皇大神」の名もありますように、秘された水神の名は、天照大神荒魂=瀬織津姫とみるのが現在のところもっとも妥当かとおもいます。
くりかえしますが、近江国から尾張・三河、そして遠江・駿河から伊豆にかけての最重要な水神として瀬織津姫がみられます(ほんとうはもっと広範囲です)。この神は天竜川の東の大井川や富士川の水神でもあり、いかに重要な水神であったかは、遠江国総社の淡海国玉神社と矢奈比売神社(磐田市)に伝わるオミシマサマの神事(見付の裸祭)にうかがうことができます。
オミシマサマの正式な名称は御斯葉神事といい、矢奈比売が年に一度、遠江国総社神である国玉の神のところへ神幸=逢瀬をするという、いわば七夕祭の変型のような祭事です。この矢奈比売という神は氏子の人によって大事におもわれているにもかかわらず、地元の研究者の方にも神統譜不明の女神とされています。『見付志料』は、この女神を鴨の玉依姫と同体かとしているらしいのですが、これは鋭い洞察です。
ミシマ=ミシバ=御斯葉は榊のことで、矢奈比売の神霊を榊に移して、宿して、国玉の神のところへ逢瀬を介助するというのがこの祭りの本義です。淡海国玉神社の祭神は大国主とされていますが、これも仮の神名であることはいうまでもありません。
この神事で興味深いのは、神霊を榊に宿すということです。ここでも瀬織津姫の別名として「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」が想起されます。「撞賢木」=ツキサカキはまさに「憑榊」とみられます。
このミシマサマの神事は、さらに京都の上賀茂神社の「秘儀」とされる「御阿礼神事」にもみられます。
このミアレ神事も「憑榊」からはじまるのです。
ミアレ神事は、実は下鴨神社にもあります。こちらは「御生神事」と表記していますが、おなじミアレ神事にもかかわらず、両社には決定的なちがいがあります。それは、下鴨神社は元社の御蔭神社(祭神は下鴨神社の荒魂)から本社への神幸があるのに、上賀茂神社のそれは、同社の北に位置する丸山に神オロシをして、それでミアレとし、本社を遥拝して終わりとしていることです。上賀茂の「憑榊」の神は、矢奈比売神社や下鴨神社のように、本社への渡御=神幸=逢瀬がナイというのには深い訳があるのでしょう。この上賀茂の神との逢瀬をさせないとするミアレ神事の不思議には、貴船神社と上賀茂神社の祭祀上の確執が隠されていますし、またなにより、賀茂の神が第二の皇祖神であるとされたことと関係しています。まさに「秘儀」とするしかないということなのでしょう。
見付志料が謎の矢奈比売を鴨の玉依姫と同体とみたのは卓見で、この鴨の一族が拓いたのが伊豆半島とその南の島々でもありました。遠江・駿河・伊豆の最重要な水神が、鴨の最重要な水神=貴船の水神と重なってきます。
鴨氏と瀬織津姫が無縁でないことは、鴨川=賀茂川と清滝川の源流部に位置する、大森賀茂神社(京都市北区)の祭神として、賀茂皇大神と瀬織津比売神の名があることからもわかります。これは内務省神社局の消し忘れ、神名変更のし忘れ、つまり校正チェックミスなのでしょう。
賀茂大神の一神である玉依姫を、一般名詞ではなく、ある神の比喩とみる視点も必要かとおもっています。
とても原理的なことを確認しますけど、神様が子どもを生んで、その神がまた子どもを生んで、という連鎖的な系譜に引っ張られて神をみることから自由になる必要があります。
たとえば、本家の神様をいただいて分家するとき、それはオソレオオイから、お子神とさせていただきます──これが無数に近い神の名の誕生の基本パターンだったとおもいます。ただ、そこへかぶってくるのが、中央の祭祀思想で、このために、本来はたどれるはずの神の系譜がぐちゃぐちゃにされていきます。
それはともかく、たとえば、下鴨神社の祭神であるカモタケツヌミと丹波神野の伊可古夜日女との間にできた子が玉依姫で、その玉依姫と雷大神または羽咋神との間にできた子神が別雷神で、これが上賀茂神社の祭神だという神様の親子関係、縁戚関係、いわば神社の縁起に、必要以上に惑わされることはないと考えます。
つまり、下鴨神社の祭神の一神である玉依姫は、丹波の伊可古夜日女の分神かつ同神とみてよいのです。
ここで、自分の勘違いの訂正をひとつ──この丹波の神野の位置なのですが、地図帳で確認してえっとおもったのですが、加古川の源流部にあるんですね。加古川の源流部は正確にいえば播州峠と三国岳、それとカヤマチ山でしょうか。この播州峠を南下する川は杉原川といって、西脇市で加古川に合流します。そして、この杉原川の源流部に鎮座しているのが、これまでにも話題になってきました青玉神社です。また、この播州峠から南東に流れだす加古川の支流は葛野川で、ここでも京都の葛野郡を連想させます(この葛野は、陸奥国でカドノ→上遠野→遠野となります)。
青玉神社の神である玉憑姫はまさに玉依姫であり、伊可古夜日女と同神とみるべきでしょう。加古川の上流の女神の名は「井・加古・夜姫」で、つまり加古川の夜=黄泉の女神と理解できます(かぐや姫の創作はここからじゅうぶんに可能でしょう)。
加古川や西の市川流域には、日本書紀では消されることになる大歳神が集中してまつられています。古事記は、大歳神の妻神として天知迦流美豆比売という水神の名を記録しています。この天の水姫は、まさに月=水の女神である「かぐや姫」ともなります。「天疎」=アマサカッタ、天から降りてきた月の女神がかぐや姫です。
加古川の水神として神野の伊可古夜日女は、めぐって鴨=賀茂の玉依姫という水神となります。むろん、賀茂川の水源の神=貴船の水神と無縁であるはずがありません。
播磨も伊勢も、また尾張・三河・遠江・駿河も大歳神の国で、大歳神はしかしまだ仮の神名ではありますが、それにしましても、縄文晩期にまで遡る海の民の生活圏域の活発な広範囲化はスゴイことだとおもいます。かれらは初期弥生人ではありますが、先住の縄文人と異種と規定する必要はないとおもっています。かれらは稲作と産鉄の技法をたずさえてやってきた新縄文人でもあり、かれらにしてみれば、太陽と月は同格であったはずで、月が決定的に貶められるのは、記紀と風土記(特に常陸国風土記)ができたあとなのでしょう。

92 加古川源流域 あかね 2001/10/31 01:45

 長いこと、レスできなくて失礼しております間に、ご主人、丹波の神野についてお書きになっておられますね。そうなんですよ!!お気付きでしたか。
 そこでまずは一つだけ。三国岳のある、播磨国風土記でいう「賀眉里」(加美町・中町)は奈良初期、丹波の国でした。風土記の頃には無論、播磨の国で、以降はずっと播磨ですが。だから、丹波と考えてよいと思います。勢力争いで出雲人の開拓地が結局、大和側となったわけですね。
 やや私、復活して来ましたので思いつくまま、ぼつぼつと書いて参りますね。ゆっくりだとは思いますが…m(__)m。播磨に坐す神々シリーズです(笑)。

 
93 復活おめでとう。 ピンクのトカゲ 2001/10/31 18:36

あかねさん
復活おめでとう。
楽しみにしてます。
ぼちぼち書いてください。

94 復活と船出に祝杯 風琳堂主人 2001/10/31 20:41

あかねさんの復活=ルネサンスと、トカゲさんのHPの船出と、今日はちょっといい日です。
加古川の支流の杉原川の荒田の神は、風土記によりますと、道主日売ですから、これで、加古川の女神は輪郭がはっきりしてきました。
あと、播磨で気になる女神は賛用都比売と出雲大神御蔭神です。
ここからは言霊的なセンスと直感の話ですが、セオリツヒメ←→サヨウツヒメの音の転生変化もあるかとおもっています。それと、この音のセンスを拡大しますと、あまり話題になりませんけど、ソウツヒメ=抓津姫という女神の名も気になっています(風土記の地名潭における唖然とするコジツケ、無理な言葉遊びにくらべれば、はるかにまっとうな音韻感覚のはずです)。
瀬戸内海経由ムナカタもありですが、ちょっと遠回りになりますけど、丹波→出雲を含む日本海経由ムナカタの航路をとってみるつもりです。機雷の海を行くことになるかもしれませんけど。
播磨の隠された神のいい話──楽しみにしています。

95 宗像と加古川の道 あかね 2001/11/01 01:38

>丹波→出雲を含む日本海経由ムナカタの航路をとってみるつもりです
 ほい!宗像のその航路、大いに可能性ありと思っています。環日本海の国々と加古川の関係はとても深そうです。
 ずっと前に神奈備さんの掲示板で、「兵主神社の配置」について、書かせていただいたことがありまして(今年の4月初め頃だったかなぁ)、故郷の専門家の説に、宗像と兵主神社配置を結びつける考え方があるのですよ。東播磨奥の加古川本流の上流近くに、式内社兵主神社(黒田庄町)が鎮座しており、更に但馬へと向かうと、これはもう、兵主が一番たくさんある地域です(播磨では他に姫路に射楯兵主神社がありますね)。そして近江も多い。
 その先生は、兵主配置時期と理由を、神功による半島出兵への防衛のためとお考えで、それを日本海経由で宗像へと繋げていらっしゃるわけです。ですがこれは、瀬藤様もおっしゃってたと思いますが、大和が兵主を祀る前から原始祭祀が行われていた場所だと考える方が自然ではないか、或はその先生もそうお考えだからこその説ではないのか、と思っています。つまり、そこが兵主以前から信仰や交易・運搬等の重要地であったから、敢えて兵主をおく必要があり、兵主の配置場所と宗像は、大和勢力がそれら地域へ及ぶ以前から、繋がっていたのだと。

 サヨウツヒメと播磨・丹波の女神さんについても、思うところがありますので、追々書きますね。黄泉の女神と考えられるわけとか、鴨との関係とか。
 何か、まとめて書こうと思うから私、気合が入ってダメなのね。ラフに書こうっと。

96 補足 あかね 2001/11/01 01:44

兵主の配置場所と宗像は、大和勢力がそれら地域へ及ぶ以前から、繋がっていたのだと。…の補足です。
 鉱物と船材メインで、です。ではまた。

97 追加訂正m(__)m あかね 2001/11/01 01:56

ああ、削除キー入れ忘れです。変な文章…
↓鉱物とその加工物、船材の運搬を主目的として、大和による兵主配置以前から、宗像と繋がっていたのだろう、と書きたかったのです。失礼しました。
ちなみに、これは神功の半島出兵時期においても同じで、変ってはいなかったようです。

98 風土記についてのメモ 風琳堂主人 2001/11/02 05:55

あかねさん、あわてずにいきましょう。
この囲炉裏夜話は、真ん中の太古からの火を囲んだゆるやかな時間が流れていたいとおもってつくりましたので、火に向かって語るように書いてください。きっと瀬織津姫や遠野に関心をもってくれた人たちがおだやかに耳を澄ましていますし、この囲炉裏の北の早池峰山では、ひょっとすると瀬織津姫も聴いているかもしれません。

播磨や出雲のこともあり、風土記について少しメモを──。
712年にあたふたと古事記がつくられたものの、これは国史としては不完全ということで、翌年の713年に、風土記編纂の命がだされます。これは郡名里名を好字二字に変更せよという内容をともなうものでしたが、この勅命に応えて、まっさきに風土記を完成させたのが、715年の播磨国風土記でした。現存しているもののなかでという条件をつける必要はありましょうが、それでも勅命の2年後という早い時期にできた播磨国風土記は、やはり最初の風土記といってよいでしょう。
このあと、718年になって、やっと常陸国風土記が完成。出雲国風土記にいたっては、勅命後20年もあとの733年の完成です。
出雲国風土記の序文らしき文章に、この風土記編纂・創作の舞台裏が正直に書かれていますので引用しておきます。

老(わたくし)は、枝葉の末のことまでこまやかに思案し、伝承の根本にわたって判断をくわえて記定した。

これは、同風土記の奥付にも「天平五年二月三十日勘造(かんがえてつくる)」とあり、よほどの「思案」「判断」「勘造」の上で成ったことをうかがわせています。
播磨国風土記がほかにくらべ抜きん出て生彩を放っているのは、出雲のように「思案」「判断」「勘造」があまりなされずにつくられたことが理由だとおもいます。各郡の里の土質のランク付けだけは真面目に記述しているものの、ほかの伝承においては、あまり深く考えて書かれていないようで、その意味では、勅命の真意を深く汲んだ編集とはなっておらず、それが播磨国風土記の異色かつ大きな特徴となっています。
播磨国風土記は、その意味でダメ風土記のモデルだったのかもしれません。むろん、王権側からすると、ということです。王化の思想をもって風土記創作へ向かったのが藤原宇合で、播磨に遅れること3年でしたが、718年に常陸国風土記がつくられます(常陸国風土記は日本書紀の習作的な要素をもっています)。
出雲国風土記の完成が勅命から20年後という理由は、713年という時点において、風土記編纂を可能とする治安の安定がなかったことがあるのかもしれません。あるいは20年という時間は、何度も何度も書き直しがあったということかもしれません。
「出雲国造神賀詞」という出雲の服属表明の祝詞が初めて奏上されるのは724年のことで、その9年後に同国の風土記が「勘造」の上にやっとつくられます。
いずれにしても、713年の編纂命令のあと、時間がたてばたつほど風土記の内容は生彩を欠いていきます。
そして国史の日本書紀が完成するのは720年。このあとの風土記(現存では出雲・豊後・肥前)は、書紀を意識した編纂創作がなされていて、その土地土地の伝承や神まつりの記述はそのまま信じることはできない内容に加工されていきます(出雲国風土記だけは小さな抵抗の痕跡をのこしていますが)。
記紀同様、ここでもウラ読みをしないと、風土記の背後の世界はみえてきません。しかし、ウラ読みをしようにも、その素材が白紙の状態のところはなんともなりません(たとえば、遠野においては、ウラを読もうにもその素材がありませんし、これはほとんどの土地がそうです。神社あるいは神様にこだわる理由でもあります)。
それにしましても、ほかの風土記はなぜ残らなかったのでしょう。残った5つの風土記の3つにまで藤原宇合がからんでいるというのも、たんに偶然ではなかったのかもしれません。

あかねさんに、播磨国風土記に出てくる地名で、教えていただきたいことがあります。以下に書き出してみます。

@ 神前郡の書き出しに出てくる「神前の山」とは現在のどこの山を指すのか。
A 同郡「的部の里」の項にある、豊穂命が鎮座するとされる「石坐山」は現在のどこの山を指すのか。
B 同じく、鴨と関わる玉依比売命が鎮座する「高野の社(もり)」は、現在のどこが比定されているのか。

地図帳の限界で、的場や岩座神(いさりがみ)の地名はみつけましたけど、どうもはっきりしません。急ぎませんけど、ここだよとおわかりのようでしたらまた教えてください。あと、加古川沿いにあります顕玉神社(小野市高田町)の祭神と由緒も──。
風琳堂から歩いて5分くらいのところに加茂神社(祭神:雷別神 勧請:平泉藤原氏滅亡の年=1189年)があります。京都の上賀茂神社の祭神は別雷神で、不思議なミアレ神事については前にふれました。ここ遠野では、この加茂神社は早池峰山の遥拝社とされています。
ワケイカヅチの神を拝むということは、その北の早池峰山、つまり瀬織津姫を拝むことになります。早池峰山とこの加茂神社を経て南にまっすぐのところが、瀬織津姫が降り立った伝承をもつ早池峰神社の元社である伊豆神社です。この直線上には、まだ瀬織津姫ゆかりの社がありますが、それはおくとして、上賀茂の神よりも瀬織津姫(あるいは背後の本来の日神)を大切にみる、遠野の隠れた思想の心意気を感じています。

99 同級生 二朗 2001/11/03 01:27

お元気そうで何よりです

100 禍津日神たちの総称神 風琳堂主人 2001/11/05 07:35

なつかしい人からの1行メッセージです。
たとえ30年の空白があるにしても、すっとワープできる関係のひとつが「同級生」かもしれません。

瀬織津姫という神を明かすには、1000年、2000年という時間の海を航海することが必要で、また、たとえば天武─持統天皇の時代に、どれだけ当時の同時代人の感覚でその場に想像力の足を着地できるかが問われたりします。
もし自分が藤原不比等だったら、「日本」という新国家を完成させるために、祭祀面においてどういった方法を採るかといった発想をしないと、不比等たちの記紀や風土記の創作的な編纂の意図はなかなか見えてきません。
宇治市の橋姫神社の方と電話で話す機会があり、先回、「ダムに沈んだ女神の地」としてふれました桜谷は、実は完全に水没しているわけではないという話をうかがいましたのでご紹介しておきます。また、橋姫神社は、宇治川の神である瀬織津姫を、その上流の桜谷の地から橋の神として戴いてまつったということでもありました。大化改新のすぐあとのことらしいです。
この宇治川の女神=橋姫の神は、伊勢の宇治橋や出雲の松江大橋、大阪の天満橋の橋神などとしても分祀したとのことで、よほどの神威をもった神であることが伝わってきます。
瀬織津姫の神威は、禍々しく発現されると、「倭姫命世記」や本居宣長が述べていたように「禍津日神」と表記されたりします。
この禍々しい神としての瀬織津姫は、もともとは古事記にそう記されたことがルーツ(正確にいえば神宮の式年遷宮に関わる天武の死がルーツ)なのですが、裏をかえせば、それだけ神威が高い神ということになります。
ところで、清原宣賢は『中臣祓解』で、宣長たちとはちょっとちがった瀬織津姫解釈をしていますので、次に引用しておきます(『日本の神々の事典』)。

瀬織津比塔gハ、伊奘諾(いざなき)尊ノ、ミソキシ玉フ時、アマタノ神、出生シ玉ヘリ。九神ヲウミ、六神ヲウミ玉フ。其出生ノ神タチノハ名ナリ。

イザナギがイザナミのいる黄泉国から逃げ帰ってきて、自分はキタナイ国に行ってきたから禊ぎをして穢れを祓おうとして誕生した神々のなかに、宣長たちがいう「禍津日神」が含まれているわけですが、清原はそういった限定した理解ではなく、禊ぎから誕生した神々の「ハ名」=総称神を瀬織津姫としてとらえているようです。
清原は少しオーバーランしていますが、しかし、彼の総称神という理解の仕方は貴重です。
古事記の該当部分をあらためて読んでみます。

(イザナギは)「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕ちかづきて滌(すす)きたまふ時、成りし神の名は、八十禍津日神、次に大禍津日神。この二神は、その穢らはしき国に到りし時、汚垢(けがれ)によりて成りし神なり。次にその禍(まが)を直さむとして成りし神の名は、神直毘神、次に大直毘神。次に伊豆能女。

イザナギの禊ぎの場は「中つ瀬」だそうで、まさにここから社名をとった、山口県宇部市の中津瀬神社の祭神として瀬織津姫が確認できます。
古事記に登場するこの禍津日神たちについて考える上で、興味深い神社が九州にあります。
伊勢の二見が浦を東のそれとして、西の夕日の二見が浦で知られる福岡県糸島郡志摩町の桜井神社の奥宮=岩戸宮(いわとぐう)の祭神に、この古事記記載の神たちが登場してきます。つまり、岩戸宮の祭神は「八十禍津日神、大禍津日神、神直毘神、大直毘神」です。こちらの宮司さんに確認したのですが、やはりこの四神だそうで、マガツ日神とそれに対応する直毘神=直日神がセットとなってまつられているらしいのです。
ここで発生する疑問は単純で、桜井神社の岩戸宮は、古事記記載の四神を祭神としているのに、残りの「伊豆能女」=イズノメはなぜまつられていないのか──となりましょうか。
これは小さな疑問ですが、ここで浮かんでくるのが、清原宣賢の「ハ名」=総称神という視点です。桜井神社および古事記の四神の総称神こそ、この伊豆能女=イズノメだと考えられます。もし岩戸宮の祭神としてここに伊豆能女を加えますと、総称神と分神が混在した祭神表示となってしまいますので、桜井神社はそれを避けて、総称神である伊豆能女だけを祭神名からはずしたものと考えられます。これは桜井神社の見識とみてよいとおもいます。
ところで、このイズノメの「イズ」に関して、ここでも瀬織津姫の別名である、例の長大な神名が浮かんできます。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命──この「厳之御魂」=イツノミタマの「イツ」はイヅ=イズです。そう考えれば、伊豆山神社(本社・熱海)→伊豆神社(遠野)の「伊豆」の意味も納得がいきます。瀬織津姫はイツ=イズ=のミタマの神でもあります。
さらに、このイツ=イズは、出雲=イズモ=イヅモにも関連してきます。なぜイズ・モ=イヅ・モなのか、です。
スサノウの八重垣の歌=古事記を根拠とする「出雲」という地名発生潭は、同地の風土記では削除され、「八雲立つ」と詔したのは、国引きの神である八束水臣津野命だと記載しています。しかし、また、「だから八雲立つ出雲という」と、微妙ないいまわしながら出雲の命名者をだれともわからないように曖昧にした表現をとっています。これらも出雲側の小さな抵抗とみることもできましょうか。
出雲国風土記の注の解説で、吉野裕さんは「イヅモはイツメ〔忌ツ女〕に通ずる」としていますが、としますと、このイツメは、厳女=伊豆能女とみることができます。忌み神としてヤマトからみられていたのが瀬織津姫でしたから、この吉野さんの理解「忌ツ女」のすぐ隣に伊豆能女=厳御魂の女神は位置していることになります。
瀬織津姫は出雲の隠された最高の水神でもあるというのはまだ仮説の域を出ていませんが、この場を借りて、その小さな布石のようなメモをさせてもらいました。

101 消えた出雲の橋姫 風琳堂主人 2001/11/13 08:07

宇治市・橋姫神社の由緒書を同社の方からご送付いただきました。橋姫神社の「情報3」またはリンク集「瀬織津姫の部屋」からご覧ください。
瀬織津姫は、宇治川の桜谷の地で、おそらく滝神としてまつられていたものとおもいます。同地に佐久奈度神社ができ、瀬織津姫が大祓の神とされるのは、橋姫神社誕生(646年)からおよそ半世紀あとのことです。当初、桜谷の宇治川の神は瀬織津姫一神だったことをさらに傍証できる貴重な「由緒」といえます。
橋姫神社は、宇治川の水源である琵琶湖の水神を明かす上で、また淀川─鴨川─賀茂川源流の貴船の水神を明かす上で、キーとなる神社です。
ところで、この囲炉裏夜話でもご紹介しましたが、同社から松江大橋(出雲)へ分祀された橋姫=瀬織津姫は、その後どうなったのでしょう。
出雲の現地をさぐりますと、松江の「橋姫」をまつるとする売布(めふ)神社が浮上してきます。しかし同社の祭神表示は、瀬織津姫ではなく、速秋津姫となっています。大祓の神として、瀬織津姫とともに登場する速秋津姫ですが、こういった瀬織津姫隠しには、やはり大きな「意図」を感じざるをえません。あるいは売布神社にかかっている大きな「力」を感じるといってもよいかとおもいます。
出雲の神まつりは全体に陰惨な印象が強いです。封じられた神々の郷が出雲だというのは、記紀─風土記時代から現代まで変わっていないなとあらためて感じています。

102 中臣祓創作の時代 風琳堂主人 2001/11/16 02:15

橋姫神社が創建されたのが646年、中臣金が大祓祝詞を創始したのが669年で、瀬織津姫が大祓いの神とされるまでのこの23年という時間(先回、何をどうまちがえたのか50年という時間計算をしてしまいましたが、訂正します。まったく算術がなっていません)──当時の倭国の社会は、ともかくも新生倭国としてスタートしようとしていたことは、645年の大化のクーデター=蘇我氏惨殺事件のときからすでに決められていた方針でした。
瀬織津姫が宇治橋の橋姫として勧請された背景には、この大化の「改新の詔」(646年1月1日)がありました。
日本書紀は、この「詔」の内容を、「公地公民の制、行政組織と交通制度、戸籍・徴税・班田収授の法、田制などの税制の4箇条を定める」としています。
ここに出てくる「交通制度」の整備の方針のひとつとして、宇治橋の架橋がなされたわけで、瀬織津姫はその橋の守護神としてまつられたのでしょう。
この新生倭国のスタートの牽引者は、中臣鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇)といってよいかとおもいますが、しかし新しい国づくりは順調にはいきませんでした。
瀬織津姫が大祓いの神とされる669年までの23年間という時間をざっとみてみます。
まず、ヤマトの国外については、阿倍比羅夫の東北遠征が658年と659年に記録されているように、全国統一へ向けた武力行使がありますし、ヤマト国内においては、クーデターの年(645年)には、のちの大津皇子謀殺とダブリますが、古人大兄皇子を「謀反の罪」で殺し、また、蘇我氏の生き残りの蘇我倉山田石川麻呂を「叛意」ありとして、これも自殺させたりしています(649年)。つまり、鎌足─天智の支配体制を確立するために、かなり血なまぐさい事件がヤマトの内外に展開されていることがわかります。
そして、新生倭国を決定的に危機の状態に追い込むことになる白村江の戦いの大敗があります(663年)。
この大敗の翌年の664年には、唐による倭国への反攻に備え、対馬・壱岐・筑紫に、初めて防人を置き、また筑紫には水城もつくらせています。天智たちは、西国各地に城を築かせる一方、大和の地には高安城をつくって瀬戸内海からの攻撃に備えると同時に、まるで大和の地から逃げるかのように、都を近江大津宮に遷します。これが667年のことです。
天智は少し落ち着いたのか、遷都の翌年の668年、この近江の地で天皇に即位し、一方、鎌足はこの年、近江令の選定をしています。第二の新生倭国のスタートの意欲の表れといったところでしょうか。
最高の功労臣である中臣鎌足に対して、天智は大海人皇子(のちの天武天皇)を使者として、「大織冠」と「大臣」そして「藤原」という姓を授けるのが669年、つまり、この年に、鎌足の同族の中臣金が瀬織津姫を大祓の神とする祝詞を作成します。
しかしこの669年という年は、鎌足がこの世を去る年でもありました。
大国・唐からの威圧を祓い、また血にまみれた天皇=朝廷権力の穢れと罪を祓い、永遠の存続を願うためにつくられたのが、あの大祓祝詞=中臣祓でした。そんな国家的危難を祓う神は、並の神威をもった神ではその役がよくつとまるものではありませんから、瀬織津姫にその大役を課したということは、逆に、天智─中臣たちにとって、この女神はそれだけの<力>をもった神とみられていたことになります。むろん、瀬織津姫がそれを望んだわけではなかったでしょうが──。
第二の新生倭国は、しかしこのあと、新たな危機を、国外からではなく、国内から受けることになります。それは、あの祝詞が創作された3年後におこる、古代史最大の内戦=壬申の乱です(672年)。
この壬申の乱の勝利者である天武─持統による、第三の新生倭国が、現在の日本の原型国家となります。そして、瀬織津姫は伊勢の地を起点に、長い受難の時代にはいることにもなります。
ところで、阿倍比羅夫の東北遠征がおこなわれていた659年に、書紀の記録を信じればですが、出雲国に官命でつくられたのが熊野大社でした。瀬織津姫が東北へ熊野大神の一神としてやってくるのは718年のことですが、この出雲の熊野大社も当初は、出雲族討伐の祈願神としてだったのかもしれません。あるいは、出雲の最高神を慰撫するためにつくられたとみるべきかもしれません
出雲の熊野大社の所在地が、出雲国意宇郡、つまり出雲国東部だということは、当時、まだ西出雲や島根半島はヤマトの勢力圏外だったということなのでしょう(出雲国造の神賀詞という朝廷への服属表明がなされるのは724年のことで、だいぶ先になります)。
東北の熊野神の名からは、ただひとつの伝承(室根神社の伝承)をのぞいては、瀬織津姫の名はことごとく消されていきます。
瀬織津姫の神威は両刃的な面をもっていますから、その神名を消す理由はヤマト側にはしっかりあったということなのでしょう。しかし、瀬織津姫の水神的性格は、確実に、天孫族の歴史時間の前から流れきたるものです。これは、出雲の古層の時間と共有するものでもあります。
ここで出雲の最高の水神の名をひとつ挙げるとすれば、前にも少しふれましたが、やはり天甕津媛=アマノミカツヒメとなりましょうか。この女神も謎めいていますが、各地の伝承と古事記の伝承を総合しますと、出雲大神の一神であったことが浮かんできます。もしこの女神と瀬織津姫が無理なく重なるようなら、これはちょっと愉快なことになります。

103 ナニワのごりょうはん 風琳堂主人 2001/11/20 03:50

天照大神荒魂を瀬織津姫と同体と明記している神社が、旧淀川の河口(大阪)にあります。御霊(ごりょう)神社といいます。
ナニワの寺田操さんから同社の由緒書をご送付いただきました。お礼申し上げます。関心のある方は、瀬織津姫情報の募集ページの御霊神社のリンクを開いてご覧ください。
御霊神社という社名を知らずともナニワのごりょうさん、ごりょうはんという言葉を聞いたことがあるという人は多いのではないかとおもいます。その「ごりょうさん」がこの御霊神社であったとはびっくりです。
浪速(なにわ)庶民の神が瀬織津姫でもあったとは実にうれしい発見です。天照大神荒魂をまつる廣田神社や伊勢神宮荒祭宮、それに同滝原宮並宮などは瀬織津姫の名を伏せていますが、もうあまり意味はないということです。
この御霊神社の瀬織津姫明記は、それだけでも貴重な証言ですが、しかしこの神社の存在は、また別の意味で貴重です。
といいますのも、ここの神の数ある「御神徳」のなかに「治水」とありますように、淀川の河口で治水をつかさどる神として瀬織津姫がみられているからです。淀川を遡りますと、中流域から宇治川と名を変えます。宇治川の水神=滝神としての瀬織津姫を証言する社に宇治市の橋姫神社や大津市の佐久奈度神社があります。つまり瀬織津姫は、淀川─宇治川の水神=「大いなる井の神」だということです。
この淀川─宇治川に北から流れ込む川が桂川─鴨川・賀茂川です。常識的に考えて、淀川本流の水神が京都にはいると別の水神に変わるということは「変」ですから、この常識的な感覚からだけでも、加茂川の水源の水神=貴船神がどんな神かは暗示して余りあるというべきでしょう。
ちなみに貴船神社本社の現在の祭神名はタカオカミ、奥宮はクラオカミです。貴船神社は、伊勢内宮による祭神変更を強要されたままの伊雑宮と立場がよく似ています。ただし貴船神社の相手方は神宮ではなく、「第二の皇祖神」とされた上賀茂神社です。
鴨の大神は、もともとアジスキタカヒコネという出雲ゆかりの神でもある伝承をもっています。それが京都ではカモタケツヌミ(=熊野のヤタガラス)という神名に変わったりしますが、この鴨大神の一神ともいうべき女神に玉依姫という名があります。玉依姫が淀川から宇治川へ、そして賀茂川を遡上して貴船の地で水神となる、あるいは水神をまつるという伝承は、鴨─賀茂と貴船の強い有縁性を語るものです。また、賀茂川から丹塗り矢が流れてきて玉依姫と交合してカモワケイカヅチが誕生するという伝承を考えますと、賀茂川の上流の地には男神の日神が隠れてまつられている可能性を暗示しているとみることができます。
実際に現場を歩いてみないとわかりませんけど、地図を読みますと、貴船山と鞍馬山はもともとは一対の山ではなかったかという気がしています(このどちらかの山に太陽神の信仰・伝承があれば、丹塗り矢伝承の謎は解けるはずとおもっています)。
下鴨神社の最重要な地に「糺(ただす)の森」がありますが、まさに糺神とみるしかない「糺の弁天さん」としてまつられているのが瀬織津姫です(下鴨神社内の井上社=御手洗社の祭神として)。この糺神は、正邪を糺す神だそうで、としますと、これも厳女=伊豆能女の神とみられます。貴船山の伏流水が神泉として湧き出すのが井上社ですから、ここにも貴船神の投影があるとみてよいでしょう。
ところで、貴船から流れきたる西の賀茂川と、東の大原・八瀬を流れきたる高野川が合流する地にある河合神社(下鴨神社摂社)の祭神は玉依姫だそうで、こういった場所は、奈良の広瀬神社に象徴されますが、各地の神まつりの地の特徴をみても、本来は瀬織津姫がまつられる場所です。
しかし、下鴨神社の意向は、御手洗神=禊祓神=瀬織津姫とし、河合神社の祭神は玉依姫とぼかしています(下鴨神社の「由緒」は本社の玉依姫とは同名異神と苦しい断りをしています)。玉依姫は肝心の神を隠すのに便利な神名です。ちなみに、鴨長明はこの河合神社の神官でもあり、これは「方丈記」は心して読んでみる必要があるということかもしれません。
玉依姫関連で出雲にふれておきますと、出雲大社のある大社町を中心に、(自分のもっている地図帳では)9社の荒神社が集中してまつられています。全部を確かめたわけではありませんけど、出雲大社の至近の地にある荒神社の祭神は玉依姫であることを添えておきます。

104 橋姫神社へお参りした! あかね 2001/11/22 22:59

ご無沙汰して申し訳ございませんm(__)m。
先週の金曜日、橋姫神社へお参りしてきましたよ!!
普段はどんなに分かり易い場所でも迷う、超方向音痴なんですが、方向感覚のしっかりした同行者も社を見落としそうだったにも関らず、私が橋姫さんを見落としませんでした。まるで、招かれたような気がして、嬉しかったです。
橋姫さんは、ちっこいちっこいお社で、まるで押し込められているかのようで、ちょっと悲しい気がしました。

久しぶりに見た宇治川は割合、水量も豊かで、分かれていた川が合流する中州の「橘島」の先あたりでは、結構、激しい流れとなっており、小さい渦も幾つか巻いていて、かなり恐かったです。宇治川上流もすぐ近くです。
古代にはもっと水量が多かったでしょうし、ダムが造られて流れもある程度、緩やかになったのだとは思いますが、それでも、穏やかな川だとは感じられません。
で、宇治川は、瀬織津姫さまに相応しい川だと思いました。同時に姫様は、この辺りから広がる扇状地をまもって
下さる神なのだ、とも感じました。お参りできて嬉しかったです。

105 流浪の女神 風琳堂主人 2001/11/23 05:17

宇治川は暴れ川だった話を聞いた覚えがありますが、あかねさんの印象でもそうなんですね。
宇治川の上流の瀬田川から、その水源である琵琶湖を考えますと、この大湖にはその周囲の山々からたくさんの川が流れ込んでいるのに出口の川は瀬田川ひとつですから、その水量は相当なものなのかもしれません。その暴れ川から橋を守るためにまつられたのが橋姫の神ですから、大化のあとのころには、まだ瀬織津姫は善なる水神とみられていたのかもしれません。
瀬織津姫が淀川─宇治川の川神=水神だということは、その水源の琵琶湖の水神、つまり湖水の神ということでもあります。としますと、播磨国風土記に出てきます、男神=花波の神(風土記は「近江の神」とも記しています)を追って播磨へやってきた女神は「淡海の神」だそうですから、どうやらこの播磨にさすらう女神は瀬織津姫とみてよいのかもしれません。
ところで、このさすらいの淡海の女神が播磨の地で逢瀬を果たせずに亡くなったところは、同風土記によりますと「賀毛の郡」で、しかも「川合の里」だそうです。カモと川合──あまりにカモ的でうなってしまいます。
出雲との関連でこのはぐれ女神の伝承を拾い出してみますと、これまた興味深いことに、例の天甕津媛がそうなんですね。しかも、鴨の玉依姫とも重なりますけど、父なし子を産む伝承さえ共通しています。
山城国出雲郷と丹波・播磨と出雲に関わる流浪の女神に共通しているのは、水神であるということですが、なぜ水の女神はさすらう必要があるのかと考えさせられます。

106 ほんと、そうですね あかね 2001/11/24 19:12

おっしゃる通りです!しかも、この賀毛郡の加古川(支流だったかも)・社町だったかと思いますが、縄文の風習かもしれない、川へ牛を投げ込んで雨乞いする神事があったそうです。うろ覚えなんですが、何の本で読んだのか忘れてしまいました(T_T)。ちなみに、私は小さい頃はこの賀毛郡に住んでおりました。
そして、平安まで東播磨一帯を支配した「播磨鴨国造・山(部)直」は、もともとは武蔵国と同じく、土師氏・出雲系らしいです。書いたかな?山直が勢力を持つ以前から、この地方に先住していた豪族も、どうも同系だったからこそ、山直が協力してもらえて権力を持ったのではないか、とのことです。加西市の「根日女」は、播磨鴨国造山直の娘だった、と推察されていますね。
更に、この山直とは、大阪・堺の出身だという説もあります。加西市北条町(風土記の頃は賀毛郡)にある「住吉神社」は、明治維新までは「酒見社」と呼ばれており、住吉三神と神功の他に、「酒見(さがみ)神」を祀っています。延喜式ではこの神を「坂合」と記し、堺→坂合→酒見と変化し、元来は堺の神様の意ではなかったか、と云われ、猿太彦の龍王舞や、約880年間、鶏合わせ神事も続けられています。

加古川は元来は、「氷の川」と呼ばれ、兵庫県の丹波・氷上町の氷上(ひかみ)は、ここから来ています(加古川奔流上流域)。ひのかみって面白いですね!播磨刀売のトメはミズウマ、水が美味いで、ヒカミ刀売は「崇神記」では「氷香戸辺」と書かれて、出雲の神宝についての神託を伝えた話があるのですよね。
あとは、水夫・水手(かこ)、可児から、加古川と呼ばれるようになったそうです。これは阿智配下の多臣と思われる大海人が、明石魚住辺りに播磨での本拠を置いて、明石川だけでなく、加古川などでも水夫を使って鉱物・船材などの山の幸を運搬したことから来ているようです。そうして佐伯連や、その配下の佐伯直・行基が播磨で活躍するわけですね。無論、少なくとも6C以降は、その運搬に山直も関っています。それから、加古川には確か鹿児・鹿子川説もあったように思います。

それから、風土記の託賀郡賀眉里と、丹波の氷上の峠の一つに、近江坂(大海坂、百済人が来た今鬼坂ともいいます)という坂があります。

甕伝承も、播磨各地にありますよね。甕は、国を象徴するものだったと思いますし、興味深い事です。

神崎郡についてのご質問、今だお答えせずにごめんなさい。既にお調べだったら申し訳ないのですが、後ほど、書かせていただきますね!

107 サクラと瀬織津姫 ピンクのトカゲ 2001/11/25 15:27

新橋駅を降りて、西の方に歩いていくと
桜田公園という小さな小さな公園があります。
そこを抜け、人通りもまばらななった瀬古に日比谷神社が鎮座しています。
新橋に鎮座しているのに何故、日比谷神社か?
同社の由緒によれば、慶長年間に江戸城日比谷門造営に際し、氏子とともに現在地に遷座したとのこと
和名抄によれば、現在の千代田区南部は、荏原郡桜田郷と呼ばれた。
主人が書いた桜谷神社と
大祓の祝詞の「サクナダリ」
その舞台となったのが、佐久奈度神社
佐久奈度と桜田
それに元鹿島はサクラ川
瀬織津姫とサクラは、なんか関係がありそうです。
愛知県内を見てみますと、現在の名古屋市南区星崎あたりを作良郷といったと和名抄に書いてあります。
星崎は、天白川の下流域
星神・カカセオと関係がありそうです。
天河神社がある吉野は、桜の名所
瀬織津姫とサクラが関係があり、後に桜が植えられたのでは
桜の女神といえばコノハナサクヤ姫
富士浅間(センゲン)神社の祭神
伊勢の奥宮・朝熊山の祭神の一つの苔虫神は、サクヤ姫の姉・イワナガ姫の別名
日本を代表する花・桜
庶民に愛された瀬織津姫
いろいろ想像の翼が広がります。

108 加古川の瀬織津姫 風琳堂主人 2001/11/26 02:53

加古川は調べ甲斐のある川かもしれません。
住吉神もサルダヒコも根は一緒の神でしょうから、酒見神をまつる住吉神社に「猿太彦の龍王舞」が伝わっていることはありうることとおもいました。それと山(部)直の出身地が大阪・堺で、しかも土師氏・出雲系となれば、やはり堺の陶荒田神社も関係してきそうですね。
ところで、加古川と杉原川(源流部に青玉神社があります)のまさに<川合>の地に位置しているのが西脇市ですが、未整理の資料をパラパラ見ていたら、ここに瀬織津姫がまつられていることに初めて気がつきました。
社名は皇太神宮社で、瀬織津姫は「配祀」扱いですが、本殿にまつられているようです。所在地は西脇市西脇225-1となっています。地図を見てみますと、モロに<川合>の地を指していますが、なぜか皇太神宮社の名はなく、そこには川下神社の名があるだけで妙だなとおもいました(あかねさん、これもついでのときにたしかめてみていただけるとありがたいです)。出石町には、境内社ですが、この川下神社の名で瀬織津姫を主祭神としてまつっているところが2社ありますから、この西脇市の川下神社も瀬織津姫の可能性がかなりといいますか、99パーセントそうだとおもっています。
まつられた時間の問題はおくとして、加古川と瀬織津姫がやっと結びつきました。そして、この川下神社を左手に、つまり杉原川を北上していきますと、あの「荒田」の地に出ます。播磨国風土記の関係事項を引用します。

荒田とよぶわけは、この処においでになる神は名を道主日女命という。父親がなくて児を生んだ。

この播磨の流浪の女神のダンナは「天目一命」とも風土記は続けているわけですが、その父親の正体の明かし方は、子神が父神を名指すところなど鴨の玉依姫伝承のパターンと一緒です。
この道主日女は導きの神=岐神ともなる宗像の女神ですが、播磨国風土記は別の地名潭で次のように明かしてもいました。

袁布(おう)山というのは、昔、宗形の大神奥津島比売命が伊和大神のみ子をお孕みになり、この山まで来て仰せられた。「我が子を産むべき時ヲウ」と。だから袁布山という。

ダンナ神は「伊和大神」と書かれていますが、これは、流浪の先で「父親がなくて児を生んだ」話でもあります。
出雲の天甕津媛と鴨の玉依姫に、道主日女=奥津島比売と、伝承は色濃く重なってきます。
あかねさんが指摘していました「甕は、国を象徴するもの」はそのとおりで、もう少し細かくいえば、同風土記にも記載がありますけど、国と国との「境界」に関わるものでしょう。この境界神=岐神としての甕の神こそ、宗像の女神であり、天甕津媛とみることができます。

トカゲさんからすばらしい指摘をいただきました。瀬織津姫と桜=サクラの関係です。
瀬織津姫は宇治川の桜谷の神だということは、鳥取の桜谷神社(鳥取市桜谷)の祭神とされていることで明瞭ですが、花のサクラにまで瀬織津姫が関わっている可能性です。
元鹿島の磯部稲村神社(茨城県岩瀬町磯部)を源流部として流れ出す川はたしかに桜川ですし、同社の近くにある桜川公園の名勝の桜は「白山桜」(東北種)だそうです。
磯部稲村神社や桜谷神社のほかに、サクラ地名や社名などから瀬織津姫をまつる社を拾い出してみますと、次のところが散見されます。

109 桜と笠 ピンクのトカゲ 2001/11/26 15:34

和名抄で作良郷(さくらごう)と呼ばれた天白川下流域
星崎に取引先があります。
行きは、名鉄本線鳴海駅(急行停車駅)で下車
そこからタクシー(MKじゃなかった)で天白川を渡り
目的の取引先へ
帰りは、星崎あたりを散策
最寄駅(笠寺、各駅停車しか止まらない)で乗車
星崎と笠寺は隣

東三河新城の名勝・桜淵(新城市字笠岩、豊川流域)
蜂の巣岩に鍾乳洞(縄文遺跡)、それに地名の由来となった笠岩
桜淵の東、ウデコキ山(豊川左岸)
昔、神々が近江の土をすくい、富士山をつくった
そのとき、神様の腕についた土を払ってできたのが、このウデコキ山だと...
琵琶湖から流れ出す淀川流域の瀬織津姫
富士のお山のサクヤ姫

寛文二年(1662)、新城領主・菅沼定実が笠岩一帯に桜を植えさせたことから桜淵の名が起こったとされる。
先にサクラありき
後に桜樹が植えられたのでは、

作良郷の笠寺
桜淵の笠岩
単なる偶然か?
書紀の皇極の葬儀の記載で唐突に現れるのが、大笠の鬼

桜松神社(岩手県安代町)
津方神社(茨城市中郷町下桜井【配祀神】)
池宮神社(静岡県浜岡町佐倉)
桜ヶ峰神社(福岡市中央区桜坂)

コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの姉妹神の伝承は、なかなか文学的で、女神の美醜の問題に矮小化して理解される傾向がありますが、わたしは、これも、禍津日神とそれを正す直日神の分化・分神と同パターンとみたほうがよいだろうとおもっています。
イワナガヒメはなぜ醜女神とされ、また苔虫神などと貶めて表記されるのかは、これも礒良神=イソラエビスに通ずる海神かつ水神の性格ゆえだったとおもいます。イワナガヒメの名は、日神の依代としての岩=磐=イワとナガ=ナーガ=蛇神とみることができるわけで、蛇=龍をきらった<力>が創作時に無意識にあった、働いたとみるべきでしょう。鹿島神が要石で封じている神は龍に象徴される神だということもおもいだされます。
もっとも、その後の神まつりで、コノハナサクヤヒメをまつっているといえば、たいていの氏子の人たちは悪い気はしませんから、祭神隠しの最強力の神がこのコノハナサクヤヒメでもあります。私見では、コノハナサクヤヒメはそっとしておいていいかなとおもっていますけど、もし富士山の謎を解く必要があれば考えを変えることもありえます。
話を桜──桜谷にもどします。
ちょっと大物(?)の神社に関わる地名の話をメモしておきます。
一つは、天照大神荒魂をまつる廣田神社です。同社の現在地は西宮市大社町となっていますが、隣のブロックは神垣町、そしてその隣は、なんと桜谷町です。
もう一つは、下鴨神社奥宮の御蔭神社です。同社は京都市左京区八瀬の地にありますが、この社から比叡山へと向かう途中の谷に関わる地名は尺羅ヶ谷(しゃくらがたに)四明ヶ嶽です。
おしまいに、瀬織津姫と加古川が無縁でないことのさらなる傍証をひとつ──。小野市榊町を流れる川で、加古川へ流れ込む支流が桜川だと地図に載っています(榊町という地名も、あまりに瀬織津姫的です)。
加古川の「別説」に「鹿児・鹿子川」があるとのこと──とても興味深い話です。播磨国風土記には、鹿と女神の話がたしか2・3載っていますけど、これは水田稲作前の焼畑稲作(NHKスペシャル)を語った伝承ではないかという気がしています。その意味で鹿を川名としてもつ伝承は大事だとおもいました。

110 赤衾・青衾・都久夫須磨 ピンクのトカゲ 2001/11/26 18:16

琵琶湖に浮かぶ竹生島
ここに鎮座する神社って都久夫須磨神社でしたよね?
都久夫須磨は、竹生島ってことですよね。
ってなると
出雲の伊怒神社の祭神・赤衾・・・・・・・
は、赤生島・・・・・
名古屋の青衾神社は青生島神社ってことですよね。

111 摩耶山 桜谷 クミコ 2001/11/27 20:55

摩耶山といえば山頂付近にある天上寺が有名です。
女人高谷と呼ばれ本尊は十一面観音と仏母摩耶夫人尊
デ−トコ−スのドライブウェイをはさんで西が桜谷
生田川上流の分かれ道は桜谷出合。
生田川に沿って下ると布引きの滝、雄滝 雌滝があります。
新幹線を潜ればもう神戸の街が広がります。
にぎやかな繁華街のど真中に、生田川の氾濫でここに移されたという
生田神社 稚日女尊。

そういえば、天上寺は西国22番

広田神社、北にはピラミットとも言われている甲山。
麓には神呪寺、西国21番
少し離れて越木岩神社。(甑岩神社)
圧倒される磐座が御神体そこにはイチキシマヒメが小さなお社にまつられています。
そばに流れる川は桜の名所、夙川です。
桜谷町を越えて南に下れば広田神社の南宮、西宮えびす神社。
南宮女神が四神、北向にまつられたいますよ。
そのうち名前調べておきますね!

112 桜は鎮魂の木 風琳堂主人 2001/11/28 02:10

クミコさん、トカゲさん、おもわぬ桜谷の情報をありがとうございます。
生田神社の現在の祭神名も怪しいということになってきましたね。また、摩耶の地には布引きの滝やら女人高野、十一面観音と、空海ゆかりの伝承があるそうで、これは、その桜谷の地名に決定的に表れていますように、どうひいきめにみても、摩耶山一帯は瀬織津姫を隠した地である可能性がとても高くなってきました。この摩耶の地=山には、ひょっとすると空海の前に役行者=役小角の伝承もあるんじゃないでしょうか。廣田神と西宮エビス神はもともと対の神だったかもしれませんし、甲山から六甲山、そして摩耶山は一連の神の山だったとみたほうがよいのかもしれません。
ところで、空海は男神の日神と水神=瀬織津姫を封じる日
本の神祭りのカラクリをよく知っていた行者の一人です。このことは、伊勢内宮の奥の院とされる朝熊山・金剛証寺に、空海が男神・天照大神を感得して一心に手彫りしたとされる雨宝童子像が伝えられていることや、伊豆の瀬織津姫ゆかりの走湯の滝で彼が修行していることからも、たぶんまちがっていないとおもっています(現在の伊豆山神社の前が走湯権現社、走湯大権現で、そのご神体が、この走湯の滝です。江戸時代の絵図には、熱海の断崖の海岸へ落下していた湯滝が描かれています)。

熱田神宮の摂社・青衾神社の祭神は天道日女命で、記紀のニギハヤヒの妻神であるという伝承にあまりこだわらずに考えれば、播磨の道主日女命に通ずる名であることは明らかです。
出雲の伊努(いの)神社(出雲市)の現在の祭神は、出雲国風土記の表記に従えば、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と、よくもまあ名づけたものだとあきれるくらいの神名になっていますけど、ここにはもともと天甕津媛がまつられていたとおもわれます。おそらく、出雲大社の創始と同時に天甕津媛の流浪がはじまります。この流浪の先の遠地が美濃─尾張で、この女神は、現在の花長上神社(岐阜県揖斐郡谷汲村)と阿豆良神社(愛知県一宮市あずら)にまつられています。
尾張国風土記逸文や神社の由緒に、「自分は出雲の阿麻乃彌加都比女だが、今までだれも自分をまつってくれない」という意味深い夢告伝承を確認できます。
「花長」の花がもし桜だとなれば、瀬織津姫と阿麻乃彌加都比女=天甕津媛が無縁でないことがいよいよはっきりしてきますが、まだこれは調べきれていません。
さて、桜と瀬織津姫ということで、おもわぬ展開になってきました。
瀬織津姫の神名封じをした最右翼の天皇が持統女帝です。彼女は、アマテラス創始=創祀による、消した男神・日神と女神・水神を鎮魂するために、宮中で七夕祭を最初に始めた天皇でもあります。
持統の三河行幸を調べに歩いていたときにはあまり突っ込んで考えなかったのですが、ただ、どう考えても物部の神をまつっていると考えるしかないところの神社の祭神がコノハナサクヤヒメとされていて、妙だなとおもったことがありました。この神社=村積神社のある山は村積山=三河富士=花園山(愛知県岡崎市)と呼ばれ、山桜の山だそうです。ここの公民館(!)には、国宝級の観音像が氏子の人によってとても大事にまつられていて、それが十一面観音だったかどうか──うかつにも確認しそこねました。ただ、この三河富士の地には、持統天皇「お手植え」の伝承をもつ桜の大樹があり(氏子の人は3世代めくらいの桜だろうと言っていましたが)、ここも桜の名勝地となっていることは、大事なことだったと今にしておもいます。
持統は、アマテラスという新しい神祭りにあたって、瀬織津姫を日本の神々の歴史・系譜から消すことに対して、おそらく「罪」の意識をもっていた数少ない天皇です。この想像がまちがっていなければ、桜は瀬織津姫封じをおこなうにあたって、持統によって鎮魂の意味をもたせて植えられたことが考えられてきます。
天武&持統ゆかりの吉野に、なぜあれほど気が狂うくらいに桜が植えられているのかを考えますと、持統を発起とする吉野・天河の七夕祭祀や弁天祭祀とともに、鎮魂祭としての桜植樹を想定できそうです。
梅といえば菅原道真ですが、桜といえば西行でしょうか。
京の嵯峨野や奥州平泉、そした伊勢・吉野山・高野山・葛城山と、西行の旅にはたしかに「ものぐるい」の匂いがします。西行が憑かれた「もの」は花=桜に象徴される「もの」でした。西行の絶唱を書き写しておきます。

願はくは花の下にて春死なん
         そのきさらぎのもち月の頃

(追伸)
三河・新城の桜淵とウデコキ山の伝承は、琵琶湖と富士山を関係づけて考えることを示していますね。
富士山の山の土を琵琶湖に放り込んだら、琵琶湖は平地か山野に変わるイメージはすごいです。これは、逆にいいますと、琵琶湖は土をえぐられて湖となり、そのえぐりとった土で富士山ができたということですから、陰陽の発想をしますと、まさに琵琶湖は陰、富士山は陽です。陰が水神=女神であることで瀬織津姫がまたみえてきます。トカゲさんに富士山の神も明かせと誘導されているようです。
白糸の滝の近くの熊野神社(富士宮市)の主祭神が瀬織津姫であることも無縁ではないのかもしれません。それと、富士山の神は現在コノハナサクヤヒメとされていますが、これは中世になってから、この祭神になったもので、当初は富士山は男神の山でした。富士山と琵琶湖を一対とみる三河の伝承とも符合しています。

113 サクラと韓国語 ピンクのトカゲ 2001/11/28 17:11

三修社「韓日辞典」でサクラに関係しそうな言葉を調べますと
sa-geu-ra-ddeu-ri-da(euは、ゥとィの中間音 具体的には、口を横に開いたイ 最後のダは、動詞の終止形 ji-daのdaも同様)
sa-geu-ra-ji-da
sa-geu-rang-i(ng+iは、用言の名詞化語尾)
が出ています。
sa-geu-ra-ddeu-ri-da(他動詞)には、
@錆びさせたり朽ちたりさせてなくならす。
A(怒り・腫れ物などを)なだめる;散らす。
sa-geu-ra-ji-da(自動詞)には、
@錆びたり朽ちたりしてなくなる;朽ち果てる。
A(怒り・腫れ物などが)鎮まる;おさまる。
sa-geu-rang-i(名詞)には、
(錆びつくとか朽ちて)使えないもの
と出ています。
ddeu-ri-da及びji-daは、sa-geu-raの語尾について
それぞれ他動詞、自動詞を形成させ、
ng+iは、用言を名詞化させるわけですから
sa-geu-raには、
@錆びる;朽ちる
A鎮魂する
の意味があることになります。
まさに主人が言うように桜樹は、鎮魂の花なのです。
では、サクラが韓国語地名かというのは、早計です。
記紀及び風土記の一連の編纂過程と密接に関連する
「好字二字令」を考慮する必要があると思います。
また、戦前の創氏改姓(韓国人に日本風の名前を名乗らせた。)においては、
俺は、人間以下の犬並だという皮肉を込め 「徳」の字を氏名に多く用いた例があります。
※徳の韓国音dokから英語のdogを引っ掛けた。
主人がサクヤ姫にすれば、氏子が納得するということ
及び瀬織津姫の抹殺過程を考慮すれば、
サクラにも、この「徳」と同様の心理が働いたことも十分に考えられます。
サクラ(桜樹)が日本語としてどこまで遡れるか
これが過大になると思います。
それはさておき、錆びなどと出てくると、何やら金属との関連も
大阪の豊能郡に桜谷鉱山があります。
多田源氏と関係もあるようです。
となれば、ここからは、「あかねワールド」
あかねさん お願いします。
サヒの神なんかも関連ありそう

114 訂正 ピンクのトカゲ 2001/11/28 17:12

euは、口を横に開いた「ウ」です。

115 空海 クミコ 2001/11/28 19:01

風琳堂御主人様
こんばんわ
ご無沙汰しておりました。

>ひょっとすると空海の前に役行者=役小角の伝承もあるんじゃないでしょうか。

「大化2年(646年)にインドから渡来したと伝えられている伝説的な僧、法道仙人によって開創されたといわれている。」
と言う事らしいです。

>空海は男神の日神と水神=瀬織津姫を封じる日
本の神祭りのカラクリをよく知っていた行者の一人です。

よろしければこのあたり お聞かせください。

神呪寺は開 基 : 如意尼公 (后真井御前)
創 立 : 天長8年(831)
真井御前の幼名は厳子といい、丹後の国一の宮寵神社
の宮司の娘ということらしいですが・・・?

行く先々で出会ってしまう空海の足跡、あるいは真言宗の寺に謎が隠されている気がしてなりません。

よろしくお願いします。

116 空海と瀬織津姫と桜谷 風琳堂主人 2001/11/29 03:44

空海の時代は、比叡山の最澄とともに国家仏教が本格化する時代であり、これは、桓武天皇から嵯峨天皇=嵯峨上皇へと、律令的中央集権の国家づくりを再構築しようという時代でもあります。
何波にもわたる瀬織津姫受難の大きな波のひとつをつくるのが、この桓武─嵯峨時代です。つまり、平安時代の「平安」は、国家と天皇・朝廷にとって「平安」であれとして命名されたわけで、仏教の側面からの協力者の代表が空海たちです。
空海がこういった国家再生のプログラムの中枢に関わっていたことは、たとえば、822年のことですが、「空海に国家鎮護のための息災増益の法を行わせる」といった記録からもわかります。
また、高野山が開かれる前、この地=山がどんな神の地だったかと考えてみてもよいのですが、空海たちの「国家鎮護」の対極に位置している神をどう仏の力で鎮めるかといった課題を歩き始めたのが平安仏教でもあります。
もっとも、日本に仏教が本格的に、つまり意識的に輸入されたのは、たしかに平安の前の奈良の時代でした。この奈良の聖武天皇の時代(出雲の服属表明の神賀詞を受ける天皇が聖武でもあります)に、国分寺の建立やその頂点に東大寺を建てて、まさに仏教による国家鎮護の壮大な試みがなされてもいました。
これは、鑑真という唐の高僧を招いて、仏教による国家鎮護を模索したということでもありました。鑑真は仏教の本道を伝える意向で日本にやってきましたが、しかし、日本は、仏教の大事な戒の思想には関心を示さず、ただ護国的に仏教を奉仕させようとしました。盲目の鑑真の失意は、仏僧ゆえに露骨に語ることはされませんでしたけど、鑑真の処遇はひどいものだったようです。鑑真は、唐招提寺を建てた僧だと教科書などは教えていますけど、実際は、仏教の組織論だけが日本に移されると、あとは用無しで、小さな庵で鑑真は生涯を終えています。そこに建てられたのが、唐招提寺だとのことです(永井路子)。これが事実だとしますと、唐招提寺は、唐への体面をつくろうと同時に、鑑真の怨霊鎮めの寺でもあったことになります。
それはともかく、奈良の仏教勢力の強大化は朝廷の意向を超えたものになり、これをきらったのが桓武天皇の長岡京から平安京への遷都の意味でした。同じ失敗はできないということで登場するのが空海たちです。
こういった平安仏教の最先端を生きることになる空海は、雨乞いの達人でもあり、讃岐の溜池づくりにも象徴されますが、治水の達人でもありました。彼がどんな神に、それこそ「神通」していたかを考えますと、彼が水神=瀬織津姫を知らなかったと考えることのほうがむずかしいくらいです。
平安時代に水神の最高神とみられていたのが、北の貴船と南の丹生の神でした。これらが別々の水神だったかどうかですが、わたしは同神だったとみています。
また、空海と水銀のこともありますが、滝は、たんに修行場だけでなく、鉄や金を探る上でも欠かせない存在でもありました。滝壷を探れ──これが砂金・砂鉄をみつける近道でもありましたから、その山の神=水神の賜物でもある鉱産資源に執着するなら、ここでも瀬織津姫は関わってくることになります。
クミコさん、それにしても、神呪寺とはとんでもない寺名です。この「神呪」を、寺自身はどう説明しているんでしょうね。それと、この前ふれそこねましたけど、ご指摘の廣田神社南宮の四女神──まさか古事記の禍津日神や直日神の四神ではないとおもいますが、わかったらぜひぜひおしえてください。これ、神呪寺の寺名と関わっているかもしれません。

トカゲさん、桜谷鉱山──これまたうなる話です。
桜が鎮魂の木であるだけでなく、まだ明かされていない暗号の木でもあるような気がしてきました。
コノハナサクヤヒメは「金花桜姫」と表記してもおかしくはないということでしょうか。
桜─桜谷の情報あれば、また教えてください。

117 イメ−ジ クミコ 2001/11/29 18:42

少し話しはずれてしまいますが、
今の神道の土台ができたのが持統の時代であれば、
それ以前の神々はどのようにまつられていたのだろうか?
などと考えておりました。
自然崇拝的なアニミズムから今の形式に移る狭間。

出雲大社で柱の痕跡が見つかって、それは11階建てのビルに相当し、それを再現する実験をNHKで見ましたが、それは当時奈良の大仏より大きくて、実際につくることは可能であったという締め括りでしたが…
当時の人々は予想を遥かに越えるすばらしい知恵があったのだと驚いてしまいましたが。

鉱山資源の事にしても今は無きあとの山に登ってみても全然ビジョンが浮かんでこないです。

あと 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という名と瀬織津姫という名のイメ−ジのギャップ
ちょっとやそっとのことでは埋らない。

イメ−ジで話すとピンクのトカゲさんに叱られてしまいますね…

118 そうそう クミコ 2001/11/29 19:25

甲山の西が六甲山ですが、この前の地震で古代文字の刻まれた石が発見されています。
そしてその西がカタカムナ文字で有名な保久良山、麓には保久良神社 椎根津彦(珍彦 国津神)がまつられています。

広田神社の南宮は、今の西宮えびす神社より前にあったもので、当時かなり有名であったと書いてあったと思いましたがましたが、また行ってみますね。

119 そんなことないよ ピンクのトカゲ 2001/11/29 20:03

サクラと瀬織津姫なんて
最初は、イメージというより
語路合せに近かったんだから
持統前の神祭興味津々
それと大化の改新により焼失した天皇紀
これなんかも、すごく興味あります。
こういうの推理するときは、やっぱりイメージ。
最近、記紀における天地創造神とアマテラス&天孫・ニニギの不整合気がつきました。
易姓革命回避のために景教あたりから創造神(クリエーター)の概念取り入れたと思うんだけど
無理があって不整合が出た。

感性乏しくてイメージ沸かなくててこずってるけど
そのうち、穂国に追加します。
それと、サクラ&桜谷情報
週末に収集してきます。
乞うご期待
怨霊鎮め、伊勢大神、アサマなんていうのごろごろ出てきそうな予感です。
最近、ちょっと感性磨かれたトカゲです。

120 サクラの語源 風琳堂主人 2001/11/30 03:37

古代の人たちの想像力は、現代人のわたしたちとくらべ、そのスケールの桁が大きくちがっていたのかもしれません。
出雲国風土記の国引きの話にしてもそうですし、出雲大社の大きさもそうです。それと、先回の琵琶湖と富士山の関係にしても、えっという感じで、虚を突かれたおもいでした。
琵琶湖と富士山は350キロくらい離れているとおもいますけど、車も新幹線もない時代に、そんな異界に近い距離(これが現代人的な決めつけかも)の感覚を超えて、琵琶湖の凹は富士山の凸だというんですから、まったく脱帽です。
ところで、この琵琶湖のまわりの地名を地図で探っていたら、ここにも桜谷─サクラで瀬織津姫が関係している社がありましたので追加しておきます。
社名は賀川神社で瀬織津姫が主祭神です(滋賀県蒲生郡日野町安部居)。この神社のそばを流れる川の名は「佐久良川」といって日野川の支流となります(日野川が琵琶湖に流れ込む北には沖島があり、ここに竹生島の謎を解くきっかけとなるだろう奥津島神社がまつられています)。
この賀川神社を囲むように、ここにも桜谷の名称が散見されます。たとえば、桜谷小学校、郵便局の東&西桜谷局、そして佐久良川にかかる橋の名は桜谷大橋です。
琵琶湖=淡海の水神である瀬織津姫を考えれば、この女神が湖水に流れ込む川の水神でもあることは不思議ではないのですが、それにしても、ここにもサクラ川─桜谷です。
トカゲさんのおかげで、桜が鎮魂の木だろうという仮説はより強固になりましたけど、これは辞書には載っていない話です。
ただ、こうまでサクラと瀬織津姫が関係してきますと、やはりサクラの語源が気になってきます。
というわけで、辞書にそれをさぐってみますと、10数個の語源説がありますが、そのなかで、この囲炉裏夜話の話に関わりそうな説を二つみつけましたので引用しておきます。
ひとつは、すでに話題にもなっていますけど、コノハナサクヤヒメを語源とする説がやはりありました。

桜の霊である此花サクヤ(咲耶・開耶)姫から、サクヤの転(和訓栞ほか)。

もうひとつは、桜井満さんが『万葉集東歌研究』で提出している説です。

サはサカミ(田神)のサで、穀霊の意。クラは神の憑りつく所の意のクラ(座)で、サクラは穀霊の憑りつく神座の意。桜に限らなかった。

ここに出てきます「穀霊」とは、まさに稲作の日神でしょうから、それの依代としてのクラ=座をサクラとみるという理解はなかなか興味深いです。ただサカミ=田神というのは初耳で、そうなのかとひとまず受けとっておくことにします。
あとの10いくつの説は下手な語呂合わせが多くて、あまり紹介しても仕方がないかとおもって省略します。
なるべく白紙の状態で、サクラ─桜谷の地名説話に耳を傾けてみたいです。

ところでトカゲさん、「易姓革命回避のために景教あたりから創造神(クリエーター)の概念取り入れた」とある「易姓革命」と「景教」について、わたしにもわかるように基礎レッスンをしていただけるとありがたです。
自分は、昼の顔は編集者でもありますので、自分がはっきりしないことは、きっと読者もそうにちがいないと考えるクセがあって、不勉強で呆れられるかもしれませんけど、あえてお願いします。論理構成していくときに、用語の概念がはっきりしませんと、せっかくの論理展開の面白さも半減するおそれがあります。学者専門家は、ここへは(たぶん)寄ってこないとおもいますので、明快な解説を囲炉裏の読者の一人としてお願いします。
それと、サクラ&桜谷情報も楽しみにしています。

121 易姓革命と景教 ピンクのトカゲ 2001/11/30 18:15

易姓革命の易姓とは、統治者の姓が易(かわ)ることを、革命とは、天命が革(あらた)まることをいい、総じて、王が不徳であれば、別の有徳者が代わって、王位に就くのが天命であるという儒教に基づく王朝交代思想をいう。
一方、景教とは、キリスト教ネストリオス派の中国での呼称で、唐代に中国に伝わり、一時は隆盛を極めた。
紀元前三世紀に始皇帝が中国を統一したもののその後、二世紀には、三国時代に突入する。日本では、卑弥呼の時代である。
その後、三国時代から南北朝時代へと続く長い戦乱の時代を制するのが、隋の文帝(楊堅)である。五八九年のことである。
五八七年、蘇我氏が物部守屋を滅ぼし、五九三年には、初の女帝推古が即位し、聖徳大使が摂政に就く。六〇〇年には、隋に遣いを送る。
楊堅が創てた隋も、その子・楊廣(諡号・煬帝=ようだい)の高句麗遠征の失敗を素に、国力は衰退し、やがて部下の手にかかり殺される。
煬帝が殺されるとともに隋も滅びる。文帝が中国を統一し、煬帝が殺され、隋が滅びるまで僅か三〇年である。
代わって李淵(太宗)が、唐王朝を興す。
高句麗遠征の失敗=煬帝の不徳
別の有徳者=李淵が王位に就く。
楊氏(隋)から李(唐)
これが、冒頭で説明した易姓革命。
物部守屋を滅ぼした蘇我氏をはじめ、推古、聖徳太子は、どのような思いで隋の滅亡(易姓革命)を眺めていただろうか?
隋書には、「倭国王姓阿毎」なる記載がある。「阿毎(アメ)」が、天皇の姓か否かは、別として、物部、蘇我が、姓を持っていて、天皇(統治者)に姓がないというのは、洋の東西を問わず、特異なものである。
隋の滅亡を目の当たりにし、易姓革命からの回避を真剣に考えたことは想像に難くない。
姓を捨てれば、易姓革命から回避できる。そう考え、姓を捨てたのであろう。
また、それだけでは、十分でないと考え、過去にも易姓革命は起きなかったことの証明として万世一系を創造したのであろう。
隋が滅びた二年後の推古二八年(六二〇)には、乙巳の変(六四五年、このクーデターにより大化の改新の詔が発せられる。)で焼失する天皇記はじめ国記唐が定められる。
当然、天皇記には、万世一系の思想が反映されていただろう。

