瀬織津姫&円空情報館過去ログ (001〜544)



001 円空と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/01/10 (土)

 もう十年以上前になりますが、北海道の各地を歩いていて、ふと円空の案内表示をみつけ、「円空がなぜここに?」という不思議につい引っ張られて、そちらへハンドルを切った覚えがあります。彼が北海道の地で岩窟修行をしたという場所(久遠郡大成町)は、日本海、奥尻海峡と対面する、断崖のような急勾配を登った上にあるのですが、途中まで登って、ここは革靴でくる所ではないなと、挫折してもどってきたということがあります。冬場は北風か吹雪がモロに吹きつけるようなところで、大きな熊鷲がゆったりと空を泳いでいる姿が印象的でした。美濃の円空が、江戸時代の初期に、なぜ、この北の地にまできているのか──。円空との出会いは、こんな他愛もないものでしたが、この旅からもどると、円空についての本をつくる機会が待っていて、妙な縁だなとおもったものでした。
 話は近年に飛びますが、これも縁というべきか、遠野で瀬織津姫という神と最初に出会って、それからこの神を調べはじめることになります。この神の祭祀リストをみますと、たとえば、円空が北の地を歩いた行程に瀬織津姫の祭祀場があります。北海道における瀬織津姫の祭祀時期を確認する必要はあるのですが、直観的には、円空と瀬織津姫はクロスしています。
 美濃における円空の修行地の一つには、瀬織津姫が現在も滝神としてまつられています(美濃市乙狩の滝神社)。円空は瀬織津姫という神を、当初は滝行場の神くらいの認識だったかもしれませんが、ほかの人間よりは身近に感じることができたものとおもいます。
 円空は北の地からもどると、美濃への帰りに鳥海山へも登っていて、この山の神は大物忌神とされるも、やはり瀬織津姫でした(「日高見川=北上川の水神」)。
 円空の足跡地には、彼が意識して歩いていたとみるしかないのですが、どうも瀬織津姫の祭祀(隠祭を含む)が重なってくるようです。
 円空とともに、あるいは円空の視線によって、瀬織津姫に新しく光をあてることもできるのではないか、また、逆に、瀬織津姫という神の視線で、円空という遊行聖の思想や造像行為の意味も新しく照らしだせるのではないかと、そんなことをおもいながら、「特集」を一つ増やすことにしました。
 円空については、わたしは(も)素人同然で、少しずつ関係場所を訪ねながら、あるいは本などに眼を通しながらの道行になるかとおもいます。未知のステージですが、よろしかったら、ご一緒におつきあいください。

(追伸)
 囲炉裏夜話803、柴田晴廣さんの「瀬織津姫神格形成過程の転換」に対して、風琳堂主人の応答・真意が読みたいという「住所不明記」の方のメモのような投稿をいただきました。これは、囲炉裏夜話終了後に寄せられたもので、また条件外の投稿ですので、無視するという対処法もあります。しかし、そういった希望をもっている人が少なくとも一人はいるということは事実のようですので、「囲炉裏夜話番外論議」として書き込みをいたします。
 関心のある方は、HP本体の囲炉裏夜話過去ログのところからご覧ください。

002 ms26423@yahoo.co.jp 酒向道雄 2004/01/11 (日)

「東北伝説」のリニューアルが無事終了しました。超特急の推敲、大変お疲れさまでした。
 製作者としても、何とかご希望に副えたホームページになったかな? と思っております。まだ、微調整をしたいところがありますが、これは後からということにしておきます。
 今回の作業を通じて、我々ホームページ制作に携わっている者は、もう少し「読んでもらう為のホームページ」という意識を持った方がいいのではないかと強く感じました。
 以前の「写植屋」としての目から見ますと、まだまだ物足りないところはありますが、可読性のある画面を作る為のツールは、随分増えてきました。後は、このツールを如何に駆使するか? といったところでしょうか。
 しかし、ホームページ制作の現状は、この「可読性」というところは「無視」されています。これは、多くの発注者・制作者共に意識の外にあります。彼らの意識は、チラチラ、パッパッ、グルグル、ズームイン、ズームアウトといった、動きで人目を惹きつける手法に奔走しています。
 伝える情報の内容にもよりますが、読んでもらいたいもの、見てもらいたいもの、参加してもらいたいもの、ホームページの内容によって技を使い分ける必要があるのでは、と思います。「私のホームページにはこんな技が使ってあります。凄いでしょう!!」といった、技を自慢する為のホームページの時代はもう終わりにしませんか? 特に、企業が発行しているホームページこそ、こういった点に意識を置くべきだと思います。
 情報を、正しく、キチン伝える。これが主目的にならないと、とんでもない被害を被る羽目にもなりかねません。現実に、丸紅主催のインターネットショップで金額表示を一桁間違えて掲載し、大変な損失を出したケースが報道されました。こんなのは、氷山の一角でしかありません。
 プログラミングする上でも、読みやすい画面であれば、事前に間違いをチェックできると思います。「技」というのは、人目につかないところでこそ生きてくるのではないのでしょうか? 特にプロのプログラマーにとっては、肝に命じておきたいものです。

 ところで、今後は「円空」についての特集が始まるとか? 特に円空は、私の地元出身ということで、興味があります。これからの展開が楽しみです。

003 円空と天照皇太神 風琳堂主人 2004/01/11 (日)

 円空(1632〜1695)の造像行為は、寛文三年(1663)の天照皇太神像(+阿賀田大権現)にはじまり(岐阜県美並村・神明神社)、元禄五年(1692)と推定される十一面観音(+善女龍王、善財童子)まで(岐阜県洞戸村・高賀神社)の間の、約三十年間にわたっています。年齢でいうと、三十二歳から六十一歳となります。
 円空の総造像数は約十二万体、そのなかで現存するものは五千体以上とされます(『円空研究』別巻2)。この常識を超えた造像数ですが、元禄三年(1690)の「今上皇帝像」の背面には、誓願の十万体を「造顕」した旨が記されていて、現存分の「数」を考えても、これらの途方もない造像行為には驚かざるをえません(一つ一つほんとうに数えていたのかという疑問もないわけではありませんが、これは不問とします)。
 ともかく、円空は、なぜこれほどの「数」の造像行為を自らに課したのかという問いがまず浮かびます。また、その造像行為の最初が、仏像ではなく、天照皇太神像という神像だったことも興味深いことです。しかも、この像は、女神ではなく男神として彫られていましたから、円空は、伊勢祭祀の秘密部分に気づいていた一人でもあった可能性が高いです。
 円空あるいは修験研究の分野で、ある種「権威」とみなされている五来重氏ですが、彼はかつて、この男神像としての天照皇太神像に対して、次のような感想を述べていました。

■円空の天照皇太神像
 円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがあるが、竜泉寺(名古屋市守山区…引用者)の「天照皇太神」と、背銘墨書もある神像と、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像は男神である。天照大神の本地、雨宝童子(春日部市・観音院…引用者)には女神的表現がみられるが、天照大神を男神としてあらわすのは、祇園祭の鉾人形以外に私は例をしらない。神話では高天原で素戔嗚尊[すさのおのみこと]が攻めのぼったとき、天照大神は髪を御髻[みずら]にまいて弓矢をもち、男装したということはある。しかし神官の姿をしたり、顎鬚[あごひげ]を生やすとは論外である。
 これは円空の造像がかなり恣意独善で、御神体は氏子に見せるものでないから、かなり自由な作り方をしたのではないかとおもう。〔後略〕(五来重『円空佛』淡交社)

 わたしたちは、これまでの瀬織津姫探究において、天照大神はもともと女神ではなく男神であったということは、すでに「常識」の範囲内となっています。五来氏にして、天照大神が男神像として彫られたことを、円空の「恣意独善」と決めつけていて、これは円空研究のその後の盲点を暗示しているのかもしれません。円空は、天照大神を男神像として、少なくとも二体彫っていますから、これは確信的行為とみなすべきでしょう。円空の「天照皇太神像」は、その後の彼の造像行為を考える上でも大きな示唆に富むもので、円空本人からの無言の「贈り物」、メッセージと受け取ることができます。新しい円空像を描くための、とっかかりの話です。
(追伸)
 サコウさん、年末年始返上による、HPのリニューアルをありがとうございました。ネット上のワル(知恵)に対してはわたしは無防備もいいところですので、悪人対策については、これからもよろしくお願いします。

005 龍泉寺 kokoro 2004/01/12 (月)

 お久しぶりです。リニューアル・新掲示板発足おめでとうございます。
 五来重氏> 円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがあるが、竜泉寺(名古屋市守山区…引用者)の「天照皇太神」と、背銘墨書もある神像と、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像は男神である。
 龍泉寺の『龍泉寺御案内記』から、当寺の由緒を引用します。
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 <前略>
 延暦十四年(桓武天皇代、約千百七十年前)僧最澄(伝教大師)が熱田神宮に参籠中に龍神のお告げをうけ、当地におもむき、多々羅池より出現した馬頭観音像(金銅製)を本尊として寺堂を建立、安置されました。
 これが松洞山龍泉寺の名の起りで、以来、名古屋市民の憩いの地として親しまれ、厄除、祈願道場として篤い信仰を集めています。
 僧空海(弘法大師)も熱田神宮に参籠のおり、八剣宮の内三剣を当山の地中に埋納し、熱田神宮の奥の院としたところから、この寺は、伝教・弘法大師の開基ともされます。
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 こうしてみると、龍泉寺は熱田神宮の奥の院ともされるなど、信仰面で、この神社との繋がりが強かったことが伺われます。当寺は円空仏が多数あることで有名ですが、なかでも馬頭観音像が知られています。天照皇大神像は、熱田大明神とともに、この馬頭観音像の脇待として製作されたものです(馬頭観音→137p、天照皇大神→102p、熱田大明神→102p)。
 したがって、この不可解な天照皇大神像は、引用文中にある伝承を初めとした熱田神宮の信仰と関係があるのではないでしょうか。
 熱田神宮の祭神は、ヨリシロとしての草薙剣に憑依した天照大神ということになっています。当寺の天照皇大神像が男神像なのも、本来、アマテラスと別系統だった、剣に憑依する男性太陽神の信仰が伊勢湾沿岸で行われていて(日明命系の太陽信仰?)、そのようなものの残滓であったかもしれません。

 もっとも、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像については、何も説明が付かないですが…(^^ゞ。

006 円空と龍泉寺 風琳堂主人 2004/01/12 (月)

 kokoroさん、おばんです(遠野弁)。『龍泉寺御案内記』の紹介をありがとうございました。
 龍泉寺の創建は延暦十四年(795)、最澄によるものであり、同寺が熱田神宮の「奥の院」とされたのは、空海によるもののようですね。最澄の熱田神宮での「龍神のお告げ」、そして、龍泉寺の本尊「馬頭観音」は、同寺の「多々羅池より出現」と、すべて「水」に関わっていることがよく伝わってきます。駒形神は馬頭観音とも習合しますが、駒形神もやはり「水」に関わりある神であることが想像されて興味深い寺伝です。記述の流れからしますと、この最澄の神託→創建のあと、空海がやってきて、熱田神宮の「八剣宮の内三剣」を龍泉寺の山(松洞山)の「地中に埋納」しているとのことで、平安期初頭、朝廷は、国家仏教の双璧のトップを熱田神宮に遣わしてきたことになります。熱田神を、よほど鎮める必要があったのかもしれません(桓武の東北「征夷」の意向と関係があるか)。
 ここで、龍泉寺に奉納されている円空作の神仏像の解説を読んでみます。
■龍泉寺の円空仏たち
 竜泉寺は荒子観音堂などと尾張四観音といわれているものの一つで、熱田神宮の奥の院とされている。/ここには馬頭観音、天照皇太神、熱田大明神、菩薩立像と千体仏を構成していたとみられる小像が五百数十体ある。
 馬頭観音は背銘に「竜泉寺大慈大悲観音延宝四年丙辰立春大祥吉 日本修行 乞食円空」と墨書し、頭上に馬頭を刻み両手を合掌した堂々たる像である。
 熱田大明神は宝珠を捧げた菩薩形、天照皇太神は男子神像形で一対として作られているのも珍しい。(『円空研究』別巻2、人間の科学社)

 写真を紹介できないのが残念ですが、それでも、「熱田大明神は宝珠を捧げた菩薩形、天照皇太神は男子神像形で一対として作られ」とありますように、円空は、天照皇太神の「一対」神として「熱田大明神」を女性像として彫っています。その柔和な表情は、最晩年の十一面観音の表情と通じるものがあります。円空は、熱田神を天照大神(男神)と関わり深い「女神」と認識していたようです(男神の日神が八剣宮へ遷されたのはいつかという問いが残っていますが)。
 円空が龍泉寺で馬頭観音(+天照皇太神、熱田大明神)を彫ったのは延宝四年(1676)とあり、これは円空の造像行為としては中期にあたります。馬頭観音は頭上に「馬」の顔を乗せていて、こういった異物を冠るというのは、のちの善女龍王像が「龍」を冠ることにも通ずる作風の転機が、この龍泉寺であったのかもしれません。
 円空が、熱田神宮の「奥の院」である龍泉寺に男神像の天照大神像を彫像・奉納していることで思い出されるのは、皇大神宮=内宮の、やはり「奥の院」とされる朝熊山金剛証寺の本尊背後にも、男神の天照大神像がまつられていることです。この男神・天照大神像の作者名は聞きそびれましたが、円空は伊勢・志摩の地を歩いていますので、ひょっとすると、これも円空作かもしれないなとふとおもいました。かつて金剛証寺へうかがったとき、この男神像は「秘神」であり、写真撮影は不可とのことでしたが、この秘神の話だけなら、もう戦後だから公に書いてもよいという約束をいただいたことを思い出しました。金剛証寺には、空海作の雨宝童子像が寺宝としてあり、これは公開されています。

007 円空は一匹オオカミ 風琳堂主人 2004/01/14 (水)

 円空が天照皇太神像を男神像として彫っていたことを、五来重さんは、円空の「恣意独善」とみていましたが、一方、円空の修験者としての「人間」性を想像・透視する点において、かなり深い意味での賛意・共感を表してもいました。これは、「庶民」の信仰史・実態に光を当てようとする、五来民俗学の魅力とも関係していることはいうまでもありません。
 たとえば、こんな円空像が語られます。

■円空の旅と修行
 円空は一匹オオカミのように旅と修行をつづけた。孤独な、厳しい修験者であったればこそあのようなきびしい芸術を生み、その中に庶民のさまざまな表情を表現することができたのである。/じゅうらい、円空の仏像はのびのびと呑気[のんき]に鼻歌でもうたって自由につくったように考えられているが、円空の修行と生活のプロセスを少しでも辿[たど]ってみると、一つの小品にも血と汗と涙がこもっていたことを感ぜずにはおれない。円空仏の魅力はそのような修行者の実感と、しいたげられた庶民の心が背後にひそんでいるからなのである。(五来重『作仏聖─円空と木喰』角川書店)

 五来さんは円空の神像に対してはあまり共感していないようですが、「円空の仏像」いわゆる「円空仏」に対しては、「庶民のさまざまな表情」が表現され、「しいたげられた庶民の心が背後にひそんでいる」と、大いなる共感を隠しません。また、そういった「しいたげられた庶民の心」を救う場所にまで降りていくために、自己を厳しく律し、自身が「仏」と一体化せんとする修験者の「行」のすさまじさも共感的に描き出されていくことになります。
 円空は千数百首の和歌を残していましたが、彼の「歌」については、「放浪の聖は、つねに和歌を霊仏霊社に献じてあるいた」とされます。また、円空たち「放浪の聖」の孤独と歌の関係について、五来さんは、次のように書いてもいました。

■放浪の聖と和歌
 また浮浪者(放浪の聖…引用者)は天涯孤独であって、その孤独にたえなければならない。何物にも拘束されぬ自由は、身をさいなむような孤独感と引換えにえられるものである。ただ一人で山道を越えて辻堂[つじどう]に休んだり、野宿したりするとき、話し相手は自分一人で、その自分との対話が和歌となる。(同前)

 ここには、木枯紋次郎的な、旅する「聖」の姿が語られています。この「一匹オオカミ」の孤独な内面を癒すものとして「和歌」はあったということかとおもいます。慰謝としての「歌」は「自分との対話」ではありますが、しかし、このときの「自分」は仏と一体となった「自分」ということでもありますから、「歌」には神仏への慰謝の意味も二重化されてきます。
 自身を「仏」と同体、あるいは分身体とまで感ずる修験的な自己修行をわたしなどは積んだことがなく、その意味でまったく「軟派」であります。「円空仏」への共感を語る五来さんに対して、しいていえば「円空神」についてどうみるか、あるいは「円空仏」と「神」との関係をどうみるかという、小さな複眼の視点だけが今手中にあるのみです。

008 円空と瀬織津姫と北海道 風琳堂主人 2004/01/16 (金)

 現在、瀬織津姫の名を祭神名として確認できる神社を北海道に探ってみますと、下記の四社があります。

■北海道の瀬織津姫祭祀社
 @ 滝之神社…乙部町【創建:文政三年=1820年】
 A 滝廼神社…厚沢部町【創建:明和九年=安永元年=1772年】
 B 川裾神社…江差町(泊神社境内社) 【創建:享保二年=1717年】
 C 川濯神社…福島町(福島大神宮境内社)【創建:明応元年=1492年】

 @〜Bは渡島半島の日本海側、Cは同半島の津軽海峡側(松前の東隣)に位置しています。
 円空が津軽半島から渡島半島・松前に上陸したのは寛文六年(1666)三月、松前から下北半島へ渡るのは寛文七年夏ごろとされますので、円空の蝦夷地への滞在は、およそ一年半、また、同地での造像数(現在確認されているもの)は44体とされます(堺比呂志『円空仏と北海道』)。
 寛文六年(1666)三月の円空の蝦夷地入りを考えますと、@〜Bは当時存在せず、Cの川濯神社一社が円空との出会いの可能性を示しています。この川濯神社の創建は明応元年=1492年とされ、蝦夷地においては、これはかなりの古社といえます。瀬織津姫がカワスソ神としてまつられるのは、川裾宮の異名をもつ唐崎神社(滋賀県マキノ町)をはじめ、全国で七社確認できますが、そのうち二社が北海道の地にみられます。このカワスソ神という神名のルーツは、御裳乃濯川比女という五十鈴川の川神としての瀬織津姫の異名にまでたどることができます。
 さて、円空と瀬織津姫のクロスですが、彼は、有珠・善光寺の再興および同地での造像のあと、渡島半島の東海岸から南海岸を歩いて松前にもどっていますので、当然福島の地(川濯神社の地)を通っていることになります。しかし、今のところ、福島の川濯神社に「円空仏」が奉納された事実は確認できません。ただ、『円空仏と北海道』は、函館の川濯神社二社(おそらく福島からの分社)が円空仏をご神体としていることを報告しています。これらは秘仏らしく、著者の堺さんも未見とのことですが、このうち函館市根崎町の川濯神社は、創建を寛文四年(1664)と伝えていて、円空の渡道時、たしかに存在していたようです。もっとも、この函館の川濯神社の現在の祭神は、両社とも「木花咲耶姫命」とされています。木花咲耶姫が禊ぎ神=濯ぎ神というのは類例がなく、ここも祭神表示の不自然性を証言している社とはいえそうです。
 円空は内浦神社(砂原町)で、霊山各山神のために六体の奉納仏を彫っていますが、そのなかに「遊楽部御手洗岳権現」(原表記は「ゆうらっぷみたらしのたけこんけん」)があります。御手洗神がどんな神かは明らかで、円空と瀬織津姫のクロス関係は北海道においてもあるようです。そういえば、北海道「最古」の神社が江差町の姥神大神宮です(創建は建保四年=1216年、現祭神:天照大御神、天児屋根命、住吉三柱大神)。ここも、円空の巡行の途上にあります。同社の本来の祭神は、境内社の折居社に折居大神の名でまつられていますが、折居社の旧跡地には「折居の井戸」があります。井の神、姥神、オリイ神ともなりうる神は一神に絞られますが、江差では、ニシン豊漁の祈願神とされます。「神」のように敬われていた折居様(老婆)が海上の岩(瓶子岩)から「水」をまくと、ニシンが群来した、その後、老婆は忽然と姿を消した……(同社縁起)。円空がここを鈍感に通り過ぎたとは、とうていありえないこととおもいます。

009 地神供養としての円空仏 風琳堂主人 2004/01/19 (月)→修正 2004/01/20

 我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ──これは『飛州志』(1729)が記すところの円空の言葉です。この円空の言葉を信じますと、彼は地神(地主神)を供養する誓願を立てて各地に遊行し、造仏したというように読むことができます。北海道の各地霊山への奉納仏作成も、この言葉を実践する初期のものということなのでしょう。
 円空の、この供養誓願の意識が「本気」であったことをうかがわせてくれるのが、元禄三年(1690)の「今上皇帝像」の背銘です。曰く、「今上皇帝 当国万仏 十マ仏作已」です。この像名は「今上皇帝」であり、「当国」において一万体の仏をつくり、ここに十万仏を作りおえたというのが従来の解釈でした。わたしも「十万仏」をつくったのはほんとうかという小さな疑念をもっていましたが、新しい解釈があることを知りましたので、ここに紹介しておきます。

■円空の作仏は全国で一万体か
 当時の今上皇帝は東山天皇であり、当国万仏とは日本で一万体ということになろう。
 従って円空はこの像によって、一万体の作仏を果たしたと書いたのである。十マ仏作已の十マは、万と書かずに片仮名のマにしているのは、マは部とも読めることから十部であり、あらゆるとか全てとか多数の意味になる。従ってこの一行は、あらゆる仏像、すべての仏像を彫り終わったという意味になろう。〔中略〕
(円空の作仏総数は…引用者)背銘にある当国一万体、元禄三年後の造仏を加え、全国で約一万体余とするのが妥当であろう。(美並村編著『円空の原像』惜水社)

 円空が最終的に十二万体か十万体か、あるいは一万体の造仏を行ったかといった、造仏の実数の確定は、彼の造像行為の本質を考えるときにはあまり意味がないのですが、ただ、従来の十万体を越す作仏を行った円空に対する幻想を正そうとする美並村の姿勢は好感がもてます。
 我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ──この円空の言葉を裏づけるかのように、円空自身によって、元禄三年の「今上皇帝像」の背銘に、「わたしは、誓願通りにたしかに(一万体の)作仏をしましたよ」と記されたことがなにごとかなのでしょう。
 わたしが問いたいのは、その作仏の実数ではなく、この円空の言葉が、なぜ「今上皇帝像」の背に記されたのか、ということです。こういった問いを発し、それに応えようとした「円空研究」は、まだ、わたしは寡聞にして読んでいません。「今上皇帝像」つまり天皇像そのものを円空が彫像し、そこに、わざわざ上記の言葉を記した意味はよほどのことではなかったかと考えるわけです。
 このことは、おそらく、円空得度後の最初の造像である天照皇太神像を男神像として彫っていたことと無縁のこととはおもえず、これらに、円空の内奥の「秘心」といったものが表れているようにおもいます。ちなみに、円空が天照皇太神像を男神像として彫ったのは、現在確認されている総計は八体とのことで(前掲書)、その多さに、円空の確信的主張が読み取れます。
 円空は、延宝二年(1674)に伊勢の地、正確にいえば、伊勢神宮から朝熊山金剛証寺へ向かっているとのことで、九体めの天照皇太神の男神像がもしあるとすれば、やはり、金剛証寺の「秘神」とされる天照男神像が、その「候補」として浮上してきます(これは確認要かも、です)。

010 亡魂供養としての円空仏 風琳堂主人 2004/01/21 (水)

 円空が「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ」として、その造像を開始し、またそれを実現したということで、円空の造仏の意図はそれに尽きるかといえば、むろんそんなことはありません。
 各地を実際に遊行するということは、そこに「人」との出会いがありますから、円空と民衆との関係が造仏行為に投影しないわけにいきません。これは、遊行の修験の内々の掟である「木食戒」に「作仏」の一項があり、円空は請われるままに、神体や本尊のない社・堂に安置するために造像をしたでしょうし、ときには、人々の受難の死に直面するなどしたときは、おそらく死者を供養するために「仏」を彫ったこともあったでしょう。
 北海道・渡島半島の西岸海域は、近世のはじめ、日本でもっとも海難事故の多いところで、円空は、そういった海難者の供養のために観音を彫ったと指摘していたのは、五来重さんでした(『円空佛』)。
 不慮の事故による死者の亡魂を鎮め、供養するために、円空は北海道(当時は蝦夷地)で多くの観音像(五来さんは、特に「来迎観音」と命名) を彫ったようです。この北海道様式ともいわれる観音は、岩座の上の蓮華座にすわる座像観音で、正面に鉢(蓮の花の器)を手にしています。この蓮の鉢によって、さまよえる死者の魂をすくいとり、最後には浄土へ運ぶというのが、この観音に込められた「意味」です。
 これは、海難者の鎮魂・供養を第一義とするも、しかし、そこには、家族・身内といった残された者たちの心を癒すという役割もあったはずです。つまり、死者に向かっては供養、生者に向かっては慰謝といった両義性をもっているのが、民衆との関係から彫られた供養仏としての「円空仏」かとおもいます。また、ここに「神」との関係をみるなら、それは、荒れ狂う海神への「供え物」(供犠[くぎ])としての仏といった意味もあったでしょう。
 海難事故は多分に自然の力によるものですが、そういった受難死とは質の異なる、いわば、人為的な理不尽な死もありました。たとえば、キリシタンの殉教死です。

■殉教者の鎮魂・供養としての円空仏
 寛文四(一六六四)年、現在の東別院裏手付近の千本松原で一二月一九日から二二日までにキリシタン一〇七人が処刑されている。
 尾張藩は、寛文五年刑場跡地に清涼庵を建て、貞享三(一六八六)年、栄国寺と改めている。この寺に観音菩薩立像(高さ三二・四cm)が安置されている。寺伝によると、円空がこの寺を訪れ、刑死した殉教者のために、この像を彫ったとのことである。(美並村編著『円空の原像』)

 幕藩体制のもとに、なぜ一方的に処刑される必要があるのか、当時の民衆の痛憤は円空のものでもあったでしょう。理不尽な死を力によって阻止できないとき、残された者は死者を鎮魂し、供養する以外に手立てがなかったわけで、その意味で、円空もまた民衆の一人以上でも以下でもなかったとおもいます。しかし、円空には、そういった民衆の「心」からはみだす部分、あるいは民衆=自己の深層心理に降り立とうとする意識もあったものとおもいます。それが、あの当初の誓願の言葉に表れています。つまり、もうひとつの理不尽な力によって「死」を与えられつづけてきた日本の古き神々(地神)、「ソノ地神ヲ供養スルノミ」という自己認識です。

011 円空の生きた時代 風琳堂主人 2004/01/23 (金)

 円空(1632〜1695)の生きた時代を、その造像行為と関わる宗教史に絞ってみてみますと、そこには恒常的といってもよい、全国的なキリシタン弾圧・処刑がありましたが、そのほかに、特筆すべき事件・出来事を、少なくとも二つ挙げることができます。
 一つは、貞享四年(1687)に、文正元年(1466)から二百年ほど中断していた、大嘗祭(天皇の即位儀礼)が復活したことです。貞享四年は、徳川綱吉が「生類憐みの令」を出した年でもありましたが、幕藩体制の固定化の一方で、「天皇」という象徴権威の存在が幕府公認の下に浮上してきた年でもありました。少し遡りますが、慶安四年(1651)三月には、「江戸市中の子供の伊勢参宮が流行し、20〜25日の間に箱根の関を通った者、1500人余に及ぶ」といった驚くべき記録もあり(『日本文化総合年表』)、伊勢参りの意識が大衆的に顕現化してきたことがうかがえます。
 もう一つの特記すべき事件は、この「伊勢」と「天皇」とも深く関わる「伊雑宮神訴事件」ともいうべき、神宮と伊雑宮との熾烈な抗争があります。ことの発端は、円空が生まれた翌年にあたる寛永十年(1633)にまで遡ります。つまり、鳥羽藩に没収されていた伊雑宮の神領の返還と、長く絶えていた遷宮(社殿造り替え)を幕府に訴えることにはじまりますが、伊雑宮側のこの訴えは、幕府によって無視されることがつづいていました。正保年間(1644〜1647)、伊雑宮の神人[じにん]は自社の古記録・縁起に基づき、「伊雑皇太神宮」を主張、寛文二年(1662)には、さらに、伊勢内外宮に対して、伊雑宮こそが「本宮」といった主張となり、寛文三年(1663)には伊雑宮神人の約五十名が追放処分(島流し)となります。岩田貞雄は「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相」という神宮擁護の論文において「神宮史上に於ても未曾有の大事件」と述べていましたが、伊雑宮側が神宮と論争する際に添付した『先代旧事本紀大成経』は偽書として却下され(天和元年=1681年)、伊雑宮側はいったんは敗訴となります。しかし、伊雑宮の神人はあきらめず、なおも伊雑宮本宮論と神領回復を訴えつづけたため(伊雑宮側は、この訴えを「神訴」と呼称)、神人代表の大崎兵大夫がついに暗殺されるという事件まで起こります(天和二年)。
 伊雑宮が主張していた「伊雑宮本宮論」をどうみるかについては『エミシの国の女神』に考察がありますのでくりかえしませんが、上記係争の最中には二度の内宮炎上といった不思議(神火か)も起こり(万治元年=1658年、天和元年=1681年)、この「伊雑宮神訴事件」が、当時の識者、あるいは、心ある庶民の話題となったことは想像にかたくありません。
 これらは、円空が生きた同時代の出来事で、円空が無関心でなかったことは、大嘗祭復活三年後の元禄三年(1690)に、前述の今上皇帝像を造像していることや、延宝二年(1674)に、伊勢神宮から朝熊山金剛証寺、そして伊雑宮の鎮座する志摩へと足を向けていることからもわかります。円空が志摩の地で、神宮との抗争で劣勢に立つ伊雑宮の関係者から、この「事件」の過程・真相をじかに聞く機会があったとしてもまったく不思議ではありませんし、あるいは円空自身、自分の眼と耳で確かめるために伊勢から志摩へと向かったとみることもできましょう。
 伊雑宮側の祭祀意識には、神宮側が建て前としてまつる神とはちがって、自分たちがまつるのは「男神」の天照大神(地神としての日神)という、円空と共有する認識がありました。円空は志摩立神の医王堂で「大般若経」六百巻の修復をしていますが、その巻末に、「イクタビモタエテモタルル法の道九十六オク末世マテモ 歓喜沙門」と墨書しています。何度絶えようとも、弥勒下生の末の世まで「法の道」(正道)を自分は生きるのだ(説くのだ)、といった意でしょうか。ここには少し気負いもみられますが、円空の本然の自覚だけは伝わってきます。

012 閑話休題──遠野の大杉 風琳堂主人 2004/01/23 (金)

 昨夜から遠野は久しぶりに本格的な雪です。日本海側にくらべればまだ小降りでしょうが、それでも、20cm以上は積もっているようです(事務所の部屋からの視認ですので、適当な目算です)。現在も降りつづいていますので、どれほどの積雪になるかはまだわかりません。
 さて、円空の基本像を描く下地の話まではどうやらたどりついたようで、少し息抜きです。千時千一夜がはじまってから、円空研究書を数冊ほど急ぎ読みしてみました。期末テスト前の不勉強学生の気分ですが、円空と日本の古層の神々との関係が、あるいは円空のそういった意識(の変容)が造像そのものに反映しているのではないかというわたしの見通しに言葉を与えている研究は、まだ読む機会がなく、これはもう少し書いてもよさそうかなといったところです。
 現在、東北の円空仏は、青森、秋田、宮城、山形には現存が確認されているようですが、岩手と福島には一体も現存確認の報告がないようです。
 もし、これが事実としますと、大きな話題となることまちがいないのですが、遠野のある寺に、円空仏ではないかといわれている仏像があるとのことです。ただ、遊行聖は円空ばかりでなく、多くの無名の聖たちが全国を歩いていますし、また「作仏」を行ってもいたとのことで、あまり過剰に期待しないほうが健康的かとはおもいますが、それでも気になる伝聞ではあります。円空とよく比較される、同じ遊行聖であった木喰行道は、たしかに早池峰山へ登って納経をしているようです。円空も、全国各地の霊山に登っていますので、早池峰山もその可能性はゼロとはいえず、この「遠野の円空仏」の確認は近い楽しみとしておきます。
 ところで、遠野に瀬織津姫がまつられた伝承は、これまで大同年間(平安時代初期)が最古とされてきたのですが、先日、おもわぬ杉の大木をみつけ、少し再考の余地もあるのかなと、これも「宿題」のような気分です。

■田屋[たや]の大杉(遠野市綾織町山口)
 熊野神社の境内に、この大杉が立っている。目通幹囲7.1m、樹高約30m、樹齢は約1500年と推定される。
 この杉は稀にみる大樹である。しかも、ほとんど損傷されていない。
 所有者宇夫方家の所蔵文書に神武紀元1138年、雄略天皇22年9月16日弟館?[ママ]より移し植えられたという記録が残っている。この老杉には、昔切ろうとしたところがこの木から出血したとか、西南にあたる幹のこぶにかねの地蔵が入っているとの伝説がある。
 現在幹の東側に高さ50cm程の金比羅大権現の石碑が立てかけてあるが、それが長年のうちに幹のくぼみに食い入り、容易に引き抜くことができないようになっている。(『遠野市の指定文化財』遠野市教育委員会、平成8年3月30日発行)

 樹齢「約1500年」が大きく狂わない事実としますと、遠野にヤマトからの「文化」が流入してきた最古の証言をする「大杉」ということになります。
 なお、この杉の現地案内板には、もう一つの伝説が記されています。曰く、ある人、大杉の根元の洞にオシラサマを置きたるに、一夜にして、洞穴の口が閉じたりと云う……。この大杉に化身している神が熊野神としますと、オシラ神を飲み込んだ「伝説」といい、やはり瀬織津姫の匂いがしてきます。そういえば、この大杉のすぐ近くには、清冽な湧き水もみられます。

014 円空仏に関する不思議 風琳堂主人 2004/01/27 (火)→修正 2004/01/27

 五来重さんは「円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがある」として、円空が天照皇太神を男神像として彫っていたことを例に出していましたが、研究諸書を読みますと、「解せないもの」は神像ばかりでなく、仏像にもあることがわかります。
 泰澄が設定した「白山三尊」の中尊は十一面観音でしたが(他の二尊=脇侍仏は、聖観音、阿弥陀如来)、円空はこの十一面観音を終生彫り続けています(現存確認総数は五二体)。全体に柔和な表情をもったものが多いのですが、なかには、憤怒相や呪詛相の十一面観音があるらしく、研究者の首をかしげさせています。

■神光寺の十一面観音
 この頃(寛文十二年頃)〔中略〕関市下有知の神光寺でも(十一面観音を)つくるがここの立像はどうした訳かお顔が憤怒形であるのは珍しい。(佐藤武「円空の十一面観音について」『円空研究』別巻2)

■神教寺の十一面観音
 円空はその後(法隆寺入山後、寛文十一〜十二年頃か)藤堂藩城下町の津にある神教寺を訪れ、十一面観音立像(高さ二三五cm)を彫る。円空仏を微笑仏とか慈悲の仏とみる人は、この像に困惑を感じるであろう。
 西尾一三氏は、これを「呪いと祈りが込められた笑い」とされている。(美並村編著『円空の原像』)

 神教寺の十一面観音は像の写真がなく具体的にわかりませんが、神光寺の十一面観音は、眉間に皺を寄せた吊り目で、たしかに「怒っている」顔つきです。
 研究者諸氏は、延宝七年(1679)の白山神の神託を円空仏変容の画期として取り上げることは共通していますが、つまり、あまり注意していないようなのですが、寛文十二年(1672)という年は、円空にとって造仏姿勢あるいは造像思想が大きく変わる年とわたしはみています。これは、象徴的にいいますと、円空が同年五月、白山の美濃馬場にあたる長滝寺(白山長滝神社)別当寺阿名院へ出向いているということが転機とみることができます。円空は、長滝寺阿名院で十一面観音を彫り、そのあとに、関の神光寺で憤怒相の十一面観音を彫っていると考えられ、それまでの白山本地仏=十一面観音に対する円空の認識になんらかの変異がもたらされたことを表明しているのが、この憤怒相の十一面観音です。
 円空は、長滝寺からの帰途に、美並村半在の八坂神社で牛頭天王像を彫ってもいますが、これを、円空は女神像として彫っています。一般的にいえば、牛頭天王は素盞嗚尊(素佐之男命)であり、男神というのが「常識」ですが、それを、円空はあえて女神像として彫っているわけです。これを、円空の天照男神像に対するように、円空の「恣意独善」(五来重)と切り捨てるのでなく、八坂神=牛頭天王を男神でなく、あえて女神として彫った円空の心意あるいは真意はなにかを考えてみますと、そこには、白山祭祀に象徴される日本の神祇祭祀の「闇」に気づいた一人の作仏聖がいるのではないかというのが、わたしが新たに提出したい円空像です。
 研究者が「不思議」がらないだけですが、意味深遠な神仏像はほかにもあります。

015 円空研究の現在 風琳堂主人 2004/01/29 (木)→修正 2004/01/30

 瀬織津姫とはどういう神かといった問いを最初に立てたときのこととくらべれば、円空については先人の研究諸書がいくつもあり、その点、つまり、基礎調査を白紙に近い状態から始めるのとはちがって、かなりラクをさせてもらっています。
 ただ、これらの「研究」を一冊の「本」(世界)として読もうとしますと、参考にはなりますが、一方でかなりのフラストレーションが堆積してくる実感もぬぐえないことはたしかです。たとえば、「〜は今後の課題である」といったフレーズが連発されるとき、それが研究者の誠意の表現であることは認めますが、やはり「そこが知りたい」といった思いが残ります。
 この「ないものねだり」的な読後感覚は、どうやらわたしだけのものではないようです。

■円空研究の現在
 従来の円空への視点は、白山信仰の問題にしても、修験道の問題にしても、事実の解説、記述に終ってしまっている感が強い。事実はそうなのだが、なに故そうなのか、という理由を円空の心の内部に踏み込み、そうならざるを得なかった心の働きの経緯と、そのことによって生じる彼の心的ドラマ及びその意味性にまでは踏み込んでいない。この点、木喰行道の生きざまについてもいえることである。(牧野和春「円空と木喰──その心的ドラマ」、池田勇次共著『円空と木喰』所収)

 この「なぜ」の問いは大事で、こういった問いを発することなく、したがって、それに応答しようともしない「言葉」の集積が、「研究」の顔をしながら一人歩きしているというのは、なにも円空研究に限られるものではありません。研究とは「事実の解説、記述」に終始するものといった及び腰の姿勢は、たとえば遠野の近いところでいいますと、オシラ神の「研究」などにも顕著にみられます。オシラ神の神体とされる桑の木の「棒」の形態を網羅的に各地から収集し、そこに分類を加えることが「研究」かどうかといった問いを立ててみるとわかりやすいかとおもいます。馬の顔の彫刻の有無とか、貫頭衣かそうでないかといったことは、そこには祭祀過程という時間の経緯は認められても(時間が下れば、祭祀者の生活感覚と知が反映されて「神」を人間的・家族的に扱うようになる)、オシラ神とはなにかという起源や本質を考える上ではあまり参考になりません。あるいは、オシラ神は「なぜ」イタコの守護神となりうるのかなど、「なぜ」はいくつもあります。収集や分類は、たしかに、ないよりあった方がよいのですが、「なぜ」という基本的な問いに真摯に応えようとする「研究」も読みたいものとおもいます。
 円空の神仏像についての「研究」も同じで、円空は「なぜ」こういった神仏像をつくったのか、「なぜ」その背銘に理解不能の像名や言葉を記したのかなど、「なぜ」はいくつもあります。
 ところで、引用の牧野和春さんですが、円空を考える「ここ」で出会うとは奇縁というべきか、うれしい再会でした。といいますのも、牧野さんは『新桜の精神史』や『桜伝奇』の著者でもあります。瀬織津姫(水神)が化身する木が「桜」ではないかという考察をするにあたって、ヒントをたくさんもらった著者でもありました(囲炉裏夜話298「水神の化身としての桜」)。
 牧野円空像は、円空の出自にまつわる闇、心的傷痕(トラウマ)に降り立とうとしたもので、円空のアイデンティティ問題を問うという視点で描かれた新円空論です。円空の心に、なぜ白山信仰はかくも深く受容されたのかという問いだけが、「最後の問い」としてあるようです。

016 地獄三山と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/02/01 (日)→修正 2004/03/07

 日本三大霊場といえば、比叡山、高野山、恐山の三山が挙げられるのですが、「地獄三山」となると、白山、立山、恐山とされるようです(森勇男『霊場恐山物語』)。
 晩年の木喰行道は、達観した好々爺のような「微笑仏」を多くつくるようになるのですが、そのなかで、異色・対極ともいえる「恐怖」仏の代表が「葬頭河婆」という三途川の奪衣婆像です。五来重さんは、「葬頭河婆は十王の支配する冥界と現世の厳粛な境に立って、死と生を止揚する祖霊的存在」と定義しています(『円空と木喰』)。この「葬頭河」を含む多くの異称表記をもつのが恐山の三途川です(ほかに、正津川、精進川、清水川)。『霊場恐山物語』によりますと、「三途川のそばに優婆堂があってここで身を清め、丸太を渡って霊山に参詣していた」とされ、優婆堂=姥堂の存在が立山と共通してあることがわかります(恐山の優婆堂は、現在、正津川河口の津軽海峡に面した大畑町正津川に移転、優婆寺として現存)。
 かつて、恐山への参詣者は優婆堂=姥堂で「身を清め」たとあります。白山の地神、立山の姥尊[うばそん]として瀬織津姫という「禊ぎ」神が認められることを考えますと、恐山の「葬頭河婆」であるウバ尊にも、瀬織津姫の偏向された投影・習合の可能性がみえてきます。
 恐山の開山は円仁(慈覚大師)とされ、これは貞観元年(859)あるいは四年(862)のことと伝えられています。恐山は、その本尊の地蔵信仰で知られるわけですが、これは円仁作とされます。円仁は、この本尊のほかに、自刻像(座像)、小地蔵尊、阿弥陀仏、三途川祖母(奪衣婆)、の四体を造像したことが「恐山本坊円通寺誌」に記されています。立山において、姥尊像の異様な視覚化、造像化をなしたのは最澄でしたが、この最澄の直系の弟子筋にあたる円仁もまた、恐山において「三途川祖母(奪衣婆)」像を彫っているというのは偶然のことではないでしょう。
 最澄、空海、円仁などを輩出した平安期は「国家仏教」の時代で、彼らが各地へ「巡錫[じゅんしゃく]」するというとき、それは朝廷の命(認可)を受けてのことだということを押さえておく必要があります。つまり、化外の地の民心慰撫、あるいは教化をするといった「高僧」の個人的意志に還元されるものではなく、それは「勅命」によっているということです。
 円仁は早池峰山までやってきて、遠野の始閣藤蔵から早池峰山の祭祀主導権を簒奪していることを伝えている藤蔵側の文書もあります。円仁(たち)の「巡錫」は、山々の地神を「仏」に置き換える、もう少し突っ込んでいいますと、朝廷にとって不都合な神々を仏教的に隠蔽し(神仏混淆化し)、ときには、その垂迹神を新たに設定して元神を変質化させるといった高等の詐術がみられ、それが「勅命」が含む真意といってよいかとおもいます。もっとも、明治期の神仏分離(→国家神道の立ち上げ)によって、彼らの国家奉仕の長い労苦は反故にされますが。
 恐山は、宇曽利(山)湖という神秘の湖を中心に、周囲を八峰(鶏頭、地蔵、剣、大尽、小尽、北国、屏風、釜臥の山々)が蓮の花のように囲んでいる地形で、「地獄」はそのまま「極楽」でもあることを象徴しています。恐山八峰の主峰は釜臥山(878.6m)で、これは下北半島一の高度をもった霊山です。釜臥山の神は「嶽大明神」とされ、正確な神の名が曖昧となっていますが、その里宮(の一つ)が現在の大湊兵主神社です。琵琶湖南岸の兵主大社の神は大国主神とされますが、大湊兵主神社は「下居明神の転身したもの」でした(森勇男、同前)。このオリイ神は、北海道の姥神大神宮の元神(表記は折居大神)と同一神とみられます。日本に、三途川の姥神、オリイ神となる(される)神は一神しかなく、「北」の瀬織津姫「隠祭」も根深いようです。
 円空は、恐山に、白山の本地仏である十一面観音を奉納していることも付記しておきます。

017 奪衣婆を拒んだ恐山の優婆尊 風琳堂主人 2004/02/03 (火)

 恐山の宇曽利(山)湖から唯一流出する川が三途川です。この三途川が葬頭河[そうずか]とも呼ばれることについては、「三途川こそ死者を葬う第一の関門である。だから葬頭河ともいわれる」といった説明があります(森勇男『南部霊場恐山由来と伝説』)。
 恐山の葬頭河婆=優婆尊にまつわる逸話を紹介します(森勇男『霊場恐山物語』)。

■正津川優婆堂の由来
 恐山の三途川はいわゆる俗界と霊界との境と言われ、霊場恐山への玄関口となっている。宇曽利湖の落し口にあり下流は正津川となって太平洋にそそがれている。昔はこの川に橋がなく丸太を並べてあったという。罪の深い人はこれを渡ろうとしても丸太が柳の細い枝のように見えて渡れなかった。三途川のそばに優婆堂があってここで身を清め、丸太を渡って霊山に参詣していたのである。優婆堂の仏像は洪水のため流されて正津川(古くは妾塚、精進川)に三回も流れ下ったので、信者たちが相図り「やはり、この仏像はどうしても山から下りたいのであろう」と、その意を汲んで御堂を建ててここに祀った。それが現在の正津川優婆堂である。

 恐山の三途川は「洪水」を起こすほどの川であったようです。恐山に参詣した菅江真澄は「牧の冬がれ」において、この三途川の流れが急なことをしたためていましたが、ときに激流をなし、洪水を引き起こすといった凶暴な表情をもっているのが三途川なのでしょう。
 円仁作の「三途川祖母(奪衣婆)」像が「優婆堂の仏像」としますと、この仏像は洪水のために「三回」も下流へ流れていったとあり、これはたしかに「どうしても山から下りたいのであろう」と里の信者に思われて不思議はありません。信者たちが、仏像の「その意を汲んで御堂を建て」たという話は、信者の人々の配慮の心が伝わってきて、読む者をほっとさせます。
 恐山の優婆尊が「山から下りたい」という「意」をもっていたとしますと、これは、奪衣婆を演じる(演じさせられる)ことへの拒否の「意」と読めます(別伝では、「奪衣婆さま」は「わしはもう亡者の衣類をはぎとることはきらいじゃ」と告げたとされます…『由来と伝説』)。
 瀬織津姫は大祓祝詞において「速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」とされていましたが、この「速川」を三途川とみなしていたのが、中央の祭祀思想である中臣(神宮)思想でした。

■三途川のウバ神としての瀬織津姫
『大祓詞』の最古の注釈書といわれる『中臣祓注抄』では、「速川の瀬」を「三途の川なり」と説明しており、『神宮方書』においては「瀬織津姫は三途川のうばなり」と書かれております。人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きの神であるともいえます。(佐久奈度神社由緒書)

 ここには、瀬織津姫という神が「奪衣婆」とみなされることが簡潔に語られています。瀬織津姫は宗像神の湍津姫=田寸津比売と異称同神でもありました。恐山讃歌の一首「渓深く道をくだれば湍つ瀬にかかる橋あり揺れて渡りぬ」(「恐山」、本山栄一歌集『挽歌』)の「湍つ瀬」は三途川のことで、瀬織津姫は、この「湍つ瀬」の神とみてよいでしょう。優婆尊が「奪衣婆」を拒否する「意」をもっていたとすれば、それは瀬織津姫のものでもあったと想像できます。

018 恐山と中尊寺と円空 風琳堂主人 2004/02/06 (金)

 円空は彫刻に秀でた僧で蝦夷の信頼篤く「今釈迦」と崇められていた──これが、恐山に伝えられる円空像とのことです(森勇男『霊場恐山物語』)。円空が北海道(蝦夷地)の霊場を巡り(太田山→有珠山→恵山)、下北半島・佐井へ渡ったのは寛文七年(1667)のことで、それは海の荒れる冬の前だったようです。下北半島には本州最北の霊場・恐山があり、円空の霊場巡錫・地神供養の意識からすると、下北半島へ渡ることは当然の道筋であったと考えられます。
 現在、佐井の長福寺に円空作の十一面観音が残されています。円空の十一面観音作仏の最初は寛文五年(1665)、美並村木尾の白山神社における白山三尊の中尊としてのそれでしたが、この佐井における作仏は、北海道上ノ国につづく十一面観音とされます。
 佐井には、次のような、意外ともいえる伝承があります。恐山に向かう前のことです。

■三体同一木の円空仏
(佐井の十一面観音は…引用者)恐山、平泉中尊寺と三体同一木から刻んだもので、子安の観音として験をたたえられていることを伝えている。挿絵によれば、それは円空作の仏像である。(熊谷省三・佐賀末次郎「田名部海辺三十三番巡礼札所をさがして」『霊場恐山物語』)

 円空は恐山に十一面観音を奉納しており、これは恐山本堂(地蔵堂)に現存しています。恐山・宇曽利湖周囲の八峰には南部ヒバが密生していますが、ここは山々全体が霊場で、木を伐るわけにはいかなかったのでしょう。円空は佐井で作仏し、それを恐山に奉納したとみられます。
 円空の時代の恐山は、天台宗蓮華寺と曹洞宗円通寺による恐山の祭祀支配・管理権をめぐる確執がありましたが、南部藩の後押しもあって、けっきょくは円通寺の管理下にはいり、これが現在にまでつづいています。天台宗の最高僧である円仁の開山伝承をもつ恐山から、天台宗蓮華寺が敗退したということは、大きな意味があるものとおもいます。なぜなら、これは、円仁(天台宗)に象徴される「国家鎮護」の標榜が恐山から無化されたことを意味しているからです。「(恐山)信仰の担い手は、皇室や貴族や、特定の武家や領主ではなく、かえって、女性を中心とする庶民であることを忘れてはならない」という指摘は重要です(楠正弘『下北の宗教』)。
 南部藩のゆるやかな管理下にあるとはいえ、恐山信仰を支える主体は、中央・地方の政治・宗教権力ではなく「女性を中心とする庶民」であることに、恐山(信仰)の本質も魅力もあります。江戸期、女性救済の全国的メッカとみられていたのが立山・芦峅[あしくら]寺の姥堂(姥尊信仰)でしたが、この姥尊の本地仏が地蔵尊でした。恐山の本尊もまた地蔵尊(伝・円仁作)ですが、賽(西院)の河原には、本尊とは別に地蔵尊と千手観音が人々の親しい信仰対象となっています。本堂=地蔵堂背後の神体山は地蔵山といわれ、同山中腹にはかつて「奥の院」があり、その本尊は不動明王でした(現在は石仏のみ)。ここには、恐山信仰の二重性がかすかにみえかくれしていますが、恐山の地神が不動尊と習合する神であり、女性救済とも深く関わる神としますと、これは女性救済神としての熊野神(那智神)を想起したくなってきます。那智の本地仏も十一面観音であり、円空の恐山奉納仏が十一面観音であることは偶然の一致かどうか──。
 佐井の伝承では、「三体同一木」の残りの一体(おそらくこれも十一面観音)は平泉中尊寺に奉納されている可能性があります。同寺の守護神は白山神であり、白山の本地仏もまた十一面観音ですから、円空には、恐山と白山の地神は同一神という認識があったのかもしれません。

019 オシラ神の権化木 風琳堂主人 2004/02/09 (月)

 遠野の北に隣接するのが川井村で、ここの小国地区の善行院に、天正二年(1574)という、岩手県内最古の記銘をもつオシラ神の木像(一対二体)があります。また、川井村で二番目に古い記銘は元和七年(1621)で、これを所持するのは威徳院とのことです。ちなみに、東北エリアに拡大してみたときはどうかといいますと、これは、青森県八戸の天文五年(1536)というのが最古の記銘として確認されています(川井村教育委員会『川井村のオシラサマ』1971年)。
 オシラ神はもともと家神で、善行院とか威徳院といった修験の家筋にまつられるものは、時代が下る現象とみてよいようです。ただ、わたしがここで注意したいのは、この二つの家筋が、ともに早池峰修験の徒(別当)であるということです。具体的にいいますと、明治期のことですが、善行院は早池峰山神社に、威徳院は早池峰新山神社となり、早池峰大神=瀬織津姫をまつるようになります(もっとも、威徳院は明治三年に還俗して神官となるとき、祭神表示は「須勢理姫命」とされたようでしたが、その後、瀬織津姫にもどしたという経緯があります…『川井村郷土誌』『岩手県神社事務提要』)。
 神体の木像に制作年号を記銘するということ自体、ここには修験者が所有する「知」が投影しているとみることができますが、それにしましても、ここには、早池峰神祭祀とオシラ神祭祀が交差している現象をみることができます(早池峰神=瀬織津姫がオシラ神と習合することについての総合的考察は『エミシの国の女神』を参照ください)。
 恐山といえばイタコの口寄せがセットのようにおもわれますが、恐山の大祭にイタコが集まるようになるのは、大正から昭和にかけてのころからで、それほど古い歴史をもっているわけではありません。イタコの持ち歩く祭具にオシラ神がありますが、「恐山のようなところへ出向く時はオシラ神を持ち出さない」とされます(森勇男『霊場恐山物語』)。これは、イタコの仕事として、口寄せ(仏オロシ)以外に神オロシ(神占)があり、後者において、オシラ神の「力」が利用されるからで、仏=死者の口寄せとは一線を画しているということなのでしょう。
 オシラ神の神体の素材木ですが、前記川井村の調査によりますと、たしかに桑の木が多いのですが、なかには「不明」のものや「桂」という報告もあります。また、イタコが「祭具」として利用するオシラ神は「竹」が多いとのことです(楠正弘『下北の宗教』)。
 オシラ神が養蚕神であるという基本像を反映したのが桑の木による彫像ですが、これは、しかし、あまり固定して考えないほうがよいということを教えてくれる報告もあります。

■オシラ神の権化木
 おしら様はなにのご利益があるかわからないし、どんな服を着せてよいのかわからないが、神様だってきれいな服を着たいと思うのでこのハカマを(にしきのオセンダクと言っていた)着せておく。権化木[ごんげき]は桑の木とも桜の木とも聞いている。どっちの木でもいいと思う。(八戸の巫女・中村キサ、「オシラ神と道祖神の聞書」、岩崎敏夫編『東北民俗資料集(2)』所収)

 オシラ神が桑の木に「権化」するときは養蚕神、桜の木に「権化」するときは水神といった性格が投影されているのかもしれません。修験の神木は「桜」であると指摘していたのは五来重さんでした(『円空佛』)。修験の祖とされる役小角が大峰山の神の化身として金剛蔵王権現を彫った木も桜でしたが、大峰神は「天河弁財天」ともなりうる、熊野の川上神=水神でした。

020 『岩手県神社名鑑』と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/02/12 (木)→修正 2004/02/13

『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会、昭和14年)によりますと、当時、県内の神社は991社あり、これらが「国家神道」全盛時の国家管理下にあった神社数であることがわかります。
 その後、「県内の神社全般を記したもの」はしばらく無い状態がつづき、ようやくに編集・発刊されたものとして、『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁、昭和63年)があります。この『名鑑』によりますと、収録神社数は全859社で、昭和14年から昭和63年にかけて、約130社が記載対象から削除されていることがわかります。この減少数については、たとえば遠野市附馬牛の新山神社(祭神:瀬織津姫)などは現存していますので、必ずしも神社そのものが消滅したからではなく、おそらく神社本庁「所属」神社というのが859社ということかとおもいます。
 伊勢神宮を「本宗」とあおぐのが神社本庁で、その傘下に、各自治体単位で組織されているのが神社庁です。この神社庁(自治体)単位で各地の神社誌が編集・発行されていて、その名称は「○○県神社誌」というのが多いようですが、岩手県の場合は『岩手県神社名鑑』とうたっていて、書名になにがしかの自負が込められていることが伝わってきます。
 さて、『岩手県神社事務提要』→『岩手県神社名鑑』における瀬織津姫祭祀の変遷はどうかといった視点でみてみますと、戦後において、瀬織津姫の祭神表示が消えたのが2社、逆に表示されるようになった神社が1社あることがわかります(瀬織津姫祭祀社の収録は23社→21社)。
 消去されているのは、遠野市上綾織の愛宕神社(瀬織津姫命→軻遇突智命)と安代町の桜松神社(瀬織津姫命→滝津姫命)です。後者の桜松神社ですが、現神官の方は祭神が瀬織津姫であることを認識していますし、岩手日報社の『岩手の伝説を歩く』や、安代町のホームページにおいても(当HPのリンク集を参照)、瀬織津姫の名を再三にわたって紹介していますので、これはとても奇異な祭神表示の変更とみなすことができます。もっとも、岩手県の瀬織津姫消去はまだ「手ぬるい」方かもしれません。瀬織津姫祭祀の消去をかなり陰険に試みている例としては『石川県神社誌』があります(囲炉裏夜話789「伊勢神宮の成立と『力』の話」参照)。
 瀬織津姫が新たに復活登場してきたのは、一関市の瀧神社といいます。ここは、戦前、伊弉册命の一神のみをまつると表示されていたところです。同社の由緒等を読んでみます。

■瀧神社「由緒」
鎮座地 一関市滝沢字下一〇八番地
祭神  伊奘諾尊、伊弉册尊、瀬織津姫命
由緒
 延暦十年(七九一)坂上田村麻呂東夷征伐の折、磐井郡司安倍黒人が田村麻呂に従い追討のため荒滝に来て賊を討ち、住民を安んじた。この時白山大神を桂峯に、熊野大神を延寿原に奉祀した。寛治二年(一〇八八)熊野大神を桂峯に奉遷して熊野・白山二神を合祀した。
 また大同年間(八〇六─八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安し、後この三柱を合せて一村の鎮守とした。(『岩手県神社名鑑』)

 白山大神、熊野大神、祓戸大神の三神祭祀──。類例のない豪華祭祀というべきですが、この由緒通りならば、戦前に瀬織津姫の名を消去する必要はまったくありません。瀧神社のこれら三神は、もともと「異神」であったわけではなく、とても暗示的な「由緒」です。

021 『岩手県神社事務提要』の思想 風琳堂主人 2004/02/14 (土)

 神社ハ国家ノ宗祀ニシテ我カ国体精華ノ根源タルコト敢テ多言ヲ要セサル所ナリ──これは、『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会、昭和14年)の巻頭「例言」の最初の一行です。この『提要』は、大正13年に初版が出されたようですが、その後の「神社ニ関スル法令」の発令の多さに、神職自身がどう対応してよいか判断に迷うということで、必要な法令を「転録」し、周知徹底するために、昭和14年に再編集・発行されたものです。「国民ヲシテ神社崇敬ノ実ヲ挙ケシメン」というのが、初版以来の一貫した主眼とのことです。本書は、神職の内部文書というべき性格をもっていて、原則、一般氏子・国民が眼にすることはありませんでしたが、わが国の「神社」の性格(国家思想を反映する性格をもつ神社)を考える上で貴重な歴史資料です。
 当ホームページにおいて、特集で「瀬織津姫」を取り上げたときから、上記「神社」の性格については折につけふれてきたものです。これは、いきおい「神社」の祭神問題について論及するという傾向をもってきました。一般に、神社のカミサマは時の流行によってコロコロ変わるのだから、祭神の是非を問うことはどんなものかといった訳知り顔の神社サイトの言説を知らないわけではありませんが、これは、渋谷のファッションの推移・変化と同列に祭神問題を矮小化する論であることはいうまでもありません。『提要』を一読してみればわかりますが、たとえば神社を新たに興す、再興するときの申請書記載は「祭神名・神社名・由緒」といった順でうたわれていて、いかに戦前の国家が「祭神」にこだわっていたかは明らかなことなのです。
 この祭神問題に関する当該事項を『提要』にみてみます。

■神社ノ祭神、神社名、社格、明細帳ニ関スルコト
一 祭神ノ増加又ハ変更ニ付テハ地方長官ニ於テ内務大臣ニ経伺ノ上処分セシヲ、今後ハ官国幣社ニ在リテハ地方長官ヲ経由シテ内務大臣ニ具申シ、府県社以下神社ニ在リテハ地方長官ニ於テ詮議セントスルトキハ内務大臣ニ稟請スルコトゝナレリ、但シ北海道ノ県社以下神社ニ付テハ祭神誤謬訂正ノ外、其ノ増加並変更ハ内務大臣ニ経伺ノ上処分セシヲ、総テ長官限リノ処分ニ委ネタリ。(第一條)(「神社ニ関スル改正法規ノ綱要」)

 昭和14年時点の祭神に関する「改正法規」の解釈が述べられている箇所です。引用からは、北海道においては「祭神誤謬訂正」と「増加並変更」の決定権は内務大臣から道庁長官へと移管されたことが読み取れます。しかし、道外においては、「府県社以下神社」といった末端の社にまで「祭神ノ増加又ハ変更ニ付テハ」地方長官から「内務大臣ニ稟請スルコト」と明記されています。この内務大臣の絶対権限の行使範囲は、引用の祭神問題ばかりでなく、「社格ノ変更訂正」や「神社ノ創立」などの諸項においてもみられます。「神社ハ国家ノ宗祀ニシテ我カ国体精華ノ根源タルコト敢テ多言ヲ要セサル所ナリ」という巻頭の言葉はハッタリの言辞ではなく、本気(国家意志)だというのが、「内務大臣」の絶対裁量をうたうことによく表れています。
 敗戦時、この内務大臣の権限は消滅しますが、戦後すぐに、全国各神社の「総意」のかたちで代替・発足するのが神社本庁かとおもいます。氏子自身による自由な祭神表示を禁じたのは明治の神仏分離時点にまで遡りますが、その不自然は内省されることなく、神社(神々)および神職の国家管理がつづき、戦後においても、この「国家神道」に対する内部批判・自己批判を空洞にしたまま、あるいは復古的思惑を秘めたまま、神社祭祀の「現在」はあるといえます。

022 北東北の円空仏 風琳堂主人 2004/02/16 (月)

 寛文七年(1667)、およそ一年半の蝦夷地における修行・巡錫を終え、円空は下北半島・佐井の地へ渡ります。この下北の地は、当時、田名部[たなぶ]と呼ばれていました。これは、南部藩の外地、つまり外南部が田名部に転じたとされるようですが、生活の交流は蝦夷地との間に強く成立していたようです。この関係は江戸期を通じて変わらなかったようで、明治二十四年九月の地元紙(東奥日報)の社説に、下北の地は「青森県の北海道」「文明の化外」などと記されていたことによってもわかります(浪川健治編『下北・渡島と津軽海峡』吉川弘文館)。
 蝦夷地において、円空の造像の主流は坐像観音でしたが、円空が下北・佐井の地で最初に彫像したのは十一面観音立像で、しかも同一木から三体を彫り上げたとされます(一体は佐井・長福寺に、一体は恐山に現存、残る一体は平泉・中尊寺へ奉納された可能性があるも不明)。
 円空は、恐山へ十一面観音を奉納すると同時に、同山の伝・円仁作の千体仏の補修(補造)などをし、美濃への帰路に着くわけですが、ここで興味深いのは、下北における十一面観音三体の造像をはじめ、少なくとも八体の十一面観音を北東北の地に残していることです(下北外では、田舎館村弁天堂、弘前市西福寺、能代市竜泉寺、男鹿市五社堂、雄勝愛宕神社に現存)。
 蝦夷地での巡錫体験のあと、円空の造像意識、つまり地神供養としての奉納仏の意識において、その作仏の中心に十一面観音を置こうとする傾向が生じたことが想像できます。では、円空の意識にこのような変容をもたらした蝦夷地におけるきっかけはなんだったのかという問いが浮かんできます。それを決定的に証明できる文献等はありませんので、これは仮説的な想像としていうしかないのですが、わたしは、円空が終生こだわった白山信仰、その白山の地神信仰が、遠く蝦夷地においてはまだ生きていて、それがアイヌと倭人たち共通の信奉となっているという現実があったのではないかと考えています。こういった「気づき」の視点で、恐山以南の北東北の地の土着的あるいは底辺の信仰をみるとき、白山の地神信仰は蝦夷地のみに生きているわけではないことが、円空には経験的にみえてきたのではないかとも想像しています。
 ここで、青森・秋田と共に北東北を構成する「岩手」における円空仏の現存第一号となるかもしれない可能性を記している、ある神社を紹介しておきます(『岩手県神社名鑑』)。

■榊山稲荷神社
鎮座地 盛岡市北山二丁目一二番一二号
祭神  豊受之大神
由緒
 当神社は、盛岡の街づくりが始まった慶長二年に、榊山稲荷大明神を盛岡の守護神として城内に祀ったことから始まります。藩政時代は、藩主から一般庶民に至るまで篤く信仰され、「もりおか開運神社」と称され崇められてまいりました。/その後、明治維新の改革により廃社となったものを、昭和の初めに先代宮司荒川清次郎氏が、現在の北山の地に再興した…〔中略〕
宝物  本居宣長書「三社託宣」、円空仏(四尺立像)

 榊山稲荷神社の崇敬者は「五万人」とも記されていて、また、これほどの由緒をもつ社が、後に再興されたとはいえ、明治期の初頭になぜ「廃社」とされたのか──、謎は深そうです。
 榊山稲荷神社の円空仏──。この作仏経緯や造像の種類についてはまだ確認していません。

023 最北の不比等伝承 風琳堂主人 2004/02/19 (木)

 白山と早池峰山の開山は同じ日だったのではないか──これは、遠野の郷土史・民俗史の「生き字引」ともいわれる菊池幹さんの指摘で、調べてみるとたしかにその通りなのです。白山は泰澄によって養老元年(717)六月十八日、早池峰山は四角藤蔵によって大同元年(806)六月十八日に「開山」されたとされ、両山とも、現在、その例大祭を(新暦に直していますが)七月十七日を宵宮祭、十八日を本祭としています。白山の地神と早池峰山の神は瀬織津姫という同一神でしたから、開山の日付を同一としていることは、偶然の一致とはみなせないようです。
 早池峰神社の戦前の「由緒」を読みますと、末社(早池峰山鎮護社)が全20社あったとされ、その筆頭社は白山神社と記録されています。また、藤蔵によって早池峰山の祭祀がはじまったあと、円仁がやってきて、彼は遠野郷に自作の七観音(十一面観音七体)をまつったとされます。この七観音の一つに鞍迫観音(福滝寺)があり、同寺廃寺後の管理をつづけた観蔵坊は、明治期の神仏分離時に神社化するも、それは早池峰神社ではなく白山神社として登録します。こんなところにも、早池峰山と白山の「関係」の痕跡をうかがうことができるかもしれません。
 東北(陸奥国)における白山信仰をみますと、「古社」とおもえる伝承をもつものの多くは、判を押したように、坂上田村麻呂の勧請伝承、あるいは田村麻呂の「征夷」に関わる延暦・大同年間という時間を創祀伝承にもっています。『岩手県神社名鑑』に、大同以前の創始伝承をもつ白山関係社を拾ってみますと全11社あり、そのうち7社が田村麻呂と関係づけて自社の創祀をうたっています。その他、日本武尊による勧請伝承をもつ白山神社などもありますが、こういった象徴的な「朝威」とみなしてよい坂上田村麻呂や日本武尊をうたうのではない、独自の創祀伝承をもっている白山神社については、養老年間の勧請伝承をもつ白山神社二社と、和銅二年(709)の勧請伝承をもつ大門[だいもん]神社があります。大門神社の由緒を読んでみます。

■大門神社
鎮座地 西磐井郡花泉町金沢字大門沢七七番地
祭神  大己貴神、雷神、白山姫神
由緒
 和銅二年(七〇九)六月二十四日、藤原義勝公神体山として本山に大己貴神・雷神・白山姫神の三柱を奉祀される。後に養老元年(七一七)閏六月二十四日、藤原淡海公当社を深く崇敬され、一寸八分の尊像を宝物として寄進され、更には天平二年(七三〇)三月吉日、藤原朝臣葛将軍本殿及び大門を造営寄進され、以て現在に至る。(『岩手県神社名鑑』)

 この短い由緒表現のなかに、三つの異なった時間が書かれていますが、興味深いのは、白山の開山(祭祀改竄)がなされた養老元年(717)の同年同月に、「藤原淡海公」つまり藤原不比等が関わっている伝承があることです。不比等は、白山祭祀の改竄を、元正女帝の名で行使した実質的命令者とみてよく、その当事者が、はるばる陸奥国の白山神祭祀社になんらかの関わりを伝えているわけです。さらに天平二年(730)の「藤原朝臣葛将軍」は不比等の三男である藤原宇合とみてよく、不比等父子が、都からはるかに遠地である陸奥の大門神社にまで関わっていることになります。これは、ほかの白山神社とは異質かつリアルな伝承(史実)というべきで、ここには、神社祭祀に深く関与する、おそらく最北の不比等伝承が刻印されているとみられます。

024 仏法を試みん 風琳堂主人 2004/02/22 (日)

 白山神勧請の古伝承をもつ大門神社由緒は「養老元年(七一七)閏六月二十四日、藤原淡海公当社を深く崇敬され、一寸八分の尊像を宝物として寄進」と記していました。藤原淡海公=藤原不比等が「寄進」したのは「尊像」とありますから、これは仏像でしょう。ではどんな仏像かと宮司さんへ問い合わせてみたのですが、これが絶対秘仏とのことで、口外ならずという秘密めいた話になっているようです。ただ、内々に、三十三年ごとの開帳がなされているとのことですから、これは「三十三」ゆかりの観音像であろうことまでは想像できます。
 義江彰夫『神仏習合』(岩波新書)によりますと、神仏混淆の古い例として、霊亀元年(715)、越前国の気比神宮に神宮寺が建立されたことを挙げていましたが、気比神の神仏混淆化の二年後の養老元年(717)に、白山もまた神仏混淆化がなされます。藤原不比等が右大臣という権力の座に就くのが元明女帝時代の和銅元年(708)のことで、各地の地神(特に神宮祭祀を脅かす神々)が中央の命で本格的に「仏」化される始まりを、この不比等時代に重ねることができそうです。
 養老二年(718)に、熊野神(熊野本宮神)が室根山にまつられます。神仏混淆の形成から室根山の「本地仏」を考えますと、熊野本宮の本地仏と同体の阿弥陀如来ならば一応は整合しますが、しかし室根の方は十一面観音とされ、それだけでも、室根山の秘密めいた祭祀を暗示しています。室根神社の祭神については、「明確に記録された古文書は現存していない」とのことで、同社祭神が「伊弉冉命」とされるのは、大正八年の「県社昇格願い」のときとのことです(『室根神社史実録』室根村文化財保護委員会)。十一面観音と習合する熊野神=室根神もまた背後に瀬織津姫を伝えていることについては繰り返しませんが(「熊野神としての瀬織津姫」参照)、この秘密めいた室根山祭祀にはさらに前史がありました。
 室根山の古名は鬼首山と呼ばれていたわけですが、これは、「魔縁のもの」が住む山で、それを討伐したあと、その首を埋めたことから命名された山名でした。この「魔縁のもの」の討伐を命じたのは元明女帝で、これは和銅二年〜三年のこととされます。「魔縁のもの」=鬼神の菩提を弔うために送られてきた仏が、文武天皇「御手づから」制作とされる聖観音という、驚くべき伝承をもっているのが、室根山南麓にある南流神社(当時は南流山観世音寺)です。

■南流山観世音寺の「大極秘の霊仏」
 抑抑この御仏(聖観音…引用者)と申すは、忝[かたじけ]なくも昔、先帝文武天皇、仏法を試みんがために、御手づからこの御仏を造らせ給うなり。あの御時は行基菩薩なれば、文武天皇この菩薩に命じて、開眼いたさせ給う御仏なり。しかる間元明天皇、先陣を賀茂王次四郎実盛に命じて下し給うと今の世迄も語り伝える。昔文武天皇菅[すげ]の荒菰[あらこも]に包み奉り、大慈大悲にこれ極悲(極秘)とて姿をかくさせ奉る。その故に元明天皇の勅錠には、これ大極秘の霊仏なり。この御仏を勧請させ、その折壁と申す村を末代まで氏子として、子孫繁昌万民豊楽具[つぶ]さにその地をこの御仏に守らせ給うべしとの勅錠を、仰せ下し給うなり。忝[かたじけ]なくも又この小四坊(室根山の鬼神…引用者)の首をもともに下し給い、大菩提を弔うべしとの勅錠によって下させ給うなり。(「南流山観世音寺」、『室根神社史実録』所収)

 修験仏徒の知と創作意欲が過度に投影した寺伝です。ここからみえてくるのは、「鎮魂」に名を借りて神が仏に置換されるという一点で、まさに「仏法を試みん」とする実践の姿でしょう。

025 瀬織津姫の古歌発見 風琳堂主人 2004/02/25 (水)→修正 2004/03/30

「鎮座地、祭神の不明確なものなどが多く、その判断に迷い、いちいち神社明細帳と照合するなど苦労を重ねた」──これは『岩手県神社名鑑』の「あとがき」の言葉です。ここでいわれている、祭神等の確認用の原本とみられる「神社明細帳」がいつの時点のものかはわかりませんが、明治期以降に制作されたものであることはまちがいないでしょう。
 神仏混淆の禁止が新政府によってうたわれたのは慶応四年(1868)三月二十八日のことで、同年の九月八日に「明治」と改元したあとの十一月には、全国の主要神社の社格が早々と定められ(神祇官勅祭社の設定)、その勅祭社の筆頭社に伊勢神宮が確定されます。このあと地方の諸社に対して、府県社、郷社、村社、無格社の社格設定がなされていくわけですが、その前過程において、各神社についての(祭神確定を含む)基礎調査がなされます。
 地方諸社の祭神等の決定に関する具体的資料として、「新潟県社祠方」の小池厳藻が書き残した『神社廻見記録』があります(安丸良夫『神々の明治維新』に部分収録)。この「社祠方」なるものが、初期段階の各社の祭神決定に関与していたようです(新潟県の場合は明治三年)。これを「神社改め」ともいいますが、その内容は「村々の神祠を実際に検分して神仏を分離させ、不都合な神体・飾り物などを取りのぞかせ、神名を定めたりするものであった」とされます。
 維新政府の権力を背後にちらつかせながら、各社の神仏分離→祭神決定がなされていく光景が目に浮かぶようですが、こういった政府役人の作成した神社資料を基に、さらに「それらしい」由緒を創作付加して成書化された公認の登記簿が「神社明細帳」かとおもいます。
 青森県八戸市に、御前神社という古社があります。同社は江戸期は「御浜御前」といわれ、ここに伝わる江戸期の由緒書(「東国正鎮守御浜御前」)には、次のような瀬織津姫を讃える「古歌」が記されています(八戸市『八戸の神社寺院由来集』所収)。

■御前神社に伝わる瀬織津姫の古歌
 みちのくの 唯[ただ]白幡旗[しらはた]や 浪打に 鎮りまつる 瀬織津の神

 明治四年の「神社調べ」においては瀬織津姫の名は消去されますが、江戸期までは、御前神社の神は「瀬織津の神」という認識があったようです。これは、福島県古殿町の「鎌田家文書」に継ぐ「証言」歌で、瀬織津姫は白旗神(八幡比売大神)でもあることを伝える歌です。また、この御前神に対して、次のような、屈折した賛意を込めた添え書きも収録されています。

■御前神に関する添え書き(原文は漢文)
 根[もと]を元として本心[もとのこころ]に任[まか]す。神、非礼を受け賜[たまは]ず。生を豊穣津島の神国に受け、情を全うす。而して、必ず神に成り賜[たま]へ。上五常五戒、悉く具ふ。

 御前神社のこの江戸期の由緒は、明治期初頭の由緒においてはまったく内容が変わってしまいますが、ここには、御前神=瀬織津姫に対して、「神、非礼を受け賜[たまは]ず」とあり、ひょっとすると、明治期の「神社改め」の直前か同時期に、こういった添え書きが秘密裏に記されたことが考えられます。としますと、ここには、御前神社神官による、自社の祭神および由緒改竄(の強要)に対する痛切な思いを込めた証言がしたためられていたことになります。

026 白幡神としての瀬織津姫 風琳堂主人 2004/02/29 (日)

 八戸において、白旗=白幡神として瀬織津姫の名が伝えられていたことと、おそらく無縁ではないとおもうのですが、実は、遠野にも白幡神社があります。早瀬川の源流部(仙人峠)には十一面観音がまつられていましたが、白幡神社は、この早瀬川から引いた用水の川辺にある小さな社です。一般には、境内に「さすらい地藏」と呼称される力石があることで知られます(現在は河童像もあります)。白幡神とはなにかということで、遠野の白幡神社の由緒をみてみます。

■白幡神社
(遠野市)松崎町白岩字新張に鎮座し、堂社は大正七年(一九一八年)の建築である。もと遠野町一日市の東方にあって、中川原観音はその跡であるという。白幡観音とも称された。祭神は神功皇后とも、源義経の白幡ともいわれているが、今は単に白幡大明神を祭るとしている。鈴木家の氏神である。
 弘化四年(一八四七年)の三閉伊一揆の際、早瀬川原に集結した一万二千人余りの一揆は、この白幡神社から加茂神社の間に陣したと伝えられるが、この時の図面には熊野権現社ともある。いずれにしても、幕末には既に遠野から現在地に移されたようである。(『遠野市史』第四巻)

 源平の戦いで、平氏は赤旗、源氏は白旗を立て、それぞれ自軍敵軍を識別していたことから、白幡=白旗神は源氏ゆかりの神とされます。白幡神社の祭神として、「神功皇后とも、源義経の白幡ともいわれている」といった伝承が出てくるのもそういうことなのですが、祭神の候補に神功皇后の名が出てくるのは、これは石清水八幡宮を含む、全国の八幡神社の「本家」である宇佐八幡宮(現祭神:応神天皇、比売大神[宗像三女神]、神功皇后)を想定してのことでしょう。
 白幡=白旗神というのは、いざ調べてみると、これもどうもはっきりと統一的な祭神名が出てこないようで、要するに秘密めいています。ちなみに、『岩手県神社名鑑』は千厩町の白幡神社一社を収録していますが、同社祭神は「伊弉册之命」で「源義経勧請」と書かれています。また、福島県では、「高良玉垂命」だったり、「菊理比盗_」といった名も出てきますし、義経の「首」を葬ったとされる藤沢市の白旗神社は「寒川比古命」とされ、義経の霊を合祀しています(寒川神に瀬織津姫が重なる話は、囲炉裏夜話707「水主神とはなにか」を参照ください)。
 遠野の白幡神社は、かつて(神仏混淆時代)、中川原観音あるいは白幡観音と称されていましたから、白幡神は「観音」と習合する神とみてよさそうです。中川原(白幡)観音は、明治初年、遠野市内の瑞応院(臨済宗)境内に遷されます(現在の観音堂)。同観音は現存していて、塗金されていますが木像の立像で、正確な像種は、十一面観音です。八戸の白幡=白旗神が瀬織津姫であり、また、早池峰山および白山の本地仏が十一面観音であったことを考えますと、遠野の白幡神祭祀における、この神仏混淆の「仏」の選択祭祀は理にかなっています。瑞応院は、境内に早池峰神を土地神としてまつってもいて、ほかの寺院でなく、あえて瑞応院へ白幡観音が遷されまつられたのは、たしかに「縁=ゆかり」を認めてのことだったのかもしれません。
 ところで、義経は、その不遇と悲劇性から「怨霊神」たりえます。藤原権力によって「死」をもたらされた柿本人麻呂、菅原道真の霊が、同じ境遇にある瀬織津姫の祭祀(隠祭)に重なる例を考えますと、この怨霊神の系譜に、新たに義経を加えることもできそうです。白幡神とは、応神や神功皇后をまつる八幡神祭祀の「表」に対して、「裏八幡神」のようにおもえます。

027 八幡大神と白幡旗神 風琳堂主人 2004/03/06 (土)

 みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神──八戸・御前神社に伝わる瀬織津姫の古歌は多くのことを示唆・暗示しています。八幡神と白幡(白旗)神の関係について、では、八戸・御前神社においては、これはどのように現れているのか──。明治期、御浜御前は「三前神社」と社名が変更されますが、この明治の「新しい」由緒を読んでみます。

■三前神社(現在:御前神社)「由緒」(明治四年「神社調」)
一、祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命 (相殿)神功皇后、武内宿祢、八幡宮、大雷神
 底筒男神中筒男神上筒男神三神ハ往古武内宿祢勅命ヲ奉テ東夷平定スルノ時当時階上ノ郷ニ降リ玉ヒ此浦小浜ニ安座シ天下泰平国土安穏ノ大諄辞ヲ海神ノ御前ヘ祈請ス、然ルニ三神浪上ニ出現シ相諾ヒ玉ヒテ天下泰平皇城ヲ守護シ奉ラント誓ヒ給フカ故竹内(武内)更ニ祠ヲ造営シ三神ヲ鎮メ奉リテ三前御前ト仰キ奉リ、常磐ニ堅石ニ万世迄此山ニ[左目崎ト号ス]鎮座(シ)テ皇城ヲ守護シ賜ヒト斎ヒ奉レリ、亦三神小浜ニ[旧跡今ニ存ス]出現有シ故ニ御浜御前ト号ス、亦云三神白涛ニ出現シ玉フ故ニ山名ヲ浪打ト号ス、干時人皇五十代桓武天皇ノ御宇阪上田村丸東夷ヲ平ラクル時此山ニ参籠有リ、社殿ヲ再興シ玉フ、左ノ相殿ニ神功皇后右ノ相殿ニ武内宿祢ヲ勧請シ奉レリ、其後伝教大師一刀三礼ノ彫刻三神ノ神体ヲ安置セシヨリ以後本地垂迹ヲ立両部習合シ浪打山光伏寺ト号ス、亦当社ノ側ニ祠ヲ造営シテ慈覚大師一刀三礼ノ作八幡ノ尊像ヲ安置ス、然ルニ天和三癸亥年洪水ニテ地中ニ埋マリシニ元文三丙辰年三月四日霊夢ニ依テ社ノ側ラノ土ヲ穿テ土中ヨリ八幡ノ神像出現ス、既ニ土中ニ有ルコト五十四年也、再ヒ当社ノ相殿ニ安置セリ、亦当社地ニ旧古ヨリ雷神鎮座ス、元禄年中迄正社有之処破壊シテ当社ノ相殿ニ安置ス、当今ハ凡テ社中ニ七座勧請ス、是レ階上郡正鎮守タリ
一、祭日 毎月四月十五日、大祭ハ三月四日四月十五日也、祭神神功皇后ニ付櫛引村鎮座八幡大神毎年四月十五日当社へ神輿渡有之処近年川向ヒニテ祭式有之(八戸市『八戸の神社寺院由来集』所収)

 武内宿祢、阪上田村丸(坂上田村麻呂)、伝教大師(最澄)、慈覚大師(円仁)と、これだけ忠君の士を並べ、かつ「皇城ヲ守護」といったキーワードを二度も盛り込んでありますから、これでは、たとえ荒唐無稽とわかっても「お上」は文句はいえないといった由緒になっています。なお、同社摂社の項に川口神社があり、祭神は「速秋津比盗_、速秋津比古神、瀬織津比盗_」と、三神化という曖昧化は許したものの、瀬織津姫の名をかろうじて残しています(青森県で戦後現在まで、瀬織津姫を祭神名に残しえたのは、この川口神社と新川神社[八戸市]の二社のみ)。
 祭礼の項の「櫛引村鎮座八幡大神」は現在の櫛引八幡宮ですが、同社の神は「誉田和気尊」つまり応神天皇で、それが御前(三前)神社へ挨拶にやってくる(神輿渡)というのは、同社に応神の母親・神功皇后がまつられているからだという因果説明もなされています。しかし、江戸期の由緒には神功皇后は登場せず、櫛引八幡神は祭礼時、ただ御浜御前のところへ「参向」してくるのみというのが古態でした。宇佐八幡宮の主神は大元神(御許山の神)である比売大神(宗像神)で、そのあとに応神がまつられ、さらにそのあとに神功皇后がまつられたという経緯があり、後発・新手の八幡大神(応神天皇)が、八幡大元神=比売大神である御浜御前=白幡旗神=瀬織津姫のところへ挨拶に出向いてくるというのは、いかにも筋が通っていることでした。

028 聖なる水神としての白旗神 風琳堂主人 2004/03/10 (水)

 奥三河・花祭に、再生儀礼に関わる「白旗塚」なるものがあるそうで、白旗神と白山神もまた交差してくるのかもしれません。この白旗塚の存在から、「各地に地名、塚、神社など、白旗を名乗るものは源氏の白旗に由来するものではなく、白山の再生儀礼に伴うものではないか」と、白旗信仰のはじまりを源氏白旗説とみることに対する疑問を呈していたのは東原那美さんでした(『白山神社と太陽信仰の研究』東村山市教育委員会)。ちなみに、東原さんは同書で、白山神を天御中主神とみなす仮説を展開しています。
 ところで、遠野の歴史・民俗研究の先達に伊能嘉矩(1867─1925)がいます。伊能もまた、白旗神の本質を探ろうとした一人でした。

■白旗神は河伯
 さて白旗といへる信仰対象は果して何物を本地とするのであらうか。由来奥州には古く巨川大河の縦横氾濫を極めし原始の混沌に伴ひて河伯、即ち水の神の信仰が行はれつゝあつたものの如く、彼の河線五十里の延長を有して中奥の谷野を迂余屈曲し剰へ往古一大湖沼をここに形つくりしとさへ伝へらるゝ阿武隈川(復軒雑纂に云「上古は今の福島町の辺阿武隈川の水を湛へて湖沼なりしに後に伊達伊具の郡界なる猿跳を截りて阿武隈の水を落したりし由」)に於ける安福麻河伯神社(延喜式神名帳陸奥亘理郡四座の一)の如きは其唯一の代表で乃ち穿ちて言へば、河伯は其の実伯河で現代夷語にて水の神を指称するワツカ、ウシ、カムイに類推すべき近似の対音かとも考へられ得る。〔中略〕伯河の音は白旗に近いので斯くは文字の転形(伯河→河伯…引用者)を見らるるに至つたものらしい。(伊能嘉矩「過去の遠野」、『遠野の民俗と歴史』所収)

 皇極紀には河伯を「かはのかみ」と訓じている例がありますが、ここには、八幡や白旗に共通しているハタ、ワタの音に対して、アイヌ語の「水」を意味するワッカを原音とする比定がなされているとも読めます。ワタに朝鮮語を読もうとすれば、意味は「海」になるのかもしれませんが、ワタはより原義的には「水」を意味すると理解する伊能アイヌ語説に魅力を感じます。伊能嘉矩は白旗神と八幡神(比売大神)を重ねて考える発想をしていませんけど、白旗神でもある八幡比売大神は、御許[おもと]山の水神でもありました。
 ハタ・ワタを水と解しますと、白旗神は白水神であり、白に聖性をみれば、白旗神は「聖なる水神」と理解することもできます。ここに、白山神をさらに重ねますと、白河・白川といった各地にみられる川名(→地名)も無縁ではないということになりますし、先に引用した、再生儀礼に関わる白旗塚も、これも白水塚となり、つまりは、聖なる水神の塚となります。白山神が禊神としての瀬織津姫を核に秘めていることを考えますと、この神が「再生」に深く関与していることも不思議ではないとなります(中臣神道によって貶められて理解されるとき、瀬織津姫は三途川の姥神ともみなされますが)。
 水滾[たぎ]る川(湍つ瀬・速川)はその水色を「白」と変じます。「速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」(大祓祝詞)は、イメージとしては、そのまま「白水神」とみてよいのかもしれません。そういえば、白山の飛騨側の大滝は白水滝であり、その滝川は大白水谷・小白水谷→大白川(庄川支流)でもあります。庄川の古名が雄神川であると歌っていたのは大伴家持でしたが、雄神神社二社の祭神がともに瀬織津姫であること──、これも理にかなった祭祀といえます。

029 遠野の火伏せ神は例外か 風琳堂主人 2004/03/14 (日)

 防火鎮護(火伏せ)の神といえば、まず愛宕神、そして秋葉神の名が浮かんできます。神社神道における祭神は、どちらも、カグツチ(迦具土、軻遇突智など)がメインで、この神はホムスビ(火産霊、火牟須比)やホノイカヅチ(火雷)などとも異称同神といわれます。
 全国の愛宕神(愛宕権現)あるいは秋葉神(秋葉権現)をカグツチという祭神名で統一しようとしたのは、これもおそらく明治の祭祀権力でしたが、そういった大きな潮流のなかで、特異な例外を示したのが遠野・上綾織の愛宕神社でした。同社祭神は、戦後、全国の愛宕神=カグツチにならうように変更されてしまいましたが、戦前までは、「瀬織津姫命」を祭神としていました(昭和14年『岩手県神社事務提要』、昭和63年『岩手県神社名鑑』)。瀬織津姫は基本的に水神ですから、この神を火伏せ神としてまつることは、火神を逆説的に理解してまつるよりもはるかに自然なことでした。遠野の愛宕神社の貴重な由緒記録・伝承を書き写しておきます。

■愛宕神社(適宜句点に変更。綾織村教員会編『綾織村誌』昭和七年六月三十日発行)
 社格 無格社  祭日 旧七月廿四日  氏子 九五
 石階段百余級その中間に鳥居あり。上りつむる処に神楽殿あり。更に上りて本殿あり。南面して松樹の間より綾織平野を望む。祭典には神楽獅子踊等を奉納し参拝者多し。
 本社の創建は明らかならざれども、近村火災多く人家山野共に焼くること多し。ここに至り里人相協りて、寛治年間(一七四七〜一七五三…【注】神武紀元)火災の見張所を置けり。その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり。
 本社を拝すれば感応最も多し。赤阪家にて家人眠り居りしに夢に愛宕神社の神霊を見たり。驚きて起き上りしに、誰人か放火して既に大事に至らんとす。急ぎて之を焼(消)しとめ霊験のあらたかなるに感じ、本社に石檀を献納せり。〔後略〕

 高所で夜通し火災の発生を「見張る」神を考えますと、アイヌならば、おそらくシマフクロウという善神がふさわしいとなりましょう。そのような絶対的な「信」を置くに値する神として、ここでは「瀬織津姫神」が認められています。
 なお、文中、寛治年間は西暦でいえば1087〜1094年で、平安時代後期にあたります。寛治元年(1087)は「後三年の役」が終わった年で、源義家が奥州にその地歩を喪い、代わって奥州藤原氏の実質的な祖である藤原清衡が実権をにぎる年でもあります。ちなみに、清衡の父・経清は「前九年の役」において斬刑に処せられますが(1062年)、生前の永承年間(1046〜1052)、経清が創建した神社に紫波・白山神社があり、同社麓には経清の母(清衡の祖母)の墓もあります。安倍氏と早池峰神、同氏末裔・奥州藤原氏と白山神は、ことのほか深いつながりがあります。
 愛宕神社の本社は京都・愛宕山にあり、麓には空也滝があります。これは初めて知ったのですが、愛宕山は、大宝元年(701)、役小角と若き泰澄の二人によって「開山」された伝承があるとのことです(HP「賀茂探求」)。役小角と泰澄の前に現れ平伏した「愛宕太郎坊」なる天狗は、全国の天狗の頭領格にあたる大天狗で、これは猿田彦神の化身でしょう。猿田彦神は原初の日神=火神(の仮称)とみてよく、愛宕山には複層する日水神隠しがなされているようにおもえます。大宝元年は、持統の三河行幸あるいは彼女の死の前年にあたり、瀬織津姫隠祭と因縁深い修験者二人が愛宕山で接触していた伝承は、ますます愛宕神祭祀の謎を深めてくるようです。

030 愛宕神社の義経伝説 風琳堂主人 2004/03/16 (火)

 御浜御前を諸人は「龍神之宮」と呼ぶが、ほんとうはそうではない。龍神(八大龍王)は、当社「太神」「海上一切之水君」の「眷属之神」である──これは、白幡旗[しらはた]神=瀬織津姫の歌を伝える御浜御前について、「諸人」の誤解に対して述べられた由緒内の言葉ですが(「東国正鎮守御浜御前」)、御浜御前が鎮座する三崎の一つである「白銀[しろかね]崎」(太城)には「文治年中源九郎義経ノ北ノ方此ノ処ニ住ムトイヘリ」という伝承も収録されています。遠野の白幡神社の祭神は「源義経の白幡」とも伝えられ、また、東磐井郡千厩[せんまや]の白幡神社は義経の勧請伝承をうたっていて、義経と白幡神との深いつながりが、よく伝わってきます。
 義経が創建した伝承をもつ神社は、千厩の白幡神社のほかに、少なくとももう一社あります。遠野市綾織町には愛宕神社が二社あり、一社についてはすでにふれましたが、あと一社は同町新里にあります。この新里の愛宕神社に義経伝承があります。同社は、戦前まで、祭神は「伊邪那美命」の一神でしたが、戦後は「迦具土命、伊邪那美命」とされ、ここにも、国家神道→神社神道と継続する、愛宕神のカグツチ化という祭神統一の事例を確認できます。新里・愛宕神社は阿曽沼氏時代(奥州藤原氏滅亡後)の創建をうたうも、次のような異伝を残しています。

■愛宕神社に伝わる義経伝説
 本村(綾織村)東端字新里にあり、伊邪那美命を祭る。境内は猿ヶ石川に臨める絶壁の上にあり、数百の石段を登りて堂宇あり。境内は幽邃にして、老樹に富み、山腹を流るゝ猿ヶ石川に臨める一面は松と桜を交植し花時の観尤も佳なれども、夏時の緑陰を尋ね、急流岩に激する辺に杖を引く時凉味更に掬すべし。〔中略〕
 本社は文治五年己酉(一八四九…西暦1189)の年源義経の創建に係れり。源義経は平氏滅亡後兄頼朝と不和になり、文治二丙午年、鎌倉を逃れて奥州平泉藤原秀衡に頼る。秀衡死後其後泰衡、頼朝の命を以て義経を殺し其首を鎌倉に送る。文治五年なり。翌年建久元年九月源頼朝は義経を殺さずして偽首を送りし罪にて泰衡を追ふ(注…吾妻鏡は泰衡追討を文治五年と伝える)。
 文治五年検非違使右近衛尉伊予守源九郎判官義経は平泉を落ちて、東磐井より江刺を経、上閉伊遠野より釜石に至り、東海岸を北進して宮古久慈八戸より野辺地に掛り、青森蟹田を通り、竜飛岬より海中を馬上にて、北海道福山に渡れりといふ。
 其通行中上閉伊郡に入りし際、民家の火災に遇へるもの多くあるを憐れみ、義経自身が幼年時代に愛宕山及鞍馬山にて兵法を学びしより、愛宕山の御神号を守本尊とせしなり、亦愛宕の神は鎮火の守護なるが故に、上閉伊郡の処々に愛宕神社を建設し里人に崇信せしめて鎮火祭を執行せしめて、火災消除を祈らしむ。(適宜句点に変更。昭和七年『綾織村誌』)

 義経生存説かつ北行伝説を色濃く反映した創祀伝承です。猿ヶ石川は薬師岳を源流山として南下し(源流部の一つが又一ノ滝)、この愛宕神社のあたりで西に流下すること約60キロ、花巻の地で北上川に合流します。由緒の鎮座地形の描写をみますと、この愛宕神には火防鎮護に加え洪水鎮護の願い(水神への期待)も重なっているようです。義経の「守本尊」つまり守護神が愛宕神であることを是としますと、ここに白幡神(=白山神)を重ねてみたい誘惑にかられます。
 義経と終生同行した弁慶は熊野修験の徒であり、熊野・白山を含む修験の闇のネットワークは、頼朝と敵対関係にはいった義経の奥州入りに、大いに加担しただろうことが想像されます。

031 中臣=藤原思想の亡霊 風琳堂主人 2004/03/20 (土)

 明治期に「三前神社」とされた御浜御前でしたが、戦後は「御前神社」と、社名の変遷がみられます。明治の三前神社(本社)からは本来の祭神は抹消→変更されてしまいましたが、同社由緒においては、「摂社」の名で川口神社が記録されており、そこに瀬織津姫の名をかろうじて残していました。戦後現在、では、この川口神社にはどのような由緒表現がなされているのか。

■川口神社(青森県神社庁『青森県の神社』平成十四年八月一日発行)
鎮座地 八戸市湊町字下条三〇
祭神  速瀬織津比売神、速秋津比古神、速秋津比売神
由緒  当社の鎮座する川口は、かつて馬淵川と新井田川とが合流し太平洋に注ぐ岩石重塁する処であった。当初は地元の漁師たちの崇敬する一小祠であったが、水戸[みなと]の出入口であったが故に航海安全、大漁成就を中心とする信仰の上に、災い汚れを祓う神として別名川口の竜神さまとも呼ばれ尊称されてきた。/社伝によると、創建は万治二年(一六五九)と言われ、寛保三年(一七四三)には、当時の藩主より御屋根柾十五丸寄進があり、川口勇猛善神と称号した旗二流の奉納があったと言うことである。
 流れゆく潮の間にあって罪や穢れを祓い清める水戸[みなと]の神でもある主祭神の他に、海の幸を生み育てる大綿津見神及び食物の神である豊受比売神の二座をも合祀している。〔後略〕

 川口神社の「創建は万治二年(一六五九)」とされるも、三前=御前神社との「摂社」関係の表示が消去されていることがわかります。瀬織津姫と御前神社(御浜御前)は一切関係ナシとする意向とみることもできますが、しかし、明治五年の「神社調」の際の由緒ばかりでなく、江戸期の由緒においても、この分社関係はすでに明記されていました。曰く、「近年川口に禿倉[ほこら]を立るより以来[このかた]、川口へは鰯を供して本社へは供さないことはまちがっている」です(「東国正鎮守御浜御前」、現代文に書き換えた)。ここには、本社・御浜御前よりも川口の祠の方に崇敬の比重が移ってしまって、それを本社側が嘆いている様子も伝わってきますが、ともかく、この「川口」に立てられた「禿倉[ほこら]」こそ、のちの川口神社でしょう。
 川口神社の神は「災い汚れを祓う神」、「流れゆく潮の間にあって罪や穢れを祓い清める水戸[みなと]の神」とされますが、大祓祝詞=中臣祓に沿っていいますと、後者の表現は「速秋津比売神」に該当します。川口神社の原神というべき瀬織津姫が「災い汚れを祓う神」と祓神化されたのは天智八年(669)まで遡りますが、速秋津比売神などはあとに付加された神でした。
 本社・御前神社の戦後現在の由緒は、明治期のそれを基本的に踏襲するもので、同社由緒は、祭神変更した住吉三神の説明を、「当社の主神三坐は別に住吉の大神とも称され、古来、航海安全・和歌・農業・漁業に関わる神として信仰崇敬されてきた。さらに古事記・日本書紀の記するところの伊邪那岐命が、黄泉の国の汚れを受け、禊祓[みそぎ]をされた時に海中より生まれなさった故事から、身の汚れ心の汚れを祓清める神としても信仰されてきた」と表現しています。記紀は、この住吉三神出現の前に「禍(枉)津日神」、つまり瀬織津姫の異称同神とされる神名を記していましたので、祭神変更に際して、「同系」の住吉三神を選択した内部理由も透けてみえてきます。川口神社の由緒からは、瀬織津姫を「祓神」に限定しようとする祭祀意図、これは中臣=藤原思想の亡霊といってよいのですが、その執拗な継続の姿もよくみえてきます。

032 伊豆山神社の不思議 風琳堂主人 2004/03/22 (月)

 八戸・遠野・室根といった北東北の伝承においては、白幡神、愛宕神、伊豆神、熊野神に共通して瀬織津姫の名を伝えています。こういった記紀記載の神々に準じない神の表示は、全国的にみれば少数の例外ですが、だからといって捨象してよいかといえば、むろん逆だとわたしは考えています。アマテラスの祖型神でもある瀬織津姫は、中央の皇祖神構想にとっては、最大禁忌神とならざるをえません。そのタブー性が、全国の神々の祭祀に強い歪みを強制して現在にまできています。八戸の御浜御前=御前神社に伝わる瀬織津姫讃歌や、この「神、非礼を受け賜[たまは]ず。生を豊穣津島の神国に受け、情を全うす。而して、必ず神に成り賜[たま]へ」という切望の言葉は、柳原白蓮の滝神讃歌「神代より隠しおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ」(住田町・天の岩戸滝)と呼応しています。ちなみに、「天の岩戸滝」は気仙川の源流部で、流域には、瀬織津姫を(熊野神として)まつる神社が少なくとも六社あります。
 ところで、愛宕神=カグツチの異名(の一つ)である火牟須比命は、遠野・伊豆神社(祭神:瀬織津姫命)の本社である熱海・伊豆山神社の主祭神でもあります。伊豆山神社は(も)、その祭祀上、いくつも不透明な事項があります。たとえば、火伏せ神として主神=火牟須比命がまつられているかとおもえば、境内摂社には同じく「防火鎮火の神」として雷電神がまつられているといったことを挙げることができます。伊豆山神社には火伏せ神が二神同居しているというのは奇妙なことで、こういった素朴な疑問がまず浮かんできます。しかも、由緒によれば、雷電神は「火牟須比命荒魂」と表示されていて、では、火牟須比命は「和魂」なのかとなりますが、しかし、火伏せ神の荒魂・和魂と説明されて「なるほど」と納得する人はいないでしょう。
 伊豆山神社は、江戸期まで、伊豆(山)権現、走湯権現といって、要するに神仏混淆の典型的な表示をしてきました。では伊豆(山)権現=走湯権現の「本地仏」はなにかといいますと、これは役小角、空海の伝承に遡っても、共通して「千手観音」と伝えています。十一面観音は聖観音の変化観音ですが、千手観音は十一面観音のさらなる変化観音で、十一面千手観音と正確に呼んでいる場合もありますが、一般には「十一面」を略して呼ぶこともよくあります。
 走湯権現の「走湯」については、これは読んで字のごとくで、まさに「走り湯」という湯水の動態を表した言葉です。伊豆国風土記逸文の「走湯[はしりゆ]」の記載を写しておきます。

■燐光を放つ走湯
 普通尋常の出湯[いでゆ]ではない。昼のあいだに二度、山岸の岩屋の中に火焔がさかんに起こって温泉を出し、燐光がひどく烈しい。沸く湯をぬるくして、樋をもって浴槽に入れる。身を浸せば諸病はことごとくなおる。(吉野裕訳)

 わたしもこの「岩屋」の洞窟の中に入ってみたことがありますが、その地熱と蒸気で、噴出口の写真はついに撮れませんでした。その昔、この走り湯は「滝」となって熱海の海に落下していたそうで、走湯神は滝神でもあります。「伊豆山略縁起」には、「山中の洞穴より湧出する霊泉は、もろもろの病を癒し、二六時中十方の善悪正邪を裁断し、これを神様の根源として祀ったもの」で、それが天忍穂耳尊だという祭神説が記されていますが(太田君男『熱海物語』)、天忍穂耳尊が湯(水)神だというのは疑問です。「善悪正邪を裁断」する神、しかも「滝神」であり、さらに「十一面千手観音」と習合するという三条件を満たす神は、自ずと絞られてきます。

034 雷電神は伊豆山の地主神 風琳堂主人 2004/03/24 (水)→修正 2004/05【033は欠番】

 駿河の国の伊豆の埼を割いて伊豆の国と名づけた。日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂[あらみたま]を祭る──これは、伊豆国風土記逸文の記載ですが、この「日金嶽」は「走湯山縁起」などが記す日金山で、つまり伊豆山を象徴する峰といってよく、現在の十国峠にあたります。伊豆国の誕生は、天武九年(680)七月のことで(扶桑略記)、天武時代あるいは風土記時代に「瓊瓊杵尊の荒神魂」がまつられたというのが、成書文献上においてですが、最古の伊豆山の祭神伝承です。ちなみに天武九年は、その後、国家鎮護の根本経典となる「金光明経」が、初めて宮中や諸寺で説かれ、神宮祭祀とは別に、仏教による護国思想が本格稼動をはじめた年でもあります。
 それにしましても、天孫=瓊瓊杵尊ではなく、その「荒神魂[あらみたま]」とわざわざ表記されることもまた不透明の事項といってよく、これを明快に説明している伊豆山側の文献はないようです。自然の暴威と恩恵を神の荒魂と和魂の表象とみなす一般論が成るのは後世のことで、文献に、荒神魂=荒魂の表記を探りますと、日本書紀の神功皇后条にみえる「天照大神荒魂」が最古のものでしょう。天照大神荒魂は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という長い異名も記されていましたが、記紀の記述によれば、この神は自然の暴威を表したものではなく、神功皇后の旦那である仲哀天皇を、その不信心(不信神)から祟り殺した神とされます。この祟り神としての天照大神荒魂をまつるのが皇大神宮第一別宮・荒祭宮です。ちなみに、この荒祭宮の敷地に現在の内宮がつくられます。神宮側の文献(倭姫命世記)は、荒祭宮の神を皇太神荒宮魂(=天照大神荒魂)とし、その異名神として、瀬織津比盗_もしくは八十枉津日神と記しています。
 大祓祝詞(六月・十二月の晦大祓)の国津罪の一つに「高津神乃災」がありますが、これは「雷神その他の悪神による災害」とされます(虎尾俊哉『延喜式』吉川弘文館)。この解釈を是としますと、雷神は悪神とみなされていることになります。そういえば、菅原道真の「怨霊」も雷神の姿となって「祟り神」として顕現しました。「雷神」を畏怖する感覚は、古代にはかなりリアルなものであったのかもしれません(関係当事者に近ければ、よりリアルであったでしょう)。
 八戸の御前神社(明治期は三前神社)の由緒に、「当社地ニ旧古ヨリ雷神鎮座ス」と記されていた祭神「大雷神」は、なぜか戦後の由緒からは削除されていましたが、この大雷神を御浜御前=瀬織津姫の異称とみる可能性もあるのではないか──。こう考えるのは、祟り神(御霊神)→悪神と連鎖する雷神の性格によっています。
 伊豆山神社・摂社の雷電神社は、中世には「光の宮」「雷の宮」と呼ばれていました。太田君男『熱海物語』(国書刊行会)に興味深い記述があります。

■伊豆山の地主神は雷電神
 延喜式神名帳に記されている、伊豆国田方郡二十四座中の小一座「火牟須比命神社」をもって伊豆山神社にあてる説は、現在境内の入口にある雷電神社が地主神であって、後世に伊豆山権現の勢威が発達するにつれて、その影はうすれていったと考えられます。

 風土記時代(奈良時代)には瓊瓊杵尊荒神魂であったのが、延喜時代(平安時代)には火牟須比命と、祭神が変遷しています。「雷電社縁起」によりますと、この火牟須比命の「女体を祀った」のが雷電神という珍解釈もなされていたようです(太田君男、前掲書)。しかし、雷電神が地主神であり、かつ「女」神であるという伊豆山側の理解は注意しておいてよいかとおもいます。

035 走湯神と雷電神 風琳堂主人 2004/03/26 (金)

 伊豆の国 山の南に いづる湯の 速きは神の 験[しるし]なりけり(源実朝)

「伊豆山略縁起」が記していた、走り湯を「神様の根源」とみなす認識と共有する歌意といってよいでしょう。実朝が伊豆の「走湯神」の名を識知していたかどうかは断定できませんが、彼は、足しげく伊豆山権現(走湯権現)に参詣した将軍でした。これは、父の頼朝によってはじめられた「二所詣」(箱根権現と伊豆山権現への参詣)を踏襲したものですが、実朝はその短い生涯において、八回も伊豆山へ通っています(ちなみに、頼朝は四回、妻の政子は二回)。
 ところで、伊豆山の地主神として雷電神の名が挙げられていました。では、走湯神と、この雷電神はいったいどういう関係にあるのか、あるいはまったく関係がないのか、そこのところが後世の人間にとっては不明な事項でもあります。
 伊豆山神社の由緒を考えるときの根本史料に「走湯山縁起」(平安末期か)があります。同縁起の巻第四は「走湯山雷電縁起」で、ここには「熊野走湯山」という言葉とともに「雷電金剛童子は、南山熊野王子、東明走湯儲君なり」と記されています。一般には、熊野信仰の影響のもとに、この縁起が書かれていると理解されているようですが、それはその通りでしょうが、走湯神が熊野神と無縁でない神とみる理解があってこその縁起でしょう。ここに記されている「東明」は、伊豆山の「別当」である走湯山東明寺密厳院(真言宗)と関連があり、つまるところ、伊豆山は真言宗によって神仏混淆化がなされました。縁起の巻第三や『伊呂波字類抄』(平安末期)は、この神仏混淆に関わった当事者の名を弘法大師(空海)の門弟「竹生賢安」なる修験者としています(わたしは空海とみています)。『伊呂波字類抄』の賢安伝承によりますと、承和三年(836)、賢安の夢に「霊異人」が現れ、「我れはここの地主『走湯権現』と号するなり。汝ここに留り我れを祀り修行せよ」と告げたといいます。賢安はそこで、「長さ七尺四寸の千手観音像の本尊を伊豆山の社に祀り、走湯権現を顕現した」とされます(太田君男『熱海物語』)。
 走湯権現の「本地」として千手観音を最初に感得したのは、伊豆山三仙人の一人・金地仙人とされ、そのあとに役小角がつづき、次に空海が同じく感得して千手観音像を彫ったとされます。賢安は四人めの千手観音の感得者ということになりますが、ここで注意しておきたいのは、走湯権現が「我れはここ(伊豆山)の地主」と賢安に告げていることでしょうか。
 雷電神も伊豆山の地主神であり、走湯神もまた地主神であるという不思議なことになってきました。しかし、先に引用した「雷電金剛童子は…走湯儲君」といった記述からも雷電神と走湯神は無縁ではないようです。また、伊豆山神社に伝わる沙弥覚如の「敬白祈願事」なる文書には、「右走湯権現雷電神霊者、円通大士之垂迹、応化分身之和光也」と、走湯神と雷電神は同神である認識が書かれています(太田君男、前掲書)。
 ちなみに雷電神社(当初は雷殿)が創建されたのは、文徳天皇の時代(850〜858)とされ(『真本曽我物語』)、役小角や空海の伝承をもつ走湯神祭祀よりも時代は下ることになります。走湯神とは別に雷神(後世に雷電神となる)をまつる必要、あるいはその理由を縁起は記すことをしていません。ここで、なぜ走湯神とは別立てで雷神をまつったのかを考えてみますと、これは想像的仮説となりますが、それはおそらく、走湯神が走湯権現というように、神仏混淆化(祭祀改竄)がなされたことと関わっているようにおもえます。それを不承知とした走湯神の「祟り」(地震、疫病など)を感じたとき、新たに雷神祭祀(鎮魂)の必然性を生じさせたのかもしれません。

037 役小角と伊豆山(走湯山) 風琳堂主人 2004/03/31 (水)【36は欠番】

 役小角が「妖言」の罪で伊豆島(大島)に流罪となるのは文武三年(699)のことでしたが、小角の伊豆での行動をみますと、流罪人とはおもえないような自由なふるまいです。小角と走湯[はしりゆ]の由来伝承について、太田君男さんは、次のように描写しています。

■役小角と走湯
 文武天皇三年(六九九)五月、朝廷の疑を受けて、伊豆の大島に流されてしまった役の行者は、日中はおとなしくしていても、夜になると、かならず島を抜け出し、海上を飛鳥の早さで渉って、富士山へ登っていました。
 ある日、役の行者は海上から伊豆山の峯をながめると、五彩の瑞雲(めでたい雲)がたなびいており、かの山はまさしく霊山聖地にちがいない、ひとつ出向いて霊湯(走湯温泉)にはいろうと、ひそかに伊豆山の磯辺にわたってくると、波の底から金色八葉の蓮華の菩薩や天仙がとりまき、千手千眼の尊像が現れて波間に金の経文が浮かんでいました。経文には無垢霊湯、大慈(大悲の誤植か…引用者)心水、沐浴罪滅、六根清浄(霊湯にはいれば、もろもろの罪も消えるの意)とあり、役の行者はこの経文に感嘆して、伊豆山権現を崇尊して源泉(走湯温泉)の近くに、草堂を営み参籠(おこもり)したと伝えられています。ここからは走るが如きお湯が湧き出し海に注いでいたので、いつしか走湯と呼ばれるようになりました。(太田君男『熱海物語』)

 走湯は「金の経文」つまり「無垢霊湯、大慈(大悲)心水、沐浴罪滅、六根清浄」を体現する温泉とのことで、この霊湯神を仏化したものが「千手千眼の尊像」(十一面千手千眼観音)のようです。十一面千手(千眼)観音は熊野那智の補陀洛山寺や竹生島宝厳寺の本尊でもあり、ともに瀬織津姫と縁深い地にまつられる観音です。瀬織津姫は日吉大社においては「走井祓殿」の主神とされ、いわゆる「走井」(速川)の神とみなされています。これは、「速川の瀬に坐す」祓神として瀬織津姫を封じた大祓祝詞の影響下にあるものですが、瀬織津姫は、まさに「沐浴(禊)罪滅、六根清浄」を司る神とみなされていました。この「罪滅」に関わる神としての瀬織津姫讃歌(神歌)が、椿大神社(鈴鹿市)に伝えられています。曰く、「罪咎[つみとが]や御幣[おんべ]の川に祓ふらむ瀬織津姫の神のみいつに」です。ただし、これも、「祓戸大神」と限定した上での瀬織津姫の神威に対する讃歌です。
 伊豆の小角伝承においては(も)、現在、瀬織津姫の名を、文献(文書)上に直接確認することはできませんけど、周辺の状況証拠(?)は、走湯神が瀬織津姫であろうことを示唆して余りあります。「伊豆山略縁起」における「善悪正邪を裁断」する神を考えましても、「糺の弁天さん」の親称をもってまつられる神として瀬織津姫の名を確認できますし(京都・下鴨神社の井上社=御手洗社)、ここに、古事記・允恭記の「盟神探湯[くがたち]」を司る神が八十禍津日神(瀬織津姫の異称)であることをさらに添えることもできます(詳しくは「瀬織津姫神名考」に記載)。
 伊豆国風土記(逸文)は、「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」と不可思議な祭神名を伝えていました。現在の伊豆山神社の祭神は「伊豆山神(火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命)」とされます。日金嶽は、万葉集においては「伊豆の高嶺」と歌われます。伊豆山(走湯山)という単独の山名はなく、日金嶽(日金山→十国峠)や本宮山、岩戸山などを含む総称が伊豆山で、これは、熊野や白山などと同じとみてよく、「霊山聖地」への尊称として、この総称名はあります。

039 元明女帝と伊豆山(走湯山) 風琳堂主人 2004/04/03 (土)【38は欠番】

 伊豆における役小角の伝承を記していたのは「走湯山縁起」の巻第二でしたが、同巻には、走湯神が伊豆に愛想を尽かした話も収録されていて興味深いです。太田君男さんの要約の言葉を借りますと、「元明天皇の御代には『神化縁已盡』きて、称徳天皇の御代には弓削道鏡の事件の起きたのに及んで、霊神(走湯神…引用者)は我が国に住むをいさぎよしとせず、本居たる高麗国などに移られた」というものです。このあと、霊神のいなくなったために、走湯の霊湯は枯れ干してしまったが、「地主白道明神の秘計」によって霊神がふたたび帰ってくると、湯はまた湧き出したとされます(『熱海物語』国書刊行会)。
 霊神の本国が「高麗国」というのは、本地垂迹(仏縁の発想)による仮の異国名でしょう。また、ここには、第三の地主神「白道明神」の名が出てきて、伊豆山祭祀の複雑さを伝えてもいます。しかし、この巻第二の伝承において、より貴重な証言記録があるとすれば、奈良期の女帝二人の時代に、霊神=走湯神が、伊豆山(祭祀)に「嫌気」がさしたと伝えていることです。
 称徳(←孝謙)は尼天皇で、それまでの中臣=藤原思想による神祇祭祀の改竄を無化するほど、仏教による護国を考えた女帝でした。彼女のこの施策は、その父の聖武(彼も出家する)の仏教による護国思想を継承、徹底しようとしたもので、たしかに「神」が「我が国に住むをいさぎよしとせず」と感じたとしても無理からぬ時代趨勢であったといえます。
 では、もう一人の元明女帝の時代に「神化縁已盡」きたという縁起の言葉をどう読むかですが、ここには、「なぜ神化の縁がすでに尽きたと走湯神はおもったのか」という肝心な理由が記されておらず、これは想像するしかありません。わたしは、ここに、持統女帝の意向を継承した元明という、瀬織津姫祭祀改竄の常習犯のような女帝の名が出てきたことに、この縁起の価値、真骨頂の一つを読むものです。
 元明は天智の娘で、天皇位に就くのは慶雲四年(707)、彼女の太上天皇時代までを含めますと(721年に逝去)、十四年にわたって、右大臣=藤原不比等、神祇伯=中臣意美麻呂らとともに、マツリゴトのトップに君臨した女帝でした。この元明時代に古事記(712年)、日本書紀(720)が成書化されます。また、古事記成立翌年にあたる和銅六年(713)には、風土記撰進の命が出されます。日本書紀記載の神々と整合しない祭祀をつづける神社、いいかえれば、新たに立ち上げられた神宮祭祀(皇祖神祭祀)に抵触する神々をまつる有力社に対して、祭神変更(祭祀改竄)の要求・介入が組織的に行われはじめたというのが元明時代です。
 白山における神仏混淆を方法とする祭祀改竄(717年)に象徴されますが、「地神」として同神をまつっていた可能性が濃厚である伊豆山が、その祭祀を無疵でありつづけたということは考えにくいです。このことを端的に表すのが、伊豆国風土記(逸文)「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」という言葉です。「祭る」というのは、それまでの神に代えて「新たに祭る」ということで、これは明らかに、伊豆山祭祀に朝廷の力が行使されたことを表すものです。
 ところで、役小角の伊豆への流罪は、韓国連広足の「讒言」によるもので、小角はつまりは冤罪→無罪であったと続日本紀は記しています。小角は伊豆配流から解放されると(大宝元年=701年)、すぐに、若き泰澄(勅命による白山の開山=改竄者)とともに愛宕山の「開山」をしています。愛宕山は伊豆山とちがって火山でもないのに、その後、伊豆山の火牟須比と異名同神とされるカグツチという火の神がまつられることになるのは偶然のことかどうか。小角の伊豆配流時代、持統は太上天皇として健在でした。ここからは、ミステリアスな話になりそうです。

040 役小角の最期のメッセージ 風琳堂主人 2004/04/05 (月)

 本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども、方便応化の影はなお東海の水にあり──これは、役小角の「ご遺偈」とされる、いわば辞世の言葉です(役行者の生涯、HP「三井寺」)。小角の死は、伊豆の配流から解放された大宝元年(701)とされるのが通説です。わたしは、小角がいつ亡くなったかということよりも、小角の思想といったものが、この辞世の言葉によく表れているような気がして、少しおもうところを書いておきたいとおもいます。
 伊豆への配流時代、小角の「夜間修行」の場は、富士山のほかに、東は江ノ島にまで足を伸ばしていたようです。裸弁天(妙音弁財天)で著名な江島神社は、現在、宗像三女神をまつっています。社伝では、同島の龍窟(富士の人穴に通じている伝承をもつ)において、小角は天女の姿を感得したとされます(社宝に小角の自刻像や空海作の弁財天像があります)。この天女とはいうまでもなく弁才天女です。日本三弁天といいますと、竹生島、厳島、江ノ島のそれといわれます。この三弁天に天川(天河弁財天)を加えてもよいのですが、これらすべてに共通して小角の強い関わりが伝えられています。小角にとって、弁才天はよほどの存在だったようです。
 小角の修行場であり終焉の地でもある、箕面大滝で知られる滝安寺(かつての箕面寺)においても、小角自身、弁才天像や不動明王像などを刻んでいます。小角の「ご遺偈」における、「本覚円融の月」の「方便応化の影」とは、おそらく水の神・川の神である弁才天を指しています。つまり、円満無比の神徳をもつ月神は「方便応化」(仮)の姿=弁才天となって、「東海(日本)の水(河川湖沼海辺)にあり」というのが、小角の最期のメッセージだったようにおもえます。
 同じ神仏混淆を先駆的になした役小角と泰澄を比較してみて気づくのは、小角は、泰澄とちがって、垂迹神を述べていないということがあります。つまり、小角は、そこの霊山霊地の地神(水神)を弁才天や十一面観音に置き換えている(感得している)のみで、その垂迹神はこうだというように、元の地神を朝廷の意向に沿って変更するといったことをしていないようです。
 伊豆・走湯において、小角は走湯神を「(十一面)千手観音」として感得した一人でしたが、では、小角にとって千手観音とはどんな仏だったのか──。奈良県御所市茅原は小角の生誕の地といわれ、ここに、小角の開基をうたう茅原山吉祥草寺があります。同寺の本尊は「五大力尊」という不思議な尊像ですが、同寺の守護神として小角が勧請したのが熊野権現、また、ここにも弁才天の社を建てています。吉祥草寺には、小角の母堂・白専女[しらとうめ]の「本地」として千手観音がまつられています。小角にとって、千手観音は、母親とも習合する仏だとみますと、これは、おそらく道教的な大地母神のイメージも重なっているとみてよいでしょう。
 日本の神まつりの基層には、この道教的な地母神=姫神信仰が横たわっているようです。立山の地神を内包する姥尊信仰にも、この地母神の投影がみられます。白山、早池峰山、あるいは熊野那智と、十一面観音と習合する水神(=瀬織津姫)もまた、この地母神の性格を継承しています。ある小角伝曰く、小角の最期は、母親を鉄鉢に乗せ、唐の国・崑崙山へ渡ったと──。崑崙山こそ、道教における水神かつ山神の最高神である西王母の住まうところでした。
 小角は、天武・持統の律令国家構想の暗部をになう、つまり、各地の地神を仏教的に伏せる、新たな祭祀思想の知恵袋で、つまるところ、瀬織津姫隠祭の初期の状況を熟知していた印象が、わたしにはあります。第二期は、不比等・元明の時代で、ここから執拗な「地母神」隠しがはじまります。ちなみに、小角の伊豆配流のきっかけとなる「讒言者」を、韓国連広足ではなく、不比等、泰澄らだとする異伝もあるようです(役行者顛末秘蔵記、HP「役行者ファン倶楽部」)。

043 走湯山縁起「深秘の巻」 風琳堂主人 2004/04/21 (水)→修正 2004/23【41・42は欠番】

 梁塵秘抄は、「聖の住所」の南は「熊野の那智 新宮」とし、さらに「四方の霊験所」として「伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山、丹後の成相[なりあい]、土佐の室戸、讃岐の志度」を列ねていました。「丹後の成相」とは「元伊勢」籠神社の背後の山で(同社神宮寺であった成相寺がある)、これらの霊験所の筆頭に記されたのが「伊豆の走湯」でした。
「亦名[またのな]天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる」──これは、籠神社奥宮の神・豊受大神についての神社側の説明です(HP「籠神社」)。豊受大神はいうまでもなく伊勢・外宮の神でもありますが、豊受大神の多くの神徳のなかで、特に「水の徳顕著」というのは、神宮側の文献「豊受皇太神御鎮座本紀」(神道五部書の一書)が記すところであり、「倉稲魂命」については、これは摂津国風土記(逸文)いうところの「稲倉山」の神(豊宇可乃売神)からきた同神解釈でしょう。
 天御中主神・国常立尊は、記紀において、造化の初源神とされていましたが、香取神宮第一摂社・側高神社の由緒書においては、自社の祭神を「天神(造化三神)天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神」とするも、そのあとに「古来祭神は“言わず語らずの神”」、「造化三神を隠[かく]り身[み]の神という」と注記してもいました(「側高神社由緒」)。また、同由緒書「古くより信仰の例証」の項には、側高明神は水神で瀬織津姫神、鹿島神宮第一摂社・息栖明神は風神で伊吹戸主神とする、「日暮家の氏神社」の対関係の神々もさりげなく紹介されています。
 天御中主神・国常立尊といった造化神は「隠[かく]り身[み]の神」、つまり仮称神であるという側高神社の勇気ある主張は、「元伊勢」籠神社の祭神説明にも通ずるものでしょう。
 伊豆山神社に伝わる由緒書「走湯山縁起」は五巻本で、その「巻第五」は「深秘の巻」とされます。同巻の「深秘」部分を要約しますと、日金山(伊豆山)から芦ノ湖(箱根)にかけて、その地下には赤白二竜が相交わり横たわっていて、頭部分は日金山、尾は芦ノ湖にある。湯泉が湧く所は、この竜の両眼と二耳、そして鼻穴口中である。そもそもこの竜は、この国の「未発」の前に海中に現れたもので、この竜が「顕迹」したのが国常立尊である、となりましょうか。
 巻第五の「深秘」の要点は二つで、一つは箱根権現と伊豆(山)権現の地神は同神であるということ、もう一つは、走湯神の異称・仮称は、これも国常立尊という造化神であるということです。ここに造化神を「隠り身の神」とする側高神社の認識や籠神社の説明を重ねますと、走湯神は豊受大神とも異称同神である可能性もみえてきます(豊受大神もまだ「隠り身」の神)。箱根権現の「本地」の神は九頭竜神であり、これは白山神や戸隠神の異称神でもあります(九頭竜神は、戸隠山から能生白山神社にかけて横たわってもいます)。そういえば、熊野信仰の「奥之宮」玉置神社の主神も国常立尊でした(玉置山はかつて牟婁岳と呼ばれていました。養老二年=718年に、熊野神[=瀬織津姫]がまつられた岩手の室根山の山名の元がこの牟婁岳でしょう)。
 伊勢、伊豆、箱根、戸隠、白山、熊野、丹後(籠神社)等には、まさに仮称の神々が語られてきているといえますが、伊勢、元伊勢を除くと、そこに共通してみえてくるのが、伊豆権現、箱根権現……といった「権現」(本地垂迹)の思想、つまり神仏習合の姿です。初期の神仏習合に対して独特の解釈をしなおしたのが平安密教で、その実践的先行者として空海がいます(「密教是天下鎮護之基、人法興複(福か)之妙術也」…「走湯山縁起」脱文、太田君男『熱海物語』)。同脱文によれば、「東寺大和尚」空海が伊豆山へやってきたのは、淳和十年(832)とされます。

044 空海と伊豆山(走湯山) 風琳堂主人 2004/04/29 (木)

『熱海物語』によりますと、伊豆山には、『走湯山縁起』五巻本とは別に『古縁起六軸』という六巻本の由緒書があったようですが、現在、その所在はなぜか不明とのことです(五巻分が『走湯山縁起』に該当か)。古縁起の第六巻は「走湯山秘決」の付題があり、「相承秘伝、山主之外不許他見」と記されていたそうで、この「不許他見」の巻をいつか眼にしたいものです。
 ところで、役小角は伊豆山において走湯神=千手観音を「感得」した伝承がありますが、その後、空海は同地において、二所権現(走湯権現と箱根権現)の「本地仏」として千手観音を「勧請」していました。京都・醍醐寺三宝院文書に「密厳院別当職記録」があり、そこには、次のように書かれています。

■結界された走湯の「秘穴」
 走湯権現は千手観音の示現、二所権現の垂迹也。弘法大師練行之昔、まのあたり権現の御神体を拝見し給ふ間、すなわち秘穴に観(勧)請し奉て、其所を結界せらる。今御在所と号する是也。大師、練行の由来に依て、寺僧大略東寺の真言を習学す。(『熱海物語』所収)

 空海(弘法大師)は伊豆山の走湯の「秘穴」に「千手観音」を勧請し、そこを「結界」したという記録です。また、「走湯権現は千手観音の示現、二所権現の垂迹也」とありますから、これは、『走湯山縁起』巻第五(深秘の巻)が記していたように、空海もまた、走湯神と箱根神を同神とみなしていたことを表しています。
 引用文中に二度出てくる「練行」という言葉のみを読みますと、空海は厳しい修行を走湯山=伊豆山の地で積んだ印象を受けます。しかし、「練行」はたしかにあったでしょうが、はたして、空海の伊豆行はそれのみを目的としていたのか──。朝廷(嵯峨上皇、右大臣・藤原冬嗣)は、空海に対して、最澄が亡くなった弘仁十三年(822)、「空海に国家鎮護のための息災増益の法を行わせる」(類聚三代格)、また翌年には「東寺を空海に賜う」(帝王編年記)とされ(『日本文化総合年表』)、空海への朝廷の期待は格別でした。彼が伊豆山へやってきた目的・意図について、『伊豆山記』は「密厳院別当職記録」とはちがって、次のように記録しています。

■勅使としての空海
 文武天皇の御宇役小角、当社の神徳を慕ひ、大島より当山(走湯山=伊豆山)に渡り、終身神明に仕え奉り、嵯峨天皇(上皇…引用者)の御宇僧空海を勅使として、当山に参向せしめ玉ひ、社則法令を定めしことあり。(『静岡県田方郡誌』所収)

 空海が「勅使」としてやってきて、その権威において「社則法令」を定めたという証言は貴重です。始閣(元姓は鈴木)藤蔵が、瀬織津姫を伊豆から遠野へ遷しまつるのは大同元年(806)と伝えられます。この時間は、空海が伊豆へやってきた嵯峨天皇→上皇時代(809〜842)の「前」にあたることは偶然ではないでしょう。空海や最澄などの国家仏教徒は、自身の修行的情熱だけで行動していたわけではなく、朝廷の命(勅命)によって各地を歩いていた(その地の地神を仏教的に置き換える=伏せる)ことが考えられ(神仏混淆)、これは、たとえば、斉衡時代(854〜858)、早池峰山(瀬織津姫)祭祀に深く干渉してきた円仁(最澄高弟で天台宗座主となる)にもいえます。