次に景教に目を移す。
聖徳太子(一種の諡号)の幼名は、厩戸皇子といわれる。聖徳太子自身が、実際に厩戸皇子と呼ばれたか否かはともかく、この命名逸話は、聖母マリアが厩でキリストを生んだとする逸話を容易に連想させる。
この逸話から唐代に中国に伝来した景教が、日本にも伝わっていた事が想像される。
キリスト教をはじめとする中東に生まれた一神教は、創造主・クリエーターとの契約が教義上もっとも重要となる。
一四世紀イギリスにはじまる「法の支配」も、たとえ、王であっても、法=神(クリエーター)との契約に基づく「法」に従わなければならないというものであり、クリエーターとの契約に基づくものである。
日本神話では、伊邪那岐、伊邪那美が、大八州を生んだとされ、この二神は、クリエーター的神格を有する。
皇祖神は、このクリエーターの直系の子孫であるということにし、易姓革命からの回避及び万世一系の担保を図ったと考えられる。
もっとも、皇祖神・アマテラスは、伊邪那岐、伊邪那美の二神の子でなく、伊邪那岐の禊により生まれたという点及びクリエーターとは、何のゆかりもない大国主が大八州を統めており、国譲りにより、天孫・ニニギが統治者となった点については、疑問が残されるが、男神・アマテルノオオカミを女神・アマテラスに変更する家庭を絡め、おいおい書くつもりでいる。

サクラ&桜谷情報については、週末に調べるつもりだが、
鎮魂については、日本史上、最大の怨霊・崇道上皇の陵が桜塚ということで、ほぼ断定できると思う。
また、クミコさんが指摘した天上寺の仏母・摩耶夫人と関連があると思われる資料が神奈備さんの日前さんとも関係の深い伊太祈曽にありました。
http://www.kamnavinet/itakiso/seibo.htm
さらに、この伊太祈曽と桜谷とが結びつく資料もありました。
http://www.kamnavinet/itakiso/history.htm

122 日本書紀の鉄の編集思想 風琳堂主人 2001/12/01 02:40

易姓革命と景教──たいへんわかりやすく解説していただきました。
記紀のできる前に「万世一系」の思想がすでに倭国に胚胎していたのではないかという可能性をさぐるお話かと受け取りました。
不徳の統治者は天命によって廃位もありうるという思想=易姓革命の思想を、倭国の支配層は巧妙に排除したのではないかという視点はとても興味深いものです。
トカゲさんの想像では、日本書紀が記載する、620年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとする「天皇記及国記、臣連伴造国造百八十部並公民等本記」の記述を信用されてのことかと受け取りました。この620年のときにつくられたとされる「天皇記及国記」がその後どうなったかといいますと、これも書紀の記述によりますが、乙巳=大化のクーデターのときに、蘇我蝦夷が自害するときに焼かれ、しかし、船恵尺なる者が「国記」だけは火中からかろうじてもちだしたことになっています(つまり「天皇記」は焼けてしまって無いんだということを暗に述べています)。
これらの書紀の記述を、実は、わたしは話半分以下しか信用していなくて、これらは書紀編纂時点の創作あるいは方便の記述ではないかというおもいのほうが実は強いのです。
なぜそうおもうかといいますと、古事記(712年)の最後に置かれている推古女帝の記述に、彼女は37年間倭国を統治したことを記録していますが、書紀によって常識化、一般化された推古の摂政としての聖徳太子の存在の記述=記録を、古事記はただの一行もしていないことが不可思議なのです。
つまり、聖徳太子は日本書紀だけに登場している、あるいはさせられている意味はなにかということが気になっています。天皇の「摂政」といえば実質的な政治権力の頂点に立つ人間です。それを削除して、推古の統治期間だけを37年間(決して短い時間ではありません)とのみ記した古事記の記述は、あまりに聖徳太子を美化する日本書紀の記述とは露骨に対照的です。
聖徳=厩戸をキリスト誕生と結びつける発想のルーツは景教(キリスト教)だとみるのはそのとおりだなとおもいました。ただ、景教が唐に伝わるのは635年で、620年に聖徳・馬子たちが「天皇記及国記」の編纂をしたとしますと、この時点では、倭国は景教を知らなかったことになります。
トカゲさんが、「易姓革命回避のために景教あたりから創造神(クリエーター)の概念取り入れた」と喝破されたのは、わたしは蘇我時代ではなく、やはり日本書紀編纂時点じゃなかったかという気がしています。
「易姓革命」を回避するために、天皇から「姓」を消去し「万世一系」を仮構したのは、やはり大化のクーデター以後かなともおもいますが、どうなんでしょうね。
たとえ不徳の天皇でも、倭国統治の権力を永遠に(万世にわたって)もつことを正当化する必要があった──そんな権力交代の時期を考えますと、書紀が記す「天皇記」等の編纂(620年)以後、少なくとも2回ありました。ひとつは、いうまでもなく645年=乙巳=大化の乱のときです。そしてもうひとつは、明治時代の「大逆事件」とも重なりますけど、近江朝へのまさに「大逆事件」ともいうべき壬申の乱のときです(672年)。
大化の乱のあと、中大兄=天智は、国史=天皇史編纂の試みをしたのかどうか記録がありませんが、少なくとも、669年に瀬織津姫を大祓の神とすることをしていて、天皇(=天智以後)による統治を正当化する倭国イメージはできつつあったのかもしれません(中臣鎌足や金の存在=知恵があるにしてもです)。
それと、壬申の乱は、実質的には「易姓革命」でもあったのではないでしょうか。しかし天武=持統たちは、自分たちの乱を「易姓革命」とはいわなかった。彼らはその代わりに、近江朝を滅ぼした自分たち以後が「万世一系」たることを構想した──その未来への願望が、過去を創作する、つまり過去からの「万世一系」の構想を呼び込んだのではないかという気がしています。それが記紀編纂の意図だったのではないでしょうか。この構想の補強に「景教」によるキリスト=厩戸も創作付加されたのではという気もするのですが──。
ちなみに、唐が儒教思想を重視するのと関係がありそうかなとおもえることに、628年に、「長安に孔子廟を再建する」ということがあります。
倭国が唐を媒介として支配思想を構築していったとしますと、倭国に儒教思想が導入されるのも、これも、書紀が記す聖徳&蘇我の「天皇記」などの編纂時点(620年)の<あと>という可能性もあるんじゃないかとおもいました。
わたしのはにわか勉強で、あまり自信ありませんけど、日本書紀の編纂・編集思想の陰気な鉄の意志がずっと気になっていて、この鉄の書紀編集思想は、天皇記は蘇我のせいで焼けたので、日本書紀に多少の不備はあっても仕方がないんだという逃げ道を用意しているようにみえるのですが、読み過ぎでしょうか。
できのよくない学生の一夜漬けの勉強みたいな意見です。

123 サクラ&桜谷小報 ピンクのトカゲ 2001/12/01 14:20

サクラ&桜谷地名調べはじめて、
正直これほどあるのかというのが感想です。
中には、、どう見ても最近つけられたと思われるものもありますが、
地名辞典、地図帳どこから手をつけていいのやら
調べはじめて感じたことは、
サクラ地名が谷合に多く
近くに滝山、轟など滝を連想させる地名が並んでる事それに観音堂
地図帳を広げれば、ここに名もない滝があり、ひっそりと滝の女神さまが祀られているのではとイメージが膨らみます。
さて、小字まで含めれば、膨大な量になるサクラ&桜谷地名
これを全部紹介すれば、一冊の本ができるくらいです。
そこで、冨山房の「大日本地名辞典」を基に「サクラ&桜谷情報」ならぬ「サクラ&桜谷小報」をお届けします。

じゃんじゃじゃ〜ん
まずは、女神の本の読者ならおなじみの伊勢の奥宮・朝熊山
現在苔虫神となっているのは、元は、コノハナサクヤヒメだったようです。
そして、鎮座地は、朝熊町桜木
朝熊神社の別名が桜宮
伊勢大神関係では、
攝津国東成郡(大阪市都島区中野町)に鎮座する桜宮は、伊勢大神の由緒地
そして、尾張国中嶋郡桜木(稲沢市)は、天照大神を移し祀るとの伝承があるそうです。
つぎに主人が、こないだ書いた鹿島さん
大宮司の館が桜山、吉備神社の神山も桜山
ナガ~>゜)〜〜〜ガラミでは、
常陸の国新治郡東那珂磯辺の桜川に、徳島は阿波の国の那賀郡上那賀町に桜谷
火明命ガラミじゃ
弥彦神社のある弥彦村弥彦は、越後国蒲原郡桜井郷
極めつけは、琵琶湖から流れ出す淀川にも絡む
筑前国糸島郡桜井(福岡県糸島郡志摩町)に鎮座する桜井神社の通称は、与止比売宮
祭神は、神直日神、大直日神、八十禍津日神、八百万神
元は、通称名が示すようにヨドヒメさま
しつこく笠とサクラ
池宮神社が鎮座する静岡県浜岡町佐倉の郡名は、小笠郡
和名抄の尾張国作良郷の笠寺
笠寺観音・笠覆寺は、十一面観音
相模国三浦郡桜山(逗子市)に鎮座する守殿神社なんかも気になります。
三河一宮・砥鹿神社の奥宮の末社に守見殿神社(祭神・大己貴神和魂)
これと対で祭られているのが、荒羽々気神社(祭神・大己貴荒魂)

主人、「易姓革命と景教」フォローありがとう。
蘇我氏滅亡とともに焼失されたとする天皇記
蘇我氏の遠祖が、竹内宿祢
その竹内宿祢、古事記考元条は、彦太忍信と紀国造の祖・宇豆彦の妹・山下影姫の子と記載。
一方、書紀景行三年二月条は、景行と紀直の遠祖・菟道彦の娘・影姫の間の子と記載。
さらに、不思議なのが、書紀成務条は、竹内宿祢と成務が同日に生まれたと双子を思わせる記載。
中国の史書の中には、天皇の姓を編めとするほか、天皇の姓は、「姫氏」とするものも
これも万世一系が虚構の証拠
とともに姫→紀とも考えられる。
このあたりに天皇記を明かす鍵があるのでは

124 朝熊神社の記憶 風琳堂主人 2001/12/02 20:29

山峡(やまがい)に咲ける佐久良をただひと目君に見せてば何をか思はむ
                      (『万葉集』17─3967)

作者は大友池主です。
ここに出てくる「君」をだれとみるかで、この歌の意はずいぶんと変わってきます。
つまり、「君」が恋の対象者ではなく、君=天皇とみますと、大友池主はかなり大胆な歌を詠んだことになります。

サクラ─桜谷の地名は予想以上に各地にあるようですね。
朝熊神社の別名が「桜宮」、鎮座地が「朝熊町桜木」──ですか(ここで、溜息の気分です)。
朝熊神社は正確には、朝熊神社・同御前神社という一対の神まつりをしているわけですが、わたしはこの神まつりの仕方を具体的に確認するために、名古屋から伊勢まで車を一気に飛ばしたことをおもいだしました。
内宮の元宮である荒祭宮にはもともと一対の社が建っていたのですが、その確証をより強固にするためにも、内宮=皇大神宮の奥の院=奥宮とよばれる朝熊神社に、同じ痕跡を確認できれば、と考えたのです。
ただし、朝熊神社は、現在、里宮しか残っていません。朝熊山のホンモノの奥の院は明治時代に火事で焼け、現在は八大龍王社とされています。しかし、これも考えてみれば妙なことです。なぜなら、神宮側の資料には、朝熊神社は「皇太神の崇重の社」とあり、もしそれだけ重要な社なら、たとえ火事で焼けようと再建するべきで、あろうことか八大龍王社と名を勝手に変えて再建するとは「皇太神」に対して無礼もはなはだしい、ということになります。
それはともかく、神宮側の資料では、朝熊神社・同御前神社の現在の祭神は大歳神・朝熊水神・苔虫神の三神とされ、二社に対して三神とは妙だなとおもっていましたので、実際この眼で確かめる必要があったのです。
現場は案の定(!)、ペアの神祭りで、これを確認したときは、これで瀬織津姫の伊勢における処遇の実態および式年遷宮の意味と意図も解けたなとおもい、少し体に震えがきたことを今でもおぼえています。
本来の一対の神名を変え、さらにまだそれでも不安で、二神を三神化して、対なる神祭りを徹底的に曖昧化しようとしたわけですが、現場はまぎれもなく雛壇形式の一対の神祭りをそのままにしていました。
荒祭宮と伊雑宮の一方の社を撤去したように、神宮側は、やるなら徹底的に、朝熊神社・同御前神社も、そして滝原宮・同並宮も、一方の社を撤去しておくべきでした。むろん、天武がそうであったように、祟り→死の覚悟があればのことですが、そこまではさすがにやりきれなかったということなのでしょう。
それと、トカゲさんの情報では、現在の祭神の名の一つとされる苔虫神(=イワナガヒメ)は、かつてはコノハナサクヤヒメだったそうですね。としますと、これはいつ、苔虫神に変えられたんでしょう。新しい時代のことのような気がしますが、これがわかるだけでも、日本の神まつりの真の姿がみえてくるような気がします。もう陰気な神隠しはやめよとあらためていいたいです。
サクラ─桜谷──徹底的に洗い出してみましょう。トカゲさん、「一冊」になったっていいじゃないですか。

125 廣田神社 南宮 クミコ 2001/12/03 21:19

さっそく昨日行ってきました
祭神
豊玉姫神 市杵島姫神 大山咋神 葉山姫神 ということでした。
大山咋神はお酒の神、女神ではないのですね
でも天知迦流美豆比売の子でしたっけ?

今回お参りして初めて気付いたのが、向かって左側の狛犬、子連れなんです。
また、南宮の末社に 幼児の健康を守る児社 児の尊が祭ってありました。

その後気になったので廣田神社にも末社みに行きました。

末社 斎殿神社 御祭神 葉山媛命
荒魂を廣田の国に鎮祭された最初の斎宮だそうです。
石で出来たお社の 伊和志豆神社
ここがねぇ延喜式内社なのにいろいろあるみたいで…
後 気になったのは松尾神社…

廣田神社のご宝物に「如意珠」があるんです。
「竜女の神珠」と由緒書きに写真入で載っています。

風琳堂御主人
武庫川は丹波まで繋がっていたはずです。
武庫川の桜もまた美しいです。

126 新種ウイルスにご注意を MS 2001/12/04 00:35

この掲示板には不似合いなメッセージで座をしらけさせてしまうかもしれませんが、新種ウイルスについて説明させていただきます。
この新種ウイルス「トロイの木馬型」と呼ばれるもので、パソコンのシステムを破壊するものではありません。しかし、メールソフトを開いてこのウイルスに感染したメールを開くと、メールソフトのアドレス帳に登録されているアドレスへ自身のコピーを送りつける。といった悪さをします。現在全国的に流行している模様です。
対処方法としては、インターネットエクスプローラVer.6をインストールする。
スタート→検索→ファイルやフォルダから名前欄に「whatever*」と入力して検索開始ボタンを押す。そして、表示されたファイルを削除する。ごみ箱を開いて削除したファイルをごみ箱から削除する。
これで対処出来ると思います。
詳しくは、インターネット上で詳細な情報が流れておりますので参考にしてください。もしくは、私まで電話ください。TEL 0574-25-3368(サコウ)

127 竜女の神珠 風琳堂主人 2001/12/04 03:49

MSさん、貴重なアドバイスをありがとうございました。
ウィルス被害はおもわぬところからやってくることをわたしも経験しました。知人からの名で、しかも添付ファイルで、なんだろうとおもって開くと、どうも気づかぬうちに感染してしまうらしいです。
MSさんのウィルス検索→削除をわたしもしてみました。この「whatever」はほんとうに最近よく送られてきますね。
それと、深刻なのが、オンライン状態のときマウスがまったく効かなくなるという新手のウィルスもあるようです。
これには、さきほどトカゲさんから、新しい駆除ソフトをいただき、実践したところ、あっというまに直ってびっくりしているところです。そのおかげで、ここへの書き込みができるようになりました。同じような症状がある方は、この駆除ソフトをお送りしますのでおっしゃってください。

クミコさん、廣田神社南宮の四神ほかの情報をありがとうございました。
これらの四神は北向きだそうですが、その四神がおっしゃるとおりの神だとしますと、この配置と神の関係がまったく不可思議な取り合わせで、この無茶苦茶はなんだろうというのが正直な感想です。かつてみたことがない神の組み合わせで、なぜこれらの神はここに、しかも北向きにまつられたのか、まずは神社側の説明を聞きたいといった衝動が湧いてきますね。
あと、伊和志豆神社の存在も大事なはずですが、これも現在の段階では憶測を述べても意味がありませんから保留にさせてください。
お話でふうんとおもったのが、廣田神社宝物とされる「如意珠」=「竜女の神珠」です。おそらく潮の満ち干を如意=自在とする「珠」かとおもいます。宗像の例の「青玉」とも関係があるはずですが、それを系統立てて語るには、まだ判断する資料が不足していますので、これも宿題かなとおもっています。
謎解きの宿題がいっぺんに増えましたが、この廣田神社の東を流れる武庫川が丹波から流れてくる川だということもとても気になるところです。わたしの地図帳では、武庫川の源流部は丹波の篠山川の分流のように描いてあります。そして篠山川は加古川の支流でもあります。
廣田神社の「竜女の神珠」と丹波、そして天長8年(831)創建とされる神呪寺の存在──この寺の開基とされる如意尼公(后真井御前)は丹後の国一の宮寵神社の宮司の娘でしたよね。
もし「珠」の関連で廣田神社と籠神社とが結びつくとしたら、なにがみえてくるでしょう。
まず、同じ丹後国の宇良神社=浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)の社宝とされる潮満珠・潮干珠に象徴されますが、また、宗像大神が奥津宮に納めまつったとされる青玉と、中津宮に納めまつったとされる紫玉(「防人日記」)もそうでしたが、これらは本来一対の関係にある珠であったことを確認しておきます。
それが、廣田神社には一つしかない──。
同じことが、実は丹波国の粟鹿神社(兵庫県朝来郡山東町)にもいえ、ここにはなぜか潮干珠一個だけが社宝とされています。粟鹿神社と籠神社奥宮の真名井神社は同体ともされ、ひょっとすると真名井神社の社宝に、一方の潮満珠があるのかなともおもっていましたので、神呪寺と籠神社の濃厚な関係を考えますと、もし真名井神社に潮満珠が「ない」としますと、この潮満珠こそ廣田神社の「竜女の神珠」である可能性があります。
自分の眼と足で確認していませんから、まだ仮説以前の段階の話です。
ただ、丹後半島と瀬織津姫の関連で添えておけば、境内社の祭神レベルまで拾っていきますと、瀬織津姫はなぜか、丹後半島に6社(以上)が集中してまつられています。
これも実際に現場を歩いてみないといけませんけど、丹後国の籠神社は元伊勢とも自認し、また神宮側もそれを認めていますので、この地がただならぬところであることだけはまちがいありません。
粟鹿神社には、潮干珠という珠の一方しか社宝にないこと。では、もう一方の潮満珠はどこにあるのか──現在提出できそうな疑問点だけを記しておきます。それと、宗像の中津宮にも「天の真名井」があることを添えておきます。

128 女帝と瀬織津姫 ピンクのトカゲ 2001/12/04 08:05

皇太子に女子が生まれ、皇室典範を改正し、女帝を復活させるとの議論がささやかれはじめました。
持統―元明という女帝の時代(斉明頃からはじまってはいてが)に封印された瀬織津姫
この女帝復活の議論の再熱をどのような思いで見つめていたであろうか?
今夏の小泉の靖国発言
その後、8月21日は、広瀬神社の大忌祭
この日、日本列島を襲った台風11号は、奇しくも、瀬織津姫の北上コース。
この掲示板では、瀬織津姫台風として命名された。
そして、今回の地震、
主人によれば、震源は、早池峰付近だそうだ。
女帝復活に異を唱えた瀬織津姫の怒りでは、
この掲示板に呼応してくれてたのか?
封印が解かれ瀬織津姫復活の日が間近なのか
この国本来の八百万の神祭りに戻る時期も近いのでは

129 瀬織津姫のクシャミ 風琳堂主人 2001/12/05 02:43

2日夜の地震は、遠野においてもそうでしたが、わたしがこれまで経験した地震の規模としては最大だったかなとおもいました。
さいわい震度4〜5弱にしてはさほど被害がなかったようで、わたしのところの事務所にしても、椅子の後ろの本棚の上に飾ってあった南部鉄瓶やら、龍の里とか独眼竜正宗などのカラの酒瓶、ほかに本棚の資料・本とか、コピー機の上の作業中の校正ゲラなどが、たてつづけに落下・散乱するといった程度でしたから、大きく揺れはしましたが恐怖を感じることはありませんでした。ただ、散乱の片付けに多少手間取ったのと、酒瓶が肩にあたってまだ痛みが残っているくらいです。
地震のあとテレビのNHKのニュースを見ましたら、震源地は宮城県北部と報道していて、そうかとおもったのですが、しかし画面に出た震源地のマークは宮城県ではなく岩手県南部に印されていて、NHKの校正力もいいかげんだなとはそのときおもったのでした。
そして少しあとの、地元=岩手のテレビ局による地震報道を観ていましたら、震源地のマーク(×印)が、遠野の隣町といいますか、早池峰山西麓の大迫(おおはさま)町あたりに印された地図が画面に映し出されていて、あれ宮城県ではないのかと、あらためてNHKのずさんな報道を知ることになりました。同じ震度の地震が東京あたりで起こっていたとしたら、おそらく報道の姿勢はこんなふうにならなかったはずでしょう。きっと、もっと緊張した報道になっていたはずだとおもいます。あらためて<東北>という地方の、日本における位置づけに想いをめぐらしたのでした(翌日の報道は見ていませんので、NHKの「その後」は確かめていないことをお断りしておきます)。
「もう陰気な神隠しはいいかげんにせよ」と書いて、囲炉裏夜話へ送信したあとのこの地震でしたから、トカゲさんではありませんけど、これは瀬織津姫からのメッセージかなと、一瞬ですが、頭を横切ったのは事実でした。
天武記(日本書紀)は、瀬織津姫の「神隠し」を指示したあとの、まさにタイムリーというしかない地震は、歴史的にも特記すべき最大級の地震だったことをよく伝えています。天武は大地震にはじまる天変地異→病→遷宮指示(荒祭宮の真南のアマテラスの新社殿を東へ遷す)をしますが、けっきょく死を迎えることになります。
天武は、これらの天変地異を、瀬織津姫の「祟り」と感じたままこの世から消えていったにちがいありません。それを天武のもっとも身近で、これ以上なく知っていたのが、天武の妻であった持統女帝でした。彼女が瀬織津姫への鎮魂の行為として桜を植えたのではないかと考えるには、こうした仮定と理由があるのです。
この天武晩年の途方もない大地震を考えますと、今回の地震は、(もしそうだとしてですが)瀬織津姫がかわいいクシャミをした程度のものでしょう。早池峰山も半ば以上が白くなってきました。遠野の雪は、まだすぐに溶けるていどで、これからが本番、です。ただ朝方などは、しっかり(?)寒くなってきました。

130 敷島の桜 ピンクのトカゲ 2001/12/05 16:49

サクラ地名リスト主人に送りました。
全国的なことは主人に任せ
東三河・穂国との関連で

三河の嵐山といわれる桜淵
見落としてましたが、隣の字名は、滝之上でした。
さらに、富士と琵琶湖を関係させる伝承を持つウデコキ山
ここに神変大菩薩なるお堂がある。
桜淵に桜樹を植えたのは、菅沼定実
拙稿・穂国幻史考の第二話を考慮すれば、
富永氏鎮魂の桜樹とも

三河一宮・砥鹿神社の奥宮・本宮山の北麓の作手村
滝下、滝本など多くの滝に関する地名が点在する。
それに混じって桜入なども見える。

さらに、そこから額田町に目を移すと
桜井寺。
山号は、花園山又は日輪山
高野山平等院の末刹
寺の北境に泉があり、空海がこの泉の脇に桜樹を植えたことから
桜井寺と呼ばれたと寺伝にある。
男川のミナモト
その流れのすぐ下には、白山神社

 散ればうかひ
  ちらねば花の
   かげさして
    いつもたつせぬ
     桜井の水

空海がこの泉を詠んだ和歌といわれる。

山号・日輪山桜井寺
桜と日輪
それに空海
やはり空海は、知っていたのでは

女神の本の読者なら
瀬織津姫=大禍津日を喝破したのは、
本居宣長は、周知の事実。

宣長は、遺言で自分の墓及び自分の祭り方について
事細かに指示を出してます。
特に墓については、墓石の裏には、山桜を植えろと
諡号は、秋津彦美豆桜根大人
祥月命日には、桜の笏に、この諡号を書き

 敷島の
  大和こころを
   人問わば
    朝日に匂ふ
     山桜花

の和歌が書かれた肖像を飾れと

宣長は、この遺言を書いて翌年死去するまで
二百首もの桜の和歌を書いたと

131 Re:復活と船出に祝杯 山田明子 2001/12/05 23:42

> あかねさんの復活=ルネサンスと、トカゲさんのHPの船出と、今日はちょっといい日です。
> 加古川の支流の杉原川の荒田の神は、風土記によりますと、道主日売ですから、これで、加古川の女神は輪郭がはっきりしてきました。
> あと、播磨で気になる女神は賛用都比売と出雲大神御蔭神です。
> ここからは言霊的なセンスと直感の話ですが、セオリツヒメ←→サヨウツヒメの音の転生変化もあるかとおもっています。それと、この音のセンスを拡大しますと、あまり話題になりませんけど、ソウツヒメ=抓津姫という女神の名も気になっています(風土記の地名潭における唖然とするコジツケ、無理な言葉遊びにくらべれば、はるかにまっとうな音韻感覚のはずです)。
> 瀬戸内海経由ムナカタもありですが、ちょっと遠回りになりますけど、丹波→出雲を含む日本海経由ムナカタの航路をとってみるつもりです。機雷の海を行くことになるかもしれませんけど。
> 播磨の隠された神のいい話──楽しみにしています。

133 藤原神と瀬織津姫 風琳堂主人 2001/12/06 07:37

『日本の神々の事典』ほかによりますと、瀬織津姫を八十禍津日神と同神とすると記録に残るかたちで規定していたのは、神宮側の文献である神道五部書のひとつである『倭姫命世記』(平安末期か鎌倉時代の作)が最初とされています(記録に露骨に残らない規定は、天武あるいは天智時代にまで遡ります)。
また、同書の規定を受け継いだのが本居宣長で、彼は直日神=直毘神の研究に半生を費やしたといってもよいようですが、宣長は『大祓詞後釈』という書で、瀬織津姫を禍津日神=悪神と再規定しました。
トカゲさんが、宣長の思想の最後を、これも「桜」に象徴させて理解しようとしているのにわたしも共感します。宣長も、また桜井寺の泉の歌を残した空海も、ともに瀬織津姫と桜の関係を知っていたはずです。
特に宣長は、瀬織津姫という禍津日神=悪神が、なぜ祓いの神となるかという疑問に対して「深き理(ことわり)ある事なりける」などと、あるトボケの言葉を残していました(『大祓詞後釈』)。宣長は瀬織津姫隠しの「深き理」を知っていて、その上で「桜」に執着したことがじゅうぶんに考えられるのです。宣長の晩年と桜──これを明かすだけでも、新しい本居宣長論ができるかとおもいます。

山田さん、お便りをありがとうございます。
石神と瀬織津姫の関係についてはまだなんともいえませんが、その石神にどういった伝承があるか、また、どういった地に、いつからまつられているかなどをおさえたら、かなりの絞り込みはできるようにおもいます。
ここのところ、この囲炉裏夜話で、桜と瀬織津姫の関係がよく話題になっています。浜田市の隣が江津(ごうつ)市で、ここを河口とする川が江(ごう)の川ですね。この川を遡った中流域に位置するのが桜江町で、さらにこの川の源流部に近い広島県高田郡八千代町にまで遡りますと、ここに鎮座する八幡神社の主祭神として瀬織津姫の名が確認されます。八幡神社の総本社である宇佐八幡の姫神は宗像の女神とされていますから、ここでも瀬織津姫と宗像神が無縁でないことを傍証してくれています。
また、江は川のことですから、桜江という地名から考えますと、江の川もまた<桜川>であっておかしくありません。あるいは、その音の「ごう」は「業」=罪のこととも理解できます。瀬織津姫が降り立ったとされる、東北の唐桑半島の入江のまち(宮城県唐桑町)には、祭神不詳とされていますけど、瀬織津姫をまつっているとみるしかない、業除(ごうのけ)神社が現在もあります。
島根県のこの桜江町の隣の石見町日貫(ひぬい)には桜井という小字地名もあり、ここに鎮座している大原神社(春日四神)の元は桜井神社で、現在は境内社でしたか、その祭神は八十禍津日神でしたよね。サクラ地名と八十禍津日神を考えれば、大原神社境内社の桜井神社に隠された神の名は、もう歴然としています。
それにしても、ここでも瀬織津姫の社にかぶってきた、つまり瀬織津姫封じをしてきたのは春日神ですから、春日神=藤原神と瀬織津姫の不倶戴天の関係をあらためて知らされるおもいです。わたしは、瀬織津姫は藤原神=春日神の内部にも封印されているとみていますので、よけいに瀬織津姫の最後の不本意を、この桜井神社の神まつりの現実から感じます。

132 浜田市に祭られている女神 山田明子 2001/12/06 00:11

浜田市の観光案内のパンフレットで,初めて知った神社があります。
祭神は女神で石神とのこと、私の村の観音滝にも、石神が祭られています。
また,三宮さんと言われている宮も、石神と書かれています。説明から解釈すると、瀬尾律姫のような気がします。

後日ファックスしますので、目を通しておいてください。

136 あかね 2001/12/06 09:38

山田さん、初めまして。お書きの感じからすると、初めましてではないのかな?よくわからないのだけど、もしかして私に、播磨話を催促されてました?もしそうだったら、遅くなってごめんなさいね。ご期待にそえるかなぁ…

137 わぁ〜い あかねさんだ ピンクのトカゲ 2001/12/06 14:20

待ってました。
針間の大統領じゃなかった針間の女神様
針間の話し待ってました。
それと、桜谷鉱山
今住んでるところから近くですよね。
兵庫県佐用郡上月町の桜山
何て言うのも
何か関係あるのか聞きたいな。
あかねワールド宜しくお願いします。

139 サクラと縄文 あかね 2001/12/07 02:27

朝、136の続きを書こうとしてたら仕事の客人が。おかげで、ご挨拶が遅れましたm(__)m。へへ、サボってたの〜。
風琳堂主人さん、急な用でしばらく帰省しており、書き込みできなくて本当に申し訳ございませんでしたm(__)m。失礼致しました。ピンクのトカゲさんもごめんなさい。桜谷鉱山と桜山、そうなんですよ、あるのです。まだサクラについて全部は拝見してないので、後で読んで考えてみますね。だからもし内容がダブっていたらm(__)m。

上月町と云えば、金屋子神が奥出雲へ行く前に最初に降臨した所ですし、佐用郡には、天目一箇神を祀る一番の古社である『天一神社』がありますね。桜谷は多氏と秦、続いて多田源氏に縁深い鉱山と、妙見信仰のある地。
サクラ地名の分布を追うと、農作物の豊穣を願う信仰だけでなく、白鳥と稲穂・白鳥と鉱物、元来は鉱物の成りを願う山ノ神事であった「弓神事」(縄文由来説あり)のように、鉱脈・鉱山分布と金属神信仰、海人・産鉄民の移動と重なってくるのかもしれませんね。『青』と「多・青海・忍海・飯豊青」などとも。菅首の近江、東への移動や、後の播磨・鉄の道とも、関連があるのかもしれません。
特に、風琳堂ご主人がお書きのようにサクラは焼畑、もっと云えば、牛馬を里山や水辺等で放牧して山野の開墾に用いた可能性がある『縄文由来の牧畑(糞を利用)』とも、何か関りがある気がしています。クサ、コモ(牧畑の牛の餌は水辺のマコモ<稲科>)、マキ、スガ、サグ、サナなどの地名と併せて見るといいような気もします。
牧畑とは縄文期、列島にいたと思われる野牛を使い、その糞によって合理的に土地を肥やす農法。ヤマト以前の民が用いた農法で、ヤマトは先住の民が牛糞を重視する事から糞尿を卑しみ、列島から牧畑を廃した、という説があります。
従ってこの糞とは、スサノウ関連の名に糞を持つ事と関係があると、勝手に思っています。つまり葦原醜男の醜男は、大変に強い男や、何度殺されても蘇させられる神という鉱物神としての意味のほかに、土の可変性、或は肥えた土、大地を肥やすエネルギーである糞、更に牧畑を行った民の象徴としての牛糞を名に持つのだと思います。加えてそこへオリエントなどにも見られるように、牡牛の力強さへの信仰がプラス。牛の角が月に似ていることから月神や水神、更に天御中主、太一、御霊信仰、疱瘡神などへと縄文が根底に繋がっているのかもしれません。
ヤマト側から見れば勿論、(牛)糞を冠する事で貶めた、となるでしょうが、縄文から見ればこれは、一概に卑しめられた事にはならなく、自ら糞を名乗った、なんてこともあるのかもしれません。ホントかどうかは?ですが。
佐渡などの離島には今もこの牧畑が残り、平安期の薩摩国でも「牛ぐつ(ウグツ、グツは尺の中に米)」という郷名が見え、荘園にもウグツ荘の名があったそうです。鹿児島や福井には牛の糞、高知にはウノクソヤマなど各地に牛糞地名が伝わるようです。ウグツ氏という氏もあったり、ウグツの他に、牛尿(ウバリ)・牛糞(ウクソ)なんてのも、牛の発音がウであった頃の命名だそうです。これは当然「鵜」の習俗とも重なる可能性があるとか。ウシのシは、鹿や猪なども指すかもしれないそうな。

桜ですぐ思い出すのは、奈良県桜井市。吉野の桜と役行者が桜で彫ったという蔵王権現…。
石見銀山の地、大田市にも大田町桜田という地名がありますよ。大田は、国引神話の縄をかけた杭である三瓶山もある所。江津市も浜田市も石見ですし、江津市には小野氏縁の「つま神社」(漢字失念)が。この社は、餠を最初に造ったという(米粉を水で練って卵状!にした、しとぎ餠)、「米餠搗大使主命(こめもちつきおおおのみこと)」を祭神とすると教えてもらいました。この命は新撰姓氏録では、「鏨着(たがねつき)大使主」とあって、ツマ神社では米餠搗をタガネツキと読み、また鏨は飴とも書き、この飴は石切ノミ(私は石工が使う木製の鏨が杵の形と似てるので、それが鏨の原型だと思う。ノミと鏨は用途も形も似た工具ですが、鏨がもとの形)の事でもあるそうです。石見って隕石が落ちてきたと伝わる星高山もありますね。

そう言えば鎌倉期、越前焼の壺(古越前)の肩に、ヘラがきによる「サクラ」と、カタカナで「刻文」が刻まれているものがあります。これは、“呪符的な意味を持つ”文言だそうで、神や仏への祈りだと推察されているのですが、本当のところはわかっていません。「甕」由来だったりして…、と色々想像してます。何が書きたいのかわからなくなってきましたm(__)m

141 播州峠近くってこんな感じ あかね 2001/12/07 02:42

帰省した際、空いた日に、もう一つの「青玉神社」である、加美町山寄上(やまよりかみ、鳥羽のすぐ北)の青玉へ出向こうとしたのですが、村外れ(一番北の端)にある社で、同村へ行くバスは何本かあるものの、やはり不便であり、−1℃の気温の中、家族がなぜか心配して反対しましたので、行くのを断念しました(T_T)。家族も友達も嫌がって連れていってくれないので、免許がない不便さを痛感した次第です。車なら30分で行けるのにな。桜の季節になったら是非、行ってみますね。

ちなみに鳥羽の青玉神社は、道の駅・加美の前に鎮座し、杉原紙研究所(杉原谷は和紙の代名詞である杉原紙発祥の地、藤原〜鎌倉期迄の特に重要な公文書類は殆ど杉原紙に記されてます)と、その資料館も杉原川を挟んで、道の駅の隣にあります。
ここから約350m、国道427号線を北へ進むと、播州峠の手前にある多可郡最北の村・山寄上へ入ります。ここは、山合に開けた小村で綺麗な所ですよ。加美町自体、風光明媚ですが。山寄上を抜け、林の間を大きく蛇行する国道を更に行けば播州峠。峠を越えたら丹波・青垣町の大名草です。大名草から播州峠方面を見上げると、谷合いに一条の光が指し込んで、天から招かれているかのような、厳かで不思議な気分になる事があります。

山寄上の青玉は、鳥羽・青玉の北東にあり、両社は共に三国岳の麓近辺に鎮座。山寄上村には、村の中央を流れる「杉原川」へと合流する『玉谷川』(三国岳麓北西から流れる)も流れ、鳥羽との堺・鳥羽の青玉近くには西北から『宮谷川』が流れ、同じく杉原川へ注いでいます。山寄上・鳥羽のどちらからも、三国岳を山越して、朝来郡(生野銀山がある)や、神崎郡へ行く古道が伸びていたようで、この道は各々、三国岳登山コースとなっているようです。

谷川氏の「青銅の神の足跡」でも託賀郡を結構、取上げて下さっていますが、加美町とその南の中町全体を杉原谷と云うと書いてあるのは間違いで、“加美町北部地域のみを杉原谷”と呼びます。杉原谷は2つの町全体を含むほど、大きな谷ではありませんし、中町は盆地です。
平安期には、杉原谷一帯は「杉原庄」と呼ばれ、「藤原師実」の庄園となり、藤原家分裂後は近衞家に譲り渡されました。それから鳥羽もトバではなく、トリマです。
加えて、西脇市大木町の天目一神社は式内社とありますが、ここに元々あったのは古代のお堂らしく、現在では、加美町的場(まとば)に鎮座する『播磨二宮荒田神社』が、『式内社天目一神社』だと比定する説が有力です。この二宮の後背の小丘頂上には「まひとつさん」と呼ばれる小祠があり、塚から伝・天目一命の剣が出土し今も、まひとつさん信仰が残っています。寒村ではなく、古代から明治初期まで銅山が多く、大和鍛冶起源地である託賀郡にとって、マヒトツさんは、天目一を祖神とする山直の権力が衰える中、荒田神社となったからと云って、忘れ去る存在ではなかったのでしょう。
従って、『式内社荒田神社』は、酒・水・開拓・豊穣神の『道主日女命』に相応しく、妙見山(妙見富士・銅山です)南部一帯に広い水田が広がる、中町安楽田(あらた、風土記の時代には賀眉里)の地にある『荒田神社』だとされています。播磨鴨国造山直は、中町北部(郡衙跡あり)を中心に、賀眉里を託賀での本拠地(山直氏自体の本拠地は山城ではなく東播磨・賀毛郡)としていましたから、西脇市ではなく、加美町に式内社天目一がある方が自然です。
託賀郡の神については、郡誌を借りてきました!!ので、じっくり読んでから後述しますね。

142 玉と鏡 ピンクのトカゲ 2001/12/07 11:08

久々の「あかね節」
あかねファンの一人として
もう嬉しくて、嬉しくて
早くも次が聞きたいなんて思っています。

抽斗の奥から、?マークの沢山ついたメモが見つかりました。
何のメモなのか忘れてしまったぐらい古〜いメモです。
斎部廣成著『古語拾遺』からの抜粋ですが、おそらくタタラに関して、メモしたものだと思います。
それが、今みると、なぜか瀬織津姫と関っているのが不思議です。

以下、メモを記しつつ、今思うことを添えます。
『(前略)また男の名は、天太玉命とまをす(斎部宿祢祖)。太玉命の率いたる神の名は、天日鷲命(阿波忌部達祖)、手置帆負命(讃岐忌部祖)、彦狭知命(紀忌部祖)、櫛明玉命(出雲玉作祖)、天目一箇命(筑紫・伊勢忌部祖)とまをす。』(天中三神と氏祖系譜)
『古語拾遺』によれば、天太玉命の率いた神の中に出雲玉作の祖の櫛明玉命がおり、また、天目一箇命は、筑紫と伊勢の忌部の祖ということになります。
『よりて、天富命(太玉命孫)をして、手置帆負、彦狭知の二柱の神が孫を率いて−(中略)―始めて山の材を採りて正殿を構立しむ。(中略)彼らの裔いま紀伊国名草郡御木、麁香の二郷にあり。材を採る斎部の居るところは御木という。殿(あらか)を造る斎部の居るところは麁香(あらか)という。これその証しなり』(造殿の斎部)
『凡て、神殿、帝殿を造奉たむことは、皆神代の職に依るべし。斎部の官は、御木、麁香の二郷の斎部を率いて―(中略)―伊勢宮及び大嘗の由紀、主基宮を造るときに、皆斎部を預からしめず。』(遺りたる四なり)
紀伊国名草郡の斎部(忌部)が、伊勢神宮の造営に関っていたことになる。
『造殿の斎部』は、『古語拾遺』の『神武東征』の後に書かれているが、伊勢神宮の造営ということになれば、当然、持統朝と考えられます。
『(前略)故に、更に斎部氏をして、石凝姥神が裔、天目一箇神が裔の二氏を率て、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す。是、いま踐祚す日に、献る神璽の鏡、剣なり。』(崇神条)
『(前略)石凝姥神をして日の像の鏡を鋳しむ。初度に鋳たるは、少に意に合わず。これ紀伊国日前の神なり。次度に鋳たるは、その状美麗し。これ、伊勢大神なり。』(日神の出現)
石凝姥神の出自については、明らかにしてないが、斎部氏が率いたとなれば、当然関係があったと思われる。
『古語拾遺』のこれらの記載から、鏡、玉、剣の三種の神器の製作に斎部(忌部)が、関っており、更に、伊勢神宮の造営にも忌部が関っていたことになる。
そして、伊勢神宮の造営に関った忌部は、紀州名草郡に居を構えている。
この名草郡には、石凝姥神が最初に造った日神の象徴(鏡)を御神体として、伊勢神宮とも関りの深い日前国懸宮が鎮座する。
そして、この「日前さん」と関係の深い伊太祈曽神社の神域に桜谷の地名が残る。

143 Re:サクラと縄文 ピンクのトカゲ 2001/12/07 17:39

あかねさん
> 上月町と云えば、金屋子神が奥出雲へ行く前に最初に降臨した所ですし、佐用郡には、天目一箇神を祀る一番の古社である『天一神社』がありますね。桜谷は多氏と秦、続いて多田源氏に縁深い鉱山と、妙見信仰のある地。

新城の富永神社、明治以前は、天一天王社(祭神・牛頭天王→素盞嗚命)
1603年、新城市平井から分霊
東三河の天王社の多くは、祭礼に手筒煙火を奉納する。
この天一天王社でも、煙火は、古くから行われていた。
煙火→火薬&鉄砲→鍛冶との関係が考えられます。

> サクラ地名の分布を追うと、農作物の豊穣を願う信仰だけでなく、白鳥と稲穂・白鳥と鉱物、元来は鉱物の成りを願う山ノ神事であった「弓神事」(縄文由来説あり)のように、鉱脈・鉱山分布と金属神信仰、海人・産鉄民の移動と重なってくるのかもしれませんね。『青』と「多・青海・忍海・飯豊青」などとも。菅首の近江、東への移動や、後の播磨・鉄の道とも、関連があるのかもしれません。
> 特に、風琳堂ご主人がお書きのようにサクラは焼畑、もっと云えば、牛馬を里山や水辺等で放牧して山野の開墾に用いた可能性がある『縄文由来の牧畑(糞を利用)』とも、何か関りがある気がしています。クサ、コモ(牧畑の牛の餌は水辺のマコモ<稲科>)、マキ、スガ、サグ、サナなどの地名と併せて見るといいような気もします。

三河一宮・砥鹿神社の奥宮・本宮山の北麓は、白鳥神社の密集地。
平地では、害となる冬鳥の糞が高原の湿地帯では、温度との関係から有用な肥料になると
何かの本で読んだ記憶が
『弓神事』で思い出されるのが、奥三河の『鹿射神事』
藁を鹿形にこさえ、腹には、餅を入れ、弓でそれをねらい吉兆を占う。
そして、射落とした鹿形の腹の餅を奪い合う。
『播磨国風土記』讃容郡の総説 「大神の妻の玉津姫命が生きた鹿の腹を裂き、その血を稲に撒くとたちどころに苗になった」との記載を思い出す。
鹿射神事、縄文に淵源を持つ農耕儀礼といってよさそうです。
もう一つ『播磨風土記』から
「丹津彦神が、法太川の川床を雲潤の方に越えさせようというと、太水神は、自分は、獣の血で田を作っているから、川の水はいらないと断った」

> ヤマト側から見れば勿論、(牛)糞を冠する事で貶めた、となるでしょうが、縄文から見ればこれは、一概に卑しめられた事にはならなく、自ら糞を名乗った、なんてこともあるのかもしれません。ホントかどうかは?ですが。
> 佐渡などの離島には今もこの牧畑が残り、平安期の薩摩国でも「牛ぐつ(ウグツ、グツは尺の中に米)」という郷名が見え、荘園にもウグツ荘の名があったそうです。鹿児島や福井には牛の糞、高知にはウノクソヤマなど各地に牛糞地名が伝わるようです。ウグツ氏という氏もあったり、ウグツの他に、牛尿(ウバリ)・牛糞(ウクソ)なんてのも、牛の発音がウであった頃の命名だそうです。これは当然「鵜」の習俗とも重なる可能性があるとか。ウシのシは、鹿や猪なども指すかもしれないそうな。
埴安神は、記紀では、糞神とされていますね。
そして、糞神・埴安彦の終焉の地と伝える祝園神社では、埴安彦=長髄彦の等式の伝承が伝えられています。

144 竹生神社 ピンクのトカゲ 2001/12/07 21:26

主人続けての投稿恐縮しております。
とかいいながら、書かせていただきます。

砥鹿神社の奥宮が鎮座する本宮山
今は、スカイラインができ、車で頂上まで行ける。
豊川からだと国道151を新城方面に向かい
新城の豊栄の信号を左折
そこからは、一本道
山道に差し掛かる前
右手の小高い丘に鎮座するのが竹生神社である。
聞くところによると、主人の初デートの待ち合わせ場所とのこと

竹生神社 祭神・市杵島姫命 多紀理比売命 多紀理比売命。
祭日 二月初午日。
延喜二二年、賀茂郷が竹生と野田の二郷に分かれる。
このとき竹生郷司に来任した山城国賀茂神社祭神の一・神武津身命の裔・竹生氏がを勧請したという。
また、竹生神社の名から近江国竹生神社を勧請したものとも伝える。

この竹生神社の本殿の右手
社務所と本殿をつなぐ廊下を潜ると
末社郡の祠が祀られている。
その中の一つに多賀神社と書かれた祠がある。
祭神は、伊邪那岐尊と瀬織津姫である。
伊邪那岐尊を祭神とする多賀神社に瀬織津姫を祭神とする瀧大明神を合祀したものとされる。

瀧大明神
永正三年、豊栄字石松一二八二番地の大滝の傍に建立されたという。
建立という文字からそれ以前から瀧の女神として人々に崇敬されていたことが窺い知れる。
その後、多芸神社に遷座され、明治の神社合祀により、竹生神社に合祀される。

竹生神社が鎮座する旧「千郷村史」には、「多芸神社境内に字山口から遷座した大明神様(瀧大明神)という神祠があった。口碑に竹生神社の姉神を祀ったとか或いは竹生大明神の奥の院だとかいう。」と記す。

この旧千郷村には、旧字杉山に国玉大明神(後、竹生神社に合祀)が鎮座する。
祭神jは、大国玉命、天照大神、菅公とされる。
継体一六年に奉祀されたという。

なお、竹生神社末社・荒羽々気社については、拙HPの掲示板に書き込みしました。
参考までに

146 Re:玉と鏡 あかね 2001/12/07 22:27

ファンだなんて、うう、有難うございます。ピンクのトカゲ節ファンですのに、お恥ずかしいです〜。
142の玉と鏡、まさに興味を持っている事の一つです。わかっていただいていて嬉しいです。詳しいメモとお考え、有難うございました。勉強になりました。その『古語拾遺』に確か、「天日槍命」のことを、『海檜槍命」として、記述があるのだった、と思います。斎部・忌部氏にも興味はつきません。

> 『古語拾遺』によれば、天太玉命の率いた神の中に出雲玉作の祖の櫛明玉命がおり、また、天目一箇命は、筑紫と伊勢の忌部の祖ということになります。
櫛明玉命って、もと青玉神社が祀られていた三国岳(加古川の水源地の一つ)にとどまって、但馬を排水して開拓した『天戸間見命(あめのとまみ)』(青色の宝珠を愛用・鳥羽・青玉の主祭神)と関係ある気がします。出雲も丹波も、翡翠や瑪瑙などの「玉」が出た地ですよね。玉を求めた天日槍命も重なるようです。
玉を加工するには、優れた技術と堅い鉄器、鉄器を研ぐ砥石、石工・鍛冶・鋳師などが必要。で、天戸間見は、天津彦根命の子で、天目一だともその兄弟だとも云われ、或は天戸間見命は「朝来直」(朝来山東町の「粟鹿神社」近くに居住した、ここは玉の出る出石へと行く道筋)の祖・「天砥目命(あめとめ)」かも。砥石は託賀では出たのかどうかわかりませんが、確か隣の神崎郡辺りから南へ流れる「市川」沿岸では、砥石や砂鉄も出ていたと思います。

> 『よりて、天富命(太玉命孫)をして、手置帆負、彦狭知の二柱の神が孫を率いて−(中略)―始めて山の材を採りて正殿を構立しむ。
彦狭知は、紀州の五十猛と関係深かったような…。忘れた…
そう言えば、播州峠を越えた所にある『大名草(おなだ)』は、紀氏系地名だと思います(播州峠に入る迄の道が大きく蛇行する、と書いたのは緩やかに蛇行する、の方が適当でしたm(__)m)。杉原川流域や、丹波・氷上郡流域には多田など、多氏系地名が多いので、大名草の大も多、なのかもしれません。そして加古川沿岸部には船木氏・行基の足跡も、たくさん残っています。

大名草のある「青垣町」は、桧皮葺き職人が、全国で唯一、
10人のみ残っておられる町です。青垣のこの職人さんの指示のもと、全国の桧皮を採る檜が管理されてるそうです。
これも、忌部と関りあるのかもしれませんね。
そして青垣の青も、調べていないのでわかりませんけど、青海や多かもしれません。青垣は、神域を囲む結界の青木(炭になる堅木なども含まれる)、或は、丹波国の裏鬼門の意味もあるのやもしれません。
青玉の青にも関ってくる話かも。青は方位では東にあたりますが、色としては陰の色で、暗い、という意味等もあり、同時に古代の青は『緑』なども含みます。翡翠の話を調べましたのでまた、まとめて書きます。その前に神崎ですね。あ、「紫石」の紫は、錬丹術では女性を象徴します。

> 『造殿の斎部』は、『古語拾遺』の『神武東征』の後に書かれているが、伊勢神宮の造営ということになれば、当然、持統朝と考えられます。
播磨鴨国造山直が建てた、飛鳥寺形式の古代寺院「多可寺」(郡衙跡のすぐ傍)は、持統天皇の御旅所というのかな?でした。青玉のある賀眉里や託賀郡、賀毛郡、美嚢郡、丹波氷上郡などからも、中央の寺院や社の建立にあたって、大工や鋳師・鍛冶・石工等が多く出向いた記録があるそうです。出向いた先で、技術を逆に、彼らが指導した、という面も多々あったらしいです。

青玉の鎮座する所から、南へ下ると銅山の「妙見山」があり、そこの麓や裾野の傾斜地には、「東山」という、「日に向かう風」信仰の地があります。この村には東山古墳郡という、山直やそれ以前の同系?の首長墓と思われる、規模の大きい古墳(竪穴もほんの少しある)や、一族の横穴式の小さい古墳が群集しています。ここから近年、全国唯一の出土例といわれる、家型の須恵器(名称失念)が出ました。
斎部氏、石凝姥神とその裔の天目一箇神の一族がいたとしても、不思議ではないかも。

この妙見山とは風土記に出て来る、明石の大海人が訪れて住みついた、松の多い『大海山』に該当すると、地元では強く比定されています(今でも松が多い)。妙見山の裏側に連峰し、百mほど低くでこぼこの「近江山」が、「大海山」だと比定する説もあるのですが、これは地元民としては全く理解できない説です。
近江山は地元では殆ど知られていませんし、南から大人、天日槍が託賀郡へ来たなら、まず目に付くのが妙見山で、近江山は妙見山の裏に隠れて全然、見えません。それに近江山そのものには鉱山はなく、あったと云えるのは、富士山型で美しい妙見山と、近江山の堺目に位置する樺坂鉱山のみです(同じ鉱床帯・花崗岩上なので鉱山があっても不思議ではないのですが)。対して妙見山には古代から多くの鉱山があったらしく、この山の東南には、室町期の山内「千軒地名」も残ります。そして近江山の麓の土地はあまり広くないのに対し、妙見山の南には青田が豊かに広がります。第一、賀眉里北部地域・加美町の象徴は、近江山ではなく千ガ峰で、他にももっと魅力的で鉱山のある、松だらけの山がたくさんあります。託賀郡を象徴するあまんじゃこ伝説の、あまんじゃこの石も、妙見山や千ガ峰等にはあるのに、近江山にはありません。地名大事典、この件、訂正するか、書き加えて欲しいものです(ーー;)。
近江山はむしろ、菅首などの、播磨から近江への移動の跡、近江・越・尾張連合国の勢力範囲の記しと捉えた方がいいのでは、と思っています。近江山には、今鬼坂がありますし。

ちなみに、この「千ガ峰」(にある「岩座神村<いさりがみ>」。この村には巨大な雨乞い岩や、一人で行くと戻れないと云われる「唐滝」があり、この滝で鰻を釣ると雨が降るとされる)には、加古川下流?から死体を運んだ時、運ぶために重いので切った、と伝わる「血石」があります。これって、豊穣と水を得るために、田に死体を埋めた、死忌みを嫌わない海人や産鉄民の風習の名残かもしれません。
なんか、どんどんテーマから離れているような…。とりあえず、これぐらいにします

147 Re:サクラと縄文…爆走中ですm(__)m あかね 2001/12/07 23:55

> 新城の富永神社、明治以前は、天一天王社(祭神・牛頭天王→素盞嗚命)
おお、牛頭と天一が融合してる〜。何か嬉しいな。考えてみれば、土師も鋳師・鍛冶・石工・杣・樵と同系統の職能だから、これって自然な事ですよね。牛頭天王は疱瘡神だから、産鉄民には大切な神かも。煙火→火薬&鉄砲→鍛冶との関係が考えられるとは、ホント、そう思います。

> 平地では、害となる冬鳥の糞が高原の湿地帯では、温度との関係から有用な肥料になると
なるほど!そう言えば、託賀郡・神崎郡・宍粟郡・佐用郡・朝来郡・丹波などは、高原です。多可郡八千代町では、鴨は特産品で、神戸辺りの有名レストランでは、この町の鴨が使われます。
あ、現在は篠山市南部となっている町に、『福住』という地名がありますね。ここは丹波への摂津?からの入口だったかな。福の付くお名前は宍粟郡や佐用郡、丹波に、特に多い感じがします。丹波では、特に吉住さんという名前もたくさんありますよ。丹波や多可では足立・安達・芦田・中山・吉田・岸・来住(きし・岸からの別れ)・岸田・真鍋(讃岐に多いですね)などの名前も多いです。
ちなみに篠山市と、多可郡は気候がそっくり!寒暖の差が激しく、霧が出ます。丹波黒豆はそういう所でのみ、育つものが本物。丹波黒豆は多可郡や西脇市でも産し、篠山の黒豆と定期的に種を弱めないためにタネを入替えており、篠山産の黒豆同様に丹波黒豆名で産して、篠山農協の黒豆味噌も多可郡加美町で作っています。これ、書いていいのだろうか…

>『弓神事』で思い出されるのが、奥三河の『鹿射神事』。
『播磨国風土記』讃容郡の総説「大神の妻の玉津姫命が生きた鹿の腹を裂き、その血を稲に撒くとたちどころに苗になった」との記載を思い出す。鹿射神事、縄文に淵源を持つ農耕儀礼といってよさそうです。
まさにまさに!同感です。餠は鏨とも云うし。

>『播磨風土記』から「丹津彦神が、法太川の川床を雲潤の方に越えさせようというと、太水神は、自分は、獣の血で田を作っているから、川の水はいらないと断った」
ここ、故郷からかなり近いです。西脇市にあって、ホウタと読みます(西脇市は播州織によって人口が増えるまでは、古代から託賀郡でした)。ホウタには大甕を国堺に埋めた「甕坂」と、近江の「花波の神」が鎮座する「花波山」もありますね。花波の花は、サクラのような気がします。
花波の神は、花波神の妻である淡海(近江)神が、自らの腹を裂いて沼に沈んだという、賀毛郡川合里の、腹さきの沼の話にも登場しますね。この沼に住む鮒のハラワタがないって、一つ目の魚を連想します。

すぐ南の賀毛郡三重里に、厠で子(筍)を産んだ椅座分娩の話が風土記にみえますね。その話とも関連するのかもしれません。竹の子を食いの食いは、三島溝咋の咋と同じで、交合の意だそうです。もしかすると、丹生、特に多治比の象徴である「イタドリ」の花咲く前の姿、芽が筍とよく似ている事とも、関係がある話なのかもしれません。多可郡加美町には、丹治地名もありますし、吉志は東播磨や摂津にも多いですし、更に、品太の足萎えの話とも絡むのかも。

丹津彦神って、讃岐日子神のことでしたっけ?太水神はヒガミ刀売?忘れました…。教えて下さい。あ、品太天皇?託賀郡のすぐ隣、丹波氷上の首長である氷上の女神(氷香戸辺)は、出雲の神宝についての神託を伝えた神なのも面白いです!獣血と川の話、佐用の姫の件と似てる感じもする。
それと、氷香戸辺って、天戸間見命と、何だか神名が似てるような…。天目一も丹生都姫さんや石コリドメのように、元来は女神さんだったりして…。

託賀(たか)郡は、多河・多可(可を二つ重ねた字もある)・高・多珂(中町は古代は那珂と書いた)・多賀とも書かれてきました。きっと多賀神社とも関係あるぞ〜。多鹿とも書かれた事があったなら、もっと面白いのですが。
関係ないけど、多可郡加美町には犬神が、西隣の神崎郡には犬寺があります。犬ってきっと、鉱物を鋳ぬ、日神を鋳ぬかもなぁ…。

> 埴安神は、記紀では、糞神とされていますね。そして、糞神・埴安彦の終焉の地と伝える祝園神社では、埴安彦=長髄彦の等式の伝承が伝えられています。
そうですね!縄文由来なんですよ、きっと。

148 縄文の女神を探せ 風琳堂主人 2001/12/08 09:44

あかねさんとトカゲさんのスリリングな展開がつづいています。
縄文の稲作は水田を必要としていなかったこと──これは新しい縄文イメージをわたしたちに喚起させました。NHKスペシャルは、この水田稲作前の稲作を「焼畑稲作」と呼んでいました。鹿と女神の伝承を残していた播磨国風土記は、特記的な価値をまだ秘めています。
先日の地震報道ではNHKをあまり評価しませんでしたけど、この縄文イメージの立体化を促すようなNHKスペシャルの番組はよかったです。
播磨の託賀と近江の多賀、外宮の多賀=高宮、それと三輪山にもあったかとおもいますが、このタカ─タガがどうもクセモノのようです。
近江の多賀大社がなんともはっきりしない神社だなとおもっていましたところ、新城の竹生神社内の多賀神社の「祭神は、伊邪那岐尊と瀬織津姫である」と、おもわぬところで瀬織津姫の名が出てきました。
そういえば、遠野の最古社ではないかとされる多賀神社の祭神なんですが、ここは、近江の本社とちがって、戦前までは伊邪那岐と罔象女とされ、多賀神社の各地の分社のなかで異色な祭神表示をしていたのが小さなハリのようにひっかっていたことをおもいだしました。
多賀神社は、イザナギ&イザナミを祭神とする<常識>がつくられていて、それをあえて罔象女と表示した遠野・多賀神社の意向はなんだったのか。そんなハリの穴のような疑問が湧いてきました。
近江の多賀本社の奥宮か元宮は、たしか大滝神社(犬上川上流)だったとおもいます。また調べてみます。
犬─犬頭糸─養蚕の線もみえてくるようです。
ところで、中国山脈を横断する鉄の道はすべて川の道でもあります。日本海と瀬戸内海は川で結ばれているイメージが強いです。この川筋に、消されかけてはいますが、瀬織津姫の祭祀の痕跡が重なってきます。たとえば東播磨の市川─円山川もそうですし、西播磨の千種川もそうです(千種川の源流部の山は三室山で、それを越えれば鳥取県若桜町──またサクラです)。
瀬織津姫という神名を確認できる最古の伝承は、現在のところ、橋姫神社の大化二年(646)で、その前はなんと呼ばれていたのかはわかりません。千種川─佐用川の女神であろうサヨウツヒメは、その候補のひとつかなとみています。ただ、播磨国風土記の成立は8世紀のことで、神名の移動変更の可能性もありますし、サヨウという地名をもった神で、これはニウツヒメも一緒ですが、まだ固有の神名とみるには保留かなとおもっています。慎重に探ってみたいところです。
遠野・多賀神社の罔象女から播磨の切腹の女神=淡海の女神や、播磨の早瀬=速湍の女神までは、瀬織津姫の匂いが強いです。

讃容郡速湍(はやせ)の里──土は上の中である。

速湍の社においでになる神は広比売命、散用都比売命の弟(いろと)である。

ここは、現在の佐用郡上月町早瀬とみられますが、地図をみると該当箇所には白山神社があります。そして佐用川の対岸部には高倉神社と高倉山(佐用郡佐用町)があります。サクラ─桜の話題につなげますと、この上月町の桜山の地にある桜山天満神社も調べてみたいところです。また上月町には、清地神社(上月町宇根700)や素盞鳴神社(上月町小赤松370-1)にも瀬織津姫が配祀のかたちではありますが確認できます。千種川─佐用川の砂鉄とサヨウツヒメ、そしてサクラ─桜地名。「サ」の音がなぜか共通していますね。
以下はちょっとした実験です──試みに、サヨウツヒメを5回ほど、声に出して唱え、その音の変化を聞き取ってみてください。また、五十猛とセットで登場する抓津姫=ソウツヒメも──)。

(追伸)
昨日(12月7日)の新聞報道で気がついた方もおありかとおもいますけど、人文書の問屋さん(出版社と書店の取次所)である鈴木書店が負債40億円をかかえ倒産しました。この瀬織津姫の本でも、もっともお世話になってきた問屋さんであり、風琳堂を出版世界に呼び戻す先便をつけてくれた問屋さんでもありました。この鈴木書店の死は、日本の出版界の大きな転換点を象徴していますので、風琳堂も注視しているところです。これからが大変です。

149 Re:復活と船出に祝杯 山田明子 2001/12/08 20:38

> あかねさんの復活=ルネサンスと、トカゲさんのHPの船出と、今日はちょっといい日です。
> 加古川の支流の杉原川の荒田の神は、風土記によりますと、道主日売ですから、これで、加古川の女神は輪郭がはっきりしてきました。
> あと、播磨で気になる女神は賛用都比売と出雲大神御蔭神です。
> ここからは言霊的なセンスと直感の話ですが、セオリツヒメ←→サヨウツヒメの音の転生変化もあるかとおもっています。それと、この音のセンスを拡大しますと、あまり話題になりませんけど、ソウツヒメ=抓津姫という女神の名も気になっています(風土記の地名潭における唖然とするコジツケ、無理な言葉遊びにくらべれば、はるかにまっとうな音韻感覚のはずです)。
> 瀬戸内海経由ムナカタもありですが、ちょっと遠回りになりますけど、丹波→出雲を含む日本海経由ムナカタの航路をとってみるつもりです。機雷の海を行くことになるかもしれませんけど。
> 播磨の隠された神のいい話──楽しみにしています。

150 何が言いてんだ ピンクのトカゲ 2001/12/08 21:32

二回にわたるあかねさんの復活と俺の船出に対する
コメント無しのレス
トカゲワールドあかねワールドの無言の抵抗?
俺、鈍感だから言いたいことあったら言ってくれ
あかねさん
悩ませて何が面白いんだ。
あかねワールドとトカゲワールドに文句あるなら
正面から言ってこいよ。
いつでも、受けてたつよ。
こういうやり方
記紀創造した
持統の卑怯で姑息なババアのやりくち
とするなら、持統意思否定している
女神の本の批判として真っ向からこいよ。

151 言葉を大切に 風琳堂主人 2001/12/08 22:30

山田明子さん、
先日、女神の本を購読いただいた方ですよね。パソコンとインターネット初心者の話をうかがった記憶がありますので、一度目はそのままにしておきました。
また同じ操作ミスなら、それならそれで、ここへコメントしておいてくださいね。
囲炉裏夜話は顔がみえないですが、いや、だからこそ言葉だけが鮮明になりますし、大切でもあります。現在のあなたの代用の言葉の連続は礼を失したままとなっています。結果、ご自分の最後の言葉を裏切ることにもなりかねませんので、ぜひ、率直なコメントを入れておいてください。
あかねさん、トカゲさん、気にせず展開してください。

152 素直に復活と船出に祝杯! サクラ 2001/07/05 08:37

ご主人・あかねさん・ピンクのトカゲさん
はじめて、お邪魔します。
書き込みはなかなかしないけど、
いつも、愉しく読ませていただいています。

こんな隠れファンのためにも
あかねワールド・トカゲワールドここで
爆走お願いします。

朝晩寒くなってきました。
早池峰のあたりにも雪が積もっているのでしょうか・・
皆様、風邪などひかないように・・・ご自愛ください。

153 お酒は純米酒です 風琳堂主人 2001/12/09 23:50

サクラさん、うれしいメッセージをありがとうございます。
隠れファンなんてとんでもありません。
ここのところ、いみじくもサクラ─桜の話題で、半分以上白くなった早池峰山の頂きで瀬織津姫がニコニコしているような気がしています。桜文化の深淵──やっと気がつきましたね──そんな言の葉のような雪の精が舞ってくる季節になりました。
雪の精といえば、水の精である日本酒がおいしい季節でもあります。みなさん、お酒は純米酒にしましょう。体にもいいですし、歴史を飲むのにもお酒は純米酒です。日本の蔵元で、純米酒しかつくらないと頑固に実行している蔵元がもしあるなら、風琳堂主人はゼッタイに応援するつもりです。

154 笠(瘡)と十一面観音 ピンクのトカゲ 2001/12/10 10:56

とあるサイトの掲示板で笠(瘡)の話題で盛り上がっていました。
そのサイトに以下のような書き込みがありました。

> 瘡神と瘡守伝説化の続きです。但馬多紀郡大岡山のは瘡>薬師です。
>1)肥後鹿本郡米田村大字南嶋に、そこで死んだ在原業平を>慕う女百人が身を
>投じた際に笠を架けた森を、笠掛の森、近くに笠仏、剣屋>敷。瘡神の伝説化。
>2)上総君津郡長浦村大宇久保田・笠上正福寺に行基作の観>世音本尊あり。
> 遠藤氏の子が疱瘡時に祈って効験あり。堂に笠と髪、椀>蓋と髪を架ける。
>3)三河田原町近くに瘡神。神体は花色木綿布に包んだ玄根。砲烙を供える。
>4)若狭大飯郡和田村大字下車持・式内社正五位香山神社に>西神(瘡神)。
>5)紀伊橋本町菖蒲谷・加佐塞神社は、俗に瘡神。
>6)伊豆田方郡松ヶ瀬字神田・軽野神社。祭神は三島明神と>同じ八重事代主
>の命。社前の松には常に笠が掛かっていた。
>7)近江滋賀郡園城寺内の尾蔵寺(十一面観音)は、参詣者>多く笠が擦れ合っ
>きしみ脱げる。津波礼笠の観音、笠脱ぎの観音ともいう。
>8)美作苫田郡一宮村大字東田辺・黒澤山万福寺(本尊:虚>空蔵菩薩)。大和
>の笠置伝説系。
>9)越後南魚沼郡石内村大字上一日市・天神社境内に凡字を>彫った石(4X1尺)
>あり、土俗は瘡神という。元は四所明神と称す。
>10)上総長生郡水上村笠森の伝教作なる十一面観音菩薩、笠森観音で瘡神。
> 以上出典は中山太郎『日本民俗学辞典』

>但馬多紀郡大岡山、白山権現の本尊は薬師仏。白河院を病>んだ際参篭したが効験なく、歌を供えたのに対し、薬師の>返歌「村雨は唯一時の物ぞかし、己かみのかさこそ脱ぎ置>け」とあり、そのようにしたら平癒したとか。近くに瘡の>痂(かけ)峠がある。それで神社にはその病の方が箕と笠>を供えます。
>吉田東伍『大日本地名辞書2』、中山太郎『日本民俗学辞>典』引用

十一面観音と笠(瘡)
名古屋の笠寺も十一面観音
何やら瀬織津姫と繋がるような

155 皆様へお詫びいたします 山田明子 2001/12/11 00:02

やっと、瀬織津姫をひらき、自由掲示板に始めて出会いました。練習のつもりでなんとなく打って送ってみました。
何日かして開いて見たところ、あら大変、変なところに名前がくっついていました。
おどろいてファックスしたのか、メールを送ったのか、覚えていない有様です。そして今日、のぞいてみましたところ大変なことになっていました。ずいぶん怒らせている様子が伺え、パソコンの前で奮闘しております。

ババアとは・・・・ピンポーン、正解です。

我が村の滝、薬師如来、桜井神社、瀬織津姫の関係を、解明し、将来、村おこしを・・・・と思っておりました。
けれども、結びつく資料に出会えず、足踏みをしておりました。
それが、ある日電話により本の紹介をしていただいたのです。主人もしつこい電話にお困りだったのでは、とはんせいしております。一ヶ月後には、友人に本を紹介して下さった、仙台の方がお見えになり、何十年も気づかなかったことを,気づかせていただきました。

お蔭様で,多方面に行動が開始できそうです。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

156 持統ババアはお断り 風琳堂主人 2001/12/11 09:17

山田さん、日本史最大の妖怪「持統ババア」にならずによかったですね。
この大妖怪とその取り巻きたち(藤原氏=中臣氏)の思想を明らかにし、また現在にまで継続・存在する取り巻きジジイたちの思想もあわせて射程に入れ、瀬織津姫を歴史の闇から救い出す、つまり少しでも明らかにしたい──これが、この囲炉裏夜話の瀬織津姫談議の基本軸です。
なぜ持統ババアや不比等→藤原ジジイたちは瀬織津姫をかくも恐れるのか──。
瀬織津姫については、太古からの水の女たちの総意を神化したものというのが主人の基本イメージです。
真の妖怪には滅んでいただく──これが、トカゲさんの隠されたメッセージ=宣言です。むろん風琳堂主人もそのつもりでおります。

ところで、トカゲさん、これはわたしの直感・直観なんですけど、カサ=瘡→疱瘡神の原イメージは、後世にカッパともされていく磯良神のような気がしています。対馬の磯良神にその原型があるとみています。
また、笠はリュウとも読みますから、奥三河の十一面観音=田峯観音の北に位置する笠頭山は龍頭山だった可能性もありかなとおもっています。
早池峰山や白山の神仏のまつりかたをみていますと、十一面観音と薬師如来はセットになっている、つまり仏による神隠しの可能性があります。このことを三河の地にさぐれば、田峯観音と対となるのは鳳来寺山=瑠璃山=瑠璃光薬師ではないでしょうか。鳳来寺山の鏡岩は、アラハバキ神がまさに影向するにふさわしいです。鳳来寺田楽は、鬼への鎮魂・供養を起源としていますので、この鬼とされたものこそ、アラハバキから磯良神へとつながる海の神、龍神を信奉した海の民だった可能性があります。

157 強力な助っ人 ピンクのトカゲ 2001/12/11 10:16

真の妖怪・持統ババアが滅んでいただくためには、現代に蘇ったミニ持統ドモが幅を利かせる地方の婦人会等で現代の持統ババアドモと対等に渡り合ってきただろう山田さんのような人が、強力な助っ人になるのでは
山田さんは、山陰
あかねさんとクミコさんは、関西
サクラさんは、関東
四人の女神様、それぞれ担当お願いします。
女性の敵(男性にとってはもっとこわそう)のヒステリックな持統ババアに滅んでいただき
瀬織津姫を救い出しましょう。
忘れました俺は、東海地区担当です。
そして、主人は、コーディネーター兼全国網羅ですよ。
主人勝手に仕切ってゴメン
不比等ジジィっていわれそう。

159 北摂・三島の磯良神 あかね 2001/12/11 16:08

わぁ〜い、サクラさんだぁヽ(^。^)ノ。あったかい言葉、どうも有難う!またまた爆走、するかもしれません。サクラさんも是非、主に関東担当で参加して爆走してね!ワクワク。
わぁ〜い、山田さん、山陰の方でいらっしゃるのね!だんなの父は、石見・大田なんですよ〜(その父方はずっと京都市。だんなの母方も京都市)。で、出雲にも古い友達がおりまする。これからもよろしくお願いします。多方面に活動出来そう、とのこと。是非、爆走して下さいね!とっても意義深い事だと思います。

風琳堂主人さん、『磯良神』と云えば、私が長く住んでおります、大阪北摂・高槻市の西隣、茨木(いばらき)市辺り、つまり古代には「三島」(『三島県主』・凡河内氏・多氏・安満安曇氏・磯良氏・藍氏等々、元来は海人、安満の開拓地)であった地にも、おられましたよ!
ヤゾーさんちで、河童の話が出てるので、地元の本を読み直してると、河童→磯良神が気になってました。有難うございます。この辺りは古代には、内海が深く入り込んでいたので、もっともな話です。それで、讃岐の金毘羅さんと同体と云われる、九頭竜さんも、高槻の山々には、いるわけです。
んで、茨木市にある『疣水磯良神社』がそれです。神功皇后が三韓遠征の折に航海の水先案内をしたという磯良神。この社頭に涌き出ていた「玉の井」の聖水で、神功が顔を洗うと疣だらけになり、凱旋後にまたこの水で洗うと、綺麗に疣が取れたという、例の話が伝わっております。そしてこの玉ノ井は、摂津名所図会では『便(よるべ)の水』と書かれておるそうな。面白いでしょ〜。

私、実は瘡と聞いて、まずこの神社を思い浮かべましたが、芥川の稲荷の話だったので外したのでした。高槻の豪族・笠氏もどうも海人のようですから、やはり、もろに疣水は瘡森稲荷と関係ある社だったのですね。笠森稲荷には椋の巨木が残っておりますし、川石への子宝信仰もありますから、海人の産鉄技術・土木技術者としての性格も伺えますね!

ほんで、疣水磯良神社の由来には、『桜』も出て参ります。「井保桜・疣水の北にあり。此花木希代の大樹にして、野辺に只一本ありて遠堺より見えわたるなり。……花の盛り立春より七十日許りなり。……浪花(浪速ですね!)及び近隣より群来たりて、艶花を賞す」とあるそうです。従って、疣水の疣は本来、井保であり、木を伐って清水が涸れるように「木は井を保つ」、その井保桜の井保から、いつしか神社の聖水が疣をなくす水になったのであり、その社名の起源を「井保─疣」とするとか。

そしてこれは、ご存知の説、吉田東吾氏は『三嶋郡飯粒(いいぼ)』の名と関係があるとし、谷川氏は疣水のイボは飯粒から来るとしています。無論この飯粒は、私の故郷・播磨国にある『揖保郡』と関係するようです。風土記では揖保里の項に登場し、「揖保里を粒(いいぼ)と名づけるのは、この里に粒山があるからだ。粒山または粒丘と名づけたのは、天日槍(矛)命が韓国からやって来て、揖保川の河口に着いた時、葦原志許乎命と対立した。葦原志許乎命は、天日槍命の力が強いので、早く国占めしようと粒丘で食事をしていたが口から粒が落ちたので粒丘と名づけた」とある話ですね。
つまり、先に述べた『三島県主飯粒』の飯粒が疣になった、或は飯粒→井保→疣となったという説もあります。

更に、『播磨揖保坐天照御魂神社』と、茨木市の『新屋坐天照御魂神社』の祭神が『火明命』で、海人・尾張連とも結びつくわけですよね。逆に「揖保に坐す」の揖保が、「疣水神社」となり、「天照御魂神社」と二つの神名が出来たのかもしれないという説もあります。いずれにしても、この両社の繋がりは密接であり、その媒介には天日槍の一統(例えば斎部氏も)、火明命の裔である伊福氏、或は海人の安曇・尾張氏などが関り、銅鉄と関連深い民なのは、面白い所ですね!     〜つづく〜

161 三島の磯良から広がる…m(__)m あかね 2001/12/11 18:56

茨木市三島丘一丁目にある『磯良神社』祭神は磯良神で、その境内社には住吉神社、息長足姫、『桜姫稲荷神社』があります。この『桜姫』とは『宇賀御魂神』です。
面白いな。やはり桜の咲く・木花の咲夜に繋がり、更に云えば『溝咋』とも繋がるかも、なんて想像してます。多氏の『溝咋(みぞくい)伝承』の咋、茨木市にある『溝咋神社』(高槻市にある『三島鴨神社』と並ぶように建つ)の、『三島溝咋耳一族』(農耕と銅器製作技術を持つ海人系)の咋、更には『蹴裂(けさく)伝承』の裂で〜す。あ、大山咋神なんてのもありますね。
「稲荷は鋳土成・丹土成」ですもんね。あ、そう言えば、淀川河口近くには今宮戎神社が(よくお参りしました)、ここと対象の位置には、西宮神社(蛭子神)・石津神社(事代主神)という、えべっさんの二大拠点地がありますね。

この溝咋神社祭神、『溝咋耳』の溝とは、農業用水の水路を意味し、咋はその溝を支える杭を云います。つまり溝咋とは灌漑用水を指し、溝咋耳の娘は神武の妃『媛蹈鞴五十鈴(勢夜陀多良媛)』であり、溝咋耳は農耕神とタタラ吹きの性格を持っています。
また、和泉地方ではこの溝咋耳のことを、『大陶祗(おおすえつみ)命』といい、陶器製作にも力を入れたと云われております。高槻・茨木にも、野見宿禰(高槻に墓説のある古墳あり)・土師氏の大集団がいたので、納得できる話です。

そして百済から渡り来た大山祇神と云えば、3三島の社。最初、淀川の川中島に降臨され、後に高槻・茨木の三島の地へ移られた日本で最初の三島神社『三島鴨神社』(大山祇神・コノハナサクヤ・事代主)と、愛媛大三島の『大山祇神社』、静岡県三島の『三嶋大社』ですね。
鴨の事代主神は三島明神でもあり、三島明神はこの順路で移られたという説もありますね(別神である説もありますが)。尚、これは二神の関連が薄いようなので、どうだかわかりませんが、『葛城鴨神社』には、鴨神と、水の女神である『弥都波女神』の両神が祀られていた、という説もあるそうです。
尚、三島の鴨神社には高槻中北部にある赤大路に上社があったとされ、京都の上・下賀茂神社と同じように、鴨の本拠地の一つです。三島の鴨族は、三島溝咋耳と同族ではありません。三島溝咋耳一族は、葛城の磯城県主(多氏系のほか、物部系もありますね。高槻にも物部はいました)のように、鴨族の媛と婚姻したのかもしれません。溝咋神社と三島鴨神社の間には通婚、結婚伝承が残りますので。

う〜ん、私、播磨と北摂、また川向うの北河内や、大阪市北部に住んでた事もあるので、土地の感じも解って得してる気が。丹波も京都も近いし。海人と土師・出雲・鴨・秦の地、更に藤原の地となった地域を移動してきているような…。脱線してm(__)m

さて、茨木の九州・安曇氏祖神・磯良神は、もと『新屋坐天照御魂神社』の境内社として磯良神社に祀られていましたが、神功皇后が三韓遠征の折に天照へ戦勝祈願し帰途、感謝のため再び立ち寄った際に、途中供奉した磯良をこの地に残し、神を祀らしめたそうです。

対馬と云えば、『和多都美(わたつみ)神社』も気になります。神社前の渚には、磯良の墓(磐坐)が鎮座するそうな。

安曇の磯良神信仰のあった地に、神功説話が習合したのでしょうけど、とにかく、海神由来ですね。桜も海人縁、もっと云えば縄文だ〜、きっと。

162 参考資料 あかね 2001/12/11 19:03

書き忘れですm(__)m。159と161の参考資料は主に、市発行資料と、「鬼ものがたり 鬼と鉄の伝承」(大橋忠雄著・明石書店)からです。

163 桜と日本人 ピンクのトカゲ 2001/12/11 20:08

先ほど書店に寄ったら、『桜と日本人』という本が新潮選書から出ていました。
立ち読みでパラパラとめくった程度ですが、
藤原京、長岡京、平常京等の造営で吉野の木を切り
桜を植えたようです。
伐採をしたのは、紀州の忌部氏だったのかとか考えてます。
伊予、駿河とくると
愛媛県越智郡菊間町田之尻と静岡県清水市原に鎮座する三河一宮と同名の砥鹿神社が気になります。

164 雨桜神社の祭神は? 風琳堂主人 2001/12/12 10:23

あかねさんの快走がはじまりました。
桜姫稲荷神社の桜姫とは「宇賀御魂神」ってのはほんとうですか。としますと、お稲荷さんは女神?
瀬織津姫をまつる神社をいくつか実際に歩いてみて「おやっ」とおもったことがあります。それは、瀬織津姫を脇で、あるいは瀬織津姫の前で、まるでこの神の守護をするようにまつられているのが稲荷神のようなのです。
うまく両神を関連づけて語るにはこちらに準備がありませんでしたので、「おやっ」で止まったままになっています。

笠と桜と瀬織津姫ということで静岡県の地図帳を開いていたら、現在の住所名としては消えているのですが、桜と瀬織津姫がまた結びつく神社をみつけましたのでここに追加しておきます。
社名は大行事神社(掛川市下垂木)、主祭神は瀬織津姫。場所は、天竜浜名湖鉄道の桜木駅の近くです。この駅名にも表れていますが、大行事神社の近くには桜木幼稚園や同小学校とか郵便局の桜木局の名がありますので、ここはかつて桜木郷とか呼ばれていたんでしょう。
神社は川筋を見よ──というわけで、地図帳の小さな字を見ますと、この神社の前を流れる川の名は垂木川。下流は少し込み入った支流・合流で略しますが、上流へたどると、上垂木町上ノ宮の地に、「雨桜神社」、そして源流部の池は桜木池で、ここには白山神社。
さて、雨桜神社──どんな祭神の名が出てくるか楽しみです(後日報告)。
もう一社──。御前崎の西に位置するのが浜岡町で、ここの佐倉の地にあるのが池宮神社(主祭神:瀬織津姫)。地図帳によりますと、地名の佐倉に加え、サクラの駄目押しのような表記が眼にとまりました。「池宮」の池の名は、まさにそのものである「桜ヶ池」。
神社を明かすには川筋を見よ──というわけで、社前の新野川を遡っていきますと川は二手に分かれ、支流は朝比奈川。<川合>の地にはなんと天白神社。支流の名が気になりますのでそっちへ遡っていきますと地名に「宮の谷」とあり、さらに遡りますと、なにか待ってましたとばかりに「桜ヶ谷」の地名があります。そして源流部の神社は、貴船神社。
この貴船神社の所在地は、静岡県小笠郡浜岡町上朝比奈。東のまちは、榛原郡相良町鬼女新田。「鬼女」とは素通りできない地名です。地名に「鬼女宮」をみつけましたがそこには祗園神社しかなく、きっと三河の天白天王社と一緒で、素盞鳴の影に「鬼女宮」の女神は隠されているのだろうと想像して、ふいと隣の隣の字の地をみますと「西宮広田神社」です。これは電話をするしかないとおもって郷土資料館の紅林さんに教えてもらった祭神名は「蛭子命」。それだけですかと念を押すとそうですとのこと──。西宮神社=蛭子命は筋は通っている、しかし「広田神社」の神である天照大神荒魂=瀬織津姫はどうなった?
これが瀬織津姫の現在だなとあらためておもったのでした。同町には滝ノ宮神社もあり、これも確認してみたところ、祭神名は彌都波能売命とのこと。相良町には男神・女神の字名があり、関係資料を送っていただけるとのこと、これはまた報告とさせていただきます。
さて、小笠郡の「笠」で、同郡一帯を地図帳でさぐりますと、どうやら薬師堂の多さを特徴とするようです。そして井ノ宮神社の多さも目にとまります。
「木は井を保つ」──あかねさん、この卓言も、神明かしの辞書に登録させていただきました。応用編T──井は田も木も育てる──イタキソ、これは失敗の応用例です。

165 庵原と笠朝臣 ピンクのトカゲ 2001/12/12 12:59

清水市原に三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座します。
「駿河の国の茶の香り」と歌に唄われる清水港
しかし、この清水も穂国(東三河)と同様
律令以前は、庵原国と呼ばれていました。

庵原国造について
旧事紀巻の十・国造本紀は、
「成務の時代に、池田坂井君の祖・吉備武彦命の兒思加部彦命(みこしかべひこのみこと)を国造に定めた」
旨を記載する。
また、新撰姓氏録の巻五・右京皇別下は、庵原公について
「笠朝臣と同祖・稚武彦命の後なり、孫の吉備武彦命が、景行天皇の時代に東方に派遣され、毛人(蝦夷=エミシのこと)及び凶鬼神(まがつかみ)を伐って、阿部庵原国に至り、復命の日に庵原国を給わった」
旨を記載する。

庵原公と笠朝臣とは、同祖ということになります。
ここでも笠が登場しました。
持統が死を賭けた三河行幸、その目的は、祭神変更にあったわけです。
その三河の一宮と同名の神社が笠朝臣と同祖の庵原公が国造になった
いにしえの庵原の国に鎮座するわけです。

庵原国の砥鹿神社は、庵原川の流域に鎮座し
元々は、九万(クマ)神社と呼ばれていたようです。

この庵原川の支流に山切川があり、庵原川と平行として流れています。
この山切川流域には、式内・久佐奈岐神社(くさなぎ)が鎮座します。
祭神は日本武尊、弟橘姫命、吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬脛命が配祀される。

九万神社の名は、日本武尊に伐たれた熊襲タケルに因むものだそうです。
いつしか九万では、少ないから十万(トマ)神社となり、
江戸の中期、宝暦年間(1751〜1763)に十万(トマ)から砥鹿(トガ)になったとのことです。

166 イサフ ピンクのトカゲ 2001/12/13 07:29

「ちびまるこっちゃん」こと「さくらももこ」で有名な清水市を流れる庵原川
砥鹿神社が鎮座する原より少し上流に
伊佐布の地名がありました。
おそらく、イサフと読むであろうと思います。
イサフの音から伊雑(イザフ)が連想されます。

ヤマトタケルの東征をはじめとする記紀で語られる大和朝廷の征夷神話ゆかりの場所に
サクラ&カサ&瀬織津姫等がセットで置かれているような気がしてきました。
逆にいえば、このセットで置かれている地の伝承をつむいでいけば、
大和朝廷が先住民を侵略した真実の歴史が明かされるのではないか
そんな予感がしています。

167 鉄と桜と天女 風琳堂主人 2001/12/13 10:41

丹後半島とともに天羽衣伝説で知られる「三保の松原」のある<三保半島>(地図に半島名も岬名も記載がありませんので仮にこう呼んでおきます)に囲まれた湾が折戸湾で、この湾に面するまちが静岡県清水市。湾名ともなっていますけど、清水市折戸町にある瀬織戸神社に瀬織津姫がまつられています。天女伝説の三保半島です。
この折戸湾を河口とする川が巴川で、この川が清水市の中心部を流れています。瀬織津姫とサクラの関係はここでも浮かんでくるかと地図帳をにらんでいましたら、やはりありました──「桜橋町」「桜橋通」です。
この桜橋通と巴川の交点の橋は千代橋らしいですが、ここがかつての「桜橋」だったのかもしれません。この橋の下に鎮座するのが水神社で、現在の祭神名は未確認ですが、瀬織津姫であった可能性は9割以上といえます。
巴川をたどって、気になる神社を書き出してみます。まず河口部の水神社の上には白鬚神社、そして桜木神社、佐口神社、天白神社とつづきます。
また桜橋町を中心に見てみますと、しかし近くには瀬織津姫と直接関わりそうなめぼしい神社はなく、もし洗い出すならここかなとおもえるのは二社。一社は清水市桜橋町にある稲荷神社、もう一社は桜橋町の西隣の追分町にある春日神社(追分町の南隣は春日町です)。島根県石見町日貫の桜井神社の例もあり、春日神が瀬織津姫にかぶっている可能性も考えておく必要がありましょう。
トカゲさんが指摘した砥鹿神社の所在地は清水市原町で、その北隣がイサフ─イサブ─伊佐布です。伊雑宮との関連の可能性をさぐるなら、伊佐布にあります伊勢神明社でしょう。同社と砥鹿神社を結ぶ川は庵原川ですが、両社の間には羽根神社の名があり、当地は天羽衣伝説の清水の地ですから、ここにも天女伝承があるような気がします。
また、庵原川流域には須賀神社や金谷の地名もあり、全体、駿河湾沿岸部はたしか浜砂鉄の地でもありましたから、やはり、駿河湾内陸部を含めた、この鉄を簒奪する東征ルートがヤマトタケル説話の根幹にあるとおもいます。
東海地区はトカゲさんのテリトリーですので、鉄と天女と瀬織津姫が結びつく話があればまた教えてください。

168 引越し 岩手のGO 2001/12/13 23:15

すみません、引越しした為にURLが変更となりました。
福住さん、よかったらリンクの変更をお願いします。

http://www.gos1dos1.jp/otogiyahp/

169 遠野の秘境滝 風琳堂主人 2001/12/15 06:44

本格的な雪です。
GOさん、リンク引越しの件については了解です。

昨日は「雪の又一の滝」行&撮影へのお誘いをありがとうございました。この1年間、遠野の外はおろか、この部屋の外へも、ほとんど一歩も出ないという信じられないようなモグラ生活=仕事がまだ続いています。あと一ヶ月余で解放されるかなというところです。今が追い込みの時期で、半日の時間を確保するのがむずかしくていますが、どこかで、極寒の季節になってしまうかもしれませんけど、ぜひ行きましょう(雪ならぬ「氷の又一の滝」が見られるかも)。
おっしゃるとおり、遠野の秘境のひとつが、この女神の滝=又一の滝です。今年、瀬織津姫に会いにきましたと、この滝へむかった人が、主人が知るかぎりですが、二人いました。
女神の本のトビラにはどうしてもこの滝の写真を載せたいと撮影行をして、はやくも1年半近くになります。緑濃い中の滝もいいですが、雪や氷の又一の滝もまた味わい深いことまちがいないです。
瀬織津姫ゆかりの滝を訪ねて各地を歩きましたけど、この遠野の秘境滝を超える滝にはまだ出会っていません。アラハバキ神と瀬織津姫が一体となったような、ほんとうにいい滝です。

170 本宮山の滝 ピンクのトカゲ 2001/12/16 22:32

今日、本宮山に行ってきました。
温暖な三河では珍しく、山頂付近は、雪が降ってました。
そんなわけで詳細な探索はしませんでしたが、
案内の地図を見ると
奥宮から少し下ったあたりに
陽向滝不動尊
乙女前神社というのがありました。
陽に向かう
何かアマテラスを暗示させます。
それと、桜淵の一つ上流の橋
弁天橋です。
詳しいことは、解り次第

171 サクラs(*^-^)ノ☆ 2001/12/16 23:13

ご主人、ピンクのトカゲさん、こんばんわ!

遠野はもう、雪ですか?
雪の又一の滝...神秘的でしょうね。
滝や瀬が好きです。
だから、素敵な写真とれたらUPしてくださいね。
楽しみに1ヶ月でも2ヶ月でも待っています。

三河の本宮山も雪景色...
桜淵と弁天橋ですか...なにやら雪景色に瀬織津姫の
姿が浮かんできます。
ピンクのトカゲさん
わかったら、教えてくださいね!楽しみにしています。
それにしても、桜淵...春は桜が水に映ってきれいでしょうね。

ご主人、ピンクのトカゲさん
雪見酒って、日本酒がおいしく飲めそうですよね。
うーん、遠野にも、三河にもおいしいお酒ありそうですね。

あかねさーん!
    山田さーん!
とうとう、今年もあと少し...
 楽しい、書き込み期待しています。(ワクワク)

172 追伸 ピンクのトカゲ 2001/12/17 13:26

午前中、竹生神社から200bほどの取引先に行ってきました。
桜淵の一つ上流にかかる弁天橋の袂には、弁天様が祀ってあるようです。
本宮山の乙女前神社
「神社を中心としたる宝飯郡史」によれば、祭神は、大山祇、天鈿目、少名彦となってますが、
じゃぁなんで乙女前なんだって
一度、図書館で「砥鹿神社誌」見てみます。

173 「水」を表示せよ 風琳堂主人 2001/12/17 23:55

さくらさん、雪見酒の香りがただよってくるお便りです。
三河も遠野─岩手も、瀬織津姫ゆかりの水をつかったお酒があります。
これ、少し脱線ですけど、たとえばわたしが愛飲している純米酒にしても、その「原材料」の表示をみますと「米・米麹」となっていて、醸造アルコール等が添加されていないことはよしとおもいますけど、しかし、なぜ「原材料」の表示から「水」を省くのかと密かに疑問におもっています。米と米麹だけで「酒」はつくれません──と蔵元に、あるいはこういった表示の「行政指導」があるなら、その筋にいつか言ってみたいとおもったりしています。
先日、若くして亡くなった遠野の蔵元のご主人も、お米のよしあしの問題はわずかなこと、酒は「水」が命だと言っていました。遠野のようなところでさえ、伏流水は酒づくりには使えなくなってきているそうで、地下800メートルまで掘ってかろうじて「酒の水」を調達しているとのことでした。

三河の本宮山にも雪が降りましたか。ここ二日、遠野は見事な雪景色ですが、これは、まだ根雪にはならないだろうとのことです。
東三河の大河・豊川中流の景勝地「桜淵」に「弁天」さんですか。それと、新城竹生神社の奥宮=滝明神と末社=アラハバキ神と瀬織津姫──。三河の最古社のひとつでもある新城の石坐神社の謎の比売大神ですが、だんだんこの神の名を明かす網が絞られてきましたね。
本宮山の「陽向滝」と竹生神社の奥宮の「滝明神」は同体同神とおもっていいんじゃないでしょうか。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命──の「むかつひめ」は「向かつ陽女」でもあり、紀州の日前さんとも通ずるものとおもいます。陽向滝は、陽に向かう=対面する滝の意とすれば、少なくともこの滝の神は、瀬織津姫とみてよいだろうとおもいます。それに陽向滝不動尊の存在も、遠野─早池峰郷の滝神=瀬織津姫の祭祀方法と一緒ですね。
トカゲさん、本宮山に熊野修験の痕跡か記録が残っていれば、陽向滝の女神は瀬織津姫だと9割方断定してよいかとおもいます。乙女前神社の祭神が、たとえどんな名の神になっていようとも、です。

175 笠朝臣と桜と弁天と笠形山 あかね 2001/12/18 13:35

ピンクのトカゲさんちで書かせてもらった話を、風琳堂さんちで、まとめさせていただきますね(^_^)v 殆どそのままでm(__)m

●笠朝臣、吉備族って、ほんまに不思議ですね。
 針間も加古川左岸までは、吉備だった、と考えたら自然な気もしてます。針間の間って、加古川のことだったりして。間はハシとも読みますよね。やっぱり、野見・土師ですか。大雀の母は日子寝間。その弟が若建吉備津日子…。
 託って高とも書いてアジスキ関連だから、やはり東針間・託賀郡は高木神の地とされたんでしょうか。多加なら若建吉備津日子かぁ。
 庵原氏って、確か吉備氏のほかに、国前氏とも同族でしたよね。う〜ん…

●鈴鹿市にあった「倭文神社」は、「加佐登神社」へ合祀されてるそうです。
 「加佐登神社」はかつて、「御笠殿」と呼ばれてたそうな。そうなら、これも、「笠臣」に繋がるのかな。んで、高槻・芥川「笠臣」は、継体の陵とかの造営にあたったのかしら。
 兵庫県印南の針間之伊那毘能大郎女も、若建吉備津日子系だっけ。何が云いたいのか解らなくなったきた〜。
 ああ、もう、ややこしい!全部、多多で、くくってやる〜〜と、ぐるぐる巻きのあかねです。

●桜のつく方のお話です。
 推古天皇の弟(或は妹)に『櫻井之玄王』が。敏達天皇と推古天皇の末子にも、『櫻井玄王』がありますそうな。

●大阪の北摂・高槻市だったかに、弁天山があります。
 ここには、弁天山古墳があって、確か弁天さんが祀られているはずです。まだ調べておりませんです。
… … … … … … …

●>茨木市三島丘一丁目にある『磯良神社』祭神は磯良神で、その境内社には住吉神社、息長足姫、『桜姫稲荷神社』があります。この『桜姫』とは『宇賀御魂神』です。
 この件について、資料を再読しましたら、『桜姫稲荷神社』の祭神は、『宇賀御魂神』だと書いてあるだけでした。どんな目をしてるんだ〜、私よ〜m(__)m
 で、稲成は瀬織津姫さまを、まもるようにして鎮座する、ということからすると、磯良神をまもっているとなるわけですが、磯良神だとするのは何か変ですね。もしかしたら、まもっている祭神の桜姫とは、桜の咲く・木花の咲夜に繋がるかもしれない『溝咋耳』の娘さん、神武の妃『媛蹈鞴五十鈴(勢夜陀多良媛)』のことかもしれません。農耕神とタタラ吹き・土師(葬送も含む)の性格を持つ溝咋氏の姫君をまもるには、稲成・鋳成・丹成の社が相応しい感じがします。磯良も溝咋神社も、同じ茨木市にありますし、畿内隼人は淀川の川向うの、京都府八幡市の八幡神社でも土師を製作してヤマトへ納めておりましたので(隼人の村があります)。磯良神の女神かもしれませんが、ちょっと忘れました。桜姫については多分、茨木の図書館で調べないとわからないかもしれませんでの、時間ができたら行ってみます。

●播磨国風土記に出て来る託賀郡の、今は八千代町(辺りは野間谷といいます)という町に、『貴船神社』が何社か鎮座しております。
 川は、「野間(のま)川」が流れており、西脇市の板波(いたば)辺りで、加古川本流と合流しています。この板波の地に、『石上神社』があって、そこには『ねってい』という、相撲の古体行事が伝わっておるそうです。野間谷の山には、「姫滝」という滝もあります。勝手ながら、ヤゾーさんちのBBSで、説明してさせてもらってますので、一度、ご覧下さいませ。後日、こちらで、板波の石上について、まとめさせていただくかもしれませんが。
 尚、八千代の貴船や滝、板波の石上神社の件は、西隣の神崎郡とも、北にある『笠形山(かさがたやま、地元では笠形さんと呼んで親しまれている)』が両郡(厳密には3郡)に渡っていることから、色々と関係して参ります。野間川は、笠形山から流れ出しており、笠形山山頂の大岩や笹原なども面白いですので。この辺り、基盤が3種、入組んでおりまして、その岩の種類によっても、いた民の意味合いが若干ですが、異なってきたりするようです。
 この辺りも宿題とさせて下さい。神崎郡の話と併せて、ちょっと触れるかもしれませんが、まず、ちょっとややこしい岩盤を調べ直さなければなりません。

宿題がいっぱい残っています。気は急くのですが、つい今興味の大きいところから書いてしまいましたm(__)m

181 今も泉涌く泉涌寺 ak(*^a^*)ne 2001/12/19 22:27

ピンクのトカゲさん、泉涌寺公式HPより抜粋しますね。
『山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、順徳天皇の御 代(健保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師が時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事により寺号を泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている』

http://www.mitera.org/  でーす(^_^)v


182 桜と鉄    私のメモ 山田明子 2001/12/19 22:51

お久しぶりです, 今晩もよろしくお願いします。
やっと,少しは上手になりました。と言っても4日間の講習、判読してください。とても専門的な知識をお持ちの皆様,アドバイスをお願いします。

  桜

・ 短歌では花は桜・・・
・ 日本の花は桜・・・・
・ 我が村の周辺の桜・・神社・地名
  三桜神社、桜井神社、桜井ふとのりの臣神社,桜江町
  桜井郷
・ 横浜市の郊外に全てが桜井姓の町があるそうです。本
  家と思える家は8万坪の大地主、知人を通してただいま
  問い合わせ中。

  鉄

・ 出雲神話は鑪の物語でもあるようです。
  鑪は出雲地方のみならず、中国山地の石見部も、多く
  の鑪山がありました。我が村の多くの鑪山の鉄の記載
  が県へ報告されていない。という不思議なこともあり
  ます。鉄はどんなルートでどこへ消えたのでしようか

  メモ

・ 平田市・・・銅山があつた。
        上田正昭先生が感動されたと聞く、黄泉
        の穴がある.

183 桜と鉄と詩 風琳堂主人 2001/12/20 00:37

トカゲさんが詩人になりました。
楽しいですね。

あかねさんの加古川情報は、いろんなことを考えるヒントの宝庫です。姫滝=闘龍灘の姫の哀話が意味する=比喩するものとは……。
加古川の別名のひとつ「田高川」の「たこう」は「たこ」→「たか」でもあるかもしれませんね。これは多賀ともなれば、鏨(たがね)の「たが」にも通じます。
先回の野間川の要領で、青玉神社発荒田神社まで杉原川を下降してみます。まず最上流部の青玉神社→西宮神社→金刀比羅神社→大歳神社→厳島神社→五神社→荒田神社。荒田の里の西隣は、野間川上流の鹿子神社です。
こちらも野間川に劣らず見事な社の配置です。荒田の里の入口には「月ヶ花」などという地名もあり、ほかに、熊野部、岩座神(いさりがみ)、棚釜、多田、的場の地名……。
列記した社名で、あまりポピュラーでない神社とおもえる「五神社」とはなんなんでしょう。
以下はもしやということでメモさせてもらいます。
杉原川の支流に多田川があります。途中にまるで異物のように登場するのが春日神社なのですが、さらに源流部の岩座神の地にまでさかのぼりますと、「五霊神社」と「神光寺」です。五神社と五霊神社の「五」は数字の五なのかどうか、つまり五柱の神をまつっているという単純な意味の五なのかどうかという小さな疑問なのです。
この疑問は主人の詩的な直感・直観からきています。瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の「厳之御魂=いつのみたま」の「イツ」の意の可能性はないのかということなのですが、どうなんでしょうか。それと、隣町の生野町にあります姫宮神社境内社の「五社神社」の配祀祭神に瀬織津姫の名があり、それも「イツ」の社を想起させるのです(姫宮神社の所在地:兵庫県浅来郡生野町口銀谷[くちがなや]3-781)。
以下は播磨国風土記の「神前[かむさき]の郡的部[いくはべ]の里の記述です。

石坐山というのは、この山は石を載せている。また豊穂命が鎮座……

高野の社[もり]というのは、この野がよその野より高い。また玉依日売命がおいでになる。だから高野の社という。

的部[いくはべ]は現在の的場、石坐山は現在の笠形山か岩座神[いさりがみ]の地にある千ヶ峰か飯森山のうちのどれかかなと地図をにらんだりしています。高野の社[もり]はまだわかりませんが……。

我が村の周辺の桜・・神社・地名
三桜神社、桜井神社、桜井ふとのりの臣神社、桜江町、桜井郷

山田さん、サクラ─桜のオンパレードですごいですね。
山田さんの「我が村」とは、島根県邑智郡石見町日貫[ひぬい]のことですが、ここの桜井神社の祭神が八十禍津日神=瀬織津姫で、この日貫の近在に、島根県では珍しいくらいにサクラ─桜が集中しています。また、ここも砂鉄の産地です。
しかし石見の鉄はどこかへ「消えた」──。これは、逆に、消えた鉄の地に「桜」があとから付けられたものかもしれません。タタラと鉄の話ならあかねさんの出番ですね。よろしくお願いします。

184 続きです 山田明子 2001/12/20 11:37

昨晩はキーボードがロック状態になってしまいました。

・ 我が家より1キロの場所の地名 花之木
  元宮と呼ばれている祠があります。
  御崎神社・・・竜神、蛇、はんざけの信仰

  後ろの山の地名 湯谷悪谷・・・遺跡
  弥生時代の集落跡
  出土品・・・石の臼、石の皿ー4、5000年前のもの
        鉄ーーーーーーー古墳時代のもの

・ 四方に滝、村の川は龍のようです。

・ 宝光寺・・・浄土宗、元禅宗  薬師如来
  桜井神社
  これらは同じ彫り物があり、熊野の修験道

 21世紀は日貫からと言った人がいらっしゃいます。考え
 られることは瀬織津姫のみ、皆様今後ともよろしく。

186 隠し鉱山 ak(*^a^*)ne 2001/12/20 20:34

山田明子さん
>中国山地の石見部も、多くの鑪山がありました。我が村の多くの鑪山の鉄の記載が県へ報告されていない。という不思議なこともあります。鉄はどんなルートでどこへ消えたのでしようか
 鉄を鑪とお書き下さってかなり嬉しいです。鉄は当て字で本来、鉄の字には鑪の意味は含まれませんもんね。
 鑪山の鉄の記載が県へ報告されていないのは、『隠し山』があったから、かもしれませんね。
 あ、初期の石臼は、豊穣だけでなく、鉱物の成りを願う餅つき神事とも関ります。米餠搗(鏨)大使主命とかと。
 もっと書いてたんですが、推測だらけなんで消しました。失礼しました。

187 砥鹿再考 ピンクのトカゲ 2001/12/20 23:22

視界一杯に裾野を広げる本宮に向かいハンドルを操る。
ここのところ連日新城に出かけている。
本宮山スカイラインに向かう竹生神社付近の取引先
仕事の話も終わり
現在竹生神社の末社として、合祀されている
滝神社=瀧明神(祭神・瀬織津姫)の旧鎮座地について聞いてみた。
旧千郷村の臼子地区、つまり、竹生神社を越え人家が途切れるあたり
の山手(右方)が大字豊栄字石松とのこと
本宮から北に連なる神峯連峰の一つ徳定神峯の中腹辺りに滝があるようだ。
取引先からの帰り、早めに昼食を済ませ
図書館により「砥鹿神社誌」をコピーした。
仕事が終わり、今それを整理しながら打ち込んでいる。
本宮山に鎮座する乙姫前神社
元々は、現鎮座地より南の蔵王峯下に鎮座した。
蔵王と言うことになれば、役行者
つぎに、里宮の本宮遥拝所横の守見殿神社
元の鎮座地は、境外末社・津守神社より更に東北に鎮座したという。
立札に書かれていた迦久神は、守見殿神社に合祀された鹿角神社、
そして、倉稲魂神は、社宮神社
鹿角神社は、大字一宮字大池、社宮神社は、同野添に鎮座した。
奥宮にも奥宮横に守見殿神社が鎮座する。
文政五年の『本宮山眺望記付録の絵図』には、守見殿神社は、描かれておらず、代わりに本殿の背後に薬師堂が描かれているという。
江戸時代に編まれた『三河冊補松』は、「是は荒魂、奇魂なるかと云説あり一社は不詳土人薬師と云う」と記す。
本宮山眺望記付録の絵図から守見殿神社(祭神・大乙貴命和魂)は、薬師ということになる。
荒魂は、荒羽々気神社(祭神・大乙貴命荒魂)であろう。「一社は、不詳」は、荒羽々気神社であろう。
迦久神は、古事記、国譲りの条に天迦久神と同神とする説がある。
天照大神の命により天尾羽張神の許に使える。
一方、平田篤胤は、天迦久(鹿児)弓、天迦久(鹿児)矢のこととし、鹿神とする。
砥鹿神社は、この説を採っているわけである。
幕末から明治に掛けての吉田羽田八幡宮の神官・羽田野敬雄は、砥鹿神社神官・草鹿砥宣輝に鹿角神社について尋ねたところ「社地は、宝川の辺りに在り、社はなく、一つの塚を祀れるのみなり。鹿の御霊を祀ると社伝に在りといわれた」と記している。
益々、播磨風土記を思わせる記載である。
なお、平田は、迦具土神の御骸が天に上り香山と化り、香山の鹿を捕らえて太占に用いたと
傍証をしている。

188 姓氏家系大辞典『笠』の項 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2001/12/22 09:55

aK)^a^(Neさんからの宿題の「笠」について
太田亮氏著『姓氏家系大辞典』笠の項を基に
備中小田郡付近に笠国があります(後世に小田郡に笠岡あり)。
国造本紀に「応神の時代に鴨別命を笠臣国造に封ずる。八世孫・笠三枚臣を国造に定め賜う」
古事記に「若日子建吉備津日子命は、吉備下道(←備中)臣、笠臣祖なり」
書紀仁徳六七年条にも備中笠臣の記載あり
同天武一三年条に朝臣の姓を賜ると記載
新撰姓氏録に「応神が加佐米山に巡幸の際、笠が飛ばされ云々。笠臣の姓を賜った」故事の記載※丹波の加佐(訶沙)郡と関係があるのか?
続日本紀天平神護二年一〇月条に「備前国の三財部(みたからべ?)が笠臣の姓を賜う」
などなど
鴨別命と笠臣&吉備氏が関係があることが解ります。
次回は、庵原国造について

189 宝塚 桜ヶ丘と桜台 クミコ 2001/12/23 14:13

この前お話しした甲山もう少し北に行くと
宝塚市に入ります。
逆瀬川に沿って東に行けば、伊和志津神社があります。
ここが広田神社にある伊和志豆神社と、
どちらも延喜式内社と称して
真偽いずれともつかないままのようです。
逆瀬川は武庫川と合流。
宝塚歌劇団を楽しむことなく、176号線越え、
哀しみを抱えてもう少し北に行くと清荒神。
竈の神様です。
この川沿いに桜ヶ丘という地名がありました。

176をもう少し東に行けば、
十一面観音 腹帯で有名な中山寺にすぐに着きます。
この北にも中山桜台という地名がありましたね。
中山寺奥の院には行ったことがないのですが、
「大悲水」 という病気に効くといわれている涌き水があるそうです。
ここは梅で有名だそうですよ。
もう少し東には松尾神社。

今日は本当は枚方市の地図を開いていたのですが、
そこにも桜丘町が…梅が枝が…星ヶ丘が…
桜にとり憑かれてしまいましたよ。ピンクのトカゲさん!

190 「大悲水」 クミコ 2001/12/23 18:44

あれから気になって中山寺奥の院、検索していましたら

中山奥之院の「大悲水」は、病気治療や厄よけにご利益のあるというわき水。
その由来は、古代の皇位継承争いで悲運の死を遂げた忍熊皇子(おしくまのおうじ)にさかのぼる。
彼の亡き骸を納めた石棺から一羽の白鳥が飛び立ち、巨大な岩影に消えた。
人々はこれを「白鳥岩」と名付け、そこにわく水とともに信仰するようになった。

というhpを見つけました。
http://homepage1.nifty.com/ojin/okunoin.htm

そして蓬莱山
http://web5.freecom.ne.jp/~hebrew/houraisanz.html

風琳堂ご主人
よろしくお願いします。

191 庵原君 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2001/12/23 20:24

姓氏家系大辞典の庵原の項で太田氏は、
姓氏録に「吉備建彦命が、阿部庵原国に至り、復命の日、庵原を給う」と書かれていることから
庵原は、阿部の一部であり、吉備建彦命が、庵原を賜る前は、阿部氏が経営していたが、阿部庵原国(駿河の西部一帯)の東部を割いて、吉備建彦に賜り、庵原国としたのではないかとしている。
また、国造本紀の『池田坂井君の祖・吉備建彦の児・意加部彦命』については、
池田坂井君とは、越前坂井を、意加部とは、駿河国志太郡岡部を指すのではないかとしている。
そして、日本書紀に依れば、吉備建彦(武彦)は、日本武尊の東征に従い帰路、越国に分遣されており、角鹿国造が吉備建彦の氏族であることから、この角鹿国造一族が更に庵原国を与えられたのではないかとしている。

さらに庵原氏について、越智系図に「考霊天皇―伊予王子(彦狭嶋命)―大宅姓(伊豆三嶋是なり、八歳にして駿河国清見崎に着き、大宅に住む。故に大宅を以って氏となす。現三嶋大明神、従一位諸山積大明神というなり、子孫繁栄し、庵を立てて並ぶ故、庵原という」とする。
また、予章記に「考霊天皇の第二皇子・伊予王子=彦狭嶋命(吉備建彦の弟)が、和気姫を娶り三子を産み給う。嫡子の御船、伊豆国に着く(後略)」
清見崎は、現清水港を諸山積大明神とは、庵原郡の式内社豊積神社を指すか伊豆の三嶋大社を指すのではないかとしている。

伊予王子と越智系図の言葉から愛媛県越智郡菊間町田之尻に鎮座する砥鹿神社との関係が気になる。
また、三島水軍の東漸をにおわすものでもある。
なお、、太田氏は、土師師流の庵原氏として坂上系図に「土師軍監正実―左兵衛尉維正―正雄(庵原三郎、始めて駿河国に住む)」なる記載を紹介している。

関西担当クミコさん頑張ってますね。

192 笠(瘡)と庵(疣) pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2001/12/24 09:38

庵原は、五百原とも書き
庵原=五百原の庵(イホ)は、揖保に繋がるわけです。
さらに、aK)^a^(Neさんが、指摘しているように
揖保は、疣に通じるわけで
さらに、笠森稲荷が疣取の神様ということになれば、
庵原君の庵=疣と笠朝臣の笠=瘡は、通じるわけで
庵(疣)=笠(瘡)という等式も成り立つわけです。
さらに、サクラと笠ということになれば、サクラには、腫れ物を静める意があるわけで
さらに、サクラにこだわった宣長の生地・松阪は、蒲生氏郷が改名するまでは、
四五百(ヨイホ)と呼ばれたわけで、ここでサクラとイホもつながれが出てきます。

つぎに三河一宮・砥鹿神社との関係に言及しますと
越智系図に伊予王子=彦狭島の名が出ており、
愛媛県越智郡菊間町田之尻に鎮座する砥鹿神社の関係が
まずあげられます。
そして、土師師流の庵原氏は、元来、河内の人ということになってますから
現在、栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺に鎮座する砥鹿神社の元の鎮座地は、
下野国河内郡河内郷(現栃木県河内郡川内町下岡本)であったわけですから
この河内郡と大阪の河内国との関係が気になります。
また、三河一宮・砥鹿神社の社家には、トガリ氏がおり
河内の利雁神社との関係も気になるところです。
さらに、トガリということになれば、加賀国に刀何理神社が鎮座することから
角鹿(越国)の坂井との関係も気になります。

また、新撰姓氏録の巻五・右京皇別下は、庵原公について
「笠朝臣と同祖・稚武彦命の後なり、孫の吉備武彦命が、景行天皇の時代に東方に派遣され、毛人(蝦夷=エミシのこと)及び凶鬼神(まがつかみ)を伐って、阿部庵原国に至り、復命の日に庵原国を給わった」
旨を記載し、
これに対し太田氏は、庵原は、阿部の一部であり、吉備建彦命が、庵原を賜る前は、阿部氏が経営していたが、阿部庵原国(駿河の西部一帯)の東部を割いて、吉備建彦に賜り、庵原国としたのではないかとしている。

庵原国(現清水市原)鎮座の砥鹿神社は、元は、九万神社と呼ばれ、
熊襲梟師を祀ったとされるが、姓氏録で「毛人(蝦夷=エミシのこと)及び凶鬼神(まがつかみ)を伐って」と記載されていることから、まつろわぬ神の象徴として、また、虚構の記紀の日本武尊東征の記載から熊襲梟師の伝説が生まれたのではないかと考えられるのである。
また、庵原国は、元は、阿部の一部であり、阿部氏が経営したのであれば、
阿部氏が、この「まつろわぬ神」ということになる。
攝津の阿倍野と土師師流・庵原氏との関係
さらには、長髄彦の兄・安日彦=東北の安部氏の関係なども気になるところである。

193 武蔵桜田郷の桜木神社 サクラs(*^-^)ノ☆ 2001/12/24 19:00

ふと気がついた休みに、桜木神社に行ってきました
都営三田線春日下車
銀杏並木の黄色い枯葉を踏みながら、春日通りの坂を
上ると、さほど広くないながら、風景に収まって
桜木神社がましました。

御祭神
菅原道真公

桜木神社縁起略記

桜木神社は約500年前御土門天皇の御宇文明年間(1467〜87)に
太田道灌江戸築城の際、菅原道真公の神霊を
京都北野の祠より同城内に勧請せられたものを
その後、湯島高台なる旧桜馬場の地に神祠を建立して
其の近隣の産土神として仰がしめ、桜木神社と名づけられたといわれる。
その後、元禄三年(1690)、徳川綱吉が同所に湯島聖堂を中心とする昌平坂学問所、
を開設するに当たり翌年現在の地に遷座された。

神社裏手の稲荷明神も祭られていましたよ。

わが庵は 松原つづき 海近く
     富士の高根を 軒端にぞ見る

道灌の江戸城も桜田郷に在し、日比谷神社や桜木神社までも含まれています。
桜田郷をあちこち散策...台場はそのころ海でした。(^^)

山田さん
このくらいしか、今日はわかりませんでした。
また、何かわかったら書きますね。

194 白鳥と狂鬼神と女神 風琳堂主人 2001/12/25 09:01

大変なことになってきました。
クミコさんがたどりついた忍熊皇子と白鳥伝説の中山寺奥の院──。
トカゲさんの九万神社→砥鹿神社の狂鬼神(まがつかみ)と、三島水軍東漸説──。
サクラさんの、桜木神社=菅原道真と江戸城築城(の際の鎮護=守護神化)──。

怨霊神の霊の浄化願望の過程に「白鳥伝説」は誕生し、その浄化の結果、怨霊神は(浄化を願ったものにとって)守護神に転化する=転化させられる──。
「怨霊」を生産した側の願望は自身の行為を内省することなく、ひたすら対象が怨霊化しないことを望みます。勝手なものですが、これが古代の支配過程の「神」誕生のメカニズムでもあります。

忍熊皇子と菅原道真、そして無名の蝦夷=エミシ=狂鬼神たち──。そして聖徳太子の系譜の断絶の意味すること、さらに禊祓神=瀬織津姫の誕生の問題。これらは、ひとつのことを示しています。
瀬織津姫と古代(─現代)の王権思想との不倶戴天の関係は、小中大の無数の怨霊神を呼び込んできます。
抽象的な話ですみませんが、たとえば忍熊皇子が怨霊と化すことをもっとも恐れたのが、神功皇后─武内宿禰でした。
皇后と荒魂=瀬織津姫=広田神社の誕生説話には、まだだまし討ちにあう前の忍熊皇子たちが神意を占った場所が「菟餓野」と出てきますから、あれやこれやが、みなつながってきます。
広田神社─中山寺─丹波─出雲の日本海と、瀬戸内海─三島→三島大社の黒潮の悲空を飛びゆく、飛びきたる一羽の鶴=白鳥がみえるようです。大変なことになってきました。

(追伸)
ただいま主人の生業は常識はずれの局面にあって、そこへ密度の濃い囲炉裏夜話です。ううんとうなりながら、ポイントの感想のみでゴメン、です。あと一月です。

195 イオとトガ クミコ 2001/12/26 07:28

神戸のイオとトガを見つけました。

魚崎八幡宮神社: 旧魚崎村の氏神である応神天皇を祭神とし、
五百(いお)八幡神社ともよばれる。

そして都賀川 この近辺にある古墳にまつわる悲話に
菟原(うない)という名前が出てきますが、
この都賀川の流域を菟餓野(とがの)との記載がありました。

どちらも地域としては摩耶山の東のすその。(灘区)
天上寺には炎上し今の地に移る前は、灘区から登るル−トが一般的でした。

ピンクのトカゲさんのおしゃっているイオとトガに何か繋がるでしょうか?

196 主人に代わって 風琳一家代貸pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2001/12/26 12:26

主人本業の締切に追われ
大忙しのようです。
一月中には、一段落つき
営業を兼ねて、フィールドワーク再開するそうです。
現地レポート楽しみです。
ということで、代貸のトカゲが
主人に代わり

五百八幡神社の祭神が応神天皇ということですね。
その応神(直接的には、神功&武内)に討たれるのが
忍熊皇子で、
主人の指摘によれば、
だまし討ちにあう前の忍熊皇子たちが神意を占った場所が「菟餓野」
庵原に鎮座する砥鹿神社の祭神は、熊襲梟師とされています。
忍熊皇子、熊襲梟師いずれも王権に討たれた側が、トガの地名に関っているわけです。
トガもサクラと同様、ダブルミーニングと考えられますが
王権側の思想からは、トガ=咎ということでしょうか?
中山寺─丹波─穂国─庵原国の解明によりヨリ直接的なイホ&トガの関係が見えてくると思います。
クミコさんご指摘の中山寺が重要な鍵になると思います。

197 あまざかる クミコ 2001/12/26 16:22

天離る 夷の長道ゆ恋来れば 明石の門より 大和島見ゆ                     柿本人麻呂

    撞賢木・厳之御魂・天疎・向津・媛命

天日槍から逃げてくる阿加流比売を思い出しました

198 ak(*^a^*)ne あかね 2001/12/26 17:23

私も締切直前。しんどいとね、ヘロヘロなんだけど脳内麻薬物質が出てる感じになって、却って仕事がはかどったりするのです。でもくたびれたな。さぁ仕上げて休むぞ〜。

●中山について…参考資料/山海教他
 中山の名前とか、中山寺の「中山」って、「山海教」の『中山教』から来てるものだと考えています。
 中山教、「薄山(はくさん)」頂上には「もちの木」が多いとあり、その木に成る赤い実をつぶして捏ねると、鳥を採る餠、鳥もちを作れるそうです。日本各地でも生育し、この木は確か各種の山道具等を造るのにも用いられます。そして、もちの木の実は“近江などの鍛冶が餠を嫌う”事と何か関係があるぞ、と勝手に思っています。
 更に、薄山(甘棗<かんそう>の山)には、他に「葵(=扇の原形の一つ)」の幹で杏の葉、さやの実(実は「たく」と呼ばれ、たく=タケカンムリにテヘン+鐸のツクリ)がなる木もあって、この実は「盲」を癒します。山には「な」という獣がおり、これを食べると「えい」(首のこぶ)が治ります。薄山から東へ15里行くと、「きよちよの山」という「竹」の多い山があり、この山から流れ出る川の水に住む「鮪(い=小型の鯉)」を食べると、「白癬(しらくも)」が治ります。もっと東へ35里進むと「葱聾(そうろう)の山」があり、この山中には白・黒・青・黄色の焼き物用土が多い。更に東へ15里行くと「わ(サンズイ+倭のツクリ)山」があって、「赤銅」が多く山の北には「鉄」がたくさん採れる………
 というように、“中山教の項には特にやたら鉱物資源と、できものや痺れを治す薬となる物、聾唖や盲を治すもの等の話が出てきます”(山海教自体、多いんですが)。
 その他にも玉依になる「桑」の材や「金」、「嬰」」「釆(いろぎぬ)」、「玉・碧」「銀・丹・辰砂・錫・砥石・粗砥・鳴石・泥石・巨石」、「録(ろく=鹿)・大鹿」「神・天愚(てんぐ)」「山鳥・鶏・白雉」「蛇・白蛇・亀・鼈・鮫魚」「黒犬」「猿」「野牛・山羊」「虎・豹」「虫」、「陽山・水・洪水・雷・風雨」、「)」「漆」「あかね」「芍薬・蔓」「柳・楮」「藤もどき・茨」「山桃・李・棗(なつめ)・梅・柚・梨」「楠・橘・槐・ドングリ・樫・檀・楢」「柚」「長芋」「蓬」、「瘧(おこり)・腫れ物」「毒消し」「甘酒・稲・臼・鼓」等々、鉱物採掘加工民、山鉄・産鉄民絡みの、物ものでいっぱい!出て来る怪物は以上の動物が複合した姿をしてますし。
 で、平安の鋳師や以降の河内鋳物師には、中山姓も結構あります。寺あるところ鉱山ですから、きっと中山は中山教に因んでると思います。

●桜ってサクラバナは桜花と書き、『オウ』ですね。おお、多、多多、大、於保、呉、太、青、青海…かもね!

●五百、五百木、五百蔵(いおろい)、五百住(よすみ)…。
播磨・丹波・摂津には、この人名や、地名も割合あるようです。五百住は、北摂の高槻市に東五百住町と西五百住町があり、奈良期に約五百人の農民を連れてきて氾濫原を開拓し、平安には「吉士」が開発指示したと思われる地です。で、この辺りは古くから富田米や、酒の産地です。

●高槻市の『溝咋』氏は、源氏の世には『溝咋源氏』と呼ばれ、「桜谷鉱山」のある地を開発した『多田源氏』と同系だそうです。詳しくは高槻市資料にあるのですが、迷子になってます。また探しておきます。

199 (@_@) ak(*^a^*)ne 2001/12/26 17:33

うわぁ〜、198のタイトルの所に、私の顔文字を入れちゃったよぉ。だいぶ疲れてるなぁ。さぼったバチかしらぁ 198のタイトルは、中山でした。

クミコさん
柿本人麻呂の奥さんは、石見の江津市の出身どす。
面白いですね!人麻呂は石見国造なんか、だったような。忘れちゃった…

200 田光 あかね 2001/12/26 19:29

こんなん、教えてもらいました。
●『田光神社』祭神は『天白様』。『天白様の祀られる所には田光の地名あり』という話があるそうです。なるほど、こりゃ、面白い!
以下は、教えていただいた掲示板での、私のカキコです。
播磨を流れる加古川上流域を総称して、川の名を『田高(たこう)川』と呼ぶのですが、この田高は、託賀、多可、多賀→鏨(風琳堂ご主人ありがとうです。きっとそうよ!)、高などの他に、『田光』とも関係がある気がしてきました。
田高川の川合の一つや支流(上流)には、瀬織津姫さんが祀られている社も幾つか鎮座してますし、田高川の名の由来となった田高という地名のある町には、『白山』という山もあります。まぁ、白山信仰自体はかなり昔に消えていて、社も直接の信仰も残っていないのですが、この辺りから更に加古川を遡って篠山市の辺までいくと、加賀白山や白山系の社が二社あります。
何か、合点がいきました!ほんなら、湯立て神事も残ってるのも頷けます。なるほど!     〜以上〜

201 二荒山神社 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2001/12/26 23:28

あかねさんとクミコさんが人麻呂の話題で盛り上がってます。
ていうことで最後は、人麻呂につなげます。

現在、栃木県塩屋郡高根沢町に鎮座する砥鹿神社は、
同県河内郡河内町下岡本に鎮座した。
下野国河内郡には、後の下野国一宮・二荒山神社が鎮座する。
二荒山神社。 祭神は、大己貴命・事代主命(神名帳)、大己貴命、建御名方命とする説もあり、
延喜式は、二荒山神社一座とする。
また、往古一〇月一五日には、猪鹿の頭を供物としたとすることから、諏訪神との関係が強くうかがえる。
古事記伝で宣長は、二荒神は、毛野国造祖・豊城入彦命とする。
また、姓氏録&国造本紀等では、下野国造を
豊城入彦命―八綱田彦―彦狭島―三諸別―下野国造・奈良別とする。
ここでも彦狭島(伊予皇子)が登場する。
三島神の東漸によるものであろうか?

二荒山は、補陀洛山ともつづる補陀洛山は、那智山を指す。
那智=瀬織津姫の等式から二荒山=瀬織津姫の等式も成り立つのか?

和漢三才図会では、祭神を柿本人麻呂霊を祭神とし、
縁起等では、小野猿丸に由来を求めている。

梅原猛著「水底の歌」は、猿丸太夫=人麻呂説でした。
武蔵には、瀬織津姫を祭神とする小野神社が鎮座します。
関東地区担当のサクラさん
小野神社お願いします。

202 越智氏(三島水軍)の東漸 風琳一家代貸pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2001/12/27 15:04

サクラとカサ、そして、カサ=イボと展開して話がボケてしまいました。
一度、越智氏(三島水軍)の東漸という視点で整理したいと思います。

愛媛県越智郡菊間町田之尻に三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座する。
伊予国越智郡に越智氏がいた。
越智系図によれば考霊天皇と磯城県主・大目の娘・細姫との間の伊予皇子が
伊予国伊予郡神崎郷に住し、和気姫を娶り三人の子を産んだ。
三人の子は、空船に乗せられ流された。
三人の子供は、海童に養われ、吉備の小島に着いた。
子供らには、それぞれ宅を造てて、これを三宅と読んだ。
第一子は、吉備の小島留まった。吉備の小島とは、備前国児島のことである。
この第一子の子孫が三宅氏である。
第二子は、船を作って、八歳にして駿河国清見崎(現清水港)に着く。
大宅を造って住したことから、大宅を氏姓とした。
子孫が多く、大宅の周囲に庵が建並んだことから、この地を庵原と呼ぶようになった。
第三子は、小千御子といい、伊予国大浜に着いた。小千をもって郡名とし、
また小千を氏姓とした。後に小千を越智に改めた。三島大明神の諱に因むものである。

さらに、越智系図は、この第二子(大宅姓)について、
伊豆三嶋是なり、現三嶋大明神、従一位諸山積大明神というなりと記載している。
また、予章記に「考霊天皇の第二皇子・伊予王子=彦狭嶋命が、和気姫を娶り三子を産み給う。嫡子の御船、伊豆国に着く(後略)」
諸山積大明神とは、庵原郡の式内社豊積神社を指すか伊豆の三嶋大社を指すのではないかと解される。
さらに、庵原公について、新撰姓氏録の巻五・右京皇別下は、「笠朝臣と同祖・稚武彦命の後なり、孫の吉備武彦命が、景行天皇の時代に東方に派遣され、毛人(蝦夷=エミシのこと)及び凶鬼神(まがつかみ)を伐って、阿部庵原国に至り、復命の日に庵原国を給わった」旨を記載する。
また、国造本紀は、「成務の時代に池田坂井君の祖・吉備建彦の児・意加部彦命を庵原国造に定め賜う」と記載する。
池田坂井君とは、越前坂井を、意加部とは、駿河国志太郡岡部を指すのではないかと解される。そして、日本書紀に依れば、吉備建彦(武彦)は、日本武尊の東征に従い帰路、越国に分遣されており、角鹿国造が吉備建彦の氏族であることから、この角鹿国造一族が更に庵原国を与えられたのではないかと解される。
越智系図が伊予王子=彦狭島命の子を庵原氏の祖としているのに対し、姓氏録及び国造本紀は、吉備建彦あるいはその子孫を庵原公乃至国造としている。
彦狭島は、吉備建彦の弟であり、若干の混乱が見える。
この姓氏録の笠の臣について、古事記は、
「若日子建吉備津日子命は、吉備下道(←備中)臣&笠臣の祖なり」と記載する。
また、越智系図によれば、伊予皇子の第一子(大宅氏=庵原氏の兄)は、備前児島に住したとしている。
これは、古事記考霊条及び景行条の稚建彦―日本武尊についての系図の混乱と関係があると思われる。
笠臣国造について国造本紀は、「応神の時代に鴨別命を笠臣国に封じ。鴨別命の八世孫・笠三枚臣を国造に定め賜う」と記載し、
新撰姓氏録は、「応神が加佐米山に巡幸の際、笠が飛ばされ云々。笠臣の姓を賜った」と記載する。
一方、越智系図は、「小千御子の一三世孫を鴨部大神是也」と記載している。
伊予国越智郡及び庵原国鎮座の砥鹿神社については、越智系図から
彦狭島(越智氏)東漸と関係があると思われ、越智系図から記紀を検証すれば、
解明できるのではないかと思われる。

下野国河内郡鎮座の砥鹿神社については、
古事記伝で宣長が、二荒神は、毛野国造祖・豊城入彦命とし、
姓氏録&国造本紀等では、下野国造を
豊城入彦命―八綱田彦―彦狭島―三諸別―下野国造・奈良別とする。
下野国河内郡鎮座の砥鹿神社についても彦狭島東漸がキーワードになると思われる。

203 柿本朝臣人麿について 山田明子 2001/12/27 22:16

ちょつと見ない間に、また新しい話題で私には少し難しい。と思っていましたところ、人麿が出ていてびっくり、
びっくりは方言?驚きました。

実は、この間人麿死りし時妻依羅子の作る歌。ということから江川を万葉集では石川と歌われている。
このことを書き忘れていました。
224・225・に石川と出ています。

石河邑=川本町と川下村・・現在は川本町
石見の語源は石生みからきていると言われています。御神体に石が多いことも石生み、と言うことになるらしい。

話は変わりますが、i,ma という季刊誌に毎回拙い文章を載せていただいております。
12月・・5号  心にのこる小さなお店

3月・・6号  人麿終焉の地に友を得る・・予  

パソコンが苦手なので短文でも載せることが出来ません。
人麿のことは何か質問でもあれば、・・でも皆様良くご存知なので・・・

さくらさん
お礼が遅くなってごめんなさい。
東大病院への途中見つけました,有難うございます。
今後ともよろしく。

204 湯抱 クミコ 2001/12/29 01:22

山田明子様
柿本朝臣人麿についていろいろ教えてください。
最近、島根づいていて島根の方からメ−ル頂いたり、
島根県邑智郡桜井町の桑のお茶飲んだりしています。
それから柿本朝臣人麿の終焉地、茂吉のいう湯抱ってどんな所なんでしょう?