045 感銘深く拝読させていただきました かぐら川 2004/05/02 (日)

はじめまして。
『エミシの国の女神 早池峰―遠野郷の母神=瀬織津姫の物語』、感銘深く拝読させていただきました。
 その感想?を、菊池さんへの手紙というかたちで拙web日記(4/20と5/2)に書かせていただきました。うまくご紹介できたか心もとないのですが、意に添わぬ点、ありましたらご寛恕ください。
 この風琳堂のHPに、「白山神から立山・姥尊へ──姥堂・雄山神社・白山比盗_社・円空」という別項が掲載されていることも、今、知ったのですが、新川命の件は、あらためて書かせていただければと思います。
 とりあえず、チャレンジングなご本のお礼まで。
 これを機に、いろいろご教示いただければと思います。

 なお、誤植と思われる個所、いずれメールにてお知らせしたいと思います。

■歴史から消された女神の実像(HP「めぐり逢うことばたち」)

菊池展明様へ

『エミシの国の女神 早池峰―遠野郷の母神=瀬織津姫の物語』、感銘深く拝読させていただきました。
「瀬織津姫」の名を知ったのは、昨年末。富山県氷見市の山間部にある式内論社の一つ「速川神社」の御祭神としてでした。美しい神名ながら、古事記・日本書紀には登場しない不思議な女神との出逢いでした。それが菊地さんの本との出逢いにもつながったのです。

 東北岩手県の霊峰・早池峰に祀られている神ならば、縄文人の信仰を今に残す地方固有の神のはず(「縄文のみちのく=反大和政権」!)と勝手な古代ロマンを先読みしていた私には、驚くべき事実がまず指摘してあったのです。
 瀬織津姫は、土俗の地方神でないばかりか、無名にもかかわらず伊勢神宮内宮の別宮・荒祭宮に「天照大神」の荒御魂として祀られた格の高い神であるというのです。
 しかしそれだけではありません。祝詞に「祓いの神」、伝承に「滝の神」としてわずかに名を残す「瀬織津姫の実像」を尋ねる菊地さんの旅の前には意外な事実が、次々と現れ、読み進むうちに、私もどんでん返しを何度もくらうことになりました。

 瀬織津姫は、天武・持統体制によって大和政権的中央から追放され、記紀神話からも放逐され、祝詞のなかに封印されてしまったはずという――、日本書紀をていねいに読み解き、伊勢・三河のフィールドワークのなかで提示される――推論は、説得的でたいへん魅力的なものでした。
 そこには、皇祖神・天照大神の誕生の秘されたいきさつが語られていたのです。

 こうして用意周到に消されたはずの神でしたが、この“小さな、しかし偉大な神”は、異郷の地・東北に受け継がれ、蚕神・農業神オシラサマ、オクナイサマとなり、“大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり”という語り口で知られる(「遠野物語」)早池峰の神ともなって蘇生するのです。
 その裏に瀬織津姫を封印するという挙に出た持統女帝の内面のドラマが、「大昔」に女神を迎えた遠野の人びとへの共感と、織り重ねられつつ・・・。

―――上に紹介したのは私の興味に沿って拾い出した本書の骨子ですが、こんな理解でよかったでしょうか?。
 しかし、興味深く豊富な論点がまだまだたくさんあるのです。「どうして瀬織津姫が封印されねばならなかったか」という真のドラマをまだ紹介してないのです。その点は、いずれ紹介させていただく機会があるかと思います。

〔追記〕「おび」にも紹介されている主な論点は、次の通りです。
 アマテラスの誕生と祖型の神々/持統女帝の伊勢・三河行幸の謎/日本書紀の編集・創作思想/伊勢神宮の成立と伊雑宮の真の神々/オシラサマとザシキワラシの原像/東北と三河の古代史の一断面と連続面/国家の名のもとに歴史から消されてきた女神の実像……。

 神楽川という不思議な川を追っかけているうちに古代民俗学?の周辺もうろうろ歩き始めた私ですが、遠野・早池峰に始まり、異郷の古代――そこは著者のある意味固有のふるさとなのかも知れませんが――にワープし、遠野・早池峰に回帰する菊地さんの旅や、そこにさりげなく提示された知見からは、“越ノ国の神”についても、さまざまな想像に駆りたてられました。
 そんなことも、また書いてみたいと思います。

 有り難うございました。

※『エミシの国の女神 早池峰―遠野郷の母神=瀬織津姫の物語』(菊池展明/風淋社/2000.10)

046 瀬織津姫は不思議な女神 風琳堂主人 2004/05/04 (火)→修正 2004/06/25

 かぐら川さん、はじめまして。
 瀬織津姫の本をお読みいただき、お礼申し上げます。また、HP「めぐり逢うことばたち」での本の感想とご紹介をありがとうございました。以下は、些少の「返信」です。
 かぐら川さんの瀬織津姫との出会いは、氷見市の速川神社でのことのようですね(わたしは遠野の伊豆神社)。瀬織津姫は、たしかに「美しい神名ながら、古事記・日本書紀には登場しない不思議な女神」で、わたしも初めてこの神の名を知ったときには同じおもいでした。
 瀬織津姫の本名(?)は記紀に一箇所も書かれていませんけど(異称としては天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、八十禍津日神などの名で記載)、しかしながら、境内社や合祀などを含めますと、全国に400社以上(その多くが水神・滝神)、瀬織津姫の名を伝えています。また、これは唯一の例ですが、延喜式における明神大社という別格社にまつられているのが、郡山市の宇奈己呂和気神社です。記紀にその名が登場しない神がこのようにまつられている──、これらの事実をみただけでも、この神をおろそかに考えることはむずしかろうとおもいます。
 本の出版以降に、瀬織津姫について新たに判明してきた祭祀事実・祭祀考などは、この千時千一夜の前の掲示板「囲炉裏夜話」で集中的に語られてきています(あまりに量が膨大で、自分の分さえまだ整理がついていない状態です)。
 新川命あるいは新川姫命については、「白山神から立山・姥尊へ」でふれた以上の考えはわたしには今はなく、かぐら川さんの新しい考察を読めればうれしくおもいます。
 この、まだほとんどの人に知られていない女神の探究は、考える下地、あるいは調べる方法がようやくできつつあるかといったところです。寺社や地域の伝承資料などは、ときに歴史の生き証人で、おもわぬところで瀬織津姫の歌や民話を「発見」したりすることもあります。
 話がいささかとびますが、昨今、イラクでの人質から解放された生還者への非難・批判が跋扈している日本の現状をみますと、根深いところで、瀬織津姫を封じてきたこの国の歴史観・国家観とリンクしていることが考えられてきます。現在、最大の右翼団体となりつつある日本会議(神社本庁統理が顧問、同総長が副会長)に賛同する国会議員懇談会の会長・麻生太郎が真っ先に、この個人(生還者)非難の発言をしていました。また、神社本庁の政治団体である神道政治連盟に賛同する国会議員懇談会には、総理大臣をはじめ、各大臣・副大臣、自民党員のほとんどが会員あるいは関係者となっています。日本にとってイラク問題とは、背後に、この右翼問題、つまり、天皇制国家思想の問題を隠しています。瀬織津姫が日本の祭祀史において封じられてきたのは、この神社本庁が「本宗」と仰ぐ伊勢神宮の皇祖神祭祀の作為性をもっとも証言できる神だからというしかありません。しかし、この封印と変名の祭祀は、少しずつ解かれつつあることも一方の事実です。瀬織津姫は「水神」として、わたしたちの過去の生活に深く根づいた神でしたから、この神の歴史的消去は不可能だろうというのが、わたしの見方です。
 かぐら川さん、新川命・新川姫命のほかにも「越ノ国の神」の話も歓迎です。あの翡翠の女神や能登島の女神なども謎解きしたいものとおもってきましたが、まだ手つかず状態です。
(追伸)
 この掲示板の読者には『エミシの国の女神』の読者の方が多いとおもいますので、誤植の指摘については、ここに公開で指摘していただいてもかまいません。一冊分パーフェクトな校正は、ほんとうにむずかしいです。

047 伊豆神(走湯神)と熊野信仰 風琳堂主人 2004/05/07 (金)

 宇奈明神二柱の神(高皇産霊[たかみむすび]神・神皇産霊[かみむすび]神)は、天之御中主[あめのみなかぬし]神とともに造化の三神として崇敬されている神様で、全てのものをむすび、むすばせ給う、万物生成霊威の神様です──これは、安達太良山(福島県)を神体山とする安達太良神社の自社祭神についての説明です(「安達太良神社略記」)。また、同略記には、「宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神」とも書かれています。文中「造化の三神」は、古事記が最初に記す神々であり(天之御中主神、高皇産巣日神、神皇産巣日神)、日本書紀は、この造化神(初源の大自然神)の筆頭神を国常立尊としています(国常立尊は伊豆神=走湯神の「深秘」の呼称)。
 宇奈明神=宇奈己呂和気産霊二神ということで、ここで想起されるのが、その名も宇奈己呂和気神社の存在です(郡山市)。同社は延喜式における明神大社で、祭神は瀬織津比売命(相殿は誉田別命)とされます(詳細は囲炉裏夜話740「宇奈己呂和気神とはなにか」に記載)。安達太良神社と同じように造化神をまつるのが香取神宮第一摂社・側高神社で、同社には、造化三神を「隠り身の神」として、側高明神=瀬織津姫の名が伝えられています。安達太良神社と側高神社の二社は、瀬織津姫が造化神に名を変えてまつられている事例といってよいでしょう。
 大同元年(806)、伊豆から瀬織津姫(伊豆権現)を遠野にまつったのが、現在の伊豆神社(早池峰神社元社)です。同神と、その勧請者である始閣藤蔵の関係について、『遠野市史』は、「伊豆権現は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神」であり、また、藤蔵の家は「江戸時代末期に始閣を名乗るが、当初は熊野別当にゆかりの鈴木姓であった」と記しています。養老二年(718)、瀬織津姫を熊野神として陸奥国・室根山へ奉祭してやってくる責任者の一人が穂積氏(紀伊国名草藤原の県主鈴木左衛門尉穂積重義)で、鈴木氏は、この穂積氏の枝氏族、つまり同族ですから、藤蔵のルーツは、伊豆の前は熊野にあるとみてよさそうです。
 なお、伊豆の熊野信仰について、「関東に於ける熊野の中本山は、箱根と伊豆とであります。これは、熊野の本宮と那智との地形に似て居るからです。妙宝山は日金山に当り、熊野の地は、足柄下郡(箱根…引用者)にあてはまる」と述べていたのは折口信夫でした(「東北文学と民俗学との交渉」、『折口信夫全集』第十六巻)。『遠野市史』によれば、伊豆山が関東での修験の拠点となるのは、奈良時代にまで遡るとのことです。熊野も温泉地ですが、瀬織津姫は那智の滝神でもあります。その那智(妙法[宝]山)が伊豆(日金山)にあてはまる、つまり、熊野本宮は箱根、那智は伊豆に対応しているとする折口の指摘は貴重です。ただし、伊豆側の文献が記すように、箱根も伊豆も、その地神は同神であり、これは、熊野本宮と那智についてもいえるようです。
 那智の「滝」に対応する伊豆のそれは、おそらく走湯の滝が該当するのでしょう。瀬織津姫は遠野において、早池峰神であると同時に、早池峰山周辺では又一ノ滝(「一ノ滝」は那智大滝の異称)や清滝(白滝)などのいくつかに確認できる滝神でもあります。
 遠野・伊豆神社の「本社」である熱海・伊豆山神社は、現在、瀬織津姫の名を消去して、「伊豆山神(火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命)」を主神としています。同社祭神のホムスビという神名ですが、これは、安達太良神社の「略記」の表現「全てのものをむすび、むすばせ給う、万物生成霊威の神様」を参考にしますと、この「むすび」の根源神としての神徳を根拠とする神名のようです。そういえば、熊野那智大社の異称は「結宮」でした。同社は、熊野速玉大社(熊野新宮、本地仏は薬師如来)と対関係にありますが、那智大社の現在の主神表示(仮称)である熊野夫須美大神(本地仏は千手観音)は、熊野牟須美(結)大神から転じたものでした。

048 伊豆山神話と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/05/14 (金)

 伊豆山神社には木像の「男女(夫婦)神像」が伝えられています(室町期の作)。もし「結」に究極のイメージがあるとしますと、それは神々の婚姻をいうのかもしれません。また、ムスビ(ヒ)は、高皇産霊[たかみむすび]神・神皇産霊[かみむすび]神といった造化神の名にみられるように「産霊」としますと、「霊=神を産む」ことがムスビの第二義かとおもわれます。
 伊豆山における「結」の神話に、日精、月精の物語があります(『走湯山縁起』巻第五「深秘の巻」)。話を要約します──。
 昔、孝昭天皇の時代、その皇女の初木姫が初島に漂着し、対岸の伊豆山の海岸に湯煙(走湯の湯煙)をみてそこへ渡ると、伊豆山彦という一人の若者と出会う。初木姫は、伊豆山の中腹に登ると、木(大杉)の中に住む二人の子どもをみつけた。初木姫は男の子を日精と名づけ、女の子を月精と名づけて育て、二人が大きくなると、彼らを夫婦にした。伊豆山権現の氏人の祖は、この日精、月精という二人の男女で、これを「結び神」として崇敬した──。
 この神話には、日精と月精の対関係が中心に語られていますが、しかし、話の流れとしてはどこか不自然に感じられます。それは、初木姫が伊豆山彦と出会った、その両者の関係が少しも語られることなく、日精と月精の発見→子育てへと話が飛躍しているからです。つまり、日精と月精は、初木姫と伊豆山彦による子神(産霊)ではないのかという小さな疑問があります。
 ところで、この神話について、『走湯山縁起』巻第五には、走湯権現の神託(「権現或云」)として「一を以て万を察せよ」とも書かれていて、もしこの神話になにごとかを「察」しようとするなら、この不自然なストーリー展開を考えてみることと関係があるのかもしれません。
『熱海物語』によりますと、別伝において、火牟須比命は「またの名を伊豆山彦命」と表記されます。また、初島東明寺(本尊:烈光如来)の由来では、初木姫は「走湯権現の乳母」とされます。伊豆山神話において、初木姫が「乳母」を演じる対象神は日精、月精であり、としますと、伊豆山彦=火牟須比命は「走湯権現(伊豆権現)」に非ずということになります。
 伊豆山神社の現祭神は「伊豆山神(火牟須比命、伊邪那岐命、伊邪那美命)」で、この「伊豆山神」は神話の伊豆山彦(=火牟須比命)に該当し、「結び神」とされる日精と月精は、記紀神話に付会して伊邪那岐命、伊邪那美命とされるも、ここには初木姫の名はありません。伊豆山彦(=火牟須比命)と対(結)の関係にある初木姫とはなにかという問いが生じてきます。
 伊勢において、瀬織津姫は荒祭神=天照大神荒御魂とされ、男神としての天照大神とは対(結)の関係にありました。「深秘」の后神が「荒魂」と表記される例を伊豆山にあてはめますと、「火牟須比命荒魂」は雷電神のことでしたから、初木姫は雷電神という水神の仮称である可能性も匂ってきます。初木姫は現在、初島の初木神社の主祭神とされ、同社近くには「島内唯一の自然湧水」があるとのことです。初木姫も水神と習合している可能性があります。
 初木神社の祭礼日は七月十七、十八日(白山および早池峰山も同祭日)で、初島神に奉納されるのが「鹿島踊り」、また「伊豆山神社のお祭りの日が雨なら初島のお祭りも雨になる」と、両社の縁由の強さがうかがえます。鹿島神宮奥宮の神は、ここも「武甕槌神荒御魂」などと表記されます。しかし、同宮「跡宮」は「本社ヨリ南ニ当リ荒祭宮トテ有リ、大曲津命ヲ祭ル」と伝えられています(『新鹿島神宮誌』)。荒祭宮は皇大神宮(内宮)第一別宮の名であり、大曲津命(=大禍津日神)は瀬織津姫の貶称です。鹿島踊りというのは、本来は鹿島神に奉納される踊りでしょう。初木姫の背後の初島神は、まさに「深秘」の鹿島神でもあると考えられます。

049 伊豆山にまつられた白山神 風琳堂主人 2004/05/17 (月)

 熱海は全国有数の温泉地の一つですが、おもえば、水は火があって初めて「湯」となります。日精は火を、そして月精は水を司る神としますと、これは人の「生」に密着した初源神で、伊豆山神話が日精、月精を「結び神」とみなしていたのも「なるほど」とおもわれます。
 元伊勢・籠神社は、「水の徳顕著」な神として、造化神の天御中主神・国常立尊と豊受大神は同神であると述べていました。この「水」の神徳を重視するなら、天御中主は「天水中主」からきた表記とみておかしくありません。これは、水を司る大元神ということかとおもいます。水主神といってもよい「天水中主」で想いだされるのは、古事記には記されるも、書紀の編纂においては消去される大年神(海を光[てら]してやってきた神=太陽神、内宮別宮・伊雑宮の元神)と対(結)の関係にある天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]という天上の水姫です。古事記は、天知迦流美豆比売と大年神との間には、奥津日子神、奥津比売命という子神があるとも記していました。この子神は「竈神」とされますから、これは、水神と火(日)神の婚姻(結)によって、もっとも身近な火神が誕生=分神=産霊したということになります。
 伊豆山祭祀の改竄の兆候は、伊豆国風土記(逸文)にみてとることができます(「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」)。元明女帝によって風土記撰上の命が出されたのは和銅六年(713)のことでしたが、各地の風土記が朝廷承認の元に成書化されるにはかなりの時間の幅があったことは、出雲国風土記が成立したのが天平五年(733)であったことからもわかります。伊豆国風土記の成書時間を確定するのは困難ですが、和銅六年(713)から天平五年(733)頃の間とみてよいのではないかとおもいます。各地で風土記が編纂されている同時期に、白山神=河上大権現は、泰澄に「国中の水を守護す」と神託したとされます(『白山妙理大権現縁起』)。この「水」の守護神が伊豆山にまつられるのが、出雲国風土記が成立した天平五年(733)のことでした。

■白山社縁起──伊豆山神社の末社で祭神は菊理媛命、『走湯山縁起』によると、天平五年(七三三)六月東国に疫病流行のさい、白山の神威によるほかはないとの神託があり、夏期の炎天の日に、松岳隅岩蔵谷に白雪が積ること三尺余り、これを嘗めれば病気が平癒したと伝えている。伊豆山神社裏山北方五〇〇bの高所に、巨巌の重なり立つ霊域に広さ四b四方の社殿が鎮座し、付近は森林におおわれ神秘の念をおこさせている。(太田君男『熱海物語』)

 天平五年(733)の「疫病流行のさい、白山の神威によるほかはない」という「神託」があったというのは、考えてみれば不思議な話です。わたしたちは、伊豆神(走湯神)と白山の地神が異神ではないことをすでに知っています。このような「神託」をする、せざるをえない神は、おそらく伊豆神(走湯神)ではない、新しい伊豆の神であることが考えられます。
 風土記時代、伊豆山に、元の神に代わってまつられたのが「瓊瓊杵尊の荒神魂」でした。天孫・瓊瓊杵尊がここに登場してくることでいえば、勅命を受けた泰澄による白山祭祀改竄における、白山の地神(別山神)である「滝[たきつ]速河神」もまた瓊瓊杵尊と表記されていたことも想起されます(『白山大鏡』)。こういった新しい作為神では、「疫病流行」を鎮めるために、真夏に「白雪」を降らせるといった水神ならではの「奇跡」は、とうてい不可能であったということなのでしょう。ちなみに、神社境内の案内板では、白山神は「火牟須比命奇魂」と表示されていて、白山神がもともと伊豆山と無縁ではない神であることを伝えています。

050 梅原猛「神は二度死んだ」について 風琳堂主人 2004/05/20 (木)

 梅原猛さんが、この千時千一夜の探究テーマとも関わる話を新聞に寄稿しているのが眼にとまりました。題して「神は二度死んだ」──。

■神は二度死んだ
 近代日本において神殺しは二度にわたって行われた。近代日本が最初にとった宗教政策、廃仏毀釈が一度目の神殺しであった。〔中略〕
 そこで殺されたのは仏ばかりではない。神もまた殺されたのである。外来の仏と土着の神を共存させたのは主として修験道であるが、この修験道が廃仏毀釈によって禁止され、何万といた修験者が職を失った。この従来の日本を支配した神仏を完全に否定することは、近代日本をつくるために必要欠くべからざることと思われたからである。福沢諭吉のような啓蒙思想家などもこの神々の殺害を手助けしていたことは否定できない。
 そして明治政府はこのように伝統的な神仏をすべて殺した後にただ一種の神々のみを残し、その神々への強い信仰を強要した。それは天皇という現人神と、アマテラスオオミカミをはじめとする現人神のご祖先に対する信仰であった。〔中略〕
 この敗戦(太平洋戦争・第二次世界大戦における日本の敗戦)によって新しい神道(国家神道…引用者)も否定された。現人神そのものが、実は自分は神ではなく人間であると宣言されたことによって、この神も死んだ。(反時代的密語、『朝日新聞』2004.5.18)

 一度目に「死んだ」のは明治初頭の「廃仏毀釈」(神仏分離)のときで、それは「土着の神」、そして、二度目に「死んだ」のは、1945年の敗戦時のときの「天皇という現人神」(天皇の人間宣言による)というのが、梅原さんの「神は二度死んだ」という認識です。
 梅原さんは引用において、三種類の神を挙げていました。そのうちの第一の神(土着の神)と第二の神(現人神)は「死んだ」とするも、しかし、第三の神というべき「アマテラスオオミカミ」(神宮神=皇祖神)の思想については、「現人神」と同様に「死んだ」とはいえないのが、神社本庁(神道政治連盟という右翼政治団体を裏面にもつ)を頂点とする神社世界の「現在」です。
 明治初頭の「神殺し」は、「土着の神」に対してなされたものですが、ここで「神殺し」の対象となった神は、たんに「土着の神」という一般神ではありませんでした。正確にいえば、「アマテラスオオミカミをはじめとする現人神のご祖先」の祭祀に抵触する「土着の神」こそが「神殺し」の直接の対象となった神でした。その筆頭神こそが、この千時千一夜で取り上げている、伊勢および各地の「土着の神」(水神・滝神)である瀬織津姫という神です。
 梅原さんは、政治家や官僚が「道徳」を失い「恥ずべき犯罪」を行い、学者や芸術家は、この「道徳の崩壊」の時勢に「何らの批判も行わず、唯々諾々とその時代の流れの中に身を任せている」としています。また、この「道徳の崩壊」に対して、「小泉八雲が口をきわめて礼讃した日本人の精神の美しさを取り戻すには、第一の神の殺害以前の日本人の道徳を取り戻さねばならない」と結んでいます。しかし、「取り戻」すのは「日本人の道徳」というよりも、「殺害」が戦後現在にまで延々と継続されている「第一の神」=瀬織津姫という神の復権(神権)でしょう。まさに、この「神、非礼を受け賜[たまは]ず」です(八戸市・御前神社)。あるいは、「神代より隠しおきけむ滝つ瀬(瀬織津姫)の世にあらはるるときこそ来つれ」です(柳原白蓮)。

051 日本の「神殺し」の歴史 風琳堂主人 2004/05/24 (月)

 人に人権(基本的人権・生存権)が保障されているならば、神にも神権(基本的神権・生存権)が認められる必要があります。なぜなら、記紀神話に登場しない「神」であっても、それは人の「心」が投影した存在(人の「心」がつくりだした存在)であり、ときには、神には人の「心」そのものである性格があるからです。したがって、神権とは「心権」でもあると考えます。
 日本は人権も心権もあまり尊重しない国柄であることは、イラクからの生還者への「自己責任」論に名を借りたバッシングを、与党・右翼政治家が真っ先になすといったことに象徴的にみることができます(これに対して無批判・鈍感なマスコミも同罪です)。生還者の一人、高遠菜穂子さんのホームページの掲示板には暴力的なバッシングの書込みがつづき、同掲示板は閉鎖されたとのことです。彼女に、イラクでの「死」の恐怖に、さらにたたみかけるように「心」を病ませる「日本」という国は、国際社会を生きる資格を根本的に欠如させています。
 梅原猛さんは、政治家や官僚が「道徳」を失っていると述べていましたが、彼らがもし失っているものがあるとすれば、それは「道徳」というよりも「人権」「心権」に対する真摯な意識でしょう。これは、国民の「人権」よりも「皇権」を優先させようとする歴史的無意識が根底にあるからだといいかえてよいかもしれません。梅原さんは、「道徳の崩壊」に対して「第一の神の殺害以前の日本人の道徳」を取り戻す必要があるといった内実のない道徳主義の言説を述べる前に、日本という国がもっている、「人権」を軽んじ、かつ「心」を病ませて恥じない国家観・歴史観をまず指摘すべきではなかったかとわたしはおもいます。
 梅原さんの認識の曖昧性は、実は日本の「神殺し」に対する曖昧な理解や、すぐれた分析の中に唐突に表れる「天皇」への敬語表現の混在にみることができます。
 彼は「神は二度死んだ」において、明治政府は「廃仏毀釈」によって「伝統的な神仏をすべて殺した」という認識を示していましたが、これはいかにも梅原さんらしい情動的な断定です。廃仏毀釈は、正確にいえば、神仏分離令の大衆的結果(神仏習合時代に不遇であった神道世界の主導によるもの)であり、明治政府が直接意図したものではありません。また、「殺」された側の神でもある瀬織津姫に限るならば、ほんとうは「死んだ」という過去形によって括られる神でもありません。瀬織津姫に対する「神殺し」の策動は、明治初頭の神祇策で終わっていないこと、つまり、昭和期はいうまでもなく、戦後現代にまで継続していること(囲炉裏夜話789「伊勢神宮の成立と『力』の話」ほか参照)は、瀬織津姫の「生存」を逆によく告げています。
 なお、瀬織津姫への「神殺し」の策動の始まりは、伊豆山神社の祭祀が象徴していますが、古代にまで遡ります。これは、伊勢神宮の成立(皇祖神の創造)と連動するように成書化された日本書紀という「国史」の成立時点(720年)を、本格的な開始の「時」とみてよいのですが、あるいは、その前の古事記の創作において、すでに「神殺し」(神名変更)は認められますので、壬申の乱(672年)以降の天武・持統時代にまで、その淵源を遡らせるべきかもしれません。
 このように、およそ1300年前から、瀬織津姫という神に対する「神殺し」はつづいていて、それが神仏習合の長い時代(この間、仏の名において神が「凍結保存」される)を経て、明治初頭、「神仏分離」の名のもとに、それまで「仏」の背後に隠されていた神(皇祖神祭祀にとって不都合な神)の洗い出しが徹底してなされ、そこでまた「神殺し」(これも正確にいえば、記紀に準じた神名にほとんどが変更される、いわば「神神習合」)が復活(復古)し、これはその後もつづいているというのが、おそらく日本の神祇策(神殺し)の「正確」な経緯・歴史です。

052 走湯権現(伊豆権現)のメッセージ 風琳堂主人 2004/06/03 (木)

 八幡大菩薩走湯大権現──これは、鎌倉時代に走湯権現に奉納された太刀に刻まれた銘文の言葉です(太田君男『熱海物語』)。この太刀の奉納者には、八幡神と走湯神が結びつく発想があったとは興味深いことです。源義家は「八幡太郎義家」といった別称をもっていたことにみられるように、八幡神は源氏の氏神で、鎌倉時代の頼朝や実朝の「二所詣」に象徴されますが、彼らが走湯神(伊豆神)を特別に信奉していたことはよく知られるところです。しかし、八幡神が走湯神(伊豆神)と結びついて「八幡大菩薩走湯大権現」と表現されていることには、神社祭祀のある種「常識」からすると、つまり、たとえば伊豆山神社の祭神表示に八幡神の名は出てきませんから、これは少なからず「びっくり」してよいという気がします。
 わたしたちは、八幡神の大元神である比売大神および走湯神が瀬織津姫の異称であることをすでに知っています。太刀の奉納者も、鎌倉時代、こういった認識をもっていたことが想像されます。走湯神(伊豆神)には、熊野神、鹿島神、白山神が集積するように「習合」していることが考えられ、ここに、八幡神(比売大神=宗像神)を新たに加えてよいのかもしれません。伊豆には、錚々たる「全国区」の神々が習合→集合していることになります。
 これらの神々の大元神(女神)がそれぞれ異神ではないことを考えますと、『走湯山縁起』巻第五(深秘の巻)における走湯権現の神託(「権現或云」)とされる「一を以て万を察せよ」という言葉は、つまりは「一神を以て万神を察せよ」という意だったということかもしれません。
 この「一神」に該当する神の名を静かに伝えつづけてきたのが、遠野の伊豆神社でした。東北の山深い遠野という村里の小さな神社(伊豆権現→伊豆神社)や早池峰神社の瀬織津姫祭祀が、明治期の全国的な「神殺し」の猛威からまぬがれたことの意味は、ことのほか大きいといわざるをえません。記紀思想に基づく日本祭祀の既成観は、根本的に見直される必要があります。
 伊豆山彦=火牟須比命と初木姫(→初島神=鹿島神)が対(結)の関係にあることや、伊豆山神社に男女(夫婦)神像が伝えられてきたことなどを考えますと、伊豆山彦=火牟須比命は、伊勢における瀬織津姫と対(結)の関係にある男系太陽神を背後に秘めている可能性も浮上してきます。伊豆国風土記(逸文)いうところの「日金嶽」の「日金」は「日ヶ峰」からきた名称とみますと、ここには日神祭祀もあったとみられそうです。
『先代旧事本紀』「国造本紀」の伊豆国造の項には、「神功皇后の御代に、物部連の祖、天?桙[あめのぬぼこ]命の八世の孫・若建命を以て、国造に定賜ふ。難波朝の御世に、駿河国に隷[つ]く。飛鳥朝の御世に分置[わけおく]こと故如[もとのごと]し」とあります。また、この伊豆国の親国というべき駿河国の国造の「片堅石」は「物部連の祖、大新川命の児」とされます。大新川命は同書注記によりますと「饒速日命七世孫」とされますので、物部氏の祖神とされるニギハヤヒという太陽霊(太陽神)の祭祀が、駿河・伊豆国においてもなされていた可能性があります。これは現在、強い可能性の話以上ではありませんが、微証がないわけではありません。それは、同じく物部氏を国造とする遠淡海国(遠江国)の津毛利神社の存在です。同社は、元明時代、藤原不比等によって住吉神に祭神変更がなされてしまいましたが、飛鳥時代はニギハヤヒをまつり、また明治初頭までは瀬織津姫をまつっていました(囲炉裏夜話754「藤原思想と瀬織津姫」)。津毛利は津守で、津守氏は難波ほか各地で、湊(船)の管理を専任とする氏族だったようです。住吉三神は記紀の影響下に三神化を強制された神名ですが、その前は「墨江大神」という一神でした。荒祭神=瀬織津姫の異称が「津守大明神」であったことも添えておきます。

054 住吉神と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/06/08 (火)→修正 2004/06/15【053は欠番】

 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、天道日女命を妃[みめ]と為[し]て天上[あめ]に天香語山命を誕生[あれ]ます──これは、『先代旧事本紀』が記すニギハヤヒの神統譜の一節です。ニギハヤヒと「天上」における対(結)関係にある「天道日女命」は、これ以上に神格・神徳等が説明されることなく、これもまた謎に包まれた女神だといえます。ニギハヤヒと天道日女命との産霊神(子神)とされる天香語山命は別名・高倉下[たかくらじ]命で、神武紀が記すこともあって、熊野の地神とされます。『本紀』もまた天香語山命の説明として、「此命は御祖天孫尊(ニギハヤヒ)に随て紀伊国熊野邑に坐す」と記しています(高倉下命は、熊野新宮奥宮・神倉神社の神)。
『先代旧事本紀』巻末の大野七三氏の解説によりますと、天香語山命=高倉下命の「神裔氏族」として「有名」なのは尾張氏、熊野連であるが、ほかには、多治比連、津守連、海部直、丹羽[たには](丹波)国造、但馬国造など多くの支族があるとされます。
 津守氏が神主家として奉祭する神社は摂津国の住吉神社です。同社の主神は現在、俗に住吉三神とされますが、正確には四神がまつられています。つまり、第一本宮(底筒男命)、第二本宮(中筒男命)、第三本宮(表筒男命)、そして第四本宮(姫神宮、神功皇后=息長足姫命)です。
 底筒男命、中筒男命、表筒男命は、記紀がともに記す、イザナギがイザナミの黄泉国から帰還して禊ぎをおこなったときの誕生神とされる神です。古事記によれば、このイザナギの禊ぎによる誕生神の筆頭に記されていたのは、八十禍津日神、大禍津日神、神直毘神、大直毘神という「祓戸四神」と、そして伊豆能売[いづのめ]という「伊豆の女神」でした(八十禍津日神が荒祭神=天照大神荒魂=瀬織津姫の異称であると述べていたのは、神宮側の文献『倭姫命世記』)。
 飛鳥時代(天武・持統時代)にはニギハヤヒを、明治初頭までは瀬織津姫をまつっていた遠江国の津毛利神社へ、養老時代(元明時代)、藤原不比等が「勅命」を仮装して、ニギハヤヒを住吉三神に祭神変更したことが大いに暗示していますが、津毛利神社と同神をまつっていたとおもわれる住吉神社も、これと遠くない(前の)時期に祭祀改竄(神殺し)がなされたとみられます。
 住吉神社の現在の社殿構成をみますと、第一本宮から第四本宮が一列横並びではなく、第一本宮から第三本宮のグループと第四本宮が並立するように、二つの社殿域から成っているという特徴があります。この社殿配置は、あるいは、もともとは二つの社殿・神が並祭されていた名残りなのかもしれません。ニギハヤヒの三神化(住吉神化)を促したものは、いうまでもなく記紀の創作的記述で、この記紀の表現に準じて社殿までが三殿化された可能性もあります。
 しかし、『住吉大社神代記』によれば、津守氏が奉祭するのは第四本宮=姫神宮のみで、第一本宮から第三本宮までは奉祭の対象となっていません。これは何を語るかですが、考えられることは、姫神宮の「姫神」こそが津守氏の奉祭神であること、そして、第一から第三宮の住吉三神は、記紀の神代記と神功皇后の新羅遠征譚に付会して新たに(朝廷の命によって)まつられた神で、『神代記』の記述者はそれを暗に否定しているということでしょうか。
『神代記』の「本縁起」が定められたのは大宝二年(702)で、その後も奈良朝末期にかけて改定がなされているようですが、大宝二年という年が持統女帝最晩年の年であることは偶然とはおもえません。津守氏が奉祭していた「姫神」は天道日女命であり、また、瀬織津姫が「津守大明神」と呼ばれていたことを考えますと、天道日女命も瀬織津姫との「習合」神とみてよいのかもしれません。瀬織津姫の古歌を伝える八戸市の御浜御前(御前神社)が、明治期に住吉三神に祭神変更されたこと──、これも、それなりの類縁の神ゆえの表示だったのでしょう。

055 広田神=瀬織津姫へ通う住吉神 風琳堂主人 2004/06/14 (月)→修正 2004/06/15

 瀬織津姫を、その異名・天照大神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)という祭神名でまつるのが広田神社ですが、同社祭礼時の「神宴歌[カミアソビノウタ]」は興味深い内容です。

■広田神社の神宴歌──或記に曰はく、住吉大神と広田大神と交親[ムツミ]を成したまふ。故[カレ]、御風俗[ミクニブリ]の和歌[コタヘウタ]ありて灼熱[イヤチコ]なり。「墨江伊賀田浮渡末世住吉夫古[スミノエニイカダウカベテワタリマセスミノエガセコ]」是、即ち広田社の御祭の時の神宴歌[カミアソビノウタ]なり。(『住吉大社神代記』、田中卓訓訳)

「墨江伊賀田浮渡末世住吉夫古」──これは、「墨江に筏を浮かべて渡っていらっしゃい、わが住吉の夫よ」といった意かとおもいます。住吉大神と広田大神は「交親[ムツミ]」の関係にあるとは、なかなか艶っぽい話です。住吉神社の第四本宮=姫神宮の祭神が神功皇后と決められたとき、つまり、広田神=瀬織津姫が住吉神社からいなくなったとき、住吉神は対岸の広田神へ「通う」ことをはじめたのかもしれません。
 宇佐八幡=宇佐神宮は、奈良期までは「八幡大神」と「比(比売)神」の二神がまつられていましたが(続日本紀、天平勝宝元年十二月二十七日の記述)、同社祭神に「第三之殿」として神功皇后が付加されたのは弘仁十四年(823)のことでした。『住吉大社神代記』が最終的に成書化されるのは、延暦八年(789)とされます(同書、奥書)。桓武─嵯峨時代は、延暦二十三年(804)の『皇太神宮儀式帳』の作成・上表に象徴されるように、日本の神祇祭祀(神殺し)がまたはじまる第三の時代かとおもいます。延暦八年(789)の時点に、あるいは住吉神社の「姫神」が神功皇后と決められたのかもしれません。ただし、神功皇后は記紀が記すように、本来、神をまつる側の者であって、自身が「神」としてまつられるというのは、やはり不自然なことです。特に、この女帝がまつられるその前に、すでに神まつりが存在する場合、そこには作為的な元神隠し(神殺し)の意図が働いているものとみてほぼまちがいありません。
 明治期、瀬織津姫の名を消し、代わって住吉三神とともに神功皇后をまつったのが八戸市の御前神社(御浜御前)でした。これは、住吉神社の祭神構成と一緒であり、つまり、御浜御前=瀬織津姫の住吉神化であり、住吉「姫神」とはなにかを逆に暗示する結果を招いています。
 ところで、広田神は「八幡同体」と記していたのは『諸社禁忌』でしたが、この伝承と瀬織津姫の古歌を伝える御前神社の存在を重ねますと、広田神=天照大神荒魂=八幡比売神=瀬織津姫=御浜御前となり、既成の祭祀常識では理解を超える神の等号式が浮かんできます。
 また、『宇佐託宣集』には「即夜住吉大明神現形為夫婦」、つまり、住吉神と八幡(比売)神は「夫婦」関係にあるといった伝承も収録されています(田中卓「住吉大社神代記の研究」)。広田神=八幡比売神と住吉神の対(結)関係を伝えるこれらの諸伝は、日本の長きにわたる「神殺し」のほころびを暗示して余りあるというべきでしょう。ここで、瀬織津姫と男系太陽神が対(結)関係を構成していた伊勢神宮の祖型祭祀を想起しますと、住吉神は、伊勢の消された男系太陽神と「同体」ともみられます。この太陽神の正確な名を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と伝えているのが『先代旧事本紀』(と津毛利神社)で、としますと、ニギハヤヒの天上の妃神である「天道日女命」が伊勢に降り立ったときの名が「天疎向津媛命」ということかもしれません。ちなみに、正妃を「むかひめ」と訓じているのも『先代旧事本紀』(大野七三訳)です。

057 質問 高西 2004/06/29 (火)

 どーも、はじめまて高西といいます。
 瀬織津姫に関して質問があります。
 瀬織津姫とはよく祀られている神なのですか。古事記には出て来ず、大祓詞に出てくる神ですよね。
 私の母親の故郷の神社には祀ってありますが、瀬織津姫は海の神でしょう。しかし母親の故郷は山奥です。
 どうして山奥の村人が瀬織津姫という海の神を祀ったのだと思いますか。

058 山神・海神・水神 風琳堂主人 2004/07/02 (金)

 高西さん、はじめまして。ちょうど移動中で、レスが遅くなりすみません。
 ご質問のその一「瀬織津姫とはよく祀られている神なのですか」については、境内社や合祀などを含めますと、現在、全国で四百社以上に瀬織津姫祭祀が確認されています。
 ご質問のその二「どうして山奥の村人が瀬織津姫という海の神を祀った」のかについて。瀬織津姫は高西さんのお母さんの故郷の「山奥」にもまつられているとのことですが、これは、海神というよりは水神という性格でまつられているのではないでしょうか。
 瀬織津姫は宗像神でもありますから、たしかに海神の要素ももっています。これは、八戸市の御前神社に伝わる「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」という歌にもよく表れていますし、岡山県和気郡佐伯町の御崎神社の主祭神として瀬織津姫の名を確認することもできます。
 瀬織津姫は遠野の早池峰山の山神でもありますが、この山は三陸の海の民にとっては絶対的な目印の山でもありますし、山里の民にとっては、水を恵む神というとらえかたをしています。後者は農耕と関わっていることはいうまでもありません。この早池峰神の性格(海神・山神・水神)は、そのまま白山神の性格でもあります。
 これは一般論、つまり政治的な意図による祭祀以前の話ですが、列島の内部に人が定着する道筋はそのまま川筋でもあったことが考えられます。人は海から川を遡行するようにして生活地を発見したというのが、たぶん古代人の内陸への動きであったようにおもいます。したがって、神は生活の条件によって、その性格を適合させて変化するとみてよいようです。
 特に、瀬織津姫(宗像神でいえば湍津姫)については、滝神(川上神)=川神という性格要素を強くもっていますので、この神は川の遡源地の山の神ともなります。瀬織津姫を大祓神としてまつる佐久奈度神社においてさえ、瀬織津姫は「川に宿る大自然神」でもあるというもう一つの理解を示していて、これもよく肯けるところです。
 ほかの瀬織津姫祭祀の具体例をみても、たとえば「山奥」の小さな集落で唯一水が湧き出すところの、いわば水源神という性格でこの神を大事にしているところもあり、おそらく、ここでは海神の性格は人々の記憶から消えていることが考えられます。そういった山間の地で瀬織津姫をまつる人々にとっては、そこでの生活の必然性が優先するはずで、この神のルーツや全体像に知的関心を拡げる必要はなくて当然とおもいます。
 わたしがここで少し「腹立たしい」とおもうのは、こういったささやかな祭祀に対してさえ、否定的な力を当然のごとくに行使してきた(しつづける)祭祀権力の存在です。ここでは繰り返しませんが、この祭祀権力が何を守ろうとしているかははっきりしています。しかし、このことで蒙っている「心=神」の負荷・負担は測りしれないものがあります。

(追伸)
 東北流にいいますと「出稼ぎ」ということになりますが、年契約の編集の仕事があって、7月2日(今日)から、名古屋がしばらくの本拠地となります。この名古屋地方には美濃を中心に円空の関係地がたくさんありますので、時間と相談しながらフィールドワークをしてみるつもりです。

059 瀬織津姫のことではないけれど 一如 2004/07/06 (火)

 こんばんは、初めまして「一如」と申します。わけあって、遠野の戦乱の歴史と宗教の歴史を調べているうちに、宮洞様のHPからお宅様にたどり着き、春に「エミシの国の女神」を取り寄せたものです。思っている事を沢山書くことが出来ればいいのですが何せ筆不精なので質問だけです。私たちが特に知りたいのは、遠野七観音の縁起です。そして、それが伊豆権現、妙泉寺等とも無関係でないのもわかりました。遠く征夷の頃に思いをはせると胸が詰まるものがあります。蝦夷の国が大和朝廷に侵略されていく時、神々と十一面様はどのように桓武天皇につかいものにされたのでしょうか。貴HPにて、遠野七観音のところが制作中になったままなので気になって仕方がありません。途中でも何かわかることがありましたら教えてください。

060 十一面観音と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/07/08 (木) CN.7582

 一如さん、はじめまして。まず、瀬織津姫の本をお読みいただきお礼申し上げます。
「遠野の戦乱の歴史と宗教の歴史」をお調べになっているとのこと──、これは伝承を総合して想像するしかないのですが、遠野における、対中央との「戦乱」の幕開けについては、現在の綾織町・寒風山にある出羽神社(羽黒岩=蝦夷岩)があるところに陣どった「岩武」というエミシの頭領と坂上田村麻呂の戦いが伝えられています。一般的にいっても、戦乱後に宗教(仏教)は征服地の民心教化につかわれる傾向にありますから、斉衡時代(854〜858)、早池峰山祭祀に円仁がからんでくる「前」の戦乱の伝承がここにはあるといえます。
 田村麻呂が建立したのが音羽滝で知られる京都・清水寺で、ここの本尊も十一面(千手)観音とされます。また、田村麻呂は自身の髷に十一面観音を忍ばせていた伝承がよく物語っていますが、彼の必勝祈願仏こそ十一面観音であったとみてよさそうです。
 十一面観音は後世、「現世利益」の仏とみなされることになりますが、中央側の祭祀意識にとっては、この田村麻呂と十一面観音の信仰関係が象徴するように、軍神ならぬ「軍仏」といった意味合いが強かったとおもいます。このことは、早池峰山と同じく「本地仏」を十一面観音とする白山側の文献にもみてとることができます。つまり、白山は「本地十一面観世音。七星の中の破軍星是なり」という文言・認識です(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)。「破軍」とは「敵軍(エミシ軍)を破る」という意でしょうから、十一面観音に「軍仏」的性格を認めるのは、田村麻呂時代よりもかなり前からはじまっているようです。
 十一面観音に、このように「強い力」を認める、頼むという発想は、ではどこから導きだされたのかを問うてみますと、ここに、この観音と習合する神とはなにかという問いが自ずと生じてきます。十一面観音を「本地仏」とする早池峰山および白山の地神(の一神)は天照大神荒魂の異称をもつ瀬織津姫という神です。ただ、早池峰山は瀬織津姫の名を現在にまで伝えていますが、白山については、養老元年(717)の時点で泰澄あるいは勅命によって瀬織津姫の名は消去され長い時間が過ぎてきました。おそらく、瀬織津姫という神の存在を知らない人にとっては、白山本宮・白山比盗_社の言い分である、つまり、白山の女神は菊理媛とかイザナミであるとおもっているにちがいありません。わたしたちは現在、白山の新たな文献の発見・刊行(上村俊邦編『白山信仰史料集』岩田書院)によって、白山神とはなにかを再考できる場所にいます。
 遠野の宗教史、あるいはそのはじまりは、この白山地神と同神をまつる早池峰信仰に集約・象徴されるものとおもいます。遠野七観音の創祀については、「慈覚大師(円仁)一木七体の十一面観音を手自彫刻して遠野七ヶ村え安置したまふ」(遠野古事記)と伝えられるものの、円仁(あるいはその徒弟)がなにもない(既成祭祀のない)ところに十一面観音のお堂をいきなり七つ建てたのかどうかという疑問をわたしはもっています。いいかえれば、早池峰神が里の七社にすでにまつられていたところを十一面観音に置き換えたという「前史」があるのではないかとみています。しかし、遠野七観音のお堂は長く放置されていて、再興がなるのは江戸期にまで下るというのが現実で、この長い放置期間は、お堂の前の祭祀を証言してくれる伝承を拾い出すことを困難にさせています。ただ、半焼けではあるものの遠野郷最古(平安期)の十一面観音をもつ鞍迫観音は明治期に白山神社を名乗り、また山谷観音には白山塚の存在があり、遠野七観音と白山信仰の関係の強さを伝えているのみです。ちなみに、白山には下七社という眷属社の存在がみられ、遠野七観音の「七」との関連も考えられるかなと想像しているところです(遠野七観音考が中断しているのは、この白山下七社とはなにかがうまく解けていないからです)。

061 現代の円空=どろ亀さん 言蛇 2004/07/11 (日)

「織女し 船乗りすらし 真澄鏡 清き月夜に 雲立ち渡る(万葉集3922)」

 こんばんわ、ごぶさたしています言蛇です。
 ここのところ暑い日々がつづき遠野地ビールのズモナビールの味が恋しくてまいりました。今年の気候は妙な感じですが、早池峰山のハヤチネウスユキソウの咲き具合はいかがでしょうか?自分は今、長野市に引越して県の農業研修に勤しんでいます。

 さて、遅ればせながらHPのリニューアルお疲れ様でした。瀬織津姫に並べての円空の展開、自分は仏教は門外漢なので興味深く拝読させていただいています。コメントNO.8「円空と瀬織津姫と北海道」で瀬織津姫を円空つながりで北海道を繋げていられますが円空の時代、北海道はアイヌ民族の土地で瀬織津姫を置くにはなんとなく違和感を覚えてしまいます。風琳堂主人はともかく、論の展開によってはアイヌの神々に瀬織津姫が受けた迫害を転化(*1)することにならないかと不安を覚えます。それで瀬織津姫とアイヌを結ぶものとして 岩手県出身の故 高橋延清先生(*2)が浮かんだんですが御存じでしょうか?残念ながら故人となってしまいましたが、富良野の東大演習林はきちんとした会計を伴う現在進行形の事業です。日本とアイヌ文化との婚姻を現代にきちんと執り行う確かなプレゼントにふさわしいと思いますので機会があれば訪ずれてみることをお勧めします。

 それと自分が長野に引っ越してふと思ったんですが、犀川と千曲川の合流地点に立つ善光寺、寺が立つ前に神社が祀られていたということはあるんでしょうか?今までは寺参りをする楽しみがなかったので心当たりが在れば示唆を頂けると幸いです。善光寺は男女同権・世俗女性も拒まないそうで、お釈迦様のことを考えると妙な雰囲気です。

(*1)現代のイスラエルを見ればわかるとおり、強い迫害を受けた集団は迫害の転化をしがちです。
   北海道神宮の大国主、自分にはなんとなく堕天使に見えます(笑
(*2)(http://www.ule.co.jp/kiki0205.htm)

共生型社会への思想と技術(29)
―どろ亀さん―

福留脩文
写真:平成5年、大分県大山町の森を駆け足で上るどろ亀さん。前から二人目
 昭和46年に「林分施業法」という図書が出版されている。今日的な概念の「持続可能な森林経営」が、出版以前の約30年にわたり実践され、その考え方と実際の技術が解説されている。その改訂版が昨年、初版本と同額の定価で発行された。著者、どろ亀さんご自身が、その普及を願ってのことである。その理念のところを抜粋してみる。
 「超長期にわたる地球環境管理の視点に立つならば、手つかずのままに森林を放置しておくのは好ましくない。森林が極相に達すると、炭酸ガスを固定する量と分解する量がほぼ等しくなり、森林の炭酸ガス固定機能がなくなるからである」
 「地球環境にとって好ましい森林の管理とは、森林の現存量をできるだけ大きく保ちながら、年間の成長量を高レベルで持続させることである」
 「森林は炭酸ガスを固定する循環資源であることに着目すると、最も適切な森林の取り扱い方法は、森林が系として最大の成長量を実現できうるようにし、系を壊さずに維持し、固定された炭酸ガスを木材として取り出し続けることである」
 「森林の持続的経営とは、以上の視点に加え、生物の多様性の維持が確保されたものと考えている」
 これを世に出され、本年一月三十日、森林研究の世界的権威、「どろ亀さん」こと東京大学名誉教授で、元東京大学農学部北海道演習林長の高橋延清先生は亡くなられた。この折りに改めて、先生の書き残された書物や、制作された映画の記録ビデオなどを拝見した。やはりこれまでのご業績や後進へのご示唆には、現場で培われた哲学と実際の技術論が盛り込まれており、いまさらながら胸が熱くなる思いがする。
 大分県の大山町で、人工林を自然に返していく事業に携わり、その記念シンポジウムが行われた際、C・W・ニコルさん、どろ亀さんとともに私も壇上にいた。その座談会に先立って、どろ亀さんは森づくりについて記念講演をされ、一役を終えられて大好きな日本酒をお召しになっていた。座談会の途中でも、チビリチビリやっておられた。やがて会場から質問を受ける時間になり、どろ亀さんの記念講演の内容に対する質問が出た。
 「高橋先生のおっしゃる“明るい森”とは、具体的にはどういう状態のことでしょう」
 ご返事がない。私の横でどろ亀さん、眠っておられる。
 「先生、ご質問ですよ。“明るい森”とはどういう森ですかって」
 「うん。“明るい森”ね、“暗くない森”ということさ」
 私の仲介に間髪を入れずのご回答だったが、状態を察した会場は大爆笑と拍手の渦に巻き込まれた。暗い森とは手入れのされてない人工林もそうであろうが、うっそうとした天然林も指しておられたはずである。平成11年に出版された「樹海」という本の中で、それも紹介されている。
 「東京大学の北海道演習林、総面積は約二万三千ヘクタール。この樹海は人間が少し手を加えていることによって、森が持つ活力、生産力を最高水準に維持している世界最高の天然林だ」
 実はどろ亀さん、この林分施業法にたどり着くまで、「頭が変になるほど」森の中を歩きまわったという。
 「そしてどろ亀さんは、ようやく気がついたんだ、森が教えてくれていることにね。よく見ると、森林は完全にバランスが取れた状態に向かっていたんだ。人間の時間感覚では止まっているように見えるものが、実はゆっくりと、しかもダイナミックに、針葉樹と広葉樹が混じり合った針広混交林へとね。これを極盛相の森というんだが、自然のなかでここまでなるには三百年も五百年もかかる」
 「さぁ、そこで人間が少しばかり手をかして、その移り変わりを速めてやるんだ。そして極盛相直前の状態を保つようにする。こうなったら、森はいつも元気だ。自然災害や病虫害にも強く、生息するあらゆる生き物たちと共生できる豊かな森としてね」
 「森林には環境保全の面と、木材を生産するという経済面がある。この二つは対立すると思っている人が多くて、自然保護派のなかには『絶対に木を伐るな』という人がいるけれども、そうじゃあない」
 「林分という単位でよく観察して、極盛相へと誘導する施業をすると、常に木材を生産しつつ立派な環境保全林としての役目も担える森になる。こういう森にするための伐り方をすると、伐れば伐るほど良くなっていくんだ」
 それをまとめられたのが冒頭に紹介した「林分施業法」で、現場で実際に施業するための理論をシンプルな六原則で示されている。私は森林生態系や森林施業のことは門外漢であり、ここで専門的な分野を引用し解説することはできない。あとは多くの人たちに、これらの図書が紐解かれることを願うばかりである。森林だけでなく、自然に対する見方も示唆されるところが大きい。
 実は私事になるが、この15年ほど近自然工法の理論と実践を学ぶに当り、「河相論」を昭和26年に著された安芸皎一先生の、“河川技術者としての心構え”を説かれた書物の一節が、いつも自然や技術に対する自分の立場を教えてくれていた。それは以下のような内容である。
 「我々が河川を静的に考えている間は、これを正しく理解することは困難である。河川の真の姿は、河川がいかに生育しつつあるか、という成長の過程を正確に把握することによって初めてこれを認識できる」
 人の教えは、亡くなられてからじっと効いてくる。

062 善光寺と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/07/15 (木)

 遠野の昔語りのはじまりの常套句「昔あったずもな」に由来する、遠野の「ズモナビール」を言蛇さんがご存じとは、なかなかの「遠野通」のようですね。ちなみに、この遠野の地ビールの製造元は上閉伊酒造という蔵元で、ここの社長さんは(先年亡くなりましたが)、早池峰神=瀬織津姫を敬愛していたようです。このことは、同蔵元の地酒に「清瀧姫」とか「不動瀧」といった酒名があることからもよく伝わってきます(瀬織津姫は土淵町琴畑の清滝神社=白滝神社の祭神ですし、附馬牛の荒川不動滝などの滝神でもあります)。
 先にも書きましたが、出張編集で今遠野にいなくて、ハヤチネウスユキソウの咲き具合にはとんとお答えすることができません。ここのところの名古屋の暑さは尋常ではなく、遠野の高原的さわやかさをおもいますと、それだけでも遠野に軍配をあげたくなります。
 どろ亀さんこと高橋延清さんにつきましてはよく存じ上げていないのですが、ご紹介のHPをみますと、なかなかユニークな森林論を早くから展開されていた方のようですね。わたしは自然を愛してはいますが、自然回帰派でも自然保護派でもなく、また単純に縄文幻想ももっていませんので、たとえば、広葉樹林と針葉樹林のバランスをよしとする高橋さんの「極盛相の森」という考えには共感します。おそらく、高橋さんの森の思想の魅力は、この「バランス」を考え抜いてきた上にあるもので、いわば、一方の価値観が一方を駆逐する考えから自由であることを骨子としているようです。現代ふうにいえば、排他ではなく共生といういいかたをしてよいのかもしれません。言蛇さんは、この共生を「日本とアイヌ文化の婚姻」という表現をされたのだろうと理解しています。
 ところで、「円空の時代、北海道はアイヌ民族の土地」というのは原則その通りなのですが、北海道に倭人が最初に渡ったのはいつかを考えますと、斉明時代という七世紀にまで遡る可能性もあるのかもしれません。これは日本書紀の記述を信じればということですが、もう少し時代を下らせてみても、たとえば、鎌倉時代のこととして、次のような記録があります。

■鎌倉幕府による流罪刑
(建保四年六月)十四日、丙申、去る比、佐々木左衛門尉広綱の使者、相具して参上する所の東寺の凶賊已下、強盗海賊の類五十余人の事、今日沙汰有りて、奥州に遣はさる可きの由、仰下さると云々、是夷嶋[えぞがしま]に放たんが為に、去る四月廿八日広綱に給はる、広綱一条河原に於て、廷尉の手より之を請取ると云々、(『吾妻鏡』龍粛訳注、岩波文庫)

 これは三代将軍・実朝の時代のことで、「夷嶋[えぞがしま]」へ流罪となった「五十余人」は、どうも単純な強盗・夜盗の類ではなかったようです。また、千時千一夜でもふれてきた、北海道最古の創建とされる姥神大神宮(折居社)がまつられたのも建保四年(1216)とされます。この流罪記事と姥神=折居神祭祀のはじまりの時間の一致は偶然ではないのかもしれません。
 ところで、善光寺の前になんらかの祭祀があった可能性はあるものとわたしはおもっています。善光寺で興味深いことがあります。それは、納櫃祭で知られる桜ヶ池を神体とする池宮神社(主祭神:瀬織津姫)との関わりです。この桜ヶ池の底が諏訪湖に通じている話も意味深いのですが、実は、この池の底は、善光寺の井戸にも通じているとのことです。言蛇さんは長野に転居されたそうで、詳しいことがわかりましたらぜひ報告してください。楽しみにしています。

063 善光寺と建御名方 言蛇 2004/07/28 (水)

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも (『古今和歌集』巻九)」

こんばんわ、例年になく暑い日がつづいていますが名古屋ではいかがお過ごしでしょうか?
瀬織津姫様は、遠野で現代に受け入れられている様子をうかがい安心いたしました。
このページにおいては九頭竜川・白装束集団のような騒ぎはないと胸を撫で下ろしています。

どろ亀さんの業績につきましては、林業以外の分野にどうやって経済的影響を及ぼしていくかどうかが今後の課題と考えています。東北を巡った感じですと、やはり漆細工が現在でも世界の食卓にアピールできる品質があり瀬織津姫の文化に位置付ける価値があります。風琳堂主人の論ですと瀬織津姫様自身は水の神ですので、意味内容的に五十猛命(*1)や手置帆負命(*1)との縁組をなにかしら考えれば家族が増えて幸いかと思います。

姥神につきましては長野にも姥捨説話があるので親近感を覚えます。ただ津守神社等で主人が指摘されるように、瀬織津姫自身が藤原氏より受けている言葉の摺り替え・語呂合わせ(*2)による隠蔽を今後おこらないよう防ぐには、山形出身の北海道探検家・最上徳内師が残したような事蹟の方が有用かと思います。

さて、善光寺周辺に関しましては敷地内の北東隅にお稲荷様が祭られているのを確認しました。自分でしたら南蛮渡来が確定している豊川稲荷ではなく、大氣津比賣(*1)か保食神を蘇生(*3)させたいと願っています。瀬織津姫は隠されている女神ですが、大氣津姫は殺されている女神なので仕事としたら実にやりがいのあると思いました。
それと、地形的に一番目に付いたのは善光寺北東にある城山公園。ここは善光寺平を見渡すのに丁度いい丘山になっており建御名方富命彦神別神社が建てられています。善光寺平の神奈備山としては申し分ないのですが手入れの方は良いとはいえない佇まいです。神社の神木は銀杏なのですが本来対となっているはずの銀杏が現在1本しかありませんでした(涙。今年は御柱祭ということで諏訪の御柱祭を見物したのですが自然と人との婚姻儀礼としては疑問符を感じる点(*4)もあり、瀬織津姫による橋渡しがなければ建御名方富命彦神別神社に活気を与えるのは難しいとも感じました。
最後に、仏教の罠は仏教で返すのが早いと思い浮かんだのが善光寺の対にあたる別所温泉・北向観音でしょうか。位置的に、建御名方富命彦神別神社と生島足島神社の対存在を隠しているようで実に興味深いのです。生島足島神社と瀬織津姫に関連があればまた一つ面白い系譜が想像できそうで今後の調査が楽しみです。
それでは、いずれまた御挨拶に伺います。

(*1)(http://www.kamnavi.net/)
(*2)言葉遊びの例・・・「建保四年」=「憲法死ね」(苦笑)
            現日本国憲法において、世界史的価値があるのは憲法第九条なので
            言蛇は第九条維持派です(場所を漫画雑誌・その他仮想人物に変え
            たとしても。)
(*3)現実には死んだものの黄泉返りはナンセンスなので、大氣津比賣と同じ概念をもつ存在
   を子として出産して再び人間に殺されない様にすれば大丈夫でしょう。
   「議会制民主主義」の観念を日本神話生物として表現するなら大氣津比賣が最右翼かも。
(*4)諏訪大社上社と下社の間に御柱の交換がなく実は交流回路がない(離婚状態)。現在、諏
   訪湖の水質が長野県内ワースト1であることは並記した方がいいかもしれません。

064 千曲川・梓川の水神 風琳堂主人 2004/08/01 (日)

 我が心なぐさめかねつさらしなや姨捨山に照る月をみて(『古今和歌集』878)──棄老伝説と「田毎の月」で知られる姨捨山こと冠着[かむりき]山(1252m)は、善光寺平の南に聳える霊山ですが、この山を神体山・水分山とするのが武水別神社かとおもいます(更埴市→千曲市)。

■千曲川の洪水鎮護の神
 主祭神の武水別大神は、国の大本である農事を始め、人の日常生活に極めて大事な水のこと総てに亘ってお守り下さる神であります。長野県下最大の穀倉地帯である善光寺平の五穀豊饒と、脇を流れる千曲川の氾濫防止を祈って祀られたものと思われます。(武水別神社案内パンフ)

 武水別神社(八幡宮)は千曲川のまさに川縁にある神社なのですが、同社案内の「御由緒」の項には、「社伝」として、武水別大神は「人皇第八代孝元天皇(紀元前二一四〜一五六)の御代に御鎮斎と伝えられ」とあり、これをそのとおりに受けますと、伊勢神宮の歴史(1300年ほど)がいかに新しいかという思いがしてきます。神宮祭祀よりもはるか以前に、この武水別大神なる千曲川の川神祭祀があるという神社側の主張はとても興味深いものがあります。そして、さらに興味深いのは、この武水別神社の「分家」として笹焼神社があるということです(同社氏子談)。本社側である武水別神社は、この笹焼神社を「分社」とは認めていないのですが、延宝八年(1680)の「信州河中島更級郡八幡宮覚帳」には、「神主支配」の一社として、「郡村佐々屋岐明神」の名が記されています(『更埴市史』第二巻)。この笹焼神社の祭神もまた瀬織津姫です。
 善光寺がある長野市は、武水別大神が司る千曲川に犀川と、戸隠連峰に源を発する裾花川が合流する、まさに「川合」の要衝の地に位置しています。千曲川は、長野県から新潟県に入ると信濃川と川名を変えますが、犀川も上流(の一つ)は、穂高岳と乗鞍岳に源をもつ梓川という川名に変わります。この梓川の水神(川神)をまつるのが、松本市の神林神社です。同社の案内を境内の表示板から書き写しておきます。

■神林の総鎮守・神林神社
 祭神(三座) 誉田別尊(八幡大神)、建御名方命(諏訪明神)、瀬織津姫命(梓水[あずさかわ]神)
 縁起によれば、承安三年(平安末期、一一七三)地頭平野刑部がこの地に鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりといわれ、その後諏訪明神を合祀し、さらに神林堰の開鑿によって梓川の水を引き、神林の地が豊かな穀倉地帯となったことを感謝して梓水神を併せ祀ったという。〔後略〕

 瀬織津姫は「梓水[あずさかわ]神」と明記されています。同社拝殿の祭神説明には、右から「建御名方神(諏訪明神) 郷土開拓の祖神、瀬織津姫神(梓明神) 穀倉開発の水神、誉田別神(八幡大神) 郷土鎮守の神」と記され、瀬織津姫が中心に置かれています。
 梓川の川縁には、この神林神社と同じく、瀬織津姫と建御名方富神の二神をまつる岩岡神社もあります(梓川村)。また、岩岡神社の奥宮は燧[ひうち]岩神社(岩明神)といって、これも瀬織津姫とされ、この「奥宮」は梓川の川中の岩場にまつられていました(『梓川村誌』)。これも、梓川の洪水鎮護・守護を祈っての祭祀とみてよさそうです。『安曇村誌』によりますと、「梓水神の鎮座地は霊山としての乗鞍岳」とあり、としますと、梓水神=瀬織津姫は乗鞍岳の神でもあるということになります。科野→信濃の国の「水」を司る神の姿が少しみえてきました。

065 梓水神社 言蛇 2004/08/09 (月)

「萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清きウ恋まさらくに(万葉集2232)」

 こんばんわ、花火祭りの季節でもあり休日は穂高町の花火大会を楽しんできました。女子十二楽房のリズムに合わせた打ち上げは壮麗で、山間の花火は人だかりという点で穏やかに楽しむことができます。

 乗鞍岳にはスキーによく出かける都合、大野川中学校の側にたつ祭神表記のない梓水神社がとても気になっていました。この神社の神紋は諏訪梶であり男神の方は建御名方富神で間違いないだろうと推察していたのですが、先日は神林神社と岩岡神社を確認しまして乗鞍の梓水神社の祭神のもう一つは瀬織津姫かと合点できました。もっとも乗鞍岳から松本方面に流れているのは実際には前川・大野川であり、梓川自体は穂高神社奥宮の先にある槍ヶ岳となっております。乗鞍岳の神=梓水神と表記するのはいささか難があり新たな水分の必要性があるでしょう。この梓水神社はちょっと寂れた感じであり、真新しく目立つのは神勤榊葉棒持命の碑です。これは先代の梓水神社宮司が祭られているもので、今の梓水神社は祖先祭祀のみの神社と映り今後の存続に不安を感じる状態です(汗)。ここで棄老伝説を絡めての連想ですが、葬儀は仏教まかせとせずに神道流の先祖祭祀・葬儀を打ち立てることで神社は寺の檀家制度を伐り崩していける可能性をほのかに見出しています。もっとも先祖祭祀には子孫継承が必要であり、新たな水分けも含めてきちんとした婚姻による関係発展が必要となるのは言うまでもありません。

 さて、武水別神社の社伝を受け止めますと時代は弥生時代にあたり、神社の近くには稲荷山の伊勢宮遺跡があり日本海側から弥生人が稲作文化を伝えた痕跡があります。ここから下流に下りますと松代北東にある松原遺跡が縄文時代から続く大集落跡を残しています。善光寺周辺では善光寺北西で発掘された箱清水遺跡が赤い土器で特徴のある弥生文化を花開かせました。この箱清水弥生文化、近くは篠ノ井遺跡群、南は松本市の弘法山古墳、北は中野市・高遠山古墳と犀川・千曲川一帯へと拡がりを見せています。この川辺には犀川と裾花川の合流地点があり、そこには獅子舞神楽で賑いを見せている犀川神社が鎮座しており祭神は大山咋神です。
 武水別神社を上流に遡ると生島足島神社のある上田平(*1)が開けますが、ここでも千曲川の氾濫は祭祀の対象であり、現在もっぱら安産・子授けに神徳のある水天宮を祭ることが多いようです。
 (*1)(http://edu.umic.jp/zukan/sitemap.htm)

066 梓川と乗鞍神 風琳堂主人 2004/08/14 (土)

 大野川の梓水神社の先代宮司の名が「神勤榊葉棒持命」というのは、いかにもという命名で少しほほえましいです。といいますのも、梓水神=瀬織津姫の異名の一つが「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」、つまり、榊に憑りつく神の意の名があるからです。この榊神に「神勤」するという意が、その宮司名によく表れています。
 ところで、現代の地図帳表記をもとにしますと、梓川の本流は、穂高連峰(あるいは槍ヶ岳、常念岳)に源を発しています。乗鞍岳から流出する川は、前川・大野川で、これは地図上では梓川の支流ということになります。梓川の本流が、当初は大野川であった可能性にふれているのが『安曇村誌』で(「梓川の原初的な名称は、乗鞍岳の東麓の大野を流れる川、すなわち大野川であったのではないか」)、わたしもその可能性はあるとみています。この本流の川名が源流部で変更になる例としては、世界一の急流と教科書にも掲載される立山の常願寺川があります。大正期まで瀬織津姫を滝神としていた日本一の大滝、称名滝のある川は、現在、称名川という名で常願寺川の支流と表示されていますが、前は称名川のほうが常願寺川でした。同じことは長滝(阿弥陀ヶ滝)を源流滝としてもつ長良川にもいえそうですが、これらの川名変更は梓川にも該当する可能性があります(現在の梓川は上高地の大正池から明神池へと遡ります。ここにまつられる穂高神も司水神で、では穂高神と梓水神は異水神かどうかという問いもあります)。
 大野川(安曇村)にある梓水神社について、『安曇村誌』の記述を引用しておきます。

■雨乞い神としての梓水神
(大野川の梓水神社の)社地からは乗鞍岳が遥拝でき、古くから遥拝の鳥居が立っている。社地内に大池があり、池中に乗鞍権現が祀られている。当池では旱魃のときに雨乞い祭りがおこなわれ、里村では神水を貰いに来ている。この池の水をかきまわすと一天俄かにかき曇って乗鞍岳から風雨を伴ってあらしが起きると言われている。

 梓水神社と乗鞍岳が、現在の地図表記(川名表記)を超えた強いつながりがあることがよく伝わってきます。また、同社の「大池」については、村誌は、次のような伝説も収録しています。

■諏訪湖との関連伝承をもつ梓水神(『乗鞍の歴史と民俗』による)
 大池の周囲は、自然のままで何となく神々しい感じを起こさせる。池中に一つの小島があって乗鞍権現と弁財天(元来は学芸神、蛇が使い、財宝の神)が祭られている。この池の十数尋[ひろ]の深さのところに竜神が住んでおられた。あるとき一匹の年とった熊がどうしたことかこの池にきて溺死した。竜神はこの穢れを怒った。すると一天にわかに暗くなって池のまわりから紫雲が湧き出して、あれよあれよといううちに乗鞍岳の権現池に行ってしまった。竜の頭は乗鞍権現池にあって、胴はこの大池に、尾は諏訪湖にのびていると言われている。

 乗鞍岳は東(信濃側)に大野川(梓川)を、西(飛騨側)に飛騨川を分水する、これも典型的な水分山ですが、山頂部の祭祀をみますと、西向きに乗鞍本宮奥宮が鎮座し、それと背中合わせにして、東向きに朝日神社(朝日権現社)が鎮座しています。乗鞍本宮の祭神は、五十猛大神、天照大神、大山津見大神、於加美大神の四柱とされますが、五十猛大神はあとから合祀されたもので、主祭神は天照大神と於加美大神とみてよさそうです。一方の朝日神社については、伝承を総合しますと、朝日神=梓水神=瀬織津姫ということになります。なお、山頂部の北の峰は禁足地として、乗鞍本宮奥宮とは別にさらに「奥院」があり、少しわかりにくい祭祀を演じているのが飛騨側なのですが、ともかく、アマテル神と瀬織津姫が山頂で同居していることは象徴的な祭祀だというべきでしょう。梓水神社の大池の小島にまつられる「乗鞍権現と弁財天」の弁財天(古代インドの川神)には、宗像神でもある瀬織津姫が習合していることが考えられます。梓水神社や乗鞍岳山頂の祭祀の現実(瀬織津姫隠祭の事実)を考えますと、あらためて、松本市の神林神社が梓水神を瀬織津姫と伝えていることに敬意を表したくおもいます。

067 梓水神社の衰落 風琳堂主人 2004/08/19 (木)

『三代実録』貞観九年(867)三月十一日の条に、梓水神は正六位上から従五位下に位階を進められた記録があります(『南安曇郡誌』第二巻上)。平安期、梓水神は、朝廷が認知するほどの神であったことがわかります。
 大野川の梓水神社については、『安曇村誌』によれば、乗鞍岳の遥拝社的な存在だったようですが、同社祭神については、健御名方命一座で(『南安曇郡誌』第三巻下)、神林神社が明記するところの梓水神=瀬織津姫の名はなく、なんとも不思議な話といえます。この不思議は、「創立年代由緒等不詳」と郡誌が記すことと呼応していますが、しかし同郡誌は、梓水神社は「明治元年以前は諏訪神社と称した」と記録しています。神林神社の梓水神創祀は江戸期のことですから、江戸時代までは、梓水神=瀬織津姫の認識が一般にあったことが考えられます。さらにいえば、瀬織津姫は梓水神社=諏訪神社の消えた女神でもあったと考えられます。丹波篠山の民話が瀬織津姫を諏訪神としていることや、中世の諏訪縁起が、この諏訪の女神は春日姫、つまり春日四神のうちの比淘蜷_でもあると示唆していたことも想起されるところです。
 梓川が犀川と名を変える豊科町の犀川の近くには、なぜか春日神社がまつられています。『南安曇郡誌』は、同社祭神を、「天児屋根命、経津主命、武甕槌命、瀬織津姫命」とし、「大同四年大和国奈良より勧請したと伝承されている」と、貴重な証言を収録しています。
 瀬織津姫が梓水神であることにもう少しこだわってみます。安曇地方で、この梓水神をまつっていたと伝承される、あるいは考えられる神社は、必ずしも梓水神社という社名ではないことを記録しているのも『南安曇郡誌』です。同郡誌には、「この外(梓川村の野々宮神社のほか)梓水神を祀ったと考えられる神社には、北条の大宮熱田社、上野中村の鞠子神社等のあることを付言して今後の研究問題としておこう」とあり、わたしたちは、この「今後の研究問題」に現在ふれているということになりそうです。
 これら梓水神をまつるはずの三社の祭神については、鞠子神社は確認できませんが、野々宮神社は「倭姫命、伊弉册命、誉田別尊」、大宮熱田神社は「天照大神、日本武尊、草薙劔(ほか六柱)」とされます。梓水神の代わりに、伊勢における天照大神祭祀の最初期の巫女かつ皇女とされる「倭姫命」の名が安曇地方に唐突に現れてくるというのもわかりやすい奇妙さですが、ここでより興味深いのは、大宮熱田神社の本社である尾張の熱田神宮が荒魂神=瀬織津姫を陰でまつりつづけていることでしょうか(本殿=天照大神に向かって左隣りに並んでいる社殿)。
 おもえば、池宮神社(静岡県浜岡町)の祭神は瀬織津姫(配祀神は健御名方命)で、その神体池である桜ヶ池の底は諏訪湖に通じている伝承をもっていました。「梓水神の鎮座地は霊山としての乗鞍岳」と記していたのは『安曇村誌』でしたが、同村誌は、梓水神社の「大池」に住む竜神の「頭は乗鞍権現池にあって、胴はこの大池に、尾は諏訪湖にのびている」と、これも諏訪湖との共通神の祭祀を示唆しています。これらの伝承に、丹波民話や諏訪縁起の話を重ねますと、諏訪大社下社の神=八坂刀売命がどんな神を背後に秘しているかは明らかかとおもいます。
 梓水神社から瀬織津姫の名が消去されたのは、おそらく、明治初頭の神仏分離のときなのでしょう。このことを無念とおもわない神官は、よほどの鈍感かモグリというべきです。この無念さを伝えるのが八戸市の御前神社でしたが、大野川の梓水神社にもそれはいえるのかもしれません。同社の新しい石碑に刻まれた先代宮司の名が「神勤榊葉棒[捧]持命」というのは、自らが奉仕する(奉仕してきた)神(榊神=瀬織津姫)を正当に祭祀表示できないものの、せめてもの祭神暗示かと想像すべきで、「ほほえましい命名」などとは失礼な話だとなります。

(訂正)
 昭文社のデジタル地図帳によりますと、乗鞍本宮奥宮ではなく乗鞍本宮本殿、奥院のある峰は大日岳とあり、この峰は乗鞍本宮本殿のある剣ヶ峰の北ではなく南に位置しています。大日岳は乗鞍岳の最高峰のようです(3014m)。また、朝日神社に対応する峰として、大日岳のすぐ北に朝日岳もあります(2975m)。乗鞍岳は、同名の山があるわけではなく、これも白山同様「総称」といえます。水神祭祀とともに、日神祭祀もみられるのは、乗鞍岳も例外ではないのでしょう。

068 梓川村大宮熱田神社 言蛇 2004/08/20 (金)

「榊葉に かくる鏡をかがみにて 人もこころをみがけとそ思ふ (明治天皇御製)」

 こんばんは、先日18日は明科町で行われた薪能「犀龍小太郎」を見て参りました。薪能という簡素な舞台ながら、川の流れや湖がひらける様を感じ役者の舞いの妙幻さに心を打たれました。明科薪能はすでに14回を数え、今後の発展に期待を寄せられます。

 さて、薪能の都合に合わせて大宮熱田神社に参拝をしたのですがちょっと興味深いので引用します。「当神社は、安曇地方開発の大昔に梓川の水の恩恵を受ける里の守護神として、松本平を眼下に一望できる眺望絶景、山紫水明の本神山山頂に奉斎された梓水大神を祭神として創建された古いお社であります。」とあり、祭神の表記は順に「梓水大神・熱田大神・天照大神・八幡大神」です。梓水大神以外はあとから合祀されたものであり梓水大神を公然と祭っている点が梓水神社とは好対照をなしています。

> 梓水神社から瀬織津姫の名が消去されたのは、おそらく、明治初頭の神仏分離のときなの>でしょう。このことを無念とおもわない神官は、よほどの鈍感かモグリというべきです。
 この書き込み冒頭の歌は大宮熱田神社の石塔にあった明治天皇の歌です。この大宮熱田神社はこの他にも明治天皇の和歌が刻まれており、明治天皇の胸中を忍ぶには良い神社です。明治維新の神仏分離は君主制の側面が強い力ずくのものであり、南方熊楠翁が指摘しているように神道祭祀の本質を損なうものであったのは否めません。ですが現代においては戦後民主主義体制において各人が自ら思うことを明示公言でき、堂々と瀬織津姫祭祀ができるので実に幸せな世になったと思います。

●弁財天
 梓水神社において弁財天の習合についてのべられていますが、弁財天の習合については熱田神宮との関わりにおいて千曲川の水天宮祭祀におもしろい可能性があります。水天宮は社紋を椿とし安徳天皇と建礼門院を子授け/水難除/渡航安全の神様として祭るものです。発祥はいうまでもなく源平合戦の時代で、熱田神宮との関わりで考えると壇の浦における草薙の剣の問題がここに浮上してくるのです。草薙の剣本体は熱田神宮に祭られるものですが、この剣は今もって武力の象徴でもあり憲法9条をかかげる現代日本にはそぐわない(*3)ものです。ですが熱田祭祀にかえて「源義経・安徳天皇・建礼門院・草薙の剣」を祭祀すれば出産・憲法9条の強力な守神となるだけでなく源平両氏の慰霊を和解させる祭祀になるのではないでしょうか?後白河天皇との関わりもあり正式に祭られない義経ですが、封建制が解けた現在なら瀬織津姫自身公的でないことを逆手にとり義経を後白河天皇から救済できます。
#来年はNHK大河ドラマ「義経」が控えていますね

●穂高神と梓水神
 いま私自身が遥拝するのは穂高神ですが、司水神として梓水神と同神としてしまうには違和感を感じ親子関係で捉えた方が自然と思います(*1)。松本平や岐阜側から望めばわかると思いますが、乗鞍岳は普通に眺められる位置にあるのに対して穂高・槍ガ岳は人里からはまず伺えない位置にあり、縄文の頃にはそれこそ乗鞍岳に登らない人には意識できない信仰対象ではなかったかと推察しています。瀬織津姫祭祀で考えるのなら、乗鞍岳信仰を北面から治める祭祀として穂高神を捉えてくれれば幸いです。
 実のところ、自分の瀬織津姫への関心は雁歌さん(*2)に端を発しており自分の考えている漫画の舞台に瀬織津姫を冠して雁歌さんを招ければ十分と考えていました。梓水神と瀬織津姫の関係が見え始めたことでことで根拠的裏付けを得られたので自分の動機は概ね幸せな気分に満たされました(赤面♪)

●乗鞍岳祭祀について
 乗鞍岳については飛騨側からの考証も必要かと思います。自分はまだ村誌をめくるまでは余裕がなく風琳堂御主人にお手数をお掛けすることとなりますが、よろしければ乗鞍岳の大丹生池と丹生川村の名前の由来をお聞かせ頂けるでしょうか?
「神奈備にようこそ(*4)」というHPは御存じと思いますが、丹生都姫伝承という魅力的な土地神を紹介されています。次の瀬織津姫本を作るには構想を含めまだいろいろ課題があると推察していますが、それまでの間を埋めるものとして、手頃な丹生都姫の本を作る端緒になれば幸いと思いここに記させていただきます。

●RE:)鎌倉幕府による流罪刑
>北海道最古の創建とされる姥神大神宮(折居社)がまつられたのも建保四年(1216)とされす。>>この流罪記事と姥神=折居神祭祀のはじまりの時間の一致は偶然ではないのかもしれません。
 私が瀬織津姫の娘神として捉えたハヤチネウスユソウですが、北海道の大平山にあるオオヒラウスユキソウがこの変種ともいわれており、瀬織津姫は北海道アイヌの民と倭人の掛け橋となりうると思っています。ここで重要なのはアイヌの人にきちんと受け入れられる祭であるかどうかが大切なところと思います。オオヒラウスユキソウは北海道自生種ですかアイヌの民は快く受け入れてくれるでしょうが、折居神祭祀は現実にはどうだったのでしょうか?
 自分が北海道に流罪になったとしたら記録が確かな最上徳内師に習ってアイヌの生活習俗に従った上に婚姻関係を結び、アイヌ祭祀と瀬織津姫祭祀を習合させます。その上で北海道の草木等自然の観察記録を行い人間と自然のより良い調和点を探究することでしょう。もし記事の流罪人達がアイヌ生活文化を無視してそれまでの習慣を改めず婚姻もしなかったとしたら、遠からず栄養失調等により衰弱死して折居神祭祀は途絶えるのではないかと思いますが風琳堂御主人はどうお考えでしょうか?
 現代においてもアイヌ文化の復興については後継者の問題を抱えており、文化継承も含めてアイヌ流の婚姻祭祀を現実化した方がいいと自分は考えます。

(*1)先日、穂高神社のhpを確認したのですが、この神社では結婚のみならず葬儀も取り扱っており子供の誕生から生涯の終わりまでを神道で一本化できています。
(*2)http://www1.odn.ne.jp/kariga/
(*3)興味深いことにアメリカ政府が日本に対して不快を感じるのは憲法9条絡みです。
  アメリカにいやがらせするのであれば武力よりは憲法9条でしょう。
(*4)http://www.kamnavi.net/

069 安曇野の伝説 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

 梓水神と穂高神を「親子関係で捉えた方が自然」という感覚はわからないわけではありません。これは、薪能「犀龍小太郎」にみられる安曇野の伝説とも関わっています。

■安曇野の伝説──日光泉小太郎
 大昔、この安曇野一帯が漫々と水を湛えた湖であった頃、この湖に犀龍と云う者が住んでおりました。この犀龍と東高梨の池に住む白龍王との間に男の子が生まれましたので、日光泉小太郎と名づけました。/母の犀龍は自分の姿を恥じて水底深く隠れ住んでおりましたが、小太郎は母をたずねさがし熊倉下田の奥の尾入沢と云う処で初めて母に逢うことが出来ました。/この時犀龍は「私は諏訪大明神の化身である、これからお前と力を合せて、この湖の水を落し陸地にして人が住めるように致しましょう」と語って山清路の大岩をつき破り更に水内橋下の岩山を開いて安曇、筑摩両郡にわたる平野を作りあげ、それ以来この川を犀川とよぶようになったと伝えられています。/又、小太郎の父白龍王は海津見神であり、小太郎は穂高見命の化身といわれ、治山治水の功績を称えております。(穂高神社境内石碑)

 白龍王と犀龍の間に生まれたのが日光泉小太郎とのことです。犀龍は「諏訪大明神の化身」と明かされてもいます。白龍王については、「海津見神」であるとして、安曇族との関連が語られていますが、この伝説を江戸期まで遡りますと、「白龍王ノ曰ク我ハ日輪ノ精霊即チ大日如来ノ化身ナリ」と、日神の素性もみえてきます(『信府統記』享保九年=1724年)。母神・犀龍が諏訪神であるというのは、これは諏訪大社下社の神を表していますが、しかし、同書の割注では、犀龍は「武南方富之命」と記していて、江戸期においてさえ、少し混乱もみられます。もう少し異同を拾っておきますと、『信府統記』は、犀川の由来としてではなく、千曲川の由来として、この伝説を記していますし、小太郎については、穂高神社の石碑が記すような「穂高見命の化身」という表現ではなく、「八峯瀬権現ノ再誕ナリ」としています。ともかく、白龍王=日神、犀龍=諏訪神=水神の間に誕生した小太郎ゆえに、その姓が「日光泉」などと記されているのでしょう(これは『信府統記』も同)。
 梓水神=諏訪神=犀龍としますと、穂高神社の伝説がいうところの「穂高見命の化身」としての日光泉小太郎=穂高神とは母子(親子)関係にあるとはたしかにいえます。ただ、わたしが、穂高神と梓水神が異神かどうかとおもうのは、『信府統記』が、穂高神の勧請について、次のように記しているからです。つまり、「白雉四年穂高大明神ヲ伊勢国ヨリ勧請ス此神ハ天津彦々火瓊瓊杵尊ノ垂迹ナリ」という記述です。「天津彦々火瓊瓊杵尊」というのは、白山においても、また伊豆においても、その地神を言い換えるときの定番的な祭神名ですから除外してみますと、穂高神は、伊勢国からやってきた神というのが江戸時代の伝承骨子ということになります。伊勢国の「治山治水」の神をニニギとみるには無理がありましょう。
 ここで、諏訪神=梓水神=犀龍の伝承をもつ犀川ということで浮かぶのは、白山山系の北から流出する川にも犀川があることです。この金沢の犀川の洪水鎮護を祈ってまつられたのが瀬織津姫神社です(金沢市別所)。犀龍の名称について付言しておきますと、男神・天照大神と南面並祭されるとき、西の社殿にまつられるのが女神・瀬織津姫で、これは、雛祭りの神座の古式にも通ずるものです。犀龍は西龍(神)からやってきた名称かというのがわたしの仮説です。

070 大宮熱田神と憲法9条の話 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

『南安曇郡誌』は『長野県神社百年誌』や町村誌を元にして、大宮熱田神社の祭神は「天照大神、日本武尊、草薙劔、須佐之男命、宮簀比売命、建稲種命、応神天皇、神功皇后、三柱比古命」と記しています。ところが、当の大宮熱田神社の祭神主張は「梓水大神・熱田大神・天照大神・八幡大神」とのことで、筆頭祭神を「梓水大神」としていることが大きな特徴です。また、神社側のこの祭神主張をみますと、熱田大神と天照大神は異神であるという表示にも読めて、興味深いものがあります。これを神社側の恣意的な表示とみるわけにいかないなとおもえるのは、江戸時代初期に、同じことを彫像で主張していた作仏聖・円空がいるからです。円空は熱田神宮の「奥の院」とされる龍泉寺において、天照皇太神を男神像、熱田大明神を女神像として一対形式で彫っていました(詳しくは、千時千一夜5、6を参照ください)。
 大宮熱田神社が、「安曇地方開発の大昔に梓川の水の恩恵を受ける里の守護神として、松本平を眼下に一望できる眺望絶景、山紫水明の本神山山頂に奉斎された梓水大神を祭神として創建された」という由緒は信じてよかろうとおもいます。神林神社のように、梓水大神=瀬織津姫と明記してもよさそうなものですが、熱田神の通説的理解を超える祭神表示は好感がもてます。
 元禄時代は「あつた大明神」(『上野組社寺書上帳』)、享保時代は「大宮明神」(『信府統記』)、安政時代は「大宮熱田大明神」(『村村明細調書上帳』)と祭神紹介をしているのが『南安曇郡誌』です。大宮熱田神社は、江戸期を通して、熱田神をまつるという記録をもっていますが、不思議なことに、「梓水大神」を記録上に確認することはできないようです。同郡誌は「明治初年の書上」として、「文治五年(1189)に西牧兵庫頭滋野宗玄なるものが初めて熱田社を勧請した」という記録も載せています。この明治期の記録と現在の大宮熱田神社の主張を総合しますと、平安末期に、梓水大神に熱田神がかぶったあと、一般には熱田神が表立ってまつられてきたということになります。戦後現在、大宮熱田神社は、自社の伝承に基づいて、熱田神の背後に隠れていた梓水大神を筆頭祭神として表示することが可能となったという理解もできます。
 このことを含む一般論をもって、「戦後民主主義体制において各人が自ら思うことを明示公言でき、堂々と瀬織津姫祭祀ができるので実に幸せな世になった」と言い切るには尚早かとわたしはおもっています。これは、神社世界の外部にはある程度いえることですが、「戦後民主主義体制」の空白地帯、あるいは腐食の力学がなお働いているのが神社本庁が主導する神社神道(←国家神道)の世界です。憲法9条および前文の交戦権放棄の思想は、未来的にみて世界思想・普遍思想となりうるもので、日本が世界に誇りうる、おそらく唯一の思想でしょう。日本は、湾岸戦争時に、これを世界に宣言すべきでしたが、為政者にその意識が絶無のため、なしくずしに今回のイラク戦争へのアメリカ追随を肯定する動きに表れました。戦後日本の後悔の一つがこれですが、もう一つを挙げるなら、1945年の時点で、日本は天皇制をやはりきちんと清算すべきでした。日本の戦後思想史において、未来に悔いを残すものとして、わたしはこの二つを挙げたくおもいます。日本の民主主義はいつでも変質する可能性を秘めていることを忘れてはならないというのが、わたしの「戦後民主主義体制」へのスタンスです。憲法9条をもってアメリカに「いやがらせ」をするといった「利用」の発想は、結果、この9条の世界思想への可能性を貶めることになりかねません。ほんとうに考えておかなければいけないのは、アメリカとの癒着関係が絶たれたときに、なお、日本は自立して(天皇制に依拠することなく)、アメリカを越えて世界とフレンドリーな関係をどう構築できるかということではないでしょうか。わたしは憲法9条の存在価値をそのようにみています。

071 乗鞍神と円空 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

 乗鞍岳の祭祀について考えるには「飛騨側からの考証も必要」というのはそのとおりだとおもいます。今回は、梓水神と瀬織津姫が等号で結ばれる伝承をもつ神林神社(松本市)の紹介から、乗鞍岳にふれることになりましたが、飛騨側についてはまだほとんど手つかずの状態です。
 ただ、乗鞍岳の飛騨側、特に小八賀川沿いには、伊太祁曽神社が集中してまつられる特色があり、これはどういうことかなとはおもっていました。仁徳紀に記される両面宿儺がたてこもったと伝えられる両面窟から、両面宿儺を「開山」とする千光寺までの約10キロの間に、地図上で確認できるだけでも伊太祁曽神社が四社あります。ここが丹生川村であること、そして、この小八賀川の源流部が大丹生池で、乗鞍連峰の北峰(の一つ)として大丹生岳もあります。
 丹生都姫については、わたしは基本的には丹生川の川神・川上神・水神とみています。これは、たとえば、梓川の川神が梓水神と呼ばれることとよく似ています。梓水神が、仮にですが、「梓姫」と呼ばれて地域に親称されていたとしてもまったくおかしくないのと同じだろうとみています。飛騨の丹生川村の「名前の由来」については、これも特に調べたことがありませんけど、源流部の山名・池名や村名をみますと、かつて、小八賀川を丹生川と呼称していた可能性はあるのではないかとおもっています。
 ところで、乗鞍岳の大丹生池の水神は丹生都姫であってもよいわけですが、ここの水神は、なぜか「乗鞍の神」です。円空と千光寺、円空と大丹生池の伝承を紹介しておきます。

■乗鞍神と円空
 当寺(千光寺)は乗鞍岳をはじめ、御嶽山・穂高岳などの眺望がきわめてよく、裏山の袈裟山には法華経・袈裟・千手観音などが埋葬されていたと伝えられている。乗鞍岳を正面に遠望する袈裟山は、古代の乗鞍岳の祭場の一つであったことが知られる。
 当寺には、美濃の円空法師の手になる多くの仏像が所蔵されている。彼は貞享年代(一六八四〜八)に当寺に来住して仏像を彫ったと伝えられる。彼は乗鞍岳に登頂した際、大丹生池に妖怪がいてこの池へ一人で行くと命をとられるといううわさを聞いて、千躰仏を作って池に沈めて池の霊(乗鞍の神)を祭ったと言われている。千光寺は古来乗鞍岳の山岳道場であったことが知られる。(『安曇村誌』第二巻)

 大丹生池の「霊」が乗鞍神としますと、これは、「妖怪」にまで落ちぶれた梓水神を想像したくなってきます。円空の作仏の基本精神は「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ、ソノ地神ヲ供養スルノミ」(『飛州志』)というように「地神供養」にあります。円空は、大丹生池の霊神を乗鞍岳の地神とみていたことが考えられます。円空が日本の神まつりの闇に気づいた作仏聖という仮定がまちがっていないならば、彼は、白山の地神と乗鞍岳の地神=梓水神が異神ではないことを認識していたことも考えられます。このことを伝えているのが、千光寺のすぐ北にある荒城川神社(主祭神は菊理姫命、五十猛神)でしょうか。円空はここに、観音像と神像の二体を奉納していましたが、観音像の背面には「天照皇太神 本地聖観音」、神像には「生身攘大神」と、きわめつけの謎書きを残しています(『円空の原像』惜水社)。「攘」ははらう、盗むという意味で、これを「譲」の誤字としても、いずれにしても意味深長な背銘です。聖観音が白山の地神(別山神)の本地仏であることを想像しないと、この円空のメッセージは理解できないようです。

072 「筋目の通った比売大神」とはなにか 風琳堂主人 2004/08/28 (土)

「江差の姥神様──、それをアマテル神、比売大神、弁天と置き換えてもいい」、「折居明神という奇妙な神名を推理すれば、高御座を上御一人(天皇)に譲り(実は奪われ)、その下[しも]に降り居ます神ということになる。それが姥神という名のアマテル神であった」──これらは沢史生さんの姥神=折居神についての指摘、あるいは「推理」です(『闇の日本史』彩流社)。
 北海道の地で、アイヌの民に折居神がどのように受容されたかは断定できませんけど、円空が同地でこもった太田山の神は、アイヌが信奉していた記録があります(太田神社の現祭神は猿田彦神)。アイヌが信奉する神は水火神、日月神とのことで(『円空仏と北海道』)、としますと、猿田彦(仮称ですが)という原初の日神が受容されたように、その神名を明記するアイヌ側の文献がないだけで、原初の水神もアイヌの民は受け容れたことはじゅうぶんに考えられます。
 ところで、『闇の日本史』という本は「闇の日本祭祀」を考えるにあたって、ヒントがたくさんちりばめられている好著です。このことを大いに認めた上で、一つだけ混乱の認識があることを指摘しますと、引用にみられるように、比売大神とアマテル神、あるいは姥神=折居明神を同一の「女神」と見立てていることです。折居明神がその神座を譲った(実は奪われた)のは「上御一人(天皇)」というよりも、アマテル神が変じたところの皇祖神=アマテラスかとおもいます。アマテル神→アマテラス神の変貌は、同一の漢字表記(天照大神)の内部で巧妙に行われたもので、アマテル神はもともとは「男神」でした。その対神として比売大神はあります。
 沢さんにおいてさえ、王権のこの皇祖神創作の詐術にはまっていることは、たとえば、瀬織津姫に関する、次のような魅力ある紹介にも表れています。

■瀬織津姫は貴船神かつ産鉄神か
〔前略〕姫島をはじめ、その対岸となる宇佐・国東・中津の一帯が、往昔の一大産鉄地であったものと思われる。
 また宇佐市に隣接する中津市には、宇佐八幡の本宮といわれる薦[こも]神社があるが、なによりも奇異なのは、この小さな地方都市界隈に、二十を超える貴船神社が祀られていることだ。
 貴船神は瀬織津媛[せおりつひめ]などともいわれ、京・鞍馬山に接する貴船神社が高名であるが、その意は「貴いホト神」であり、その正体はミズハノメという水霊[みずち]、つまり女河童ということになり、比売大神の眷属神なのである。
 中津の地名は古いものではない。中洲の性格を帯びるところから、この地名が冠せられたものと考えられるが、その中津川(山国川の分流)河口に近い闇無浜[くらなしはま]では、近年まで豊富な砂鉄が採取されたという。タタラの火が夜空を焦がしたゆえの、闇無浜だったのかもしれない。(『闇の日本史』)

 沢さんは同書で、「今日的には本家本元の宇佐八幡の大神や宗像大神にしても、ひょっとしてそれ以上に、筋目の通った比売大神が、いたかもしれないという想像は成立する」と、比売大神に対する空無な「見通し」を述べてもいます。しかし、巻末では、「比売大神、つまりアマテル神であったはずである」とくりかえしてもいます。これらの誤認は、瀬織津姫を「比売大神の眷属神」とみなしたところに理由があります。比売大神が瀬織津姫を隠した抽象神名であることについては、ここでは繰り返しません。天照大神を男神像として彫っていた円空の造像行為が、どれほど大きな示唆を与えてくれているかをあらためておもうものです。
 なお、引用文中、「貴船神は瀬織津媛[せおりつひめ]などともいわれ」とあり(別の箇所では、「貴船神はミズハノメであり、瀬織津媛、大禍津日神でもある」とも書かれる)、わたしも貴船神=瀬織津姫の可能性は100パーセントに近いものとはおもっていますが、その出典をぜひ知りたいところです。また、瀬織津姫は産鉄神でもあることがここからうかがえます。遠野において、始閣藤蔵は、早池峰神=瀬織津姫を産金の守護神としてまつったのでしたが、これは、水神→山神が鉱産神ともなることをよく表したもので、瀬織津姫が産鉄神とみられても不思議はありません。ちなみに、中津市の闇無浜神社には、瀬織津姫は宗像神(の湍津姫)としてまつられてもいます。
 最後に、『闇の日本史』は、宗像神に関する貴重な資料紹介をしていますので、ここに引用しておきます。

■宗像三女神は元は一神
 一般に弁天様の名で知られるオキツシマヒメ(オクツシマヒメ、イチキシマヒメ、イツクシマヒメとも)、タキツヒメ、タギリヒメは、宗像大神として祀られる三女神であるが、宗像大社の『鎮座伝記』は「三女神一神」と元来が一人の比売神であることを認めている。

 記紀が創作・記載するところの宗像三女神像を、当の本家が否定している記録があることは重要です(宗像三女神考については、囲炉裏夜話754「藤原思想と瀬織津姫」を参照ください)。

073 桜神としての諏訪神 風琳堂主人 2004/09/08 (水)

 長野市泉平というところに、素桜神社という桜神をまつる小さな社があります。同社境内には、樹齢およそ1200年といわれる桜の古木があり、名づけて神代桜とも素桜ともいわれ、人々からとても親しまれています。この桜(神)についての民話を紹介します。

■泉平の神代桜
 むかし むかし。長野の町に一人の俳諧師が住んでいました。とてものどかな春の日のことです。俳諧師は「水内郡の泉平村の大桜の花が、今を盛りと咲いているそうだ。わたしたちも花見に行こうではないか」と、二人のお供をつれて湯福神社の所の道を通って、ひとしお沢を登って、泉平にやってきました。途中に、伊都美神社というおやしろがありました。一行はそこでひと休みしました。緑の風がとてもおいしく、みやしろのうしろには幾重にも松やかえでの枝が重なり、心がひきしまる思いがしました。
 その神社の境内からは、きれいな水がこんこんとわき出ていました。「この美しい森といい、きれいな水といい、何かいわれがあるにちがいない」と思って村の人に聞いてみますと「この水は、遠い昔神桜が諏訪湖の水をここにうつしてくださった。だから、どんな日照りの日でもかれることなく、また、どんなに雨が降ってもにごることなくこの里をうるおしているのです。人々はここにお宮をまつり、伊都美の神とあがめているのです」ということや、「こんこんと泉がわく里だから泉平村というのだ」とも話してくれました。村人はとても親切で、泉平の桜のある場所にも案内してくれました。
 桜はちょうど満開でした。一行は桜の根元に腰をおろし、桜を見上げながら、俳句をつくったり酒盛りをしました。
 いいにおいが風とともにやってきました。花びらがちらちらと舞い、さかずきの中にもこぼれました。一行は夢見るようなここちでした。いつしか、桜の根をまくらに眠ってしまいました。
 どのくらいたったでしょう。俳諧師がはっと目をさますと、美しいお姫様が、多勢の腰元のつづみやことの音にあわせて桜の枝をかざして舞をまっていました。 その神々しい姿に、思わずはっと地面にひれふしておりますと、お姫様は「わらわはこの花の精なるぞ」といわれ、この桜にまつわる物語をなされました。
「この桜がスサノオノミコトが植えられた日本の桜で、一番素になる桜だから、素桜[モトハナザクラ、 スザクラ]とも、神代桜[ジンダイザクラ]ともいわれている」など、話され、舞いながらしだいにおぼろになり、桜の下に消えて行きました。
 俳諧師が、あわててその姿をさがしますと、桜の根元に小さなほこらがありました。そのなかに入って行かれたようです。ほこらには「八坂刀売の命」と言う、神様のお名前がきざんで納められていました。この桜の御体は、八坂刀売の命だったのです。俳諧師は、お供の二人を起こしてこの話をし、あらためて桜を伏し拝みました。そして、矢立てをとりだし、たんざくに俳句[ウタ]を書きつけ、桜の枝に結びつけました。

 神代より 今に久しき この桜 大和心に 咲きにおいぬるかな

 おりから、朝日が登り始めました。神代桜は、その朝日の中に美しく映えて、今を盛りと、咲き匂っていました。(HP「芋井中学校24時──民話スペシャル」)

 俳諧師が最後に、俳諧(俳句)ではなく和歌を詠んでいるという不思議から、この民話は(も)、ありきたりの民話ではない「読み」を要求しているのかもしれません。
 文中の「伊都美神社」とは現在の泉平神社かとおもいますが、同社の境内からは「きれいな水」が湧き出していて、「この水は、遠い昔神桜が諏訪湖の水をここにうつしてくださった」と村人は語ります。引用の民話では「神桜」と書かれていますが、同民話の英語版では「the God of Cherry Blossoms」とありますから、神桜は桜の神、桜神の意でつかわれています。
 桜は水神が化身した木とみられることについては、これまでにも折々にふれてきています(囲炉裏夜話298「水神の化身としての桜」ほか)。泉平の民話では「スサノオノミコトが植えられた日本の桜」とあるのみですが、境内の案内板には、「この木は、その昔素戔嗚尊がこの地で休んだとき、持参した桜の杖を池辺に挿したものが根づいて成長したものと伝えられ」とあり、「池辺」、つまり、「水」と桜は、ここでも縁深い関係にあることをよく伝えています。また、それゆえに、「桜の根元」の「小さなほこら」(現在の素桜神社)には、諏訪湖の湖水神(下社の神)とされる八坂刀売という女神(水神)の名が刻まれていたのでしょう。
 民話の狂言まわし役として「俳諧師」が登場していることをみますと、この民話の創作が江戸期の前に遡るものではないこともわかります。これは、諏訪神(諏訪湖の水神)の名が、江戸期において、すでに八坂刀売命として民衆的に定着していたことを表してもいます。
 俳諧師が素桜=神代桜へ向かうにあたって、まず「湯福神社の所の道を通って」とあります。ここを「通って」次に向かうのが「伊都美神社」(現在の泉平神社)です。伊都美神社=泉平神社の現祭神は健御名方命、同社ゆかりの素桜神社の祭神は八坂刀売命と、諏訪の上下社の祭神が絵に描いたように配置されていることがわかります。また、最初に登場してくる湯福神社ですが、ここは善光寺の西に隣接する立地にあり、「善光寺三鎮守」の一社とされます(他の二社は、武井神社[主神:健御名方命]と妻科神社[主神:八坂刀売命])。湯福神社の祭神は、同じ諏訪神でも、ここだけ「健御名方命荒御魂」とされます。「荒御魂」という表示は、背後に「深秘」の神を隠祭していることがほとんどといってよく、ここも例外ではないのかもしれません。といいますのも、湯福神社の分社に、その名も「桜神社」があるからです(長野市桜新町)。
 それにしましても、桜とスサノオが関係づけられている話は異例中の異例です。信濃国において、スサノオは、諏訪の水神=桜神を招来した大元神だというのが民話が語ることでもあります。記紀の創作(アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」という擬制的な婚姻)によって、宗像三女神の父神とされた素戔嗚尊でしたが、この破綻神話の一方の主役であるスサノオゆかりの桜が「日本の桜で、一番素になる桜」、つまり「素桜」と命名されているわけです。アマテラスは、その核にアマテル神という男神を秘していることを考えますと、擬制的婚姻関係にあるスサノオもまた、その核に謎の女神を秘していることが想像されます。わたしは密かに、天照大神の「荒御魂」が瀬織津姫であるなら、瀬織津姫の「荒御魂」はスサノオ(修験世界では不動明王)ではないかという仮説をもっています。スサノオが核に秘している謎の女神をそのようにみています。この両神の核心=核神部分を互いに明かさないことで、日の本「神の国」は弥栄(→八坂)、つまり、とみに栄えるはずだというのが、記紀創作者がアマテラスとスサノオ両神に課した「誓約」の中身なのでしょう。ところで、瀬織津姫は伊勢の桜神でもありました。たとえば「若桜」は「わかさ」とも読むように、桜は「さ」の読みをもっています。としますと、スサノオは「素桜王」とも書けることを教えてくれているのが、この泉平の民話です。

074 諏訪湖の花 言蛇 2004/09/13 (月)

「雁がねの 来鳴かむ日まで 見つつあらむ この萩原に 雨な降りそね(万葉集2097)」

こんばんわ、秋桜や蕎麦の花が咲くなか、昨日は西三才神社の秋祭りを楽しんできました。
神楽ばやしが町内をまわり祝い花火や仕掛花火、獅子舞をみることができ、小振りながらも横須賀より古式ゆかしい風情が伝わっていて土地柄を感じさせてくれました。神社の神紋は三つ巴ながら神楽ばやしには加茂神社の名前が掲げられており、新興住宅地内神社の今様を考えさせてくれます。

◆神代桜
和歌付の民話の紹介、綺麗な話でよかったです。ただ、アマテラスとスサノオの擬似結婚話については、瀬織津姫絡みで近親婚を容認すると受け取る人もでそうなのですが風淋堂主人はどうお考えでしょうか(*1)? その後に高天原で起きたことを考えると、むしろ瀬織津姫はちゃんと表に出て止める側に回るべきかとも思います。
善光寺の脇にある城山神社(公園)の桜も市内の名所として有名です。この神社の神木は現在銀杏なのですが、秋らしい縁結びの方法として秋田県の銀杏山神社がありますので紹介させていただきます。

銀杏山神社は、大和朝廷時代(658年)阿部比羅夫が蝦夷征伐に遠征して来た際に勝利祈願の為に建立したものといわれ、大和朝廷時代に植えられたと伝えられている三本の銀杏の巨木があります。三本のうちの一本は「もとめ木」といわれ、枝もとから気根が乳状に下がり、その先端から樹液が滴るので、お乳の少ない女性が願いを書いた紙を結びつけ、白い布で作った袋をかけるとお乳がでると信じられています。他の二本(男銀杏と女銀杏)は、枝状に結びついているところから「連理の銀杏」と名付けられています。この二本の銀杏の周りを息を止めて8の字に3周すると願いがかなえられるとの事。
近くには恋文神社もありますので求婚祈願には丁度よさそうです。関東ですと江ノ島の弁財天にやはり「結びの銀杏」というものがあり、こちらでは普通に絵馬を捧げます。やはりプロポーズは隠さず堂々とした方が気持ちがいいのでしょう♪
(*1)自分が異名同神に反対なのは、経済活動としてネズミ講やマルチ商法に繋がるおそれがあるからです。
    ここの掲示板では瀬織津姫が主役ですが、神様の名前を変えて異名同神説の展開を容認すれば・・・
    マルチの問題点(http://www.heavy-moon.jpn.org/actok/ml_idx.html)

◆八坂刀売命の花=アサザ
諏訪湖の水質が良くないことは以前おしらせしましたが 水質汚染の元である下水処理施設はほぼ100パーセントに近く今後の段階では生態系ぐるみの改善が図られいます。水質改善においてはヨシに代表される水草が着目されており、諏訪湖水質改善のバロメータにアサザの花が上がっています。八坂刀売命は諏訪湖の女神ということもあり、今後の仕事柄、桜よりはアサザの方が似合うかと個人的には思います。
諏訪湖に流れこむ水の改善については、大己貴命が国づくりのおり事代主命と健御名方命を従えて寄ったことに起源を持つ上伊那郡の矢彦神社に注目しています。ここには塩尻側の小野神社と合わせて針広混合林が自然に広がっており、北海道の東大演習林の応用が期待できるのです。
諏訪信仰においては諏訪神社上社(諏訪湖周辺)と下社(八ヶ岳山麓)の間に生活圏の違いに基づく確執が今でもありますが、伊那谷にあるバイオマス(*2)の研究を森林資源の地域研究に格上げすれば上社と下社の生活圏統合に一役立てます。
(*2)http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/2914/BioMassHP.html

◆安曇野の伝説
薪能が行われる龍門淵公園は、古文書には「龍宮淵」として龍神様がまつられ、祭り用の除地田があったとのことでその由来を引用します。
「龍神宮の由来
此処龍門渕はかって犀川の本流を本流をさえぎる岩が突出して大渦を巻くなど水の流れが激しく大変な難所であった。この岩の上に犀川の水霊、龍神「くらおかみのみこと」を祀り川の荒れるのを鎮め、あるいは日照りの時に雨乞いをするなどの祭祀をしたらしく上段からは古墳時代の土器などが出土している。龍神伝説や貸椀伝説も残り、松本城主水野氏は村々巡回の折には必ず参拝をしている。また、雨乞い祭りも度々行われ特に享保時代には河出の村中の僧を頼み二夜三日の祈祷をした記録が残っている。天保三年犀川通船が開船されてから、多くの人々は必ず通船の無事をここで祈って通ったという。」
風淋堂主人の記事と合わせますと、松本平における水神はむしろ雨乞い
#この湖沼伝説についてですが、明科町には北村遺跡という縄文時代の遺跡が出土しており北村遺跡の時代であれば安曇湖(仮定)の水位は、遺跡より下なのは確実と追記しておきます。

◆アイヌ文化側からの和人文化受容について
アイヌ文化における祭祀はチャシとよばれるアイヌの山城とそれにまつわる伝承に萌芽が伺えるようです。
「アイヌ考古学(著:宇田川 洋/出版:教育社)」からの引用ですが、このシャチに伝わる伝承数と種類を上げますと、
   闘争伝承 =57 (対和人:6、 対アイヌ:49、 対オロッコ:2)
   見張伝承 = 6 (プンキ:5、オトイパ:1)
   聖地伝承 =14 (チノミシリ:3、カムイミンタル:2、ヌサ場:9)
   談判伝承 = 5 (チャランケ:5)
   人文神伝承=19 (ポイヤウンペ:1、オキクルミ:2、ポンオキクルミ:3、コロポックル:5、サマイクル:4、オロンコ:2、義経:4)

この中で和人文化といえるのは義経伝承で、これはオキクルミ伝承の置き換えです。過去における和人文化の受容については少なくともこの位が目安になると思います。これ以外でアイヌが受容したといえる外来文化は、アイヌ玉といわれるトンボ玉があげられます。玉自体は江戸・オランダ・清・インド・ロシアからの招来品なのですが、首飾りの通し方に独自性を認められアイヌ玉と呼ばれるようになりました。もしガラス製法をアイヌに伝えればアイヌ独自の発展が見込める分野といえそうです。円空仏の場合ですと、仏像というものがあるのでアイヌが実際に仏像を作る事跡があればアイヌに受容されたと言えると思います。
#もっとも現代においては仏像ではなく瀬織津姫の像を作ったほうが誤解は少ないですし、その前にアイヌの文化英雄(男女)を確立する必要があります・・・・。

◆乗鞍神と丹生
瀬織津姫主体のページにて丹生都姫に時間を割いていただきどうもありがとうございます。
乗鞍岳と丹生都姫のかかわりについては、質問にしました名前の由来が確認してから取り掛かろうと自分では考えています。
長野からでも岐阜・高山は遠いので、これは致し方ないと納得しています。むしろ、リゾート地化している乗鞍高原で時代に背を向けているような気配がある梓水神社の方が気にかかるところで、これは直接に宮司さんに話を伺ってみたいところです。

(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html)

075 「エミシの国の女神」二冊目のイメージ 言蛇 2004/09/20 (月)

「思はぬを 思ふと言はば大野なる 御笠の杜の 神し知らさむ(万葉集564)」

自分なりにイメージしている次の瀬織津姫の本のイメージですが、まず次の本に目を通して下さると幸いです。いずれも実在する技術と発掘品と地域伝承がうまく融合している好著です。
「海を渡ったモンゴロイド(著:後藤 明/出版:講談社)」
「縄文人はるかなる旅の謎(著:前田良一/出版:毎日新聞社)」
自分がイメージしているのは、これの現代日本地方版と考えてもらって結構です。風琳堂主人の瀬織津姫ですと、現代の早池峰山と北上川の土地神としてのイメージに特化したものがニ冊目に相応しいと考えています。もっとも上述の本のようなものにするには、実際に県庁・市役所・商工会議所の会報で郷土史のコーナ(*1)を少なくとも2、3年は担当しないと生きた本にならず「エミシの国の女神」ともだいぶ勝手が異なります。実は自分が希望を述べた丹生都姫のイメージも紀伊半島に特化した土地神のイメージでして、ネット上で地元の神社動向を伝えている分、瀬織津姫のニ冊目よりはまとめるのが早いと考えて話を降らしていただいています。
(*1)現在の岩手県知事は「がんばらない宣言」をしたユニークな方で追い風は吹いていると思うのですが・・・。

◆夫婦樹♪
神代桜で夫婦樹にふれましたが、確か遠野の早池峰神社にはイチイの夫婦樹があったと記憶しています。銀杏山神社にお願いして、このイチイで縁結びの儀をするのもいいですし、あるいは桜、あるいは銀杏をニ本植えるのもいいですね〜。泉平の神代桜はエドヒガンザクラなのですが、早池峰神社(=瀬織津姫)の桜はエドヒガンザクラと固定してしまってよろしいでしょうか???
桜といえば一般の人はコノハナサクヤ姫をイメージすると思うのですが、瀬織津姫にはエドヒガンザクラ、コノハナサクヤ姫にはソメイヨシノを充てれば誰でも区別を付けられるようになり混乱を避けられます。瀬織津梓水神については今思案中です。

#泉平の神代桜の近くには国見のイチイという樹があり、春には花を、秋には実をならして地元には親しまれています。長野ではこの桜とイチイが夫婦なのかも。

◆産鉄神について
産鉄神については、瀬織津姫ではなくどちらかというと金山彦命と金山比売命が担当する方が話がすっきりすると思います。名古屋からですと岐阜の南宮大社が調べやすいですが、個人的に瀬織津姫絡みでかたるのはお勧めできないのが正直なところです。金属関連の話しは神奈備様のhp(*2)に色々な方の投稿が死屍累々と重なっていますので一応参照を願います。産鉄神がうまく纏まらない失敗の原因は、現代の鋼業製品との現実的な繋がりが全く無い形で話が進んでいることと、多様な現代の鋼業製品を語るには金山彦命だけでは神様が足りないことだと自分では判断しています(*3)。もし産鉄神を語るのであれば、実際に製造業に携わっている技術者の方を交えることで神と物を正しく結び付けることができるでしょう。名古屋ですと具体的にはトヨタ自動車関連が自分だと浮かんできてしまいますね(汗)。現代の日本製造業は資源も含めると海外の人に依存しているのが現実ですから、国外の宗教の現実と神道を向き合わせて交流・結婚をさせていく上で有益な話ができる筈です。
(*2)(http://www.kamnavi.net/)
(*3)東北ですと南部鉄器が手頃にまとまりそうですね、これなら台所を狙えそうです♪

(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html)

076 その後に高天原で起きたこと 風琳堂主人 2004/09/19 (日)

「アマテラスとスサノオの擬似結婚話については、瀬織津姫絡みで近親婚を容認すると受け取る人もでそう」──そんなアホな、あるいは幼稚な発想をする人は、この千時千一夜の読者にはまずいますまい。
「その後に高天原で起きたことを考えると、むしろ瀬織津姫はちゃんと表に出て止める側に回るべきかとも思います」──瀬織津姫の立場からすれば、そんな義務は元よりありませんから「わたしの知ったことではありません」でチョン(済み)のような妄想話なのですが、しかし面白い(面白くない)もので、同じ発想をしたかもしれない古代人がいたようです。中臣氏です。
 アマテラスとスサノオの擬制的婚姻=誓約における宗像三女神等の子神産みのあと、記紀はスサノオの乱暴狼藉を描いています。古事記を要約しますと、スサノオは「その後」おごりたかぶって、アマテラスの神田の畔を壊し、溝を埋め、食事殿に屎[くそ]をする、さらに、アマテラスの機殿には逆剥ぎにした馬の皮を放り込むといった狼藉をします。これらは、アマテラスの石屋戸隠れの原因譚として描かれるものです。スサノオのこの狼藉(罪)についてですが、これは神聖な田や機殿を犯してはならないという古代農耕的な「罪」であるという理解が通説化していますが、ここは、アマテラスそのものに対する反逆の罪というようにも読めるわけです。ともかく、高天原においてスサノオがしたことの数々を含む「罪」をそのまま記していたのが、瀬織津姫を中心神としてつくられた大祓祝詞(六月晦大祓)でした。

■大祓祝詞に描かれる「天つ罪」
 国中に、成り出でむ天の益人等が過ち犯しけむ雑雑[くさぐさ]の罪事は、天つ罪と、畔[あ]放ち・溝埋み・樋[ひ]放ち・頻蒔[しきま]き・串刺し・生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸[くそへ]、許多[ここだく]の罪を天つ罪と法[の]り別けて、国つ罪と、生膚断ち・死膚断ち・白人・こくみ・おのが母犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜[けもの]犯せる罪・昆[は]ふ虫の災・高つ鳥の災・畜[けもの]仆[たふ]し・蠱物[まじもの]する罪、許多[ここだく]の罪出でむ。かく出でば、天つ宮事もちて、大中臣、天つ金木を本[もと]うち切り末うち断ちて、千座[ちくら]の置座[おきくら]に置き足[たら]はして、天つ菅麻[すがそ]を本苅り断ち末苅り切りて、八針に取り辟きて、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ。(武田祐吉訳)

 スサノオのやったことは、「畔[あ]放ち・溝埋み」および「生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸[くそへ]」といった「天つ罪」に該当し、これはたしかに「許多の罪」(たくさんの罪)で、かなりの重罪ということになります。これらの罪を洗い出したあと、まとめて祓う役どころの神として最初に登場させられているのが、「高山・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比唐ニいふ神」です。したがって、瀬織津姫は「ちゃんと表に出て止める側に回」っているとはいえるのですが、元より、これは瀬織津姫の本意ではなかろうとおもいます。天つ罪の最初を演じる(演じさせられている)のがスサノオであり、天つ罪(と国つ罪)を最初に祓う神として瀬織津姫が登場させられていることは注意しておいてよいかとおもいます。
 なお、引用にみられるように、「おのが母犯せる罪・おのが子犯せる罪」は国つ罪とされ、これは「近親婚」の「罪」に該当しますから、瀬織津姫を祓神として設定した中臣氏の思惑の範囲内のことになります。
 スサノオが、以上の「天つ罪」によって「高天原」から追放されるとき、たとえば書紀の一書(第三)は、「素戔嗚尊には、沢山の捧げ物をお供えする罰を負わせた。手足の爪を抜いて、罪のあがないもさせた。天児屋命は、その祓いの祝詞をよまれた」と書いています(宇治谷孟訳)。大祓祝詞においては「大中臣」、スサノオの高天原の「罪」の神話においては「天児屋命」(中臣の祖神)と、中臣思想の思惑が一貫していることがわかります。囲炉裏夜話から千時千一夜にかけて、この中臣思想に対しては、ノンの視点を崩してきていないつもりです。
 記紀神話によれば、スサノオの神裔として、国津神の代表として大国主神がいますが、この神の異名は大国主神を含めて、古事記は五つ、日本書紀は七つと記しています。瀬織津姫については、この神の異名同神を列挙・展開したいわけではなく、正確には、瀬織津姫を隠祭するときに使用される本社筋の神々と、その秘祭の祭祀構造(中臣思想)を明かすことが主眼です。スサノオはその筆頭といってもよい難攻の神かもしれません。
『エミシの国の女神』の次にもし本が出るとするなら、それはおそらく、この中臣思想=「闇の日本祭祀」の全貌を明かす一助となる本であることを構想します。したがって、岩手に「特化した土地神のイメージ」で瀬織津姫を語ることはありませんし、ましてや、「実際に県庁・市役所・商工会議所の会報で郷土史のコーナを少なくとも2、3年は担当」する気はわたしにはまったくありません(岩手県知事の増田さんの「追い風」も不要です)。
 ありもしない仮定話、つまり、その他の蛇足の言についてはコメントを控えますが、一つだけ言わせてもらいますと、神奈備さんのところの産鉄神についての話で、「色々な方の投稿が死屍累々と重なっています」といった表現は撤回したほうがよろしいかとおもいます。多くの投稿があれば玉石混交の内容になることはあっても、「死屍累々」は失礼な話です。「産鉄神がうまく纏まらない失敗の原因は、現代の鋼業製品との現実的な繋がりが全く無い形で話が進んでいることと、多様な現代の鋼業製品を語るには金山彦命だけでは神様が足りないことだと自分では判断しています」──どう「判断」するも自由です。「産鉄神がうまく纏まらない」とすれば、それは、産鉄神が後代の派生神・分派神で、人の生命に関わる火神とか水神といった根源神からしますと(これらの神の系譜こそが記紀創作者によって曖昧にされています)、生活の複雑化・高度化にともなう派生神であるということが考えられます。また、アマテラスを神々のヒエラルキーの頂きとみなす神統譜・神話づくりの思想が背景にあるゆえに、そういった技術神・職神にまつわる話が豊かに、かつ強固に構築・伝承されてこなかったからともいえましょう。トヨタ自動車の名が出ましたが、同社の前身である豊田織機の創業者である豊田佐吉翁が信奉していた一例が、豊川[とよがわ]河口の水神社(主祭神:瀬織津姫)でした。瀬織津姫は水神かつ養蚕神・織姫神でもありますから、この佐吉翁の「心」とは問答してみたい気はしています。トヨタ自動車の現社員はともかく、経営者レベルは、この佐吉翁が信奉した神を知っておいてソンはなかろうに、とはおもわないわけではありませんが、それを部外からおせっかいに物申す感覚はわたしにはありません。「東北ですと南部鉄器が手頃にまとまりそうですね、これなら台所を狙えそうです♪」──丹生都姫についても、漆細工についてもそうですが、「南部鉄器が手頃にまとま」るとはとてもおもえません。また、消費税(アップ)じゃあるまいし、台所を狙ってどうする?といったところでしょうか。
 言蛇さんの発想は、「瀬織津姫の文化」(千時千一夜63「善光寺と建御名方」)がすでに成立していると錯覚したところから派生しているようにみえます。瀬織津姫が当然のように語られている世界(たとえば千時千一夜の世界)は、全体からいえば、小さな針の穴のような場所にすぎません。瀬織津姫という神をきちんと(大祓神=祓戸大神の位相ではなく)認識できているのは、まだほんの一握りの人たちだろうとおもっています。

077 消えたスサノオと瀬織津姫 風琳堂主人 2004/09/23 (木)

「瀬織津比当スは大祓詞に現われる代表的な清め祓いの神で諸々の罪穢を祓い、開運厄除けの御神徳極めて高い」──これは、現在の桜ヶ池・池宮神社(静岡県浜岡町佐倉)の社頭案内の表記です。瀬織津姫をあくまで祓神として表示する意向がよく表れています。このことは、同社の相殿神である事代主命と建御名方命の神徳説明にもみてとることができます。曰く、「事代主命・建御名方命は共に大国主命の御子神で、事代主命は通称エビス様と称せられ商売繁盛、福の神として、建御名方命は武勇の神又、農、耕、水の守護神として崇められている」──池宮神社は「水の守護神」を、瀬織津姫ではなく、建御名方命だと主張しています。
 池宮神社の「教化部長」という肩書き・立場で書かれた『桜ヶ池 池宮神社考』という本があります(中村福司著、昭和五十三年九月二十日、桜ヶ池池宮神社々務所発行)。同書は、瀬織津姫が「急瀬におられる水の精霊とすると桜ヶ池の祭神として全く相応しい御祭神である」と、至極まっとうに瀬織津姫を「桜ヶ池の祭神」(水神)として評しています。
 著者の中村福司さんはすでに退職していて(現在は大江八幡宮宮司とのこと)、この本は絶版、復刊の予定はないというのが現・池宮神社宮司の談です。『桜ヶ池 池宮神社考』という本をわたしが評価するのは、たとえば、次のような言葉を読むことができるからです。

■神明に奉仕する者=宗教家の任務
 特に最近は考古学的・民族学的に日本古代史の研究が進み、皇国史観的な上代史が古墳等の発掘又は韓国史家による朝鮮古代史の解明により、随所に疑問点が指摘されているので神明に奉仕する者と雖も、史実の裏付けのない神社誌を書くわけに行かない。私は信仰と史実とは別個なものであるが正確な史実に基ずけば一層信仰を深めるものと信じている。
 神は信ずるもの、心の中に存在するものであって、宗教家は大衆に神の存在を説き、教化育成し悪事・病気災害等を最小限にくい止め、もし不幸にしてそのような事態が起っても宗教心によって培われた、心の素早い転換によってそれらの精神的ショックをおさえ立直ることの出来る状態に復するのが任務である。