島根県邑智郡についてもお願いします。

205 天竜川から諏訪湖へ 風琳堂主人 2001/12/29 11:34

人麿は持統の側近的な宮廷歌人でしたから、天武─持統時代の内情に通じていたはずです。わたしも石見国の人麿の話を楽しみにしています。

桜─瀬織津姫のメモを少し──。
天竜川の水神が瀬織津姫であるのに、この川の水源にあたる諏訪湖までさかのぼると、つまり諏訪大社までさかのぼると、瀬織津姫の名はなぜか消えています。
諏訪大社は上社と下社の二社から成り、由緒には上社は男神、下社は女神とされています。また、これらの二社はさらにそれぞれが二社から成るというややこしさです(上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮)。
諏訪大社という社名は戦後の名称で、延喜時代までさかのぼりますと「南方刀美神社二座(明神大)」という表示で、二柱の神であったことは変わっていないようです。
さて、女神の社である諏訪大社下社なのですが、地図を見ていてここにも桜地名があることをみつけました。「桜町」です。
諏訪湖の北に流れ込む川は「砥川」といい、この川を2キロほど遡ったところが諏訪大社下社春宮です。そしてこの下社と面する川の中州は浮島といわれ、ここに浮島神社がまつられています。この浮島は「どんな大水にも流されない」という「下社七不思議」の伝承をもっていてなかなか興味深いのですが、浮島神社の祭神を同社の由緒は明記していません。
ただし、この浮島の神の説明は「清め祓いの神を祀り六月三十日の大祓式、夏越しの祓いはここでなされます」とありますから、ここの神が瀬織津姫であることはまちがいありません。
下流の天竜川の水神=瀬織津姫と水源湖=諏訪湖に流れ込む砥川の浮島の女神が瀬織津姫であること、そして桜─「桜町」という地名です。
諏訪大社下社の女神は、現在は八坂刀売神とされています。そしてこの女神が諏訪湖の水神らしいのですが、これは怪しい表示です。
ところで、下社に伝わる神事に「御船祭」という例大祭があります。これは毎年8月1日に「二月一日に春宮に御遷した御霊代[みたましろ]を神幸行列を以て再び秋宮へ御遷座する」というもので、興味深いのは、この遷座の行列に続いて「青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟」が曳行され、さらに秋宮でこの「翁媼人形は焼却」されるというのです。この焼却行事までを「御船祭」というらしいです。
ここで小さな疑問が浮かんできます。つまり、なぜ翁媼の人形は焼却される必要があるのか──です。由緒書はよく説明をしていません。これは雛祭り=雛流しという祓いの儀式と同種のものでしょうが、翁媼という対なる関係をもつもの(=神々)を焼却=消去することで、そこに「救われる」とみなす認識があるとすれば、ここに消される神々はどんな神なのかという裏問いも生まれてくるというものです。
そして、鎮魂の霊木=桜の地名と、水源湖に流れ込む砥川の浮島に取り残されるようにまつられている女神がいます。しかもこの神はとびきりの水の女神です。この浮島の神、砥川の神こそが諏訪大社下社本来の水神=女神ではないのか──。
トカゲさんの砥鹿=咎説を援用すれば、砥川は咎川となります。そこに瀬織津姫が名を伏せられまつられているわけです。祭神の八坂刀売神の「八坂」は、京都・祗園の八坂神社の「八坂」に通ずるものかもしれません。

(追伸)
極めつけの大山中の大山は越えた、くぐったようです。あと中山が2・3ありですが、あと少しです。

206 2002年になったら 山田明子 2001/12/29 23:44

2001年も後わずかになりました。
あまり参考にならないと思いましたが,心の向くまま,気の向くままに,私なりの気づきをメモしておりますので,誰かにお願いするつもりです。

  新年の話題に

組香の本香包を差通す香串を一銘「鶯」とよんでいる。
これは宇佐八幡・熊野・伊勢・住吉の四神の頭字を繋ぎ神に紙をかけて、香包紙の四つ角を揃えることからとも、また、出雲大社に神々が鶯門を透って集まるとの謂れ説も言い伝えられている。

また、烏は神社の森などに住んでいるために、烏を神の使いとする信仰は、熊野を始めとし伊勢,祇園,厳島,住吉ほかの神社にあり、平安時代の法典には瑞鳥として扱われていた。

志野流家元 蜂谷宗玄のことば より

207 桜─瀬織津姫元年へ 風琳堂主人 2001/12/31 22:21

2001年12月31日──「年の瀬の風景」といった夕方のニュースを観ていましたら、伊勢神宮の「大祓い」の儀式が、わずかな時間ですが画面に映っていました。
ニュースによると、伊勢神宮の神職40人(44人だったか)が「今年一年の汚れをはらう」という解説でした。
解説の言葉は不正確もいいところで、これでは「汚れをはらう」のが神職たちだといっていることになります。大祓の神の力によって「神職」たちは「今年一年の汚れをはらう」ことをしているにすぎず、こんなニュースの解説はないだろうとおもうのは、大祓神=瀬織津姫を知っているわたしたちだけかもなとおもったのでした。
六月と十二月の晦(つごもり)の大祓の神として瀬織津姫が登場した──させられたのは669年(天智8年)のことでした。
日本という国の「汚れ」をはらう大事な神の名を現代のニュースは報道しないというこの認識の無さが、現在、瀬織津姫が置かれている立場を象徴しているわけですが、しかし、これは空虚なことなのかとあらためて自問してみますと、これはこれでいいのかもとおもったのでした。
といいますのも、瀬織津姫は佐久那太李=桜谷の滝神というように、基本イメージは滝=水の神であって、元から「祓い」の神だったわけではないからです。「今年一年の汚れをはらう」のは決して伊勢神宮の「神職」たちではありませんけど、だからといって、瀬織津姫がそれを代行する筋はもともとなかったわけです。それを現在に蒸し返しても薮蛇ではないかというのが、ニュースの感想でした。
ところで、年の暮れを「年の瀬」ともいうことに気づかせてくれたのが今夜のニュースでもありました。
「瀬」とはなにか──手元の内職用(中学生用)の辞書によりますと、次の四つの解釈が載っていました。

@歩いて渡れる川の流れが浅い所。浅瀬。
A川の流れがはやい所。急流。早瀬。
B時機。機会。「逢瀬」
Cある人の置かれている境遇。立場。「立つ瀬がない」

本居宣長や神道諸派のほとんどは、@の「浅瀬」の解釈をしたために、瀬織津姫の「瀬織」を「瀬降り」あるいは「瀬居り」とみなしています。わたしたちは、Aの「急流」「早瀬」という理解をしていて、これが滝神=瀬織津姫の原イメージだとみているわけです。
ただ、@の瀬に降りる=瀬に居るといったイメージは、まさに「河原者」にも通じますので、室町期の観阿弥・世阿弥たちの「能楽」の世界とも呼応していくことも事実です。貴船神(=瀬織津姫)の「鉄輪」などはよい例かもしれません。
さて、桜谷の滝神としての瀬織津姫から、鳥取の桜谷神社の祭神=瀬織津姫へ、そして、各地の「桜」地名と瀬織津姫が濃厚な関係をもっていることが明かされはじめたのが2001年の「瀬」のことでした。いいかえれば、桜は、そもそも瀬織津姫を封じる=鎮魂する木として持統女帝によって植樹され、それが各地の桜地名と瀬織津姫祭祀に強い有縁性があることを「発見」したのが2001年でもありました。
あと2時間ほどで年が改まりますけど、2002年は「桜─瀬織津姫元年」と命名してみたい気がしてきました。「桜」と、トカゲさん直観の「笠」がキーワードです。あと竹=笹も、笠および伊雑宮の竹取り神事や弁財天の島=竹生島との関連で要注意かもしれません。弁天さんに隠された神は市寸島比売あるいは宗像三女神という通説は、いずれくつがえるはずです(下鴨神社=賀茂御祖神社の「糺すの弁天さん」が宗像神ではなく瀬織津姫であることを、再度確認しておきたくおもいます)。

かつて、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」という歌がヒットしたことがありましたが、これを某詩人は「瀬戸際の花嫁」と酒席でつぶやいて「なるほど」とおもったことがありました。そういえば、瀬戸内海のぐるりに、瀬織津姫は集中してまつられています(越智・河野氏という物部系の三島水軍──無縁にあらず、ですね)。年の「瀬」の話です。
日本文化の源流のイメージとしての「桜」と瀬織津姫が明かされるのが2002年だとしたら、これは楽しい年になるだろうことはまちがいありません。相対化される「瀬戸際」は、伊勢神宮=神社本庁の思想かもしれません。あるいは1300年にわたってこの国を蝕んできた妖怪「持統ババア」&「不比等ジジイ」の妖怪力かもしれません。
あかねさん、クミコさん、サクラさん、山田さん、トカゲさん、来年もビックリ夜話を楽しみにしています。
主人、編集&校正ゲラ300枚とにらめっこしながらの年越しですが、瀬織津姫深化への序奏─助走の年としてはハナマル=サクラ◎の年でした。この囲炉裏夜話をご覧いただいている方を含め、みなさんにお礼申し上げます。
「逢瀬」も「立つ瀬」もアリの年にしましょう。

208 謹賀新年 久美子 2002/01/01 07:30

謹んで新春のお祝詞を申し上げます。

皆々様のご健康とご多幸を

心よりお祈り申し上げます。

       2002年 元旦

209 迎春 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/01/01 11:31

ご主人、ピンクのトカゲさん他皆々様
 新年、明けましておめでとうございます。

昨年、瀬織津姫に出会ったことは、
  私にとっても、意味深いものでした。

新しい年、遠野の桜木は雪の中
  しっかりと春の芽吹きに備えているのでしょうか...

桜花ふかきいろとも 見えなくに 
  ちしほにそめる わがこころかな   
              本居 宣長

桜に笠に心惹かれる新しい年が始まりました。
 皆様のご活躍、ご健康を心からお祈り申し上げる
  とともに、本年もご指導のほどよろしく
    お願い申し上げます。

210 あけまして、おめでとうございます。 岩手のGO 2002/01/02 19:55

今年は新年早々又一の滝まで行ってきました。いつもの馬留まで車で行けなかった為に、途中の江川牧場近辺に車を置いて歩いて行きましたが・・・行き深く、すぐに息があがり大変でした。

自分の体力が落ちているのもあるのだけど、さすがに膝までの雪をかきわけて1時間以上歩くというのは本当に大変でしたが、やっとの思いで又一の滝へと辿りつき、その姿を拝んでからの帰り道は瀬織津姫の力を授かったのか、まったく息も切れないで停めていた車まですんなりと帰る事が出来たのです。

又一の滝は既に凍てついていて、水の流れは僅かに氷の下を流れている程度でしたが、滝の氷が陽を浴びて青白く光っており、凍てついて尚も神秘的な佇まいを残していたのです。

遠野の民は最終的に又一の滝へと生を運び、そのまま果てるという場所でもあったようですが、ある意味では瀬織津姫の神域である又一の滝は輪廻転生というか、瀬織津姫により新たな生を授かる場所なのでは?と今回の又一の滝への歩みで、感じた次第でした。

211 雪化粧の瀬織津姫 風琳堂主人 2002/01/03 04:29

みなさん、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

2002年1月1日、やはり年のはじめです。
自分はあまり信心深いほうではないのですが、瀬織津姫だけはなぜか心通ずる気がして、朝、遠野早池峰神社にまでお礼と挨拶を兼ねて行ってきました。朝の境内はマイナス7度で、神官の佐々木さん(女性神官です)からいただいた甘酒がおいしかったです。
この早池峰神社まで来たなら、又一の滝まではそう遠くありませんから、雪の具合はどうかなとおもって行けるところまで行ってみました。案の定、雪はだんだん深くなってきて、もう車では登れないなというところで、里はよく晴れていたのに一転吹雪です。
瀬織津姫が無理をするなと言っているような気がして、あるいは、完全装備と足腰を鍛えてからでないと無理だなとおもって、断念してもどってきました。
ところが岩手(遠野)のGOさんは、又一の滝まで行ったというじゃありませんか。軟弱な主人とは、さすがちがいます。
GOさん、氷の又一の滝まで元旦に行く人はそう多くありません。今年はきっとよいことがありますよ。
GOさん撮影の氷の又一の滝の写真をご覧になるなら、下記リンクをたどってください。

当HPリンクの輪→遠野物語の力→現代遠野物語(おとぎ屋HP)→遠野観光掲示板

元旦の又一の滝──なんだかすっぽりと雪に埋まっていますね。雪化粧の瀬織津姫です。

212 笠島弁天 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/01/04 23:37

ご主人こんばわ!
良きお正月は過ごされたでしょうか?
東京は暖かくいい天気...そわそわと初詣に行ってきました。

2.3日と箱根駅伝の選手たちが走った第一京浜国道の大森海岸駅のすぐ近く、
鈴が森の磐井神社です。もちろんお目当ては笠島弁天...

武蔵国風土記には敏達天皇二年(513年円ごろ)、大己貴命を祭神として
開創されたとされたとある。
社のほとりにある井戸水には、飲む者の願いが
妄願であれば塩味となり、正直であれば清水となるとあり、近国の人々がこれを
奇瑞とし、病人に飲ませると効験まさに神の如く、たちまちに病がいえたという。
今も国道沿いに残る、磐井の井戸が神社名の謂れと載っています。

今の祭神は、正面に応神天皇、左が大己貴命,仲哀天皇、右が神功皇后、姫大神。
末社に笠島弁天とある。

草かげのあらいの先の笠島を 見つつか君が山路こゆらむ

万葉集にも見える笠島の地名は、武蔵の宿駅大井と記された延喜式、兵部式に
記された其の大井郷に属してもいる。
大森山王あたりから海に向かって岬状にいわゆる崎があったとされるその地形の
岬の先の島が笠島であったのではないかと、区史はいう。
其の笠島の井戸が固い岩盤をくりぬいて清水を湧き出して、旅行く人や、近隣の
人々に親しまれ、また神を祭るよりどころにもなったのではないだろうか。
今弁天は、社内の池の中島に静かに鎮座されている。
その昔、島であったところは今はビルと国道になり、昔の面影を残すところは
弁財天と磐井の井戸かしらんと....

また,社宝の鈴石は打つと鈴のような音が聞こえるという。
神社略記に
神功皇后が長門国豊浦に船を止めた時、真砂の上にひとつの
神石があった。この含珠の神石は、応神天皇誕生のとき産室に置かれた。
その後筑前香椎宮に納めた。欽明天皇が豊前の国宇佐宮にはじめて八幡大神を
鎮座したとき、そこに遷され、聖武天皇の時代に、文学博士で神祇伯の石川朝臣
年足が勅使として赴いた折、神勅によってこの石を授けられた。
その後、石川家に三代相伝した。延暦元年(782)嫡男である中宮大夫中納言豊
人が武蔵国司として下向した折に当社に納めたとある。

この鈴石が地名になったと思われる鈴が森。江戸時代に刑場で有名になるとは、
笠島弁天も世の流れになに思われたことでしょうか.....

今は見えぬ松林と浜風受けながら、心地よい初詣でした。s(*^-^)ノ☆

213 東京の大井は? 風琳堂主人 2002/01/05 03:18

2002年の口火をサクラさんが切りました。
笠島弁天と磐井神社の「井」は江戸の旅人の渇きを潤したこととおもいます。
品川の沖に笠島があり、海に鳥居が立っていたとすれば、これは厳島神社か琵琶湖の白鬚神社のイメージがだぶってきますね。
それと、井の水が「妄願であれば塩味となり、正直であれば清水となる」となれば、これは下鴨神社の「糺すの弁天さん」とも重なってきます。正邪をその願者の心の内から問うというわけですから、自分などきっと失格組だろうなとおもいます。
この妄願を糺す神を考えますと、そのルーツとしては、やはり、禍津日神に対する直日神という古事記の記述が想起されてきます。
クガタチなどもそうですけど、人の正邪の心を明かすのは、けっきょく「人」ではないということなのかもしれません。
ところで、大井の「井」というのは、川か泉でしょうけど、東京でいう「大いなる井」=大井とはどこが考えられるのでしょうか。川なら多摩川かななどとぼんやりと考えたりしています。泉ならひょっとして、この磐井あるいは武蔵の「糺すの弁天さん」でしょうか。それと、なぜ「笠」島なんでしょうね。たんにイメージの問題なのかどうか、小さな疑問が続いています。
まだ正月気分の尾を曳いているのかもしれません。ゲラとのにらみ合いのあと、岩手のうまい純米酒で、深夜の雪見の宴(遠野は年明けてまた雪です)でよい気分なのです。
緊張感のない主人ですみません。

214 日貫と龍神道を学ぶ会 山田明子 2002/01/05 11:34

 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。今回は嫁の香弥子が代筆しております。今後ともよろしくお願いいたします。

 私は【日貫と龍神道を学ぶ会】という地元の歴史を学ぶ会を主宰しております。3年もの間、桜のつく神社の祭神にこだわって来ました。いくら調べても桜とつく神社も少なく、まして日貫にある桜井神社≠ニ同じ祭神など...途方にくれておりました。それが昨年10月末エミシの国の女神≠フ本との出会いは、目の前が明るくなりウキウキする程の大展開をもたらしてくれました。

 この本の情報は仙台→宇部→日貫へと伝わって来ました。昨年7月、ガイアシンフォニー第3番をここ日貫で上映し、アラスカより出演者のボブ・サムさん、北海道から音楽を担当された奈良裕さんをお迎えしたとき、東京の柳田家よりお送り頂いたお菓子を交流会で皆様に召し上がっていただいたのですが、そのことを宇部から参加された方がおぼえておいでになり、この本を開いた途端に『遠野物語』→山田さんに知らせてあげなくてはと思われ早速ご連絡を頂きました。
 このように皆様に多くの情報を頂いて今日まで来ることができました。

 また、人麿については2000年10月、毎日新聞の方が偶然立ち寄られ、益田市戸田(人麿生誕の地)にある人麿神社の存在を教えてくださいました。2001年1月、ガイアシンフォニーの監督である龍村さんをお迎えしての新年会において、人麿神社の次男の奥様(広島市在住)と知り合い、2001年10月には人麿終焉の地(邑智町)に住む漫画家と出会い、以上のような人麿つながりが出来ました。また、人麿神社の祭殿はその装飾がとても興味深いものです。春になれば出掛けてみるつもりでおります。

 また、近くにありながらその存在を知らなかった市木神社(宇佐より馬城山龍神をお迎えして1200年前に建立されたそうです)を教えてくださったのが愛知県幸田町にある山蔭神道の管長さんです。この神社が何故その場所に建てられたのか。

とりあえず人麿、市木神社の情報などを順にお送りいたします。

215 つい、一言... サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/01/05 12:00

山田さん、
ガイヤシンフォニー第三番
星野道夫が好きで、この映画を見たのがつい昨日のようです。其の上映にかかわられていたとは....

短い一生で
  心魅れることに
    多くは出会わない
      もし見つけたら
        大切に.....大切に....
             星野 道夫

今年、目に飛び込んできたのは
        そんな彼の言葉でした。

人麿やサクラ情報の中に時にはそんな話も教えてくださいね。s(*^-^)ノ☆

216 柿本人麿 生誕の地・終焉の地(益田市) 山田明子 2002/01/05 14:22

 石見の国に生まれ、少年時代を過ごし、晩年再び石見に留まり鴨山に全生涯を閉じた悲劇の歌聖・柿本人麿・・・・。ふるさとの伝説の中の人麿は、今から1340年前、653年に益田市戸田の綾部家で生まれたとされる(戸田柿本神社縁起)。
 綾部家はもとは大和に住み、柿本氏に仕えていたが、後に柿本氏の支族が、小野の縁戚を頼って石見に下ったとき、これに従って小野郷戸田に移り、代々語家として住み着いた。柿本某は語家綾部家の女性を寵愛し、やがて生まれたのが人麿という(綾部氏家系)。少年時代を戸田で養父母に育てられた人麿は「おひおひ成人なし給ふに従ひ学芸の道はおろかなく御名中国に高く聞こえおはしましぬ。その頃嘉多良比(語家のこと)の許(もと)へ70許(ばか)りの老翁日毎に来り人麿に書を授けまた互に歌をよみ詩を作り或は弓馬の術を教え、日傾けば何処ともなく帰り去りける」(戸田柿本社旧記)を相手に文武に励んだ。
 やがて青年となった彼は京の柿本族を頼って上京、朝廷に仕える。。在任中の人麿は「舎人(とねり)」として、持統天皇(中央・地方にわたる国を治めるしくみを整えることに全力を注いだ)に仕え、和歌壇に傾倒した情熱は、抒情詩人としての輝きを増していった。
その時代の日本は古代文化の昂揚期で、特に百済から多くの文化人たちが渡来し、政府の要職についていた。中国風の教養が宮廷人に大きな刺激を与え、文人が才を競い、日本語や漢字の表記の問題などが盛んに研究されていた。そんな雰囲気の中で若き人麿は、向学に燃え、青春の日々を成長させていったのだろう。

人麿の恋歌に浮かび上がる女性は3人。「家の妻」と「隠(こも)り妻・土方娘子」、そして人麿の晩年を共に過ごした石見の女「最後の妻・依羅娘子(よさみのおとおめ 江津市恵良の出身)」
 「家の妻」は文武天皇の女官と見られる「隠り妻」(愛人)との危険な恋(人麿は反文武グループとしてマークされていた)を知り、人麿に絶望的な要求をする。三角関係に悩んだ人麿は、「家の妻」に対する思いを歌に残して家を出た。苦しみの中で「家の妻」は人麿と同様に「あなたの家に住んできたこと、また墨坂の家道をも私は忘れはしますまい。命というものが死なないならば」といううたを書き残して家を出、そして死んだ。人麿が「家の妻」に残した歌の中に「世の中を背きしえねば」という不可解なことばがある。世間に顔向けができない・・・という意味とすれば、この妻の死は病死というような普通の死ではなく覚悟の自殺だったのか・・・。人麿は「家の妻」の死を悲しみ「いつもいっしょに寝た部屋で、その妻が死んでしまったために、子供をわきにはさんで寝て、昼はしょんぼりとし、夜はため息ばかりついている」と、その虚ろな心を歌った。同じ頃、奇妙なことに「隠り妻」もまた突然亡くなっている。人麿家の危機の背後には、さらに複雑な政治的事情が秘められていたとされる。いずれにしても同時期に人麿を愛した女性2人が悲劇的な死を迎えたのであった。この2人の妻の死の直後、人麿は都から姿を消した。
 大和から近江、讃岐、そして石見へと都を後に人麿は流浪の運命をたどっていった。
 人麿が石見へ来た説については@国司として石見の国府に来ていたA国司よりもさらに低い役人として国府にいたB「朝集使」として朝廷から地方の様子をしらべに来ていたC罪人(政変の犠牲者)として流刑を受けていた・・・の諸説がある。いずれにしても晩年、大和から生まれ故郷ともいうべき石見に帰りついたのである。明石から瀬戸内を回り、下関から日本海沿岸沿いに長門街道を田宇・三隅・参見・植田・阿武・小川を辿り石見の国境に入り、美濃地・白上・益田・古市場・周布を経て、国府がある伊甘の宿場についた(医光寺住職南嶺・「柿本人麿咳唾集」
そして、「最後の妻・依羅娘子」と出会うのである。依羅娘子は身分は定かではないが、田舎の生まれに似合わない歌人で、石見の有力者の娘とされている。彼女と出会ってから別れになるまで「さ寝し夜は幾だもあらず」の歌のように、それほどの歳月は経っていなかった。複雑な事情で孤独な流浪の果てに、出会った情感細やかな女性、依羅娘子。人麿は韓島(国府の沖合)に住んでいたとされる。この島は流人の島。天才歌人といわれ、その才能が高く評価されていた人麿がなぜ、石見の無人に等しい島にいたのか・・・。
 やがて、人麿は愛する妻から引き離される日がついにやってきた。高津の沖合にある鴨島に移動を命じられたのである。近づきつつある死の影を前にして、逃れる術のない絶対の孤独・・・。
 「鴨山の岩根し枕ける我をかも 知らにと妹がまちつつあらむ」
 (鴨山の岩根を枕にして死のうとしている私をそれとは知らずに、妻は私の帰りを待っていることであろう。)
 人麿は最期の地となる場所へ山を越え連行されていく。津の里をはるかに望みながら、津の浦で妻と出会った日を懐かしみつつ、何も知らぬ妻を思い、去っていった人麿の悲しみが胸に迫る。その生涯において残した、もっとも悲しい歌がこの石見の地で歌われた。

人麿は時の権力者で彼のライバルともされていた藤原阿臣不比等(正二位を授かり、右大臣として最高の権力を握る)によって処刑されたのか、またはその頃、石見地方に流行していた疫病に感染して死んだのか・・・。60余歳の生涯を悲惨の極みにおいて幕を閉じたのであった。

人麿の死後間もなく、その終焉地鴨島に聖武天皇の勅命を受け国司によって、人麿を祀る小社が建立された。その後300年間この社殿は島上に存在したが、万寿3年(1026)石見地方を襲った大断層地震が勃発。ついに鴨島は海中に姿をかくし、今では大瀬となって白波がたち、漁師たちは昔からその近くを通るときは、「人丸さんの頭をふんづける」といってさけていく。
 地震による大津波で、人麿の神像は松の枝に引っ掛かったまま、高津・松崎に漂着した。地元民によってこの地に人丸社が建てられ、その後、別当寺として人丸寺を加えた。江戸時代になって津和野藩主亀井茲親(これちか)が社殿を旧高津城址に移したのが現在の高津柿本神社。
 人麿についての謎は多く、当時の様子を記録した「古事記」や「日本書紀」にはなぜか、あれほどの天才歌人の名が全く書かれていない。一説には「古事記」の著者は人麿を意図的に書かなかったともいわれている。
 しかし益田市小野地区や高津地区には人麿にまつわる多くの伝説が残され、今なおふるさとの人の心の中にしっかりと生き続けている。

217 終焉の地 鴨山の謎 山田明子 2002/01/05 15:47

1.
 私が住んでおります島根県邑智郡石見町に加茂山があります。鴨≠ナはないのですがかも≠ネのです。
 人麿が讃岐から石見へ来るのにどのような場所を通ったのかと考えてみました。
 瀬戸内海には朝鮮通信使の有名な場所として蒲刈があります。当時一番の交通は舟であり、穏やかな瀬戸内海は交通の要所でもありました。
 人麿の歌によって私なりに考えてみます時、瀬戸内から日本海へ抜けるいわゆる塩の道、それも石のある川を通っていることが、重要なポイントではないかと考えております。塩の道が島根県に入り、はじめの山越えの場所に市木神社があります。そのうしろの山に馬城山龍神を迎え、宇佐神宮の祭神を御祀りしてあります。峠の近くで道は二本に分かれ、山を越えたところが日貫になります。松尾峠と宇坂峠です。松雄峠は日貫から矢上の方面に続く道であり、加茂山があり水は矢上川から景勝地断魚渓のある井原川に流れ込みます。 私は江川を石川と言う説に首をかしげざるを得ません。何故なら井原川は井原の皆井田から岩床が続いているからです。水は川本町に流れて江川となります。井原川こそ石川ではないでしょうか?

2. 
 宇坂峠は峠近くに宇坂という家もあり、うさ≠ヘ宇佐≠ノ間違いありません。そしてその道は次の山、青笹の観音滝の近くを通り1000年前に栄えた、真言宗の寺(長円寺)があった次の山頂、今原を抜け石見町日和から江川沿いの村、桜江町田津に出ます。そして、山を越えれば日本海の温泉津へとでます。温泉津の近くの港町、五十猛には新羅神社もあり龍神の祠もあります。江川を下れば、江津市になり日本海へと注ぎます。江川沿いには大貫という知名の場所もあり、日貫と何らかの関連を見出せないものかと思っております。

 市木神社のある、市木川は八戸川へ流れて江川に注ぎます。八戸からは桜江町になり、、桜江町は紙と養蚕の盛んな地区でした。現在でも八戸に紙すきをされている家が残っており、桑は今お茶として静かなブームになっております。

邑は川沿いの村という意味もあり、村≠フ前は邑≠セったようです。江川沿いには桜江町、川本町、邑智町、大和村、羽須美村があり、七ヶ町村のうち、石見町と瑞穂町が江川に面していない町です。

3.
 そして石見町の内、日貫だけが桜江郷日貫組日貫村として他の地区とは異なる編成になっておりました。

人麿のこと、歌のことなど記していましたら、なんと石見町のガイドをしてしまいました。石見町でも日貫は津和野藩になります。子供の頃から流人の里だったなど、村人の間で話されることを耳にしたこともあります。そしてこの地に60年を過ごした今、記されない歴史があることを伝える言葉なのでは、と思うようになりました。それは、何ひとつ正確な記述がなく、まことしやかに作られた感がいたします。この地は陸の孤島でした。それなのに、400年前位からいわゆる名家の分家を日貫に求められました。
そして、今過疎という波が日貫地区の存続を危うくしています。それでもインターネットで様々な情報を得ることができるようになり、わたしもあと一息で何かを見つけられるのではと思っています。そのことが日貫を再びよみがえらせることができる活性剤になればと思っています。

218 地名の不思議 クミコ 2002/01/05 21:59

先ほど高知県から帰ってきました。
知人の遠縁を探す旅の運転手してきたのです。

賀茂神社前で迷子になりそうになり、
危く斗賀野に迷い込みそうになるところでした。
四万十川にようやく辿りついて即、Uタ−ン
帰りは黒潮ラインで宇佐へ

全然深く考えることなく純粋にひたすら道を走りながら
なんだか聞いた事のあるような地名だなぁと思いつつ
帰って来てここを開くと
島根県邑智郡石見町にもカモとウサがあることを知る。

219 人麻呂と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/01/06 05:39

山田さん、柿本人麻呂の石見国でのあらましをありがとうございます。
これまで人麻呂を特にスポットをあてて読んだことがありませんでしたのでいい勉強の糸口をいただきました。
特に、藤原不比等と人麻呂の関係はけっして良好なものではなかった話は印象深く、また、人麻呂が小野氏の関係筋の家に生まれていることもとても興味深いものでした。
人麻呂と瀬織津姫の関係が妙に生々しく感じられてきました。
東京府中市の小野神社の主祭神として瀬織津姫が確認されているように、瀬織津姫は小野氏あるいは鴨氏の各地への移動とともに祭祀分布が広がる傾向があることが気になっていました。このことは、石見国にもいえそうなのです。
たとえば、人麻呂生誕の地である益田市戸田=小野郷戸田には、現在の益田市白上町にあります白上八幡宮の配祀祭神として瀬織津姫の名が確認できます。そして、人麻呂終焉の地である鴨島→益田市高津町には、ここにも瀬織津姫がまつられているのです(同市同町の春日神社の配祀神として)。
確認できる瀬織津姫祭祀は、全国的にもそうですが、石見国においても極めて限定されていて、その数少ない祭祀状況のなかで、人麻呂の生誕と終焉の地に、しかも二社も瀬織津姫がまつられている事実は単純な偶然とみなすことはむずかしいです。
そして、くりかえしますけど、人麻呂─不比等の危うい関係の指摘です。これは菅原道真と藤原氏との関係を想起させもします。
知りすぎた男=人麻呂を消せ──こんなスパイorシンジケート小説もどきのことが大真面目で実行されるというのが古代であり、いや日本近代そして戦後日本でもあります。
不比等とマイナスの関係を発生させたものが無事に生きのびることは難しかっただろうと想像するほうが自然でしょう。『人麻呂の暗号』という小説をあいにく読んでいませんので、今回の山田さんのお話で一読してみようかという好奇心も湧いてきました。

ところで、山田さんのご関心の竜神とひょっとして関わるかもしれないなと思い出したことがあります。
常陸国風土記なのですが、次のような記述があります。

蛇をよんで八刀[やと]の神としている。その姿は、からだは蛇で頭には角がある。
〔中略〕
「大君の教化にしたがおうとしないのは、いったいいかなる神[あまつかみ]か……」

御地の桜江町を通って江の川へいたる八戸川の「八戸」は、たしか「やと」という読みでしたよね。風土記は「からだは蛇で頭には角がある」とされるのが「八刀の神」だと述べています。としますと、八刀の神は、竜神のイメージ以外では考えられません。当時のヤマトが蛇→龍にどういった質をみていたかがよくわかる風土記の記述です。
さらに、播磨国風土記は、この「やと」の神を大物主とも称していました。曰く──「八戸挂須御諸命[やとかかすみもろのみこと]の大物主」です。
「流人の里」日貫の伝承はおろそかにできないものという気がわたしもしています。
話は少しもどりますが、人麿ゆかりの益田市で、ここを流れる高津川を遡りますと、この川は、おそらく日本海と瀬戸内海を最短で結ぶ川筋となるかとおもいます。また、高津川の上流部には、河内神社という社がみられ、これは安芸国・周防国の境界域に瀬織津姫が集中してまつられるときの定番のような社名と同名でもあります。
祭祀の時代を厳密に確認する必要はありましょうが、ただ、瀬戸内海側からいいますと、岩国の錦帯橋で知られます錦川と、現在の山口県と広島県の境界川である小瀬川および広島市に流れ込んでいます太田川の流域に集中してみられるのが、この河内神社です。社名はたぶん「かわち」ではなく「ごうち」あるいは「こうち」と呼んでいるとおもいますが、この地名は、益田市の隣の三隅町や浜田市にも現在にまで残されています。

石見国で、桜江と日貫の桜井─桜井神社以外で、サクラ─桜と瀬織津姫の関連でふれておきますと、この三隅町にあります三隅大平桜の側の八幡宮の配祀神に瀬織津姫の名があります(この瀬織津姫は出雲の津上神社へ分祀されたりしています)。
また、石見銀山から流れ出す川は銀山川らしいのですが、この流域に「桜井手」の地名があり、その下流域には式内社「山辺八代姫命神社」や同じく式内社の「邇幣姫[にべひめ]神社」という謎めいた女神をまつる社があります(大田市)。前者の山辺八代姫命神社の現在の祭神名は天照皇大神となっていますが、社伝によりますと「山辺八代姫命と申すのは天照大神の別名」だそうです。また、邇幣姫神社の祭神には抓津姫の名もあり、怪しい匂いがぷんぷんとしています。
特に山辺八代姫命神社については、「天照大神の別名」はオオヒルメノムチか瀬織津姫だというのがわたしたちの「常識」ですから、社伝の表記は「よし」とみなくてはいけません。
蛇足ながら、石見国一の宮とされる物部神社ですが、現在の祭神は「宇摩志麻遅命ほか」だそうで、これはそれなりに社名と祭神名に整合性はありますけど、ただ、その所在地が「大田市川合町川合」だというのがひっかかります。地図帳を見ますと、同社はまさに<川合>の地にあり、祭神の宇摩志麻遅命の「ほか」の祭神を知りたいものだなとおもいました。

220 二荒山と勝道上人 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/06 17:50

本性が不精な蜥蜴は、どうも、休みとなると飲んだくれ、
それと、図書館を自分の書斎代わりに使っていて、手元に本もなく。
ネタ切れ状態でした。
今日は、図書館にいってネタを仕入れてきました。
二荒山神社について、もう少し書いてみます。
姓氏録&国造本紀等では、下野国造を
豊城入彦命―八綱田彦―彦狭島―三諸別―下野国造・奈良別とする。
そして、後の下野国一宮・二荒山神社を

宣長は、古事記伝で二荒神は、毛野国造祖・豊城入彦命とする。
この二荒山神社は、現在宇都宮市内に鎮座し、
一般に下之宮(しものみや)と呼ばれる。
下之宮・二荒山神社が,現在鎮座する丘は臼が峰といい,その稜線の南端を荒尾崎と呼んでいた。
この荒尾崎の二荒山神社摂社下之宮の地に祖神豊城入彦命を祀ったのが神社の創始という。
後に承和5(838)年,臼が峰に遷座し,今日に至る。
一方、同県の日光市の中禅寺湖の北岸、男体山山麓に鎮座する神社である。
男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光山内にある二荒山神社本社の中間にあることから、中宮祠と呼ばれている。
延暦3(784)年、沙門勝道が山頂をきわめたあと、ここに二荒権現を祀る社殿を建てた。
祭神は、大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命である。

この男体山頂に鎮座する二荒山神社奥宮は、勝道上人が難行苦行のすえ、二荒山(男体 山)登頂を果たし、いまの二荒山神社奥宮にあたる小祠を天応2(782)年に創建したという。

さて、この勝道上人が開山した寺が、日光山中禅寺であり、この本堂に安置されているのが、十一面千手観音であり、十一面千手観音は、男体山の本地仏とされているが、十一面千手観音は、那智の本地仏でもあり、那智山は、補陀洛山とも呼ばれる。
いうまでもなく、二荒山は、補陀洛山から由来する。
この勝道上人について
補陀洛山草創立修行記は
「勝道上人は、下野国芳賀郡の人であり、族姓は、若田氏
その先祖は、垂仁の第九子・池速別命が、勅使となって、
伊勢大神宮を五十鈴川上に崇奉するが、
縁あって東国に下向し、
片目を患い下野国八室に住した(後略)」
と記載する。
また、平家物語は、
「本宮・新宮・那智、若田・田邊云々」
と記載し、勝道上人の俗姓・若田氏と熊野・那智の繋がりを伝える。
また、上野国の赤城山と日光男体山が争ったとき
小野猿丸が弓矢で加勢し、日光山が勝ったとし、
この小野猿丸について、
日光山由来記は、
「馬頭中納言が東国に下り、朝日長者の娘を娶り、一人の子が生まれた。
その子は、醜かったが、弓矢に優れ、奥州の小野に住み小野猿丸を名乗った」
と記載する。
小野猿丸ということになれば、比叡山西麓の小野の里
ここは、六歌仙の一人・小野小町縁の里でもある。
小野小町は、やはり六歌仙の一人・文屋康秀が三河に左遷されたときに従ったとされる。
また、井沢元彦は、六歌仙を惟喬親王派とし、
小野の里は、惟喬親王の隠棲の地である。

さらに、下之宮について
和漢三才図会は、祭神を柿本人麻呂霊を祭神とする。
梅原猛著は、「水底の歌」で人麻呂=猿丸太夫について
展開していることを付け加えておく。

221 武蔵府中 小野神社 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/01/08 03:51

そりゃ、昔は水の神様の信仰があつかったもので、
ここ、府中でも雨乞いがよく行われたんじゃよ。
小野神社の井戸の水を汲んで、木で作った八十センチ位の
角がある蛇体を先頭にもってな、行列を作って太鼓たたきながら
府中用水まで行くのよ。そんでもって,持っていった井戸水さ
かけるんだけども、その儀式が終わらんうちに,黒雲が現れて
必ず雨が降ったもんだ。雷の神様だったとじっちゃんは言う。

宝亀三年(772)太政官符式部省(抄)には
入間郡正倉四宇神火着倉、備穀1万5百13斛5斗焼失、百姓10人忽重症
頓死2人、「卜占、郡家西北ノ角ニ在ル出雲伊波比神ノ祟、近年朝廷の幣帛
ガ絶エタノデ、郡家内外ノ雷神ヲ率イテ、コノ火災ヲ発ス。
小野社、今城青八尺稲実社、高負比古乃社、出雲伊波比社ノ4社ナリ。

雷とも認められる小野神社。現在小野神社は二社に分かれているが
小野宮小野神社には瀬織津姫、一の宮小野神社には天下春命とある。
一の宮小野神社御由緒の碑文には
当社は安寧天皇十八年弐月初未の日御鎮座と伝えられ武蔵国開拓の祖神である
天の下春命を御主神として御奉祀申し上げている由緒ある神社である。
ご社名は上代此処の呼称であった小野の郷に由来する。とある。

天下春命をしらべてみると
先代舊事本紀・巻三・天神本紀によれば、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と降臨した三二神の一人武蔵秩父國造等の祖とあり
知々夫國造については同巻一〇・國造本紀に
「瑞籬朝の御世(崇神の時代)に、八意思金命の十世孫・知々夫彦命を國造に定
賜う」と記載する。

巻三・天神本紀には、天下春命とともに天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と降臨し
た三二神の一人に信乃阿智祝部等祖・表春命(うわはるのみこと)が記載され、
表春命を八意思兼神の兒としている。
とすれば、
表春命と天下春命はともに父親を、天思兼命とする兄弟神ともなり、
遠く信濃國に天降って信乃祝部等の祖命とされた、高皇産霊尊(別名:高魂神・高木命)
の兒とされる、天思兼命(※信濃國伊那郡阿智神社の祭神)へとつながってゆく。

222 水神から雷神へ 風琳堂主人 2002/01/08 09:43

サクラさん、小野神についての「じっちゃん」の伝承がいいですね。
「角がある蛇体を先頭にもって」──すると「水の神様」が「雷の神様」となって雨を降らせる──。
小野神=瀬織津姫が、男神の龍神に反応・感応する様がストレートに伝わってきます。
また、瀬織津姫が水神から雷神となる「じっちゃん」の伝承から、遠野伊豆神社(祭神=瀬織津姫)の本社である、伊豆の伊豆山神社(延喜時代は「火牟須比命神社」)の境内摂社「雷電社」を思い浮かべました。
雷電社の現在の祭神名は「火牟須比命荒魂」だそうで、この宮は、鎌倉時代には「光の宮」とも称されていました。雷電社=光の宮の「光」は、小野神の変身の様から雷光=稲妻とみてよさそうです。
瀬織津姫が龍の女神ともなる話です。ただし、瀬織津姫が雷神となることは、どこか「怒り」の表情を表しているようです。
宝亀三年(772)の「神火」は、「出雲伊波比神ノ祟」で、この神が「郡家内外ノ雷神ヲ率イテ、コノ火災ヲ発ス」という記録も興味深いです。
出雲伊波比神は単純に天穂日神とみるべきではなく、天穂日がまつる、まだ明かされていない出雲大神とみたほうがいいんでしょうね。
磐井神社・笠島弁財天の資料いただきました。清和天皇時代の八幡神の全国勧請から八幡神の比売神=宗像女神がこの笠島弁天となるようです。ただ、その前の「井」の神の時代があるはずで、それが直接の伝承からはすでに消えているんでしょうね。方法としては、磐井神をたどることかなとおもいます。おそらく、この磐井神も近江から出雲へとつながっていくはずです。この話は別の機会に──。まずは、資料のお礼まで。

223 麁魂河 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/08 12:45

二荒山の小野猿丸伝説からサクラさんが、
武蔵府中の小野神社に話をつなげてくれました。
府中一宮・小野神社の祭神は、天下春命。
その父は、思兼命。
この思兼命を祭神とするのが、信濃国伊那郡阿智神社と言うことです。

信濃国伊那郡は、天竜川流域にあたり、
この伊那郡には、坂部(さかんべ)の冬祭りをはじめとする
霜月神楽が行われている。
霜月神楽の代表的なものに奥三河の花祭りがある。
奥三河の民俗芸能・花祭りは、天竜川の支流・大千瀬川及び
この大千瀬川の上流・大入川&振草川流域で行われている。
この鬼が舞う奥三河の山岑を南に下り
穂の原(豊川市)に出るところに聳えるのが、
持統の三河行幸に立ちはだかった本宮山である。
持統三河行幸の目的は、日神である男神・アマテルを
女神・アマテラスに代えることであった。
しかし、持統をあざ笑うかのように
穂国に鎮座する神明社(渥美郡に数多く鎮座する。)の多くは
祭神を「大日霊女貴」とせず、「女」を抜き「大日霊貴」とする。

男神・アマテルを女神・アマテラスに変更する過程で
抹殺されたのが、男神・アマテルと対で祀られていた水の女神である。
大祓祝詞では、禊神・瀬織津姫と
記紀では、禍津日神、別名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命。
アマテラスの荒魂ともされる。

本宮山頂近くにある陽向滝。
太陽に向かう水の女神・天疎向津媛命そのものを表している。

花祭りが行われる大千瀬川の本流・天竜川は、
続日本紀霊亀元(715)年条では、
麁魂河(あらたまがわ)と記載される。
麁魂=荒魂なのである。
その後、文徳実録では広瀬川と、
更級日記&海道記では、天中川と記載され、
太平記&一六夜日記で、やっと天竜川と記載される。

麁魂河と呼ばれた頃の天竜の流れは、
二俣(天竜市)の直ぐ西の鹿島から
天竜と別れ、遠州灘に注ぐ現在の馬込川であった。
この馬込側流域に麁魂と関係の深い有玉の地がある。
浜松市、馬込側左岸、東名高速道路の北に当たる。
上述の鹿島及び有玉に鎮座する椎河脇神社(しいがわき)及び有玉神社の起源逸話に
赤蛇伝説があり、「袖ヶ浦由来記」に詳しく述べられている。
坂上田村麻呂の行く手を赤蛇が拒んだものであり、
降参した赤蛇が潮乾珠を授けたというものである。
また、鹿島に鎮座する椎河脇神社の淵には、椀貸伝説も残る。

鹿島について舊事紀巻一・陰陽本紀は、以下のように記す。
「伊弉諾が、十握剣で軻遇突智を斬り、剣の鐸から血が注ぎ、
湯津石村(ゆつのいわむら)に
走就いた所に成る神の名を天尾羽張神といい、
別名を稜威雄走神(いずのおばしりのかみ)という。
また、甕速日神、?速日、槌速日ともいい、
天安河上に坐す天窟之神である。
兒の建甕槌之男神(別名:建布都神・豊布都神)は、
常陸国の鹿島に坐す石上布都大神である。」

民話の里・遠野の霊峰・早池峰山の女神は、瀬織津媛である。
早池峰に鎮座する伊豆権現は、伊豆走湯神社が、その元である。
その子が鹿島の神とは、信じ難いが、常陸の鹿島大宮司の邸が
桜山にあることを加えておく。
なお、陰陽本紀は、これに続けて香取神を住吉三神の子としている。

この有玉の西にちょうど馬込川と天竜川の中間あたりに
笠井(浜松市東北部)の地がある。
六歳市で栄、笠井の市として知られた。
この笠井の市は、笠井観音(観光山笠井聖観世音)で開かれた。
笠井観音は、天竜川上流からこの地に流れ着き、
川のほとりに光っているものを村人が見つけ掘り出したものといわれる。
また、笠井の鎮守は、春日神社である。
祭神は、大市姫之神(市姫)=市杵島姫命である。

さらに、天竜川右岸に沿い走る遠州鉄道の浜北駅は
駅舎新築以前は、貴布祢駅の名であり、
水の神・高竈神を祭神とする貴布祢神社が鎮座する。

そのほか遠州には磐田市の矢奈比売神社では、
暗闇の中で淡海国玉神社への神輿渡御。
池宮神社(小笠郡浜岡町佐倉)が鎮座する浜岡町の桜ヶ池が一日でできたとする伝説がある。

224 天竜川=馬込川の神 風琳堂主人 2002/01/10 11:13

トカゲさんが、中間のレジュメ=まとめをしてくれました。
天竜川河口部の旧の川筋が馬込川であることは、浜北市道本に奈良時代の「天保堤」が遺されていることからも明らかです。
この天竜川=馬込川の川筋に、トカゲさん指摘の椎ヶ脇神社(延喜時代は猪家神社)、有玉神社(延喜時代は朝日波多加神社→朝日多賀神社)があります。また、天保堤の近くには於呂神社(延喜時代は登勒神社)があります。
椎ヶ脇神社の主祭神は闇淤加美命・豊玉比売命、有玉神社の主祭神は天照意保比留売貴命(=アマテラス)、於呂神社の祭神は大国主命、配祀神に磯部大神ほか。
そして、馬込川流域に集中してみられる社に六所神社があります。この六所神社各社の祭神名はバラバラで一貫性がないのですが、ただ、式内社に比定されているところに、大直日命・大綾津日命(=大禍津日神)の名があることは大きな示唆を与えてくれます。
天竜川=馬込川の流域の祭神名──闇淤加美命、アマテラス→磯部大神=伊雑神、大禍津日神と並べてみますと、これらの神に共通して関連してくる神、しかも水神は、瀬織津姫とみるしかありません。しかも天竜川の最古名は麁魂川=荒魂川です(→天照大神荒魂)。また、天竜川の川名の変遷のどの名をみても、つまり広瀬川→広瀬神社、天中川→吉野天河弁財天というように、どの川名も瀬織津姫の匂いを残しているのも印象的です。瀬織津姫の雷神的なイメージは、これも「天竜」にふさわしいです。
あと、トカゲさんの指摘で興味深いのは、笠井観音が天竜川の上流から流れてきたという伝承です。川の上流のどこから流れてきたのかは断言できませんけど、天竜川の上流にあるのが諏訪湖=諏訪大社であることと無縁であるとはおもえません。また、笠井観音のある浜松市笠井の地の西の馬込川流域には稜威雄走神(いずのおばしりのかみ)とも関わりそうな走湯神社(=伊豆山神社)があることも添えておきます。
笠の関連で補足させてもらいますと、矢奈比売神社の元社の隣地には向笠[むかさ]、笠梅という地名があります(磐田市)。そして、この矢奈比売が神幸=逢瀬する神は淡海国玉神で、この神は大国主ということになっていますけど、由緒に「貞観七年五月八日 授遠江国正六位上淡海岩井神従五位下」と、「淡海岩井神」の名があります。
武蔵国の磐井神社の磐井神と、この淡海岩井神は、同神とみてもよいかなと考えています。
花祭りと新野の雪祭りにも深く関わる天竜川です。天竜川の女神と白山の神が重なったとき、三河花祭りの新しい顔がみえてくることとおもいます。

225 みずはめのかみ クミコ 2002/01/10 19:34

初詣は神戸市灘区にある敏馬(みぬめ)神社へ行ってきました。

みずはめのかみの井戸、閼伽井があります。
祭神は
素戔鳴命 天照皇大神 熊野座大神

末社
水神社
弥都波能売神(彌都波能売神)
当社に関する記録は奈良時代の風土記
「美奴売とは神の名 神宮皇后が新羅へご出発の時
 能勢の美奴売山の神様の
(わが山の杉で船を造れば幸いあり)との教え守られ
 大勝利を収めた。
 ご帰還の節この地で船が動かず占い問うと神の御心なり
 と故に美奴売の神をこの地にお祭致す」
これが当社の創建の縁起として西暦201年にあたる
とありました。

后の宮
神功皇后

松尾神社
金山彦の神
大山祇の神
船玉の神

226 彦狭島東漸と砥鹿神社 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/10 21:40

三河一宮と同名の砥鹿神社が、栃木県塩谷郡高根沢町、静岡県清水市原及び愛媛県越智郡菊間町に鎮座する。これら三箇所に鎮座する砥鹿神社は、彦狭島命の東漸と関係があると思われる。彦狭島命は、日本武尊東征の後に東国に派遣されている。彦狭島命の東漸を考察する前に日本武尊について考察してみる。
古事記景行条は、景行が、日本武尊の曽孫の迦具漏姫(カグロヒメ)を娶ったと記載する。日本武尊は、景行の子である。景行は、その子・日本武尊の祖孫を娶ったとは信じ難い。さらに、次の記載から日本武尊の出自自体が怪しくなる。古事記景行は、日本武尊が、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を娶り産んだ子を若建王(ワカタケルノミコト)する。一方、書紀景行条では、日本武尊と弟橘姫の子を稚武彦(ワカタケヒコ)とする。古事記の若建王=書紀の稚武彦の等式が成り立つ。また、書紀考霊条は、考霊と蠅伊呂杼の子として、稚武彦を記載する。一方、古事記考霊条は、考霊と蠅伊呂泥の子として、若建吉備津彦(ワカタケキビツヒコ)を記載する。書紀の稚武彦=古事記の若建吉備津彦の等式も成り立つ。古事記景行条は、景行が、若建吉備津彦の娘・播磨稲日大朗姫を娶り、日本武尊を産んだと記載する。古事記の若建吉備津彦=書紀の稚武彦=古事記の若建王の等式が成り立つ。つまり、日本武尊は、自分の子が、自分の祖父ということになる。自分の子が、自分の祖父という関係はありえない。考霊条と景行条では、系図の混乱がある。日本武尊の出自のみならず、その行跡も額面通り受け取れない。
東征にあたって、景行は、日本武尊に斧と鉞を授けている。東征というより開墾のイメージである。そして、日本武尊は、叔母の倭姫のところに寄り、草薙劔を貰い、東へ旅だったとする。書紀は、日本武尊は、伊吹山の神の蛇毒にあたり亡くなったとする。一方、古事記は、伊吹山の神の使いを白猪としている。猪は、貴重な蛋白源であるとともに農作物に多大な被害を与える。開墾の想像は、より強くなってくる。東征というより日本武尊は、東国に追放されたのではないかと考えられる。
日本書紀考霊条は、考霊が、蠅伊呂泥の妹・蠅伊呂杼を娶り、彦狭島命と稚武彦命の二人を産んだと記載し、稚武彦命を吉備の臣の祖とする。この彦狭島命は、古事記考霊条では、彦寤間命と記載され、播磨牛鹿臣祖とされる。彦狭島(彦寤間)の兄弟の稚武彦は、古事記考霊条では、若建吉備津彦を記載され、若建吉備津彦を吉備下道(備後)臣祖の祖とされる。同条は、考霊と蠅伊呂泥の子として、彦寤間、若建吉備津彦のほかに大吉備津彦を記載し、この大吉備津彦を吉備上道(備前)臣の祖とする。一方、日本書紀景行条は、彦狭島を豊城彦の子と記載する。また、国造本紀は、彦狭島を瑞籬朝(崇神の時代)に上毛野(上野)の国造に定めたとし、彦狭島を豊城入彦の孫とする。豊城入彦は、古事記崇神条で崇神と荒川戸弁の娘・遠津鮎目々微姫の子と記載され、上毛野(上野)の君等の祖とされている。日本書紀同条は、豊城入彦の母を遠津鮎目々微姫とする他、一書で大海宿祢の娘・八坂振天色部としている。また、国造本紀は、下毛野(下野)国について、仁徳の時代に毛野国を上下に別けて、豊城命の四世孫の奈良別を下毛野国造に定めたと記載する。さらに、国造本紀は、彦狭島を景行の子・成務の時代に能登国造に定めたとし、彦狭島を大入城の孫としている。大入城は、古事記崇神条で崇神と大海人姫の子とされ、能登臣の祖とされている。彦狭島の祖父とされる豊城入彦あるいは、大入城は、大海宿祢、大海人姫と海部と関係が強く、天皇本紀は、彦狭島を海部直の祖としている。彦狭島は、日本書紀考霊条等から磯城県主家と関係が深いことが、また、景行条等からは、尾張氏等との関係を示唆させる。
国造本紀で彦狭島は、景行の子・成務の時代に能登国造に定められたとしているが、日本書紀景行五五年条で東山道一五国の都督に任じたが、任地に赴く途中に亡くなったとされ、代って、彦狭島の子・御諸別が東国を治めたと記す。考霊条では、播磨の牛鹿臣の祖と記載される彦狭島が崇神条以降では、能登あるいは、上野の国造の祖とされている。磯城県主や海部と関係の深い彦狭島も東山道一五国の都督に任じられたのではなく、東国に追放されたのではないかと考えられる。
古事記考霊条は、彦寤間(彦狭島)を播磨牛鹿臣祖とするが、国造本紀は、成務の時代に上毛野(上野)の君と同祖・御穂別命の子・市入別命を針間鴨国造に定めると記載する。針間鴨国とは、播磨国賀茂郡上鴨郷を指す。播磨と東国毛野の繋がりをうかがわせる記載である。
国造本紀は、上毛野の国造・彦狭島命を豊城入彦命の孫とし、下毛野の国造・奈良別を豊城命の四世孫としている。豊城入彦と豊城命が、同一人物であり、彦狭島命と奈良別が直系だとすれば、奈良別は、彦狭島命の孫ということになる。新撰姓氏録は、豊城入彦命、彦狭島命及び奈良別について「豊城入彦命―八綱田彦―彦狭島―三諸別―奈良別」としている。日本書紀景行五五年条は、彦狭島命を東山道一五国の都督に任じたが、任地に赴く途中に亡くなったため、彦狭島命の子・御諸別が東国を治めたと記す。新撰姓氏録によれば、この御諸別(三諸別)の子が、下野国造に任じられた奈良別ということになる。しかし、彦狭島命は、第七代考霊の子であり、その祖父・豊城入彦命の父が、第一〇代崇神ということはありえない。また、日本書紀崇神四八年条は、崇神が、豊城入彦命か活目(垂仁)のどちらを皇太子にするか決めるにあたって、二人が見た夢で判断するとし、豊城入彦命が、御諸山に登り、東に槍を突く夢を見たことを報告すると、東国を治めるに適わしいとし、活目が御諸山に登り、四方に縄を張った夢を見たことを報告したところ、活目を皇太子にしたと記載する。そして、書紀景行五五年条では、豊城入彦命の孫の彦狭島命に東山道一五国の都督に任じ、その途中になくなったことから、その子の御諸別が、東国を治めている。御諸別の名と御諸山の夢は、関連があるように思える。この御諸山の夢自体が、彦狭島命―御諸別の東国追放の伏線ではないかと考えられる。
新撰姓氏録で毛野氏は、豊城入彦命を祖としていることから毛野氏が豊城入彦命との意識的な連続をもっていることは、疑いないが、記紀が記載するように豊城入彦命が、崇神の子であることは書紀の崇神四八条及び景行五五年条から考え難い。そこで、古事記崇神条で上毛野君の祖とされる豊城入彦と毛野の関係について見ていく。
上野国一宮の貫前(ヌキサシ)神社(群馬県富岡市一之宮)は、祭神を経津主神と姫大神とするが、二宮・赤城神社(群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢)の祭神は、大己貴命と豊城入彦命である。赤城神は、元々は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげた。織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になったとする伝説が残る。これは、古代においては、上野の信仰の中心が、後の上野国一宮・貫前神社ではなく、二宮・赤城神社にあったことを物語るものと考えられる。一方、下野国一宮・二荒山神社(栃木県宇都宮市馬場通)の祭神は、豊城入彦命である。毛野と豊城入彦命が関係の深いことがわかる。下野国一宮・二荒山神社は、一般に下之宮と呼ばれる。中禅寺湖の北岸、男体山(二荒山)にも二荒山神社奥宮、二荒山中宮祠及び二荒山神社本社が鎮座(栃木県日光市山内)するからである。二荒山の開山は、天応二(七八二)年に勝道上人が、二荒山神社奥宮を創建したことにはじまる。この勝道上人について、補陀洛山草創立修行記は、「下野国芳賀郡の人であり、俗姓は、若田氏その先祖は、垂仁の第九子・池速別命が、勅使となって、伊勢大神宮を五十鈴川上に崇奉するが、縁あって東国に下向し、片目を患い下野国八室に住した(後略)」と記載する。日本書紀垂仁一五年条によれば、この垂仁の第九子・池速別命は、丹波五姫の一人・薊瓊入姫(アザミニイリヒメ)と垂仁の子とされる。つまり、池別速命は、天照大神(アマテルノオオカミ)を伊勢の五十鈴川のほとりに奉祀した倭姫命の従姉弟にあたり、勝道上人は、丹波道主家の血を引くことになる。また、群馬県桐生市広沢町に鎮座する賀茂神社(祭神:別雷神)は、崇神の時代に豊城入彦命が東国の鎮護として賀茂神を勧請したとする。賀茂御祖神社(京都市左京区)の由緒によれば、賀茂建角身命は、丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子、玉依日売を産んだとする。丹波国神野の神伊可古夜日売とは、古事記垂仁条で記載される大筒木垂根命の娘の迦香夜姫であり、丹波道主家ゆかりの姫であり、豊城入彦命が、勧請した賀茂別雷命は、玉依日売の子である。以上から毛野の地と丹波道主家が関係あることがわかる。
現在、栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺に三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座する(祭神:手力男命。元の鎮座地は、西隣の河内郡河内町下岡本)。三河一宮と同名の砥鹿神社という名の神社は、愛媛県越智郡菊間町田之尻及び静岡県清水市原にも鎮座する。
古事記考霊条によれば、彦寤間命(彦狭島)は、針間牛鹿臣の祖と記載され、弟の彦刺肩別(母の阿礼姫は、彦狭島の母の細姫と同一人物と考えられる。第一話第二節参照)は、五百原君の祖と記載される。五百原は、一般に庵原と記載され、三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座する清水市原は、律令以前は、庵原国に属した。
庵原の公(君)について、新撰姓氏録の巻五・右京皇別下は、「笠朝臣と同祖・稚武彦命の後なり、孫の吉備武彦命が、景行の時代に東方に派遣され、毛人(蝦夷=エミシのこと)及び凶鬼神(まがつかみ)を伐って、阿部庵原国に至り、復命の日に庵原国を給わった」旨を記載する。また、国造本紀は、庵原国造について、成務の時代に池田坂井君の祖・吉備建彦の子・意加部彦命を国造に定めると記載する。古事記考霊条は、彦狭島(彦寤間)の兄・若建吉備津彦を笠臣の祖と記載する。この若建吉備津彦は、書紀景行条の稚武彦であるから、新撰姓氏録及び国造本紀の吉備武彦は、彦狭島の兄の孫ということになる。古事記が、彦寤間(彦狭島)の兄弟を三人とし、弟・彦刺肩別を五百原君の祖とし、彦寤間の兄・若建吉備津彦を吉備下道臣及び笠臣祖とし、新撰姓氏録及び国造本紀は、彦狭島の弟の・彦刺肩別でなく、兄・若建吉備津彦の裔を庵原公としている点で異なる。国造本紀の池田坂井君とは、越前坂井を、意加部とは、駿河国志太郡岡部を指すと考えられる。古事記考霊条では、彦狭島(彦寤間)の弟・彦刺肩命を角鹿(敦賀)海直の祖と記していることから、越前坂井もこの関係からと思われる。新撰姓氏録は、景行の時代に東方に派遣され、蝦夷を討ったとするが、景行条の日本武尊の東征自体が、東国追放であったことを考えれば、額面通り受け取れない。また、庵原国鎮座の砥鹿神社は、熊襲梟師を祀るといわれ、九万神社と呼ばれたという。
この庵原について、予章記は、考霊天皇と磯城県主・大目の娘・細姫との間の伊予皇子(彦狭島)が、伊予国伊予郡神崎郷に住し、和気姫を娶り三人の子を産んだ。三人の子は、空船に乗せられ流された。三人の子供は、海童に養われ、吉備の小島に着いた。子供らには、それぞれ宅を造てて、これを三宅と呼んだ。第一子は、吉備の小島留まった。吉備の小島とは、備前国児島のことである。この第一子の子孫が三宅氏である。第二子は、船を作って、八歳にして駿河国清見崎(現清水港)に着く。大宅を造って住したことから、大宅を氏姓とした。子孫が多く、大宅の周囲に庵が建並んだことから、この地を庵原と呼ぶようになった。越智系図では、この大宅氏祖を第一子とし(第二子を三宅氏祖とする)、伊豆三嶋是なり、現三嶋大明神、従一位諸山積大明神というなりと記載する。また、「考霊天皇の第二皇子・伊予王子=彦狭嶋命が、和気姫を娶り三子を産み給う。嫡子の御船、伊豆国に着く(後略)」と記す。古事記、新撰姓氏録及び国造本紀が、彦狭島の兄弟を庵原の君の祖としているのに対し、予章記は、伊予皇子(彦狭島)の子が、庵原に着いて大宅氏を姓としたとする点で異なる。越智系図の現三島大明神とは、祭神を大山祇神・事代主神とする伊豆国賀茂郡に鎮座する伊豆三島神社静岡県(三島市大宮町)のことである。伊豆三島神社は、伊予国越智郡に鎮座する祭神を大山積神とする大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町宮浦)の分社である。伊豆三島神社の鎮座する三島氏の北の駿東郡長泉町には、三河一宮砥鹿神社社家トガリ氏と関連する土狩の地名がある。また、三河一宮と同名の砥鹿神社が鎮座する庵原には、大山祇神の娘・木花之佐久夜比賣命を祭神とする豊積神社(庵原郡由比町屋原)が鎮座する。
大山祇神社鎮座する伊予国越智郡にも祭神を大穴牟遅命(大己貴命)他とする砥鹿神社が鎮座する(愛媛県越智郡菊間町田の尻)。現鎮座地の南方の山頂を「古砥鹿」と呼び、往古は、砥鹿山中腹に東面し、鎮座していたと伝えられる。予章記及び越智系図は、伊予皇子(彦狭島)の第三子が、伊予に住したと記載する。予章記によれば、伊予皇子(彦狭島)の第三子・小千御子は、伊予国大浜に着き、小千をもって郡名とし、また小千を氏姓とした。後に小千を越智に改めたと記載する。また、伊予皇子(彦狭島)の一三世孫・u躬を鴨部大神これなりと記載する。伊予皇子(彦狭島)は、鴨(賀茂)氏とも関ってくるのである。
一方、越智系図は、小千御子が着いたのは、伊予国大浜ではなく、伊予国和気郡三津浦としている。日本霊異記上巻一八話は、伊予国別郡の住人・日下部猴(クサカベノサル)の名を記す。伊予国別郡とは、小千御子が着いたという三津浦のある和気郡を指す。三河一宮砥鹿神社の神官は、草鹿砥(日下部)氏である。伊予国鎮座の砥鹿神社が、往古、砥鹿山中に東面していたというのも意味ありげである。そして、小千御子が着いたという和気郡に日下部氏が住している。
伊予国、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社は、いずれも彦狭島の子と縁のある地に鎮座する。また、新撰姓氏録の三諸別(紀は、御諸別)の名自体、予章記及び越智系図が伝える伊予皇子(彦狭島)の三人の子を暗示させる。伊予国、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社は、越智氏の東漸と関係があるのではと考えられる。また、日下部、土狩、賀茂を通じて、三河一宮砥鹿神社との関連もうかがえる。

227 今日は鏡開きです!でも、どんどやき サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/01/11 17:38

正月の15日朝7時ころ、三角錐に作られたわらに火がつき、
どんど焼きの煙が、空に立ち上がります。
家から見えたどんど焼きの風景は、藁の中に、習字や、お飾りが所狭しと
飾られていましたっけ。
繭玉は1月14日・15日の両日に、米の粉で繭玉を作り、蜜柑と一緒に樫の木
にさして神棚、床の間に飾りその年の蚕がよくできるようにいのるものですが、
どんど焼きの藁やの中にそのいくつかが飾られていたのです。

武蔵府中の白糸台のこのあたりには、シラ神様をまつり蚕の豊穣を祈っていたの
のです。いまは、蚕を飼う家もなくなり繭玉のみが残っています。

白糸台のお隣の調布には、布多天神という社が古くから鎮座しています。
万葉集のも歌われた「武州調布の里(ぶしゅうてづくりのさと)調布です。
この調布の地に祭られた「布多天神社」は元は多摩川近くのハケ線の上にあった
古天神といわれる地から、洪水の難を避けて文明九年(1477)に現在の地に遷座し
て、祭神少彦名神命に菅原道真神を相殿としたと伝えられます。

この社が古天神といわれたころのことですから
桓武天皇の御代延暦18年(799)ごろになりますか
今の中国の西のほうにあるこんろん山から、
木綿の実がはるばる今の愛知県の東半分にあたる、三河国までわたってきました。
その木綿の実を分けてもらった多摩川のほとりに住む農民達は、
木綿までは作ることが出来ましたが、
それを使って布をどうやって織ったらいいかはわかりませんでした。
 ちょうどそのころ、ときの天皇から「広福長者」という名をもらってた長者が
いましたので(後に天神様といわれた菅原道真の親戚すじにあたるという)
村人達は、その長者に布の織り方を教えてくれるように頼みましたが、
長者にも布の織り方はわかりませんでした。
 けれども、ふと思いついて布多天神社にお参りして、
七日七夜のおこもりに入りましたら七日目のよる、
どこからともなく白髪の老人があらわれ、布の織り方を詳しく教えて、
消えてしまいました。
長者はあまりのうれしさに家に飛んで帰ると、
さっそく村人達を呼び集めて、今聞いたばかりの布の織り方を話して聞かせました。
 村人達はそれをよく聞いて、とうとう布を織って多摩川でさらすことが出来るよ
うになり、ときの天皇に差し上げ、
「これこそ、この日本で作られた木綿の布の第一号である。」
「これから後は、この木綿の布を手づくりと、呼ぶがよい。」といわれたと伝え
ます。この手づくりは調(ちょう)といって税金の代わりとして納められた
布だったので、調布と書いて手づくりと呼ばれたという伝承が残っています。

遠く遠野におないさんが布の織り方を広めたように、此処武蔵にも
やっぱり、布の織りかたを教えてくれた神々が三河からやってきたのでしょうか?
そして瀬織津姫となったのでしょうか?

爆走はじめたピンクのトカゲさんに、ご主人も爆走をはじめられるのではないか
と、期待に夢膨らませているs(*^-^)ノ☆です。

布多神社の主祭神は
少名彦神・天神菅原道真・
末社には
金刀比羅神社   大物主神
大鳥神社     日本武尊
稲荷神社     宇迦之御魂神
御嶽神社     櫛真知命
祓戸神社     瀬織津姫大神
         速開津姫大神
         気吹戸主大神
         速佐須良姫大神
疱瘡神社     疱瘡神
厳島神社     市杵島姫命
         田心姫命
         たぎ津姫命

228 小野小町の祖父 山田明子 2002/01/11 23:53

小野たかむら・・・漢字が解らなくてごめんなさい

平安時代の学者・歌人。小野小町の祖父。838年遣唐使に任命されたが乗船しなかったので、隠岐に流された。
「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ
  あまの釣り舟」は隠岐に向かう時に歌ったもの。

島根県に関連することなのでご存知かも?と思いましたが、参考になれば・・でもこれは事実ですよね

229 短いレス pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/12 01:16

東三河
ないんですよね。
ドンド焼とか言うの
年中注連飾り玄関張って
年末に新しいのと代えるとき
納めるんですよね。
伊勢の蘇民将来と
一緒で一年中、注連縄

230 空欄の女神 風琳堂主人 2002/01/14 17:35

正月15日は小正月、女正月で、遠野=東北ではオシラサマが窮屈な箱から出されてみんなと遊べる日でもあります。
オシラ神に瀬織津姫と天照大神(男神)の一対神が隠れていることはまだあまり知られていません。女正月は子ども正月ということでもあり、子どもたちともっとも仲のよい神様がオシラサマでもあります。
にもかかわらず、訳知り顔の大人たちは、オシラサマを「オソロシイ神」とみています。この両極端なオシラサマ伝承を読み解くのは民俗学的な方法だけでは不可能です。なぜなら、オシラ神は養蚕神でもあり農耕神でもあるように、まず「神」であるからです。オシラ神の「見える」形態を収集し類型性を分析しただけでは、この神を明かすことはできません。
「恐い」オシラ神には、瀬織津姫がヤマト側からもっとも恐れられていた記憶が付着しています。一方で女・子どもから愛されるという、この矛盾する、相反するオシラ神の伝承ですが、しかしプラスの方向の伝承にこそ、瀬織津姫本来の、つまり水の女たちの想いが投影しているという気がしています。
いずれにしましても、東国の神を明かそうとおもえば、一度三河を経由する必要があります。列島最南端のエミシの国=三河の反骨の風土は、これからもキーとなるものとおもいます。
話が前後してしまいましたが、サクラさんのHP「瀬織津姫─居酒屋さくら」がオープンしました。晩酌はココに決まりです(当HPのリンク集「瀬織津姫の部屋」から暖簾をくぐれます)。

クミコさん初詣の敏馬[みぬめ]=美奴売の神はどう考えても女神ですね。
現在の祭神は、素盞鳴命・天照皇大神・熊野座大神、末社の水神社の祭神は、ミズハノメ。
本社祭神から、男神・素盞鳴をはずしますと、女神は天照皇大神であると建前上はいえますが、そうなら「美奴売の神は天照大神の別名」といった表記になりそうですから、これがないとなれば、残るは「熊野座大神」が「美奴売の神」ということになります。そして末社のミズハノメです。本来は、ミヌメという音からいっても、この末社の水神が美奴売の神であり、それが上記の三神がかぶることによって訳がわからないように、しかし、まんざらデタラメでもないといった、微妙なぼかしがなされているということなんでしょうね。
また、この本社の並祭三神表示は、これだけでも、熊野座大神は素盞鳴尊「ではない」ということを告げてくれてもいます。
たった数行の「由緒」ですけど、こういった想像を喚起させてくれるというのは貴重です。
美奴売神=閼伽井神=ミズハノメ=[    ]です。この空欄を埋める作業をわたしたちはしているようです。ヤマトタケルと神功伝承は、本来の神様を隠すためにあとから付会=コジツケられたものばかりです。そうまでして隠したかった神がいるわけです。

山田さん、隠岐に流された小野篁ですが、彼が都へもどる祈願を一生懸命していたのが壇鏡の滝だったようです。壇鏡神社=滝神は瀬織津姫で、ここでも小野氏と瀬織津姫が関係してきます。まだまだ出てきそうですね。

(追伸)
あと280ページ、時間でいえば、あと1月です。主人のレスポンスがまた後手ぎみ、手際わるくてゴメン、です。

231 ありがとうございます! サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/01/15 21:27

ご主人、昨日は居酒屋さくらに来ていただいて本当にありがとうございます。とっても嬉しかったです。

忙しい中、本当に気分転換にいらしてくださいませ!
  おいしい純米酒用意しておきます。
    はい、源泉の水を吟味したものを...

そして、楽しいお話伺えたらと、
   少し、楽しみなs(*^-^)ノ☆です。

232 津軽の瀬織津姫 風琳堂主人 2002/01/16 11:15

サクラさん、居酒屋さくらは上々の開店、千客万来でなによりです。カウンターの隅で手酌の気分でみんなの話を聞いています。開店のにぎわいが収まったら少しサクラ─桜─瀬織津姫の話でもとおもっています。

サクラ─桜で瀬織津姫をどこまで明かせるか──この試みをまったく瀬織津姫の名が出てこない場で実験してみます。
瀬織津姫が岩手県に集中してまつられているのに、岩手の北隣の青森県にはいると八戸に一社しかまつられていないという事実、その極端な落差が気になっていて、青森─津軽の大河である岩木川を地図帳で追っていたら、この川の流域が桜地名の宝庫であることに気がつきました。
岩木川の河口部は十三湖なのですが、ここは靄山や荒磯崎神社など、アラハバキ神ゆかりの土地でもあります。そして、この河口部に伊豆神社があることにまずびっくり。
そしてここから南下するように岩木川を遡上していきますと、太宰治の生家がある金木町の芦野湖には水神宮がありますし、同町には不動宮も。金木町の岩木川の対岸の稲垣村にはクラオカミ神社です。
さらに南下遡上して五所川原にはいりますと、唐笠柳といった「笠」地名に泉神社、クラオカミ神社。
そして、ねぷた祭りという鬼=エミシへの鎮魂祭で知られる、津軽の中心都市・弘前にはいりますと、岩木川沿いの土淵堰に「桜川橋」(ここの岩木川東対岸部は東北の代表的な弥生遺跡である板柳の地)。桜川橋の西隣は鬼沢の地名に鬼神社、そして「折笠」の地名もあります。
弘前の都心部にはいりますと、土淵川(→平川→岩木川)に「桜林」(この土淵川の源流の山は久渡寺山(663m)で、久渡寺と羽黒神社に、白蛇神社)。
弘前市内の不動寺、笹清水九頭龍神社を横目に、中津軽郡岩木町、相馬村にはいりますと、白山姫神社に石戸神社。相馬村に「桜井」の地名があるとおもったら雷電宮です。
この岩木町に、岩木山神社はあります。
岩木川最上流部になる岩木町、相馬村、西目屋村に囲まれるようにして、突如弘前市の飛地があり、ここに「桜庭」の地名です(この飛地は、かつては東目屋村)。
この弘前市飛地は10平方キロほどの小さな土地なのですが、ここの桜庭とその周辺には、妙見神社、三日月神社、薬師神社、多賀神社、八幡神社、稲荷神社、山神宮とすさまじい集中度です。
岩木川最上流部の桜井─桜庭の地名を横目に、さらに遡上しますと乳穂ヶ滝[にほがたき]から、おんな坂温泉を経て岩谷観音、白龍神社です。岩木川源流部には暗門滝[あんもんのたき]と、なにやら気になる名の滝があります。また岩木川源流部の山のひとつは弁天森(980m)。
ここまで遡って、岩木川が岩木山=巌鬼山を源流の山としていないことに気がつきます。岩木川は白神山地から岩木山の東をぐるりと囲むようにして、北の十三湖の日本海へ注いでいるわけです(古代の川筋はまだ確認していません)。
岩木川は岩木山ではなく、白神山地に発するとなりますと、あらためて「白神」という名に深い意味がありそうな気がしてきます。
白山の「白」とも、また東北─遠野のシラ神=オシラサマの「シラ」とも無縁でないという可能性があります。
津軽の瀬織津姫──この名がはっきりと記された文献・伝承にはまだ出会っていませんけど、伊豆神社─水神宮─クラオカミ宮─不動寺(岩木町には不動明王尊も)─雷電宮(伊豆山神社の雷電社が想起されます)─薬師神社・多賀神社─白龍神社(瀬織津姫が人前に現れるときの姿は白蛇です)─弁天森、そして白神。それに、桜と笠地名の集中です。
津軽の岩木川の水神はどんな神=女神なのか──。これも空欄の話ですが、瀬織津姫の匂いが濃厚になってきました。岩木山の神がアラハバキ神ともなる、また鬼神ともなる男神の太陽神の伝承を聞けるなら、いよいよ、まさにエミシの国の女神=瀬織津姫が闇から浮き立ってくるということになります。
ヤマトはエミシの国を制覇するにあたって、瀬織津姫の力を利用し、用無しとなるとこの神の名を消去しました。また、本来的に瀬織津姫をまつる民もありましたから、これらは冷静に腑分けする必要がありますが、まずは、津軽調べのためのメモをさせてもらいました。

233 神の氷──乳穂ヶ滝と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/01/16 15:58

津軽の瀬織津姫をメモしていたら、前後するように、西目屋村役場企画課の斎藤さんから、『西目屋村誌』の関係記事ほかのFAXをいただきました。斎藤さん、どうもありがとうございます。

岩木川最上流部に位置する西目屋村の目屋の発祥地は「花咲松」にあり、これは、行基創建の馬頭観音堂の古松をいうようです。この観音は、現在から200年ほど前に、桜庭の地へ遷座し、同地の「清水観音」となっていることが村誌に記されています。「馬頭」→「清水」です。
また、「乳穂ヶ滝」についても興味深い記事が収録されていますので、参考までに村誌を引用しておきます。

 正面を仰ぐと岩が裂けたような状態で、高さ三十三メートル(古記では十丈)幅10メートル弱(同五間)の滝がさらさら雨が降るように落ちる。その岩下に不動尊がまつられ、N状に橋が架けられ、容易に参拝できるようになっている。元来、この不動尊御堂は建立不明とされている。
 この滝が古来から津軽の作物豊凶占いにされた古事から始まり有名になったが、藩政時代には津軽藩主が、その氷塊を正月の厳寒期に特命使者を遣わせて検見させ、豊凶の手がかりとし、民間では旧正月十七日その氷を参拝後持ち帰って病人に与えると、ふしぎにも快癒したという。したがって豪雪をついて津軽中の信仰者が集まり、現在でもその風習がつづいている。
 古い記録をたどると、文化三年八月十八日(1806)津軽藩主寧親が参拝したことが明らかで、ついで寛政八年二月六日(1795)家老職喜多村が参詣している。なかでも、目屋の名を天下あまねく周知させたのは菅江真澄(三河の人)。真澄は寛政八年十一月四日、暗門探勝の帰り途ここに詣でて次のような歌をよみのこした。

  豊年の徴も水も ふる雪も
    千束に氷れ 新穂の たきなみ

乳穂ヶ滝がただならぬ滝であることが伝わってくる村誌の記録です。この滝の氷の病気平癒の効験を、『ふるさと西目屋』は「神の氷」とも表現しています。
乳穂ヶ滝─不動尊の組み合わせは、早池峰─遠野郷における滝神=瀬織津姫と不動さんの祭祀方法と一緒です。そして目屋の発祥に関わる「花咲松」の伝承も、これも岩手県安代町にあります桜松神社=不動滝の伝承を彷彿させます。桜松神社の祭神=滝神も瀬織津姫です。目屋の「花咲松」の「花」は桜のそれとみてよいでしょう。
岩木川の水神=滝神が瀬織津姫である可能性がいよいよ高まってきました。それに、アラハバキ神─瀬織津姫を知っていた三河の菅江真澄が、暗門滝と、この乳穂ヶ滝を訪れていることも興味深いです。

234 サクラ地名リスト 風琳一家代貸pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/16 16:49

現在の住所表記の
桜井、桜川、桜木、桜田、桜谷、桜山、佐倉
地名のリストです。
※河川や山名、滝、神社、景勝地などの通称名などは、
載せてありませんが、
参考までに

北海道美唄市開発町桜井
北海道美唄市南美唄町桜井
福島県原町市桜井
茨城県北茨城市中郷町桜井
茨城県真壁郡真壁町桜井
千葉県銚子市桜井
千葉県木更津市桜井
千葉県富津市桜井
山梨県甲府市桜井
長野県長野市信更町桜井
長野県佐久市桜井
岐阜県岐阜市長良桜井
岐阜県養老郡養老町桜井
愛知県名古屋市中川区中須町桜井
愛知県安城市桜井
愛知県小牧市桜井
愛知県額田郡額田町桜井寺
京都府京都市北区上賀茂桜井
京都府京都市上京区桜井
大阪府富田林市桜井
大阪府箕面市桜井
大阪府三島郡島本町桜井
奈良県桜井市
愛媛県今治市桜井
高知県高知市桜井
福岡県糸島郡志摩町桜井
福岡県浮羽郡吉井町桜井
熊本県水俣市桜井

北海道虻田郡真狩村桜川
青森県青森市桜川
青森県西津軽郡木造町桜川
岩手県水沢市桜川
茨城県日立市桜川
茨城県西茨城郡岩瀬町西桜川
茨城県稲敷郡桜川村
東京都板橋区桜川
滋賀県蒲生郡蒲生町桜川
大阪府大阪市浪速区桜川
香川県仲多度郡多度津町桜川
宮崎県西都市桜川

北海道帯広市桜木
北海道岩見沢市桜木
北海道苫小牧市桜木
北海道赤平市桜木
北海道三笠市弥生桜木
北海道千歳市桜木
北海道登別市桜木
青森県黒石市桜木
青森県むつ市桜木
青森県西津軽郡木造町桜木
岩手県花巻市桜木
岩手県一関市桜木
岩手県釜石市桜木
岩手県上閉伊郡大槌町桜木
宮城県仙台市太白区桜木
宮城県多賀城市桜木
宮城県遠田郡小牛田町桜木
山形県米沢市桜木
福島県福島市桜木
福島県郡山市桜木
群馬県桐生市桜木
埼玉県熊谷市桜木
埼玉県秩父市桜木
埼玉県さいたま市桜木
千葉県千葉市若葉区桜木
東京都台東区上野桜木
東京都足立区千住桜木
神奈川県横浜市西区桜木
神奈川県横浜市中区桜木
新潟県新潟市桜木
新潟県三条市桜木
新潟県柏崎市桜木
新潟県十日町市桜木
新潟県西頸城郡能生町桜木
富山県富山市桜木
石川県小松市桜木
岐阜県岐阜市桜木
岐阜県関市桜木
静岡県静岡市桜木
静岡県熱海市桜木
静岡県伊東市桜木
愛知県豊川市桜木
愛知県西尾市桜木
愛知県稲沢市桜木
愛知県大府市桜木
愛知県知立市桜木
三重県伊勢市桜木
京都府京都市北区平野桜木
京都府京都市上京区桜木
京都府京都市左京区松ケ崎桜木
京都府京都市下京区桜木
京都府京都市伏見区石田桜木
大阪府枚方市香里園桜木
大阪府寝屋川市桜木
兵庫県神戸市須磨区桜木
兵庫県尼崎市桜木
兵庫県川西市多田桜木
山口県徳山市桜木
愛媛県新居浜市桜木
長崎県長崎市桜木
長崎県佐世保市桜木
熊本県熊本市桜木
宮崎県北諸県郡高城町桜木
鹿児島県枕崎市桜木

北海道釧路市桜田
青森県五所川原市桜田
青森県西津軽郡木造町桜田
青森県上北郡七戸町桜田
宮城県遠田郡田尻町桜田
宮城県栗原郡栗駒町桜田
山形県山形市桜田
埼玉県さいたま市桜田
埼玉県北葛飾郡鷲宮町桜田
千葉県香取郡大栄町桜田
石川県金沢市桜田
岐阜県岐阜市加納桜田
愛知県名古屋市熱田区桜田町
愛知県名古屋市南区元桜田
三重県津市桜田
京都府京田辺市飯岡桜田

福島県田村郡三春町桜谷
千葉県長生郡長柄町桜谷
富山県富山市桜谷
福井県丹生郡織田町桜谷
京都府京都市左京区鹿ケ谷桜谷
京都府京都市山科区上花山桜谷
京都府京都市西京区山田桜谷
兵庫県西宮市桜谷
鳥取県鳥取市桜谷
徳島県那賀郡上那賀町桜谷
愛媛県松山市桜谷

北海道夕張郡栗山町桜山
岩手県盛岡市東桜山
埼玉県東松山市桜山台
神奈川県逗子市桜山
岐阜県関市安桜山
愛知県名古屋市昭和区桜山
兵庫県佐用郡上月町桜山
広島県三原市桜山
山口県下関市桜山
福岡県糟屋郡新宮町桜山
熊本県荒尾市桜山

岩手県水沢市佐倉河
宮城県角田市佐倉
山形県山形市佐倉宿
福島県福島市佐倉下
福島県大沼郡昭和村佐倉
茨城県稲敷郡江戸崎町佐倉
千葉県佐倉市
千葉県印旛郡酒々井町佐倉
静岡県小笠郡浜岡町佐倉
京都府京田辺市普賢寺佐倉谷
兵庫県篠山市佐倉
奈良県宇陀郡菟田野町佐倉
広島県甲奴郡上下町佐倉

235 聖母信仰と景教 風琳一家代貸pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/17 19:59

クミコさんが書いた天上寺の聖母信仰と中山寺について調べてみました。
この聖母信仰の発生と以前書いた景教が関係あるように思えます。
そこで、この聖母信仰をからめて、「景教と易姓革命」整理してみます。

中山寺について調べてみますと、クミコさんの言うように
聖徳太子が、五八七年に建立したということが、色々なところで出ていました。
五八七年といえば、物部守屋が蘇我馬子によって討たれた年である。
さて、この聖徳太子ですが、この聖徳太子というのは、一種の諡号で死後、こう呼ばれたわけです。
聖徳の名の文献初出は、七二〇年に撰上された日本書紀の用明正月条で豊耳聡聖徳と記載されています。古事記には、上宮厩戸豊聡耳命と記載されています。
古事記が成立するのが七一二年。
天武一〇(六八一)年に川嶋皇子ら一二人に詔して帝紀・旧辞を記定すると書紀に記載されています。
古事記は、この帝紀・旧辞を基にして編まれるわけです。
したがって、聖徳という名は、古事記成立の七一二年から日本書紀が撰上される七二〇年の間に生まれると考えられます。

太子が死亡したのが、推古三〇(六二二)年ですから百年近く経ってから聖徳太子と呼ばれたわけです。
上述のように記紀は、聖徳太子を上宮厩戸豊聡耳命あるいは豊耳聡聖徳等と記載しますが、この後に聖徳太子と呼ばれた人物の幼名の一つが、書紀に記載される厩戸皇子です。
聖徳太子自身が、実際に厩戸皇子と呼ばれたか否かはともかく、この命名逸話は、聖母マリアが厩でキリストを生んだとする逸話を容易に連想させます。
この逸話から唐代に中国に伝来した景教が、日本にも伝わっていた事が想像されます。
景教とは、キリスト教ネストリオス派の中国での呼称で、唐代に中国に伝わり、一時は隆盛を極めました。
記録では、この景教が唐に伝わったのは、六三五年とされています。
太子は、四九歳で亡くなっていますから、景教が唐に伝わる遥か以前ということになります。
日本書紀の注釈書の釈日本紀等に上宮記逸文の名が記載されています。
上宮記は、太子存命中のものとされていますから、太子は、生存中、上宮皇子と呼ばれていたと考えられます。

聖母信仰の天上寺が創建されるのは、寺伝によれば、六四六年と伝えています。
六四六年といえば、乙巳の変(このクーデターにより翌年、大化の改新の詔が出された)の翌年、大化の改新の詔が出された年ということになります。
この乙巳の変で蘇我蝦夷が自害するときに天皇記及び国記は、焼失します(ただし、国記は、船恵尺なる者が火中からかろうじてもちだした)。
この天皇記及び国記は、太子の死の二年前・推古二八(六二〇)年に撰上されます。
この当時は、上宮皇子と呼ばれていたわけですから、天皇記にも当然そう書かれていたと考えられます。つまり、厩戸皇子の命名逸話は、天皇記には、なかったと考えられます。
景教が唐に伝わるのが、六三五年、そして、天上寺の創建が六四六年
その間、一〇年、この間に景教とともに聖母信仰も日本に伝来したと考えられ、天上寺で聖母信仰が生まれたのではないか

推古朝に撰上された天皇記には、厩戸皇子の命名逸話は記載されていなかったと考えられ、
この厩戸命名逸話の記載がない天皇記は、乙巳のクーデターで焼失するわけです。

帝紀・旧辞とも現存しないため、想像の域を出ないが厩戸の命名逸話が、記載されるのは、天武一〇(六八一)年の帝紀ではないか
そして、この帝書には、景教の思想が反映していたのではないかと考える。

話しは、推古朝に遡ります。推古一五(六〇七)年、小野妹子が隋に派遣されます。いわゆる遣隋使です。
中国の歴史書・隋書には、「倭国王姓阿毎」なる記載があります。これは、この小野妹子が隋に遣わされたときの記載です。
「倭国王姓阿毎」、つまり、日本の国王の姓は、「阿毎」だとしているわけです。
「阿毎(アメ)」が、天皇の姓か否かは、別として、物部、蘇我が、姓を持っていて、天皇(統治者)に姓がないというのは、洋の東西を問わず、特異なものです。
この「阿毎」が姓だとしたら、なぜ、天皇は、姓を捨てたのか?

五八七年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす。その蘇我氏も孫の入鹿が、乙巳のクーデターで討たれたのを機に滅亡する。そして、乙巳のクーデターで権力を手にした天智の後継者・大友を滅ぼしたのが、帝紀を定めた天武である。

中国では、儒教に基づく王朝交代思想がある。易姓革命である。
易姓革命の易姓とは、統治者の姓が易(かわ)ることを、革命とは、天命が革(あらた)まることをいい、総じて、王が不徳であれば、別の有徳者が代わって、王位に就くのが天命であるというものである。

紀元前三世紀に始皇帝が中国を統一したもののその後、二世紀には、三国時代に突入する。日本では、卑弥呼の時代である。
その後、三国時代から南北朝時代へと続く長い戦乱の時代を制するのが、隋の文帝(楊堅)である。五八九年のことである。
楊堅が創てた隋も、その子・楊廣(諡号・煬帝=ようだい)の高句麗遠征の失敗を素に、国力は衰退し、やがて部下の手にかかり殺される。
煬帝が殺されるとともに隋も滅びる。文帝が中国を統一し、煬帝が殺され、隋が滅びるまで僅か三〇年である。
代わって李淵(太宗)が、唐王朝を興す。
高句麗遠征の失敗=煬帝の不徳
別の有徳者=李淵が王位に就く。
楊氏(隋)から李氏(唐)
これが、冒頭で説明した易姓革命。

壬申の乱(六七二年)で、天智の後継者・大友を滅ぼした天武は、百年の間に物部から蘇我、蘇我から天智、そして、その天智の後継者が滅びたのを見てどのように感じたのであろう。
さらに大国・隋でさえ僅か三〇年で滅亡しているのである。
天武が、このような現実を目の当たりにして、易姓革命からの回避を真剣に考えたことは想像に難くない。

237 ハンドルネーム変更しました みずち 2002/01/20 22:44

楽しく読ませて頂いております。
バックグラウンドの無い私のこと、思いつくままのことを書き込ませて頂いております。
一つでも皆様からの情報が頂ければ幸いです。

○御井神(ミイノカミ)
 主祭神として平田市本庄町に鎮座の水神社、境内社として八束郡鹿島町大字佐陀宮内に鎮座の佐太神社の境内社御井社に奉斎。これ以外にない(島根の神々より)。
 神聖な井戸の神の義。「井」は今日のように深い掘抜井戸ではなく、地上に湧出する清泉を木や石で囲った形のものをいう。ここにはY字形になった神の依代の木(肢木)が生えていたり、また植えたりした。
「木俣(きまた)の神」のまたの名。大穴牟遅神と稲羽?の八上比売との間に生まれた神。風土記には出雲郡の条に御井社とあり、延喜式には「御井神社」とあり、現在斐川町直江に鎮座の御井神社で木俣神が奉斎してある。何故、御井神と木俣神は同神なのでしょうか?

○三桜神(三桜神社)
 島根の神名帳には載っていない。現在、桜井姓の人が元は三桜だった。また、この神社は飯山市(長野県)にある。大字寿(円の中に寿)そして尾崎という小さな集落にある小さな神社らしい。

○(御崎神社、御崎大明神)御崎神
 島根県では安来市佐保町の五神神社の主祭神の中の一柱。由緒、其の他については一切不明、となっている。また、隠岐の島前、島後の神名記(元禄16年)によると御崎と名のつく神社は10社もある(現在では記録にはないと思う)。私の知る御崎神社は岡山県の奥部、湯原温泉の近くにある。また、米子市の和田御崎神社を最近知った。一説にはハンザケ、蛇、竜などの信仰の神と言われている。世界的にハンザケ(サンショウウオ)の生息地として有名なのは鳥取県、岡山県であることから納得のいくものである。
 なお、和田御崎神社の主祭神はスサノウ命であり、『大穴牟遅の命』 『稲田姫』 『稲背ハギの命』も祀られている。日貫にある祠は元宮と呼ばれ、様々な解釈がされている。山蔭神道の山蔭基央管長によれば、イザナミ(伊邪那美命)ではないか。鈩の関係との説。
 隠岐の島は流刑の島である。後鳥羽天皇は自分で創った刀を有馬いなりに奉納。神社再建時に奉納された彫物、龍神は平成11年、800年の眠りからさめ神殿正面に安置された。

○東北とつながるもの 『坂上田村麻呂の墓』 『岩木山』 『青笹→段田』
 坂上田村麻呂の墓があり、田村一族と呼ばれている。本家は石見町日貫から移転、旭町木田へ在住。また青笹には段田という屋号の家がある。そこには田のそばに小さな墓石があり段田殿様と呼ばれているらしい。けれども、それは約200年位前のもの。日貫の多くの山のうち、財力の流れが見えるのが松原山と呼ばれている大きな山(日野城山)。明治の初めの大地主の台帳には松原山と並んで岩木山がある。温泉津では青笹一族と呼ばれている青笹姓の人が多く、日貫の青笹から400年位前に移住した、ということが語り継がれている。けれども日貫ではないことも大である。古文書等は寺院の消失により家系の由緒等は不明であるが、全国的にも大変珍しい姓とのこと。

239 記紀成立考 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/21 20:59

日本書紀天武一〇(六八一)年三月に川嶋皇子をはじめ一二人に詔して、帝紀及び上古の諸事(旧辞)を中臣連大嶋と平群臣小首に記録校定させたと記載する。
一方、古事記序文二段は、諸家が持っている帝紀及び本辞(旧辞)は、まちまちであり、事実と異なっているものもあるこれを放っておけば、どれが真実かわからなくなる。天皇についての記録(帝紀)や神話(旧辞)は、国の基になるものである。そのため、諸家の持っている記録を改め事実を後世に伝える必要がある。それを受けて、稗田阿礼に帝紀及び旧辞を誦習わせた。しかし、時勢が移り(天武が亡くなり)、いまだ完成に至ってない。
そして、同三段は、和銅四(七一一)年九月一八日に(元明の)詔により、稗田阿礼が誦習させた帝紀及び旧辞を太安麻侶が筆記し、翌和銅五(七一二)年正月二八日に奏上したと記載する。
元明の詔から僅か四月で古事記は、完成したわけです。
天武は、天武一五(六八六)年九月九日に死亡したと日本書紀に記載する。
日本書紀は、乙巳の変(六四五年)で蘇我蝦夷が自害するときに天皇記及び国記は、火にかけられ、国記は、船恵尺なる者が火中からかろうじてもちだしたと記載する。
この天皇記及び国記は、推古二八(六二〇)年に撰上されたものです。
書紀の記載では、その推古二八年に撰上された天皇記及び国記のうち、天皇記(帝紀)は、焼失しているわけです。
一方、古事記序文では、諸家が、帝紀(天皇記)及び旧辞(国記)を所持しているわけです。
そう考えると、書紀天武一〇年の帝紀及び旧辞の記録校定は、諸家の持っている帝紀及び旧辞を記録と、それの擦合作業(校定)だと読めるわけです。
和銅四年に詔が出され、翌年に古事記が完成するわけですが、なぜ、和銅四年に古事記撰上の詔が出されたかを考えてみます。
中公新書刊・森博達著「日本書紀の謎を解く」によれば、の書紀持統五(六九一)年九月四日と翌六年一二月一四日に唐人・続守言と薩弘烙が賞揚されたとする記載は、持統五年八月条の大三輪氏をはじめ一八氏の墓記を上進させたとの記載を受けたものであり、両名に書紀の撰述を促したものとする。
そして、両名は、これを受けて、続守言が、巻一四の雄略紀から、薩弘烙が、巻二四の皇極紀からの述作を担当したが、続守言は、巻二一の崇峻紀の終了間際で倒れた。薩は、巻二七の天智紀まで完成させ、文武四(七〇〇)年に死去したとする。
そして、同書は、慶雲四(七〇七)年四月一五日に山田史御方に学士としての功績に賞揚が出されていますが、これは、神代から安康までの撰述の必要が生じたこととから、その述作を促すためのものとしています。
そして、和銅七(七一四)年二月一九日に紀朝臣清人と三宅藤麻呂に国史撰述の詔勅が下り、大宝二(七〇二)年の持統の死去にともない巻三〇の持統紀の撰述が計画され、その述作を清人が、全体の潤色及び加筆並びに続守言が執筆できなかった巻二一の巻末を藤麻呂が担当したのではないかとしている。
森氏は、漢文の誤用から以上の結論を出している。そして、神代から安康を担当した御方は、唐への留学経験がなく、倭音と和化漢文で述作されているとしている。
古事記は、神代から推古までが記載されている。しかし、推古については、四七字、崇峻に至っては、三八字しか記載がなく、その行跡がほとんど記されていない。
また、古事記は、書紀が漢文で表記されているのに対し、万葉仮名で表記されている。
元明の古事記撰上の詔が下りた和銅四(七一一)年は、御方により神代から安康までの記載が完成したことを意味するのではないか。そして、雄略以降の完全な漢文とそれ以前の不完全な漢文を万葉仮名に直す命令ではなかったかと考えられる。
また、持統は、持統四(六九〇)年正月に即位し、翌年八月に大三輪氏をはじめ一八氏に墓記の提出を命じている。そして、翌年には、唐人二名に書紀の撰述を促している。
巻二一の巻末並びに巻二二及び二三は欠けているものの、持統の書紀撰述の目的が達成したのは、持統一一(六九七)年八月ではないか。このとき持統は、息子の文武に譲位している。
だとすれば、文武に譲位した持統一一(六九七)年八月から慶雲四(七〇七)年四月の一〇年の間に、なぜ神代から安康までの撰述の必要が生じたのであろうか?

240 天照不動明王 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/23 11:45

元々の七福神の紅一点は、弁財天ではなく吉祥天であったとの説があります。
奥三河は、北設楽郡設楽町三都橋に鎮座する津島神社で一一月の第三土曜日に行われる参候祭は、仮面をつけた七福神が、一人づつ現れ禰宜と問答をして湯立の舞を踊るものです。どういうわけか、ここの七福神は、毘沙門天でなく不動明王です。そして、この不動明王が、七福神の中で最初に登場するのですが、不動明王と禰宜とが交わす問答の台詞が「それがしは、滝に棲む天照不動明王にて候」です。
滝に棲む不動明王、各地で「不動の滝」の名の名瀑があります。滝といえば、不動さんが連想されるわけですが、日本を代表する名瀑の一つ「那智の滝」の祭神は、瀬織津姫であり、滝神社を称する神社の祭神の多くも瀬織津姫です。
民話の里・遠野郷の附馬牛。「定本附馬牛村誌」は、「(不動さんの祠)は、又一の滝をはじめ、荒若の滝や、犬淵の滝の傍らにあり、不動明王、あるいは瀬織津姫命を祀っている」と記載します。つまり、瀬織津姫と滝に棲む不動明王は、同根異体なわけです。
瀬織津姫は、男神アマテルを女神アマテラスに変更する過程で抹殺された水の女神であり、本来は、日神アマテルと一対で祭られていたわけですから参候祭の不動明王の台詞は、瀬織津姫を抹殺した持統―不比等をあざ笑うかのような名文句ということになります。
羽州鹿角に鎮座する大日霊貴神社には、吉祥姫伝承があるといいます。この大日霊貴神社も大日霊女貴(女神アマテラス)とせず、あくまでも女の字を抜かした大日霊貴(男神アマテル)としています。
そのように考えれば、吉祥姫=瀬織津姫の等式も成り立ち、七福神の紅一点が、吉祥天から、よりポピュラーな弁才天に代わったことも頷けます。
民話の里・遠野、その遠野の信仰の対象・早池峰山の祭神は、水の女神・瀬織津姫です。
遠野の伊豆神社(祭神・瀬織津姫)の由緒所によれば、「大同年間(八〇六〜八〇九)早池峰さんを開山した四角藤蔵が、来内権現の霊感を得て故郷来内に戻り、自家の裏に一草堂を建てて朝夕これを崇拝したとのことである。当事この話を聞いた伊豆走湯関係の修験者が、この地に来て権現の由来を基に獅子頭を御神体として奉ったものである。故に伊豆大権現と称され千二百年以上にわたり広く信仰を得たものである。」としています。
伊豆大権現は、現在、静岡県熱海市に鎮座し、伊豆山神社と称しています。伊豆山神社は、伊豆権現、走湯大権現とも称され、略して伊豆山又は走湯山と呼ばれていました。
参候祭が行われる設楽町三都端の西の豊川(宇連川―ウレガワ)流域の地・大字田内にも伊豆神社が鎮座します。
同社の由緒によれば、田内城を田内字インベに築城した菅沼伊賀守が、天文五(一五三六)年に再建した社で、明治までは、伊豆三社権現と称されていた。祭神は、静岡県熱海市伊豆山神社から勧請した伊豆大権現、同県三島市三嶋から勧請した三嶋大明神及び石川県白山神社から勧請した白山妙理大権現である。現在の祭神は、大山祇命、日本武尊、大国主命、菊理姫命である。
田内には、インベ(→忌部)のほか、ゴンゲ(→権現)、弁天元と瀬織津姫と関わりがありそうな小字があるのも関わらず、現在の祭神名に瀬織津姫の名がなく、祭神が四神というのも祓戸四神を思わせ、何かあるように思われる。
また、田内の北・田峯には、三河さん観音の一つ高勝寺、通称田峯観音がある。田峯観音には、名水が湧き、週末ともなれば、この名水を求める人々で賑わう。
田峯の名水は、悠久の昔から湧いていた。その南に位置する田内に鎮座する伊豆神社も田峯観音と同一の水の信仰に基づくものであろう。
滝に棲む天照不動明王。日本民俗学の祖・柳田國男の言葉を借りれば「これを語りて平地人を戦慄せしめよ」である。

241 広瀬 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/24 20:25

設楽郡設楽町田内に鎮座する伊豆神社の小字がインベということでインベ→忌部なわけです。
忌部というと『古語拾遺』を編んだ斎部(忌部)廣成が浮かぶが、その前に天武の時代になって、はじめてその名が現れる広瀬の大忌神について、書いてみる。
書紀天武四(六七五)年条は四月一〇日に美濃王と佐伯連広足とを遣わし風神を竜田の立野に、間人連大蓋と曽禰連韓犬とを遣わし大忌神を広瀬の河曲に祭らせたと記載する。
この記載から風の神と大忌神は、このとき、竜田の立野と広瀬の河曲に祭られるようになったと考えられる。
書紀は、この記載に続けて、一四日に久努臣麻呂は、勅命を帯びた使者に逆らい命令を拒んだため、官位を剥奪されたと記載する。
この記載から、どんな命令だったかは解らないが、風神と大忌神を竜田の立野と広瀬の河曲に祭る二日前の四月の八日に当摩公広麻呂と一四日に官位を剥奪された久努臣麻呂は、朝廷への出仕を禁ずるとの命を受けている。
久努臣の出仕停止→官位剥奪と風神及び大忌神を祭ったことに関連があるのではないか。
国造本紀は、仲哀の時代に物部連の祖・伊香色男命の孫・印幡足尼を久努国造に定めたと記載する。
久努国とは、和名抄の遠江国山名郡久努郷をいい、久努郷は、後に周智郡、さらに磐田郡に編入される。
延喜神名帳の山名郡の項を見ると、豊受姫大神を祭神とする嶋名神社(磐田市鎌田)がある。同社は、天武天皇白鳳二(六七三)年の創建とされる。
広瀬神社の現在の主祭神は、若宇加能売命(ワカノウカノメノミコト)とされ、若宇加能売命は、伊勢外宮の祭神・豊受大神と同神とされる。
延喜式神名帳記載の遠江国の項を見ると、祭神を天照皇大御神と豊受大神とする社が、浜名郡の弥和山神社(引佐郡三ヶ日町只木字宮平)並びに引佐郡の乎豆神社(同細江町中川)及び須倍神社(浜松市都田町)と三社ある。また、長上郡には、豊受大神を主祭神とする邑勢神社(浜松市大島町)が鎮座する。豊受大神は、雄略の時代に丹波の真名井から伊勢に遷したとされている。
書紀天武元(六七二)年六月二六日条で天武は、伊勢大神を遥拝したと記載する。天武が村国男依に命じ美濃国安八磨軍の兵を徴したのが、六月二二日、それから一月経たない七月二三日には、大友は自害し、天武は、壬申の乱に勝利する。
壬申の乱の翌年に嶋名神社が創建され、その二年後には、広瀬の大忌神が祭られ、久努臣の官位が剥奪されている。女神アマテラス成立を考える上でもこの広瀬の大忌神の検討が必要なわけです。
また、遠江を流れる天竜川は、広瀬川と呼ばれた時期があり、広瀬川と呼ばれていた頃の流路は、現在の流路より東、旧山名郡の西、彷僧川あたりであった。
また、広瀬神社の本殿の丑寅の方角には、瀬織津姫を祭神とする摂社・荒祭宮が鎮座していたという。
瀬織津姫の名が記載されるのは、大祓祝詞であり、この祝詞は、天智八(六六九)年、中臣金連が近江桜谷において創ったとされる。金は、壬申の乱に際し、近江方に与し、斬首にされた。
現在の大祓祝詞が完成したのは、大宝律令の完成(七〇一年)と時を同じくするといわれ、中臣金の従兄弟の子・中臣意美麻呂の手によるとされる。
金が、最初に大祓祝詞を創った天智八(六六九)年から現在の大祓祝詞が完成する大宝元(七〇一)年の間に何があったか簡単に整理する。
天智一〇(六七一)年一二月、天智が死去、翌年、壬申の乱が起こる。天武一四(六八五)年九月一〇日、天武が式年遷宮の制度を定める。そして、持統四(六九〇)年に持統により第一回遷宮が行われる。持統六(六九二)年、持統が、伊勢に行幸する。
大祓祝詞は、中臣祓といわれるように中臣神道の中核をなすものである。
中臣祓と広瀬大忌神が、どのような関わりがあるか折々検討する。
なお、遠江国敷智郡には、元正の時代に不比等が公勅を奉じ遠江灘の鎮守として摂津の住吉神社より荒魂を勧請奉祀した津毛利神社(祭神:筒男三神、浜松市参野町)が鎮座する。
PS:越智氏と砥鹿神社の補足※伊豆諸島の三宅島の阿古字富賀(とが)山に富賀神社(祭神:阿米都和気命=三嶋大明神・伊古奈姫命)が鎮座します。ここが、伊豆三島神社発祥の地とされています。

242 中臣神道の成立 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/25 20:44

古語拾遺は、大宝年中には、神祇簿の定めはなかったが、天平年中(七二九〜七四八年)に神帳が定められた。しかし、中臣の恣意により創られたものであり、中臣とゆかりのない社は、廃れるばかりであると、「古語拾遺」の作者・斎部廣成は、嘆いている。
天平五(七三三)年には、天平五年に出雲国風土記が撰上されている。
斎部氏は、祭祀を司った氏族であり、「古語拾遺」は、大同二(八〇七)年、「古語より遺りたるを拾ふ」として書き記したものである。
廣成は、遺りたる三で「伊勢の宮司は、独り中臣氏を任して」をはじめ、中臣の専横に不満をぶちまけ、遺りたる一一で勝宝九(七五七)年より後には、伊勢大神の幣帛は、中臣を用いて、他姓を用いることはなかったとしている。
記紀の成立と両輪をなすのが、中臣神道の成立である。
中臣―藤原について、整理してみる。
中臣氏は、卜部から中臣に改姓したという。
蘇我馬子と物部守屋の権力争や書紀神功条など伝説上の中臣氏はともかく歴史の表舞台に飛び出すのは、乙巳のクーデターの計画者・中臣鎌足(六一四〜六六九)である。鎌足は、乙巳のクーデターの成功により天智の片腕となり、台頭する。
天智八(六六九)年一〇月、死の床で天智から藤原姓を賜ったという。
この鎌足が死去する天智八年に鎌足の従兄弟とされる中臣金(?〜六七二)が、佐久奈度神社で大祓祝詞を創ったとされる。
金は、壬申の乱(六七二)で近江方に与し、戦後斬首に処せられる。
天武一〇(六八一)年三月に金の甥の中臣大嶋が、帝紀・旧辞の記録校定を行っている。六八五(一四)年九月には、天武が、式年遷宮を定めている。
大嶋は、持統三(六八九)年には、神祇伯に就き、持統即位(六九〇)に際しては、天神寿詞を読み上げている。そして、この年に第一回遷宮が執り行われている。
書紀の編纂は、持統即位の翌年(六九一)からはじめられ、持統が、文武に譲位する六九七年ごろに巻一四〜二一及び二四〜二七が完成したと考えられる。大嶋は、持統六(六九二)年に神宝四巻を遺したという。この神宝四巻と記紀の編纂及び中臣神道の成立は、何らかの影響を与えたと考えられる。また、この年に「藤原京」の地鎮祭が行われている。
持統が、文武に譲位した翌年(六九八)に不比等(六五九〜七二〇)以外は、旧姓の中臣に戻すよう詔が発せられる。
そして、和銅元(七〇八)年三月に、藤原不比等が右大臣、不平等の又従兄弟の中臣意美麻呂(?〜七一一)が、神祇伯に任ぜられ、意美麻呂の子・清麻呂(七〇二〜七八八)が大中臣を名乗り、中臣神道を継ぐことになる。
書紀は、意美麻呂が大津皇子の謀反に連座したと記載するが、持統条が編纂されるのは、意美麻呂が死去した後の七一四年からはじまることを考えれば、裏があるように思える。
また、書紀の巻一〜一三の編纂は、慶雲四(七〇七)年にはじめられるが、不比等の右大臣、意美麻呂の神祇伯に任じられたことと関係があるように思われる。
そして、大祓祝詞は、金から甥の大嶋、そして、金の従兄弟の子である意美麻呂の手を経て完成され、意美麻呂の子・大中臣清麻呂に受け継がれた。そして、意美麻呂の子・大中臣清麻呂の時代に忌部(斎部)氏を排し、神祭りを独占したと考えられる。

243 穴穂と泊瀬 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/26 18:02

「捜聖記」という小説がある。最近出たものであり、四天王寺が所蔵するという聖徳太子真筆なる「未来記」をめぐるものである。「未来記」は、「太平記」で楠正成が、閲覧したとされるが、その真偽は量り兼ねる。小説は、フィクションであるが、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、百済仏ではなく、新羅仏であるなど検討に値する著述もある。「捜聖記」は、蘇我の血を色濃く引くとされる聖徳太子は、実は、丹後籠神社に縁があるとしている。丹後籠神社となれば、丹波道主家とも関わり、穂国の祖・朝廷別王とも当然関わりがあることになる。「捜聖記」は、聖徳太子が丹後(丹波)と関わりがあるとする理由について、聖徳太子の母方の祖母にあたる小姉君の名に注目する。書紀によれば小姉君は、蘇我稲目の娘とされ、欽明の妃の一人である。また、太子の父・用明の母・堅塩媛は、小姉君の同母姉にあたり、蘇我稲目の娘である。つまり、書紀によれば、太子は、母方父方ともに蘇我氏と繋がることになる。因みに古事記は、小姉君を堅塩媛のオバとする。「捜聖記」は、堅塩媛が「媛」なのに対し、小姉君が「君」であることから、小姉君は、稲目の養女ではないかとしている。そして、丹後の間人(タイザ)町に小姉君の娘、つまり、太子の母の間人穴穂部皇女(ハシヒトノアナホベノミコ)が逃れて住んでいたとの伝承から、間人穴穂部皇女の母・小姉君が丹後に関わりがあり、その縁で太子の母は、丹後に逃れたのではないかとしている。間人穴穂部皇女が、丹後に逃れたか否かについては、いずれ検討するとして、太子の母の系譜を検討してみる。
書紀が、小姉君の姉とする堅塩媛は、一三人の子を産み、その中に太子の父の用明と、推古がいる。一方、小姉君は、五人の子を産み、太子の母・間人穴穂部皇女のほか、崇峻(泊瀬部皇子)や蘇我馬子と物部守屋の抗争の折、守屋が担いだ間人穴穂部皇子(別名・天香子皇子)がいる。穴穂部、泊瀬部の兄弟で思い浮かぶのが安康(穴穂部天皇)と雄略(大泊瀬稚武天皇)です。書紀允恭条で允恭と忍坂大中姫の子として記載されています。
書紀の巻一〜一三(神代から安康)の編纂は、慶雲四(七〇七)年にはじめられるわけで、既に持統は、死去しているわけです。つまり、書紀の巻一三(允恭、安康条)は、不比等一人の意思が投影されているわけです。
巻一四の雄略条では、允恭天皇の第五子と書かれているだけです。安康については、眉輪王に殺されたことが書かれているだけで安康の出自は、示されておらず、暗殺の真相についても、眉輪王の父の敵だからという理由しか書かれていません。
崇峻(泊瀬皇子)についても小姉君と欽明の第五子と記載されており、書紀崇峻条では、崇峻が、漢直駒に暗殺されている。
書紀の巻一四〜二三を担当した唐人・続守言は、巻二一(用明・崇峻)の終了間際に倒れたとされる。巻二一の残り部分については、三宅清麻呂が担当し、その作業は、和銅七(七一四)年にはじめられたとする。つまり、巻一三より後に編纂がされたのである。
そして、巻一三及び巻二一の崇峻暗殺については、不比等の意思が強く投影されている。
今回は、このあたりまでにして、折々解明していきます。

244 間人考 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/27 20:25

上宮記は、太子の異母兄弟の多米皇子が、父・用明の死後、太子の母・間人穴穂部皇后を娶り、佐富姫(サホヒメ))を産んだと記載する。古事記によれば、間人穴穂部の姉の子が、多米皇子とする。
太子の母・間人穴穂部皇后は、太子の父・用明の死後、継子で甥の多米皇子と結婚したわけである。
間人の名は、天智の同父母妹にも見える。舒明の皇后・間人皇女である。天智が母・斎明が死去した後、七年も即位しなかったのも、間人皇女と天智が関係していたからという説がある。間人皇女が死去したのが、天智四(六六五)年、二年後に間人皇女は、母・斎明と合葬された。天智即位は、その翌年である。
間人は、どうも近親相関者あるいは密通者の女性につけられた名前のように思える。
また、太子の母も太子と太子の妃の一人・膳部夫人とともに合葬されている。
近親相関者と言うことになれば、木梨軽皇子と衣通姫が思い浮かぶ。
木梨軽皇子は、書紀允恭条で、安康(穴穂部)、雄略(大泊瀬稚武)の同父母兄弟とされ、書紀允恭二三年条に木梨軽皇子を皇太子に立てたが、木梨軽皇子は、翌年、同父母妹の軽大朗皇女(衣通姫)と通じ、衣通姫が、伊予に流されたと見える。
また、安康即位条で、允恭が允恭四二年に亡くなり、その葬儀が終了した折、皇太子(木梨軽皇子)が、婦女に暴行を働いた。それで、群臣は、安康についた。木梨軽皇子は、安康を滅ぼそうと兵を挙げたが、形勢不利と見て、物部大前宿祢の屋敷に逃げた。安康は、物部大前宿祢の屋敷を囲み、木梨軽皇子は、自害したと記載される。
この記載で思い出されるのが、敏達の殯宮に間人穴穂部皇子が入り、敏達の皇后・炊屋姫(推古)を犯そうとしたの書紀用明条の記載である。
これが、物部守屋と蘇我馬子の構想のきっかけとなり、物部守屋が穴穂部を担ぐことになる。
太子の父・用明は、五八六年一月に即位するが、翌年、四月死去している。
馬子は、その年の六月、穴穂部皇子の屋敷を囲み穴穂部は、殺され、七月には、守屋を滅ぼしている。翌年即位するのが、穴穂部の同母弟の崇峻である。
一方、安康(穴穂部)は、木梨軽皇子を滅ぼし、皇位につくも、眉輪王に暗殺され、雄略(大泊瀬稚武)が、皇位につく。
また、間人穴穂部皇子と崇峻(泊瀬皇子)の長兄・茨城皇子は、異母姉妹の磐隈皇女(推古の同母姉)を犯したと書紀欽明二年条で記載される。
この木梨軽皇子、安康(穴穂部)及び雄略(大泊瀬稚武)と茨城皇子と間人穴穂部皇子及び崇峻(泊瀬皇子)の関係に類似点を見ることができる。
古事記の欽明、用明条には、これらの記載が出ていない。つまり、書紀欽明及び用明の記載は、和銅七(七一四)年以降に三宅藤麻呂の手により加筆されたものと考えられる。

245 訂正 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/28 04:10

天智の同母妹の間人皇女を舒明の皇后と記載しましたが、
考徳の皇后の誤りでした。
考徳は、乙巳の変で天智と鎌足が蘇我入鹿を滅ぼした後、天智の母・皇極(斎明)が、退位し、皇位につくわけです。
考徳は、皇極の同母弟で間人皇女の叔父にあたるわけです。
乙巳の変の後、都は、飛鳥から難波に遷都されるわけですが、その八年後の白雉四年、皇太子・中大兄(天智)は、都を大和に戻すべきだと主張します。
考徳は、それに反対するわけですが、結局、難波に置き去りにされて翌年、亡くなります。
間人皇女は、兄・天智に従い大和に帰るわけです。
乙巳の変で蘇我入鹿を滅ぼした後も天智は、皇位につかず、皇太子でいるわけです。
そして、自分の妹を叔父の考徳の皇后にするわけです。
いわば、間人皇女は、政略結婚の犠牲になったわけです。
太子の母・間人穴穂部皇女が政略結婚の擬制か否かは、断定できませんが、
上宮記によれば、夫の用明の死後、継子でこじきの記載によれば、甥にあたる多米皇子と結婚しているわけですからその可能性がなかったといえません。
政略結婚は、見方を変えれば、本来一緒になるべき相手と一緒になれなかったということです。
本来、一対で祭られる男神・アマテルと水の女神・瀬織津姫の関係を思い出します。
瀬織津姫を祭神とする神社に橋姫神社があります。橋姫=瀬織津姫とされています。
間人とかいてどうしてハシヒトと読むのか?書紀では、泥部とも表記しています。
ここで思い出すのが、頓知小僧一休の「このハシ渡るべからず」の逸話です。
間には、真中の意味があります。それを端=ハシとしているわけです。
間人は、端人であるわけで、また、橋人であるわけです。
つまり、橋人は、橋姫であるわけで、本来一緒になるべき相手と引き離された女性が間人皇女と考えられるわけです。
考徳の諱は、軽皇子です。同母妹・軽大朗皇女(衣通姫)と密通したとされる木梨軽皇子も軽皇子なわけです。
もう一人、軽皇子というと後の文武がいる。不比等は、文武に自分の娘を嫁がせ。外戚としての地位を築くのである。
同じ軽皇子と呼ばれた考徳と文武は、政略結婚の道具とされた男としての共通点がある。

246 利家とまつと瀬織津姫 風琳堂主人 2002/01/28 10:05

トカゲさんの系譜崩しの試みがつづいています。
間人=ハシヒト=間男・間女から橋姫=瀬織津姫の名が出てきてびっくり。なるほど、貶めの命名にこの「はし」の表現があったのかもしれません。
とすれば、その相手方の「軽」=カルの命名も、けっして尊意が込められているとはいえないことになってきます。
孝徳=軽皇子、木梨軽皇子&衣通姫=軽大郎皇女、文武=軽皇子。
そもそも橋とは異界との境界の象徴ですから、クナド神=道祖神とも通じていきます。道祖神は単独神としてよりも、実際、夫婦道祖神が本来の姿で、ここにも瀬織津姫と消されたダンナの天照神が秘められているとみてよいとおもいます。

山田さん、木俣神=御井神の理由はわたしもまだうまく了解できていません。佐太神社を洗い出す必要があるということはわかっているのですが、ほかの話もあわせて、宿題ということにさせてください。

NHK「利家とまつ」の昨日放送分で、利家が桶狭間の戦いに信長への帰参のために命がけの出陣をするとき、利家の父が戦勝の最高神といって勝軍=将軍地蔵を渡すシーンがありました。「どうだ、まつに似ているだろう」という父のセリフにも表れてもいましたが、この地蔵さんは女神ということが画像としてもはっきりと映し出されていて、これもびっくりといいますか感動的でした。
かつて=持統時代にまでさかのぼりますが、天白神が瀬織津姫として想定されたあと、瀬織津姫は天白神=金精神=大将軍神ともされていたことをおもいだしたからです。
戦国の世のドラマの一齣でしたが、利家の妻=まつとダブらせて、勝軍=将軍地蔵に瀬織津姫の<力>が潜んでいることをまざまざとみさせてくれるシーンでした。

(追伸)
400日の籠もり仕事も大詰めまできました。昨夜からの雪で、今日の遠野は見事な雪国です。もう少しです。

248 忍坂大中津姫 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/01/28 23:16

「捜聖記」では、太子の母・間人穴穂部皇女と丹後(丹波)の関係として
丹後の間人(タイザ)町の間人穴穂部皇女が蘇我馬子から逃れ間人町に住んだという伝承を挙げ、間人(タイザ)は、退坐の意味ではないかとしている。そして、間人穴穂部皇女の母・小姉君は、蘇我稲目の養女であり、後の丹後一宮・籠神社に出自を持つのではないかとしている。
これはあくまでも推測であり、決定的な証拠に書けるから小説(フィクション)として書いたのである。
間人穴穂部皇女の同父母兄弟に間人穴穂部皇子、泊瀬皇子(崇峻)があり、この諱は、安康(穴穂部)、雄略(大泊瀬稚武)の同父母兄弟にも共通している。
記紀によれば、安康(穴穂部)、雄略(大泊瀬稚武)は、允恭を父、意富本杼王の妹・忍坂大中津姫を母とする。
上宮記逸文によれば、意富本杼王及び忍坂大中津姫は、本牟津別王の孫とされる。
本牟津別王、穂別の祖・朝廷別王の別名であり、丹波道主家の正当な後継者である。
ここで、丹波と穴穂部の繋がりが出てくるのである。
記紀は、忍坂大中津姫は、允恭との間に木梨軽皇子、長田大朗女、境黒彦、安康、軽大朗女(衣通姫)、八瓜白彦、雄略、橘大朗女、酒見朗女を産んだと記載する。
古事記は、允恭の死後、木梨軽皇子と妹の軽大朗女(衣通姫)の密通を群臣が知り、安康(穴穂部)についた。木梨軽皇子は、物部大前宿祢の屋敷に逃げたが、屋敷を囲まれ殺されたとする。
一方、書紀允恭二三年条は、長子の木梨軽皇子を皇太子にした。木梨軽皇子と軽大朗女の密通が発覚したが、木梨軽皇子は、皇太子であるため、処罰できず、軽大朗女を伊予に流した。允恭の葬儀が終了した後、婦女に暴行を働いたため、安康(穴穂部)についた。木梨軽皇子は、物部大前宿祢の屋敷に逃げたが、屋敷を囲まれ殺されたとする。一書では、木梨軽皇子は、伊予に流されたとする。
古事記は、木梨軽皇子が、同父母妹の軽大朗女(衣通姫)と密通したことから、群臣が安康(穴穂部)についたとしている。
しかし、古事記安康条は、弟・雄略の妻に大日下王の妹・若日下王を迎えようと使者を遣わしたが、使いの虚偽の供述を信じ大日下王を殺し、大日下王の妻の長田大朗女を皇后としたと記載する。書紀安康元年条では、若日下王を幡梭皇女とする。また、幡梭皇女は、書紀履中元年七月条で履中の妃とされる。
安康は、大日下王の妻であり、しかも同父母姉の長田大朗女と関係しているのである。
また、安康が雄略の妻に与えようとした幡梭皇女は、履中の妃であり、履中は、記紀で、允恭の兄とされる。
さらに、書紀は、安康は、生前、皇位を履中の子・市辺押磐王に継承しようとしていたとし、雄略は、市辺押磐王を騙まし討ちにして皇位についている。
なお、書紀允恭七年一二月条は、忍坂大中津姫の妹を衣通朗女とし、允恭は、衣通朗女を妃にしたと記載する。

249 瀬織津姫の民話発見 風琳堂主人 2002/01/31 11:04

瀬織津姫を禍津神=悪神とする記紀の意図は、民間へ降りてくると、まったく反対となる民話が丹波篠山にあります。とても興味深い内容ですので、以下に全文を引用しておきます(出典:丹波篠山市のHP)。

■丹波の人取り川
 むかし、篠山川には橋もなく、少し長雨が続いて水が出ると、流されたり、溺死する人が不思議に多いので「丹波の人取り川」といって、旅人や土地の人々が恐れていました。
 中でも、大山の一の瀬や岡屋の渡り瀬を越す旅人は、ここを非常に恐れ、無事に渡ったときは、必ず国許へそのことを知らすほどでした。
「この川には、きっと主神が住んでいるにちがいない」と思った氷上郡のある商人が何とかこの難を救おうと、大願を起こし、生駒山の歓喜天を信仰して一心にお祈りをしていましたら、十年目のある夜、夢に一匹の大蛇が現れていいました。
「わしは、篠山川に住んでいる主神である。おまえの信心の功徳によって、心を改め、今から天上して自天竜となろう。別れにのぞんで身の上を話そう。わしは、はじめ畑の三岳に棲んでいたが、そこに役行者がまつられたので、のがれて、藤岡の東窟寺の岩屋へ移ったところが、またもや、十一面観世音がまつられたので、仕方なく次は八幡渕に棲み、東古佐の戎が渕、川北の孫兵衛が渕から、野間の弁天が渕などを住みかと定め、悪神となって、多くの人身御供を取ってきたが、今からは瀬織津比売となり、水難者が一人も出ないようにしよう。雨乞いの願いもきこう。これから、十年間にこれらの渕が埋没するであろう。」と言って姿を消しました。
 不思議にも五年目に一番深かった八幡渕が河原となりました。また、水死者もでなくなり、雨乞いの祈祷をすると、大雨が降ったと言います。今も一の瀬や渡り瀬には「川越安全」としるした石碑が残っています。

251 加古川の女神vsヤマト鉱物神 あかね 2002/02/01 10:12

 ご無沙汰してます。PCソフトが突然、調子が悪くなり、ずっと全くネットに繋がらない状態となってました。色々試みたものの、仕方なくウィンドウズを入れ直して、ようやく元に戻りましたので遊びにきました。しんどかった…

 風琳堂主人様、篠山の民話、有難うございます。多分、HPに記載されていると思いますが、その民話の元の出典は、『郷土の民話 丹有編』(丹有地区編集委員会編・<財>兵庫県学校厚生会発行・1972年5月第1刷)からのもので、手元にあります。でも、何度も目を通しているのに、瀬織津姫様の記述には全く気がつかなかった、うっかり者です(笑)。ありがとうです。
 ちなみに、丹有とは丹波と攝津の有馬地方のことで、この地域の一番古い地盤は、中国地方や但馬・播磨もそうですが、秩父古生層上部火成岩であり、この古生層に多くの鉱床が認められるため、その層を追って移動した産鉄民の痕跡が見えます。従って、秩父方面との神話や民話、お社の共通性もあるわけです。また、この両地方の最も古い地層は、丹波層群であり、そこへ中国地方から伸びる大花崗岩帯が重なっております。従って多紀郡と氷上郡には、古くからの鉱山が多くありました。加えてこの両地層は、多田銅山のある能勢や、北攝の箕面市・茨木市・高槻市等へも続いています。クミコさんがお話下さったように、有馬・高槻構造腺上ですね。
 多田地名ですが、確か兵庫県の丹波にもあると思います。で、多田地名は、多可郡加美町にもあります。多氏系地名としては他に、氷上郡山南町太田や、佐治川上流の同郡青垣町大名草(オナダ、多可郡加美町山寄上・青玉神社から播州峠を超えた所)等があり、波々伯部(ホホカベ、多紀郡城東町日置<ヘキ>)や久下一族(クゲ、頼朝と同祖・元武蔵国久下庄住人)等、氷上・多紀両郡には、多田源氏系が多かったそうで、丹波の爪栗など足利尊氏伝承も色々あります。
 同様に、秦や鴨、八幡系地名や荘園も多く、多紀郡の畑村や、氷上郡市島町鴨庄、京都府八幡市・石清水八幡の最古分社・丹波厄除八幡宮のある氷上郡柏原町にも、古くからの鉱山はありました。

 で、「丹波の人取川」伝説は、風琳堂ご主人からいただた宿題である青玉神社等と関連がありそうなため、民話の補足説明をさせていただいておきます。
 まず、民話の舞台は、現在の多紀(タキ)郡篠山市篠山町(近年、合併されて市となる以前は篠山町だった所)だけではなく、その南の丹南町(タンナン、同町も今は篠山市)にも伝わっているものです。丹南町には、播丹攝にまたがる「三国(ミクニ)岳」(加美町最北端にも三国山がありますね)があり、この辺りはご存知の通り、武庫川源流域です。篠山川とは、加古川上流の支流の一つで、南の多可郡黒田庄町船(フナ)町にて、佐治(サジ)川と共に、加古川本流と湊合しており、ご存知、古代から知られた瀬戸内海〜日本海へと出る川の道でした。

 >大山の一の瀬や岡屋の渡り瀬を越す旅人は…
 >仕方なく次は八幡渕に棲み、東古佐の戎が渕、川北の孫兵衛が渕から、野間の弁天が渕などを住みかと定め…
 >今からは瀬織津比売となり…
 大山(琴ひきの滝あり)は丹南町、岡屋はよく聞く地名ですが忘れました。東古佐は篠山町、八幡淵も多分、篠山町です。川北は調べます。野間は、加古川支流である西南の、多可(タカ)郡八千代(ヤチヨ)町野間(のま)村を流れる「野間川」と同じ地名ですが、八千代町野間をさすのかどうか解りません。笠形(カサガタ)山から流れ出るこの野間川上流には、貴船神社等がある他、西脇市板波(イタバ)町「石上神社」のなまず押さえ神事(相撲の古態・ねってい)に関わる伝承中の、「姫滝」(野間川の重国橋上流)等がある所ですね。
 西脇市川合にも以前、お話下さった瀬織津姫を祀る「川合神社」?がありますね。宿題なので後述しますが、この民話と、川合神社が瀬織津姫を祀った理由とは似ているので、同じ時期にできたお話なのかもしれません。すると、西脇の石上神社・相撲神事と同様に、古代末か中世に出来た話かも。吉備氏系や、土師氏系の復活かなぁ。

 >わしは、はじめ畑の三岳に棲んでいたが、そこに役行者がまつられたので…
 畑は、多紀郡畑村のことですが、柏原町のすぐ北・氷上郡春日町鹿場には、畑姓が多くあり、秦氏の子孫と思われる波多野氏の後裔です。三岳(ミタケ)とは、篠山町・西紀町・柏原町北方、多紀郡の北壁ともいうべき連峰(多紀アルプス)であり、主峰は「大岳(ミタケ)」(標高800m)で、東の小金岳・西の西が岳と合わせて三岳といいます。役行者が祀られた所とは、大和の大峯山の次に、役小角が第2の修験道場をこの連峰一帯に開いたと伝わる、「丹波大岳寺(ミタケジ)」(大岳)を指し、この話も民話として篠山町に残っています。ちなみに、攝津伊丹市等の酒樽の輪は、三岳の竹で作ったという「ほらくらべ」民話なども篠山町には伝わっております。

 >今も一の瀬や渡り瀬には「川越安全」としるした石碑が残っています。
 〜続き〜…残っているし、京都の伏見東谷壷の滝には、「自天竜大神」をまつったお堂があるという話です。
 鰻の話は、加美(カミ)町岩神座(イサリガミ)村・千ケ峰(センガミネ)山中の禁足地(杉原川上流支流近く)、「唐滝」に残る、鰻を取れば雨が降る伝説と共通性があるのでは。 〜続く〜

252 加古川の女神vsヤマト鉱物神A あかね 2002/02/01 10:30

↓の続き  あんまり長いので2つに分けました。

 多紀郡付近はこの民話当時、氾濫原上の湿地帯であったらしく、更に大昔には多紀郡は大きな湖だったと、丹南町の民話、「竜を退治した話」では伝えています。この話では、湖の底に一匹の大きな竜が住んでおり、人の命を取るので、ある日、とても力の強い神が、竜の頭を一矢で射殺したところ、湖水が竜の血で真っ赤に染まったが以後、徐々に水が減って、安心して住めるようになったと云います。この大竜とは、多紀郡の中央を東から西へと流れる篠山川の形を竜に見立てたもので、その頭は丹南町川代(カワシロ)の大滝の所にあたります。そして川代に矢を射たとは、水を落とすために、川代を掘り割る大土木工事が行われたことを言ったもので、その大工事によって湖水がいっぺんに引いて、真中に篠山川が残り、大竜が姿を現したということだそうです。また丹南町には、池尻(イケジリ)神社が残り、池尻大明神が祀られ、ここには「大蛇退治」伝承が伝わっております。

 多紀郡・氷上郡には「丹波の人取川」伝説の他にも、大蛇・狐・稲荷・相撲・行者・馬・大魚・大狸・蝮・大猪・犬飼・土蜘蛛・鬼・弘法大師・行基・権現・薬師如来・菩薩・毘沙門天・太刀・鋳物師・猟師・飛び・そま・木挽・大工・石工・桑・唐臼・笛・鐘・粘土・栗・杉・乳・諏訪神伝承などが、色々残っています。
 これらの民話は、同様に湖であった但馬地方を、大土木工事を行って住める地にしたという、天目一命と同神か兄弟、或いは天日槍命・アジスキタカヒコネである等とされる「天戸間見(アメノトマミ)命」神話と関連があると思います。
 なぜなら、これら地域は丹波・但馬古道上に属し、出雲地方への道であるということと、この2神は、同様に但馬への道であり丹南町北西に位置する多可郡・朝来(アサコ)郡・氷上(ヒカミ)郡にまたがる三国山に鎮座していたという、「青玉神社」祭神でもあること(加美町山寄上<ヤマヨリカミ>・青玉神社は天目一と五百箇磐石命、鳥羽<トリマ>・青玉神社は天戸間見命と大歳御祖命)。そして、丹波・但馬はもと出雲国であったものが、天日槍命の地となった点。
 多可(託賀)郡黒田庄町の南には、西脇市(=昭和中期まで古代から多可郡)津万(ツマ、小野氏系地名でもありますね)の地名が、アマツマラ縁のものとして残り、丹波と同様に古代からの銅山地帯で、多可郡が大和鍛冶起源地である大きな理由の一つとなっており、ここにも畑瀬や畑地名が残ること。但馬と同じく、丹波も砥石が出ていたのかもしれないこと。
 多紀郡南部には、6〜7Cから西脇市・三木市から続く、神功縁・大和の大ソマ山地帯が続いていたこと。そしてこの辺りで産する鉱石、山・田・川の恵みは、三木市の志染三宅へ集結していたこと。
 鉄の道(中国縦貫道路<=活断層>にも近い)近くに沿って、西〜東へ天目一命が移動し、天日槍命も攝津、または西から北上した点。丹南町の地名は、河内鋳物師発祥地である、南河内郡美原町〜大阪府堺市(の一部)にあたる「丹南」地名と同じであること。丹波や多可郡・加西市・加東郡(加茂<毛>郡)・三木市には、10C?以降の河内鋳物師の出職や、12C以降の同集団の全国分散以前から、東播磨・丹波には多田源氏(攝播丹に荘園あり)を頼って藤原氏・姓の百済系鋳師が土着しており、彼らは5Cに三木市と神戸市の境にある丹生(タンジョウ)山に渡来した百済王子王子恵が、地元新羅系鍛冶と融合したのと同じく、新羅系鋳師と融合したようです。また、鋳物師に纏わる芋地名も丹波に見え、丹波は三木市の日原大工のように、丹波大工の故郷である点。ここで、太子伝承も絡んできます。
 多可郡も風土記以前は播磨国ではなく一時期、丹波国であり、東播磨を平安中頃まで牛耳っていた播磨鴨国造・山部直は、堺市の出身だという説もある点。加古川・市川沿いにも播磨国造・佐伯直(明石国造は佐伯連)の一族は多数いたらしく、船木氏の行基伝承や隼人系地名も残ること。
他にもありますが、これらの理由が考えられます。

 要するに、丹波と東播磨(特に中北部)は、元来は出雲系の開拓地であったが、多など渡来海人系と天日槍命、秦、鴨、佐伯直系などが加古川等沿いにやって来て、加えて吉備制圧(吉備勢力は加古川以西・西播磨に。神崎郡も西播磨)のために、大和勢力下となった物部(聖徳太子系も)・大伴・佐伯連などが入り、縄文以来の在地勢力であった出雲系豪族の協力を得て東播磨支配者となった後続の山部直(天目一が祖神・息長氏系)がヤマト配下で生き残り、次に藤原氏がやって来てこの地方を牛耳った。そして多田源氏系が同・両地方の海人系勢力と結び、鎌倉配下に移る。そして室町には、新羅系?東国山岳武士である赤松氏の地となり、やがて織田・秀吉、鴨オシ系家康といった、広く言えば同系の纏ろわぬ民が縄文の地を取り返した、なんて話になるわけでしょうか。
 瀬織津姫は天日槍、天目一、ヤマト以前の加古川を象徴する縄文の神・この地方の祖神だろうから、宗像・住吉信仰と結びついて、ヤマト側となった天目一と契って子を産み、酒神や豊穣神へと姿を変えて生き残ったと言えるかもしれません。
 そのことは同時に、加美町の式内社荒田神社・天目一神社等に残る伝承で、道主日女が子を成しながら婚姻しなかったとされる理由も多分、指していると思います。つまりお子神とは、『新旧鍛冶・勢力の交代、技術革新による鉱物神としての瀬織津姫の引退?』、或いは新旧鍛冶が協力して「大和鍛冶」を発生させたという意味なのかもしれません。だから婚姻よりも、お子神(天日槍説あり)を生んだ点に意義があり、その母なる水・開拓神としての力は続いているという意味合いを神話に込めたものなのかもしれませんね。或いは天目一、天日槍といえども、縄文以来の水・鉱山の女神の力は必要だったということなのでしょう。
 散漫な話ですみませんが、丹波と東播磨の、縄文からの母神は加古川の女神だと思われるため、同地方の水神民話・神話に出てくるのは同じ神だろう、という内容でした。かつて書いたこととだぶった点が多くてすみません。

257 西脇の川下神社 あかね 2002/02/01 13:33

さて、風琳堂ご主人からいただいた宿題シリーズのはじまりはじまり〜

251の
 >この民話と、川合神社が瀬織津姫を祀った理由とは似ているので、同じ時期にできたお話なのかもしれません。
 川合神社は、『川下(カワシモ)神社』の間違いでした。すみません。ご質問の詳細については、未だに多可郡誌での記載部分を探していないので、また続きを書きますが(ごめんなさい。漢文調旧カナ使いで読み難いの…)、その前に、この社の概要説明を見つけましたので、「西脇の歩み」という市資料より抜粋します。