『桜ヶ池 池宮神社考』は、池宮神社の古記録が武田・徳川の戦い(天正年間)によって焼失して現存しないことを証言しているのですが、それでも江戸期の棟札や江戸期の池宮神社にふれた古文献等を収録していて、池宮神社を考えるにあたって、これ以上の資料集はないといえる価値をもっています。
 わたしが同書を通読して興味深いとおもったことの一つは、主祭神の瀬織津姫や配祀神二神に関する江戸期の文献や棟札が「ない」ことです。もう少し突っ込んでいいますと、池宮神社と呼称されるのは明治期のことで、それまでは、同社は「池宮天王社」だったということです(「当社ハ従来池宮天王社ト称セシヲ明治元年十二月許可ヲ得テ池宮神社ト改称ス」…昭和二十一年三月二十八日付の「申請調書」)。○○天王社といえば、津島天王社(現在は津島神社)を筆頭に、その祭神はスサノオとなることが通り相場なのですが、池宮神社に限っては、主祭神をスサノオではなく瀬織津姫としたという特異なことになります。著者の中村さんも同じ疑問を書いていました。曰く、「天王社と云うからには当然前記『和漢三才図絵[会]』にあるように御祭神を、牛頭天王─素戔嗚命が主祭神又は相殿主祭神にならなければおかしいのである。しかし明治以後の由緒にその御祭神名がないのはなぜか」──これは、もっともな疑問です。
 中村さんは、明治元年の神仏分離の際の太政官布告の一項に「中古以来神祇を某観音・某菩薩・牛頭天王など仏語をもって称したものを廃止させ…」を引用し、「御祭神の牛頭天王を政府の布告を考慮して取はずした事が充分考えられる」と見解を述べています。著者は、瀬織津姫を「水の精霊」とするも、祓神の規定を前提としていて、いいかえれば、この神が皇祖神=アマテラスと真っ向から抵触する神であるという認識がなく、したがって、明治期に自社の祭神名として瀬織津姫の名を掲げることの多大な困難には視線が届いていないようです。
『桜ヶ池 池宮神社考』は明治期(明治二十四年)の神社明細帳も収録しています。ここには、境内社七社の一社として「桜之宮」の存在が記されていますが、その内容は「祭神不詳 阿闍梨皇円ト云伝フ」、また「久寿二年秋七月皇円此池ニ来リ誓シ事アリ叡山ニ帰リ仙化セリ。是ヨリ此霊ヲ池ノ主神トシテ祭レルト云」とあります(境内社七社には、伊雑皇大神宮[祭神:天照皇大神]もある)。中村さんは、この表示を読んで、「境内社桜之宮を祭神不詳としながらも、云伝えとして皇円阿闍梨の桜ヶ池入定により池の主神としたことは、時の権力に対して宮司佐倉信武の勇断の一端がうかがえる」と、当時の宮司・佐倉信武の「勇断」を讃えています。しかし、佐倉信武のほんとうの「勇断」は、明治期に池宮天王社が池宮神社に改称されるとき、牛頭天王→スサノオではなく、瀬織津姫を祭神表示したことにこそあるとわたしはおもいます。
 ここで、池宮神社境内社「桜之宮」についていいますと、同社が「祭神不詳」とされたのは、神宮が「桜宮」という異称をもっていたこと(当HP「五十鈴川の桜神」)と関係があると考えられます。瀬織津姫は、おそらく、江戸期を通して池宮天王社の境内社(奥宮)「桜之宮」の祭神だったのでしょう。明治期、桜之宮の祭神を瀬織津姫と表示することは、同神が伊勢神宮の神であることを証言するにも等しいわけで、これこそが忌避される必要があったとおもわれます。天王社であった池宮神社の祭神をスサノオではなく瀬織津姫と主張した理由は、同社の鎮座地が小笠郡佐倉村(明治期)であることに端的に表れていますが、佐倉神=桜神(桜ヶ池の神)として、神社内部に瀬織津姫の名が深く自明のこととして伝えられてきたゆえと考えられます。
 牛頭天王=スサノオが瀬織津姫と同居する例としては、横浜市神奈川区入江にある一之宮神社があります。同社は永禄四年(1561)に武蔵国一宮である氷川神社から勧請したとされます。また、同社案内板には、祭神を素盞嗚尊、事代主命、保食命、面足惶根命、水速廼売命、「外の神様」などと表示していますが、瀬織津姫がここにまつられています。宮司の談では、ここの氏子は漁民が多く、氏子の古老が信奉する神は瀬織津姫と事代主とのことです。ならば、きちんと瀬織津姫も祭神表示したらどうかといいましたら、知っている人が知っていればそれでいいというふざけた返答でした。ただ、もう一つ貴重な証言があったのは、瀬織津姫は武蔵国一宮・氷川神社にまつられていた神とのことです。氷川神社は、男宮の氷川神社(現主祭神:須佐之男命)と女宮の氷川女体神社(現主祭神:奇稲田姫命)、および簸王子社(中山神社)の三社から構成されているようですが、現在、ここに瀬織津姫の名を確認することはできません。
 横浜一之宮神社にとって、信奉対象神が瀬織津姫と事代主で、筆頭祭神のスサノオがまったく影がうすいということで想起されるのは、富山県高岡市の速川神社です。速川神社は、明治期に国常立尊、天照大御神、建御名方命が名目上の祭神とされましたが、氏子の人たちにとっては、現在でも、祭神表示から消された瀬織津姫が「自分たちの神様」だと強く認識・信奉しています。高岡市・速川神社でさらに興味深いのは、池宮神社祭神でもある瀬織津姫と建御名方(お諏訪さん)を「夫婦神」と言い伝えていることでしょうか。
 諏訪神祭祀への国家的干渉のはじまりは持統時代にまで遡りますが、『桜ヶ池 池宮神社考』は、桜ヶ池が諏訪湖(および善光寺の阿闍梨池)に通底している伝承も載せています。

078 再録◆諏訪縁起と瀬織津姫 風琳堂主人 2004/09/25 (土)

 諏訪神の鎮座・本地譚として「諏訪縁起の事」があります。これは、室町期にまとめられたとされる『神道集』(現在一般に読めるのはその抄録。東洋文庫)に収録されているものですが、これを読んでも、諏訪神(下社の神)が瀬織津姫であることがよく伝わってきます。
「諏訪縁起の事」は、その始まりの箇所で、「東山道の筆頭は近江の国、その甲賀郡の地から荒人神が現われた。神の名を諏訪大明神という。この神出現の由来をくわしく調べてみよう」(貴志正造訳)と書かれていて、一瞬読む者を「え?」というおもいにさせます。諏訪大明神=建御名方神は、古事記によれば出雲の神で、八重事代主神の国譲り承諾→入水後、天孫への国譲りを最終的に認めた神とされ、最後は「科野国之州羽海」(信濃国の諏訪湖)に蟄居したと描かれていました。「諏訪縁起の事」は諏訪神の出現地を、古事記神話を敢然と無視して、近江国としているわけですから、これは興味をかりたてられます。
 諏訪縁起の話は『神道集』のなかでも特に長くて全文を引用できません。内容を要約していいますと、「甲賀郡の地頭をしている甲賀権守諏胤[こうがごんのかみよりたね]」の「三人の息子」の末子「甲賀三郎」と奈良の春日権守の孫娘「春日姫」の「夫婦の道」が話の基調にあり、両者が諏訪で「神」となる筋立てとなっています。この鎮座過程には、春日姫と生き別れた甲賀三郎による、異界=地底の国々を抜ける人生波乱の物語が大半を構成しているといってよいのですが、この物語の作者がスゴイのは、その虚構創作の想像性もさりながら、話の後半において、三郎と再会してからの春日姫について、その性格を、次のように描写していることです。

■春日姫の性格
 その後(三郎と再会後)、春日姫は、
「気にそまぬ土地にいて、いやな甲賀次郎(三郎の兄。この次郎のために、三郎と春日姫は生き別れとされた)の身の果てを見聞きするさえ憂鬱です。さあ、いっしょによその国へ移りましょう」
と、天[あめ]の早船[はやふね]を用意して、中国の南方にある平城国へ渡り、その国で早那起梨の天子にお目にかかって、神道の法を授けられた。「高天ヵ原に神とどまり、神々の末孫神ろぎ神ろみの命をもって」と受けて虚空を飛べる身となった。また「国内の荒ぶる神たちを神払えに払う」と受けて、悪魔・外道たちを他へ退ける神通力を会得した。また「科戸[しなと]の風の天の八重雲を吹き払うごとく」と受けて、いながらにして三千世界を見通す徳を得た。「焼鎌の利鎌[とがま]をもって生い茂った木の根もとを打ち払うごとく」と受けて、一切世間の有情非情が心の内に思うことを空でさとれる徳を得た。「大津のほとりにいる大船の舳[へさき]の綱を解き放し、艫[とも]の綱を解き放して、大海の底に押し放すごとく」と受けて、賞罰覿面[てきめん]に有効な、衆生を育てる徳を得た。

 ここには、五つの「〜と受けて」とありますが、これらの「〜」部分は正確に中臣祓=大祓祝詞(=六月晦大祓)の文言から引用されています。「諏訪縁起の事」の作者は、春日姫を、大祓祝詞の女神であることを明確に認識しているといえます。しかも、祝詞の基本性格である大祓の主旨──「天皇[すめら]が朝廷[みかど]に仕へまつる官官[つかさつかさ]の人等[ひとども]を始めて、天の下四方[よも]には、今日より始めて罪といふ罪はあらじ」という、つまり朝廷=国家による大祓の思想(中臣思想)をみごとに無化して、あるいは逆転させて、「虚空を飛べる身」、「悪魔・外道たちを他へ退ける神通力」、「いながらにして三千世界を見通す徳」、「一切世間の有情非情が心の内に思うことを空でさとれる徳」、「賞罰覿面[てきめん]に有効な、衆生を育てる徳」を、春日姫が新しく身につけた「神道の法」だといっています。
 こういった描写にみられる春日姫が大祓神=瀬織津姫の比喩であることはもう明らかで、それがわざわざ「春日」姫と命名されているわけです。縁起の作者は、春日四神の謎の比売神=春日姫が、暗に大祓の女神と同神であることをもここで明かしていると読むしかありません(『南安曇郡誌』が、豊科町の春日神社は「天児屋根命、経津主命、武甕槌命、瀬織津姫命」をまつり、「大同四年大和国奈良より勧請…」と記録していたことも想起されます)。
 甲賀次郎の横恋慕に嫌気がさして日本から「よその国」へ行った春日姫たちでしたが、甲賀氏の氏神「兵主大明神」によって、「どうか本国へお帰りになって、衆生守護の神におなり下さい」と懇願され、ついに本国=日本へ帰ってくることになります。
 春日姫たちの諏訪への鎮座部分を引用します。

■春日姫から諏訪「下の宮」の神へ
 夫婦二人は車(天の早車)に乗り、兵主大明神の使者とともに信濃の国蓼科の嶽に到着した。梅田、広田、大原、松尾、平野などの大明神たちも集まり、後につき従われた。信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神という名で上の宮として出現された。〔中略〕
 また春日姫は、下の宮として現われた。維摩姫(三郎の異界における妻神)もこの国に渡って来て、神と現われたが、春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い、同じ国内に住みましょうと宮地をえらんで社を建てた。今の世に浅間大明神というのがこれである。

 春日姫と甲賀三郎の「夫婦の約束」は、「天上では比翼の鳥、地上では連理の枝、それらの深い愛情よりもなおまさるかと思われる」と作者は記していましたから、三郎が異界の「維摩姫」と「夫婦の約束」をしたことは一見道義に反するようにみえます。しかし、「春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い」とあるように、春日姫と維摩姫は、生死・明暗の世界を象徴する、つまり合わせ鏡のような同神であるということなのでしょう。その維摩姫が「浅間大明神」となる、つまり富士山の神となるわけで、この縁起が描き出した神まつりの真相譚は途方もない認識によって語られていることがわかります。
 なお、神仏習合=本地垂迹の思想によって語られる諏訪神については、「甲賀三郎方は上の宮に現われた。本地は普賢菩薩である。春日姫は下の宮に現われた。本地は千手観音である」とされます。春日姫の「本地仏」が(十一面)千手観音であることもいたくうなずけます。
 諏訪神のこの鎮座・本地譚は、両神が「地頭」の子というように、時間感覚からすると鎌倉時代を舞台にしていますけど、諏訪神鎮座が鎌倉期でないことは明白ですから、この縁起の作者のモティーフは時代探究にあるのではないとみるべきでしょう。

 春日姫(=春日四神の比売神)=大祓神(祓戸大神)=諏訪神(諏訪下社の神)=浅間大明神(富士山神)=(十一面)千手観音

 こういった異称同神(仏)の等式を無理なく想像させてくれる「諏訪縁起の事」の作者は、「闇の日本祭祀」を相当に深く認識していたとおもわれます。諏訪の男神の問題は残りますが、この中世の謎の作者に、あらためて敬意を表します。(初出:囲炉裏夜話498を一部修正)

079 再読◆丹波民話の瀬織津姫 風琳堂主人 2004/09/29 (水)

「諏訪縁起の事」を読み込んでみますと、瀬織津姫を諏訪下社の元神とみることを強く示唆していますし、また、富山県高岡市の速川神社に伝わる、瀬織津姫と建御名方が「夫婦神」という伝承が、ここだけの荒唐無稽な話ではないこともよくわかります。
 瀬織津姫と建御名方の両神が祭神となっている神社をひろいだしてみますと、湯次神社(滋賀県東浅井郡浅井町)、神林神社(松本市)、岩岡神社(長野県南安曇郡梓川村)、そして、諏訪湖(および善光寺の阿闍梨池)との通底伝承をもつ桜ヶ池・池宮神社(静岡県小笠郡浜岡町佐倉)などがあります。特に、桜ヶ池・池宮神社においては、「佐倉」という地名から、瀬織津姫が桜神でもあることが伝わってきますし、実際、「桜ヶ池は昔も今も桜の名所で池の附近の原生林にも山桜が多い」とのことです(中村福司『桜ヶ池 池宮神社考』)。ここに、民話「泉平の神代桜」における、桜神(諏訪下社の神)の話を重ねてみることもできます。
 民話(が秘めている力)は、ときに記紀神話(に基づく神社祭祀)の嘘と虚を照らしだしてくれます。「諏訪縁起の事」を頭において、丹波篠山の民話を再読してみます。

■与惣九郎の見た大蛇
 むかし、丹波の古佐の与惣九郎という人が、信濃の国の諏訪神社へお参りして、その分霊(建御名方命の妹)をいただき帰ってきました。
 今の渡瀬橋のあたりまで来たときのことです。それまでずっと後ろについて来た一人の女の子が急に立ち止まったかと思うと、身を踊らせて下の篠山川へ飛び込みました。
 驚いた与惣九郎の目には、もう女の子の姿はなく、見るも恐ろしい大蛇となって、
「わしは、諏訪神社の神霊じゃ。あそこに見える山は、七尾七谷と見受ける。眺めも良いので、わしはいついつまでも、あの山に鎮まりたい。」
 声とともに姿は消えてしまいました。
 与惣九郎は、さっそくお告げのとおり、岡屋の富の山を開き、清めてそこにいただいて来た分霊をおまつりしました。
 その時です。天地がにわかにゆれ動き激しい雷雨がとどろくと共に、大きな蛇体が富の山の七尾七谷をとりまき、雲つくような桧の根っこの穴から、大蛇の頭半分が出ている姿が見えました。
「わしは、子どもが好きじゃ。安産させよう。」
という、おごそかな声が聞こえたので、与惣九郎は、はっとわれにかえると、空はすっかり晴れわたり、なんともいえぬ神々しさが、山いっぱいにみちみちていました。
 それから、誰いうとなく、諏訪さんのご神体は蛇体であるといわれ、そのために諏訪神社は長い間(1903年まで)社殿を作らず、桧の古株にしめなわをかけて、これをご神体としておがんでいました。(篠山市HP)

 諏訪神社の分霊(建御名方命の妹)→女の子→大蛇という変身譚が描かれています。この大蛇は子どもが好きで、安産の守護神でもあるようです。「諏訪さんのご神体は蛇体」というのは諏訪湖の古伝承でもありますし、「雲つくような桧」が大蛇の住み家で、その「桧の古株にしめなわをかけて、これをご神体」として信奉したという記述は、神が宿る高木を立てて神迎えする御柱祭の意図をも暗示しています。
 女の子(建御名方命の妹)は「身を踊らせて下の篠山川へ飛び込」んだあと、大蛇に身を変えます。篠山川の大蛇が諏訪下社の神であることを考えますと、次の民話は、さながら、その後日譚のようにも読めます。瀬織津姫が、その名で登場する、現在確認できる唯一の民話です。

■丹波の人取り川
 むかし、篠山川には橋もなく、少し長雨が続いて水が出ると、流されたり、溺死する人が不思議に多いので「丹波の人取り川」といって、旅人や土地の人々が恐れていました。
 中でも、大山の一の瀬や岡屋の渡り瀬を越す旅人は、ここを非常に恐れ、無事に渡ったときは、必ず国許へそのことを知らすほどでした。
「この川には、きっと主神が住んでいるにちがいない」と思った氷上郡のある商人が何とかこの難を救おうと、大願を起こし、生駒山の歓喜天を信仰して一心にお祈りをしていましたら、十年目のある夜、夢に一匹の大蛇が現れていいました。
「わしは、篠山川に住んでいる主神である。おまえの信心の功徳によって、心を改め、今から天上して自天竜となろう。別れにのぞんで身の上を話そう。わしは、はじめ畑の三岳に棲んでいたが、そこに役行者がまつられたので、のがれて、藤岡の東窟寺の岩屋へ移ったところが、またもや、十一面観世音がまつられたので、仕方なく次は八幡渕に棲み、東古佐の戎が渕、川北の孫兵衛が渕から、野間の弁天が渕などを住みかと定め、悪神となって、多くの人身御供を取ってきたが、今からは瀬織津比売となり、水難者が一人も出ないようにしよう。雨乞いの願いもきこう。これから、十年間にこれらの渕が埋没するであろう。」と言って姿を消しました。
 不思議にも五年目に一番深かった八幡渕が河原となりました。また、水死者もでなくなり、雨乞いの祈祷をすると、大雨が降ったと言います。今も一の瀬や渡り瀬には「川越安全」としるした石碑が残っています。(篠山市HP)

 篠山川の大蛇は、神仏習合によって「神」をつづけられなくなって心が荒れてしまったのでしょう。しかし、その「悪神」となってしまった「心を改め」て、「瀬織津比売」という神に変身したとされます。ここでの瀬織津姫はまさに善神で、水難防護の神、雨乞いの神という性格が新たに付加されています。
 ところで、丹波篠山のこの二つの民話に共通して出てくる言葉(地名)に「岡屋」があります。岡屋は「諏訪縁起の事」にもみえていました(春日姫と甲賀三郎は、「信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神という名で上の宮として出現された。〔中略〕また春日姫は、下の宮として現われた」)。「岡屋の里」とは、おそらく現在の岡谷市にあたり、同市は諏訪「下の宮」がある下諏訪町の西隣に位置しています。岡谷市は、諏訪湖から唯一流出する天竜川の出水口を抱えるまちでもあります。
「与惣九郎の見た大蛇」では、大蛇(諏訪神社の神霊)を「岡屋の富の山」(現在の権現山[262m])にまつったとあり、「丹波の人取り川」では「岡屋の渡り瀬」は、渡河のもっとも難儀な場所として書かれていました。女の子(諏訪の神霊)が篠山川に飛び込んだところは「今の渡瀬橋のあたり」とあり、この渡瀬橋のあるところが現在の篠山市東岡屋です。篠山市の地名「岡屋」は、民話とともに、諏訪湖にそのルーツをたどることができるようです。
 この「岡屋の渡り瀬」(渡瀬橋)のすぐ上流部で篠山川に流れ込むのが藤岡川なのですが、この川の源流山が、「丹波の人取り川」において、大蛇が最初に「棲んでいた」とされる「畑の三岳」、つまり現在の三嶽山(793m)です。大蛇は「畑の三岳」から「藤岡の東窟寺の岩屋」へ、そして篠山川の各渕へというように、藤岡川を下って自分の住み処を求めたようです。この藤岡川と、同じく三嶽山から流れくる黒岡川の川合の地には「佐倉」の地名もあります。「岡屋」という地名は全国的にみても少なく(篠山市を含めて三例)、たとえば広島県甲奴郡上下町にも岡屋があり、ここにも佐倉地名があります。また、滋賀県蒲生郡竜王町岡屋でいいますと、ここは日野川流域にあたりますが、竜王町で日野川に流れ込む川が佐久良川で、同川上流部は瀬織津姫ゆかりの桜谷です(瀬織津姫は桜谷明神)。瀬織津姫は、この桜谷地区(現在の日野町安部居・佐久良・中之郷など)では賀川神社および長寸神社(ここは天照荒魂神の名ですが)にまつられています。竜王町岡屋の北の綾戸地区には、式内社・長寸神社を自社と主張する苗村神社もありますが、綾戸も瀬織津姫ゆかりの地名とおもわれます。ともかく、全国に三例しかない「岡屋」地名のいずれにも、近くに佐倉=佐久良=桜地名がみられるというのは偶然とはいえないでしょう。桜ヶ池・池宮神社の鎮座地も佐倉であること──桜神・桜谷明神の瀬織津姫像が匂い立ってくるようです。
 岡山県に「吉念寺の醍醐桜」(地元の人は「竜王」と親称)という老巨桜(推定樹齢七百年)があります(真庭郡落合町別所)。同木の樹下の祠は吉水神社と呼ばれ、そこには、集落の飲み水とされる泉が湧きだしています(牧野和春『桜伝奇』工作舎)。この泉の水は関川(→備中川→旭川)の一沢をつくっているとおもわれますが、落合町別所地区の関川には、源流部から順に、下諏訪神社、上諏訪神社とまつられていて、これも理由のないことではないといえそうです。下諏訪神を桜神と伝える「泉平の神代桜」もそうですが、丹波民話二話を含めて、民話の秘めたる底力を感じます。

080 瀬織津姫は誰のために? 言蛇 2004/10/05 (火)

こんばんわ、先週は穂高神社の御舟祭りを楽しんでまいりました。諏訪太鼓の流れを汲む穂高太鼓に豊科青龍太鼓、若人の生演奏は景気よくいまだに耳に残ります。御舟のテーマは恒例の源平物語に信濃遍都・白虎隊と昔語りの上手さをしのばせるもので、横須賀出身の自分にとっては「戦艦三笠と戦艦ミズーリ」で日本の近・現代を伝えられるのではと夢見てしまいそうです。

◆瀬織津姫二冊目のイメージ
さて、瀬織津姫二冊目のイメージを公開してくださりありがとうございます。土地神のイメージで書くつもりがないとのことで実に残念です。自分は風琳堂主人の本の下記のようなところに惹かれているので引用させていただきます。

「エミシの国の女神」あとがきにかえて
「本書の読者で、遠野の外の人には、身近なところにこの滝=水の女神をみつける楽しみをもってもらえたらとおもうし、もし遠野郷へやってくる機会があるなら、ぜひ早池峰の山と渓谷へ出向いて、この滝の女神と対面して欲しいとおもう。また、遠野あるいは早池峰郷に住むびとには、わたしたちはすばらしい女神をいただいていることを誇りとし、早池峰を中心とする山々をこれまで以上に愛しつづけていっていただければと願っている。」

風琳堂主人二冊目のイメージを伺っていると、主人の瀬織津姫はどの神様の為に働こうとしているのかどうも自分には伝わってきませんので、瀬織津姫はどの神様の為に働いているのかお教え下さい。自分の捉えている瀬織津梓水神や犀龍は、第一に松本平の食物神の為に働いていると捉えています。先日、秋映という新しいリンゴを食べてみたのですが歯ごたえがちゃんとあっておいしかったですよ♪

>言蛇さんの発想は、「瀬織津姫の文化」(千時千一夜?63「善光寺と建御名方」)がすでに成立していると錯覚したところから派生しているようにみえます。
錯角の点については大丈夫です。穂高岳や早地峰薄雪草に諏訪湖のアサザ、弥彦神社の混合林等、自分の根拠はあくまで現実に指差せるものを基本にしています。桜ヶ池が諏訪湖・善光寺の阿闍梨池に通底しているというような、現実にはありえない話しにのめり込むようなことはしないつもりです。木の話も基本は植林の問題なのですが、これにイザナミとイザナギの天御柱を見立てているものです。

>、神奈備さんのところの産鉄神についての話で、「色々な方の投稿が死屍累々と重なっています」といった表現は撤回したほうがよろしいかとおもいます。
神奈備様の掲示板に目をむけていただきありがとうございます、いずれは書き込みに来られれば幸いです☆ 神奈備様の掲示板には自分自身も投稿に伺っていますので、Rieruさんの「星屑」をもって謝辞に変えさせていただきます(謝。

◆浦賀の叶神社
>「その後に高天原で起きたことを考えると、むしろ瀬織津姫はちゃんと表に出て止める側に回るべきかとも思います」──瀬織津姫の立場からすれば、そんな義務は元よりありませんから「わたしの知ったことではありません」
風琳堂主人はそうおっしゃいますが、それは「よくないことについて見て見ぬふりをする」という点で良くないことだと思います。最近の出来事ですと三菱自動車のリコール問題や雪印の例をみれば明らかでしょう。

牛頭天王=スサノオが瀬織津姫 と同居する例とは違いますが、横須賀市浦賀の東叶神社に牛頭天王が西叶神社に向かい合っています。東西叶神社の祭神は応神天皇ですので西叶神社たずねれば、瀬織津姫の名前があがるかもしれません。浦賀ドックで軍艦をつくっていた以上、牛頭天王の祭祀は合点が行くのですが、町の方向性を変えつつある現在の浦賀には役不足な感があります。スサノオを語る時、風琳堂主人は「アマテラスとスサノオの誓い」を選びましたが、私でしたら「スサノオと櫛稲田姫の歌垣」をもってきます。アマテラスに会う前に櫛稲田姫の誓いをさせれば、「アマテラスとスサノオの誓い」の場面もかなり変化させることができます。

(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html)

081 最後の質問としてお応えします 風琳堂主人 2004/10/10 (日)

「瀬織津姫はどの神様の為に働いているのか」──これは千時千一夜の感覚からすると「変」の部類に属する質問です。ただし、「瀬織津姫は誰のために?」という問いならば、「瀬織津姫は、瀬織津姫を必要としている人のために存在している」とはいえるかもしれません。もっとも、中臣思想からすれば、瀬織津姫は「皇孫の為に祓戸大神として働いている」となりましょうが、これこそが、さらに輪をかけた「変」な思想です。

「桜ヶ池が諏訪湖・善光寺の阿闍梨池に通底しているというような、現実にはありえない話しにのめり込むようなことはしないつもり」──わたしも「のめり込む」気はありませんけど、この通底話が伝えられる背景、つまり、歴史的・信仰的な理由についてはふれておく価値はあるとおもっています。「現実にはありえない話」を全否定すると、文学や民話(が内包する真や美)なども否定の対象として呼び込んでしまい、まことに窮屈・退屈な世界になります。

「(神奈備掲示板に)いずれは書き込みに来られれば幸いです☆」──こういうお誘いは掲示板の主宰者がいうならばわかりますが、「投稿に(招かれもしないのに)伺って」いるのかもしれない、一恣意的な投稿者が主宰者をさしおいていう言葉ではありません。これも「変」です。

「よくないことについて見て見ぬふりをする」「三菱自動車のリコール問題や雪印の例をみれば明らか」──瀬織津姫は、神社世界の「欠陥」祭祀問題や「偽装」祭祀問題の被害当事神ですから、これらの「よくないこと」に対して「見て見ぬふり」をしているのはほんとうはだれかと問うべきでしょう。雪印は×ですが、三菱などは反省して出直そうとしていて、まだかわいいものです。

大蛇退治→「スサノオと櫛稲田姫の歌垣」は印象深い話ですが、高天原から追放されたあとの出雲行の神話のはじまりの「又食物を大気津比売神に乞ひき」云々の「又」について、倉野憲司さんは岩波版『古事記 祝詞』の語注で、「物語の接続が「又」では唐突である。これは神話を不用意に接合させたための不手際である」と、とても鋭い「注」を記しています。古事記の作者は、この「不手際」の神話で、スサノオに、クシナダ姫の父親(アシナヅチ)に向かって「吾は天照大御神の伊呂勢[いろせ]なり」と自己紹介させています。「伊呂勢[いろせ]」は「同腹の兄弟」というのが『古事記 祝詞』の語注です。この自己紹介のあと、クシナダ姫のピンチを大蛇から救い、クサナギの大刀を手にいれ、それをアマテラスに献上し、スサノオとクシナダ姫のハッピーな「妻籠み」の歌がつづきます。この神話部分の特徴は、スサノオがアマテラスの「弟」であることを念押しし、その上で、多くの(名義不詳の)国津神の生成を描いて、最後に大国主神をスサノオの末裔神とみなすことに主眼があるようです。大国主神が国土を拓いたとしても、お前はアマテラスの弟の末裔で、それを天孫に譲るのは当然のことであるという、のちに国譲りを迫るときの天孫族の自己正当化の意図を伏線にした神話です。「妻籠み」の歌はもともと海民の歌垣歌をアレンジ(盗作)したものでしょうが、それをスサノオ自身の歌のように仕立てたことで、古事記の作者(たち)は、スサノオが最大の「祟り神」となることを封じたとも読めます。しかし、こういった古事記のスサノオのイメージとはちがって、追放→流浪→根国のスサノオと大祓祝詞の「根の国・底の国に坐す」ハヤサスラヒメを同神とみる説もあります。大祓の神は、最初は「瀬織津比盗_」一神でしたが、大宝律令制定の頃に、おそらく三女神一男神という構成になったのでしょう。三女神の残りのハヤアキツヒメについては、内宮の別宮・滝原宮並宮の神とみなす神宮側の文献もあり、いずれにしても、神宮祭祀が闇の要[かなめ]にあり、その上に古事記→日本書紀の創作記述があります。

(追伸)──言蛇さんへ
あなたの書き込み・質問に、読む(書く)に耐えるようにお応えできるのは、今回が最後と心得ください(以後、なにか質問があるようでしたらメールにしてください)。
これまでの投稿を再読してみましたが、例外といってよい、「変」ではない質問が一つありました。それは、あなたが千時千一夜に最初に書き込んだなかにある「犀川と千曲川の合流地点に立つ善光寺、寺が立つ前に神社が祀られていたということはあるんでしょうか?」です。この問いは、おそらく、複数の読者が共感・共有できるもので、今も光っています。ありがとう。

082 祓戸大神という石碑 風琳堂主人 2004/10/13 (水)

 大祓祝詞(中臣祓)は天智八年(669)、近江朝ののちの右大臣・中臣金連によって創作されたと伝えるのが滋賀県大津市の佐久奈度神社です。中臣金が祝詞の実作者であるとしても、当時の内臣、つまり天智の側近中の側近であった中臣(→藤原)鎌足がこの創作を指示、あるいは深く関与していたことは当然のこととわたしは考えています。この祝詞が創作された年に、奇しくもというべきですが、鎌足は自宅への落雷により亡くなり、中大兄(天智)と鎌足のコンビは終焉をむかえます。鎌足の死を代償のようにして誕生したのが大祓祝詞といってよいかもしれません。古代、落雷による災禍は「神の祟り」とおもわれたはずで、この鎌足の死も例外ではなかったと想像されます。時代は水面下で、壬申の乱への助走をはじめることになります。
 日本書紀は、この祝詞創作の翌年(天智九年)三月九日、「山御井の傍に、諸神の座を敷きて、幣帛[みてぐら]を班[わか]つ。中臣金連、祝詞を宣る」と記していて、大祓祝詞は当初、朝廷に仕える人間たちに向けてというよりも、「山御井の傍」に集合させられた(畿内の天津国津)神々に宣りわたされたようです。要するに、神々よ、暴れずに鎮まっていてくれということかとおもいますが、書紀はつづけて、四月三十日のこととして、法隆寺の謎の焼失を記しています(「夜半之後[あかつき]に、法隆寺に災[ひつ]けり。一屋[ひとつのいへ]も余ること無し。大雨[ひさめ]降り雷[いかづち]震[な]る」…大野晋訓読)。雷は「神鳴り」でもあります。
 この因縁めいた大祓祝詞創作の伝承をもつ佐久奈度神社(本社)を含む同名社には、以下の社があります(鎮座地表示については、最近の町村合併による変更に対しては確認・更新をしていません。以下、他リストも同です)。

■瀬織津姫を佐久奈度神とする神社(◆は本社)
○佐久奈殿神社               新潟県新津市大字金津1460
◆佐久奈度神社               滋賀県大津市大石中町56
○佐久奈度神社【馬見岡錦向神社・境内社】  滋賀県蒲生郡日野町村井705
○佐久奈止神社               長崎県西彼杵郡西海町水浦郷字村中679-1

 以上のほか、瀬織津姫を祓神として登録している神社、いわゆる祓戸社といった社名でまつるものも、現在判明しているものという条件がつきますが、以下にリストアップします。

■瀬織津姫を主神とする祓戸社
○禊祓殿神社【天照御祖神社・境内社】    岩手県釜石市唐丹町字片岸50
○波羅比門神社               埼玉県大里郡寄居町西ノ入728
●祓戸神社【三峯神社・境内社】       埼玉県秩父郡大滝村三峯298-1
○祓戸神社【八幡神社・境内社】       東京都国分寺市西元町
○祓戸社【神明宮・境内社】         東京都杉並区阿佐谷北1-25-5
○祓戸神社【八幡神社・境内社】       東京都杉並区上荻4-19-2
○祓戸神社【玉川神社・境内社】       東京都世田谷区等々力3-27-7
○祓戸神社【天祖神社・境内社】       東京都世田谷区中町3-18-1
○祓戸神社【土支田八幡宮・境内社】     東京都練馬区土支田4-28-1
○祓戸神社【稲荷神社・境内社】       東京都府中市若松町
●祓戸神社【三嶋大社・境内社】       静岡県三島市大宮町2-1-5
○祓戸社【青海神社・境内社】        新潟県加茂市大字加茂字宮山229
○祓戸社【鳴海八幡宮・境内社】       愛知県名古屋市緑区鳴海町字前之輪23
●走井祓殿【日吉大社・境内社】       滋賀県大津市坂本5-1-1
○祓戸社【篠村八幡宮・境内社】       京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1
○祓戸社【大原野神社・境内社】       京都府京都市西京区大原野南春日町1152
○祓戸神社【垂水神社・境内社】       大阪府吹田市垂水町1-24-6
○祓戸社【国玉神社・境内社】        大阪府泉南郡岬町深日921
○祓戸神社【墨坂神社・境内社】       奈良県宇陀郡榛原町萩原703
●祓戸社【広瀬神社・境内社】        奈良県北葛城郡河合町川合99
●祓戸神社【大神神社・境内社】       奈良県櫻井市三輪
○祓戸神社【飛鳥坐神社・境内社】      奈良県高市郡明日香村飛鳥708
●祓戸神社【春日大社・境内社】       奈良県奈良市春日野町160
○祓殿社【登弥神社・境内社】        奈良県奈良市石木町648-1
○祓戸神社【鴨都波神社[下鴨神社]・境内社】 奈良県御所市三室
○御祓殿【八幡神社・境内社】        和歌山県伊都郡高野口町名倉1370
○祓戸神社【西岩代八幡神社・境内社】    和歌山県日高郡南部町西岩代523
○祓戸神社【刺田比古神社・境内社】     和歌山県和歌山市片岡町2-9
○祓戸神社【熊野神社・境内社】       兵庫県神戸市北区長尾町上津谷字春日谷96
○祓戸神社【伊尼神社・境内社】       兵庫県氷上郡氷上町字新郷1747
●祓社【出雲大社・境内社】         島根県簸川郡大社町杵築東195
○祓戸社【金刀比羅宮・境内社】       島根県簸川郡斐川町大字直江町1066-1
●祓戸神社【金刀比羅宮・境内社】      香川県仲多度郡琴平町892-1
●祓方神社【宗像大社・境内社】       福岡県宗像郡玄海町大字田島2331
○祓戸神社                 鹿児島県国分市府中町14-17

 明治維新を長州藩とともに主導した雄藩の一つが薩摩藩でした。この薩摩国の鹿児島県国分市府中町の祓戸神社(リスト中、二社の独立社のうちの一社)は、明治の前までは大隈国総社かつ一ノ宮と伝えられる「守公神宮守君神宮」が社名変更されたもので、このことが端的に語っていますが、これらのリストには、明治期に祓戸社にされた、つまり本殿祭祀から境内社へと降格祭祀(瀬織津姫の祓神化)がなされたものが多く含まれていることが考えられます。
 なお、このリストには、大正期まで瀬織津姫をまつっていた富山県中新川郡立山の祓戸社(芦峅寺・雄山神社境内社)と、同じく立山の祓度社は含んでいません。これらは、昭和期に消滅させられたようです(詳しくは、本HP「白山神から立山・姥尊へ」に記載)。ともかく、「祓」を社名にもつ瀬織津姫祭祀社は全国で合計35社ということになります。全35社中、東京都7社、奈良県7社と、両都県で、全体のちょうど四割を占めています。祓戸社の分布が、現代と古代の「首都」に突出してみられることは大きな特徴です。
 リスト中、●印を付したのは、その本社が全国に分社をもっている、いわゆる本家筋・本社筋の社(古社)であることを示しています。境内社に瀬織津姫を祓神としてまつる「本社筋」の社を、以下に抽出・整理してみます。

■瀬織津姫を境内社に祓神としてまつる本社系神社
@ 三峯神社【境内社・祓戸神社】     埼玉県秩父郡大滝村三峯298-1
A 三嶋大社【境内社・祓戸神社】     静岡県三島市大宮町2-1-5
B 日吉大社【境内社・走井祓殿】     滋賀県大津市坂本5-1-1
C 広瀬神社【境内社・祓戸社】      奈良県北葛城郡河合町川合99
D 大神神社【境内社・祓戸神社】     奈良県櫻井市三輪
E 春日大社【境内社・祓戸神社】     奈良県奈良市春日野町160
F 出雲大社【境内社・祓社】       島根県簸川郡大社町杵築東195
G 金刀比羅宮【境内社・祓戸神社】    香川県仲多度郡琴平町892-1
H 宗像大社【境内社・祓方神社】     福岡県宗像郡玄海町大字田島2331

 広瀬神社(C)は、厳密には全国に多くの分社をもつ神社ではありませんが、大和盆地の主要河川を集約する地にある要の水神社で、諏訪と善光寺にふれるときにも欠かせない神社ですので、ここに入れました。なお、瀬織津姫をまつる御手洗社(=井上社=唐崎神社)を境内社(摂社)にもつ下鴨=賀茂御祖神社を、ここに番外として追加してもよいでしょう。同社の元社といってもよい葛城の下鴨神社=鴨都波神社にも、境内社・祓戸神社に瀬織津姫がまつられています。
 広瀬神社、春日大社、宗像大社では、瀬織津姫は元々の主神でしたが、時期は異なるものの、広瀬神社では大忌神→荒祭神→祓神化、ほかは比売神→祓神化という降格祭祀がなされました。このことは他の本社系神社にも該当する可能性がとても高いものといえます。皇大神宮第一別宮とされる荒祭宮の「宮地」に同居するかたちで、現在の神宮祭祀が成立するのは七世紀後半(壬申の乱以降)のことで、このことによる他社への影響ははかりしれないものがありました。この神宮祭祀を規範とする祭祀改竄の全国化を、さらに草の根を洗うようにして徹底化しようとしたのが明治国家で、これは、日本の神々への国家的犯罪といっても過言ではありません。瀬織津姫が大祓神であることを自明の前提とする思想(中臣思想)は、天皇制律令国家の建国思想を裏面から支えるとともに、一連の祭祀改竄を隠匿しつづける構造になっています。
 瀬織津姫を祭神からはずすか、変更するか、もしくは、祭神名として掲げるならば、その神格を「祓神」として自己規定するように各社に迫ったのが明治期の祭祀権力でした。桜ヶ池・池宮天王社が、明治期、池宮天王社→池宮神社と改称するとき、自社祭神を牛頭天王→スサノオではなく「瀬織津比盗_」と表示したことは特筆すべきものとおもいます。明治期初頭の、仏ばかりでなく、神がこうむった改竄の歴史を伝えている神社は、わたしたちが知らない、あるいは未調査なだけで、全国に、まだいくつもあるものとおもいます。
 この明治期の神々への国家的犯罪は、1945年に清算されたわけではなく、戦後現在の神社世界に、自明のごとくに持ち越されてきています。このことは、たとえば石碑に「平成二年、今上陛下の御大典を奉祝して、〔中略〕『祓戸大神』碑を建立する」(愛知県日進市本郷町・白山宮)と刻まれた文言によく表れています。こういった祓戸大神の石碑建立の例は、琵琶湖の大嶋神社・奥津嶋神社(近江八幡市)にもみられます。瀬織津姫の名を消して「祓戸大神」と固定することで、その社ばかりでなく、神宮(皇祖神)祭祀も安定する、これが「今上陛下」の安泰にもつながっているのだという石碑建立の意図が透けてみえます。しかし一方に、祭神名から瀬織津姫の名が消去されたものの、今もって瀬織津姫を自分たちの「神」と信奉しつづける速川神社(富山県高岡市)の氏子衆の例もあります。この速川神社の氏子衆の「心」を、日本の神まつりの総裁的立場にあり、「国民の心のよりどころ」を自認する「今上陛下」はどう感じどう考えるのか、機会があればぜひ「生」の言葉を聴きたい、読みたいものです。

083 桜ヶ池の神と阿闍梨皇円 風琳堂主人 2004/10/16 (土)

 中村福司さんは『桜ヶ池 池宮神社考』において、桜ヶ池とその神について、次のように書いています。

■桜ヶ池は神のいますきれいな池
 敏達天皇時代にない御神名がここで出現(由緒の「敏達天皇ノ御宇十三年甲辰六月、瀬織津比盗_出現、国司此ノ由ヲ奏問ス」を指す)とあるは後世の人の表現であろうが、これは桜ヶ池附近の住民が水の尊さを如実に感じ、身心を祓い清めることにより大祓詞にある「多岐津早川の瀬に坐す瀬織津比盗_」とある水の精霊瀬織津比盗_を御祭神として、桜ヶ池を神のいますきれいな池として神格化したものと思われる。これは愛知県矢作川流域に川の出水に濫を防ぐ守護神として瀬織津姫神を御祭神とする天白神社数社を祀ったことと同意義ではなかろうか。

 中村さんは瀬織津姫という神名が「大祓詞」とともに誕生したとみているらしく、それが「敏達天皇時代にない御神名がここで出現とあるは後世の人の表現であろう」という言葉になっています。大祓祝詞(の初期創作)がなされるのは天智八年(669)のことですが、瀬織津姫祭祀社の鎮座伝承をみてみますと、たとえば、京都府宇治市の橋姫神社は孝徳時代の大化二年(646)に宇治川上流の桜谷から瀬織津姫を勧請したとしていますし、もっとさかのぼりますと、敏達の前の欽明時代(540〜573)の鎮座を伝える宇奈己呂和気神社(福島県郡山市)や長瀬神社(新潟県加茂市)の例もあります。瀬織津姫という神名がいつできたのかが現在も謎なのですが、大祓祝詞の誕生と同時につくられた神名ではない可能性もあるようです。ここで一つだけはっきりいえることは、古事記(712)や日本書紀(720)よりも古い時間帯に成立するのが大祓祝詞ですので、少なくとも、記紀で創作された神々の前に、瀬織津姫という神(名)はあるということでしょうか。
 中村さんは、「水の精霊」瀬織津姫を桜ヶ池の神としてまつることと、「愛知県矢作川流域に川の出水に濫を防ぐ守護神として瀬織津姫神を御祭神とする天白神社数社を祀ったことと同意義ではなかろうか」とも書いています。天白神としての瀬織津姫ということでいいますと、矢作川においては、たしかに洪水鎮護の神というまつられかたが主流ですが、上流部(賀茂氏のエリア)へいきますと、麻栽培の守護神といった性格も加わってきますし、また、天白神には養蚕神の性格もあることが太田亮さんによって指摘されています(天白神と養蚕神=オシラ神についての話は『エミシの国の女神』を参照ください)。
 桜ヶ池の神格化と矢作川の洪水鎮護としての祭祀は「同意義」といえるものなのかどうかについては、わたしは少しちがうような気もしますが、ここで天白神としての瀬織津姫が指摘されていることは、これはこれで、諏訪湖との関係が新たにみえてきて興味深いことです。
 諏訪湖から唯一流出するのが天竜川なのですが、この川の流域には天白神社が多くまつられています。現在は、伊那市大字富県の天白神社一社が瀬織津姫を祭神名として残しているのみですが、天竜川も矢作川と同じく、天白神によって守護される川であることは、たとえば、天竜峡の川中を少し遡ったところの大岩を「天白岩」といったり、岡谷市川岸の天竜川にかかる橋の名が「天白橋」と命名されていることからもよく伝わってきます。また、天竜川の古名をみても、奈良時代は「麁玉川」、平安時代は「広瀬川」、鎌倉時代は「天の中川」、そして室町時代になって現在の呼称である天竜川となります(後藤総一郎『神のかよい路』)。「麁玉[あらたま]川」については、瀬織津姫は天照大神荒魂の異称があること、「広瀬川」については、瀬織津姫は広瀬大忌神であったこと、「天の中川」については、伊那の天白神社の瀬織津姫は七夕神でもあるというように、川名の時代的変遷をみても、瀬織津姫の影が色濃く投影されていることがわかります。後藤さんは同書で、天竜川流域の古層の神として、この天白神とミサグチ神を挙げています。ミサグチ神は諏訪の古層の神、基層の神とされますが、ミサグチ神とはなにかについてはうまく明かされることがなくてきた神です。ただ、ミサグチ神の「姿は、時として蛇体であり、雷神・水神であり、剣として具現される」とあり(鈴鹿千代乃「建御名方神の王国」、諏訪大社監修『お諏訪さま』所収)、この謎の諏訪の基層神が雷神・水神・剣神であるとしますと、瀬織津姫という水神も諏訪の元神(少なくとも下諏訪神)であった可能性がとても高いですので、このミサグチ神と瀬織津姫を無縁の神とみなさないことを考えてみるべきかもしれません。
 ところで、桜ヶ池の「主神」について、明治期の由緒は、池宮神社の筆頭境内社である桜之宮の伝承として、「祭神不詳 阿闍梨皇円ト云伝フ」、また「久寿二年秋七月皇円此池ニ来リ誓シ事アリ叡山ニ帰リ仙化セリ。是ヨリ此霊ヲ池ノ主神トシテ祭レルト云」としていました。阿闍梨皇円(阿闍梨[あじゃり]は「密教の法を修め、加持祈祷の術者として霊験を有する人に与えられる称号」…中村福司)については、諏訪湖というよりも善光寺との関係でふれる必要がありますが、桜之宮(桜ヶ池)の神としての皇円の「霊」に対して、中村さんは次のように記すとともに、皇円以前の桜ヶ池の「主神」についての伝説も紹介しています。

■桜ヶ池の主神「桜の前」
 桜ヶ池には皇円阿闍梨の竜神入定伝説以前においても竜神の棲む聖池として、種々の伝説が伝えられていたが皇円阿闍梨入定以来、以前のものは影をひそめていった。
 笛吹く武士の伝説──往時遠江国笠原の荘、桜ヶ池の主に桜の前という美姫があって、ある武士が一夜横笛の美音でその姫を池中から呼び出し、草枕の仮寝で深い契りを結んだ説話もある。(中村福司『桜ヶ池 池宮神社考』)

 伝説上の桜ヶ池の主神は「桜の前という美姫」とのことで、ここには、桜神としての瀬織津姫が投影しているとみてよさそうです。
 ところが、興味深いことに、桜ヶ池は、この「桜の前」を「国司藤原某」の愛妾という設定で、別伝説を伝えてもいます。

■桜の前物語
 一條天皇御宇(九七〇年前)国司藤原某入国の時、京より桜の前という美姫を供したり。或る時、今の女池(現在の桜ヶ池…引用者)の辺りで従者と共に宴を張りたるに、宴酣の頃俄然池水動揺し、洪波岸にせまりて姫を池中に引き入れ、遂にその所在を失いたり。
 国守大いに怒り、柴薪を積み数万の鉄石を焼爛し池中に投入す。池水沸騰し時に忽然として異体異形の怪物地上に現われ、形牡牛の如く額に白角を戴き見るもの驚愕す。忽ち南方に走り駒を害したり。この地を「駒取」と称す。
 また東方に走り見えつ隠れつ忍びて通いたる池を「忍沢」と謂ふ。それよりまた東に走り、再び元の道に戻りて其の所在をくらませりと。
 今、此の地を牛が通りたる故「牛返」と謂ふ。

 桜ヶ池はかつては男池と女池とあり、男池は干上がって、現在の桜ヶ池は女池らしいのですが、「桜の前物語」においては、「形牡牛の如く額に白角を戴」いた「異体異形の怪物」が池の主神として描写されています。この「異体異形の怪物」は、池宮天王社→池宮神社の祭神としてまつられておかしくなかった牛頭天王=スサノオのイメージを連想させるにじゅうぶんでしょう。もう少しうがった読み方をすれば、スサノオは藤原氏(国司藤原某)から、瀬織津姫(桜の前)を桜ヶ池に強奪した話とも読めます。
 なぜこういったうがった読み方が可能かといいますと、この物語の時代が「一條天皇御宇」とあるからです。一条天皇というのは、同天皇の摂政となる藤原兼家の謀略によって天皇位からわずか二年弱で脱落させられた花山天皇のあとに立った藤原氏の傀儡天皇です。花山は藤原氏の底知れない謀略に気づき、またそのことで天皇位を放逐された(出家させられた)のでしたが、しかし花山は、那智・青岸渡寺で詠んだ歌=御詠歌「補陀落や岸うつ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」でよく知られるように、また、平野神社の異様な桜植樹にみられるように、熊野那智の滝神かつ桜神を知っていた可能性があります。花山は、西国三十三観音巡礼にみられるように、その後の生涯を瀬織津姫の鎮魂に心砕いた天皇であったともいえます。
 わずかな期間ですが、一条天皇の内大臣→関白として仕えたのが藤原道兼で、その四世孫が阿闍梨皇円とされます。道兼は関白就任の一月後に若死にしていて(995年、35歳)、その後は、藤原氏の絶頂期を象徴する道長の時代が一条天皇とともにつづきます。皇円も藤原一族の知謀知略から脱落=出家したことにおいて、皇円と花山は一脈通ずるものがあったとも考えられます。桜ヶ池の領地の所有者には諸伝がありますが、そのうちの一つに「時の領守花山院家」とあるのも(桜ヶ池の「奥の院」とされる浄土宗応声教院文書「遠州桜ヶ池由来演説」)、これも偶然のことではないとみられます。桜ヶ池が花山院の所領地だとしますと、花山は瀬織津姫という神を藤原氏から隔離・保護するようにまつっていたということも考えられてきて興味深いものがあります。皇円が、その死後、京からはずいぶんと遠い遠州の桜ヶ池をなぜわざわざ択んで入定し、その身を大蛇・竜神に変じたかを考えますと、皇円の桜ヶ池の神に対するおもいには、花山のおもいも二重化されていたという気がしてきます。「龍神(八大龍王)は、当社「太神」「海上一切之水君」の「眷属之神」である」と、江戸期まで瀬織津姫をまつっていた御前神社(八戸市)のかつての由緒の言葉も想起されてきます。
 中村さんは桜ヶ池の神と皇円を重ねてみるという発想はしていませんが、皇円の桜ヶ池入定という、いわゆる弥勒信仰については、「己の霊は永遠に遠州桜ヶ池に竜神として留まり衆生済度をなす」と、皇円の衆生済度への「心」を読み取っています。時代は下りますが、円空が長良川河畔をその入定の地と定めたというのは、長良川の川神=白山神とともに弥勒出現の「時」までもう一つの生を「生きる」という意志と祈念の表れと理解できます。弥勒菩薩とは、釈迦の死後、五十六億七千万年後に出現するとされる究極の衆生済度仏で、皇円においても、桜ヶ池に「入定」することは、五十六億七千万年の間、桜ヶ池の神とともに「生きる」ということと同義と理解できます。「五十六億七千万年」は、個々の人間の生涯の時間感覚からすれば、たしかに「永遠」という時間といってよく、入定者の祈りの心、衆生済度への究極の仏心の比喩として弥勒菩薩はあります。桜ヶ池の神とともに弥勒の出現を待つという皇円のこのおもいは、大蛇・竜体となって、遠州桜ヶ池からは、これもはるか北にあるといっていい(諏訪湖の先にある)信州善光寺(の阿闍梨池)へと飛ぶことにもなります。なぜ善光寺か、という問いが当然のごとくに浮かんできます。

088 善光寺阿弥陀如来の歌 風琳堂主人 2004/10/27 (水)

 伊勢の海の清き渚[なぎさ]はさもあらばあれ我は濁れる水に宿らむ──これは、勅撰和歌集『玉葉集』(1312)に収められている歌で、その詞書に「善光寺阿弥陀如来の御歌」とあるとのことです(長野市教育会『善光寺小誌』昭和五年)。
 清濁の対比において、善光寺如来が「伊勢」と反面的に関係する仏であることがよく伝わってくる歌です。善光寺如来=「我」は濁世にあって、衆生を救わんといった歌意かとおもいます。善光寺阿弥陀如来は絶対秘仏とのことで、衆生が拝めるように前立仏(本尊のコピー)がつくられていますが、寛文時代に、この前立仏にちなんだ「新仏御詠歌」もつくられ、そこには、玉葉集の歌を本歌取りした、「五十鈴川きよき流れはさもあらばあれ我は濁れる水に宿らん」が収められています(善光寺史研究会『善光寺史研究』大正十一年)。「伊勢の海の清き渚」を「五十鈴川きよき流れ」といいかえ、善光寺如来が宿る「濁れる水」を伊勢の五十鈴川の清き流れに対比させています。五十鈴川の清き流れに沿ってまつられているのが伊勢神宮で、そこに宿る神=皇祖神は、あくまで「清き渚」「きよき流れ」、つまり清浄なる空間にいる、しかし「我は濁れる水に宿らむ」というわけです。まさに「さもあらばあれ」ですが、この皇祖神の強引な成立と同時に神宮の地で荒祭神=天照大神荒魂と、元の神名を消去されたのが瀬織津姫という水神かつ桜神でしたから、「水に宿」る仏である善光寺阿弥陀如来が、その核に秘めている神も自ずと透視されてくるといえます。
 善光寺の年中行事をみてみますと、「盂蘭盆[うらぼん]六月祓」という盆の行事があって、寺にしては奇妙な行事をしていることがわかります。『善光寺小誌』は、同行事を「六月三十一日[三十日]夜参詣通夜夥し(焼餅道者と云ふ)。妻戸鼓鐘打ち礼堂百万遍念仏数珠廻し行ふ。旧事記三宝記等に六月祓とす。翌日大施餓鬼会行ふ」と記していて、善光寺には明らかに「六月祓」の神、つまり、瀬織津姫がいます。
「桜神としての諏訪神」でもふれましたが、善光寺の三鎮守として、湯福神社、武井神社、妻科神社の三社があります(『善光寺小誌』は「如来鎮守の三社大明神」と記す)。いずれも諏訪神をまつる社ですが、このうち、桜神社を分社にもつ、また、タケミナカタの「荒御魂」をまつる湯福神社は、「往時は諏訪大明神と云ひて下社春宮(八坂刀売神或は秋宮)と称し」とされ(『小誌』)、諏訪下社の神(八坂刀売神)はタケミナカタの「荒御魂」でもあることになります。
 湯福神社の宮司談によりますと、「荒御魂」は湯福神社がまつり、「和御魂」は武井神社がまつるとのことです。武井神社の祭神名もなかなかのひねりがきいていて、現主祭神は健御名方神とするも、その配祀神(相殿神)の名が、なんと「前八坂刀売神」とされます。八坂刀売神の「前」の神とはなにかとおもうのはわたしだけではないでしょう。
『善光寺小誌』は、「如来鎮守の三社大明神」を含む、善光寺七社を挙げています。ほかの四社は加茂神社、木留神社、三輪神社、左喜焼神社とのことです。『小誌』は、最後の左喜焼神社について、「又柳原神社俗に笹焼[ささやき]明神とも云ふ。祭神諏訪神少彦名神なり。中御所村にて駅(長野駅)の西方四町に在り。此社にて正月注連飾を焼く。左喜は道祖の塞神[さへかみ]なり」と説明しています。左喜焼神社=柳原神社は、「俗に」とありますが「笹焼明神」の異名をもっているという記録は貴重です。千曲市(前の更埴市大字八幡)に鎮座する笹焼神社の神は瀬織津姫で、ここも笹焼明神(延宝八年[1680]の記録では「佐々屋岐明神」)の異名をもっています。千曲市の笹焼神社は武水別神社の「分家」ともされます(同社氏子談)。
『善光寺小誌』が著された昭和五年(1930)の時点で、左喜焼神社=柳原神社では笹焼明神=瀬織津姫の名はすでに消去され、「諏訪神少彦名神」と表示されていたわけですが、「少彦名神」という固有神を記すも、一方は「諏訪神」と抽象神的な表示になっている不自然さはやはり目立ちます(このことに気づいたのか、戦後現在の祭神表示は、健御名方命・少彦名命と、ともに固有神名で表示)。いずれにしても、笹焼明神が諏訪神であることにはちがいなく、消えた瀬織津姫が諏訪神でもあることを強く示唆している『善光寺小誌』の記録は価値があります。
 善光寺にとって、諏訪神は「地主神」とみなされていました。このことは、「一遍上人が文永時代の絵巻物を見るも山門の左右に諏訪社と熊野社を祀り最近には仁王門の東西に諏訪社を地主神として、熊野社を守護神として祭りたるは現に土地の故老の皆能く知る所なり」という『善光寺史研究』の言葉からよく伝わってきます。善光寺「如来鎮守の三社大明神」が、すべて諏訪神であることも、諏訪神が地主神であるゆえに「鎮守」として配されたとみてよいでしょう。
 ところで、善光寺は元禄時代に焼失していて、その後、現在地に再建されるわけですが、かつての本堂があったところは本善堂と呼ばれています。この本善堂の「堂守」は大本願二十一院の一つである本覚院とされ(戦後は大勧進の管轄)、この本覚院の前に阿闍梨池があります。『善光寺史研究』は「此堂(本善堂)の後園に阿闍梨井あり皇円阿闍梨の蛇身になり給ひてこゝまでまうでられし時すめりし池の跡なり」と芋井三宝記の記述を紹介していますし、『善光寺小誌』は「阿闍梨池 元善町本覚院前に在り。阿闍梨皇円参詣の縁にて、後遠江桜池に蛇身往生し、毎年正月十八日より二十五日迄此池に来現し、其間水多く生でしと。今其跡甚だ幽かなり」と記しています。阿闍梨池はかつては広大な池で、そこは善光寺本堂の「後園」という位置にありました。つまり、かつての善光寺は、阿闍梨池の前に立地していたわけで、これは、善光寺本尊を拝むということは、背後の阿闍梨池を拝むということでもありました。もっとも、かつての善光寺本堂は「東面」していましたから(瀬織津姫もしばしば「東面」して(日に対面するように)まつられる)、「後園」の池は本堂の西に位置していたことになり、したがって、善光寺本尊を拝むことは、背後の阿闍梨池を拝むばかりでなく、その先の西方浄土をも拝むという構図になっていたようです。ともかく、皇円は、この浄土の匂いのする池へ大蛇・竜体となって現れたのでした。阿弥陀如来が「我は濁れる水に宿らむ」と比喩的に語った「水」を湛えるのが、この阿闍梨池(かつての池名は不明)といってよいかもしれません。
 本覚院発行の「善光寺大阿闍梨池縁由」(中村福司『桜ヶ池 池宮神社考』所収)から、阿闍梨大蛇の出現場面を写してみます。

■善光寺大阿闍梨池縁由
 而して建久九戌丑年正月十八日の夜当出[山]電[雷?]光霹靂降雪飛散し暴風樹木を裂くが如くなりしかば、宿直の僧侶は如何なることにやと恐れ謹しみ居たりしに、清香馥郁たる薫りと共に大蛇顕はれ金堂を廻ること七回、頭首を内陣の礼盤に乗せ如来を拝し須曳にして西門にある沼に入る。是即ち当院阿闍梨池の原由なり。
 其の後各宗の高僧何れも此池に参詣せざるはなし。就中正治元己未年法然上人当山に参拝せられ数日留錫の節三七日の間此池の辺りに檀を築き報恩の為に読経念仏追福の供養を行い、建歴[暦]元年の春親鸞上人当山に秀[参]籠ありて百日滞留の際、毎日此の阿闍梨池に詣で読経供養し、尚諸人を集め説法ありたり。
 而して古来より毎年正月十八日より十七日間を阿闍梨の縁日なりとして当山に法会供養をなす慣例なり。然るに歳月の久しきに沼涸れて陸となり今僅かに尋常普遍の井となりて存し遠州桜ヶ池に通ずといへり。又正月十八日より同じく二十五日まで当山暴風飛雪の大荒しあるを号て肥後の阿闍梨荒しといひ伝へり。蓋し偶然の事に非るべし。

 建久九戌丑年(1198)正月十八日、突如として大蛇は善光寺に出現したようです。しかも、大蛇は「清香馥郁たる薫りと共に」出現したとあり、これは一見大蛇には不釣合いな表現ですが、桜ヶ池の主神が「桜の前」であったことをおもえば、「清香馥郁たる薫り」を桜ヶ池の神の形容とみてはじめて不自然ではない表現かと納得できます。つまり、阿闍梨皇円=大蛇は、桜ヶ池の神である瀬織津姫「と共に」、この善光寺に現れたというように読めます。
 善光寺の創建時期等については、「本寺草創の事多く史伝に見えず、本尊は秘仏にして知るに由なく、正確なる歴史的考査は望んで得べからず」(『善光寺小誌』)というのが実際のところのようです。また、「善光寺に関する記事の最も古く現はれたるは平安時代皇円阿闍梨の著作に係る扶桑略記」とのことです(『善光寺史研究』)。ちなみに、皇円は扶桑略記に、「善光寺縁起云」として、欽明天皇十三年に「百済国阿弥陀三尊浮浪来着」、これはわが国の「仏像之最初」で、推古天皇十年に「仏之託宣」によって「信乃国水内郡」にまつるといった、いささか荒唐無稽な縁起譚を収録しています。皇円が扶桑略記を完成させるのは1094〜1107年ころかとされますので、平安期の末には、ともかく善光寺縁起なるものが存在していたことは事実のようです。もっとも、『善光寺史研究』も『善光寺小誌』も、こういった善光寺縁起を善光寺史としては否定していて、善光寺境内や市内から出土する「古瓦」が天平以後のものであり、したがって、善光寺の草創は「天平の末頃にや」と推定しています。
 古瓦というのはたしかに物的証拠といってよく、戦前までは、善光寺草創は天平時代末期説が有力だったようです。ところが、戦後になって、「善光寺瓦は白鳳時代の瓦」という説が有力視されてきて、善光寺草創も天平時代から遡って白鳳時代とみる可能性が肯定されてきます。
 白鳳時代というのは天武・持統の時代であり、まさにこの時代に瀬織津姫は受難の大波をかぶることになります。日本書紀は、持統天皇五年(691)八月二十三日のことととして、「使者を遣して竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」と記録しています。これは異例の勅祭というべきで、しかも、なぜ唐突に畿内からははるかに遠い「信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」なのか──。天武・持統によってまつられる竜田風神は広瀬大忌神とセットでした。しかし、この持統の異例の勅祭には、竜田風神とは記すも広瀬大忌神は記されず、それと代替するように「信濃の須波・水内等の神」が登場しています。つまり、竜田風神とセットの神として、これらの信濃の神はあるのではないかともみられます。ここに、善光寺阿弥陀如来の歌「伊勢の海の清き渚[なぎさ]はさもあらばあれ我は濁れる水に宿らむ」を重ねてみますと、白鳳時代に、善光寺地方(水内郡)でなにがおこったのかという新たな問いが生まれてきます。また、善光寺を中心にみるなら、水内神とはなにか、という問いも生じてきます。
 宮澤和穂さんは、『天武・持統天皇と信濃の古代史』(国書刊行会)で、この水内神について、次のように考察を述べています。

■水内神の消滅と変容
 持統天皇から勅祭された「水内神」は、後に官社と同列に扱われても不思議ではない。その「水内神」が『延喜式』のみならず、以後の歴史にまったく姿を現さないことは、「水内神」が一時的に衰退したということだけでなく、勅祭直後の早い段階で衰退したまま消滅、もしくは他の信仰に変容しながら吸収され、「水内神」としての本来の姿は失われたままであった可能性が高いといえる。

 宮澤さんは、同書で、水内神は戸隠神であったという仮説を展開していきますが、水内神は「他の信仰に変容しながら吸収」されたのではないかというように、引用の考察はとても鋭いところにふれています。著者はまた、次のように書いてもいました。

■善光寺と水内神の盛衰
 水内神が持統天皇から奉祭されたのは七世紀末の白鳳時代であり、十世紀前半に成立した『延喜式』には記載がみられない。善光寺瓦が白鳳時代のものであるとすれば、両者の盛衰がまったく同一の動きのごとくに共通し、大変興味深い点である。

 宮澤さんは、ここまで書いておいて、善光寺の「前」に水内神の祭祀があった可能性を追究することを放棄しています。岩波版『日本書紀』の語注は、水内神を、延喜式内社の「健御名方富命彦神別神社(明神大)」のこととするも、「もと長野市の善光寺の位置にあった…」と書いています(HP「信州考古学探検隊」によれば、「水内神社は本来善光寺本堂の脇にあった」)。消えた水内神を健御名方富命彦神別神社の神とみなすには無理がありますが、水内神が「善光寺の位置」にまつられていたことは重要なこととおもいます。
 持統が「信濃の須波・水内等の神を祭らし」めた持統五年八月二十三日の直前(八月十三日)には、「十八の氏〔大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穂積・阿曇〕に詔して、其の祖等の墓記を上進[たてまつ]らしむ」とも記されています。これはいうまでもなく、日本書紀の創作・編纂のための神話と系譜資料の収集(あるいは没収)を意味していましょう。また、持統五年という年は、持統にとって、自身が天皇霊を身につける大儀式である大嘗祭が十一月に行われる画期の年でもあります。さらにいえば、前年の持統四年は持統が天皇に即位した年で、これと連動するように、神宮の第一回遷宮が行われました。つまり、持統の天皇即位→神宮祭祀の立ち上げ→書紀の創作、自身の天皇霊憑依といった一連の過程における水内神・須波神等の勅祭なのでした。
 神宮祭祀の立ち上げ後、持統は神宮外の各地の要所の瀬織津姫祭祀の消去あるいは変容に奔走することになりますが、水内神(および須波神)もその対象神であったということなのでしょう。いいかえれば、信濃国には、北に水内神、南に須波神「等」が、持統にとってその存在を黙認・容認できないほどに頑としてまつられていたということなのでしょう。
  水内郡家跡に比定されている県町遺跡の存在から、「善光寺周辺が古代より水内郡の中心地であった可能性は極めて高い」とされます(宮澤和穂・前掲書)。としますと、善光寺は「水内郡の中心地」に位置していることになります。その善光寺にとって、地主神=鎮守神は諏訪神という認識でした。水内神は水内郡の神という意で、須波神=諏訪神と異神であるとみなす根拠はまったくありません。水内はミノチと訓じますが、実は、天竜川の水源の一滴がつくる井(池)を「ミノチノ池」と呼んでいたのが諏訪神社上社本宮(境内の現・天流水舎)です(『信府統記』)。ミノチは、漢字で書けば、もともと「水主」か「水霊」に該当することばかとおもいます。
 善光寺阿弥陀如来の歌は、背後に神宮祭祀の成立という根本問題があること、またそれゆえにというべきでしょうが、善光寺が神仏混淆の最初期の寺としてあることを告げているようです。阿闍梨皇円もまた、善光寺が神仏混淆の最重要な寺であることをよくわかっていたのでしょう、それが、桜ヶ池の神とともに、善光寺にわざわざやってきた(大蛇となって現れ、如来を七廻りして拝んだあと、後背の神池に身を沈めた)理由かとおもいます。皇円にとって、たとえば善光寺池あるいは水内池と呼ばれていたかもしれないこの池は、第二の桜ヶ池であったのかもしれません。

092 水内神から下諏訪神へ 風琳堂主人 2004/11/03 (水)

諏訪祭祀を考えるときの最古の文献として、諏訪(小坂)円忠による『諏訪大明神画詞[えことば]』があります。同書は延文元年(1356)の成書(縁起三巻、祭巻七巻の計十巻本。のちに縁起二巻が追加される)とされ、室町時代初期にあたります。ちなみに「諏訪縁起の事」を含む『神道集』が成るのは文和・延文年間(1352〜1360)で、両書はほぼ同時期に成っていますが、私見では、「諏訪縁起の事」は『諏訪大明神画詞』がふれなかったこと(たとえば下諏訪神=春日姫が大祓神とみなされる神でもあること)を意図して書き表したというようにも読め、『諏訪大明神画詞』よりも少しあとの成書かとみています。ともかく、「諏訪縁起の事」が諏訪祭祀の外部者の手になるものに対して、『諏訪大明神画詞』は、諏訪大祝家の傍流とはいえ、「上社神宮寺の執行職」を務めていた諏訪円忠によって書かれたことで、これは諏訪祭祀を内部から(上社内部から)語ったものという特徴があります。
諏訪円忠は、『諏訪大明神画詞』の始まりを、次のように記しています。

■神降の由来その義遠し
夫れ日本信州に一の霊詞[祠]あり。諏方大明神是なり。神降の由来その義遠し。竊に国史の所説を見るに旧事本記に云う。〔中略…古事記記載の出雲の国譲り譚と、武甕槌神と建御名方神の力比べによる敗退の話が入る〕科野ノ国州羽ノ海に至る時、建御名方ノ神申さく、我此の国を除いて他処に行かじ云々。これ則ち垂迹の本縁なり。(今井廣亀訓訳『諏訪大明神画詞』下諏訪町博物館発行。今井氏訓訳に、引用者が句読点を付した。以下同)。

諏訪円忠にとって「国史」が「旧事本記」とみなされていることがわかります。これだけを読みますと、古事記を「旧事本記」と記していたのかともみえますが、円忠は別の箇所で「用明天皇御宇、聖徳太子蘇我馬子大臣に仰せて、今の先代旧事本記十巻を撰せらる。第三ノ巻には、専ら当社明神の本縁分明なり」とも記していて、ここで「国史」とされる「旧事本記」は「先代旧事本記」のことです。
ときの室町将軍・足利尊氏に重用された諏訪円忠でしたが、彼が、建御名方神の諏訪湖への蟄居の話の出典を「先代旧事本記」とし、古事記を明記していないことを想像しますと、古事記の存在を円忠は知らなかったことが考えられます。いいかえれば、諏訪円忠の当時、古事記は一般に読めるようには流布されていなかったということかとおもいます。
円忠は、「神降の由来その義遠し」、また、「神代の事は幽?にして図絵も及ばず」とするも、「当社明神の化現は人皇十五代神功皇后元年〔辛巳〕の事なり」として、神功皇后の「三韓征伐」への協力神としての諏方神の出現譚を、次のように記しています。

■神功皇后と諏方神
天照大神の詔勅によって諏方・住吉二神守護の為に参ずと答え給う。皇后大いに喜び、すなわち錦座を両神に与え、雪膳を花船にそなへ、雲帆[うんぱん]に幣帛をささげ、帰敬二心なし。その中にまた妖艶の媚たるあり、高知尾豊姫と号す。螻羽[けらは]一箭の上に座しながら鳳綸を書きて竜宮ヘ遣わす。海主大きに驚きて、勅命に応じて満干の両珠をささぐ。御願成就の瑞相厳重の由、君臣ともに欣悦す。

 日本書紀は、神功皇后への協力神は住吉神(「表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神」)としていましたので、ここに諏方神および高知尾豊姫が追加されているのは、『諏訪大明神画詞』独自の縁起といえます。円忠はほかの箇所でも、諏方神の「本朝擁護の神徳、異賊降伏の霊威」を再三にわたって主張していて、その根源譚が、この引用部分です。
 なお、「諏方・住吉二神」の登場のあと、「その中に」なかば唐突に登場してくる高知尾豊姫ですが、ここでは、神功の新羅攻略譚の要となる宝珠(満干の両珠)を「海主」に提供させる役として描かれています。宮坂喜十『諏訪大神の信仰』(下諏訪町博物館)の伝承紹介によれば、「八坂刀売命は高知尾豊姫とも申し、伊勢国多気郡麻績[をみ]の豪族天八坂彦命の御子孫」とされます。こういった系譜伝承は、神を「人」に近づけてみよう、あるいは、接続させてみようとするものですが、八坂刀売命=高知尾豊姫が伊勢(の麻績)にそのルーツをもっていることは暗示的とはいえます(八坂刀売=下諏訪神は養蚕・機織神ともされます…宮坂喜十・前掲書)。
 ところで、白鳳時代、水内[みのち]神が善光寺仏へと吸収・変容されていったことを考えますと、持統によって水内神とともに異例の勅祭の対象となった「須波神」も、おそらくなんらかの変容をこうむったことが考えられます。諏訪円忠は、持統と諏訪社祭礼について、次のように記しています。

■当社祭礼の始め
持統天皇五年八月一日、勅使を発遣して、信州須波・水内神等を祭る由、日本記第三十巻に載せたり。是れ則ち当社祭礼の始めなるをや。今に至るまで当日をば月朔神事の最要とす。

持統の「信州須波・水内神等」の勅祭の日付ですが、わたしの手元の日本書紀は持統五年八月二十三日となっていて、円忠がみている「日本記」は「持統天皇五年八月一日」で、異本があったのかもしれません。
ともかく、諏訪円忠が「持統天皇五年八月一日」を「是れ則ち当社祭礼の始めなるをや」と推測し、また、「今に至るまで当日をば月朔神事の最要とす」と記していることを重視しますと、諏訪社にとって「八月一日」は、もっとも重要(最要)な神事の日ということになります。
宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』(郷土出版社)収録の「諏訪大社祭事表」によりますと、「八月一日」を大祭式(最重要な神事)としているのは、諏訪上社ではなく下社であることがわかります。「八月一日」は上社に祭礼はなく、下社のみが「例大祭」と記しています。
持統と須波神=諏訪神祭祀との関係を伝えているのが諏訪二社のうち諏訪下社に絞られるとしますと、やはり下諏訪神とはなにかという問いが生じてきます。善光寺阿弥陀如来および水内神の背後の神として、瀬織津姫という水神が想定されることを考えますと、諏訪下社にも瀬織津姫祭祀の痕跡が認められなければなりません。この想定は、諏訪下社(春宮)の横を流れる砥川(江戸時代は戸川)の中州にまつられる浮島社にみてとることができます。
 浮島社では、六月三十日に大祓、夏越の神事がおこなわれています。昭和四十六年(1971)六月吉日の日付をもつ、諏訪大社宮司・三輪磐根の碑文(「神橋架橋碑」の一文)を紹介します。

■浮島は由緒極めて深き神域
浮島社は祭神祓戸大神を祭り砥川の清流に囲まるる是の浮島に鎮座する諏訪大社の境外末社なり。古来諏訪大社夏越神事を執行する由緒極めて深き神域なり。山川の景観を誇るこの浮島は往古より砥川の増水にも流失の災なく、ために諏訪下社七不思議の一としてあげられ、賽者絶ゆることなき境域なり。而して是の神域に通ずる神橋は改修以来…〔後略〕(碑文に適宜句読点を付した)

浮島は「古来諏訪大社夏越神事を執行する由緒極めて深き神域なり」とされます。また、「浮島は往古より砥川の増水にも流失の災なく」とされ、それが「諏訪下社七不思議の一」と数えられているようです。浮島社の神は「祓戸大神」とのことで、瀬織津姫の名は伏せていますが、これを祓戸大神四神とみる必要はないでしょう。
 戦前の話ですが、宮坂喜十は『下諏訪の史話』(私家版)で、「橋をわたってそこ(浮島)へ行くと、千古の老杉がうっそうとして昼なお暗く、流れは急流の早瀬で、誰しも物さびしく、ぞっとする」と書いています。また、「上古は、この辺まで一面の湖水であって、一つの小さな島の遺跡であるとも言われ、今なおその勝れた景色をたたえて、真夏には文人墨客の散策するのを見受ける」とも書いています。浮島の神は島神でもあったようです。
ちなみに、砥川はかつては戸川と書き、これは、祓戸大神のいます川、祓戸大神によって守護される川ということで、おそらく(祓)戸川→砥川となったものかとおもいます。諏訪上社のほうは、天竜川の水源を自社境内の「天ノ霊水」(『信府統記』)と主張していますが、下社のほうは、この砥川の源流部の一つであり、御射山[みさやま]神事(諏訪神の山送り神事とみられる)がおこなわれる、霧ヶ峰高原西北にある八島湿原(鎌池、七嶋八嶋)から流れだす川の観音沢あたりを「天龍河源」とみていたようです(「旧御射山図」に「天龍河源此川入湖水」と記される。矢崎孟伯『諏訪大社』銀河書房、所収)。諏訪上下社の神宮寺は、空海が「勅願」によって創建したとされます。諏訪下社神宮寺の「奥之院」は旧御射山にあり、同院の主尊は十一面観音でしたから(宮坂喜十『下諏訪の史話』)、このことが「観音沢」の川名に表れてもいます。
持統が関与した諏訪下社には、彼女がもっとも消去したかった神宮の元神である瀬織津姫が、祓戸大神の名にされるも、現在にまで存在しているのは注目すべきことです。
 大祓が宮中儀式として本格的に採用されたのは「天武二年六月晦日」のこととされます(「年中行事秘抄」…宮坂光昭・前掲書)。瀬織津姫を、神宮の元神ではなく、あくまで大祓神=祓戸大神とみなす意向は、天武四年(675)四月十日にはじまる広瀬大忌神と竜田風神のセット祭祀、しかも異様ともいえる、その後の天武・持統による連続祭祀(四月と七月の定例的な勅祭)に表れることになります(「異様」は、「広瀬水神」ではなく「広瀬大忌神」と表記されつづけることにもいえます。広瀬大忌神の詳細については『エミシの国の女神』を参照ください)。ちなみに、この連続祭祀ですが、途中、朱鳥元年(686)九月九日の天武の死による天皇空位の四年ほどは中断されるも、持統四年(690)一月一日に持統が天皇に正式に即位すると再開され(同年四月三日)、彼女が文武に天皇位を譲位する持統十一年(697)八月一日の直前の七月十二日までの七年間は、乱れることなく、定例的に記録されつづけます。持統あとの文武時代にはまったく記録されませんので、広瀬大忌神と竜田風神のセット祭祀は、天武・持統二天皇による、延べ二十二年間にわたる固有・独自の勅祭とみられます。
「使者を遣して竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」──水内神が善光寺阿弥陀如来へと「変容」(神仏混淆化)したとき、須波神=下諏訪神は、その主神の座からおろされ、こちらは「祓戸大神」へと「変容」された可能性が高いといえます。この可能性を是としますと、諏訪下社は、瀬織津姫の祓神化という降格祭祀が最古になされた社だということになります。もっとも、善光寺の年中行事に「盂蘭盆六月祓」があることをおもえば、これは、水内神の祓神化の名残りとみられますので、「信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」は「信濃の須波・水内等の神を祓神として祭らしむ」というのが真意だったのかもしれません。

097 南方刀美神という諏訪神 風琳堂主人 2004/11/17 (水)

 善光寺阿弥陀如来の「奥之院」は水内神社の「奥社」でもあり、そこには駒形神=諏訪神がまつられているとのことです。

■善光寺仏によって水内神は湮滅せり
 長野市の上松には駒形嶽駒弓神社という社があり、村人の口碑によればこの社は、「昔、水内神社の祝詞殿より裏、正北方の森々たる樹木立の中にあって奥社であったが後世仏教盛んなるに及んで善光寺仏によって水内神は湮滅せり」といい、しかし「現在でも善光寺へ参詣の砌、如来の奥之院なりしとて当社へ参詣する者絶えず、如来堂裏、年越宮に飾る所の注連を本社境内に持ち来り、旧暦二月一日を以て焼き捨てるの例あり」と。この神社は、字駒形嶽にあり、祭神に建御名方富命、彦神別神、相殿に保食命を祀るとしている。尚注連を交番に焼く十五防[坊]は往昔水内神社の神官であったともいう。いわば駒形神社は仏教以前からの社であったというのであろう。(小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』1980年発行、岡谷書店、現在絶版)

 駒形嶽駒弓神社ゆかりの「村人の口碑」、しかも、とても貴重な「口碑」の紹介がなされています。桜ヶ池について中村福司さんが『桜ヶ池 池宮神社考』を著したように、諏訪(信濃)においては、小口伊乙さんが『土俗より見た信濃小社考』を著しています。その土地の外にいてはなかなか出会えない口碑・伝承や考察が、宝箱のように詰まった一書です。
 水内神社の「奥社」かつ善光寺如来の「奥之院」とされる駒形嶽駒弓神社の神が「建御名方富命」=諏訪神であること、また、諏訪神は駒形神でもあるという指摘はよくうなずけるものです(『善光寺小誌』は、駒形嶽駒弓神=駒形神は八幡神であるとの伝承も記しています)。
 小口さんも同書でふれていますが、駒形神社の「本家」は、かつての陸中国一ノ宮とされる駒形神社(岩手県水沢市)です。岩手の駒形神社は戦前まで「国幣小社」という社格にもかかわらず「祭神不詳」とされていました。この陸奥国の「不詳」の神が、善光寺阿弥陀如来の「奥之院」の神でもあるという不思議については、少なくとも千時千一夜においては不思議の話ではありません。善光寺阿弥陀如来の「秘神」が駒形神でもあるとしますと、ここからも瀬織津姫祭祀の残照を読み取ることができます(駒形神考については、囲炉裏夜話423/424「駒形神社の秘神」を参照ください)。
 信濃国においては、駒形神は「建御名方富命」という諏訪神とされます。この「建御名方富命」については、小口伊乙さんによって、次のような鋭い問題(再考)提起がなされています。

■南方刀美神と建御名方命
 諏訪大社の祭神は『延喜式神名帳』に記載されている限りでは南方刀美神であり、南方刀美神社である。建御名方命を祭神とするというのは今の風である。いつから祭神が変わったかは誰も問うところではないらしい。(『土俗より見た信濃小社考』)

 南方刀美神が建御名方命と同神であることを漠然と認めている「今の風」に一石を投ずる、再考を促す一文です。建御名方命(神)を諏訪神とみなすというのは古事記記載によるものですが、善光寺阿弥陀如来の「奥之院」の神は「建御名方富命」と、「富」の一字が挿入されていて、建御名方命(神)と建御名方富命は異神である可能性があります。
 小口さんの考察を読んでみます。

■建御名方富命彦神別という混淆神
『古事記』に記されている建御雷之男神に追われて須羽の海に逃れたとする建御名方神と諏訪の南方刀美神とは同一神であるとはいえない。建[たけ]は男性神をあらわし、刀美は女性神をあらわす古いことばであるからであるが、長野市城山に祀られる建御名方富命彦別は、南方刀美神と建御名方神との混淆の上になる神で、建も男性をあらわし、彦も貴族名門の男子の称名であり、別は君長を意味し、一種の姓に用いられもしたから御名方富命の神名を修飾したものであるとしないわけにはいかないのである。何故そうなのか、おそらく建御名方神の信仰が強大になった時点での古語の意味を踏みにじった神官あたりの創作神であったのであろう。

「長野市城山に祀られる建御名方富命彦別」は建御名方富命彦神別神社のことですが、これは中世に衰滅していたものを、明治期に善光寺の東に創建(再建)したものです。この長たらしい神(社)名は延喜時代にまで遡りますので(延喜式神名帳に「建御名方富命彦神別神社(名神大)」と記される)、平安期には、あるいは平安期の前に、すでに「古語の意味を踏みにじった神官」がいたということになります。

 小口さんは、重ねるように、さらに「注意」を促しています。

■南方刀美神は女性神
『延喜式』は信濃の国では、諏方の郡をあげているが諏方神社ではなく、南方刀美神社となっている。『和名抄』は諏方郡と、小県郡の諏方の郷をあげている。
 ここで、注意しておきたいことは、『延喜式神名帳』の宮中、京中の神々は別として畿内以下各地の神社は九十九パーセントとはいえないが殆んどの神社が、社名、祭神名、地名が同じだということ、つまり社名も神名もその土地名であらわしているということである。信濃でいえば、延喜式内神社四十八座のうち社名と神名[地名の誤記]の異るものは三社、うち二社は諏訪社関係で他の一社は埴科の玉夜[依]比売神と申す女性神であったと思う。も一つ注意してほしいのは『延喜式』に登載の南方刀美神社の祭神南方刀美神は女性神であることである。

 信濃国における、神名を社名とする神社「三社」は、南方刀美神社、建御名方富命彦神別神社、玉依比売命神社とされます。ただし、厳密には、氷鉋斗売神社(更級郡)や生嶋足嶋神社(小県郡)などもありますので「三社」とはいえませんけど、地名ではなく神名を社名とする神社が少ないことはたしかに事実のようです。それはともかく、第二の注意点である「南方刀美神社の祭神南方刀美神は女性神であること」は傾聴に値します。小口さんの論考の展開を読んでみます。

■南方刀美神は宗像神
 諏訪の南方刀美の神は女神であることをいったがこの解明をしておかねばならない。南方刀美の刀美は何を意味するかである。もち論、神名にある何々富でもある。『古事記』や『日本書紀』には刀美のあて字は見当らない。鳥美[とみ]、登美[とみ]、跡見[とみ]は地名としては見えている。とみは美称だと説く人もある。刀売[とめ]は凡て女性神の名であった。刀自[とじ]は現在でも女性に呼びかけることばである。刀禰[とね]は男性に対して使われた女性のことでもあった。刀美[み]は刀売[め]の転音である。南方刀女[みなかたとめ]神は南方刀美[みなかたとみ]とも称された。女[め]が美[み]に転音したものとする。がこのことより宗像[むなかた]の転音南方[みなかた]であり宗像の神が女神であることから、南方刀美神が女性神であるといった方が誤解が少ないことになるかも知れない。

 小口伊乙さんは、「南方刀美」の転音の考察から、須波神=諏訪神=南方刀美神は宗像(女)神であるという結論に達したようです。小口さんは、「建御名方命の建御名方は、宗像、南方のあて字違いに建を附した神名であることは間違いなく、この神は信濃へは移入された神の名であることも間違いないのである。また宗像、南方神は女神であることも明らかである」とくりかえしてもいます。小口さんの、南方刀美神と宗像神の同神説にはわたしも同意します。
 八幡比売大神は宗像神でもありますが、この比売大神を瀬織津姫と記していた福島県古殿町の「他見堅無用」の鎌田家文書も想起されるところです(「駒形神社の秘神」)。では、小口さんは瀬織津姫をどうみていたかはやはり気になるところなのですが、瀬織津姫という神が宗像神でもあることは、小口さんの想像外の事項だったようです。このことは、たとえば、天白神の考察において、「天白社の、祭神の稲倉魂[うかのみたま]命=稲倉魂は米の霊の意味を神格化した神であるし、天棚機比売は七夕の神であり、瀬織津姫は瀬下[お]り津姫で、速川の瀬に坐すという神で穢[けが]れを流し災厄を除く神であろう」と、瀬織津姫は大祓神であるという既成観が語られていることからもいえます。瀬織津姫という神に特別に探査の照明をあてるというのは、ここ数年のことで、既成の学者諸氏はいうにおよばずという状況ですから、こういった状況を考えますと、小口さんが南方刀美神は宗像神であると指摘していたことは特筆すべき鋭い考察だったといえます。

099 高遠・藤沢郷の反骨祭祀 風琳堂主人 2004/11/29 (月)

 小口伊乙さんは、自身の体験談として、「天白様詣り」は、「養蚕の吉凶をみてもらうのが目あてであった」と記しています(『土俗より見た信濃小社考』)。天白神は多様な性格をもつ神ですが、ここでは養蚕神だったようです。小口さんはまた、次のように書いてもいます。

■天白神は五穀豊穣を司る神
 上伊[那]美篶の天伯社については、祭日は九月七日(『伊那市神社誌』は、祭日を七月六、七日と記す)、その例祭には村の人々は願望成就のため、大人は破れ笠をかぶり、破れた着物を着て太鼓を打ってうたう。「さいよりこより、菜[さい]がなくては糠味噌」と、子ども達は七夕のなよ竹をもってこれを打つこと三度、しばらくして社司が指揮して、神輿は三峯[みぶ]川を越えて富県の片倉に鎮座する天伯社へ渡御する。七夕には、三粒でも雨が降ると信じられていたからこれは破れ笠、破れみのならぬ、つずれ着物での天野川渡御即ち、彦星と棚機姫星の年一度の出合いをあらわしたものか、とに角星祭りの行事であろう。この日人々は棚機姫を祭るため、絹、木綿の別なく竹に巻いて、神前に供えたと伝えている。
 美篶の天伯社の祭事が棚機姫を祀ったとしていることは、星祭りを意味し、天候の順調と五穀の豊饒を祈ったものであろう。

 天白神の祭祀が、「絹、木綿の別なく竹に巻いて、神前に供えた」とあり、ここには養蚕神→織姫的性格がみられ、それが「棚機姫」という祭神名によく表れてもいます。しかし、伊那・美篶[みすず]の天伯社においては、養蚕神というよりも、「五穀豊穣」を祈願する神とする小口さんの見解が妥当かとおもいます。
 ところで、この美篶の天伯社の神輿は、三峯[みぶ]川を渡って対岸の「富県の片倉に鎮座する天伯社」へ渡御するとのことで、この富県[とみがた]の片倉天伯社の神が瀬織津姫です。
 上伊那地方は「外県」「外諏訪」とも呼ばれ、諏訪上社にとって最重要な祭祀(廻神=湛[たたえ]神事)の三県[あがた]の一つにあたります(ほかの二つは、茅野方面の「内県」、下諏訪方面の「大県」)。諏訪祭祀の圏内において、瀬織津姫を天白神として唯一まつるのが片倉天伯社です。同社の1968年時点の所在地表示は、伊那市富県桜井字靭木[うつぼぎ]三八八五番地で(『伊那市神社誌』昭和四十三年)、所在地名にある「桜井」から、桜神、水神としての瀬織津姫像も匂ってきます。このことは、同『神社誌』が、片倉天伯社の社叢について、「杉桧等の大木が二〇〜三〇本あり。その中に周囲九尺もある桜の巨木が一本ある」と紹介していることによく表れています。字名の靭木[うつぼぎ]は「神霊の宿る木」の意で、桜の巨木(靭木)に宿る神霊が天白神=瀬織津姫でもあるとみてよさそうです。瀬織津姫はここでも桜神です。
 片倉天伯社は鎌倉時代(文暦元年[1234]七月十八日)の創建とされますが、『伊那市神社誌』は、「もと藤沢片倉から流れ来て、三峯川畔の平岩(花崗岩の大きな岩塊)の上に鎮まった。それで片倉天伯という」と、同社縁起あるいは口碑を紹介しています。では、元の鎮座地である「藤沢片倉」とはどこかといいますと、ここは、三峯川の支流・藤沢川の上流部にあたり(三峯川は天竜川の支流)、諏訪上社が神体山と仰ぐ守屋山(1650m)の地(南麓)の高遠町藤沢字片倉で、正確には、藤沢片倉の「薬師堂」の地にまつられていたとのことです(高遠町・守屋源一さん談)。守屋さんによると、天白神=瀬織津姫は藤沢片倉の地から「流れ」去ったのではなく、現在も薬師堂の裏にまつっているとのことです。村史等の公的な記録には一切みられませんので、同地の瀬織津姫祭祀の継続には瞠目すべきものがあります。
 藤沢地区はかつての藤沢村で、諏訪祭祀のことばでいえば「藤沢七郷」と呼ばれる地にあたります。『上伊那郡町村誌』は、「本村の古時不詳。東鑑に曰、文治年間藤沢郷と云、其昔時より、諏訪上下の社領たり。其後年暦不詳、片倉、御堂垣外、水上、荒町、北原、臺外数村の称あり。元禄年間に松倉の一村を起す」と記しています。「昔時より、諏訪上下の社領」とされる藤沢郷片倉(薬師堂)の地に、天白神=瀬織津姫がまつられていた(いる)ことは、諏訪祭祀を考える上で、重要な道標といえます。
 諏訪の先住の祭祀氏族に洩矢氏がいますが、同氏直系の末裔である守矢早苗氏は、自家にも薬師堂(大同年間の創祀)があるとして、つづけて、次のように記しています。

■洩矢神の本地は薬師如来
 薬師堂建立の意味は「古記に当家遠祖洩矢神の本地は薬師如来なりと言い、故に古来諏訪上社瑞籬内へも安置し、且つ屋敷内へも祀りしものなり」ということです。(『神長官守矢史料館のしおり』)

 諏訪上社(建御名方神)の「本地」は普賢菩薩とされますが、諏訪の地神(の一神)である洩矢神(男神)の本地は薬師如来とのことです。諏訪下社(八坂刀売神)の本地は千手観音であり、同社神宮寺の旧御射山の「奥之院」は十一面観音でしたから、神仏混淆による十一面観音と薬師如来の祭祀は、遠野郷のかつての早池峰山祭祀と一緒ということになります。早池峰山祭祀から薬師如来が消えたように、諏訪においては、洩矢神=薬師如来は公然と語られることがなくてきたのかもしれません。「諏訪上下の社領」とされる藤沢郷の薬師堂と、「諏訪上社瑞籬内へも安置」された薬師堂が無縁であるとはいえないでしょう。
 ところで、藤沢片倉の地には、物部守屋大連をまつる守屋神社も鎮座しています。物部守屋大連は、守屋山山頂にもまつられ、守屋山も藤沢郷も物部氏ゆかりの地といえます。

■守屋神社「由緒」
〔前略…日本書紀崇峻天皇二年条の物部守屋の敗亡記の引用がはいる〕
 如是日本書紀ニアレバ当昔大連子息等遙ニ遁来テ信濃国伊那郡藤沢ニ蟄居シテ世間ノ人不交許多ノ星霜ヲ経テ連々子孫蕃息シテ大連ノ霊ヲ拝シ祭リテ氏神トシ、家モ数戸ニ分レテモ当昔ヲ思恋シテ家名ニ守屋ヲ唱ヒ来リシナラン氏神守屋神社辺ヲ字古屋敷記タルハ往昔大連子息ヨリ数代当所ニ住セシ屋敷跡ナリトゾ亦其傍ニ字五輪原トテ古墳アリ抑最初守屋氏来住シヨリ千二百八十余年ノ今世ニ至テハ末孫七十三戸ニ相成只可惜事ハ寛永年間ニ村方焼失ノ砌古書重器等皆灰燼致セシト申伝ヘリ、社宮司小社同所ニアリ〔東西五間南北四間〕面積二十坪祭神国造大己貴神祭日二月十六日御輿並母衣花傘美々敷祭ナリ(『藤沢村史』昭和十七年)

 宝治元年(1247)の『大祝信重解状』には、「古くこの地(諏訪の地)は守屋大臣の所領なり」と記されているそうで(『藤森栄一全集』第14巻)、諏訪祭祀の基層部には物部氏の存在をみる必要がありそうです。しかし、諏訪の先住祭祀族の洩矢=守矢氏は、その系図の祖神を洩矢神とするも、物部守屋も、ましてやニギハヤヒ(天照国照彦天火明奇玉饒速日命)の名も記していませんので、諏訪祭祀の中枢にいけばいくほど、物部氏の末裔であることは秘されてきているようです。「外諏訪」の入口にあたる高遠・藤沢郷においては、そういった諏訪祭祀の中枢の発想に暗に「否」を主張しているのが、この守屋神社の由緒とも読めます。
 藤沢郷は諏訪上下社の社領地でしたから、「藤沢総鎮守」は諏訪神社としてもよさそうなものですが、なぜか、貴船神社が「藤沢総鎮守」とされています。『藤沢村史』は、貴船神社について「本村ノ南荒町ニアリ〔東西五十一間南北四十六間〕面積二百三十四坪祭神高霊龍神勧請年月不詳祭日八月一日ナリシカ明治九年改テ九月十八日トス/御輿並騎馬行列母衣花傘祭礼ナリ」と記しています。「八月一日」が諏訪祭祀にとって特別な日であることはくりかえしませんが、より興味深いことは、守屋神社と「同所ニアリ」とされる「社宮司小社」の祭礼もまた「御輿並母衣花傘美々敷祭ナリ」と記されていたことです。貴船神社の祭礼から「騎馬行列」を除くと、社宮司社と貴船神社は同じ祭礼を行っていることになります。
 社宮司神は、一般にミサクチ→ミシャグチ→シャグ(ウ)ジと変遷するようです。この諏訪の基層神の漢字表記法ですが、『年内神事次第旧記』は「御左口神」(これがミサクチと読まれた)、『諏訪大明神画詞』は「御作神」で、これら室町期の表記をみますと、いわゆるミサク神という農作神です。この諏訪の先住神の祭礼と同じ祭礼を貴船神社が行っていることは、一見意外かもしれませんが、貴船神とミサク神は同神である可能性を示していることになります。
 ちなみに、「藤沢」の地名由来ですが、これは、貴船神社が「此地南岸臨水有大樹繁茂覆神殿大藤」、つまり、同社が「水」(沢)に面してあり、また同社の神木が「大藤」であることからきています(「藤沢魂秘録」、『藤沢村史』収録)。
 高遠・藤沢郷の反骨祭祀の例をもうひとつ挙げておきます。高遠町に、戦前まで「県社」の社格をもっていた鉾持[ほこじ]神社があります。これも「藤沢魂秘録」が記すところですが、同社の勧請伝承は「信濃国伊那郡鉾持三社大権現者昔鎌倉建長寺開祖大学禅師勧請筥根走湯三島之三神合為一所以祀之者也筥根祭地神四代彦火火出見尊走湯祭地神三代瓊杵速日尊三島祭人皇七代孝霊天皇」と書かれています。筥根=箱根神、走湯神、三島神をまとめてまつるのが鉾持神社なのですが、三神のうち走湯神を「地神三代瓊杵速日尊」、三島神を「人皇七代孝霊天皇」と記しているのが大きな特徴です。特に走湯神=伊豆神についてですが、伊豆国風土記逸文は「駿河の国の伊豆の埼を割いて伊豆の国と名づけた。日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂[あらみたま]を祭る」と記していました。この風土記逸文の記述を根拠として、伊豆神社の祭神を瓊瓊杵尊とするところが多いのですが、高遠においては、この伊豆の男神を「瓊杵速日尊」、つまりニギハヤヒと、物部氏の祖神である太陽神を伊豆・走湯神(の男神)と記していたわけで、これはまさに「魂秘録」の標題をそのまま表したような内容といってよいでしょう。鉾持神社の戦後現在の祭神は、「天津彦瓊瓊杵尊、天津彦火々出見尊、大山祇命」とされ(『高遠町誌』)、彦火火出見尊はそのままですが、孝霊天皇(三島神)は大山祇命に、瓊杵速日尊(走湯神)は瓊瓊杵尊に変更されています。伊豆山神の謎の男神はニギハヤヒの可能性があることについては、千時千一夜052「走湯権現(伊豆権現)のメッセージ」でふれてきましたが、おもわぬところから、これを傍証する記録が出てきました。天竜川河口には、飛鳥時代はニギハヤヒをまつり、また明治初頭までは瀬織津姫をまつっていた津毛利神社があることも想起されるところです。
 天白神はそのルーツを伊勢にもっていましたが、信濃国の天白神、ミサク神研究者である今井野菊氏の報告によりますと、ミサク神(ミサクチ神)も諏訪の固有神ではないことがわかります(同神をまつるのは、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、岐阜県116社とされますが、三重県には140社が確認されるとのことです…清川理一郎『諏訪神社 謎の古代史』彩流社)。三重県=伊勢の地にミサク神の祭祀があることは、天白神と同根の神であることを示唆しています。諏訪のミサク(チ)神に、神宮の元神である伊雑[いさわ/いぞう]神の名が散見されることが、それを端的に表しています(小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』)。

101 諏訪祭祀と天白神 風琳堂主人 2004/12/09 (木) [17495]

 守屋山は「水霊のしずまります神の山」、「山頂からは諏訪の平が一望できるばかりでなく、北は辰野方面から、南は美和谷の彼方まで見渡すことができ、守屋山は、内県・小県を含めた全域の中心に位置している」──こう記しているのは、廻神(湛[たたえ])神事の「内県」にあたる現在の茅野市の市史です。
 また、『茅野市史』は、守屋山の水霊信仰と諏訪上社(本宮)の関係を、次のように記しています。

■天竜川の水源「お天水」
 守屋山の水霊の信仰は、山麓の上社本宮境内にあるお天水の信仰となって現在に至っている。このお天水の現象は、諏訪の七不思議の一つに数えられ、一年中いかなる晴天の日でも、御宝殿[ごほうでん]のかや屋根の上に一滴の水が落ちるとも、また水滴は毎日御宝殿の下にある天流水舎の井戸に落ちるともいわれている。
 雨乞いのときは、この井戸の水を青竹の筒に入れて持参し、それぞれの地で祈願をこめれば、雨が降るといわれ、諏訪地方はもちろんのこと、遠く県外からもお天水をもらいに来ている。また、このお天水の水は、天竜川の水源でもあるといわれ、守屋山の水霊の神の信仰が如実にあらわれている。(『茅野市史』上巻)

 諏訪上社の神体山である守屋山は、山頂に物部守屋をまつるも、ここには、天竜川の水源神=水霊神が鎮座しているようです。上社本宮における水霊信仰の基点の山が守屋山であることは、同社片(脇)拝殿から守屋山を拝む直線上に「硯石」という神体石があることと関連しています。この硯石は、「上部表面が凹形をしていて、いつも水をたたえているので硯石と呼ばれ、諏訪明神が降臨される霊石」とのことです(『茅野市史』)。『諏訪大明神画詞』は、この硯石のあるところを「上壇」「尊神ノ御在所」と記していて、上社本宮の最重要な神体石とみられます。天竜川の水源である「お天水」が守屋山の水霊神がもたらすものという信仰が、守屋山→硯石→天流水舎(の井戸)と連なっていることがわかります。
 この上社の水霊信仰のラインを重視しますと、「→」の延長上、つまり、天流水舎のすぐ下にある清祓[きよはらい]池も含めて考える必要がありそうです。なぜなら、同池は、「諏訪湖の水源」とも伝えられているからです(矢崎孟伯『諏訪大社』銀河書房)。天竜川下流域(遠州)からの視点でいいますと、天竜川の水源は諏訪湖です。その諏訪湖の水源が清祓池とされ、この池が天流水舎の直下にあることは意味ある配置だと考えられます。守屋山→硯石→天流水舎(の井戸)→清祓池という水霊信仰のラインは、観念上のことではありますが、諏訪湖に注いで天竜川を流出させていることになります。
 清祓池という池名が端的に語っていますが、ここは「池の中の宮島に茅の輪をつくり、それをくぐって罪を祓い清めた」とあるように(矢崎孟伯、前掲書)、清祓池の池神は大祓神(とされた水霊神)です。その名をあからさまに表示しないのは、諏訪下社で六月祓の神事が行われる浮島(社)の祓戸大神と同じですが、ここに瀬織津姫を「読む」ことができます。守屋山の水霊神は、里(上社本宮)へ降りると大祓神=祓戸大神となるということなのでしょう。
 諏訪上社の「水」の信仰ラインには、少なくとももうひとつの「池」を指摘しておく必要があるのかもしれません。それは、天流水舎と清祓池の間にある小さな池ですが、「五穀の種池」です。この池の「水」も水霊神の信仰ライン上にあります。案内板には、「毎年春の御頭祭には近隣の農家の人々が種もみを浸して、その浮き沈みに依って豊凶を占った池である」とあり、守屋山の水霊神が五穀豊穣に関わる神であることがよく伝わってくる文面です。
 農作の豊凶占いについては、諏訪信仰においては「筒粥神事」のほうが広く知られています。この神事は諏訪下社に現在も伝えられていますが、古くは、上社前宮あるいは上社本宮においても行われていたようです。

■上社前宮の筒粥神事
 他の中世文書によると、「十五日筒粥・参御室御神事」とあって、鎌倉・室町時代には、確実に前宮の御室(みむろ)の中で行なう神事であった。御室での筒粥神事の方法は、十二月晦日深夜寅時、神長はうだつの御左口(みさくち)二十神の前に灯明をささげ、その年の月数だけ御幣(十二または十三本)をささげ、天長地久を祈る。この御幣は葦のくきに、白紙を刺したものとみられ、この御幣の葦の下部分を一束(約十五センチ)に切りそろえ、正月十四日夜からの筒粥の筒に用いる。この葦筒に「五穀をあてあてに名をかき付て筒粥をにる」と、筒粥神事の方法をかいている。この筒粥は十五日の御神事のとき、五穀占いをし大明神に報告し、五官祝・氏人これを拝す、とある。(宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社)

 御左口神に「十二月晦日深夜寅時」(午前三〜五時)にささげられる御幣=白紙は、葦の茎にはさんだものであり、その葦の茎の下部分を「切りそろえ」て筒粥の筒にしたとのことです。この切り取られた葦の残りと御幣が、同じく「十二月晦日深夜寅時」に流される(放り込まれる)場所が、前宮北方1500mほどのところにある葛井[くずい]池です。葛井池の神殿は北面し、神殿背後に葛井池があり、同池はかつての広大な諏訪湖の一部が残ったものとのことですが、この神殿→葛井池の南方延長上に守屋山が視認されます。この池も守屋山の水霊神信仰と関わり深い池といえます。
 葛井池=葛井神社(主祭神:槻井泉神)の葛井神事あるいは前宮の御室神事についてはあらためてふれますが、わたしがここで問うてみたいのは、この神秘的な筒粥神事において、「五穀占い」を真っ先に「報告」される「大明神」とはなにかということです。引用だけを読みますと、それは「諏訪大明神」のことだろうとなりますが、諏訪の古記を読みますと、どうもそう単純な話ではないことがみえてきます。
 諏訪の年中行事・神事の古態を伝える文献に、室町初期の『年内神事次第旧記』(茅野市教育委員会)があります。同文書は、諏訪の先住祭祀族の洩矢=守矢氏(神長官)の家に伝わる上社前宮の年内神事の覚書・日記ですが、諏訪祭祀の核心部分は一子相伝・口伝の秘伝とされ現在は不明とされるも、その周辺の神事の実態を公開したもので、諏訪祭祀を考える上で、貴重な資料価値をもっています。
『年内神事次第旧記』は、筒粥神事および「大明神に報告」の当該部分を「晦日夜の御幣之串の葦を正月十四日夜、筒ニ切て五穀を当て当てに名を書き付て筒粥を煮る。是にて御五穀を占う。此筒粥を同十五日御神事之時、五願・民人是を拝す。大明神ニ向け申時[もうすとき]、申立[もうしたて]」と記しています(武井正弘訓読)。この「申立」は「報告」といったニュアンスとは少し異なり、いわば祝詞形式で語られる大明神への「お願い」といった内容かとおもいますが、この「申立」につづく祝詞を読んでみます。

■大明神ニ向け申時[もうすとき]、申立[もうしたて]
 かけはくもかしこ、つねの跡ニ仍[よつて]仕ゑまつる、春の御祭の正月一日の煮占[にうら]ハ八葉盤[やいら]は参らする。受け喜はせ給て、神嘗[しんしよう]として、罷[まか]り来たる斗[ばかり]の、蕪[しけ]い悪霊・災難・口舌[くぜつ]をハ、また来らさる先の稲の他方ゑ、祓い退[しり]そかせ給へと、かしこミもかしこミもぬか(つかまうす)
 七日七々草粥[くさかゆ]参[まいら]する時も
 十五日筒粥参する時も申可[もうすべし]

 編著者の武井正弘さんは、この祝詞部分については「口語訳」を付していますので、それも写しておきます。

■口語訳「大明神ニ向け申時、申立」
 いつも心懸けてはいますものの、言葉にして申上げるのも畏れ多いことですが、古くからのしきたりに依り仕え奉ります。春の御祭の正月一日の煮占の具を、八葉盤(八葉の柏で作った葉皿)に持って[盛って]献じまする。どうか御受納の上、新年の訪れを共に欣び下さり、大神の厳正な御心をもって、新年に災いをもたらすためやって参ったばかりの、勢の盛んな悪霊・災難・口舌などの悪しきことどもを、稲霊の訪れる前に他の国へと、祓い退かせ下さいますよう、畏み畏み額付けてお願い申し上げます。

 この祝詞を受納する「大神」=「大明神」は、「悪霊・災難・口舌などの悪しきことどもを、稲霊の訪れる前に他の国へと、祓い退かせ下さい」と祈られる神で、「厳正な御心」をもった祓神の性格が付与されていることがわかります。この「春の御祭」の祝詞は、十二月二十七日の「冬の御祭」にも捧げられます。

■冬の御祭の祝詞
 かけまくもかしこ、つねのあとニよつて仕へまつる。冬の御祭十月十五日の御葉鎮めの浄御先の八葉盤ハ四葉盤ハ折柏と申、天伯こそ神嘗として、館[たて]の内に参り来[きた]り(る)はかりの蕪[しけ]い厄霊・災難・口舌[くぜつ]をハ、また来ぬ先の稲の他方へ祓い退[しん]そき給へ、思・請い願い申さん所ハ、命ハ長く身ハ全くして栄へ、幸い弥高[いやたか]・弥広[いやひろ]ニ護らせ給て、此如[このごとく]の千歳[ちとせ]の春秋はや祭ると、障[さわ]り恙[つつが]なき十五日の祝ぬかつか申。
 何事も春如あるへく候。不思議ニ思はれ候はん事をハ、春日記見られ候へく候。

「春の御祭」では「悪霊・災難・口舌などの悪しきことども」を「祓い退[しり]そかせ給へ」と願われていたのは「大明神」という抽象神でしたが、「冬の御祭」では、「厄霊・災難・口舌」を「祓い退[しん]そき給へ」と願われている神、さらに、延命長寿と繁栄の守護が願われている神は「天伯」という神であることが明かされています。神長官・守矢家の内部に伝わる秘蔵の家伝書において、「大明神」は「天伯」(原文は「てんはこ」)、つまり天白大明神であることが伝えられていたことがわかります。
 この家伝書の作者は、冬祭の祝詞につづけて「何事も春如あるへく候。不思議ニ思はれ候はん事をハ、春日記見られ候へく候」と、「不思議」におもう者は「春日記」、つまり「春の御祭」の項をもう一度見るようにと促すことを忘れていません。
「春の御祭」において、では、祝詞を大明神=天白神に述べる者はだれかといいますと、それは神長官ではなく、諏訪祭祀の頂点に君臨する大祝[おおほうり]です。武井さんは「春の御祭」の祝詞の補注で、この祝詞(申立)は、「神を祀る神、つまりは神事によって豊饒を司る自然神の約束を取り付け、威光を以って支配する現世救済の人格神の役割りを物語る申立で、大国主の子であるタケミナカタ、その末裔である大祝の、存在意義を示す内容といってよい」と書いています。
 諏訪の祭祀は二重権力構造になっていて、基層に先住の祭祀族である洩矢=守矢氏が神長官として存在し、その上に、桓武天皇の皇子とされる大祝有員[ありかず]を祖とする大祝=神[じん]氏(のちの諏訪氏)がいます。大祝は、武井さんが指摘するように、「神をまつる神」、しかも諏訪大明神=タケミナカタが憑依した現人神とされます。諏訪の地主神を束ねるのが神長官で、諏訪の地主神をまつる人格神(神をまつる神)が幼童(男児)である大祝=タケミナカタです。
 諏訪祭祀において、中央の祭祀意向を体現したのが大祝家でしたが、地主神に対する実質的な祭祀権をもっていたのは神長官=守矢氏でした。ただし、守矢氏が諏訪において、この祭祀権を持続させることは、たえず中央=ヤマトあるいは大祝家の禁圧下にあった上でのことだろうと想像されます。物部氏の出自を秘しているのもそうですし、守矢氏がヤマト公認のタケミナカタ=諏訪大明神=大祝を受容し、本来自身がまつっていた神をさまざまな異名に置き換えざるをえなかったことも想像すべきでしょう。その異名神の一つが「てんはこ」という神でしたし、ミサク(チ)神でもありました。ミサク(チ)神は、天白神の多様な性格のうち、その水神的性格を核に据えて農作神の性格を特化・突出させたものとみられます。神格(神の性格)の多様性という点からいって、ミサク(チ)神は天白神を包含することは不可能ですが、逆は可能です。ちなみに、天白神という神名は、白鳳時代(天武・持統時代)の神宮創祀の前に遡って考えることはできないことを添えておきます。ミサク(チ)神も、当然、それ以降の時代の神名(作神への尊称が神名化したもの)とおもわれます。
 守矢氏の祖神について、武井正弘さんは『年内神事次第旧記』の解説で、「モリヤ氏の祖神ミサグチ神は御左口と表記され、ミシャグチともよばれる口裂の蝦蟇神で、龍宮伝承とも関わる水分神でもあった」としています。また、この神は「川・湖の王」であるとして、ミサク(チ)神の水霊神的性格を指摘しています。それが、「海部の王」である蛇身・タケミナカタによって征服されるも、「男性神であるタケミナカタは間接手段によってしか土地の恵みを保障できない。地母神としてのミサグチ抜きでは大地は荒野と化してしまうわけである。このため、服属と誓約の儀式が祭事の初頭に据えられる」と、元旦の蛙狩神事を「服属の誓いの式」と指摘しています。
 守矢家の系図では、その祖神は「洩矢神」としていて、同系図には「御左口神」の名は出てきません。諏訪において、洩矢神と御左口神が同神である伝承を拾い出すことはできませんので、御左口神を、守矢氏の「祖神」と断定するには、もう少し媒介事項が必要ではないかという気がしています。武井さんがミサク(チ)神を守矢氏の「祖神」とみなした理由は、『年内神事次第旧記』の、たとえば、「春の御祭に、道の口ニ政所の本ニ祖宗神[そそうしん]天降り給[たまい]たれハ、嬉しミ喜ひて仕へまつりぬ」とある、土地神である「祖宗神[そそうしん]」をミサク(チ)神とみなしたことによるものかとおもいます。原文は「そゝう神」で、「祖宗神」の漢字をあてたのは武井さんです。「そゝう神」は「道の口」「道の口の中」「道の尻」にいる地神かつ衢[ちまた]神で、人々はこの神が「天降る」と、こぞって「嬉しミ喜ひて仕へまつ」ったことが『旧記』にくりかえし出てきます。「そゝう神」がミサク(チ)神と同根神であることはそのとおりでしょうが、この道(祖)神の「そゝう神」は、おそらく、オソソ、オスソの神、つまり、琵琶湖地方では「裾神さん」と親称される禊祓神(マキノ町・唐崎神社ほか)、伊勢においては御裳乃濯川比女[みものすそかわひめ]と呼ばれる五十鈴川の川神かつ濯神=禊神、加賀白山においては泰澄命名の川濯尊大権現とされた白山の地神たちと同神かとおもわれます。つまり、旧記が「道之佐渡[さわたり]」(道の曲がり角、交差点)においてまつるとする天白神と同根の神であり、日本書紀には「道の中に降り居」る神、また、水沼[みぬま]君らがまつる道主貴[ちぬしのむち]とされた宗像女神(水沼君は物部氏同族)、先代旧事本紀には天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の妃[みめ]とされていた天道日女命でもあるとみられます。
 守屋山→硯石→天流水舎→五穀の種池→清祓池→諏訪湖→天竜川へとつづく「天水」の信仰の道が、ミサク(チ)神(水分神、川・湖の王、地母神)と天白神(祓神、そゝう神、桜神=水神)、つまり、諏訪の基層神二神(後藤総一郎)によって、ときに神格を重複させながら諏訪信仰の「水脈」として構成されています。天白神とミサク(チ)神の神格(神徳)のすべてを必要かつ充分条件として保有する神は一神しかなく、しかし、この神を「語らない」ことで、諏訪ばかりでなく「日本」の神まつりはあります。
 天白神=瀬織津姫は、外諏訪=外県においては桜神でした。天白神が桜神でもある例は内県にもあります。
 上社前宮の神は、諏訪下社の神でもある八坂刀売神とされます。前宮は諏訪信仰発祥の地といわれますが(『茅野市史』)、同社の重要神事である廻神(湛)神事、つまり大祝の分身である神使[おこう]が春三月、三県を巡回して各地の地神に挨拶にまわり、その年の豊作を「神」として約束するという特殊神事があります。この地神たちは、霊木や霊石などに降り立つ土地の精霊神・自然神と信じられています。
 内県である茅野地方を廻るとき、桜湛[さくらたたえ]という桜神を降臨させてまつる神事があります(桜湛木は「七木湛」の筆頭木)。『茅野市史』は、この「桜湛」(茅野市粟沢)について、「最近まで巨木の根が残っていたものに桜湛木がある。桜湛木は粟沢城址の東の天白社境内にあったが、枯れてその面影をとどめない。現在はそのあとに石碑が立てられている」と記しています。諏訪祭祀の根幹において、天白神は「大明神」、つまり、天白大明神として、秘して願われる守護神でした。しかし、茅野市粟沢の天白神の分身=分神は、すでに一個の石碑と化しているようです。この石碑には「大天白社桜湛木跡地」と刻まれていて、往時の天白神に対する人々の想いが「大天白」という尊号に表れているようにおもいます。現在、諏訪祭祀のなかに天白神の残像を読み取ることはかなり困難ですが、天白神は、内県においても、大いなる桜神であったことは、この石碑が永く語りつづけてくるにちがいありません。

103 天白神の神楽歌 風琳堂主人 2004/12/25 (土) [18050]

 伊勢(外宮)の御師が伝える太々神楽の「八幡天白之段」で歌われる「てんぱくのうた」は、次のような歌詞をもっているとのことです(三渡俊一郎『謎の天白』私家版)。

■月の輪に舞う天白神
 天はく御前のあそひ(遊)をは
 ほし(星)の次第の神なれは
 月のわ(輪)にこそまひ(舞)たまへ

 ここで歌われる「星」は太白=金星(明星)のこととおもいますが、この星神=天白御前は月の輪に舞うとあり、天女の趣がよく伝わってくる神楽歌です。
 この伊勢の天白歌が諏訪に伝わると、歌詞は次のように微妙に変化するようです(諏訪上社の神楽頭、茅野外記大夫家に伝わる茅野文書…三渡俊一郎、前掲書)。

■天白神は社宮神大天白
 天白ワホシ(星)ノクラ(座)位ノ神ナレハ神ナレハ
 月ノワクラ(輪座)ニヤト(宿)ヲメサレル社宮神大天白
 天白ノコ(来)シミストキワ月ノワクラ(輪座)ニ宿ヲメサレル

 諏訪の天白歌においては、社宮神大天白、つまり天白神とミサク(チ)神=社宮神は一体の神であることが歌われています。
 ミサク(チ)神の分布について、今井野菊さんは、長野県675社、静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、三重県140社、岐阜県116社と、その労作の調書を公開してくれています。では、天白神の分布はどうかといいますと、こちらについては、三渡俊一郎さんによって貴重な調べがあります。「天白社(独立・合祀・地名)の県別の分布」を多い順に並べますと、@長野県(329)、A愛知県(79)、B静岡県(69)、C三重県(62)、D山梨県(34)、E埼玉県(17)、F岐阜県(5)、G神奈川県(4)、H岩手県、山形県、新潟県、兵庫県(各1)となり(計603)、長野県に突出してみられることがわかります。また、ミサク(チ)神の分布上位の七県のうち、岐阜県を除く六県が天白神祭祀の上位県と重なっていることがわかります。天白神祭祀が岐阜県において極端に減少する理由は、同県が白山信仰圏にあることが理由かとおもいます(天白神は白山の地神でもあるため、白山神をまつれば天白神を特別にまつる必要はなかった)。
 天白神にはどういう神が異称神として伝えられているのかについても、三渡さんがまとめてくれています。

■天白神と習合する神
 愛知・静岡・長野三県内の神名数六以上のものを集計すると次のようになる。
 須佐之男・素盞男(十八)、宇迦之御魂・稲倉魂(十五)、瀬織津姫(七)、棚機姫(六)
 右の四神合計は四六社で、神名の分っている社数合計八五社の約半分をしめている。

 月輪に舞う天女のごとき天白神が、スサノヲやお稲荷さんではあまり絵(サマ)にはなりません。残る瀬織津姫と棚機姫については、両神が異神であるわけではありませんから、天白神に伊勢祭祀の秘神である瀬織津姫を習合神とみなすことには無理がないとおもいます。三渡さんは同書で、天白神は「農業神・祓神・水神の性格」をもつ神であり、また「風・雷・病気・出産の安全を祈る神であり、祟る神ともされ、また降雨を乞う神でもあった」と、その性格をまとめています。これらの性格に、太田亮、小口伊乙両氏の指摘である養蚕神という性格(麻栽培の守護神という性格を含む)、および天白神の神楽歌にみられる星神=太白神の性格を付加すれば、天白神のほぼ全部の性格が出揃うことになります。
 諏訪の神楽歌にみられる「社宮神大天白」の社宮神、つまりミサク(チ)神についてですが、こちらは天白神とちがって、瀬織津姫を祭神として伝える神社は多くありません。しかし、多くはないものの皆無というわけではなく、このことは、『尾張志』が「サグジノ社」と記す西宮社(名古屋市中村区長戸井町、現在は金山神社に合祀)の祭神として「天照大神の荒御魂」の名がみられることや(蜂谷季夫『名古屋地方の社宮司信仰』天白川流域研究会)、大渡佐久地神社(静岡市黒俣)の神として瀬織津姫の名が確認できます。また、国府の地にまつられる守公神、守宮神もミサク(チ)神→社宮(司)神とみなす蜂谷説を是としますと、柳田國男が『石神問答』で取り上げていた、大隈国姶良郡国方村大字府中の「守公神」、つまり、明治期に守公神宮守君神宮から祓戸神社に社名変更された守公神=祓神として、瀬織津姫の名も確認できます。
 社宮神大天白という神が伊勢祭祀の秘神でもあることについて補足しておきますと、神宮の別宮とされる志摩市磯部町の伊雑宮のことがあります。伊雑宮の祭神は、中世、大歳神と玉柱屋姫命という男女神二神とされていました(『磯部町史』)。その後、大歳神は境外の第一摂社・佐美長神社へと遷され(外され)、昭和三年の『神宮要綱』は、伊雑宮祭神を天照大神荒御魂一神と記すことになります(現在は「荒」を削除して天照大神御魂)。伊雑宮の御師の西岡家文書は、同社祭神の玉柱屋姫命は瀬織津姫と同神であると記録しています。この伊雑宮の御師の一人である大崎氏が氏神としてまつる(まつっていた)のが天魄社、つまり天白神とのことです(三渡俊一郎『謎の天白』)。江戸期の寛文〜延宝時代に起こる、伊雑宮と神宮との激越な論争(伊雑宮神人[じにん]は自社本宮論および伊勢三宮論を展開)において、神人[じにん]代表の大崎兵大夫が暗殺されるという事件が起こります(天和二年)。幕府の裁定は伊雑宮側の敗訴という結論を下しますが、神人代表の大崎氏の氏神が天白神であったことはあまりに暗示的で、伊雑神の異名が天白神であった可能性はすこぶる高いといえそうです。このことは、諏訪の地で、社宮(司)神として伊雑神が散見される根拠あるいはルーツとも関わることかとおもいます。
『謎の天白』は、わずか一例ですが、諏訪神を「天白さま」と伝えている天白社(愛知県丹羽郡扶桑町伊勢帰字北寺子)も採録しています(祭神は建御名方神、?埜神社に合祀)。
 諏訪下社および諏訪上社(前宮)の神とされる八坂刀売神についても、天白神との関係は濃厚といわざるをえません。山田宗陸さんは「天白紀行」(1977年、中日新聞連載)で、「天白の起源を伊勢土着の麻績氏の祖神天ノ白羽にもとめる」と記していましたが、この麻績氏の祖神について、先代旧事本紀は、伊勢神麻続連等の祖は天八坂彦命と記しています。つまり、天白神=天ノ白羽神は天八坂彦命と同神ということになります。諏訪側の伝承では「八坂刀売命は高知尾豊姫とも申し、伊勢国多気郡麻績[をみ]の豪族天八坂彦命の御子孫」とされます(宮坂喜十『諏訪大神の信仰』下諏訪町博物館)。これらの伝承を総合しますと、現在の諏訪の女神である八坂刀売神は、天白神の「御子孫」ということになります。
 今井野菊さんは『大天白神』で、天白神は縄文時代にまで遡る「原始農業神」という仮説を示し、山田宗睦さんは麻績氏の祖神(天ノ白羽神)が「治水農耕の神」となったと記しています。今井さんの天白神は縄文時代の神とする説にはミサク(チ)神=社宮(司)神を弥生時代の農作神とみる仮説がセットになっていますが、天白神の神楽歌の伝播にみられるように、つまり「社宮神大天白」にみられるように、両神は一神を二神化表示したもので、そのルーツは神宮祭祀の暗部にあるという認識が欠如しているようです。今井説および山田説については、三渡俊一郎さんから、次のような鋭い疑義が提出されています。

■天白神はなぜ祓神か
 今井野菊氏は原始農業神として、山田宗睦氏は治水農耕の神として民間にひろまったとしつつ天白は長[=天]の白羽神、即ち麻続氏[=麻績氏]の祖神だとしているが、この麻織の神が如何にして農業神に変身していったかを説明していない。麻織の神が祓神となる過程を省略している。語呂合せをしているにすぎない。(三渡俊一郎『謎の天白』)

 皇祖神の創作→神宮祭祀の立ち上げのとき(白鳳時代)、神宮の元神は秘神化され、おそらく、この元神を祖神としていた麻績氏や磯部氏(物部氏同族)、つまり神宮の元神と同神をまつっていた伊雑宮に象徴される神宮周辺の諸社も、その祭祀は変容を強要されたものとおもいます。この伊勢祭祀における秘神は「祓神」とみなされるも、もともと水霊神・滝神(水源神)でしたから「治水農耕の神」ともなりえたのでしょう。
 梓弓春の日永の水の面に月すみわたる天白の橋──これは、四日市市日永の天白橋(天白神)について詠んだ西行作とされる歌です。日永の天白社の伝承を読んでみます。

■日永の天白御前
 ずいぶん大昔のことであるというが、日永の天白社は天白御前といい、天白川の川上から流れて来られた神様で、天白橋の橋げたに引っかかっていたのを拾いあげて祀ったという。元は八王子の森に祀ってあったものである。何度もお返ししたが、日永に縁が深く、何度も流れついたのだと伝えている。女神で極めて荒い神ということである。天白御前は相撲が好きで、明治末期の合祀までは社があったが、境内に土俵があり、祭には若衆が相撲をとった。森には大木があり、合祀後これを買って伐った人は早死した。祭日は十月十日であった。合祀の時の社記を見ると祭神胸形三女神としるされていた。流れて来られた時の姿は蛇体であったともいっていた。天白川は小さい川だが荒れて、水が溢れてた。(堀田吉雄氏調査…『謎の天白』)

 日永の天白神は、八王子=五男三女神、つまりアマテラスとスサノヲの「誓約[うけひ]」の思想になじめずに天白川を流れ下ってきたとも読める伝承です。宗像(胸形)神が天白神となることを考えますと、ここでも、諏訪および伊勢祭祀の秘神としての宗像神が浮上してきます。
 伊雑宮の「伊雑[いぞう/いざわ]」は「伊佐波」「伊射波」からきたものですが、伊雑宮の元社とみられる社に志摩国一ノ宮・伊射波神社があります(鳥羽市安楽島町字加布良古)。同社の主祭神は多紀理比売、配祀神は多岐津姫、狭依姫、つまり宗像三女神とされ、加布良古[かぶらこ]崎に鎮座するこの伊射波神は、志摩大明神、加布良古さんと、地元の海の民に今でも親しく呼ばれています。江戸期に伊雑宮の祭神として伊射波登美命の名がみられますが、伊雑神=伊射波神がもともと宗像神でもあったことをよく伝えているのが伊射波神社です。倭姫命世記は、稲作発祥に関わる大歳神(白真名鶴)伝承とともに、この稲を皇太神に献じた志摩国の御饌津神である伊佐波登美神の宮が伊雑宮と記していました。伊雑宮のこの元神(たち)は、諏訪上社(前宮)においては、筒粥神事を含む「御室神事」という闇の祭祀に継続されることになります。

104 諏訪湖の通底伝承 風琳堂主人 2005/01/01 (土) [18200]

 権現善光寺如来と、深く度生[どしやう]の悲願を契り玉ふ──ここに出てくる「権現」とは伊豆権現のことですが、伊豆権現が衆生済度のために善光寺阿弥陀如来と悲願の契を結んだと伝えるのが「伊豆山略縁起(内題:伊豆国伊豆御宮伊豆大権現略縁起)」です(『神道体系』所収)。
 略縁起はさらに、伊豆権現の神託(言葉)として、「我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり」とも記していて、伊豆権現は、善光寺阿弥陀如来と八幡大菩薩と深い「契」の関係にあるとのことです。
 伊豆権現という神仏混淆における仮称神は、ときに女神を言ったり、ときに男神を指したりしますが、これは、権現思想の基層に謎の男女神が秘められていることが理由かとおもいます。
 伊豆山=走湯山は日金山(旧名は久地良山)を含む総称名です。「走湯山秘決氏人上首一人外不口伝」の添書きをもつ「走湯山古文書」(『神道体系』所収)を読みますと、久地良山には二つの巌窟があって、一つは「みかつくのとの」といって「御とし五十路あまり」の謎の男神がすみ、もう一つは「みつ葉のとの」といって、そこには「御とし四十路あまり」の「女体すまゐたまへり」とされます。この女体神=女神は「耳・鼻・眼・口より湯の瀧なかる」と、伊豆の湯滝の滝神とされ、巌窟の周辺には、この女神を守護するように、「十五はしらの王子つらなり、住居たまへり」とされます(走湯山略縁起は、この十五王子の筆頭神を火明櫛玉饒速日尊とし、「猶神秘あれど、爰に載せ難し」と、口ごもった記述を残しています)。走湯山古文書は、男神に対しては引用のほかに記すことをしていませんが、この謎の女神については、「世の政治、人のよしあしき法をのへたまふ、またいつくしみ、にくみすへき則をのへ給ふ」と、明らかに尊意をもって書き記しています。
 走湯山縁起(第五)は、「権現女体事」として、日金山の東南には「女体社壇」があって、この女体権現=女神は「其形像天女の如し」と形容され、のちに伊豆山神社摂社の雷電社へ「入御」したとされます。現在の由緒において火牟須比命荒魂と祭神表示される雷電社の神の本姿は、「天女」のごとき女神だということです。
 走湯山古文書は、伊豆山の「みつ葉のとの」にすむ、この謎の女体神=女神の神託(言葉)を、次のように記しています。

■水火和合の神
 みつはもと月の精なり、火はもと日の精なり、わか身をは、月神にて水に[を]つかさとれり、されとも天照大神のたましゐを加へさせたまひて、水を湯とあたゝめ給へり〔中略〕今水火和合のふたつのなかより、われはあらはれいてたり

 伊豆(女体)権現は「天照大神のたましゐを加」えて水を湯に変えた、そして、この「水火和合」の思想によって「われはあらはれいてたり」と自己紹介しています。この伊豆(女体)権現が遠野郷に伝えられると伊豆大権現→早池峰大神となり、「天照大神」ともっとも縁深い瀬織津姫という滝神の名が明かされることになります。
 これら伊豆側の文書群も、諏訪における『年内神事次第旧記』と等価に等しい一級の資料価値をもっています。走湯山縁起(第五)には、さらに「深秘」の巻があり、伊豆山(日金山)の地底には「八穴道」があり、八つの聖地とつながっているとのことで、そのうちの一つは「諏訪の湖水」に通じていると書かれています(あとの七つは、戸蔵第三巌穴、伊勢大神宮、金峯山上、鎮西阿曾湖水、富士山頂、浅間之巓、摂津州住吉)。
 諏訪湖との通底伝承をもつ伊豆山側の証言は何を語るのかということがあります。一般に、 通底伝承が伝えている意味はなにかといいますと、わたしは、そこには、両者(両地)において、その根底において同神(あるいはもっとも関係深い神)の祭祀が行われていることを告げるものというように理解しています。遠州・桜ヶ池が諏訪湖に通じているというのも同じで、つまり、桜ヶ池の桜神=水神である瀬織津姫は、諏訪湖の湖水神でもあるとみられるわけです。
 伊豆山と桜ヶ池における諏訪湖への通底伝承に対して、では、諏訪(湖)の側にはどのような通底伝承があるのかといいますと、ここに、諏訪上社(前宮)の御室神事とセットとなっている葛井池の通底伝承がみえてきます。
 十二月二十七日の「冬の御祭」の祝詞(申立)は、天白神に捧げられたものでしたが、十二月三十一日(晦日)という第二の大祓の日から元旦未明にかけては、諏訪祭祀の根幹部分が露呈してきます。

■御室の秘祭と葛井池
 十二月晦日、御室[みむろ]へ参[まいり]て御年男と小別当と、年神・釜の神の御盃の式退[しきたい]有。後ニ祝之[の]御酒[ごしゅ]三献[さんこん]過て、祝殿ハ御立[おたち]あり。その後寅時まて神長殿待申て、寅時?[うたつ]の御左口[みさぐち]神之御前にて御明[みあか]しを参らせて、天長地久之御祈祷之ために、閏[うるう]之有[ある]時(年)ハ十三度、御幣[ごへい]を着[は]き申て、御幣を申上て、火光[ひかり]を葛井へ見すれハ、葛井神主御手幣[みてぐら]・御酒・御穀を池ニ入申[いれもうす]。此の御幣申時之明しハ藤沢の蟇目在家[ひきめざいけ]の役として出申[だしもうす]なり。(武井正弘訓読『年内神事次第旧記』茅野市教育委員会)

 諏訪上社(前宮)の境内に、冬季に特別につくられる半地下式の祭祀空間が「御室[みむろ]」ですが、武井正弘さんの補注によれば、御室は「御左口神を降ろし、年神・釜神とともに祀る神殿。神の篭り屋であり、重要な神事は御室に参篭し神意を体して始められていた」とされます。諏訪上社の秘祭空間として、この御室はあるといえます。
「年神・釜の神の御盃の式退[しきたい]」、つまり、「年神・釜の神」の神婚式(宮坂光昭さんは「色事神事」と書く…『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社)のあとに「御左口[みさぐち]神」が登場してくるというように、引用文中には三つの神の名が挙げられています。年神については、『年内神事次第旧記』は「正月一日に御室へ年[いね]入申、是ハ大歳神なり、年之神是なり、民人之魂なり」と、伊雑宮の男神、つまり海洋農耕神=男系太陽神(男性の蛇)である大歳神と同神がここに記されています。
 伊雑宮において、大歳神との対関係にあった女神は玉柱屋姫命(=瀬織津姫)でしたが、諏訪上社の御室においては「釜の神」と呼ばれていたのかもしれません。この釜神については、武井さんは補注を書いておらず、想像するしかないのですが、わたしは、この釜神の「釜」は湯釜の釜だろうとみています。つまり、御室において筒粥占いをするときに葦の筒を煮る湯釜を司る神を「釜の神」と呼んだものとおもいます。さらにいえば、釜神は、この湯釜の湯=水を司る神とみてよく、この「水」は「五穀の種池」と等質の「水」(諏訪湖あるいは天竜川の源水)が使用されたものとおもわれます。また、三信遠(三河・信濃・遠江)地域に伝わる花祭や霜月神楽の湯立の湯釜にも通ずるもので、この湯釜の湯=水が霊水=神水であることと等価とみてよいはずです。
「年神・釜の神」の三々九度の神婚式→色事神事が終わると(寅時まで「神長殿待申て」)、「?[うたつ]の御左口[みさぐち]神」が登場し、この神に「天長地久之御祈祷」が捧げられます。これは、「年神・釜の神」の両神が一体化して御左口神となったとも読める時間展開ですが、寅時(午前三時〜五時)という大晦日深夜あるいは元旦未明に、「火光[ひかり]を葛井へ見すれハ、葛井神主御手幣[みてぐら]・御酒・御穀を池ニ入申[いれもうす]」とあり、御室における神婚式→色事神事→御左口神誕生が、葛井池の秘祭神事と連動していることがわかります。
 この葛井について、武井正弘さんは、「楠井・久頭井とも書く。上社の摂社で池があり、ここで御手幣送り(年内の神事に手向けた幣帛・榊・柳の杖・柏葉を池中に投じる)を行なうと、翌朝には遠州サナキの池に浮かび上るという。神変の奇特を語る通底伝説の一つ」と補注しています。また、この葛井池の伝説と神事について、宮坂光昭さんは、次のように書いています。

■「葛井の清池」伝説と葛井神事
 昔から諏訪の七不思議の一つに「葛井の清池」といわれ、落葉も多いのにいつも澄んでいる。底なし池、片目の魚がすむなどの伝説がある。そして十二月晦日深夜、上社の一年間に用いた幣帛・榊・御穀・酒を納め入れ奉ると、翌朝遠州さなぎ池に浮かぶという伝説がある。〔中略〕
 ほかの古文献から総体的に神事をみると、十一月二十七日の葛井(九頭井・楠井・久須井)神事から始まり、葛井神主は精進に入る。十二月晦日、御室内の年神と釜ノ神の色事神事をすませ、神長は寅の刻まで待つ。時間になると、神長はミシャグジ神に灯火を献じ、天長地久の祈りをなす。終わると神前の灯火を葛井神社の方向に見せる。これにより先に上社の神事に用いた御幣・さかき等を取りまとめ、机飯一膳をそえ、下役の者が葛井に向かう。葛井神主は前宮御室の灯火の合図をみると、葛井池に幣帛・さかきを投げ入れる。幣帛は翌朝、遠州サナギ湖に浮かび、村民はその奇跡に感涙するという。(宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』)

 諏訪上社で用済みとなった「御幣・さかき等」を葛井池に投げ入れる行為は、これらを祓い清め流しさるという大祓の思想を基とした神事と読めます。土地の子どもたちまでが不要物をこの池に放り込むとのことですが、このように際限なく不要物を飲み込む(ことを強いられている)葛井池の池神とはなにかという問いを抱くのは、わたしだけではないでしょう。

■葛井池の通底伝説
 葛井池も諏訪湖も、天竜川水源であり、下流のサナギ池に通じるという伝説は、諏訪の古文献によく書かれている。一方下流の静岡県・愛知県側をみると、遠州から諏訪に通じる説話十四例、浜岡町佐倉桜ヶ池に通じる話七例で、遠州では竜蛇伝承をもち、近隣に諏訪神社がある。これは諏訪湖・葛井池の底が、それらの池沼に通じているという伝説で、諏訪神社の雨乞い・洪水予防の信仰から生まれたものとみられる。〔中略〕
 葛井池は、古くは社殿はなく池(井)そのものの信仰であった。天竜川下流の人々には水源として、「通底伝説・流着伝説」を生んだ神聖な池であった。(宮坂光昭、前掲書)

 葛井池が通底しているとされるサナギ湖(池)は、現在の佐鳴湖らしいのですが、同池がさらに「通底」しているのが桜ヶ池とのことです(宮坂さん談)。としますと、桜ヶ池は、佐鳴湖を経由して諏訪湖・葛井池へと通底していることになり、その葛井池には、大祓の思想に基づく葛井神事があるわけです。桜ヶ池の神は大祓神でもある瀬織津姫ですから、葛井池(葛井神社)にも瀬織津姫祭祀が秘められている可能性があります。
 葛井神社は、明治期の初めは九頭井社と書き、祭神は御井命とされていました(『茅野市史』)。九頭竜神は、伊豆と通底伝説をもつ箱根・芦ノ湖の地主神でもあり、また、信州では戸隠の地主神、そして白山の地主神の異称でもあります。さらにいえば、園城寺=三井寺の御井にすむ琵琶湖の湖水神でもあります。
 長野県神社庁監修の『信州の神事』によりますと、葛井神社の現祭神は、槻井泉神と誉田別尊とされます。明治期の御井命は槻井泉神のこととおもわれます。
 槻井泉神と誉田別尊という祭神構成は一見奇異にみえます。『信州の神事』によりますと、長野県内には槻井泉神社という神社が三社あることがわかります。このうち、塩尻市洗馬に鎮座する槻井泉神社は、その祭神を誉田別命、息長帯比売命、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津(毘)売命としています。小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』は、多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津(毘)売命という宗像三女神を玉依姫命一柱としていますが、いずれにしましても、これは、宇佐八幡宮の祭神構成と一緒ということになります。宇佐八幡宮の比売大神は宗像神でもあり、この比売大神は水神でもありました。
 葛井神社が槻井泉神と誉田別尊を祭神としていることは、槻井泉神が八幡比売大神=宗像神であることを強く示唆しています。同社の神事には大祓の思想がみられますし、さらに桜ヶ池との通底伝承もあります。これらに八幡大菩薩(=誉田別尊)と深い「契」の関係にある伊豆権現の伝承を重ねますと、槻井泉神が瀬織津姫を隠祭する異称神であることはほぼまちがいないとみられます。
 日本の闇の祭祀が構想した大祓の思想が、子どもたちにまで分別なき行為を是認させているとしますと、わたしには槻井泉神の小さな悲鳴が聞えてくる気がします。大祓の思想を体現することを強いられた葛井神=槻井泉神には、次のような「奇怪な記録」があるとのことです。

■葛井神事にまつわる奇怪な記録
 葛井池へ深夜幣帛等を背負って運ぶ際、奇怪な記録がある。嘉禎四年の守矢文書に「一年間の御幣を入れる。このとき、まいり合う人は死人のまねをして、うつぶせに伏すという」。また神長本には「帰りには刀を抜き口にくわえて帰る。この下役の帰るとき、行き合った人は必ず死す」とある。古老の話にも、幣帛持参の役人に出合うことを避けたという。もしこれを犯すと神罰があるというのである。これは大晦日の深夜、幣帛を取りはずしたので、悪霊の来るという俗信から出たのかも知れない。(宮坂光昭、前掲書)

 ここには、葛井神=槻井泉神という水神が「祟り」をなす神として、神事関係者に恐れられている心意が描かれています。「死人のまね」をするというのは、死者に神は祟ることはないということでしょうし、「帰りには刀を抜き口にくわえて帰る」というのは、口外不可の強い禁忌と祟りへの自己防御を表しています。諏訪の湖水神を、中央の意向に沿って、その名を伏して祓神として利用するといった屈折した罪障感が最初にあって、それが恐怖を呼び込み、「神罰」を下す祟り神というように伝承されてきたと考えられます。これらの恐怖の心意は、葛井神事あるいは葛井神=槻井泉神=御井神=水神、つまり諏訪祭祀の基層神にまつわるもので、大晦日の深夜に、諏訪上社の「幣帛を取りはずしたので、悪霊の来るという俗信から出たのかも知れない」といった「俗信」レベルの問題に還元して考えるべきものではないとおもいます。
 葛井神=槻井泉神が、この諏訪上社の秘祭神事を喜んで受容しているとはとてもおもえず、この大祓思想の負荷を肯定していないことを、おそらく、だれよりもよく知っていたのは、この神事を最初にはじめた諏訪の神官当事者たちであったとおもいます。

105 閑話休題──もう一つの硯石 風琳堂主人 2005/01/02 (日) [18250]

 明けましておめでとうございます。
 大晦日の夜からの雪で、遠野は30cmほどの積雪です。元旦は、伊豆神社から早池峰神社へとまわってきました。
 伊豆神社はここでも東面して建てられていて、第一鳥居や拝殿の額、そして境内の石碑には「伊豆大権現」と記してあります。瀬織津姫は、ここでは、伊豆神社の神というよりも伊豆大権現、権現サンの親称が地についているようです。また、神社近くのバス停は来内権現と、字名の上郷町来内[らいない]という地名と伊豆権現を一緒にした命名で、要するに来内の伊豆権現→来内権現の方が、今でも伊豆神社よりも遠野では通りがよいです。元旦ということで本殿まで開放してあったので「ご神体」を確認したところ、立派な鏡が最奥部の御簾の後ろにありました。瀬織津姫祭祀の「ご神体」の多くは、鏡か石です。
 早池峰神社は、伊豆権現から車で約四十分ほどのところにあります。早池峰神社の境内西には駒形神社があり、同社地が早池峰神社の古跡という話を古老から聞いたことがあります。善光寺阿弥陀如来および水内神社の「奥ノ院」(奥社)も駒形神社でしたから、この古老の話は符合するなとあらためておもったりしています。
 瀬織津姫を隠祭・秘祭する各地の神社祭祀とつきあっていますと、このように素直に瀬織津姫をまつる神社と出会うとやはりどこかほっとします。
 諏訪上社(本宮)の神体石である「硯石」とまったく一緒の伝承をもつ霊石を境内にもつ神社が、遠野郷の西隣りの東和町にあります。大澤瀧神社といい、主祭神はいうまでもなく、瀬織津姫です。
 神社境内の案内には、「滝のそばの大石にくぼみがあり、その中の水が干上がることはない。この水で目を洗うと眼病に良いとも言う」とあります。これは、大澤瀧神社の七不思議の一つとされるそうです。大澤瀧神社のこの霊石は、「上部表面が凹形をしていて、いつも水をたたえているので硯石と呼ばれ、諏訪明神が降臨される霊石」(『茅野市史』)とされる諏訪上社(本宮)の神体石=硯石と、その形態においても、霊水を絶やさないことにおいても、同じ伝承をもっていることは興味深いです。大澤瀧神社の由緒を読んでみます。

■大澤瀧神社由来
一、祭神 瀬織津姫命、迦具土命
二、祭典 元旦祭 一月一日  春祭(火防祭) 三月九日  例大祭 九月九日
三、由来
 康平五年(一〇六二年)陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が、厨川柵を攻め滅ぼし、俘囚の長兼六郡の郡司安部(安倍とも…引用者、以下同)頼時の長男安部貞任を戦死させた。源氏の基盤を固めた前九年の役である。
 安部貞任が、一族の本拠地奥六郡から北の厨川へ、山峡を忍んで駒を進めたであろう、栄華の後の寂しい最後の逃避行となった。
 安部貞任の娘「真砂姫」が父貞任の後を追いこの地大沢の滝川にさしかかった。父の身を案じ、父の身代わりとの思いだったのであろうか、この滝川に身を投じてしまった。
 後に源頼義の子八幡太郎義家が「真砂姫」を哀れみ、現在の古滝大明神の地に社を建立して「瀬織津姫命」を勧請、姫の霊を弔ったと伝えられており、地区内外を問わず厚い信仰を集め今日に至っている。
 現在の社殿は文政年間(一八一八〜一八二九年)の建立で二度目の改築と伝えられ、「迦具土命」との合祀となっている。特に縁結びの神様として地域社会の心の結び合いの所縁として親しまれており、毎年九月九日賑やかに例大祭を行っている。
 なお、当地「砂子」の地名は「真砂姫」に由来するとの説がある。
附記
 この地は遠く縄文時代の三〇〇〇年前から、清水を求めて人が住み着き、東和町では数少ない弥生時代(天ヶ沢や八日市場)の遺跡も残されており、水と共に暮らす人々の跡を止めているところです。神の依代であった大桧木とともに、水に浮かぶ真砂姫の心を思い浮かべながらお参りください。(平成十五年三月九日記載の日付をもつ境内案内板より)

安倍氏の時代、大澤瀧神社の地は修験の院坊が立ち並ぶ一大道場でしたから、源義家と瀬織津姫祭祀を、安倍氏の悲話とストレートに関係づけて語ってよいものかどうかという一抹の疑念がないではありません。その祭祀経緯はともかく、瀬織津姫が霊水を司る神だということでいえば、どんな霖雨旱魃にも溢れることも涸れることもないとされる早池峰山頂の「不思議之池水」(早池峯神社由緒)を挙げることもできます(早池峰山七不思議の一つ)。
 中央の祭祀意向(の力)が遠地のためゆるやかだったことが大きな理由でしょうが、瀬織津姫の名を色濃く残しているのが東北のなかでも岩手県です。特に岩手の地は、アテルイvs坂上田村麻呂、安倍貞任vs源義家、そして奥州藤原氏vs源頼朝に加えて源義経と、前者=敗者に加担する伝承・伝説・説話が豊富なところです。神々の歴史において、瀬織津姫はまさに敗者の神でもありました。しかし、この神が歴史上消え去ったわけではないことは、アテルイや貞任、奥州藤原氏や義経の「魂」(メッセージ)が消滅したわけではないのと一緒のこととおもいます。
 瀬織津姫の内部に流れる歴史時間を考えますと、その受容性の強度・忍耐度は、そのまま日本の民衆のそれではないかとおもいたくなってきます。敗者(の意・心)に対して鈍感な勝者にばかりなりたがる政治バカや国民性にはクソ食らえです。NHKの今年の大河ドラマは「源義経」だそうで、ドラマがどこまで、この歴史上の大いなる敗者を、民衆の心意とともに描くか楽しみに観てみるつもりです。
 今年も波乱や亀裂が水面下で進行する年になりそうです。キレずに、根気よくまいりましょう。

107 天白神と伊勢系神楽 風琳堂主人 2005/01/13 (木) [18550]

 世も洗ふには何れの神こそ笹で清むとてやな──これは、静岡県水窪[みさくぼ]町の日月神社の霜月神楽における「湯の舞」のうたぐらの一節です。この「世」を洗い清める神として、いったいどんな神が待望されているのか、興味深い歌詞です。
 天竜川流域の奥三河の花祭、南信濃や遠江の霜月祭(冬祭)にみられる神楽のルーツは伊勢神楽ですが、特に花祭には湯釜を中心とした鬼(山見鬼と榊鬼)の舞があり、全国の「鬼」ファンを魅了する独特の闇の祝祭空間を構成しています。ここでの「鬼」は、招かれた神々が「鬼」の面をかぶって舞う姿といってよく、彼らには悪鬼・邪鬼のイメージはまったくありません。
 部外者が眼にするこれらの舞の展開の前には、いわゆる舞台裏の神事があり、ここにこそ花祭・霜月祭の第一の核があるようです。

■天井裏の秘儀
 三信遠地域には、司霊者が祭の諸儀礼に先立ち、守護霊をわが身に勧請しみずからのパワーアップをはかる儀礼がみられる。
 例えば、西浦(水窪町西浦)の田楽では、祭当日、観音堂前での祭儀に先立ち、別当が別当家の天井裏で天狗・天白などを祀り強い通力を得る儀礼がある。祭儀を前に、別当が天狗・天白などのまがまがしい霊格をわが身に勧請するものであり、一切他見を許さない秘儀である。
 これと同様に、花祭でも「天の祭」と呼ばれる、花太夫が天井裏で天狗霊を勧請して通力を得る秘儀が行われていた。〔中略〕
 祭祀者は、こうした守護霊(天狗・天白のほか、きるめの王子、大日大聖不動明王を主尊とする五大尊…引用者)を勧請して、その加護のもとで、さまざまな神霊を祭の庭に招き祭儀を行い、あるいは悪霊を攘却するのである。(井上隆弘『霜月神楽の祝祭学』岩田書院)

 祭を司る者(祭祀者)は、舞台裏(天井裏)で、「天狗・天白などのまがまがしい霊格」を勧請し、それでパワーアップをはかって、「さまざまな神霊を祭の庭に招き祭儀を行い、あるいは悪霊を攘却する」とされます。ここに出てくる「天狗・天白」についてですが、著者の井上さんは、天白神は「天狗ともいわれ、恐ろしい霊威をふるう神と考えられた。これは別格としておこう」とも書いていて、天白神=天狗とはなにかを追究することをしていません。
 民俗学の最新の視点においても、天白神は「別格」とされるも解き明かされることがないようです。また、なるほど民俗学的視点だなとおもえるのは、天白神そのものではなく、この神(たち)を守護霊とする「祭祀者」に重点がおかれて語られていることです。しかし、祭りの主体は、その祭祀者(人間)ではなく「神」とみる神話学の視点もあります。そこでは、これら三信遠の神楽についてどう語られているのか──。戦後の神話学をリードしてきた松前健さんの「伊勢系神楽」についての一考を読んでみます。

■最後の天伯神
 中世の里神楽でも、後世になるとほとんど年中行事化した形で残っているが、伊勢系の神楽である花祭や雪祭、遠山祭などのほかに、獅子神楽、山伏神楽、出雲神楽など、みな古くは病気治療や、家運隆盛を祈る呪術的な目的・機能を持っていた。現在でも、時折、個人が特別な願かけで、これを臨時に依頼するという例がある。
 これらの様式は色々であるが、しかし一定の方式があり、その祭りの次第も決まっていた。
 普通、最初は面をかぶらぬ直面[ひためん]の舞で、神人、太夫、禰宜などと呼ばれる人物が、幣、鈴、剣、笹、扇などの採り物を持って釜のまわりを舞い、湯立を行い、神々の名を呼ぶと、獅子、鬼神、爺婆、火の王、水の王などという、数多くの面形[めんがた]のものの登場と舞があるのが、伊勢系神楽の特色である。湯立と神名の呼び立てによって、多くの神々や精霊たちが登場する形が、面形の舞であろう。
 鬼たちが荒れまわるが、この終りに、湯立の神である火の王と水の王が出現し、これらを鎮め、最後に弓矢を持った天伯神が出て、あらゆる邪霊たちを制圧するのである。
 実際に、こうして登場する面形の神には、信州下伊那郡の遠山祭などで、八社の神といい、殺された一族の怨霊を表わすとされ祭られている場合もある。駿河榛原郡の田代神楽などでも、同様である。こうした怨霊の神の祭りを鎮め、疫病や、凶作を防ごうとして、個人が願かけして、行うことがある。こうした死霊の神を追い祓う役が、最後の天伯神である。(松前健『古代王権の神話学』雄山閣)

 伊勢系神楽への総体的視点から、「火の王と水の王」および「最後の天伯神」が抽出・明示されています。『古代王権の神話学』は松前さん(2002年逝去)の遺稿集ですが、神宮祭祀に対しても、リベラルな視点から論及してきた著者で、『古代伝承と宮廷祭祀』などからは多くのヒントをもらった記憶があります。天伯神=天白神は記紀神話には登場しない神で、著者の神話学的視点からは同神についての論及はなく、おそらく、重要な民間信仰神であるとはみても、神宮祭祀と深く関係する神といった発想は最後までなかったようです。
 ともかく、伊勢系神楽における天白神の重要性について、民俗学と神話学双方からの最新の明示が、ここにあります。
 また、天白神と天狗が同神であるという井上隆弘さんの指摘と、天白神の前に重要な鬼鎮めの役として登場する、火の王・水の王という「湯立の神」という松前健さんの指摘を重ねますと、ここに、神楽前段のいわゆる「天狗祭」という秘儀も抽出されてきます。
 井上さんは、次のような報告を記しています。

■天狗祭という床下祭儀
 愛知県富山村大谷の御神楽(霜月祭)で、祭に先立って行われる天狗祭は、まず最初に神社の内陣の床下の火の王・水の王などの面形の祀ってあったところで行われる。実は坂部(天竜町坂部…引用者)でも、霜月祭の面形を祀る火の王社では、かつては火の王・水の王、翁の三面は社殿中央の小祠に祀り、それ以外の、たいきり面・鬼神面などの面形は、その床下に安置していたという(山崎一司「霜月神楽に残る猿楽芸の一例」『民俗芸能研究』第八号、一九八八年、二六頁参照)。坂部の火の王社における天狗祭で床下に御供が献じられるのは、この面形の神にたいするものではないか。この床下祭儀という祭祀形態、および村人の奉納した新穀がこの床下祭儀に献供される点は注目される。(井上隆弘、前掲書)

 愛知県富山村大谷の天狗祭が行われる神社は熊野神社のことですが、その「内陣の床下」の火の王・水の王という神(面形)をまつることを「天狗祭」というようです。また坂部の火の王社には水の王もまつられ、その床下に鬼神たちがやはり「面形」という神体の姿でまつられていたとのことです。
 天白神と天狗は同神であり、天狗祭の対象神は火の王・水の王としますと、天白神は、火の王・水の王を内在させた総称神あるいは止揚神ということになります。
 愛知県豊根村古真立の花祭(新豊根ダムの建設により、現在は豊橋市御幸神社に転出)では、火の王・水の王はそれぞれ湯の父・湯の母と呼ばれ、まさに「湯立の神」であることをよく表しています。
 伊豆山における最秘の古文書が語っていた、伊豆(女体)権現の神託(言葉)を再読してみます。

■水火和合の神
 みつはもと月の精なり、火はもと日の精なり、わか身をは、月神にて水に[を]つかさとれり、されとも天照大神のたましゐを加へさせたまひて、水を湯とあたゝめ給へり〔中略〕今水火和合のふたつのなかより、われはあらはれいてたり

 火の王は「日の精」あるいは天照大神、水の王は「月の精」あるいは月神と置き換えて読むことができます。むろん、ここでいう「天照大神」は女神・アマテラスではなく男系の太陽神で、月神(わか身)は伊豆(女体)権現とみられます。弁証法(西洋哲学)の「止揚」という概念(相対立する概念を総合し、より高位の世界を得ること)は、ここでは「和合」という言葉で表されているようです。伊勢神楽の「八幡天白之段」で歌われる「てんぱくのうた」には、月の輪に舞う天白神(天白御前)が歌われていましたが、三信遠の神楽のルーツとしての伊勢神楽、あるいは三信遠の神楽の「湯立の神」として、水火和合神=伊豆権現を、伊勢系神楽の中心神である天白神として「読む」ことも可能です。
 松前健さんが伊勢系神楽の一例として挙げていた「雪祭」は、長野県下伊那郡阿南町新野の雪祭のことですが、同祭の主舞台は伊豆神社(江戸期までは伊豆権現)で、副舞台は諏訪神社です。しかし、新野の雪祭を見守る神は伊豆神社の神である天孫=瓊瓊杵尊ではなく、同社背後の山の中腹にまつられる「伽藍様」という神で、この伽藍様が伊豆神社の元神であろうことは無理な想像ではないでしょう。伊豆神社の現在の社殿は伽藍、つまり空洞で、そこにはほんとうの神はいませんというのが「伽藍様」という謎の神のネーミングの真意かとおもいます。
 伊勢系神楽の前段で行われる「天井裏の秘儀」で、特に花祭の「天の祭」についての興味深い事例報告を、HP「闇の日本史」に読むことができます。この愛知県北設楽郡東栄町足込地区の熊野神社の花祭における「天の祭」は、湯釜の真上の二階で行われます。この「天の祭」には、七十五の神々と十六の「脇祭り」の神々(主要ではない神々)のために膳が用意されます。これらの神々は祭の本番に「神道」を通って一階の「神座」(裏に「神部屋」があり、そこに鬼の面が並べられている)に降りていくとされます。
 ところで、祭の舞いに先立つこの「天の祭」にはさらに前段の神事があり、事実上、この神事をもって花祭ははじまります。この神事は、「瀧祓い」あるいは「瀧祭り」とも「お水取り」とも呼ばれるもので、湯釜の神水を神社近くの滝からいただいてくる儀です。この神水は「御瀧水」というのが正式名称で、「花祭りの最中に釜には、この水が半分入れられ、後は神部屋に置く重要な行事である」とされます(HP「闇の日本史」)。湯釜の湯となる前の「水」=御瀧水は、熊野(那智)の滝神が司るものでしょう。湯釜に入れられた残りの半分は神部屋に置かれるとのことですので、これは招かれた神々に供される御饌水とみられます。神々にとって、最高の食事は「聖なる水」ですから、このもてなしはいかにも理にかなっています。
 祭の「湯ばやし」では、神々に湯が供されたあと、笹につけた湯釜の湯が観衆にふりかけられます。湯と変じた御瀧水をかぶった者は、その年、無病息災とされます。榊鬼も、病魔を祓う神が演じるものですが、この御瀧水は神々への最高のもてなしであると同時に病魔を祓う神水でもあります。この御瀧水の神はストレートに語られることはありませんが、邪霊・悪霊の一切を祓う天白神へと一体同神化されているとみられます。
 諏訪上社(前宮)の御室神事(秘祭)において、稲霊の来訪の前に(冬・春の「御祭」で)、悪霊・厄霊を祓うこと、および延命長寿と繁栄の加護を願われていたのは、諏訪社の現祭神(建御名方神・八坂刀売神)ではなく天白神でした。この天白神への願いは、天竜川流域の伊勢系神楽においても同様です。天竜川を自在に行き交う天白神の姿が目に浮かぶようです。天竜川を中心とした諏訪信仰圏に、天白神を至高神・中心神とした伊勢系神楽が散在・分布していることは大きな特徴です。
 病魔を祓う、また、次年の凶作や不幸をもたらす邪霊の一切を祓う(ことを願う)というのが、神楽の真目的かとおもいます。ここには、天孫あるいは国家の安泰のために人々の罪穢れを祓うといった大祓=中臣(の国家)思想はなく、しかし中臣の創作によって大祓神とされた神、あるいは伊勢祭祀の秘神が、天白神を仮称して祭りの中心にいることはまちがいありません。このことを踏まえた上で、花祭の魅力を一言でいえば、それは、「鬼」を演じる神々の演出とともに、大祓=中臣思想から庶民の生活思想へと、換骨奪胎に近い「祓」の位相転換(シフト)がしたたかに演じられていることにあるといえましょうか。
 神代より隠しおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ──これは、岩手県住田町・天の岩戸滝(滝観洞)で詠まれた柳原白蓮の歌、つまり「神代」から隠しおかれてきた「滝つ瀬」=滝神現出の待望歌ですが、舞処の中心に据えられる湯釜の「水」=御瀧水を司る神もまた花祭の語られぬ秘神=滝神です。冒頭に引用した「世も洗ふには何れの神こそ笹で清むとてやな」の「世」を洗い清める神として、天白神を仮称する伊勢および伊勢系神楽の秘神・滝神はあるともいえます。神々のもてなしと祓の両義性をもったこの御瀧水なくしては、そもそも「祭」が成立しないことを見落とすわけにはいかないでしょう。

108 甲斐は桂川(相模川、馬入川)源流の滝姫 バッキー荒 2005/01/15 (土) [18620]

 明けまして、おめでとうございます。初めてお便り差し上げます。
 昨秋の話なのですが、父親を病院まで送り、診療が終わるまでの間その場を離れ、以前から気になっていた病院近くの弁天様に行ってきました。私は東京在住なのですが、オヤジは元絵描きで東京から勝手に逃げ出し、冨士山、いや、このサイトでは不二山と言うべきか、の麓の忍野村に住んでいて、富士吉田の病院に通っているのです。標高が高く、冨士北麓の湧水を合した桂川の水温は弥生の稲作には適さず、周辺には縄文の痕跡はそこそこ見られるのですが、弥生以降、律令制が布かれるに至っても人煙の残り香を捜すのには苦労させられる土地柄です。また、自明の理ですが浅間神社が圧倒的シェアを誇っているエリアでもあります。在所の名は新倉と言います。桂川も宮川と、下流から眺めれば最後の名に模様替えします。文字通り最源流と言えます。厳密に言えば本流筋は冨士を目指さず、富士吉田からみれば東南の忍野村にその水源を求めるのですが、(多分こんにちで言う”忍野八海”を中心とする湧水郡)やはり霊峰冨士より直下する水流はそれはそれで別物だったのではないのかと想像します。ちなみに富士吉田まではソメイヨシノがなんとか生育可能で、忍野村では小ぶりな花を咲かす冨士桜社に代わります。社は後世の建立ですが、水際であるのが気になっていて、また、滝、と言っても落差はさしてないのですが(2ないし3m程)水量はかなりのパワーで、があるのも気がかりでした。
 予想に違わず宗像三神が祭られていました。背後に瀬織津姫が存在するのはご主人の洞察どおり間違いありません。弁財天との習合もお決まりのパターンです。
 桂川での最大瀑布は都留市域にある”田原の滝”なのですが、ねこやなぎの芽吹きの頃ゆっくり見て回りたいと考えております。たばるの滝を境にウグイは下流にしか生息しておりません。上流は山女魚と岩魚だけとなります。滝は一つの結界と言うべきでしょう。往古の人達は、音や龍にみたてたその容姿にとどまらず、魚止めに象徴される漁労の視点を持ち合わせていたのではないのでしょうか?安曇族の頂く宗像三神は漁労の神でもあった、私はそう思いたい。御言わずとはひょっとして、マツタケの出る場所は子供にさえ明かさない、タブーと言うより、最高の漁場は他言無用として己の利を守る、そう言う実利的側面も考えられるのではと生々しく考えてしまいました。
 ピンクの蜥蜴さんや、クミコさん、他多くの方のメッセージを望んでいるのは私だけでしょうか?あかねさん、さくらさん、皆の話聞きたいなあ。私のような隠れウォッチャーは日本中に沢山いるはずです。皆してこの国のインチキの始まりをあぶり出し、すこしでもマシな方に進めるように努力しましょう。初春に生意気なこと書いてしまいました。お許しください。では。

110 富士山の伏流水 風琳堂主人 2005/01/18 (火) [18720]

 バッキー荒さん、はじめまして。
「滝は一つの結界」「宗像三神は漁労の神」というのはそのとおりだとおもいます。前者については、祖霊の山としての早池峰山への入口にあたるのが遠野の又一ノ滝ということが浮かびますし、後者については、わたしがたまに息抜きで魚釣りに行く釜石北の隠れ里のような漁港の守護神として宗像神(市杵島姫)があることも浮かびます。
 相模川は源流に遡ると桂川と名を変えるということで、なぜ「桂」川なのかなとおもいますね。桂川という川名で著名なのは、やはり京都の桂川かとおもいますが、同川は古代にはただ「大井」と歌に詠まれていて、いつから桂川になったのかはわかりません。
 桜は水神が宿る木というのはこれまでにもよくふれてきましたが、宮崎県の椎葉村では、水神が宿る木は「桂」とされ、そういえば、空海が桂の杖を植えたら水が湧き出したといった伝承も各地にあり(伊豆・修善寺、新潟県三川村)、桂と水もどうも縁深い関係にあるようです。瀬織津姫と桂もまた無縁ではない話もあります。大迫の早池峰神社の境内でのことですが、そこに生えていた桂の葉(葉は「お香」の素材)をとろうとした小坊主が難儀しているのを瀬織津姫(早池峰神)がみかねて、葉をとりやすいように枝垂桂にした、あるいは、枝垂桂の苗を与えて帰らせたなどという伝説もあります。
 相模川─桂川の源流山を川筋だけでたどりますと、たしかに忍野八海の湧水群を経て杓子山あたりへとたどれるようですが、この忍野八海の「湧水」の地下水脈は、あるいはやはり富士山につづいているのかもしれません。
 富士山の伏流水が湧き出す姿がよくみえるのが白糸滝(富士宮市)ですが、同滝神をまつるのが熊野神社で、ここの主祭神が瀬織津姫です。河口湖の中島には弁天堂がありますが、三嶋大社の西の楽寿園の池の中島には同じロケーションで広瀬神社が(本社から遷されて)まつられています。この広瀬神もかつては瀬織津姫でしたが、楽寿園の池水は富士山の湧水とのことで、富士山の地下水脈はどこへ通じているものか想像を超えます。

 文面を察するに、荒さんは、囲炉裏夜話からお読みいただいているようで、末筆になりましたがお礼申し上げます。お名前を出された人たちは、たぶん、自分のテーマ・関心に沿って、いろいろと調べたり、考えたりしていることとおもいます。わたしも、そのうち、秘蔵の話が読めるだろうと楽しみにしています。
 忍野村の桂川・宮川の命名を調べるだけでも、おそらく忍野村の歴史の一端はみえてくるはずで(この村名も調べるとおもしろそうです)、わたしたちは、今、自分がいるところから歴史(の闇)を明かすことができるといえます。わたしは、神社・寺というのは、そういった歴史の秘密の部屋を開ける第一の扉かなとおもっています。

111 水神の放逐? バッキー荒 2005/01/19 (水) [18790]

 ご主人の丁寧なご返事を掲載下さいまして、ありがとうございます。御礼申し上げます。
さて、お尋ねの地名考証ですが、忍野という村の名前は村内の忍草(読みはしぼくさ)地区と内野地区の頭の漢字を各々一字提供するという、戦後民主主義の悪しき一面というべきか、そっけない合理主義の産物です。野は米作可能地、原を不適地とする慣わしに従うならば、また品種改良と山中湖からの疎水開通が忍野での米作を可能ならしめている最近の事象も考え合わせて、内野という地名は新しく、忍草という地名に人々の生活の始まりを求めるべきだと考えます。山梨県内で甲府盆地に次ぐ平坦地としての規模を誇っているのですが、標高は千mに近く、米作のみならず農業そのものが困難な土地です。江戸時代盛んになった富士講の人々が富士吉田の御師に導かれ、浅間神社から登頂を目指す際の馬子の集落として発達した、と聞いております。”草”という一字に馬子との脈絡を求めるのは強引に過ぎますが、農耕だけでは生活が困窮する人達が耐え忍んでいたのでは?と私は勝手読みをしています。平坦地である理由は尾瀬ヶ原と同様で、山中湖さながらの湖がかつて存在していたそうで、その水が干上がって出来た平地が今日の忍野村で、湖水の供給源の痕跡が現在の忍野八海だそうです。当然ご指摘のように富士山の伏流水です。足して二で割る式とはいえ、現在では米も作られる忍野、隠者の住まうような命名は、結果としてなかなかのものではないかと、そう思います。
 想像を更に逞しくしましょう。村内には浅間神社が忍草地区に、天狗社が内野地区にそれぞれあるのですが、辺境の最前線なのか、へんてこな社名の天狗社の祭神は武甕槌命とあります。天孫族の征服神が祭られているいわれは、征服するべき相手を想像する以外、常陸や鹿島の人達が移り住んだのではないのか、ということぐらいです。その傍証は求めようもありません。産業らしきものは皆無で、命を繋いでいくのがやっとの場所には権力も食指は伸ばしません。抵抗勢力足るバックボーンが脆弱なのですから。集落らしきものが形成され、語らいが集会に進化し、統合の中心が必要になり、誰彼となく言い出したのではないのでしょうか?
 「オラ達も神様を祭るべえ。」
 「社がいるぞえ。」
博識な長老が村の起こりを喋々と語ります。
 「ここはなあ、その昔湖だったそうな。人はおらんかったぞえ。」
 「水がのうなったから、オラ達のご先祖様が住み着いたのじゃ。」
もうお解りでしょう、水を取り除くことによって存在しうる土地がこの忍野です。水を放逐すると同時に水神もホッポリ出す。水の神を、瀬織津姫という認識が長老にあったかどうか判りませんが、香香背男と同様に悪神と認識する風潮に惑わされていたのでしょうか?長いものには巻かれろ式で食うことを優先せざるをえなかったのか、結果、武甕槌命を頂くことに、まあ、私の妄想ですが。
 桂川の桂は証拠はありませんが、葛城の葛だと思います。もっと言えば”くず”ではないのでしょうか?大月の町外れに奇橋”猿橋”が架かっています。そのすぐ下手で小金沢連峰(大菩薩連峰)より南流してきた県下最大支流(合流地点において)の葛野川を合わせます。かずのがわ、と読みます。当初はかづらの川だと思います。つまり両河川ともかづらの川、山峡狭まり、猿でも蔦などを伝って一跳び、両岸の樹相激しく、蔦がからまりという景観からのものでは?と思われます。ややこしいので葛と桂に分けたのではないのでしょうか。これもあくまで私見です。
 地名がらみで付け加えるのですが、富士吉田市域で縄文時代の遺跡は散見されると前回書きましたが、その最大級の遺跡の所在地は明日見(あすみと読む)といいます。安曇との連想を禁じえません。鴨族や安曇族、他多くのヤマトと一線を画せざるをえなかった人々、彼らが、ライフスタイルの多様性が求められている現在、どれほど多くの考える示唆を与えてくれているのか、また我々が自由に自分の頭で考えることがどれだけできるのか、感謝と同時に身を引き締めていきたいと思っております。
 前回の書き込みで冨士桜に言及する際、単に冨士桜とすべきところを冨士桜社としてしまいました。社の字の消去し忘れです。訂正させて下さい。では、失礼します。

112 浅間大神は水徳の神 風琳堂主人 2005/01/23 (日) [18920]

 山峡狭まり、猿でも蔦などを伝って一跳び、両岸の樹相激しく、蔦がからまり──荒さん、これは葛[かつら/かずら](ノ)川の景観を述べるになかなか格調高い文学的表現です。琵琶湖の安曇[あど]川の上流部も葛[かつら]川ですが、桂は葛の転とする荒説は傾聴に値します。辞書によりますと、葛を「かずら」と読むと「蔓草[つるくさ]の総称」となり、「くず」と読むと単独の「マメ科のつる性多年草」となるらしく、しかし語源的にいえば、その音には国主・国栖の意も込められてくるようです。諏訪の葛井神=槻井泉神も想起されるところですが、総じて、葛という字(パソコンでは略字しか表示できませんけど)は、ずいぶんとヌエ的な字のようです。
 桂については、中国の伝説では月に生えている木という解釈もあるそうで、そういえば、延喜式神名帳の山城国葛野[かどの]郡の桂川(上流は大堰[おおい]川)沿いには、壱岐から遷された月読神社があったことなども思い出しました。ちなみに、福島県いわき市遠野町の「遠野」は、山城国の葛野[かどの]→上遠野の「上」が脱落したものという地名譚があり、岩手の遠野の地名ルーツは、この福島の遠野にあるのかもしれません。両遠野の滝神として瀬織津姫の名が共通して伝えられているというのが、そう考える傍証的根拠です。
 相模川→桂川に瀬織津姫を「読む」ならば、やはり同川河口部にある寒川神社(相模国一ノ宮)の存在は抜かせないかとおもいます。箱根・芦ノ湖の湖水神は九頭竜神(これもクズです)で、芦ノ湖は伊豆山の地底と通じているというのは伊豆山側の史料がいうところですが、芦ノ湖から唯一流出する川は「早川」で、伊勢においては、外城田川の古名は寒川、速川、布留川などといい、この川の水神は瀬織津姫だという報告もあります(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』新人物往来社)。
 忍草[しぼくさ]+内野→忍野村とのことで、この内野地区にある天狗社はたしかに「へんてこな社名」です。しかも、祭神を武甕槌命としているというのはいっそう「へんてこ」です。この祭神が「常陸や鹿島の人達が移り住んだ」ゆえのものとしますと、おそらく社名は鹿島神社とするはずで、天狗社とは命名しなかったことが考えられます。
 天白社は伊勢から遠隔になればなるほど、社名も祭神名も多様・曖昧化します。天竜川流域の伊勢系神楽にみられるように、天白神は天狗神ともされますので、あるいは天狗社はもともと天白社だったのかもしれません。天狗神を記紀に登場する神で祭神表記するならば、おそらく猿田彦、つまり佐太=狭田彦という男系太陽神かつ農作神があてはめられるケースが多いのですが、天狗神を鹿島神(武甕槌命)と表記したとしますと、少し複雑な事情が隠れているようです。天狗社祭神を武甕槌命としたのは、おそらく明治期にそのように表示することを誘導(あるいは強制)された結果というのがもっとも可能性が高いとわたしはおもいます。明治以前の文献がみつけられればはっきりすることですが、「命を繋いでいくのがやっとの場所」にも容赦なく国家(祭祀の)思想を強制したのが明治国家権力でした。
 さて、忍野村の草分け的な忍草地区には浅間神社があるとのことで、この忍野村の一帯は「山中湖さながらの湖がかつて存在していた」というのは興味深い話です。しかも、この幻の湖の湖水の供給源の痕跡が、富士山の湧水群である「忍野八海」とのことで、これも想像をかきたてられる話です。日本国語大辞典は、意外でしたが、相模川→桂川は山中湖を源流湖としていると記していて、としますと、富士五湖すべて、その湖底に「忍野八海」のような湧水群を秘めているのかもしれません。
 かつて湖であった──こういった伝承があるのは忍野村ばかりでなく、現在の遠野盆地もまたそうです。遠野では、湖水の水が干上がって人が住めるようになったことと水神の放逐は無縁のことです。あるいは、安曇野の日光泉小太郎の伝説にしても然りで、巨大な湖の水を流しさって人が住めるようにしたのは諏訪の湖水神=女神(とその子・小太郎)とのことです。
 忍野村から水神は「放逐」されたのかどうかということで、ちょっとおもうところを書いておきます。忍野村の草分けの忍草地区には浅間神社があるそうで、では浅間神=富士山神とはどういう性格の神かということがあります。かつて(奈良時代)、高橋連虫麻呂は、富士山(「不盡の高嶺」)の霊神(「霊[くす]しくもいます神」)は、日本・ヤマトの総鎮守の神(「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」)と歌っていましたが(『万葉集』歌番319)、この虫麻呂の富士山神に対する認識は、現在、ほとんど忘却に近い「過去」のものとなっているようです。
 全国に多くの分社をもつ浅間神社ですが、それらの「総本宮」を自称するのが富士宮市の浅間大社です。同社の境内には神泉=神池として湧玉[わくたま]池があり、富士山の湧水がみられます。この湧水の場所には水屋神社がまつられ、その祭神は御井神と鳴雷神とされますが、浅間大社境内のこの湧玉池の霊水についての案内板の言葉を書き写してみます。

■浅間大社の「御霊水」
 この御霊水は、霊峰富士の御神体に滲み込んだ天水がながい年月を経て湧き出している神水です。どうぞ、水徳の神、浅間大神のお恵みを御神徳としていただいて下さい。

 わたしたちが少なからず混乱するとすれば、この湧玉池の霊水を司る神は「御井神と鳴雷神」と表示されていたにもかかわらず、一方で、この霊水は「水徳の神、浅間大神のお恵み」だとされていることにあるのかもしれません。わたしの理解では、「御井神と鳴雷神」は浅間大神の分神で異神とはみなさないとなります(御井神は諏訪祭祀の葛井神=槻井泉神でもあり、鳴雷神は伊豆山祭祀の雷電神=伊豆[女体]権現と同神とみます)。
 走湯山縁起(第五)「深秘巻」は、伊豆山の地底は諏訪ノ湖水ほかに富士山頂にも通じていると記していましたが、これは、富士山頂部にある神池とも関係することでしょうが、ともかく、富士山神=浅間大神は「水徳の神」というのが浅間大社の認識です。
 富士山の天水・神水ということでいいますと、白糸滝(富士宮市)の背後の崖上にある「帯の真奈井」という神池も浮かびます。この神池は、建久四年(1193)に源頼朝が巻狩を行った際に「水面に顔をうつしてびんのほつれをなでつけた」ため「おびん水(鬢なで水)」ともいわれているようです(案内板)。ここは富士講の霊場の一つですが、同池の「由緒」表示板によりますと、「此の神泉は帯の真奈井と云い千古汚れを知らぬ富士の真清水である。今を去る四百年前、富士講の開祖角行霊人は戦国の世を平安ならしむるべく人穴で千日の行を修したが、その時一里八丁(約五粁)の道を通って日に六度、此の真奈井で禊したと伝えられる」とあります。富士の「人穴」には人穴浅間神社がまつられていますが、この人穴と通底伝承をもっているのが江ノ島(弁才天→宗像神をまつる)です。この「帯の真奈井」の神は、案内板によりますと、「真之御柱竜神」を真ん中に、向かって右に「木之花竜神」、左に「磐長竜神」の三神と表示されています。現代にもつづく富士講の認識は、浅間大神は「真之御柱竜神」が中心の神らしく、このことは、同由緒に記載される「六千歳のいのりを込めてここに立つ真のみ柱世の救ひなり」という神歌に表れています。
 富士山の霊神=浅間大神の神徳は「水徳」に代表され、少なくとも富士講にとっては「世の救ひ」を願う神としてあるようです。
 白山は三方に登山口を擁していましたが、富士山においてもいくつか登山口があり、山の北東方に設けられたのが吉田口で、そこに富士浅間神社があります(富士吉田市)。忍野村の浅間神社は、この富士浅間神社の分社かとおもいますが、浅間大神=富士山神は「水徳の神」としてありますから、その祭祀が本社ですでに変容されているとはいえ、「水神の放逐」はないとみたほうがバランス感覚がいいのではとわたしはおもいます。浅間大社が自社境内に富士の神水を抱えていることの例にならえば、各登山口の要の遥拝社である富士浅間神社にも、富士山の神水が湧き出しているのではないかと想像しています。
 富士山には富士桜という桜があり、その桜の名所(?)が富士浅間神社=吉田口の登拝道沿いにあるようです。富士の霊神=水神が桜神ともなることは、現在の富士山神であるコノハナサクヤヒメが桜神として一般に流布されてきていることからもみることができます。
 諏訪上社の神体山である守屋山の南中腹には「浅間ノ滝」があり、同滝神は木花開耶姫とされます(『藤沢村史』昭和十七年)。木花開耶姫という富士山神が「滝神」として表示される初見ですが、守屋山のもともとの水霊神は、大祓神とされた瀬織津姫とみられますので、この滝神表示もやはり「へんてこ」です。
 天狗社祭神を武甕槌命とするという類の「へんてこ」祭祀の最たるものは、いうまでもなく神宮祭祀です。富士山神=浅間大神は「水徳の神」つまり水神であり、「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」とみなされていました。記紀神話によれば、木花開耶姫(現在の富士山神)と対関係にあるのは天孫=瓊瓊杵尊です。このニニギの「荒神魂[あらみたま]」をまつるのが伊豆山だというのが伊豆国風土記(逸文)の記述です。「荒魂」と異称される神が水神である例を挙げますと、伊豆はむろんのことですが、まず諏訪信仰における湯福神社がタケミナカタの荒魂として下諏訪神(諏訪の湖水神)をまつっていますし、三輪山においては大物主の荒魂として狭井神という水神をまつっています。また、なによりも神宮祭祀における天照大神の荒魂として荒祭神=瀬織津姫という水神・滝神があります。このように列挙しますと、記紀神話に準じてまつる要所要所の神の「荒魂」はすべて水神であるという共通項が抽出されてきます。しかし、これらの多くは記紀以降のことで、例外は伊勢神宮のみです
 日本書紀において、唯一「荒魂」の規定を受けているのが天照大神荒魂(=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)で、しかも、祟り神の筆頭に置かれています。記紀神話の創作当時、並行して、神宮(皇祖神)祭祀の立ち上げをどういうカタチにするか、いいかえれば、神宮地域の地母神=水神をどう処遇するかということが最大の難関(アポリア)としてあったことが想像されます。これが、「荒魂」という表示の原由かとおもいます。まさに「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]」として、水神は封じられたともいえます。
 この古代祭祀と天皇を中心とした国家構想の露骨な「復古」を、富国強兵策(近代化)とともに「国策」としたのが明治国家です。具体的には、皇祖神をまつる神宮を頂きとする神社祭祀の全土的な徹底化を図る(神宮祭祀を脅かす神の洗い出しと消去、あるいは記紀に準じた神々への置き換えと新由緒の創作)、および、天照大神荒魂=瀬織津姫を神宮祭祀とは無縁の神とし、大祓神=祓戸大神として再規定→徹底化していくといった神祇策が断行されます。
 この国の「へんてこ」祭祀の裏事情を明かせば、おそらくこういうことかとおもいます。
 各地の神社祭祀を考える、あるいは祭神考を冷静に進めるには、まず「明治」を疑えというところでしょうか。

113 宇津湖とせの海 バッキー荒 2005/01/24 (月) [18955]

「明治期」がまず怪しいとのご指摘、とりあえず村の古老にたずねてみます。

 それはさておき、この周辺の古代からの人文の蓄積を考える上で、やはり富士山の噴火を外す訳にはいかないので調べてみました。信頼するに足る記録として最古のものは続日本書紀に見える781年の噴火の記録です。7月6日のこととあります。北口浅間神社が現在地にできたのもこの時とする説もあります。以下静岡大学の研究者が確認しているものを列記します。

 1 781年
 2 800−802年 大噴火。 古東海道の足柄経由が一時的に不通になり間道であった
            ろう箱根路が使用される。走湯縁起にも記載あり。
 3 826年もしくは827年
 4 864年     大噴火。 せの海が青木が原溶岩流により分断され西湖と精進湖と
            本栖湖になる。言い伝えとして三つの湖ができたということだが、
            もとから三つあったという話もあり、また御船湖なる湖に溶岩流が
            流れ込んだ、あるいは埋めたという記録もあり仔細は不明。しかし
            山中湖を除く、他の今日の富士五湖は、この時現在の形になったと
            いえそうだ。山梨浅間神社(あさまじんじゃ)が現在地に移動。
            もしそうだとすると吉田の北口浅間神社も古くはあさまとよんで
            いたのか?
 5 870年
 6 937年     忍野と山中湖がかつて一つの湖で宇津湖とよばれていて、この時の
            溶岩流で分断され、やがて忍野湖が干上がったということらしい。
            陸地化した時期は不明。あくまで噴火の時期。
 7 952年
 8 993年
 9 999年
 10 1017年
 11 1033年
 12 1083年
 13 1435年もしくは1436年
 14 1511年
 15 1707年   大噴火。 宝永の大噴火として有名。横浜で5cmの降灰。
            関東一円農業被害甚大。噴火の一ヵ月半前の10月4日遠州灘と紀 
伊半島で巨大地震が同時に発生。噴火の要因とみられている。
 16 1854年から1855年

 以上になるのですが富士山三大噴火には大噴火と書き添えました。三大噴火には及ばないものの中規模噴火を拾いますと、番号順に1、6、9、11、12、13、14、となり、更に規模の小さいものが同様に、3、5、7、8、10、16、だそうです。
 この年譜に周辺の浅間神社の創建を重ねてみますと、本宮浅間神社(静岡県富士宮市)は噴火
とは一見関係無さそうです。807年創建をどう見るかですが、800年から802年にかけての大噴火から5年後なのですが、溶岩流は常に以降も北流していて、そのことによる被害はあったでしょうが北斜面に限られていたはずです。足柄越えも降灰が主たる理由で使用不可になったようで、翌年には修復されています。偏西風を考慮に入れれば妥当な被害報告で、富士宮市周辺でもそれなりの被害はあったでしょうが、動機付けとしては微妙ではないのでしょうか? べつの祭祀理由も考える必要がありそうです。
 それに対し北側の浅間神社は、今回は勝山村にある御室浅間神社、富士吉田市内の二つの浅間神社、火祭りと登拝口で有名な北口浅間神社と下吉田にあって宮下古文書のある小室浅間神社、それと甲斐の国一ノ宮、甲府盆地の八代郡の浅間神社に限りますが、多少複雑です。伝承になりますが、御室浅間神社は創建699年と伝えられていて(藤原義忠による)、本宮より古くまた奥の宮を有しています。小室浅間神社は本宮と同じ807年で”後乗り”の感が否めません。北口浅間神社は781年の噴火の時に造られたとする説があると噴火年譜で触れましたが、これまた本宮以前にさかのぼってしまい手に負えません。唯一八代郡の浅間神社のみが、864年の大噴火で甲府盆地に移されたらしいことは信頼に足るようです。とすると北口浅間神社はそれ以前からあったのでしょう。またこの噴火で溶岩流が吉田方面にも流れ降っているので疎開したのかもしれません。一般的、何を根拠に一般的というのか判らないのですが、翌865年創建といわれています。いずれにしても、北麓の浅間神社は本宮よりも噴火、溶岩流の影響が濃厚であることは確かであると思えます。
 また、”あさま”の読みは伊勢の朝熊からの転という話をどこかで聞いた覚えがあります。思い出せないのが残念ですが、典拠がはっきりしましたら掲載したく思います。国府の近くに持ってくるために”こじつけ”をやらかしたのか? それとも神様の系譜として脈絡があるのか、まさかさすがの冨士の地下水脈もそこまではと思われるのですが、いにしえ人をあなどるとエライ目に合わされます。慎重に進みましょう。
 もう一つ、おまけがあります。常陸の国風土記に富士山の記載があるそうです。孫引きですがあらすじを記します。常陸の国の祖神様がお子神様を各地に訪ねた際、冨士の神も訪ねて一宿一飯を乞うたのですが、あっけなく断られてしまったそうで、そのしかえしに常時雪を降らせるようにしたとか。しかたなく夜っぴでかけて筑波の神のところまで行ったところ、暖かく迎えられ、だから筑波のお山は多くの人が集まると、まあざっとこんな話なのですが、武甕命が富士山の麓で難儀したとも読めておもわず笑ってしまいました。明治期にこのことを知っていた小役人がいたのかもしれません。では。

114 眠たかったので、勘弁してください。 バッキー荒 2005/01/26 (水) [19050]

また、チョンボをやらかしてしまいました。以下2点修正致します。
 その1 走湯山縁起とすべきところ、走湯縁起としてしまいました。訂正致します。
 その2 武甕槌命を、槌の字を抜かして表記してしまいました。
 失礼しました。

115 浅間大神は諏訪神か 風琳堂主人 2005/01/27 (木) [19100]

 荒さん、おばんです。
 富士山の噴火年表の紹介をありがとうございました。
 864年=貞観六年の富士山大噴火で、「せの海が青木が原溶岩流により分断され西湖と精進湖と本栖湖になる」という「せの海」というのは、万葉集の高橋連虫麻呂の不盡山讃歌に出てくる「石花海[せのうみ]」のことですね。

■高橋連虫麻呂の不盡讃歌
 なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も とびも上らず もゆる火を 雪もち消ち ふる雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊[くす]しくも います神かも 石花[せ]の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮[しづめ]とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも(『万葉集』巻第三 319)

 万葉集を読んだだけですと、この「石花海[せのうみ]」がどこのことをいうのかさっぱり見当もつきませんでしたが、年表のおかげで、富士山や富士五湖のイメージがぐっと身近になってきました。
 富士山の噴火記録の最初が781年=天応元年というのは桓武が天皇に即位した年で、その前年には伊治公呰麻呂[あざまろ]が按察使紀広純を殺害し、陸奥国が騒然とするという事件が起こります。この事件は、桓武─坂上田村麻呂によるその後の陸奥国侵攻の伏線となる事件です。この朝廷軍の猛攻は、延暦二十一年(802)の胆沢城の構築をもって一応の区切りとなるのですが、しかし、この802年にも800年から継続しているのか富士山大噴火が記録されています。
 朝廷にとって外患外憂があることと富士山噴火が奇妙にリンクしているのは、たとえば870年の噴火の年には「新羅船の侵入等のため、八幡大菩薩宮に奉幣」(三代実録)といった記録がありますし、937年の噴火時は、935年からはじまる平将門の乱の真っ最中というように、奇妙な符合があるようです。
 桓武が天皇に即位して、それを祝うように富士山が噴火したということはだれも考えなかったはずで、これら富士山の噴火は神の怒りを表したものでした。これは推測の話ではなく、たとえば999年の噴火時に「富士山の噴火により、何の祟りかを占う」(本朝世紀)といった記録があることからも明らかかとおもいます。
 富士山神の怒りを鎮めるには丁重にまつるしかなく、それが浅間神社のいくつかの創建と関わっていることが考えられます。
 浅間をセンゲンと読む前はアサマと呼称していました。伊勢の朝熊[あさま]山というのは、内宮の奥ノ院・金剛証寺と浅熊神社が同居していたところで、金剛証寺の本尊秘仏は福威智満虚空蔵菩薩とされます。芭蕉門下・松倉嵐蘭の「富士賦」は、富士山は「遠くは朝熊[あさま]山をかぎり、近くは原よし原のあたりなるべし。諏訪の湖には倒の影を浸し、甲州の府には三つの岸に見えて、扇の絵こゝなるべし」と記しています(深田久弥編『富士山』所収 昭和十七年)。富士山は伊勢の朝熊[あさま]山から視認できるということなのかもしれません。
 富士山の神がなぜ浅間大神といわれるのか、これをうまく解いた人はまだいません。
 浅間ということでまず想起されるのは、信濃の浅間山との関係です。『富士山』収録の藤沢衛彦「富士の伝説」は、「抑も此富士の権現は、信濃国浅間大神と一体両座の垂迹にておはしますとかや、両山共に浅間大菩薩と申す故也」という「詞林釆葉集」なる書物の一節を紹介しています。では、信濃の浅間山にはどういった伝承があるのかといいますと、「信濃国上諏訪を勧請したる旧地あり、諏訪の社を建浅間大明神と崇奉る」という文言がみられ(萩原進「火山としての浅間山の宗教性」串田孫一他編『浅間山』所収)、富士山ではなく諏訪(上社)との関連が伝えられています。浅間大明神は諏訪神であるというこの言葉は「浅間嶽虚空蔵菩薩略縁起」によるものですが、伊勢の朝熊山の本地仏もまた虚空蔵菩薩で、浅間大明神は諏訪と伊勢につながってくるようです。ここに富士山側の伝承を重ねますと、富士山→浅間山→諏訪→伊勢(朝熊山)という連環祭祀の可能性がみえてきます。
 富士吉田の富士浅間神社の近くには諏訪ノ森があることが地図に記されていますが、「富士の伝説」は、次のような一項を立てています。

■諏訪大明神即ち建南方刀美命の伝説
 今、富士嶽神社の本社の左手に小社を存し、諏訪大明神と崇敬せるは、即ち建南方刀美命を祀れるもので、祭祀について一つの伝説がある。
 昔、命、追はれさせたまうて、此地に入らせられた時、土民に議つて、無数の炬火を燃さしめられた。追手は之を見て、援兵多く列ると思うて去つたので、命は無事なるを得た。それが七月二十一日の夜であつたといふので、今もなほ旧暦の其夜に至れば、吉田の各戸、軒毎に槙を高く富士形に積んで、頂上から火を附けるといふが、炬火といひ、円錐形に曲線を描いた如き火山の富士山が、なほ活動を歇めざる姿を、歇めたる後に儀式として其模形を神事に祝うたことであつたかもわからぬ。

 建南方刀美命をいわゆるタケミナカタ(伊勢においては伊勢津彦)とみるか、あるいは小口伊乙さんのように諏訪の女神=宗像神とみるかで、この伝承の印象はずいぶんと変わってきます。諏訪において、地主神・洩矢神との争いの勝者はタケミナカタで、この神の祭祀は健在ですから、謎の「追手」をさらなる中央の祭祀権力とみるなら、わたしは後者のほうに加担してみたくなってきます。

118 寒川神社について 米子の金太郎 2005/02/13 (日) [19760]

ご無沙汰しています。去年寒川神社と富士浅間神社に行きました。9月の事です。夢で見たので、何処にあるのかも知らなかったのですが、何とか行ってきました。富士浅間神社も寒川神社も「水」に関係する神様かなと思いました。寒川神社の由緒を見たのですが、なんだか神名も良くわからないような感じで、去年からずっと気になっていました。富士浅間神社は、期待とは裏腹にひどく御神霊の気がないところに感じ、富士の御冷泉の水も、おいしくもなく私の感じ方が可笑しいのかもしれませんが、およそ霊験新たかな神社とは思えませんでした。寒川神社に参拝した折は、一点にわかに曇り、たたきつけるような雨が一瞬降り、その後一瞬にして晴れ渡ったりしたので、これはダダごとでない神様が居られるのだろうかと驚きました。いつもの事ですが、訳も解らず動かせていただいているので、少し不安になります。昨年と一昨年は、アボリジニの聖地に行かせていただきました。アボリジニの神話の中に「ドリームタイム」がありますが、彼らの崇める「虹蛇」という神様の概念が瀬織津姫様のイメージと重なりました。ある部族のシャーマンと逢ったのですが、日本との関わりを強く感じているそうです。私の考察は、まったく現実的でなく申し訳ないのですが、瀬織津姫様的な作用が強まってきているように感じました。久しぶりに書き込みさせて頂いた内容が、いつもながら根拠のないもので申し訳ありません。12月に小豆島にも行きましたが、まだ検証が出来ていません。又何か教えていただけたらと思います。富士の白糸の滝に行ったとき、珍しく写真を撮ったのですが、無数の珠が写っていました。不思議な事です、もののけ姫の映画に出てきた「こだま」みたいに感じました。あの滝も瀬織津姫様に関係あったのでしょうか?とにかく相変わらず訳の解らないまま動いております。

119 出雲一宮 安来久米 2005/02/14 (月) [19800]

 島根出雲の一宮は出雲大社と思っておられる方が多いのですが、実は出雲でも東部になる八雲町にある熊野大社が一宮です。出雲大社は別格なのです。
 この熊野大社の祭神はスサノオ、イザナミ等がありますが、隣接する安来市には伊邪那美の御神陵があります。古事記に「出雲と伯耆の境、比婆山に葬った。」とありますがその地に相当します。安産、祈願成就などで江戸期にはかなりの信仰を集めていたとのことですが、今は眺望の良い山頂にひっそりとたたずんで日本海を見つめております。

120 寒川神と富士文書 風琳堂主人 2005/02/20 (日) [19975]

 金太郎さん、お久しぶりです。
 寒川神については、囲炉裏夜話707「水主神とはなにか」でふれた以上のことはなにも調べたことがなくわかりません。ただ、遠藤秀男さんの『富士山の謎』を読んでいましたら、古絵図を基にした地図なのか(宮下文書に収録のものか)、そこに、現在の相模川の源流部は桂川ですが、その地図には「寒川」と書かれています。寒川は、宇津湖(承平七年[937]の富士山噴火で南北に分断され、その南に残った湖が現在の山中湖)から流れだしているように描かれています。寒川(→相模川)の河口部にあるのが、宮下文書=富士文書ともゆかり深い寒川神社で、同社は、やはり寒川の川神をまつるものとみてよさそうです。
 富士文書の作者は、徐福の末裔とされます。富士文書は、この徐福渡来の一節を、「富士山の北麓にやってきた徐福とその一行は、阿祖山大神宮に詣で、大室というところに住居を定めて、一族繁栄することになった」と記しているそうで、としますと、徐福が列島にやってきた紀元前三百年ころ、富士山北麓には、すでに「阿祖山大神宮」が存在していたということになります。その真偽はおくとしても、この阿祖山大神宮が寒川神社の起源とされます。では、富士山北麓から相模川河口の相模国高座郡へ阿祖山大神宮(→寒川神社)がなぜ遷っていったかといえば、それは、延暦十九年二月五日の富士山噴火の大量の溶岩によって一帯が埋まってしまったために移動を余儀なくされたからだとのことです(以上、遠藤秀男『富士山の謎』を要約)。
 これだけを読めばふうーんという話ですが、「延暦十九年二月五日」の富士山噴火の記述については、古地震、津波の研究者であるつじよしのぶさんから、次のような問題点があることが指摘されています。

■宮下文書=富士文書が抱えている問題点の一例
 溶岩が富士吉田から猿橋まで達したという記載である。放射性炭素による年代測定から、ここの溶岩流出は「新富士火山」の活動の初期にあたる、いまから一万年前から八〇〇〇年前のあいだのできごとであることが判明している。「宮下文書」のいうように、いまから約一二〇〇年前にすぎない延暦の噴火によるものではない。(つじよしのぶ『富士山の噴火』築地書館)

 放射性炭素による年代測定という現代の科学武器によって、宮下文書の記述の一節が「創作」であることが明かされています。この創作性、あるいはデタラメ性を抱えるものの、寒川神=阿祖大神が富士山神でもあるとしますと、この祭神伝承は、おそらく「正しい」ものとみる可能性は、宮下文書から抽出できるのかもしれません。
 白糸の滝の北、百メートルくらいの北ですが、そこに、朽ちかけた熊野神社が芝川沿いにあります。これが、白糸の滝神をまつる社で、そこに瀬織津姫がまつられています。今、富士山神とはなにかをあらためて考えているのですが、富士山神と柿本人麻呂はとても強い関係で結ばれていることがみえてきて、人麻呂と富士山のこの話は近いうちにここに載せるつもりです。

 安来久米さんの投稿については、なにか唐突な感もあってなんとコメントしてよいやらというところです。出雲の熊野大社の話については、囲炉裏夜話458「厳神之宮と出雲大社」をお読みいただければありがたいです。

123 富士山神と柿本人麻呂(1) 風琳堂主人 2005/02/26 (土) [20200]

 この上にいかなる姫のおはすらん おだまき流す白糸の滝──これは富士の巻狩の際の源頼朝の歌とされます(遠藤秀男『富士山の謎』大陸書房)。白糸の滝は富士山の伏流水が簾[すだれ]のように落下する景観ですが、この滝の「上」にはいかなる姫(神)がいらっしゃるのだろうかという頼朝の歌は、鎌倉時代の初期、富士山神がどんな神であるのかすでにはっきり認知されていなかったことを告げているようです。
 富士山神として木花開耶姫[このはなさくやひめ]の名が公的に語られるのはいつからかといいますと、そう古いことではありません。浅間大社の神官にわたしがたずねたときの返事は江戸期くらいからでしょうとのことでしたが、このことは、「この神(木花開耶姫)を浅間社の祭神と記した文献の初見が『集雲和尚遺稿』の慶長十九年(一六一四)の記事」という岩科小一郎さんの証言とも符合しています(別冊太陽『富士』)。岩科さんは、江戸期から遡っても「室町時代のことであろう」と推測しています。
 万葉集の時代、富士山神は「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」でした(巻三 319)。しかし、これほど重要な神が鎌倉期には不明、室町期〜江戸期においてようやく木花開耶姫とされる経緯の不思議さに、わたしたちはもっと注意をはらってよいのかもしれません。
 鎌倉期の前、つまり平安期においてはどうかといいますと、ここに伊豆山(日金山)の末代上人の存在が浮かんできます。この末代については、「駿河国に一上人あり、富士上人と号し、その名末代という。富士山登攀すでに数百度に及ぶ。山頂仏閣を構え、これを大日寺と号す」と『本朝世紀』久安五年(1149)四月十六日条に記される人物です(岩科小一郎「江戸庶民の富士信仰」、別冊太陽『富士』所収)。遠藤秀男『富士山の謎』は、「この山(富士山)を霊山として内外に認めさせたものは、噴火でもなく、浅間神社でもなく、一人の偉大な宗教家、末代上人そのひとであった」と書いています。久安五年(1149)という平安末期において、富士山の本地を大日如来と定めたのは、伊豆の末代上人のようです。
 この末代の事跡については、『本朝世紀』や『地藏菩薩霊験記』に書かれているとのことですが、遠藤秀男さんは、『地藏菩薩霊験記』にみられる末代の逸話として、信者から、富士山の祭神は、男神であるか女神であるか、富士山と琵琶湖の関係伝承でいえば、山は陽(男)、湖は陰(女)で、そのあたりの解釈がはっきりしない、ほんとうのところはどうなのかという問いを受けて窮します。末代は、神の啓示をうけるため、「御岳の半に座して、樹下石上にして、百日断食して、正しく神体を拝み奉るとぞ祈りぬ」と書かれ、この断食行の満願の朝に、ついに神=富士山神の言葉を聞いたとされます。曰く、「汝に私の姿を見せようと思うが、その前に、汝の場所から東南に百八歩あるいて地を掘って見よ」と──、末代はいわれるままに「地を掘って」みると、そこには「一尺八寸ほどの水晶」があったとのことです。この水晶は、形は富士山に似て燦然と輝いていて、これをみつめているとき、末代は「神仏に男女の差なし。人間をこえて尊し」と悟ったとされます。
 遠藤さんは、この末代の逸話に対して、「富士山中から水晶が発見されるわけがないから、この所伝は信じがたいものがあり、御神体の有無に窮した末代の演技だったと考えられるふしもある」と、ある種、常識的なコメント(評)を添えています。地質学的にみて、富士山から水晶が採れるのかどうかは知りませんけど、富士山神の「御神体」が水晶であるというこの神託伝承で興味深いことがあるとすれば、水晶=水精を神体としていたもう一つの伝承として、「熊野権現の事」があることです。

■熊野権現の事
 熊野権現についてお話しよう。役の行者・婆羅門僧正、この二人はいずれも熊野権現の本地を信仰された。まず熊野権現の縁起によると、この神は昔甲[きのえ]寅の年、唐の霊山(天台山か)から王子の旧跡を慕って、日本の西国豊前[ぶぜん]の国彦根の大嶽(英彦山)に天下られた。その形は八角形の水精[すいしょう]の石で、高さは三尺六寸であった。その後あちこちに居所を求めて長い年月を送った末、はっきりと熊野権現として出現された。(貴志正造訳『神道集』)

 文中の「熊野権現の縁起」は「長寛勘文」(長寛二年)に引用されている「熊野権現御垂迹縁起」のことですが、熊野神は「八角形の水精の石で、高さは三尺六寸」を神体石としているとのことです。熊野神は英彦山に降り立つも「その後あちこちに居所を求めて長い年月を送った」とあり、その「居所」の一つとして富士山もあったかと想像するのは楽しいです。頼朝によって歌われた「白糸の滝」の滝神もまた熊野神であり、この末代の逸話は、富士山神と熊野神の類縁をかすかに暗示している神託伝承といってよいかもしれません。
 ともかく、平安時代末期(末代の時代)においても、富士山神がはっきりしないことを証言していたのが末代伝承です。
 時代をもう少し遡ってみます。平安時代中期(927年)に成書化される延喜式神名帳によれば、「駿河国富士郡浅間神社(明神大)」とあります。しかし、この社の地にはかつて冨士神社がまつられ、それを追放するかたちで現在の浅間大社ができます。元地を譲るかたちとなった冨士神社は現存していて(現鎮座地:富士宮市朝日町)、その祭神は大山祇命とされます。大山祇命が当初からの祭神であったかどうかはともかく、富士山神をまつる元神の社として、この冨士神社はあるようです。
 平安時代初期、漢詩人であり、国史『文徳実録』の編集者の一人でもある都良香[みやこのよしか](834─879)によって、「富士山記」が書かれます。同文書は、富士山頂の状況を記した日本最古の文献といわれます。これはとても貴重な史料といってよく、以下に全文(訓読文)を記します。

■都良香「富士山記」
 富士山は駿河の国に在り、峯削り成せるが如し、直く聳えて天に届けり、其の高さ測る可からず。歴く史籍の記する所を覧るに未だ此の山より高き者は有らざるなり。其の聳えたる峯鬱[サカリ]に起りて、見るに天際に在つて、海中を臨み瞰る、其の霊基の盤り連る所を観るに、数千里の間に亙れり。行旅の人、数日を経歴して乃ち其の下を過ぐ、之を去つて顧み望めば、猶山の下に在り、蓋し神仙の遊萃する所なり。承和年中に山峯より落ち来れる珠玉あり、玉に小なる孔あり、蓋し是れ仙簾の貫珠なり。又貞観十七年十一月五日に、吏民旧きに仍つて祭りを致す、日午に加つて天甚美く晴る。仰いて山峯を観るに、白衣の美女二人有つて、山の巓の上に双ひ舞ふ、巓を去れること一尺余、土人共に見る。古老伝へて云く、山を富士と名くることは、郡の名に取れるなり。山に神有り、浅間の大神と名く。此の山の高きこと雲表を極めて幾丈と云ふことを知らず、頂の上に平地有り、広さ一許里、其の頂の中央窪み下りて、体炊甑の如し。甑の底に神池有り、池の中に大いなる石有り、石の体驚奇にして、宛も蹲まる虎の如し。亦其甑の中に気有て蒸し出す、其の色純青なり、其の甑の底を窺へば、湯の沸騰するが如し。其の遠きに在つて望む者、常に煙火を見る。亦其の頂の上に匝れる池ありて竹を生ぜり。青紺柔軟にして宿雪春夏消えず、山の腰より以下小松生ひたり、腹より以上は復生ひたる木無く、白沙山を成せり。其の攀じ登る者、腹の下に止つて、上に達することを得ず、白沙流れ下るを以てなり。相伝ふ昔役[エン]の居士と云ふもの有りて、其の頂き[ママ]に登ることを得たり、後攀じ登る者、皆額を腹の下に点[ツ]く。大いなる泉有つて腹の下より出づ、遂に大河を成せり、其の流れ寒暑水旱にも、盈縮有ること無し。山の東の脚の下に小山有り、土俗之を新[ニヰ]山と謂ふ、本は平地なり。延暦廿一年三月、雲霧晦冥にして、十日にして後に山を成せり、蓋し神の造れる也。(深田久弥編『富士山』昭和十七年、旧字は一部新字に改めた)

「承和年中に山峯より落ち来れる珠玉あり、玉に小なる孔あり、蓋し是れ仙簾の貫珠なり」といった富士山の不思議を含め、平安期(九世紀)において、富士山頂部がこれだけ活写されているのは驚きといえます。
「山に神有り、浅間の大神と名く」、山頂部には「甑[こしき]」のようなすり鉢状の窪地があり、そこには「神池」があって、純青の蒸気(煙火)を噴き出している、あるいは、山頂部を巡るようにして「池」があり、そこには「竹」が生えているとのことで、ここに、貞観十七年十一月五日の祭祀時に現れた、山頂に舞う「白衣の美女二人」といった目撃談を重ねますと、月神・かぐや姫の存在へと類想も広がります。また、「大いなる泉有つて腹の下より出づ、遂に大河を成せり、其の流れ寒暑水旱にも、盈縮有ること無し」といった描写を読みますと、山頂部の神池のことといい、後世の末代の神託伝承のこともありますが、「水」の思想に強く彩られた富士山神がイメージされてきます。
 富士山記には、文武三年(699)に伊豆大島に流された役小角の富士山登攀伝承も収録されていて、この小角伝承に象徴されますが、都良香の前に、富士山頂の神池を垣間見た者がいたようです。しかし、都良香は富士山には浅間大神と名づけられた「神有り」と記すも、それ以上語ることをしておらず、九世紀の平安時代に遡っても富士山神は謎のベールに包まれたままです。
 おもえば、末代ゆかりの伊豆山においても、風土記の時代に、すでに「瓊瓊杵尊荒神魂」を伊豆山(日金嶽)にまつると記されていたわけで、富士山神もかなり古い時期に祭神の曖昧化を余儀なくされていた可能性があります。
 万葉集において、たとえば「吾妹子にあふよしをなみ駿河なるふじの高嶺のもえつゝあらむ」(よみ人しらず)といった恋歌とは異質な位相で富士山を歌っていたのが山部赤人でした。

■山部赤人の不盡讃歌
  山部宿禰赤人、不盡山を望める歌一首並に短歌
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布土[ふじ]の高嶺を 天の原 ふり放[さ]け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡の高嶺は
  反歌
田児の浦ゆうち出[い]でて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪はふりける(『万葉集』巻三、317、318)

 万葉集の編者は、この赤人の歌のあとに、あの「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」というフレーズをもつ富士山讃歌をつづけています。
 万葉集には収録されませんでしたが、富士山を歌っていた歌人がもう一人いました。それは、持統との齟齬のあと、藤原不比等と元明によって「死」をもたらされたとみられる柿本人麻呂です。人麻呂の貴重な富士山歌を紹介します(つじよしのぶ『富士山の噴火』築地書館)。

■柿本人麻呂の富士山歌T
ふじのねのたえぬ思ひをするからに 常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる(『柿本集』)
ちはやふる神もおもひのあればこそ としへてふじの山ももゆらめ(『拾遺和歌集』)

 人麻呂がいつ富士山を実見したのかということについては、石見国風土記(逸文)の次の記述が参考になるかとおもいます。

■柿本人麻呂の「左遷」
 石見風土記に曰はく、天武の三年八月、人丸、石見の守に任ぜられ、同九月三日、左京の大夫[かみ]正四位上行に任ぜられ、次の年三月九日、正三位兼播磨の守に任ぜられき。爾来[それより]、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙の御宇に至るまで、七代の朝[みかど]に仕へ奉りし者か。こゝに持統の御宇に、四国の地に配流せられ、文武の御宇に、東海の畔[さかひ]に左遷せられき。子息の躬都良[みつら]は隠岐の嶋に流されて、配所に死去[し]にき。(武田祐吉編『風土記』岩波文庫)

 人麻呂は、文武の死の翌年の和銅元年(708)四月二十日、不比等と元明によって「死」が与えられた可能性が高く(梅原猛『水底の歌』)、としますと、風土記の天武〜孝謙という「七代の朝[みかど]に仕へ奉りし者か」というのはあくまで推測の域を出ないものと考えられます(天武〜孝謙の「七代の朝」を西暦に換算すると673〜758年の85年間となり、時間的にみても無理があります)。
 風土記はその配流の理由を述べていませんが、人麻呂の子息・躬都良[みつら]は、大津皇子の「謀反」に連座して隠岐島へ流され二年後に亡くなったというのが隠岐島側の伝承です(野津龍『隠岐島の伝説』鳥取大学教育学部)。
 風土記は人麻呂について、持統の時代に「四国に配流せられ」たあと、「文武の御宇に、東海の畔[さかひ]に左遷せられき」と述べています。配流→左遷という二度の受難に人麻呂の悲劇は暗示されているというべきですが、人麻呂にとって、「宮廷歌人」の座はもうないとしても、朝廷は、彼から歌人[うたびと]の心までは剥奪できなかったものとおもいます。
 人麻呂が「左遷」(配流とほとんど同義)された「東海の畔[さかひ]」を具体的にどこと特定できませんけど、人麻呂歌に「大船の香取の海に錨[いかり]おろしいかなる人か物おもはざらむ」(万葉集巻十一 2436)と、自身を「いかなる人か物おもはざらむ」と客体視した歌があり、下総・常陸国あたりが「東海の畔[さかひ]」になるのかもしれません。また、この「香取の海」への航行の前とみられる歌に、「足柄の御坂につかん玉くしげ 箱根の山のあけんあしたに」があり(川崎敏『富士箱根』木耳社)、こういった東下りのときの歌からその旅程を想像しますと、人麻呂の眼は富士山を確実にとらえていたものとおもわれます。なお、「玉くしげ」は箱あるいは箱根にかかる枕詞で、「あけ」は箱根の縁語とされます。
「ふじのねのたえぬ思ひをするからに常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる」には、人麻呂自身の無念と富士山(ふじのね)の「たえぬ思ひ」がだぶって歌われているとみられますし、「ちはやふる神もおもひのあればこそとしへてふじの山ももゆらめ」には、富士山神にも「おもひ」がある、それゆえに年を経ようが「ふじの山ももゆらめ」と、富士山神の燃え立つ姿に、これも自身の「おもひ」を重ねるように、歌の想像力を働かせています。
 ちなみに「ちはやふる」という枕詞は、まず「宇治」という地名にかかるというのが辞書の解説で、さらに地名でいえば、「伊豆」にもかかるとされます(『日本国語大辞典』小学館)。地名にこだわらなければ「荒ぶる神」にかかる枕詞として、この「ちはやふる」はあります。
「ちはやふる」が「宇治」にかかる枕詞ということでいえば、養老六年(722)、天皇(あるいは藤原房前)批判をしたとのことで斬刑に処されるところを首皇子(聖武)の助言によって死を免れた穂積朝臣老が佐渡へ配流されるときの万葉歌、つまり「穂積朝臣老の佐渡に配[なが]さえし時作れる歌」の詞書をもつ「ちはやぶる宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬を見つつ渡りて云々」も想起されるところです(巻十三 3240)。あるいは、作者不詳とされるも、「ちはやぶる宇治の渡[わたり]の瀧つ屋の云々」(巻十三 3236)の歌を挙げることもできますし、類歌としては、人麻呂自身の歌で「ちはや人宇治の渡[わたり]のはやき瀬にあはずありとも後はわが妻」(巻十一 2428)もあります。では、この「宇治の渡」の「たぎつ瀬」「瀧つ屋」「はやき瀬」の神はなにかといいますと、山城国風土記(逸文)が「宇治の瀧津屋は祓戸[はらひど]なり」と伝えているように、祓戸神、つまり、宇治川上流の桜谷で大祓神とされた桜谷明神=瀬織津姫[せおりつひめ]という滝神の存在がみえてきます。あるいは、伊勢の五十鈴川の異名もまた宇治川で、宇治川=五十鈴川の「荒ぶる神」(=荒魂神)とは伊勢神宮の元社・荒祭宮の神のことで、この神も祓戸神とされ、しかも「八十禍津[やそまがつ]日神」「天照大神荒魂」などと貶称された瀬織津姫という神です。さらにいえば、「ちはやふる」がかかる「伊豆」の秘神にしても、遠野郷の伊豆神社は、これも伊豆大権現=瀬織津姫と伝えています。
「ちはやふる」という枕詞をもつ歌は万葉集に多くあるわけではありません。この枕詞が宇治などの地名ではなく「荒ぶる神」にかかる例とみられる歌に、「ちはやぶる金[かね]の岬を過ぎぬとも吾[われ]は忘れじ志珂[しか]の皇神[すめがみ]」(巻七 1230)があります。この歌は作歌者の名が記されていませんけど、わたしは穂積朝臣老の歌とみています。老は、先に引用した「ちはやぶる宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬を見つつ渡りて云々」という配流時の長歌に対する反歌に「天地[あめつち]を嘆き乞ひ[ふ]のみ幸[さき]くあらばまた還[かへ]り見む志賀の辛崎[からさき]」(3241)を残しています。運がよければ配流先(佐渡)から還ってきてまた「志賀の辛崎」を見るだろうという歌意です(老は十八年間という長い配流の時間を経て、天平十二年に無事に還ってきます)。琵琶湖畔の志賀(志珂)の地の辛崎(金[かね]の岬)は唐崎とも表記されますが、この辛崎=唐崎の神が(荒ぶる)「皇神[すめがみ]」と歌われていることは重視しないわけにいきません。琵琶湖の湖畔には、ここにも、禊祓いの神として辛崎=唐崎の神がまつられています。歌に出てくる志賀(志珂)の辛崎にも唐崎神社がありますが、湖北のマキノ町にある唐崎神社には祓戸神として瀬織津姫がまつられています。あるいは、下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内には同社摂社の御手洗社=井上社がありますが、ここは平安期に七瀬祓の一つとされた社で、同社の古名は唐崎社でした。この唐崎神=御手洗神もまた瀬織津姫です。
 このようにみてきますと、「ちはやふる」という枕詞は、宇治・伊豆や荒ぶる神にかかることはそのとおりでしょうが、しかしさらなる本意としては、瀬織津姫という神にこそかかる枕詞であったようです。古代、その神が畏敬の対象であればあるほど、神名は露わに言葉に載せることはありませんでしたから、万葉集に「瀬織津姫」という神名が一つも出てこないことはむしろ当然であったとおもいます。
「ちはやふる神もおもひのあればこそ としへてふじの山ももゆらめ」──この人麻呂歌は、伊勢(神宮祭祀)の絶対秘神でもある神(荒ぶる「皇神[すめがみ]」)が富士山神でもあると述べていることになり、この人麻呂歌一首は、富士山の初源の神とはなにかを考える上で、これ以上の証言歌はないというように存在しています。

125 サイト開設 PONTA 2005/03/03 (木) [20400]

古代史研究サークルPONTAでは、「三遠南信応援団」を開設しました。
http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/index4.htm
『エミシの国の女神』「持統女帝伊勢行幸の謎」(pp.131-14)拝見させていただきました。『万葉集』の柿本人麻呂の歌(42)「潮騒に伊良湖の島へ漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島みを」は持統天皇伊勢行幸の時の歌です。なぜ伊勢に行くのに舟で伊良湖へ行くのでしょうか? 通り道ではないと思いますが。(伊勢神宮に参拝したあと、阿胡行宮に足をのばし、志摩の海で遊んだのを歌ったらしい。)

126 ちはやぶる PONTA 2005/03/05 (土) [20450]

PONTAのサイトの「日本武尊」というページに、草薙剣の話を載せました。
そこに「甚道速振神也」(いとちはやぶる神なり)とういう表現が出てきます。
『古事記』の解説書には、「荒ぶる神」は、強い悪の力を持つので警戒するが、「ちはやぶる神」は強い力を持つが、悪というわけではないので、どんな神かみてやろうと思って軽い気持ちで野に入って行ったので、火をつけられたと書かれていました。
『古事記』が書かれた時代はそういう使い分けをしていたということでしょうね。

127 持統伊勢行幸と柿本人麻呂 風琳堂主人 2005/03/05 (土) [20480]

 此の野の中に大沼有り。是の沼に住める神、甚[いと]道速振[ちはやぶる]神なり──これは、相武[さがむ]国(相模国)の国造がヤマトタケル(小碓命)に告げた言葉とされます(古事記)。タケルは、この言葉を聞いて「野」に入っていって、国造による焼き討ちに遇います。
 古事記の編者(作者)が、「沼に住める神」を「道速振[ちはやぶる]神」と記していたこと──、これもまた貴重な証言とみることができます。柿本人麻呂の「ちはやふる神」の富士山歌からみえてきたのは滝神という性格でしたが、ここでは沼神とされ、いずれにしても水神の諸態の一つということになります。
 古事記が記す相武[さがむ]国(相模国)の「大沼」とはどこのことかと想像を巡らせますと、わたしにまず浮かぶのは、箱根・芦ノ湖です。ここの湖水神(地主神)は九頭竜神あるいは駒形神とみられ、九頭竜神ならば白山の地神、駒形神ならば善光寺の地神=ミノチ神と同一神ということになります。いずれにしても、瀬織津姫という神をさして「ちはやふる神」と呼んでいた可能性はより強くなってきます。
 古事記は、「小碓命は、東西[ひむがしにし]の荒ぶる神、及[また]伏[まつろ]はぬ人等[ひとども]を平[ことむ]けたまひき」と、征討の対象は「伏[まつろ]はぬ人等[ひとども]」ばかりでなく「荒ぶる神」も含まれていると書いています。同じことですが、タケルは「東の方十二道の荒夫琉[あらぶる]神、及[また]摩都樓波奴[まつろはぬ]人等[ひとども]を言向け和平[やは]せ」と景行の勅命を受けたとも書いています。
 タケルにとって、こういった勅命によって東征していることを考えますと、「道速振[ちはやぶる]神」も「荒ぶる神(荒夫琉[あらぶる]神)」も同じことだったはずで、それゆえに「国造」の言に乗せられて「野」に入っていったのでしょう。古事記を読むかぎり、タケルは「ちはやふる神」がいる「大沼」にたどりつく前に野焼きに遇っていますから、どうやら、この神は「平[ことむ]け」されずにすんだことがうかがえます。
 ところで、古事記における、この相武[さがむ]国(相模国)の国造の言葉は日本書紀ではまったく消去されます。消されたのは相模国の沼神「ちはやふる神」の記述だけでなく、舞台も駿河国の焼津へと変わり(焼津の地名譚となる)、国造もただの「賊」とされます。
 ヤマトタケルが相武[さがむ]国(相模国)まで行くということは、その道行きからしますと、人麻呂によって歌われた「ちはやふる神」=富士山神も「平[ことむ]け」の対象神とせざるをえなくなるということになり、もしこの征討が「勅命」どおりに実施された(書かれた)としますと、タケルは、おそらく伊吹山まで命がもたなかっただろうと想像されます。古事記の文脈からいえば、ヤマトタケルが富士山の「ちはやふる神」を「平[ことむ]け」しなかったことは、これは「勅命」に反していたことになり、日本書紀の編者もこういったことに気づいたのかもしれません。
 古事記が書かれた時代というのは七世紀後半の天武・持統の時代で、同書は元明の時代(712)に成書化されます。この時代は、柿本人麻呂が生きた時代でもあります。

 人麻呂が宮廷歌人として、持統女帝との関係にまだ決定的な亀裂を生じる前の時代の作として、持統の伊勢行幸(持統六年[692]三月)を都で遠望するように歌った短歌三首があります(『万葉集』巻一 40〜42)。人麻呂の研究世界では、これを「留京三首」と呼んでいるようです。

■人麻呂の「留京三首」
 伊勢国に幸しし時、京に留まりて柿本朝臣人麻呂の作れる歌
 嗚呼見[あみ]の浦に船乗[ふなのり]すらむをとめらが玉裳[たまも]の裾に潮満つらむか
 くしろ著[つ]く手節[たふし]の崎に今日[けふ]もかも大宮人の玉藻[たまも]刈るらむ
 潮騒[しおさゐ]に伊良虞[いらご]の島辺[しまべ]こぐ船に妹乗るらむか荒き島廻[しまみ]を

 歌意は、第一歌「嗚呼見の浦で船に乗ろうとしているおとめたちの美しい裳の裾に潮が満ちているだろうか」、第二歌「(釧つく)答志の崎で今日あたり、大宮人が玉藻を刈っているだろう」、第三歌「潮がざわめく伊良虞の島の辺りを漕ぐ船に妹は乗っているだろうか。あの荒い島の辺りを」とされます(寺田英代、『柿本人麻呂《全》』笠間書院)。
 持統女帝の伊勢行幸については、中納言三輪朝臣高市麻呂による身を賭しての中止要請を振り切って実行されたことが、日本書紀にも万葉集にも書かれています。しかし、この持統の行幸の目的がなんであったかはどこにも書かれておらず、十年後の彼女の三河行幸も同じく謎めいていますが、いまだ定説がありません。
 しかし、神話学・歴史学からではなく、人麻呂(万葉集)研究者の間から、次のような鋭い考察がなされています。

■持統の伊勢行幸の目的
 もともと伊勢は、「神風[かむかぜ]の伊勢の国、常世[とこよ]の浪寄する国」といわれる聖地であるが、持統にとっては何よりも天武天皇との繋がりを確認できる場所であった。それは、行幸の翌年、持統七年(八年の誤記…引用者)に持統天皇が天武天皇の法会の夜、夢裏に詠んだ巻2・一六二番歌にうかがうことができよう。歌には伊勢の国におりたつ天武天皇が描かれているが、湯川久光は、この御歌と伊勢行幸との相関関係を示唆し、これが、前年の行幸時に執り行なわれた神宮皇祖神化の成就した証であり「夢の啓示」であるという。つまり、伊勢が「皇祖神の坐す」国として確定したために、皇祖に連なる天武がそこに示現したのである。遷都の成功祈願はもちろんなされたであろうが、一六二番歌の存在からも、神宮の皇祖神化がこの行幸の重要な目的であったと考えてよいであろう。三輪氏たる高市麻呂の事件はこうした持統天皇の行幸目的に反対してのものであった。(寺田英代「留京三首」、『柿本人麻呂《全》』所収)

 湯川久光、寺田英代二氏の視点は『エミシの国の女神』から千時千一夜への視点と、ほぼ過不足なく重なります。「神宮の皇祖神化」が伊勢行幸の「重要な目的」だとしますと、その普遍化(皇祖神の存在と抵触する神々の排除)の試みが、この行幸の十年後にあたる大宝二年(702)の三河行幸ではないかというのが『エミシの国の女神』の仮説です。
 なお、引用文中にある、持統の「巻2・一六二番歌」もここにみておきます。

■持統による天武斎会の歌
 天皇崩[かむあが]りましし後、八年九月九日、奉為[おほみため]に御斎会[おほみをがみ]せし夜、夢[いめ]の裏[うち]に習ひ賜へる御歌一首
 明日香[あすか]の 清御原[きよみはら]の宮に 天[あめ]の下 知らしめしし やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子[みこ] いかさまに おもほしめせか 神風[かむかぜ]の 伊勢の国は 沖つ藻[も]も なみたる波に 潮気[しほけ]のみ かをれる国に うまごり あやにともしき 高照らす 日の皇子

 持統八年(694)九月九日の歌作日付をもつこの歌には、亡き天武が「高照らす 日の皇子」と二度歌い込まれています。「神宮の皇祖神化」は天武の悲願であり、彼は中途で挫折するも、その遺志を継承し実現したのが持統でした。彼女は、この実現の報告を、「夢[いめ]の裏[うち]」で、亡き天武へ「歌」によってしているようです。「神宮の皇祖神化」をわたしは果たした、「高照らす 日の皇子」はこれを「いかさまに おもほしめせか」(どのようにお思いでしょうか)というわけです。この歌の真意を、人麻呂が理解していなかったとは考えにくいです。
 持統の伊勢行幸、これは持統の決行といってもよい果断な行幸でしたが、都で、それを歌に詠んだのが引用の人麻呂歌三首です。特に第三首めの「潮騒[しおさゐ]に伊良虞[いらご]の島辺[しまべ]こぐ船に妹乗るらむか荒き島廻[しまみ]を」(歌意「潮がざわめく伊良虞の島の辺りを漕ぐ船に妹は乗っているだろうか。あの荒い島の辺りを」)には「妹」という女性対象の言葉が出てきますが、これを「妹背」の妹、つまり女性の恋人という意でとらえることはできません。また、「荒き島廻[しまみ]」とはなにかという問いもあります。
 まず、ここに歌われている「妹」ですが、寺田英代さんは「荒ぶる神(海神)に対峙する『妹』」というとらえかたをしていて、「『妹』を乗せた船が荒ぶる海に向かっていく姿は、海神(国つ神)に対する天皇の立場・姿勢そのものを示している」(前掲書)と鋭い指摘をしています。つまり、人麻呂は「伊良虞の島の辺り」をゆく船に乗っている「妹」を、天皇=持統その人と想像して歌ったことになります。
 伊良湖岬から伊勢(鳥羽)にかけては、神島、答志島、菅島、坂手島を中心に小さな島々が点在し、まさに、ここは島=志摩国の名称がふさわしいところです。持統は、これらの「島廻[しまみ]」をしている、しかも、それが「荒き島廻[しまみ]」であると人麻呂は歌っているわけです。第二歌には「手節[たふし]の崎」という地名が出てきます。これは、現在の答志島を指しています。こういった具体的な島名(崎名)を土地勘のない都人が前もって歌えるとはおもえず、これらの歌は、あるいは、持統の行幸帰還後に、その行幸譚を元に歌ったと考えたほうが無理がないのかもしれません。
 持統が「島廻」を行った島々には、では、どんな(島)神がまつられ信奉されていたのかと想像しますと、答志島、菅島の対岸の加布良古[かぶらこ]崎に鎮座する神(宗像神)が象徴していますが、今も志摩の海民の信奉を一身に得ている「かぶらこさん」の親称をもつ志摩大明神、つまり、伊射波神=伊雑神であった可能性が高いだろうとなります。「神宮の皇祖神化」によって、神宮関係社で、もっとも激しい祭祀改竄をこうむったといっても過言ではないのが伊雑宮でしたが、この伊雑神=宗像神が、たとえ本社筋の伊雑宮から消去されたとしても、皇祖神が立ち上げられた時点では、まだ周辺の島々には同神の健在祭祀がなされていたことが考えられます。滝原宮・同並宮、朝熊神社・同御前神社、伊雑宮など、神宮近在の社々が持統の意向にやむなく従ったとしても、周辺の島々ではそんなことには関係なく、神宮の元神まつりが継続されていたとしますと、持統の心中は穏やかではなかったでしょう。持統の伊勢行幸は、「神宮の皇祖神化」の近在周辺(の島々)への徹底化を図ること──、まさに「荒き島廻」をもう一つの「目的」としていたのではないかと、新たな仮説をここに提出しておきます。

(追伸)
「富士山神と柿本人麻呂(2)」を用意中ですが、それとも関わる話ですので、先にこれを載せます。PONTAさん、よいヒントをいただきました。魅力的なサイトに育てていってください。

128 なるほど PONTA 2005/03/07 (月) [20530]

>ここでは沼神とされ、いずれにしても水神の諸態の一つということになります

ですね。
「草薙」「野焼き」と言われると、野原のイメージですが、野原の神ではなく、そこにある沼の神ですよね。

>箱根・芦ノ湖です。

なるほど。
『古事記』では相模、『日本書紀』では駿河となっていて、どちらが正しいかと問題にされます。当時の地図はないのでよく分かりませんが、芦ノ湖だと、相模と言っても、駿河と言っても、伊豆と言ってもいいかもしれませんね。

>持統の伊勢行幸は、「神宮の皇祖神化」の近在周辺(の島々)への徹底化を図ること

神島からは宝物館を作るほど多くの物が出土していますね。皇族が訪れたのかもしれません。麻続王かな?
神島と言えば、奇祭・ゲータ祭。「天に二陽なし」の意味は、「太陽神はアマテラスだけで、アマテルは違う」と持統天皇に言わされてるのか、逆に「太陽神はアマテルだけで、アマテラスは持統天皇と藤原不比等が作った」という意味なのか?
最近「持統天皇と藤原不比等はともに天智天皇の子」という説があることを知って、「ああ、それで気が合うのか」と妙に納得しちゃいました。

>魅力的なサイトに育てていってください。

ありがとうございます。
AYA先輩渾身のページ「村積山」レベルのページが私も書けるようになりたいです。

130 ゲータ祭 PONTA 2005/03/09 (水) [20620]

ゲータ祭の「天に二陽なし」の出典は上宮大娘姫王の「天に2つの日無く、国に2つの王無し」ですかね。

131 三河国の語源 PONTA 2005/03/09 (水) [20620]

『エミシの国の女神』の記載内容について。
p.181〜182に「三河の国号については・・・天竜川・豊川とこの矢作川・・・はまちがいである。・・・「賀茂の御河」・・・まったくそのとおりだとおもう。」とありますね。

私も、天竜川・豊川・矢作川で三河は間違いだと思います。『三河国風土記』(逸文)では矢作川・男川・豊川で三河とありますので、PONTAではこれを正解としています。
最近、「豊川は穂国であるから三河国の川ではない」と主張される方が増え、それに伴って「三河の語源は御河・美河」という主張も増えてきていますね。
ただ、PONTAの調査では、今のところ、穂国が存在したと示す史料は『先代旧事本紀』のみで、他の「穂」が出てくる史料は「三川穂評」「三川之穂」とあり、これは、三河国穂評→穂郡→宝飯郡のことかと思います。また、『先代旧事本紀』を見ると、知波夜命を参河国造に任命したのは成務天皇、菟上足尼を穂国造に任命したのは雄略天皇ですので、成務天皇の時代には三河国があり、知波夜命を国造に任命したが、穂国は無かった。雄略天皇の時に三河国の一部が穂国として独立したので国造を任命したが、大化の改新でまた三河国に吸収されたと考えられます。

いずれにせよ、。『三河国風土記』(逸文)にあるように、三河の語源は矢作川・男川・豊川であり、「三河国」「三川国」「参河国」です。「美河国」「御河国」という表記はまだ見たことがありません。

ちなみに、「三河地名発祥の地」である巴山の石碑でも三河の語源は矢作川・男川・豊川となっています。

132 富士山神と柿本人麻呂(2) 風琳堂主人 2005/03/10 (木) [20630]

 柿本人麻呂は、「ふじのねのたえぬ思ひをするからに 常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる」「ちはやふる神もおもひのあればこそ としへてふじの山ももゆらめ」という貴重な富士山歌二首のほかに、実は富士山歌をもう一首歌っていたことが、「諏訪縁起の事」「熊野権現の事」の作者(安居院[あぐい]と仮称される)による「富士浅間大菩薩の事」に書かれています。
 ここで「安居院」について少しふれておきますと、「諏訪縁起の事」等を含む『神道集』のこの作者は、各巻のはじめに安居院と署名していたため、『神道集』の作者の仮称としてみられています。『神道集』(東洋文庫)の解説によりますと、安居院は、「比叡山東塔の竹林院の里坊の名」とのことで、京都市上京区の現在の西法寺がその跡地とされます。安居院は平安末期に天台系から法然の浄土宗系に転向したとされ、このことが、室町期の初期に成る『神道集』が、同じ神仏混淆・本地垂迹譚を語るにしても、国家仏教的な発想とは対極的な内容で書かれている理由かとおもいます。以下、わたしも安居院を仮の作者名として書きますが、「諏訪縁起の事」にみられるように、安居院は、この国の神まつりの真相をかなり理解していた人物です。
 たとえば、安居院は「諏訪縁起の事」において、富士山神=浅間大明神の出現譚を次のように書いていました(貴志正造訳『神道集』)。

■春日姫は諏訪「下の宮」の神、維摩姫は浅間大明神
 夫婦二人(甲賀三郎と春日姫)は車(天の早車)に乗り、兵主大明神の使者とともに信濃の国蓼科の嶽に到着した。梅田、広田、大原、松尾、平野などの大明神たちも集まり、後につき従われた。信濃の国の岡屋の里に立って、諏訪大明神という名で上の宮として出現された。〔中略〕
 また春日姫は、下の宮として現われた。維摩姫(三郎の異界における妻神)もこの国に渡って来て、神と現われたが、春日姫と対面して、互いに別れることを嘆き合い、同じ国内に住みましょうと宮地をえらんで社を建てた。今の世に浅間大明神というのがこれである。

 大祓祝詞の文言(呪力)をすべて反転させて数々の「徳」を身につけたとされる春日姫(瀬織津姫の比喩)でしたが(千時千一夜78「再録◆諏訪縁起と瀬織津姫」参照)、この神の異界の分身である維摩姫の方は、春日姫と「互いに別れることを嘆き合い、同じ国内に住みましょう」と浅間大明神(=富士山神)となったと書かれています。これは一見荒唐無稽な話にみえますが、日本の神まつりへの鋭い認識が基盤にあってこその寓意的物語と読めます。
 さて、「富士浅間大菩薩の事」における人麻呂の歌です。安居院は、富士山の仙女・赫野[かくや]姫と、彼女と「夫婦約束」をした謎の国司が姫を追って昇天したのち、二人は「神として現われて、富士浅間大菩薩とよばれた。男体・女体がある」と、富士浅間大菩薩には男神と女神の二体が秘められているとしたあと、次のような人麻呂歌を紹介しています。

■柿本人麻呂の富士山歌U
 また富士の根の雪は、六月十五日にだけ消えて、その日の戌[いぬ]の時(午後八時)に必ずまた降るという。だから柿本人麿の歌にも、
  富士の根にふりみつ雪はみな月のもちに消えてはその夜降りけり
とある。

 安居院は、この富士山歌の一行を人麻呂の歌として引用していますが、この人麻呂歌は、実は、これまで高橋虫麻呂の歌であると通説化されてきたものでした。
 これまで、虫麻呂の歌とみてきた富士山讃歌を万葉集の詞書をも含めて再読してみます。

■謎の富士山讃歌(『万葉集』巻三 319〜321)
  不盡山を詠める歌一首並に短歌
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も とびも上らず もゆる火を 雪もち消ち ふる雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊[くす]しくも います神かも 石花[せ]の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮[しづめ]とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも
  反歌
不盡の嶺[ね]にふりおける雪は六月[みなつき]の十五日[もち]に消[け]ぬればその夜降りけり
不盡の嶺[ね]を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを
   右の一首は、高橋連虫麻呂の歌の中に出でたり。類を以てここに載す。

 最初の反歌「不盡の嶺[ね]にふりおける雪は六月[みなつき]の十五日[もち]に消[け]ぬればその夜降りけり」は、安居院が人麻呂歌として引用した「富士の根にふりみつ雪はみな月のもちに消えてはその夜降りけり」とくらべたとき、「ふりおける」と「ふりみつ」、「消[け]ぬれば」と「消えては」という二箇所が微妙に異なるものの、これは同一歌とみなせます。
 この反歌が人麻呂の歌としますと、その前の長歌も人麻呂が歌っていることになります。安居院による「富士浅間大菩薩の事」でのさりげない引用はぞっとするほど重要です。
 引用の万葉集歌における末尾の「右の一首」を、長歌を含む「一首」(数でいえば三首)とみる、つまり全体を高橋虫麻呂の歌とみなす解釈が通説化していて(佐々木信綱にはじまる)、わたしもそのように理解してきましたが、安居院はこの通説理解に一石を投じていることになります。そうおもってこの歌を再読しますと、同じく末尾の「類を以てここに載す」という添え書きが、二つの反歌のあとの一首(「不盡の嶺[ね]を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを」)についてのみ言っているものと理解できなくはありません。ただし、そのようにみますと、前の長歌一首と反歌一首の作者名は万葉集に記されていませんから、いきおい、その前の山部赤人の歌かといった説まで出てきそうですが、歌の詩想をみれば明らかで、両歌はまったく異質です。二つの富士山歌(長歌)が異なる作者のものとなりますと、わたしたちが現在手にとることができる万葉集にこだわるかぎり、二つ目の富士山歌は作者不詳とみなしかねないことになります。しかし、南北朝初期、安居院がこれを人麻呂の歌と認識していたことを考えますと、安居院の手元には、万葉集では作者名が脱落するも、当該の歌を含む人麻呂歌集があったものとおもわれます。
 では、この富士山讃歌の長歌と反歌一首を高橋虫麻呂ではなく柿本人麻呂の歌として読みかえしたとき、なにがみえてくるのかということがあります。
 持統─不比等、そして元明─不比等体制において、人麻呂排除の流れはとても厳しいものがあったと想像されます。作歌時期は不明ですが、おそらく晩年に近い時期のものでしょう、人麻呂は、宮廷歌人の面影が微塵もない激情の歌心を一首にしたためていました。

■人麻呂の激情歌(『万葉集』巻十三 3253・3254)
  柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙[ことあげ]せぬ国 しかれども 言挙ぞわがする 言幸[ことさき]く まさきくませと つつみなく さきくいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき 言挙す吾は 言挙す吾は
  反歌
しき島の日本[やまと]の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ

 日本は神代から言葉に出して言い争わない国だ、しかし、言霊が本来のように幸くあるために、「吾」はあえて言葉に出してもの言うぞといった歌意かとおもいます(「言挙[ことあげ]」とは「下位の者から上位に対してかやうにあつて欲しいと希望を申し出す事を云ふ」…武田祐吉『柿本人麻呂』昭和十三年)。古代において、「言挙」は死を覚悟の上での行為だったはずですが、武田祐吉『柿本人麻呂』によりますと、この歌は、「遣唐使として海外に使する人に贈つて、其の功を盛にする歌だと云はれてゐる」とされ、いかにも戦前的解釈がなされていました。武田さん自身は、「これが果して遣唐使の一行を送つた歌とすれば多分大宝二年の遣唐使を送つたのであらう」とも書いていました。これは戦前の解釈ですが、しかし過去のものかといえばそうではなく、たとえば北山茂夫『柿本人麻呂論』(1983年刊)の巻末人麻呂年表にも、「大宝一年」の項に「遣唐使任命、これを機に、人麻呂、餞けの長歌を作る」などと書かれ、戦後においても同日の解釈がなされていて、あるいは、これは今なお通説化・定説化されている解釈なのかもしれません。現在流布している人麻呂論のすべてに眼を通したわけではありませんけど、この歌をどう「解釈」しているかは、その論を読む上で大事なポイントになるだろうとはいえそうです。わたしの歌の理解でいえば、末尾の「言挙す吾は」(原文は「言上為吾」)のリフレインがもっている人麻呂の「おもひ」の激しさは、遣唐使への餞別・激励の歌などとはまったくそぐわないものだとなります。人麻呂が歌どおりに言挙=言上したとしますと、それだけでまさに「ちはや人」(巻十一 2428)で、最悪死罪、軽微にみても官位剥奪か配流刑になったとしても不思議ではありません。
 万葉集の編者は、この人麻呂の「言挙」の宣言歌のすぐ前に、作者不詳とするも、次のような言挙歌も載せています。

■もう一つの言挙歌(巻十三 3250〜3252)
蜻蛉[あきづ]島 日本[やまと](原文は「倭」)の国は 神[かむ]からと 言挙[ことあげ]せぬ国 しかれども 吾は言挙す 天地の 神もはなはだ わが思ふ 心知らずや 往く影の 月も経[へ]往けば 玉かきる 日もかさなり 思へかも 胸安からぬ 恋ふれかも 心の痛き 末つひに 君にあはずは 吾が命の 生[い]けらむきはみ 恋ひつつも 吾はわたらむ まそ鏡 正目[ただめ/まさめ]に君を 相見てばこそ わが恋止まめ
  反歌
大舟のおもひたのめる君ゆゑにつくす心は惜しけくもなし
ひさかたの都を置きて草まくら旅ゆく君をいつとか待たむ

 長歌の後半は激情の恋歌を仮装していますが、この歌が通常の恋歌と異なっているのは、最後に「まそ鏡 正目[ただめ/まさめ]に君を 相見てばこそ わが恋止まめ」と歌われていることに表れています。前半の「蜻蛉[あきづ]島 日本[やまと]の国は 神[かむ]からと 言挙[ことあげ]せぬ国 しかれども 吾は言挙す 天地の 神もはなはだ わが思ふ 心知らずや」のフレーズを受けてならば、「まそ鏡」(真鏡)には表面上は「言挙す」る「吾」が写っているはずです。しかし、歌は、真鏡に写っているのは謎の「君」であり、それが「わが思ふ心」と二重化され、そのような「君」を相見るならば、この「恋」は止むだろうと歌っています(皇孫への神鏡授与の例にならえば鏡に写るのは「神」)。なお、後半の、この「まそ鏡」のフレーズについては、人麻呂歌「真鏡[まそかがみ]手に取り持ちて朝なさな見れども君は飽くこともなし」(巻十一 2502)を、とても近い縁歌として指摘することができます。万葉集編者が、作歌者不明としつつも、この言挙歌をここに置いたのは、次の人麻呂の「言挙」の宣言歌を、万葉集歌群のなかで一人孤立した歌とはさせないといった編集意図があったということなのでしょう。
 また、人麻呂の言挙歌と、この作歌者不明の言挙歌の間に置かれた短歌(反歌)二首については、前者の歌にある「大舟のおもひたのめる君」からは、これも、人麻呂の「大船の香取の海に錨[いかり]おろしいかなる人か物おもはざらむ」(巻十一 2436)という左遷時の歌が連想されます。後者の「ひさかたの都を置きて草まくら旅ゆく君をいつとか待たむ」については、「都」からわびしくも旅立っていく「君」をいつまでも待っているという意で、では、この謎の「君」とはだれのことかということがあります。人麻呂歌の直前に意味深げに置かれたこれらの長歌と短歌が、人麻呂の言挙歌との連動を意識した配列となっていることはまちがいなく、としますと、「草まくら旅ゆく君」は、あるいは「東海の畔[さかひ]に左遷せられ」るときの「君」、つまり人麻呂とも読めるような編集(歌の配列)となっています。
 こういった万葉集編者の編集意識(おもひ)がここには秘められているとしますと、その後の富士山を歌った人麻呂短歌二首、および、安居院が指摘するところの富士山歌が一段と重い光を発してくることになります。
 人麻呂の「言挙」の宣言歌が含む激情をそのまま投影したものとして、「ふじのねのたえぬ思ひをするからに常磐[ときわ]に燃る身とぞ成ぬる」と「ちはやふる神もおもひのあればこそとしへてふじの山ももゆらめ」の二首があります。この二首がもっている(ちはやふる)「おもひ」の強さに比較しますと、安居院が指摘した富士山歌(の長歌と反歌)の方は、どちらかといえば静かな抑制された感情によって歌われているようです。この違いはどこからくるかと考えますと、おそらく、短歌二首は配流(左遷)先でか、想念のなかで富士山(神)と対面しつつ自身の「おもひ」を重ねて詠んだものであり、長歌と反歌の方は、配流(左遷)先から都へ連れ戻されるときか、富士山を振り返るようにして歌い遺したもの(「駿河なる不盡の高嶺は見れど飽かぬかも」)というのが大きな理由ではないかとおもわれます。短歌二首が「燃える富士」のイメージをもっていたのにくらべ、長歌と短歌は、その「火」を消す「雪の富士」のイメージに転換しています。人麻呂にとって、都へふたたび向かうということ──、それは「死」への召還を意味していました。
 人麻呂の子息・躬都良[みつら]は、持統(あるいは不比等)による大津皇子の謀殺によって、その事件に近い大津側の関係者として、すでに隠岐島で殺されたも同然の死を迎えていたわけで、この躬都良の「死」は人麻呂自身のそれでもあったとおもわれます。人麻呂は、「ちはやぶる神の持たせる命をも[ば]誰[た]がためにかは[かも]長くほ[欲]りせむ」(巻十一 2416)と、「ちはやぶる神」からもらった「命」だが、長らえさせたいとおもう誰もいないといった意に読める反語的な歌を残しています。
 その生涯において、二度の追放刑と、ついには「死」に処せらるという運命の極みにある人麻呂にとって、同じく「流刑」「死刑」にも等しい処遇を受けつつある宇治(伊勢)と伊豆の神に自身の「おもひ」が重なったとしても不思議ではありません。人麻呂には、「言霊のさきはふ国」の象徴神として、富士山の神は「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」である、富士山はこの国の「宝」ともなる山だと歌い残す動機(反藤原思想)はじゅうぶんにあったものとおもいます。「国のみ中ゆ出で立てる不盡の高嶺は天雲もい行きはばかり飛ぶ鳥もとびも上らず」といったフレーズについても、国の真ん中に立っている富士山をたんに高い山だと歌いほめているのではなく、「天雲」(天朝の思想)も「行きはばか」る(そんな富士の高嶺だ)、「飛ぶ鳥」(飛鳥[あすか]=都の鳥たち)もここ富士の頂きまでは飛んではこれない(飛んではこれまい)といった解釈が可能なように歌われています。
 ここに出てくる「天雲」については、人麻呂はかつて、「大君は神にしませば天雲[あまぐも]の雷[いかづち]の上にいおほらせるかも」と歌っていました(巻三 235)。歌意は「わが大君は神でいらっしゃるので、天雲にいる雷神の、その又上に、庵をしていらっしゃる」です(西原能夫、橋本達雄編『柿本人麻呂《全》』笠間書院)。この歌は「天皇、雷丘に御遊[いでま]しし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首」と題詞があり、ここでいう大君=天皇は持統女帝をさしています。大君=持統は「天雲にいる雷神の、その又上に」いるという天皇讃歌をかつて歌っていた人麻呂でしたが、晩年の人麻呂は、「天雲」の上に「大君」ではなく「不盡の高嶺」をみる(歌う)というように変貌していることは注意しておいてよいでしょう。
 また、「飛ぶ鳥」についても、人麻呂の明日香皇女への挽歌(巻二 196)に「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上[かみ]つ瀬に」といったフレーズがあるように、これは明日香=飛鳥にかかります。あるいは、草壁(日並皇子)挽歌(巻二 167)では、「高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄[きよみ]の宮に 神[かむ]ながら 太しきまして 天皇[すめろき]の 敷きます国と」とあるように、「飛ぶ鳥」は、天皇が「神」として統治する国の中心、飛鳥浄御原宮(浄[きよみ]の宮)に象徴される王都にかかる言葉です(佐々木信綱編『万葉集』[岩波文庫]は「飛ぶ鳥の」の意を汲みすぎて、これをいきなり「飛鳥[あすか]の」と訓じていますが、これは五音「飛ぶ鳥の」を、四音「飛鳥[あすか]の」へと変更解釈したもので明らかに誤訓)。
「天雲」も行くことをはばかる「不盡の高嶺」、また、明日香=飛鳥の都を象徴する「飛ぶ鳥」も「不盡の高嶺」までは「とびも上らず」と歌われているのが、人麻呂の富士山歌です。つまるところ、藤原の王権思想がついに及ばない「不盡の高嶺」には、「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」がいる、「日の本のやまとの国」の新たな神祇思想も「行きはばか」る霊神(霊[くす]しくもいます神…原文は「霊母座神」)がいるというわけです。万葉集の編者が採用した高橋虫麻呂の反歌「不盡の嶺[ね]を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを」にも、「かしこみ(畏み)」(畏敬)の対象として「不盡の嶺」はあり、「天雲」も頂きまではこれずに下にたなびいているだけだと詠まれています。まさに「類を以てここに載す」でした。
 その後、日本国家の美的象徴の山として富士山が中央思想に取り込まれてゆくにしても、当初、日本の「正史」とされる日本書紀が(古事記はいうにおよばず)、富士山の存在(あるいは富士山の噴火やその神)についての記述を一切していないという不思議──、この不思議な事実は、書紀の編纂思想が富士山(あるいは富士山神)の記述を忌避していることによるものではないかと想像してみるべきでしょう。不比等の子である藤原宇合[うまかい]の主導で成る常陸国風土記にみられるように(富士山神は「祖神尊[みおやのかみのみこと]」に従わない神として描かれる)、常陸国風土記編纂の思想にとって、富士山は決して肯定的に語られる山ではありませんでした。風土記の否定的記述、そして日本書紀の不都合を白紙に描いたようなだんまりとは対極的に、しかし孤立するように、富士山(神)への尊意と自尊の心を歌にしたためていたのが柿本人麻呂でした。
 富士山の神の歴史舞台からの匿名化は、おそらく伊豆神のそれと同じ理由だったはずです。かつて、人麻呂は天武・持統の皇子である草壁の挽歌を歌っていたように、あるいは、持統時代のはじまりの吉野行幸の随伴時において、「逝[ゆ]き副[そ]ふ川の神も大御食[おほみけ]に仕へまつる」「山川も依りて奉[まつ]れる神の代」(巻一 38)と、吉野の川神・山神も持統という新しい「神の代」に奉仕すると歌っていたように、彼は朝廷儀礼の重要場面に、「歌」によって仕えていました。しかし、人麻呂の歌には単純な宮廷=御用歌人ではない視線が秘められていて、たとえば、引用の三十八番歌の反歌では「山川もよりて奉[まつ]れる神ながらたぎつ河内[かふち]に船出するかも」(39)と、持統(=藤原)王権の「船出」は、ありきたりの「大海」ではなく「たぎつ河内」になされる、つまり、水激[たぎ]つ河中に船出するんだなあと歌い残すことを忘れていません。そんな人麻呂が、朝廷内部の新たな神まつりの意向(皇祖神の創祀)とその継続意志を知らなかったはずがなく、いいかえれば、天武・持統から持統・不比等へ、そして元明・不比等によって、歴史から排除されようとしている宇治(伊勢)=伊豆の(川・滝)神をまったく知らなかったということはありえないとおもいます。
 時代は、持統─不比等による大宝律令の制定(701年)とともに、律令国家体制の中枢に藤原思想が強固に構築され、それが本格的に稼動するという新たな局面を迎えていました。この藤原の王権思想によって、歴史から排除されんとした神と歌人[うたびと]が、富士山で「おもひ」あるいは「言霊」を共有したというのが、人麻呂のこれらの富士山歌ではなかったかとおもいます。人麻呂は持統の吉野行幸時、「水激[たぎ]つ瀧の宮処[みやこ]は見れど飽かぬかも」(巻一 36)、作歌時期は不明ですが「古[いにしへ]の賢[さか]しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも」(巻九 1725)と、吉野の川・滝はいつ(何度)見ても飽きないと歌っていました。しかし晩年の富士山歌においては、「不盡河」という「水のたぎち」を生成する「駿河なる不盡の高嶺は見れど飽かぬかも」でした。この「見れど飽かぬかも」の対象の変化と秘められた等質性に、人麻呂の生涯、あるいは歌の変貌の様を読むことができます。
 わたしたちは、現在につづく日本国家の「型」が神と歴史の創作とともに立ち上がるとき、そこに、無冠=裸となった一人の歌人の「死」が秘められていると想像することができます。万葉集は、「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死[みまか]らむとせし時、自らを傷みて作れる歌一首」として「鴨山の岩根しまける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」を載せています(巻二 222)。この歌が人麻呂の遺稿歌ですが、しかしもう一つの遺稿歌にも等しいこれらの富士山歌によって、わたしたちは、「ちはやふる」富士山神の原像を、人麻呂の「おもひ」とともにたしかに受け取ったとはいえそうです。
 後年、明治期のことですが、自由民権運動の挫折を経て文学の道に進んだ北村透谷は、「富嶽の詩神を思ふ」で、富士山には「尽きず朽ちざる詩神」がいると喝破していました。透谷は日清戦争が始まる直前に二十五歳という若さで自ら世を去りますが、明治という復古王権の時代の闇と正面から対峙した詩人でした。彼は「富嶽の詩神を思ふ」の最後を、「人麿赤人より降つて、西行芭蕉の徒、この詩神と逍遥するが為に、富嶽の周辺を往返して、形[けい]なく像なき紀念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味[あじはひ]あり」と結んでいます(『現代日本文学大系』筑摩書房)。「この国」は「富嶽の詩神」がいるから「なほ愛すべし」という「おもひ」は痛切です。文学はすべからく「空中に構設」された「形[けい]なく像なき紀念碑」ですが、人麻呂が歌(言霊)の回路によって、富士山の神と「逍遥」していたことは、そのとおりであったとおもいます。

(追伸)
「『三河国風土記』(逸文)では矢作川・男川・豊川で三河とありますので、PONTAではこれを正解としています」──わたしの手元の『風土記』(岩波文庫)では、三河国風土記(逸文)の「矢作河」の項には、「参河風土記に作矢河[やはぎがは]あり」と一行が記されているのみで、他の二川の記述はありませんが、PONTAさんがみている『風土記』を紹介してください。

136 はじめまして りんご 2005/03/12 (土) [20780]

はじめまして。
兵庫県在住の者で、“素盞鳴尊と檀君神話”に関心を持っています。
宜しくお願い致します。

「弥彦神社」の祭神「大屋毘古神」をたどって、「HP神奈備にようこそ!」内の下記、『大綾津日神、大禍津日神、大屋毘古神
http://www.kamnavi.net/it/ooayatuhi.htm』の項を拝見し“瀬織津比メ神”というお名前に出会いました。
ー・−・−・−・−・−・
平田篤胤の『鬼神新論』から
 大禍津日神と称すは、亦名は八十枉津日神とも、大屋毘古神とも称して、此は汚穢
き事を悪ひ給ふ御霊の神なる因にて、世に穢らしき事ある時は、甚く怒り給ひ、荒び
給ふ時は、直毘神の御力にも及ばざる事有りて、世に太じき枉事をも為し給ふ、甚建
き大神に坐せり。然れども又常には、大き御功徳を為し給ひ、又の名を瀬織津比メ神
とも申して、祓戸神におはし坐て、世の禍事罪穢を祓い幸へ給ふ、よき神に坐せり。
穴かしこ。悪き神には坐まさず。
ー・−・−・−・−・−・−・ 

大屋毘古神 = 五十猛命 ということは、神奈備様HPで何度も読んでいたのですが、
この『鬼神新論』のような内容には、初めて出会い、驚いています。他にも、こういう
文献は、ありますでしょうか。

138 倭姫命世記という秘伝書 風琳堂主人 2005/03/13 (日) [20830]

りんごさん、はじめまして。
 平田篤胤が、瀬織津姫という神を大禍津日神、八十枉津日神と同神とみている根拠文献(の一つ)は、おそらく、鎌倉時代に成ったとされる『倭姫命世記』かとおもいます(神道五部書のうちの一書)。
『倭姫命世記』における瀬織津姫=瀬織津比唐フ記述は以下のとおりです。

■倭姫命世記に記される瀬織津比唐ニいう神
 荒祭宮一座〔皇太神宮ノ荒魂。伊邪那伎大神所生[アレマス]神。八十枉津日神と名づくる也〕
  一名は瀬織津比盗_是れ也。御形は鏡に座します。(『中世神道論』、『日本思想体系』所収)

『倭姫命世記』が成書化されるのは鎌倉時代としても、この書は一般に広く普及したものではなかったようです。このことは、同書が「古来宇治ノ薗田家ニ蔵シタリト雖モ、秘シテ人ニ許借セズ」という御巫清直の写本時の跋文の言葉からうかがえます。しかし、江戸時代、いくつか写本が出回ったらしいのですが、では倭姫命世記の原本はもともとどこに秘蔵されていたのかといいますと、「山城国賀茂社権禰宜岡本宮内少輔保可県主ノ家蔵ノ本ナル由」と御巫は書いていて、「山城国賀茂社」の神官が所蔵していたようです。としますと、これは、やはり因縁めいたものを感じるのはわたしだけでしょうか。下鴨神社(賀茂御祖神社)の「摂社」御手洗社(井上社)の神として瀬織津姫は現在もまつられていますからね。
 摂社は、本社主神と縁深い神をまつるところとされますが、瀬織津姫は、もともと賀茂=鴨氏がまつる「主神」でもあっただろうとわたしはみています。
 ここのところ、人麻呂と富士山神の関係を調べてきて、その中で「ちはやふる」という枕詞はもともと瀬織津姫という宇治(伊勢)の秘神にかかるものではないかということにふれました。「ちはやふる」が地名として「宇治」にかかる言葉だというのは、万葉集に諸例がありますが、この言葉が「賀茂」にもかかるという別歌集の例もあり、ふうんというところです。

■ちはやふる「賀茂」の歌
 ちはやぶる賀茂の社の木綿[ゆふ]だすき一[ひと]日も君をかけぬ日はなし
 ちはやぶる賀茂の河辺の藤浪はかけて忘るゝ時のなき哉[かな]

 前歌は「読人しらず」とされるも『古今和歌集』、後歌は「兵衛」の歌で、花山院の私撰和歌集といってもよい『拾遺和歌集』に収められています。両歌の表記は『新日本古典文学体系』本に拠ったものですが、わたしは、「ちはやぶる」の「ぶる」は、もともと(人麻呂の時代は)「ちはやふる」と清音がはじまりではなかったかと考えています(理由は、「ちはやふる」の「ふる」が布留(川)、つまり石上神宮とも関係しているからです)。
「ちはやふる」賀茂や布留の神についても、いずれふれる機会があるかもしれません。

139 『御形は鏡に座します。』 りんご 2005/03/14 (月) [20900]

風琳堂ご主人様
お返事有難うございました。
『一名は瀬織津比盗_是れ也。御形は鏡に座します。』・・・
『御形は鏡に座します。』という言葉が、非常に胸に響いて、我ながら驚き、かみしめています。
「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と拝見して、私が、真っ先に思い浮かべるのは、竹内文書にある、「上古王朝 二十二代代神皇 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇
アマサカリヒムカツヒメミヒカリアマツヒツギアメヒノスミラミコト」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/dynasty/takeuchi_johko.htmlです。