●川下神社(兵庫県西脇市戎町)
 「川下神社」は、治水・利水にまつわる謂れのあるお社で、加古川上流の支流・杉原川と、加古川本流の合流点に鎮座しています。その昔、波が荒く、大祓詞にある瀬の八百会にそっくりなので、祓戸四柱大神、即ち、瀬織比売・速開津比売(ハヤアキツヒメ)・気吹戸主(イブキドヌシ)・速佐須良比売(ハヤソスラヒメ)の四柱を祀り、川の恩恵を感謝し、その平穏を祈ったものです。 〜以上〜
 神社の設立年月日は、後で調べます。合流点とありますが、現在は湊合している地からは、やや北に鎮座します。
 イブキとはさすが銅山の地。西脇市津万(風土記では都麻<麻は鍛冶や鉱物採取に用いる>等)という地名も、ここから少し北へ行った所の加古川本流沿いにあります。ちなみに津万は、大和鍛冶の祖・アマツマラに因むのは無論、252で書きました通り、小野氏や伊吹氏とも直接、関係のある地名。加古川中流には小野市もあります。更に、石見・江津市にある「津万神社」(たがねつきノ使主命という餅<餅は鉱物の成りの象徴>と鉱物絡みの神を祀る)も、小野氏縁です。
 そして「津万滝」(古からの多可八景)という舟運の難所も少し上にあり、都麻には「式内社大津乃命神社」(=船着き場を見守る神=大津明神。昔々移転したらしく現在は西脇市市島に「武内大津神社」としてある)が鎮座しています。
 北の多可郡黒田庄町へ入ると、岡(岡は鉱物の出る地を云う)という所に、播磨に2つある兵主の一つ・「式内社兵主神社」もあります。“篠山川との合流点近く”、黒田庄町小苗(コナイ)には、「式内社古奈為(コナイ)神社」(祭神は木花開耶姫。加美町・荒田神社と関わり深いお社で道主日女だとされる。瀬織津姫か?風土記のおふ<布>山や支閥<門の中は下>山は小苗付近の山)も鎮座。また、西脇市板波町にある「石上神社」は、川下神社からやや南に位置します。いずれの神社も、加古川本流近くにあります。
 加えて西脇市大木(オオギ)町には、確か多可郡加美町鳥羽の青玉神社分社らしい、「天目一神社」(こちらは加美町的場の式内社天目一神社ではありません。ここにも天目一と道主日女の恋愛伝承が伝わる他、姫が命に太刀製作を依頼した話も残る)もあり、この社を囲む三方の山頂には、太古の太陽祭祀遺跡(ストーンサイクル)があります。

●加古川は鹿児川とも記された
 加古川市HPを見ておりましたら、鹿児という表現が、加古川に当てられている記述がありました。古代には、鹿児とも書かれたのは、史実のようです。

258 大蛇の告白と改心 風琳堂主人 2002/02/01 14:34

丹波・篠山の瀬織津姫の民話はとても興味深い内容です。
あかねさん、この民話の正確な出典をありがとうございました。またこの民話の「補足説明」も──。
「丹波の人取り川」という篠山川の民話は、よく読んでみますと、かなり知的な認識をもったものの創作だということがわかります。
ここに出てくる<人間>は「氷上郡のある商人」一人ですが、彼が篠山川を鎮めるために生駒山の歓喜天に祈るというところからこの民話の物語ははじまります。
生駒山の歓喜天とは、宝山寺の本堂=本尊の不動明王ではなく、同敷地内の聖天堂の大聖歓喜天尊(通名・生駒聖天)のことかとおもいます。この歓喜天がまつられたのは江戸の初期のことですから、この民話がつくられたのは江戸期だということがおよそ想像されるわけですが、そのことと民話的に再構成された篠山の伝承の古さは別です。
民話の話の展開の発端は、この商人の夢告です。
夢は「一匹の大蛇」の<身の上話>と<改心>の話として展開していきますが、まず「わしは、篠山川に住んでいる主神である」と自己紹介させています。この、謎の大蛇は、「わし」という一人称表現から男性神格をもっていることがわかります。
大蛇の流浪潭は、三岳から、藤岡の東窟寺の岩屋へ、そして篠山川のいくつかの渕へとつづきます。
大蛇はなぜ流浪することになったのかということについて、それは三岳には役行者がまつられたから(自分はいられなくなった)、次の東窟寺の岩屋では「またもや」十一面観世音がまつられたので(自分はいられなくなった)、それから篠山川の八幡渕→戎が渕→孫兵衛が渕→弁天が渕と転々とし、この流浪の過程で「人身御供」を要求する「悪神」となったと告白しています。
大蛇のこの告白から、役行者と十一面観世音が自身を放逐したことがわかります。また、各渕の名から、それぞれ八幡神、戎神=事代主神、兵衛神=兵主神ならば大己貴神(?)、弁財天などからも排除されたことがうかがえます。
男性神格をもった大蛇はついに、歓喜天を契機として悪神から<改心>すると告白するにいたります。どう改心するかということについて、大蛇は「今から天上して自天竜となろう」という言葉とともに「今からは瀬織津比売となり、水難者が一人も出ないようにしよう。雨乞いの願いもきこう」と二つの転生を告げています。
この話は自天竜(天竜川の名にも通じます)と瀬織津姫を同神とみていることでもあり、さらにさかのぼれば歓喜天も同神だということを告げています。
消された男性神格をもった大蛇といえば、たとえば三輪山の神が浮かんできます。つまり、アマテラスの創作によって消された男性神格をもった日神=アマテル神の流浪潭が、この丹波・篠山民話の骨子といえそうです。
アマテラスを中心とする神統譜から排除された日神で、瀬織津姫との関係を呼び寄せる神ということを考えますと、この大蛇は大物主ともよばれた消された日神とみてよいでしょう。
篠山の大蛇の流浪話は、自天竜もしくは瀬織津姫となって、つまり瀬織津姫と一体となって<善神>として生きるというところで閉じられます。ここまで読みますと、遠野・早池峰山の女神=瀬織津姫が背後に男性神格をもった日神を隠している姿と一緒だということになります。
ところで、生駒山を神体山とする社は、延喜時代の官幣大社でもあった生駒神社=往馬坐伊古麻都比古神社です。ここの現在の祭神は社名の男神と伊古麻都比売神の一対神ですが、たとえば女神でいいますと、イコマのヒメガミというだけで、これは生駒の女神といっているだけで、神名としてはここにも秘匿=ボカシがみられます。
生駒山の北にはもうひとりの日神=ニギハヤヒをまつる磐船神社、生駒山西麓の東大阪市出雲井町には、元春日とされる枚岡神社があります。まさに出雲井をもつ枚岡神社ですが、春日四神の謎の比売神は井の神でもあり、わたしはこの井の神こそ瀬織津姫だとみています。
丹波・篠山の民話は、役行者と十一面観音、そして八幡神、事代主神、弁財天などの祭祀のウラを知っている者の知的な創作の可能性が高く、この創作の当事者は、おそらく熊野修験の者だろうという気がしています。生駒山宝山寺も役行者と、さらに空海の修行場とされています。
篠山市の三岳の東には、実際「四十八滝」(那智滝は四十八滝の「一の滝」)もありますから、那智の滝神と役小角と十一面観音はセットとみてよいとおもいます。
最後に、篠山に瀬織津姫の名が初めて登場してきましたので、ひょっとしたらとおもって地図帳をにらんでいましたら、ここにもサクラ─佐倉の地名と、祭神等は未確認ですが桜田神社が、四十八滝と九頭女神社の近くにありますし、篠山川沿いにはカサの名をもつ衣笠山もあります。
桜─サクラと瀬織津姫の可能性は丹波にもいえそうです。
篠山川─加古川の水神が瀬織津姫である可能性は、かなり現実味を帯びてきました。下鴨神社の玉依姫=伊可古夜日女=加古川の井の神と、枚岡神社の出雲井の神が京の地でクロスしてきます。

(追伸)
最後の大山を昨日越えました。あと正味8日ほどの時間をくぐれば……というところです。今日も遠野は雪。しかし、今年は昨年とちがって水道管の凍結は一度もなく、現在までのところ、遠野は暖冬といってよいようです。このままですと、夏の冷害の可能性も出てきますが──。

259 日下部氏と履中―雄略 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/02/01 16:14

古事記は、木梨軽皇子が、同父母妹の軽大朗女(衣通姫)と密通したことから、群臣が安康(穴穂部)についたとしている。しかし、その安康は、同父母姉の長田大朗女を后にしている。それに対して、群臣は、異を唱えていない。
安康と長田大朗女は、同父母姉弟ではないのではないかとの疑問が生ずる。
記紀によれば、木梨軽皇子、長田大朗女、境黒彦、安康、軽大朗女(衣通姫)、八瓜白彦、雄略、橘大朗女、酒見朗女は、父を允恭、母を忍坂大中津姫とする同父母兄弟姉妹とされる。
ここで、安康が、眉輪王に殺されたことを雄略が、境黒彦及び八瓜白彦に告げたときのことを思い出して頂こう。古事記は、二人は、驚きもせずにいた。雄略は、兄弟(安康)が殺されても何とも思わないのかと言って殺している。一方、書紀では、雄略は、兄達(黒彦と白彦)を疑い問質したところ、黒彦達は、雄略に殺されると思って黙っていたため、雄略は、殺したとする。
古事記の記載から黒彦及び白彦と安康が、同父母兄弟とは、考え難い。さらに、書紀の記載を加味すれば、眉輪王が、安康を殺害することを黙認していたともとれる。
眉輪王は、長田大朗女の子である。書紀の記載から長田大朗女と黒彦、白彦は、関係が深かったと思われる。
つまり、長田大朗女と黒彦、白彦が同父母姉兄弟であった可能性は高いが、長田大朗女、黒彦、白彦が安康と同父母姉兄弟であった可能性は、低い。
記紀によれば、安康、雄略、それに、長田大朗女、黒彦及び白彦の父は、允恭とされ、母は、忍坂大中津姫である。そして、忍坂大中津姫は、上宮記で本牟津別の孫とされる。
一方、允恭は、仁徳と葛城襲津彦の娘・磐之姫の子とされる。
允恭の同父母兄弟には、履中、反正がいる。異母弟には、大日下王がいる。長田大朗女は、父・允恭の異母弟・大日下王の妻になっている。
履中は、羽田矢代宿祢の娘・黒姫を后とし、市辺押磐王を産んでいる。この市辺押磐王は、雄略が、騙まし討ちにしている。書紀は、雄略が、市辺押磐王を殺害した理由を生前、安康が、市辺押磐に皇位を継承すると言っていたからだとする。
記紀は、大日下王の妹・若日下王(書紀は、大日下王の妹・幡梭皇女とする。)を雄略の妻に迎えようと記載するが、書紀履中元年七月条に履中が、幡梭皇女を妃にしたと記載する。
安康は、履中の未亡人・幡梭皇女を弟・雄略の妻に迎え、その履中の遺児で従兄弟の市辺押磐王を皇位継承者に望んでいたことになる。
反正の后は、津野朗女であり、津野朗女は、古事記では、丸迩許碁登臣の娘とし、書紀では、木事(許碁登)臣を大宅臣の祖とする。
安康の父とされる允恭は、本牟津別王の孫・忍坂大中津姫を后にしている。
允恭の同父母兄の履中は、大日下王の妹・幡梭皇女を妃にしている。
日下その名から日下部連祖・狭穂彦が思い浮かぶ。
そして、もう一人の同父母兄・反正の后・津野朗女は、大宅臣の祖・木事臣である。大宅で浮かぶのは、「彦狭島の東漸と砥鹿神社」の庵原の大宅氏が浮かぶ。
反正は、津野朗女を后とし、津野朗女の妹・乙姫を妃とし、四人の娘をもうけたとする。
書紀は、雄略は、反正の娘を娶ろうとしたが、断られたため、安康が、若日下王(幡梭皇女)を娶るよう幡梭皇女の兄・大日下王に使者を遣わせたとする。
そして、安康は、大日下王の妻・長田大朗女を后としている。
履中から雄略までの五代の天皇は、本牟津別、日下部等、丹波(丹後)と繋がりがありそうな娘を皇妃にしているのである。

雄略に騙まし討ちにされた市辺押磐王には、意祁王(仁賢)、袁祁王(顕宗)の二人の皇子がいた。
古事記によれば、市辺押磐の二人の皇子は、山城の狩羽井(現京都府相楽郡)まで逃げたところを、目に刺青をした山城猪甘(ヤマシロノイカイ)に助けられ、播磨国に逃げる。
古事記神武条で伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)が大久米命を見て「黥ける利目」と言ったと記載する。この「黥ける利目」は、目の刺青を指す。
魏書東夷伝え倭人の習と伝える・黥面は、この「黥ける利目」を指すのであろう。
また、書紀履中条は、即位前に同父母兄の住江中王に襲われるが、この住江中王に荷担した
淡路の野島の海人・安曇連浜子は、恩赦により目に刺青を入れられて、死罪を免れたと記載する。倭人は、海人の習俗をもっている。安曇連浜子は、死罪を減じられて刺青を入れられたのではなく、元々目に刺青を入れていたのではないかと考えられる。
さらに、履中五年九月条に河内の飼部(ウマカイ)を伴って淡路に狩りに出かけたとあり、飼部らの目に刺青がされていると記載している。
海人だけでなく、猪甘=猪飼や飼部=馬飼も目に刺青を入れていたことになる。
意祁王、袁祁王は、後に仁賢、顕宗として即位するが、古事記顕宗条は、二皇子を発見したのは、山辺連小盾とするが、書紀では、二皇子を発見した山辺連小盾を播磨国司山辺連の先祖・伊予久米部小盾とする。
二皇子を助けた猪甘は、目に刺青を入れていた。そして、二皇子を発見したのは、山辺連小盾であり、書紀は、山辺連小盾を播磨国司山辺連の先祖・伊予久米部小盾とする。そして、古事記神武条によれば大久米命も目に刺青を入れているのである。
二皇子を助けた猪甘いと、二皇子を発見した伊予久米部小盾は、関係があるのではないかと思われる。
一方、書紀顕宗条は、二皇子を連れて逃げたのは、日下部連使主であり、逃れた先は、丹波与謝郡であり、その後、播磨国明石郡に行ったとする。そして、袁祁王、意祁王は、丹波小童と呼ばれたという。
古事記は、狭穂彦を日下部連の祖とする。
二皇子の父・履中の母は、葛城襲津彦の娘・磐之姫である。また、二皇子の母は、葦田宿祢(羽田矢代宿祢)の娘・黒姫である。二皇子及び市辺押磐王と日下部連との関係はうかがえれない。
しかし、二皇子は、日下部連使主に助けられ、丹波与謝に逃げ、その後、播磨明石郡で匿われ、丹波小童と呼ばれている。
書紀履中元年七月条は、履中が、大日下王の妹・幡梭皇女を妃にしたと記載する。
二皇子の母は、実は、大日下王の妹・幡梭皇女でないのか。だとすれば、日下部連使主が、皇子を助けたことも納得がいく。大日下王と日下部連使主は、関係があると思われるからである。
しかし、履中の異母弟・大日下王の母は、日向諸県君牛諸井の娘・髪長姫とされ、父は仁徳である。
大日下王と丹波及び日下部との繋がりはなさそうである。

「継体天皇とうすずみ桜」という本がある。著者は、小椋一葉、サブタイトルに「古代秘史『真清探當證』の謎」とある。
タイトルの通り継体天皇についての本である。サブタイトルの『真清探當證』は、小椋氏の説明によれば、昭和初年に愛知県一宮市の土川健次郎氏が発見したものであり、物語の舞台は、尾張一宮・真清田神社(マスミダジンジャ)、父を殺害された袁祁王、意祁王の二皇子は、幼年期から青年期にかけ尾張で過ごし、継体は、袁祁王(顕宗)の子とする。
また、発見者の土川健次郎氏は、日下部連遠裔を名乗っている。因みに尾張一宮・真清田神社の祭神は、天火明命である。
記紀は、継体を誉田別王(応神)の五世孫と記載する。
小椋氏の著書「継体天皇とうすずみ桜」は、本の顔とも言うべき見開きページに日本書紀の系図を載せるが、継体を応神の六世孫とするなど杜撰なものであり、『真清探當證』の原文を載せてないなど、かなり信頼性に欠けるものであるが、手詰まり状態から敢えてこれを引用する。
記紀は、継体を彦主人王(ヒコウシノミコト)と振姫の子とする。一方、『真清探當證』では、振姫を彦主人王の娘とし、袁祁王(顕宗)が、振姫を娶り、産まれた子が、継体だとする。
彦主人王は、記紀では、誉田別王の四世孫とされているから、彦主人王の娘の子ということになれば、継体は、誉田別王の六世孫となる。
聖徳太子の時代に書かれた上宮記逸文では、誉田別王とせず、本牟津別王とする。
継体が本牟津別の五世孫であり、袁祁王(顕宗)の母を幡梭皇女と仮定すれば、袁祁王(顕宗)は、四世孫、市辺押磐王は、三世孫、幡梭皇女は、孫となる。
また、書紀顕宗条は、二皇子を手引きし、丹波与謝に逃がすのも日下部連使主とする。
袁祁王、意祁王の二皇子が、本牟津別の四世孫であれば、これも納得がいく。

幡梭皇女が本牟津別の孫とすれば、履中及び允恭は、どちらも本牟津別の孫を娶ったことになる。
また、履中及び允恭の同父母兄弟の反正は、彦狭島ゆかりの大宅臣の祖・木事臣の娘・津野朗女を娶っている。
彦狭島は、伊予、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社と関りがあり、三河一宮・砥鹿神社の神官は、本牟津別王=穂別の祖・朝廷別王の裔・草鹿砥氏である。
つまり、反正も本牟津別―日下部氏に関係する娘を娶ったことになり、同父母兄弟とされる履中、反正及び允恭は、日下部氏縁の娘を娶っていることになる。
また、書紀履中条によれば、履中は、自身の大嘗祭で酒に酔って、同父母弟の住江中王に殺されそうになる。そのとき履中は、同父母弟の反正をも疑っている。
これらのことと後世まで妻問婚を考慮すれば、履中、反正及び允恭が、同父母兄弟というより、履中、反正及び允恭の娶った日下部氏縁の娘が同父母姉妹でないかとの疑問も生じる。
幡梭皇女、津野朗女及び忍坂大中津姫が同父母姉妹とすれば、津野朗女の父・木事臣は、上宮記逸文で本牟津別の子とされる若野毛二俣王ということになる。となれば、大宅臣の祖・木事臣も本牟津別王縁ということになり、伊予、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社と関係する彦狭島=伊予皇子自身も本牟津別縁となる。
また、大日下王の子・眉輪王も本牟津別王の四世孫ということになる。
眉輪王とともに雄略に殺された黒彦及び白彦は、忍坂大中津姫の子であり、黒彦及び白彦も本牟津別王の四世孫ということになる。
雄略及び安康の父・允恭は、病弱を理由に皇位継承を拒否するも后の忍坂大中津姫に推戴されて皇位を継承している。忍坂大中津姫―日下部氏により皇位を継承したということである。
そして、安康は、市辺押磐王に皇位を継承させることを望んだという。当然、忍坂大中津姫―日下部氏の意志が働いていたであろう。
とすれば、やはり市辺押磐王の母は、幡梭皇女と考えられるのである。
安康暗殺は、雄略の妻に幡梭皇女を迎えようとしたことに端を発している。
書紀安康条は、雄略の妻に幡梭皇女を迎えようとしたのは、反正の娘達を雄略の妻に迎えようとしたが、断られたからだとしている。
記紀は、雄略と后・幡梭皇女の間の子を記載しない。雄略の跡を継いだのは、円大臣の娘・韓姫との子・清寧である。
円大臣は、眉輪王が、雄略に問質され、逃げた先であり、円大臣は、雄略に屋敷を囲まれたときに娘・韓姫を差し出し、その後、眉輪王らとともに死んでいる。古事記は、雄略が円大臣の屋敷を囲んだとき、この屋敷の中に私の許婚の娘がいるはずだと言っている。
古事記は、雄略は、最初、反正の娘を妻に迎えようとしたとする。そして、反正の娘の一人に円朗女(母は、津野朗女)がいるのである。
円大臣の娘・韓姫と反正の娘・円朗女と関係があるのではないか。
円大臣を書紀は、葛城円大臣としているが、眉輪王が逃げた先であること及び反正姫の娘・円朗女の関係から葛城氏との関係は、薄く、むしろ、日下部氏と関係があるのではないかと思われる。なお、書紀履中二年一〇月条は、円臣が、平群木菟宿祢らとともに国事を執ったと記載する。

聖徳太子の時代に書かれた上宮記は、応神の五世孫とせず、丹波縁の本牟津別王の五紀の孫とする。継体といえば、聖徳太子の曽祖父にあたる。その曽祖父にあたる人物を本牟津別王の裔としている。また、以上見てきたように記紀の履中―雄略の記載は、欽明―崇峻頃の事跡が投影されている(その逆もありうる)のではないか。

260 あかねさーん!嬉しいな! サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/02/03 21:20

ご主人、あかねさん、ピンクのトカゲさん、ご無沙汰しました。いつも楽しみに拝見しています。

東京は今日は雨が降っています。
公園のベンチも雨にぬれて静かです

武蔵府中に瀬織津姫を祀る小さな稲荷神社があります。
「エミシの国の女神」で紹介されている、
東京の瀬織津姫を祭る神社は日比谷神社に小野神社
そして此処府中の稲荷神社の3社です。

府中の稲荷神社は、畑の中に静かなたたずまい
木々に囲まれ、境内は掃き清められていて、
地元の人々に大切にされているようでした。
すぐ近くには多摩霊園があり、昔はこのあたりには
蛇が多くすみ蛇久保との古名も見えています。

祭りには朝6時ころ氏子は神社に行き、三方に「もみ、塩、水、野菜、魚」の5種を載せて奉納するといい、赤飯や鏡餅も奉納します。
本当に氏子の方々に密着しているような神社です。

祭神は祓戸の四神(稲倉魂神・天下春命・瀬織津比

その稲荷神社の隣は標高80mの浅間山。

古老はその浅間山には大蛇がいたという。
人見部落のばぁさまは薪とりに浅間山に登り、沢山の薪を
集めて一休み....松の木の根元に腰掛けたと。
するとその枝がむくむく動き出して、ばぁさまはびっくりしたと。
何百年もたっているような、苔が生えている大きな大蛇がいたんだとよ。
ばぁさまは家に帰って患って死んでしまったと...

その大蛇がすむのは浅間山の浅間神社。
神社の裏にはおみたらしの湧き水があってなぁ、そこの守り神の大蛇だったらしいと。

この湧き水はこんこんと枯れた事がないと有名で、
遠くのほうから水をもらいに来て、雨乞いに使ったんだと
伝えられる。明治のころまでは行者が沢山お参りに来てにぎわっていたという。
戦の神様との伝えもあるが...

祭神は木花咲耶姫命で山頂に石造りの祠がある。
神体の仏像は河内武家に保存されている四糎の焼けた銅像で十一面観音立像という。
また、新編武蔵国風土記稿」にはこの仏像は「村内中山の清泉中より出現せりと云。旱魃の時には土人此像を、かの清泉の処に遷して祭れば、必ず感応ありと云ふ。」あり。

いま、静かなたたずまいの二つの神社が
   雨の日の思いをはせる。

こんな雨の日は、あかねワールド、トカゲワールド
  うふふ、読むのが楽しみです!
ご主人ももうすぐ、爆走しちゃうんだろうなぁ...s(*^-^)ノ☆

261 播磨は神々の統合?の場? あかね 2002/02/04 12:57

 サクラさん、ありがとうです。ようやく爆走を開始しようと思っております。へへへ。心配して下さって、とっても嬉しかったです。
 小野神社や稲荷はやはり、面白いですね。餅を奉納するとはやはり、鉱物神としてのたがねつきの性格、鉱物と切り離せない水神・山神?である瀬織津姫さまとの関係も納得できますね〜。ビバ、伊吹、小野氏!息長氏系は、後々まで、鉱物系の民を押さえるのや、勢力を握るのが上手くて、きょわいですねぇ。浅間神社も面白いなぁ!!

 ピンクのトカゲさん、溝咋について失礼していてごめんなさい。PCがようやく元に戻ったので、ぼつぼつ書いていきますね。そして、詳しいお話の数々、ありがとうです!
 大宅氏ですが、溝咋氏の地である高槻市、特に富田地区(古代からの米・酒の産地で吉士などもいました)にもおりました。ちなみに、大宅壮一氏は、この富田の出身です。

 山城猪甘は、おっしゃるように、山部連と同系だと思いますが、山城にも多くいた山部連配下・山部直系の可能性もあるかもしれません。東播磨・美嚢郡(金物の産地・三木市・志染三宅があった)は、針間鴨国造山部直の支配であり、中播磨の明石国造は山部連ですので(西播磨は大伴配下の播磨国造佐伯直)。久米部(久米地名が賀毛に残る)や安曇などは、山(部)直の本拠地・賀毛(カモ・現在の加東)郡にもいたし、中・東播磨は5世紀か、少なくとも6世紀には完全に山部系の地となりましたから、同じようなものだとも言えますけど。
 そしてお書きの通り、山辺連小盾は、播磨国司山辺連の先祖・伊予久米部小盾かその祀った神であるらしく、西(中)播磨・神前(神崎)郡蔭山に出てくる伊与都比古の神でもあるそうなので、的臣配下・神前の的部(葛城襲津彦の子孫)の神・宇知賀久牟豊富命(ウチカクムトヨホノミコト)と、伊与都比古神が蔭山で争ったのも、中播磨を対吉備に加えて、出雲勢力の地からヤマト配下にしようと、古い戦士団である山辺・久米部が戦ったことを示していると思います。
 それから、日下部や白髪臣・部(意祁王、袁祁王の母は手白髪命)は、風土記以前は一時、丹波だった地・託賀(多可)郡や丹波・丹後・播磨などにもおりました。

 あ、託賀郡の式内社天目一神社のある地が、的場(マトバ)村であり、的部(イクハベ)の名を残しているのは興味深いですね。このお社は無論、息長氏系と云われる山部直が祖神を祀ったもので、この辺りは、天日槍(海檜槍)命(=アジスキタカヒコネ・天目一命・天戸間見命・天児屋根命・天御影命・大黒主・スサノウ・八意思兼命?等)の後裔である、アマツマラ(揖保郡にもいた)縁の地でもあり、大和鍛冶起源地であるので、何か、色んな勢力が山部直、ひては山部連のもとでごちゃ混ぜになって無理やり統合され、ヤマト朝廷のもとで優遇され続けた大和鍛冶が生まれた感じがしますね。
 針間とは、ハリ(開墾の意と萩の意があるが国号説明では前者が採られる)と、マ(間は場所・空間)の意味だから、吉備(加古川以西まで吉備の地だった説あり)・出雲勢力と、ヤマト勢力が開墾の権利を争った場所という国名かしら。播磨も、播くと磨くだから、土地を磨いて開拓し、種をまくの意かな。開拓とは、田圃・河川の他に、鉱山も指していそうですね。そうすると、東播磨の最北端・託賀郡が、出雲勢力の地だった丹波から、播磨の国へ入ったのも、何か頷けます。色んな系統の神々の強制的な統合の場ですね。こりゃぁ、ヤマト以前の神々の話が、特に託賀や東播磨・丹波南部に色々、残るのも最もだぁ。
 参考は吉野裕氏訳「風土記」他、諸々です。

262 篠山は佐々山? あかね 2002/02/04 15:27

風琳堂ご主人
 丹波篠山市の民話がほぼ同文で記されている最初のものは、間違いなく前述の本からですが、丹有編の丹波部分を記述されたのは多分、篠山市HPにある通り、田中氏で、同氏が以前、ご自分で記された文章に、加筆・改筆されて、自著として新たにまとめられたものだと思います。おそらく、丹有編の編集委員会に、参加されていた先生ではないでしょうか。
 それから、書き忘れてましたが、篠山市とは、もと多紀郡だった所で、同郡の町々全てが統合されて近年、篠山市となりました。ややこしい書き方をしてごめんなさい。

 併合に際しては、篠山町の皆さんはまだしも、他町の方々は、色々な面で嫌がっておられたそうです。個々の町は皆、古くからの謂れを持っていますし、篠山を冠するのが特に嫌なのは最もです。市の施設も篠山町に集中して、篠山町から遠い所は不便ですし。
 西脇市と多可郡にも、併合して市となる話が西脇市側から出ているそうです。多可郡は現在、別に何の不便もないので、反対しているらしいですが。多可郡を故郷に持つ者としては、併合はともかく、市名が西脇市となるのは、絶対に避けて欲しいです。西脇市は元来、古代から昭和初期?までずっと多可郡の一部で、織物全盛期に人口が増え、郡から分離して市となりましたが、往時よりも人口が減って先々、市として維持できるかどうか…の状態にあります。古代から多可郡としての中心地は多可郡中町で、西脇ではありませんから、市の名は多可市とされるなら、まだ納得できるのですが…。篠山市も多紀市にすればよかったのになぁ。故郷を離れた者がとやかく云う権利はないかもしれないけど、併合自体は昔の姿に戻るのだからともかくとしても、西脇市とする身勝手な案だけは、とっても々嫌な話で是非、消えて欲しいです。ローカルな関係のないことを書いて失礼しました。

●篠山は佐々山とも書いたのか?
 播磨国風土記の揖保郡広山里の項を読んでいたら、神酒を醸すための酒屋を佐々山(ササヤマ)に作ってこれを祀った──という記述がありました。ササとは笹であるとともに、酒でもあり、祭祀と関係のある山か、砂鉄を採る山を指すのかもしれないそうです。
 小竹(ササ)は神前郡ハニ丘の里、筍は賀毛郡三重里(丹塗矢伝承、筍を食いの食いは三島溝咋の咋と同じ)などにも出て来ますね。土師と関係する話なので、出雲国であった篠山も佐々山とも書いたのかも。ちなみに丹波は二毛作を行い、米・酒どころの一つで、丹波杜氏の地ですね。調べずに推測で書いてすみません。
 砂鉄については、篠山町で採れたのか不明ですが、加古川の川からでも砂金は採れるぐらいですから、砂鉄も地元で使う分くらいは賄えたのかもしれません。この地域に鉄鉱床はありませんが、良質の〇(王ヘンに圭)石の非金属鉱床の鉱山なら、かなりたくさんあります。篠山町には、四十八滝近くに村雲鉱床群(篠山町新田・中森<九頭女鉱山>・蟲生・福井)が、その東には大芋鉱床群(篠山町中村・宮代・小倉・市野々)が、村雲鉱床群の西には畑鉱床群(篠山町火打石)があります。そんで、この鉱床は、篠山町・氷上町・市島町に集中して分布しております。

 それから、“クラ、クロのつく地名を繋ぐと、五角形が浮かび上がる”という説があります。詳しい地図が手元にないのでよくわかりませんが、市島町久良部(鉱山近く)、氷上町黒見(鉱山)、篠山町小倉か佐倉?(鉱山)、黒岡(春日神社あり、その絵馬堂には絵馬から黒馬が抜け出した伝承が残る)、多可郡黒田庄町ホンクロダだったかな?(妙見山あり、鉱山あったらしい)を結ぶと、5ぼう星となるような…。いい加減でごめんなさい。

264 山部連と山(部)直は あかね 2002/02/05 02:15

●ササとミワ
 ミワは本来、水和で水を入れる丸い瓶をさす。その瓶で神酒を醸したので、神酒そのものも尊んで御和(ミワ)と容器名で呼ぶようになった。播磨国風土記の宍禾(宍粟)郡石作の里(もとは伊和里)の縁説明である(吉野氏の風土記より)。すると、出雲国だった篠山は佐々山としていいみたいですね。
 ちなみに多紀郡の多紀は瀧、篠山川は瀧川とも書くそうです。

>↓ピンクのトカゲさん 261の補足説明です

●≪山部連と山部直は、元来は同系ではなく、擬制的な同族関係を結んでいたものである≫。
 山部(山守部)とは、山間部住民で山の産物(動植物・鉱物)をもって朝廷に奉仕する部民であって、記は応神朝に置いたと伝え、これを管理するのが山部連と山部直。このことは、播磨の山部と伊和(岩・石)部の結合などや、応神伝承が東播磨の賀毛郡や託賀郡(多可郡・西脇市)に多く見られることと、関係するようです。
 山部連と山部については、「〇(漢字出ません、門ガマエに於)伽出甕」さん論考集のアコさんの記述が解り易いです。
http://members.tripod.co.jp/Accord/BIGLOBE/BUKKYOU/nip04970.htm
吉備滅亡の理由は、産・製鉄民の山部を奪われたからだ、とある説が特に興味深いですね。
 あと、山部連系図については、収録氏族一覧表さんHPの山部連の項も、関係の族が網羅されていて解り易いです。
http://www.tanutanu.net/roots/database/y/yamanobe1.htm

 中央の伴造・山部連に隷属する、伴の山(部)直は、朝廷の吉備制圧が具体化する5、6世紀頃以降に、その職制を通じて、山部連と擬制的な同族関係を結んでいたものとみられます。
 山直が、地方官・針間鴨国造として国造制のもとへ組織されてゆくのは、朝廷大直轄ソマ山(住吉神領)『椅鹿山(ハシカヤマ)領』が編成された、半島出兵時期・7世紀中頃のことではなかったと考えられるそうです。同住吉神領経営の中核となったのは、西脇市都麻里(ツマ、津万=ミズウマ、但馬の出石の君=アマツマラ縁地。上比延<カミヒエ>付近)です。尚、山直は同領地成立の遥か以前より、朝廷への山林資源供進に関ってきていました。
 椅鹿山領とは、665年に多可・賀毛両地方の東半分、つまり加古川沿岸部とその以東の地に、大和のもとで再編成されたソマ山で、面積は九万八千余町、その範囲は、阿知万<アチマ>〔現在は丹波丹南町味間<アジマ>〕の西の峯<同町西方の白髪岳〕〜心坂<同町不来坂>・油位<同町油井>〜比介坂<三田市日出坂>・阿位大路<アイオウジ、同市藍本〜相野付近、三嶋の海人の藍氏か〕〜加佐<三木市加佐、笠氏?>〜須々保利道<スズホリミチ?=錫掘>〔西脇市堀町の須曽寺山〕〜多可木庭<不詳>〜乎布埼<コフザキ?>〔多可郡黒田庄町小苗付近〕〜子奈位<コナイ>〔同町小苗=道主日女命を祭祀する式内社古奈為神社あり、荒田神社と関り深い〕〜瀧河<篠山川>を経て、再び阿知万の西の峯に至るまでの広域に及んでいました(江戸期まで住吉社領で存続)。
 ちなみに、椅鹿山領成立に先立って、やはり7世c中頃に、明石川以西の地域(明石川の内の上神手<カンデ>山・下手山<神戸市西区神出付近=もと明石市>〜大見<オホミ>の小岸<明石市魚住付近=託賀郡大海山麓へ住みついた大海人は魚住から移動してきた>)が、朝廷直轄ソマ山として設定されています。そこでは中央から津守連が派遣されて来て、明石川流域の豪族たちを船木連として編成し、津守連─船木連という統轄関係のもとで船木の造船用材の伐採と搬出、船舶建造の機能を果していました(だから行基が来た)。

 山直は4〜5世紀の古墳時代前・中期に、代々先住していた出雲系同族の族長層の支援を受けて、新興勢力でありながら在地豪族の族長となったようで、その頃から、畿内勢力ないし大和政権の介在を受けていたようです。
 “山直は、前述したように息長氏系とされ、天御影(甕筒=水瓶・甕棺・埴輪)命の11世の孫、『山背根子(ヤマシロノネコ)』(根子は川底の鉱物の意、山城猪甘と関係あるのでは)の後と云われますが、常陸国風土記の哺時臥山にも登場する出雲系土師氏族、もしくは野見宿禰後裔土師氏系だというのが、本当のところのよう”です。
 そして山直には、元来は堺市にいた渡来民説があり、その本拠地は山城ではなく、東播磨・賀毛郡鴨村(加西市北条鴨谷)でした。天平期に播磨の古代仏教の中心地であった加西市の殿原廃寺(山直建立。既多寺)の南・約2.5キロ、万願寺川と下里川に挟まれた丘陵にある『玉丘古墳群』盟主は、ご存知の通り、播磨鴨国造山直?許麻(コマ、麻は産鉄関連)の娘、『根日女』と伝わります。
 根日女を妻問うた仁賢と顕宗両天皇が即位以前に、美嚢郡志染里の高野宮に住んでいた頃、その仲介をしたのも山部連小楯。つまり、この伝承は、“天皇ないし朝廷と賀茂地方の豪族との交渉が志染里の高野宮を基地とし、山部連を仲介として行われた史実を指す”そうです。志染里には朝廷の出先機関『志染三宅』(忍海部造細目が管理)があり、大和はこの三宅を通じて加古川流域の豪族と結ぶ或いは支配拠点とし、加古川中上流域の山部直─山部は、山部連を媒介として、志染三宅を拠点にされ、部民制的支配を受けていたのでした。
 書記の、山部連小楯がこの2王子を発見した話の続きには、都へ王子たちが迎えられた後、弟が即位して顕宗となった際、小楯の功績を賞し、その願いによって山官(ヤマノツカサ)に任じ「山部連」の名を賜い、山守部をその部民とし、更に『吉備臣』をその副官に任じたとありますね。“ここにいう山守部とは、これに先立つ清寧朝に吉備臣から奪ったという山守部をさす”そうです。即ちこれらの伝承によって、5〜6cの交の前後に朝廷によって行われた吉備地方制圧が,山部連とその部民支配を梃子として推進された事実が窺われます。
 古事記の孝霊天皇の段に、「大吉備津日子命と若建吉備津日子命の二柱は相副ふて、針間の氷川(ヒカワ=加古川)の前に忌〇(〇は公の下に瓦)を据えて、針間を道ノ口として吉備国を言向け和しき」とあり、大和朝廷にとって加古川は吉備制圧の第一関門でした。
 加えて風土記にある、景行天皇が印南別嬢(イナミノワケイラツメ=吉備津日古の妹吉備比売の娘、古事記では伊那毘の大郎女<オホイラツメ>で若建吉備津日子の娘とする)に求婚するために、加古川を超えた話も、吉備進出の動きを背景とし、更にこの両吉備津ヒコは、吉備臣など吉備地方の豪族の祖とされています。のみならず、この比礼墓の伝説によると、“景行天皇を印南別嬢のもとへ案内し、更に両者の媒酌をしたのは、「賀茂郡の山直らが始祖とうたう息長命」”。
 というように、山直は山部連のもとで天皇の近侍集団の末端を構成しつつ、朝廷と吉備地方との交渉にも一役買っていたのであり、前述の伝承で、息長命の墓がのちの「賀古駅(カコノウマヤ)」(加古川市野口町付近)の西にあったとされているのをみれば、山直が吉備制圧に乗じつつ加古川下流域へと進出して行ったことが推測されるのです。
以上、山直部分については、殆ど「加古川流域の古代史 上・中流篇」神崎勝 先生の著より)。

●脱線しますが、多可郡黒田庄石原にも桜ヶ丘という地名があり、6世紀中頃の桜ヶ丘古墳があります(鉄刀や紡錘車・須恵器・高杯土器等が出土)。

265 山部 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/02/05 16:08

あかねさんPC大変だったんだ。
爆走あかねワールド期待しています。その前に確認と整理
庵原氏と繋がる大宅氏は、攝津―播磨方面にも居住していたということですね。
そして、その大宅氏の娘を反正が娶ったということです。
山城猪甘も山部連と同系、もしかしたら山部直の直系という可能性もあるわけですか。
真清探當證では、山城猪甘は、吉川小臣という履中の寵臣であったが、侍女と不義を犯し、死罪になるところを履中が、酒を飲まし酔ったところを顔に刺青を入れ別人であるとして放免したとしています。書紀履中条では、即位前に同父母兄の住江中王に襲われるが、この住江中王に荷担した淡路の野島の海人・安曇連浜子は、恩赦により目に刺青を入れられて、死罪を免れたと記載するわけで、猪甘は、安曇連ともかかわってくるわけです。
古事記によれば、履中の子・市辺押磐王が殺され、市辺押磐の二人の皇子・意祁王及び袁祁王を助け播磨に逃がしたのが猪甘であったとするわけですから、二皇子を匿ったのも発見したのも播磨の山部であったことになるわけですね。
そして、二皇子を発見したのが、伊予久米部小盾で古事記神武条では、大久米命が目に刺青をしていたとしています。
そして、播磨の賀毛に久米地名が残っているということですね。
そして、伊予久米部の祖神が、西(中)播磨・神前(神崎)郡蔭山に出てくる伊与都比古の神でもあるというわけですね。
書紀応神五年八月条の山守部の制定は、今風にいえば、山守省という役所を設置したということになります。
山守省という役所を管理するのが、山部連と山部直ということです。
そして、山守省の大臣が、山部連で、政務次官が山部直、政務次官の山部直は、大臣の山部連と親子の杯を交わし山部組の代貸に収まったと理解すればいいわけですね。
そして、そのときに同時に海人部という役所も置かれた。
山守省という役所が設置された背景には、書紀清寧即位前紀の雄略二三年八月条の星川皇子の反乱があり、星川皇子に加担しようとした吉備上道臣から召し上げられた山部を構成員として山守省が設置されたわけです。
記紀の四道将軍の派遣は、額面通り受け取れないことは、拙稿第一話本文の丹波道主王の考察で明らかにしています。
また、日本武尊の東征は、虚構であり、記紀の考霊及び景行条の系図は、虚飾があることは、拙稿第一話拾遺八で明らかにしています。
その古事記考霊条は、大吉備津彦を吉備上道臣の祖としています。大吉備津彦の兄弟の彦狭島については、拙稿第一話拾遺九で伊予、庵原及び下野に鎮座する砥鹿神社との関係を指摘しました。
そして、天皇本紀では、彦狭島を海部直の祖としているわけです。
一方、吉備上道臣から山辺を召し上げ、山辺を構成員として、山守部を制定し、その大臣に伊予久米部小盾を据えたわけです。
現在の様に派閥力学で大臣ポストが決定されるわけではなかったのですから吉備上道臣の配下の山部を所掌した小盾は、吉備上道臣と何らかの繋がりがあったと考えられるわけです。
大吉備津彦の兄弟・彦狭島は、伊予とも関係が深いわけですから、伊予久米部を名乗る小盾は、彦狭島と関係があったと考えると思うのですが、どうでしょう?
漂白の民・サンカは、仁徳の異母兄・大山守皇子が、山守部を率いて、全国の山林を管理していたが、大和の屯田を支配しようとし、仁徳に菟道川で殺され、大山守皇子が率いていた山守部がサンカの一派のヤモリ(山守)となったとする伝承を残す。
サンカの始祖伝承と酒呑童子の関係を考慮すれば(拙稿第一話終章参照)、このヤモリ(山守)も実は、吉備上道臣の率いていた山部を起源とするのではないかと考えていいのではないかと思います。

266 黒豆の里の女神 風琳堂主人 2002/02/05 16:20

黒豆の里・丹波篠山の篠山川は「瀧川とも書く」──あかねさん、いい話をありがとうございます。
サクラさん、東京府中の稲荷社と浅間山の大蛇の話──どうも丹波から大蛇の話に展開しそうですが、この稲荷社も小野氏がらみのようですね。
木花咲耶姫は「怪しい」とは、これまでにも話題になってきました。篠山のほぼ西隣の黒田庄町にあります古奈為神社なのですが、ここの祭神を、あかねさんの257は木花開耶姫、264は道主日女とあり、これは木花開耶姫と道主日女は同神とみていいのかなと──。ありうることだなとおもって読ませてもらいました。
府中・稲荷社→浅間神社の祭神は木花咲耶姫で、神仏一体の名残である「神体の仏像」は「村内中山の清泉中より出現」した十一面観音立像というのも、木花咲耶姫の神名をますます「怪しい」ものという印象を強くさせます。
コノハナサクヤヒメを風土記などは木花之佐久夜毘売とも許乃波奈佐久夜比売とも書きますけど、あるいは「木花桜姫」でもよかったのかもしれません。
この桜姫が道主日女=宗像の女神の可能性をもっていることは大事なことです。
ところで、桜の原種は、「うわみず桜」(古名は波々伽[ははか])だそうで、この桜木は、大嘗祭に際して、朝廷が悠紀、主紀の斎田をどこの郡にするかの鹿占のために、葛木坐火雷神社から奉納される木でもあるようです。同社の神紋は珍しくも桜、菊とのことです。
まだ確定的なことはいえませんけど、桜の原種木である「うわみず桜」は、漢字表記では「上溝桜」とも書き、ミシマミゾクイヒメの「みぞ」とも関係があるのかもしれません。
縄文焼畑の産物の一種でもある黒豆の里・丹波──その瀧川=篠山川の女神が瀬織津姫となると、なにかぴったりだなとおもって、小さなメモをさせてもらいました。

268 お国自慢を失礼します あかね 2002/02/06 20:36

>縄文焼畑の産物の一種でもある黒豆の里・丹波──その瀧川=篠山川の女神が瀬織津姫となると、なにかぴったりだなとおもって……
 そして篠山町と、多可郡(特に加美町・中町)とは、気候がそっくり。篠山町と多可郡は、各々加古川上流の支流が流れ、加古川水源域にも近く、寒暖の差が激しくて、霧の出る盆地。篠山町の丹波黒豆は、その種を健全に保つために、多可郡や西脇市で育てた黒豆の種と定期的に入れ替えるそうです。この入れ替えは、他地域とは行いません。つまり、それだけこれらの町の気候はよく似ているということで、この両地域で育つ黒豆のみに、丹波黒豆ブランドは許されています。前に書いたことで、すみません。
 一般に丹波や東播磨の山々は、大変深いと云える山ではなく、縄文焼畑、牛馬放牧による縄文牧畑を行い易い地形が多いように思います。

 『丹波黒大豆の栽培史は、寛西11年(1797)の丹波国大絵図に、丹波国名産として「黒大豆」が記載されているから、栽培の起源はもっと古い。2代種である波部黒、川北はどちらも今の篠山市内で生まれた。「川北黒大豆が全国に名声を博した理由は、丹波篠山藩主時代は篠山川の上八幡淵より川北のエベヌ淵まで殺生禁断の場所であったが、時の藩主松平公が多くの家来を引き連れ川北へ狩に来られた時、庄屋の山本彌三郎邸に昼食せられ、その折庄屋宅にて黒大豆を差し上げたところ、その味格別にて大変御意に入り、それ以来川北の年貢米の内十石は黒大豆にて納め、青山公の末期まで続けていた。松平公は川北黒大豆の独特の味を賞で時の将軍に献上したので、将軍もその風味を賞し、直参はもとより数多の家臣に振舞われたので、その独特の味が江戸中言い伝えられ、気の早い商人は店頭に丹波川北黒大豆と書きたてるように」なったと書かれている。丹波黒品種の礎は、江戸後期から明治にかけて、日置村(現在の篠山市日置)の豪農大庄屋の波部六兵衛と継嗣波部本次郎によって優良な黒大豆の種が作られ、「波部黒」と名付けて奨励し、今日の丹波黒の礎ができた。川北黒大豆の言い伝え…「昔旅僧が病気で苦しんでいるのを庄屋が助け、家で養生させていた。ところがその年は大干魃で、村の人は他所の僧を村に入れたためだといって、追い出し策を考え白大豆を煎って黒くし、これを植えて芽が出たら村に置くと難題をもちかけた。僧は七日の猶予を頼み、一粒一粒とまいていった。それが不思議に八日目に芽を出し、秋には黒大豆が実った。それが川北大豆であるという」。川北黒大豆は江戸幕府への献納によって、波部黒は宮内省お買い上げによって一層声価が高まった。』<『』内、丹波篠山いのうえ黒豆農園HPより抜粋>

269 牛と桜と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/02/07 06:24

よい黒豆ができる条件は、あかねさん指摘の「寒暖の差があること」に加え、「丹波黒の枝豆通信」によればですが、「水がきれいなこと」も必要らしいですね。また「黒豆を作ると、その土地にも良い」とのことで、こちらが意外と知らないだけなのかもしれませんが、黒豆はなかなか優れものの畑作物のようです。
よい黒豆の生育には「きれいな水」が必要であるという指摘は、これも瀬織津姫の存在条件としてあてはまるものです。丹波篠山のこの「きれいな水」は、酒づくりにも活かされているはずとおもって、また地図帳を見ていましたら、偶然のことかどうか──篠山市には桜酒造という蔵元が篠山川沿いにあります。まさか、とはおもいますが──サクラです(サクラさん、居酒屋さくらにゼヒ置いてください)。
それから、丹波といえば牛です。神戸牛や松阪牛などのブランドものの種牛は丹波ものが多いそうで、丹波牛のルーツは壱岐牛なのかもしれませんが、丹波は牛の里でもあります。
天武天皇は、675年に「牛馬犬猿鶏」を食べてはならぬと詔を出したりしていましたが、天武時代には、これらがかなりの頻度で食されていたことを逆に教えてくれています。
ただし、3世紀の時代、魏志倭人伝には、邪馬台国には「牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し」とあり、この記述を信用しますと、邪馬台国の弥生文化は牛馬と無縁であったことになります。しかし日本書紀の神話の記述では、たとえば月読神が保食神を撃ち殺したあと保食神の死体─頭から牛馬が誕生した話もあり、牛馬の存在は、これも黒豆同様、縄文焼畑時代にまでさかのぼって考えられるようです。
としますと、丹波には、七夕神──牽牛と織女の神の存在の可能性もあり、ということになります。大蛇も牛も、角を共通の象徴としてもっています。
先回ふれそこねたことを──。
瀬織津姫が登場する丹波・篠山川の民話で、生駒山が関係していることが語られていましたが、生駒神社=往馬坐伊古麻都比古神社には、祓戸神とされていますけど、瀬織津姫がまつられていること、および、同社にも、葛木坐火雷神社と同じく、大嘗祭のための火きり木として「うわみず桜」を奉納する伝統があることを添えておきます。
多可郡黒田庄町にあります古奈為神社の位置なのですが、地図帳によりますと、同社も川下神社と同じく、佐治川(加古川)と篠山川(瀧川)の合流部<川合>の地に鎮座しています。祭神の木花開耶姫=道主日女がこういった川合の地にまつられているというのは、たんに偶然のことではないはずです。
蛇足ながら、福岡県糸島郡に桜谷神社があり、ここの祭神は苔産霊神(=磐長比売)と木花開耶姫神です。「君が代」の歌詞の原型とも関わるようです。伊勢の内宮の奥の院の朝熊(あさま)神社の祭神ボカシに利用された苔虫神(=磐長比売)も想起されるというものです。
なお、あさま→浅間→センゲンです。富士山の女神=浅間神社の神は、ほんとうに木花開耶姫か──です。

270 天皇制から排除された鬼 風琳一家代貸pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/02/08 19:57

週末には、安久美神戸神明社(豊橋市八町)で国の重要無形文化財の豊橋の鬼祭りが行われます。
安久美神戸神明社(アクミカンベ・シンメイシャ)は、天慶三(九四〇)年、平将門、藤原純友による承平・天慶の乱の平定祈願の恩賞として伊勢神宮に神領が与えられ、それにともない創建されたといいます。
鬼祭りのクライマックスは、鬼が天狗に挑む「からかい」であることから古くは、からかいの祭りといわれていました。
神社の創建と祭礼(特殊神事)の起源は、密接な関りをもつものですが、
祭礼の起源=神社の創建というものではなく、この鬼祭りも「承平・天慶の乱」に引きずられることなく、その背景を考察する必要があると思います。
「承平・天慶の乱の平定祈願の恩賞として神領」というのは、意味があります。
平定祈願の恩賞として与えられる土地
恩賞として与えられる前は、誰の土地だったんでしょう?そして、どんな土地だったんでしょう?
鬼祭りの詳細については、↓を参照していただくとして、
http://www.tees.ne.jp/~mt-river/onimatsuri.htm
上記サイトでも主役は鬼であり、神役といわれています。
安久美神戸神明社は、豊川下流に位置しますが、豊川を遡れば、鳳来寺の「鬼踊り」、さらには、榊鬼が乱舞する奥三河の花祭り等の鬼に関する芸能が行われています。
これらの祭りの主役は、鬼であり、大和朝廷にとっては、禍をもたらす鬼も、この三河の地では、幸いをもたらす神として崇められるわけです。
三河びとにとっての鬼は、鬼祭りの鬼ではなく、死を賭けて行幸にきた持統であり、持統により確立された天皇制なわけです。
また、承平・天慶の乱を起した平将門、藤原純友も朝廷にとっての鬼であったわけです。
恩賞として与えられる前は、誰の土地だったか、その答もおのずと導かれます。
大江匡房は、「傀儡師記」で「東国美濃参河遠江等の党は、豪貴を為す。山陽播州・山陰馬冊の土党これにつぐ。」と傀儡師について記載します。
柳田國男は、傀儡師をサンカの原像とします。
豪気を為した三河の傀儡師は、鬼祭りの鬼や花祭りの榊鬼の末裔では、
山陽播州・山陰馬冊の土党は、播磨の山守の末裔であったのでは...
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/

272 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/02/13 03:52

こんばんわ、ご無沙汰しました御主人、風邪のほうは身近にいませんか?

ピンクのトカゲさん、豊橋の鬼祭り、面白そうですね。
鬼と天狗のからかいは見てみたい気がします。
うん、雪が降ったらそれもよさそう。

なぜか、鬼が好きです。
人の世に、心に巣食う鬼までも愛せたらと思いつつ
自分の未熟さに泣かされてしまいます。

鬼(夷)を討つために祈願され創建されたという六所明神。桓武天皇の時代、日本中のまつろわぬ蝦夷を平定するために六宗(東西南北天地)の国津神を祭り、立派な社を創建して戦勝祈願をしたのですね。
日本中すべてを網羅してしまいたいとの願いから出た六所はみんな、北向きに祭られています。

蝦夷が平定され,やがて消え去っていった六所明神が此処武蔵野の府中にしっかりと残っています。

大國多摩神社は六所明神の総社ともされていて

一の宮 小野神社 瀬織津姫が祭られもとは雷が祭神とも 
二の宮 小河神社 本殿の下から石棒が出てこれが元の祭神と思われる
三の宮  氷川神社 
四の宮  秩父神社 天津神の秩父彦を祭る
五の宮  金鑚神社 ピカピカ光る鏡岩があり、古名加奈佐奈神社」という
六の宮  椙山神社 

六所明神の神々は瓊々杵尊・素盞嗚尊・伊弉冊尊・大国主命・大宮目神・布留大神でこれは常陸の六所とも一致すると菊地山哉はいっています。

武蔵府中の六所の総社にあたる大国多摩神社のそばに宮の目神社と言われ米内さまと慕われた、大きな神社があったとは遺跡発掘で明らかになったこと。
いつの間にか総社に敷地まで取られ、今は忘れ去られようとしています。

朝廷から蝦夷退治に北向きに立てられた六所神社では
元の神様は深く隠れて、蝦夷討伐に加わったようですが、
そこ此処に残る過去の思い出が神社の中にも見えそうで
調べてみたいと思ってます。

273 比喩としての瀬織津姫 風琳堂主人 2002/02/17 22:48

私事ですが、最後の追い込みがやっと終わりました。2000年12月29日から400日と少し──A4判1596ページとのつきあいでした。今年の4月から子どもたちがつかう副教材をつくってきたのですが、なるべく勉強がイヤにならないものをとおもって、解説書きやら編集に工夫をしたつもりですが、自分のところの出版物ではありませんので、それがどこまで反映した仕上がりかは自信ありません。
ともかく、仕事とはまちがいなく「終わる」ものです。
サクラさん、居酒屋さくらの盛況と三河・丹波・東北ほか、各地の鬼たちに今夜はささやかに乾杯です。
なぜ勉強しなくてはいけないの──こういった子どもたちの問いに世の教師たちはどう応えているのか知りませんけど、また、わたしは教師とは無縁ですけど、自分なら、たぶん、こう応えるだろうという「言葉」があります。
それは、よい学校からよい就職へ、そしてよい生活へといった定型の応えかたとはずれるでしょうが、わたしなら、きっと、もし勉強が意味あるものとしたら、これからよりよくつきあっていくもう一人の自分をつくることの前提だよ、なんてしゃべりそうです。自分といつも対話できるもう一人の自分ができたら楽しいとはおもわないかい──なんてことも言うかもしれません。
もう一人の自分──たとえば、教派的な神ではなく、心の比喩として神が存在するとするなら、この国においては、その最古最高の神を瀬織津姫とみてもいいんじゃないかとおもっています。
この心の比喩としての瀬織津姫はまた、鬼を呼び寄せる神でもあり、さらに、鬼たちの神が瀬織津姫だったことが考えられます。
あと少し残務整理をし、そした足腰のリハビリをして、ぼちぼち動くつもりです。モバイル風=実況的、囲炉裏夜話の話がお送りできたらとおもっています(この夜話は、携帯からうまく送信できるかどうか、最初の試みでもあります。ドキドキ、です)。

274 御主人爆走始めますか? サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/02/19 23:03

御主人、長い間お疲れ様でした。
今頃は、ほっとして美味しいお酒を飲まれているでしょうか....

ご主人の作られた副教材で、勉強したかったなぁ...
そうしたら、回り道しないですんだかも?

でも、回り道したからこそ、いま、比喩としての
瀬織津姫が心にかかるのでしょうか...

>モバイル風=実況的、囲炉裏夜話の話がお送りできたら>とおもっています(この夜話は、携帯からうまく送信でき>るかどうか、最初の試みでもあります。ドキドキ、で>す)。

はい、とっても楽しみにしています。

275 太子の祖母・小姉君の正体 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/02/20 18:22

聖徳太子について書かれた小説「捜聖記」によれば、「丹後資料叢書」の『丹後舊事記』では、用明即位二年、穴穂部皇子(アナホベノミコ)が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村(タイザムラ)に逃れたこと及び間人村は、太子の母・間人穴穂部皇女(ハシヒトアナホベノヒメミコ)の領地である旨を記載する。
太子の母・間人穴穂部皇女は、書紀欽明二年三月条で欽明を父に堅石姫(キタシヒメ)の同母妹・小姉君(コアネノキミ)を母として、産まれたと記載される。
同条で小姉君の同母姉の堅石姫は、蘇我大臣稲目宿祢の娘と記載される。
そして、小姉君の同母姉・堅石姫と欽明の間には、太子の父・用明や推古が産まれている。
堅石姫は、蘇我大臣稲目宿祢の娘とされるから父は、蘇我稲目である。
しかし、堅石姫の母についての記載はない。
また、同条では、小姉君を堅石姫の同母妹とすることから、小姉君の母と堅石姫の母は同一人物となるが、この記載だけでは、小姉君の父は、誰であるか不明である。
母を同じくする姉妹の姉が姫で、妹は、君である。
小姉君の父は、蘇我稲目ではないのではないかという疑問が生じる。
一方、古事記は、間人穴太部王(間人穴穂部皇女)の母を岐多志比売命(キタシヒメノミコト)の姨(オバ)の小兄比売(オエヒメ)とし、岐多志比売命を書紀と同様に稲目の娘としている。
蘇我稲目の娘の岐多志比売命の姨ということになれば、岐多志比売命の父・稲目の姉妹か岐多志比売命の母の姉妹ということになる。
古事記も書紀と同様に岐多志が、「比売命」の尊称がつけられているのに対し、小兄は、「比売」と格が下げられている。
考徳の皇后となった天智の同母妹も間人皇女である。この間人皇女と天智は、男女の関係にあったとする説がある。
書紀は、間人を泥人(ハシヒト)と表記し、泥部は、ハズカシベノミヤツコと訓むようであるから、泥人は、土師人(ハジヒト)であり、恥人(恥知らずな人)の意である。
古代においては、同父の兄妹(姉弟)の関係は、許されていた。木梨軽皇子と衣通姫も同母であった故の悲劇である。
上宮記は、多米王(田目皇子)が、用明の死後、穴穂部皇后(間人穴穂部皇女)を娶り、佐富女王(サホノヒメミコ)を産んだと記す。
多米王(田目皇子)は、書紀用明条で用明が蘇我稲目の娘・石寸名(イシキナ)を嬪として産まれたとされる。田目皇子(タメノミコ)は、太子の異母兄弟であり、間人穴穂部皇女の継子である。
一方、古事記は、多米王(田目皇子)の母を意富芸多志比売(オホギタシヒメ)とする(注:古事記敏達条で敏達と推古の子に多米王の名が見えるが、書紀同条では、田眼皇女とする)。
古事記は、この記載に続けて、「庶妹間人穴太部王(間人穴穂部皇后)を娶り、産ませる子・上宮厩戸豊聡耳命(後略)」と記載する。
考徳の后・間人皇女は、同母兄の天智との関係が疑われている。それゆえ天智は、間人皇女の死後、即位したとする説がある。
一方、間人穴穂部皇女と多米王は、継子の関係であるが、恥人、すなわち、恥知らずな人の意の間人が冠せられている。
間人穴穂部皇女の母は、小姉君(記は、小兄比売)、父は、欽明である。一方、用明の母は、堅石姫(記の表記は、岐多志比売命)、父は、欽明である。つまり、用明と間人穴穂部皇女は、同父異母兄妹である。
旺文社「古語辞典」【継・庶】の項は、「同父異母、異父同母の兄弟姉妹の意を表す」とする。
用明と間人穴穂部皇女は、同父異母兄妹であるから、庶妹とは、用明の同父異母妹の間人穴穂部皇女を指すと考えられる。
しかし、間人には、同母兄弟と通じた恥人の意があり、その間人を間人穴穂部皇女は、冠しており、夫・用明の死後、継子・多米王と通じている。
古事記は、「この天皇(用明)、稲目宿祢大臣の娘・意富芸多志比売を娶り、産ませる子・多米王。庶妹間人穴太部王を娶り(後略)」と記載する。
庶妹間人穴太部王は、多米王の庶妹とともとれるのである。

間人穴穂部皇女の父は、欽明であり、多米王の父は、用明であるから、同父異母姉弟(兄妹)ということはあり得ない。
一方、間人穴穂部皇女の母は、小姉君(記は、小兄比売)であり、多米王の母は、石寸名(記は、意富芸多志比売)であるから異父同母姉弟(兄妹)ということもあり得ないように思える。
しかし、小姉君あるいは小兄比売は、固有名詞というより普通名詞に近い。
また、書紀は、間人穴穂部皇女の母・小姉君の同母姉を堅石姫(キタシヒメ)と記載する。
0 そして、古事記は、堅石姫を岐多志比売命(キタシヒメノミコト)と表記し、小兄比売は、岐多志比売命の姨(オバ)としている。
小姉君あるいは小兄比売の実名が石寸名(イシキナ)あるいは意富芸多志比売だとすれば、間人穴穂部皇女と多米王は、異父同母姉弟(兄妹)ということになる。
小姉君と堅石姫の関係について、書紀欽明二年二月条は、堅石姫は、蘇我稲目の娘であり、小姉君を堅石姫の同母妹とする。また、石寸名については、用明元年条で蘇我稲目娘としている。小姉君=石寸名とすれば、堅石姫も小姉君=石寸名も父を蘇我稲目とし、母も同じ同父母姉妹ということになる。
しかし、堅石姫の同父母妹の本名に「君」どころか石寸名と尊称がなぜついていないか疑問が残る。
一方、小兄比売=意富芸多志比売とすれば、古事記欽明条で小姉比売は、岐多志比売命の姨とするから、意富芸多志比売は、岐多志比売命の父又は母の姉妹ということになる。
また、用明条では、意富芸多志比売を稲目の娘としている。
古事記の一連の記載から意富芸多志比売は、蘇我稲目の娘の岐多志比売命の姨であり、岐多志比売命の父・蘇我稲目の娘ということになる。
この関係が成立するためには、蘇我稲目が実母と関係し、産まれた子が、意富芸多志比売である場合及び岐多志比売命の母方の祖母、つまり、稲目が自分の妻の母と関係して産まれたのが、意富芸多志比売である場合が考えられる。
意富芸多志比売が、蘇我稲目の娘の岐多志比売命の姨であり、岐多志比売命の父・蘇我稲目の娘という関係が成立するためには、上記の二例が考えられるが、前者の稲目が実母と関係したというのは、到底考えられない。
とすれば、後者の岐多志比売命の母とその母、つまり、岐多志比売命の母方の祖母とその娘(岐多志比売命の母)を稲目が娶ったと考えるべきである。
書紀では、小姉君を堅石姫の同母妹とするが、これだと小姉君と堅石姫は、同父異母姉妹ということになる。
古事記は、書紀の堅石姫を岐多志比売命、書紀の石寸名を意富芸多志比売と記載する。書紀風に記載を改めれば堅石姫命と大堅石姫である。
その名から意富芸多志比売(大堅石姫)の方が、岐多志比売命(堅石姫命)の方が年上のように思われる。
つまり、稲目は、岐多志比売命の祖母=意富芸多志比売の母を娶り、意富芸多志比売が産まれ、その後、岐多志比売命の母との間に生まれたのが岐多志比売命であったと推測される。意富芸多志比売の母を娶り、意富芸多志比売が産まれ、その後、岐多志比売命の母との間に岐多志比売命が産まれた。岐多志比売命の母は、意富芸多志比売が産まれたとき、まだ幼なかったのではないかと考えられる。

稲目が、稲目と意富芸多志比売の娘(岐多志比売命の母=稲目の実娘)を娶り、岐多志比売命が産まれたとは考えれらない。
稲目は、意富芸多志比売の母(未亡人)を娶り、その後に、その未亡人(?)の連れ子(岐多志比売命の母)を娶り、岐多志比売命が産まれたと考えるのが自然である。
つまり、稲目は、何らかの事情がある未亡人(?)と、その連れ子を引き取り、その未亡人(?)との間に娘(意富芸多志比売)をもうけ、その未亡人の連れ子(岐多志比売命の母)が、成人した後、その連れ子(岐多志比売命の母)と通じ、岐多志比売命を産んだと推察される。
これなら、岐多志比売命と意富芸多志比売は、父を稲目とする同父異母姉妹ということになる。書紀の小姉君は、堅石姫の同母妹とは、異なるが、書紀の記載は、何らかの手が加えられたのではないかと考えられる。
小姉君(大堅石)と堅石姫の尊称の違いを考えれば、小姉君(大堅石)も堅石姫の母と同様に堅石姫の母方祖母の連れ子であったかもしれない。つまり、小姉君(大堅石)は、母と一緒に引き取られ、稲目の娘とされたのではないかと考えられるのである。

『丹後舊事記』は、用明即位二年、穴穂部皇子が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村に逃れたとする。
書紀は、用明二(五八七)年四月に、用明が崩御し、同年六月七日に馬子が御炊屋姫(推古)に穴穂部皇子及び宅部皇子(ヤカベノミコ)追討の命を出させ、穴穂部の屋敷を囲ませ、穴穂部皇子を殺し、翌日、宅部皇子を殺したと記載する(記には、記載なし)。
『丹後舊事記』の記載は、用明即位二年に穴穂部皇子が馬子に狙われ、丹後に来たと書かれている。この記載からでは、用明二年の何月に穴穂部皇子が丹波に逃れてきたかわからないが、穴穂部皇子が馬子に狙われとは、馬子が、穴穂部皇子追討の命を御炊屋姫に出させたことを意味するように思われる。つまり、『丹後舊事記』は、暗に穴穂部皇子は、用明二年六月七日に殺されずに丹波に逃れた旨を主張しているわけである。
また、「捜聖記」によれば、「丹後国竹野郡誌」が引用する『丹哥府志』に物部守屋の反逆により太子の母・間人穴穂部皇后は、竹野郡の日崎近くの大浜里(現間人村)に逃げた旨を記載する。
『丹哥府志』にいう物部守屋の反逆は、用明没後からはじまり、やがて、馬子との抗争に発展する。
書紀は、既に述べたように守屋の軍勢が三度騒ぎを起こした翌月、穴穂部皇子が、殺され、その後、馬子と守屋は、全面抗争になり、同年七月、守屋が敗れ、その翌月、崇峻が即位する。
『丹哥府志』の間人皇后の丹後への逃避も守屋の反逆によりとされることから、『丹後舊事記』の穴穂部皇子の丹後への逃避とリンクして考えるべきである。