竹内文書に基づいている、正気久会著「太古 文明は一元から起った」という本を読んでいるのですが、“・・・そして、伊勢の皇太神宮が営まれた時、かつて神宮祭祀を改定された、古代の女帝を祭りの主(ぬし)と定め、この方に天照大御神という御称号を奉ったのです。”とありました。

また、 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇の後を継いだ、〔二三代スメラミコト 天之忍穂耳身光天津日嗣天日天皇 アメノオシホミミミヒカリアマツヒツギアメヒノスミラミコト〕は、〔天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇の弟 須佐之男命〕と 〔櫛名田姫命〕の間に生まれた子供であり、須佐之男命は朝鮮民族の祖 進男檀君 であるとなっていました。

140 閻魔法王は瀬織津姫の眷属? 風琳堂主人 2005/03/17 (木) [20990]

 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇[アマサカリヒムカツヒメミヒカリアマツヒツギアメヒノスミ(メ)ラミコト]──たしかに、瀬織津姫のフルネーム(?)とみられる撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とネーミングが似ていますね。須佐之男命(朝鮮民族の祖 進男檀君)は、この謎の「天疎日向津比売」の「弟」で、櫛名田姫命との間にできたのが天之忍穂耳身光天津日嗣天日天皇[アメノオシホミミミヒカリアマツヒツギアメヒノスミ(メ)ラミコト]──、これらは「上古王朝」の二十二代、二十三代の「天皇」あるいは「神皇」と記すのが竹内文書ですか。
 正直に申しますと、わたしは竹内文書そのものを読んだことがなく、こういった記載があることは初めて知りました。同じく古史古伝の書とされる秀真伝(ホツマツタヱ)においては、瀬織津姫は天照大神の「中宮」(正妻)とされ、その嫡男(一人息子)がオシホミミとされます。これはこれで、なかなか楽しい神話物語といえます。
「天皇」という称号は天武時代以降の語というのが学界の通説ですが、竹内文書の表記で興味深いのは、「天疎日向津比売」にみられる「日向」という語の存在です。これは文字通りに「日に向かう(対面する)」という意を含みますが、やはり地名(国名)としての「日向」も考慮する必要がありそうです。としますと、「日向津比売」は日向の比売という意にも理解できます。
 瀬織津姫という神名は、記紀の前の天智八年(669)の大祓詞が初見ですが、中世になると、この大祓詞の注釈書がいくつか書かれます。同祝詞の最古の注釈書といえば『中臣祓訓解』(鎌倉時代後期、作者は真言宗の仏徒)かとおもいます。
 大祓詞=中臣祓では、「速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」と表記されます。『中臣祓訓解』は、この「速川」については、「謂はく、筑紫日向ノ小戸[ヲト]橋之檍原[アハキノハラ]ノ上瀬[カンヅゼ]ナリ。内ノ意ヲ安ズルニ謂はク、三途八難ノ河なり」と、場所を日向に特定して「訓解」しています。「瀬織津比盗_」については、「伊奘那[ママ]尊ノ所化ノ神なり。八十枉津日神ト名づくるは是なり。天照大神ノ荒魂[アラミタマ]ヲ荒祭ノ宮ト号づく。悪事ヲ除く神なり。随荒天子ハ閻魔法王の所化なり」とされます。瀬織津姫は、日向の三途八難ノ河(速川)の神で、その異名は八十枉津日神であるという記述は、『倭姫命世記』と同類のものともいえます。『中臣祓訓解』も神宮関係の文献では「深秘の書」とされていたそうで(『中世神道論』解説)、いずれにしても、これらの瀬織津姫解釈は、記紀によるイザナギの禊シーンに淵源があります。ちなみに、筑紫においては、日向神=八女津媛とされます。
 瀬織津姫が宗像神(タキ(ギ)ツヒメ)と異名同神であることを、ホツマの記述からは解釈不能ですが、竹内文書は、宗像神についてどう表現しているのかは知りたいところです。記紀が記す、おそらく最秘の神話場面とみられるのが、スサノヲとアマテラスの「誓約[うけひ]」かとおもいます。この密約的婚姻によって、宗像三女神もオシホミミも誕生したとされます。
 ところで、瀬織津比盗_は閻魔法王の化身(随荒天子)を眷属としているというこの「訓解」は、逆説的にみてもスゴイ解釈です。わたしは、瀬織津姫は地母神的な水霊神を母胎・古縁とする神というのが基本イメージと考えていますが、『中臣祓訓解』にみられる、瀬織津姫が三途の河神という「解釈」でいえば、次のような異例の賛辞が与えられていた例もあります。

■瀬織津比唐ニ云う三途の大河の神
 一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊の垢を洗う。妄業の闇忽[たちまち]に晴れ、籃[かご]の渡しに及ぶ。険難の三途大河を亘[わた]りて、現身[うつしみ]に於て直[ただち]に見仏聞法の仏土に至る。情有りて唱うべし。生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る。(「白山大鏡」、上村俊邦編『白山信仰史料集』所収)

「瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし」──中世の時代以降、つまり神仏混淆の新しい時代の解釈によって、瀬織津姫は異界の川の「渡」の神とされるも、その神威には強く期待されるものがあったということなのでしょう。

141 神威 りんご 2005/03/17 (木) [21030]

風琳堂ご主人様
いろいろお教えいただき、ありがとうございます。
宗像三女神、私も、心がけて関連図書(竹田日恵(にちえ)著書を多く持っています。)を再読しようと思います。

天神(アマツカミ)・七代(竹内文書)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/dynasty/takeuchi_tenjin.html

上古王朝・二十五代神皇(竹内文書)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/dynasty/takeuchi_johko.html

鵜草葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝・七十三代天皇(竹内文書)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/dynasty/takeuchi_ugaya.html

“鬼神新論”を初めて目にしたとき、艮の金~を髣髴とさせられたのですが、大本教 最重要の節分祭において、“瀬織津姫行事”があることを数日前、知りました。
出口王仁三郎略年譜にあった、“七五三調を五六七調に改め”というところに、とくに関心を持ちました。

○ 「瀬織津姫」の記載のある、出口王仁三郎の文献
http://peace.poosan.net/reikai/kensaku/ibken02.php?CD=2564&T1=%C0%A5%BF%A5%C4%C5&T2=&T3=

○ 瀬織津姫行事
http://www.oomoto.org/stbn2005/ja/05feb08.html

http://www.oomoto.org/stbn2004/ja/04feb03.html

○ −出口王仁三郎略年譜−
昭和 8年(1933)62歳…………
* 2月4日 節分人型行事中、自ら太鼓を打ち七五三調を五六七調に改め、速佐須良比賣の大神として瀬織津姫の先頭に立ち和知川に。
http://www7.ocn.ne.jp/~mizu6628/index/mokuji/3wanisaburousiyoukai/nenpu1.htm

144 白蓮・王仁三郎と瀬織津姫 風琳堂主人 2005/03/20 (日) [21515]

 ゆくにあらず帰るにあらず戻るにあらず生けるかこの身死せるかこの身──これは、処女歌集『踏絵』に収められている歌で、柳原白蓮(Y子[あきこ])が絶体絶命の自らをみつめて歌った一首です。また、Y子=白蓮が自らを相対化し、一人の「個性」をもった女性として生きはじめる始まりの歌でもあります。
 当時、有夫の身であったY子は、動きのとれないわが身の救済者として宮崎龍介(宮崎滔天の息子)を択びます。宮崎龍介は、白蓮のことを「自分の中に一つしっかりしたものを持っている女性」(永畑道子『恋の華・白蓮事件』)、つまり一つの「個性」をもっている女性としてY子を認め、それゆえに二人は出奔=駆け落ちをしたのでした。大正十年(1921)十月二十日のことで、まだ姦通罪があった時代です。
 二人の駆け落ちは当時のマスコミの話題の中心となったことはいうまでもありませんが、出奔したY子をかくまい援助した一人が大本教・出口王仁三郎でした(林真理子『白蓮れんれん』)。
 出口王仁三郎の年譜にある「節分人型行事中、自ら太鼓を打ち七五三調を五六七調に改め、速佐須良比賣の大神として瀬織津姫の先頭に立ち和知川に」という記述を読みますと、王仁三郎は瀬織津姫の露払い役として「速佐須良比賣の大神」に化身して「節分人型行事」を執行していたようです。王仁三郎が伊勢の元神を強く意識していたことは、丹波の元伊勢の社の奥社の滝水をわざわざ聖水として汲みに出かけに行っていることや、丹後の元伊勢といわれる籠神社ゆかりの沖合いの夫婦島を聖地とみなしていることからうかがうことができます。また、列島の聖地の一つとして出羽の鳥海山をわざわざ訪れていることを挙げてもよいです。鳥海山はニギハヤヒの降臨伝承をもつ山ですが、同山の大物忌神は、これも伊勢の元神である瀬織津姫でした。
 白蓮は歌集『踏絵』を「われはここに神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり」という歌で始めています。絶体絶命のわが身を救う神はいずこにいらっしゃるのだろうかという意です。白蓮が出奔したとき、彼女は前夫への絶縁状に「私は、私の個性の自由と尊貴を守り培ふために、あなたの許を離れます」と三行半[みくだりはん]を明らかにします。これは、近代が、その名とは裏腹に秘めている男優位の社会への絶縁状でもありました。これに対する前夫・伊藤伝右衛門の反論のなかに、次のような言葉があります。

■Y子が望んだ「浄めの室」
 お前の趣味性を満足させるだけの話相手もない幸袋の家ではと思つて、博多には友達も多く気が紛れて良からうと、天神町に別荘を新築して、お前が欲しいといふので浄めの室といふ立派な祭壇を拵へてやつた。世間ではあかがね御殿と云つた。(永畑道子、前掲書)

「われはここに神はいづくにましますや」の「神」とみてよいかどうかはまだわかりませんけど、この「浄めの室」の神、つまり、Y子の日々の身の穢れ(性的穢れ)の意識を浄化してくれる禊の神が、この「室」にまつられていたことはたしかでしょう。Y子は「浄めの室」に誰も入れさせませんでしたから、Y子にとって、ここは絶対聖地の空間でした。
 姦通罪の恐怖と危機をくぐりぬけて龍介と添うようになってからの白蓮の「個性」は、まったく遠慮のないものでした。たとえば、白蓮の恋愛論は、(当時の編集長)菊池寛を「たじたじ」とさせ、菊池寛曰く「削らざるを得なかった」ほどのものだったようです。白蓮は「恋愛は朗らかにも実現されてゐない」として、次のように書いています(永畑道子、前掲書)。

■白蓮の恋愛論
 愛人同志は、日比谷公園の暗やみや、ホソイ露地を、かくれるやうに歩いてゐます。愉快なホテルの一夜も、臨検をおそれるために、ビクビクものですごさなければならない有様。〔中略〕
 思ふに、若い男女が、現在、青春時代のよろこびを、胸いつぱいに呼吸し跳躍するのは、若い男女を駆つて、ひたすらに、帝国主義的な挙国一致、国家総動員に参加せしめようとしてゐる誰かの、御意に召さないのでございませうか。

 これがいつ書かれたものか明確な日付を欠いていますけど、文面に「国家総動員」という言葉がありますから、昭和初期とみることができます。「誰かの、御意に召さない」といった文言は、菊池寛を、たしかに「たじたじ」とさせたにちがいありません。
 白蓮の祖父は、幕末の日米修好通称条約の批准書交換のために、ポーハタン号でアメリカへ渡った外国奉行新見豊前守正興[まさおき]で、彼女の母・おりょう、つまり、正興の娘は、薩長軍による幕府の壊滅とともに浅草の芸妓に身を落としていました。幕府の重臣の家族といえども、このように落魄の境遇に落としたのが「明治維新」でした。花柳界に身をおいた白蓮の母親・おりょうを取り合ったのが、明治の藤原不比等とも言える伊藤博文と、藤原北家嫡流の柳原前光[さきみつ]でした。おりょうが、幕府崩壊を主導した薩長軍の長州の伊藤を選ぶはずもなく、彼女は「女たらし」伊藤博文を振って柳原前光の「妾」となり、そこに生まれたのがY子でした。白蓮には藤原の血が流れていますが、当時の天皇を中心とした時代・社会思潮に対して、物怖じせずに表現できる「個性」をもっていた稀有な女性が白蓮でした。
 Y子が十代半ば、柳原家からの最初の追放的結婚によって嫁いだ北小路家は、一時、京都鞍馬の地に家を構えていましたから、おそらく、Y子は貴船神社にも参っていたことでしょう。二度目の、これも追放的結婚によって九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門へ嫁いだとき、そこにはY子だけの「浄めの室」がつくられていました。そして、そこからの出奔、駆け落ち時には、大本教の出口王仁三郎にかくまわれることになります。貴船神社、「浄めの室」、天皇制国家主義と大きく抵触する思想をもつ新興宗教団・大本教と、これらに共通して読みとれる最重要神は、いうまでもなく瀬織津姫という滝神=禊神です。
 こういった前史があって、白蓮は戦後、天の岩戸滝(岩手県住田町)の「神」について、次のような極めつけの歌を詠めたのだとおもいます。

 神代より隠しおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ

「神代より隠し」おかれてきた「滝つ瀬」の神、つまり滝神を、白蓮が、瀬織津姫という神として認識していたことは、まずまちがいないとみられます。

145 三河続報 PONTA 2005/03/20 (日) [21530]

 三河が矢作川・男川・豊川と書いてあるのは『三河国風土記』で、江戸時代の大ベストセラー『東海道名所図会』にも同じことが書いてありますので、これが通説として庶民(歴史学者ではない一般大衆)の間に広まっていると思います。
 ところが、最近、「ほの国キャンペーン」の知名度が上がって、「豊川は穂国の川で、三河国の川ではない。だから三河の語源は3本川ではない」と多くの人が言いはじめてきていますが、これについては疑問です。つまり、穂国が三河国よりも前に成立していたのならそうかもしれませんが、三河国が成立してから穂国が成立した(三河国の東部分が穂国として独立した)と考えると、三河の語源が豊川を含めた3本川であってもおかしくありません。実際、『先代旧事本紀』の巻十の「国造本紀」によれば、参河国造は成務天皇、穂国造は雄略天皇が任命しています。
 また、穂国は豊川の中・下流域で、水源地を含め、上流域は三河国であったと思われます。したがって、穂国成立後に三河国が成立したとしても、「豊川の水源は三河だから、3本の川の中に入れる」としてもおかしくないと思います。

 ちなみに、他の語源説として、江戸時代を代表する国学者・内山真龍が「賀茂の御川」説、太田亮氏が「御河・美河」説を出しています。
 古代の木簡の表記は「三川」であり、「御川・御河・美河」という表記のものは無いと思います。

 このようなことで、PONTAでは「3本川(矢作川・男川・豊川)」説を支持しています。

146 撞(つき)の大神 りんご 2005/03/20 (日) [21550]

風琳堂ご主人様、
柳原白蓮、また関連した出口王仁三郎のお話、本当にありがとうございます。

「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の“撞”という字は、「出口王仁三郎 伊都能売神諭」で、「撞の大神(つきのおおかみ)」という神名に出会って以来、私にとっては何か心に残る字でした。(もちろん、“厳之御魂”から“厳霊−イヅミタマ−”を思わずにいられませんが。)

下記 『~霊界』誌の文中で、“三女神”に特に驚きをおぼえましたので、紹介させていただきます。

・・・元来撞の大神は造化の大元霊にして天に属し、君系に坐します也。国常立之尊は地に属して臣系に坐しませ共、撞の大神は世界の為に位地を捨て臣位に降りて、其体を素盞嗚尊の生み坐せる三女神に変現し、二度目の天の岩戸を開き給ふ事に成りぬ。http://peace.poosan.net/reikai/kensaku/ibken02.php?CD=1359&T1=%C6%B5%A4%CE%C2%E7%BF%C0&T2=&T3=

申し遅れまして、まことに申し訳ないのですが、『瀬織津姫神名考』からの引用をhttp://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/joyful/joyful.cgi No.381にて、させていただいております。宜しくお願い致します。

147 焼津は怪しい? バッキー荒 2005/03/21 (月) [21560]

三寒四温で体調を崩していたのですが、忍野へ行ってきました。この数日の暖気で大分と雪が消えましたが、両親の住まいがある周辺は、杓子山の南斜面の山裾なのですが、まだまだです。遠野の春の訪れは、かなり先のことになるのでしょうが、巡る季節が止むことはありません。悠然と移ろいを眺めていましょう。
 人麻呂と冨士、大変面白く読ませていただきました。当時の官製史書が富士山に多くの言葉を費やさない理由も、その輪郭がおぼろげながら見えてきたようで、春遠からじと言うべきでしょうか? わくわくするものを感じます。在地勢力の抵抗と、覆い被さろうとするヤマト、相克すべく立ち上げた皇統神話と消えた神々。無理な作為や強引な捏造なくしては決して達成できないことは、この炉端で語られてきました。ヤマトタケルの立ち往生もその一端では?と読みます。厳密には往生するのは、伊吹山で白猪によって深手を負わされてからその後、らしいですが足柄で難儀して、書記では省かれ焼津での出来事と書き改められたのは、御主人が既に述べられています。さて、古事記にある足柄での抵抗に遭うくだりですが、沼、とあるのは芦ノ湖とされておりますが、だとすると、火を放たれた野は何処を想像したらよいのでしょうか? 枯れた葭原(よしはら)をイメージするのですが、仙石原ぐらいしか思い浮かびません。無住の地といって差し支えないかと思うのですが如何でしょうか? 足柄の御坂と表記される御坂という地理用語なのですが、今風に表せば峠という概念で、峠は後日の和製漢字で、その昔は更に水分(みくまり)、国境(くにのさかい)という意味ではなかったかと思います。単なる坂ではなく尊称を付けているのですから。中央高速で最長の恵那山トンネルの上は東山道の御坂ですが、木曽川水系と天竜川水系との分水嶺であり、美濃の国と信濃の国との分国の尾根でもあります。この地域で思い起こされるのは、太宰治の『富岳百景』で有名な、あの井伏鱒二翁が放屁なされたという、それと関係あるのかないのか、「富士山には、月見草がよく似合う。」そう太宰が言う、御坂山地の御坂峠が筆頭というべきでしょう。仮にそちらに御坂の地を置いてみますと、桂川が寒川と表記されるのもより滑らかなものになります。つまり、相模川と富士川との水分(みくまり)です。分国に関しては説得力は劣るのですが、御主人引用の遠藤秀雄著『富士山の謎』にもその記述があるのではないのか?と推測するのですが、私は富士吉田在住の郷土史家になる本(著者名、タイトルは失念)で読んだのですが、大化5年、足柄より西、甲斐の国とす、という文言が気になります。どこから引っ張ってきているのか典拠も不明なまま書きつづけることに恥じ入る次第なのですが、性懲りも無く続けますと、だとするとそれ以前は相模の国ということとなり、それが何処までか記述はありません。ようするに、全くの不毛の地である御坂峠以東、足柄以西はその帰属ははっきりしていなかったのではないのか?ということです。ですから古事記にある御坂は、今日いう御坂山地の御坂峠、山中湖と須走を画す籠坂峠、足柄峠、古東海道が足柄峠を越えないとするときの、現在の国道246号沿い通行の難所、この4箇所いずれかということになります。246号沿いの分水嶺は御殿場近郊であり、御坂というネーミングには最もそぐわない(現地では全く平坦にしか感じられない)ので候補から除外してもよさそうです。難所としたのは、分水嶺以外で御殿場から足柄にかけて鮎沢川(酒匂川の御殿場側の源流)に沿って下って行く道中で、谷が深くなるあたりをもしかしたら、と思ったまでで、同様に無視してよいかと思います。
 芦ノ湖は箱根山のカルデラ湖、外輪山に囲まれ風光明媚ではありますが、いにしえ人にはどう映ったものでしょうか? 流れ出る早川は肥野をつくることなく滝のように相模湾に注ぎます。また古東海道は外輪山の乙女峠からわずかばかり北から枝分かれする尾根を、鮎沢川を避けるように足柄峠で越えて行きますが、芦ノ湖のみならず、カルデラの一切の風景を視野に入れることなく相模の国の平坦な地へと下ります。酒匂川の支流狩川に沿って下ります。降りきった関東平野の西端が大井、その東隣が中井、次に秦野、大井より南下して酒匂川の河口が小田原で東岸には鴨の宮、その東が国府津さらに二ノ宮と続きます。往古の香りがこれでもかっ、とばかりに並びます。それにひきかえ富士山麓の寂しさは、絶句ものです。魅力のない土地だったのでしょう。
地下鉱脈の価値ゆえその帰属が振り子のように揺れた、独仏国境のアルザス、ロレーヌ地方とはえらい違いです。今日ユーロ圏の発祥の地と比較するのはなんとも皮肉な思いですが、稲を中心にして国づくりしてきた当時においてはしかたのないことなのでしょう。まあ、現在でも自衛隊の駐屯地やサーキット場、土地利用はさして進んでいないのだから。確かに足柄峠と芦ノ湖は近いのですが、道すがら視界に収めることはない。私には沼と御坂はもっと接近したイメージに映り、御坂峠からの河口湖、或いは御船湖とすべきか、もしくは籠坂峠と山中湖、ないし宇津湖とすべきか、このどちらかであると、グッと身近なものになるのです。所謂郷土史家にありがちな我田引水式のお国自慢をするつもりはありません。なぜなら、そう解釈すると、古事記にある国造の火攻めの意味も、ヤマトタケルの対抗策の火で迎え撃つという意味も、活火山である富士山と関連付けて深みを増すからです。ですからロマンチストに過ぎる、という批判なら自ら進んで甘受したいと思います。焼津という地名も湖岸の何処かということで説明はつきます。静岡県の焼津には伝承等は残っていないと聞き及んでいます。また、私が読んだ本では、富士吉田で最も早く開かれた小佐野という在所の近くの桂川に架かる”焼橋”をもって焼津としていましたが、無論これは信ずるに足りません。今の数倍の水量でほとばしるように流れていたのは間違いないのですが、川舟を浮かべるような状況にはないからです。只、湖面に浮かべる用途は多いにあったはずです。河口湖には船津なる地名もあります。
 火山である富士山につながったようなのでおしまいにしますが、冨士神の古層の神は諏訪神では?とのご指摘、そう思います。杓子山はシャグジからミシャグチを連想させます。忍野と富士吉田を隔てる山並みは杓子山からの尾根で、寒川神社のある高座郡と同様の高座山(たかざっさん)というピークもその尾根にあります。また、その尾根から派生した枝尾根が平坦地に尽きる地に忍野の忍草浅間神社があるのですが、忍野八海に近くかつて忍野が湖であったのなら、湧き出し口に近いということは湖底の最深部に近いということになり、ひょっとしたら水没するのでは?と思っていたところ、やはりそうで、尾根の最末端ではありますが、多分往古の水際で元社である社を見つけました。蛇頭疫神社といいます。祭神は八十禍津比売神と大禍津比売神の2神となっており、かつての忍草浅間神社の鎮座地だということです。諏訪神ではないのですが、本居宣長いうところの瀬織津姫の名が見えます。他にも新ネタはあるのですが、字数制限をとっくにオーバーしていますので次回に譲ります。
 体調不良の為、竿は出しませんでした、では。

148 特ネタに祝杯 風琳堂主人 2005/03/21 (月) [21570]

 三河の語源をどう考えるかということで、客観的に、これまでどういう説があるのかを辞書から引用します(手近の辞書で安直ですが、一応の評価をうかがうことは可能でしょう)。

■三河の語源説
(1) 男川・豊川・矢作川の三つの河があるところから〔国名風土記・国郡地名考・類聚名物考・古事記伝・和訓栞〕
(2) 矢作川の一名か。また賀茂郡のあるところから、賀茂の神の御川の義か〔大日本地名辞書=吉田東吾〕(『日本国語大辞典』小学館)

 PONTAさんの支持説は、引用でいえば(1)の説であるということはよくわかります。ただ、わたしがお聞きしたのは、その出典を『三河国風土記』としているという、その風土記が、わたしなら岩波文庫(岩波版)の『風土記』の『三河国風土記』(逸文)というように明示するのですが、そういった出典の明示をしていただくとよいかとおもいます。(1)説には、『三河国風土記』は出典根拠の列記対象になっていませんが、あるいは、わたし(たち)がその存在を知らない『三河国風土記』をPONTAさんが手に、あるいは眼にしているなら、誰もが読めるようなかたちでそれを明示してもらうことがまず基本かとおもいます。
 ところで、「賀茂の神の御川の義」という吉田東吾の説は、『エミシの国の女神』が肯定した『北設楽郡誌』の記述のさらなるルーツ説としますと、この吉田説には郡誌よりも一歩すすめて「賀茂の神」という認識が織り込まれていたことになります。三河の「賀茂の神の御川」ということでいえば、やはり京都の賀茂社(二社)と無縁とはいえないだろうとなります。京都の賀茂社は、基本的には、賀茂川の川神をまつるのが元の姿ではなかったかとおもっていますので、「賀茂の神の御川」が矢作川といつからか呼称を変えたにしても、矢作川の旧名は、あるいは賀茂川だったかもしれないなと想像がふくらみます。
 また、本居宣長『古事記伝』などの(1)説には、男川の源流山である男山には、その対関係の山として女山が対面しているという構図を含んでいることも捨てがたいです。この男山の神と女山の神はなにかというような問いを、わたしなら立ててみるとおもいます。
 三河の語源に性急に結論を出す必要は、わたしの関心の外にあるというのが正直なところですが、矢作川(賀茂の神の御川)、豊川(津守神の川か)、そして男川(→乙川)の川神が、それぞれ異質な神だとはおもえず、わたしが三河を地盤としてフィールドワークをするなら、これらの川神を明かすことと並行して「三河」の語源を考えていくかなといったところです。
 あと、三河国、穂国については、大化改新時に合体して新生・三河国が誕生するわけですが、ではその前はどうだったかということでよく引用されるのが、『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」の、参河国造は成務天皇、穂国造は雄略天皇が任命という記述です。
 ただし「穂」という言葉だけでいいますと、古事記の開化天皇記に、開化の子・日子坐王の子の一人に丹波比古多多須美知能宇志[たにはのひこたたすみちのうし]がいて、彼が「丹波の河上の摩須郎女[ますのいらつめ]」を娶って朝廷別[みかどわけ]王を生んだ、この朝廷別王は「三川の穂別の祖」であるという割注の記述があります。丹波比古多多須美知能宇志で興味深いのは、その対関係を結ぶ女系の系譜です。丹波比古は「天之御影神の女[むすめ]、息長水依比売」の子であると書かれ、また、丹波比古は「丹波の河上の摩須郎女[ますのいらつめ]」を娶って朝廷別王を生むというように、女系の名が「水」に関わり深いことを示すのが特徴です。日本書紀は、古事記が記していた、この日子坐王の系譜に連なる「三川の穂別の祖」=朝廷別王ばかりでなく、「天之御影神」の神裔(系譜)をも消去します。古事記から日本書紀へという編纂・推敲過程で消去された神々ということでいえば、タケミナカタという諏訪神や大年神の神系譜がまず浮かびますが、それに、この天之御影神を追加してよいのかもしれません。
 天之御影神は、琵琶湖の近江富士こと三上山かつ野洲川の神とみられますが、この三上山の不自然な祭祀として、次のような社殿配置の問題が指摘されています。

■御上神社の不自然な配置
 鎌倉時代後期の建立とされ、国宝や重文に指定されている現在の社殿配置は、必ずしも神体山である三上山を拝する配置にはなく、中央の神社配置理論である本殿南面の思想で建てられている。すなわち自然崇拝の原始的信仰に加えて、中央の政治的権力が、この神社存在の根本にまで及んでいたということにほからない。(ずいき祭保存会『三上のずいき祭り』御上神社社務所)

「中央の政治的権力が、この神社存在の根本にまで及んでいた」という認識は重要です。では、この「中央の政治的権力」とは具体的に何あるいは誰をさすのかということがあります。『三上のずいき祭り』は、「御上神社は養老元年(七一七)三月十五日三上山に降臨したと伝え、養老二年(七一八)藤原不比等が社殿を造営したと伝える」と記しています。養老元年(717)には、勅命による白山の祭祀改竄がなされていましたから、ここも、同じ理由による祭祀改竄の可能性が高いというしかありません。そこに不比等という「中央の政治的権力」が直接関与していることは重要な記録というべきでしょう。このことは、三上山の地主神をまつるのが御上神社本社ではなく、同社摂社の若宮社であることで、より一層、三上神=天之御影神祭祀が奇妙なものであることを伝えています。
 御上神社の由緒では、「降臨伝承」の一つを、前述のように不比等=中央の意向として一方で伝えるも、しかし古事記がいうように、「孝霊天皇六月十八日との伝承がある」とも併記しています。ただし、この「降臨伝承」の併記で妙なのは、孝霊天皇○○年六月十八日とすべきところを、「年」を欠如させ月日のみがリアルに「六月十八日」とされていることです。「六月十八日」とは、白山の大祭日と同日であり、俗にいう「観音の縁日」でもあります(白山の開山者としての泰澄の俗姓が三神氏であることも無縁ではないのかもしれません)。
 御上神社の主神とされる天之御影神が古事記にその名を記されたことで、それに整合させるために、不比等が養老二年(718)、「中央の神社配置理論」に基づいて社殿を造営し、このとき、三上山の地主神は、若宮神として本殿の座から摂社へと遷されたとみてよいかとおもいます。
「ちはやふる」という枕詞のみで神明かしがどこまで有効かということはありますが、しかし参考にはなります。この枕詞がかかる地名は、人麻呂の時代から奈良時代あたりまでは「宇治」が多いものの、京が平安京(京都)に遷ると、図ったように、「賀茂」がみられるようになります。また、賀茂だけでなく、実は三上山にもかかるという「ちはやふる」の歌もあります。三上山を歌った歌をまとめて紹介します(『拾遺和歌集』)。

■三上山の歌
  三上の山
ちはやぶるみ神の山のさか木葉は栄えぞまさる末の世までも(能宣)
万代[よろづよ]の色も変わらぬさか木葉はみ神の山に生ふるなりけり(よみ人知らず)
万世[よろづよ]をみかみの山のひゞくには野洲河の水澄みぞあひにける(元輔)
いのりくるみ神の山のかひしあれば千[ち]とせの影にかくて仕へん(能宣)

 三上山は榊(葉)が繁茂する山のようです。
 ところで、古事記は、三上神=天之御影神を「近淡海[ちかつあふみ]の御上[みかみ]の祝[はふり]が以[も]ち伊都久[いつく]」神と記しています。神宮祭祀(天之御「日」神)の「影神」であるというのが、おそらく天之御影神の命名の本意かとおもいます。下鴨神社の摂社にも御蔭神社がありますが(祭神は下鴨神の「荒魂」)、この御蔭神が、なぜ本社主神の「荒魂」なのかということと、天之御影神という「影神」を宿命づけようとする命名とは無縁ではないのでしょう。
「天之御影神の女[むすめ]、息長水依比売」といった古事記の記述からは、「神」に重点をおいてみるなら、息長水依比売も神の類とみるしかなく(「息長水依比売の水依も河川の合流地の意味と考えられ、神として祀られた野洲川の女神ではないかと考えられている」…『三上のずいき祭り』)、逆に、息長水依比売を「人」とみるなら、天之御影神も「人」であるというように、神と人が未分化である過渡的な系譜作成の曖昧さが感じられます。天之御影神がもっているこの曖昧さには、天皇譜を皇祖神につなげようとする、アマテラスとスサノヲの「誓約[うけひ]」神話そのものがもっている密約の暗さ、曖昧さが投影しているようにみえます。
 柿本人麻呂は、次のような歌を残しています。

■人麻呂の七夕歌
天の川安の川原に定まりて神競[かむつきほひ]は時待たなくに
  この歌一首は庚辰の年作れり。
  右は、柿本朝臣人麻呂歌集に出でたり。(『万葉集』巻十 2033)

 この意味深長な歌の作歌年「庚辰の年」は天武九年(680)ですが、天武時代に「天の川」は「安の川原に定ま」ったというこの人麻呂歌は、これも貴重な証言歌とみられます。この歌については、アマテラスとスサノヲの二神は「競」うように、待ったなしで子産み(五男三女神の創出)をした──こういった解釈も可能だろうとおもいます。「安の川」は、天之御影神の「御河」であろう野洲川とみてよいのかもしれません。
 古事記の編纂が公的に開始されるのは、この人麻呂の七夕歌の翌年の天武十年(681)のことです。日本書紀では消去されるも、古事記が創作された時点で、すでに天之御影神といった神名がつくられたことを考えますと、この神名の命名者としてもっとも可能性の高いのは、わたしは、中臣大嶋(天智時代には神宮祭主、天武時代は記定作業の一員、持統時代は神祇伯)だったのではないかとおもっています。人麻呂歌から時代は三百年以上下りますが、この大嶋の末裔であろう(大中臣)能宣(彼も神宮祭主)が、「ちはやぶるみ神」、つまり天之御影神という「影神」を自明とする三上山讃歌を二首残していたのでした。

 りんごさん、「撞の大神[つきのおおかみ]」に対する大本教の理解・認識の紹介をありがとうございました。この「撞の大神」は「造化の大元霊」であり、「国常立之尊」、そして「素盞嗚尊の生み坐せる三女神」、つまり宗像三女神に「変現」するという内容を読みますと、「撞の大神」を瀬織津姫と置き換えてまったく矛盾がない内容です。出口王仁三郎は、日本の神まつりの闇の講造をよっぽどわかっていた人物だったようです。近代日本最大の宗教弾圧の対象として大本教はありましたが、大本教が核心部分に秘めている思想・認識を、日本国家が執着しつづける「国体」思想を根幹から脅かすものと受け取ったとしても、さもありなんということになります。

 バッキー荒さん、たくさんヒントをいただいたおかげで、富士山(神)の基本イメージが人麻呂歌とともにだいぶくっきりしてきました。
 今回のお話で、焼津や御坂をどこと考えるかはおまかせするとして(すみません)、よくこういう名をつけたなと逆に感心してしまいますが、それにしましても、蛇頭疫神社の発見はほんとうによかったです。蛇頭疫神社の祭神は八十禍津比売神、大禍津比売神であり、かつての忍草浅間神社の鎮座地となれば、富士山神として瀬織津姫の名が「発見」された第一号といえます。人麻呂も少しは浮かばれる時代がきたようで、今日は記念すべき日かもしれません。荒さんも、今夜は一緒に祝杯といきましょう。

149 レス PONTA 2005/03/24 (木) [21670]

>■三河の語源説
(1) 男川・豊川・矢作川の三つの河があるところから〔国名風土記・国郡地名考・類聚名物考・古事記伝・和訓栞〕
(2) 矢作川の一名か。また賀茂郡のあるところから、賀茂の神の御川の義か〔大日本地名辞書=吉田東吾〕(『日本国語大辞典』小学館)

でしょ。『エミシの国の女神』の181ページには「天竜川・豊川・矢作川」説が載っていますが、上の辞書の引用には出てきませんよね。まずはその出典を示してください。182ページには「賀茂の御河」説が載っていて、こちらは出典が『北設楽郡誌』と書かれていますが、「賀茂の御川」説を最初に唱えたのは先に書いたように江戸時代の国学者・内山真龍です。

>『三河国風土記』

手元にあるのはそのコピーで、数年前出された豊川の歴史資料集にも『三河国風土記』とあるだけです。これがいつの時代に誰が書いた本なのか、調べてみますね。

>この男山の神と女山の神はなにかというような問いを、わたしなら立ててみるとおもいます。

男山、女山の神はイザナギ、イザナミとされる場合が多いようですね。男川の記述の男山は現在の巴山で、その神は、巴山と名付けた日本武尊です。尊は山頂に登り、男川・豊川・矢作川の三つの川が巴状に流れるのを見て、こう名付けたそうです。女山は不明です。弟橘比売かもしれませんね。

150 そういえば PONTA 2005/03/22 (火) [21600]

平凡社の県別の地名事典だと思いましたが(うろ覚え)、三河の語源は、3つの川でも御川でもない。水河だと書かれていて、出典が書いてなかったのですが、『万葉集』に「水河」とあるので、そこからの発想だと思われます。

151 五葉山 りんご 2005/03/22 (火) [21600]

風琳堂ご主人さま、こんにちは。
 日本ピラミッド研究のパイオニア 酒井勝軍(かつとき)は、また竹内文書が世間に
公開されるきっかけを作った人でありますが、酒井勝軍が生涯で最後に登った五葉山で、啓示を受けた時のあらましが書かれてある文に接しますと、『瀬織津姫』を いやがうえにも 思わされる、この頃です。
(以下、一部引用させていただきます。)

・・・・その森に、日出岩と名付けられた大岩の群がある。
 そこで酒井たちは、壮大な光景を見る。
 東天雲深く、日の出は危ぶまれたが、雲の泉が噴出した。 泉は溶けて流れ出すように、幾千里を走り、幾百丈の瀑布(ばくふ)となり、 太平洋を雲の海とした。

 酒井たちだけを残して、すべてが雲の海に包まれた。

 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに
      八重垣つくるその八重垣を

 酒井が、荘厳な光景の中で残したのは、この一句である。そして彼は云う。
 『右のごとき神秘の絵巻物が、余のみる所では、世界開闢(かいびゃく)からハルマゲドンまで示された。付録として、滅ぼされる世界の図面まで明らかにされた。これでハルマゲドンが何時終わっても差し支えのない準備が日本に出来たから、余は一安心した』 
 つづけて、彼は云う。

『五葉山上に、神武紀元と重大なる関係があったとは、まったく意外であった』そして、『神秘の宝鍵』を握ったと、彼は述べる。

 こののち、多くの学者の一団が、五葉山に登るだろう。 
 しかし、この鍵を捜しても分かるはずはない。
 ーその宝鍵は、神武以前の、神代日本に通じる山道を 開くべきものである。

『神秘の宝鍵』の謎を残して、この年七月、彼は逝く。 
 享年六七才。 
 酒井の残した謎は、まだ解けていない。
http://ikuno.lolipop.jp/piramido/hon/no01/part2/02-03goyozan.htmより

五葉山神社上社
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/goyou2.htm

天乃松島神楽岡
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/goyou6.htm

152 (既出だったら、すみません) りんご 2005/03/26 (土) [21780]

風琳堂ご主人様、こんにちは。
“情報”ということで、失礼します。
下記サイトに、「瀬織津姫」のお名前があったものですから。

東海道の昔の話(32)
鈴鹿権現、片山神社
http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido32.htm

大原ダムと祝詞ヶ原(後半)
http://viento2.cool.ne.jp/nor/nor01b.htm

154 祓ノ宮・藤木社 りんご 2005/03/26 (日) [21870]

(再度、情報ということで、失礼します。)

◆古座川は、古くは祓川と言われたのだそうです。それは、1枚目の地図の下の方で言うと、高瀬より少し左の方、つまり上流にさかのぼっていったところに、祓ノ宮というのがありまして、瀬織津姫が祀られているそうです。ここは京都の聖護院門跡が大峰入りをするときに御祓をしていったところなので、そんな言い方をするらしいです。そういうことを見ても、川の名前は、今でこそ「古座川」と言っていますけれども、少し歴史があったにしても、その前はどんな名前であったのか、よくわからないところです。
http://216.239.63.104/search?q=cache:ISwxr0cqyR4J:www.mlit.go.jp/river/shinngikai/kondankai/bungaku/4/4-p03.html+%E7%A5%93%E3%83%8E%E5%AE%AE%E3%80%80%E7%80%AC%E7%B9%94%E6%B4%A5%E5%A7%AB&hl=ja

祓の宮神社社叢 (天然記念物)
http://www.town.kozagawa.wakayama.jp/Files/1/5163/html/%8C%C3%8D%C0%90%EC%92%AC%8Ew%92%E8%95%B6%89%BB%8D%E0%88%EA%97%97%95%5C.htm

古座川の地図
http://homepage1.nifty.com/seisenn/koza.htm

◆藤木社(ふじのきのやしろ)
祭神 瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)
藤木社は明神川の守護神として信仰されてきた。
http://216.239.63.104/search?q=cache:CUTuyAkhUI8J:homepage1.nifty.com/bzvkim

藤木社
祭神 瀬織津姫の神
社殿後の楠は樹齢推定500年
明神川の守護神として信仰されてきました。
青葉ずくが営巣のうえ子育てと巣立ちが絵本にもなった舞台です。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/morinui/mokuji/koubou/koubou.html

・・大田神社までの道のりのちょうど中間点あたりに、藤木社(ふじのきのやしろ)という小さなお社があります。祭神は、瀬織津姫神です。大祓詞にも登場する神様ですね。
http://216.239.63.104/search?q=cache:L71bs_rM2D0J:www.snowy.to/~goto/diary/200205a.html+%E8%97%A4%E6%9C%A8%E7%A4%BE%EF%BC%88%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%AE%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%82%84%E3%81%97%E3%82%8D%EF%BC%89+%E7%80%AC%E7%B9%94%E6%B4%A5%E5%A7%AB&hl=ja

http://216.239.63.104/search?q=cache:Ok9OqxLF1lIJ:www.city.kyoto.jp/kita/map/spot_d.html+%E8%97%A4%E6%9C%A8%E7%A4%BE%E3%80%80%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%B7%9D&hl=ja

http://www.thekyoto.net/kyoukyou/0405/040528_01/

http://216.239.63.104/search?q=cache:d1dGulsHECMJ:ryu3.cocolog-nifty.com/dragontail/cat2066428/+%E8%97%A4%E6%9C%A8%E7%A4%BE%E3%80%80%E7%A5%A0&hl=ja

155 “情報”になったら、うれしいのですが。 りんご 2005/03/27 (日) [21970]

○ 潮斎(しおい)神社  (朝妻神社) 福岡県山門郡瀬高町のお宮
祭神は瀬織津彦姫神、瀬織津姫
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage5.htm

○ 黒島神社・池宮神社  香川県観音寺市池之尻町281
http://www.genbu.net/data/sanuki/kurosima_title.htm

○ 岩滝神社  岡山県英田郡西粟倉村
http://www.vill.nishiawakura.okayama.jp/rekishi/14.08.html

○ 村崎神社 福島県
http://216.239.63.104/search?q=cache:UGC2gBU4kAoJ:http://hachimanjinja.hp.infoseek.co.jp/hachimanjinja_003.htm+%C2%BC%BA%EA%BF%C0%BC%D2+%C0%A5%BF%A5%C4%C5%C9%B1%CC%BF&lr=lang_ja&hl=ja&ie=EUC-JP&output=html&client=nttx

○ 男河内杉王神社    愛媛県東宇和郡城川町男河内
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?u=www33.ocn.ne.jp/%7Ekotaro_mil/iyosumi/towninfo/sirokawa.htm&w=%22%E7%94%B7+%E6%B2%B3%E5%86%85+%E6%9D%89+%E7%8E%8B+%E7%A5%9E%E7%A4%BE%22+%22%E7%80%AC+%E7%B9%94+%E6%B4%A5+%E5%AA%9B%22&d=14B448E853&ou=%2fbin%2fquery%3fp%3d%25c3%25cb%25b2%25cf%25c6%25e2%25bf%25f9%25b2%25a6%25bf%25c0%25bc%25d2%2b%25c0%25a5%25bf%25a5%25c4%25c5%25c9%25b2%26fr%3dtop%252c%2btop

○ 祓戸神社(大隅国総社) 鹿児島県国分市府中 JR日豊本線国分駅
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/osumi.html

http://www.genbu.net/data/oosumi/haraido_title.htm

http://www.hinocatv.ne.jp/~w-suzuki/ohsumi.htm

○ 八張口~社 (創禊辨:參考)
近江の風土記に曰はく、八張口(やはりぐち)の~の社。即ち、伊勢の左久那太李(さくなだり)の~を忌みて、瀬織津比(せおりつひめ)を祭れり。云々。
(武田祐吉採択)
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits3.html

157 三川と五葉山の話 風琳堂主人 2005/03/29 (火) [21980]

 富山市上赤江というところに、三川神社(祭神:瀬織津姫)があります。この「三川」が三川=三河と関係があるとしたらこれはおもしろくなるぞとおもい氏子の人にたずねてみましたが、それはわからないとのことで、ちょっとがっかりしたことをおもいだしました。この三川神は、世界一の急流といわれる、立山を源とする常願寺川の上流から流れてきたと伝えられます。富山の三川神は、三つの川からの命名ではないようです。
「天竜川・豊川・矢作川」説、「まずはその出典を示してください」──これはガセナタの例として出したもので、その「出典」については、時間と空間が異なる場でわたしが耳にしたもので、文献の根拠はないとおもいますし、調べてもいません。いわゆるガセの「口碑」というべきかもしれませんが、ただ、二例も耳にすると、こういう理解があるのかとおもい、それは「まちがい」と記したものです。三河を調べていたときに、「矢作川・男川・豊川」の三川説をわたしが耳にしていたら、もう少しこれらの川神を調べていただろうなとおもいますが、これは地元のPONTAさんたちにいずれ調べてもらえればありがたいとおもっています。
「三川」の文献上の初出は古事記ですが、この古事記以降の木簡に「三川」と記されていることを以って、「三川」説の補足資料とすることについては、わたしは保留で、どちらかといえば、やはり「賀茂の神の御河」説に魅力を今も感じています。
 まだ国名も定かでないときに、そこには「賀茂の神の御河」が流れている、この川はその地の中心の川、生活の大動脈の川である。国名をどういう名とするかと考えたとき、この「御河」にちなんで三川(→参河→三河)にしておけ──と、こんな経緯ではなかったかとおもいます。江戸時代の国学者・内山真龍が、この「賀茂の御川」説を最初に唱えていたとしますと、内山の見識には一目をおきます。
 朝廷別王は「三川の穂別の祖」であるという古事記の記述が、おそらく「三川」という表記の最古のものです。古事記(712)がそう記しているということで、開化時代の表記もまたそうだろうとみなすことはちょっとむずかしかろうとおもいます。この古事記成立の翌年(713)には、元明(背後に不比等の存在)による風土記撰上の命とともに、好字二字にて国名等を表記するように勅命が出されていて、古事記の多くの国名表記も、この勅命(の意向)の影響下にあることが考えられます。もし「賀茂の神の御河」→御河国と命名することを認めなかった中央思想があったとすれば、それは、「賀茂の神」への尊意が露骨に表れた国名を認めなかった(認めたくなかった)ということが考えられます。三河には、「賀茂の神」とはなにかという大事な問いが、まだ眠ったままなのかもしれません。
 一方、これは仮の仮の話となりますが、古事記の三川国名の表記の記述を一応信用して、「男川・豊川・矢作川」の三川説をみてみます。開化の三代あととされる景行時代のことですが、PONTAさんの紹介によると、男山=巴山にヤマトタケルが登って、つまり「尊は山頂に登り、男川・豊川・矢作川の三つの川が巴状に流れるのを見て、こう名付けた」という口碑(石碑?)があるとのことです。これは素朴な疑問ですが、現在の巴山の「山頂に登り、男川・豊川・矢作川の三つの川が巴状に流れるのを見」ることは可能とはおもえませんし、男川の源流山は、むしろ闇苅[くらがり]渓谷経由で本宮山のようにもみえます。にもかかわらず、ヤマトタケル伝承をここにおいて、女山は語らず、男山→男川として、三河国の三川の一つとみなす伝承創作の意図はなんだったのかということがあります。また、ヤマトタケルは、男山という山深いなかに、なぜわざわざ入っていったのかという問いもあります。古事記の文脈に沿っていえば、そこには「ちはやぶる神」「荒ぶる神」がいたと仮定してみることも可能なわけで、ヤマトタケルがそういった神を「平[ことむ]け」に男山(と女山)までわざわざ出向いたとしますと、そこには、まだ明かされていない「ちはやぶる神」「荒ぶる神」がもともとの地主神として隠れているのではないかと、逆に考えたくなってきます。巴山のヤマトタケル譚の創作伝承は、かなり新しいものだろうとおもいますし、もう少しうがった読み方をすれば、ヤマトタケル譚のある地には、神宮改竄を淵源とする各地の祭祀改竄の影が色濃く落ちているということが考えられます。イザナギ、イザナミがそれぞれ男山、女山の神であったとしますと、ヤマトタケルがこれらの神を「荒ぶる神」として討伐しに行くことはないでしょうし、現在、それらが記紀の神名表記に準じた神として確認できるなら、それは、タケル(に象徴される中央の祭祀権力)に(いつの時点かはおくとして)、「平[ことむ]け」された神のあとにまつられた新しい神だということになります。
 三河の伝承(田楽・神楽歌等を含む)は、おうおうにして反骨的な逆説を含意したものが散見され(これが三河のユニークなところです)、たとえばヤマトタケル譚に込めた、その土地の人々の真意はいったいなんだったのかと、わたしなどはそういった問いとして考えようとしますが、これはわたしだけの発想なのかもしれません。
 奥三河の山深い水源の地にて、三河の二つの大河(矢作川と豊川)の「水を司る」女神が瀬織津姫であったとして、なんの不思議もあるまい──これは『エミシの国の女神』の直観的ものいいですが、基本的に、まだ変更する必要はなさそうです。いや、もし変更をするならば、「奥三河の山深い水源の地」に「限らないが」、とすべきかもしれません。
『万葉集』に「水河」とあるとのことで、ざっと万葉集をみてみたのですがみつけられませんでした。これが三河語源の第三説として登場してきたら、それはそれで楽しいものとおもいます。
 千時千一夜は、「うろ覚え」やチョイ書きの質問投稿に対するレスのやりとりは原則として避けたく、できれば、自分の眼と足で調べ、第三者が「読める」ように、言葉を自立させた上での投稿をこれからお願いします。

 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を──「酒井が、荘厳な光景の中で残したのは、この一句である」とのことですが、これもガセの話になりかねない危うさを抱えている記述です。古事記は、スサノヲによるクシナダ姫との婚姻の祝歌として、この歌を記しています。酒井勝軍は、なぜスサノヲの歌を雲海に包まれた五葉山の山頂に「残した」のかというのは謎ですが、また、「神秘の宝鍵」が五葉山山頂になぜあるのかはわかりませんけど、五葉山が皇祖神以前の太陽神信仰の山であったことはたしかだとおもいます。また、この太陽神の妻神が瀑布(滝)神であるという「啓示」を酒井がもし受けて死んだとしますと(それがスサノヲの歌を自分の歌のように残した理由かもしれませんが)、これからがおもしろくなるだろうというときに、酒井は息を引き取ったことになります。
 紀貫之(ら)は『古今和歌集』の序(仮名序)で、「人の世と成りて、素盞烏[ママ]尊よりぞ、三十文字[みそもじ]あまり一字は、詠みける」と、「やまと歌」=和歌(三十一文字)はスサノヲから始まると書いています。また、割注には、「素盞烏尊は、天照大神の兄[このかみ]也。女と住み給はむとて、出雲の国に宮造りし給ふ時に、その所に、八色の雲の立つを見て、詠み給へるなり。八雲立つ出雲八重垣妻籠めに八重垣造るその八重垣を」とも記されています。「八雲立つ……」の歌を和歌の起源と認めるかどうかは別にしても、古事記初出のこの歌の作者は、あるいは古事記成書時代の宮廷歌人であったのかもしれません。
 ところで、五葉山の北西方向には、遠野三山の関連山である六角牛山、前薬師(現在の薬師岳)、早池峰山の峰々が直線上に連なっています(『エミシの国の女神』p.309の写真参照)。逆に早池峰山から望めば、五葉山の先は三陸の海で、そこは昇陽の山ということになります。
 五葉山には人工的に加工されたような半端でない巨石がみられ、酒井勝軍の関心を強くひいたとしても不思議ではありません。日本の巨石文化は、縄文の時代というよりも稲作と太陽神をセットで考える「南」の人々の信仰の産物ではないかとわたしはみています。巨石文化を超古代的な文化の一産物とみなす関心があることを知らないわけではありませんけど、わたしは、ニギハヤヒ(物部氏)に象徴される稲作と鉄と太陽神(変型がアラハバキ神)の文化の産物が日本の巨石(文化)ではないかと考えています。三内丸山しかりで、縄文人は、樹木には関心をもつも、モニュメント的な巨石にはあまり関心をはらっていなかったのではないでしょうか。
 りんごさん、瀬織津姫に関する多くの情報をお礼申し上げます。いくつかすでに見たものもありますし、未知のものもありで、これはこれで、ここに記録として残してまたなにかの折に参考にさせていただきます。ただ、こういった、ネット上の情報というのは、キーワード検索をすればかなり拾うことも可能ですので、できればネット上にまだ載っていない、町村誌、秘蔵の神社誌、古文献等の「活字」情報を寄せていただくとありがたいです。わたしが各地を歩いた実感としては、全国には、まだ光が当てられていない史料・資料がたくさんあるものとおもっています。ネット上の情報と、この非ネット的な情報が出揃うことをいつも楽しみにしています。

(追伸)
 今、わたしの父親ですが、その末期(病名は間質性肺炎)の言葉を聞き取る、看取るといいましょうか、そういった最中で、関係文献を引用するといった余裕がなく、あまり面白い話が書けそうにないというのが現状です。
 父は大正13年の生まれで、典型的な戦中世代です。飲んだときに、戦争の話をなるべく聞くようにしてきましたが、その中で、もっとも印象深いことは何だったかというわたしの質問に、シベリアに抑留されていたときの話がよく出ました。父曰く、重病の仲間も強制労働に狩り出され、しかし極寒のなかの労働を終えて彼を背負って宿舎に帰ってくる途中、彼はそっと息を止めていたそうで、父は、この男はなぜこんなふうに死ななければならないのか、これはいったいだれのための死なのかを、そのとき考えたといいます。
 天皇制の最期を見届けるまではオレは死ねないというのが口癖でしたが、この千三百年以上にわたる日本の亡霊思想(天皇思想)は、どうやら父よりも長生きすることがみえてきました。病床でのわたしとの会話は、わたしの言葉に対して、イエスならばかろうじて顎をたてに動かす、あるいは手の指を動かす(にぎる)といったコミュニケーションですが、それでもかなりのことを末期の言葉として聞き出すことは可能です。
 父は、この千時千一夜の愛読者の一人でもあったのですが、彼の日記をみていましたら、千時千一夜の感想文がいくつかしたためられているのに驚きました。父が心にかけていた天皇制のことについては、瀬織津姫が必ず引導をわたすだろうからあとは心配しなくていいといいましたら、これも顎をたてに動かしていました。「最中」の報告としておきます。

158 三河 PONTA 2005/03/30 (水) [22200]

>「天竜川・豊川・矢作川」説、「まずはその出典を示してください」──これはガセナタの例として出したもので、その「出典」については、時間と空間が異なる場でわたしが耳にしたもので、文献の根拠はないとおもいますし、調べてもいません。いわゆるガセの「口碑」というべきかもしれませんが、ただ、二例も耳にすると、こういう理解があるのかとおもい、それは「まちがい」と記したものです。

・残念です。この説は初めて聞く説ですし、天竜川は明らかに遠江の川だと思うのですが、それを三河の川だと言う人はいないと思うし、いたらいたでその理由をぜひとも聞きたいです。天竜川の水源地は諏訪湖ですから。遠江の川ではなく、信濃の川だという人もいるかもしれませんし。とても興味あるので、またどこでいつ聞いた説か思い出したらぜひぜひ教えてください。『エミシの国の女神』にしか載っていない説ですので、頼りにしています。ぜひ思い出してください。

>「まちがい」と記したものです。

確かに、「男川・豊川・矢作川」説を本に載せると読者は間違いかどうか分からないかもしれませんが、「天竜川・豊川・矢作川」説なら遠州や三河の読者なら明らかに間違いだと分かるわけで、この「天竜川・豊川・矢作川」説を言った人は遠州・三河の人ではないか、遠州・三河の人であれば深い考えがあってのことでしょうからなおさら気になります。

>『万葉集』に「水河」とあるとのことで、ざっと万葉集をみてみたのですがみつけられませんでした。これが三河語源の第三説として登場してきたら、それはそれで楽しいものとおもいます。
>千時千一夜は、「うろ覚え」やチョイ書きの質問投稿に対するレスのやりとりは原則として避けたく、できれば、自分の眼と足で調べ、第三者が「読める」ように、言葉を自立させた上での投稿をこれからお願いします。

・出典は、うろ覚えの通り、平凡社の県別の地名事典で、書名は「愛知県」です。
・『万葉集』は、276番歌です。PONTAのサイト「万葉紀行」にも載せてあります。
  妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
  一本云 
  水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去

>自分の眼と足で調べ

巴山へ行ってきましたが、山頂は木が生えていて、全然景色は見えませんでした。山頂の石碑には「この巴山が男川・豊川・矢作川の水源地」だと書かれていました。河川法上の水源地ではありませんが、支流の水源地かもしれません。山麓の(といってもかなり離れていますが)白鳥神社近くに巴川分水点がありました。ここは、豊川につながる巴川と矢作川につながる巴川の水源地です。
PONTAはのテーマは「旅少女」です。実際にその場所へ行って、自分の眼と足で調べ、写真を撮ってくることがテーマなので、こういう忠告のされ方をされるとは意外でした。あちこち行ってますが、「天竜川・豊川・矢作川」説は残念ながらまだ耳にしていません。
できれば、こういう説をどう聞きだすかという方法もお教えいただければ幸いです。そうすれば、実際にその場所へ行って、自分の眼と足で調べてるにもかかわらず、そうしていないと忠告されることもなくなると思います。なんか、この忠告を聞いて、ただ行って写真を撮ってきただけでは、フィールドワークとはいえないということを再確認できましたので。

>三河を調べていたときに、「矢作川・男川・豊川」の三川説をわたしが耳にしていたら、もう少しこれらの川神を調べていただろうなとおもいますが、これは地元のPONTAさんたちにいずれ調べてもらえればありがたいとおもっています。
あれれ? 前回のレスで、「矢作川・男川・豊川」の三川説について辞書を引用されてましたよね? ちょっと辞典を引けば出てくる最もポピュラーな説ですので、三河について調べていた時に出てこなかったというのは変な話ですね。私は知っていて、理由があって意図的に触れないのだと思っていました。正しいと思う説とペアにするには、あやふやな説と組ませるより、確実に変だと分かる説と組んだほうが強い印象を読者に与えるとか。
私の興味は、川神よりも三河の語源とそれに関係して「なぜ国名に川とつけたか」です。川の国といえば、三河より尾張の方が川の国だと思われます。尾張氏のような豪族がいなかったからか、三河といえば賀茂氏だと分かるから賀茂国としなくてもいいと考えたのかです。その国を最も象徴するものを国名にすると思いますが、どうなのでしょうか。
「天竜川・豊川・矢作川」説というデータは今までに無いデータですので、語源に興味がある私には最重要ポイントです。どの地方の人がどのような理由でこういう説を立ててるのか知りたいです。豊川と天竜川の上流の方で生まれそうな説だと推測していますが、思い当たりませんか? もしそうなら、「三河地名発祥地は豊川の上流」とするPONTA説の傍証になると思います。たとえ間違った説でも、豊川上流の人たちが国名決定に強く関係したとあれば、矢作川単独説は否定されると思うので非常に重要なポイントです。
PONTAのサイトの感想でも、本論とは関係ない部分で「これはどういう意味ですか。これについて詳しく調べてるので教えてください」と重箱の隅をつつかれることがよくありますが、先輩に言わせれば、「サイトに書いたということは、本論に全く関係ないわけではないので、その重箱の隅を何度も何度もつつくことで、本論に直結することが見つけられることもあるから、とことんつついてみな(つつかれてみな)」と教えられました。

川神は川神、水神は水神であって、その神に名前を付けるのは神が生まれてずっと後の時代でしょうね。私としては「川神様ありがとうございます」であって、川神は何という名で呼んでも川神であって、お水をめぐんで下さっている(水道の蛇口をひねると天竜川の水が出てくるところに住んでいます)だけで感謝、感謝で、そのお名前にはそれほど興味がありません。しいて言うなら「天竜川の神様」です。それに神様の本名は秘中の秘で、普段耳にするのは略称だとも聞いています。略称で呼ぶのは失礼のように思われますから、「川神様」「川の神様」と、神名は口にしない方がいいのかとも思います。
もちろん、天神社では、「神様・・・」ではなく、「菅原道真様、もっと分かりやすい文章が書けるお力を下さい」と祭神名で指名して頼みますけどね。
でも、川神にというか、川神の名に興味がある部員がいずれ入会するかもしれませんので、風琳堂主人様からの依頼(お願い?)として、伝達事項に入れておきますね。

ちなみに、今、興味があって書いているのは、東照宮と熊野神社の関係です。久能山東照宮と滝山東照宮と鳳来山東照宮には行きましたが、肝心の日光東照宮へはお金が無くていけません。春休みなのに残念です。でも、日光東照宮の場合は研究書があるので、それを読めば「自分の眼と足で調べ」なくても、立証可能ではないかと思ってます。もちろん、行けるものなら行きたいのですが、久能山東照宮と滝山東照宮と鳳来山東照宮の3社を調べただけでも熊野神社との関連をいくつも指摘できています。でも、最終的には熊野三山へも行かないと行けないのかしら。時間があっても、お金が無い(泣)。

>第三者が「読める」ように、言葉を自立させた上での投稿をこれからお願いします。

「言葉を自立させる」の意味がよく分からないので、分かるように教えていただきたいです。これは私には文章力が無くて、何を言ってるのか分からないから、レスを付けられないという事でしょうか。今回の文章はどうでしたか? 分かりやすかったでしょうか?

160 お返事ありがとうございました。 りんご 2005/03/30 (水) [22286]

風琳堂ご主人様
お父上のお傍にいらっしゃる時間が、大変貴重な中をお返事いただき、厚くお礼申し上げます。お父上も愛読者でいらっしゃいますこと、心に沁みました。うらやましくもあります。

矢継ぎ早に未熟な投稿いたし、申し訳ないです。
またもや、ネット上で目にしたものなのですが、文章としましては、次のようなものが、ありました。(初心者マークの自分と知っているのに、止められなくて、すみません。
次回よりは、情報、と思えたことは、勇気を出してメールさせていただこうと思います。)
では、お父上、ご主人様のお体に無理がありませんよう、お祈りしております。

○ 盛岡市 龍源寺関連の伝説
<引用>・・・とあるお寺の小坊主さんが葉を取るのに難儀している姿を見かねた早池峰山の神様「瀬織津姫命(女神)」が枝を下に下げたという伝説もあります。
http://www.mni.ne.jp/~m_yanagi/mitinoeki.2002iwate2.html

○ 三島市 滝川神社関連の風習
<引用>・・・滝川神社の例祭は2月28日朝山田の集落の人々が集まり、祭神瀬織津姫を祭る神事の後、飯器から赤飯が出席者に分けられます。この時、器や箸を用いないで、素手に受けそのまま食します。この素手で食べるという珍しい風習は長く続いているものです。(写真)
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/kyoudo/kobako/200_249/kobako200_209.htm

○ 舞鶴市 『ふるさとのやしろ』の記述
<引用>・・・ 国道二十七号線が西舞鶴の街をはずれ、伊佐津川の山崎橋にかかる手前に鎮守の森がある。「山崎神社」が社名だが、通称「一の宮」ともいう。地籍は十倉だが、真倉、十倉両村の氏神で、祭神は天照大神の荒御魂。
 真倉の氏神が、十倉の地に両村の氏神としてまつられている理由には二説がある。一説は、ここから一・五キロ上流の真倉小字サミ田にあったお宮が、大水で流され、鱒がお宮を背負って現在地にあがったという伝説。他の一説は、昔はこの付近が真倉・十倉の境界線だったので、両村合同で社を建てたという説。「一の宮」を「山崎神社」に改めたのは、幕末か、明治初年ごろのようだ。
 これ以上のことはもう誰にもわからない。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/kasagun3.htm#YAMAZAKIJ1

○ 持子の故郷(ホツマツタエに見る穴馬の古代)
http://www3.ocn.ne.jp/~seasnow/newpage48.htm
こがしらおろち
http://www3.ocn.ne.jp/~seasnow/newpage17.htm

161 私もそのうち……。 バッキー荒 2005/04/04 (月) [22371]

 桜の便りもちらほらと聞こえてくるようになった今日この頃です。お父様のご容態、お察し申し上げます。行間から伝わってくる御主人の覚悟が、同様に老父をもつ我が身に突き刺さります。往古、桜にもののあわれを見出した先達も同じように野辺送りをしてきたのでしょう。何ら変わるものではない、つくづくそう思います。
 先日の祝杯は、周辺に理解してくれる人が誰もいないので、一人でやるのも悪くないのですが、やはり一抹の寂しさを覚え、いまだ果たしておりません。実のところ、喉に刺さった魚の小骨があるのです。蛇頭疫神社の祭神が、なぜか比売神と女性になっていたのがひっかかります。本居宣長は大禍津日神、八十禍津日神と表記していたはずで、比売神とはしていませんでした。
 島崎藤村の『夜明け前』ではありませんが、幕末の国学の隆盛が影を落としている気がしないでもありません。天狗社は御主人の仰せのとおり、明治期の改竄なのですが、村社、郷社はともかく一応の神社の体裁を整えていたので、その対象になったのでしょう。それに対し蛇頭疫神社は渋草浅間神社の元社とはいえ、それはもう貧相の極みで、全く顧みられることもなかったのでは、と想像されるからであります。敢えて好意に解釈すれば、水神は姫神であるという通念が幕末期以前から脈打っていて、いつの時代か特定できませんが日神から日売神に書き換えられたのでしょう。なかなかのヒョウキン者です。
 元社の祭神が水神であると特定できる訳は、そこが水際であったという傍証が得られたからです。せの海と並んで宇津湖があった、というのが今までの定説であり、確かに本栖湖、精進湖、西湖の水面の標高が同じで、元は一つの湖であったことは合点がいきます。それに比して山中湖と忍野湖が宇津湖として合していたとすると、実は忍野の渋草と山中湖では標高差が五十メートルほどあり、その標高差の分だけ渋草の地での湖水面が現在の地表から上昇し、浅間神社だけでなく蛇頭疫神社も完全に水没してしまい、これには参った、参ったで、困惑しておりました。ところが、村のとある爺ちゃん(元助役)がのたまうに、去年だか一昨年だか、まあ最近のことなのですが、冨士北麓に住む六十二歳の大学の先生が学会に新説を発表というのです。その内容は確かに忍野は湖だったのですが、山中湖とは繋がっていなかった、というものです。つまり、べつべつに二つの湖があったということです。少なくとも歴史時代においてはそのように断定できそうです。そうすると、蛇頭疫神社はまさに水際で整合性が出てきます。よって、祭り神は水の神でしかるべきで、渋草浅間神社の元神はその創建以前に遡って瀬織津姫とすることも可能なのではないのか、ということになります。
 渋草(読みはシボクサ)の語源は、渋は湿地を表すそうで(渋谷はその代表)、もとは湖だったから至極自然です。忍野のもう一方の地区は内野ですが、宇津湖との関連があるのかどうか判りませんが、こちらにも浅間神社があって、その地は昔の忍野湖があったとしても、水没が免れる場所で、栃の木の巨木を御神木に静かに鎮座しています。御神木が栃の木というのは初耳で、どこか縄文の残滓を匂わせているのも、古層の冨士神を彷彿とさせてくれているようで好感が持てます。明治期に山中湖から忍野に疎水が引かれ、農耕に拍車がかかったのですが、それ以前に自然な河川の状態で水の流れがあったのかどうか今度調べてみますが、通常、流水がないから疎水を開削するのであって、私はなかったとおもっています。村の北の背後にある杓子山は別名雨乞い山と呼ばれていました。だとすると、桂川の最源流は忍野が終点で山中湖ではない、ということになりますが、冨士の噴火(西暦937年の噴火)以前には流れがあったのかもしれません。その山中湖に流れ込む川(といっても雨後を除いて常時涸川)、つまり忍野と繋がっていればですが、本当の源流をさらに石割山に向かって遡ると、銀座と同様、日本中に沢山ある天の岩戸伝承(勿論後世のこじつけ)の一つがある石割神社があります。ここに御神木として桂があります。なぜ、浅間神社とされていないのか不思議です。月と桂、古代オリンピックで、マラトンからアテネへの戦勝報告で戦士が走破した距離と同じ距離を競走した勝利者の頭に捧げられた冠に使われた素材、ローリエを月桂樹と呼び習わしたいわれは、中国人にでも聞いてみましょうか、私には判りません。異なる文明があるということは私にも判ります。
 どうか、御主人、ご自分のお体も大切にしてください。そのうち、私も同じことをすることになるでしょう。三月末日、店を一つ閉めました。初めての経験で、その後始末ももうすぐ終わります。そうしたら両親を連れて奈良を旅行します。二人とも大和の国中の出身で最後になるかどうか、母が見たいという吉野山の桜、間に合うのかどうか、なりゆきに任せたいとおもいます。
 新ネタでなくてすみません。また、過去ログN0、108番、111番、並びに113番の内容の一部、今回の投稿で修正させて頂ければ幸いです、では。

162 末期の水と桜と 風琳堂主人 2005/04/08 (金) [22530]

「三河地名発祥地は豊川の上流」とするPONTA説──初めて聞く新説ですが、もし天竜川・矢作川・豊川を三河の三川と意識することがあるとすれば、それはこれら三川の下流域の人たちではなく、奥三河だろうということはたしかに考えられます。この奥三河は、花祭りのエリアでもあります。しかし、「豊川上流の人たちが国名決定に強く関係した」という仮説を展開するには、なぜ矢作川を無視して「豊川」なのかという問いがかぶさってきます。古代、中央=ヤマトの「国」というものへの視野の広がりを想像しますと、つまり、尾張国までが視野におさめられたあと、その東の地域をどう命名するかという意識があったとしますと、現在の西三河地方を飛び越えて、矢作川源流部でもある奥三河地方の「三川」意識を根拠に国名として「三川」と命名したとすることはかなり飛躍した想像とおもえます。PONTAさんが「矢作川単独説は否定されると思うので非常に重要なポイント」というこだわりを持続させるなら、三河の賀茂氏(とその神)の分布を奥三河の山間部に探るという方法で歩かれたらよいかとおもいます。静岡の三島は、三つの島ではなく(伊豆の)御島から命名されたものでしょう。同じことは三川=三河にもいえるのではないかと今でもわたしはおもっています。
 マニュアル的なものは別ですが、文章には、自分が望もうが望むまいが「人」が表れます。千時千一夜は作文教室ではありませんし、レスを当然のごとくに求めるなら、メールにしてください。

 りんごさんのネット情報の収集力にはびっくりです。わたしにはちょっと根気がなくて、これらの情報を参考にさせていただくとしか今はいいようがありませんが、お礼だけはお伝えしておきます(メール可です)。

 バッキー荒さん、渋草浅間神社の元社である蛇頭疫神社の祭神が、大禍津日神、八十禍津日神ではなく、大禍津比売神、八十禍津比売神と表記されていることには、こういった表示をおそらく強制されたときに、この神を大事におもってきた人(たち)に、なんらかのこだわり、あるいは抵抗の気持ちがあったのかもしれませんね。たんにまがましい神ではない、「比売神」である、つまり、ここの水神は「女神」さんであるというメッセージのように感じます。
 山中湖と忍野湖の立地関係については、標高差五十メートルとしますと、文面を読むかぎりにおいてですが、かつては両湖は二段湖だったのかなと想像しています。山中湖は深度十メートルそこそこの浅い湖ですから、その湖底の地質がわかると、あるいは溶岩が流れこんで浅くなったのかなとも想像しています。

 りんごさん、バッキー荒さん、父親のことではお気づかいありがとうございました。
 四月三日15時52分、本人は納得の上で息を引き取りました。最期に「お・み・ず」と口を動かしたのが読めたので、氷水を綿棒に含ませて飲ませたのが最後のコミュニケーションでしたが、その前に、本人は戒名不要、葬儀は簡略に、といった意志を表明していましたので、わたしが、死んだら木を植えてやりたいが、どんな木がいいかと質問しましたら、桜を肯定しました。もっとも、ソメイヨシノはイヤだということで、山桜ということになりました。父は瀬織津姫が桜神でもあることを了解していましたので、墓石は自然石で、瀬織津姫ゆかりの滝から一つもらってきて桜の木の根元に置いて、そこに骨を埋めるがいいかといいましたら、これも顎を縦に動かしていました。こんなベッピンの女神とこれから一緒でうらやましいかぎりだ、オレもはやくそっちへ行きたいもんだといったら、これも「うん」ということでした。
 喪主というのは初体験で、独特の疲労感が今でも残っていますが、これからの瀬織津姫の視線には、どうやら人麻呂ばかりでなく、オヤジの視線も二重化されることになったようです。

163 そうは書いていませんが、そうとられる書き方でしたでしょうか? PONTA 2005/04/08 (金) [22550]

>「三河地名発祥地は豊川の上流」とするPONTA説──初めて聞く新説

あれれ?
ご指摘の通り、日本語を勉強しないといけませんね。

PONTAは「矢作川・豊川・男川」という最も有名でポピュラーな説を支持していると繰り返し書いているつもりですが・・・。「矢作川・豊川・男川」説発祥の地はどこか調査中ですが、一般的には巴山だとされています。

『エミシの国の女神』では、地名辞典をひけばすぐに出てくるこの最も有名な説を書かないで、「矢作川・豊川・天竜川」説という私たちがいくら調査しても出てこない説を書かれている。だから「その出典を知りたいです。私たちが読んだことのない本に書かれているのでしょうから。その本には、私たちが知らないことがまだ書かれていそうです」とお聞きしたら、その説は聞いた説で、どこで聞いたか覚えていないという。そこで、私がヒントを与えて差し上げたのです。つまり、「あなたが矢作川・豊川・天竜川説を聞かれた場所は、豊川の上流ではありませんか?上流では豊川と天竜川が近づくので、そういうことを言う人もいそうです。これで思い出せませんか?」と書いたのです。豊川下流の人、ましてや矢作川流域の人は、天竜川は遠江国の川、あるいは信濃国から流れてくる川という意識があるでしょうから、こういう説は言わないはずだと考えてのヒントです。

つまり、「三河地名発祥地は豊川の上流」とは言っていません。「矢作川・豊川・天竜川説をあなたに言った人は、豊川の上流の人の可能性が高いと思います。思い出してください」と書いただけです。私が言いたいことが伝わらなくて、誤解されたようですね。今度はちゃんと伝わると言いのですが・・・。

今日、読んだ本(平成10年に出た『母なる豊川 流れの軌跡』)には、『風土記』には、矢作川・豊川・男川で三河としているが、正しくは矢作川・豊川・梅田川であると書かれていました。「3つの川で三河」説は根強いですね。

>・出典は、うろ覚えの通り、平凡社の県別の地名事典で、書名は「愛知県」です。

ごめんなさい。書名は「愛知県の地名」でした。

164 割り込み御免 バッキー荒 2005/04/11 (月) [22650]

 ここぞとばかりに咲き競う桜に圧倒されそうです。仕事で失敗し、その後片付けに奔走してきますと自己嫌悪が増殖し、いつしか逃避行を求めている自身に直面したりして、勢い盛んな桜花が少々恨めしくもあります。
 三河の語源論争、出口は見えそうもありません。無理に早急な結論を導き出す必要性はないかと存じます。時間をかけてゆっくりとひも解いてゆくことが肝要かなとおもわれます。御主人が引用した矢作川、豊川、天竜川からなる、ガセネタとしての三本の川からなる三河語源説の典拠は、P0NTAさんご指摘のとおり曖昧です。しかし御主人自身が妄言と規定しているのですからそれ以上の追求は無用かとおもわれます。仮にその引用の意図が、矢作川つまり賀茂の御河よりの三河語源説とのコントラストをより鮮明にする為、とのP0NTAさんの推測に沿っていたとしてもです。妄言は所詮妄言です。その妄言が一人歩きをして禍の元になったり、権力が利用して人々を惑わしたり、そういった困ったことがあるのならば、犯人探し(誰が言い出したのか)や悪意の構造をつまびらかにするのは意義のあることです。しかし今回の話では、その追求の結果として何事かを導き出すかというと、難しいものを覚えます。対比の仕方が適切ではない、確かにその主張は正当なものとして残るのですが、だからといって『エミシの国の女神』の本筋と齟齬をきたすかというとそうともいえません。なぜなら、その対比がなくとも賀茂の御河語源説は成り立ちますから。敢えてどちらか一つを選択するとなると、最初に申しましたとおり、出口がなくなります。新たな傍証を更に積み上げるならべつですが、それなくして相互の論理展開の巧拙を問うのは、この掲示板になじまないと感じるのは私だけでしょうか?文章力の問題ではありません。論点だとおもいます。
 浅学の私にも質問をお許しください。最初の素朴な疑問は誰に対してというものではありません。それをことわっておきます。たしか男川は矢作川の支流でしたよね。独立河川を三つ並べるとよりすっきりするのですが、支流を含めて数えるとその数え方は途方も無い広がりをもってしまい収集がつかなくなります。濃尾三川は揖斐川、長良川、木曽川でそれぞれ独立河川です。どれだけ俯瞰性をもって把握していたか、古代の人に尋ねてみないと判りませんが、先祖の系譜を都合よく創作する癖は昔からあったようです。その混乱はろくなものではないという認識もあったようです。当然数え方にもルールがあったのではないのでしょうか?まして国名に関してです。川の重要性は今日の比ではありません。おそれかしこみ、極めて丁寧に接した、そうおもえるのです。もう一つの質問はP0NTAさんに対してです。何度も通読したのですが、貴兄投稿の158番の中ほどにある、ここからは引用になります、もしそうなら、「三河地名発祥地は豊川の上流」とするP0NTA説の傍証になると思います。
 この一文はどう読み下せばよいのでしょうか?混乱をきたしているのは私だけではないはずです。すばらしい着想とひらめきをお持ちなのですから整然と論を進めていただきたい。これは非難でも中傷でもありません。御主人の堅牢極まりない論陣に一矢を放ったことに敬意を表し、更に続けて欲しいと期待するからであります。ただ、外野席の八っさん、熊さんにも楽に理解できるようにしてほしい、そう願う次第です。
 今回は削除覚悟の投稿です。サイトの管理者に一任したくおもいます、では。

165 ”と”の一字が抜けていた? バッキー荒

 後味の悪さが残り、あつかましくも再度投稿させていただきます。
 ひょっとして、程度の思いつきなのですが、私がP0NTAさんの文章より引用した部分の、とするP0NTA説、というくだりですが、本当は、とするとP0NTA説の傍証に、と書くべきところを、接続の助詞である”と”の一字を入れ忘れたのではないのでしょうか?そうであるなら文意は全く違ってきて、私にも理解できます。
 余計なおせっかいかもしれませんが、悪意は全くありません。さしでがましいようで、申し訳ありません、では。

166 バッキー荒様へ PONTA 2005/04/12 (火) [22750]

>しかし今回の話では、その追求の結果として何事かを導き出すかというと、難しいものを覚えます。

 ガセネタを誰かが風琳堂主人様を混乱させようとして考え出したのなら追求しても意味はありません。でも、そうではなく、そういう説がたとえ正しくない説であっても、本に書かれて売られていたり、聞いたことがあるから本に書いたと言われると、どうしてそんな説が生れたのか非常に気になります。追究することにより何かが生れてきそうな予感がします。

「矢作川・豊川・梅田川」説は知ったばかりです。通説の「矢作川・豊川・男川」説を否定して、なぜこの説を考えたのか考えてみたのですが、豊川河口を船で渡る時に、さらに進んで、梅田川に入って、梅田川を遡ったのではないかと思います。すると、東海道を通る人には、「矢作川・豊川・梅田川」の3つの川の存在がが旅の記憶として強く頭に残り、人に語ったのではないかと思います。

 通説は『エミシの国の女神』には取り上げられていませんが、「矢作川・豊川・男川」説で、「三河地名発祥の地」は巴山だとされています。巴山は分水嶺で、水は東西に分かれます。東の水は、巴川(豊川水系巴川)と巴川(矢作川水系巴川)になって、巴川(豊川水系巴川)は豊川に、巴川(矢作川水系巴川)は矢作川に合流します。西の水は乙川に流れ込み、やがて男川と合流します。『三河国風土記』には、男山は男川の水源地だそうですので、通説の男山=巴山は間違いなのかもしれません。
 いずれにせよ、巴山の水は矢作川・豊川・男川に流れ込んでいて、三河地名発祥の地と呼ばれています。巴山は矢作川・豊川・男川の(支流の)水源地という意味で、「三河地名発祥地は豊川の上流」と書いたのです。

 地図を見ると、豊川の河口と天竜川の河口は距離的にかなり離れていますが、上流では豊川の支流の宇連川と天竜川はかなり接近しています。(今では寒狭川が豊川ですが、古代では宇連川が豊川だったのかもしれません。)もし、「矢作川・豊川・天竜川」説が正しいと思ってる方がいらしたら、このあたり(豊川の上流。正確には宇連川の上流)の方かなと。私たちは豊川の下流ではとく取材をしていますが、上流では取材したことがないので上流の方がどんな知識を持っておられるのか知りたいのです。風琳堂主人様なら上流に行かれているだろうし、そのときにこの話を聞いたのだろうと推察しています。

 ただ、いつどこで聞いたか忘れたとのことですし、ヒントを差し上げても、「三河地名発祥地は豊川の上流説は新説」とおっしゃるばかりで思い出せないようですので、思い出していただくまでは、進展しそうにないですので、思い出したらメールしていただくということで、この話はここまでにしたいと思います。

・川に「賀茂の御川」と氏族名をつける発想は凄いですね。豊川も古代では「飽海河」(「安曇氏の川」の意味)でしたから。風琳堂主人様の「川神はどなたか?」の問いの答えは、矢作川が賀茂氏が祀る水神、豊川が安曇氏が祀る水神なのかもしれませんね。

・「賀茂の御川」が三河国の語源だとすると、豊川を「ほうがわ」と読んで穂国の語源だとする説も浮上する?

・「三川」の「三」は「3つの」の意味なのか「たくさん」の意味なのか不明です。「星」の旧字体は日を3つ、「虫」の旧字体は虫を3つ書いて「たくさん」の意味としたそうですから。「山」「川」の3本の縦線も「たくさん」の意味かもしれません。または熊野三山・出羽三山のように「3」は聖数だから使っただけで、矢作川と豊川以外の第3の川は数合わせの川なのかも?

>たしか男川は矢作川の支流でしたよね。独立河川を三つ並べるとよりすっきりするのですが、

男川は乙川と合流し、乙川が矢作川と合流します。もちろん、現在の地図ではそうなっているのですが、古代では分かりません。乙川は乙姫様の川(乙川竜宮渓谷の淵が竜宮につながっているといわれています)ですので、『三河国風土記』にいう女川かも?

梅田川は短い川で大河ではありませんが、先に書いたように旅人にとって印象に残ったのは矢作川・豊川・梅田川だったのでしょう。三河地名が巴山で生まれたとして、巴山周辺の住民は旅に出たことがなく、川は矢作川・豊川・男川しか知らず、巴山から流れ出した水(川)がその3本の川に注いでいるので、その3本の川の水源地は巴山だと信じていたのかもしてません。実際、巴山山頂の石碑には、その3本川の水源地だと書かれていますから。

ちなみに、三河=御河説支持者に支持している理由を聞くと、「3本川説とこの説しか知らない。三河には大河が矢作川と豊川の2本しかないから、3本川説は違う。だから消去法で御河説を支持する」「豊川は穂国の川であって、三河国の川ではないから、豊川は三河の語源には関係ないはず」です。

以上で『エミシの国の女神』の感想は終わりです。
再読して、また気になる点が見つかったら報告させていただきますね。

168 鴨族は毛人か? バッキー荒 2005/04/13 (水) [22800]

下野の三かもの山の小楢のす ま妙し児ろは誰が笥か持たむ   作者未詳

 万葉集巻十四、三四二四番にある東唄です。以下、解説として中西進著『万葉の秀歌-下』より引用します。

    上野国の歌二十二首に対し、下野国の歌は二首しかない。その一首。
   「三かも山」は、佐野市東方にあり、旧三鴨村はいま藤岡町に入る。「小楢」は、
   楢の若木のことであろう。「のす」は、「なす」の終止形が助詞として固定したもの。
   「ま妙し」は、見た目に美しい。「児ろ」の”ろ”は愛称の接尾語で、「笥」は器、

   ここは食器のことである。
    この歌も東歌に類型的な歌いぶりで、人びとの熟知した風物に托して、
   思いを述べている。その風景は、みずみずしい枝と葉をひろげる小楢の立ち並ぶ
   春の山で、人びとはそれを美しいと思ってきた。
    その山、三かも山はカモ神信仰の山で、山そのものを神として祀った。
   この信仰は、いわゆる出雲系の人びとの信仰するもので、三かも山は神山という
   ことになる。神山の小楢にたとえられるほど高貴で美しい女性は、
   「だれの食事の給仕をするだろう」。これは「だれの妻になるだろう」ということである。

    以下略。

 歌中、文中に「三かも山」とある”かも”は変換不能の漢字が使われています。星の旧字体と同じように、”毛”の字が三つ、上一つの下二つです。P0NTA さんの何気ない書き込みから思い出してしまいました。このケースの三も、大和三山の三とはしにくいようです。神奈備山に対する尊称の”御”が”三”に転じているようです。P0NTA さん説に反駁する結果になってしまいましたが、”三”の字に”たくさん、多い”という意味が込められているとしますと、鴨神を担いでいた人たちは、縄文系の毛人のような形相を呈してくることになります。私見では彼等は農業土木、ことに灌漑土木に卓越していた連中、とおもっていましたので、少なからず戸惑います。混迷は深まるばかりです。
 できれば、”さん”づけにしてください、では。

175 大明日見浅間神社 バッキー荒 2004/02/09 (月)

 富士北麓、吉田地方で最も早く開けた地域は明日見界隈だそうです。縄文前期から奈良、平安時代にかけての遺跡が重層し、弥生時代は不明確なのですが、人煙の途切れることもなく、人びとの生活が営まれてきました。ミシャグチを連想させる杓子山より派生する尾根が、西側の吉田盆地に背戸山を抱きながら流れ落ちています。その尾根が明日見地区を大明日見と南側の小明日見の二つの集落に分かちます。尾根の尽きた裾を小佐野川が北流し、その細い流れはあっという間に桂川に吸い込まれ、相模湾への旅路に就きます。
 足の具合が悪い父親のリハビリと花見を兼ねて、両親を伴い歩いてきました。創建由緒に崇神天皇の名が出てくる(無論信ずるには厳しいか?)、大明日見浅間神社について、今回レポートしたいとおもいます。まず、由緒書きから報告します。

    前略、以下荒の注釈にて簡便に記します。
   前段は祭神のコノハナサクヤヒメの説明に終止。極めて常識的な解釈。
   奉斎されている御神数は17。
    以下は由緒書きのとおり。
   当神社の特色は祓戸大神等の神威により、心身の穢れは祓い清められ幸多い
   生成発展の日々を迎えることが出来る。
    創祀は古く崇神天皇六年阿曽谷神社を鎮祭したことに始まる。応神天皇第二御子
   宮守を司り、阿曽谷宮守神社と御改称。崇峻天皇巳酉二年厩戸の皇子来たり給ひて
   富士山元宮阿曽真明神と改称。貞享三年古屋敷より引移し奉り、福地八幡大神社を
   合殿に合祀奉る。
    中略。
    御本殿は桃山時代の建造である。

 以上なのですが、陪神の中で祓戸大神を筆頭としているのが読み取れます。ここにも元神としての瀬織津姫の存在が濃厚に漂います。摂社は中規模なものが一つあるのみで、小規模な石の祠が十ほどありましたので、表示はありませんでしたが、木造の中規模なものが祓戸大神の祭られている社であろうとおもわれます。また、本殿の裏側に回ってみたところ、桃山時代建造の建築物に、真新しいクギで木の札が二枚打ち付けられていました。野球のホームベースを少しばかり頭でっかちにして、ビヨーンと縦長に引き伸ばしたような形です。二枚あるのは本来一枚のものの表と裏かと思われるのですが、縦長の五角形は巾十センチ弱で、長さは五十センチ位の、どうも印刷と手書きの混合で文言と幾何学模様の描かれたものです。模様は省略しますが、文言は報告しておきます。向かって左側、たぶん表と思われるほうには高座大明神、太玉串、宮司の印の朱印、の順で上からしるされていて、右側には、つまり裏側と考えられるほうには、上から奇妙な天文を連想させるような幾何学模様がつづき、その次に五柱の神名が記されています。産工大神、天石門別神、家船神、弥都波能売神、大地主神の五つです。縦書きで並べられています。更にその下の最後のスペースに蘇民将平子と中央に縦書きされ、門かまえの門の字が左右に分けられ、先程の蘇民将平子の文言を左右から囲むように書かれています。平将門の子孫が復活するように、と読みたくなります。さらにその外側の左右に七福成生、七難消滅とあります。現在においてもヤマトに恨みを抱く人々がいるのでしょうか? 宮下文書が生れた土地です。イデオローグな人びとが打ち付けたのでしょうか? 表のコノハナサクヤヒメの後ろ戸の大神は由緒書きにあるとおり瀬織津姫が起草されるのですが、同様に背後の神を意識しながら別の解釈をする人もいるのでしょう。次回は小明日見浅間神社、別名向原浅間神社をレポートします。こちらも本宮よりも古く元宮と自己主張しています、では。

186 小明日見浅間神社、別名向原浅間神社、その一 バッキー荒 2005/05/07 (金) [24000]

 前回の投稿で誤った記述をしてしまいましたので、まずその修正を致します。杓子山からの小尾根が明日見(あすみ)地区を南北二つに分けているのですが、北側の小明日見集落と南側つまり冨士山により近く標高の高い方が大明日見です。南北の位置関係をあべこべに書いてしまいました。今回は北側の小明日見浅間神社についてのレポートです。
 江戸時代盛んだった富士講には八海めぐりの修法があったそうです。ここでいう八海とは内八海と呼ばれたもので、富士山を中心とした同心円を最大限に広げた半円形上の複数の湖が外八海と呼ばれ、確か浜名湖や諏訪湖も含まれていたと思うのですが、その外八海と対比された呼称です。ちなみに元八海が現在の忍野八海で、忍野で禊ぎをしてから登拝に臨むというパターンもありました。内八海を順番に並べますと、一番御仙水(仙瑞)、二番山中湖、三番明日見湖、四番河口湖(川口湖)、五番西湖(西の湖)、六番精進湖(生司湖)、七番本栖湖、八番四尾連湖とあります。小明日見には三番に挙げられている明日見湖があります。大明日見の集落が富士山が造りだすなだらかなスロープ上にあり、その全容をほぼ視界に収められるのに対し、小明日見からは南に横たわる小さな尾根が邪魔をして、集落の北側に位置する浅間神社からでも六、七合目より上の部分が見えるだけです。南側が開けているにもかかわらず、です。つまり、小明日見の地理的状況は大きく見れば富士山の麓でありますが、その地に実際立ってみますと小盆地という表現がぴったりで、かろうじて開口部としての西側が吉田市街、大明日見集落との連続性を保っています。標高こそ異なりますが、大和の飛鳥の地を思い起こさせてくれます。飛鳥の北縁にちらばる大和三山こそありませんが、雷の丘に相当するような丸い丘が平坦部の中央にあり、初めて訪れたときは、どうしてこんなところに円墳が?、とおもったぐらいです。
 小明日見浅間神社の鎮座する在所は向原といいます。丘のある小明日見のほぼ中央を古原と呼びます。古原の地から見て向こう側だから向原と名づけられたとのことなので、いつ頃のことなのか解りませんが、古原の地が様々な意味で暮らしの中心であったことが想像されます。丘を目指してぶらぶら歩いていたところ、犬の散歩をしている村のじいさんに出会い、丘について尋ねてみますと、当然ながら古墳ではなく、そのかわりてっぺんには神社があると言われました。神様は?と更に尋ねてみますと、歯切れが悪いながらも、どうも言いたくなさそうに私には感じられたのですが、最後にぽつりと多少投げやりに、「伊勢の神さんのかたわれや」、 と教えてくれました。それ以上の具体的な神名を引き出すのは、なんとなくはばかられ礼を述べ、丘に向かいました。丘の真下では畑仕事をしている、また別のお年寄りがいました。「こんにちは」と挨拶をして上の神様について聞いてみました。やはりこの方も神名は出さずに、「出雲の神さんより古いらしいで」と、ぼかしているように聞こえました。 
 登ってみると、といっても二、三分のことですが、くたびれはてた社と不釣合いなほどに立派な石碑がありました。摂社は小さい石の祠が二つで祭神不明。その傍らには除福の祠と刻印された粗末な石碑が添えられていました。社名は畑のじいさんが言っていたとおり太神社で、大きな石碑には荒巾着大神と仰々しく刻まれていましたので、現在の祭神はアラハバキ神とみてよいものとおもわれます。宮司をされている方の姓名と、連絡先として表示されていた方の姓名が異なっているのですが、折を見て直接お話を伺ってみたいと考えております。二人の老人の口が微妙に重かったことや、おっしゃられた祭神についての説明の言葉は、現在の祭神を一応認めつも、浅間信仰が長きにわたり隆盛を極め、やがて国家神道一色に染め上げられ、敗戦とその後の拝金主義と米国追随、この後に及んで「何をか言わんや」、そう語っているのでしょうか?
 私はこの太神社(おおじんじゃ)を小明日見浅間神社の元社と睨んでいるのですが、前述した大明日見浅間神社も大明日見の古屋敷にあったものが現鎮座地に移されていて、忍野の忍草浅間神社も同様、北口本宮も御主人ご指摘のとおり境内摂社の諏訪神社が元宮でしょうから、小明日見においても同じことがあっても当然、という前提に立つからです。大方の浅間神社が伊勢と同様に、在来の信仰の上に覆い被さる形式で、バージョンアップが祭神変更を伴いながら行われたのでしょう。きっかけは富士噴火なのでしょうが、真意は東国統治の徹底にあったものと推測したくなります。
 なかなか小明日見浅間神社にたどりつけません。次回に譲り、仕事に戻ります、では。

187 閑話休題 風琳堂主人 2005/05/08 (日) [24100]

 バッキー荒さん、後味の悪い行事役を演っていただき、また穏当な対応に、あらためてお礼申しあげます。事業のこと、御老父のことなど、近い話が裏にあるかと、あれこれ想像をしていましたが、富士山神の話をもう少し聞ければと楽しみにしているところです。
 小明日見地区にある太神社が荒巾着(アラハバキ)大神と関係があるとしますと、「伊勢の神さんのかたわれや」、「出雲の神さんより古いらしいで」といった古老の言葉が妙にリアルに伝わってきます。伊勢内宮別宮「荒祭宮」の神、つまり瀬織津姫が「アラハバキ姫」の異称をもっていたという貴重な記事も浮かんできます(近江雅和『記紀解体』)。
 おそらくこの荒巾着(アラハバキ)大神とも関わるはずですが、富士講の開祖・長谷川角行の伝記に収録されている富士山図(絵図では富士山を藤開山と表示)には、源初神・天御中主の分化神の一方の父神として「天照シ国照シ天ノ火明参玉」という神名が記されています(ちなみに、母神のほうは「天降国土隆水源参玉」とのことです)。この不思議な男神の名が、神宮祭祀の元神とみられる男神の太陽神=天照国照彦天火明奇玉饒速日命によるものとみることに無理はないでしょう。
 江戸期の富士講による内八海の「一番御仙水(仙瑞)」は、諏訪ノ森を抜けて富士吉田の浅間神社の御手洗川の水源になるようですね。ほかの湖海についてはまだよくわかりませんけど、一方の外八海には、おっしゃるように諏訪湖のほかに、琵琶湖や桜ヶ池なども含まれていて(ほかは二見浦、芦ノ湖、中禅寺湖、榛名湖、鹿島海とのことです…岩波版『民衆宗教の思想』所収「富士講」の語注)、瀬織津姫の影が色濃く投影した湖海の選定がなされているのかもしれません。

 事後の書類処理などの事務煩瑣も重なり、また、シワ寄せになっていた仕事のこともあり、おもっていたよりも芯の部分に疲労がたまっていたようです。連休中は、遠野の水光園というトロン温泉に通ったせいか、あるいは、わたしにとって瀬織津姫は遠野から始まるという意識があるせいか、だいぶ元気をもらったようです。ただ明日からは名古屋で、またあわただしい時間に突入しそうです(マスコミが日本の歴史教科書の問題・話題を提供する年が定番の多忙年になります)。
 ところで、地元の人たちのほとんどが今は知らないようですが、遠野の町場の瑞応院[ずいおういん]の境内には早池峰神が同院の守護神としてまつられています。また、瑞応院境内には観音堂があり、ここには明治期に遷された白幡観音(十一面観音)もまつられています(白幡神、白幡神社については千時千一夜25〜28で既述)。

■瑞応院
 臨済宗妙心寺派で承応二年(一六五三年)の開山は沢室和尚、開基は瑞応院殿乾峰真貞大姉、本尊は釈迦。盛岡市聖壽寺の末寺である。
 慶安四年(一六五一年)十月南部直栄の娘万が死して聖壽寺に葬って瑞応院殿と称したが、直栄は哀惜のあまり承応二年一寺を建て、改葬し聖壽寺大鉄和尚の高弟沢室を招いて開山とした。明歴四年(一六五八年)山門を完成し、六世越舟の時の宝暦九年(一七五九年)に再興、七世閲堂は規模を拡張して安永七年(一七七八年)秋に完工したといわれる。伽藍は壮大で、書院、鴬張廊下など本格的な禅宗寺院建築である。また本堂欄間の双竜と天女の彫刻は稀にみる逸品で、創建のときに彫ったものと云われている。本堂は市の文化財に指定されている。(境内案内看板・遠野市 一部読点を補った)

 瑞応院という名は、遠野の町の現在につづく基礎をつくった南部直栄[なおよし](八戸から移封)の最愛の娘「万」の戒名にちなむようです。寺院境内に土地神=早池峰神を守護神としてまつりつづける理由を考えますと、あるいは、この万が信奉する神が早池峰神でもあったのかもしれません。八戸において、この早池峰神は「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」と歌われてもいました。
 瑞応院境内には白幡観音(十一面観音)と早池峰神がともにまつられ、この十一面観音の安置される観音堂には石像のマリア観音も奉納されています。今は少し場所が移動しましたが、この観音堂と早池峰神社はかつては並んでまつられていました。観音堂は北向きに(早池峰山と対面)、現在の早池峰神社は東面(朝の陽光と対面)するようにまつられています。
 瑞応院のモダンな隠居大姉(とても大正十四年生とはおもえません)とは個人的にも少しおつきあいがあり、そんなご縁もあってのことですが、早池峰神社の扁額があまりに字が薄くなっていましたので、柄にもなく、新しいものを奉納させてもらうことにしました。額材は、やはり早池峰神=瀬織津姫ゆかりの「桜」しかないということで昨日依頼をしたところです。もし遠野へ来られる機会があるようでしたら、この小さな早池峰神社へも寄ってみてください。

189 小明日見浅間神社その二 バッキー荒 2005/05/21 (土) [24725]

小明日見浅間神社には立派な摂社が一つあります。松尾神社です。小明日見の氏神だったらしく、奉祭する羽田一族による顕彰の石碑がありましたので、その文言を全て掲載します。

  羽田一族隆昌記 羽田氏の始祖は人皇八代孝元天皇の曾孫武内宿祢である。宿祢は徐福の
  学問に心服し、その子を門人として修業させたが、成長の後は徐福の国の秦の意を取り
  入れて、羽田八代宿祢と名付けた。父の武内宿祢は景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功
  皇后、応神天皇の五朝に歴任して大功があった。羽田八代宿祢は神功皇后摂政五四年の
  時、誉田別尊の二皇子明仁彦、政本彦を守護して福地山に来てこの地に止まった。延暦
  一九年福地山大噴火の後、阿田津山の裏の麓である古原の要害の地に七社明神大社の
  祈願所を創建し、その前方に館を建て、その右方に眞玉神社、御祭神として大山咋命、
  別雷命、孝元天皇、武内宿祢を祀り、再建には羽田八代宿祢命合祀。産業の発展と子孫
  繁栄の祈願をなすこの眞玉神社は後々松尾神社と改め今日に至っている。昭和四一年
  一月二十日富士浅間神社炎上の折、松尾神社も亦炎上の厄に遇い、有志深くこれを憂い
  同四七年五月松尾神社再建委員会を結成。羽田一族二百戸の浄財を礎に、ここに新社殿
  竣工の慶びをみるに至る。依って羽田一族の隆昌記と再建の経緯を録して後世に伝う。
                                松尾神社再建委員会

 ここにも古原の地名が出てきますが、太神社の所在地が古原ですから、隆昌記には記されていませんが、元は同一とみなしてもよさそうです。羽田一族が台頭するに至って独自の氏神を掲げる必要が生じ松尾神社を立ち上げたのではないのでしょうか。同時に徐福伝説に絡めて先祖を創作したことが想像されます。秦氏一族がこの地にいたのかどうか特定できませんが、小明日見の治者が羽田氏を名乗ったことは間違いないことです。ここにも宮下文書が影を落としているような気がしてなりません。徐福伝説は宮下文書の骨格を成しています。偽書は偽書なのでしょうが、官製正史に疑問を抱く人は今昔を問わず常に存在する、ということなのでしょう。だとしますと羽田一族の始祖創作は内容は古くとも、創作時期そのものはさして古い時代のものではない、ということになります。やはり、この地の信仰の中心は太神社であった、そう断定できそうです。
 本殿以外の社は松尾社だけなのですが、養蚕神や疱瘡神も小さな石碑で祀られています。特筆すべきは、掘立て小屋というべきか、大きめの犬小屋と表現すればよいのか、粗末な小屋があり、中に一メートルほどの石棒と男根石と女陰石が収められていたことです。石棒は床にあっけないほど無造作にころがされていましたが、道祖神は赤い被り物をかぶせられ、きれいにペアで並べられていました。ミシャグチ神そのものです。被り物は胞衣(えな)に通ずるものなのかどうか、色が赤いので違和感を覚えますし、諏訪では直接かぶらせることはしないようですから、むしろ後世の地蔵信仰をごちゃまぜにしているような気がします。お地蔵様の赤い涎掛けを頭にかぶらせた感じです。いずれにせよ縄文の痕跡であることは間違い有りません。石神です。小屋の立地は境内、均整のとれた長方形、のほぼ中央で、すみっこで肩をすぼめている状況ではありません。松尾社ともども古原の地にあったものではないのかと想像したくなります。太神社との関わりがあるものであるとおもいます。古層にある諏訪信仰と呼べばよいのでしょうか、浅間信仰以前の信仰が濃厚に漂う明日見界隈です、では。

190 富士川の話 風琳堂主人 2005/05/22 (日) [24880]

 浅間信仰以前(古層)の信仰として諏訪信仰があるのではないかということで、参考までに、以下の記事を紹介します。

■精進の大スギ
 精進湖を出生龍神という。貞観大噴火に溶岩の流入を免れた一部分が湖水として残存するという。ここから女坂峠を越して古関、中道方面に通じている。
 精進湖に赤池という場所がある。ここは精進湖の痕跡で閼伽[あか](富士山に供える水)を取った場所と考えられる。
 精進の諏訪神社境内には、日本でも有数の巨樹という国指定天然記念物「精進の大スギ」がある。(富士吉田市歴史民俗博物館『富士八海をめぐる』)

 富士山の北麓・東麓に広がる内八海には、それぞれ龍神がいるとみなされていて、精進湖には「出生龍神」という不思議な龍神名があてられているようです(ちなみに、諏訪ノ森、諏訪神社を摂社として抱える北口本宮浅間神社と縁深い御仙水(仙瑞)=泉津湖は仙水龍神)。
 ところで、「精進の大スギ」については推定樹齢の記述がなく時間の見当をつけることはできませんけど、「日本でも有数の巨樹」としますと、この杉はかなりの古樹であるようです。また、この大杉が諏訪神社の境内に存在していることは大きな意味があるのかもしれません。
 地図上でのことですが、精進湖の諏訪神社へいたる「女坂峠」を越えると古関で、ここには芦川という笛吹川の支流が流れ、この川沿いには諏訪神社が点々とまつられています(十一面観音堂もあります)。芦川は諏訪神の富士山への入路かと仮説を立ててみたくもなります。
 この芦川が笛吹川と合流し、そして諏訪方面から流れくる釜無川をさらに合流して富士川という大河となります。
 瀬織津姫の名を、この富士川沿いに拾いだしてみますと、まず釜無川と笛吹川の合流部に瀬織津姫が鈴鹿大神の名でまつられています(鈴鹿神社…山梨県中巨摩郡田富町)。また、釜無川の最源流部(釜無山麓)には瀬織津姫がかつてまつられていました(現在は長野県諏訪郡富士見町の尾片瀬神社へ遷宮)。なお笛吹川を遡りますと、甲斐国最古の温泉といわれる岩下温泉があり(山梨市上岩下)、この温泉の守護神をまつるのが走湯神社、つまり伊豆神の祭祀がみられます(ここは遠野とちがって走湯=伊豆神を瀬織津姫ではなく湯山主命として表示していますが)。
 富士川は静岡県に入ると白糸滝の芝川を支流として合流します。白糸滝の滝神は熊野神で、ここにも瀬織津姫の名が確認できますし(熊野神社)、さらに、富士川の河口部の滝神社(富士市宮島)にも瀬織津姫の名がみられます。鈴鹿神社や滝神社、かつての尾片瀬神社などの瀬織津姫祭祀は、おそらく富士川(釜無川)の洪水鎮護か同川の守護神といった性格をもっているのでしょう。ただし、富士山祭祀との直接的な関係の有無については現在のところ不明です。
 話が遠野へ飛びますが、江戸期の遠野郷の領主であった南部氏の本貫地というのが、この富士川沿いの南部町(南巨摩郡)です。遠野の早池峰神社(神仏混淆時代の妙泉寺)は南部氏から二百石の寄進を受けるなど手厚く遇されていました。初代遠野南部氏の姫(お万さん)の菩提寺である瑞応院が地主神として早池峰神=瀬織津姫をまつる因由は、八戸経由ですが、遠く富士川にまでみえない糸がつづいているのかもしれません。

192 円空歌に瀬織津姫を読む 風琳堂主人 2005/05/29 (日) [25230]→修正:2005/06/20

 おそろしや浮世人ハしらさらん普照す御形再拝──これは長谷川公茂編『底本 円空歌集』(一宮史談会)に収められている円空晩年の「真筆歌集」の一首です(歌番579)。円空は最晩年、自歌が他人に読まれるという意識や計算がなくて歌作していましたので、漢字や送り仮名の使い方など、後世の眼からみると未推敲だなといった面は否定できません。円空歌がこんなふうに語られることは、円空のまったく関知しないことを承知の上で、引用歌を少し通りのよい表記で表しますと、「おそろしや浮世人は知らざらん普[あまね]く照らす御形再拝[おがまん]」、歌意は、「恐ろしいことだ、浮世の人々は知らないだろう、普く照らしている御形(の神)を。(しかし、人々は知らなくとも)わたしはこの御形(の神)を再拝[おがも]う」となりましょうか。
 人々には知られていない「御形(の神)」とはいったいどんな神なのだろうという興味を抱くのはわたしだけではないでしょう。円空歌集のほかの歌に、この「御形」という言葉がどのように使用されているかを探ってみますと、次の一首が、この謎の神を暗示していることに気づきます。

皇のけさ鏡の榊葉々にみもすそ川の御形おかまん(袈裟山百首歌)

 円空が「御形」を「みもすそ川の御形」(の神)の意で使っているという仮定は可能なようです。「みもすそ川」はいうまでもなく、神宮神域内を流れる五十鈴川のことで、この五十鈴川の神こそが、たしかに「浮世人」の多くが知らない(知らされていない)神です。わたしたちは、伊勢の地で伏せられつづけてきた五十鈴川の神が瀬織津姫という滝神であることをすでに知っています。円空はこの滝神を、やはり「御形」という言葉を使って歌ってもいました。

かしは原法の御形の滝なれや袈裟御山を守り在せ(真筆歌集、658)

 円空は貞享二年(1685)、入定死の十年前ですが、飛騨の千光寺(丹生川村)に滞在し、ここで大作の両面宿儺や立木仁王、弁財天、自刻像などを彫ります。千光寺の山号は袈裟[けさ]山といい、これが、歌において、「御形の滝」にどうぞお守りくださいと願われている「袈裟御山」ということになります。袈裟山の「けさ」を円空は歌作において多用しています。

けさ見れハ伊勢の大神[ヲカミ]の現[アラワレ]て五十川[イススノカワ]に宮つくりせり(袈裟山百首歌)

「袈裟山を見ていたら、伊勢の大神が現れて、五十鈴川に宮つくりをしている」といった歌意でしょうが、円空が袈裟山に伊勢大神を幻視していることは興味深いです。また、引用前歌において、袈裟山を守護してくださいと願われていたのは「御形の滝」(神)であることをここに重ねますと、円空が伊勢の瀬織津姫という滝神を意識していた可能性はより濃厚となってきます。
「けさ」の歌をもう一首挙げてみます。

立出るけさの御山に降雨ハ御手洗川の神のもふて賀(真筆歌集、206)

「袈裟の御山に急に降ったこの雨は、御手洗川の神がこの山に詣でにいらっしゃったのか」といった歌意ですが、この「御手洗川の神」も、下鴨神社(賀茂御祖神社)の御手洗社にみられるように、これも瀬織津姫のことでしょう。
 かつて柿本人麻呂は、「ちはやふる」という枕詞を、富士山神かつ宇治川(=五十鈴川)の滝神・祓神としての瀬織津姫にかかるものとして使っていました。円空歌にも、この「ちはやふる」を使った歌が散見されます。

■円空の「ちはやふる」神の歌
千和屋振る五十川御そきニも乙女神払在せ(446)
ちわやふる天岩戸をひきあけて権にそかわる戸隠の神(561)
千和屋振る笙窟にミそきして深山の神もよろこひにけり(572)

 字句の表記を少し調えますと、第一首は「ちはやふる五十鈴川の禊ぎにも乙女神よ祓いましませ」、第二首は「ちはやふる天岩戸を引き開けて仮にぞ変わる戸隠の神」、第三首は「ちはやふる笙窟に禊ぎして深山の神も喜びにけり」となります。
 第一首においては、五十鈴川の禊ぎで「祓いましませ」と願われている「乙女神」は、これも瀬織津姫とみるしかありません。第二首は、天岩戸開きという記紀神話の創作を歌材にしていますが、戸隠神は天手力男を仮装してはいるものの、戸隠の地神はもともとは水内神(=白山神)、つまりこれも瀬織津姫で、アマテラスの天岩戸からの出現を「仮にぞ変わる」と歌う円空の認識は瞠目すべきものとおもいます。第三首は、円空が大峰山の笙窟[しょうのいわや]に冬籠もりしたときを回顧して歌ったものですが、大峰山の笙窟に禊ぎして籠もることで、大峰山の神も喜んでいると歌っています。大峰山(深山)の神は天河弁財天と習合する熊野神であり、これもやはり瀬織津姫のことであるとみることができます。
 円空歌にみられるこれらの「ちはやふる」が掛かる神が、柿本人麻呂が晩年に歌ったのと同じ神と重なることがわかります。このようにみてきますと、最初に引用した「おそろしや浮世人ハしらさらん普照す御形再拝」の秘神が、千時千一夜ではすでに秘神ではありませんが、「おそろしや浮世人ハしらさらん」ことは、一般状況としては現在も変わらない状態です。
「元禄五年壬申暦五月吉日」という歌作日付をもつ「真筆歌集」ですが、ここには、瀬織津姫を明確に意識しての歌作(推敲途上の作)も収録されています。

【祭荒神】なお大空の身なりせは花の心の在ニ任せて(951)

 円空は【祭荒神】の部分を抹消し「本ヨリも」と変え、しかしこれもさらに墨で抹消して歌の完成を放棄した状態ですが、この一首を今に伝えていることは貴重です。「祭荒神」が、伊勢の秘神である「荒祭神」であることはいうまでもありませんし、この「荒祭神」と呼ばれる神こそが、これまでみてきたように「みもすそ川の御形」(の神)、「御手洗川の神」、五十鈴川の禊ぎ祓いに関わる「乙女神」です。たとえ「浮世人」は知らなくとも、少なくとも円空は、この伊勢の秘神をよく認識していたことは確実とみられます。人麻呂のあと、長い時間を経てのことですが、円空は、この国の神まつりの闇を明かす彫像をいくつも残していました。円空はその後半生において、「歌」(言葉)においても、それを裏づける歌作をしていたようです。

210 現代思想と瀬織津姫 風琳堂主人 2005/07/17 (日) [27200]

長い神仏混淆時代が幕をおろすまで(明治期の神仏分離のときまで)、早池峰山の本地仏は十一面観音とされてきました。しかし、新政府によって神仏分離→神仏判然が全国的に強行されたとき、この観音の背後の神、つまり早池峰神として表に出たきたのは瀬織津姫という水源神でした。瀬織津姫は早池峰山周辺の滝にまつられていた不動尊とも習合していたため、早池峰の山神であるとともに、たとえば又一の滝や不動滝の滝神としても存在しています。
 こういった神仏混淆の始まりの最古の例としては、おそらく、持統時代の善光寺仏(阿弥陀如来)と水内[みのち]神との習合(神隠し)にみることができます。
 持統あとの天皇として、文武・元明・元正がつづきますが、彼らの背後には、政治的な最高権力者として君臨し、日本の神・仏まつりにも深大な影響をおよぼした藤原不比等の存在があります。
 吉本隆明・梅原猛・中沢新一の鼎談集『日本人は思想したか』(新潮社)という興味深い本があります。日本の現代思想のそれぞれの場面で思想的な先端を開きつつある三人ですが、気鋭の宗教学者である中沢新一の発言に、次のような言葉があります。中沢はここで、神仏混淆、神仏習合といった言葉は使っていませんが、「日本人の思考のはじまり」に、この神仏混淆という考えがあることを鋭敏に見抜いていて、現代思想と瀬織津姫の問題を考える上でよい参考となるかとおもいます。

■日本人の思索のはじまり
 日本人の思索がどういう形で始められたのかということを考えると、いつも僕の念頭には日本の仏像のことが浮かんできます。一番古い時期につくられた仏像は、千手観音とか十一面観音のようなものでした。そういう仏像を、どういう人がつくってどういうところへ置いたのかということを考えてみると、とても面白い事実に行きあたります。それらの仏像は、だいたい龍神が住んでいたり、水源の神がいたりする場所に最初に置かれていて、それが日本の仏像の古形となった。それをどういう人たちがやったかというと、山へ入っていく山岳の修験の人たちです。昔の言葉で言うとそれは山伏だけじゃなくて禅僧と呼ばれる、山へ籠って修行する人たちがそれを行なっていた。彼らは山の中へ踏み込んだり、それまでタブーとして踏み込めなかった水源池へ出かけて行って、そこの自然の神様を呼び出し、それを十一面観音とか千手観音につくりかえるという、とても大胆なことを実行したのですね。そういう話が非常に古い時期につくられた山岳宗教の起源神話の中にはよく出てきますね。たとえば、白山に行った泰澄は山頂付近で、そこの土地の自然の神様に出会います。神は最初は蛇の形で出てくる。泰澄が、これはまだ違う、本当の姿を見せなさいと言うと、次は恐ろしい龍の姿になってあらわれる。それでも、まだ違う、本当の姿をあらわしなさい、と言うと、最後に十一面観音や千手観音の姿になってあらわれ、そこに山岳の宗教が「はじまった」、というふうに言うのですね。

「それまでタブーとして踏み込めなかった水源池」、「そこの自然の神様」を「十一面観音とか千手観音につくりかえるという、とても大胆なことを実行した」──この「つくりかえる」というのが神仏混淆の姿ですが、十一面観音が「水源の神」と習合していることが的確に語られています。ただし、「水源の神」がなぜ「タブー」とみなされていたのかという遡源する問いについては、中沢(たち)がこの書で言葉を費やすことはありません。
 このことは、神仏混淆の古例として、白山と泰澄、あるいは白山神と十一面観音の例が出されていることについてもいえます。「日本人の思索」のはじまりの例として泰澄の名が出てきました。中沢は、先の引用につづけて、この泰澄の思考行為の重要性をくりかえしています。

■日本人の思想の特質とはなにか
 日本人の思考のはじまりというものを考える時に、このとき山の奥の水源池や岩山で起こったことはとても重要な意味を持っているように僕には思えるのです。日本人の思想の特質を考えるうえでも、とても大切だ。そこには日本人が、神話的な思考を、「思想」と呼ばれるようなものにつくりかえるときに、なにをやったかということに関わりがあります。〔中略〕過剰する自然の力を十一面観音のような仏像に変化させた。その変化の中に、日本人が自然を思索の対象にする行為のはじまりの形態ができあがっています。

 ここで語られている「日本人の思想」ですが、それははたして普遍のものかという、やはり遡源する問いが残ります。たしかに、「このとき山の奥の水源池や岩山で起こったことはとても重要な意味を持っている」もので、「日本人の思想の特質を考えるうえでも、とても大切だ」というのは半面の真を言い表しています。しかし、泰澄たちが、「山の奥の水源池」の神を十一面観音に置き換えたのは、彼ら自身の内発的思想であったかどうかといいますと、それはそうではなく、勅命によってなされた面があるからです。このことは、白山の例でいえば、美濃側の白山文献(上村俊邦編『白山信仰史料集』岩田書院)がはっきりと「勅命」を証言しているわけで、白山の地神は泰澄によって十一面観音に置き換えられたばかりでなく、この仏の垂迹神はイザナミであると、白山の地神が記紀神話に登場する神に巧妙にすりかえられたということも挙げないわけにいきません。したがって、ここでいう「日本人の思想」は、たとえば泰澄一人のオリジナルな思想というよりも、朝廷の思想に追随・加担する思想でしたし、もっと絞り込んでいえば、この朝廷の思想というのは、持統の国家構想を継承・強化した藤原不比等の思想といえるわけです。としますと、藤原不比等に「日本人の思考のはじまり」「日本人の思想」を代表させうるものだろうかという問いが残ることになります。
 十一面観音に置き換えられた白山の地神──この地神は白山三山の別山の神でもありましたが、この白山の地神については、宗教学の方から新たに、次のような指摘がなされています。

■白山の地神伝承
 興味深い点は、右弧峰すなわち別山の小白山別山大行事が、実は本来剣ヶ峰の西にその本宮があった地神で、白山を妙理大菩薩に譲り、南方の別山に移御して大行事となったとする伝承が存在することである。これは『伝記』などにいう白山神、すなわち白山権現に対する信仰が成立する以前に、権現とは別の固有の神が祀られていた可能性を示唆するものであり、この固有の神が、農業用水の水源を司る神として、水神ないし竜神というイメージで捉えられていたとする見解も見える。御前峰の東には児宮があり、その祭神の本地は如意輪観音とされたが、この神もまた地神であった。(本郷真紹『白山信仰の源流』法蔵館)

「白山権現に対する信仰が成立する以前に、権現とは別の固有の神が祀られていた可能性を示唆する」というのはそのとおりです。この「権現とは別の固有の神」とはなにかを証言するのが美濃側の白山文献です。この白山の「固有の神」あるいは「水源を司る神」が、小白山別山大行事、「白山瀬織津」、つまり瀬織津姫という神でした。しかし、厳密には、瀬織津姫は白山の「固有の神」かといえばそうではなく、象徴的にいえば、この神は神宮祭祀の源の神でもありました。このことはとても大きな意味をもっています。つまり、神宮を新たな皇祖神構想のもとに普遍化しようとする不比等(たち)の思想にとって、この神が各地において遍在祭祀されつづけるのは許容外とみなすということでした。水源の神は近似する水源の仏によって置き換え、その神の名を絶対的に伏せよというのが、たとえば白山祭祀(神仏混淆祭祀)への「勅命」の真意であったかとおもいます。
 円空の「おそろしや浮世人ハしらさらん」と、この日本の神隠しの思想、つまり神仏混淆のからくりを見抜いた思想もまた「日本人の思想」であるはずです。わたしたちが、記紀の記述においては隠蔽・排除された瀬織津姫という「水源の神」にこだわるとすれば、それはもう一つの「日本人の思想」を明かすという志向でもあります。
 日本人は思想したか──中沢の文脈では、これは「藤原不比等は思想したか」という意味と同列と理解するしかなく、その意味では、当時、不比等はおもいっきり「思想した」はずです。しかし、では、この不比等の思想と同時代的に対立した柿本人麻呂の思想は「日本人の思想」ではなかったのかという問いもあります。人麻呂、円空、北村透谷等の一見傍流にみえる思想もまた、まぎれもなくもう一つの「日本人の思想」の系譜、地下水脈をつくっているはずです。
「日本人の思想」のはじまりの前提のその前にもう一つ、相変わらず語られない(タブーの)前提があり、この初源の前提との関わりにおいて瀬織津姫という神は存在しています。いいかえれば、既成の現代思想の視野の外に、この神は現在も立っています。近代から現代へと、その思想の総体が限界を感じ、あるいは現在、停滞しているとするなら、もともと排除の講造をもった思想(不比等の国家思想)を「日本人の思想」の代表とはみなさないという初源的な選択肢があってしかるべきものと考えます。

217 久し振りに覗きにやって参りました。 熱海の國次 2005/08/02 (火) [28100]

風琳堂主人 様

熱海の海底遺跡調査では唯一社が有ったとされる場所が有り周囲には乱張りの石畳や方形張りの参道が配して有ります。この社の配域内に石を積み上げたモニュメント状の石積が有り、一つだけ丸い石が突き出た形で埋め込まれており、その表面に何か描いてあるのかな位の感じでした。7月初め、この丸い石の周辺を掃除して見ると面白い物を見つけたのです。面白い物とは、小さく突き出た月の形を現す形状で、全体の配置から太陽と月と判断致しました。このモニュメントは東西南北を現していて、北には伊豆山神社(旧走湯)が有ります。方向的に伊豆山の奥の院辺りを指していて、この奥の院と岩戸山(磐座)を結ぶと富士山を指しています。これは走湯の里人伝承の中の日精と月精を現しているのではと思います。

最近はこの港湾都市の有ったとされる時代を色々な角度で調べており、伊豆山の喜志は吉士族に繋がるものとして見ていますし、熱海市街の和田の地名は吉士族の関係地名として捉え、この地に鎮座していた今宮神社は本来では今宮戎神社ではと見ています。走湯と吉士族の関係は深そうですね! 吉士族として現れるのは神后天皇の三韓征伐ですから、270年頃に新羅の貴族や王族が帰化したとあり、その後には百済や高句麗も国が破れて帰化して来ます。この事で後には役の小角や阿倍晴明も吉士族と密接に繋がるとして調べている最中です。

遣唐使や遣隋使での重要な中継点で有る対馬には伊豆山の地名が有り、此処には一宮の海神神社が有ります。和田は「わだつみ」のわだか、阿陀/阿多の転訛と見ています。更に壹岐の島には阿多彌(あたみ)神社が祀られています。

熱海の歴史年表より
景行天皇2年、伊豆山久良山(現・熱海ゴルフ場下に字鉢アラクと いう所がある)
に小児出現、巫女初木姫(5代考昭天皇の御代に九州より東国鎮撫のため、東国
に向かった船が伊豆半島沖で遭難し、唯 一人初島に漂着し対岸に上る走湯の湯
煙を見て伊豆山に渡る)これ を養う。長じて日精、月精という。後の走湯権現の氏
人の始となる 人物である。(初木姫、伊豆山の小波戸崎に) (図州志稿)
応神天皇2年4月、相模国唐浜(大磯)より、神鏡が伊豆山の新磯浜に出現、この
神霊が「二処日金」に登る。(走湯山縁起)
 同4年、仏像一躯、唐浜に漂着、これを始祖松葉仙人、伊豆山に祀る。即ち
走湯権現の神体像の元という。唐浜は大磯?(豆州志稿)

最近は阿多美/阿田美と関連する「あた」の地名の全国分布を調べたり、伊豆山神社末社の全国分布、九曜紋を神紋として祀る寺社等を調べています。
この中で面白いのは阿多では「出雲郷」と書いて「あたかえむら」と読むでしたし、末社関係では鎌倉時代までは「走湯」は「はしりゆ」であり、「はしりゆ」が訛って八竜神社が宮崎に有ります。九曜紋では鹿島神宮の神紋は巴九曜紋で、香取神宮の末社の内、滋賀にある香取五神社と香取神社は九曜紋を使っています。更に役の小角が建てたとされる岐阜の明星輪寺は九曜の上に龍が載っているものですが、これは那智の滝の九曜の印を思い出します。

また、何か発見が有ったら書き込みますね。

220 熱海は安曇からという説もあります。 バッキー荒 2005/08/04 (木) [28244]

 ご無沙汰しております。確か司馬遼太郎の”街道をゆく”シリーズのどこかにあったはずなのですが、如何せん全43巻と膨大なものですから、アツミと読んで、海浜族の安曇族にそのルーツを求むる、とありました。ご参考に預かれれば幸甚です。
 話を冨士神に転じますが、桂川の最大瀑布、田原の滝とその際にある田原神社に行ってきました。なんと、由緒書きによりますと、住吉社からの勧進とありました。少々期待を裏切られました。まんざら水と関係ない訳ではありませんので、半分は納得なのですが、イマイチ釈然としません。面白いことに、国道139号を挟んで田原神社とは別に東屋のごとき社殿があり、神仏こんこう、六つの提灯に、不動明王、大黒さん、弁天さん、荒神様、あと二つは失念しましたが、神仏名が墨書き去れていました。思うに、現在は立派な橋梁が懸架されていますが、往古は富士道の難所であったはずで、滝を大きく迂回していたに相違ないはずで、沢登りで言うところの”大高巻き”を強いられていて、国道部分は田原神社の社域であったはずです。改竄と分断の結果がこんにちの在り様と推測されます。滝神の痕跡を求めるには困難極まりない現状はやる方なし、残念です。滝は山峡狭まる隘路に在りますから、視界は狭く、富士山を望むべくも有りません。よって浅間信仰は本来成立しないはずなのに、田原神社の祭神としてコノハナとニニギの夫婦が担がれていることも、地理的要因を考慮すれば止むを得ないのでしょうが、重ね重ね残念です。
 それにしても、小泉首相の靖国に対する拘泥には腹が立ってしようがありません。数々の宗教学者が明治以降の国家神道は宗教にあらずと断じているのにもかかわらず、です。勉強もせず、自らの国家の歴史の誤った部分の反省すらできない元首を頂く我々オオミタカラは不幸そのものです。東京都では石原知事主導のもと、”新しい歴史教科書を作る会”編纂の教科書が新設中高一貫校で採用されるべく決定されました。アジアの片隅で資源もない我々が生き長らえてゆくには近隣のアジアの人々と手を携えてゆくしか道はないはずです。米国の53番目の州になりさがった忠犬”ポチ”宰相には退陣して頂く他ありません。皆様、力を合わせましょう。発言しましょう。時代は際どい方へ向かっています。それが、我々の勤めのはずです。
 政治的発言をしてしまいました。止むに止まれる気持ちから出たのですが、不適切と思われましたなら、どうか削除して下さい。御主人に一任いたします。失礼します、では。

228 暑中見舞いです 言蛇 2005/08/19 (金) [29450]

こんばんわ、御無沙汰していますが主人はいかがお過ごしでしょうか?

今年の立秋は大迫町早池峰神社の例大祭にでかけまして、その様子を神奈備さまのHP写真掲示板(*1)に投稿させていただきました。

風琳堂主人の掲示板だけですと朝廷に不満たらたらな女神の像が浮かんできてしまうのですが、早池峰の瀬織津姫はむしろ子供好きな面が強く、実際に神楽を見てくるとそのイメージの違いに驚いてしまいました。

東北から名古屋に引っ越されては忙しい日々と思いますが、早池峰の瀬織津姫の現在を感じていただければ幸いです。

◆バッキー荒さん
はじめましてこんにちわ^^
私は長野に暮し穂高神社を拝趨する言蛇といいます、よろしくお願いします。
司馬遼太郎の”街道をゆく”シリーズ、すべてを読んでいるわけではありませんが、台湾編は台湾原住民と日本のかかわりを勉強をするうえで良い参考書とさせて頂いています。

>小泉首相の靖国に対する拘泥には腹が立ってしようがありません。
バッキー荒さんは公式参拝に賛成ということでしょうか、反対ということでしょうか?
そのあたりの自分の意見はきちんとかき込むべきかと思います。私自身は8月15日の公式参拝に賛成の立場で、小泉首相に非難される点があるとしたら「日程をずらしたのは中国北京政府への配慮の為」のケースでしょうね(汗

(*1)(http://www.kamnavi.net)

230 荒魂は常に反王権です。 バッキー荒 2005/08/29 (月) [30463]

 遠野の女神の生立ちを辿りますとアマテル神の荒御魂に辿り着く事は既に十分に論証されていると思います。言蛇さんの解釈以前、自明の事と理解しております。
私に対してのお尋ねの件、
私の投稿を脈絡をおさえて読み下してくだされば自ずと賛成か反対かご理解して頂けるはずです。にもかかわらず敢えてご質問されている趣旨に疑問を禁じ得ません。挑発ということなのでしょうが、自分の庭ならいざ知らず、よそ様のナワバリで喧嘩をする愚かさは持ち合わせておりません。どうか、このような礼を失する振る舞いは自重して下さいませ。私に対してではなく、風琳堂御主人とこのサイトの愛好者に対しての礼であります。無論、言蛇さんが私に論争を望む権利は私も認めます。私も臆するものではありません。ただこの掲示板では避けたいと思うのであります。私が政治的発言をしたばっかりに、言蛇さんも言及されたのでしょう。どうか御主人に私のメールアドレスをお尋ね下さい。メールにて返答に及びたいと思います。ご理解賜りますようお願い申し上げます。では、失礼します。

268 白糸町浅間神社 バッキー荒 2005/11/09 (水) [35590]

 久しぶりに山梨に行ってきました。富士吉田市街を敷き放った緩傾斜地は平面を保っています。桂川に沿って吉田に向かって川下から遡って進みますと、最も急勾配の傾斜が富士吉田市を西桂町を分かっています。その西桂町の最上流にある浅間神社は以前何度か訪れていましたが、今回はそこからたかだか4,5百メートル北西に離れた場所にある別なる浅間神社の立地の素晴らしさを報告致します。国道を挟んでシンメトリックに並存しているのですが、どちらかが元社であろうことは容易に想像できます。はたしてどちらがどうとなると、現状判断しかねます。私の所持している5万分の1の地図には、南東側の鳥居マークに浅間神社の文字が記されています。それに反し、北西側は単にマークだけで神社名は印されていません。また、神輿の収納庫も南西側にのみあり、現在の信仰の中心はどうも南西側のようです。
 北西側の社は地図に神社名すら記されていない訳ですから、私はまさか浅間様であろうとは努々思っていませんでした。自動車で偶然通りかかったら、お宮さんがあったので降りてみたところ浅間神社とあったので、しばらく佇んでいました。
 いくつかの点に気がつきました。まず眺望がベストであること。富士を真正面に臨みますと、西側の主峰”三つ峠”から流れ落ちる尾根と東側の主峰”杓子山”から下る尾根が見事なまでに左右対称。そのど真ん中の空間に富士が浮かびます。さらに、東西の主峰のピークもその視野に納め、踵を返し北に視線を走らせますと、桂川に沿った東西からの張り出し尾根の彼方に奥秩父連山の稜線が連なります。360度パーフェクトと言って宜しいかなと思われます。
 もう一点気になったことは、前述したとおり、なぜ2社か?です。富士から湧き出でて束ねられた桂川の水流は、大月までおおむね北北西に下り、そこで東に向きを変え相模の国を目指します。大月までの間に幾つかの支流を合わせるのですが、最上流の最大支流は柄杓流川(シャクナガシガワ)とされています。ひしゃくを流してしまうような急流、が語源とされているのですが、全くの私見ですが杓子山(シャクシヤマ)同様、諏訪のミシャグチを視野に入れる必要を感じています。なぜならこの川は東側の杓子山からの水流ではなく、西側の三つ峠からの流れであるからです。そうとうの広範囲でミシャグチ信仰があったのではないのか、本流の桂川に沿った浅間神社と、支流である柄杓流川に沿う別なる浅間神社、どちらかが先なのでしょうが、最初にかついだ人々が別なる川筋にその勢力を広げ、やがて独立の気概が確立されてゆく過程で、おらが神の祭り場をこさえた、そう考えます。だとしますと、ミシャグチもやはり水になんぼかは関わる、そう考えることも可能だと思います。縄文の昔、獣の水場は縄文人の猟場でもあったはずですから。
 最後に神社に植えられていた樹木が、これまた面白い。南方系の栢(カヤ)が38本、無論、人が植えたものですが、寒冷地といっていいこの地になぜカヤなのか?山梨でこれほど群生しているのは此処だけだそうです。まあ、江戸期の植樹でしょうが、富士講の影響ではないのかなと勝手な想像をしています、では、また。

275 富士山の地主神 風琳堂主人 2005/12/25 (日) [37650]

『富士山文化研究』第六号(2005年7月発行)に竹谷靭負さんが「古伝の『富士山縁起』に見る富士山祭神の諸相」という興味深い論文を書いています。同論文によりますと、富士山祭神がかぐや姫から木花開耶姫命とされたのは林羅山の提唱によるものとのことです。羅山は江戸初期の朱子学者ですから、富士山神を木花開耶姫とみなす説はやはり江戸期からということになりそうです。
 また、竹谷論文でさらに興味深いのは、富士山の地主神として不動明王の存在を明かしていることです。

■不動明王という富士山神
 九世紀中葉、朝廷が富士山の噴火を鎮火させるために祭祀した浅間大神に先行して、修験者による守護神・不動明王が存在していた。したがって、浅間大神の影向により、不動明王は富士山の地主神となった。

 九世紀中葉(正確には仁寿三年=853年)、朝廷によって富士山に浅間大神がまつられた、つまり、それまでの不動明王(正確には倶利伽羅不動明王…不動明王の変化身で龍王の一種)は浅間大神に主神の座を譲って「富士山の地主神」とみられるようになったということなのでしょう。では、不動明王は最初から富士山神かどうかといえば、むろん不動明王の前にこそ本来の富士山神がいたと考えるべきですが、竹谷論文はそこにふれているわけではありません。ただし、富士山神が不動明王と習合・混淆する神であったということだけは伝わってきます。
 ところで、富士山の本地仏は時代が下ると(中世)、大日如来とされます。不動明王がなぜ大日如来となるかということは大きな問題ですが、これは不動明王とはなにかということでもあります。竹谷論文に不動明王の定義が明快に書かれています。

■不動明王とはなにか
 不動明王は、梵名アチャラ・ナータ(不動尊)といい、シヴァ神の異名である。不動尊は、「不動」の語意からも明らかな通り、動かないもの、つまり山の本尊である。山岳修験において、修験者が主尊とするのは、その故である。仏教、特に密教に入って後は、不動明王は、大日如来が一切の悪魔・煩悩を降伏させるために化身した使者、つまり大日如来の教えを実行する姿である教令輪身[きょうりょうりんじん]であり、憤怒の中に慈悲を表わす憤怒尊である。

 密教の考え方からいえば、不動明王は大日如来の「化身した使者」で、つまり変化身です。不動尊が「一切の悪魔・煩悩を降伏させる」「憤怒尊」であるとしますと、これを神道的に解釈するなら、大日如来の「荒魂」が不動明王ということになります。
 大日如来の垂迹神は天照大神ですが、ここで竹谷さんはもっともな疑問を書きつけています。

■なぜ浅間大菩薩か
 なぜ富士山に限って、大日如来は浅間大菩薩として顕現するのだろうか。大日如来と天照大神は、太陽神信仰の視点から見ると同根と見なせることから、大日如来の垂迹神は天照大神と考えるのが自然である。なぜ、それが浅間大菩薩として垂迹するのだろうか。また、浅間大神[あさまのおおかみ]から浅間大菩薩[せんげんだいぼさつ]へと発想されたことは、大方が首肯するところであろうが、それでは、なぜ、「浅間」を「あさま」から「せんげん」と読み変えたのであろうか。

 ここでは、疑問点が二つ提出されています。一つは、富士山神は天照大神ではなくなぜ浅間大菩薩なのかということ、もう一つは、浅間の「あさま」はなぜ「せんげん」といわれるようになったのかということです。
 富士山縁起を語る古伝に「冨士山頂上大日如来略縁起」「富士山略縁起」ほかがあるそうで、これらには、次のような一文が記されているとのことです。

■弁天と習合する富士山神
 此山(富士山)の大神浅間[せんげん]大菩薩と申奉は即[すなはち]天照太神[てんしやうだいじん]の幸魂[さきみたま]にして本御名[もとつみな]は千眼大天女[あさまおふあまおとめ]と申す。天の頂に住給ふ福徳大弁財天女にておはします。

 竹谷さんは「富士山も日本六弁財天のひとつに数えられる」と指摘していましたが(『和漢三才図会』による)、ここで興味深いのは「天照太神の幸魂」「千眼大天女」の存在です。この「千眼」を「せんげん」ではなく「あさま」と訓じていることについて、竹谷さんは、伊豆山の本地仏は千眼大菩薩(千手千眼観音)であることから、富士山と伊豆山(走湯山)修験の関係を読み取っています。

■「あさま→せんげん」の変容過程
 千眼[せんげん]を千眼[あさま]と振り仮名を付けることは、漢字そのものからは成立し得ない。ここには、走湯山の千眼[せんげん]大菩薩を介在させて、解釈する以外に不可能である。換言すると、浅間大神が女神として、千眼[せんげん]大菩薩を移植して、千眼[あさま]大天女に変容し、さらに千眼[せんげん]大菩薩と変容した。形式化すると、浅間[あさま]大神→(走湯山の千眼[せんげん]大菩薩→)千眼[あさま]大天女→(走湯山の千眼[せんげん]大菩薩→)浅間[せんげん]大菩薩、となった。

 富士山の村山修験に影響を与えた走湯山修験が読み取れる論考です。また、富士山神が「千眼大天女」や「福徳大弁財天女」の異名を伝えていることでいえば、日本における弁才天をまつる発祥地とされるのは九州の背振山で、同山の祭神は宗像三女神とされるように、弁財天(弁才天)と習合する神としては宗像神(市杵島姫)が浮かびます。
 遠野郷においては早池峰山の滝神かつ不動尊と習合する神として瀬織津姫という神名が頻出してきます。遠野の西隣の東和町には明治期まで不動尊を主尊とする丹内権現(明治期に丹内山神社となる)があります。同社は本殿背後のアラハバキ岩を神体としていることで知られる古社ですが、同社の由緒を読んでみます。

■丹内山神社について
 この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神多邇知比古を祭神として祀っており、承和年間(八三四〜八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。(丹内山神社境内案内)

 丹内権現は不動尊であり、本殿(明治期までは本堂)背後のアラハバキ岩(「御神体」)については、次のように書かれています。

■アラハバキ大神の巨石(胎内石)
 千三百年以前から当神社霊域の御神体として古から大切に祀られている。地域の信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く、領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、交通安全、商売繁昌等の他、壁面に触れぬようにくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨岩である。(丹内山神社境内案内)

 明治期に丹内山神社の祭神が「多邇知比古」とされたときの創建年代は「約千二百年前」と書かれていましたが、アラハバキ岩の説明では「千三百年以前から」と、百年の時間差がさりげなく記されています。田村麻呂の東北遠征がちょうど「約千二百年前」にあたりますが、その前のアラハバキの神に対する信仰が当社の始まりだということなのでしょう。おそらくこのことに関わるはずですが、前者の由緒には登場していなかった崇敬氏族として「物部氏」の名があるということは注意しておいてよいかとおもいます。
 なお、不動尊と習合する丹内山の神については、遠野の民俗学者である伊能嘉矩によって、貴重な古老伝が紹介されていました。

■丹内山大神の出現
 当社の大神は地祇なり。同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す。赤子にして猿ヶ石川を徒渉し、岸上の峻山に這ひ登り、其の巓の円石を秉[と]りて誓つて曰く、「当に今此石を以て礫に擲[な]げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし」と。則ち礫に擲ぐ其の石現地に落ち止まる。因りて万代の領地と定め、該石を以て神璽と為して後世に伝ふ。然るに蒙昧の世、其の祭式を伝へず、惟り奇物あり天然の小石数十今に境内に存す。按に大神円石を愛し、以て神璽と為す。故に神愛を追慕して奉納を為す所か。近世に至る此の例あり。其の這ひ登る山を赤児這[アカゴバヒ]山と謂ふ。今赤這と謂ふは訛れるなり。郷民其の巓を小峻森[チヨンコモリ]と称して之を敬ふ。(「谷内権現縁起古老伝」…伊能嘉矩『遠野のくさぐさ』)

 丹内山大神は、「同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す」とあります。同地には不動滝があり、ここの滝神として瀬織津姫の名が現在も伝えられています。近江雅和『記紀解体』によれば、神宮第一別宮の荒祭宮の神は「アラハバキ姫」とも伝えられるとのことですが、この荒祭宮の神が瀬織津姫であることは、神宮(外宮)側の文献『倭姫命世記』がよく伝えています。もっとも、神宮では現在、荒祭宮の神は「天照座皇大御神荒御魂」と表示し、瀬織津姫の名を伏せることで瀬織津姫と神宮の関係を曖昧にしていますが、しかし、たとえば、神宮の直系の分社である山口大神宮(山口市滝町)の荒祭宮の祭神は現在も瀬織津姫命と表示しています。ちなみに、荒祭宮と、高宮(外宮の別宮とされる多賀宮)は、かつては、現在の荒祭宮の地で並祭されていたものです。山口大神宮は高宮神を伊吹戸主命と表示していて、大祓祝詞(中臣祓)に登場するこれら二神が神宮元社の神々であったことは、神宮史ばかりでなく、日本の祭祀史の上からみても重要な意味をもっています。
 それはともかく、丹内山神社境内には早池峰山遙拝石もあり、早池峰神=瀬織津姫は、丹内山のこの不動信仰から早池峰山の不動信仰へと、つまり早池峰山周辺の滝神として伝播した可能性が高いです。早池峰─遠野郷においては、明治期の神仏分離によって不動尊の背後から出現してきたのが瀬織津姫でした。
 また、遠野郷の来内地区にまつられる伊豆(走湯)権現も瀬織津姫を背後に隠していました。瀬織津姫を伊豆山(走湯山)の神として公的に伝えているのは遠野郷のみですが(神官の口伝では、宮城県に複数社あります)、走湯山修験のルーツは熊野(那智)であり、これは、那智がその本地仏を千手観音としていることにもみてとることができます。千手とか千眼といわれる像容は一見異様ですが、これは十一面観音の衆生済度の功徳の大なることを表現したもので、十一面観音の変化観音として千手千眼観音(菩薩)はあります。さらにいえば、十一面観音にしても、聖(正)観音の変化観音です。このことは白山の本地仏が十一面観音とされるも、白山の地主神(別山神)の本地仏が聖観音とされていることにみることができます。
 早池峰山は白山同様、その本地仏は十一面観音とされます。瀬織津姫は早池峰山において、十一面観音とも不動尊とも習合するというように一見奇異な印象を受けますが、これは、早池峰山祭祀に関わる円仁伝承にみられるように、天台系の中央的祭祀思想が関与したときは十一面観音、また丹内権現=不動尊を空海の弟子(日弘)がまつったというように、真言系の祭祀思想が介入したときは不動尊がまつられたということなのでしょう。天台、真言という国家仏教が成立するのは平安期に入ってからのことですが、修験思想のルーツはいうまでもなく役小角に代表される吉野・熊野にあります。
 瀬織津姫は、熊野那智においては「川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る」というように、熊野修験の内部では当然に識知されていた神です。また「滝本河中三膳」なる祭典は別名「日天秘法」「弁才天供養」「竜神祭」といわれ、この祭りは「夏中水に不自由せぬ水神に御礼の行事。また水や滝に感謝し敬う大事な祭典」とされます(『熊野市史』)。熊野那智の水神(川神・滝神)として瀬織津姫はありました。この神が那智の滝神である事例は複数ありますが、たとえば、岩手県の気仙川沿いの数社の滝神社、なかでも那智の四十八滝にちなむ、その名も四十八滝神社(陸前高田市横田町)の祭神として瀬織津姫の名があります。また、熊野三山の地方への勧請として、「美濃の高賀山、瓢[ふくべ]ヶ岳にわたって六社巡りがあり、これに新宮、本宮、滝神社のあること」と紹介されるように(五来重「熊野三山の歴史と信仰」、『吉野・熊野信仰の研究』名著出版)、この美濃の滝神社の祭神も瀬織津姫です。
 神宮側は瀬織津姫を「皇太神宮ノ荒魂」(天照大神荒魂)とか「八十禍津日神」などと貶める異称を与えていましたが(『倭姫命世記』)、熊野→伊豆の修験者は、走湯神と富士山神を同神とみなし、それを「天照太神幸魂」「千眼大天女」と呼称したようです。「荒魂」を「幸魂」と言い換えた心意には、修験者の守護神たる不動明王の背後の神に対する尊意があり、それが「荒魂」の貶称を認めなかったものとみられます。
 なお、中世から近世初期にかけて、浅間大菩薩の「応化示現」(竹谷靭負前掲論文)したものとして、かぐや姫の名が富士山神として登場してきます。かぐや姫の物語が秘めている朝廷権力への批評精神はとても興味深いものがありますが、そもそもかぐや姫は月の女神であるという設定についてのみふれますと、ここにも瀬織津姫との共通要素を指摘することができます。いったい月神をまつる氏族はなにかといいますと、それは八幡神社の本社である宇佐神宮(宇佐八幡)の宇佐氏を挙げないわけにいきません。同社大宮司家の末裔・宇佐公康さんは『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社)において、次のように自家の伝承を披瀝していることは貴重です。

■宇佐神は月神
 ウサ神はウサギ神であるが、古代日本人は、氏族の名称を動物や土地の呼び名になぞらえて、氏族の由緒や職業を表示していたから、菟狹族の天職とするアマツコヨミ(天津暦)、すなわち、月の満ち欠けや、昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ(月読)やヒジリ(日知・聖)、または、天候や季節のうつり変わりを見定めるコヨミ(暦)の知能によって、肉眼で見る満月面には、濃淡の模様があり、この遠くて手に取って見ることのできない模様が、あたかもウサギに見立てられるところから、月をウサギ神として崇拝し、そのツキヨミ(月読)の天職をもって、菟狹族と称するようになった。
 したがって、菟狹族の神はウサ神、すなわち、月神である。

 記紀がアマテラスの誕生神話を創作したときにセットで記されていた月読神とはまったく異質な月神像が記されています。また、同書には、日本書紀(一書第三)が三女神降臨の地と記すところの「宇佐嶋」の神について、次のように記されています。

■宇佐氏の祖神
 宇佐嶋の旧跡地と伝えられる御許山[おもとやま](大本山[おおもとさん]または馬城峰[まきのみね]とも呼ばれている)の頂上に、太古から菟狹氏族の氏上(族長)によって祀られていた比売大神(三女神または天三降神[あめのみくだりのかみ]・宇佐明神ともいう)を勧請した。この祭神は間違いなく宇佐家の母系祖神であって、菟狹津媛命の神霊と同神である。

 菟狹=宇佐氏の神は比売大神であり、この神は月神であるというのが宇佐家の伝承です。この比売大神は宇佐神宮の現在の社殿でいえば二之御殿にまつられています。宇佐公康さんは同書で、「中央の二之御殿の祭祀だけが、天地順逆の理による順理すなわち正道にかない、一之御殿と三之御殿の祭祀は逆理すなわち邪道」だと明言しています。現在の一之御殿の応神天皇の祭祀、三之御殿の神功皇后の祭祀は「邪道」であると、宇佐大宮司家の末裔が断言していることは勇気ある証言というべきです。
 日本書紀の記述に基づいて、宇佐嶋の比売大神は宗像三女神と同神とされるわけですが、八幡比売大神を瀬織津姫と伝える「鎌田家文書」(福島県古殿町)の存在は貴重です。あるいは、宇佐家側の伝承に沿って述べるなら、同社の比売大神(三女神)を分祠したのが厳島神社だということを挙げておきます。宇佐家伝承では、この三女神は厳島神と一体とされます。この厳島神社の分社が鹿児島県出水市にあり、同社祭神に瀬織津姫の名を確認できます。
 宗像神社、宇佐神宮については別にふれる必要がありますが、瀬織津姫は宇佐神でもあったとみられます。瀬織津姫という神が「月神」であった可能性について補足しておきますと、伊勢に伝わる天白神の神楽歌にある、次のような歌詞を挙げることができます(瀬織津姫は天白神でもあります)。

■月の輪に舞う天白神
天はく御前のあそひ(遊)をは
ほし(星)の次第の神なれは
月のわ(輪)にこそまひ(舞)たまへ

 天白御前=天白神が月の輪に舞っている姿はまさに月の天女のイメージで、かぐや姫という月神の原像といってよいかとおもいます。この天白神が「胸形三女神」とみられていた四日市日永の天白社の伝承も故なきことではないとなりましょう(千時千一夜103「天白神の神楽歌」)。富士山の天女伝承についていえば、「貞観十七年十一月五日に、吏民旧きに仍つて祭りを致す、日午に加つて天甚美く晴る。仰いて山峯を観るに、白衣の美女二人有つて、山の巓の上に双ひ舞ふ」という都良香「富士山記」の記述も想起されるところです。富士山頂で天女が舞っているという伝承は平安期にまでさかのぼるようです。
 この富士山頂の神は「天の頂に住給ふ福徳大弁財天女にておはします」とされます。また、熊野那智滝本の行事が「弁才天供養」と異称されていたように、この弁才天との習合についていえば、京都の下鴨神社では瀬織津姫が「糺[ただす]の弁天さん」といわれていることもありますが、なによりも、宗像三女神の一神とされる湍津[たぎつ]姫が瀬織津姫と異称されること(前述の鹿児島県出水市の厳島神社、紀州熊野本宮境内社摂社の滝姫社ほか)にみられるように、瀬織津姫は宗像神でもあります。弁才天はもともとサラスヴァティというインドの聖なる川の水神・川神ですから、その質の類似において、日本の水神(宗像神)とたやすく習合したことが考えられます。ちなみに、「宗像三女神の原初的祭祀の一つは、タギリ・タギツが水辺の水の湍[たぎ]る様を言ひ現してゐること」、「(宗像)祭祀の原初形態が、海島祭祀或は海神(水神)祭祀であったこと」と『宗像神社史』が自ら述べるように、宗像神は原初的神格として水神の性格をもっていました。
 かぐや姫、福徳大弁財天女(千眼大天女=天照太神幸魂)、浅間大菩薩、不動明王(→大日如来)と、富士山の「祭神の諸相」には、日本の神祇史上最後の秘神といってよい瀬織津姫という水神・滝神(あるいは伊勢の地主神)が、それぞれ濃厚に影を落としているとはいえそうです。

(追伸)
 みなさんご無沙汰です。28冊、約4000ページほどの仕事でしたが、なんとか責了でやっと手が離れました。おもえば4年前の囲炉裏夜話のときも同じ状況で、ほとんど掲示板への書き込みはできない状態でしたが、瀬織津姫という神についての探究はそれなりに深化してきているものとおもいます。
 日本の神まつりを総体的にみようとするなら、神仏習合の歴史と実態までは視野に入れておかないといけないだろうとおもっています。つまり、仏教と修験の歴史と日本の神祇史は密接に関わっていて、明治期に神社の顔をしだしたものも、その前の長い時代の神仏混淆史を経てのことですから、明治期に創作された由緒や祭神とそうでないものとは慎重に腑分けして読む必要がありそうです。
 修験者たちにとって、その守護神は不動尊であることは主流ですが、実はもうひとつ、吉野=大峰修験の金剛蔵王権現があります。これは吉野の金峰山の神(水分神)を内蔵したものですが、蔵王権現は「上古は九州全体でこれが祭をした」とされます(『宗像神社史』)。宗像地方では孔大寺権現と呼称されていましたが、九州一円でまつられていたというのが史実としますと、では、現在、その痕跡があまりに消去されているのはなぜかという問いも浮かんできます。孔大寺権現=蔵王権現の本地仏は千手観音とされます。不動尊と習合する神と同質の神が秘められている可能性があります。
 よい年をお迎えください。

291 静岡市駿河区小鹿886 無名 2006/03/05 (X) [32000]

タイトルの位置にある神社は神明神社のようですが,地図によっては「瀬織津姫神社」と表記されています。

317 静岡県の瀬織津姫祭祀社 風琳堂主人 2006/05/30 (火) [45650]

 やっと遠野にたどりつきました。
 故人の遺言ということもあって、家の墓の処分を実行しました。これで、わたしも入る墓がなくなったわけで、これはこれでさっぱりしました。
 遠野の緑の美しさに、しばし圧倒されています。早池峰山には雪渓がまだ残っていて、瀬織津姫にはやはり早池峰山がよく似合うようです。
 無名さん、静岡の瀬織津姫神社の情報をありがとうございました。静岡県は岩手県に次ぐ瀬織津姫祭祀がよく残っているところです。現在、わたしが把握している同県の祭祀社を以下に書き出しておきます。近くに行かれたときにでも寄ってみてください。なお、「平成の大合併」による住所表示の変更については厳密に行ってありません。

■静岡県の瀬織津姫祭祀社
二十六社神社【伊古奈比当ス神社境内社】下田市白浜2740
井川神社【本殿主神】         静岡市井川1469
井宮神社【本殿主神】         静岡市井宮町181
大渡神社・佐久地神社【本殿主神】   静岡市黒俣1098
瀬織津姫神社【伊勢神明社境内社】   静岡市小鹿886
大井神社【本殿主神】         静岡市田代329-2
須賀神社【本殿配祀】         静岡市東新田55
水神社【本殿主神】          静岡市中野新田81-2
白鬚神社【本殿配祀】         静岡市松富上組920
中島神社【本殿配祀】         静岡市松中島260
水神社【本殿主神】          静岡市弥勒2-9-6
白鬚神社【本殿配祀】         静岡市油島131-2
白鬚神社【本殿主神】         静岡市与一6-13-16
瀬織戸神社【本殿主神】        清水市折戸1-16-6【現静岡市】
鎮水神社【大井神社境内社】      島田市大井町2316
八幡神社【本殿合祀】         榛原郡中川根町上長尾644【現川根本町】
八幡神社【本殿主神】         榛原郡中川根町久野脇694【現川根本町】
大井神社【本殿主神】         榛原郡中川根町地名1582【現川根本町】
八幡宮【本殿合祀】          榛原郡中川根町下長尾371【現川根本町】
八幡神社【本殿主神】         榛原郡本川根町崎平230-2【現川根本町】
敬満大井神社【本殿主神】       榛原郡本川根町千頭750【現川根本町】
大井神社【本殿主神】         榛原郡川根町笹間下1236
八幡神社【本殿配祀】         榛原郡川根町笹間渡425
八幡神社【本殿合祀】         榛原郡川根町葛籠262
美乃和神社【本殿合祀】        御殿場市中丸217-6
祓戸神社【三嶋大社境内社】      三島市大宮町2-1-5
滝川神社【本殿主神】         三島市川原ヶ谷755-1
滝神社【本殿主神】          富士市宮島1391
熊野神社【本殿主神】         富士宮市上井出278
飽波神社【本殿配祀】         藤枝市藤枝5-15-36
大行事神社【本殿主神】        掛川市下垂木3224
秋葉神社【本殿配祀】         浜松市三組町
池宮神社【本殿主神】   小笠郡浜岡町佐倉5162【現御前崎市】

(追伸)
 この掲示板のサブタイトルは「瀬織津姫&円空情報館」とうたってありますが、年内をメドに『円空と瀬織津姫』の本を出すことにしました。これまでも本掲示板で少しはふれてきましたが、調べれば調べるほど、円空と瀬織津姫の関係はのっぴきならないほど緊密であることがみえてきて、これまでにない円空論として出版する価値はあると判断しました。
 現在、円空の美濃国での初期彫像から、彼がなぜ蝦夷地(北海道)へ渡る必然があったのかまでを、彼の和歌群を援用しながら、ほぼ明らかにした段階です。
 北海道での具体的な彫像行為については、現地で調べる必要もあり、遠野にはあまりゆっくりできないかとおもっていますが、円空は北海道での彫像のあと、下北半島から津軽・秋田と東北を歩いていますので、その足跡を追うときには遠野がベース基地になります。
 なにしろ、円空は途方もない行脚を全国的にしていますので、それを追跡しようとすれば、こちらも常識をはずした旅人を覚悟する必要がありそうです。

319 期待しています! バッキー荒 2006/06/02 (金) [45780]

 私も忙しくしていてなかなか書き込み出来ませんでいました。御主人の記述にホッと胸を撫で下ろしながら、円空がらみの内容に大いに期待をしています。御健闘を祈ります。

 さて、朝熊と浅間、このことがつっかえ棒になっていて戸が開きません。以前関西からの帰路朝熊山に行き、金剛証寺と展望台を訪ねた時、工事中の展望台の真中に、たしか鳥羽市が建てたとおもうのですが、朝熊(アサマ)という言葉の説明が書かれたボードがありました。そこにはアサマはアイヌ語であり、太陽がキラキラ光り輝くさま、であるとかかれていたように記憶しています。色々な書物を読んでみても、火山に関係する言葉であるという記述がほとんどで、太陽と結びつけた説は初めてでした。

 ひょんなことで居酒屋で知り合った若い言語学者、それも古代日本語の研究をされている方にこのことについて尋ねてみました。当然アイヌ語に対する造詣も深く、彼が言うにはその話はたぶん正しいでしょう、ということでした。ちなみにアイヌ語の痕跡は山口県までは拾えるということでした。

 これはとほうもない広がりを浅間信仰のルーツに与えることになります。その荒野を目前にして半年ほど立ち止まっていました。なかなかリスタートできそうもありません。縄文の女神の裳裾を掴んだ感触はあるのですが、傍証はなく、想像の闇に沈む繰り返しです。

 気分転換にブログを初め、靖国をほじくりながらウサを晴らしている今日この頃です。ちなみにHNはこちらと同じです。

320 朝日さす峰 風琳堂主人 2006/06/02 (金) [45800]

 バッキー荒さん、わたしも朝熊山の展望台で「朝熊(アサマ)」の説明を読みました。アサ→アソを火山として理解するより、「太陽がキラキラ光り輝くさま」という解釈でアサマをとらえたほうが落ち着きがいいなとおもった記憶があります。
 富士山や阿蘇山や浅間山が火山であるという事実はたしかにあるのですが、では伊勢の朝熊山は火山だったかとなり、こちらはたぶんちがうはずで、伊勢のアサマは、太陽(朝日)がたださす峰(山)といった解釈をしたほうが、伊勢の太陽神の信仰の歴史とも重なります。
 伊勢のアサマをあらためて考えますと、火山神よりも太陽神の信仰が先行するのではないかという想像もふくらみます。荒ぶる太陽神(まさに天照大神荒魂ですね)が宿る山が火を噴くと「火山」となるといったイメージが浮かびます。しかし火が噴かなければ、その山は水や生活資源の恵みをもたらす山を日常とします。三六五日一日も欠かさず火を噴いている山はありませんから、噴火というのは非日常的な現象で、これは、山神さんが、何に対してかはともかく、「怒っている」というとらえ方を古代人はしたようにおもいます。
 朝熊(山)が「朝日さす峰」といったことでいえば、円空歌に、次のような一首があります。

朝日さす神ハ宮井照つゝ
     五十[いすず]川の清く浄に

 朝の陽光が宮井と五十鈴川の清き流れを「キラキラ」照らし出しているというイメージです。
 この円空歌に出てくる「宮井」ですが、これは、朝熊山の明星井のことかもしれません。『木曽路名所図会』に「日本三霊泉」として、「伊勢国朝熊山の明星井[あけぼののゐ]、山城国賀茂の御手洗井[みたらしのゐ]、この霊水(息栖神社の忍潮井)と日本三所の名泉なり」と書かれています。これらの井神・霊泉神はなにかという問いも浮かびます。
「朝日さす峰」が伊勢の専売特許でないことは、たとえば『万葉集』に「冬過ぎて春来[きた]るらし朝日さす春日の山に霞たなびく」(歌番一八四四)とあることからもわかります。藤原氏の氏神たちに占拠される前は、春日山もアサマ山、つまり、朝日たださす山ということなのでしょう。
 円空がらみでもう少し類例を拾いますと、円空の最初期の修行山である美濃の高賀[こうか]山も浮かびます。この山には鬼神・妖魔が住んでいて、これを退治したとする藤原高光の歌「朝日さす高賀の山をかきはらいおとろになるも我が名わすれそ」が伝えられています。高賀山の鬼神・妖魔とはなんだったのかと周縁の神社伝承を調べていきますと、旧美並村の熊野神社に、熊野の滝の権現の歌として、次のような歌があります。

  明[あさひ]指すこが(高賀)の高根にあらハれて
    幾世久しくわれありと知れ

 高賀山も「朝日さす峰」で、ここにも熊野の滝神と藤原氏の攻防があったようです。

321 赤富士 バッキー荒 2006/06/02 (金) [45810]

 両親の住まいの脇の村道を、夜も明けやらぬうちから何台かの車が峠を目指して登っていきます。暁に映える富士の撮影を試みる写真家達です。峠は視界が開け絶好のビューポイントになっています。

 朝日さす峰、内宮の位置からは太陽の昇る山であっても、決して朝日さす峰とは映らないはずです。朝熊山を染め上げていく太陽光線を強く意識せざるをえない場所は洋上ではないのでしょうか?つまり神島を中心とする島嶼部、あるいは、渥美半島、知多半島。続けていえば三河の地ということになります。東側、まつろわぬ者の側の命名であると信じたいのです。アイヌ語説とも符合します。

 その連中のシンボルとして富士山は捉えられていた、なおかつ火を吹く。すっかり春めいていても、朝熊山からは天候さえ整えば白いその姿を望むことができます。時に白煙を昇らせていたのかもしれません。大和がどういう思いでみつめていたのか、心中穏やかでなかったことはまず間違いのないことだと思われます。

355 瀬織津姫のご神体 風琳堂主人 2006/06/26 (月) [46980]

 円空と瀬織津姫の関係は北海道においてもみられるかということで、道内を二週間ほど歩いています。結論からいいますと、円空は瀬織津姫を追うようにして当時の蝦夷地に渡ったとみてよさそうです。
 円空は礼文華の海岸の岩屋でいくつか観音像を彫っているのですが、そのなかに「たろまえ乃たけごんげん」と背中に記した像があります。「たろまえ」というのは樽前山のことで、苫小牧地方の霊山なのですが、この山麓にある錦岡樽前山神社には、今も円空の彫像があります。神仏分離という当局の命による開拓使の神社調べの記録をみていましたら、明治五年のことですが、この樽前山神社の氏子衆は開拓使に対して祭神は瀬織津姫であることを主張していたことが書かれています。この祭神主張はやはり通ることはなかったようで、樽前山神社は、苫小牧市部へ遷座すると同時に大山祗命ほか二神に変えられるのですが、この新・樽前山神社の案内には、祭神変更・決定が「明治天皇の勅命」によるものであることがさりげなく書かれています。明治天皇が一神社の祭神決定にいちいち「勅命」を発していたとはおもえません。おそらくは、当時の神祗官(省)の意向を受けた役人が「勅命」の名によって祭神変更・決定を強制したものでしょう。樽前山神社はその後、県社にまで昇格し、この地方の最有力社として現在は壮大な社殿を誇っていますが、円空と瀬織津姫の関係を同社にみることができます。
 昨日、厚沢部町にある滝廼[たきの]神社に行ってきました。同社は瀬織津姫をまつる社で、円空が蝦夷地を歩いていたときにはまだなかったようですが、ここはオープンなところで、社殿内陣奥の御簾を上げると、そこには像高40センチほどの女神三神の立像があり、その中央に瀬織津姫像が鎮座していました。女神三神は祓の三女神というより、おそらくは宗像三女神とみたほうが自然でしょうが、いずれもチャーミングな女神像です。中央の瀬織津姫像は右手に剣、左手に玉(水精玉か)をもっている像です。右手の剣は瀬織津姫が習合する不動尊をイメージさせますし、左手の玉は水霊を表しているのでしょう。あるいは、観音像へと想像もふくらみます。
 明治の神仏分離による神社調べの記録で、神体は仏像でダメだ、あるいは像容が曖昧でダメだ、廃すべしといった記述があり、そこに、この剣と玉をもった女体像が散見されます。瀬織津姫とはまったく異なる神名にされていった各社ですが、それらがもとは瀬織津姫をまつっていたことを、このご神体はよく証言していることになりそうです。(熊石町[現八雲町熊石]にて)

357 十一面観音と円空 風琳堂主人 2006/06/29 (木) [47170]

■道南の山神社
 道南の古社について見ると、山神社と称するものの祭神は多く大山祇神になっている。上ノ国村でも、天の川口に鎮座した文禄三年創立の山神社、小森、大留の山神社、桂岡、湯ノ岱、北村、石崎の山神、いずれも大山祇神となっている。
 しかし、山の人々は山の神は女神と信仰している。小森山神社の神体も女神像である。山神の伝説も女神である。(松崎岩男『続上ノ国村史』檜山郡上ノ国村、昭和三十七年)

 明治期に樽前山神社の祭神が瀬織津姫から「大山祇神」に変更されたことも想起されますが、ここに出てくる「天の川口に鎮座した文禄三年(1594)創立の山神社」は、寛文五年(1665)には観音堂と称され(『福山秘府』)、円空はここに十一面観音像を奉納しています(道内に現存する唯一の円空作十一面観音)。
 寛文五年という年は円空渡道の前年とみられますが、『福山秘府』は「寛文五年、春彗星現はれ、西部上ノ国太平山鳴動し、天河海口陸と成る。按ずるに是皆不祥の兆なり」と書かれていたように、不吉不祥の念が国中に満ちていました。村史の年表によりますと、翌年には「冬飢饉」、『福山秘府』にも「国民飢」とあり、「不祥の兆」は的中したかの感があります。円空はこの飢饉の最中の蝦夷地に渡ってきたことになります。
 円空は、天の川の河口にまつられる神(太平山および天の川の神)を鎮魂供養するために十一面観音を彫像したとみられます。
 円空は、美濃国高賀山での初期の修行において、高賀山滝大明神が十一面観音とも瀬織津姫ともみなされることをすでに知っていました。上ノ国のこの十一面観音は同村の「滝沢の滝」に打たれて彫像したとされます。滝沢地区には滝沢神社があり、ここは明治期に祭神がスサノオなどとされましたが、ここの滝神は瀬織津姫であったとみるほうが自然です。
 菅江真澄は、天の川に寄せて、次の一首を歌い残していました(同村史)。

瀬を清みみたらし河にすむ月は
ちりにまじはるひかりとや見ん

 真澄は天の川を「みたらし河」と歌い、同川にすむ(住むと澄むを掛ける)月(神)は「ちりにまじはる」も「ひかり」(の神)だと読める歌です。
 瀬織津姫は棚機=七夕神あるいは月神でもあり、御手洗[みたらし]神でもありました。円空はその土地々々の神と対話するようにして彫像していますので、彼がここに、十一面観音を奉納した真意・深意が伝わってくるようです。(松前町にて)

360 蝦夷地の川濯神 風琳堂主人 2006/07/10 (月) [47500]

 天照皇大神、豊受大神をまつる福島大神宮(北海道松前郡福島町)の境内末社(かつては摂社)に川濯[かわそ]神社があります。同社の現在の祭神表示は、「伊弉諾尊、伊弉冉尊、瀬織津姫命」、相殿に「宇迦之御魂命」をまつり、「創立明応元年(一四九二)松前郡中の最古社」、「女性守護神として、敬神婦人講がある」とされます(『福島大神宮略記』同社務所)。
 現在の祭神表記は以上ですが、明治十二年の神社調べによれば、福島大神宮は「天照皇大御神」一神で、川濯神については、社殿建物は「無之本社へ相殿」とされ(『福島町史』第一巻)、福島大神宮が内外宮に整合させるようにして現祭神二神をまつるのは、「その後」ということになります。川濯神が明治初期に本社(稲荷神社)相殿神として社殿が無かったという記録に、川濯神祭祀の変遷が暗示されています。しかし、現在の社標は稲荷神社ではなく川濯神社とあり、稲荷神の方が逆に相殿神となっていて、川濯神への人々の信奉が根強かったことを告げています。
 神官の常盤井さんによりますと、川濯神のご神体は白衣の女神像で、右手に剣、左手に玉をもった立像とのことです。瀬織津姫を単独神としてまつる滝廼神社(厚沢部町)とまったく同じ像容のご神体といってよく、川濯神は瀬織津姫一神を指しています。
 川濯神社の境内には乳房桧[ちぶさひのき]という神木があり、境内案内には、次のように書かれています。

■御神木「乳房桧」
 桧の分布は福島県が北限で本道の桧は、植栽されたもので、明応元年川濯神社創建の時、神木として奉植されたと伝えられる。母体安全、子孫繁栄の祈りがこめられており、松前家四世季廣の奥方も祈願したと伝えられる。

 厚沢部町隣りの乙部町滝瀬にまつられる滝之神社は、かつては川裾社と呼称していて、ここは江差町伏木戸にある川裾神社と同じく、いずれも「安産の神様」とされます。これら乙部の滝之神(川裾神)、江差の川裾神二社は瀬織津姫を主神としており、福島町の川濯神は「女性守護神」とされるように、瀬織津姫にはどうやら女性に信奉者が多いようです。
『福島村史』(昭和十八年)によれば、川濯神社の祭神は「伊邪那岐命、瀬織津姫命」とされ、同社由緒を次のように記しています。

■宇宙清掃を司る女神
 月崎神社再建の明応元年五月の建立である。祭神の御一柱瀬織津姫命は宇宙清掃を司る女神で在す故と、又境内の樹齢三百年の「乳房桧」が母乳無き婦人にそれを与ふる霊験とに依って、当社は往古より婦人の信仰を聚めて来て居る。

 瀬織津姫の禊神という神格は社名の川濯神社によく表れていますが(身を川で濯ぐ→川濯)、瀬織津姫に付与されていた一方の大祓神という神格は、ここでは最大限に誇張美化されて「宇宙清掃を司る女神」と記されています。昭和十八年という国家神道の最中において、瀬織津姫への屈折した賛辞として、この村史の記録はあるといえます。
 道南沿岸部の川濯・川裾(川下)神社を各町村史等から拾っていきますと、十数社が確認できます。これらのすべてが瀬織津姫と祭神表示しているわけではありませんけど、その大元神として瀬織津姫はあったとみてよいでしょう。
 たとえば、明治五年の神社調べにおいて、ご神体が和幣とされるも「外ニ男体白衣ノ立木像一体、左手ニ玉、右手ニ剣ヲ衝、但、可廃事」と書かれる大日?貴[おおひるめむち]尊という社がありました(函館市根崎町)。同社は寛文四年(一六六四)七月の創祀で、明治の神仏分離から仏の廃棄に至る荒波をかいくぐって、現在、円空の座像観音を秘仏としてまつっていますが、同社はこの神社調べの後、川濯神社と社名変更され、祭神は木花咲夜姫命とされます。
 円空と川濯神という仮称神との関係は、明治五年時点に川下社と記されていた現在の川濯神社にもみられます(函館市古川町)。川下社は明和元年(一七六四)の創祀で、円空の時代には社は存在しませんでしたが、同社から「一里余離れた山中の観音林の樹下に小祠を建立」とあるように(『北海道神社庁誌』北海道神社庁)、もともとは観音堂があったゆえの「観音林」で、このお堂に円空は観音座像を奉納したのでした。円空のこの彫像は、現在、(観音堂→)川下神社→川濯神社のご神体とされ、これも非公開のようです。この古川町の川濯神社は、根崎町の川濯神社と同じく、これも祭神を木花咲夜姫命として現在に至るわけですが、円空がこれら川濯神と仮称される神を意識して彫像していたことはまちがいないものとおもいます。
 もう一社、これも川濯神社とされた社を挙げておきます(上磯町字富岡:現在の北斗市)。
 明治五年の神社調べによると、この川濯神社の前身は姥神社と表示されていたもので、これはいうまでもなく、江差町の姥神大神宮(創建は建保四年=一二一六年、現祭神:天照大御神、天児屋根命、住吉三柱大神)の分社です。この姥神社は安永九年(一七八〇)に成書となる『福山秘府』にも富川村の「姥神社」と書かれ、同村の観音堂の項には円空作のご神体があったとされます。姥神社は明治期に川濯神社と社名変更、また、祭神はこれも木花開耶姫命とされ、しかも、富川八幡宮の境内社へと遷宮されます。この富川八幡宮に円空の座像観音が現存しています(上磯地方史研究会『上磯町歴史散歩』昭和六十一年)。富川八幡宮境内社としてあるはずの姥神社→川濯神社を確認しにいったのですが、富川八幡宮への参道石段は草ぼうぼうで、ほとんど見捨てられた社の印象で、しかも目当ての境内社は現存せず(八幡宮向かって左に社殿跡とみられる空地がある)、おそらくは近年、本社へ合祀されてしまったのでしょう。
 ちなみに、富岡八幡宮の姥神→川濯神については、「この地域の婦人が女(お産)の神様として、毎年神社の祭典に集まって祀っている」とあり(『上磯町歴史散歩』)、先述の川濯神(福島大神宮境内社)や乙部・江差の川裾神と同じ性格を指摘できます。福島大神宮境内社の川濯神社は「創立明応元年(一四九二)松前郡中の最古社」とされ、その「最古社」よりもさらに古社である江差の姥神大神宮をここに並べますと、川濯神=姥神とされた神は、蝦夷地「最古」の和人の神としてまつられたものとみてよさそうです。
 これら川濯神と統一仮称される大元神と対話するようにして、円空は観音を彫像・奉納しながら蝦夷地を歩いたのでした。

505 千時千一夜への投稿について 風琳堂主人 2006/10/02 (月) [50700]

 北海道から下北・津軽へ、下って秋田から鳥海山、そして宮城・松島へと、「北」の円空の足跡を追って歩いてきました。原稿を起こしながらの旅で、千時千一夜への書き込みがあとまわしになりました。
 この間、執拗なエロ書き込みがあったことは知っていましたが、消去するという対処法くらいしかおもいつかず、かなり根気よく削除してきました(本日までのエロ書き込み数は、前回の360「蝦夷地の川濯神」から数えると約150回)。こういった書き込みをここへ意図的にやっている人間がいるとすれば一人しかいないだろうとはおもっていますが、この手の病的な人間は相手にしないのがいちばんというのがわが電脳顧問の助言です。
 次回から、『円空と瀬織津姫──北辺の神との対話』という、円空論の上巻を構成する原稿の一部ですが、千時千一夜の読者には先行して公開していきます。一冊の本になるにはもう少し時間がかかりますので、掲示板へのエロ書き込みばかりではせっかくの千時千一夜が泣いているだろうという判断です。
 なお、今回以降、本掲示板への書き込みについては、まずメールにて風琳堂へ原稿をお送りいただき、掲載の可否については風琳堂編集部に一任していただくという、いわば一般の雑誌メディアへの投稿・掲載と同方法をとることにします。

517 蝦夷地の観音たち──背銘が語る円空の足跡 風琳堂主人 2006/11/16 (木) [53050]

はじめに

 梅原猛『歓喜する円空』(新潮社)が十月末に出ました。梅原氏がどれだけ新しい視点で円空像を組み立ててくるか、あるいは、千時千一夜においてふれてきた円空への視点とどれほど重なるのかそうでないのかといった関心で通読してみましたが、円空の仏教画に対する絵解きは光るものの、全体的には諸々の既成の小円空研究を上手に集大成したもので、新しい円空像は特に提示されているとはいえないようです。
 この梅原円空論についてはいくつかわたしには異論があります。なかでも、円空が伊勢の神をどうとらえていたのかといったことは、その最たるものです。
 円空彫像の処女作は寛文三年(一六六三)、天照皇大神と阿賀田大権現の一対の像と八幡大菩薩像とされます。円空はここで、天照皇大神を髭をはやした男神として彫っていました。天照神を男神としてみていた円空は、梅原氏にはどう映じているのか?

 円空が「記紀」にアマテラスオオミカミが女神として登場していることを知らないはずはない。それなのにあえて天照皇大神を男神として表現したのはなぜか。その理由はさだかではないが、白山神が明らかに女性神であるイザナミノミコトであるので、さらにアマテラスオオミカミが女性であるのであれば、日本の重要な神々のすべてが女性であることになる。それは代々の天皇が男系である日本社会の現実と矛盾する。それで円空はあえて天照皇大神を男性にしたのではなかろうか。

 天照大神男神説は、上山春平ほかの学説としてすでにあることを知らぬ梅原氏ではないはずですが、ここには、五来重氏が、天照皇大神を男神として彫ったのは「論外」「恣意独善」と切り捨てたのと同じ無理解があります(五来重『円空佛』淡交社)。それと、十一面観音と習合した白山神をイザナミと定めた泰澄の神仏習合論をまったく疑っていないことも、円空論としての底の浅さを露呈しているといえます。ちなみに、円空は後年、泰澄の白山信仰を解体し、再構築することで独自の白山(神)信仰を生きることになります。ここから、円空の彫像が自由の翼をもったかのごとくに飛翔し、多くの評者が認める諸像がつくられることになります。
 延宝四年(一六七六)、円空は熱田神宮の奥の院である龍泉寺で、ここでも天照皇大神を男神として彫っています。これは熱田大明神を女神として一対の像とし、本尊の馬頭観音の脇侍に配したものでした。梅原氏は、「脇侍を同じ名古屋にいらっしゃる熱田大明神に務めていただくのはまだ分るとしても、こともあろうに伊勢から天照皇大神をわざわざ呼んで脇侍を務めていただくのは畏れ多い気がする」などと書いています。「畏れ多い」という呪縛内で書かれた梅原円空論とはなにかという問いも浮かんできます。
 現在確認できるだけでも、円空が天照皇大神を男神として彫ったのは八体確認されていて(池田勇次『怨嗟する円空』牧野出版)、天照大神を男神とみなしていたのは円空の確信犯的認識であったとみるしかありません。
 文学にしろ哲学にしろ、処女作には、その表現者の終生にわたるテーマ・モティーフが表れるものだとすれば、円空の処女作である男神の天照皇大神像を、「恣意独善」「畏れ多い」などとして見て見ぬふりをせずに、きちんと受け止める必要があります。円空はまだ十全に語られていないというのが現在の円空論の状況です。
 以下は、『円空と瀬織津姫─北辺の神との対話』の第二編「蝦夷地の円空」を構成する素原稿です。本になるときは、「最新」の円空論であるはずの梅原猛『歓喜する円空』を引用し私見を述べるつもりですが、素原稿ではあるものの千時千一夜に先に公開していきます。

一 蝦夷地・松前へ

 円空がどこの湊[みなと]から蝦夷地・松前に渡ったかは明確な記録がない。ただ、『津軽藩庁日記』寛文六年(一六六六)正月の項に、次のような記述があり、円空の足跡を考えるときには貴重な記録である。

正月廿九日
一円空と申旅僧一人七町ニ罷在候処ニ、御国ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而、其段申渡候所今廿六日罷出、青森へ罷越し、松前へ参る由。

 弘前城下にいた「旅僧」円空は津軽藩役人から追い立てをくらい、一月二十六日に弘前をあとにし、青森に出て松前に向けて発ったということらしい。
 丸山尚一『新・円空風土記』(里文出版)は、日本海側の小泊[こどまり]の太田家に男神像(天神像)一体を残し、同地から太田家の船で松前に渡ったのではないかと推測している。陸奥湾側の外ヶ浜(松前街道)沿いには円空渡道後の彫像の分布がみられるも、日本海側の津軽半島北部にはそれがみられないことを考慮すると、太田家の船で渡ったかどうかはともかく、小泊から円空が蝦夷地に渡ったという説は有力かとおもわれる。
 ちなみに、小泊は、熊野権現(飛滝権現→飛竜権現)の祭祀と、この熊野修験がおそらく携えてきたであろう徐福伝承を残す日本最北の地であり、中世には安東氏(前九年の役の安倍氏の末裔)の最後の居城(柴崎城)があったところである。安東氏は南部氏との覇権争いに破れ、永享四年(一四三二)小泊から松前に渡っている。
 海の凪いだある日、円空は小泊から出港し、龍飛崎を右手にみながら、津軽海峡を北行して松前に向かったのだろう。
 円空の次の足跡が確認できるのは、松前藩主席家老・蛎崎蔵人広林[ひろしげ]の依頼を受けて彫像した聖観音(座像)である。同像は、広尾郡広尾町の禅林寺に現存しているが、これはもともとは十勝大明神(現十勝神社)の本地仏として蛎崎によって奉納されたものだった。
 この広尾の聖観音の背面には、次のように墨書されている(禅林寺・広尾町郷土研究会『円空仏のしおり』)。

  願主松前蛎崎蔵人
  武田氏源広林 敬白
  寛文六丙午天六月吉日

 同像を納めた厨子の表には「本地仏背後記文」と題して引用と同文が書かれている。また、禅林寺年表には寛文六年六月のこととして、「松前藩家老蛎崎蔵人が、主君の安泰を祈り、トカチ明神社に、円空作観音像一体をトカチ大明神本地仏として奉安す」とあり(同『しおり』)、円空が松前藩家老に深く信頼されていたことがうかがえる。ちなみに、十勝は蛎崎蔵人の「給地所」であり、十勝神社は蛎崎によってまつられた「十勝最古」の社である。十勝神社の現祭神は大海津見[おおわだつみ]神とされ、その前身の十勝大明神は「茂寄村シマウス海岸に漂着した流木」の形状があたかも「竜」に似ていたため、これを「神」としてまつったところから始まったようだ(「十勝神社参百年略誌」同社社務所)。十勝神は、豊漁祈願によってまつられた海神であったわけだが、円空のこの観音像は、同社にまつられてきたものの、明治政府の神仏混淆禁止の布達によって廃棄・廃仏されるところを、明治八年、禅林寺に移され生き延びて現在に至っている。わたしたちが現在みることができる円空の諸像は、明治期の神仏分離による廃仏の荒波をくぐってきたものが多いことを忘れてはならないだろう。
 津軽藩からは追い立てをくらったのだったが、円空は、松前藩からはかなり信用されていたようだ。このことは、有珠善光寺の再興という蛎崎の要請を円空が引き受けていることにもよく表れているが、松前藩の藩史『福山秘府』巻之十二「諸社年譜並境内堂社部」という藩内堂社調べの記録(『新撰北海道史』第五巻所収)からも読み取ることができる。
『福山秘府』巻之十二には、藩内二十五の堂社が「神体円空作」とされ、円空の蝦夷地での行動を考える上で、これはとても貴重な記録である。これら二十五堂社のうち、観音堂は十九社、権現社・神社は六社で、円空の主たる彫像は、観音堂の「神体」として奉納されたことがわかる。しかも、これら十九社の観音堂のうち七社が「寛文五年造立」と記されていて(その他は「造立年号不相知」または無記載)、円空の渡道とまるで時を合わせるかのようにして、観音堂の造立がなされているのである。
 円空が蝦夷地で観音堂を独断で造立し、そこに勝手に彫像し奉納したとみるわけにいかず、これらは、家老・蛎崎による奉納仏彫像の要請を受けたものとみるべきだろう。『福山秘府』巻之五「年歴部」に、「松前年代記」曰くとして、「寛文五年、春、彗星が見えた。西部上ノ国の太平山が鳴動し、天河(天の川)の海口(河口)が陸となった。おもうに、これは皆不祥の兆である」(引用者現代語訳)と書かれていたように、寛文五年には不吉不祥の念が国中に満ちていた。『上ノ国村史』の年表によれば、翌年には「冬飢饉」、『福山秘府』にも「国民飢」とあり、「不祥の兆」が現実となったのが寛文六年だった。蛎崎あるいは松前藩は、民心慰撫の必要に迫られていたことが考えられ、観音堂の造立もそれゆえのことだったにちがいない。
 寛文六年「六月吉日」、家老・蛎崎は円空の聖観音像を受け取った時点で、円空の彫像の実力を認め、これらの観音堂に観音像を奉納することを要請したのだろう。円空からすれば、衆生の不安な心を慰謝する彫像は望むところでもあった。『福山秘府』編纂の時点では造立時期が不詳とされていたほかの観音堂だが、これらにも、おそらくは蛎崎の意向による造立、あるいはそれを受けた円空の観音奉納も含まれていたとみてよかろう。

二 有珠善光寺から礼文華[れぶんげ]へ

 円空の蝦夷地での足跡を次に確認できるのは、菅江真澄『えぞのてぶり』寛政三年(一七九一)六月七日の条の記述においてである。菅江は礼文華(豊浦町)の小幌洞窟の実見記として、次のように記していた。

  奥深く入ば五躯の木の仏をならべおけり。その中のみぐしたかき仏のそびらにかいたるを見れば、寛文六年丙午七月 始登山 うすおくの院の小嶋 江州伊吹山平等岩之僧円空…

 菅江はさらに、この寛文六年七月という円空の足跡を確認できる像の脇に並べられた四体については、一体は字が読めなかったとするも、三体は「いわうのたけごんげん」「くすりのたけごんげん」「たろまへのごんげん」と読んでいる。菅江が見た五体の円空像のなかの文字不明像は、寛政十一年(一七九九)に幕府の役人・松田伝十郎によって「ゆうはりたけこんけん」と読まれたようで、松田はこれらを、背銘の地に送り神社などにまつらせたという(堺比呂志『円空仏と北海道』北海道出版企画センター)。
 また、菅江は、再興された善光寺(お堂)においても円空の彫像を二体確認しているが、これらの像は所在不明であるものの、このお堂の傍らに「小祠」があり、ここにも円空の彫像三体があったとし、これらの背には、「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」「のぼりべつゆのごんげん」「しりべつのたけごんげん」と背銘があったという。
 円空は、寛文六年「六月吉日」のあと、善光寺を再興し本尊ほか一体を奉納、また傍らの小祠に三体を奉納したのだろう。そのあとか前かはわからないが、有珠山に登り、眼下の洞爺湖に浮かぶ中島を善光寺奥の院と定め、あるいは湖中の中島(現在の観音島)に渡ったあと、礼文華の小幌洞窟で五体を彫像している。
 善光寺および小幌洞窟での円空の彫像は複数が集中していて、また、松田によって背銘の当該地に送られたもので現存するものしないものと少し複雑なので、以下に菅江真澄・松田伝十郎の記述をもとに整理しておく。

T 善光寺本堂の二体…………………………………………………所在不明
U 善光寺本堂脇の小祠の三体
 @内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ……………………………所在不明
 Aのぼりべつゆのごんげん(登別湯権現)………………………観音寺(登別温泉)
 Bしりべつのたけごんげん(後方羊蹄[しりべつ]岳権現)……所在不明
V 礼文華小幌洞窟の五体
 @寛文六年丙午七月 始登山 うすおくの院の小嶋 江州伊吹山平等岩之僧円空…………有珠善光寺(伊達市)
 Aいわうのたけごんげん(いわう岳権現)………………………岩屋観音(豊浦町礼文華)
 Bくすりのたけごんげん(久寿里岳権現)………………………厳島神社(釧路市米町)
 Cたろまへの(たけ)ごんげん(樽前岳権現)…………………錦岡樽前山神社(苫小牧市)
 Dゆうはりたけこんけん(夕張岳権現)…………………………所在不明

 松田伝十郎は『北夷談』で四像の図を示し、V@の「寛文六年丙午七月」を「寛文六丙年午七月二十八日」とより精細な彫像の日付を示している。また、この像だけが「大仏」で、ほかの三体は「小仏」であるとも記録している(『円空仏と北海道』)。菅江真澄が礼文華の洞窟に円空像が五体あったと書いていたところを、松田は四体しか記していない(「いわうのたけごんげん」が記されていない)という不思議は残るものの、二人のこれらの記録があることで、円空の当地での彫像の志向というものが、その背銘からうかがうことができる。
 以下、現存する円空の彫像について──。
「のぼりべつゆのごんげん」は、もともとは湯沢大権現→湯沢神社のご神体だった。明治五年の神仏分離に伴う開拓使の神社調べの記録(菊池重賢『明治五年壬申八月・十月巡回日記』、『函館市史』史料編第二巻所収)に、神体は「木像 仏体 改祭」とあり、「但、木像薬師ノ形、尤二十ヶ年両度祠焼失ニ付、木像モ又過半焼亡ス」と後注されている。円空の座像観音の多くは正面中央で両手に「鉢」をもっていて、これがおそらく「薬師ノ形」にみえたのだろう。この像は重なる火災のためか、「黒く焼けた円空仏像のあわれな姿」をしているという(『円空仏と北海道』)。
「うすおくの院の小嶋」に送られた座像観音は、正確にいえば、円空が北海道で彫った唯一の白衣観音である。白衣観音は、多くは渓流の岩上で衣の裾を水に浸して沈思黙考あるいは瞑想する観音で、現世利益の役割をもつ一般の観音とは一線を画している。円空は、こういった特異な観音を、洞爺湖中島を善光寺奥の院と見立て、そこの「神」として彫像したのである。この観音には、円空の蝦夷地における彫像のおもいが集約されているのかもしれない。
「いわうのたけごんげん」は、菊池重賢『巡回日記』にも神社調べの対象となっていて、同書には「岩屋観音」と書かれ、神体は「木像一」、「木像廃物 近年箱館ニテ修覆ス」、「神鏡」に改めて祭ることと記されている。「此辺風波荒ク魚漁人又海岸船行人安穏ヲ祈白スル由、所謂山道ハレブンゲノ嶮難也。依之思慮スレバ風神ヲ改祭シテ風波平静ヲ可仰哉」と、風神をまつる神社にすべきかどうかと検討していたことがうかがえる。菊池のこのおしつけの神社化の意向が無駄だったことは、礼文華の「岩屋観音」別名「首なし観音」として、円空のおもいを今に大切に伝えていることからもわかる。
「くすりのたけごんげん」は、釧路港を見下ろす丘陵(釧路地方のアイヌの聖地)に鎮座する厳島神社、その「境内本殿北脇」の「久壽里嶽大権現」という社殿にまつられていた(佐々木米太郎『釧路郷土史考』昭和十一年)。佐々木は「久壽里の嶽大権現は寛文年中奇僧圓空の鉈形の作と謂はれて居る」と注している。少なくとも昭和十一年の時点までは「久壽里嶽大権現」という社殿が存在していたが、現在は撤去されたようで存在しない。
 この久壽里嶽大権現社の祭祀経緯を探ってみると、同社は、文化六年(一八〇九)の『東行漫筆』には「山神」と書かれ、安政四年(一八五九)の記録には「弁天・稲荷・阿寒の三社美々敷立たり」とあるように(『北海道神社庁誌』)、阿寒社であった。明治五年の神社調べの記録でも、「阿閑大神」の社殿があったとされるが(『新釧路市史』第三巻)、この社殿がいつから「久壽里嶽大権現社」と社名変更されたか、また昭和十一年以降のいつの時点で廃絶となったかはわからない。
 円空が「くすりのたけごんげん」に込めた神は現在、阿寒大神(大山祗命)として本殿相殿神としてまつられている。『釧路市史』は、「阿寒大神(大山祗命)は往古よりアイヌ人が『アカンカムイ』といって祭祀してあつたものと伝え、むかしは漁船が入港する時社殿が見える所までくると、必ず船を幾度か廻し豊漁と航海の安全を祈念しまた感謝して帰港したものといわれる」と記している。阿寒大神(アカンカムイ)は、これも十勝大明神と同じように海神として信奉されていた。厳島神社の由緒案内は、阿寒大神を、「雄阿寒岳・雌阿寒岳を霊峰とする山神さまでアイヌの神ともされています」と説明している。円空の「くすりのたけごんげん」が、釧路=久寿里[くすり]地方の霊峰の神に捧げられたことで、アイヌにも深く受容されたのだろう。彼らクスリのアイヌは、松前藩にとっては大事な漁業労働者であり、アカンカムイの祭祀は、和人の弁天(→厳島神)や稲荷神祭祀と並んで重視される必要があった。しかし、この共存祭祀は明治期以降一変する。それが、阿寒大神の社殿名の久壽里嶽大権現社への変更、そして廃絶、あるいは阿寒大神=大山祗命という祭神名の変更に端的に表れている。
「たろまへの(たけ)ごんげん」は、苫小牧地方の霊山・樽前山(一〇四一b)の神に捧げられた座像観音である。樽前山神社の由緒案内によると、樽前山は、アイヌ語で「タオロ・マイ・エトコ・ヌプリ(樽前川の水源の山)」とのことで、山麓の錦岡樽前山神社において、この円空の観音像は、現在もご神体として大切にされている。しかし、この錦岡樽前山神社には、きわめて重い歴史のドラマが秘められていた。
 明治の神仏分離に伴って、この地方の神社(神体)調べをおこなったのは、札幌神社(のちの北海道神宮)権宮司兼開拓使・菊池重賢[しげかた]だった。彼は『明治五年壬申八月・十月巡回日記』の「樽前神社」の項を、次のように記していた。

樽前神社  木像 仏体 改祭
      観音裏ニたろまゑのたけトアリ年号訳兼。
祭神瀬織津姫ト申伝有之候由ノ処、従前当社ハ樽前山神ヲ祭ル趣、瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事。
勇払 白老 千歳三郡産土神ト奉斎シテ郷社ト被為成度段出願有之。
   祠白木五社造 前巾六尺 横二尺 幣殿九尺ニ三間
   拝殿間口三間半 奥行二間半 神門一基
   社地間口七間 奥行十六間
   起元不詳 元治元甲子年再営、以前旧請負人私祀、其後同所出稼人中寄附由。
同所漁場出張番家守護神

 樽前神社の神体である仏体の木像は「観音」で、裏に「たろまゑのたけ」とあった。いうまでもなく、これは円空が彫像したものである。「改祭」のため廃仏となるところを、この観音は生き延びて現在に至っている。菊池がたんに神社の神体調べをしただけでないことは、ほかの堂社の項で、たとえば「金比羅ヨリ龍王迄五品、皇朝ノ神祗ニ紛敷ニ付引上テ可然〔燃〕哉」、「馬頭ヲ頂キ人面二頭ヲ頬傍ニ付、六手大怪物、可廃」(これは馬頭観音だろう)、「従前仏体、此仏体当壬申春二月分限焼捨趣申出候」などとメモしていることからもわかる。菊池によって「皇朝ノ神祗」にふさわしくないと判断された神体の神仏像は、廃棄あるいは焼却の対象とみなされたのだった。菊池のこういった神社・神体調べが、いわゆる「廃仏毀釈」の風潮を加速させたことはいうまでもない。
 しかし、菊池がおこなったのは、神体が「皇朝ノ神祗」にとって不適のとき廃仏・焼仏を指示しただけではない。その神社・神体調べにおいて、氏子がどういう神をまつってきたかを明確に答えられない場合、まさに「皇朝ノ神祗」にふさわしい神、つまり、古事記・日本書紀に登場していた神々の名をそこにあてはめるという祭神決定もなしていたのである。菊池の、この祭神決定の意向に否を表明した希有の神社が樽前神社だった。
 樽前神社の氏子衆は菊池に対して、「祭神瀬織津姫ト申伝有之候」と主張したのである。菊池は、樽前神社は「樽前山神」をまつるもので、「瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事」と記している。瀬織津姫を「祓戸神」という性格ばかりでなく「海神」(宗像神)とも認めていたのは、やはり札幌神社の神官ゆえの見識であったが、その海神を山神としてまつるのはおかしいというのが菊池の主張だった。海神が山神としてまつられるのは阿寒大神ばかりでなく、全国に諸例多く、むしろ自然のことだが、菊池は「山海ノ相違」云々と、神官にあるまじき不見識を主張していた。
 明治五年の氏子衆の祭神・瀬織津姫という主張は通ることなく、樽前神社は苫小牧市部に遷座し、祭神も「皇朝ノ神祗」にのっとって変更された。この新・樽前神社は樽前山神社となり、壮大な社殿を誇っているが、同社の「由緒」を読むと、明治五年後の祭神変更・決定のいきさつがさりげなく書かれている。

樽前山神社
所在地 苫小牧市字高岳六番四九
祭 神 大山津見[おおやまつみ]神、久々能智[くくのち]神、鹿屋野比売[かやのひめ]神
由 緒 「樽前の神の稜威は幸沢に 満ち足るが如く 満ち溢るるが如し」と昔より称えられし霊峰樽前山に対する信仰は古く、山麓に神祠を設け祀ったのが創祀と言われている。明治八年に明治天皇の勅命により祭神「大山津見神」に加え「久々能智神」「鹿屋野比売神」三神が定められ、山麓より町の中心地に御奉遷この地の総鎮守郷社として奉斎された。爾来、苫小牧地域の開発発展に御神徳著しく、昭和十一年には県社に昇格し、道内屈指の名社に数えられるに至った。〔後略〕    (北海道神社庁『北海道神社庁誌』平成十一年)

 菊池重賢のときは埒[らち]が明かなかった祭神変更・決定も、明治八年、「明治天皇の勅命」によって落着をみたということなのだろう。同社境内の由緒案内では、「明治天皇さまのお心持ち」などと言い換えているが(写真)、開拓使の政府役人あるいは菊池は、「明治天皇の勅命」の名をつかって祭神変更を迫ったというのが実態であろう。「明治天皇の勅命」をつかってまでも変更しなければならない神として「樽前山神」、つまり瀬織津姫という神はあった。
 樽前山に瀬織津姫という滝神・水源神がまつられるというのは、まさに「タオロ・マイ・エトコ・ヌプリ(樽前川の水源の山)」の神としてふさわしい祭祀であったはずだが、これを認めなかった、菊池重賢に象徴される新政府の祭祀法はながく記憶されておいてよい。
 樽前山神社は、戦後現在においても、六月三十日と十二月三十一日に「大祓」の祭事をおこなっている。これは、明治政府の祭祀権力が各神社に励行を命じたものだが、国家神道崩壊の昭和二十年後においても撤回されることなく、この慣習をつづけている神社は多い。この大祓の中心神はいうまでもなく瀬織津姫だが、本殿主神の座からはずされ、祓神としてのみ遇されているのが樽前山神社である。しかし、これは、苫小牧の樽前山神社一社のみにみられる現象ではない。
 日本の神まつりにもし根本的不自然さがあるとするなら、蝦夷地においては、この樽前山神社が、その不自然の淵源をよく照らし出しているといってよい。円空は、蝦夷地行の前にすでに、日本の神まつりの歴史的な不自然さを一人、よく認識していた。彼は、蝦夷地での彫像において、その背に記した山々に、歴史的に秘されてきた瀬織津姫という神の影をみていたのである。

三 内浦駒ヶ岳へ

 有珠山─善光寺─礼文華において、円空は少なくとも計十体の彫像をおこなうも、UA・BやVB・C・Dの霊山霊地へ自ら足を運ぶことはなかったようだ。円空は、ただ祈念・祈願のおもいをこめて像の背中に山岳霊地の名を記し、これらの彫像をここに残した。ただし、瀬織津姫という神は、蝦夷地において、和人がまつった最古の神であった可能性はたしかにあるのである(次項「北辺の神への鎮魂」参照)。
 有珠善光寺や有珠山、また礼文華小幌洞窟から内浦湾(噴火湾)の対岸にひときわ目立つのが駒ヶ岳(内浦岳)である。
 円空は内浦神社(砂原[さわら]神社)で六体の像を彫っていたが、そのうちの一体に「いそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日 初登山内浦山 円空(花押)」と刻んでいた。
 寛文六年の「六月吉日」から「八月十一日」という三ヶ月ほどの時間内の円空の行動は、松前から有珠山(善光寺)へ、そして駒ヶ岳(内浦岳)へとたどることができる。もっとも、この時間内のことか、そのあとかはともかく、有珠山とならぶ蝦夷地の霊場・太田山(せたな町大成区)への参籠があった。円空の蝦夷地行の主目的あるいは第一の目的は、この太田山行だったろうとわたしはおもっているが(「霊場・太田山の秘神」参照)、円空の太田山詣でがいつの時点のことかは記録がなく断定できない。
 内浦神社における円空彫像の六体について、以下に、その背銘と像の所在地を書き出しておく(『円空仏と北海道』による)。

内浦神社の六体
 @うちうら百年本地(内浦百年本地)…………………………………内浦神社(砂原町)
 Aしまこまき山大こんけん(島小牧山大権現)………………………三社神社(松前町白神)
 Bゆうらつぷみたらしのたけこんけん(遊楽部御手洗岳権現)……諏訪神社(八雲町山越)
 C内浦嶽観音………………………………………………………………所在不明
 Dらいねんのたけ(雷電岳)……………………………………………海神社(寿都町磯谷)
 Eいそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日 初登山内浦山 円空…海神社(寿都町磯谷)

 これらの諸像も礼文華の像と同じく、寛政十一年に松田伝十郎によって背銘の当該各地に送られたとされるが、現存像は必ずしもそこにあるとはかぎらない。
「しまこまき山大こんけん」は、島小牧(現在の島牧村)の「しまこまき山」に送られたはずである。ただ、「しまこまき山」という山名はみあたらず、あるいは島牧村の最高峰である現在の狩場山(一五一九b)がそうかもしれないが、それにしても、なぜか文化四年(一八〇七)、松前町白神の三社神社の「神体」とされたらしい。同像は「非公開」とのことだ(『円空仏と北海道』)。三社神社の主祭神は上筒男神[ママ]、中筒男命、底筒男命(以上、まとめて住吉三神という)、ほかに稲荷神を合祀しているが(『北海道神社庁誌』)、同社の由緒は不自然に「不明」となっている。

 昭和五十四年二月白神三社神社の御神像として円空仏が保存されていることが、同社小本武四郎宮司の厚意によって発見された。この神体台座背面には「しまこまき山上大権現」の陰刻と「山浄大権現」の墨書銘があり、これは島小牧場所鎮座用として円空が作製の依頼を受けたが、完成後島小牧には送られず、白神三社神社の御神体となっていたもので、のち遼天和尚作の恵美須像が御神体となって、山浄大権現像は脇像として保存されてきたものである。                    (『松前町史』通説編第一巻上)

 町史のこの記述によると、円空のこの観音像は「作製の依頼を受けた」上での彫像だったという。町史がこのように書く根拠が示されていないが、蛎崎と円空の間で、各地の観音堂への彫像・奉納に加え、諸霊山の神に捧げる彫像をなすことで、蝦夷地全体の鎮護を図るという内約があったとしても、それはたしかに考えられることである。そもそも、太田山や有珠山などの著名な霊山霊場はともかく、ほかの蝦夷地の山々には不案内なはずの円空である。善光寺から礼文華、そして内浦神社において、自身が登拝することのなかった諸山の名を像の背中に記して奉納像を作製するという円空の行為は、やはり、彼の単独意志によるものとのみは理解しづらい面がある。また、後年、幕吏・松田伝十郎によって像の背銘にある霊山各地に諸像が送られていることをあわせて考えると、松田のこの行為は、蛎崎と円空の蝦夷地鎮護の意向を汲んだ上でのことだったのだろう。
 町史は、「神体台座背面」に「しまこまき山上大権現」の陰刻と「山浄大権現」の墨書銘があると記している。「山上」と「山浄」は音が通ずるわけだが、「山浄大権現」という墨書銘が円空自筆のものとするなら、これはこれで、円空の彫像意識からみてもありうる命名ではある。なぜなら、「山浄大権現」は、次の「ゆうらつぷみたらしのたけこんけん」と同質ともいえる禊祓神を意識した命名だといえるからである。いずれにしても、非公開を崩していない「しまこまき山上大権現」には、風通しのわるい謎がつきまとっている。
「ゆうらつぷみたらしのたけこんけん」は、遊楽部[ゆうらっぷ]岳(一二七四b、日本海側の爾志郡からは見市[けんいち]岳と呼称)の神をおもいながら彫像したものだろう。像形はやはり座像観音で、内浦湾に注ぐ遊楽部川河口の渡島郡八雲町山越の諏訪神社の神体とされ、これも非公開である。
 諏訪神社神官は、明治五年の菊池重賢の神社(神体)調べの際、神体は「木像 男体」である、しかし、今は上方に修理に出しているのでここにはない旨を菊池に報告している。菊池のメモに、諏訪神社の神体は「検見不致候事」と注記がある。円空の神体像=観音は、神官の勇気ある「嘘も方便」の機転で守られたのである。氏子総代の方によると、秘神のこの神体は、まるでミイラを連想してしまうが、布でぐるぐる巻にされているという。
 それにしても、円空は背銘に、「みたらし」(御手洗)という言葉をあえて添えていた。これは、円空が遊楽部岳に御手洗神をみていたことを表すものだろう。本土において、御手洗神、浄めの神といえば、やはり瀬織津姫の名が浮かぶ。
「うちうら百年本地」も座像観音で、これを神体とする内浦神社についても、菊池の神社(神体)調べおよび祭神決定があった。菊池は内浦社の項で、祭神を「事代主神、素戔嗚命、稲田姫神」と決定したが、その神体については、村役人の「申出」として、「荒木」で「毘沙門の形」をした木像であると記している。「申出」とあるように、菊池はこの像を自身の眼で検分したわけではなかった。内浦社の神体は、毘沙門ではなく観音であることが確認されている。この像も、「昨辛未(明治四年)八月上方ヘ為登候旨申出ル」と書かれ、これも諏訪神社とよく似た話で、しかし、円空の神体像=観音は、かくして、ここでも守られたということなのだろう。
 内浦神社は内浦岳(駒ヶ岳)を神体山とする、まさに山岳信仰の社である。砂原町側からは内浦岳と通称し、ほかは駒ヶ岳というほうが通りがよい。拝殿前には神を護るために狛犬が配置されるのが一般だが、内浦神社は、羆(ヒグマ)が狛犬の代わりに内浦岳(駒ヶ岳)の神を護っている。
「らいねんのたけ」も座像観音で、雷電岳の神をおもって彫られたのだろう。雷電岳(一二一二b)は、岩内郡と磯谷郡の境界に聳える山である(現在の表記は雷電山)。この像は現在寿都町磯谷の海神社にあるが、同社氏子の方から、この像はもともと雷電岳山麓の熊野神社にあったが洪水で流れてきたという口伝があることをうかがった。雷電神といえば、熱海の伊豆山神社の境内社に雷電社があり、伊豆山あるいは伊豆(走湯)権現の地主神をまつるということも想起されるところだ。伊豆山の雷電神もまた熊野をルーツとしていたが、岩手県遠野市の伊豆神社の神が、これも瀬織津姫であることを添えておく。
「いそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日 初登山内浦山 円空」──この像も座像観音だが、円空が記した「いそや乃たけ」とはいったいどこの山なのかは地元でもわからず、特定できない。この観音も海神社のご神体である。
 海神社の主神は豊玉彦命、豊玉比売命で、稲荷神を合祀している。同社の由緒の項には、次のように書かれている。

   社伝によると文化四年(一八〇七)のある日、漁師が尻別川で漂流の木像二体を拾いあげてみると一体の背には「いそやのたけ寛文六年丙午八月十一日初登内浦山円空」とあり、もう一体の背には「らいねんの山」とあり、二体あわせて能津登岬の洞窟内に奉斎した。その後、地元住民の豊漁祈願のため協議の結果天保二年社殿を建立し奉遷する。爾来海神と称して奉祀してきた。                    (『北海道神社庁誌』)

 海神社の二体の観音は、「尻別川」の上流から流れてきたらしい。尻別川は大河で、その源流部に屹立するように聳えるのが蝦夷富士の異称をもつ羊蹄山(一八九八b)である。羊蹄山の旧名は後方羊蹄[しりべつ]岳といい、円空は善光寺でこの山の神のために彫像してもいた。尻別川は羊蹄山を大蛇が巻くようにして西下し、ニセコ連峰からの多くの支流を合流し大河を形成するが、この連峰の一角を構成するのが雷電岳である。二体の観音が社伝どおりに一緒に拾いあげられたものとすると、あるいは雷電岳熊野神社から並んで流れてきたものかもしれない。海神の夫婦神二神をまつる海神社の祭祀をみると、この二体の観音は一対のものとしてみられていたようだ。

 これまで、善光寺・礼文華小幌洞窟・内浦神社で彫られたもので、現存する諸像を概観してきたわけだが、これらの背銘を並べてみると、一つ、とても不思議なことに気づかざるをえない。それは、善光寺での「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」(所在不明)、内浦神社での「うちうら百年本地」(内浦神社に現存)、「内浦嶽観音」(所在不明)と、内浦岳=駒ヶ岳の神への奉納像が三体も彫られていることである。
 内浦岳=駒ヶ岳は渡島[おしま]富士の異称をもつが、この山からは内浦湾対岸の北に有珠山、その左背後に羊蹄山(蝦夷富士)、北西には遊楽部岳ほか松前藩内の諸霊山が、さらにいえば、南の恵山[えさん]の右方彼方には下北半島・恐山の最高霊峰・釜臥[かまぶせ]山までが望まれる絶景の霊山といってよい。円空がこの山の神のために、異例ともいえる三体の像を彫像したのには、それだけの理由や魅力が、この山にはあったからだとおもわれる。所在不明像ではあるが、「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」という背銘から、円空が内浦嶽=駒ヶ岳の神に深い尊意を抱いていたことだけは確実に伝わってくる(次項「北辺の神への鎮魂」参照)。
 円空が蝦夷地で、いったいどれくらいの数の彫像をおこなったかは今は知る由もないが、現存する像数は四十一体とされる(『円空仏と北海道』)。このうち、阿弥陀如来が三体確認されているが、あとの三十八体はすべて観音像である。『円空仏と北海道』は、これら三十八体の観音像のうち、二十八体を、五来重氏命名の「来迎観音」として分類している。来迎観音は、人々の諸苦を救うという「鉢」(蓮の花)を腹部に両の手で抱くという特異な形式をしていて、特にいえば、阿弥陀如来に代行するように「来迎」して死霊を「鉢」にすくいとって浄土へ送りとどける、つまり、究極的に人々の死苦を「救う」という、阿弥陀如来の利益[りやく]をも兼ねた観音ゆえの命名である。像名の是非はともかく、円空のこれらの観音像を、人々は慰謝や救済、あるいは航海安全・豊漁祈願の気持ちをもって、まさに「神」として拝していたであろうことは、明治期の神仏分離から廃仏へと向かう半狂気の時世にあって、円空の彫像を救い出した各地の逸話がよく語るところである。
 円空は、松前藩家老・蛎崎との内約(各地観音堂への観音像の奉納)を果たしつつ藩内各地を巡錫している。しかし、これは、蝦夷地で目指す山岳霊地に自由に籠ることとの交換条件としての内々の約束事ではなかっただろうか。円空の蝦夷地行の本意とは、山岳霊地の地神供養を当地においても実践することにあった。むろん、このことと、円空の観音諸像が人々に深く受容されたこととは直接には関係ないが、これらが神社の「ご神体」とみなされたとき、そこには、円空の蝦夷地の「地神」へのおもいが、たしかに投影していたとはいえるだろう。
(次回は、「北辺の神への鎮魂─姥神・駒ヶ岳の神とはなにか」の予定)

518・519 北辺の神への鎮魂──姥神・駒ヶ岳の神とはなにか 風琳堂主人 2006/11/26 (日) [53490]

はじめに

 仙台市若林区志波町の西隣の白萩町に陸奥国国分尼寺があり、その数百b西に国分寺があります。両寺の間に、かつて「姥神社」がありました。同社は現在、国分尼寺のすぐ北に移転していて、祭神は伊豆佐売[ひめ]神とされます(境内石碑)。地名の「志波」にも痕跡が残っていますが、この姥神社の地には、延喜式内社で明神大社とされる志波彦神社の仮宮がありました(菊池勝之助『仙台事物起源考』)。志波彦神社はのちに宮城野区岩切に遷座し、明治期に塩竃市の鹽竈神社別宮へ、そして現在の境内位置へとさらに遷ることになりますが、岩切鎮座時代は、志波彦神社は祇園社と並祭されていました(「奥州名所図絵」、押木耿介『鹽竈神社』所収)。この祇園社は、志波彦神社の鹽竈神社への遷座のとき取り残されたようで、岩切に八坂神社として単独祭祀がなされています。ここで興味深いのは、この祇園神=八坂神は、「栗原郡志波姫神社同体也」と指摘する古文献(佐久間洞厳『奥州観跡聞老誌』)があることです(岩切の歴史を研究する会『岩切の歴史ものがたり』)。少し入り組んだ祭祀の変遷でわかりづらいですが、祇園神=八坂神と同体とされる栗原郡志波姫神社は、その異称を伊豆権現といい、現祭神は木花開耶姫命とされます。スサノヲとして当然のごとくに語られる祇園神=八坂神は、この仙台の地では元々女神であったことになります。
 円空は蝦夷地から東北への彫像の旅を終えると(最終地は松島の瑞巌寺)、美濃国へ帰国後、郡上郡美並村半在(現:郡上市)にある八坂神社において、牛頭天王(=祇園神)像を「女神」像として彫っています(寛文十二年)。この仙台の祇園神=八坂神(女神)の事例がよく証言するところですが、円空の天照大神「男神」像と同様に、これも円空の「恣意独善」とはいえないはずでしょう。
 ところで、仙台の姥神社の現祭神は伊豆佐売神(「佐=サ」は美的な接頭語で、意味するところは「伊豆の姫神」)であること、また、伊豆権現=志波姫であることをみますと、どうやら仙台で「姥神」と呼ばれている神は伊豆の女神であり、志波姫とも呼ばれていたことがわかります。
 以上の姥神の異称神は、仙台の読者の方との往復メールによって明らかになったことですが、遠野の伊豆権現=伊豆大神は瀬織津姫とされ、姥神とも志波姫とも仮称された謎の神は瀬織津姫であった可能性が高いようです。この仙台の姥神=志波姫についての話は今回の素原稿には反映されていませんけど、蝦夷地の姥神と呼称された神と無縁のこととはおもえませんので、先に紹介しておきます。

一 川濯神と円空

 檜山[ひやま]郡厚沢部[あっさぶ]町滝野に滝廼[たきの]神社という瀬織津姫をまつる神社がある。江戸時代までは、ここは安野呂と呼ばれていた集落である。「北海道」の命名で知られる松浦武四郎『再航蝦夷日誌』(弘化三年、『江差町史』第三巻所収)に、安野呂村の記述がある。

  安野呂村 漁期浜辺ニ出て稼後帰村し耕作山稼前ニ同し 土質よろし 産神の社あり美々敷立てり 此村の上ニイヤシナイといふ温泉あり人家僅ニ四戸耕作炭焼、柾割檜山森ニて春内ハ浜ニ下リて稼く此温泉功〔効〕能多かれと辺鄙ゆえ湯治人少なし

 松田の眼に映じた「産神の社あり美々敷立てり」の社が、滝明神(のちの滝廼神社)である。なお、「此村の上ニイヤシナイといふ温泉あり」とある「イヤシナイ(平愈内)」の沢入口には、小川祠があり、現在は廃絶しているが、明治八年の「神社明細書」は、同祠の神を「瀬織津姫神」と記していて、安野呂村には、瀬織津姫が二社にまつられていた。
 姥神大神宮神官・藤枝家の文書「社記伝記控」に、滝明神のメモがある(『江差町史』第三巻)。

  滝明神  願主 安野呂村中
  祭神 瀬織津姫命
  建立明和九年 社地同村明神之森 一山樹木古木繁茂 本殿三尺社拝殿五間三間 例祭七月十九日仕来 当社ハ古社之由申伝候得共年暦不詳

 滝明神は「古社之由申伝候得共年暦不詳」というのが実態で、安野呂村における「建立明和九年(一七七二)」より、その祭祀は遡ることが考えられる。
 安野呂村は、義経伝説をもつ乙部岳(一〇一七b)を水源山とする安野呂川(厚沢部川支流)流域に開けたところである。空念(越前の廻国僧、宝永元年〔一七〇四〕松前に渡り、諸山の神を鎮祭する)は円空を追うようにして蝦夷地を歩いていたが、彼は、乙部岳には「清滝権現」がいると『正光空念納経記』(函館市立図書館所蔵)に記している。岩手県遠野市土淵の山中にも清滝神社があり、瀬織津姫は、江戸期まで不動尊と習合するも、清滝神という滝神とみなされていた。安野呂村の滝明神は、乙部岳の清滝権現と習合する神であったということなのだろう。この乙部岳の祭祀は、空念の記載によって「明和九年」の祭祀よりも時間を遡ることが考えられ、安野呂村の「当社ハ古社」という伝承も、おそらくは、このことに関わっている。
 この滝明神は、明治八年の「神社明細書」では、明神号を廃して「滝廼神社」と改称して記載されている。わたしは、この滝廼神社で、瀬織津姫の神体像というものを初めて実見する機会をもった。内陣には前立のように「鏡」が配されるも、その背後に、伴とみられる女神二体を左右に従え、右手に剣、左手に玉をもって岩上に立つ、像高四十センチほどの白衣の女体姿があった。その表情はとてもチャーミングといってよい。瀬織津姫の神体は、本来は「滝」そのものなのだが、人々がこの神をどう感じイメージ化していたかがよく伝わってくる神像である。古来、中央の祭祀権力は、この神を八十禍津[やそまがつ]日神などと禍々しい神・悪神として規定づけようとしてきたが、この白衣の女神像には、中央の悪神規定とは対極の人々のおもいが込められている。
 この神社と同一の神体を有する社は、道内(松前藩内)にまだいくつもある(あった)。以下に、いくつか拾ってみる。
 天照皇大神、豊受大神をまつる福島大神宮(松前郡福島町)の境内末社(かつては摂社)に川濯[かわそ]神社がある。同社の現在の祭神表示は、「伊弉諾尊、伊弉冉尊、瀬織津姫命」、相殿に「宇迦之御魂命」をまつり、「創立明応元年(一四九二)松前郡中の最古社」、「女性守護神として、敬神婦人講がある」とされる(『福島大神宮略記』同社務所)。
 現在の祭神表記は以上だが、明治十二年の神社調べによれば、福島大神宮は「天照皇大御神」一神で、川濯神については、社殿建物は「無之本社へ相殿」とされ(『福島町史』第一巻)、福島大神宮が内外宮に整合させるようにして現祭神二神をまつるのは、後のことである。川濯神が明治初期に本社(稲荷神社)相殿神として社殿が無かったという記録に、川濯神祭祀の変遷が暗示されている。しかし、現在の社標は稲荷神社ではなく川濯神社とあり、稲荷神の方が逆に相殿神となっていて、川濯神への人々の信奉が根強かったことを告げている。
 神官の常磐井氏によると、川濯神のご神体は白衣の女神像で、右手に剣、左手に玉をもった立像とのことである。瀬織津姫を単独神としてまつる滝廼神社とまったく同じ像容の神体であり、川濯神は瀬織津姫一神を指しているとみてよかろう。
 川濯神社の境内には乳房桧[ちぶさひのき]という神木があり、境内案内には、次のように書かれている。

御神木「乳房桧」
 桧の分布は福島県が北限で本道の桧は、植栽されたもので、明応元年川濯神社創建の時、神木として奉植されたと伝えられる。母体安全、子孫繁栄の祈りがこめられており、松前家四世季廣の奥方も祈願したと伝えられる。

 厚沢部町隣りの乙部町滝瀬にまつられる滝之神社は、かつては川裾社と呼称していて、ここは江差町伏木戸にある川裾神社と同じく、いずれも「安産の神様」とされる。これら乙部の滝之神(川裾神)、江差の川裾神二社は瀬織津姫を主神としており、福島町の川濯神は「女性守護神」とされるように、瀬織津姫にはどうやら女性に信奉者が多いようだ。
『福島村史』(昭和十八年、『福島町史』第一巻所収)によれば、川濯神社の祭神は「伊邪那岐命、瀬織津姫命」とされ、同社由緒を、次のように記している。

 月崎神社再建の明応元年五月の建立である。祭神の御一柱瀬織津姫命は宇宙清掃を司る女神で在す故と、又境内の樹齢三百年の「乳房桧」が母乳無き婦人にそれを与ふる霊験とに依つて、当社は往古より婦人の信仰を聚めて来て居る。

 月崎神社は、もともとは月ノ崎観音堂で、瀬織津姫は「観音」と習合する神として松前の地にまつられたとみられる。観音堂から川濯神社として分離祭祀がなされたのが「明応元年五月」であった。瀬織津姫の「禊神」という神格は、川濯神社という社名によく表れている(身を川で濯ぐ→川濯)。また、瀬織津姫に付与されていた一方の「大祓神」という神格は、ここでは最大限に誇張美化されて「宇宙清掃を司る女神」と記されている。昭和十八年という国家神道の最中において、瀬織津姫への屈折した賛辞として、この村史の記録はあるといえる。
 道内の川濯神祭祀の最古社として、福島のこの川濯神社はある。道南沿岸部の川濯・川裾(川下)神社を各町村史等から拾っていくと十数社が確認できる。これらのすべてが現在、瀬織津姫と祭神表示しているわけではないが、その大元神として、瀬織津姫という神はあったとみてよいだろう。
 たとえば、菊池重賢の明治五年の神社・神体調べ(『明治五年壬申八月・十月巡回日記』、『函館市史』史料編第二巻所収)の下湯川村根崎(現函館市根崎町)の項に、大日?貴[おおひるめむち]尊という社があり、ご神体は「和幣」とされるも「外ニ男体白衣ノ立木像一体、左手ニ玉、右手ニ剣ヲ衝、但、可廃事」と書かれている。白衣の「男体」というのは菊池の見間違えだろう。同社は寛文四年(一六六四)七月の創祀で、明治の神仏分離から仏の廃棄に至る荒波をかいくぐって、現在、円空の座像観音をご神体としてまつっている(非公開)。大日?貴社は、この神社調べのあと、川濯神社と社名変更され、祭神は木花咲夜姫命とされる。
 円空と川濯神という仮称神との関係は、明治五年時点に川下社と記されていた現在の川濯神社にもみられる(函館市古川町)。川下社は明和元年(一七六四)の創祀で、円空の時代には社は存在しなかったが、同社から「一里余離れた山中の観音林の樹下に小祠を建立」とあるように(北海道神社庁編『北海道神社庁誌』)、もともとは観音堂があったゆえの「観音林」で、このお堂に円空は座像観音を奉納したのだった。円空のこの彫像は、現在、(観音堂→)川下神社→川濯神社のご神体とされ、これも非公開である。この古川町の川濯神社は、根崎町の川濯神社(根崎神社)と同じく、これも祭神を木花咲夜姫命として現在に至るわけだが、円空がこれら川濯神と仮称される神を意識して彫像していたことはまちがいあるまい。
 なお、明治五年の菊池の神社・神体調べの記録には、上磯郡泉沢村の川下社は「木像 女体玉ヲ持」、「木像ヲ廃シ、神鏡、和幣ニ改祭スベシ」、同郡当別村の川下社は「石像二尺斗リ、恰モ地蔵ニ似タリ 但、右手ニ剣、左手に玉ヲ持」、同郡茂辺地村の川下神は「木像 女体左手ニ玉、右手ニ杖」などが散見される。菊池は、泉沢川下社は速秋津比売[はやあきつひめ]神、当別川下社は祭神名不記載、茂辺地川下神は木花開耶姫命とメモしていたが、これらの神体像の様態は、滝廼神社や福島大神宮境内社の川濯神社と同一とみられる。速秋津比売神は大祓祝詞に瀬織津姫とともに登場してくる神で類縁によって選ばれた神名であろうし、木花開耶姫命は、本来の川下神がもっていた「安産」に利益ある神という神徳を、記紀神話に探って選択された神名であろう。
 もう一社、これも川濯神社とされた社を挙げておく。
 菊池の明治五年の神社調べで、上磯郡富川村(現北斗市上磯町富川)の八幡宮に「合祀」の指示とともに記される「川濯神」がある。同社は「起源不詳 宝暦三年十月再造」とされ、神体は「和幣」、祭神は「木花開耶姫命」と書かれている。この川濯神社は、安永九年(一七八〇)に成書となる『福山秘府』巻之十二には富川村の「姥神社」と書かれていたもので、明治期に社名が変更された(『上磯町史』は、姥神社の勧請は一六一七年頃と推定している)。富川村の姥神社がどこから「勧請」されたかといえば、それは、「陸奥国松前一之宮」といわれる姥神大神宮(江差町)であろう。
 なお、『福山秘府』は、富川村には姥神社のほかに観音堂があり、この観音堂については「造立年号不相分 神体円空作」と記している。円空の座像観音は富川八幡宮に現存していて、姥神→川濯神の「合祀」を考えると、円空の観音と姥神→川濯神はどうやら富川八幡宮の社殿内に同居していることになる。
 ちなみに、富川八幡宮の姥神→川濯神については、「この地域の婦人が女(お産)の神様として、毎年神社の祭典に集まって祀っている」とあり(上磯地方史研究会『上磯町歴史散歩』)、先述の川濯神(福島大神宮境内社)や乙部・江差の川裾神と同じ性格を指摘できる。
 福島大神宮境内社の川濯神社は「創立明応元年(一四九二)松前郡中の最古社」とされ、その「松前郡中の最古社」よりもさらに古社であろう江差の姥神大神宮(建保四年=一二一六年創立説)をここに並べてみると、川濯神=姥神とされた神は、蝦夷地の和人の神として、草創期にまつられたものとみてよさそうである。蝦夷地・松前藩内には、のち(明治期)に川濯神と統一・仮称される神が複数存在していた。円空の時代には、まったく異なる神名であったであろう「川濯神」と対話するようにして、彼は観音を彫像・奉納していたことが考えられる。

二 姥神とはなにか

 川濯神の「川濯」について、福島町の川濯神は「かわそ」、せたな町のそれは「かわすすぎ」、大野町と函館の川濯神は「かわすそ」などと訓字をあてている。同じ神である川裾神は「かわすそ」で、この川裾神と同義の川下神になると、文字通り河口の神の意を含むが、その音の「そそ(すそ)」や「しも」から、まさに「下(しも)」の病の神が強調されてくることにもなる。
 このことを端的に伝えているのが江差町伏木戸の川裾神社(祭神:瀬織津姫神)である。同社は、江戸期までは水月堂と呼ばれ、伏木戸明神の異称をもっていた。「伏木戸水月堂之由来」(『江差町史』第六巻所収)には、「水月」とは「下の病」とあり、伏木戸明神は「小すその神」とも呼ばれ、病者は「六月晦日」に「立願」すれば「利益有之」と書かれている。「六月晦日」は大祓の日で、瀬織津姫が病魔を祓ってくれるという信仰とみてよい。
 ところで、瀬織津姫が川濯神・川裾神としてまつられる(その神名が消去・変更されずにまつられる)最古の祭祀を拾えば、近江国(滋賀県)の琵琶湖周辺にゆきつく。たとえば、「川裾さん」の親称をもつ唐崎神社(西宮神社境内社、滋賀県高島郡新旭町:現高島市)、「川裾宮」の異称をもつ、これも唐崎神社(滋賀県高島郡マキノ町知内:現高島市)、大物主神と並祭される河濯神社(長浜八幡宮境内社、長浜市宮前町)である。特にマキノ町の唐崎神社は、天智時代にまで遡る祭祀がみられる。
 瀬織津姫が大祓神としてその名を刻まれる「中臣祓」という大祓祝詞の創作は、まさに天智時代のことで、正確に時間を記せば、天智八年(六六九)である。同祝詞は、佐久奈度神社(大津市大石中町)において中臣金(のちの天智朝の右大臣)によってつくられたとされる。中臣氏の氏長は中臣鎌足で、鎌足は「大化の改新」という名のクーデター(六四五年)以来、天智朝の側近中の側近であった。大祓祝詞は、朝廷に仕える官々の罪・穢れや悪神の災いを祓い国家を安泰に導くというのが主旨で、こういった「国家」の盛衰に関わる大祓の祝詞創作に、鎌足や天智が無縁であったはずがない。
 瀬織津姫は、古事記(七一二年)や日本書紀(七二〇年)の前に、つまり記紀神話の創作の前に、すでにその神名がみられるたいへん「古い」神である。この神は、記紀による皇祖神の創作とも深く関わっていて、つまり、皇祖神・アマテラスの祖型神の一神でもあったため(菊池展明『エミシの国の女神』)、蝦夷地においては樽前山神社の例がよく示すように、神宮祭祀の絶対化が国家的に志向されるたびに、歴史の闇に追いやられる定めを負ってきた。しかし、神は人の「心」の表象であり、人々はこの神をまつることを捨ててはいない。記紀に記されなかった瀬織津姫という神だが、現在、この神をその名のままにまつる神社は全国に四〇〇社以上あり、この神は、水神・滝神としてまつられる例の方が圧倒的に多く、祓神としてまつられる例は、全国に分社をもつ大社が中心で、むしろ少ないといってよい。
 円空にとって瀬織津姫は、初期修行の山・高賀山の地主神であったし、自身の氏神でもあった。この神に対する、あるいは、この神の消去に対する円空の心持ちは深く、それが全国の「地神供養」の旅に彼を駆り立てている。蝦夷地も例外ではなかった。
 円空の観音彫像と関わる上磯町富川の姥神社は、明治期に川濯神社とされた。その本社である江差の姥神大神宮において、瀬織津姫という神の痕跡は、現在どれくらい残っているのだろう。姥神大神宮は「北海開祖神」をまつる「陸奥国松前一之宮」とのことだ(同社由緒しおり)。
 松前藩の藩内堂社調べの記録(安永九年成書の『福山秘府』巻之十二「諸社年譜並境内堂社部」、『新撰北海道史』第五巻所収)によれば、安永九年(一七八〇)の時点で、江差村には、「神体円空作」とされる観音堂が二社あり、一社の観音堂の次に、於輪堂と姥神社が並んで記されている。この二社はともに「造立年号不相知」と書かれるのみで、『福山秘府』からは、その由緒を知ることができない。
『江差町史』第六巻によると、姥神大神宮は、祭神を「天照皇大神、春日大明神、住吉大明神」の三神とし、「社地往古より津花町浜手(現折居井戸の聖地)に鎮座していたが、正保元年(一六四四)岩崎の麓に遷座、それによって姥神町と名付けられた」とあり、「折居井戸の聖地」こそが古社地であったようだ。この折居神は「井戸」を神体とするも、明治八年の「神社明細書」では、「往古鯡漁業ヲ教候老婆ノ神霊(を)折居ト称来り候」と書かれている。
『北海道神社庁誌』は、姥神大神宮の祭神は「天照大御神、天児屋根命、住吉三柱大神」と表示し、同社由緒を次のように記している。

   創立年代不詳、建保四年(一二一六)創立とも伝えられる。社伝によると、江差の津花に天変地異を予知し住民に知らせ、神のように敬われていた折居様という老婆が草庵を結び住んでおり、ある日鴎島の巌上に現れた翁から小瓶を授かり、その中の水を海に注ぐと鰊が群来するとの啓示を受け、水を海に注いだところ鰊が群来した。その後老婆は忽然と姿を消し、草庵に残されていた老婆の祀る五体の御神像を人々が小祠を建立し姥神としてお祀りし、後に老婆も祀ったとある。当初は津花町浜手に鎮座していたが、正保元年に現在地に遷座、安永三年老婆は折居社として現在地に遷座された。〔後略〕

 この由緒伝承によると、「天変地異を予知し住民に知らせ、神のように敬われていた折居様という老婆」は、まるで「人」のように記されている。この老婆は、小瓶の水を海に注いで鰊の群来をもたらすと、「忽然と姿を消し」たという。そして、老婆のいた草庵には、彼女がまつっていた「五体の御神像」があり、これらを「人々」は「姥神」としてまつり、「後に」老婆もあわせてまつったと書かれる。
 この創作伝承で興味深いことがもしあるとするなら、それは、小瓶の「水」を海に注いで鰊の群来をもたらしたと描写されるように、また、古社地が「折居井戸の聖地」とされていたこととも関わるが、「水」の伝承を色濃く伝えていることだろう。「水」の入った小瓶を手にもつ老婆の姿が浮かんでくるが、これはどこかでみたイメージで、それはおそらく、水神の化身でもある、左手に水瓶をもつ観音、つまり、十一面観音を彷彿とさせる。
「老婆ノ神霊」=姥神=折居神にもし「本地」の仏があったとすれば、それは十一面観音または地蔵尊であったろうとわたしはおもうが、今は残念ながらたどることができない。ただし、神道と仏教の混淆世界には、「姥神」とみなされた神がたしかにいるのである。以下は、大祓祝詞(中臣祓=大祓詞)がつくられた佐久奈度神社の由緒書の一文である。

『大祓詞』の最古の注釈書といわれる『中臣祓注抄』では、「速川の瀬」を「三途の川なり」と説明しており、『神宮方書』においては「瀬織津姫は三途川のうばなり」と書かれております。人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きの神であるともいえます。                           (佐久奈度神社由緒書)

 中臣氏の祭祀思想には、瀬織津姫を「大祓神」ばかりでなく、この神が核としている水神・川神の性格を仏教の地獄思想とリンクさせ、「三途川のうば(姥)」ともみなす解釈があった。瀬織津姫は、祓神から拡大解釈されて、三途川の脱衣婆=姥神ともみなされていたのである。
 姥神大神宮において、では、この「祓」の思想はどう具現化されているのかといえば、それは、三月中旬におこなわれる「鰊神楽修業」といわれる神事に読み取ることができる。

  三月中旬・鰊神楽修業・(浜清女[め]神楽)
   鰊漁期が近づくと姥神大神宮で豊漁祈願の、鰊神楽とか浜清女[め]神楽と称される神事が年中行事として施行された。湯立神事(神前で湯を沸かし、その熱湯に笹の葉を浸して参詣人にふりかける一種のミソギで、湯の音で豊漁を占うものとされた。)が中心で、終って折居霊神の御神体を御座船に遷して前浜を清め廻るのである。 (『江差町史』第六巻)

 湯立神事において、「笹の葉を浸して参詣人にふりかける」というのは、奥三河の花祭などにもみられる、病魔退散の祓いの神事だが、姥神大神宮においては、これに豊漁占いが加えられている。また、この神事のあと、「折居霊神の御神体を御座船に遷して前浜を清め廻る」という清め祓いの神事がつづくという。折居霊神には、禊祓いの神徳があるとみなされている。
 姥神社分社(上磯町富川)では、ここの姥神は川濯神という禊祓いの神とみなされていたわけだが、その本社の姥神=折居霊神にも、この禊祓いの神徳だけは伝えられているようだ。
 なお、「折居霊神の御神体」については、「姥神三社縁起」(『江差町史』第六巻所収)に、次のように記されている。

有時漁夫の網をすなつにふしぎや石のかかりたるを見れば、於隣女という銘あり。按[あんずる]に、これは先に行衛しれさる老女の御名ならん哉と、津花の浜に一宇の小社を営、其石を神体と崇め折居の宮と祭りける。             (適宜句読点を補足した)

「折居霊神の御神体」は、漁師の網にかかった「石」で、そこには「於隣女」と刻まれていたという。海から寄り来る異形の「石」を神体として海神をまつったというのは、各地沿岸部にみられる創祀伝承であるが、福島大神宮境内社の川濯神もまた、その神像とは別に、漁の網にかかった「女石神[めいしがみ]」と呼ばれる「石」を神体としていた。月崎神社(旧月ノ崎観音堂)の境内案内には、「月崎神社と川濯神社」と題して、「川濯神社は、明応元年(一四九二)月ノ崎観音堂再建の際、摂社として建立され、同年五月十六日女石神海中より上がり、これを御神体として建立したといわれる。古くは十羅女[とらめ]堂ともいわれ……」とあり、「女石神」を神体として祭祀がはじまったことが書かれている。「十羅女」は鬼子母神の娘の名だが、これは、鎌倉時代に蝦夷地渡りをしていた日持[にちじ] (日蓮の高弟)の布教と関係があるのかもしれない。「十羅女」と「於隣女」──名こそちがうものの、「於隣女」と刻まれた石もまた「女石神」であろう。「おりめ」という音は、瀬織津姫の字音にも重なってくる。
 姥神大神宮神官・藤枝家に伝わる「正保年中諸社棟札控」(『江差町史』第三巻所収)に、「享保十一丙午年白鳥左門上京之時 神明・春日・住吉・三社奉リ勧請姥神と唱へ来ル由・吉田御本所へ達ス」という記載がある。「神明・春日・住吉」の三社は神職によって「勧請」されたもので、これは、謎の「老婆」がいなくなったあと、彼女が草庵にまつっていた神々を「人々」が「姥神」としてまつったなどという伝説的由緒とはそぐわない記述である。
 白鳥左門は姥神大神宮の神職史のなかで「中古の祖」といわれる人物で、正徳年中(一七一一〜一七一六)に福山八幡社から当社に赴任した。白鳥は「国中社家注連頭之役」、つまり、松前藩の各社神職の支配的頂点に立つもので、幕府と朝廷から全国の神社支配を委任されていた京都・吉田家との松前側のパイプ役を務めていた。「藤枝文書」によると、白鳥左門の「先祖」は藤原永武とされる。姥神大神宮社家の「先祖」が藤原氏であること──、このことが、勧請神のなかに「春日」を入れている理由だろう。
「当社職歴代之事」には、「草創折居霊神 次神主藤原永武霊神 此両祖は国開闢鰊漁を得而初て業をあけし 霊神索利年暦不詳」とあり、折居霊神の「次」に藤原永武霊神をつづけ、姥神大神宮神職の「両祖」と仰いでいる。同社の神職の「祖」に藤原氏がいることは、やはり大きな意味をもっている。姥神大神宮神職・藤原氏のさらなる「祖」として折居霊神=姥神があることをみると、藤原氏の氏神をまつる春日大社の祭祀が姥神大神宮のそれと二重化されてくる。なぜなら、春日神四神の一神「比売[ひめ]神」とされる名無しの神に秘められた神こそが「姥神」ともみなされた神だからである。
 藤原氏=中臣氏がまつる神宮や春日大社の例に準じたというべきか、姥神大神宮においても、瀬織津姫祭祀がその名のまま残ることはなかった。なかったが、この神に付与された禊祓いの神という性格だけは伝わっていることは前述した。
 姥神大神宮の社伝は、「一説」としてではあるが、社の創立を建保四年(一二一六)としている。当初の祭祀から「姥神」と呼ばれていたかどうかはわからないが、社伝を信じれば、この神の蝦夷地への渡来は、鎌倉時代初期にまで遡る。これはありうることとわたしはおもう。『福山秘府』の堂社調べの巻は、松前の馬形野の観音堂は「渡リ党」がまつったもので、「渡党ハ開国已然ノ時代也」と注している。松前藩成立をもって「開国」とみなすということなのだろうが、それ以前に蝦夷地へ渡ってきた人々はまとめて「渡党」と呼ばれる。「姥神三社縁起」においても、「姥神・弁天・折居の三社は当国の旧社也。〔中略〕上古の人 乱世の頃敗軍の輩此島に航して住居す……」とある。鎌倉時代初期の「敗軍の輩」とは、源頼朝によって滅んだ奥州藤原氏の関係者を指す。蝦夷地各地にみられる濃密な義経伝説の分布の背後には、この「渡党」の存在がある。
 姥神ゆかりの鴎島にも義経伝説があるが、この島にあるのが、「姥神三社」の一社「弁天」である。同社は明治以後「厳島神社」とされ、祭神を市杵島姫[いちきしまひめ]命、多岐津姫[たぎつひめ]命、田心姫[たごりひめ]命(いわゆる宗像三女神)としている。「姥神三社縁起」は、「当島弁財天の鎮座は姥神に同じにせん哉」などと他人事のような一行を記しているが、図らずもというべきか、瀬織津姫の異称神「多岐津姫命」の名がここにみえる。むろん、このことと「姥神」・「折居」二社の、いわゆる姥神本社祭祀の不自然さが帳消しになるものではない。上磯町の姥神分神は、その名を川濯神とされるも、円空の観音像とともに、今、何をおもっているのだろう。

三 内浦駒ヶ岳の神と円空

 松浦武四郎の蝦夷地探訪記『蝦夷日誌』(嘉永三年=一八五〇年、『函館市史』史料編第一巻所収)に、「内浦駒ヶ岳之図」が収められていて、そこには内浦岳と駒ヶ岳の二つの峰が描かれている。現在の地図上では、内浦岳を砂原岳(一一一三b)、駒ヶ岳を剣ヶ峰(一一三一b)と表記し、両峰を総称して駒ヶ岳と表示している。駒ヶ岳は渡島[おしま]富士とも呼ばれている。
 好天の日には、内浦湾(噴火湾)対岸の有珠山・善光寺や礼文華の小幌洞窟から、「内浦駒ヶ岳」は南方に聳えてみえる目立つ山である。円空は有珠善光寺で、この山の神への奉納の気持ちで、「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」の像を彫り、また内浦岳において「うちうら百年本地」、「内浦嶽観音」の二体、あわせて三体の像を彫っていた。一つの山神に向けて三体の像を彫るという、円空のこの異例の彫像行為には、同山岳の神への円空の特別のおもいがあったとみるしかない。
 内浦駒ヶ岳は有珠山や樽前山と同じく活火山で、この山の噴火による被害は凄絶をきわめるものがあった。円空が蝦夷地へ渡ってきた寛文六年(一六六六)の二十六年前にも、駒ヶ岳の大噴火があり、同山の噴火史において、これは最大級の噴火被害をもたらしたものだった。

寛永十七年(一六四〇)六月十三日午刻、東部駒岳〔又内浦岳・茅部岳・砂原岳等の称あり〕が噴火し、海水動揺して海嘯を生じ、西は亀田村から東は十勝に及んだ。就中内浦湾〔今噴火湾とも云ふ〕では海水が有珠善光寺如来堂の後方にある丘陵に上つたが、堂に損害がなかつたと言ふ。是時人家・船舶の流失したものが少くなく、和人・蝦夷人の溺死者七百余人に上つた。但し新羅之記録には百余艘の昆布取船の人、残り少なく溺死すと記し、松前年代記には、商船の者並に蝦夷共に七百余人溺死すと記してある。焼灰は空に満ち、十四日巳刻〔今の午前十一時〕より十五日午刻に至る迄闇夜の如く、振動間断なく、砂金採取人等は惶て惑ひ、群を成して亀田から津軽に逃れ渡つた。降灰は津軽より越後に及び、青森ではそれが三寸も積り、中に長さ六七寸の毛の様なものが混つて居たと言ふ。
(『新撰北海道史』第二巻、昭和十二年)

 噴火被害の甚大さがよく伝わってくる記述である。ただ、この記述の最後は、青森の降灰のなかに「長さ六七寸の毛の様なものが混つて居たと言ふ」と書かれていて、少し不思議な終わり方といえばいえる。駒ヶ岳には「神馬」が住むという伝説があり、「長さ六七寸の毛の様なもの」とは馬のタテガミかとも受け取れて、伝説が伝説を超えてリアルに感じられてもくるのである。松浦武四郎は『蝦夷日誌』で、「此山には相原周防守の乗りし馬今に住て、其形を見る時は甚忌嫌ふ事なり」と、里人の禁忌の言い伝えを拾っている。相原周防守というのは、大館(松前)の館主で、海神の怒りを鎮めるためにアイヌの娘を人身御供としたためアイヌの怒りを買い攻撃を受け、大沼まで敗走して湖畔で自害して果てたという。これは永正十年(一五一三)のことで、相原の愛馬は大沼の湖水を渡り、駒ヶ岳頂上に駆け上がって消え、この馬は、駒ヶ岳にその後も住みつづけているというのが伝説のあらましである。
 この伝説が何を語るものかは、読む人それぞれの解釈があろうが、円空の彫像やその志向と重なる方向でいうなら、駒ヶ岳には「馬」を引き寄せる「神」がいるという解釈もありえよう。
 駒ヶ岳の北山麓に鎮座するのが内浦神社である(砂原町)。『砂原町史』第一巻が記す内浦神社の沿革をまずは読んでみる。

   昔から内浦三所大権現は小安村から野田追川までの六箇場所を鎮護する主神で、村々の祈願所として信仰されてきた由緒ある神社である。
   柏の紋章が示すように境内は柏の大樹の森である。
   起源は永禄年間(一五五八〜)といわれ、古くは駒ヶ岳の山麓に建立されていて後年(寛政末頃)現在地に遷されたと伝えられている。
   貴重な文化財である円空仏がご神体として祠[ママ]られている。

「内浦三所大権現」は「小安村から野田追川までの六箇場所を鎮護する主神」とのことで、この地方の産土神とみられているようだ。江戸期まで、駒ヶ岳の神は「内浦三所権現」と呼ばれていたことから、菊池重賢は明治五年、内浦神社の祭神を「素戔嗚命、稲田姫神、事代主神」の三神と定めた。この祭神表示は現在も踏襲されているが、「三所権現」の呼称のルーツをいえば、「熊野三所権現」として知られる紀州の熊野にゆきつく。内浦神社神官奉納の棟札にも「熊野路の音無川に水増して悪魔を流しくにを守らん」の一首が記されていて(『砂原町史』第二巻)、駒ヶ岳の神は、その神の原郷を熊野にみてよいのかもしれない。
 駒ヶ岳という山岳呼称は全国に広く分布しているが、この山の神をまつる社は、一般に駒形神社と呼ばれる。数ある駒形神社だが、『延喜式』(九二七年)巻八の「神名帳」にも記載され、戦前までは「国幣小社」という社格で遇されていたのが、岩手県水沢市(現奥州市水沢区)の駒形神社である。同社は岩手県内最高位の社格「国幣小社」と称されるも、戦前まで「祭神不詳」とされた不可思議な事実を抱えていた(岩手県神職会『岩手県神社事務提要』昭和十四年)。
 駒形神、つまり駒ヶ岳の神は、「祭神不詳」にもかかわらず、国からは破格の祭祀対象とみなされるという異例の神であった。しかし、柳田國男『遠野物語』で知られる遠野市に、この神を考えるとき、大きなヒントを秘めた石碑が一基、道路沿いにぽつんと今でも立っている。
 この石碑には、「早池峯山駒形大神」と刻まれている。早池峰[はやちね]山(一九一七b)は、この地方の霊山で、『遠野物語』にも「遠野三山」の一つとして登場している。
「早池峯山駒形大神」──この石碑の刻銘を裏打ちする話が、早池峰大神をまつる早池峰神社に伝わっている。

 大出の本社早池峰神社の境内にある駒形神社も古い由緒と伝統を持つている。
「早池峰山縁起」によれば、この神社の縁起は、無尽和尚が早池峰山に登つた時、早池峰権現が白馬に姿を変えて龍ヶ馬場に現れたのを写生したのを此処に祀つたのが始まりと伝い、その時、未だ写し終らない中に白馬が駆け去つたので片耳を写し残したとされている。
(佐々木又吉編『定本附馬牛村誌』)

 早池峰権現=早池峰神は、「白馬に姿を変えて龍ヶ馬場に現れた」、それを無尽[むじん]和尚が「写生」してまつったのが駒形神社だという。早池峰神は「白馬」に化身する神で、つまりは早池峰神と駒形神は同神なのである。石碑の「早池峯山駒形大神」という刻銘は、まちがっていないのである。駒形神社は、江戸期までは早池峰山妙泉寺の境内社(付属社)で、駒形神社背後には新山神社があったという(氏子談)。明治期に妙泉寺は廃寺となり、その本堂に新山神社(早池峰神)が遷って、それから早池峰神社を名乗るというのが、早池峰神社成立の経緯である。駒形神社は、新山神社の拝殿あるいは前立の社であったようで、現在は、『村誌』がいうように、早池峰神社の境内社としてある。もっとも、新山神社の拝殿あるいは前立としての役割は半ば終えたものとして、朽ちるにまかせてあるというのが現状ではある。
江戸期まで、早池峰神社という社名はなかったわけだが、「早池峯山駒形大神」の碑銘の伝えていることの重大さにはあらためて驚かされる。早池峰山の神は「駒形大神」でもあった。早池峰神社の祭神は、早池峰大神・瀬織津姫命とされ、現在も変わらずにまつられている。円空が心持ち深くに秘めてきた神の名が、遠野には確実に伝わっているのである。
 円空が、特に思いをもってみていた山が内浦岳=駒ヶ岳である。この山に、遠野郷において駒形大神ともされる瀬織津姫という神の痕跡は、はたしてみられるのだろうか。
内浦神社神官奉納の棟札の歌「熊野路の音無川に水増して悪魔を流しくにを守らん」は昭和五十七年(一九八二)の奉納で、決して古いものではない。しかし、この歌が同社神官によって歌われていることで、神社内に伝わってきた、祭神の神徳を踏まえての歌と読んでよいだろう。この歌は、自社祭神、駒ヶ岳の神が「悪魔を流しくにを守」る神であり、この神への讃辞として詠まれている。
歌にある「音無川」は、熊野詣でにおける、俗界と熊野の霊地の境界の川であり、また禊の川でもあった。「熊野路」を歩いてきた参詣者は、この川で禊ぎをすることで、熊野本宮という絶対霊地に入ることができたのである。この歌には、内浦岳=駒ヶ岳の神が熊野の禊祓いの神であることが的確に詠みこまれている。「高賀山の鬼神」でもふれたが、瀬織津姫は熊野の悪魔祓いの弓矢の神でもあった。
 内浦神社に奉納されている次の歌も、神官奉納の歌と、その内容が重なってくるだろう。

一切衆生之罪仁代天燃登留
煙曽神之姿奈里化里

 歌に付されているふりがなに沿って、これをわかりやすく記せば、次のようになる。

  一切衆生[あをくさ]の罪に代わりて燃え登る
    煙ぞ神の姿なりけり

 駒ヶ岳の立ちのぼる噴煙が「神の姿」だと詠まれている。しかも、この神は、「一切衆生の罪に代わ」ることのできる神なのだという。この歌の作者名は奉納額に記されていないが、宝永元年(一七〇四)に円空のあとを追うようにして蝦夷地を巡錫して歩いていた空念の『納経記』に、この歌が「内浦嶽大権現御詠歌曰」として記されている。一切の罪穢れを川に流す、あるいは、一身に引き受けて川を流れゆく神とみられていたのは大祓神、つまり瀬織津姫という神である。御詠歌の謎の作者は、一切衆生の「罪」を負う神の姿を、流れゆく「川」ではなく、駒ヶ岳から立ちのぼる「煙」に置き換えて歌ったとみられる。
 松浦武四郎は、『蝦夷日誌』の「駒ヶ嶽」の項で、同山の「大権現の石祠に奉幣して下りける」と記していて、駒ヶ岳の山頂には「大権現の石祠」があったことを記録している。その登攀のあと、里人から「四方山の物語」を聞いたとして、次のような話を載せている。

此山は甚の霊山にして、里人は六月晦日に上るより外上る事を禁ずるよし。只世間より如此御参詣も有ば、案内を致して行時には無事に帰れども、里人壱人にて上る時は決て帰る事なしと。

 この「四方山の物語」のあとに、先の神馬の禁忌伝承がつづく。しかし、引用の「物語」で特に重要とおもえるのは、駒ヶ岳は尋常ならざる霊山(「甚の霊山」)であり、「里人は六月晦日に上るより外上る事を禁ずるよし」と書かれていることだろう。「六月晦日」とは、いうまでもなく大祓の日である。里人の禁忌を解釈すれば、この「六月晦日」だけは、駒ヶ岳の神は忙しくて、いいかえれば、朝廷の大祓の行事に出向いていて不在で、この日ばかりは山に登っても安全だということになろうか。駒ヶ岳の神は畏怖にも近い畏敬の念でみられていたらしいが、ここで、「六月晦日」という大祓の日に限定されていること、また、先の神官の歌と御詠歌とをあわせて考慮すれば、駒ヶ岳に、どのような神が鎮座していたかは明らかかとおもう。
 砂原町教育委員会『郷土史探訪U』には、内浦神社は「永禄年間(一五六〇頃)に内浦三所大権現として祀られていたのであるが、それ以前は浪切不動といわれていた説がある」と書かれている。駒ヶ岳の神が「浪切不動」と習合する神だというのが、駒ヶ岳の最古の祭神伝承とすれば、これは、たしかにありうる「説」だとおもう。
「浪切」と同義であろう「浪折」を社名にもつ浪折神社が福岡県宗像郡の津屋崎にある。この浪折神は宗像大社の地主神ともされているが、浪折神社の祭神主神に、瀬織津姫の名がある。浪切不動は空海が唐からの帰りの航海で、荒波の危機の最中に出現したという伝承をもつが、不動尊と習合する神を、海神、航海の守護神として特化したとき、不動尊の変化[へんげ]尊として「浪切不動」は創造されたのだろう。これは、三十三の姿に変身する観音も、その基本像は聖観音であることと同じ発想による。浪切不動の原型像である不動尊については、遠野郷や円空ゆかりの高賀山において、不動尊と習合していた神は、これも瀬織津姫であった。
 円空は有珠善光寺における彫像で、その背銘に「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」と記していた。円空は、このときは、内浦岳=駒ヶ岳に登攀するつもりはなく、ただ祈念の気持ちのみで彫像していたのかもしれない。しかし、彼は気が変わった。それは、この山が「甚の霊山」であることに気づいたからか、礼文華から、この山へまっすぐ向かっている。
 あるいは、有珠善光寺の「奥の院」を創祀したこととも関係していたかもしれない。円空は、信州の戸隠においても修験の行を積んでいた。とすれば、信濃の善光寺の「奥の院」の神が、これも駒形神であることをすでに知っていたことが考えられる。円空が有珠善光寺の奥の院を創祀し、そこに白衣観音という特異な観音(衆生済度の務めから解放されたかのように、山中の渓流の岩上で一人、自身の心と向き合うように沈思瞑想する観音)を彫像、奉納せんとしたことを考えると、駒形神に秘められた神への円空の真摯な思いが、この観音像には込められていたともおもえてくる。
 円空は、神と対話するように彫像をしている。そういえば、円空は、この白衣観音の背に「江州伊吹山平等岩之僧円空」と、自身の修験者としての出自を、蝦夷地で初めて明かしていた。これは、白衣観音に自ら込めた神への、小さな存在証明のような挨拶だったのかもしれない。
 寛文三年(一六六三)七月には有珠山の大噴火があった。この噴火のすさまじさを、アイヌは「神々が戦争をしている」と恐れおののいたという(小井田武編『北海道駒ヶ岳噴火史』森町)。ちょうど三年後に円空は有珠山へ登攀しているわけだが、この神々の「戦争」を、円空は有珠山登攀時に耳にしたことも考えられる。対岸の内浦岳にも噴煙は立っている。そこには、駒形神という神、つまり、有珠善光寺奥の院の白衣観音に自ら込めた神が、人々に強い恐怖の念でおもわれていることを知れば、円空は自らの足を止めることはできなかっただろう。
 内浦神社での「うちうら百年本地」、「内浦嶽観音」という二体の追加彫像──。善光寺での「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給ふ」の像と、これら二体の像との間には、円空の心奥のドラマ、駒形神への深い共感と鎮魂のおもいが秘められていたにちがいない。
(次回は「霊場・太田山の秘神──円空彫像の行方」の予定)

520・521 霊場・太田山の秘神──円空彫像の行方 風琳堂主人 2006/12/07 (木) [54000]

はじめに

 円空の蝦夷地行の最終目的地は、霊場・太田山ではなかったかというのがわたしの仮説です。ここは難所中の難所で、たとえば梅原氏によって、「もし太田権現へ行っていたら、私が断崖から転落して死んだという新聞記事が出たかもしれない」と書かれるようなところです(『歓喜する円空』)。
 円空が太田山にこもって多くの仏を彫っていたことは菅江真澄が記録しており、ここはどうしても登攀し、円空の心持ちを体感したいとおもっていたところです。かつて、一度挫折したことがありましたが、今回はちがいます。ここへ登らなければ円空論を書く意味がないだろうと腹をくくって岩肌に手をかけながら、張られたロープにしがみつきながら登りました。断崖の岩窟からは正面に奥尻島がみえ、眼下の海岸部には太田山遙拝の社殿が小さくみえます。ぜひここからの写真を撮りたいとおもい、晴れるまで四日ほど待ちました。午前中は雨曇りでしたが、今日は晴れることはニュースで確認していましたので、太田の町で山登り用の靴を仕入れて決行となりました。
 霧の太田山を登り、円空がこもった岩窟でしばらく円空の思いを考えていましたが、断崖を鎖にしがみつきながら降りてふと空を見上げると、そこには日輪がおおっていて、これはなにかいいことでもあるかなとおもったことを思い出します。これは、本文ではふれなかったエピソードです。

一 熊石から太田山へ

 円空は、松前藩内の観音堂に、自ら彫り上げた観音像を実に多く奉納して歩いていた。その数、『福山秘府』の堂社調べの記録だけでも十九あり(権現社・神社の神体を含めれば二十五堂社)、実際はもっと多かったことも考えられる。円空の彫像は、たんに本尊=仏像という形式で奉納されたのではなく、それは、観音堂の「ご神体」として奉納されたものだった。観音堂は、円空の彫像=神体を受け容れるに最適な「神仏混淆」の空間だった。
 たとえば、礼文華小幌洞窟の岩屋観音の前に一基の「鳥居」が立っていることに端的にみられるように、人々は、観音堂や不動堂などは神社と等しい「神の住まい」として受けとっていた。それまでの仏教が唱えてきた本地垂迹[すいじゃく]の思想、つまり、「本地」は仏であり、その本地の仏が仮(権[かり])に神の姿となってこの世に現れる・垂迹する(→権現)といった、あくまで仏(教)を優位とみなす発想と、円空の彫像・奉納という行為は、似て非なるものだった。神仏混淆といえばその通りなのだが、厳密にいえば、円空の彫像は、神でもあり仏でもあるという両義性をもったものとして、自らおもうところの「神」と対話するようにして彫られ、各地の堂社に奉納されたのである。
 円空は、少なくとも十万の彫像を果たしたことを飛騨の山中の彫像(桂峯寺所蔵今上皇帝像)の背中に記していて、この「数」をそのまま受け取れば、現存する円空の彫像は五千体強であり、それだけでもたいへんな彫像数ではあるが、しかし、九万数千体の彫像は消えている可能性があるのである。円空の、神でもあり仏でもあるという両義性をもった彫像=神体が、明治期の神仏判然・神仏分離という国家的な祭祀方針と真っ向から抵触するものであったことはいうまでもない。円空彫像の九割がたとえ廃仏・焼仏の対象となったとしても、一割近い円空の彫像が現代に生命を伝えつづけている。
 円空が奉納した観音堂で、函館市古川の川濯神社などのように、のちに「神社」となったものもいくつかある。しかも、円空の彫像が、ある神の「神体」というのではなく、まさに「神そのもの」とみられているところがある。
 たとえば、檜山郡熊石町(現八雲町熊石)の根崎神社や、明治期に相沼八幡神社に合祀された磯崎神社などである。
『熊石町史』は、根崎神社の由緒説明を、次のように書いている。