穴穂部皇子、記紀では、姉・間人穴穂部皇女と同様、間人(書紀の表記は、泥人)が、冠せられている。書紀一書では、泥人穴穂部皇子の別名を住迹皇子(スミトノミコ)と伝える。
泥人穴穂部皇子は、書紀用明元年五月条で異母姉・御炊屋姫(推古)を犯そうとしたとされる。
異母姉妹と通じるのは、タブーではない。間人穴穂部皇子が、同母姉妹と通じていれば、当然、その記載が書かれているだろうが、その記載はない。
穴穂部皇子に間人を冠する理由は、見当たらない。
一方、多米王は、同母姉の間人穴穂部皇女と通じている。多米王には、間人を冠する理由がある。
『丹後舊事記』で、用明即位二年、穴穂部皇子が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村に逃れたとされる穴穂部皇子は、多米王ではないか。
穴穂部皇子は、生前は、住迹皇子と呼ばれており、後に間人が冠せられたのではないかと考えられる。
上宮記は、間人穴穂部皇女と多米王は、用明の死後、結ばれ、佐富皇女(サホノヒメミコ)をもうけたとする。
間人穴穂部皇女と多米王は、小姉君(大堅石)を母とする異父同母姉弟(兄妹)である。
『丹後舊事記』は、間人村を間人穴穂部皇后の領地であるとし、『丹哥府志』は、間人穴穂部皇后は、竹野郡の日崎近くの大浜里(現間人村)に逃げたと記す。間人穴穂部皇女と丹波の関りを考えると、間人穴穂部皇女の母・小姉君(大堅石)の存在が重要になる。出自不明の小姉君(大堅石)意外に丹波(丹後)の関係があるとは思われない。
また、『丹後舊事記』は、用明即位二年、穴穂部皇子が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村に逃れたとする。そして、この穴穂部皇子は、多米王だと思われる。
間人穴穂部皇女と多米王は、丹後の間人村に逃げたのである。そして、上宮記が記載するように、その後、佐富皇女をもうけている。
二人の逃れた先は、丹波(丹後)であり、二人の間の子の名は、佐富皇女である。佐富(サホ)、狭穂彦、狭穂姫の「サホ」である。日下部氏及び丹波道主家ゆかりの「サホ」である。
間人穴穂部皇女と多米王は、丹波道主家縁と考えられ、太子の母・間人穴穂部皇女も、丹波道主家と関わる可能性がある。

276 出羽三山と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/02/25 13:38

トカゲさんのハシヒト=土師人=恥人の着想が聖徳太子と丹波との関連を明かしつつあります。
サクラさん、「暴走」はもう少しおあずけです。仙台で本づくりの打ち合わせがはいり、その足で、出羽三山・月山の秘湯に小湯治をしてきました。雪が4〜5メートルの壁をつくる道を懇意の温泉宿へ向かったのでした。
出羽三山の開山者は、崇峻天皇の子である蜂子皇子(能除仙=能除大師)とされています。
「出羽三山の開山説」を阿部良春『出羽三山の信仰と伝統』(東北出版企画)から引用します。

 出羽三山は月山・羽黒山・湯殿山の三つの山を総称して三山と云っているが、古くより東三十三ヶ国(関八州・奥羽・佐・信・越)総鎮護として宇内に冠たる霊山であります。
 御開山は今から一四〇〇年前、推古天皇十四年、第三十二代崇峻天皇の御子である蜂子皇子によって開かれました。当時大和朝は、蘇我氏が専横を極めた時代であります。崇峻天皇は蘇我氏の横暴を嫌い反対派の大伴家より小手姫を入れ妃としたため、馬子の感情を害し、ついに倉橋柴垣宮で輩下の漢人直駒によって刺殺されました。この儘では蜂子皇子にも害が及ぶことを懼れ、従兄弟である聖徳太子の勧めにより仏門に入られ、世のきずなを断ち、〔中略〕推古天皇元年、若狭の浜より舟で日本海を北上され出羽国由良の港に着かれました。此処が由良の八乙女浜であります。
 折柄三足の霊烏の導きにより羽黒山の阿古谷の岩窟に籠り、只管治心の苦行を積まれ、羽黒大神のお告げを拝し、更に月山に登り、月山大神の示現を拝し、更に難行苦行の末、奥の院湯殿山をお開きになりました。この修行の足跡が羽黒古修験道として伝えられ、今日の山伏修行の道となっております。

蜂子皇子の父とされる崇峻天皇の「崇峻」の命名にすでに峻厳なる霊山を崇める意が含まれています。この開山伝承の真疑を問うことは控えますけど、出羽三山の「奥の院」が湯殿山である認識は大事です。即身仏のメッカともいうべき湯殿山ですが、これは真言宗=空海につながる他界思想を根拠にしています。
また、三本足のカラスの導きで想起されるのは、やはり熊野の神武伝承におけるヤタガラスです。
蜂子皇子は、同書によりますと「イネ」をはじめとする「五穀の種子をもたらすとともに製鉄、砂金の採掘の技術」なども伝えたことになっています。蜂子─崇峻時代(6世紀末から7世紀初頭)に東北=出羽地方に稲作が伝えられたとするには時間的な混乱がありますが、羽黒修験のルーツが熊野にあることを匂わせた開山伝承です。
出羽三山「奥の院」湯殿山神社のご神体は、鉄分を多量に含む湯に赤く輝く大岩です。祭神は大山祗命・大己貴命・少彦名命の三神と表向きはなっていますけど、このご神体の大岩の裏にはひっそりとですが天照大神がまつられ、また、宿のご主人によりますと、この大岩の下の滝神として瀬織津姫がまつられているとのことです。むろんこれは禊ぎ神としてでしょうが、湯殿山の秘神=ほんとうの神が天照大神の可能性があることをメモしておきます。
なお湯殿山神社の末社である前述の「御瀧神社」の神仏一体時代の旧名は「大聖不動明王」です。
仙台で唯一瀬織津姫をまつる瀧沢神社を松尾芭蕉は訪れていましたが、彼は「奥の細道」の旅で湯殿山にも足を運んで句を残しています。

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

芭蕉は何を「語られぬ」としたのでしょう。

(追伸)
内職の仕事の追加が入ってあわてて遠野にもどってきました。

277 丹波民話が明かす諏訪神 風琳堂主人 2002/02/26 22:21

 丹波・篠山川の水神を瀬織津姫と伝える民話「丹波の人取り川」のほかにも、とても興味深い民話が収録されているのが田中貞典『篠山の民話集』(篠山市HP)です。
 たとえば、この民話集には、篠山川の水神が諏訪からやってきた話が収録されています。諏訪大社下社の水神は八坂刀売神とされていますが、同社の主神かつ諏訪湖の水神は、天竜川の水神でもある瀬織津姫の可能性が高いことについては、この囲炉裏夜話205ほかでふれてきているところです。
 篠山の民間伝承は、八坂刀売神は瀬織津姫と同神であることを裏付けるものといえそうです。
 同民話集から、該当の民話を引用させてもらいます。

■与惣九郎の見た大蛇
 むかし、丹波の古佐の与惣九郎という人が、信濃の国の諏訪神社へお参りして、その分霊(建御名方命の妹)をいただき帰ってきました。
 今の渡瀬橋のあたりまで来たときのことです。それまでずっと後ろについて来た一人の女の子が急に立ち止まったかと思うと、身を踊らせて下の篠山川へ飛び込みました。
 驚いた与惣九郎の目には、もう女の子の姿はなく、見るも恐ろしい大蛇となって、
「わしは、諏訪神社の神霊じゃ。あそこに見える山は、七尾七谷と見受ける。眺めも良いので、わしはいついつまでも、あの山に鎮まりたい。」
 声とともに姿は消えてしまいました。
 与惣九郎は、さっそくお告げのとおり、岡屋の富の山を開き、清めてそこにいただいて来た分霊をおまつりしました。
 その時です。天地がにわかにゆれ動き激しい雷雨がとどろくと共に、大きな蛇体が富の山の七尾七谷をとりまき、雲つくような桧の根っこの穴から、大蛇の頭半分が出ている姿が見えました。
「わしは、子どもが好きじゃ。安産させよう。」
という、おごそかな声が聞こえたので、与惣九郎は、はっとわれにかえると、空はすっかり晴れわたり、なんともいえぬ神々しさが、山いっぱいにみちみちていました。
 それから、誰いうとなく、諏訪さんのご神体は蛇体であるといわれ、そのために諏訪神社は長い間(1903年まで)社殿を作らず、桧の古株にしめなわをかけて、これをご神体としておがんでいました。

 諏訪神社の「分霊(建御名方命の妹)」について、「諏訪さんのご神体は蛇体である」とされ、この諏訪の女神は「子どもが好き」ともあります。子ども好きの神であり、また「安産」を司る神=子安神=子守神は、瀬織津姫が遠野で養蚕神=オシラサマへと化身したあとも、その多くの性格要素の一つとして伝えられていることでもあります。
 単純に考えても、天竜川の水神が瀬織津姫であるのに、天竜川の源流湖の水神が瀬織津姫「ではない」ということのほうが変なのですが、この丹波・篠山の民話は、幾層にもわたる瀬織津姫隠しの暗部に光をあててくれたといえます。
 諏訪の女神が八坂刀売神とされた瀬織津姫となりますと、その一対の男神の建御名方神もまったく怪しい表示ということになります。
 伊勢国風土記逸文は、伊勢国から信濃国に追放された神として伊勢津彦の名を伝えています。しかも伊勢津彦は「出雲の神の子、出雲健子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である」と、出雲との関連やら、ニギハヤヒ=天照国照彦天火明奇玉饒速日命の奇玉=クシタマ=櫛玉との関連さえもうかがわせています。
 出雲の国譲り=征服潭は、建御名方神の抵抗→諏訪への幽閉を伝えていますが、この出雲の征服潭は、あるいは伊勢のことだった可能性があります。
 いずれにしても、出雲と伊勢が現代の距離感覚を無化するように同神をいただく海人の生活圏を共有していたことが考えられるようです。瀬織津姫もまた、丹波を経て、その先の出雲と無縁であるはずがないことがじゅうぶんに考えられます。
 なお、丹波・篠山は、ほかに、貴船神社とゆかり深い和泉式部の伝承をも民話として伝えています。しかも、和泉式部は、篠山の地に養蚕を伝えたことになっています。この養蚕創始の伝承はあとからの付会の可能性が高いですが、しかし丹波が古代の養蚕先進地域の一つであったことは記録的にも確かです。和泉式部を媒介として、丹波の養蚕神=瀬織津姫と、出雲井をもつ下鴨神社と関係深い貴船神とのつながりもみえてくるようです。

278 穴穂部皇子殺害事件(1) pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/02/27 21:00

『丹後舊事記』は、用明即位二年、穴穂部皇子(アナホベノミコ)が、蘇我馬子に狙われ、丹後の間人村(タイザムラ)に逃げたとする。
書紀は、用明二(五八七)年四月に、用明が崩御し、同年六月七日に馬子が炊屋姫(推古)に穴穂部皇子及び宅部皇子(ヤカベノミコ)追討の命を出させ、穴穂部の屋敷を囲ませ、穴穂部皇子を殺し、翌日、宅部皇子を殺したと記載する(記には、記載なし)。
『丹後舊事記』の記載は、用明即位二年に穴穂部皇子が馬子に狙われ、丹後に来たと書かれている。この記載からでは、用明二年の何月に穴穂部皇子が丹波に逃れてきたかわからないが、穴穂部皇子が馬子に狙われとは、馬子が、穴穂部皇子追討の命を炊屋姫に出させたことを意味するように思われる。つまり、『丹後舊事記』は、暗に穴穂部皇子は、用明二年六月七日に殺されずに丹波に逃れた旨を主張しているわけである。
『丹哥府志』にいう物部守屋の反逆は、用明没後からはじまり、やがて、馬子との抗争に発展する。
書紀崇峻条は、用明の没後の翌五月、物部大連(守屋)の軍勢が三度も騒ぎを起こした。大連は、最初ほかの皇子でなく、穴穂部皇子を天皇にしたいと思っていた。今になって「替え立て」ようと思い、狩を一緒にしようと穴穂部皇子のところに密かに遣いを送ったが、謀が漏れたと記載する。
『今になって、「替え立て」ようと思い、狩を一緒にしようと穴穂部皇子のところに密かに遣いを送った』の原文は、『及至於今、望因遊猟、而謀替立、密使人於穴穂部皇子』である。
この一文だけでは、何をどう「替え立て」ようと思ったか不明である。
そこで、ここに至るまでの守屋と穴穂部皇子の関係を見てみることにする。

用明が没する一週間前、書紀用明二年四月二日条は、用明が、病気になり、「自分は、仏教に帰依しようと思うが、皆はどう思う」と群臣に尋ねたところ、物部守屋と中臣勝海は、「なぜ、国神に背いて、異国の妖しい神を敬う理由はわからない」と反対した。一方、蘇我馬子は、「用明のいうことはもっともである」と賛成した。守屋は、豊国法師を連れて、穴穂部皇子が内裏に入るのを見て、穴穂部皇子を睨み、大いに怒ったと記載する。
用明の没する七日前、守屋は、穴穂部皇子を睨み怒っている。そして、用明が没した翌月に、今になって、「替え立て」ようと思い、狩を一緒にしようと穴穂部皇子のところに密かに遣いを送っている。この間に穴穂部皇子に対する守屋の怒りが鎮まったとの記載はない。
書紀崇峻条の記載は、「守屋は、最初は、穴穂部を天皇にしようと思ったが、用明二年四月二日、用明が病気になり、仏教に帰依したいと行ったことに守屋が反対したにもかかわらず、穴穂部皇子が、豊国法師という僧を連れて、用明のところに行ったため、守屋は、穴穂部皇子を天皇にしたいとは思わなくなり、狩に誘い出した」ということになる。
書紀用明二年四月二日条は、穴穂部皇子が、豊国法師を連れ、内裏に入った後、押坂部史毛屎(オシサカベフヒトケクソ)は慌てて、「群臣が、守屋の退路を断とうとしている」と守屋に告げた。守屋は、これを聞き、別邸のある阿都に帰り人を集めた。一方、中臣勝海は、守屋を助けようと自宅に兵を集め、太子彦人皇子(ヒツギノヒコヒトノミコ)と竹田皇子の人形(ヒトガタ)を作って呪った。勝海は、事が遂げれないことが解り、彦人皇子のところへ行った帰り、迹見梼(トミノイチイ)に刺し殺されたと記載する。
勝海が人形を作り呪った皇太子・彦人皇子とは、敏達の皇子・押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトオオエノミコ)を指すと思われ、竹田皇子は、敏達と推古の子である。
太子(ヒツギノミコ)とは、皇太子を意味し、用明二年四月の時点で敏達の皇子・押坂彦人が皇太子であったわけである。
『及至於今、望因遊猟、而謀替立、密使人於穴穂部皇子』の『替立』は、押坂彦人皇子に替え、穴穂部皇子を天皇にしようとしたと読むべきとも思われる。

守屋は、押坂部史毛屎の「群臣が、退路を断とうとしている」との進言を聞き、河内の別邸に帰り助かっている。一方、守屋を助けようと思った勝海は、押坂彦人皇子と竹田皇子の人形に呪いをかけたが、事が遂げられないことを悟り、押坂彦人皇子のところに行った帰りに殺されている。
「群臣が、退路を断とうとしている」だけでは、押坂部史毛屎が具体的にどのような内容を守屋に告げたのか解らないが、勝海は、押坂彦人皇子のところに行って殺されているのだから、勝海が押坂彦人皇子のところに行ったことと、押坂部史毛屎の進言は、関係しているように思われる。
書紀用明二年四月二日条は、勝海が、迹見梼に刺し殺された後、守屋は、「群臣が謀をしていると聞き、別邸に退いたのだ」と馬子に使者を送って伝えたと記載する。使者は、物部八坂、大市造小阪、漆部造兄(ウルシベノミヤツコアニ)である。馬子は、土師八島連(ハジノヤシマノムラジ)を大伴毘羅夫連(オオトモノヒラフノムラジ)に使いに出し、守屋の言葉を伝えた。大伴毘羅夫は、馬子の屋敷に行き、昼夜を問わず、馬子を守ったと記載する。
守屋を助けようとした勝海が殺害された後、使者を馬子の下に送っている。その言葉を聞いた馬子は、直ちに毘羅夫にその言葉を伝え、その言葉を聞いた毘羅夫は、馬子の警護にあたっている。
馬子は、守屋の言葉を聞き、身に危険を感じ毘羅夫に警護を依頼したと考えられる。
守屋は、押坂部史毛屎の言葉を聞き別邸に帰り、人を集めている。一方、勝海は押坂部史毛屎が、守屋に伝えた言葉を知っていたか否かはわからないが、勝海は、守屋を助けようとし、自宅に兵を集めている。
押坂部史毛屎から守屋の伝言では、「群臣が退路を断とうとしている」としている。一方、守屋から馬子への伝言では、「群臣が謀を理由に別邸に退いた」といている。
守屋から馬子への伝言では、「群臣が謀」をしているとしている。そして、これを聞いて、馬子は、毘羅夫に自分の警護を依頼している。
守屋は、自分を亡き者にしようとする首謀者を知って馬子に告げたのであろう。そして、告げられた馬子は、身辺の警護を毘羅夫に依頼している。つまり、守屋を亡き者にしようとした謀の主は、馬子であったと考えられる。
守屋は、押坂部史毛屎の伝言により、大和にいては危険だと感じ、河内の別邸に退いた。一方、守屋を助けようと思った勝海は、押坂彦人皇子のところ=大和の水派宮(ミナマタノミヤ)に行った帰りに殺されている。
勝海が、押坂彦人皇子の下に行った理由は、守屋を助けようと思い、押坂彦人皇子と竹田皇子の人形を作り呪いをかけたが、事が遂げられないと悟ったからである。
勝海は、その帰りに迹見梼に刺し殺されている。一方、守屋は、河内に退き、難を逃れている。迹見梼は、勝海を殺害した三月後の七月、守屋と馬子の抗争において、馬子軍に加わり、樹上にいた守屋を射落している。勝海を殺害したときは、舎人迹見梼と表記されているが、馬子と守屋の抗争のときは、迹見首赤梼(トミノオビトイチイ)と表記されている。守屋が殺害され、鎮圧された後、迹見首赤梼は、田一万代を賜っている。守屋を射落とした功績であろう。とすれば、首の姓を賜ったのは、勝海殺害の論賞と考えられる。
迹見梼は、守屋と馬子の抗争において、馬子側についている。勝海殺害の実行犯・迹見梼の黒幕も馬子であったと思われる。
勝海殺害の実行犯は、迹見梼である。そして、その黒幕は、馬子と考えられる。そして、守屋は、難を逃れている。
守屋と馬子の抗争は、排仏派の守屋と崇仏派の馬子の争いといわれる。果たしてそれだけであろうか。

279 穴穂部皇子殺人事件(二) pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/02/28 08:01

書紀によれば、欽明一三(五五二)年一〇月に百済の聖明王から仏像等が献上されたと記載する。これが仏教の公式伝来の記録である。しかし、元興寺縁起では、仏教の公式伝来を欽明七年戊午とし、上宮聖徳法王帝説では、欽明戊午の年とする。ただし、欽明七(五四六)年は、丙寅であり、欽明朝には、戊午の年は、なく、戊午の年ということになれば、宣化三(五三八)年ということになる。
仏教の公式伝来が、何年であるかについては、さておき、書紀欽明一三年一〇月条では、欽明は、聖明王からの仏像献上に対し、欣喜雀躍し、群臣に仏像を祀るべきか否かを尋ねたと記載する。これに対し、馬子の父・蘇我稲目は賛成の意を、守屋の父・物部尾興と中臣鎌子は、反対の意を表明した。欽明は、賛成の意を表明した稲目に仏像を渡し、試しに礼拝させた。ところが、疫病が流行し、尾興と鎌子が仏像を祀るから疫病が流行る旨を欽明に奏上し、仏像は破棄、寺塔は、焼却処分にされている。
尾興と鎌子が、仏像を祀るから疫病が流行る旨を奏上し、仏像を破棄、寺塔を焼却処分にさせたにも関らず、二年後の欽明一四年五月、欽明は、再び仏像を造らしている。
この記載から、欽明及び蘇我は、崇仏、物部及び中臣は、排仏ということになる。しかし、欽明一五(五五四)年一二月、新羅との戦いで百済の聖明王が戦死し、翌年二月、百済の皇子・恵が来朝した際、稲目は、恵に「百済は、建国の神=祖神を祀らないようだが、神宮を修理し、神霊を祭れば、百済が栄えるだろう」と進言している。稲目は、崇仏一辺倒ではない。
欽明は、欽明三二(五七一)年四月に死去し、翌年の四月に欽明と宣化の娘・石姫の子・淳中倉太珠敷尊(敏達)が、即位する。
書紀は、敏達は、仏教が嫌いで文学や歴史を好んだと記載する。
書紀敏達六(五七七)年一一月は、百済王が、経論や仏師等を、同八年一〇月条は、新羅が仏像を献上した旨を記載する。
また、同一三年九月条は、百済から鹿深臣が弥勒菩薩石造を、佐伯連が仏像を献上し、馬子は、二体の仏像を貰い受けたと記載する。翌年二月 馬子が病気になり、卜者に占わせると「稲目が崇めた仏像の祟り」であるとでた。馬子は、敏達にその旨を奏上し、敏達は、「稲目が崇めた仏像を祀る」ように告げたとする。敏達は、仏教嫌いだと記載されるが、馬子の崇仏を許可している。
そして、同年三月一日、守屋と勝海は、欽明以降疫病が流行っているが、疫病の流行は、蘇我氏が仏法を拡めたせいだと奏上し、これを受けて、敏達は、その通りであるから即刻仏教を禁止したと記載する。
三月三〇日、守屋は、敏達の仏教禁止の命を受け、寺塔を焼き、仏像を棄て、尼を鞭打ちの刑に処した。それに続けて、書紀は、疱瘡が流行し、人々は、仏像を焼いた罪だといったと記載する。この記載から本来保守的である民衆は、仏教を支持していたともとれる。
一方、一書では、守屋と大三輪逆君(オオミワノサカウノキミ)及び中臣磐余連(ナカトミノイワレノムラジ)が、仏法を滅ぼそうとして、寺塔を焼き、仏像を棄てようとしたが、馬子がそれを阻止したと記載する。一書に従えば、馬子により寺塔、仏像の焼却は、免れているのであるから人々が仏像を焼いたから疱瘡が流行るというのは、ありえないことになる。
そして、物部氏、中臣氏のみならず大三輪君も排仏派ということになる。
書紀は、同年六月、馬子は、自らの病気平癒を仏法に頼りたい旨を奏上し、敏達は、他人には、仏法を拡めてはならぬという条件つきで許可している。仏教嫌いのはずの敏達が、ここでも蘇我氏の崇仏に対しては、寛容である。
書紀は、敏達が、同年八月病死した旨を記載する。そして、殯宮を広瀬に起てた。守屋は、馬子が刀を佩けて誅を言うのを見て、大矢に射られた雀のようだと嘲笑った。一方、馬子は、守屋が手脚を震わせて、誅を言うのを見て、鈴を懸けたらどうだと笑いながら言った。これを契機に、守屋と馬子は、しだいに、お互いを恨むようになったと記載する。
守屋と馬子が反目しあう契機は、崇仏―排仏ではなく、お互いの誅の様子を嘲笑したからだとしている。
そして、三輪君逆は、敏達の殯宮を隼人を使って警備にあたらせた。穴穂部は、それを見て、死んだ敏達に仕え、自分に仕えないのは何故だとを大声で喚いたと記載する。
書紀一書によれば、三輪君逆は、守屋や中臣磐余とともに寺塔を焼き、仏像を棄てようとしたと記載する。崇仏―排仏という観点から視れば、三輪君逆も排仏派である。一方、穴穂部皇子は、用明二年四月二日、用明の病床に豊国法師を連れて会いに行っている。同様の観点から視れば、穴穂部皇子は、崇仏派である。

書紀は、用明が亡くなる前年の用明元(五八六)年五月、穴穂部皇子は、敏達の殯宮にいる敏達の皇后・推古を犯そうと、先帝・敏達の殯宮に入ろうとしたが、先帝の寵臣・三輪君逆は、兵に門を固めさせ、穴穂部皇子を殯宮に入れなかったと記載する。
そして、書紀同条は、穴穂部皇子は、なかに誰がいるかと尋ねると、兵は、三輪君逆がいると応えた。穴穂部皇子は、七度も門を開けろと言ったが門は開けられなかったと記載する。
書紀は、穴穂部皇子は、殯宮にいる推古を犯そうとして、殯宮に入ろうと記載するが、穴穂部皇子は、殯宮に入れなかった。
また、書紀は、敏達が亡くなったとき、穴穂部皇子は、三輪君逆が、敏達の殯宮を警備しているとき、なぜ死んだ敏達に使え、自分に仕えないのだと大声で喚いたと記載する。
書紀の記載によれば、穴穂部皇子は、皇位を狙っていたから、三輪君逆に大声で喚いたのである。
そして、書紀用明元年五月条は、敏達の殯宮に入れなかった穴穂部皇子は、馬子と守屋に天皇の子弟は沢山おり、また、馬子や守屋のような重臣もいるのに三輪君逆一人で殯宮を警備するのは、無礼であり、門を開けよと七度も問うても開けないのは、許し難き行動であり、三輪君逆を切り捨てたいと思うと言ったと記載する。
書紀用明元年五月は、穴穂部皇子が敏達の殯宮に入ろうとしたのは、推古を犯すためだと記載するが、穴穂部皇子は、殯宮に入れず、穴穂部皇子が、推古を侵そうとしていたか否かの客観的証拠を記載しない。また、穴穂部皇子は、三輪君逆が、敏達の殯宮を警備していることに不満なのである。
書紀用明元年五月条は、穴穂部皇子の言葉を聞いた馬子と守屋は、仰せのままにといった。
穴穂部皇子は、天皇になろうと企てており、守屋と兵を率いて、用明の住む池辺の宮を囲んだ。三輪君逆は、これを知って、本拠地の三輪山に逃れ、夜中に殯宮に隠れた。穴穂部皇子は、三輪君逆と同族の白堤と横山に三輪君逆の居場所を聞き出し、守屋に三輪君逆とその二人の子供を討つように命じたと記載する。一書では、穴穂部皇子と泊瀬部皇子が共謀して、守屋を遣わせたとする。
穴穂部皇子は、敏達の死後、つまり、用明即位前から皇位を狙っていた。そして、池辺の宮を囲んでいる。しかし、穴穂部皇子は、池辺の宮を囲んだのち、三輪君逆の殺害を命じている。
書紀の記載からでは、三輪君逆の殺害が、穴穂部皇子が皇位を狙う計画の中で、どのような意味をもっていたのか解らない。
書紀は、守屋は、穴穂部皇子の命に従い兵を引き連れていった。馬子は、これを聞き、穴穂部皇子に会いに行き、穴穂部皇子の屋敷の門のところで守屋と行動をともにしようとしていた穴穂部皇子と会った。馬子は、穴穂部皇子に「王は、刑人に近づかないものです。自ら出かけてはなりません」と進言したが、穴穂部皇子は、それを振りきり、出かけた。馬子は、仕方なく穴穂部皇子に従い磐余に至った。馬子は、さらに穴穂部皇子を諌めたところ、穴穂部皇子は、仕方なく、これに従い、その場に留まり、守屋を待った。暫くして、兵を率いた守屋が来て、三輪君逆を殺したと報告した。また、一書では、穴穂部皇子が、自ら出向き、三輪君逆を殺したと記載する。
馬子は、守屋の報告を聞き、間もなく、天下は乱れるであろうといった。これに対し、守屋は、お前のような小者には、解らないことだといったと記載する。
書紀敏達一四年六月条の一書では、三輪君逆は、守屋らとともに寺塔を焼き、仏像を棄てている。三輪君逆は、仏教嫌いの敏達の寵臣である。三輪君逆も排仏派であったと思われる。守屋と三輪君逆は、排仏という点では、同志なのである。
しかし、守屋は、三輪君逆を殺害している。一方、馬子が穴穂部皇子に言った刑人は、三輪君逆を指すと思われ、馬子は、三輪君逆の殺害そのものについては、反対していないものの、事後、三輪君逆殺害の報告を聞き、天下は乱れるだろうといっている。そして、書紀は、三輪君逆は、敏達の寵臣であり、内外の事を任されており、これを契機に馬子と推古は、穴穂部皇子を恨むようになったと記載する。
反目しあっている馬子と守屋が、こと三輪君逆殺害に対しては、殺害可という点では、一致している。三輪君逆殺害は、崇仏対排仏という図式ではなく、異なる次元での利害関係があるように思われる。そして、どのような意味があったかは、不明であるが、穴穂部皇子にとっては、三輪君逆の殺害は、皇位を狙う計画の一部なのである。そして、守屋は、馬子に向かって『お前のような小者には、解らない』といっているのであるから、守屋は、穴穂部皇子の計画の全容を知っていたと思われる。
馬子は、三輪君逆殺害を聞いて、間もなく天下は乱れるだろうといっている。しかし、三輪君逆の殺害を事前に知っていながら、三輪君逆殺害そのものについては、反対の意を表明しておらず、穴穂部皇子自らが、現場に行く事を止めるに留まっている。
三輪君逆は、先帝・敏達の寵臣であり、内外の事を任されており、穴穂部皇子は、三輪君逆が敏達の殯宮を警備していることに不満をもっており、殺害を計画したのである。
そして、三輪君逆の殺害は、穴穂部皇子が皇位を狙うための計画の一部であり、この計画に対し、馬子は黙認している。
そして、馬子は、この殺害により、間もなく天下は乱れるだろうといい、馬子と推古は、穴穂部皇子を憎むようになり、三輪君逆殺害の約一年後の六月に馬子は、推古に詔を出させ、穴穂部皇子を殺害している。

280 静岡県 タカハシ 2002/02/28 11:40

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281 穴穂部皇子暗殺事件(3) pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/03/01 06:43

書紀は、用明元年五月の三輪君殺害の記載から翌二年四月二日まで記載がない。用明二年四月二日条は、磐余の河上で新嘗を行ったが、用明は、病気になり、直ぐに宮殿に帰った。そして、その後、中臣勝海が殺害されている。
新嘗は、一一月に行われるものであるが、なぜ、四月に行われたのであろう。
敏達は、用明が新嘗を行った二年前の八月一五日に死去している。穴穂部皇子は、皇位を狙っており、どうして死んだ者に仕え、自分に仕えないのだと隼人を敏達の殯宮の警備にあたらせている三輪君逆に大声で喚いている。
書紀は、穴穂部皇子は、敏達の死去とともに皇位を狙っているが、敏達が死去した翌九月五日に即位したのは用明である。そして、年が明けた用明元年一月一日に間人穴穂部皇女を皇后にしたと記載し、その四月後の五月に、三輪君逆殺害事件が起こっている。
用明二年四月に行われた新嘗は、用明元年一一月に行うべき新嘗を翌年四月に行ったと考えられる。用明元年一一月に行うべき新嘗、つまり、後の大嘗祭である。その新嘗が、行われるべき用明元年一一月に新嘗が行えなかった理由は何であろう。
書紀敏達条では、用明の立太子の記載はない。そして、用明は、用明元年一一月に行うべき新嘗を行えず、翌年四月になってやっと行っている。
穴穂部皇子は、用明元年五月、用明の住む池辺宮を囲んでいるが、用明には、見向きもせず、三輪君逆の殺害を遂行している。
客観的証拠は書かれていないが、書紀は、穴穂部が、敏達の殯宮を囲んだのは、炊屋姫(推古)を犯すためだとしている。
書紀によれば、敏達は、先帝の欽明条では、欽明一五(五五四)年一月七日に立太子の記事、敏達条では、欽明二九年に皇太子になった旨の記載がある。
また、穴穂部皇子は、どうして、敏達の子弟が沢山いるのに三輪君逆一人が、敏達殯宮の警備にあたっているのか、死んだ敏達に使え、生きている自分に仕えないのは、けしからんと不満を述べている。
敏達死去の時点では、次の皇位継承者は、決まってなかったのではないか。
用明即位前後の書紀の天皇即位の記載をみると、立太子の記載のない崇峻は、炊屋姫の推挙により即位している。また、欽明も立太子の記載がなく、安閑の皇后(山田皇后)の推挙により即位している。
敏達死去時には、皇太子が決まっていないとすれば、即位推挙の権限をもっていたのは、炊屋姫(推古)と考えられる。そして、敏達の死去時、敏達の皇后・炊屋姫(推古)は、敏達の殯宮におり、敏達の殯宮の警備にあたっていたのは、三輪君逆である。
推古は、三輪君逆に手中にあったといえる。そして、穴穂部皇子は、三輪君逆の手中にある即位推挙の権限をもっていた推古を奪回するため、三輪君逆を襲わせたのではないであろうか。

書紀によれば、三輪君逆は、敏達死去の直後から翌年の五月に殺害されるまで敏達の殯宮の警備にあたっている。そして、用明元年五月、皇位を狙っていた穴穂部皇子は、用明の住まいである池辺の宮を取り囲んだだけで、用明には、目もくれず、即位推挙の権限を持つ推古を手中に収めている三輪君逆の殺害に目を向けている。
三輪君逆殺害の時点では、皇位は空白であったのではないかと考えられる。
一方、用明は、敏達死去の翌月の九月五日に即位したと書紀は記載するが、用明は、三輪君逆が殺害された半年後の用明元年の一一月の時点でも、新嘗を行っていない。
そして、翌年四月に繰り越して新嘗を行っているものの新嘗を終えた途端に病を理由に宮中に引き上げている。病をおしての新嘗だったわけである。用明の体調が悪く、一一月に新嘗ができなかったのか、あるいは、この時点でも皇位は空白であったと考えられる。
書紀敏達条の一書では、三輪君逆は、守屋や中臣磐余連とともに寺塔を焼き、仏像を棄てたとされている。しかし、用明二年五月条本文では、守屋は、推古を手中に収めている三輪君逆を討っている。
守屋と三輪君逆の敏達の後の皇位継承者にふさわしいと思う意中の皇子は、異なっていたと考えられる。そして、馬子も三輪君逆の殺害自体については、黙認しているのであるから三輪君逆の意中の皇子と馬子の意中の皇子とも異なっていたのであろう。
しかし、書紀は、穴穂部皇子が、三輪君逆を殺害したため、馬子と推古は、穴穂部皇子を恨むようになったと記載する。三輪君逆殺害を黙認していた馬子の態度と矛盾する。
そして、用明二年四月二日には、三輪君逆を殺害した穴穂部皇子ではなく、用明が新嘗を行っており、同条では、皇太子・彦人皇子と記載している。
穴穂部皇子は、天皇はおろか皇太子にもなれなかったのである。三輪君逆を殺害したにもかかわらず、穴穂部皇子の意思は、まったく反映されていないのである。
そして、新嘗を終えた用明は、病気をおして、群臣の前で仏法に帰依しようと思うが、皆は、どう思うかと問うている。これは、いわば用明の所信表明である。この用明の所信表明に対し、馬子は、賛成し、守屋と中臣勝海は、反対し、勝海は、その直後に馬子の差金で殺害されている。
書紀は、敏達は、仏法を嫌い、文学や史学を好んだとするのに対し、用明は、仏法を信じ、神道を尊んだとする。しかし、用明の所信表明は、仏教一辺倒で、神道を尊んだとの記載は何処にもない。用明は、推古の兄であり、馬子の甥である。用明擁立は、馬子と馬子の姪の推古の意思であったと考えられる。ただし、病をおしての新嘗、そして、一週間後に死去しているのであるから、用明は、暫定政権的な色合いが濃い。
また、この日、穴穂部皇子が豊国法師を連れて用明のところに行くのを見て、守屋は、大いに怒ったと記載する。
この時点で、守屋は、穴穂部に好意を失っている。用明は、新嘗を行った一週間後の四月九日に死去し、その二月後の六月七日には、馬子は、推古を奉じ、穴穂部追討の詔を出させ、穴穂部皇子は、殺害される。
一方、用明二年四月二日時点では、押坂彦人皇子であったが、用明の後に即位したのは、崇峻である。

281 穴穂部皇子暗殺事件(4) pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/03/01 22:28

書紀用明二年四月二日条で、中臣勝海は、守屋を助けようと先帝・敏達と息長真手王の娘・広姫の子・押坂彦人皇子と敏達と推古の子・竹田皇子の人形を作り呪いをかけたと記載する。
換言すれば、勝海は、皇太子・押坂彦人皇子及び推古の子・竹田皇子に呪いをかけ、亡き者にすることが、守屋を助けることになると考えているのである。
用明は、病をおして新嘗を行い、その一週間後に死去している。四月二日の時点で用明は、いわば瀕死の状態であったのである。そして、この時点の皇太子は、押坂彦人皇子である。
そして、勝海は、押坂彦人の人形を作り呪いをかけている。つまり、勝海は、押坂彦人皇子が、天皇になれば、守屋に害が及ぶと考えているのである。押坂彦人皇子の報復を恐れているのである。
押坂彦人皇子が、守屋に報復する理由は、直接的には、見当たらない。守屋を恨んでいるとすれば、書紀本文で守屋に殺された三輪君逆である。三輪君逆は、先帝・敏達の寵臣であった。そして、押坂彦人皇子は、先帝・敏達と息長真手王の娘・広姫の子である。
三輪君逆の意中の皇子は、押坂彦人皇子であったのではないか。後盾を奪われた押坂彦人皇子は、守屋を恨むようになったと考えられる。
書紀本文は、馬子は、穴穂部皇子が三輪君逆に直接手を下すのを阻止するために手を尽くしている。
書紀敏達条一書では、三輪君逆は、守屋とともに寺塔を焼き、仏像を棄てたと記載される。一方、三輪君逆殺害時点では、守屋は、穴穂部皇子と行動をともにしている。
穴穂部皇子が直接三輪君逆に直接手を下せば、押坂彦人皇子と穴穂部皇子の直接抗争に発展する可能性がある。
穴穂部皇子、押坂彦人皇子のいずれが勝っても、その政策は、排仏であろう。積極的に崇仏を表明してきた馬子にとっては、押坂彦人皇子と穴穂部皇子の直接抗争は、どうしても避けたい事項であったと考えられる。
勝海は、押坂彦人皇子の人形を作り呪いをかけているのであるから押坂彦人皇子を亡き者にしようと考えていたわけである。しかし、それでは、事が遂げられないと思い、押坂彦人皇子のところに出向いた。勝海は、押坂彦人皇子を亡き者にしても、事が遂げられない、つまり、守屋を助けるという目的が達成できないと思い押坂彦人皇子のところに出向いたのである。そして、この時点では、守屋は、穴穂部皇子に対する好意は失せている。
勝海が、押坂彦人皇子のところに出向いた目的は、押坂彦人皇子に三輪君逆を殺害したことを詫び、さらには、押坂彦人皇子に協力する旨を申し入れることではなかった。
そして、勝海は、押坂彦人皇子の屋敷から出たところで迹見梼に殺害されている。
馬子が、勝海殺害だけを目的としていたなら、押坂彦人皇子の屋敷に着く前に迹見梼に勝海を殺害させてもよいはずである。

推古を手中に収めていた三輪君逆の意中の皇子は、押坂彦人皇子であったと思われる。そして、馬子は、押坂彦人皇子が皇位につくことを望んでいない。
守屋が押坂彦人皇子に協力すれば、馬子の立場は危うくなるであろう。しかし、自ら押坂彦人皇子に手を下せば、皇太子殺害の犯人ということになる。それでは、守屋に馬子討伐の絶好の口実を与えることになる。
勝海が、押坂彦人皇子の屋敷を出たところで殺害したのは、馬子が、迹見梼に事の成り行きを見た上で殺害するように命じてあったからだと思われる。
つまり、勝海と押坂彦人皇子の話し合いが、決裂し、勝海が激情し、押坂彦人皇子を殺害すれば、願ってもないことである。また、その逆でも勝海殺害の目的は達成できる。
ところが、書紀の記載からは、何事もなかったようである。おそらく話し合いは、合意に達したのであろう。

守屋は、押坂部史毛屎の進言により河内に退いている。一方、押坂彦人皇子の水派宮があるのは、大和国広瀬郡城戸郷、現在の北葛城郡広陵町大塚である。押坂彦人皇子と勝海の話し合いの内容が、守屋に伝えられれば、馬子は、挟み撃ちにあう。馬子にとっては、どうしても避けたい事態である。いまや馬子の選択は、勝海殺害以外にない。
勝海殺害により、おそらく、押坂彦人皇子と勝海の話し合いの内容は、直ぐには守屋に伝わらなかったのであろう。守屋は、わざわざ、河内に退いた理由を馬子に告げている。そして、馬子は、窮地を脱し、大伴毘羅夫に身辺の警護を依頼している。一方、守屋は千載一遇の機会を逃がしたのである。
一週間後の四月九日に用明は亡くなる。その一月後の五月、守屋の軍勢は三度も騒ぎを起こした。このときには、既に馬子の体制は整っていたのであろう。
そして、例の『及至於今、望因遊猟、而謀替立、密使人於穴穂部皇子』の記載である。
用明が亡くなる一週間前の四月二日の時点で、守屋の穴穂部皇子への好意は失せている。そして、勝海の計らいにより、押坂彦人皇子との蟠りも消えている。
『及至於今、望因遊猟、而謀替立、密使人於穴穂部皇子』を押坂彦人皇子に替え、穴穂部皇子を天皇にしようとしたと読むべき理由は乏しい。
守屋は、最初は、他の皇子ではなく、穴穂部皇子を天皇にしようとした。それゆえ、三輪君逆殺害に協力したのであろう。三輪君逆は、殺害したものの、結果的には、用明が擁立され、押坂彦人皇子からも反発を買う事になった。そして、その危機に直前には、豊国法師を連れ、用明の下を訪ね、反感を買い、守屋救援の動きはしていない。また、守屋の軍が騒ぎを起こした一月後の六月七日、馬子は、推古を奉じ、穴穂部皇子追討の命を受け、穴穂部皇子を殺害しているが、守屋が異を唱えた節もない。守屋は黙認したのであろう。
『及至於今、望因遊猟、而謀替立、密使人於穴穂部皇子』の記載は、守屋は、穴穂部皇子を天皇にしようとするのを辞め、謀を企んだが、発覚したと読むべきであろう。
そして、穴穂部皇子殺害の一月後の七月、馬子は、諸皇子と群臣との合意をとり付け、遂に守屋追討の軍を上げる。守屋追討の軍に従った皇子には、穴穂部皇子の同父母弟・泊瀬部皇子、推古の息子の竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)、敏達と春日臣仲君(カスガノオミナカツキミ)の娘・老女子夫人(オミナゴノオホトジ)の子・難波皇子、その同父母弟の春日皇子である。
用明の死後、間人穴穂部皇女を娶り、佐富皇女をもうけたという厩戸皇子の異母兄・田目皇子(古事記の表記は、多米王)の名は、馬子の軍勢の中は、もとより、守屋の軍勢の中にも見えない。
田目皇子については、混乱を避け、既に間人穴穂部皇女とともに丹後の間人村に逃れていたと考えられる。
また、皇太子・押坂彦人皇子の名も見えない。押坂彦人皇子は、異母妹・糠手姫皇女(アタテノヒメミコ)との間に、後に舒明となる田村皇子をもうけている。田村皇子は、舒明一三(六四一)年一〇月に亡くなっている。『本朝皇胤紹雲録』及び『一代要記』によれば、舒明(田村皇子)は、四九歳で亡くなったとする。『本朝皇胤紹雲録』及び『一代要記』に従えば、崇峻五(五九二)年に産まれたことになる。つまり、『本朝皇胤紹雲録』及び『一代要記』に従えば、馬子と守屋の抗争があった時点では、押坂彦人皇子は、生存している。では、押坂彦人皇子は、守屋と馬子の抗争のとき、何処で何をしていたのであろうか。

書紀は、馬子が、守屋追討の軍を起こしたとき、守屋の軍勢は強く、馬子軍は、恐れをなして三度も退却したと記載し、厩戸皇子に「守屋の軍に負けるかもしれない」と言わしめている。
にもかかわらず、この戦を仕掛けたのは、馬子である。
馬子が諸皇子と群臣の合意をとりつけ、守屋追討の軍を起こす二月前の五月、守屋の軍勢は、三度も騒ぎを起こしたと書紀は記載する。五月の時点では、守屋が、積極的に戦を仕掛けている。
敏達の死去以来、守屋と馬子は、反目している。守屋と馬子の抗争は、誰を天皇にするかの抗争である。
五月の時点では、守屋は、積極的に抗争を仕掛けているのであるから、守屋の意中には、天皇にしたい皇子がいたわけである。守屋は、穴穂部皇子を狩にかこつけて殺害しようとしているから意中の皇子は、穴穂部皇子ではない。
この一月後の六月七日に、馬子は、炊屋姫(推古)を奉じ穴穂部皇子及び宅部皇子(ヤカベオウジ)殺害の詔を受け、同日、穴穂部皇子の屋敷を囲み穴穂部皇子を殺害し、翌八日、宅部皇子を殺害している。宅部皇子殺害の理由については、『善穴穂部皇子。故誅』、つまり、穴穂部と善かった故、誅したと記載する。『善』は、「うるわし」と訓み、間柄が整っているという意である。また、穴穂部皇子は、七日の夜中に屋敷を囲まれ、肩を射られ楼の下に落ち、部屋に逃げ込んだが、探し出されて、その日のうちに殺されたと記載するが、宅部皇子については、翌八日に殺され田と記載するだけで、詳細な殺害状況は記載されていない。
穴穂部皇子については、守屋自身も殺害を試みているから守屋も穴穂部皇子殺害については暗黙の了解をしていたのであろう。しかし、宅部皇子については、殺害理由に疑問があり、また、殺害状況も秘してある。また、守屋との関係も不明であり、守屋が了承していたか否かはわからないが、結果的に、この一月後、馬子は諸皇子の同意をとりつけ守屋追討軍を上げているのであるから宅部皇子であった可能性は高い。

283 穴穂部皇子暗殺事件(5) pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/03/02 02:41

書紀崇峻条は、宅部皇子について、宣化の皇子で、上女王(カミツヒメノオオキミ)の父であるが、詳しいことは解らないと記す。
書紀は、宣化の子に石姫(イシヒメ)、小石姫(コイシヒメ)、倉稚綾姫(クラノワカヤヒメ)、上殖葉皇子(カミツウエハノミコ)、別名・椀子(マロコ)及び火焔皇子(ホノオノミコ)の名を記し(記も表記は異なるが、二男三女を記載する。)、上殖葉皇子を丹比公(タジヒノキミ)及び偉那公(イナノキミ)の祖と、火焔皇子を椎田君の祖とする。
上殖葉皇子は、丹比公等の祖と、火焔皇子は、椎田君の祖とされるのであるから、当然、子がいたわけである。宅部皇子は、上女王の父である。上殖葉皇子の子についての記載はないが、上殖葉皇子と上女王は、関係があるように思える。
また、古事記は、宣化の娘・小石比売(小石姫)と欽明の子に上王(性別不明)を記載する。この小石姫の同母姉・石姫と欽明の子が、押坂彦人皇子の父・敏達である。
書紀は、上殖葉皇子の別名を椀子(マロコ)と記載する。そして、押坂彦人皇子の別名も麻呂子皇子(古事記の表記は、麻呂古王)である。
宣化の血を引く二人の麻呂子・椀子、一人は、書紀用明条で皇太子と記載される押坂彦人皇子、もう一人は、宣化の子・宅部皇子である。押坂彦人皇子は、書紀用明条で皇太子と記載されながら、馬子軍の守屋軍討伐時には、行方不明であり、その後の消息も不明である。
丹後半島の先端・丹後町に鎮座する竹野神社(祭神;天照皇大神.相殿:竹野媛命・日子坐王命・建豊波豆良和気命)が所蔵する「斉明神縁起」は、麻呂子親王が丹後に来たという伝承を伝える。
麻呂子と呼ばれた皇子は、押坂彦人皇子及び上殖葉皇子のほかにもいた。『本朝皇胤紹雲録』等によれば、押坂彦人皇子の子・田村皇子は、馬子と守屋の抗争の五年後に生まれているから押坂彦人皇子は、馬子と守屋の抗争のときには生存している。にもかかわらず、馬子と守屋の抗争時の押坂彦人皇子の消息は、不明である。押坂彦人皇子は、丹後に逃れていたのではないか。そして、「斉明神縁起」の麻呂子親王伝承が生まれたのではないか。

上宮記は、宣化の父・継体を本牟津別王の五世孫と記載する。丹後は、本牟津別王ゆかりの地である。麻呂子と丹後は、麻呂子と呼ばれた宣化の血を引く押坂彦人皇子で結ばれる。押坂彦人皇子は、本牟津別王ゆかりの地・丹後に逃れたと考えられる。
では、間人穴穂部皇女と丹後はどのように関係するのであろう。
間人穴穂部皇女の同母弟・穴穂部皇子と宅部皇子の関係について、書紀は、『善穴穂部皇子』=穴穂部皇子と宅部皇子は、間柄が整っていると記載する。間柄が整っているとは、血筋が近いことを意味するのではないか。穴穂部皇子の母は、大堅石姫(小姉君)である。
一方、宅部皇子は、宣化の子とされる。書紀は、宣化の娘に石姫及び小石姫の同母姉妹の名を記す。大堅石姫と石姫及び小石姫、大堅石姫も宣化ゆかりの姫ではないか。
『丹哥府志』によれば、穴穂部皇子の同母姉・間人穴穂部皇女は、馬子と守屋の抗争を避け丹後にの間人村に逃れた旨を記載する。
間人穴穂部皇女の母・大堅石も宣化ゆかりの姫と考えれば、間人穴穂部皇女も先祖のゆかりの地に逃れてきたことになる。
竹野神社が鎮座する丹後町は、間人村の東隣である。隣接する二つの町村に残る二つの伝承を結ぶ線は、宣化ということになる。
大堅石が宣化ゆかりの姫ということになれば、穴穂部皇子及び宅部皇子の殺害は、宣化ゆかりの皇子の抹殺ということである。
また、大堅石姫が宣化ゆかりの姫ということになれば、大堅石は、まったく蘇我の血を引いていないことになる。
欽明の後に皇位に就いた敏達は、宣化の皇子である。つぎの用明は、馬子と推古に擁立されたものの、新嘗を行った後一週間で亡くなっている。そして、用明の後に皇位に就いたのは、穴穂部皇子の同父母弟・泊瀬部皇子(崇峻)である。
用明死去の時点では、宣化の血を引くことが、皇位継承の条件であったのではなかろうか。故に押坂彦人皇子は、皇太子とされていたのではないか。
とすれば、馬子は、自陣に泊瀬部皇子を取り込んだ後、穴穂部皇子及び宅部皇子の殺害に乗り出したと考えられる。
泊瀬部皇子(崇峻)は、推古の推挙により即位したものの政策決定はおろか、所信表明さえも行っていない。
穴穂部皇子、宅部皇子及び守屋を殺害したことにより、もはや宣化の血は、それほど重要ではなくなったのであろう。それより先、宣化の血を引く敏達の寵臣・三輪君逆を自らの手を染めず、亡き者にし、守屋の盟友・中臣勝海も殺害している。
そして、崇峻五年一一月三日、利用価値のなくなった崇峻を殺害している。その二日後、「国内が混乱してるからといって外事を怠るでない」と早馬を筑紫に遣わしている。
地方では、いまだ宣化の血の重要性が残っていたのであろう。

284 東漢直駒 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/03/02 10:32

『丹哥府志』によれば、物部守屋の反逆により太子の母・間人穴穂部皇后が、竹野郡の日崎近くの大浜里(現間人村)に逃げたとき、太子の母・間人穴穂部皇后に従った中に東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)がいた旨を記載する。
東漢直駒、書紀崇峻五年条に一一月三日に蘇我馬子は、東漢直駒を使って、崇峻を弑したと記載する。
また、書紀は、同月、駒は、馬子によって殺されたと記載するが、馬子が駒を殺害した理由を蘇我嬪河上娘(ソガノミメカワカミノイラツメ)を奪って、妻とし、汚したことが発覚したからだとしている。
書紀の原注では、蘇我嬪河上娘を馬子の娘としている。
書紀の注釈書では、この蘇我嬪河上娘を崇峻の嬪ではないかとする(通説)。しかし、崇峻の妃の一人であれば、崇峻の妃に誰がいたかを説明する条で記載されるはずであり、馬子の娘が入内すれば、書紀崇峻元年三月に妃に立てられた大伴糠手連の娘・小手妃よりも重要なはずだから、書き落とすはずがない。
豊田有恒氏は、その著『聖徳太子の悲劇』で、鎌倉時代に編まれた「聖興鈔」の太子の三妃の一人に、河上の別嬪(蘇我馬子の娘)の記載があることから、蘇我嬪河上娘を聖徳太子の妃としている。
太子の三妃とは、橘大朗女(タチバナノオオイラツメ)、刀自古朗女(トジコノイラツメ)及び膳部菩岐々美朗女(カシワデノホキキミノイラツメ)をいう。
三妃のうちの刀自古朗女は、蘇我馬子の娘とされている。つまり、蘇我嬪河上娘=刀自古朗女とするわけである。
書紀は、東漢直駒が、馬子の娘=河上朗女を奪い妻にしたことを馬子が知り、馬子は、駒を殺害したとするが、馬子は、はじめは、娘が駒に奪われたのではなく、娘は、死んだと思っていたと記載する。
書紀崇峻条は、馬子が守屋を滅ぼしたとき「馬子の妻は、物部守屋の妹であり、馬子は、妻(守屋の妹)の謀を用いて、守屋を殺した」と人々がいっていたと記載する(皇極二年一〇月条でも入鹿(馬子の孫)の祖母は、守屋の妹と記載する)。
太子の妃であり、駒と失踪した刀自古は、馬子の娘である。そして、馬子の妻は、守屋の妹である。

皇極二(六四三)年一一月一日、馬子の孫・蘇我入鹿は、斑鳩(イカルガ)の山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)を襲わせている。山背大兄王は、太子と刀自古の間にできた皇子である。入鹿に襲われた山背大兄王は、生駒山に逃げている。
天孫本紀は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコホアカリクシダマニギハヤヒノミコト)が、河内の哮峯(イカルガノタケ)に天降り、長髄彦の妹・御炊屋姫を娶り、宇麻志麻治命を産んだと記載する。
河内の哮峯は、生駒山の北嶺をいい、宇麻志麻治命は、物部氏の祖である。山背大兄王は、宇麻志麻治命の父・饒速日命が、天降った哮峯のある物部氏ゆかりの生駒山に逃げている。そして、山背大兄王の母は、刀自古であり、刀自古の父・馬子の妻は、守屋の妹である。刀自古の母は、守屋の妹の可能性が高い。
馬子は、はじめは、刀自古が死んだものと思っていたが、駒に連れ去られたと知り、駒を殺害している。
そして、馬子が守屋を滅ぼしたとき人々は、「馬子は、妻(守屋の妹)の謀を用いて、守屋を殺した」いっている。
刀自古の母が守屋の妹であれば、刀自古は、守屋の姪である。そして、刀自古の母の謀を用いて馬子は、守屋を殺害している。
刀自古は、謀の真相を知っていたのではないか。死んだと思っていた生き証人ともいうべき刀自古が、生きており、駒に連れ去られたことを知り、馬子は、駒を殺害したのではないか。
書紀は、用明の没後の翌五月、物部守屋の軍勢が三度も騒ぎを起こしたとし、同七月に守屋は、馬子に敗れている。
『丹哥府志』は、この守屋の反乱により、間人穴穂部皇女は、丹波の間人村に逃れ、間人穴穂部皇女に従った中に東漢直駒がいたとする。
崇峻は、守屋の滅亡の翌月、即位し、駒は、崇峻五年に馬子により殺されている。殺された理由は、死んでいたと思っていた娘・刀自古が駒に連れ去ったからである。

書紀一書は、東漢直駒を東漢直磐井の子とする。しかし、東漢直の後族の坂上系図では、志努直―駒子直―弓束直―老連を載せ、別本では、駒子の父・志努直を丹波(丹後は、七一三年に丹波から別れる)で出生したとする。
坂上系図で駒子直の孫とされる老は、連を姓にしている。書紀天武一一(六八二)年五月一二日条は、東漢直らに連の姓を与えたと記載する。
崇峻が、殺害されたのが、崇峻五(五九二)年一一月であるから九〇年が経っている。東漢の後族・坂上系図の駒子直と東漢直駒は、同一人物と断定できないまでも同時代を生きていた可能性は高い。
駒と駒子が同一人物か否かはともかく、駒が丹後に逃げていたからこそ、『坂上系図』や『丹哥府志』の伝承が生まれたのではないか。
駒が、馬子と守屋の抗争を避け、刀自古を連れて逃げていたとしたら、そして、それから五年を経ても馬子は、刀自古が、駒に連れ去られたことを知らなかったとしたら、馬子は、混乱の中で行方不明となった刀自古は、死んだと思うであろう。
駒が、太子の妃・刀自古を連れて逃げた可能性が高い。書紀は、駒が刀自古を妻にしたとしている。しかし、駒は、太子の母・間人穴穂部皇女に従って丹後にきている。息子の妃を駒が妻にすることを間人穴穂部皇女が認めるであろうか。
駒が、刀自古のみならず、間人穴穂部皇女も一緒に連れ去って丹後とも考えられる。しかし、一緒に田目皇子も来ている。
母と妃は、丹後に逃げた。そこには、太子の姿はない。太子は、守屋と馬子の抗争において、馬子の軍に従っている。書紀は、太子は、馬子の軍の後ろの方にいたと記載する。また、太子は、この戦は負けるかもしれないと弱気な発言をしている。間人穴穂部皇女は、駒に太子の救出を命じたのではないか。しかし、既に太子は、馬子に囚われ、刀自古のみを連れ去ったのではないか。それゆえ、軍の後ろの方におり、弱気な発言をしたのではないかと考えられる。

太子の母と妃が、丹後に逃れた五年後、崇峻が殺害される。崇峻の殺害の現状について、書紀は、馬子は、「今日、東国から貢がくる」と群臣を偽り、駒を用いて、崇峻を弑したと記載する。
『東国の貢』は、大化元年六月一二日の『三韓の貢に事寄せて、中大兄皇子(天智)が、入鹿を殺した』乙巳のクーデターを連想させる。
しかし、崇峻暗殺の現状については、犯人を駒と断定するだけの証拠はない。駒は、守屋謀殺の真相を知る刀自古を連れ去っている。そんな駒が、わざわざ馬子に接近するであろうか。
馬子は、なんらかの理由で駒が連れ去ったことを知った。そして、駒が、守屋謀殺の動かぬ証拠を握っていることを知った。すでに刀自古は、死んでいたのかもしれない。秘密を握る駒さえ始末すれば、謀殺の真相は、永遠に秘密にすることが出きる。後は、『死人に口なし』である。ついでに、崇峻弑しの罪も駒に被せたのであろう。
そして、崇峻殺害後に皇位に就いたのは、宣化の血を引くも蘇我稲目を父とする堅石姫を母とする推古である。

285 流し雛 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/03/03 12:56

御主人、ピンクのトカゲさんお久しぶりです。

御主人、居酒屋さくらへの転載許可いただいてありがとうございます。うれしかったでーす!