根崎神社 熊石町字根崎
祭神 天照皇太神
創立 慶長十一年(一六〇六)
 熊石町役場所蔵の社寺明細帳(明治四十四年改訂のもの)によれば、熊石村鎮守神として慶長十一年創立したと記録されている。祭神御霊代なく、円空作の聖観音立像が御神像として奉斎されている。

 根崎神社は、明治期に祭神を「天照皇太神」とされる。『福山秘府』には、熊石村には「寛文五年造立 神体円空作」とされる観音堂が一社あったと記録されている。根崎神社の前身あるいは基体社は、この観音堂であったということなのだろう。このことは、「祭神御霊代なく、円空作の聖観音立像が御神像」と書かれていることから想像できる。明治四十四年の時期に「祭神御霊代なく」とはよく書けたもので、これは、「天照皇太神」という祭神表示は仮のものだといっていることと同じである。函館市根崎の川濯神社は根崎神社ともいわれるが、同社の前名は大日?貴[おおひるめむち]尊社であった。大日?貴尊というのは、天照大神の異称というのが一般的な理解であるが、熊石の根崎神社にも同じ匂いがする。しかし、根崎神社の氏子衆にとっては、自分たちがまつる「神」はあくまで「円空作の聖観音立像」なのだろう。
 熊石町字相沼の相沼八幡神社に現存する円空の座像観音は、もとは磯崎神社の「ご神体」としてあったものだが、磯崎神社の記述は、根崎神社に劣らず驚かされる。

磯崎神社 熊石町字相沼
祭神 円空作 来迎観世音菩薩像
 旧観音堂と称せられ、神仏混合の堂社であり、その後、磯崎神社と改称した。明治四年神仏混合廃止布告後八幡社に統合、その跡は旧垣田正男氏宅付近に当る。

 磯崎神社は、「旧観音堂」であった。磯崎神社と改称したあと、それにしても、他社のように記紀に準じた祭神名を表示することもせず、「祭神」は、「円空作 来迎観世音菩薩像」だとある。円空の観音像は、ここでは、まさに「神」そのものになっている。
 熊石にはもう一社、円空の座像観音を神体とする北山神社がある(熊石町字泊川)。同社の祭神は根崎神社と同じく「天照皇太神」と表示されているが、『福山秘府』の相野間内村(相沼)の観音堂二社の一社が、その前身だろう(一社は、磯崎神社に改称)。
 熊石の黒岩地区には、その地名由来に関わる、黒色の奇岩の小山があり、その中腹に「円空滞洞跡」とされる洞がある(この奇岩は崩壊がつづいている)。円空は、この「黒岩」に籠って熊石の諸像を彫ったらしい。黒岩については、菅江真澄『えみしのさへき』に、次のように書かれていた(『熊石町史』)。

黒岩という窟があって、円空法師の作った地蔵大師をまつっている。目を病む人は、米を持ってここに詣でると、ご利益があるという。

 菅江が確認していた円空の「地蔵大師」は現存しないらしいが、これは蝦夷地で彫られた唯一初めての地蔵尊であった可能性がある。明治期に、これも相沼八幡神社に合祀されてしまったが、この近くにあった「権現社」、別名「境の権現様」と呼ばれた神をおもって彫像したものかもしれない。地蔵尊は、この世とあの世の「境」の三途の川のほとりで、不安に迷う子どもの霊を救うとされる地獄の救済菩薩である。町史は、「境の権現様」については「祭神、創立共に不明」としているものの、円空には、「境界」に立つ本来の神の姿がみえていたのではなかろうか。
 江差から北におよそ三十キロきたところが熊石である。円空が松前藩内を歩いていた寛文六・七年のころは、熊石は、蝦夷地と和人地のまさに「境界」の村であった。安政元年(一八五四)と時代は下るが、島田熊次郎は『天辺飛鴻』なる書で、熊石について、次のように描写している(『熊石町史』)。

当所(熊石)までは村つづきにて、是より蝦夷地と称す。舟ならでは往復なし。他国の旅人は松前にて国禁と唱えて固く制するなり。且又稼として蝦夷地に入るもの官署の印なくしては、ここより北行すことなしという。当地まで男女の風俗も差して替ることなし。

 松浦武四郎は『西蝦夷日誌・初編』(安政四年=一八五七年)で、「爰(熊石)を以て寛政度迄境とす」と書いていたが、「他国の旅人」である円空がさらに北(太田山)へ行こうとするなら、松前で、それなりの通行許可を得る必要があったはずで、これは、やはり家老・蛎崎蔵人との関係があってこそ可能だっただろう。
 蝦夷地との境界村としての熊石に、円空は「滞洞」して、少なくとも四体の彫像をしていた。彼は、よほど熊石という地におもうところがあったのだろう。地蔵尊という初の彫像に加え、聖観音立像という、これも初の彫像をなしていた。それまで聖観音の変化[へんげ]観音として彫られてきた「来迎観世音菩薩」の座像が、熊石において、自身の原点に帰ったかのごとく、初めて自らの足で「立った」のである。
 越後長岡藩家臣の手になる『罕有[かんゆう]日記』(安政四年=一八五七年)に、熊石の独特の海岸風景が書かれている。

海面岩石多く夏雲の片時奇峰を作るが如し。よつて雲石村と名付るなりと。今は転して熊石といふ。此宿蝦夷地の堺にして箱館より吏人出張なり。〔中略〕此地よりクトウ宿まで従来山路嶮悪にて総て掻送り船にて往来也。

 熊石の地名由来は「雲石」からというより、クマウシ(熊の多いところ)というアイヌ語によるものではないかとおもわれるが、それはともかく、熊石は、これより北(クトウ宿=久遠宿あるいは太田山)へとつづく奇勝の海岸風景の始まりの地でもあった。松浦武四郎は、次の一首を残していた。

ふみわくる岩根そばたちけだものゝ
住かもしるき熊石の里

 岩根があちこちに突き立っている海辺の光景は今も変わらない。熊(「けだもの」)の住みかである熊石の北には、さらなる熊=神の住みかがある。それが、「蝦夷地最古の霊場」といわれる太田山である。

二 蝦夷地の守護神

 太田山が「霊場」と認められているのは、そこに霊場を名乗るにふさわしい「神」がいると信じられていることが第一の理由だが、その神の住まいとみなされている頂上付近の断崖の岩窟への登攀があまりに急峻であることを第二の理由としている。
 天明四年(一七八四)、水戸藩士・池量平は『北藩風土記』に、太田山の登攀の困難と魅力を、次のように記していた(『桜鳥─厚沢部町の歩み』所収)。

  太田山迚[とて]高山在。登臨、最嵯峨[さが]タリ。岩澗之際ニ岩洞在。諸仏ノ像安置ス。頂上ヨリ銕鎖[てつさ]ヲヲロシテ人ヲ下ルニ目ミルコト不能[あたわざる]ガゴトシ。
  諸邦抖藪[とうそう]浮暑〔屠〕[ふと]蝦夷ニ来テコノ山ヲ不見[みざる]トキハ殆ンド其甲斐ナキニニタリ。

 池量平から遅れること五年、寛政元年(一七八九)、菅江真澄も太田山に参詣している。

 太田山のいわくらもやや近くなったのであろう、高くそびえたって、とてものぼることもできないような岩の面に、二尋あまりの鉄の鎖をかけてあり、これらをちからにたぐりのぼると、窟の空洞にお堂がつくられてあった。ここに太田権現が鎮座しておられた。太田ノ命をあがめまつるのであろうかと思ったら、ここは於多という浦の名であるが、なまって太田というのであった。ヲタは砂というアヰノことばで、砂崎があったのだろうか。奥蝦夷の国には砂崎沢[ヲタルナイ]というコタンもあると、人が言っていた。斧で刻んだ仏像が、このお堂内にはたいそう多く立っておられるのは、近江の国の円空という法師がこもって、修行のあいまに、いろいろな仏像を造っておさめたからである。
                      (『えみしのさへき』、『熊石町史』所収)

 池量平が「岩澗之際ニ岩洞在。諸仏ノ像安置ス」と記していたところを、菅江は、この「諸仏ノ像」は「斧で刻んだ仏像」で、これらは「近江の国の円空という法師」が「修行」(原文は「おこなひ」)の合間に「造っておさめた」ものだと、より具体的に書いている。菅江は、この窟のやや上にも「岩の空洞」があり、そこにも円空が刻んだ仏像があったとも書いている。円空が太田山において「たいそう多く」、また、その像種は不明であるものの「いろいろな仏像」を彫っていたことがわかる。それまでの座像観音を主としてきた円空の彫像が、単一的な志向から自由になろうとしていることがうかがえる。
 円空は、太田山の神と対話するようにして、あるいは、太田山の神の懐に抱かれるようにして、ここで「諸仏」を彫っていた。円空のそれまでの観音堂への奉納像は、松前藩家老・蛎崎との当初の内約を果たすものとしてあったが、ここ太田山の参籠において、円空は、太田山の神との対話を存分にしながら、これらを彫ったのだろう。
 では、円空が対話していた太田山の神とはどんな神なのか。まずは、太田神社境内に掲げられている由緒案内を読んでみる。

   太田山権現は、北海道西海岸随一の霊場にて、有珠の善光寺と並び称さる。往事[ママ]より参詣者絶ゆることなし、太田山(四八五米)は、一名帆越岬と称し、沖合通過の船は必ず下帆の礼を為し、然らざれば航路難渋すと伝へらる。
   その由来は、遠く享徳三年(一四五四年)武田信広(松前藩祖)一族七十余名を卒へ蝦夷島に向い奥尻島へ停船して対岸を探らんと上陸するにアイヌこの山嶺を仰ぎ跪座して礼拝し居るを見、その理由を問うにアイヌ答へて曰く「この山頂に霊神あり、オホタカモイと称し航海を護り病災を救う霊験顕著にして、蝦夷地の守護神なり」と。信広これを聞き則ち登山し、洞窟を本殿として太田山大権現の尊号を奉り、武運長久、天下泰平、海上安全、諸業円満を祈願せりと伝う。
 その洞窟鉄鎖三丈(九米)を擧じ登る険崖にあり。寛文六年(一六六六年)僧、円空この地に来り鉈作りの大日如来を奉安せり、安永七年(一七七八年)僧、木喰もこの洞窟にて作仏せり。真言山伏の参篭と全国より崇敬者の参詣絶へず。六月二十八日の例祭頗る殷賑を極む。慶應三年(一八六七年)山麓に拝殿を造営して参詣の便を計りしが明治四年(一八七一年)神仏混淆禁止の布達により、太田山を太田山神社とし、山麓の大日如来を村落に移して大日堂とす。
 大正十一年(一九二二年)六月二十八日参篭者の灯明により発火して洞窟内の総て烏有に帰し、現在は猿田彦大神を祀る。             大成町・大成町観光協会

 太田山権現は「現在は猿田彦大神を祀る」とあるように、この神の祭祀のはじまりはそれほど古いものではない。菊池重賢は明治五年、太田山の神をまつる社を「太田神社」と命名、同社は太田山を「神体」とし、その祭神は「大山祗命」と記していた(『壬申七月巡回御用中日次之記』北海道大学附属図書館北方資料室所蔵)。しかし、明治十二年には、祭神は「猿田彦大神」と変更され、ここから「現在は猿田彦大神を祀る」となるのである。
 神宮(内宮)至近の地に猿田彦神社があり、同社には猿田彦の末裔として「太田命」がまつられているが、太田神=猿田彦(または天鈿女[あめのうずめ])の等式が各地の太田神社に適用されていて、ここ太田山においても、それを踏襲して祭神変更がなされたのだろう。しかし、菅江は、「ここに太田権現が鎮座しておられた。太田ノ命をあがめまつるのであろうかと思ったら、ここは於多という浦の名であるが、なまって太田というのであった」と、「太田権現」の神は「太田ノ命」(猿田彦)ではなかったと証言している。菅江真澄の一文は重要である。
 由緒案内から読めることは、武田信広(松前藩祖)も尊崇した神として「太田山大権現」はあった、しかし、その前には、アイヌが「この山頂に霊神あり、オホタカモイと称し航海を護り病災を救う霊験顕著にして、蝦夷地の守護神なり」として信奉していて、太田山霊神が、松前藩にとっても、アイヌにとっても、双方に重要視されていた神だということであろう。このことは、太田権現の祭礼日(六月二十八日)に、明治時代までのことのようだが、「遠く津軽、松前、石狩、小樽から漁船がやって来、太田の小さな海は船、船、船で一杯にうまった」といわれるように(須藤隆仙・森山俊英『太田権現について』あとがき中の古老談)、津軽および松前以北の西海岸の漁民にきわめて尊崇されつづけてきたことによく表れている。太田山霊神がかつて「蝦夷地の守護神」とみなされていたことは、なかば文字通りに受け取ってよい。
 太田権現に秘められた神を文献的に明記したものはなく、ここからは、円空が太田山にどういう神をみていたかを傍証する話となる。
 円空の諸像は、なかに「大日如来」があったと由緒は記すも、「大正十一年(一九二二年)六月二十八日参篭者の灯明により発火して洞窟内の総て烏有に帰し」てしまった。円空が蝦夷地でもっとも自由に彫像した諸像は、「参篭者の灯明により発火」して全焼してしまったという。しかし、実際に太田山洞窟に登ってみればわかるが、窟内は、滴があまた落ちてきて(この滴は聖水で、万病に効くとされる)、灯明の発火程度で燃えるものではなく、洞窟内の諸仏は、その本殿の祠とともに意図的に火をつけなければ焼けるものとはおもえない。太田山には明治初期から遅れるものの、大正十一年に廃仏の猛威が襲ったとみたほうが無理がない。窟のすぐ下の小さな洞には首のない石仏がみられ、この廃仏の猛威があったことを静かに今でも語りかけている。
 明治五年、菊池は、山麓の拝殿を太田神社として調べたが、この嶮難な山路を登ってまでは「本社」の神社調べをしていなかった。太田山の拝殿としてつくられていた山麓の大日堂の諸仏のみが「神仏分離」の対象とみなされた。これらは太田集落へ移され、そこで大日堂の建て替えとなったのだが(大日堂の仏は潮音寺に現存)、山頂部断崖の岩窟の「本社」の諸仏、つまり円空の諸像は、大正十一年六月二十八日までは、そのままにまつられていたのである。
 円空の太田山参籠時、自らの彫像がこういった消滅の運命を迎えることになるとは、むろん知るはずもなかった。円空の「諸仏」はかくして全焼してしまったが、しかし、円空は太田山に、「歌」を残していた。

  木にだにも御形を移すありがたや
    法の御音は谷のひびきか

 歌にある「御形」は、たとえば、「千和屋振る清く清ハ神なれや御形移せ玉の鏡に」(一宮史談会『定本円空上人歌集』歌番五二二)、「湧き出る泉の釜の煮[ニユル]湯ハあらふる神の御形なりけり」(歌番五四〇)など、円空が自歌でよく使うことばで、おそらくは「みかげ」と訓ませている。太田山の神は「木」にさえも「御形を移す」、これはありがたいことだ、「谷のひびき」は、「法の御音」(妙音)とも聞こえるということなのだろう。
 太田山にひびく谷の音とはなにかといえば、それは水あるいは滝の音であろう。現在は水量少なく、その面影が薄らいでしまったが、太田山への登り口にはたしかに滝跡がみられる。せたな町在住の松林證氏から、地元の古老の談として、次のような貴重なご教示をいただいた。

同人が子供の頃(昭和初期…引用者)、太田神社本殿参道入口鳥居の向って右にある小さな川は滝の様に流れていて、参詣者は海で身体を清めた後、この滝で身体についた海水を流しお参りした。また海に入らずに滝で身体を清めて参詣した人もいた。このため川口を少し掘り石を敷いて人が立って滝に打たれる様にしていた。

 寛文時代、円空は、おそらくは熊石から蝦夷船で海岸沿いに北上し、帆越岬を過ぎた入江の海から太田山の滝口の浜に降り立った。そのときの水量の多寡はわからぬものの、この無名の滝を眼にしたときの円空の心持ちはいかばかりであったろう。円空が蝦夷地において、心中にたえず対話していた神は瀬織津姫という滝神・禊神であった。円空をまるで出迎えるかのように流下する滝水があった。彼は即座に禊ぎをしたにちがいない。
 円空が山籠りしながら彫像するとき、この太田山の滝に打たれるために、おそらく何度も山を下りたことだろう。山頂部断崖の岩窟と麓の滝との往復──、その嶮難な道の往復こそ、「修行(おこなひ)」にふさわしいものだった。岩窟での彫像に打ち込む円空の耳に、この無名の滝の音は、まさに神の声とも「法の御音」とも響きわたっていたこととおもう。
 円空が、「滝」にどういう神をみていたかは、次の歌がよく語るところだろう(歌番六五六)。

  古滝や水白きぬ花と見て
    清祝[(きよめほうり)]の神かとそ思(ふ)

 滝には「清祝の神」(禊ぎの霊神)がいる。この「清祝の神」が体現された滝に打たれることは、その滝神と対話することと等しい。円空は大峰山笙窟[しょうのいわや]への参籠時に、次のような歌も残している(歌番五七二)。

  千和屋振る笙窟にミそきして
    深山[みやま]の神もよろこひにけり

 円空にとって禊ぎ(滝行)とは、その禊ぎを司る神との対話といってよく、その対話の心を知って、滝の水源を司る山神(「深山の神」)も喜んでいると感じられているらしい。大峰山・金峰山の神は熊野川(天の川)の水源の神であり、蔵王権現とも仮称される神だが、太田山においても、その「深山の神」との対話を円空は楽しんでいただろう。太田山の円空の歌は、詠まれるべくして詠まれたものとおもわれる。
 円空の蝦夷地における足跡の全体を正確に再現することはむずかしいが、わたしには、松前藩家老との内約を果たした最後に、この太田山に籠もったような気がする。
 太田山は、円空の時代(あるいは現在も変らず)、最北の霊場であった。この霊場にも、円空が心に秘めた神がいたのではなかろうか。
 地元の内糸清氏は『郷土史─道南五霊場太田祭神』(私家版)において、「祭神太田神社附近の湯花と清水」と題して、次のような興味深い「伝説」を拾っている。

 褐色岩石から流れる湯花を昔からとってきて風呂にいれると難病で悩む、神経痛病、胃腸病によくきくといわれ使用された。
 清水は祭神の中流から流れ、鳥居より部落にむかって三〇〇メートルの所、昔からこの水は清水で味は普通の水とちがって酸味または渋い味がする。この清水で祭神に登るときに必ず身体を清め一口飲んで力づけ急傾斜の崖を登って参拝する。またこの水を船に積んでいると災難にあっても救われるとの伝説がある。
 始めてアイヌ人が太田に定着し、霊神を祭って疫病や災厄が救われるといったのは、この湯花と清水からである。

 太田山の神が、「水」に深く関わる神であることがよく伝わってくる「伝説」である。これはあまり一般に知られていないことだが、頂上部断崖の岩窟本殿の裏には小さな沼があり、この沼の水が岩窟の聖水の「滴」の元である。この沼は、太田山の滝の水源とみられるも、この沼を実見した人は地元でもほんのわずかである。いわば、幻の沼である。この水源沼の「水」が、岩窟の滴─滝水へと、太田山の聖水思想をつくっている。太田山霊神は水霊神であった。この沼は霊場・太田山を文字通り「背後」から支える秘境とみられ、太田山に聖地中の聖地がもしあるとすれば、この沼をいうのだろう。
 太田山の無名の滝は、現在は滝跡をみるのみだが、この「水」を司る神こそが、「山頂に霊神あり、オホタカモイと称し航海を護り病災を救う霊験顕著にして、蝦夷地の守護神なり」と、アイヌから深く尊崇されていた神であった。円空は、太田山「山頂」の「霊神」に、諸像を奉納し、歌を添え、その霊神そのものとして彫られた彫像の背に、あるいは、太田山の霊神の名を初めて明かすように刻んでいたことも考えられる。

三 太田山霊神と習合した仏たち

 太田山祭祀の歴史をたどると、町史や由緒案内など一様に、嘉吉年間(一四四一〜一四四三)に太田神社が創立され、享徳三年(一四五四)に武田信広が太田に上陸して「太田大権現」の尊号をおくったという二つの事項からはじめている。このあと、なぜか、およそ一五〇年の空白期がつづく。
 寛文六年(一六六六)、円空が太田山へやってきて、諸仏を奉納──。円空の出現は、太田山の長い空白期、あるいは闇の時間を切り裂くような登場といってよく、一五〇年前の伝説的な歴史・由緒語りとはちがって、円空によって初めて、太田山は「歴史」の水面に顔を出したことになる。円空が太田山にみた神については、仮説を述べる以上のことはできないが、もう少しつづけてみる。
 円空の次に、太田山祭祀に関連して登場するのが、越前の廻国僧・正光空念である。これは、宝永元年(一七〇四)のことで、円空のあと三八年後となる。
 空念は、蝦夷地・松前にやってくるまでに、全国の「山々嶽々潟々神社仏閣」に「普門品四万巻余」を十五年にわたって奉納して歩いてきたと、自著『正光空念納経記』(写本、函館市立図書館所蔵)に書いている。この『納経記』は、空念の蝦夷地の「山々嶽々潟々神社仏閣」への納経の記録であるが、同書を読むかぎり、彼はたんに「納経」して蝦夷地を歩いただけではなかった。空念は、「天下泰平国土安穏国主御武運長久万民豊楽五穀成就」を願って、蝦夷地の「山々嶽々」に「仏神」を「勧請」し、またその「神号」や「縁日並祭礼日」を定めたようなのだ。もっとも、空念の一存で「勧請」された「仏神」が、人々にそのまま受け容れられたかどうかは別のことである。
 空念の神仏勧請の仕方は、たとえば、駒ヶ岳=内浦岳については、「内浦嶽四社大権現 本地薬師如来 奉勧請伊弉册尊 西嶽 天忍穂耳尊 本地 正観音 東嶽 彦火々出見尊 本地 馬頭観音」と書かれていて、これは、一言でいえば、平安期の古い神仏習合思想を踏襲しての安直な「勧請」の印象を受ける。また、それまでの「内浦三所権現」という祭祀の改竄ともみられかねまい。内浦嶽の霊神をただ「権現さん」と呼び、自分たちの産土神として信奉してきた人々には、空念が一方的に「勧請」したこれらのややこしい神々の名、あるいは現地・蝦夷地にはなじまない神々の名は、ついに定着することはなかった。
 太田山については、空念は「太田嶽両大権現 本地 地蔵菩薩」、祭礼日は、地蔵尊の縁日を踏まえて「六月二十四日」と定めていた。「両大権現」とあるように、空念は、太田山には二つの「権現」がいるという認識をもっていたらしく、この祭礼日決定の記載の前には、「太田嶽大権現 本地 観世音」と「西嶽大権現 本地 地蔵菩薩」と、二つの「大権現」を記していた。
 太田山の主神は「太田嶽大権現 本地 観世音」であろうし、「西嶽大権現 本地 地蔵菩薩」は「副神」であろう。しかし、空念は、最終的に「太田嶽両大権現 本地 地蔵菩薩」と決定した。空念のこの記載の流れは不自然というしかない。くりかえすが、西嶽大権現は太田嶽大権現に対しては副神とみるべきで、それをあえて副神の「本地」を優先して「太田嶽両大権現 本地 地蔵菩薩」と定めた空念の真意はどこにあったのだろう。
 空念が太田山へやってくるまでは、太田山は「太田嶽大権現 本地 観世音」一つであり、そこに、空念の手によって「西嶽大権現 本地 地蔵菩薩」が新たに加えられたのではないか。空念は、自らの神仏習合の考えを通して、「太田嶽両大権現 本地 地蔵菩薩」とし、それまでの「本地 観世音」を消去した。
 空念のこの不自然な「本地」に関する記述を、右のように読むことが是とされるなら、太田山に「太田嶽大権現 本地 観世音」を最初にまつったのは、おそらくは円空と考えてさしつかえない。
 太田神社拝殿の案内は、円空が大日如来を奉納したと記していたが、これは円空が彫った「諸仏」の一つであったとしても、円空が太田山霊神の「御形」(影)を彫像に「移」したとすれば、それは「観世音」が基本だったとおもわれる。
 空念の太田山霊神=地蔵尊という考えは、内浦岳と同じというべきか、太田山にも定着しなかった。空念が記していた「西嶽」は存在せず、その伝承もまったく採取できない。これは、空念『納経記』の史的価値を否定するものではないが、まるごと真に受けて読むことの危うさを告げてもいるようだ。
 それはともかく、空念のあとの太田山の祭祀史をみると、天明四年(一七八四)には大日如来の伝聞(立松東蒙『東遊記』)、文政元年(一八一八)には不動三尊の奉納、文政十年(一八二七)には「一僧が大和国吉野蔵王権現の事蹟を写して銅体(銅製)不動尊を太田神社に併置し、太田大権現として小祠を建立する」(『大成町史』)。さらに、嘉永元年(一八四八)には定山[じょうざん]によって不動尊がまつられ、太田山の主神は不動尊、大日如来は拝殿の本尊、祭礼日は不動尊の縁日の六月二十八日と決定される(新暦となったが、現在も「六月二十八日」という祭礼日は守られている)。嘉永三年(一八五〇)には、「この頃」とされるも、江差泊の観音寺から蔵王権現が移されてまつられることになる。
 太田山に奉納された諸像を概観すれば以上かとおもうが、円空が太田山に、蝦夷地においても心奥に秘めてきた神をみていたとすれば、それは、熊野をルーツとする滝神・水源神であった。空念のあと、修験の人間にとって滝神と一体の不動尊が太田山霊神として定着していくことをみると、太田山の、無名の滝に円空がみていたであろう神は、その命脈を復権させたともいえる。その不動尊が「大和国吉野蔵王権現の事蹟」ゆかりのものとすれば、その感はより深くなる。
 太田山における江戸期の神仏習合史を整理すれば、円空の観世音にはじまり、空念の地蔵尊へ、そして、大日如来と不動尊の混在がつづくも、嘉永元年(一八四八)、定山によって、太田山の主神は不動尊、大日如来は拝殿の本尊と決定され、不定の神仏習合史に一つの決着がなされたということになる。定山は、太田山の実質的な初代別当とみてよい人物で、不動尊を主神、大日如来を副神(拝殿本尊)とした彼の決定は、真言密教の規範である大日如来を絶対とする考えにとらわれない勇気ある決断だったようにおもう。大日如来を拝殿で拝むことは、その背後の山頂部岩窟の不動尊を拝むことと同じである──。定山によって確定されたこの信仰ラインは、おそらくは不動尊が終点ではなく、不動尊背後の、つまり太田山断崖岩窟背後にある絶対聖地の「小沼」にまで届いているのではないだろうか。太田山霊神の「神の住まい」は、容易に足を踏み入れられない水源沼を第一とし、頂上部断崖の岩窟を第二の住まいとする、二重の構成をもっているようにおもう。
 円空が「太田嶽大権現 本地 観世音」とみなしたとすれば、この観世音は、水源神としての太田山霊神を体現したものであろう。断崖岩窟の天井からしたたる「滴」は円空の時代にもあったはずで、とすれば、円空を、この滴の「源」へとおもむかせたことはじゅうぶんに考えられる。太田山断崖岩窟にしたたる滴は、ただの水滴ではなく、現在においても信仰の対象となっている。これは「神の滴」なのである。
 ところで、空念は太田山において、なぜ観音から地蔵尊へと「本地」を変更しようとしたかだが、それはおそらく、円空がみていた神を、空念も知っていたからだとおもう。
 空念の蝦夷地への神仏の「勧請」の仕方は、その願いの文面の大仰さとも関連しているが、一神を秘すために、蝦夷地の「山々嶽々潟々」への勧請神仏をかなりいい加減な名で並べているようにみえる。
 この「いい加減」さは、たとえば、清瀧大権現の本地を、乙部岳では如意輪観音、奥尻沼では薬師如来としたり、巻末の「嶽々縁日並祭礼日」の項では、この清瀧大権現と同神の青龍大権現の本地については、奥尻沼は薬師如来と変わらないものの、大沼の青龍大権現については釈迦如来と記していて一貫性がない。その勧請神についても、たとえば大沼清瀧(青龍)大権現については「奉勧請天児屋根尊 本地 春日大明神」と書かれる。大沼神は、湖水神つまり水神であろう。これを天児屋根尊(春日神・中臣氏祖神)とするのは無理というよりもでたらめに近い表示である。ただし、駒ヶ岳山麓の大沼から唯一流れだす川は「折戸川」といい、この川神を折戸神とみれば、静岡県清水市折戸(現静岡市清水区)の瀬織戸神社の神が瀬織津姫であり、「折戸」地名(川名)は、瀬織津姫ゆかりのものとみてよく、とすれば、駒ヶ岳の神ばかりでなく大沼・折戸川の水神も、これも瀬織津姫であったと考えられる。瀬織津姫が春日四神の一神「比売神」に秘された神であることから、類縁の春日神(天児屋根尊)がここに選択されたのだろう。空念は、瀬織津姫という神を、それなりにわかっている。
 空念が『納経記』に記す蝦夷地への勧請神仏における「本地」表示は、また、「神号」表示は、かようにいい加減というしかないが、これはこれで、空念なりに、蝦夷地全体の鎮護を図るという意図に基づいたものなのだろう。ところが、これらの勧請神仏の列挙のあと、つまり『納経記』の最後を、空念は、「内浦嶽大権現御詠歌曰」として、「一切衆生之罪仁代天燃登留煙曽神之姿奈利計里(一切衆生[あをくさ]の罪に代わりて燃え登る煙ぞ神の姿なりけり)」というきわめつけの一首で締めくくっていた。この一首が巻末に置かれていることは重要である。ここには、この歌が示す神への空念のおもいが、最後に逆説的に表れたものと読める。
 空念『納経記』の史的価値の最たるものがあるとすれば、それは、内浦岳=駒ヶ岳の神を熟知した上で、このように正鵠を射る「歌」を奉納した山岳巡礼者が、空念の前にすでに存在したことを記録していたことだろう。この謎の作者は、おそらくは円空であった。円空は、ほかにも「滝神」擁護の歌を「匿名」で残すことをしていて(「高賀山の鬼神」参照)、自らのことばで「歌」を詠むことができ、しかも、なによりも「神」の本然を熟知している山岳巡礼者・修験者を駒ヶ岳にみるなら、この謎の御詠歌作者は、円空であった可能性がすこぶる高い。
 円空が、太田山の霊神に「清祝の神」(滝神・禊神)および「深山の神」(水源神)をみ、そして、この神の「御形」(影)の造形化として「観世音」を彫像していたところを、空念は、同じ神に「大祓神」という性格のみをみたのだろう。かつて大祓神とされた瀬織津姫という神は、中央の祭祀思想からは三途川の脱衣婆=姥神ともみなされる神であった。三途川は彼岸と此岸を分ける「境界」の川であり、村々の境界に立つ地蔵尊を想起すればわかりやすいが、この境界に立つ神は地蔵尊と「習合」することにもなる。また、地蔵尊が子安地蔵にもなるとみなされているのは、姥神が川濯神=禊神となるも安産の神とも女性守護神ともみなされていたことと等価の「変化[へんげ]」とみられる。空念の中央的祭祀意識は、観音であるよりも境界神としての地蔵尊のほうが、太田山の神の「本地」としてはふさわしいと判断したのだった。
 円空の観音に秘された太田山の霊神は、その「本地」を空念の地蔵尊によって変更された。しかし、この空念の地蔵尊もまた、滝神あるいは蔵王権現を秘めた不動尊によって主祭の座を追われることになる。空念は修験の精神とは無縁の仏徒だったということなのだろう。太田山の神仏習合史をみると、ここにも一つの神の姿が、その底に、伏流水のごとくに一貫して流れているようにみえる。
 最後に、蔵王権現を太田山へ移したとされる江差町泊の観音寺についてふれておく。同寺は、正しくは高野山真言宗白性山観音寺といい、創立は嘉吉元年(一四四一)、開祖は「御室御所真光院僧正の徒弟旭威法印」とされる。本尊は千手観音で、ここには、円空の阿弥陀如来座像と木喰の地蔵菩薩立像の二体が客仏としてある。この二像の旧鎮座地は不明とのことだが、木喰の地蔵尊の説明に、「むかし、火災にあい海に投げ込まれた、それが泊の川口に流れ着いた」、「火の中・水の中をくぐり抜けてきたので霊験灼」と書かれていて、少なくとも木喰仏一体については、あるいは太田山から廃仏の猛火をかいくぐってやってきたものかもしれない。
 なお、泊観音寺の建立は南面ではなく北面していて、つまり、本尊千手観音は「北向観音」である。「北」についてさらにいえば、この本尊は太田山と対面していることになる。千手観音は熊野那智大滝の本地仏でもあり、それが太田山と対面するようにまつられているのは、それなりの理を考えての祭祀とみえる。円空が太田山にみていたであろう滝神は、もともとは熊野那智の滝神であった。

四 十一面観音立像の誕生

 円空の太田山での参籠、そこでのさまざまな彫像の試みは、太田山霊神・滝神との対話のなかでなされた。円空にとって、太田山は、その後の彫像の母胎とも、新たな出発を後押ししてくれる山ともなったのではないか。かつて、円空に一丁の「鉈」を授け、十二万体彫像の「大願」を後押ししたのは富士山の霊神であった(『浄海雑記』)。「蝦夷地の守護神」ともいわれる太田山霊神、そして日本の国津神の総本山ともいえる富士山霊神──。円空の背を押す神は並みの神ではない。
 円空の鉈は、蝦夷地巡錫(各地観音堂への観音奉納)という彫像の旅を終え、最北の霊場・太田山での神との対話のなかで、新たな像を彫りだそうとしていた。あるいは、すでに太田山で、その試みはあった可能性もあるが、太田山の諸像は全焼してしまっていて、それを語るものは今はない。
 円空彫像のはじまり、その源の山は美濃国・高賀山だった。高賀山の滝神は瀬織津姫という神であり、この神に対しては、すでに平安期に、十一面観音および不動明王という二体の像が奉納されていた(美濃市・滝神社)。円空の十一面観音および不動明王の原イメージは高賀山にあるといってよい。
 蝦夷地において、これまで座像観音を多く彫ってきた円空だったが、蝦夷地と和人地の境界の村・熊石で、初めて聖観音を「立像」の姿で彫ることをしていた。蝦夷地行の前、美濃国の木尾白山神社(郡上市美並町)で、円空は「白山三尊」として十一面観音や聖観音、阿弥陀如来をすでに彫っていたが、これらは座像姿だった。さらにいえば、これらは、白山三尊を定めた泰澄の規範をなぞるものにすぎず、そこには円空の自由な彫像意志というものは、まだ反映されてはいなかった。
 太田山での諸仏の彫像、あるいは彫像の「試み」を終えた円空は、熊石での聖観音「立像」につづいて、上ノ国で十一面観音を、これも「立像」の姿で彫っている。これは、太田山から松前への帰路であったとおもう。
 ところで、円空は、なぜ、上ノ国において十一面観音立像を初めて彫ったのだろう。
 同像は現在、天の川の河口にある小さな観音堂にまつられている。この観音堂には焼けこげた首なし観音も一緒にまつられているが、これも円空の彫像である。両像は、文化財としてではなく、人々の生活と等身大の感覚で、とても大事にされている。
 上ノ国観音堂のはじまりは「山神社」であった。蝦夷地に山神社はたくさんあるが、山神社については、松崎岩男氏が『続上ノ国村史』で、次のように述べている。

 道南の古社について見ると、山神社と称するものの祭神は多く大山祇神になっている。上ノ国村でも、天の川口に鎮座した文禄三年創立の山神社、小森、大留の山神社、桂岡、湯ノ岱、北村、石崎の山神、いずれも大山祇神となっている。
 しかし、山の人々は山の神は女神と信仰している。小森山神社の神体も女神像である。山神の伝説も女神である。

 山神はたしかに「女神」が多く、太田山も例外ではない。ところで、ここに出てくる「天の川口に鎮座した文禄三年(一五九四)創立の山神社」は、寛文五年(一六六五)には観音堂と称されたようで(『福山秘府』)、円空は、ここに十一面観音立像(道内に現存する唯一の円空作十一面観音)を奉納したのである。この像は明治四年の廃仏の猛威から里人によって救い出されたことが、観音堂の案内に書かれている(写真)。
 円空は、ほかの観音堂へは座像観音を奉納してきたが、上ノ国観音堂(山神社)にだけは、なぜか十一面観音を奉納している。
『福山秘府』巻之五(年歴部)は、「寛文五年、春彗星現はれ、西部上ノ国太平山鳴動し、天河海口陸と成る。按ずるに是皆不祥の兆なり」と書いていた。村史の年表には、翌年の寛文六年の項に「冬飢饉」、『福山秘府』にも「国民飢」と書かれ、円空の眼には、飢餓の不安におびえる人々の姿が映じていたのかもしれない。天の川の源流山・太平山が鳴動し、天の川の河口がふさがると、これは「不祥の兆」だという。天変地異、そして飢饉──これらは「神」の怒りによるものとおもうのは、当時としてはあたりまえの感覚だった。
 十一面観音は水神を秘めた観音ではあるが、仏教世界では、東大寺二月堂の「十一面悔過[けか]」の行法との習合にみられるように、「祓」の観音ともみなされていた。これは、もともとは、この観音と習合する「神」の性格が二重写しとなったもので、円空は、この祓の神力を秘めた十一面観音によって、太平山─天の川(の神)がもたらす災いを祓い、また、その神の「御形」を顕わすことで、秘された神の荒ぶる心を鎮めようと、ここに初めて十一面観音を彫像・奉納したのだろう。この像は、円空の主体的な彫像意志によって彫られた初めての十一面観音といってよく、その後の多くの十一面観音彫像の起点ともなる像だった。
 上ノ国の十一面観音は、同村の「滝沢の滝」に打たれて彫像したとされる。とすれば、円空自身、太田山の滝神と、この滝沢の滝神とが、別の神だとはおもっていなかっただろう。
 菅江真澄は上国寺上人から、天の川の「心」を問われ、二人で十四種の歌合わせをしていたが、そのなかの「神祗」の部に、次の歌がある(『えみしのさへき』)。

瀬を清みみたらし河にすむ月は
ちりにまじはるひかりとや見ん

 菅江は、天の川を「みたらし河」と歌っている。また、同川にすむ(住むと澄むを掛ける)月(神)は「ちりにまじはる」も「ひかり」(の神)だという。天の川を御手洗[みたらし]川と詠む菅江真澄の歌の認識には驚かされるが、天の川は、熊野川の源流部の川名でもあり、蝦夷地の天の川にも同じく、熊野の御手洗神、つまり禊祓いの神がいたということなのだろう。
 円空歌にも、「花なれや月の御形や祭るらん浮世の罪をきり払ひつゝ」(歌番七四八)があり、円空は月神(「月の御形」)と「罪」を祓う行為を関連づけて詠んでいる。瀬織津姫は多くの異名をもっているが、三河(愛知県東部)においては天白神となり、天竜川流域では、この天白神は七夕の女神ともなる(片倉天伯社:長野県伊那市富県)。また、伊勢(外宮)の御師が伝える太々神楽の「八幡天白之段」では、「天はく御前のあそひ(遊)をは/ほし(星)の次第の神なれは/月のわ(輪)にこそまひ(舞)たまへ」と歌われるように(三渡俊一郎『謎の天白』私家版)、この神は月神・星神ともみなされていた。
 ところで、菅江の歌にみえる「ちりにまじはる」ことのできる神とは、やはり、熊野神とみてよいのかもしれない。和泉式部が熊野神になりかわって詠んだ歌「もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりは何かくるしき」(『風雅和歌集』)という一首が想起される。この歌は、「月のさはり」で熊野詣でをためらう和泉式部に、自分(熊野神)は「もとよりもちりにまじはる神」(もともと俗世に交わって生きている神)であり、「月のさはり」(不浄の観念)など気にせずにどうぞお参りにいらっしゃいという意味だろう。熊野神が女性の味方の神であることは、めぐって、蝦夷地の女性守護神・川濯神(川裾神)にまで、この神の地下水脈・系譜は絶えることなくつづいているのである。
 円空は、初めての十一面観音を上ノ国に残し、松前へと向かう。円空は松前で、家老の蛎崎に、観音堂への奉納の報告や蝦夷地での優遇の礼をするとともに、おそらくは別れの挨拶をしたのだろう。
 道内に現存する十一面観音は上ノ国観音堂の一体であるが、円空は、少なくとももう一体、十一面観音を彫っていた。松前・馬形観音堂において、である。
 文政五年(一八二二)、馬形社神官・佐々木主水による『本社末社草創書上』に、「円空作十一面観音、木像一体、丈け六尺余、往古より当社に在来候」(堺比呂志『円空仏と北海道』)とあるのがそうである。この像の高さは「六尺余」(一八〇センチ強)とあり、明らかに立像であろうし、蝦夷地における最大級の彫像である(上ノ国の十一面観音は、観音堂の案内によれば一二二・五センチ)。しかし、馬形観音堂の十一面観音は、これも焼けてしまって今はみることができない。
 この今は幻の十一面観音については、佐々木主水の『書上』に、この像は「馬形宮之神体にて無御座候」と但し書きがなされている。これは、同社が別に馬頭観音を「神体」としてきたからなのだろう。しかし、円空は、ここにあえて十一面観音を奉納したようなのだ。
 馬形観音堂は、「渡党」(松前藩成立以前に蝦夷地へ渡ってきた人々)によってまつられたのを創祀としていて、これも蝦夷地の古社であった。当地では「馬形」は「まかど」と読むらしいが、これは「駒形」と同意とみてよく、「こまがた」が転じて「まかど」となったものだろう。
 蝦夷地において、他に類例のない特大の十一面観音を松前・馬形観音堂に奉納した円空の心持ちとしては、自分が行けなかった蝦夷地全体の守護・鎮護の願いを、この特大像一体にあらためて込めたものか、あるいは、噴煙やまぬ内浦岳=駒ヶ岳の神、つまり馬頭観音に秘された神への、新たな旅立ちの挨拶が込められていたのかもしれない。
 円空の全国山岳霊地の「地神供養」の旅は、まだはじまったばかりである。駒ヶ岳のはるか南方、海峡の先に聳えてみえたであろう釜臥[かまぶせ]山の北麓の山懐には、これもひときわ異彩を放つ霊場・恐山がある。円空の向かう先は、すでに心に決まっていたものとおもう。
(『円空と瀬織津姫』第二編はここまで。次回は第三編「北奥の円空」の「恐山信仰と地神供養──円空十一面観音のおもい」の予定)

522・523 恐山信仰と地神供養──円空十一面観音のおもい 風琳堂主人 2006/12/24 (日) [55000]

はじめに

 梅原猛『歓喜する円空』は、円空の蝦夷地行を下北半島のあと、つまり、恐山や佐井での彫像後、同半島佐井から蝦夷地・松前へ渡ったという見解をとっています。
 この見解の根拠は、笠原幸雄氏が「東北の円空仏」と題して『円空研究』第二巻に発表した「円空仏の様式的比較」を踏襲したもので、概要をいえば、十一面観音立像の「袖」が「左右非対称」のものをAグループとし、「左右相称」のものをBグループと分け、AからBへと彫像推移がみられるという仮説です。下北半島には十一面観音が二体現存し、それらは袖が「左右非対称」でAグループに属する、そして蝦夷地に一体現存する上ノ国観音堂のものは「Aグループの名残りを残したBグループに属する」、蝦夷地行のあとの五社堂(男鹿半島)や竜泉寺(能代市)の秋田の十一面観音は「明らかにBグループ」である、ゆえに、円空は下北半島経由で蝦夷地へ渡っただろうというのが梅原説です。
 袖が「左右非対称」から「左右相称」へという彫像過程を円空十一面観音にみるという様式論は、わたしの眼にはかなり危うく映ります。理由は単純で、一例を挙げれば、蝦夷地から東北各地を歩いたあと、円空は美濃国(羽島市)の生地にある中観音堂に十一面観音を彫像・奉納していて、梅原説のとおりならば、これはBグループ、つまり、袖が「左右相称」となるべきですが、実際は「左右非対称」に彫られています。
 円空は、恐山から蝦夷地へ向かったのではなく、その逆だろうとみていた説については、丸山尚一氏の労作『新・円空風土記』(里文出版)ほかがあります。
 円空における蝦夷地での彫像には必然性があり、とすれば、そこから南下するように下北半島・恐山へと向かうにも必然性があったはずで、円空の心に張られたこの必然のみえない糸は、彼の生涯にわたってみられるというのが、わたしの円空論の核となる仮説です。
 下北半島・恐山へと向かった円空について、『歓喜する円空』は、もう一つ怪しい説を展開しています。それは、「円空は恐山で母や西神頭安高の霊に会うために旅に出たのではないか」という梅原氏の思いこみによる情念説です。西神頭安高は、円空の最初期の彫像に関わる人物ですが、梅原氏は、「恐山は昔から死者の霊に出会えるところとして知られていたに違いない。円空は死んだばかりの西神頭安高と、幼い頃、洪水によって死んだ母の霊に会いに行ったのではないかと私は思う」と、円空の私情を自身の思いこみで読み取り、そこに梅原氏自身の母恋物語の情念を重ねるようにして、円空の恐山行の動機が語られています。
 円空がこういった個人的な感情・情念で彫像をしていた、あるいは彫像の旅をつづけていたとするのは梅原説が最初ではありませんけど、これは円空の彫像思想をかなり下世話にみることになりかねず、わたしには大いに異論のあるところです。円空の彫像思想には、その核に「地神供養」の精神、いいかえれば、各地山岳霊地に秘められた「地神」への鎮魂の意志があるはずで、円空のこの志向は、恐山にもみられるのではないかというのが、わたしが本稿で問うてみたい仮説です。先述の「円空の心に張られた必然のみえない糸」を、蝦夷地から下北・恐山の地へと向かう円空彫像の「旅」にさぐってみようということです。

一 佐井から恐山へ

 下北半島・佐井村の長福寺に、総高一八一センチ(像高一四五センチ)の円空作十一面観音が客仏としてまつられている。これも大きな像である。松前・馬形観音堂の像は現存しないものの「六尺余」という大きな十一面観音だった。円空の蝦夷地での彫像意識は、そのまま津軽海峡を渡って、佐井村の彫像へとつながっているようだ。
 佐井村教育委員会『村のしるべ』には、この十一面観音は「石清水家の池からあがったものだと言われ、火災の時、池に投げ込んで焼けずにすみ、その後、長福寺に移された」と書かれ、『佐井村誌』上巻には、同像は「もと真言宗六角堂にあったが、火災の時、池に投げ込んで焼却をまぬがれ、修験道の自性院(慈性院)に移されたが、維新の廃仏棄釈でさらに長福寺に移った」と説明される。丸山尚一『新・円空風土記』にも、「六角堂のあとには、大銀杏と瓢箪形の池とがのこっている。六角堂が火事で焼けたとき、この池があったから円空仏は焼けないで済んだ」と書かれる。円空彫像の受難は佐井にもみられ、焼失するも延命するも、それは、ほとんど紙一重のことだったようだ。
 明治期の神仏分離による下北の地の世情不安は大きく、たとえば、「脇野沢八幡宮の別当渡部伊織は、崇敬してやまなかった御神体の岩清水千手観音像が、仏体ゆえに他へ移転されることに抗議し、三十七歳の生涯を割腹して相果てるという衝撃的な事件もこの時である」と記録されている(『下北文化誌』青森県高等学校PTA連合会)。
 ところで、六角堂と「池」の関係で、つとに知られるのは、京都の六角堂(紫雲山頂法寺)であろう。ここは、西国三十三観音巡礼の第十八番札所でもあるが、その創祀については、聖徳太子が沐浴した池の傍らあるいは上に、太子の護持仏・如意輪観音を本尊として建立したと伝えられる。この六角堂の地は平安京の中心ともみなされていて、ここには「要石」(通称「へそ石」)があることでも知られる。しかし、六角堂祭祀の原点をみようとするなら、太子の観音が、彼が沐浴した「池」のそばからついに離れようとしなかったという縁起からも想像されるように、沐浴=禊ぎに象徴される霊神がここにいたということにはじまる。このことは、六角堂の年中行事の「七月下旬」(旧暦では六月晦日にあたる)に「唐崎明神例祭」(禊祓いの神事)がおこなわれていることからもわかる。「唐崎明神」とは、琵琶湖周辺にみられる禊祓いの神で、下鴨(賀茂御祖)神社摂社の御手洗社(井上社)の異名もまた唐崎神社であったことを挙げてもよいが、唐崎明神は、瀬織津姫という禊祓いの神を指している。
 村誌には、「かんじんの円空仏のある寺がほとんど火災にあっているので文献がないのは惜しいことだ」とあり、はっきりしたことはいえないが、下北・佐井の六角堂は、その「池」の存在から、京都六角堂にならって創建されたものかもしれない。あるいは、円空の十一面観音をまつる祭祀空間として、六角堂があとから建立された可能性もあるが、六角堂に関する「文献がない」以上、ここでは可能性を述べることしかできない。それにしても、「円空仏のある寺がほとんど火災にあっている」とは穏やかではない。
 佐井の十一面観音は、六角堂の池、石清水家の池に投げ込まれ、焼仏の危機をかろうじて脱したわけだが、ここに伝えられる「石清水家」とは、佐井村の総鎮守・箭根森[やのねもり]八幡宮の別当職を務めてきた家筋でもあった。箭根森八幡宮の由緒や史料を読んでみると、八幡神とはなにかという問いが、円空彫像と瀬織津姫との関係と重なるようにみえてきて、これもふれておく必要がありそうである。
 箭根森八幡宮(佐井八幡宮)の創祀は、前九年の役の時代にまで遡る。「佐井八幡宮由来記」には、次のように書かれている(『佐井村誌』上巻)。

 康平五年、奥州の住人、安倍の頼時、貞任等叛旗をひるがえす、将軍、源頼義征討の軍を奥すみ(陬)にすすめて遂にさくヘイ(削平)し終ったので、勇みに勇んで、都に帰った。然るにこのあと、奥州の北のはて、尻屋という里は、我が日の本のこん(艮)、うしとら、鬼門にあたるが、ここに鬼神棲んで牛馬六畜をつかみころし、老幼、その害を被ること数を知らず、将軍再び来って、この鬼を退治し給われかしと、遙々人を遣わすのであった。
 そこで又もや馬を半島の奥、尻屋の岩屋へ駈けることとなった。尻屋の鬼神はなるほど聞きしにまさる兇暴なもので、出没変妖、とても人力のおよぶところではない。
 この浦の潮を結んでくり(垢離)をとり、小枝を折って幣となし、祈念を八幡神に尽して十七日、その間兵士もまた矢を研ぎ、剣を磨いた。
 時に一天俄かに暗く、浪逆立って烈風砂礫を飛ばす、不思議と見るまに、悪鬼軍中に躍りかかって来た。
 その形見る目も怖しく、惣身の毛もそくそくと立つ心地がする。刃向うすきもなく破られたが、この時、七黒崎の杉の梢にあたって一羽の白鳩、飛び舞うよと見るに、忽ち白衣の神人と化し、神変の弓に神通の矢をつがい、よっぴいて放せば、鏑[かぶら]の音、蒼海原にひびきわたって雲中に入り、彼の悪鬼のまっただ中を通した。数人の兵士、落ち来る鬼に折り重って首を切る。軍勢が刀を洗った川をちかわ(血川)といい、神妙を敬って、かぶと(甲)を納めた岩を甲岩といった。
 血川を今は赤川と呼ぶようになったという。見ると小高いところに、矢の根石を多く止める場所がある。則ちここに八幡宮をいつき祀って、矢の根森八幡宮と称す。岩清水氏神官となってこの地にとどまる。〔後略〕

 ここに出てくる「鬼神」「悪鬼」は、源頼義・義家軍に滅ぼされた安倍貞任たちの怨霊を、あるいは、安倍氏一族の守護神であった神を、あえて鬼神といいかえたものとみられる。この怨霊神・鬼神退治がなされないことには、「奥州の北」の真の平定はないというのが、この縁起のモティーフとおもわれる。鬼神退治のあとにまつられた「矢の根森八幡宮」は現在の箭根森八幡宮で、「岩清水氏神官となってこの地にとどまる」の「岩清水氏」は、円空十一面観音を救った「石清水家の池」の「石清水家」であろう。
 下北・尻屋の鬼神退治を契機とする、この八幡神勧請のストーリー展開は、どこかで読んだ記憶がある。これは、高賀山の鬼神退治と、話の骨子がまったく同一といえる。大きく異なる点を挙げれば、鬼神退治の「人」の主役が藤原氏ではなく源頼義となっていること、鬼神退治にゆきづまって加護・助勢を求めたのは、八幡大菩薩や虚空蔵菩薩といった神仏習合神ではなく「八幡神」という神であること──、この二点だろう。
 円空は後年、高賀山の鬼神退治を契機とした高賀山各社の祭神勧請縁起をアレンジして「粥川?[ぬえ]縁起神祗大事」を創作していた。円空は、曖昧な習合仏によって伏された高賀山の「地神」をおもい、タイトルにあえて「神祗大事」とうたったのだった。
 箭根森八幡宮の由緒譚において、「白鳩」に化身した八幡神はさらに、「白衣の神人と化し、神変の弓に神通の矢をつがい、よっぴいて放せば、鏑の音、蒼海原にひびきわたって雲中に入り、彼の悪鬼のまっただ中を通した」とされる。円空は高賀山における同じシチュエーションで、「不思議の神の現れて/悪魔を払う蕪矢[かぶらや]の/是神通の矢といいて」と、「不思議の神」の出現を記すも、縁起巻末で、この神は「神通の矢」を手にする乙狩の「弓矢の神」であると、つまり、鬼神祓いをした神は乙狩の高賀山滝大明神=瀬織津姫だとわかる仕掛けをしていた(「高賀山の鬼神」参照)。
 下北・佐井の八幡神と高賀山滝大明神はともに、鬼神・悪鬼を射通す「神通の矢」を自在に扱う神である。佐井の八幡神は、はたして八幡神の代名詞のようにみなされている誉田別命=応神天皇だったのだろうか。
円空歌に、八幡神を詠んだ次のような歌がある(『定本円空上人歌集』歌番一〇一九)。

  白鷺や池主の玉ならは
    御許山[おもとやま]の神かとそ思ふ

 ここで詠まれている「御許山」とは、八幡信仰の要[かなめ]となる山である。
 宇佐神宮(宇佐八幡宮)大宮司家の末裔・宇佐公康氏は『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社)で、『日本書紀』(一書第三)が「三女神」降臨の地と記すところの「宇佐嶋」について、また、宇佐氏の祖神について、次のように述べている。

宇佐嶋の旧跡地と伝えられる御許山[おもとやま](大本山[おおもとさん]または馬城峰[まきのみね]とも呼ばれている)の頂上に、太古から菟狹氏族の氏上(族長)によって祀られていた比売大神(三女神または天三降神[あめのみくだりのかみ]・宇佐明神ともいう)を勧請した。この祭神は間違いなく宇佐家の母系祖神であって、菟狹津媛命の神霊と同神である。
 宇佐嶋=御許山の「頂上」には、菟狹=宇佐氏によって「比売大神」がまつられていた、また、この比売大神は「宇佐家の母系祖神」だという。この神を御許山から「勧請」して里にまつったのが宇佐神宮(全国八幡社の総本社)のはじまりということだ。
 この里宮の宇佐神宮は三殿構成となっていて、「宇佐家の母系祖神」でもある「比売大神」という謎の神は、現在、真ん中の二之御殿にまつられている。宇佐公康氏は同書で、「比売大神」は「月神」であり、この神をまつる「中央の二之御殿の祭祀だけが、天地順逆の理による順理すなわち正道にかない、一之御殿と三之御殿の祭祀は逆理すなわち邪道」だとも述べている。一之御殿は応神天皇、三之御殿は神功皇后をまつるというのが現在の姿だが、これらは奈良時代末から平安期初頭にかけてまつられたものである。奈良時代(聖武が天皇位譲位後)、東大寺大仏の完成・開眼法要に、はるばる九州・宇佐の地から招かれた神は八幡大神と同比売神の二神であったことは『続日本紀』が記すところである。神功皇后・応神天皇二神をまつるのは宇佐氏の本来の祭祀ではない、「邪道」であると、宇佐神宮大宮司家の末裔が述べているのは、まことに重い証言というべきだろう。
 宇佐神宮では現在、『日本書紀』の記述に基づいて、宇佐嶋(御許山)の比売大神は宗像三女神と同神(総称神)と表示している。宇佐家伝承では、同社の比売大神(三女神)を分祠したのが安芸の厳島神社だという。この厳島神社の分社が鹿児島県出水市にあり、同社祭神は当然といえば当然だが宗像三女神である。しかし、この三女神のうちの一神・多岐津姫(=湍津[たきつ]姫)の代わりに瀬織津姫(表示は瀬織津比売命)の名がある(ほかの二神は、市杵島比売命、田心比売命)。
 歌にある「御許山」は、その「頂上」に聖水の池があり、宇佐神宮(宇佐八幡宮)では絶対聖地とみなされている。円空は、この御許山の神(比売大神)を「池主の玉」と詠んでいる。ここでいう「玉」とは「霊[たま]」で神の意であろう。つまり、円空は御許山の神(比売大神)を池主神(水霊神)と詠んでいたわけで、全国八幡社の大元社である宇佐神宮(宇佐八幡宮)の祭祀の基層を、彼はかなり正確に認識していた可能性が高い。
 菅江真澄は『牧の冬枯』で、佐井八幡宮の由来について、詳細にふれていた。村誌の要約をさらに要約すれば、次のようになろうか。──安倍の軍勢の討伐に向かった源頼義が石清水八幡をここ(佐井)に祀り、武蔵の国鈴ヶ森八幡神を本宮と定めた。中古は、この社は荒廃していたが、寛永元年(一六二四)のころ、自性院法印賢教という修験者の夢に八幡神が現れ、この神が夢で教えたところを掘ると、そこから鏡が出てきて、この鏡の裏には「ほんたのみこと」(誉田別命)と鋳ってあった。延宝二年(一六七四)七月に社を再び清らかに建てなおし、そのときの修験者大昌院が、この再建の旨を鈴ヶ森本宮に告げると、神主が遠路やってきて、鈴をひき幣を奉り、「たへたるもまた引おこすみしめ縄ちよ栄へ行く神のまにまに」の一首を詠んだ──。
 円空が蝦夷地から下北・佐井へ渡ってきたときは、「自性院法印賢教」あるいは「修験者大昌院」によって「ほんたのみこと」(誉田別命)が八幡神としてまつられていたのだろう。
 ところで、箭根森八幡宮(佐井八幡宮)の「本宮」とみなされていた「武蔵の国鈴ヶ森八幡神」は、東京都大田区大森にある磐井神社(鈴ヶ森八幡宮)のことである。磐井神社には、その社名の元となる「磐井」という井戸が境内にある。この井水については、「祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服するに其効を得ること著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井有るが為なり」とされる(「磐井神社略記」)。「磐井」の水は、正邪の心を糺す「霊水」であり、病む人にとっては効能あらたかな「薬水」とみられていたようだ。なお、同社前の品川沖海中にはかつては鳥居が立っていて、これは厳島神社の祭祀を彷彿とさせる。磐井神社は、八幡神、なかでも比売大神という水神(海神・宗像神)を中心に据えた祭祀がなされていたところとみられる。
 菅江は「ほんたのみこと」の祭祀伝承を書いていた。しかし、箭根森八幡宮が磐井神社に対して分社関係を有していることは、箭根森八幡宮も、もともとは比売大神を主祭としていたのが本来の姿であろう。
『佐井村誌』下巻には、宝永二年(一七〇五)の再書写ではあるが、「本宮武州鈴森神主森田氏藤原姓佳辰謹しみてこれを書しおわんぬ」と巻末に記された、「箭根森神社再興後記」が収録されている。ここには、八幡三神の祭神説明が、次のように書かれている。

  神功皇后  気長足姫ト申本朝十五世女帝是則仲哀帝御后
        応神天皇御母后香椎大明神
        天照大神分身瀬織津姫命
  応神天皇  再誕誉田天皇トモ又胎中天皇トモ
  比女大神  応神帝御后 口事神秘也

 神功皇后のみ長い説明がなされているが、そのなかに「天照大神分身瀬織津姫命」とある。佐井の地にも、高賀山の「神通の矢」をもつ神の名がみえる。また、比売大神(比女大神)は「応神帝御后」とするも「口事神秘也」と、意味深長なことも書かれている。瀬織津姫が「天照大神分身」と書かれるのは、『日本書紀』や『倭姫命世記』などに「天照大神荒魂」と書かれていたことを踏まえたものだろうが、この神が「口事神秘」の比売大神に関わっていることはいうまでもない。では、鈴森神主はなぜ、その「口事神秘」の神の名をわざわざここに記したのかと疑問も浮かぶが、それは、「かなしむべし神ありて知人あらされば神なきがごとし」という文中の認識が書かせたものだろう。当時の鈴森神主には、中央の祭祀思想に盲従して本来の神の名を消去するにはしのびないという気持ちがあったゆえに「神なきがごとし」を避け、ここに瀬織津姫の名をあえて書き残したものとおもわれる。
 人が新たに生活の場を定めるとき、そこに真水が確保できるかどうかは決定的な条件となる。蝦夷地・江差の姥神祭祀の旧蹟地は、「折居井戸」があるゆえに「聖地」とみなされていた。そこが海岸部であればなおのことで、「磐井」という井戸も同じだったはずだろう。この井水=真水を守護してくれる神がしばしば産土神となるのは、人の生活と生命の根幹に関わっているゆえだ。八幡の比売大神は水霊神(水の神徳を有する神)であった。
 円空の時代、佐井の地では、八幡神の祭祀が水の神徳をもった比売大神から「ほんたのみこと」(誉田別命)へと変わっていて、円空の眼が、こういった八幡神祭祀の変質を見逃したとはおもえない。
 笹澤魯羊『下北半嶋史』(下北郷土会)によれば、箭根森八幡宮は、「元は八幡観世音と称して、本陣に観世音を安置した」という。箭根森八幡神の「本地」が観音とみなされるとき(脇野沢八幡宮は岩清水千手観音だった)、その観音(あるいは千手観音)と「習合」する神は、応神天皇や神功皇后ではなく「比売大神」であろう。円空の十一面観音彫像は、消えた比売大神の「御形」を顕わしたものではなかったか。
 箭根森八幡宮の別当・石清水家の「池」は、現在は「石垣で囲まれている」とのことだが(丸山尚一、前掲書)、この池は、磐井神社の「井戸」と等質ともみられる真水の湧出によってできた池であった。その池の「水」によって、焼仏寸前の十一面観音が九死に一生を得るように生き延びたことをおもうと、円空の十一面観音は、奇しき神縁というべきか、その不思議な縁によって、一命をとりとめたとだけはいえるようである。
 各地山岳霊地の地神供養(『飛州志』)、それが自分の彫像思想の根幹であるという円空の意識は、蝦夷地から下北の地へと、なお強化・継続されていたはずで、本州最北の地におけるその第一歩が、この佐井の十一面観音であろう。
 円空は佐井の地で、十一面観音を同一木から三体彫り、一体は佐井に、一体は恐山へ、一体は平泉中尊寺用として彫像した伝承があるという(熊谷省三・佐賀末次郎「田名部海辺三十三番巡礼札所をさがして」、『霊場恐山物語』所収)。しかし、箭根森八幡宮の現神官・岩清水氏によると、円空が古佐井川の源流山・荒沢山(六七二b)の桧葉材をつかって「池」に浮かべて彫ったと書かれた文書は岩清水家にあるが、このように三体を当地で彫った記録・伝承はないとのことである。
 三体彫像の真相はともかく、円空は佐井の地で、本州初の十一面観音を特大像として彫ったあと、恐山へと向かったとみられる。本州最北の霊場・恐山は、その地獄の思想によって、まさに「恐山」と呼ばれてもいる。恐山は、地蔵尊を主尊とする霊場として知られるが、その恐山に、円空があえて十一面観音を彫像・奉納したこと──、これは、恐山という霊地にも、円空にとっては「供養」すべき「地神」がいたということを暗示している。

二 恐山・優婆尊と十一面観音

 恐山へ参詣・入山するとき、人がかならず渡らなければならないのが、宇曽利山湖から流れ出す「三途川」である。この三途川には優婆[うば]堂があり、そこには脱衣婆の優婆尊(伝円仁作「三途川祖母」)がまつられていた。菅江真澄は『奥の浦々』寛政五年(一七九三)六月二日の項に「又恐山に登る。優婆堂に宿し、温泉に浴す」と書いている。
 優婆堂において優婆尊と対面することで、俗世の罪・穢れを「脱衣」して、霊場・恐山へようやくに入ることができるという仕掛けになっていた。円空が、恐山で最初に対面した彫像、異形像こそ、この優婆尊だったとおもわれる。
 三途川を渡るとき、そこには「橋」はまだ架けられてはおらず、ただ丸太が並べられていたようだ。笹澤魯羊『下北半嶋史』(下北郷土会)は、この仮設の橋について、次のように書いている。

 三途川は寛政の頃まで丸太を並べて橋とした。橋の袂に柳の老木があつて、幹に蛇が巣くうて蛇柳と呼ばれた。悪業[あくこう]の者には、丸太が箸のように細く見え、柳を攀り降りする蛇は、おろちのように見えると恐怖された。

 円空は、おそらくは苦もなく三途川の丸太橋を渡ったこととおもう。
 ところで、円空の時代(寛文七・八年頃)、この霊場が「恐山」という名称で呼ばれていたかどうかははっきりしない。笹澤魯羊『下北半嶋史』は、恐山への名称の変遷を次のように記している。

 宇曽利山は標高八二七米の死火山で、火口址に水を湛えて宇曽利湖という。湖水は周囲一〇粁、最深部七〇米で、落口を三途川という。古は南部の焼山と呼ばれ、屡々鳴動して火災を揚げた。硫質瓦斯の噴気孔が沢山あり、何々の地獄と呼んで、百三十六の地獄があつた。宇曽利は蝦夷語のウショロから出たもので、湾、潟、入江を意味する。ウショロがオショロと訛まり、更にオソレ(於曽礼)とつぢまつたが、火山灰地のため地肌に少しも生色が無く、大小の地獄からは音を立てゝ、四六時中瓦斯を噴き上げるなど、山の凄まじい様子から、恐山の二字を充てるようになつた。湖水の北岸は霊場で、地蔵堂並に僧坊等がある。慈覚大師はこの山に坐禅三昧して、地蔵尊一体を刻んで祀つた。時に貞観四年(八六二)四月十五日という。

 慈覚大師=円仁の開基伝承は、霊場恐山の根本縁起に関わることだが、これは、史実というよりも、円仁に象徴される天台宗徒の開基を伝えたものだろう。恐山にも「地神」がいたはずだが、そこに、地蔵尊と姥尊を習合させ、宇曽利山=恐山の神の信仰を変質させたのが天台宗であり、それは「貞観四年(八六二)四月十五日」のことと理解できる。参考までにいえば、『むつ市史』は、この天台宗徒の山入りの前には、その仏像の傾向から蔵王山系統の「岩窟隠者」がいたという長岡義海説を紹介している。九世紀半ばまで恐山が未知の山であったはずがなく、ただ組織だった開山伝承を構築できなかったということなのだろう。
 九世紀半ばに天台宗徒による「地神」を「仏」に置き換えたという行為は、遠野郷・早池峰山においてもみられる(『早池峰山妙泉寺文書』)。遠野郷においては、以後、山神・水神=瀬織津姫の名は十一面観音の背後にながく潜むことになるが、この「地神」隠しは、一天台宗徒による一存・単独の行為ではなく、組織的に、全国的になされたものとみられる。この時期に、東北各地に円仁開基伝承をもつ寺々が集中するのは、中央の祭祀思想を体現・実行した天台宗の動きが背景にあったとみるしかない。
 下北も例外ではなかったが、恐山における天台宗支配は永続しなかった(康正年間の蛎崎の乱によって途絶える)。

 室町末期の大永二年(一五二二年)に、八戸南部氏を外護とする曹洞宗吉祥山円通寺が創建される。開山は下総の宏智聚覚である。享禄三年(一五三〇年)恐山に釜臥山菩提寺を再興して、恐山信仰(地蔵信仰)を起こし日本三大霊場の一つとしての基礎を築いた。
(『下北文化誌』)

 釜臥山菩提寺(天台宗時代は「恐居山金剛念寺」…『むつ市史』)が再興されるのは大永二年(一五二二年)のことで、それは曹洞宗吉祥山円通寺の創建による。円空の時代、天台宗蓮華寺と曹洞宗円通寺との間で、恐山の祭祀支配・管理権をめぐる確執・攻防があったが、南部氏の「外護」は強く、恐山からは天台宗色は消え、現在みられるような恐山の庶民信仰の原型ができあがる。
 ところで、恐山から天台宗色が消えたというのは大きな意味をもっている。なぜなら、これは、円仁(天台宗)に象徴される「国家鎮護」の標榜が恐山から無化されたことを意味しているからだ。「(恐山)信仰の担い手は、皇室や貴族や、特定の武家や領主ではなく、かえって、女性を中心とする庶民であることを忘れてはならない」という指摘は重要である(楠正弘『下北の宗教』未来社)。
南部藩のゆるやかな管理下にあるとはいえ、恐山信仰を支える主体は、中央・地方の政治・宗教権力ではなく「女性を中心とする庶民」であることに、恐山(信仰)の本質も魅力もある。江戸期、女性救済の全国的メッカとみられていたのが越中立山・芦峅[あしくら]寺の姥堂(姥尊信仰)だったが、この姥尊の本地仏が地蔵尊であった。恐山の本尊もまた地蔵尊(伝・円仁作)だが、恐山においては、姥堂ではなく「優婆堂」、そして姥尊ではなく「優婆尊」といいかえている。恐山の信仰庶民の「心」にとっては、「姥」ではなく「優しい婆」さまなのである。
 円空の彫像行脚とよく対比して語られるのが木喰[もくじき]行道だが、円空と木喰の彫像思想には、少なくとも大きな違いが一つある。木喰像の力作に「葬頭河婆」という三途川の脱衣婆像がある。この「葬頭河婆」像を木喰彫像の代表作の一つとみることに異存はないが、これは彫像を「作品」的鑑賞の視線でみたときの話である。しかし、円空は、木喰とちがい、生涯にわたる彫像で、三途川の脱衣婆像は一体も彫らなかった。円空の彫像思想を考えるとき、このことはとても重要な指標である。
 恐山における円空の彫像について、笹澤魯羊『下北半嶋史』は、次のように述べている。

 恐山は硫黄山なるため、亜硫酸瓦斯が絶え間なく吹き出して、あらゆる物の腐蝕が激しいので仏像、仏具、建物の朽損も速く、随て寛文以前のものは見当らない。寛文の初め廻国修行の僧円空が登つて、刻み納めた十一面観音の立像と、同じく観音菩薩の座像とがある。座像の方は後に誰か刀を加へて、半迦像に似せてある。

 観音菩薩の座像は客仏で(もとは熊谷家所蔵の像)、円空は、恐山にすでに奉納されていた千体仏の補修をするも、地蔵尊でもなく、姥尊=脱衣婆像でもなく、十一面観音の立像をここに奉納した。円空の眼は、宇曽利山=恐山には、十一面観音と習合する神が「地神」として存在することを見抜いていたことが考えられる。
 恐山は「釜臥山菩提寺」として再興された。この山号が表しているように、下北半島の最高峰である釜臥[かまぶせ]山(八七九b)は、恐山の「奥の院」とみなされ、頂上には現在「釜臥山嶽大明神本地法身仏釈迦如来」がまつられている。この山は、円仁が籠もった山との伝承もあるが、本堂(地蔵殿)の前の宇曽利山湖の対岸正面に聳える山で、恐山八峰の主峰である。この「釜臥山嶽大明神」と呼ばれる神が恐山の「地神」とみられる(円空「勤行次第手控」では「南無釜臥神」と呼称)。
 恐山祭祀をみるとき、不思議なことに気づかざるをえない。それは、恐山の「奥の院」が釜臥山とみなされていることに加え、恐山にはもう一つ「奥の院」があることである。本堂・地蔵殿の背後の地蔵山にも「奥の院」があるのである。こちらの奥の院には、不動尊がまつられている。恐山境内の案内は、この二つの奥の院と本堂・地蔵殿の関係を、次のように述べている。

恐山奥の院
地蔵菩薩は中心にして不動阿字の本体なり
      若し衆生有つて是の心を知らば決定して成就す (「仏説延命地蔵菩薩経」より)
 右の一句は地蔵菩薩と不動明王の二而不二を意味し、不動明王は地蔵菩薩の化身というのであります。それ故に当山本尊伽羅陀山地蔵大士を中心に、奥の院地蔵山不動明王、奥の院釜臥山嶽大明神本地釈迦如来が一直線上に奉納され三者が一体であることを意味しております。
 当山は伽羅陀山地蔵大士を本尊と仰ぐ霊場であります。地蔵菩薩の「地」という文字は大地をあらわし、「蔵」は生命を産み出す母胎、母の心をあらわしております。人に踏まれても、ひたすら人をささえていく大地と子の痛みを我が痛みとして、しかとうけとめてくれる母の心こそ地蔵菩薩そのものなのであります。
 即ち、釈迦如来の附属を受けた本尊の慈悲心と一切の煩悩を打ち砕く確固たる不動心の現成が蓮華の花びらのような八峰(地蔵山、鶏頭山、大尽山、小尽山、北国山、釜臥山、屏風山、剣の山)に囲まれた蓮華台の如き恐山そのものなのであります。
 ご参拝の皆様には「釈迦地蔵不動一体義」の元、右の三聖地をお参りなされる事によつて、当山参拝の結願が決定成就されるのであります。       霊場恐山 恐山菩提寺

「伽羅陀山地蔵大士」の「伽羅陀山」は、地蔵尊の浄土とされる幻想の山だが、恐山の地蔵尊のとらえかたは、地蔵尊の「地」は大地、「蔵」は「生命を産み出す母胎」、「母の心」を表すとされる。地蔵尊は、地母神的な女性性をもつ仏としてみられているようだ。このような地蔵尊の見方は、地蔵尊思想の初源にまでさかのぼるものでもある。この地蔵尊思想の「源泉」は、「遠く釈迦以前、印度婆羅門教の神話中の地天、即ち地神に求められる。この古代の神は印度が持つていた神話中の最古の女神」であった(眞鍋廣濟『地蔵菩薩の研究』三密堂書店)。地蔵尊の性別を「男」とみるようになるのは後世のことらしく、案内の文面は、地蔵尊に習合する神は男神ではなく地母神=女神とみなす恐山の立場をよく表している。
 なお、文中引用の出典とされる「仏説延命地蔵菩薩経」は鎌倉初期の作のものだが、ここで、不動尊と地蔵尊は「二而不二」と主張されているのは興味深い。この「二而不二」とは「二つにして二つではない」という意味で、したがって、「不動明王は地蔵菩薩の化身」ということになる。不動尊と地蔵尊の二尊に共通して習合する「神」へと想像力を働かせる視点へ降り立つことができれば、この不動尊・地蔵尊の「二而不二」という考え方はそれほど突拍子もないものではない。
 恐山では、不動尊と地蔵尊は一神二尊の異称同体として現れる──この二尊を結ぶ信仰ラインの先には釜臥山(の釈迦如来)が位置していて、いいかえれば、北方最奥の地蔵山・不動尊の視線は、本堂・地蔵尊の背後から南方の釜臥山・釈迦如来を見据えるという信仰ラインを形成している。案内が、「本尊伽羅陀山地蔵大士を中心に、奥の院地蔵山不動明王、奥の院釜臥山嶽大明神本地釈迦如来が一直線上に奉納され三者が一体であること」、あるいは「釈迦地蔵不動一体義」を主張するのも、この信仰ラインを述べたものである。
 地蔵尊は、釈迦入滅後、弥勒菩薩の出現までの無仏世界で、この世の救済仏として時間をつなぐ仏という役割をもつものだが、この地蔵尊背後の不動尊が、中間の地蔵尊と一体となって南彼方の「釜臥山嶽大明神本地釈迦如来」と対面していることは、これは「釜臥山嶽大明神」という地神と対面していることと同じであろう。このことは、かつて釜臥山を釈迦山と見立てた神宮寺(釈迦山神宮寺、明治期以降は八峰山常楽寺)の本尊が、その変遷はあるものの不動尊であることがよく示唆している。円空は、この旧神宮寺・常楽寺(むつ市大湊)に、釈迦如来像を一体残していて、これは、明らかに「釜臥山嶽大明神本地釈迦如来」を意識した彫像であろう。
 円空は恐山本堂に、不動尊・地蔵尊と一神同尊の「釜臥山嶽大明神」と呼ばれた神を「供養」せんがため、つまり、この神の「御形」を顕わさんとして十一面観音をあえて彫像・奉納したとおもわれる。
 では、「釜臥山嶽大明神」と呼ばれる神とはなんなのか?
 下北の地には、恐山信仰と、もう一つ釜臥山信仰が二重のかたちで存在している。前者は庶民信仰によるもの、後者は、修験信仰によるものである。江戸期、後者の釜臥山信仰を、円通寺庇護のもとに統括していたのが田名部大覚院で、同院は「釜臥山嶽大明神」の「別当所」とされる(笹澤魯羊『下北半嶋史』)。大覚院は、現在(明治期以降)、大覚院熊野神社と名乗っている。同社境内案内には、「大覚院の祖先は肥前出身の大宝院真如坊で、大永四年(一五二四)来村し、釜臥山大明神を管掌することとなった」と書かれ、また、同社神殿には「十一面観音が御神体として祀られている」と、ここには神仏分離から廃仏の猛威は無縁であったようだ。大覚院熊野神社が「御神体」を十一面観音としているというのは、ここの熊野神は、正確には熊野・那智の滝神ということなのだろう。同社神殿は、釜臥山の西方に向けて建立されていて、「釜臥山大明神」が熊野神であることを暗黙のうちに伝えている。
 ちなみに、田名部には「下北半島総鎮守」とされる田名部神社があり、同社にも宇曽利山の神がまつられている(表示は「宇曽利山大山祇大神」)。田名部神社の由緒は、元和二年(一六一六)の火事で記録が焼け詳しいことは不明とするも、康永四年(一三四一)の鰐口があり、南部氏統治以前の創建とみられる古社である。田名部神社の案内には、「当大明神(田名部大明神)は宇都宮二荒山より万民守護のため宇曽利山に御飛来、大平村荒川一本松に鎮座のところ、二十二代先別小笠原丹後霊夢により田名部村に動座」と書かれている。
 二荒山の「ふたら」は、熊野・那智の補陀落山(観音の浄土)への渡海信仰にみられる補陀落「ふだらく」をルーツとする名称で(「二荒」は転じて「日光」となる)、田名部神社の「宇曽利山大山祇大神」も熊野・那智の滝神を暗示している。宇曽利山=恐山の奥の院(不動尊)には、熊野・那智の修験者による参詣が現在もみられる(写真)。
 恐山の根本縁起を語る「奥州南部宇曽利山釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起」(文化七年、『むつ市史』所収)には、釜臥山の「山神」は「猿熊」を神使いとし、円仁に「珍膳」を供した話が挿入されている。熊野神はヤタカラスを神使いとする前は「熊」と関わり深い神であった(『古事記』・『神道集』ほか)。大覚院熊野神社と田名部神社の祭祀開始時期はそれぞれ異なるが、宇曽利山=恐山の神のルーツが「熊野」にあるとみることにおいては共通しているようだ。後年、円空は二荒山へも「地神供養」に出向いていることを添えておく(後述)。
 ところで、恐山・宇曽利山湖から流れ出す三途川は、正津川というのが登録上の正式河川名である。正津川が三途川の音の転訛に漢字をあてはめたものであることはいうまでもない。恐山の優婆堂(優婆尊)は、洪水によって幾度も三途川=正津川を流れ下ったという。現在は恐山の三途川に優婆堂はなく、河口の大畑町大字正津川に東光山優婆寺として現存している。優婆寺の案内によれば、「東光山優婆寺とは東から出[い]でる光、つまり朝日に照らされた寺(山)に優しい婆さまがいるという意味」とあり、優婆尊は朝日(太陽)と対面するようにまつられている。この東面する優婆寺については、「古は東向軒ともいうた。恐山参拝登山者の禊所で、正津川の流域に沿うて登山した」とされる(笹澤魯羊、前掲書)。恐山参詣者にとって、太陽と対面する優婆尊をまつる優婆寺は「禊所」でもあったわけだが、三途川=正津川の河口には、実はもう一つ「禊所」があった。現在の光主[こうしゅ]神社である。同社の由緒沿革を『大畑町史』から引用する。

光主神社
鎮座地 下北郡大畑町大字正津川字高待一〇ノ二
由緒沿革 天和三年(一六八三)九月の勧請
 釜臥山の山頂に祀っている釜臥山嶽大明神を勧請したもので、光主神社の奥の院になっている。釜臥山嶽大明神は田名部の修験大覚院が代々別当を務めており、大湊の兵主神社と正津川の光主神社はともに釜臥山下居大明神と号している。現在でも田名部の大覚院熊野神社の神職が祭事をつかさどっている。両社は釜臥山の登山口となっており、登山参拝する者はここで禊をする事になっていた。
祭神 蛭児命(伊邪那岐命と伊邪那美命の御子神)
 光主神社(に)は最初の頃御神体として釈迦の像が祀られていた。

 釜臥山嶽大明神は「釜臥山下居大明神」と異称されているが、釜臥山参拝者は光主神社で「禊をする事になっていた」という。釜臥山嶽大明神とされる神は、現在「蛭児命」と表示されている。蛭児命は、記紀神話ではイザナギ・イザナミの最初の子神で、しかも不出来・不具ゆえに海に流される神として描かれる薄幸の神である。
 町史は、「釜臥山嶽大明神」をまつる社は光主神社のほかに、大湊の兵主[へいしゅ]神社があると書いている。兵主神社については、次のような沿革を有していた。

 大湊鎮座の村社兵主神社は、延宝七年七月再建で、元は釜臥山下居[おりゐ]大明神と神号した。正津川の光主神社も同じく釜臥山下居大明神と神号した。登山参拝の者は、此処に禊ぎする慣例とした。〔中略〕ともに山嶽崇拝の信仰に起縁する神社である。
(笹澤魯羊『下北半嶋史』)

『下北半嶋史』は兵主神社の祭神を明記していないが、『むつ市史』によれば「伊奘諾命」とされる。釜臥山嶽大明神は、光主神社においては「蛭児命」、兵主神社においては「伊奘諾命」と、同じ釜臥山の神をまつるはずの二社で、その祭神が異なっているという奇妙さである。
 ところで、釜臥山嶽大明神の「神号」は、光主神社・兵主神社ともに「釜臥山下居[おりゐ]大明神」とされる。大覚院熊野神社の神官によれば、この「下居[おりゐ]」は、山から里に「下りて居る」という解釈とのことで、とすれば、下居は里宮と同意ということになる。しかし、これはほんとうだろうか。
 たとえば、高賀山でも内浦岳を例にみてもよいが、その山神・岳神を里に勧請してまつるとき、高賀山下居(里宮)大明神や内浦岳下居(里宮)大明神とわざわざ神号を贈る例はなく、これらは、里に勧請されてまつられるにしても高賀山大明神、内浦岳大明神、あるいは高賀山大権現とか内浦岳大権現と呼称されるのが常だ。蝦夷地・北奥羽において、「おりい」の神号をもつ神社は三社しかない。一つは蝦夷地・江差の姥神大神宮の「折居霊神」で、次が、この釜臥山の光主・兵主神社、そして、これはあとでふれるが、三社めは、巌鬼山[がんきさん]神社を元名とする岩木山[いわきやま]神社である。
 蝦夷地・江差において「おりい」と呼ばれていた神は、「姥神」とも「川濯神」ともみなされる神であった。両神は異神ではなく、その神の性格は「禊祓い」の霊神であった(「北辺の神への鎮魂」参照)。恐山・釜臥山への参詣において、三途川=正津川の河口に近接して鎮座する優婆寺(優婆尊)と光主神社(釜臥山下居[おりゐ]大明神)は、ともに「禊所」である。
 兵主神社はともかく、光主神社が三途川=正津川の河口部にまつられていることは、その鎮座立地からみて、光主神が三途川と関わり深い神であると考えざるをえない。光主神社には、「最初の頃御神体として釈迦の像が祀られていた」という。この釈迦像は、釜臥山の神(地神)の本地仏で、ここには恐山信仰と同一の発想・視点があった。釜臥山嶽大明神は恐山の「地神」であり、この地神をまつる光主・兵主神社は、同社主神を特に「おりい」の神の異称をもって呼んでいた。恐山の「地神」は、姥尊=優婆尊とも習合する神、かつ、禊ぎを司る神でもあったのだろう。
恐山の信仰ラインにおいては、釜臥山嶽大明神は、地蔵尊をはさんで不動尊と対面する神であり、あるいは、地蔵尊・不動尊に共通して習合する神とみられる。また、釜臥山・恐山の神は熊野神であることが示唆されていた。これらの諸性格がさししめす神は、おそらくは一神しか存在しない。さらにいえば、優婆尊が朝日(太陽)と対面しているという優婆寺の案内を挙げることもできる。日本の神道史において、「姥神」(脱衣婆)の規定を受けていた唯一の禊祓いの神が瀬織津姫であったが、『日本書紀』神功皇后条は、この神を「天照大神荒魂」と記すも、その正式名称は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」としていた。この長い神名にみられる「天疎」は「天離[あまさか]る」で、一般には都に対する鄙[ひな]の枕詞だが、ここでは「天から遠く離れて(下りて)」という意で、「向津媛命」は「向津日女命」である。つまり、この神は、天から下りて居る神(下居神)であり、かつ、太陽(太陽神)と向き合う女神であるというのが、その神名の含む意味である。
 光主神とされる、流され神としての「蛭児命」は、速川の瀬を人々の罪穢れを一身に負って流されゆく大祓神=瀬織津姫のイメージから選ばれた神名であろう。兵主神とされる「伊奘諾命」は、伊弉册尊の黄泉国から逃げ帰ってきて初めて禊ぎをした神で、この禊ぎのとき、最初に誕生した神が、中臣の祭祀思想において瀬織津姫の異称とされる八十禍津[やそまがつ]日神で、この禊ぎの類縁から「伊奘諾命」が祭神名として選ばれたのだろう。光主神・兵主神は、ともに「釜臥山下居[おりゐ]大明神」をまつるも、その神名に奇妙なくいちがいが生じているのは、秘すべき神に対して、類縁の神をあてはめるときの解釈の相違にすぎない。
 円空の「地神供養」の思想の眼は、恐山・釜臥山の「地神」を彫像するにあたって、真言宗・常楽寺においては、恐山奥の院「釜臥山嶽大明神本地釈迦如来」に準じて釈迦如来像を彫像するも、恐山本堂(地蔵堂)には、あえて十一面観音を彫像・奉納した。これは、姥神=優婆神ともされた恐山・釜臥山の地神の「御形」を、円空は、三途川の色合いの濃い地蔵尊や姥尊=脱衣婆の像として顕わすよりも、本来の水神・水源神を体現する十一面観音として彫像するのがふさわしいと考えたからにちがいない。この十一面観音には、円空の各地山岳霊地の地神供養の意志と、秘された地神への透徹した理解・配慮が反映していたとおもう。
 なお、優婆尊が三途川を流れ下って、河口部の大畑で優婆寺にまつられる経緯で、次のようなエピソードがあるので紹介しておく(森勇男『霊場恐山物語』北の街社)。

優婆堂の仏像は洪水のため流されて正津川(古くは妾塚、精進川)に三回も流れ下ったので、信者たちが相図り「やはり、この仏像はどうしても山から下りたいのであろう」と、その意を汲んで御堂を建ててここに祀った。それが現在の正津川優婆堂である。

 大祓神=瀬織津姫を三途川の脱衣婆「姥神」と規定していたのは、中央の祭祀権力あるいは祭祀思想の中枢座にいつづける中臣氏(=藤原氏)であった。しかし、この大祓神とされた神は、姥神=脱衣婆を演じる三途川にはもうこれ以上はいたくない、「どうしても山から下りたい」という「意」があった。これは、神であろうと人であろうと、ありうる自然の感情である。恐山には、姥神=優婆尊のこういった「意を汲ん」だ人々がいたのである。このエピソードの別伝では、「奪衣婆さま」(優婆尊)は、よりはっきりと「わしはもう亡者の衣類をはぎとることはきらいじゃ」と告げたともされる(森勇男『南部霊場恐山由来と伝説』下北文化社)。
 恐山において、奪衣婆=姥神・優婆尊とみなされた神の「心の声」を、当地の信仰庶民はたしかに受け止めていた逸話である。恐山は、伝円仁作の優婆尊の像名を「三途川祖母」と命名していた。これなども、優婆尊を単純に三途川の脱衣婆とみなすのではなく、地蔵尊=地母神とも通ずる「祖母」神をそこに投影させていた。
 恐山信仰を考えるとき、主尊の地蔵尊信仰が表の顔であることはいうまでもないが、裏の顔としては、この優婆尊信仰があったとみられる。円空の心奥にも、姥神・脱衣婆とされた神への、恐山の信仰庶民と同じ気持ちが流れていたにちがいない。(次回は「岩木山の鬼神信仰──十一面観音の集中」の予定)

526・527 伊達政宗と瀬織津姫 今野政明 2007/01/05 (金) [55630]

 私は『千時千一夜 518 北辺の神への鎮魂──姥神・駒ヶ岳の神とはなにか(1)』のなかで、「風琳堂主人」様から「仙台の読者」として紹介していただいた者です。
「ご主人」にはご多忙のなか、私の稚拙な、多少(かなり?)脱線した質問に対しても丁寧にご回答いただいております。大変感謝いたしております。
 また、このたび、そんな私の個人的興味から派生した往復メールの内容を、ひとつのテーマとしてまとめ、この場に公開することをお勧めいただいた「風琳堂主人」様には重ねて御礼申しあげます。

1、 鹽竈神社の不思議

 鹽竈神社は実に不思議です。
正面の参道から拝殿へ向う分には迷いませんが、駐車場から拝殿を目指すと、初めての方は途中で一旦足を止められることでしょう。何故なら、適度に歩いたところに立派な鳥居があるので、そこをくぐってしまう気になるからです。
しかし、実はこれは「鹽竈神社」ではなく、「志波彦神社」なのです。
さて、その配置に惑わされず、無事?鹽竈様の門まで到達し、それをくぐったとき、正面にこちらを正視する向き、ほぼ南向きで拝殿があります。そして、むかって右側、つまり東側にも立派な拝殿があります。こちらはほぼ西向きでしかも「別宮」と書いてあります。
おそらく鹽竈神社をおとずれた初参拝者の多くは、正面の拝殿に参拝することでしょう。厳密に言えば、その正面の拝殿も「左宮」と「右宮」に分かれております。
鹽竈あたりに古くから住んでいらっしゃる方ならば、そうはなりません。まず、「別宮」を先にお参りするのです。聞けば、「こっちが鹽竈様だから」なのだそうです。
また、鹽竈様は安産の神様としても有名です。安産祈願に来たことを宮司および境内関係者に伝えれば、まず「別宮」に案内されることでしょう。
鹽竈神社を専門とする唯一のガイドとして15年勤められたという、保田敏雄氏の著書 『観光の鹽竈神社(宝文堂)』P.19にこんな記述があります。

──引用──
◎拝み方の順序
拝殿が二つあるこの拝み方の順序であるが、当社は一風変わっており、右の別宮の方から先に拝む方が正しいとされている。つまり鹽竈神社の名前に由来する神様であり、また綱村公が建造物造営に当り、当社の縁故を制定された際、別宮の塩土老翁神を首位に置かれた為である。こんなことで安産のことを拝みに来た方が、知らずに正面の武神に安産を祈る―といった具合で変なことになってしまう

 何故このような配置なのでしょうか。
これは同書記載にもあるとおり、仙台藩四代藩主「伊達綱村」によるものなのです。
実は、綱村は藩祖「政宗」が造営した社殿を全く新たな配置にリニューアルしていたのです。少なくとも政宗の時代には、祭神の内容が現在とは少々異なっていたようですが、全て南向きであったようです。
つまり、鹽竈神社の現在の姿には、仙台藩四代藩主伊達綱村の意思が大いに反映されているということになります。
その考察は後述するとして、私が感じたその他の鹽竈神社の不思議を列記したいと思います。

@ 奥州一ノ宮と言われる大社にも関わらず、式内社ではないこと。
A 式内社ではないにも関わらず、全国で四社しかない正税からの祭祀料を受けていたこと。
B 全国で、正税から祭祀料を受けている他の三社はいずれも式内社であること。
C 鹽竈神社が受けていた祭祀料は他の三社の五倍以上で最高額であったこと。

念のため補足しますと、「式内社」とは『延喜式神名帳』に記載がある神社のことで、誤解を恐れずにいうなら、「国家に公式に認められた神社」と言っていいと思います。
つまり極論でいえば、鹽竈神社は「非公式」な神社だったと言うことになります。これは実に不思議な話です。「非公式な神社」が、当時国家から最も手厚い保護を受けていたことになるのです。
少しひねくれて考えるならば、国家の鹽竈神社に対する扱いは、例えが悪いかも知れませんが、まるで秘密を握る者に対し多額の口止め料を負担しているかの如くに見えます。
つまり、私は、当時の国家がなにかを恐れていたような、そんな印象を受けたのです。
それに対して、境内を同じにする「志波彦神社」は延喜式神名帳によれば「大社」つまり「名神大社(みょうじんたいしゃ)」に列せられております。つまり「公式」には「最高の扱い」の神社ということになります。
しかし、それでも特に正税からの祭祀料は受けていなかったのです。
これは、「名神大社」であろうとも正税からの祭祀料を受けられるとは限らなかった、ということの証明でもあります。いや、むしろほとんどの「名神大社」はそうだったのです。
隣同士にある両神社の待遇がこうも不自然な対比をできてしまう不可解さ。
よくよく見れば、この両神社の現在の正式名称は「志波彦神社・鹽竈神社」のようで、参拝の栞をはじめ、境内内外の多くの公式な表記にはそう記されております。これは仙台周辺に住んでいる人間からすると不自然な印象を受けます。志波彦神社がかつて別格な「大社」であったことなど、現実的には一般市民のほとんどはわからない上、地元では何と言っても鹽竈様が最大級なのです。にも関わらず、志波彦神社が鹽竈神社よりも先に表記されるのが「正式名称」なのです。

2、 志波彦神社探索からの収穫

私は、外堀を埋めるべく、まず志波彦神社を調べることにしました。
志波彦神社は、実はこの場所に鎮座したのは比較的新しく、元々は仙台市宮城野区岩切にあったことが諸々の記録に残っております。現在その地は「八坂神社」になっておりますが、名残として境内に「冠川明神(かむりがわみょうじん)」という名前で志波彦大神が祭られております。
 何故「冠川明神」なのかといいますと、付近を流れている「七北田川(ななきたがわ)」がその昔「冠川(かむりがわ)」と呼ばれていたからなのです。
実はこのネーミングも志波彦神社と無縁ではありません。地元では、「志波彦様が冠を落とした川だから“冠川”と名づけられた」という言い伝えがあります。ちなみに「坂上田村麻呂が冠を落とした」という説もあります。
ただ、田村麻呂がいかに蝦夷(えみし)に好意的であったにせよ、朝廷側の人物であることには違いません。私は仮に志波彦神に比定されたモデルが実在したとするならば、それはあくまで蝦夷側の人物(神様?)だと考えております。
話は戻りますが、冠を落とした原因も「乗っていた白馬が川底の石につまずいたから」という話と「風にあおられて」という話とありますが、とにかくここでは「冠を落とした」という由来にまとめておきます。
また一方「神降り(かみふり)」がなまって「かむり」になったという言い伝えもあります。「神降り」とは、神様が生まれること、あるいは神様がその地に降臨されたことを言うわけですが、いずれにしても「冠川」の命名にはなにかしらで神様が関わっていると考えてよさそうです。
ここで少し余談をお許しください。
「冠を落とす」ということは大事件だったのではないでしょうか。
もちろん実話だったとしての前提で、あくまで神様というより人間の感覚が前提ですが、その光景を見た人達は「縁起でもない」と考えただろうことは想像に難くありません。その人物(神様)がその地位にいることを象徴するもの「=冠」を落とすということは、その地位から転落する暗示に思えたのではないでしょうか。
これが、例え創作された神話だとしても、なぜそのような不吉な神話を創作したのか気になるところです。私は、やはり何かしらそれなりの事実(事件)があったのではないかと思っているのです。
七北田川(冠川)の岩切より上流、仙台市泉区石止(いしどめ)に「石留(いしどめ)神社」という神社があります。この神社は、志波彦の神様が、自ら乗っていた白馬が石につまずいて冠を落としたことに怒って、周りの神様達に川底の石を全て拾わせ、それらを川岸に積みあげ、そこに見張りを立てていた場所を祀ったものだということらしいのです。それ以降それより下流には一つも石がなくなったというのです。
その話からイメージするに、私の飛躍したオリジナルの仮説(想像)に過ぎませんが、もしかしたら、「冠を落とす」とは「首を落とす」という意味ではなかったのでしょうか。つまり、石留神社付近は、志波彦大神の「死」の場所だったのではないでしょうか。
念のため、「石留神社」も気になり、文献をあたりました。すると『宮城郡誌』の「二柱(ふたはしら)神社」の項において、石留神社が「御霊神社」と表現されており「武烈天皇の御陵なりしと」という言い伝えがある記述を見つけました。
「武烈天皇」の実在の有無をここで語る余裕はありませんが、少なくとも「御陵」つまり「墓」であるという言い伝えがあったわけです。
更に余談を続けますが、もしかしたら、付近の「上谷刈(かみやがり)」という地名は、語感からして、本来は「神(かみ)あがり」だったのではないかと推論を上塗りしております。
「神あがり」とは、前述の「神降り」とは対語となります。つまり「神降り」とは、神様が生まれること、あるいは神様がその地に降臨されたことを言うわけですが、「神あがり」はその逆、つまり「崩御」すなわち「お亡くなりになる」ことをいいます。
 余談がだいぶ過ぎましたが、私が志波彦神社を積極的に調査しようとした動機として、是非お伝えしたく書き込ませていただきました。
いずれは他の機会に、「志波彦大神」をテーマに、これらのより詳しい考察をまとめてみたいと念願しております。
念のため申しあげますが、これらの仮説に関して、決して「風琳堂主人」が全面賛同されているわけではなく、私のオリジナルとして捉えていただければと思います。当然ながら文責は私にございます。
 この話を「風琳堂主人」に投げかけたところ、だいぶ歩み寄って私の推論の解釈を試みていただきました。当初その解釈はあくまでメール上でのお話しで、この場に載せるべきではないと思っていたのですが、あまりにもその後の私の考察に尾をひいてまいりましたので、ごく簡単にご紹介させていただきます。
それは要約するとこういうことです。
 志波彦が仮に死んだとするならば、それは「本来あるべき姿の志波彦神としての死」、あるいは「志波“姫”神と引き裂かれた恋を象徴するもの」ではないか。
 この解釈で私が何を思ったか・・。
 仙台の有名な夏祭りに「仙台七夕」があります。七夕は言うまでもなく、天の川(あまのがわ)で引き裂かれている「織姫」と「彦星」が、年に一度出会うという祭りです。
しかし、とりあえずここではこの話を終了させたいと思います。
さて、そのような思いでいる中、仙台市内の「志波町」という地名が、実は「志波彦神社が此の地に存在していたことに因む」といった話が知人から舞い込みました。
それは以下に引用しましたが、菊地勝之助編『仙臺事物起原考』から得た情報でした。

──引用──
 そして国府の南方、宮城の東、国分尼寺の北に、現に「志波」と呼んでいる聚楽があり、そこに志波彦神社の仮宮があったと伝えられる神域があり、今に小祠が祀られている、この事実に関し明らかな記録等はないが、恐らくは往昔この地は後に岩切冠川の辺に祀られ、今塩釜神社の境内に鎮座する志波彦神社のあったあらたかな土地であつたのではないかと推定される

私は、早速現地を探索致しました。しかし、「志波町」の範囲は区画整理でだいぶ変質しており、古地図を確認しながらおおよその見当をつけて探しました。
そこで見つけたのが「姥神社」でした。
「陸奥国分尼寺」の北側にあたるのですが、その地に石碑があり、そこに祭神は「伊豆佐賣(いずさひめ)神」とありました。この女神は宮城県宮城郡利府町に鎮座するその名も「伊豆佐賣神社」の神様であり、利府町のそれは「延喜式」の「式内社」です。
石碑には、他に、ご丁寧に旧社地の住居表示まで書いてありました。そのものずばりの住居表示は既に存在しないのですが、そこであるとほぼ断定できる場所には「志和さん」という方が住んでいらっしゃいました。
もはやその「姥神社」が前掲書に言う「志波彦神社」であっただろうことは間違いないと思います。ただ「姥」に変わっていることからみて、あるいはまた、祭神が「伊豆佐賣神」という女神として表示されていることからみて、志波“彦”ではなく、志波“姫”だった可能性の方が高いような気が致します。しかも、ひょっとしたらこの地は、往昔「陸奥国分尼寺」の境内であった可能性も捨てきれないと思うのです。
それにしても、地元の式内社である「志波神」と「伊豆佐賣神」が同体神扱いとなっている部分には興味深いものがあります。
ちなみに「陸奥国分(僧)寺」の境内には、現在も「白山神社」が祀られております。これは国分(僧)寺の守護神を担っていたと考えられますが、もしかすると、この「姥神社=志波彦(もしかしたら志波姫)神社」は、同じように「尼寺の守護神」の役割を担っていたとは考えられないでしょうか。

3、一対神「志波彦・志波姫」

「国分(僧)寺」と「国分尼寺」が男女の一対であることに異論をはさむ余地はないと思うのですが、これらは「聖武天皇」と「光明皇后」が、ある種ヒステリックに全国に建立させたものです。そして、総国分寺である「東大寺」と、総国分尼寺である「法華寺」は、いわばそれらの総仕上げともいうべきものでしょうか。東大寺の「大仏」などはその総仕上げを象徴するモニュメントと思えます。
『エミシの国の女神』によると、「持統天皇」は「天照大神」が(厳密にはそのモデルが)実は「男神」であることを抹消するため、その最大の矛盾、“后神”「瀬織津姫(せおりつひめ)」の隠蔽に必死になっていたとのことです。これもまた持統天皇が自らの寿命をすり減らしてまでとり組んだ、ある種ヒステリックな行動以外のなにものでもありません。
それほどまでして、「天照大神」を女神にしなければならない事情があったということですが、それは『エミシの国の女神』に詳しく分析されているので、ここでは触れません。
 とにかく、私は聖武天皇の国分寺建立にも、それと同根の「行動原理」が見え隠れするように思うのです。
その行動原理の顕れは、尼寺の正式名称と、その本尊にみることが出来ます。
総国分尼寺である奈良の「法華寺」は、正式名称が「法華滅罪之寺」であり、そして本尊が「十一面観音」なのです。
千時千一夜の愛読者ならお気づきのとおり、そこには隠された「瀬織津姫」の代名詞ともいえるキーワードがあります。
「滅罪」と「十一面観音」です。
本来「男神、天照」の后神(対神)として最重要であったはずの「瀬織津姫」、別名「撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)命」と呼ばれた女神は、「公」からほぼ抹消され、「お祓い」の神様として「大祓の祝詞」にわずかにその名が見えるだけの存在となってしまったようです。
つまり「滅罪」の神様になってしまったわけです。
また、いろいろな形にすりかえられる瀬織津姫ですが、神仏習合の一つのパターンとして「十一面観音」に習合された例も、数々のケースから見受けられます。
聖武天皇と光明皇后が、決して余裕があるわけでもない情勢の中で、何故莫大な国家予算を費やしてまでもこれだけ大規模な寺院を全国に造営したのでしょうか。
当時、光明皇后の実家筋である藤原一族は、立て続けに不幸に見舞われておりました。
当時のことですから、当然これらは“祟りがなした災い”と感じたことでしょう。ましてや藤原氏には思いあたるフシがたくさんあったはずです。それがいかに恐怖であったかは計り知れません。その中で最大級に恐れたのは、やはり抹消(隠蔽)された超大物「瀬織津姫」の祟りなのではないでしょうか。
これはもちろん私の仮説ですが、「寺」という形を借りて瀬織津姫を本来の一対神の形で全国に祀り直したものが「国分僧寺と国分尼寺」そして「東大寺と法華寺」だったのではないのでしょうか。
さて、もし推測どおり「姥神社」が「志波彦(姫)」の変わり果てた姿であり、しかもその旧社地が国分尼寺の境内地であったならば、これはどう解すべきなのか・・。
「風琳堂主人」は、「姥神社」自体を様々な傍証から考察されていたようで、結果それも「瀬織津姫」の一つの姿として捉えていらっしゃいました。また「伊豆佐賣」の「伊豆(イズ)」も、元は「イツ」で漢字にすれば「厳(イツ)」、これが転じて「伊豆」と表記されたのではないかとし、「佐(サ)」は美的な接頭詞であるとすると「伊豆の女神」という抽象的な意味ではないかとしながらも、瀬織津姫のフルネーム「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」の中に含まれる「厳之御魂(いつのみたま)」が想起される、とおっしゃっております。
 以上のことから、おさらいしますと、少なくとも仙台市宮城野区宮千代の例においては、「姥神社(=伊豆佐賣=瀬織津姫)」の前身が「志波彦(姫)」の可能性があり、しかも往昔は尼寺の境内地内に祭られていた可能性があるわけです。
 さて、仮に尼寺の守護神として志波彦(姫)神社が祀られていたとしますと、やはりどうしても僧寺の守護神としての志波姫(彦)神社はなかったのか?という好奇心が湧いてまいります。
 そしてそれは衝撃的なものとして見つけてしまいました。
何を隠そう、この地の「白山神社」が、実は本来「志波彦神社」であったという驚くべき伝承の記述が『仙臺叢書 第八巻』の、木ノ下の白山神社の項にあったのです。

──引用──
 按するに。何れの代より。木ノ下に祭りしや詳らかならず。或曰。此地往古志波彦を祀る。是當郡の大社なり。岩切の河北を。指していふといへども。其地狭隘大社を設るにたらず。且郷人白山は志波彦たるの説あり。是を古書に考ふれば。源重之奥州刺史として。多賀城に在しなるべし。其集中に三月。祭によりて雪を冒して。小鶴を過るの歌あり。思ふに三月。祭りにより雪を冒して行く者か。況んや三月の祭禮といひ。多賀城より途を小鶴にとるといへる。木ノ下の祭禮に赴きしに似たり。識者宜く併考すへし。

 これは「志波彦大神」そのものの考察はおろか、「白山神社」と「瀬織津姫」の関係を考える上でも、かなり重要な記述です。いずれにせよ、これで陸奥國分寺及び尼寺の、守護神同士の一対神も完成してしまったようです。

4、政宗と綱村の思惑の相違

 仙台市中心部の道路網は不思議な傾きをしております。
 例えば、札幌市の東西南北に整然とした碁盤目状の街路と比べれば一目瞭然なのですが、仙台はどうも傾いております。城下町特有の攻めにくい町割の一方法と言ってしまえばそれまでですが、意図的か偶然か、ある法則性があるようです。
 そのことについては、例えば首藤尚文氏が『政宗の黄金の城』で、稲辺勲氏が『星の街 仙台』で、それぞれ独自の視点で分析しております。
 例えば後者、稲辺氏の基本的な考えでは、町割り全体が、仙台城本丸から鬼門に向けた六芒星(ろくぼうせい)を形づくる二つの三角形をなぞられたからの傾きだとしております。
 おそらくそういわれてもイメージがわかないと思いますが、そもそもこれは図を見ながらでなければピンとこない話なので、本稿では町割りに「なにかしらそのような意図があるようだ」ということだけ捉えていただければよろしいと思います。
 同書の中で、仙台には「四神」も配されているということも述べられております。
「四神」とは、北を「玄武」、東を「青竜」、南を「朱雀」、西を「白虎」、というように位置づけ、「玄武」は「亀に蛇がからみついた神」、「青竜」はそのまま「青い竜」、「朱雀」は「赤い鳥」で「鳳凰(ほうおう)」のことでもあります。そして「白虎」はそのまま「白い虎」ということになります。
 その中で、本稿の展開で注目したいのは「玄武」の「亀」です。それは仙台城の北に位置する「亀岡八幡神社」が担っているとされております。真北からずれておりますが、その傾きにも理由が説明されておりましたが、本稿では触れません。
とにかく、「亀」がそこにあり、かつ必要だったわけです。
 私はこの『星の街 仙台』をずいぶん前に読んでおりましたが、最近になり、その「亀」の部分を無視できなくなりました。
 何故なら、亀岡八幡神社は、その地に本来鎮座していた神社と、わざわざ「社地交換」されてまでその地に遷座されたものだとわかったからです。どうしてもその地に「亀」が欲しかったように思われます。
さて、それでは本来その地にはなんという神社があったのでしょうか。まず、以下に宮城県神社庁の『宮城縣神社名鑑』から亀岡八幡神社の由緒を書き出します。

──引用──
由緒
 文治五年(一一八九、鎌倉) 伊達朝宗相州鎌倉鶴ヶ丘八幡宮を伊達郡高子村に勧請した。この時霊亀出現、依って亀岡と称す。応永三十三年岡部梁川に遷座、天文元年伊達稙宗同郡西山城に遷し、又元亀二年同郡梁川に移す。天正中政宗伊達より岩手山に移る。上杉景勝の領地となったので、社司山田宮太夫清重これを憂い弟重之と相謀り、慶長六年密かに神体を護持して伊具郡丸森に到ってこれを政宗に告ぐ、同七年命じて仙台同心町(瀧澤神社)に仮宮を造り安鎮する。

 どうやら亀岡八幡神社は、現在地に鎮座する前は、一旦仙台同心町の「瀧澤神社」の地に仮宮を造られ安鎮されていたことがわかります。
ここで誤解のないように一言添えるならば、亀岡八幡神社は決して“当時の瀧澤神社の社地”に安鎮されたわけではありません。これはあくまで、「“現在の瀧澤神社の社地”に遷座された」という意味です。この部分を『仙臺市史 7』から補足すると「――政宗の命を待って假宮を仙臺同心町、後の瀧澤明神の社地に建て――」つまり、後々「瀧澤神社」が遷座されることになる場所に安鎮されたということになります。
 では、その「瀧澤神社」はもともとどこに鎮座していたのでしょうか。
『仙台市史 7』の「瀧澤神社」の説明を見てみます。

──引用──
 〜 今の亀岡神社の地に鎮座していたのを慶長七年(一六〇二)伊達政宗の仙台城築城に際し、伊達郡梁川に鎮座の亀岡八幡の神祠を大佛の前の地に遷座し、天和二年(一六八二)綱村の時、社地交換の上瀧澤神社を此處に遷座したもので、 〜

 文中「大佛の前の地」とは、先の「同心町」つまり「後の瀧澤明神の社地」のことです。
つまり、瀧澤神社が元々鎮座していた場所は、実は“現在の「亀岡八幡神社」の場所”なのです。すなわち「亀岡八幡神社」と、わざわざ社地を交換された神社は「瀧澤神社」だったのです。そして、この「社地交換」は、実は四代藩主「伊達綱村」の時代に行われたことがわかりました。
 先にも述べましたが、政宗が再建した「鹽竈神社」の社殿の配置を、現在のような配置に改めたのも「綱村」なのです。ということは、これらは綱村の意思であり、ひょっとしたら政宗の思惑はまた別なところにあったのかも知れません。
もちろん政宗の初期の構想があったればこそ継承者がその町割りを徐々に完成していったとも考えられます。
しかし私は基本的な街路計画はともかく、少なくとも宗教的側面における現在の仙台の原型は、やはり綱村の意思に因るところが大きいと思っております。
そう考える理由は、綱村の少年時代の原体験に注目すれば理解していただけると思います。
 綱村は少年時代、いわゆる「伊達騒動」で幕府からのお家取り潰しの危機をまのあたりに見て大人になっていったわけです。そのトラウマたるや推察するに余りあります。野心に満ちた政宗とは「精神の根本部分」から違っていたことは想像に難くありません。
 つまり、政宗の町割りの発想は、後年の権力が衰えてきた仙台藩にとっては、おそらく危険な部分が多かったのではないかと思うのです。特に綱村は仙台藩復権に向けて特に細心の注意をはらっていたのではないでしょうか。
 では、その政宗は、仙台の町割りにどのような思いをこめていたのでしょうか。
 元も子もないことを言ってしまえば、真実はわかりません。ただ、政宗の心情をうかがい知るヒントはあります。それは、前述の首藤尚文氏の『政宗の黄金の城』にもみることが出来ます。
首藤氏の説で興味深いのは、仙台の町割りが「月のリズム」に基づいているという部分です。
仙台城下の中心「芭蕉の辻」から奥州街道に沿って「愛宕神社」を見た場合、それは真南から左(東)に14度程振れており、それを「八日月」の方向に一致させると、仙台城方向がそこから右(西)に丁度70度振れているようです。
70度というのは「14度×5日」の角度で、すなわち「8日−5日=3日」、つまり「三日月」の方向に重なるということを指摘しております。
 さて、「八日月」は、伊達軍の精鋭部隊の兜の前立(まえたえ)のデザインに採用されております。しかも、伊達政宗の腹心「片倉小十郎重綱」に至っては、その前立にご丁寧に「愛宕神社」のご神符がつけられている具足の例があります。そして、ご存知、伊達政宗の兜の前立にはひときわ際立つ「三日月」が採用されているのです。
 つまり首藤氏は、仙台が「月のリズム」でつくられている、としておりました。これは政宗の心情を考える上で重要な指摘です。それは政宗が、なんと「瀬織津姫」を崇敬していた可能性があるからです。
それでは、その可能性について考えてまいります。
伊達家が瀬織津姫を氏神にしていた傍証として、宮城県の大崎市内(旧岩出山町)にある「荒雄川(河)神社」の境内案内に注目してみます。以下は「風琳堂主人」からご教示いただいた境内案内の栞の記載内容です。

──引用──
■荒雄川神社の歴史
 延喜式神名帳(延喜七年に編集された代表的な神社台帳)に載っている玉造郡三座の一つで、鬼首の荒雄岳上にある社を「奥の宮」と称したのに対し当社は「里の宮」と称され、神宮寺も併設されてこの地の信仰の中心となっていた。
 祭神は須佐雄尊と瀬織津媛尊で、応徳三年(一〇八六年)頃に源義家征東の際戦勝を祈って黄金の剣を奉納したと伝えられている。
 また、嘉応二年(一一七〇年)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし、室町時代には、奥州探題の大崎義隆が大崎五郡の一の宮として、崇敬し、江戸時代に至っては岩出山伊達家の氏神となった。
 寛保三年(一七四三年)に幕命により、江合川(荒雄川)沿いの三六所明神を合祀したので、三六社様とも称されている。

まず、ここではっきりと祭神の一柱として「瀬織津姫」が明記されていることは重要です。
そして「江戸時代に至っては岩出山伊達家の氏神となった。」と、少なくとも岩出山伊達家が「荒雄川神社」を氏神としていたことも明記されております。
また、『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』には同神社「荒尾“河”神社」の由緒として以下のように記されてありました。

──引用──
〜略〜 大崎氏の志田・玉造・栗原・加美・遠田の五郡を領するや、当社を一ノ宮と称し社領三十貫文を寄進崇敬した。この後、伊達政宗岩出山在城の節本社を郡内総鎮守とし、神領を献じ崇敬旧の如し。

ちなみに、この「荒尾川(河)神社」の由緒と同根と思われる、大崎市(旧古川市)にある「大崎神社」について、『古川市史 下巻』に重要な記述があります。

──引用──
三十六所神社  大崎名生館六八
 その昔、葛西監物という者が荒雄川の沿岸三十六ヶ所に神社を建立し、瀬織津姫を祀ったといわれる。明治四十二年二月、熊野神社・白山神社等を併せ大崎神社と改称された。

 以上からも「荒雄川(河)神社=三十六所明神」が主祭神としていたのは「瀬織津姫」であったことは間違いないと思われます。そして、伊達政宗が岩出山時代「郡内総鎮守」として特別な崇敬をしていたことがわかります。そして繰り返しますが、それは江戸時代には「岩出山伊達家」の氏神とされたわけです。
いわば「岩手山(岩出山)」という、当時、伊達藩の“旧首都”の総鎮守として神領を献じたというのですから、その崇敬の程が窺われるというものです。
これらのことから、伊達家が瀬織津姫をなんらかの形で重要視していたことは断言して構わないと思います。
 ここで、ひとつ重要なことを申しあげます。
伊達綱村によって「亀岡神社」と社地を交換された「瀧澤神社」の主祭神について、まだ触れておりませんでした。
実は「瀬織津姫」なのです。
しかも、現在仙台市内で唯一「主祭神 瀬織津姫」を公言している神社なのです。
それが、伊達綱村によって、仙台城からみて鬼門方向に移されていることはその意味を考えさせられます。
 ところで、伊達氏はいつ頃からこの「瀬織津姫」という「神」を崇敬していたのでしょうか。当初からこの神を氏神にしていたのでしょうか。
それを確認するためには、伊達氏の父祖伝来の地、福島県伊達市周辺にその軌跡を求める必要があります。
さて、その軌跡を探し始めると、すぐに「梁川八幡」が現れます。
これは先ほど『宮城縣神社名鑑』および『仙台市史 7』から引用した記述にあるとおり、現在仙台市内に鎮座する「亀岡八幡神社」の旧社地で、伊達氏が仙台に移るまで、あるいは上杉氏がこの地の領主になるまではここが“亀岡八幡”だったのです。
『福島市史 原始・古代・中世』に、「梁川の亀岡八幡は伊達氏代々の氏神で、伊達郡六十六郷の惣社といわれた。」と書いてあるとおり、伊達氏代々の氏神であったことは明白のようです。
つまり、本来伊達家の氏神は「亀岡八幡神社」だったようです。そしてそのことは政宗以降も代々変わらなかったことでしょう。
しかし、その一方で、少なくとも“仙台藩祖”伊達政宗に関しては、なにやら「瀬織津姫」に特別な思いを抱いていたことが見え隠れしております。
政宗が「月」に託した思いは、一体どこにあったのでしょうか。もしかしたら単に「禅宗」的な趣味かもしれません。しかし、果たしてそう言いきれるものなのでしょうか。

5、伊達政宗の野望と瀬織津姫

 司馬遼太郎氏が『街道をゆく 二十六 (仙台・石巻)』の中で、奥州の勢力が西方を圧倒するほどに育ち、爆発して西進し、大挙、富士を見たのは徳川以前に3度あったといい、その最初が14世紀の南北朝の頃、つまり北畠顕家(あきいえ)が率いたそれであるとしております。
しかし、爆発したことが前提であればそうなのでしょうが、それ以前でも圧倒的存在感を奥州に漂わせていた勢力はあります。
例えば「安倍氏」がそうであり、「奥州藤原氏」(以降 藤原氏)もまたそうであると考えております。
特に藤原氏は、全盛期の「秀衡」の時代に至っては、あきらかに「平氏」「源氏」と拮抗した勢力を展開しております。それはさながら「三国志」の様相を呈しており、秀衡は北方王国の王として、独自の国祭貿易をも行っておりました。
当然、後に奥州最大の勢力を率いた「伊達政宗」は、身近な歴史としてその藤原氏を意識していたに違いありません。
私は、政宗が仮に天下を狙っていたとするならば、それは「豊臣秀吉」の小田原攻め前までだと思っております。しかし、それは勢いからの感情であり、具体的なものとは思えません。
また、徳川の時代になってからでもその野心が見え隠れしているように思えますが、それはあくまで「あわよくば」的なものであり、「織田信長」及びその意志を受け継いだ「豊臣秀吉」「徳川家康」の三者のそれとは根本的に異なると思います。
だからと言って政宗を過小評価するものではございません。よく「遅れてきた英雄」と言われるように、政宗の実力がピークに達する頃には、もう乱世は終わっておりました。ましてや徳川時代は、国民の満足度が高い政権になっており、それを混乱させるほど政宗はおろかではなかったということです。
ただ、あくまで遅れてきた“乱世”の英雄「伊達政宗」ですから、「天下に隙あらば自分が…」という思いは常に持っていたことだろうとは思います。しかしそれは積極的なものというより、天下が乱れた際、次の「役者」が自分しかいないという思いからのものかと思います。
では、「支倉常長をローマへ派遣したのはどういうことか」という反論も聞こえてきそうです。
そのとおり、天下を狙っていなかったからといって、なんの野心もなかったかということではありません。政宗の行動を見れば野心がなかったと考える方が不自然なことです。
実際、仙台城の「御成門」や本丸御殿の「上々段の間」、同じく松島瑞巌寺の「御成玄関」や「上々段の間」、それらはあきらかに「天皇の行幸」に備えたものであります。
つまり、政宗は天皇を招くことを想定していた事はあきらかです。
天皇が一大名の居城、その他に行幸することはまず考えらないことで、それが例え天下人の居城であってもそうそう考えられることではありません。
それにも関わらず、政宗はそのような珍事に対して備えをしていたのです。私はそこに並々ならぬ野心を感じております。
それでは、伊達政宗はどのような野心を持って行動していたのでしょうか。
私は、政宗が目指していたものは「日本国君主」ではなく、「奥州“独立国”王」ではなかったかと思うのです。
それは、「徳川天下」と対等以上の立場にある「伊達天下」です。
もちろん、暦も貿易も独自であり、徳川幕府に支配されない「独自政権」です。
それはいみじくも「奥州藤原氏」が実現しかけていたことでもありました。そしてそのことは政宗の心情を考える上で重要なポイントになってまいります。
藤原氏は奥州全域に絶対的な基盤を築いておりました。
白河から平泉までの街道沿いに、一定距離ごとの道しるべとして「黄金の仏像」を置いていたとも言われております。これはよほど治安がよくなければ不可能な話です。
 さて、その藤原氏の宗教観とはいかなるものだったのでしょうか。
真っ先に思い浮かぶのは平泉の仏教文化で、どちらかといえば「浄土思想」が強いように思います。
しかし少し視点を変えてみるとある種首を傾げる部分が出てまいります。私が気になったのは、平泉「中尊寺」境内奥地に「白山神社」があったことです。
「白山信仰」といえば、どちらかといえば「修験」や「山伏」のイメージがあり、「浄土思想」とは対極の感覚に近い気がいたします。しかし、どうも藤原氏の深層には、俗に言う「白山信仰」的要素があるように思われます。それは「熊野信仰」と言い換えてもいいかもしれません。  
少なくとも『エミシの国の女神』にもあるとおり、「熊野・那智大社」に、藤原秀衡「手植え」の山桜があることは興味深い話です。同書では「秀衡は那智の滝神の名を知っていた可能性があるのである。」としております。言わずもがな、それは「瀬織津姫」のことです。
どうやら藤原氏も「瀬織津姫」に特別な思いがあるようです。
それについては、またしても「荒雄川(河)神社」の由緒が語っております。前述のとおりですが、秀衡が鎮守府将軍となったときには、秀衡はこの神社を「奥州一ノ宮」としてまで崇敬しているのです。そして繰り返しますが、この神社は、主祭神をはっきりと「瀬織津姫」だとしているのです。
以上のことから、藤原氏は瀬織津姫を崇敬していたと思われます。少なくとも藤原氏全盛期の英雄「秀衡」の瀬織津姫への崇敬については、ほぼ断定していいと思います。
 一方、前述「三十六所神社」の由緒から、「葛西監物」という「葛西」の姓を名乗る人物が「瀬織津姫」を崇敬していたことがわかっております。
葛西といえば、やはり鎌倉時代以降、北上川を地盤に繁栄した大型大名「葛西氏」が思い浮かびます。葛西氏は、伊達政宗が現れるまでの、実に約400年間という長きにわたって北上川流域に君臨していた名族です。
葛西監物は、名族「葛西氏」の地盤に程近いこの地域で「葛西」を名乗り、しかも堂々と36ヶ所もの神社を建立できた実力からして、葛西氏の流れをくむ人物であることは間違いないことでしょう。
そうなると、名族「葛西氏」もどうやら「瀬織津姫」を信奉していたことが想像できます。
また、葛西氏のライバル「大崎氏」についても「荒尾川(河)神社」の境内案内が語るとおりです。
大崎氏は、足利将軍家の分族で、陸奥探題として奥州に入った「斯波家兼(しばいえかね)」を祖にもつ名門です。
少なくとも、12代「大崎義隆」の時代にはこの瀬織津姫を祀る荒尾川神社を「大崎5郡の一の宮」として崇敬していたことが、荒尾川神社の例からわかっております。
ちなみに、「斯波家兼」の子で、現在の山形県に入った「斯波兼頼(しばかねより)」が、大大名「最上氏」の始祖となります。
さて、大崎氏について傍証を重ねるならば、「三十六所神社(大崎神社)」が鎮座する「大崎名生館」という場所は、その名のとおり「大崎氏」の居城跡です。そして「名生城」の土塁や堀跡の遺跡範囲からみて、この神社は城郭内にあったと考えられます。つまり大崎氏にとっても瀬織津姫が特別であったのです。
ところで、少し気になる話もあります。
まず、『古川市史 下巻』にある「熊野神社」をご覧ください。

――引用――
熊野神社 大崎字名生 
大崎氏初代「家兼」が奥州探題に補されて当地方に下向、当初黒川郡に居を構え、その後名生城を構築して移ったとき氏神として勧請し、大崎五郡の総鎮守としたと伝えられる。二百数十年にわたり崇敬され、大崎氏没後村民の守護神として祭祀されてきた。

これを見ると、一見、大崎氏の氏神は「熊野神社」のように思えます。前述、荒尾川神社を一の宮とした「大崎義隆」は、大崎氏の12代にあたります。ここにも歴代との見解の相違があったのでしょうか。
私見を述べますと、これは初代「大崎(斯波)家兼」のカモフラージュではないでしょうか。
これは先ほどの葛西氏にも言えることですが、大崎氏(斯波氏)も葛西氏も、ある意味で「藤原氏の後任」としてこの地を任せられた大名です。
つまり、「勝者源氏」から、その敵「敗者藤原氏」の本拠地を授かった大名なのです。まさか、源氏及び足利氏の全盛期に、藤原氏が「一の宮」にしていた神社をそのままあからさまに崇敬するわけにはいかなかったのではないでしょうか。
だからこそ三十六所神社の由来も「葛西清重」などの本家筋の名を明言するのではなく「その昔、葛西何某」と直撃をさけたのではないでしょうか。
したがって、私は大崎初代「家兼」が、「熊野神社」の奥にみていたものは、やはり「瀬織津姫」だったのではないかと考えるのです。
その証拠は、当地の「白山」と「熊野」という神が、明治期になって瀬織津姫を祀る「三十六所神社」と合祀されたことが物語っていると思います。
何故「白山」と「熊野」なのか、そこにもより深い意味を感じますが、本稿では追求をやめておきます。
さて、政宗が秀吉に封じられた岩出山(岩手山)は、本来この大崎氏の勢力範囲でした。その岩出山の地に前述の「荒雄河神社」もあるわけです。
こうしてみてくると、少なくとも藤原氏、葛西氏、大崎氏と、この地を支配していた名族は例外なく「瀬織津姫」を信奉していたように思われます。
あらためて『エミシの国の女神』というタイトルに拍手をおくりたくなりますが、政宗の最終的な支配地、仙台ではどうだったのでしょうか。
もちろん仙台(千代)も例外ではありません。國分寺の「白山神社」、「瀧澤神社」と、その影はあきらかに大きくゆらめいております。
政宗の前にこの地を支配していたのは「国分氏」です。
国分氏は「白山神社」を氏神にしていたとされております。「若林区木ノ下」のそれはまさにその最たるものの様相を呈しておりますが、前述のとおり、この白山神社には「志波彦神社」の影が見え隠れしております。
「志波彦」は「志波姫」とセットで考えなければなりません。
 様々な文献に目をとおしていると、もう一社「国分氏の氏神」としてよくあらわれる名前があります。それは「ニワタリ」です。
現仙台市泉区が泉市だった頃の市誌、『泉市誌 上巻』の「二柱(ふたはしら)神社」の記述を引用いたします。

──引用──
27 二柱神社
鎮座地 市名坂字西浦
祭神 伊弉諾命 伊弉冊命「明細帳」
祭日 五月八日 一〇月三〇日
【由緒沿革】 旧社殿は昭和六年八月焼失し、昭和一五年の建築である。
本社はもとに仁和多利大権現と称し、国分氏の氏神であった。〜省略〜