もう、今日は3月3日のひな祭りですね。
3月3日の桃の節句は、古くから禊によって罪や穢を祓う習慣があって、そのときに祓えの道具として用いられた人形(ひとがた)がひな人形の起源といわれていますけど、平安の昔からあるといわれる雛流しに、人々はどんな穢れを払ってもらったのでしょうか?
水に流すべきでないことまでも水に流し、穢れでないものをも穢れとし、忘れるべきでないものを忘れてひとは生きてきたのでしょうか。
瀬織津姫は水に流してはいけないことを、そっと受け止め胸に秘めて今に至っているような気がします。

ピンクのトカゲさん
三河は暖かいところって伺っていますから、
桜の便りも早く聞けそうですね。
ここのところの「殺人事件」推理小説読むように、ワクワクどきどきしながら読んでいます。
毎日が、連載小説読んでいるようでとっても楽しみなんですよ。
あは!明日はどうなんでしょうか...♪♪

286 伊勢にまつられていた瀬織津姫 風琳堂主人 2002/03/16 04:57

 月山から、急ぎ働き(?)で遠野へ舞い戻り、終わったとおもった内職は、次の呼び水だったようです。
 さくらさん、雛祭りの男雛と女雛もまた祓いの思想が元で、どうもここにも瀬織津姫の影が濃厚です。
 節分、雛祭り、七夕と、要かなめの行事に瀬織津姫が隠れています。
 石見の山田さんから、伊勢神楽をおじいさんが舞っていたという血筋をもつ西野儀一郎さんという方が20年ほど前に書いた「伊勢神宮創祀考──荒祭宮と瀬織津姫」という資料をいただきました。
 この資料は、たぶん『古代日本と伊勢神宮』(新人物往来社)の中の一節かとおもいますが、ここに、現在は消されてしまっていますが、伊勢神宮の摂社・末社のなかに、確実に瀬織津姫を祭神と明記していた社が三社あったことが記されていますのでご紹介しておきます(西野さんが典拠としていたのは、荒木田経雅著『皇太神宮儀式帳解文』。なお、荒木田経雅は、本居宣長に伊勢の神談議をしていた人物でもあります)。

■瀬織津姫をまつる伊勢神宮摂社(度会郡玉城町)
@蚊野[かの]神社(蚊野村)
 大神御蔭[みあれ]川神。またの名は瀬織津姫という。
A田之家[たのや]神社(矢野村)
 大神御滄[みあれ]川神。またの名は瀬織津姫。
B御船[みふね]神社(多気町土羽村)
 御蔭神。またの名は瀬織津姫。

 これらの社は外城田[ときた]川流域に集中しています。また、この川は、土地の人からは「はいこさん」と親しみをもって呼ばれ、川名の古名としては、速川、布留川(古川)、寒川、惣郷川、久留川の名が挙げられています。
 ここで興味深いのは、外城田川の古名に「速川」とあること、および、この川の流域に、速川比古命・速川比当スを祭神とする「佐田国生神社」があることです。
「佐田国生」は「さたくなり」と読ませているようです。サタクナリ──そうです。著者の西野さんもふれておられますように、サタクナリ──サクナダリの可能性が高いです。
 大祓祝詞=中臣祓の一節「高山の末、短山の末より佐久那太理に落ちたぎつ、速川の瀬に坐します、瀬織津姫という神……」。この大祓祝詞の文言とあまりに近似の様相をうかがわせてくれる伊勢の舞台が、この外城田川=速川です。土地の人が、この川を「はいこさん」と呼んでいるのも、ハヤカワ→ハイカワ→ハイコか、あるいは祓い子さんの意を含む呼称と考えてよさそうです。
 また、近江国風土記逸文にも、「八張口[やはりぐち]の神の社。すなわち伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌んで祭っているのは瀬織津比唐ナある」とありました。
 どうやら、「伊勢の佐久那太李の神」は、「速川比古命」となりそうです。もちろん、この神名は、速川比当スの名とともに正確ではありませんが、瀬織津姫が、大祓祝詞によって「速川」の神とされていますから、速川比当ス=瀬織津姫という等号が成立します。
 なお、これらの瀬織津姫をまつる伊勢の三摂社に共通して表記されていた、瀬織津姫の別名「御蔭[みあれ](川)神」ですが、このミアレ神と縁ある神社に、京都・下鴨神社=賀茂御祖神社の奥宮とされる、その名も御蔭神社があります。同社の祭神は下鴨神の「荒魂」とされ、年に一度の本社=下鴨神社の神への神幸=逢瀬(本社の「和魂」と「合体・再生」する)を「御生[みあれ]神事」と呼んでいます。
 宇治川の八張口=桜谷=サクナダリの神である瀬織津姫が、伊勢の地にもまつられていたことを隠した者がいるわけですが、天智時代にすでに、伊勢と近江の地が濃厚にリンクしていたことが考えられます。
 トカゲさん、出自のアヤシイのは天武天皇ではなく、むしろ天智天皇だという話──ぜひ、展開してください。

(追伸)
急ぎ働きの間隙を縫うようなご無沙汰の夜話です。小学校の漢字ドリルに加え、中学生向けの文法書の内職です。今しばらく、遠野籠りがつづきます。動けないときは文献にあたるしかなさそうです。瀧=瀬織津姫めぐりは、ちょっとお預けです。

287 桜の名所に”弁天伝説” pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/03/16 20:25

今日の中日新聞の三河版(23面)に連載されている「あいちの散歩道」のタイトルは「桜の名所に”弁天伝説”」でした。
記者(生田貴士氏)に意識があったか否かは、知りませんが、この掲示板でも何度か取り上げた『桜とセオリツヒメ』関連の話です。
同記事を要約引用しながら『桜とセオリツヒメ』を考えてみます。

豊田市北部の平戸橋一帯は、巨岩、奇岩を縫って流れる渓谷。桜の名所として知られる。
平戸橋町の越戸公園から平戸橋を目指し上流へ。橋は目の前。たもとに大きな岩盤の露出がある。表面には白い線のような模様が一本。「雨続きの日、弁天様が上流から流され、川波で岩に打ち上げられた」という。『波岩(はいわ)の弁天さん』伝説の岩盤だ。
白い線は、ぬれた帯を引きずった跡だそうな。近くには、その弁天さんをまつったという胸形(むなかた)神社。・・・・

平戸橋は、矢作川の中流に架かります。同じように豊川中流の新城の桜淵も桜の名勝であり、笠岩(→瘡岩)や蜂の巣岩の奇岩がある。そして、桜淵の上流に架かる橋は、弁天橋。傍らに弁天堂が祀られている。
縄文の水の女神・セオリツヒメは、しばしば弁天様として祀られていることは、既に、この掲示板では、常識。
また、平戸橋付近に鎮座する胸形神社は、宗像三女神を祭神とし、その中の市杵島姫は、神仏習合により弁財天とされ、セオリツヒメの祖神の一つとされます。
一方、桜は鎮魂の樹。これもこの掲示板では常識。
今朝の中日新聞の記事、桜とセオリツヒメのタダならぬ関係を証明するものです。

288 岩と桜に象徴される神 風琳堂主人 2002/03/17 13:28

 生田貴士さんの記事「桜の名所に弁天伝説"」の紹介をありがとうございました。
 この記事で興味深いのは、旧三河国の中心の川=「賀茂の御河」=矢作[やはぎ]川に胸形神社がまつられていることです。しかも、宗像ではなく胸形と古名を社名に残していることも興味深いです。
 宗像神(の一神=女神)は、当然ながら海→河口からさかのぼったものとおもいます。ところが、記事の伝承では、胸形神社の祭神=弁天さんのまつられかたの由来を「雨続きの日、弁天様が上流から流され、川波で岩に打ち上げられた」としています。
「上流から」弁天さんはやってきたという伝承は、これ自体、下流からさかのぼったはずの宗像神に、弁天があとから(上から)かぶったことを伝えています。
 まさに「上から」なのでしょう。
 ところで、矢作川の岡崎を中心とした中流域は、瀬織津姫が天白神の名でもっとも集中してまつられているところです。東の天竜川も天白神の川ですが、この矢作川の平戸橋のさらに上流部の足助[あすけ]町にも、瀬織津姫が天白神の名で二社にまつられています。
 矢作川は瀬織津姫を川神=水神としていることは明白で、そこに胸形神社の弁天さんと「桜」です。
 持統天皇の三河行(702年)のとき、彼女は、この矢作川流域の物部氏ゆかりの山に桜を植えています(岡崎市・村積山[別名=三河富士])。
 桜と弁天さんが関係があるとするなら、これはもうひとつ媒介を立てないと、この関係の必然が見えてこないようです。
 伊勢の元神の伊雑[いざわorいさわorいぞう]神ですが、伊雑宮の元宮が鳥羽市の海辺にあります。たしか伊佐波神社といいます。地元の人は「かぶらこさん」と呼んでいますが、ここの現在の祭神は宗像の三女神で、宗像神が伊勢の元神と同神の可能性をうかがわせています。そして、伊勢の元神の一神が荒祭神=瀬織津姫でもあります。
 矢作川の川神として瀬織津姫がはっきりしていますし、また、伊勢の元神に宗像神が表示されているわけですから、「桜の名所」にある胸形神社の弁天さんがどんな神にかぶったものかは自ずと想像がつくというものです。
 ここで、伊勢と桜の関係について、筑紫申真『神々のふるさと』(秀英出版:1970年刊)が少し言及していますので、参考までに、引用しておきます。

 水神(常世神=天つカミ)と穀霊[コーンスピリット]と、その司祭者である巫女[みこ]は、この(伊勢の)村里が機能別に分けてまつった三つのカミである。だいたい伊勢神宮祭祀集団の村里では、こういう風に、もともとは一つのカミを三つ以上のカミに分けてまつるのが常道になっている。
 稲の実の豊熟を祈るために桜の木を神格化してまつることは、皇大神宮の社域でもやっていた。散りやすい桜の花に、できるだけ長く咲いてもらいたいと願って桜をまつるのである。花が早く散る年は稲の交配期が短く、収穫が少ないと信じられたためである。浅熊神社では、小川を隔てて桜樹と岩とが向かいあっていた。散り急ぐ桜(木の花)と永久不変の岩とを対比する実感が、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの神話の一こまを生み出したのであろう。それは古代人にとっては切実な観想であった。

 宗像の女神が三神化されるのは伊勢神宮の祭祀形態が現在のように固定される持統時代以後のことですから、ここで述べられているような、一つの神を三神(以上)に分けてまつることが「常道」だったとはおもえません。また、桜に、神の魂鎮めの意があることを捨象して、桜を稲の収穫占いの道具に見立てていることもどうかなという気がします。しかし、ここに書かれている事実は、これだけでもまた興味深いものです。
 まず、荒祭宮の元を破壊してできた「皇大神宮の社域」において、桜の木が「神格化」されてまつられていたこと、です。
 それと、内宮の奥宮とされる朝熊神社の祭神のひとつに苔虫神=イワナガヒメの名がありますが、朝熊神社においては、「桜樹と岩とが向かいあっていた」らしいのです。
 わたしたちの「常道」では、岩はイワナガヒメではなく、むしろアラハバキ神(原初の太陽神=男性神)です。その岩と「向かいあ」うのが、朝熊神社においては桜樹だとあります。この原初の太陽神に向き合う=対[つい]となるのは水神のはずで、事実、朝熊神社の現在の祭祀形態においても、朝熊水神と大歳神が対のかたちでまつられています。この水神が伊勢においては、荒祭宮および伊雑宮の破壊(一方の宮の撤去)とともに、その名を伊勢の地で抹消された瀬織津姫です。
 こういった、伊勢祭祀の背景をもとにみますと、三河・矢作川の弁天さんと桜の関係伝承は、持統の桜植樹の伝承とともに、瀬織津姫の咲き立つ匂いがしてくるようです。
 このことは、また、その名を消された賀茂=鴨の大神とはなにかを暗示しています。
 記事は、「桜の名所」の平戸橋付近は「巨岩、奇岩」がある渓谷だと述べています。岩と桜──ここにも朝熊神社における岩と桜の関係がそのまま投影しているもののようです。
 瀬織津姫は、瀬田川=宇治川の桜谷という渓谷の瀧神でもありますが、下鴨神社ゆかりの鴨長明は「方丈記」で、この宇治川の桜谷の地の近くで桜狩りをした話を書いています。

粟津の原を分けつゝ、蝉歌の翁が跡をとぶらひ、田上河(宇治川上流の支流)を渡りて、猿丸大夫が墓をたづぬ。帰るさには、折につけつゝ、桜を狩り……

 宇治川・桜谷の地は、鎌倉時代、その名のとおり、すでに「桜」の谷=渓谷だったようです。この桜谷=サクラダニ=サクナダリの地で、天智天皇の指示によって、瀬織津姫は瀧神=水神の性格を元に大祓いの神として、伊勢の水神から離剥(これは主人の造語)されたわけです。

289 伊勢の瀬織津姫(U) 風琳堂主人 2002/03/26 13:49

 西野儀一郎さんの『古代日本と伊勢神宮』(新人物往来社:1976年刊)──古書ですがみつかりました。遠野という山中にいて、こういった資料を入手できるというのもインターネットの賜物でしょうか。
 同書のなかの「荒祭宮と瀬織津姫」の節については286の夜話でふれましたが、本の全体あるいは主旨が瀬織津姫をどうとらえているかが気になっていましたので急ぎ読みをしたところです。
 西野さんはこの著で、ご自身の方法を「地名考古学」という名で呼んでいます。具体的には、中島利一郎『地名学研究』や金達寿『日本の中の朝鮮文化』に啓発されて、伊勢の地名と神社名を(古)朝鮮語で読み解こうとしたものです。また、上田正昭さんの一言「伊勢の地方神を洗いなさい」に触発されたこともあとがきなどでふれています。
 伊勢の地名と神名を朝鮮語で読み解くことは、それ自体はひとつの可能性ですから、ここではその価値の絶対性についてはふれません。
「伊勢の地方神」として瀬織津姫などが列挙されていくわけですが、西野さんの本書での瀬織津姫認識は、中島利一郎さんの認識(ソウル[都京]の姫=瀬織津姫)を越えるものではなく、また、「倭姫命世記」などが記す、「天照大神の別名」としての瀬織津姫という「発見」以上の記述がされているわけではないことは、次の文面からも伝わってきます。

 次の(「倭姫命世記」の)条文がおもしろいのである。「一名、瀬織津比盗_、是也」として、天照大神の別名をば「瀬織津比刀vとしていることである。その正体は何か。「比刀vは「姫」で女神である。
 また『御鎮座次第記』をみよう。荒祭一座として「天照大日■[雨かんむりに口3つ、下に女]貴荒魂[あまてらすおおひるめのあらたまの]、御蔭形鏡坐[みかげはかがみである] 伊邪諾尊洗左眼[いざなぎのみことがひだりのめをあらって] 因以生[うまれた] 号曰[なづけて] 天照荒魂[あまてらすのあらたま] 亦名瀬織津比盗_也[またのなはせおりつひめのかみである]。」として、こうもはっきりと天照大神の別名は瀬織津姫神であるとしているのである。

 瀬織津姫は、「天照大神の別名」ではないということについては、『エミシの国の女神』でふれてありますのでくりかえしませんけど、ただ西野さんのこの別名説、つまり異名同神説は、この本のなかでも疑われるきっかけがありました。それは、巻末近くですが、次のような記述があるからです。

『御鎮座次第記』『大同本紀』には「天照大神の別名を荒魂という」ことをしるしている。この「荒」の神は朝鮮語「ス」「ソ」で、「雄」の訓なのである。どうも男神であるらしい。

 天照大神の「荒魂」としての瀬織津姫について、西野さんは最初、次のような認識を書いていました。

その(天照大神の別名としての瀬織津比唐フ)正体は何か。「比刀vは「姫」で女神である。

 巻末で、西野さんご自身の朝鮮語による解読によって、荒魂は「どうも男神であるらしい」と、真反対の認識を書きつけています。著者は、この女神→男神という転位、変換の奇妙さに自ら気づく必要があったはずです。ここから、瀬織津姫の「正体は何か」という問いがほんとうははじまるものとおもいますが、本書はここで閉じられてしまいます。
 本書は、この謎の女神を明かそうとした先駆的な論考ですが、瀬織津姫明かしの困難な現在(四半世紀前の)を告げてもいました。
 ただ、本書は、伊勢内宮の神官であった荒木田経雅『大神宮儀式帳解文』による、伊勢の瀬織津姫祭祀の三摂社(蚊野神社・田之家神社・御船神社)の存在を教えてくれました。江戸時代末期の伊勢内宮の神官であった荒木田氏自身が瀬織津姫をまつる社の事実を明かしていることは貴重です。
 また、この『解文』は、上記三社のほかに、内宮の滝祭神社の祭神も、瀬織津姫(または大神御蔭川神)であったことが内宮のなかで伝承されていたことをも明かしています。
 この滝祭神は、伊雑宮の奥宮ともいうべき天の岩戸の鍾乳洞の滝神=弥都波女神と同神であり、この神の名こそ瀬織津姫である可能性については、これも女神の本でふれているところです。この瀬織津姫説を裏付けるような荒木田神官の「証言」──これもまた貴重なものです。
 滝祭神については、話を改めます。

290 本邦初のセオリツヒメの画像です。 pin☆(^。-)ノ蜥蜴 2002/03/31 17:45

月うさぎさんのサイトで20000番ゲットしました。
月うさぎさんのサイトは、神話と古代の神様と人物のイラストのサイトです。
キリ番ゲットでリクエストできるんです。
それで、瀧を背景に、鎮魂の樹・サクラとセオリツヒメをリクエストしました。
本邦初のセオリツヒメの画像、
月うさぎさんとこにアップされています。
とくとご覧ください。
月うさぎさんのサイト・月色庭園のURLは
http://homepage1.nifty.com/dragon-heart/
です。
うさぎちゃん有難う。

291 滝と桜に秘められた女神 風琳堂主人 2002/04/04 15:36

 滝神=瀬織津姫が桜と合体したような「滝桜」という古桜が福島県三春町にあります。話が遠野物語にも飛んだりしていますが、以下は、今もっとも元気な掲示板をもつ、サクラさんの「瀬織津姫──居酒屋さくら」に書き込んだものです。瀬織津姫の「最新の話題」でもありますので、ここに再録させてもらうことにしました。その他の刺激的な話題も満載ですので、関心のある方は当HP「瀬織津姫の部屋」からぜひワープして楽しんでください。

■滝と桜に秘められた女神■

 サクラさん、marさん、サムトのババロアが話題になっていてビックリです。
 いいかげんな舌の記憶でまちがっていたらごめんなさいですが、このサムトのババロアは、たしかチョコレート風味のゴマババロアみたいな味です(だったとおもいます)。道の駅「遠野風の丘」のレストランのサラダバーで食べられます。
 息抜きで居酒屋さくらの暖簾をくぐると、もう無茶苦茶なスピードで話題が展開していて、画面で読むのはシンドイということでプリントアウトして読んでいます。
 遊観さんの宗像寄港の沖ノ島旅行記は得がたい話が満載で、トカゲさんの3分クッキングは、彼にこんな裏芸もあるのかとこれもびっくりです。それに、月うさぎさんの瀬織津姫像もなかなかで、これはトカゲ好みのベッピンさんで、いよいよこれでトカゲさんの婚期は遠のくなと余計なことをおもったりしています。今、もっとも元気な居酒屋掲示板が「さくら」ですね。
 慣れない内職──中学国文法の解説・編集なんか安請け合いで引き受けてしまって、毎日毎夜ストレスの時間で、あかねさんといい勝負の夜更かし続き、同じく息抜きでイッパイいただきにきました。そして、アレッという展開です。
 サムトのババロアについては、今度、製作者にもう少し確かなことを聞いておきます。
 ところで、桜の季節は遠野はまだなのですが(遠野も早まってはいますが、咲きは今月中〜下旬らしいです。今、瀬織津姫の滝「又一の滝」の山桜で静かに花見をしようかという話があります。都会にはない花見でしょう?)、日本の三大桜の一つといわれている桜に、樹齢1000年以上と推定されている福島県の「三春滝桜」があります(あとの二つは岐阜県根尾村の薄墨桜と山梨県武川村[実相寺]の神代桜)。
 そうです、滝と桜がセットになっているのです。正確な場所は「福島県田村郡三春町大字滝字桜久保」です。住所名からして瀬織津姫の匂いプンプンです。おまけに、ここには、瀬織津姫ゆかりの「桜谷」の地名もあり、これは見過ごすことはできないではありませんか。
 というわけで、この三春滝桜のことについて質問を受け付けるHPがありましたので、下記のような「お尋ね」をしてしまいました。

■公開メール
岩手県遠野市で本をつくる仕事をしています風琳堂の○○(風琳堂主人の本名が入る)といいます。
当地=遠野を1000年以上にわたって見守りつづけてきた女神(瀬織津姫=せおりつひめ、といいます)を調べているのですが、この女神を調べていきますと、御地とも縁深い坂上田村麻呂との関係も見えてまいります(福島県で確認できるのは、広野町と楢葉町の大滝神社や只見町の滝神社、田島町の滝口神社の祭神として瀬織津姫の名があります)。また、この女神は、上記神社名からもわかりますように、滝=水の最高神でもあり、歴史時間をさかのぼりますと、伊勢神宮の元神でもあるようです。さらに、持統女帝によってこの神を鎮魂するために初めて桜が植えられた可能性が高いのです。瀬織津姫は、滝と桜に秘められた女神ということになります。
ヤマト─東北との歴史を明らかにする上でも、滝桜の歴史(いつ、だれが、なぜ植えたのか等)を、ご教示いただければありがたいです。
いずれ直接お訪ねするつもりですが、またメールにて突然の質問で失礼しますが、よろしくお願いします。

 あとでわかったことですが、福島県三春町の歴史民俗資料館の所在地は、「三春町字桜谷5」だと教えてもらいました。「桜谷」の地名で確認できる最北の地がここです。
 三春町にはオシラサマ=オシンメサマゆかりの三春大神宮や、ここに伝わる神楽「太太神楽」を共有するように伝える見渡神社と直毘神社もあります。
 特に直毘神社ですが、その社名からもわかりますように、この直毘神は直日神で、瀬織津姫が古事記に別名で登場するときの神名と考えられます。その三春の地の「滝桜」です。瀬織津姫と無縁であるはずがありません。
 と、確信犯的な予断をもって、三春の関係資料を楽しみにしているところです。

292 遠野物語が抱える沈黙 風琳堂主人 2002/04/05 04:04

 サムトのババロアというデザートの元となる話が遠野物語に載っています。「サムトの婆」と呼ばれる「神隠し」を主題とする話ですが、これもよく読んでみますと、瀬織津姫との関係が隠されているとみてよいのかもしれません。短い話ですので再読してみます。

■遠野物語第八話
 黄昏[たそがれ]に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他[よそ]の国々と同じ。松崎村の寒戸[さむと]という所の民家にて、若き娘梨[なし]の樹の下に草履[ぞうり]を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音[ちいん]の人々その家に集りてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留[とど]めず行き失[う]せたり。その日は風の烈[はげ]しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。

(以下は、前回に続けて「居酒屋さくら」の掲示板に書き込みをしたものです。)

 これは遠野物語の不思議の原風景のような話です。この神隠しの話も実話らしく、サムト(地名としては登戸[のぼと]だったものを、柳田が寒戸に変更した)の婆さんは、遠野三山のひとつ六角牛[ろっこうし]山に「隠」れていたと伝えられています。
 伊吹山から濃尾平野に吹きつける風は伊吹颪[おろし]といいますが、この話に吹いている「風」は、これも遠野三山のひとつ、かつ主峰である早池峰[はやちね]山から遠野盆地へ吹き降りてくる早池峰颪かとおもいます。登戸→寒戸の言いかえは、たんに地名の明記による当事者への迷惑を慮ったというより、やはり「寒」のイメージをこの原風景に与えたかった柳田の創作のような気がします。遠野は「寒」の郷だというのはわたしも同感なのです。
 ところで、遠野三山の女神の母神かつ早池峰山の女神が瀬織津姫とされています。この話の三十年前の娘さんは、瀬織津姫ゆかりの山懐に隠れていたことになります。この娘さんは山男にかどわかされたとする解釈が通説ですが、わたしは、この娘さんが「梨の樹の下に草履[ぞうり]を脱ぎ置きたる」という言葉から、どんな理由かはわかりませんけど、彼女は「死」を決意していたことを表しているとみています。その、「死」を覚悟した娘さんを、ひょっとしたら遠野の山の神は救ったのではないか──そんな気がしています。

このように小さなコメントを書いたのですが、あらためて、遠野あるいは遠野物語とはなにかということを考えることになりました。
 現在、遠野物語の注釈研究書でいちばん新しいのは、後藤総一郎さんを代表とする遠野常民大学が監修・執筆した『注釈遠野物語』(筑摩書房)かとおもいます。
 同書はこの第八話をどう「解説」しているのかを少し読んでみます。

 神隠しは、子女が突然行方知れずになる現象である。なぜそうなったのかは本人以外はだれに分からない。この里での生活を現世とすれば、その行き先は異界であろう。それは死出への旅であるか、あるいは発狂して山野をさ迷うことになったのか、または異類のモノか遠国の者にかどわかされたのか、いずれにしても血縁地縁の絆をもつ共同社会から忽然と姿を消すのである。その悲しみは、何者かに連れ去られてなお生きているかもしれないという諦め切れない願望を持っている。それを山人・山男のしわざであると語るのが、『物語』の第六、七話、『拾遺』第一〇九、一一〇話も同様である。

 サムトの娘さんは、山男にかどわされたとする「通説」はすでに遠野物語に書かれていたわけです。まず、このことを明らかにしておきます。
 この注釈書の解説からいえることは、「共同社会から忽然と姿を消す」、「発狂」の行為を、「共同社会」つまり村落共同体がどうとらえ(解釈し)、自己を納得させるかが遠野物語発生の基盤にあるということかとおもいます。
 しかし、この娘さんの「共同社会」からの消失の理由を考えますと、それは「共同社会」の外部(「異類のモノか遠国の者」など)に存在しているわけではなく、あくまで「共同社会」の内部に真の理由がある、と、そこまではいえるものとおもいます。
 物語は、この理由を「神隠し」という言葉に象徴させるわけですが、ここには、この娘さんが共同体から排除された、心的かつ現実的理由を明らかにする視線はありません。いいかえれば、物語(の解説も)は、この排除の現実を娘さんの「発狂」か、「異類のモノか遠国の者にかどわされたのか」と、彼女個人の「発狂」または共同体の外部に理由を丸投げしているようです。
「忽然と姿を消」したサムトの娘さんの沈黙は、共同体からは「発狂」または「かどわかし」以上に語られることがありません。あるいは「神隠し」としか語られません。
 しかし、「神」がこの娘さんを「隠し」たというのは正確ではないはずで、わたしは、「共同社会」で生きられない(とおもった)娘さんを「隠す」という、いわば「かくまう」行為によって、その死の渕から救ったものこそ遠野の「神」ではなかったかと読みました。
 物語八話は、里(共同社会)を恋しくおもった娘さんが「山」=神の世界から帰郷する行為を語っていますが、話そのものは「かどわかし」を明言しているわけではありません。また、すでに共同社会からいなくなった者に、ほんとうの帰郷はありえないことを物語は告げてもいます。物語は、娘→婆がまた山へ帰ることを、「さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき」としています。
 このサムトの娘さんは、遠野の山の神の巫女として、里における死を回避して生きたということかもしれません。
 もとよりこのサムトの娘さんの心は想像するよりないのですが、しかしこの娘さんが、生死の際において遠野の語られぬ神と出会って新しい生を生きはじめたとみる視点はありうるとおもっています。
 なお、この注釈書の解説によれば、佐々木喜善『東奥異聞』の「不思議な縁女の話」から、次のような「共同社会」側の後日潭を引用しています。サムトの娘→婆が、最終的に「共同社会」から排除される様が活写されていますので、これも最後に写しておきます。

 さうして一夜泊まりで(娘は)帰つたが、それからは毎年続けて同じ季節にやつてきた。その度に大風雨あり一郷ひどく難渋するので、遂に村方からの掛合ひとなり、何とかして其老婆の来ないやうに封ずるやうにとの嘆願であつた。そこで仕方なく茂助の家にては巫女山伏を頼んで、同郡青笹村との村境に一の石塔を建てゝ、こゝより内には来るなと言ふて封じてしまつた。

 ここに登場する巫女たちは、遠野の神ではなく、里(=共同社会)に奉仕する存在のようです。
 また、この娘さんの存在と<こころ>が里巫女・里山伏たちによって封じられたことがリアルに伝わってくる話=後日潭です。娘さんは里=共同社会から排除されましたが、彼女はその後、遠野の神とともに生きたものとおもいます。この遠野の山の神をわたしは瀬織津姫とみています。
 遠野物語がもっている、ある残酷さは、もちろん遠野固有のものではありません。これはすぐれて日本の、歴史の問題であり、また現代にまで延命している問題でもあります。この国がもっている残酷さとやさしさを、やはり直視する視点あるいは「解説」が、これからは必要ではないかと、この象徴的な小さな話からおもったのでした。
 遠野郷の神=瀬織津姫が、共同体から排除された者(たち)を救ったとわたしがみるのは、瀬織津姫自身がこの国の神まつりにおいて、サムトの娘さん同様、神々の「共同社会」からもっとも排除されつづけてきた神だからです。しかし、ここ遠野郷においては、排除したものもされたものも、その沈黙で見守ってもきた神が瀬織津姫でもあります。遠野物語が抱える沈黙の世界には、瀬織津姫が見え隠れしています。

294 三春滝桜と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/04/09 00:38

 滝(不動滝)と桜地名(桜谷)がセットでみられる福島県田村郡三春町。ここには、日本三大桜として知られる三春滝桜があります(ほかの二つは、岐阜県根尾村[根尾谷]の淡墨桜と山梨県武川村[実相寺]の神代桜)。日本の桜を代表するような、この三春滝桜は、エドヒガン系の紅枝垂桜で、樹高12m、根回り11m、「真紅の滝がほとばしるかのように小さな花を無数に咲かせ、その様はまさに滝が流れ落ちるかのように見えることから、古来滝桜とよばれるようになった」(滝桜HP)とされています。
 花振りが滝のようだという形容はそれ自体風情があり、ネーミングの動機としてはなるほどだなとはおもいますが、しかし、この滝桜のある地は、「田村郡三春町大字滝字桜久保」であり、この滝桜ゆかりの川は、東の大滝根山(1192.5m)を水源の山としている、その名も大滝根川です。地名・川名に散見される「滝」の名から、この滝桜の命名には地名・川名ゆかりの意味も当然含まれているとみてよいでしょう。
 しかも、地名には「滝」に加え「桜久保」とあり、このように、滝と桜が合体したような三春滝桜と、滝神=瀬織津姫は深い関係があるはずではないかということで、三春町歴史民俗資料館の山口晋さんから関係資料のご送付をいただきました。お礼申し上げます。
 福島県田村郡三春町は、田村郡という郡名からもわかりますように、ここは坂上田村麻呂ゆかりの土地です。大滝根山にはエミシの首魁=大滝丸(大多鬼丸とも)がいて、坂上田村麻呂と死闘をおこなった伝承があります。史実としては田村麻呂その人ではなくヤマトの東征軍との戦いだったのかもしれませんが、しかし大滝根山のすぐ南東の山は鬼ヶ城山(887.3m)といい、また大滝根山周辺には鬼五郎などの「鬼」地名が多いことから、その戦いは死闘・激闘であったことが想像できます(ヤマトは手強いエミシの抵抗があった地に「鬼」の地名をつける傾向が顕著です)。
 この大滝根山から西=内陸へ流れだす、阿武隈川支流・大滝根川流域の三春の地は、縄文・弥生ほかの遺跡が集中しています。そして、これらの遺跡を水没させたのが三春ダム(平成10年3月完成)で、そのダム湖は「さくら湖」と命名されて地図にも載っています。
 このダム湖によって沈んだものは、多くの遺跡ばかりでなく、十二集落約160戸の家々といくつかの神社、そして滝=不動滝があります。滝桜は、さいわい湖底に沈むことはありませんでしたが、このダム湖の命名が名木「滝桜」のサクラに由来していることはまちがいないでしょう。

1 見渡神に隠された瀬織津姫
 ところで、この大滝根川流域に集中してみられる社に「見渡[みわたり]神社」があります(この社名は北上して宮城県にも散見されます)。
 さくら湖に沈んだ神社のなかにも、この見渡神社があります。
『三春町史』に興味深い資料が再録されています。『明治十二年磐城国田村郡神社明細書並縮図』(以下、「神社明細書」と略記する)というものです。神仏分離からはじまる明治国家神道の基盤整備がすすむ時代の産物のような資料ですが、これによりますと、三春町を含む田村郡には合計312の神社がその祭神名とともに記載されています。
 三春町の隣町の郡山市には、延喜式の明神大社とされる宇奈己呂和気[うなころわけ]神社や関場神社に主祭神として瀬織津姫の名が確認できますので、田村郡312社にも瀬織津姫の名が出てくるだろうとおもって一読してみましたけど、見事にというべきか、ただの一社も瀬織津姫の名は出てきません。明治・大正・昭和にわたって、瀬織津姫の神名変更および消去がなされてきていることは『エミシの国の女神』が証言していますので、三春、ここもかという思いがまずよぎりましたが、しかし探索をここであきらめるわけにもいきません。
 先にもふれましたが、田村郡に集中している社に見渡神社があります。この見渡の神とはなにか、なのですが、町史はこれまた興味深い記述をしてくれています。

 見渡神社は県内では田村・安達の両郡に多い。この神は水に関する神で、天村雲神を祭神とし、社の所在地はたいてい水の湧く所か、山作の天水場または田の近くである。また、ミワタリがニワトリに転じて咳の治療を祈る信仰に変わっているところもある。(『三春町史』第6巻)

 また、町史第2巻は、この見渡=三渡神について、次のように記述しています。

 三渡神は御渡・鬼渡・奥渡・庭渡・見渡・根渡・荷渡・宮渡などの異名でよばれ、水分[みくまり]神として河流沿岸部や荷渡し神として渡河地点の見晴らしのよい台地上か山頂部などに鎮座している例が多い。本来は神渡[みわたり]の名で開発農業神としてまつられた土地神である。

 見渡神は多くの「異名」をもっていることがわかりますが、その性格は水神・水分神であり、神名としては「天村雲神」の名が挙げられています。この見渡神=天村雲神という名は、前記「神社明細書」が記載するところでもありますが、中には天村雲神ではなく、たとえば天水分神としたり(安原村・見渡神社)、また、大日霊尊とするところもあります(湯沢村・三渡神社)。
 特に大日霊尊(天照大神の別名)が祭神名として記されていることは、この見渡の神が単純な水神ではない可能性を示唆しています。
 さらに町史は、岩崎敏夫『本邦小祠の研究』の「みわたり」についての記述を引用しています。岩崎さんは、「田村郡下のみわたりは一通り見てまわったが、やはり山作[さく]に多く、水のわく所とか流れの源となっているような所に特に多かった」と、見渡神が水源の神であることを再証言したあと、この神の勧請過程の一例として、高野村土棚の見渡神社の「社伝」として、次のような伝承を記録しています。

社伝によれば(高野村土棚の見渡神は)河内国の水分社を楠氏の臣橋本某が崇敬していたが、祭神は天牟羅雲その他二神をまつり、寛永元年三月に子孫の橋本清九郎が勧請したという。

 ここに出てくる楠氏は楠木正成の楠木氏のことかとおもいます。楠木正成ゆかりの「河内国の水分社」とは、大阪府南河内郡千早赤坂村水分357にある建水分[たけみくまり]神社のことでしょう。同社の現在の祭神名を挙げておきますと、本殿中殿は天御中主神、左殿は天水分神・水波乃売神、右殿は国水分神・瀬織津比売神です。ちなみに、同社の境内社・南木[なぎ]神社の祭神が楠木正成です。
 さて、大和盆地周辺の水分神としての瀬織津姫の名は、この建水分神社のほかに、奈良県吉野郡東吉野村滝野の水分神社や、同郡平野の同じく水分神社にみられます。
 福島県田村郡の見渡神は水源の神であり、水分神です。そして、河内の水分神を勧請したことが社伝にあり、さらに、この水分神=見渡神には、天照大神の別名である大日霊尊の名も伝えられているわけです。これらの条件に合致する水神は、やはり瀬織津姫以外にその可能性はないといってよいかとおもいます。
 あと一つ、この見渡神が瀬織津姫であることを傍証できることがあります。それは、町史が記していた見渡神の多くの「異名」のなかに、根渡神があったことです。これは田村郡ではありませんけど、同じ福島県のいわき市泉町に、その名も「根渡神社」という社があります。ここの主祭神が瀬織津姫であることも、三春の見渡=三渡神のほんとの神名がなんであるかを告げています。
 なお、三春(田村郡)にこの見渡神を伝えたのは修験の人間の可能性もあることを添えておきます。

 本山・当山両派と別に、出羽三山信仰による行人派の修験も古くからの農耕信仰の麓山[はやま]や菅船・三渡の水分信仰を伝えるが、この派は次第に天台・真言両派に統合されていく。(『三春町史』第2巻)

2 三春滝桜と瀬織津姫
 明治12年の時点で、田村郡に存在した神社は312社、そのうち見渡=三渡神社は26社あったことが「神社明細書」からわかります。また、これら312社の一社にも瀬織津姫の名は登場してきませんでしたが、少なくとも26社に及ぶ見渡=三渡神が、天村雲神という名の公的な祭神名とはちがって、ほんとうは瀬織津姫であったことがみえてきました。
 そもそも、瀬織津姫はアマテラスの祖型神の一神であることもありますが、まず、基本的な性格は水神であり、滝神です。この滝神としての瀬織津姫については、たとえば福島県に限定しただけでも、その祭祀の仕方から明瞭にみえてくるものです。
 福島県における、滝と関係のありそうな神社名で、祭神を瀬織津姫と表記しているところを挙げれば、次の6社が確認できます。
@ 国魂神社境内社「滝埜神社」(いわき市遠野町字滝)
A 八剱神社境内社「大滝神社」(いわき市平下)
B 大瀧神社(双葉郡広野町)
C 大瀧神社(双葉郡楢葉町)
D 滝神社(南会津郡只見町)
E 瀧口神社(南会津郡田島町)
 三春町を含む田村郡では消えてしまっていますが、福島の全体をみれば、瀬織津姫が滝神としてまつられていることは、これらの例からもわかります。
 その滝神=瀬織津姫の名が、この三春の地ではまったく消されてしまっています。
 ここで、福島県および田村郡全体から、三春の滝桜をもつ田村郡三春町の滝集落に眼を向けてみます。
 三春ダムによって湖底に沈むことになった三春町中郷地区の民俗・伝承等をまとめた『中郷の民俗──三春ダム水没地域建造物等民俗調査報告書』(三春町)は、滝集落の氏神(鎮守神)について、次のように記しています。

 滝の鎮守は稲荷神社で、祭日は四月三日と十一月三日である。「神社明細書」によれば、祭神は宇加之御魂命、勧請、由緒は不詳、祭日は十二月十五日とある。
 なお、龍光寺の境内に祀られているお不動様(祭日は旧九月二十八日)はもと滝の鎮守で、神仏分離の際、稲荷神社にとってかわられたという。このお不動様の奥の院は大滝根川の不動滝であるという。

 ここには、見過ごすことのできない大事な伝承および証言が三つ書かれています。
@ 滝のほんとうの鎮守神は稲荷神社ではなく、龍光寺の「お不動様」であったこと。
A @の鎮守神変更は、明治の神仏分離の際になされたこと。
B 滝の鎮守神「お不動様」の奥の院は大滝根川の不動滝であること。

 三春ダムの建設によって沈められた不動滝=不動尊は、滝地区の氏神だったことになります。
 本来なら、明治の神仏分離によって、それまでのお不動さんと一体となっていた滝神が氏神となってよかったはずです。
 早池峰─遠野郷においては、あるいは、岩手県安代町の不動滝神社=桜松神社は、不動滝=瀬織津姫を明記して現在にまでまつることをしていますが、三春町滝は、なぜかそうはならず、稲荷神社の神に氏神変更を余儀なくされたのが明治だったようです。
 さて、滝桜です。三春町のホームページの「三春の歴史」によりますと、現在の滝桜は1000年の歴史はないことを江戸期の文献『陸奥の編笠』(享和3年=1803年)によって明らかにしています。ここで1000年樹齢の古木・滝桜の伝承に水をさすつもりはないのですが、同書は、現在の滝桜の「親木」は、龍光寺(滝地区)の桜であったことを、次のように伝えています。

 (滝桜から)少し離れて、道の側に同じくしだり桜の老木朽果て、三つに裂け、皮計にて三本の様に成り、枝少しづつ出たる古木あり。瀧の桜の親木なりと昔よりいゝ伝ふる由。往来の街道ゆへか、是には制札ありて、枝を折る事を禁じらる。是等の桜(滝桜と龍光寺の桜)、花の盛りならば、珍しき荘[ママ]観なるべきと、いと口惜しかりき。

 現在の滝桜の親木「龍光寺桜」(仮にそう呼んでおきます)は、1803年の時点で、そうとうな古木であったことが伝わってきます。この親桜は、明治初年についに枯れたとされ、現在は存在しないようです。
 さて、今は幻となった龍光寺桜ですが、滝地区の氏神(鎮守)は「龍光寺の境内に祀られているお不動様」でした。現在の地図帳にも龍光寺のところに「滝不動尊」が記されていますので、滝の人たちは今もこのお不動さんをほんとうの氏神としているのかもしれません。
 そして、この不動尊の「奥の院」である滝=不動滝と桜──この両者に関連し、これらを共通の指標とする滝神は、岩手安代町の桜と不動滝を祭祀伝承とする桜松神社とまったく一緒ですが、おそらく瀬織津姫以外の神は出てこないはずです。ダムに水没した滝の隣の柴原の氏神にしても、ここは柴原神社で、『中郷の民俗』は「柴原神社はもと三渡神社」と記録しています。つまり、ここも瀬織津姫を氏神としていたことになります。さらに柴原の隣の蛇沢の氏神も見渡神社で、ここの氏神さんこそが湖底に沈んだのでした。
 ダムに沈んだ不動滝は、これら三集落に囲まれるように位置していました。現在、この不動滝の湖面の真上には、この滝名を大事にする思いから、不動滝橋が架かっています。
 田村郡の水源の神、水分神、そして滝神が瀬織津姫だとしますと、大滝根川そのものの川神かつ源流の山=大滝根山の女神も瀬織津姫である可能性は濃厚となってきます。
 では、なぜ三春の地から瀬織津姫の名は消えたのかとなりますが、これは、明治期における伊勢神宮=アマテラスの絶対神化を最大の理由とし、またこのこととおそらく関連する、「三春総社」とされる三春大神宮の存在があります。同社は、近代になって、県社の社格を与えられた神社ですが、元は柴原の隣の貝山に鎮座していました。同社は、元禄の時代に現在地へ遷座しましたが、貝山には、田村麻呂勧請伝承をもつ白山比盗_社があります。伊勢における白山神の伝承から、白山比唐烽ワた瀬織津姫である可能性が高いことについては、これも『エミシの国の女神』が指摘していることで、その後、このことを明かす伝承として、尾張の黒田=白山神社の祭神が瀬織津姫であることも判明しています。としますと、三春大神宮と白山比盗_社は、元は貝山の地でペアでまつられていた可能性があります。これはもう少していねいに調べてみる必要はありますが、今は可能性についてだけ触れておくことにします。
 また、この大神宮近くに「桜谷」の地名があります。瀬織津姫は瀬田川=宇治川の桜谷の滝神であり、鳥取の桜谷神社の神でもあります。伊勢神宮の五十鈴川の橋は宇治橋、内宮と「同格」とされる滝祭神および宇治川の橋姫も瀬織津姫ですから、三春の「桜谷」も、三春大神宮との関連から明かされる必要があります。

295 滝頭不動 ピンクのトカゲ 2002/04/09 12:02

地元豊川信用金庫の今年のカレンダーのタイトルは、「穂の国の水辺物語」
この「穂の国水辺物語」に「滝頭公園」が載っている。
場所は、渥美半島のほぼ中ほど、三河湾に面した渡辺崋山で有名な田原町である。
「穂の国水辺物語」には、滝頭公園は、滝頭山(258メートル)の東麓に整備された公園であり、春は桜の名所
公園内を流れる庄司川は、滝頭上池、下池に注ぎ、湖面を写る桜を眺めながらの散策はお勧めだとか
庄司川の上流には、不動滝、滝頭不動が祀られている。
滝頭不動には田原山宮神社の鳥居があり、衣笠山に鎮座する田原山宮神社(祭神:大山祇神)の遙拝所である。
滝頭不動は、天平二〇(七四八)年、旧渥美郡内を巡歴した行基により滝頭山に祀られたといわれる。それ以前から、滝頭山は、祖霊の棲む山、神霊の降臨する山、水の山として信仰された。
不動さんに滝、そして、桜
滝頭不動と山宮神社は、遥拝所からも一対のものと思われる。
その山宮神社が鎮座するのが、衣笠山
ここでも、不動さんと笠=瘡である。
滝頭山には、田原町の斎場がある。
瀬織津姫は、神仏習合では、三途の川で煩悩を祓う脱衣婆とされることがある。
祖霊の棲む山に斎場、これは偶然か、はたまた意図的に計画されたことか

296 桜と滝とお不動さん 風琳堂主人 2002/04/10 15:15

「不動滝」の名が典型的ですが、滝とお不動さんの一体化の関係は、三春の不動滝=不動尊のほか、早池峰─遠野郷でもよくみられます。三河の「滝頭不動」の名にも、この一体化の関係はよく表れています。
 また、お不動さんと桜の関係は、三春滝桜(の親桜=龍光寺桜)や岩手県安代町の桜松神社にみられるばかりでなく、これも福島県ですが、岩瀬郡長沼町にある「古館のしだれ桜」においてもそうです。
 以下は、「桜巨木伝」のHPからの引用です。

■古館のしだれ桜
 樹高12m、根まわり6.3m、胸高直径1.4m、枝張り東西12m、南北17.3mのヒガンザクラ(シダレ)。
 南北朝期(1333〜1391年)に二階堂藤入道が築いた館跡、江花川の河谷に張り出した台地の端に単生する。遠望のきくこのサクラが苗代の準備をする目安となったため、別名「種蒔桜」とも呼ばれていた。2本に分かれた主幹の根元には不動尊が祀られている。

 たとえば山奥の滝に不動尊をまつるのは、最初は修験の人間だったとしても、滝は水源にあたりますから、時代が下ると、お不動さんは田の水を司る「神」として里に降りてくるということでしょうか。しかも、長沼においては、桜とともに、です。
 この桜は、持統時代の桜──つまり、持統にとっては、鎮魂の意をもった桜でしたが、田人=里人にとっては、「苗代の準備をする目安」としての桜でした。稲作と桜の関係だけをみれば、持統の前にたしかにさかのぼりうるものかもしれません。とすれば、持統は桜に、個人的かつ国家的な祭祀意味を、新たに付加した、重ねたということになります。
 ところで、この長沼の桜の異名「種蒔桜」ですが、遠野にも同じ名で桜の古木があります。この遠野「種蒔桜」は、水神さんとセットになっていますが、これがまた興味深いことに、早池峰山の遥拝社である加茂神社の境内にあります(菊池幹さん談)。
 早池峰の神=瀬織津姫は、たとえば「遠野三山」のひとつ、六角牛[ろっこうし]山(サムトの娘さんがいた山でもあります)などに散見される不動滝などの滝神でもあります。
 神仏習合の日本においては、つまり仏の守護神としては、その名を伏せられた古来の水神は、男性神格として権現化するときはお不動さんとなり、女性神格として権現化するときは弁天さんとなる、ということかもしれません。
 滝と桜と不動尊──背後に滝神かつ水神である瀬織津姫ありというイメージはますます強いものになってきました。桜は、水の精霊が宿る木だったのかもしれません。

297 三河国司・大江定基と瀬織津媛 ピンクのトカゲ 2002/04/12 07:48

(一)松鷲山花井寺

東三河の表玄関・豊橋駅から信州辰野に向かうJR飯田線
豊川及び豊川放水路を越え、小坂井駅手前あたりから大きく右に蛇行し、段丘崖上の豊川右岸台地を走る。
小坂井、牛久保、豊川ここまでが複線
牛久保駅と豊川駅のちょうど中間あたり線路沿いに曹洞宗の寺刹・松鷲山花井寺がある。
曹洞宗の格としては、全国的に有名な豊川稲荷(円福山妙厳寺)を上回る。
本尊=十一面観音
花井寺の下には、泉が湧く。
なんだかここも瀬織津姫の匂いがする。
寺伝によれば、開基は、花井媛
花井媛は、三河国司・大江定基の侍女であったとされる。定基が、三河国司に赴任してきたのは、永廷年中(九八七〜九八八)の頃である。
定基は、三河在任中に赤坂の舞姫を寵愛し、前妻を逐い、舞姫力寿を妻としたが、俄かに病死した。
定基は、力寿の死を悲しみ、世の無常を感じ出家して名を寂照と改め、後に宋に渡り、宋国王から円通大師の諡号を賜る。
また、力寿は、赤坂の長者・宮路弥太次郎長富の娘とも伝えられ、定基が、国司の任期を終え、都に帰るとの噂を聞き、別離を悲しみ、定元愛用の琵琶を抱きしめ自ら舌を噛み切り死んだとも伝えられる。
ともあれ、この力寿の死を悲しみ定基が出家したのを悲しみ、花井媛は、出家し、ここに庵を結び、花井姫の死後、堂宇が建てられ、その後、久安四(一一四八)年に堂宇跡に真言宗の吉祥山今水寺の僧・慶寛法印が龍源院を建立。
のち真言宗から曹洞宗に改宗し、天文一五(一五四六)年に現在の花井寺の寺名になる。
花井媛と共に磐井媛も出家したと伝えられる。
さて、花井寺付近には、みやげの松があったと伝えられ、国内神名帳の宮解(ミヤゲ)天神は、この花井寺付近にあったと思われ、花井姫の伝承以前から信仰の地であったと考えられる。
龍源院、泉、そして、花井及び磐井が意味するものは、明らかに水神信仰であり、花=木花咲夜姫、磐=磐長姫であろう。井は、当然、泉を表しているのであろう。
散る桜と常緑の松。山号の松鷲山の松。みやげの松は、磐長姫であったのではなかろうか。

(二)龍雲山妙音閣三明寺

花井寺から飯田線に沿って、八〇〇bほど豊川方面に行くと、三河七福神の一つ弁才天を祀る龍雲山妙音閣三明寺がある。現在、豊川駅東口が区画整理されており、東口を出れば、直ぐのところである。ここも花井寺と同じくはじめ真言宗、後に曹洞宗に改宗
本尊の豊川弁才天(馬方弁天)は、定基が、力寿の面影を弁財天に刻み残したものと伝えられる。
三明寺々伝によれば、大宝二(七〇二)年、文武が、三河国星野之宮へ行幸の際、現境内池のほとりにて辨財天の霊験を得、大和国橘寺覚渕阿闍梨に命じて堂塔を建立、開山となったとする。
続日本紀に、文武が、三河に来たとの記録はない。同年には、持統が三河に来ている。
目的は、何度も書いているが、祭神変更である。
三明寺々伝を裏読みすれば、この地に本来祭祀されていた神を弁財天に変更したということである。
三明寺の裏手に豊川進雄神社(明治以前は、豊川天王社。祭神:素盞嗚尊)の元宮・稲田神社(祭神:櫛稲田姫)が鎮座し、創建は、大宝年中とされる。
おそらく、稲田神社の本来の祭神の変更が持統の目的であったのであろう。
三明寺境内には、三つの願いを成就させるという三徳稲荷がある。この三徳稲荷は、宝暦年間(一七五一〜一七六三)に西島稲荷社から分祀されたとされる。三徳稲荷の御神体は、西島稲荷の白狐と同形の黒狐だという。
西島稲荷は、花井寺の南約二〇〇メートルほどの豊川市西島町に鎮座する。
西島は、段丘崖下に位置し、往古は、名前のとおり島(豊川の中洲)であった。
伝承によれば、西島は、倭姫が、斎田に定めた地であり、西島稲荷に祀られているのは、倭姫命だという。

(三)円福山豊川閣妙厳寺

三明寺と豊川駅をはさんで反対側、つまり、西口から右に路地を入り、門前通りを抜けると、円福山妙厳寺がある。嘉吉元(一四四一)年に開創された曹洞宗の寺院である。
豊川稲荷は、この円福山妙厳寺を開創した開祖・東海義易が、仏神・叱枳尼天(だきにてん)を妙厳寺の鎮守として祀ったものとされる。
豊川稲荷が、全国的な信仰を集めるようになったのは、時代劇でおなじみの大岡越前守忠相が、寛延元(一七四九)年に豊川村を知行地とし、妙厳寺の万牛和尚に帰依したことに始まるとされる。忠相は、宝暦元年に死去するのであるが、この頃、妙厳寺は、平八狐を婿に迎え大いに繁盛したという。
この平八狐、実は、西島稲荷の社守鈴木平八朗氏という実在の人物で、全朴浄人(姓は斎藤氏)を仲介として、宝暦年間に、今で言うヘッドハンティングで迎たという。
それ以後、豊川稲荷が栄え、西島稲荷が廃れたと

先述したように、西島稲荷は、花井寺の南約二〇〇メートルのところにある。往古は、豊川の中州であり、花井寺正面に浮かぶ島である。その花井寺には、花井姫と磐井姫の伝承。そして、三明寺には、力寿姫の面影をしのんで定基が刻んだ弁才天。
また、妙厳寺は、享保七(一七二二)年に焼失しているが、それ以前は、三明寺の裏手、稲田神社の正面あたりにあったとされる。
日本三大稲荷の一つ豊川稲荷もまた瀬織津姫の影が見え隠れする。

(四)関川神社

旧宝飯郡の中央、現在の豊川市の西部に位置する国府(こう)町(主人の出身高校があるところです)
その名のとおり、この付近に三河国の国府がおかれていた。
現在の街並みは、国道一号線と並行して走る旧東海道に沿って、形成されている。
この旧東海道を西に向かい旧東海道の宿場町・御油の町並みに入るところの追分からは
姫街道が分かれる。
旧宿場町の御油の街並みを過ぎると、国の天然記念物に指定されている松並木
松並木を越えると、同じく旧宿場町・赤坂の街並みが始まる。
赤坂にはいると直ぐ左手に関川社(祭神・市杵島姫)が鎮座する。
言い伝えによれば、定基が、力寿姫の父・宮路弥太次郎長富に命じ、創建されたという。
市杵島姫、神仏習合により、弁財天とされる。そして、三明寺の本尊・弁財天は、力寿姫を偲び定基が、刻んだとされる。
力寿姫=弁財天=市杵島姫という等式が成り立つ。

(五)大寶山西明寺

東海道を東に戻り追分から姫街道に入り、船山古墳の一つ手前の十字路を左に入ると大寶山西明寺がある。
西明寺は、定基が、大寶山の東の丘に草庵を結び六光寺(ろっこうじ)と名づけ、天台宗の寺院としてはじめられ、のちに現在地に移り曹洞宗の寺院となったとされる。
現在も西明寺の東に八幡町上六光寺・下六光寺・西六光寺、さらに、その東に平尾町六光寺の字名が残る。
遠野物語には、六角牛(ろっこうし)の地名が出てくる。
六光寺と六角牛、字は異なるものの、ru-ukotpa-us-i(路が・交合している・のが常である・所→岐路or分れ路)と関係があるのではないか
六角牛については、風琳堂主人に任せるとして、六光寺は、「追分」の東に位置する。
遠野早池峰の女神は、瀬織津姫である。この「ろっこうじ」とどうつながるのやら

(六)陀羅尼山財賀寺

さて、この平尾町六光寺から山の方に向かうと智恵文殊として知られる陀羅尼山財賀寺がある。
山門の仁王像は、国指定の重文、数年前修理が終り仁王門に安置されたときは、横綱貴乃花の手出入りが奉納された。
開基は、行基、文殊堂は、力寿姫を亡くし、定基は、七日の間、埋葬しなかったが、夢のお告げに文殊菩薩が現れ、力寿姫の舌を陀羅尼山に埋め文殊堂を建立し、力寿山舌根寺と称したとされる。力寿姫の碑の背後には、桜の古木が根を張っている。
なお、この財賀寺がある財賀町には、ドウニヤなる奇妙な字名が残る。

(七)八幡宮

財賀寺から姫街道に戻る。筋違橋の西から北に八幡宮の参道が続く。八幡宮は、国分寺の鎮守として創建された。
西古瀬川に架かる宮前橋を渡り、一の鳥居、数段の石段を上がり参道が続く。しばらく行くと、小さな川があり、橋が架かっている。橋の手前右手には、鳥居があり、祠がある。祠の前の橋には弁天橋とある。祭神名は書かれていないが、市杵島姫はじめ宗像の三女神である。
本殿参道に戻り橋を渡ると、左手に小さな屋根に賽銭箱、「荒御魂神」の札が懸かる。川を隔てて、石の小さな祠がある。おそらく、水源だろう。
参道を中心に右に宗像三女神、左に川を隔てて、荒御魂神、この荒御魂の正体は、おのずと知れよう。
さらに参道を進むと正面に昨年、改築されたばかりの立派な拝殿が見える。
拝殿の手前には、末社といっても背丈をゆうに越す祠が左右に鎮座している。
向かって右が豊磐窓神、左が櫛磐窓神である。いわゆる門神、元は、アラハバキであった可能性が高い。
現在でもかなりの神域であるが、かつては、現在の一〇倍ほどの神域を誇ったという。
八幡宮の参道のさらに西一〇〇bほど、間口一間弱のお堂がある。「南無櫻地蔵大菩薩」の石碑が立っている。
以前、ここに桜の古木が立っていたという。
一〇倍の神域といえば、当然、この桜の古木も神域内のものであったであろう。
国分寺が置かれた八幡宮周辺からは、銅鐸もいくつか出土している。
国分寺の鎮守として八幡宮が創建される以前から聖地であったのではないか。
その上に国分寺及び八幡宮をかぶせた。
国分寺建立は、持統の曾孫・聖武の命による。黒幕は、不比等の娘・光明である。
この地に国分寺及び八幡宮を建立した意図は、
そして、櫻地蔵の桜の意味は何だったか?
さらに、今昔物語の定基&力寿の悲恋に仮託された真実は...

298 水神の化身としての桜 風琳堂主人 2002/04/18 18:08

 弁財天=宗像女神はまた、三河の胸形神社においては桜と濃厚な関係をもっていました。
 大江定基の伝承における、花井媛=コノハナサクヤヒメと磐井媛=イワナガヒメの可能性も、また、豊川市の八幡神社における荒御魂神=瀬織津姫と宗像三女神が川をはさんで対称的に鎮座しているのも、さらに、枯れた桜の古木の化身かもしれぬ「南無櫻地蔵大菩薩」の存在も──これらは、これから明かされることを待っている瀬織津姫の全体的な「謎」を集約しているようです。
 うまくアプローチできるか自信ありませんけど、桜と水神=瀬織津姫の濃厚な関係については、ここではっきりさせておきたいとおもいます。

 桜が水の精霊が宿る木ではないかという推定は、遠野・加茂神社の「種蒔桜」と水神の祠や、同じく「種蒔桜」の名をもつ福島県長沼町「古館のしだれ桜」と不動尊の祭祀から想像されるところです。
 牧野和春『新桜の精神史』(中公叢書)によりますと、この種蒔桜が集中してみられる地域は福島県の会津盆地だとあり、その理由を著者は、会津盆地の気候の厳しさにみているようです。著者は次のように書いています。

 桜が伝える、水ぬるみ、春のきざしを告げる地中の状況は、そのままその土地、土地の稲作へのゴーサインでもある。そこに「種まき桜」が、会津盆地の各地にこんなにもたくさん残り、かつ、いまも大事にされている秘密がある。

 遠野は地勢的にいえば遠野盆地で、この盆地気候の特有性は会津盆地と通じます。「農事の指標木」(同書)としての桜はそれ自体切実なものだったとおもいます。遠野の種蒔桜の先行に福島を想定してよいようです。
 しかし、桜そのものに寄せる心性ということでいえば、持統の鎮魂桜から、さらに稲作起源の時間を超えるものでしょう。牧野さんは、同書で、この桜へ寄せる原初的な感性について、次のように書いてもいました。

 サクラの花をイネの花と同一視せんと試みる呪術観念はそれ自体、文化(文化に傍点)の所産なのである。ほんとうの古層観念は、そこに精霊のやどりを感得するアニミズムの世界であると思う。〔中略〕
 結局、太古日本人にとって「桜」はどう心理的に映ったのか。ズバリ言い切ってしまえば、彼らは不思議なエネルギーをたくわえたデモーニッシュな生命体(カミ)と読み取ったのではないか。(『新桜の精神史』)

 わたしは、ここで言われている「不思議なエネルギーをたくわえたデモーニッシュな生命体(カミ)」をはっきりと「水神」と規定したいとおもいます。しかし「デモーニッシュ」(悪魔的)という付帯規定は除去します。
 牧野さんの桜木についての続刊『桜伝奇』(工作舎)は、この「水神」と桜が密接に関わっている例がいくつか紹介されていて興味深いです。たとえば、「大滝神社のゼンマイザクラ」(福井県今立郡今立町大滝)です。この今立町は「越前奉書」(楮[こうぞ]を原料とする)の産地として知られるところですが、和紙もまた清冽な「水」を必要としていることはいうまでもありません。

越前奉書の本場がここ今立町の、老津[おいづ]、大滝、岩本、新在家、定友の旧五箇村である。特に漉屋[すきや]中心の大滝は有名で、私もかつて人間国宝、故岩野市兵衛氏を大滝にお訪ねしたこともある。紙すきの技法を教えたという女神「川上御前」を祀る岡本[おかもと]神社(泰澄[たいちょう]大師開基の大滝寺を、明治八年、神仏分離により大滝神社と改めた、その大滝神社と同一社殿)もある。(牧野和春『桜伝奇』)

 滝と桜と女神「川上御前」です。同書が述べるように、女神「川上御前」が泰澄ゆかりだとしますと、おそらくこの神は白山の女神(「本地仏」は十一面観音)でしょう。福井市志比口にあります川上神社の祭神としても確認できますけど、「川上御前」の神名、しかも白山と「滝」に関わり深い女神は、これも瀬織津姫とみるしかなさそうです。
 もう一例みておきます。岡山県にある「醍醐桜」(後醍醐天皇手植えの伝承がある)という老巨桜です。正確な所在地は岡山県真庭郡落合町別所字吉念寺。「昭和四七年十二月九日、エドヒガンの巨桜として岡山県天然記念物に指定された」、「根元の周囲、九・二メートル。幹の目通り周囲七・一メートル。樹高十八メートル」、「枝張りは四方各二〇メートル」、「推定樹齢七百年」とあり、正式名称は「吉念寺の醍醐桜」といいます。土地の人は、この桜があるところを、大字小字とは別に特に「竜王」と呼んでいるそうで、これだけでも水神の匂いがしてきます。
 牧野さんは、水神とこの醍醐桜が関わり深いことを次のように述べています。

 巨桜(吉念寺の醍醐桜)の根元に祠[ほこら]が一つある。これは「吉水[よしみず]神社」と称する。すると、醍醐桜そのものが実は「神体木」であって、その名称は「吉水」、すなわち、よい水であることを祈念しての神であることになる。更にいえば「竜」は水神の化身と考えられるから、「竜王」という大地上に立つ醍醐桜は、神仏によって浄化されたる存在でもある。それゆえに「吉水神社」ということになるだろう。巨桜の正体の一つは「水神」の性格を持っていることを示している。岬のように突き出た先端にある巨桜の位置は、この集落でもっとも重要な場所だ。その真下は水飲み場であるとともに、ここが崩れると集落を囲む急な斜面は一転して家々を土中に埋める大惨事を引き起こす。かくて巨桜は集落の安全を見守る「守護霊」の意味を併せ持っているであろう。

 前著『桜の精神史』では、桜に「デモーニッシュ」の形容を与えていましたが、この醍醐桜については「守護霊」とされています。ともかく「巨桜の正体の一つ」に「水神」を読み取ることができることがよく伝わってくる一文です。
 ところで、岡山県は、瀬織津姫を祭神とする社が集中する県の一つで(主祭神・合祀を合わせると全25社)、ここも福島県と同様に、滝神=瀬織津姫がメインとみることができそうです。現在確認できる25社のうち、水神・滝神と関わりがありそうな瀬織津姫をまつる神社を書き出してみます。
 @ 早滝神社【天石戸神社境内社】(英田郡英田町滝宮89)
 A 瀧神社(英田郡英田町尾谷1873)
 B 大滝神社(英田郡作東町蓮華寺263)
 C 滝祭神社【吉備津神社境内社】(岡山市吉備津931)
 D 瀧神社(岡山市西大寺一宮1657)
 E 梁瀬神社(久米郡旭町西川上7303)
 F 早瀧比盗_社(玉野市滝773)
 G 河瀬神社(御津郡御津町大字草生1807)
 H 水門神社(倉敷市生坂1451)
 I 大川神社(倉敷市徳芳279)
 J 森瀬神社(阿哲郡大佐町大字布瀬2429)

 滝神かつ水神としての瀬織津姫が祭神として認知されていることは、これらの社名を見ただけでもわかります。醍醐桜がある真庭郡落合町別所字吉念寺には、瀬織津姫の名を直接確認することは現在できませんけど、落合町別所の西を南北に流れる小坂部川の御前神社(阿哲郡布瀬)の祭神が瀬織津姫の異名として変更された「八十禍津日神」であること、および、この御前神社のすぐ上流部にJの森瀬神社が存在しています。また、醍醐桜は関川という川(備中川の小支流で、備中川は旭川の支流)の源流部にあり、関川には上流部から順に下諏訪神社、上諏訪神社とまつられています。下諏訪の女神が瀬織津姫であることは別に明かしましたのでくりかえしませんけど、醍醐桜の吉水神社の祭神もまた瀬織津姫である可能性はとても高いことが考えられます。
 水の精霊=水神が宿る木が桜であるというのをもう一歩すすめて、桜は瀬織津姫が化身した木であると言ってよいかとおもいます。記紀は桜の精として木花開耶姫=コノハナサクヤヒメを登場させていますが、桜の精というなら、その名を変更された瀬織津姫とみることができます。また木花開耶姫の姉神はイワナガヒメとされますが、これも伊勢の地=朝熊神社において、瀬織津姫を隠すときに使用された苔虫神=イワナガヒメとしても登場してきますので、コノハナ・イワナガの両女神は、一神二様に分身=分神化された可能性があります。三神一体の宗像女神は伊勢の元神(の一神=女神)であり、コノハナ・イワナガの二女神もまた「桜神」の分身=分神でもありましょう。
 コノハナサクヤヒメと瀬織津姫ということで、ここで話は東北にもどります。延喜式神名帳陸奥国の「明神大社」とされる神社に志波彦神社と志波姫神社があります。その社名からもわかりますけど、両社は一対とみられますが、現在、これらの神は生き別れの様で分離祭祀がなされています。
 志波彦神社は、明治7年12月24日、仙台の地(宮城郡岩切[現在の仙台市泉区岩切])から塩釜市にあります鹽竈神社に遷祀され、現在の祭神は「鹽竈の神[鹽土翁神]に御協力された神」とされる志波彦大神と、なにやら猿田彦神的で曖昧な祭神表示となっています(一説に「岐神」ともいわれますので、これも仮の神名ですが「猿田彦神」とみてもよいかもしれません)。また、志波彦神は「志波道上宮」とも呼ばれていましたので、これも上諏訪・下諏訪と同じく、「志波道下宮」があったことをうかがえるのですが、この「下宮」は旧跡地にはありません。
 現在確認できる志和姫神社の所在地は、三つ。@古川市桜ノ目高谷地205、A栗原郡高清水町字五輪44−4、B栗原郡志波姫町字八樟新田126です。祭神は@とAが天鈿女命、Bが木花開耶姫命。特に@は地名として「桜ノ目」があり桜神=瀬織津姫との関連が匂ってきます。また、@・Aの天鈿女は、記紀の表現に準じて、本来一対であったはずの「上宮」=志波彦神=岐神(=猿田彦神)との関連を考えての表示なのでしょう。Bは、その名も桜の精とされる木花開耶姫で、また同社の社名は「志波姫町」という地名ともなって残されています。
 わたしの関心をひいたのはBの志波姫神社です。同社の伝承では、ここはもと伊豆権現社と称されていました。遠野における瀬織津姫をまつる神社は伊豆神社、かつては伊豆権現と呼ばれていましたので、志波姫神社の祭神は瀬織津姫かなとおもって調べたとき、なぜか木花開耶姫命とされていて妙だなとおもったことを思い出します。志波姫神社は白鳥飛来地としてよく知られる伊豆沼の西にあり、その地名のことからも、かつて伊豆権現社と呼ばれていたことはうなずけるものです。
 伊豆神社=伊豆権現社の本社は、伊豆熱海の伊豆山神社(かつての走湯権現社)です。しかし本社からは瀬織津姫の名は消され、境内摂社の雷電社に「火産霊神荒魂」として、そのかすかな痕跡を残していますが、しかし、本社には、瀬織津姫ばかりでなく、志波姫神社の祭神とされる木花開耶姫の名はさらに出てきません。
 伊豆権現社の遠野における伝承を基準にしますと、志波姫町の社の祭神=天鈿女もしくは木花開耶姫は、これも瀬織津姫の異名ということになります。伊豆は桜の原産地の一つでもあり、ここに桜の女神がまつられていることは自然です。天鈿女を桜神とするには無理がありますが、桜神として、瀬織津姫の名が木花開耶姫に変わる=変えられることはありうるものでしょう。
 最後に、この伊豆の女神が桜ゆかりの神だということをうかがわせる神社を紹介しておきます。これも延喜式内社なのですが、社名を伊豆佐売[さひめ]神社といい、宮城郡利府町にあります(ここは「上宮」と地理的にもっとも近いですから、あるいは消えた「下宮」はこの伊豆佐売神社だった可能性があります)。現在の祭神は溝咋比売[みぞくいひめ]命です。この祭神は、三島溝咋比売とみられそうで、とすればこれも伊豆の三島とも関係してきますが、ここでは深追いしません。
 少しこだわってみたいのは溝咋比売の「ミゾクイ」です。クイ→クウ=食べるイメージでは「溝を食う」で、まったくイメージが成立しません。ところで、桜の原種木は「うわみず桜」といわれ、漢字表記では「上溝桜」と書きます。このミズ→ミゾはやはり水ではないかということです。とすれば、「ミゾクイ」は水を食らう「竜」のイメージともなりましょう。また、「咋」は「クイ」ではありますが、「サク」という読みもあります。サクは佐久とも左口ともなりましょう。また、サクを裂くとみれば、溝咋はその字面とはちがって水が裂ける→谷のイメージとなります。裂けた谷=サクナダリは、瀬田川=宇治川では桜谷へとも変化し(「瀬織津姫の部屋」の佐久奈度神社を参照)、このサクナダリ=桜谷の神が瀬織津姫であったことが重なってきます。鴨長明は「方丈記」で、この桜谷を桜の地として訪れています。もしミゾクイが谷を表すなら、谷の水神の意とされるクラオカミという神にも波及してきます。京都鞍馬の貴船神社奥宮の水神=クラオカミ=谷の水神とも関わってきます。
 いずれにしましても、ミゾクイ→ミズクイならば竜神、水が裂けるならば谷の水神と、いずれも「水」のイメージが色濃く隠れているようです。そして「桜」なのです。

300 三河国司と瀬織津姫 ピンクのトカゲ 2002/04/21 10:47

まず、史蹟記録から力寿について再度考察しておく。
三河国司・大江定基の愛妾・力寿は、
一〇世紀に成立した今昔物語によれば、円融院の時代(九六九〜九八四)に定基が、三河守に任じられ、任国三河で若くて見目麗しい娘と会い、前妻を捨て、その娘と一緒になったとする。
ここでは、その娘の名も素性も書かれていない。
一三世紀から一四世紀に成立した源平盛衰記に至って、赤坂の遊君・力寿と、その素性が記される。
さて、史蹟記録からは、力寿が、赤坂長者・宮道弥太次郎の娘・力寿姫なる記載は見当たらない。
宮道氏は、景行の子・建貝兒命(宮道別)の裔を称し、宮道郷に封じられたとする。
壬申の乱の折、草壁皇子が布陣したとの伝説を持つ宮路山は、この宮道郷に因むわけであり、赤坂長者・宮道弥太次郎が定基の命により建立したという関川社(祭神:市杵島姫命)は、宮地山東南麓に鎮座する宮道天神社(祭神:建貝兒王命.配祀:草壁皇子.大山咋神)の南に位置する。
伝説によれば、宮路山西麓の御津町金野には、草壁皇子を葬ったとされる白山神社が鎮座する。
この金野は、弊サイト掲示板3月12日に書き込みした「金割→鐸破」(過去ログ301〜400)で書いたように八幡八幡宮の東に位置する国分寺の鐘とも関わっている。八幡町の東の市田町には、伊知田神社が鎮座し、境内には、氷明神を祀る。氷(こおり)は、郡(こおり)のことであり、律令時代に宝飫の郡衙がこの付近に置かれたとされ、氷明神は、穂別(朝廷別王)を祀るともいわれる(八幡八幡宮の末社にも穂ノ命社が鎮座する)。八幡宮付近が穂別時代からの信仰の地であったことがうかがわれる。
宮道弥太次郎が建立した関川社の北、宮道天神社の南に阿口社なる神社が鎮座する。
当然この阿口社も宮道天神社及び関川社と関係するのであろう。
祭神は、伊勢の土着神とされる猿田彦命である。
伊勢神宮の荒祭宮の祭神・荒御魂は、瀬織津姫のことであり、日神・アマテルノオオカミ(男神)と対で祀られていたのが、瀬織津姫である。
関川社も円融の時代の国司の命により建立されたとするも、元来の音羽川の祭神を力寿に仮託したものではないかと思われる。
また、草壁皇子の伝承が残る宮路天神社も三河国司・大江定基が、出家したのち比叡山に上るにおよび大山咋神を配祀したとされる。この大山咋神を客人大明神という。
一つは、宮路山中に鎮座し、他の一は、同町長沢の嶽神社(祭神・大山祇神)が、それである。
客人神ということになれば、一昨日書いたように八幡八幡宮にも鎮座する。
八幡八幡宮と宮路山は、同根から異伝承が生じたと考えられ、そこに定基と力寿の悲恋の物語が被さったのではないかと考えられる。

大江定基と並び三河国司として、種々の伝承を残す人物に藤原俊成(一一一四〜一二〇四)がいる。
公卿補任藤顯廣傳によれば、藤原俊成(当時は、顯廣、仁安二(一一六七)年一二月二四日に俊成と改名)は、久安元(一一四五)年一二月に三河守に任ぜられ、同五(一一四九)年四月に丹波守に転任している。
俊成は、千載和歌集の撰者であり、子の定家(一一六二〜一二四一)は、「新古今集」の撰者であり、また、「小倉百人一首」の撰者ともいわれ、さらに、孫の為家は、「十六夜日記」の作者・阿仏尼を妻とした。俊成は、古今歌伝・歌道家の元祖とされる。
俊成は、宝飯郡西部の竹谷、蒲形(現蒲郡市)を開拓したといわれ、宝飯郡西部と関わりが深い。
蒲郡は、三河湾の最奥に位置し、風光明媚の地として知られる。
その蒲郡のシンボル竹島は、長さ三八七bの橋で陸地と結ばれ、竹島には、二三八種の暖地性植物に覆われており、国の天然記念物に指定されている。
島の周囲は、六二〇b、総面積一九〇〇〇平方b
島内には、八百富神社(祭神:市杵島姫・竹島弁才天)が、鎮座する。
竹島縁起によれば、八百富神は、俊成が、近江竹生島から勧請したとする。
末社には、八大龍神社が鎮座する。
三明寺の弁財天、関川社の市杵島姫は、国司・大江定基との関係とされるが、それ以前から水の女神として、その地に祀られていたものを定基と力寿の悲恋に仮託したことを明らかにした。
この竹島弁財天も俊成以前から水神(龍神)として、竹島の地で祭祀されていたのであろう。
そして、地主神ともいうべき水神(龍神)に俊成が勧請した竹生島の弁財天が被さったのであろう。
因みに、穂国の霊峰本宮の東麓、本宮山スカイライン入り口に鎮座する竹生神社(新城市杉山)も琵琶湖の竹生島から勧請したともいわれ、境内には、滝神社(祭神:瀬織津姫)および社宮司荒羽々気社が祀られている(以前は、境外に鎮座した)。

俊成は、竹谷及び蒲形を開いたとされる。
俊成が開いた蒲形(現蒲郡市蒲郡町)に大宮神社が鎮座する。伝説によれば、俊成の娘・菊姫が、この地に住み父の名をもって那智山より若一王子熊野三社を勧請したとする。
那智の滝では、三月二一日に川中祭で、瀬織津姫の祭祀が行われています。また、九月一三日には、弁財天供養が行われています。
勧請は、俊成の娘・菊姫に仮託されているが、大宮神社が瀬織津姫と関係があることがうかがわれる。
この大宮神社周辺については、実に奇妙なのである。
大宮神社の氏子は、大宮神社が鎮座する蒲郡町の住人ではなく、式内赤日子神社が鎮座する隣町の神ノ郷の住人が大宮神社の氏子なのである。
そして、赤日子神社の氏子は、月読社の鎮座する隣町の清田(せいた)町の住人である。
さらに、清田に鎮座する月読社の氏子はというと、隣町の平田町の住人である。
この平田町には、石山神社(祭神:菊理姫命)が鎮座するが、この石山神社の氏子が不在なのである。
菊姫と石山神社の祭神・菊理姫、この氏子のねじれ現象と何等かの関わりがあるのであろうか?
菊理姫は、白山社の祭神とされ、白山比売(しらやまひめ)とも呼ばれる。日吉山王(訓み=ひえさんのう、比叡山の地主神)の上七社の一つ客人大明神は、白山比売を祭神とし、本地仏は、十一面観音である。

定基、俊成という名の知れた人物が国司に任ぜられたことにより、それ以前の伝説が、この二人に仮託され、変容したのであろう。基層にあるのは、持統行幸による祭神変更である。

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