 記述にある「仁和多利大権現(にわたりだいごんげん)」は、福島から宮城に点在する「三渡」「仁渡」「鬼渡」などとおなじ神様のようですが、ここで興味深いのは「ニワタリ」であったものが「二柱(ふたはしら)神社」に改称されている点です。
下世話に申しあげれば、神様を数えるときは「1柱(はしら)、2柱、3柱…」というように「柱(はしら)」という単位で数えてまいります。
現在この神社を参拝すると、「多賀大社御分霊」というノボリが目につきます。「多賀大社」は「伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊(いざなみ)」という男女二柱の代名詞のような神社です。これらのことから、「ニワタリ」は「男女二柱の神」すなわち一対神を祀っていたことが浮き彫りになってまいります。
「一対神」。また出てまいりました。ここにも瀬織津姫の影を感じざるを得ません。
 また、余談ですが、私は個人的に、この市誌にある「焼失した」という記述が気になっております。市誌の記述では「昭和6年8月」になっておりますが、現地境内案内文及びHPによれば、「昭和4年8月31日未明、原因不明の怪火により社殿全焼」ということになっております。
何故気になっているかと申しますと、「オシラ神と伊勢・熊野の関連」を調べようとしていた「ネフスキー」に「其の筋の眼が光るようになった」後の、言うなれば志半ばの帰国がまさに同じ頃「昭和4年 秋」だからです。
この両事件は同根ではないかと疑っております。
国分氏の氏神の話に戻ります。
表面上、国分氏は「白山神社」と「仁和多利大権現」という2種類の氏神を崇敬していたかに見えますが、どうやらこれは同じもののようです。国分氏は一貫して「瀬織津姫」を信奉していたのではないでしょうか。
 さて、伊達政宗以前に陸奥の地に君臨した英雄達の氏神を考察してまいりましたが、どうにも「エミシの国の女神、瀬織津姫」の影は色濃く見え隠れしてまいります。このことは大いに政宗にも影響を及ぼしたと考えられます。
 政宗以前の伊達家が瀬織津姫を信奉していたか否かは、今後もう少し調べていきたいと思っておりますが、少なくとも政宗にはその影響が見え隠れしております。
いずれにしても公的な文献を見ていく限り、伊達家代々の氏神は「亀岡八幡」であることには間違いありません。私はもしかしたら、政宗の瀬織津姫への信奉は後天的なものではないかとも推測しております。
あるいはそれは決して「亀岡八幡」とも矛盾しないものかも知れません。政宗は、「亀岡八幡」に本来の「八幡神」を仮託していたかも知れません。
そこにはどんな心理が潜んでいたのか…。それこそが政宗の野心とリンクするのではないでしょうか。

6、はてノ鹽竈

「風琳堂主人」は、私が謎としていた「鹽竈神社別宮」にも瀬織津姫の可能性を指摘されております。「別宮」祭神は、公式には「鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)」という「男神」とされているのですが、それをまず疑う必要があるというのです。いただいたメールでは、その理由として、

@ 鹽竈神社別当「法蓮寺」が出した「安産掛軸」の神像が、釜を頭に載せた「女神像」として描かれていること。
A 紀州和歌浦の海岸洞窟に鎮座する「鹽竈神社の主祭神の配祀神」に「瀬織津姫」の名が今に残されていること。

を挙げていらっしゃいます。実に驚くべき情報をご教示されたものです。
 その、「女神」として疑わしい鹽竈神社縁の地に「姥神」を思わせる「姥崎」があり、しかも古地図によれば参道前の運河の名が「祓川」という部分も無視出来ません。「姥」も「祓」も瀬織津姫のキーワードとして重要だからです。
 しかも、その「祓川」の畔附近に、現在も「波(浪)切不動尊」が鎮座しております。
 これも『千時千一夜 519』における「風琳堂主人」の記事から、鹽竈の地と「瀬織津姫」を因果づける傍証となることでしょう。
どうやら、徐々にではありますが、私が本稿当初に投げかけておりました、「鹽竈神社の謎」が透けて見えてまいりました。
昭和2年に鹽竈神社社務所から発行された、当時の宮司「山下三次氏」による『鹽竈神社史料』には、「諸国の鹽竈神社」として各地に分霊された鹽竈神社を列記してあります。 
その中で、「風琳堂主人」によれば主祭神の配祀神に瀬織津姫の名が見られるという、紀州和歌浦の「鹽竈神社」の項に、実に興味深い記述がありました。

──引用──
 和歌山縣海草郡和歌浦町字明光坪|鹽竈神社|無格社|祓戸神四座|
由緒。古へ天野丹生明神ノ神興玉津島へ渡御ノトキ此窟ノ内ニ渡セシ故ニ興窟ト云ヒ又興洗岩トモ云フ元窟神社ト稱セシヲ大正六年十一月二十二日鹽竈神社と改稱許可。
〔一説ニ、鹽槌翁ノ法ヲ傳ヘラレタル處十三箇所アリテ和歌ノ浦ノ鹽竈ハ其ノ九箇所目ニアリ奥州の鹽竈ハ十三箇所目ニアリテ世に之ヲ「はてノ鹽竈」トイフ――大正十五年三月該社ノ調査ニ依ル〕

 これは不思議です。
記述の“一説”によれば、鹽竈の「公」の主祭神、「鹽土老翁神」が「法を伝えた」すなわち製塩方法を伝えた場所は全国に13ヶ所あるということです。ところが、陸奥の鹽竈神社から分霊されたはずの紀州和歌浦のそれはその9番目で、当の本社がその最終13番目になっているということです。つまり紀州のそれは「鹽土老翁神の法」においては、本社より先輩にあたるということになります。
それ以前に、そもそも諸国に分霊しているはずの本家本元が、最終「はてノ鹽竈」というのはどういうことなのでしょうか。
少し私なりの解釈を述べさせてもらいます。
これは、「瀬織津姫」として「最終」という意味なのではないでしょうか。そしてその後「鹽土老翁神」として「その性格を変えられた瀬織津姫」が諸国に分霊されたという意味ではないのでしょうか。
例えば、鹽竈神社には多かれ少なかれ、「中央の貴人の一族が落ち延びてこの地で鹽竈大神になった」的な伝承がいくつかあります。概略を列記してみます。

@『鹽竈大明神御本地』
 垂仁天皇の孫、花園少将が敵の讒言に遭って都を追われるが、同地に身を潜めて艱難辛苦を乗り越え、のちに一家郎党とともに鹽竈明神以下の諸神となった。
A『余目記録』
 年号以前に、仲哀天皇の孫、花園新少将が流人としてさまよった後、東海道15ヶ国北陸道7ヶ国両国の知行を有し、御一期の後、鹽竈明神としてあらわれ、大同元年に宮城の郡に立ち給った。

また、『春日権現記』によれば、「春日大社」および「鹿島神宮」の主祭神「武甕槌(たけみかづち)神」は、「鹽竈の浦」に降りたち、その後常陸の「鹿島」に移り、その後「三笠山」すなわち「春日大社」の神域に移ったとされております。
また、偽書と名高い『先代旧事本紀大成経』のなかに、「神武東征」のおり、「神武天皇」に寝返った「饒速日(にぎはやひ)命」に、結果的に裏切られた形となった「長髄彦(ながすねひこ)」が、実は死なずに落ち延びて、鹽竈の地で製塩を教え広め、「鹽竈の神」になったという説があることも決して無視できず、興味深いものです。
 これらから、鹽竈大神にまつわる一連の共通する考え方として、「ある神にとって、鹽竈は終わりの地であり始まりの地でもある」といったところでしょうか。
 もしかしたら、これは「死と生」の境も意味しており、「岐(ふなど)神」といわれる所以であるかもしれません。そして、これが「鹽竈神社別宮」が「安産の神」である所以かもしれません。
 ところで、「鹽竈」の地は「千賀の浦」すなわち松島湾を望む景勝地にあるわけですが、松島全体と一体的に考察する必要があります。それは『志波彦神社・鹽竈神社』公式HPの次の記述からもわかります。

──引用──
 当時の塩竈とは今の塩竈松島一帯を指しておりました。そしてこのみちのくのイメージは西行を経て松尾芭蕉の『奥の細道』で日本人に定着することとなります。

 もしかしたら鹽竈神社は「はてノ鹽竈」すなわち「鹽竈・松島」という「神の一大霊場」そのものを遥拝する特別な神社だったのかもしれません。
 私は、本稿当初に投げかけていた謎、すなわち鹽竈神社が他に例をみないほど別格であり、桁違いの祭祀料を受けていたことの理由がそこにあるのではないかと考えます。
そのことについて、「鹽竈・松島」を代表するもう一つのモニュメント「瑞巌寺」をとおして考えてみたいと思います。
瑞巌寺は仙台藩にとってもちろん大切な寺院でしたが、政宗にとってはその後の藩主とは比較にならないほどの“最重要”な寺院でした。
それはさながら政宗の精神世界の最終的な集大成の場でもあるようです。
一説によれば、政宗はこの瑞巌寺を自らの「最終の地」として選んでおります。
『東奥老士夜話』によりますと、あくまで「夜話」ではありますが、政宗は「対幕府戦」を想定していたようで、万策つきた場合の切腹場所まで決めていたといいます。
その場所こそ、この「瑞巌寺」なのです。
つまり、逆に言うならば、政宗の精神世界を知る上では「瑞巌寺」に秘められたものを探り出す必要がありそうです。
瑞巌寺のHPから、沿革を記します。

──引用──
瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」という。現在臨済宗妙心寺派に属している。
開創は平安のはじめにさかのぼる。天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅を奉じ、3000の学生・堂衆とともに松島にきて寺を建立した。この寺は延暦寺と比肩すべき意を持って延福寺と命名された。延福寺は平泉・藤原氏の外護を受けた。
藤原氏が滅亡した後は鎌倉幕府が替わって大檀越となった。北条政子は当時学徳一世に高かった見仏上人に仏舎利を寄進し、夫の菩提を弔わせている。仏舎利・寄進状は今に伝わっている。
この天台宗延福寺は鎌倉時代中期、開創以来28代約400年の歴史を持って滅亡してしまった。 法身禅師が開山とされ、天台宗延福寺にとって替わった寺は、円福寺と命名された。正確な開創年はわからない。歴代住持の経営努力によってその勢力を岩手県南部にまで伸長していった。寺格も五山十刹に次ぐ諸山の高位にあった。しかし、戦国時代を経て次第に衰退し、妙心寺派に属した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが終了した後、仙台に治府を定めた伊達政宗は、仙台城の造営と併せて神社仏閣の造営も行った。塩竃神社・仙台大崎八幡宮・陸奥国分寺薬師堂が相次いで完成する。
当寺の造営は特に心血を注いだ事業であった。用材を紀州(和歌山県)熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運んだ。大工は梅村彦左衛門家次一家や、刑部(鶴)左衛門国次ら名工130名を招き寄せた。工事は慶長9年(1604)、政宗自ら縄張りを行って始まった。丸4年の歳月をかけ、慶長14年(1609)完成。
伊達家の厚い庇護を受け、瑞巌寺は90余りの末寺を有し、領内随一の規模格式を誇った。
〜以下省略〜

 記述によれば、政宗が自ら縄張りを行ったというのですから、その意気込みの程が伝わりますが、政宗以前にも相当な歴史をもつ寺院であることがわかります。
特に「慈覚大師円仁(じかくたいしえんにん)」が、「比叡山 延暦寺」に比肩すべき意をもって「延福寺(えんぷくじ)」と名づけたという意味は大きいと思います。また、記述は少ないですが、やはり「奥州藤原氏」の影も見えております。その後、北条政子が「夫の菩提を弔わせている」とありますが、彼女の夫ですから、つまり「“源頼朝”の菩提を弔わせた」ということになります。
こうなると、もはや「奥州の聖地」にとどまりません。なにかしら広義での霊場としてあるいは宗教の聖地として、松島は特別な場所のようです。
「風琳堂主人」の出版が待たれますが、美濃国に始まった「円空」の旅の奥州最終の地が「松島」であったということも無縁ではなさそうです。
また、「松尾芭蕉」は『奥の細道』の序文にて「松島の月先(まず)心にかゝりて」と、さもこの旅の目的が「松島」であることをほのめかしていたことも見逃せません。
 これらはやはり松島、いや「鹽竈」も含めた松島一帯が他に例をみない「特別な霊場」であったこと故ではないでしょうか。それがまた「鹽竈神社」の特殊性にも影を落としているのだと推測いたします。
 ところで、『奥の細道』の序文にキーワード「月」が出ておりました。
芭蕉は「松島の月」がまず心にかかったとしているわけですが、それを“風景”としての「月」のことと捉えていてはあまりに浅く、なにか大きな勘違いをおかしそうな気がいたします。
また、政宗もあきらかに「月」への特別な思いを抱いていたようでした。兜の前立のデザインしかり、もしかすると町割りの発想しかり。
なにしろ政宗です。これらも、いわゆる「風流」としてだけの意味で捉えるべきではないと考えます。私はやはりそれらの「月」には隠語としての「瀬織津姫」の姿を写しだしていたように思えます。
「月」といえば「太陽」の「対」の言葉でもあります。
「太陽神=天照」に対し、「月神=瀬織津姫」という図式も成り立ちます。

奥州の英雄「伊達政宗」は、その屈強な軍事力と狡猾な作戦をもって奥州を席巻していきました。そこには負け組みとなってしまった幾多の一族がおりましたが、先に見てきたように、その多くは「瀬織津姫」を大切に信奉していたようです。
やがて、更に強大な中央軍と相対峙するにあたり、政宗にはいわゆる“ナショナリズム”にも似た感情、つまり“自身も蝦夷”であるという感情が芽生えていったのではないでしょうか。
そして、過去に中央勢力に敗れ去った阿弖流為、安倍氏、藤原氏等、それら先達の心が乗り移り、いつしか政宗自身が「エミシを代表する英雄」化していったようにも思えます。
あくまで想像ではありますが、政宗が目指していたかも知れない「奥州(独立)国」が実現していれば、その国ではもしかしたら、大和によって封印された“本来の”「天照」そして「瀬織津姫」像が堂々と描かれていたのではないでしょうか。
政宗の月を愛する心情にはそのような思いが潜んでいた気がいたします。

528・529 岩木山の鬼神信仰──十一面観音の集中 風琳堂主人 2007/01/20 (土) [56600]

はじめに

 森鴎外の短編小説に『山椒大夫』があります。作品中の時代設定は永保の頃(一〇八一─一〇八四)とされます。話の概要は──、「陸奥掾」平正氏(岩城判官正氏)が国守の謀反に連座して九州へ流されたため、正氏の妻と、子の安寿姫と厨子王、そして乳母の四人がともに手をたずさえ、はるばる九州の地へ父に会いに向かうことになります。道中、越後の直江津で山岡大夫に騙され、安寿姫と厨子王は丹後・由良の山椒大夫に売られ、母は佐渡へと売られます(乳母は海に身を投じます)。山椒大夫に売られた安寿姫は汐汲み、弟の厨子王は柴刈りと酷使され、安寿姫はついに自らの一命をもって弟を逃がします。その後、厨子王は都(清水寺)でその出自を証し、「丹後の国守」となります。厨子王は元服して正道と名乗り、丹後で姉の弔いをし、さらに佐渡に渡って母と劇的な再会を果たすところでこの物語は閉じられます。
 作品は地蔵尊の加護を下敷きとしていますが、時代設定にみられる「永保」は後三年の役のはじまる時代にあたります。物語の背景を考えますと、安倍氏滅亡の前九年の役の余火の影を引いていること、奥州藤原氏の台頭へとつづくという時代であることに意味があるようにおもいます。この悲劇のヒロイン・安寿姫が岩木山の神ともみなされる説が江戸期に登場しますが、ここには安倍氏および奥州藤原氏に信奉された神(女神)が投影していたものとおもいます。
 奇しき縁か、円空の蝦夷地での観音の一つは、明治の神仏分離による廃仏の嵐を満身創痍にでくぐりぬけ、岩城判官=小山判官をまつる岩城神社(江差町)に奉納されています。
 本稿では安寿姫=岩木山神の話にはふれていませんけど、奥州藤原氏が信奉した神を示唆する神社が、宮城県玉造郡岩出山町(現大崎市)にあります。荒雄川神社といいます。境内案内によれば、同社の主神は「瀬織津媛尊」とされ、「嘉応二年(一一七〇)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし」たと書かれています。瀬織津姫という神が、安倍氏の末裔・藤原秀衡(奥州藤原氏)によって信奉されていたことは重要な神社伝承だとおもいます。
 円空と瀬織津姫の地神供養の関係は、この津軽の霊峰・岩木山にもみることが可能かどうか。津軽富士の異称をもつ北奥州最高峰の秀麗な山である岩木山には「鬼」の思想・信仰も重層してみられます。


一 ふたたび津軽へ

 下北半島・大間町と風間浦町の境界地に折戸山(一一九b)がある。山上には折戸神社奥宮、風間浦町蛇浦には同社里宮がある。氏子総代の若佐氏によると、折戸神は「海からやってきた石神」で「女神様」とのことだ。『風間浦村史』も同じく「天女」の伝承を記録しているし、奥宮の社殿については、「両端に女神の切り方をした千木を置き、五基の堅魚木を置いている」とも書いている。奥宮の境内には神水の井戸があり、厳寒の正月の若水汲みは現在もみられる。折戸山はけっして高い山ではないが、まわりにそれ以上の山がなく、航海の目印の山とされる。折戸神は、航海の守護神・水霊神とみなされているようだ。明治期以降の奥宮の祭神は天児屋根命、里宮の祭神は倉稲魂命とされ、奥宮と里宮で祭神が異なっていて、ここも釜臥神と同じく奇妙な表示をしている。折戸神が「女神」であるにもかかわらず天児屋根命(中臣氏祖神)と表示されるケースは、蝦夷地・駒ヶ岳の折戸川・大沼の水神と同じかとみえる(「霊場・太田山の秘神」参照)。
 下北・女館村には法呂神社がある(法呂は宝竜の転)。菅江真澄は『奥の浦々』で同社の神は「姫大神」と記していたが、明治初年の「神社取調帳」では、祭神は「春日大明神・天児屋(根)命」と変更されている(『むつ市史』近世編)。春日大社の姫大神(=瀬織津姫)が中臣氏祖神=天児屋根命に変更されるというのは一つのパターンであるようだ。
 蝦夷地において、「明治天皇の勅命」をつかってまでも祭神名を変更しなければならない神として瀬織津姫という神はあった(苫小牧市・樽前山神社)。しかし、この祭神変更は、明治期に顕在化したことは事実だが、明治新政府の神仏分離から国家神道の構想によって歴史上初めてはじまったものではなく、古代から折りにつけなされてきたものである。このことは、伊勢神宮を筆頭に、美濃の高賀山や蝦夷地の姥神祭祀、恐山・釜臥山祭祀などに象徴的にみられることである。円空の山岳霊地の「地神供養」の旅は、下北の地から津軽へと赴くことになる。
 距離にすればおよそ十キロ、下北半島と津軽半島の間を平舘[たいらだて]海峡という。津軽海峡の入海である陸奥湾の平舘海峡を船で渡ることに、それほどの難はない。津軽半島東岸部は、江戸期まで外ヶ浜と呼ばれていた。これは、西岸部の日本海側が、小泊や鰺ヶ沢、さかのぼって中世の十三湊などにみられるように、主要航路の基地港としての「表」の顔をもっていたことで、陸奥湾側の海岸部はその「裏」にあたることから外ヶ浜と呼ばれていたようだ。
 円空は、この外ヶ浜沿いに彫像をいくつか残している。
 津軽半島最北の龍飛崎の三厩[みんまや]に、円空再興とされる龍馬山観音堂がある。現在、ここは義経寺[ぎけいじ]といったほうが通りがよいが、その寺名が示すように、ここは源義経の北行伝説を伝説以上に語り継ぐ本州最北の地である。
 義経寺観音堂の本尊秘仏は、義経の護持仏、白銀の一寸二分ほどの聖観音とされ、これは、円空彫像の座像観音の胎内仏として収まっている。したがって、円空の観音像も秘仏とされ、三十三年ごとにしか公開されていない。円空がこういった秘仏扱いを望んでいたかどうかといえば、それはまったく別のことだろう。
 ところで、円空が土地の人々とともに建立した観音堂だが、ここには鳥居こそ建っていないものの、前には拝殿があり、本殿が観音堂となっていて、これは神社様式の建立とみられる。拝殿はあとから建立されたものだろうが、拝殿前の鳥居の位置にはかつて松が二本立っていたし、義経寺山門には注連縄さえかけられている。円空の神=仏の彫像思想は、ここには暗黙にに継承されているようだ。観音堂の立地(建立の向き)は、円空のときから変更がないとのことである。興味深いことに、拝殿─観音堂を拝む先は真北ではなく北西方向で、ここはどうやら蝦夷地・松前(あるいは、その先の太田山)を拝むように建立されているらしい。
 三厩は、松前藩が参勤交代で江戸へ出向くときの起点となるところで、いわゆる松前街道がここからはじまる(江戸からみれば、三厩が終点)。円空は、この松前街道沿いに、蝦夷地と同形式の彫像を残していた。三厩のほかに、平舘・福昌寺(平舘神社)、蓬田・正法院、油川・浄満寺である。これらは、松前藩主が参勤交代のときの松前街道における休憩所でもあった。松前街道は油川(青森市)で羽州街道に入るが、これらの寺社に、円空が彫像を奉納したというのは、蝦夷地での松前藩の厚遇に対する深謝の気持ちが表れているのかもしれない。円空の律儀な性格の一面を、外ヶ浜=松前街道沿いの彫像にみることができるようだ。
 円空にとって、松前藩の優遇と対極的な処遇を受けたのが津軽藩だった。この津軽の地に、円空は、十一面観音を三体残している。かつて円空に早々の立ち退きを迫った津軽藩であったが、円空が津軽の地にこだわる理由があったとすれば、それはおそらく一つしかないだろう。津軽の霊峰・岩木山、あるいは、岩木山の「地神」の存在である。
 岩木山(一六二五b)は津軽地方のシンボリックな山で、これは蝦夷地の駒ヶ岳、恐山の釜臥山から視認できる山でもあった。


二 岩木山の「秘神」

 山を征する者は領民を征す──これは、津軽藩のためにある言葉だといっても過言ではない。それほどに、「山」、つまり、岩木山は、津軽平野はもとより、津軽地方の信仰的中心に屹立する象徴的な山である。
 岩木山信仰は、明治期の廃藩後も、そして戦後現在においても色褪せていない。しかし、では岩木山にはどういった神がいるのかという問いを立ててみると、岩木山信仰の根深さとは裏腹に、とたんに深い霧におおわれていることに気づかざるをえない。
 この「深い霧」の一因としては、津軽藩初代藩主・津軽為信の統治意識による愚行も遠因として挙げておく必要がある。加藤慶司『古文書による津軽の神社縁起』(私家版)は、次のように指摘していた。

 又津軽為信は約四〇〇年前に津軽を統一し、その際津軽各地から回収した古文書は、三六八年前寛永四年の雷火によって、天守閣が炎上し凡て焼失した。このため神社の古記録も失われ、今は三一五年前(延宝八年…引用者)の堂社帳・山伏が最も古い記録なのである。

 津軽藩内の神社記録は、延宝八年(一六八〇)の前にさかのぼるものは存在しないとのことだ。また、『津軽の神社縁起』は、江戸時代の「御祭神の記録はなく」とも書いていて、そのとおりとすれば、岩木山の神にまつわる霧は深まるばかりということになる。
 岩木山の神を語ろうとするとき、神社の古記録が「ない」とすれば、周辺の伝承を総合して推測するしかないわけだが、岩木山祭祀中枢の記録にわずかな痕跡があるので、まずはそれを紹介しておく。
 元禄十四年(一七〇一)九月、津軽藩は、藩命によって、岩木山神社の別当寺である百沢寺に古記録・伝説等を書き出させている。この記録の「別記」に「岩木山境内附什物記」が添えられていて(小館衷三『岩木山信仰史』北方新社、所収)、その内容は、たとえば、岩木山山頂の「岩木山御室」については「(津軽)為信公より以来、度々御建立 御神体十一面観音 金像御長一尺二寸」とあるように、什器ばかりでなく、「御神体」についても、かなり詳細な記録を載せている。しかし、この記録でもっとも興味深いのは、「下居宮」(里宮の岩木山神社の通称)の項を、「秘神故寸尺不詳 三体中神二尺七寸」と、別当=祭祀者自身が、岩木山の神を「秘神」と書いていることである。
 津軽の神々は、津軽為信の中央の祭祀意識を踏襲した社録没収という愚行を遠因として不詳を余儀なくされてきたが、元禄十四年の藩の内部文書においては、少なくとも岩木山の神は、たんに不詳神ではなく、わざわざ「秘神」と書かれていた。このことは、岩木山祭祀の中枢においては、それなりに岩木山の神を認識していたことを表している。
 岩木山の神は「秘神」である──。この認識は、逆説的に、岩木山の本来の神を暗示してあまりあるというべきかもしれない。なぜなら、日本の神道史において、「秘神」とされる神は二神に限定されてくるからだ。その一神は、伊勢の地主神でもあった男系太陽神、もう一神は、この男系太陽神と対[つい]の関係をもつ女系月神・水神である。後者の神の広範な祭祀は、天智から天武・持統時代にかけて成立する律令制天皇制国家、あるいは『古事記』(七一二)や『日本書紀』(七二〇)成立の前にさかのぼるものでもある。
 おそらく岩木山も例外ではない。文化八年(一八一一)に撰述された「岩木山縁起」の巻末には、岩木山が、たんに一津軽地方の霊山・霊場ではないことが、次のように強調されている。

 蓋し、藩の岩木山有るは、猶[なお]洛(京都)の叡山有るが如きなり。故に藩公、世々帰依崇信せざらんや、至さざらんや。況[いわ]んや、当に日本の鬼方、寔[まこと]に鎮護第一の霊場也。故に曰く、岩木山は辺遇に僻在[へきざい]すと雖も、其の名を日本に特に檀[ほしいまま]にする也。抑[そもそ]も故有る哉。       (『岩木山信仰史』所収)

 岩木山は津軽藩庁がある弘前からすると西に聳える山で、厳密にいえば、津軽藩にとっては艮[うしとら]=鬼門(東北)の位置にはあたらない。しかし縁起は、このことにふれることなく、岩木山は「日本」の鬼門(鬼方)を鎮護する山だと、「日本」にまで拡大して主張している。岩木山神社楼門の現在の額には「北門鎮護」と記されていて、これは、藩政時代の「日本の鬼方、寔[まこと]に鎮護第一の霊場也」という認識を継承したものであろう。
 岩木山が、もし「日本」の鬼門を鎮護する「第一の霊場」であるならば、ここには「第一の霊場」にふさわしい「第一の霊神」がいるということになる。縁起の文末で「抑[そもそ]も故有る哉」と反語的に嘆じられているのは、岩木山神は「秘神」である、しかし、この神は、日本の鬼門鎮護にとっては「第一の霊神」であるという、禁忌意識と尊崇意識の裂け目が書かせたことばだろう。岩木山神は「故有る」神ゆえに「秘神」とみなすというのが津軽藩の祭祀意識である。
 岩木山において、その本来の山神の名は秘すという禁忌[タブー]意識がどこからやってくるかといえば、それは、日本の神まつりの絶対聖域を固守しようとする中央の祭祀思想に、自らの祭祀意識を同化せんとすることに淵源がある。この津軽藩の中央的祭祀意識が、自国の領民の守護神たる岩木山神を、厚い霧のベールに包んできたとみられる。
 円空は、蝦夷地行の前に、すでに男系太陽神を「天照皇太神」の名で、また、その対関係の女神像の「御形」を彫像していた(「阿賀田大権現とはなにか」参照)。彼は美濃国への帰郷後も男神「天照皇太神」を彫り続けるが(現存総数は八体)、神宮祭祀の基層・真相を正確に認識していた円空の眼が、岩木山のこういった禁忌のベールに包まれた神、まさに「秘神」(地神)の存在を見逃したとはおもえない。岩木山には「鬼神」とみなされた地神(女神)がいる。円空がこのことを知れば、津軽藩の当初の冷遇など、彼にとっては取るに足りないできごとだったにちがいない。


三 岩木山と巌鬼山

 岩木山は三つの峰から成っている。中央の峰を岩木山、北東の峰を岩鬼山、南西の峰を鳥海山という。この三峰に、それぞれ本地仏を配することで、岩木山三所大権現と呼んでいた。これは江戸期までのことだが、岩木山三峰の本地仏と垂迹神は、次のように整理される。

岩木山三所大権現
岩鬼山 十一面観音(国安珠姫命=多都比姫命)
岩木山 阿弥陀如来(国常立命)
鳥海山 薬師如来(大己貴命)

『岩木山信仰史』によると、岩木山祭祀を「岩木山三所大権現」として整備したのは、四代藩主津軽信政とのことである。「三所権現」という呼称のルーツは、いうまでもなく熊野である。その本地仏をみても、熊野本宮(阿弥陀如来)は岩木山(阿弥陀如来)、熊野新宮(薬師如来)は鳥海山(薬師如来)、熊野那智宮(十一面千手観音)は岩鬼山(十一面観音)と、正確に対応していることがわかる。北奥・津軽の地に、熊野三所権現がまるごと再現されたかのように展開されている。
 元禄十四年(一七〇一)の縁起書(岩木山百沢寺光明院の書)には、「三峰三所一体分身の垂迹、権現と崇め奉るものなり。右の三所山号の因縁を知らず」と記されていて、当の祭祀者にしてからが、熊野三所権現の勧請および山号の由来(因縁)はわからないという。
 岩木山三峰の名称をみると、不思議なことが二つあることに気づく。一つは、岩鬼山と岩木山という類名を二峰に配していること、もう一つは、出羽の鳥海山が勧請されていることである。
 縁起が記す「三峰三所一体分身」は重要な認識というべきで、これら三峰三所の神々は「一体」つまり一神の「分身」にすぎず、その要の一神が「秘神」ゆえに、仮に三つの神仏に体現・分身しているということになる。
 出羽の鳥海山の神は、大物忌[おおものいみ]命とされる。岩木山では大物忌命ではなく大己貴命と表示していて、山名のみを一見勧請したかにみえる。この不思議な神名の大物忌命は鳥海山だけではなく、宮城県鳴子温泉の近くの荒雄岳(九八四b)にもまつられている。荒雄岳は、荒雄川=江合川の源流山である。『玉造郡誌』は荒雄川神社の由緒・沿革を、次のように述べている。

【鬼首村】村社荒雄川神社 本村字小向にあり、参道及境内には老杉枝を交へ鬱蒼たる中に鎮座まします。祭神は大物忌命にして祭日九月九日となす。
縁起由来。(高橋鉄治所蔵)玉造郡鬼首村鎮座荒雄川神社。祭神 大物忌命。恭しく惟ゐるに大物忌命は、奥州玉造郡荒雄山上と、出羽の飽海郡鳥海山上とに鎮座す。共に神祇官の神名帳に登載せられ、朝廷より幣帛乃奉進ありしなり。荒雄山上に鎮座ましますを荒雄川神社と称へ奉るは、山上に霊石(大物忌石と申す)あり、荒雄川の源水となるが故なり。即ち世に言ふ嶽宮にて、其の里宮は荒雄川の流域三十六箇所に及ぶを以つて、後世三十六所明神とも言ふ。 (『玉造郡誌』、文末は句点に変えた)

 荒雄川の「源水」を表徴する霊石として「大物忌石」の名が記されている。これは、大物忌命と呼ばれる神の原型的性格が、水源神とみなされていたことを端的に告げている。
 ところで、荒雄川神社=三十六所明神の主神を、大物忌命といった抽象神名ではなく、もっと具体的な神名、しかもまさに水源神そのものの名を記していたのも『玉造郡誌』である。三十六所明神の一社、現在の大崎神社についての記述を引用する。

三十六所神社。 東大崎伏見土淵と称する地にあり、明治四十二年十二月熊野神社白山神社等是に併社して大崎神社と改称せり。往古葛西城主葛西監物の時代荒雄川の沿岸に三十六ヶ所の神社を建社して瀬織津姫命を祭れるなりと。

 出羽の鳥海山においては、瀬織津姫という神名を消去して大物忌命などと表示しているが、陸奥国にくると、この曖昧の霧は一変して晴れることになる。鳥海山では、現在、瀬織津姫は山麓の一之滝神社と二之滝神社の神、つまり滝神としてその名を留めているが、鳥海山神=大物忌命は瀬織津姫の異称であった。
 岩木山が、この鳥海山を勧請し、その垂迹神を大物忌命ではなく大己貴命と表示していることについては、現在、熊野那智の地主神(滝宮の神)が「大己貴命」と表示されていることと同断であろう。
 岩木山には、その名を伏せるも鳥海山神=瀬織津姫がまつられている。縁起が記す「三峰三所一体分身」をおもえば、瀬織津姫祭祀が秘されているとみざるをえない。『岩木山信仰史』によれば、「岩木山の最初の寺院」は「松代の鳥海山叡平寺景光院」とされる。同寺は延元二年(一三三七)に廃寺となっていて(『新選陸奥国誌』)、その由緒をつまびらかにできないが、岩木山神のルーツは鳥海山であった可能性があることを指摘しておきたい。岩木山三峰の一つに鳥海山の名を残しているのも、勧請元の山への尊意の痕跡かとおもわれる。
 さて、岩木山と岩鬼山の類名についてだが、前者については岩木山[いわきやま]神社、後者については巌鬼山[がんきさん]神社が、それぞれの山神を主神としてまつるも、岩木山神社の元社は岩木山北麓の巌鬼山神社である。岩鬼山の「鬼」のイメージ・伝承を脱色して岩木山となるというのが、類名の理由とみられる。ただし、岩木山神社の元社が巌鬼山神社と名乗るのは明治三年からで(このとき祭神は「大山祇命」とされる)、それまでは十腰内[とこしない]観音堂(往昔は巌鬼山西方寺観音院)といい、十一面観音を主尊としてまつっていた。
 三所権現の思想においては、岩木山三峰の岩鬼山は熊野那智山に対応していて、とすると、十腰内観音堂の十一面観音は、那智の地主神=滝神を背後に秘めた「仏」かとみられる。元禄十四年(一七〇一)の「岩木山境内附什物記」は、岩木山上の「岩木山御室」について、「(津軽)為信公より以来、度々御建立 御神体十一面観音 金像御長一尺二寸」と記していた。岩木山信仰が熊野三山をなぞるように整備されるも、その大元の中枢尊は十一面観音ということになる。この十一面観音と習合する神として挙げられているのが、国安珠姫命とも多都比姫命とも呼ばれる神で、これが、岩木山の「地神」であろう。『岩木山信仰史』が「多都比姫の本地仏は十一面観音であるばかりでなく、岩木山の主」と書くのは、そのとおりだとおもう。
 岩木山の地主神・多都比姫は「たっぴひめ」と読む。「たっぴ」が「竜飛」と通ずるのは容易に想像できることである。また、岩鬼山が熊野那智山と対応していたことも、重要な示唆である。なぜなら、那智大滝の神の権現異称は「飛滝権現」で、この「飛滝」が「飛竜」へと転じて、「飛竜権現」の祭祀が各地に展開していくことになるからである。多都比=竜飛は、飛竜の倒語である。岩木山の地主神には、熊野那智の本来の滝神の匂いが濃厚であるといわざるをえない。


四 多都比姫とはなにか

 天明三年(一七八三)の「岩木山神霊記」に、「田光の竜女、峯入りして神となる。山を姫神岳、又、白竜の峰とも云う」とある。岩木山の山名の異称は多くあるが、ここでは、「姫神岳」「白竜の峰」と呼ばれている。また、文化八年(一八一一)の「岩木山縁起」には、「其の田中に白光を発するもの有り。これを見るに沼なり。名づけて田光沼と曰う。時に竜女珠を沼中に得て大己貴尊に献ず。乃ち尊大いに悦びて名づけて国安珠竜女と曰い、亦国安珠姫と号す」とある(以上『岩木山信仰史』所収)。これらに出てくる「田光の竜女」「田光沼」の「田光」は「たっぴ」と読む。この、「田光[たっぴ]の竜女」が、多都比姫あるいは国安珠姫と呼ばれる岩木山の地神(女神)の名である。岩木山は、竜女伝説の宝庫といってよい。後年、円空は善女竜王という頭に竜を頂く観音の変化[へんげ]像を多作するようになるが、その原イメージは岩木山にあった可能性がある。
 ところで、竜女がすんでいたとされる田光[たっぴ]沼は、西津軽郡車力村(現つがる市)に実在する沼である。この沼は、岩木山の中腹から流れ出す山田川の中流域にあり、河口は十三湖に注いでいる。この田光沼の沼神=水神をまつるのが、宗像神社である。『車力村史』は、この宗像神社は「東向き」に建てられ、しかし「祭神等、記録全くなく不詳」と書いている。
 津軽藩による社録没収の影響がここにもあるようだが、『車力村史』にも、伝説「岩木山神社の御神体に祀られた田光の珠」が収録されている。また、「田光沼の主は神通力により、霊山岩木山の御姿を己れの思うように形造られたといわれる。いかさま(成程)、砂山の田光沼からの岩木山の展望は何処の地よりも一段とその秀峯の灼さを示している」とも書かれている。岩木山は津軽富士とも呼ばれるが、田光沼からの岩木山は、たしかに富士山の姿にみえる。
 村史は、田光沼の伝説をアトランダムに収録しているが、そのなかに、『東日流海愴物語』を種本とした、次のような話もみられる。

 津軽半島の突端を竜飛と呼んでいるが、この海の沖から一人の竜女が現われて、「オトオイモウ」と呼ばれる珠をささげて、この国を治めている洲東王に献じたといわれる。この珠の名「大小冬以瓜」という変な文字を当てているが、珠の大いさ冬瓜の如しとあるので、「大きさ小さき冬瓜に似たり」とでもいうことに、あてた文字かも知れない。これは修験者などの手によって書かれたものらしく、こうした妙な当字や、読み方をしている。また、田光の珠とも呼ばれたともいう。

 海からあがった霊石を「女石神」としてまつる例は、蝦夷地の折居霊神(姥神)や川濯神、また下北の折戸神などと同じとみてよい。竜飛の竜女は海神で、この神が田光沼の沼神=水神とみなされている。「祭神等、記録全くなく不詳」ではあるものの、その社名から、この女石神は宗像神とみられていることがわかる。
 明治期の祭神表示法からいえば、車力の宗像神社も他社と同じく、『古事記』『日本書紀』の記述に準じて宗像三女神と表示しても不思議はなかったわけだが、車力の田光姫=多都比姫は「祭神不詳」の宗像神として現在もあるらしい。村史は、この謎の宗像神の「御神体」の写真も載せていて、そこにはたしかに三女神ではなく一体の神像があるのみである。この宗像神、つまり田光姫=多都比姫の神像をみると、波の上に乗る女神像で、右手に剣、左手に玉(珠)をもつ座像姿である。背面に二対の手が付けられていて、あわせて三女神ということを表しているのか、あるいは、弁天像を表そうとしたものだろう。
 右手に剣、左手に玉(珠)をもつ女神像──。これは、北海道厚沢部町の滝廼神社や福島町の川濯神社(福島大神宮境内社)と同じ「御神体」とみられる(「北辺の神への鎮魂」参照)。滝廼神社・川濯神社両社の祭神は、円空が「地神供養」の最重要な対象神として心に秘めてきた瀬織津姫という神であった。祭神表示はいかようにも変更されるが、神体像は、なによりも雄弁に、その神の姿を表すといってよい。瀬織津姫は宗像神であるとともに、熊野神あるいは熊野那智の滝神でもあったわけで、田光姫=多都比姫にも、この神は過不足無く重なってくる。
 岩木山の「秘神」(地神)は瀬織津姫とみてまちがいない。このことをさらに傍証する話を以下に拾ってみる。
 文化八年(一八一一)の「岩木山縁起」に、多都比姫=国安珠姫について、次のような記述がある。

又中臣祓に云う、速佐須良比唐ヘ即ち国安珠姫なり──其の祭日稜威流の祀と称す。──按ずるに稜威流は伊津流なり、其の義未詳──

 多都比姫=国安珠姫は、「中臣祓」に出てくる「速佐須良比刀vだという。多都比姫が大祓神とみられていたことは興味深い。「中臣祓」に最初に登場してくるのが、「高山・短山[ひきやま]の末より、佐久那太理[さくなだり]に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」であった。この神が祓い流した罪・穢れを最終的に海原の底、根の国にもちゆく神が「速佐須良比唐ニいふ神」である。
 現在読める中臣祓は平安期に成書となる『延喜式』収録のものだが、同祝詞では「瀬織津比刀vは川神、「速佐須良比刀vは海神といった分担がなされている。しかし、大祓神はもともと瀬織津姫一神であった。このことは、奈良時代の『近江国風土記』(逸文)に、「八張口[やはりぐち]の神の社[やしろ]。即[すなは]ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌[い]みて、瀬織津比甜せおりつひめ]を祭[まつ]れり」とあること、また、大祓神をまつる「八張口の神の社」(佐久奈度神社)は『延喜式』神名帳(九二七年成書)に「一座」と表記されていたことからもいえるのである。「速佐須良比刀vは瀬織津姫の分身=分神とみられ、この類縁の神に言及した「岩木山縁起」の記述は貴重である。
 また、縁起が記す「其の祭日稜威流の祀と称す」、「按ずるに稜威流は伊津流なり、其の義未詳」については、たしかに理解しづらい面があるが、「稜威」を「いつ」と訓むのは正しいとおもう。鈴鹿市の猿田彦大神をまつる椿大神社に「五種の神歌」が伝えられていて、このなかに、次のような「神歌」がある(『椿大神社神拝詞』所収)。

罪咎[つみとが]や御幣[おんべ]の川に祓ふらむ
瀬織津姫の神のみいつに

 ここで詠まれている「みいつ」は、漢字に表せば「御稜威」となる。あるいは、瀬織津姫の長い正式名「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」の「厳之御魂」の「厳」とみてもよい。瀬織津姫が稜威=厳の「御魂」を有していることで、この神は「天照大神荒魂」などとも呼ばれた。縁起の「日稜威流の祀」は、日神(天照大神)荒魂の祀りか、文字通り「日出ずる」ところの太陽神祭祀をいっているのだとおもう。
 岩木山の女神伝説で、もう一つ興味深い話がある。この話は「小栗山の三女神伝説」といい、弘前市の小栗山神社に伝わっている(『岩木山信仰史』)。

昔、津軽に三人姉妹の神様がやって来て、自分こそ、津軽の名山岩木山の主になりたいと願っていた。三人でお神楽を見物していた時、末の女神がこっそりぬけがけして岩木山におさまってしまった。二人の姉神が大変おこったがどうにもならなかった。長姉の神は岩木山の見えない小栗山に、次姉は平賀町大坊に鎮座したが、岩木山と仲がわるく、ある年、小栗山神社の祭りに、岩木山の女神が邪魔をしたので、小栗山の神は腹をたてて、村の人に「われを信仰するなら、岩木山に登るな」と命じた。それ以来、小栗山村の人は岩木山のお山参詣をしない。

 小栗山神社は、江戸期まで「十二所権現宮」と呼ばれていたが、この社名は「熊野十二所権現」にちなむもので、いわゆる熊野神をまつる社である。同社には「神泉」があり、この泉水は、「眼病の者に効あり」とされる(『古文書にみる津軽の神社縁起』)。
 ところで、「小栗山の三女神伝説」と類型の話が柳田國男『遠野物語』第二話にある。

四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯[はやちね]という、北の方附馬牛[つくもうし]の奥にあり。東の方には六角牛[ろっこうし]山立てり。石神[いしがみ]という山は附馬牛と達曾部[たっそべ]との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫目覚[めざ]めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはその妬[ねた]みを畏[おそ]れて今もこの山には遊ばずといえり。

 三女神の末の女神が、「最も秀でたる」山の神になるという共通性は偶然ではなかろう。小館衷三『岩木山信仰史』は、「岩手県の早池峯山は東根岳大明神─姫大神を祀り、本地仏は十一面観音である」と書いていたが、早池峰山の「姫大神」は、戦前までの大迫[おおはさま]早池峰神社の祭神名で、戦後は、遠野早池峰神社と同じく「瀬織津姫命」と戻されている。物語中の「来内村の伊豆権現の社」(現在の伊豆神社)は、遠野早池峰神社の元社・親社で、伊豆神社・早池峰神社ともに、まつる神は瀬織津姫である。
 岩木山も早池峰山も、ともに本地仏は十一面観音とされていた。これも偶然のこととはいえまい。ちなみに、岩手山(二〇三九b)と夫婦[めおと]関係にあると伝承される姫神山(一一二四b)の本地仏も十一面観音で、姫神嶽神社の祭神は、これも速佐須良姫である。岩木山が津軽富士と呼ばれるように、姫神山も南部富士と呼ばれている。その祭神の是非はともかく、美麗な山容の霊山には「姫神」がいるとみなされていたのは、全国に共通しているようだ。


五 岩木山の鬼神・竜神・観音信仰

 岩木山上の多都比姫が、北麓の十腰内村に岩木山大権現=十一面観音として勧請・鎮座するのは延暦十五年(七九六)のことで、このときから十腰内観音堂「下居宮」の名が現れるらしい。そして、十腰内の旧地から岩木山南麓の現在地・百沢へ遷座するのが寛治五年(一〇九一)で、下居宮の名もそのまま新地へ遷ることになる。旧社は現在、巌鬼山神社として祭神は「大山祇命」をまつり、百沢の新・下居宮は岩木山神社と名乗って、「顕国魂命、大山祇命、坂上刈田麿、宇賀能売命、多都比姫命」の五神を祭神としているが、主神は「顕国魂命」とされる。
 岩木山神社本殿に向かって右の小池の中島に、境内社・白雲神社が鎮座している(祭神は「多都比姫命荒魂」と表示)。池には無数の卵が投げ入れられていて、また、参道の両脇には「白雲大龍神」と書かれた幟が何本も奉納されていて、ここには、岩木山の地主神である田光竜女=多都比姫への信仰が消えていないことを伝えている。池中の中島にまつられる白雲神社の鎮座立地を考えると、ここは、各地の弁財天=宗像神の祭祀と同じにみえる。祭神の「多都比姫命荒魂」は、弁財天=宗像神として、その祭祀がおこなわれているのだろう。車力の田光沼の沼神=水神、つまり多都比姫は、不詳の宗像神であった。車力の伝承は、岩木山神社(本社)の境内池に、まるで復元したかのように再現されているようだ。
 それにしても、岩木山の地主神が、本殿では「多都比姫命」と名を残すようにまつられるも、境内地に、その「荒魂」を、なぜ別にまつる必要があるのかという疑問も浮かんでこよう。考えられるのは、この「多都比姫命荒魂」は、「白雲大龍神」=竜女信仰に根ざしていること、いいかえれば、「鬼」ともなる女神であることが「荒魂」の呼称の理由なのだろう。
 岩木山信仰にもし「表の顔」があるとすれば、岩木山の地神・竜神・鬼神の祭祀を正面に掲げることをしない岩木山神社に代表させることができる。ここは「奥の日光」をうたうように、藩政期から豪壮な社殿を誇っていて、津軽藩から明治国家へと「公認」の祭祀をつづけてきた。
 一方、津軽の庶民信仰のシンボル的な要、あるいは「裏の顔」としてあるのが、岩木山神社の元社である十腰内の巌鬼山神社であろう。この社を中心として、岩木山北麓に点在する大石神社・赤倉神社・鬼神社、そした鰺ヶ沢の高倉神社などで構成されるもう一つの信仰圏域がある。ここには、岩木山神社が「公認」の代償として捨て去った負の信仰、あるいは闇の信仰が今でも息づいている。
 巌鬼山神社は、八月十七日を例祭日としている。「十七日」は観音の宵宮縁日である。氏子衆は、同社の神を「観音さん」と親しく呼んでいて、祭神の「大山祇命」は影がうすい。実際、ここには十一面観音が今も大切にまつられている。境内には、その祭祀の古さを静かに証言する、樹齢千年以上の大杉もみられる。江戸期まで、ここは十腰内観音堂で、津軽三十三観音の第五番札所であった。ここにまつられる十一面観音の御詠歌「まわるより頼みをかけし十腰内聞きしにまさる古き宮立て」にも、ここの祭祀の「古き」時間が詠まれている。
 黒瀧十二郎『弘前藩政の諸問題』によると、「岩木山は止山[とめやま]で平常は入山を禁止された」とあり(『新編弘前市史』通史編三)、津軽藩による岩木山祭祀の管理の様が伝わってくる。円空は、おそらく岩木山への登拝はできなかったものとおもう。
 なお、領民に岩木山への登拝が許されたのは「八月一日(八朔)から十五日まで」で、しかも、それは「村落ごと」という厳しさだった(『新編弘前市史』通史編三)。この登拝にあたっては、「村単位に、七日か、三七[さんしち]の二十一日間、村の鎮守か合宿所を作って泊まり、朝晩水垢離[みずごり]をして、すっかり心身を浄める」という前準備が必要だったという(『岩木山信仰史』)。また、同書は、「お山参詣」にあたって川でおこなう水垢離(禊ぎ)のときの唱えごとを、「或る村の例」という限定つきだが、次のように紹介してもいた。

  上には三宝 下には大黒
  折戸の観音 さいぎ さいぎ

おもわぬところに「折戸」の名が出てきた。唱えごとの「さいぎ」は漢字に直すと「祭儀」である。水垢離=禊ぎの最中に、「折戸の観音 さいぎ さいぎ」と唱えられていたというのはとても興味深い。「折戸」が瀬織津姫ゆかりのキーワードであることを知らないと(「霊場・太田山の秘神」参照)、「折戸の観音」がどういった観音かは不明のままだろう。岩木山頂には「折戸の観音」がいらっしゃる、つまり、折戸神=瀬織津姫ゆかりの十一面観音が待つ「お山」へ、年に一度、豊作を中心とした諸祈願の気持ちで登拝した人々が、少なくとも津軽の「或る村」にはいたのである。

 岩木山の北・西麓に位置する鰺ヶ沢町に集中してみられる社に、高倉神社がある。『鰺ヶ沢町史』によれば、高倉神社は八社あり、これらは江戸期まで、飛竜宮・宝竜宮または観音堂と呼ばれていた。もっとも古い創建伝承をもっているのは日照田観音堂(高倉神社)で、ここは「大同二年田村麻呂創建」と伝えられる。江戸期までは飛竜宮とも呼ばれ、本尊は十一面観音、前立は千手観音だった。由緒によると、ここの観音は「若者の姿に現じて村の田畑の手助けをしたとして親しまれ信仰された」という(『鰺ヶ沢町史』)。
 津軽三十三観音の第五番札所は十腰内観音堂(巌鬼山神社)だったが、第六番から第八番までの札所が鰺ヶ沢町にある。第六番は湯舟観音堂(高倉神社)、第七番は北浮田観音堂(高倉神社)、そして第八番が日照田観音堂(高倉神社)である。これら、鰺ヶ沢の三観音堂は、いずれも飛竜宮と呼ばれていた。飛竜宮が熊野那智の飛竜(飛滝)権現によるものであることは、創建最古の日照田観音堂が十一面観音・千手観音をまつっていたことからもうかがえる。また、飛竜宮が宝竜宮へと転じることでいえば、この「宝竜」がさらに「法呂」とか「法霊」に転じていくにしたがって民間伝承神化し、その祭祀の裾野をひろげていくことも想像できよう。下北の法呂神社が春日大社の「姫大神」をまつっていたというのも、飛竜権現の故地である熊野那智の滝宮神=地主神、つまり、那智の本来の滝神にまで遡行してみれば同神であることにゆきつく。各地に放射状に広がった飛竜神から法霊神までの祭祀も、絞り込んでいけば、熊野・那智に焦点が結ばれるのである。
 岩木山の多都比姫はやはり竜飛姫であり、その本地仏が十一面観音とされたことは、神仏混淆の秘められた理にかなっていた。
 鰺ヶ沢の飛竜宮=湯舟観音堂(高倉神社)は観音巡礼の第六番札所であったが、ここの御詠歌は少し変わっている。

  いまの世に神といわれる鬼神石[きじんせき]
    庭のいさごも浄土なるらん

 これが観音の御詠歌かとおもわせる歌である。岩木山周辺の鬼神信仰は石神信仰と重なっていて、それがさらに観音信仰とも重なっているようだ。この歌は、「鬼神石」と化した神とはなにかを問うてくる歌である。粉砕された「鬼神石」が敷かれた「庭の砂[いさご]も浄土」だろうというアイロニーは強烈である。
 この飛竜宮=湯舟観音堂には、御詠歌とも関係してくる、岩木山の鬼神信仰の元となる話が伝わっている。由緒によると、「天文年中鬼神丸という刀剣名鍛冶がいた。この人の屋敷跡から出土した丸鏡・ヒ塊[けらかい]・刀剣鋼を神体として神社を設けた」、「本殿に第六番湯舟聖観音が一緒に祭ってある」とされる。「鬼神丸という刀剣名鍛冶」は「鬼神太夫」とも呼ばれる。『ふるさとあじがさわ』の「伝説鬼神太夫」は長い話なので、「神」に関わる話の骨子のみを抽出すれば、刀鍛冶・鬼神太夫が刀をこしらえる姿は、「大きな竜が口から火を吹いて刀を打っていた」、これは「竜神さま」がのりうつった姿だとされる。鬼神太夫は、こしらえた一本の刀を十腰内の巌鬼山神社に奉納し、「東の方へ旅立って」いったという。
 巌鬼山神社の「東の方」にあるのが鬼沢村(現弘前市)の鬼神社である。鬼神社は、延宝八年(一六八〇)の記録では「宝冷権現之宮」と記録されている。「宝冷」は飛竜→宝竜の転であろう。ところが、貞享四年(一六八七)には「鬼神社」、寛永元年(一七〇四)には「鬼子母神社」、正徳元年(一七〇九)には「鬼子母神宮」、寛延三年(一八五〇)には「鬼神宮」と書かれる(以上、『古文書による津軽の神社縁起』)。その社名の変転は激しいが、飛竜神から鬼子母神へ、そして鬼神へという変遷をみると、ここには、竜神の女神(竜女)が鬼神とみなされていたことがうかがえる。あるいは、「鬼神」は「鬼子母神」の「子母」を中略したものともみられる。
 鬼神社は、寛政七年(一七九五)の記録(『津軽俗説選』後拾遺)では「鬼の宮」と書かれ、その由緒・伝承は、次のように記録されている(原文に適宜句読点を補って引用する)。

鬼沢村の産土神。鬼の宮は鬼を祭りたる故、端午に菖蒲を葺し、節分に大豆を打たず。先年鬼の宮開帳の節、此かみの持し鍬なりとて、三尺位斗ある鍬を見せたり。里俗の曰く鬼太夫の鍛ひし剣を神体とせりと。伝に曰く、昔阿蘇部の森に鬼あり。剛勇の丈夫と化して人間と交り遊ぶ。此邑に来りて里人と角力をとり戯れ、耕作の業に力を合せ給う。誓て曰く、末世まで我此邑を守護すべく、端午に菖蒲を葺き、節分に大豆を打つ勿れと。伝に西往古曰く、郊に強力の刀鍛冶あり鬼太夫と呼び、是湯船村の古跡なりと。

 鰺ヶ沢・湯舟観音堂の鬼神丸=鬼神太夫は、ここでは鬼太夫とされているが、この鬼神伝承は江戸期には定着した話であったことがわかる。
「昔阿蘇部の森に鬼あり」の「阿蘇部の森」は岩木山の古名で、そこに「鬼」がいたという。ここでいう「鬼」は「神」と同意だ。この鬼神は「剛勇の丈夫」に化身し「人間と交り遊ぶ」ことを好むという。また、この神は「耕作の業に力を合せ給う」神で、鬼沢村の守護神となったとも伝えられる。鰺ヶ沢においては、鬼神太夫に化身して刀を打ったのは「竜神さま」だった。正確にいえば、刀鍛冶が信奉するのが竜神=飛竜神で、この竜神と一体となって名刀を鍛えることができたことで、刀鍛冶は「鬼神太夫」と呼ばれたのだろう。刀鍛冶が一体となった竜神=飛竜神は鬼神でもあったのである。「阿蘇部の森に鬼あり」の「鬼」も鬼神で、この鬼神の正体が竜女神、つまり、岩木山の地主神だった。
 鬼神社の境内案内によれば、現祭神は「高照姫神、伊奘那岐大神、大山祇神」の三神とされ、その由緒沿革は、「延暦年中坂上田村麿東夷征討の勅命を奉じ東国に下った時、岩木山頂奥宮鎮座顕国魂の女高照比売命の霊験を蒙るに因り、岩木山麓に社宇を再建したという」と書かれる。記紀の表記に従って解釈すれば、「顕国魂」は大己貴=大国主で、その娘神の「高照比売命」は下照姫と同神ということになる。これは、岩木山神社が主神と表示する「顕国魂」に無理に整合させようとして創作された「由緒」というしかない。鬼神社近在の氏子衆は「鬼神[おにがみ]さん」と親称するのみで、こういった由緒・祭神表示をまともに信じている人はいまい。
 岩木山の地主神が「鬼神」とみられたことにもどれば、これはしかし津軽固有のこととはいえない。ほかにも、たとえば美濃国高賀山や宇曽利=下北の鬼神伝承にみられるように、中央=朝廷の統治支配・王化に対して同意しない民が守護を頼み、信奉していた神が「鬼神」とみなされるパターンは各地にみられるからだ。
 神は本来中立の存在だが、新たな支配者は、祭祀の主導権を敵対した民に預けたままではおかない。岩木山においては、「中央」のシンボルといってよい坂上田村麻呂の前に、すでに岩木山上にまつられていた神がいた。これは、王化思想とは無縁の神で、この神こそが「鬼神」とみなされた岩木山の地神である。田村麻呂に象徴される「中央」は、岩木山の地神を仏=十一面観音に置き換えることで、荒波立つ民心を鎮めることを試行したとおもわれる。統治が進み、この仏の垂迹神がことあらためて語られるとき、そこには、それまでの地神とは似て非なる神の名が現れてくることになる。ここには、神が巧妙にすりかえられる詐術が潜んでいる。このような詐術によって、日本各地の山岳霊地の地神が新たな祭祀の背後に秘されてゆくことになる。
 多くは、この神のすりかえさえも気づかないか無視しているが、王化の祭祀思想を根拠とした、こういった神まつりの詐術を信用しない民衆の信仰心理もある。彼らは、なじまない新たな神よりも、むしろ「鬼神」「竜神」の方を選ぶ、あるいは、自らの神と一体と信じた「観音」の方を選ぶ。津軽=岩木山がもっている、もう一つの信仰の顔である。これは円空彫像がもっている、もう一つの顔でもある。


六 岩木山の鬼女神と円空十一面観音

南部藩あるいは岩手県で、瀬織津姫をまつる神社は現在四十社以上が確認されており、蝦夷地(北海道)の松前藩においても複数社がみられた。青森県のなかでも旧南部藩領には、この神の祭祀は現在もみられる(八戸市に二社)。しかし、同県・旧津軽藩領にはいると、瀬織津姫の祭祀はとたんに表舞台から消えることになる。同じ陸奥国で、隣接する南部藩と津軽藩にみられる、この極端なちがいは尋常ではない。おもうに、これは、津軽藩そのものがもっていた祭祀意識・方法といったことが因としてあるのだろう。
 岩木山神社には、社殿造営等に関する多くの棟札が残されている。そこには、歴代藩主の名が記されている。たとえば、慶長六年の棟札の中心文は「参碑文奉再建下居宮大檀那藤原朝臣右京大夫為信公」といった具合だ。「藤原朝臣右京大夫為信」は、津軽藩初代藩主・津軽為信のことで、二代藩主以降も「藤原朝臣」云々と記されている。この氏族は津軽氏の前は大浦氏を名乗っていたが、南部藩から津軽藩として独立・成藩すると、なぜか津軽氏は藤原氏を名乗るようになる。
 古代、瀬織津姫を「秘神」とみなした中央の権力氏族こそ中臣氏=藤原氏だった。津軽藩歴代藩主の藤原氏末裔意識は、藩内の神まつりに影響を及ぼさなかったとは考えにくい。
 津軽藩主の、この藤原意識のありようをもっともよく語っているのが、岩木山神社の東千メートルほどのところにある高照神社であろう。高照神社の由緒を読んでみる。

  高照神社
  祭神 天児屋根命、武甕槌神、伊波比主神、比売大神、津軽為信命、津軽信政命
  由来 ここには古くから春日四神を祀る小社があった。津軽藩主信政はこれを崇敬していたが、唯一神道の師祖吉川惟足に師事し晩年この小社の側に地を相して死後の廟と定め、宝永七年十二月六十五才をもって没した。五代信寿は遺命によってここに送葬し、翌年正徳元年社殿を造営して春日四神と共に信政命を祀り、更に明治十年藩祖為信を合祀した。明治十三年県社となった。                      (『岩木町誌』)

 円空が津軽の地を歩いていたときの津軽藩主が、ここに名が刻まれている、四代藩主・津軽信政である。
 享保十三年に吉川源十郎が記した「高照神社縁起」にも、信政は「奥陸奥津軽前城主従五位下藤原信政」と書かれ、明治三年に弘前藩庁から神祇官へ上申された神社明細書の祭神の項にも「従五位下藤原朝臣信政霊」と書かれている。吉川源十郎は前掲縁起の最後を、「天児屋根命五十五代的伝神祇道唯受一人」と自身の系譜肩書きを記していたが、藩主の信政も「藤原」を名乗ることで、同じ意識下にあったとみられる。この藤原意識は、「高照神社宝物帳写」の「御内陣ノ部」で、春日四神のなかでも天児屋根命のみが「御神体御金像」とされるも、ほかの三柱神は「御神体御木札」と区別されていたことによく表れている(『岩木町誌』)。信政が天児屋根命の末裔意識、つまり「藤原氏」の意識を強くもっていたこと、また、彼が唯一神道=吉田神道の直系筋というべき吉川神道に帰依していたことは大きな意味をもっている。
 これは、伊勢神宮を「唯一」の正統的祭祀とみなす祭祀意識を津軽藩主がもっていたことを意味する。津軽藩内の祭祀は、神宮思想を敷衍・絶対視する方向で構築されていたとすれば、そこに瀬織津姫の名が残ることはほとんど不可能であっただろう。津軽藩内の祭祀においては、この神は、まさに「秘神」とみなされる必然・宿命を負っていたのである。
 円空も同じ藤原氏の末裔ではあったが、彼には、「津軽藤原氏」のような、中央への同化意識はまったくなかった。円空が自身の氏神を春日神にみていたとすれば、それは、津軽氏のように「天児屋根命」ではなく、「比売大神」(瀬織津姫)にこそ、自らの「神」をみていたはずだ。
 津軽の霊山・岩木山は、津軽藩の中央志向の祭祀ヴァリアによって包囲されていて、この山にだけは、円空は登拝することができなかった。
 蝦夷地行の前、津軽藩から立ち退きを迫られた円空だった。その後、彼は岩木山の遙拝山ともいうべき梵珠山で一体の座像如来を彫像するも、蝦夷地へと向かった。同地での彫像の最後に、初めて十一面観音を立像の姿で彫ったあと、下北の地にも同じ立像を二体残し、帰路、津軽半島の松前街道から羽州街道を南下したのだとおもう。
 円空は、岩木山東麓に、少なくとも三体の十一面観音立像を残している。それらの現所蔵寺は、普門院(弘前市西茂森)、西福寺(弘前市新寺町)、弁天堂(南津軽郡田舎館村畑中)である。西福寺には等身大の地蔵尊もあるが、この地蔵尊と十一面観音は、円仁(慈覚大師)が宇曽利山(恐山)からの帰路、一本の松の木から二体の仏像を彫ったものという「寺伝」によって語られてきたものの、昭和三十二年、円仁ではなく円空の作と「鑑定」されたというエピソードをもっている。
 ただし、これらの彫像は、最初から三寺堂にあったものではなく、円空が「どこか」で彫ったものがめぐって奉納されたらしく、はっきりしたことは残念ながらわからない。ただいえるのは、明治期の神仏分離の波をくぐりぬけ、これらの寺堂にたどりついたとはいえるようだ。
 移動の実態がわかりにくいものの、田舎館村の十一面観音については、同村で彫られた可能性が高い。『田舎館村誌』によれば、この像は田舎館の長福山極楽寺大日堂にあったものだという。明治四年、大日堂は生魂神社へと転身し、そのため、堂内の仏教色は一掃された。十一面観音たちは「仏体上納」を命ぜられ、江戸期まで津軽藩内修験寺院を統括していた大行院に集められたが、上納金と交換で「極内々ニテ」払い下げがなされた。この像については、「台座ヨリ丈六尺之十一面観世音、当村工藤孫助貰イ受度儀ニ付、孫助ヨリ代リ差立候付、同人ヘ呉致シ候」と記録されている。なお、同観音の利益[りやく]を表す標語は「鳴弦拓幸稜災」だった。弁天堂の方は厳島神社(境内案内では胸肩神社)と名乗ることになるが、円空のこの十一面観音は、工藤家によって「明治の末」に同社へ納められたという。十一面観音は現在、厳島神社境内の小さな観音堂にまつられている。村誌は慎重で、「もっともこの円空仏がいつ、いかなる理由で大日堂に鎮座することになったかは依然不明」と書き添えてもいる。
 田舎館村は、二千年前にさかのぼる、日本最北の稲作水田跡を史跡として抱えるように、古くから開けた地である。西方に岩木山が聳え、当地にも根強い岩木山信仰がみられる。
 村誌は、岩木山信仰というよりも赤倉信仰として、「岩木山麓の大石神社から赤倉までの道路はたが畑中集落(弁天堂の所在地にあたる…引用者)などの干草山である。田舎館村もその信仰圏で一つの遙拝地のような位置にある」と書いている。岩木山信仰のなかでも「赤倉信仰」は特異で、小館衷三『十和田信仰』(北方新社)には、「赤倉は岩木山中、第一の霊地」と書かれる。
 赤倉信仰は、岩木山三峰のなかの一峰・岩鬼山を赤倉山と異称する信仰である。岩鬼山=赤倉山の神を、特に「赤倉大神」と呼んでいる。なぜ「赤倉」かというと、岩鬼山の北東斜面に「太陽に照り映える赤肌の断崖」があるゆえだ(小館衷三『岩木山信仰史』)。
 赤色の断崖や鏡岩などには太陽神が影向するというのは、各地にみられる信仰である。岩鬼山にも、岩木山の鬼神の懐に秘祭される原初の太陽神信仰があるのだろう。おもえば、岩木山三峰の一つである鳥海山は、出羽においては、物部氏の祖神・ニギハヤヒが降臨した山と伝えられる。ニギハヤヒの正式名は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊[あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと]である(『先代旧事本紀』)。これも長い神名だが、この神がアラハバキ神ともみられた男系太陽神である。岩木山の南麓に森山(四〇三b)があり、ここの守山神社は江戸期まで「石」をご神体として「那智権現」をまつっていた。同社は津軽「藩庁崇之社」とされ、明治期になると、この那智神は消え、主神は「大山祇神」とされるも相殿に「物部守屋」の名が登場してくる。岩木山周辺で物部氏の祭祀伝承をもつ山として森山があることは、岩木山にも、太陽神の信仰がかつてはあったことの痕跡とみられる。
 岩鬼山の北東麓の大石神社から赤倉沢にかけて、赤倉大神を私祭する堂社が立ち並び、ここには岩木山における庶民信仰の原風景がみられる。同地は「赤倉霊場」とも呼ばれていて、その奥所には赤倉大権現と猿田彦大神の両像が並び立っている。赤倉大権現の足下に小さな女神像が配されていることは象徴的である(写真)。猿田彦は伊勢の地主神であり、記紀は、天孫降臨の際の道案内をした神だと規定していたが、これは源初の男系太陽神の仮称神名である。岩鬼山=赤倉山の鬼神が、その懐の断崖に太陽神を抱えているイメージは、奥飛騨の「日抱尊」と呼ばれる女神と同じにみえる(後述)。
 文久元年(一八六一)六月、百沢の下居宮(岩木山神社)の敷地から「石櫃」がみつかったという。『岩木町誌』には、この謎の石櫃発掘のあとに発見された「赤倉」と題した文書が収録されている。そこには、次のように記されていた。

 巌鬼ノ峯艮(北東)ノ深谷千尋ノ巓嶺数丈ノ巌窟魍魎糧鬼ノ栖恐怖言絶峯巒峻峙シテ振古未有往者候昔鬼人退治ノ節九十歳老鬼女強乞降故ニ山神給仕之眷属ト成而此山可擁護則誓文書手形取赤倉令住云々右証文当山霊物成箱開不時風雨発度々性変有、故石櫃納土中丈底ニ埋今失其処

 岩鬼山の北東の断崖岩窟には「魍魎糧鬼」が住んでいた。これを退治したが、最後の「九十歳老鬼女」は、これから新しい山神の眷属となって赤倉に住み、岩木山の守護神となることを誓った。この「鬼女」の誓いの証文を石櫃に納め地中深く埋めたが、その所在は今はわからない──要約すれば、こんなところだろう。岩鬼山=赤倉山には「九十歳老鬼女」が住んでいるとされる。この老鬼女神が岩木山の地主神であることはいうまでもない。
 同じ話は、十腰内から百沢へと下居宮が遷されるに際して随行してきた社家・太田家にも伝えられている。こちらは「鬼臍之記」と題されている(『岩木町誌』所収)。「鬼臍之記」の鬼話を要約れば、──「東奥阿蘇辺ノ森之鬼神退治」のために「花若丸」という「大将軍」が都から「三千騎ヲ率テ」やってきた。花若丸(田村麻呂の変名)は「霊夢ノ告」の通り「錫杖ノ鑓十二本卍字旗十二本」を先立てて登攀し、山頂の「鬼形変異ノ者共」の悉くを「平治」した。軍兵が喉が渇いて地を穿つと、そこに「泉」が湧き出てきて、この泉を「錫杖ノ鑓ガ清水」と命名した。ここでも鬼形を退治したが、最後の「九十九歳ノ鬼女」から「手判ヲ取リ此山ノ主鬼トス、又外鬼ノ臍ヲ取テ此時ノ印トス」──、というものである。
 岩木山の「主鬼」は「九十九歳ノ鬼女」だという。前述の「赤倉」では「九十歳老鬼女」と書かれていた。いずれにしても、岩鬼山・赤倉信仰の「赤倉大神」は老鬼女神とされる。
 赤倉霊場の入口(岩木山登拝口)に鎮座する大石神社は、本殿裏の大石を神体とし、それゆえに大石神社という。ここも竜神信仰のメッカで、境内には、おびただしい馬の石像の奉納がみられる。水神=竜神の神使いは「白馬」で、ここは、岩木山一の名水が湧き出ることでも知られる。津軽各地から、この神水を汲む人がやってきて、「お山の水」といえば、ここの水をいう。
 大石神社の現祭神は「高皇産霊神、神皇産霊神」と、ここも庶民にはなじみのない神名に変えられているが、ここは岩木山の地神を、石神かつ水霊神=竜神としてまつっているというのがほんとうのところだろう。記紀に準じていえば、高皇産霊神、神皇産霊神というのは、皇祖神=アマテラスやイザナギよりも前に登場してくる神で、いわゆる造化神、つまり初源神である。そこまで考えれば、それなりの祭神選択とはいえるが、庶民に無縁であることに変わりはない。境内案内には、大石神は「子授けの神、安産の神として信仰高し」といった神徳が書かれている。岩木山の地神の「老鬼女神」は、山頂で微苦笑しているかもしれない。岩鬼山─赤倉─大石の信仰庶民の心に映っているのは、中央的祭祀思想によって創作的に色づけされた、なにやらおどろおどろしいイメージを植えつけられた岩木山地神=老鬼女神の姿ではあるまい。
 大石神社も十腰内観音堂(巌鬼山神社)と同じく、江戸期までは、ここには十一面観音がまつられていた(『岩木山信仰史』)。『田舎館村誌』は、岩鬼山北東麓の、この大石神社から赤倉にかけてみられる岩鬼山信仰=赤倉信仰について、「田舎館村もその信仰圏で一つの遙拝地のような位置にある」と書いていた。
 円空は、この岩鬼山=赤倉信仰が濃厚な田舎館の地に、岩木山=岩鬼山の本地仏でもある十一面観音を彫り残したのである。円空は、この観音を、岩木山の鬼神あるいは老鬼女神にまで落とされた、自らが尊崇してやまない神への「供養」として、登拝できない岩木山を田舎館で「遙拝」しながら、その「御形」を彫像したであろうことが想像されるのである。
 田舎館村からまっすぐ西に岩木山を越えたところが鰺ヶ沢町である。鰺ヶ沢・延寿院には、漆黒の漆塗りの円空作座像観音が一体残されている。これは鰺ヶ沢の漁師が網にかかったのを拾いあげて奉納したもので、どこで拾われたかは不明とされる。この像は、「海上激流黒本尊薬師如来」と命名され、漁民の厚い信仰を受けている。像は「薬師如来」とみなされていたが、蝦夷地で多作していた観音像と同種の座像観音とみられる。その像種はともかく、「海上激流黒本尊」とはよく名づけたものだ。北行する対馬海流の流れを考えると、これは、あるいは太田山前の激流近くに漂流していた、太田山の消えた彫像の一つであったと想像したくもなるが、むろん、これは実証不可能なロマンの話である。
 海上激流黒本尊──円空彫像は、たしかに時代の「激流」を生き延びてきたわけで、この像の命名者のセンスはすばらしい。円空の足跡は、岩木山の「地神供養」のあと、津軽の地から忽然と消える。次に彼が現れるのは男鹿半島である。ここも鬼の里といってよく、男鹿の鬼は「なまはげ」と呼ばれている。円空は、この男鹿の地にも、十一面観音を残している。

530・531 男鹿の鬼風──赤神・齶田浦神と円空十一面観音 風琳堂主人 2007/02/10 (土) [57713]

はじめに

 立松和平氏の新刊『芭蕉の旅、円空の旅』(日本放送出版協会)が出版されました。円空が男神の天照皇太神を何体も彫像していたことについての梅原猛氏ほかの無理解についてはすでにふれましたが、これについては、立松氏も同断のようです。彼は、円空が『古事記』や『日本書紀』を読んでおらず、天照皇太神が「女神であることを知らなかった」と断じています。円空が記紀神話を読んでいないなどということはありえません。これについては、円空の和歌を読んでみれば一目瞭然なことです。たとえば、次のような歌があります(歌番五六一)。

  ちわやふる天岩戸をひきあけて
    権[かり]にそ(ぞ)かわる戸蔵(隠)の神

「天岩戸」神話で、重い岩戸を引きあけて天照大神を引っ張り出した天手力男の存在を知らなければ、この歌はつくれません。また、この歌から、戸隠神を天手力男とみなすという通説化が、すでに円空の時代には定着していたこともわかります。天岩戸から出てきた天照大神と戸隠神は仮に(「権に」)入れ替わったのだと円空は詠んでいます。アマテラスに代わって天岩戸に本来の戸隠神が封じられているというのが円空の認識なのでしょう。梅原・立松両氏には理解不能な円空の孤独があらためてみえてくるようです。
 円空論の上巻をなす『円空と瀬織津姫──北辺の神との対話』の全体(もくじ)がほぼみえてきました。

はじめに──円空の余韻
T 円空彫像の胎動
阿賀田大権現とはなにか──円空彫像のはじまり
高賀山の鬼神──円空の彫像思想
藤の呪力──円空の出自と旅立ち
U 蝦夷地の円空
 蝦夷地の観音たち──背銘が語る円空の足跡
 北辺の神への鎮魂──姥神・駒ヶ岳の神とはなにか
 霊場・太田山の秘神──円空彫像の行方
V 北奥の円空
 恐山信仰と地神供養──円空十一面観音のおもい
 岩木山の鬼神信仰──円空十一面観音の集中
 男鹿の鬼風──赤神・齶田浦神と円空十一面観音
 円仁と円空──北の旅の終焉地・松島へ
あとがき

 千時千一夜へ載せているのは、UとVの部分です。Tについては、補足・推敲したいところもあり、あとまわしとなっています。ともかく、前半のゴールはみえてきたようです。


一 秋田随一の聖地・男鹿島

 正保四年(一六四七)、幕命によって作成された『出羽一国御絵図』をみると(『男鹿市史』上巻所収)、男鹿半島は、実際は半島というよりも島と見立てることのほうが自然な地形をなしている。八郎潟は、現在は埋め立てられてしまって「潟」の面影はあまりないが、絵図は、この潟は南に開口部をもつ入江・浦であった姿を描き取っている。この入江の北西部は細長い砂州が北東方向に延びていて、これが男鹿島を、かろうじて本土の陸地とつないでいる。
 この潟の東に勢力を張っていた大河兼任(系図によれば、安倍貞任・宗任の弟・正任の末裔)は奥州藤原氏最後の豪の者で、兼任が七千余騎をもって、本家平泉を滅亡に追い込んだ源頼朝に一矢報いんとして、いわゆる「大河兼任の乱」をおこしたのは文治五年(一一八九)暮れのことだった。兼任は、まず卑近の敵・男鹿(小鹿)の橘公業を討つために結氷した「大方(潟)」を渡ろうとしたが、なぜか氷が急に溶けて五千余人が溺死したとされる。『東鑑(吾妻鏡)』は「氷俄に消ゆ」と、この不思議な現象を記していて、さらに、この溺死を「天譴を蒙るか」、すなわち、天罰であろうかと冷ややかに添えてもいる。
 潟が結氷したとすれば、淡水を多く含む気水湖に近かった可能性もある。『赤神神社五社堂保存修理工事報告書』(赤神神社発行、以下『赤神神社報告書』と略す)は、男鹿半島の地形説明として、「北側から米代川、南側から雄物川が砂州をつくり、内側に八郎潟をいだく陸繋島」と記している。八郎潟の成形過程は、津軽の岩木川の河口湖かつ入江である十三湖とよく似ているようだ。
 円空が北の津軽・岩木山から、この男鹿の「島」へやってくる経路はわからない。内陸を南下したのではなく、もし日本海沿いを南下したものとしても、それが船によるものか、あるいは徒歩であったのかもわからない。仮に陸路を日本海沿いに南下して歩いてきたとすれば、潟の北の砂州を下る経路で、それは男鹿の山を南にみながらの旅であっただろう。
 吉田東伍『大日本地名辞書』は「南秋田郡(男鹿島を除く)」と、男鹿半島を明らかに島扱いしていて、しかも南秋田郡から除外した記述をしている。『男鹿市史』は、これに対して、「男鹿島は実際は本土と陸続きの半島であっても、本土と切り離された島と認識されていたのである。ここには律令政府の威令は容易に及ばず、もちろんそれに服属しない。体制側からすると、実に厄介な蝦夷がほしいままにしている。異族の蕃居する特別地域と判断されたためであろうか」と、もっともな感想を記している。
 能代地方から南にみえる男鹿半島は、まさに海上に浮かぶ「島」としかみえないだろう。この男鹿島の主峰が本山(七一五b)と真山(五六七b)である。この二山は、平安期初頭の坂上田村麻呂の時代は「湧出山」と総称されていたが、円仁(慈覚大師)が貞観年中に「湧出山を二分し北を真山、南を本山とした」とされる(真山神社由緒)。なお、奥州藤原氏の時代は「大社山」とも呼ばれていたようだ(『東鑑(吾妻鏡)』)。市史は、この男鹿の霊峰(本山・真山)は「秋田随一の聖地」と述べている。
 蝦夷地の二大霊場(有珠山善光寺と太田山)から下北の霊場・恐山へ、そして「日本の鬼方、寔[まこと]に鎮護第一の霊場」(「岩木山縁起」)とされる岩木山を抱える津軽へと、北の各地の霊場を歩いてきた円空である。彼の足が、この「秋田随一の聖地」とされる男鹿島をめざしていたことはまちがいない。この「聖地」にあるのが、現在の赤神神社(男鹿市船川港本山門前)と真山神社(男鹿市北浦真山字水喰沢)である。


二 齶田[あぎた]浦神という男鹿の地主神

『赤神神社報告書』所収「赤神神社年表」の寛文八年(一六六八)の項に、「この頃、円空、客人権現堂内の十一面観音を造像」との記述がある。
 赤神神社五社堂は本山への参道途中の山中に鎮座する「社堂」で、この五社堂への石段づくりに男鹿の鬼伝説が象徴的にみられるが(後述)、この五社堂のなかの「客人権現堂」に、円空は十一面観音立像(像高一五二・五センチ)を彫像・奉納した。五社堂の中心の堂は赤神権現堂で、「赤神」と呼ばれた神の習合仏は薬師如来とされる。
「客人[まろうど]権現」といわれると、いかにも「客人」であった円空ともだぶってきて、なにかよそからやってきた「権現」ともみられかねないが、これが逆であることは、地元の研究においても指摘されていた。

「客人権現」の「まろうど」。意味は「よそからきた人」と思われる。したがって客人神はよそからきた神の意と解される。ところが、日本民俗学の柳田国男や折口信夫は、客人神というのは後から来た神ではなく、神社がそこに建つ以前からまつられていた地主神、土着の神であるという。〔中略〕
五社堂の中央に赤神大権現、右隣に八王子、右端に客人権現、左隣に三の宮、左端に十禅師がまつられていた。この客人権現は男鹿島にはるかの時代からまつられていた地元の神ではなかったか。記録をたどれば安陪比羅夫が一八〇艘の軍船をひきいて秋田、男鹿のエミシを服属に来たとき、エミシが誓ったという「秋田の浦の神」がそれに当るのかもわからない。               (男鹿市教育委員会『男鹿市の文化財』第十集)

 五社堂の現在の配列は、この記述とは大きくちがっていて、向かって右から、三の宮、客人権現、赤神大権現、八王子、十禅師の各堂が並んでいる。その異同の経緯はおくとして、「客人権現」と習合している神が、「後から来た神ではなく、神社がそこに建つ以前からまつられていた地主神、土着の神」だという指摘はとても重要である。円空は、まさに男鹿の「地主神、土着の神」の鎮魂・供養として、十一面観音を彫像・奉納していたのである。
 では、男鹿の地主神とはなにかという問いが当然に浮かぶところで、それについては、安陪比羅夫の北征にみられる「秋田の浦の神」だろうと『男鹿市の文化財』は推測している。同誌がいう「記録をたどれば」の「記録」とは『日本書紀』斉明紀の記述を指す。斉明四年(六五八)条を読んでみる。

 夏四月に、安陪臣(比羅夫…引用者)、船師[ふないくさ]一百八十艘を率て、蝦夷[えみし]を伐つ。齶田[あぎた]・淳代[ぬしろ]二郡の蝦夷、望[おせ]り怖ぢて降[したが]はむと乞ふ。是に、軍を勒[ととの]へて、船を齶田浦に陳[つら]ぬ。齶田の蝦夷恩荷[おが]、進みて誓ひて曰[まう]さく、「官軍の爲の故に弓矢を持たず。但し奴等[やつこら]、性[ひととなり]肉を食[くら]ふが故に持たり。若し官軍の爲にとして、弓矢を儲けたらば、齶田の浦の神知りなむ。清き白[あきらか]なる心を將[も]ちて、朝[みかど]に仕官[つかへまつ]らむ」とまをす。仍[よ]りて恩荷に授くるに小乙上を以てして、淳代・津軽二郡の郡領[こほりのみやつこ]に定む。遂に有間浜に、渡嶋[わたりのしま]の蝦夷等[ども]を召し聚[つど]へて、大きに饗[あへ]たまひて帰す。

 斉明四年(六五八)という年は、唐による高句麗征討がなされている最中で、この征討は高句麗と百済との結びつきを断つためだった。その百済と同盟関係にある倭国が、最初・最大の対外戦争である「白村江の戦い」(六六三年)を前にして(百済の滅亡は六六〇年)、つまり、緊迫する半島情勢をよそに、朝廷の主力水軍の大将の一人である安陪比羅夫や百八十艘の軍船を、はるばる北の蝦夷の地に派遣することがはたしてあるのだろうかという疑問は消えない。あるいは一歩引いて、この官軍の北上をもし史実とすればだが、それは、唐・新羅との一大戦争を控え、まずは倭国内の北からの脅威を取り除こうとした軍事戦略であったと考えられなくもないが、これはやはり穿ちすぎの見方のようにおもえる。ともかく、斉明時代に、「齶田[あぎた]・淳代[ぬしろ]二郡の蝦夷」の代表(酋長)とおもわれる「齶田の蝦夷恩荷[おが]」が、自分たちの持っている弓矢は決して官軍(朝廷軍)には向けませんと誓った神が「齶田の浦の神」であった。この神は「浦の神」とあるように海神とみられる。吉田東伍『大日本地名辞書』も、「恩荷と云ふ夷酋が誓詞せる齶田浦神は則この赤神なるべし」と書いている。
 泉明「赤神神社祭神考」(『男鹿市の文化財』第九集所収)によれば、この謎の「赤神」とはなにかということで、これまで、四つの仮説が提出されているという。すなわち、@漢の武帝とする説、A齶田の浦の神とする説、B摩多羅神(赤山明神)とする説、C越王(古四王)とする説、である。これまでみてきたのは、「A齶田の浦の神とする説」に該当するわけだが、もう少しこの説にこだわってみる。
 円空の出没するところに菅江真澄の影ありで、男鹿も例外ではない。もっとも、五社堂の円空彫像については、菅江は見落としていたようだが、しかし、「齶田浦神」については、江戸期のとっておきの話を収録していた(『雪の陸奥[みちおく]雪の出羽[いでわ]路』)。

(一八〇一年十一月)十日 人にいざなはれて、真住吉[マスミノヱ]の神のみやどころ、いと清げなる松原に在けるに詣[マウデ]ぬ。この神籬はじめを浦人の伝へにいへらく、陸奥の毛布の郡(鹿角郡)より出ながるゝ米代の水尾と、千福の緒裳の(雄物)川の流の末とひとつに落会て、しか浦の名をも落合とぞいふなる。その水のみわだに神在せり、これなん齶田の浦の神知りたまひなんと、ゑみしらがよごとをはなちて誓[ウケヒ]せしおほみ神とも聞えたりし。さりければ、大化(六四五〜五〇)、白雉(六五〇〜五五)のそのいにしへより落会にしづもりませしことのいちじろけん。それよりもゝいそまりのとし(一五〇年)をへて延暦(七八二〜八〇六)のころほひ、阪上田村麿蝦夷むけ給ひしいくさのきみにして、しるしの御幡を落会の社にをさめて、誉田のすめらみこと(応神天皇)のみたまを斎ひまつり給ひつと。〔中略〕やはたの御神はまさしきかんざね(神体)にておはしませど、誰れもさはとなへ奉らで、もはら住吉の神のみぞあがめ奉る。此神垣の外[ト]に池ありその池の心に嶋ありて、さゝやかのほぐらを居[スヱ]たり。〔中略〕水門[ミト]のうちふたがりて、こと国の船も入くべうすべなければ、(播磨の水夫にだまし殺された…引用者)くゞつ(遊女)のみたま、あらぶるこゝろをましますなゆめ、あはれなきたまを神といはひ祭らんとて、海べたに小祠[ホグラ]を建て斎ひしかど、をりとして浪にうちとられてければ、此池の心にかねて在しける神とあはして竜神[ワタツカミ]と祭りぬ。
                         (未来社『菅江真澄全集』第三巻)

 菅江真澄の土地々々の伝承収集力は並はずれていて、これは蝦夷地・太田山にもみられたように、江戸期の「証言」として、ときに神社由緒における後世の創作に大きな風穴をあける力を発揮することがある。
 菅江のこの一文は、「齶田の浦の神」は「真住吉[マスミノヱ]の神」だという。つまり、齶田浦神は真住吉神で、「ゑみしらがよごとをはなちて誓[ウケヒ]せしおほみ神」だという。
 菅江が訪れた「真住吉[マスミノヱ]の神のみやどころ」は、「池ありその池の心に嶋ありて、さゝやかのほぐらを居[スヱ]たり」とされる。また、不幸の死を遂げた「くゞつ(遊女)」の死魂の祟りを恐れて、彼女を「神」として、米代川の「水門」つまり河口に「小祠」を建てて鎮めまつったが、浪にさらわれてしまったため、あらためて「此池の心にかねて在しける神とあはして竜神[ワタツカミ]と祭りぬ」と描写されている。
 鹿角郡より流れくる米代川の河口に開けたのが能代市で、菅江が訪れた「真住吉[マスミノヱ]の神のみやどころ」は、現在、能代市柳町にある八幡神社の境内社となっていて、その立地も「池ありその池の心に嶋ありて、さゝやかのほぐらを居[スヱ]たり」の描写通りである。
 この八幡神社の現在の由緒は、「斉明四年(六五八年)に阿部比羅夫が齶田、淳代の蝦夷征伐の折、戦勝祈願のため戦さの神様である八幡大神(応神天皇)を海岸の中島に鎮祭したのが始まり」と自己紹介している(同社案内)。これだけを読むとそうかという話だが、先の菅江の一文には、「延暦(七八二〜八〇六)のころほひ、阪上田村麿蝦夷むけ給ひしいくさのきみにして、しるしの御幡を落会の社にをさめて、誉田のすめらみこと(応神天皇)のみたまを斎ひまつり給ひつ」と、大きく異なったことが書かれていた。延暦時代にまつられた八幡大神を、斉明四年(六五八)に阿部比羅夫がまつったものというように、ことさらに古くみせようとしているのが八幡神社の現在の由緒である。
 八幡神社境内の池の中島には、現在、住吉水門龍神社(神社本庁への登録社名)がまつられていて、同社宮司の方に念のために確認すると、ここの神はたしかに瀬織津姫命だという。境内社はほかにもあるが、住吉水門龍神社を訪れても、鳥居の扁額に「住吉龍神社」とあるのみで、祭神の表記も由緒説明もない。ほとんどの一般参詣者は、この龍神社に瀬織津姫がまつられていることなどまったく知らないものとおもう。瀬織津姫という神の神社界における処遇の現在を象徴している祭祀といってよいが、菅江が聞いた話で、遊女を「神」として合祀したというのは、ここにまつられていた瀬織津姫(「かねて在しける神」)が禊祓の神でもあったゆえで、薄幸・無念の死を遂げた遊女の怨霊・死魂を、この神の「力」によって祓い浄化せんとした水夫たちの祭祀動機は想像がつくのである。
 円空が地神供養の最重要な対象神とみていた「秘神」の名が、この秋田・能代の地からも出てきた。しかも、それが、菅江真澄の一文から、男鹿の赤神とも重なる齶田浦神であり、さらに「真住吉[マスミノヱ]の神」ということまでがみえてきた。古来、摂津国で住吉神(当初は墨之江大神)をまつってきた氏族は津守氏で、まさに津=浦の守神として「真住吉[マスミノヱ]の神」はあった。ちなみに、近江雅和『記紀解体』(彩流社)は、伊勢内宮第一別宮・荒祭宮の神の異称は「津守大明神」とも記していたが、この荒祭宮の神は、いうまでもなく瀬織津姫である。
 住吉大社は四つの本宮から構成される。第一から第三本宮は縦(奥)に一列に並び、この三本宮を一ブロックとして、これと並祭するように第四本宮が横に並び建つという変則的な社殿構成となっている。第一から第三本宮は、記紀の表記に従って筒男三神をまつり、第四本宮の異称は「姫神宮」で、ここにまつられる謎の「姫神」こそ瀬織津姫とみられる。菅江真澄が住吉神(=筒男三神)ではなく、わざわざ「真住吉神」と記していたこと──、その示唆することはすこぶる重要である。


三 円仁の祭祀思想

 本山・真山の二峰によって構成される男鹿半島の主峰だが、真山はもともと「新山」だったようで、『男鹿市史』上巻は、この二山構成を「熊野の本宮・新宮を摸したともいわれる」と指摘していた。人見蕉雨『夏木草』(享和元年)にも「雄鹿の霊山と聞へし新山、本山へ熊野の新宮、本宮を象り金胎両部の嶺とす」と書かれる。
 赤神神社の祭祀をみていると、いくつか不思議なことがあるのに気づく。たとえば、男鹿の土着神が習合する仏は十一面観音であったが、赤神神社の「赤神」の本地仏は薬師如来である。なぜ、十一面観音ではなく薬師如来が主尊なのか──。そもそも「赤神」という名の神は何に由来して「赤」なのか──。
 本山側(南)には赤神神社五社堂があり、真山側(北)にも同じく赤神神社五社堂があった。真山側の赤神神社が真山神社を名乗るのは明治期以降のことで、同社の五社堂は焼失して現在は五社殿としてまとめられている。こういった相似の祭祀の理由は、まさに「金胎両部」の密教的発想によるものなのだろう。真山神社の五社殿の扁額には「真山」ではなく「赤神山」と記されていて、これは、かつての別当寺・遍照院真山光飯[こうぼう]寺の遍照院山号が「赤神山」であった名残りとおもわれる。本山側の別当寺も赤神山日積寺本山永禅院で、本山・真山というも、総称すれば赤神山という認識なのだろう。
 本山側の赤神神社は、「縁起によれば貞観二年(八六〇)に慈覚大師円仁の開山といい、赤神山日積寺、別当を本山永禅院と号する。明徳二年(一三九一)に天台宗より真言宗に転じた」とされる(『赤神神社報告書』)。「円仁の開山」については、真山神社も「貞観年中には円仁慈覚大師によって湧出山を二分し北を真山、南は本山とした」といった記述がみられる(同社案内)。
 赤神神社五社堂の中央堂(赤神権現堂)は左右の四堂よりも大きく建立されていて、赤神権現堂の「祭神と本地」は、「阿伽神大権現(国常立尊)=薬師如来」とされる。では、男鹿の地主神と習合する客人権現堂はどうかというと、こちらは「伊弉册尊=十一面観音菩薩」とされる(以上『赤神神社報告書』)。
 真山側の赤神神社五社堂については、こちらは焼失ということもあって「祭神と本地」の関係ははっきりしない。真山側の赤神神社は明治期に真山神社と社名変更していて、現主祭神は瓊瓊杵尊と武甕槌命の二神と表示している(同社案内)。しかし、明治十四年の「神階昇進願」(男鹿市教育委員会『男鹿市の文化財』第十集所収)には、祭神は天津彦火瓊瓊杵尊と伊邪那岐尊と書かれていて、近代以降のいつの時点かはわからないが、伊邪那岐尊を武甕槌命に変更していることがわかる。「神階昇進願」には、文禄四年の棟札の写しも添付されていて、そこには「奉造立赤神山天津迩々杵命宮殿一宇」、また寛永九年の棟札の写しには「奉造立赤神宮迩々杵宮宮殿一宇」とあるから、真山主神は「ニニギノミコト」、つまり、記紀神話の天孫降臨の「天孫」をまつるという祭祀意識があったとみられる。
 同じ「赤神」をまつるはずの両社である。赤神神社はそれを国常立尊とし、真山神社は瓊瓊杵尊としている。これは一見奇妙なことだが、主神の本地仏については薬師如来と統一されていたわけで、その垂迹神をどう表記するかの解釈の相異ということなのだろう(秋田県神社庁編集・発行の『秋田県神社名鑑』には、赤神神社の主神は「天津彦火瓊々杵之命」と記され、真山神社と同祭神とする整合化が図られている)。
 鈴木重孝『絹篩』(幕末の地誌)の本山五社堂の項に、「中堂 赤神大権現 本地薬師如来〔丈け三尺、日光月光十二童子安置す〕」との記述がある。日光菩薩と月光菩薩を脇侍とする、いわゆる薬師三尊と、その眷属神の十二神将(十二童子)があったことがわかるが、鈴木はさらに「中堂赤神権現は銅像自[ママ]覚大師の作、永代不可開と云ふ」と興味深い見聞を添えている。「永代不可開」という謎の赤神権現像は「銅像」で、これは円仁の作だという。
 赤神山あるいは湧出山の神を仏=薬師如来に置き換えたのは円仁によるものとみてよい。赤神神社の開山伝承によれば、これは貞観二年(八六〇)のことだった。赤神の祭神諸説に漢武帝や摩多羅神(赤山明神)の名があったが、漢武帝については、天台宗創始者の最澄が漢武帝の生まれ変わりであるとする始祖伝説によるものであろうし、摩多羅神(赤山明神)については、円仁が入唐求法からもちかえった神とされ、日吉山王権現とともに比叡山の二大護法神の一神であることをみれば、いずれも天台宗徒の発想による祭神説といえる。
 円仁の開山・開基伝承をもつ寺院は東北各地にみられるが、最北は海を渡った蝦夷地の有珠山善光寺である。下れば下北半島・恐山にもみられる。そして、男鹿半島である。円空の足跡が重なっているのは偶然ではなかろう。円仁が男鹿の神を薬師如来に置き換えたところへ、円空は十一面観音を彫像・奉納していた。しかも、円空の十一面観音は、地主神をまつる客人権現堂に奉納されていた。円空が「地神供養」の精神のもとに彫像した十一面観音にみていた神は一神しかいない。当地の地主神ともされる齶田浦神にも、円空おもうところの瀬織津姫という神の名がみえてきたことは重要である。
 円仁がわざわざ男鹿の地へやってきたのは、彼の個人的な布教精神によるものではけっしてない。このことは、「天安二年(八五八)に、新山(真山)光飯寺の円仁大徳という僧が天皇の命を受けて本山神社を造った時、本山の神木で三体の仏像を作って山上に安置した」という記述に端的に表れている(『男鹿市史』上巻)。円仁は「天皇の命」、つまり勅命によって各地の霊場(神の祭場)を歩いていたわけで、それが、その地の地主神を仏に置き換える行為となっている。いいかえれば、仏によって地神隠しをするのが彼の勅命遂行の任務といってよい。このように隠された神、消去された地神を、独自の彫像思想によって鎮魂供養せんとして各地を歩いていたのが円空である。
 本山神社(赤神神社)をつくったのは円仁だという。円仁の時代に五社堂はなく、赤神神社五社堂として整備されるのは鎌倉時代で、比叡山の鎮守社・日吉山王社に準じて上七社を模倣せんとしての造営だったがなぜか七社ではなく五社におさまったようだ。円仁は本山神社(赤神神社)の別当寺として赤神山日積寺本山永禅院を設置した。


四 円仁と瀬織津姫

 現在の赤神神社の地に、円空が供養せんとした瀬織津姫の祭祀痕跡がはたしてみられるのかどうかといえば、これはかなり希望が薄いといわざるをえない。ただし、瀬織津姫が禊祓の神に降格されてからの祭祀ならば、その痕跡はあるとはいえる。鈴木重孝『絹篩』の「本山」の項に、次のような記述がある。

門前より一丁余にして御神坂下赤神山二の鳥居〔一の鳥居は椿村中山のふもとにあり〕の前に橋有、香爐橋と云。又は極楽橋、下馬橋とも云。大峯より落る川へかゝりたり、此川を祓川と云。参詣の諸人垢離を取り登山す、故に垢離川とも云。橋の袂に小社有、金剛堂と云(〔 〕内は割注、以下同)。

 ここには、「祓川」という瀬織津姫ゆかりの川名が記されている。祓川は五社堂への登拝口にある赤神神社(拝殿)の横を流れる川で、「男鹿図屏風」などにも記されている。なお、祓川は現在、同地の小字地名ともなっている。
 祓川という川名は各地の霊場・神社に散見されるため、珍しい川名とは必ずしもいえないが、しかし、そこに円仁の伝承が刻まれているとき、この川がもっている意味は大きく変わってくる。

(斉衡年中)六月十八日 麓の新山宮において大祭を設け神輿を祓川〔薬師岳より流れる川なり。煩悩垢穢を被る故に円仁自ら祓川と名付く〕に行幸す(「妙泉寺継図並兼記」)

 これは、『早池峰山妙泉寺文書』(遠野市文化教育財団)に収録されているもので、祓川の命名者が円仁であることが記録されている。円仁は「斉衡年中(八五四〜八五七)」に早池峰山へやってきて、別当寺の妙泉寺を創設して高弟の持福院を置いていったとされる。早池峰山開山者の四角藤蔵は、妙泉寺あるいは持福院の脇によけられるも在地の社家かつ里修験として、明治の最初まで早池峰山祭祀および妙泉寺に関わることになる。
 早池峰山の祓川のもとの名は滝川といい、この川の源流部に瀬織津姫と不動尊ゆかりの「又一の滝」「不動の滝」がある。円仁─持福院によって、早池峰山の瀬織津姫は仏・権現の名の背後に隠されるも、在地の四角家は、自身が伊豆から奉持してきた瀬織津姫という神の名を忘れなかった。藤蔵は、妙泉寺→早池峰神社現在地へ移り住む前に住んでいた来内村に、伊豆権現として瀬織津姫の名を刻んでいた。円仁(たち)が「斉衡年中」に早池峰山でしたことは、早池峰山地神の瀬織津姫の名を、権現名・仏名を表立てることで消去・隠祭し、しかも祓神にまで降格させたことだった。それが、「祓川」命名の意味である。
 早池峰山祭祀の改竄がなされた「斉衡年中(八五四〜八五七)」につづく天安二年(八五八)あるいは貞観二年(八六〇)に、円仁は男鹿の地で神仏混淆の祭祀をはじめている。しかも、それは「天皇の命」によるものだった。蝦夷地・樽前山の祭祀で、「明治天皇の勅命」によって瀬織津姫祭祀が封殺・改竄された事実がここに重なってくる。樽前山神=瀬織津姫の神体像として、円空の観音は彫像されたのだった。
 早池峰山祭祀を仏の位相でみるなら、実態は十一面観音と薬師如来の二仏によってはじまったようだ。しかし、秘された太陽神と習合する薬師如来は消え、十一面観音が表の顔をして明治初頭まで主尊の顔をしていくことになる(『エミシの国の女神』)。
 男鹿の赤神山祭祀をみると、早池峰山とはまるで反対の祭祀がなされてきたようだ。湧出山から赤神山(本山・新山)に変わったとき、その主尊から消えたのは、こちらは十一面観音のほうだからである。しかし、菅江真澄は『男鹿の春風』で、「赤神山といふ額うちたる大なる堂あり。奥には十一面菩薩をひめて斎ふを、赤神山客人大権現と唱ふ」と、赤神権現=薬師如来の背後(奥)に十一面観音=赤神山客人大権現の秘祭(「ひめて斎ふ」)を見落とさなかった。菅江は円空の名こそ記さなかったが、その彫像とは対面していたとはいえるかもしれない。
 鈴木重孝『絹篩』は、祓川の「橋の袂に小社有、金剛堂と云」と記していた。『男鹿市の文化財』第九集は、「現在、門前には五社堂、長楽寺、祓川のほとりの今木神社以外に宗教的建物は残っていない」と書いていて、「金剛堂」は現在「今木神社」という社名となっている。
 祓川の今木神社は不動尊をまつっている。背後には滝があったとされるも、祭神は必ずしも明確ではない。氏子の方は「お不動さん」と親称するのみである。今木神社の他例をみるなら、八森町(現八峰町八森)の今木神社は祭神を「火結霊[ほむすび]神」とし、「滝の横に位置する。火の神、不動さまである」と説明されている(『八森町誌』)。今木神として著名なのは、京都・北野天満宮の近くにある平野神社の主神四神の筆頭神である今木神であろうが、こちらも「今木大神」「今木皇大神」と記されるのみで具体的な神名は伏されている。なにやら謎めいた今木神だが、男鹿あるいは秋田の地では不動尊と習合する滝神を今木神と呼んでいるようだ。
 これが遠野地方ならば、不動尊と習合する滝神は瀬織津姫であることは自然なことだが、秋田県では、神仏分離後の祭神決定に際して、不動尊が背後にいただく火焔のイメージから火結霊神が滝神とされたらしい。
 円仁が不動尊をまつったという伝承をもつ神社、しかも「祓川」をもつ神社をもう一つみておきたい。白瀑[しらたき]神社という。同社は、戦前にはじまった「みこしの滝あび」という特殊神事で知られるが、江戸期までは瀑峰山天龍院(天瀧院、天瀧寺とも)の不動堂だった。これも旧八森町にあり、筆頭祭神は、ここも「火結霊神」とされる。
 白瀑神社には三つの縁起書が残っているようだが、いずれも、円仁による不動尊の彫像と祭祀のはじまりを伝えている。菅江真澄は二度ほどここを訪れていたが、菅江と親交のあった白鴎主人が書いた「瀑峯山天瀧院不動明王記」(享保十一年)の一節を読んでみる。

 仁(円仁)、(「四十八級の飛泉」を発見して)歓喜に絶えず、石上に端座すること七日七夜、光明の瑞元を祈れば、忽ちにして瀑下に数尺の霊木を得たり、未だ其の何木たるを知らず、異香蕉馥として光輝昭灼たり。仁感応の空しからざるに勇み、手づから三尺七寸の不動明王の像を彫刻して之を瀑上に安置す。蓋し一体にして便ち三七尊を表すなり。仁精進を弘誓して、一字一石に法華経を書写して檀を築き、上に五輪の石塔を造立す。其の趣意は、以って土地神を祭り、以って結界の清浄を卜し、以って永く悪趣を離れ、以って善種を積聚するに在り。〔後略〕                  (『八森町誌』所収)

 円仁が「土地神」を軽々に扱っていたわけではないことがよく伝わってくる一文ではあるが、法華経の呪文を一字ずつ書き込んだ石によってつくられた檀に「五輪の石塔」を据え、その「結界」の内部に「土地神」が封印されたことにはちがいない。
「五輪塔は本来は舎利をおさめる供養塔で、死者の冥福を祈るための墓である」とは立松和平氏の言葉である(『芭蕉の旅、円空の旅』日本放送出版協会)。白瀑の土地神は、円仁にとっては冥福を祈る「死者」とも等しい存在だったのである。しかし、土地神に「死」を与えたのは、ほかならぬ円仁自身であった。
 菅江真澄は『雄がらの滝』で、「祓川をわたって不動尊の堂にぬかずいた。この阿闍羅明王(不動明王)は滝の堂をもととして、円仁がつくられたという」と書いていて、円仁がやってくる以前から、同地にはすでに「滝の堂」があった伝承を拾っている。
 縁起は「四十八級の飛泉」と書いていたが、『秋田風土記』は天瀧寺の行事の項に、「不動堂境内四十八滝あり、社一の滝を白布の飛泉と称する」と書いていて、白瀑神社の滝は、那智四十八滝の「一の滝」に見立てられている。円仁が、那智大滝の本来の滝神の名を知らなかったはずがない。そして、この「白瀑」から流れくる川も「祓川」なのである。遠野・早池峰神社前を流れる川も「祓川」で、その川の源流部には「又一の滝」がある。遠野郷は、この那智ゆかりの滝神を瀬織津姫として現在に伝えているが、このことがどれほど貴重な証言であったかをあらためて知らされる。
 白瀑神社の神は、「火結霊神」とされる。早池峰神社の元社・親社である伊豆神社の本社は、伊豆・熱海の伊豆山神社である。この本社の主神は「火牟須比命」である。火結霊神と火牟須比命が同神であることはいうまでもない。分社の遠野・伊豆神社が瀬織津姫をまつることをつづけていることは特記すべきことだろう。
 白瀑神社には、遠野の四角藤蔵にあたる人物が存在しなかったことで、円仁が不動尊の背後に秘めた滝神の名を「火結霊神」としてしまったらしい。
 赤神神社五社堂の「祓川」の滝神・川神をまつる今木神社(金剛堂)の社殿内部には、不動尊の小さな石像が衣にくるまって、まるで地蔵尊のように大切にされている。また、赤神神社のかつての一の鳥居近くにある今木神社も不動尊の像をまつっている。こちらの像は赤銅色の地肌をしていて、わたしはてっきり鉄像かと思い込んでしまったが、氏子の方から、これは男鹿の海で採取された石に彫られたものと教えられびっくりした。ここは、かつては神明社だったという。桜の名所でもある京都・平野神社の今木神は「今木皇大神」でもあり、今木神=不動尊が抱えている謎めいた祭祀の闇はけっして浅くない。
 白瀑神社の縁起「瀑峯山天瀧院不動明王記」の引用とは別の箇所には、不動尊を「金胎不二如来」とする密教的な認識が書かれていた。これは、不動尊は金剛界・胎蔵界の大日如来と「不二」、つまり、別ではないという考え方である。金剛界・胎蔵界を伊勢の外宮・内宮に対応させるというのが両部神道の見方なのだが、いずれにしても、今木神社の前身は「金剛堂」であった。金剛神は主尊・主神の眷属神・護法神の役割をもたされるも、主尊・主神の分身でもある。金剛神を今木神=不動尊とし、そこに禊祓神(祓川の川神・滝神)を二重化させるという複雑さについては、つまるところ、神宮祭祀の不条理をあからさまに語ることなく新たな祭祀解釈の方法を創作せんとした密教意識に淵源がある。具体的には、大日如来=天照大神という主尊・主神に対して、その分身を不動尊=天照大神「荒魂」=禊祓神と見立てるということである。男鹿の地にも、神宮の基層神の影は濃厚に落ちている。


五 異彩を放つ十一面観音縁起

 赤神権現について現在読める縁起書は五種あるとのことである(遠藤巌「寺社縁起と歴史認識」、『男鹿市文化財紀要』平成十七年三月所収)。なかでも、「他の赤神山縁起で強調するような漢武帝を赤神権現とすることなく、赤神を『上生都卒』、『十一面観音』であると強調している」と指摘されているのが、「赤神山大権現縁起」(鈴木重孝『絹篩』所収)である。この縁起の書写の日付は明徳二年(一三九一)とされ、ほかの縁起がすべて江戸期の作・成書であることから、一見、抜きん出て古い印象を受ける。
「赤神山大権現縁起」が特異であるのは、十一面観音を中心とした縁起であるというばかりでなく、この主尊の最重要な眷属神として「大行事瀧蔵」という謎の滝神を登場させていることである。また、赤神の「赤」が何に由来するものかを説明している唯一の縁起であることも、大きな特徴かもしれない。
 書き出し部分を読んでみる(原文は和製漢文だが、遠藤巌氏の書き下し文による)。

凡[およ]そ正法[しょうぼう]千年・像法・末法の前に、我カ朝[みかど]景行天皇御宇十一辛巳[かのとみ]の歳、東山道出羽国の奥、秋田郡男鹿荘西崎玉河の側[かたわら]金地[こんち]の上に忽然として大いなる光明を放つ。其の色は紅赤にして海面を照らし山頭を輝かす。

 景行時代に「東山道出羽国」も「男鹿荘」も成立していない。いきなり、この縁起はフィクションを暗に宣言しているようなものだが、それはおいておく。縁起は、主語そのものを伏せていて、「秋田郡男鹿荘西崎玉河の側[かたわら]金地[こんち]の上に忽然として大いなる光明を放」って現れたものが神なのか仏なのかはまだわからない。しかし、この謎の神か仏は「玉河」の側の絶対聖地(金地)に降臨し、この神仏が放つ「光明」は「紅赤にして海面を照らし山頭を輝かす」と、荘厳な出現の仕方がドラマティックに語られる。どうやら、この謎の神仏は、西方から男鹿の地へやってきたらしいことは、「西崎」や、海面が夕日に照らされるように「紅赤」に輝いているイメージから想像しうる。
 場面は、男鹿の鬼たちの出迎えを受ける展開を告げる。

時に三鬼有り。名は眼光[がんこう]鬼、首人[おんと]鬼、押領[おうりょう]鬼と曰[い]う。即ち驚き騒ぎて光脚を尋ね、漸[ようよう]彼に行き詣[いた]りて、遂に渚の中を見るに、磐石の上に五体の霊神、影向[ようごう]して四角一中位に立ち、桃顔は比叡を後にして〔脱落か〕……

 謎の神仏は「五体の霊神」であり(五社堂に対応か)、四神の中心の「霊神」はどうやら「桃顔」の表情をもっているらしく、そして、やってきた元地は「比叡」とあるから比叡山かとおもわせるがまだ断定はできない。ともかく、霊神は男鹿の眼光[がんこう]鬼、首人[おんと]鬼、押領[おうりょう]鬼という三鬼に肯定的な出迎えを受けたとはいえるようだ。
 この三鬼には首領がいて、それは「鬼王」とされる。鬼王たちは「恭敬供養したてまつる」と書かれる。「霊神」はここで「尊神」とも書かれ、鬼王たちからの捧げ物を受け取ると、「十禅師」に命じて、男鹿の東西南北四方の結界を次のように定める。

  南、孤嶋は霞に映えて、洪波は万里を畳みて漫々とし、
  北、仙峯は雲を串ざし、崇嶺は千尋に峙って峨々たり、
  東、浜は百里に満ちて、人畜往還して白銀の砂を歩み、
  西、瀧は十丈より落ち、神仙遊化して瑠璃の氷を飛ばしたり。

 謎の霊神はここで、「我が徳」を語りはじめるが、「霊神」のイメージをうかがわせる印象的な言葉を拾えば、「是れ(男鹿は)有縁の地なり。須らく堅固の石像を現わし、難化の衆生を降伏せしむべし」、石像の「像色は紅赤にして盡未来際[じんみらいさい]たるなり。其の色若し変改せば、当[まさ]に本土に還りたることを知るべし」だろう。謎の霊神の現れる姿は「石像」で、しかも、その「像色は紅赤」だという。
 縁起は、いよいよ謎の霊神が「赤神」であることを明かすことになる。また「赤」の由来もあわせて明かされる。

名を聞け。我は上生[じょうしょう]の都卒[とそつ]なり。何ぞ況[いわ]んや、礼供せば必ずや菩提を得たらん、と。此[この]偈[げ]を説き已[おわ]って即ち紅頗[こうは]梨光を放ち、普[あまね]く八方上下を照さば、遂に堅固の磐石と変じて、紅赤色の光を帯びたり。〔中略〕光色紅赤の故に赤神と号したてまつる。寔[まこと]に所以や有る哉。

 霊神は「紅赤色の光」を帯びた「堅固の磐石」に変化[へんげ]したとし、その「光色紅赤の故に赤神と号したてまつる」と、これまでも伏線の言葉が記されていたが、ここでやっと「赤神」の名の由来が判明することになる。
 縁起は、この「赤神」紹介につづけて、なぞの滝神「大行事瀧蔵」を登場させる。

時に大行事瀧蔵、境四至[しいじ]して云わく。東は甲神崎を限り、南は海辺を限り、西は玉河を限り、北は浜浦を限る。禅定[ぜんじょう]是[か]くの如し。依て末世の疑義を散ぜんが為に之[これ]を注[しる]すと云々。

 先に東西南北四方の結界(禅定)を定めたのは「十禅師」という眷属神であったが、ここでは「大行事瀧蔵」があらためて「境四至」を定めたようだ。大行事神は、祭祀一切を仕切る神だが、それが「瀧蔵」とされていることから、縁起は、滝神を意識した登場のさせ方をしているといえようか。
 縁起はすでに終わりに近いが、ここまで、「赤神」という霊神、および「十禅師」「大行事瀧蔵」という眷属神は出てくるものの、十一面観音はその面影すらないことに注意する必要がある。
 縁起の最終章といってよい一節を読んでみよう。

当山建立の聖人は始行菩薩・捨身菩薩・智安菩薩・能登大師なり、万巻持者は眉間・逆頬等なり。最初の建立也[なり]て已後[いご]、火災三度焚燎するも、十一面観音その度毎に空に飛びて出[いで]たり矣。遂に其の跡を改めずして、精舎を造覆せり。今の本社は是なり。第三の建立は慈覚大師なり。手より自ら身に神壇金蓮台の御座を屓い上り奉りて石の唐櫃に納めたり。敢えて之[これ]を開かず。今に宝社の下に在り。穴賢[あなかしこ]々々。

「眉間・逆頬」はほかの縁起では鬼の名として登場してくるが、赤神という霊神が習合していた仏は「十一面観音」であったことが、縁起の最後にきてようやく明かされるという仕掛けになっている。
 縁起の流れに沿って概観すれば以上のようになるが、ここで、この縁起の作者が、いかに滝神あるいは滝にこだわった記述をしていたかを抽出してみたい。
 赤神という霊神が男鹿の地に最初に降臨したところは、「西崎玉河の側[かたわら]金地[こんち]」であった。そして、十禅師が定めた聖地の西の結界は「瀧は十丈より落ち、神仙遊化して瑠璃の氷を飛ばしたり」とされ、大行事瀧蔵が定めた聖地の西の結界は「玉河を限り」と書かれていた。十一面観音と習合する赤神は、どうやら玉河の「瀧」に出現したことがおぼろにみえてくる。また、赤神が現れる姿は、紅赤の石像であった。もし滝とゆかり深い神が石像として現れるとすれば、それは神像か不動尊であろうが、縁起からそれを判断することはむずかしい。ただし、赤神神社横を流れる祓川の滝神・禊祓神をまつる金剛堂→今木神社の神体像は不動尊で、もう一社の今木神=不動尊は「紅赤」の石像であったことは無縁とはいえまい。
 十一面観音および不動尊に共通して習合する滝神あるいは禊祓神は瀬織津姫とみるしかなく、しかも、この神は齶田浦神という男鹿の地主神でもあり、円空が十一面観音の彫像を通して「地神供養」せんとした最重要な神でもあった。
 縁起は、円仁の奇妙な行為をさりげなく書き留めていた。曰く、「手より自ら身に神壇金蓮台の御座を屓い上り奉りて石の唐櫃に納めたり。敢えて之[これ]を開かず。今に宝社の下に在り」──。鈴木重孝『絹篩』も、「中堂赤神権現は銅像自[ママ]覚大師の作、永代不可開と云ふ」と、同じ禁忌伝承を記していた。「屓い上り」の「屓」の意味は「しかばね」である。この漢字を動詞として使うということは一般にはないだろう。縁起の作者は、あえてこの不吉な字を使った可能性もある。
 赤神権現は、この異端の縁起のみに「十一面観音」と記される。遠藤巌氏は、鎌倉末期には赤神山はすでに五所権現となっていて、この「五所権現の中心赤神の本地は薬師仏として強調」されてきた歴史をおさえ、この縁起がもしそれ以後に書かれたものとすれば、「十一面観音の箇所は薬師と記されたはず」、したがって、この縁起は「案外に赤神権現縁起の一番古いかたちを伝えていることになるのかもしれず」と推測している(前掲書)。
 縁起の巻末の書写日付の記載は、正確には「写本に云わく。明徳二辛未歳、旧本古朽し破損に及び候間、是非無く之を書き替うるものなり、と。」である。明徳二年(一三九一)を「写本に云わく」と仮装するも、「旧本」は「古朽し破損」してしまったので、仕方なく(是非無く)これを書き替えたというのである。
 いったいだれが「書き替えた」というのだろう。おもえば、縁起の巻末は、「あなかしこあなかしこ」と女性言葉の結語で閉じられていて、薬師如来や漢武帝を中心としたほかの縁起の生硬・生真面目さがここにはない(作者の茶目っ気とも読める)。また、恣意的ともみられかねない漢字使いが散見され(「あなかしこ」を「穴賢」と表記するなど)、本縁起の成書時期は近世のものではなかろうか。さらにいえば、赤神=十一面観音と滝神あるいは滝へのこだわりの内容である。こういったこだわりの内容そのままに、円空は後年、高賀山のほかの縁起書とは異質な高賀山地神=滝神擁護の創作縁起をつくっている(「高賀山の鬼神」参照)。わたしには、この書き替えの謎の作者は、円空であったようにおもえる。
 本縁起がもし円空の「書き替え」によるものとすれば、彼が赤神山で眼にしていた縁起は、一つしかあるまい。それは、タイトルも同じ「赤神山大権現縁起」である。これは寛文四年(一六六四)に根田俊興が正中二年(一三二五)の縁起を元に作成したものとされる(遠藤前掲論文)。円空は、寛文八年(一六六八)に男鹿の地へやってきた。残るほかの三縁起は、みな円空の男鹿滞在より時代が下る成書である。
 寛文四年の「赤神山大権現縁起」は、赤神権現は漢武帝、本地は薬師如来とするも、その「託宣にいわく」として、「吾御手洗なり」と自己紹介させたりしている。漢武帝が自身を御手洗神と託宣する奇異さ・荒唐無稽さはおくとしても、赤神権現が自身を御手洗神、つまり禊祓神であると託宣することは、これまでみてきたように、これはありうる話である。
 本縁起は、縁起書としての完成度は低いものの、右にみたのもそうだが、それなりの光芒を放つ記述もみられる。たとえば、円仁の奇行ともいえる行為と、赤神権現による円仁への託宣についての記述を読んでみる。

人王五十六代清和天皇之御宇貞観庚辰二年円仁和尚勅宣ヲうけたまハつて小鹿之山に下向して、智人上人の髑髏[ムクロ]をもつて御長一寸二分の薬師如来之像を造立供養し瑠璃之箱に入奉り石宝蔵に深く納て、今之御殿に安置し奉り。〔中略〕善哉和尚、吾和光同塵之利物ヲ顕し神と成て扶桑国内を守護すへしと。請[こう]和尚、秘密之神道を以吾も附せよ。円仁則以神道内伝之秘密ヲ勤請し奉る。是則当山嫡々[てきてき]相承之大事也。

 円仁が男鹿(小鹿)へやってきたのは「勅宣」、つまり天皇・朝廷の勅命によるものだという。円仁は当地で、「智人上人の髑髏[ムクロ]」から薬師如来をつくり、それを「瑠璃之箱に入奉り石宝蔵に深く納て、今之御殿に安置」したというのである。円仁の行為は尋常ではないが、縁起は、さらに「秘密之神道」あるいは「神道内伝之秘密」をもって祭祀をつづけていて、これは「当山嫡々[てきてき]相承之大事」だとされる。
 この縁起書が完成度が低いとみえるのは、本縁起を読むであろう対象を祭祀者の外部に想定して書いていないことによる。つまり、「秘密之神道」「神道内伝之秘密」といった話は、祭祀当事者内部には意味があっても、関係者外には無用の長物の話だろう。しかし、内部文書にも等しい記述を今読めることで、円仁の勅命による行為があらためて確認できるし、薬師如来によってそれまでの神が封じられたこと、そして、それが「秘密之神道」「神道内伝之秘密」によるものだということまでがわかるのは貴重なことだ。
 円仁は、「秘密之神道」をもって男鹿の地神を薬師如来に置き換えた。円空は、円仁によってかつて封殺された男鹿の地神供養の気持ちを込めて、赤神山に十一面観音を彫像・奉納していた。この対比、あるいは対極的行為はとても重要におもえる。赤神権現は長く薬師如来とされてきて、菅江が記したように、十一面観音はその背後に秘められてきた。もし男鹿の地神が習合するなら、それは十一面観音であろうというおもいをもっていた人物、あるいは、十一面観音を中心とした縁起を書き残す動機をもっとも強く抱いていた人物こそ円空であったにちがいない。


六 赤神と鬼たち

 男鹿島に「鬼」がいたことについては、『男鹿市史』によって再三にわたって指摘されている。では、そもそも男鹿の「鬼」とは何なのだろう。

(白鳥庫吉は)中国から入った鬼[き]が、日本古来の「オニ」と一体となったのは七世紀はじめのころであろうといわれる。『古事記』、『日本書紀』、『風土記』にみえる鬼は、朝廷の威令に従わないマツロワヌ者、征伐されなければならない悪人として、先住民を鬼とみているようである。かくて体制側からみるとまつろわぬ「鬼供」が男鹿島にいたのは事実であった。                           (『男鹿市史』上巻)

 こういった記述を読むと、男鹿島は鬼ヶ島でもあったとみえてくる。赤神山の各縁起も「鬼」の登場をはずすことがない。縁起の鬼たちが里へ降りると、あるいは時代が下ると、彼らは「ナマハゲ」と呼ばれるようになり、年の暮れに男鹿の子どもたちを脅し廻ることになる。菅江真澄は文化八年(一八一一)、この里鬼を実見していたが、当時はナマハゲがやってくるのは小正月だったようだ(『男鹿の寒風』)。

(正月十五日)夕ぐれふかう、灯火とりて炉のもとに円居してけるをりしも、角高く、丹塗りの仮面[ヲモテ]に、海管といふものを黒く染なして髪とふり乱し、肩蓑[ケラ]といふものを着て、何の入りたらんか、からからと鳴る箱ひとつをおひ、手に小刀を持て、あといひてゆくりなう入り来るを、すはや生身剥[ナマハギ・ナマミハギ]よとて、童は声もたてず人にすがり、ものゝ陰ににげかくろふ。これに餅とらせて、あなおかな、泣ななどおどしぬ。

 生身剥(ナマハギ・ナマミハギ)は男鹿の子どもたちにとても恐れられている。これは現代も変わらないが、男鹿島で、唯一ナマハゲが来ない村がある。現在の北浦西水口地区である。『男鹿市の文化財』第十集は、「ナマハゲの本元は真山」とし、「西水口部落の産土神[うぶすな]さんは大の子供好きで、子供たちを怖がらせるナマハゲは、まかりならんということで、大昔から、部落の中をナマハゲが廻ったことはない」、「男鹿中の子供たちから、天国のように羨ましがられるのは西水口部落の子供たち」と記している。
「子供たちを怖がらせるナマハゲは、まかりならん」と鬼を寄せつけない「西水口部落の産土神」は、宇賀神社とされる。

 その昔、ここ北浦西水口地区にも、大晦日になると、ナマハゲが出没し、家々をまわっては子どもたちを戒めていたそうだ。
 しかし、江戸時代の頃。ある大晦日の夜、星辻神社から西水口地区に遠征して来たナマハゲたちに大惨事が発生してしまったのだ。
「泣く子はいねが、悪だれっこはいねが。」と叫びながら、部落の入り口の野村川に架かっていた丸木橋を渡ったとたん突然この橋が真二つに折れ、二組四匹のナマハゲ鬼どもが、川に転落し命からがら逃げ帰ってしまったと。
 さて、ここ西水口には子どもの守護神を祭る宇賀神社がある。
 堂の中には、二体の親神様と三体の子神様が、それぞれ着物や賽銭を身につけて五体並んで安置されている。子どもが病気になった時、早く治るようにと願かけした人たちは、この神社の子神様を借りて家に持ち帰り、病気の子どもと添い寝をさせたそうだ。
 昔は、三体の子神様がこの神社は帰るひまもない程だったといわれている。

 病気が治ると、新しい布で着物を作り、着せかえて神社へ返したそうだ。その証に、堂の隅には着せかえた着物がたくさん積まれている。

 子どもたちを脅す「ナマハゲ鬼ども」を川(野村川)に転落させ、その後、この西水口地区の子どもたちに平安をもたらしたとされる宇賀神社の神を訪ねてみた。境内には桜が一本植えられていた。社殿の扉を開けると、たしかに、「二体の親神様と三体の子神様」がまつられている。ここの祭神は定かでなかったが、西水口隣りの野村集落の宇賀神社の内殿正面には「豊受大神」の額がかかっている。宇賀神はもともと竜神なのだが、ここでは外宮神=豊受大神とみられているらしい。
 外宮神=豊受大神が「ナマハゲ鬼ども」を転落させた野村川の源流部には、菅江真澄も訪れていた「大滝」がある。いわゆる真山大滝である。菅江の一文を読んでみる(『男鹿の春風』)。

赤神の嶽の両[フタツ]の峰も、雲の中にあらはれて高し。この九曲をおりはてて、滝の末の流れ来[ク]といふを九 [コゝノ] 渡りして、めての岨の阿闍羅明王を斎[まつ]る石室のあり。真山よりおつ滝といふあり。ふりあふぎ見れば、石梁の虹のごとくによこたふなかより落かゝるさま、世にたとへつべうもあらぬあやしう面白の滝の、弓手馬手には、白き桜の八重も一重も、やゝ青葉さす木々の中に咲まじりたり。石の梁に旭桜、あるはいふ朝日八重とて、英もいと大きやかなるが、こき紅に咲し八重桜のありたりしが、はたとせのむかし、雪消の水かさまさりて、石梁も越えて落来る水にいざなはれて、根こじ落て、なごりなうその桜の枯しもの語りあり。今その彦生[ヒコハエ]だにもあらば、われも人も見ものにし侍らんなどを、翁の滝見つゝかたるを聞て、
  その花のあらばやいかに八重がすみあさひかげろふ虹のたきなみ

 真山大滝は石梁のトンネルを抜けて落下する珍しい滝である(写真)。菅江は、この石梁に「旭桜」あるいは「朝日八重」と呼ばれる英[ふさ]の大きな八重桜が生えていたが、雪解けの豪雨で流されてしまったことを惜しむように一首を添えている。
 北上川の源流山・七時雨[ななしぐれ]山(一〇六〇b)の神をまつるのが桜松神社である(旧二戸郡安代町荒屋新町字高畑:現八幡平市)。同社は、不動滝を神体とする不動堂を前身としていた。その社名に端的に表れているが、ここは桜神かつ滝神でもある瀬織津姫をまつることでよく知られる。
 真山大滝の立地は、その象徴的な桜の存在といい、この桜松神社と酷似しているようにみえる。かたわらの祠(お堂)には、ここも不動尊(の石像)がまつられている。しかし、桜松神社と一つ異なることがある。それは、真山大滝不動堂の不動尊には「火産霊大神 不動尊神社霊符」の神札が立てかけられていて、前述した白瀑神社や今木神社と同じく、ここも滝神を「火産霊神」としていることだ。
 真山大滝は、かつての湧出山(真山)の西に位置していて、円空ゆかりとおもえる縁起に出てくる西の結界、つまり、赤神が男鹿島に降臨した「玉河」の「瀧」を比定するならここかともおもったが、遠藤巌氏は、「現在の地名と照合しても地名痕跡を確定できない憾み」があるとしていて、断定はできない。わたしも土地の人に尋ねてみたが、野村川の異称を「玉河」とする伝承をみつけることはできなかった。縁起自身が、ある種「適当」を仮装していることも考えられるから、これは創作上の「瀧」であったのかもしれない。菅江が歌に詠んだ、朝の陽光に照らされた八重桜もかすませる「虹のたきなみ」は今は幻の光景ではあるが、その面影を、この大滝はまだ失っていないことだけはたしかである。
 これまでみてきたように、赤神は、齶田浦神こと瀬織津姫であろうことがじゅうぶんに考えられる。瀬織津姫は、中臣=藤原氏による中央的祭祀思想の拘束・呪縛下においては、その神の性格を、大祓神、禊祓神、御手洗神、あるいは禍津日神(マガツヒノカミ)、さらには三途の川の姥[うば]神にまで変質・貶称されることになるが、この神のそもそもの性格は、九州の宗像地方においては海神であるものの、その神名からいえば、やはり水徳を一身に秘めた滝神・水霊神であろう。熊野・那智はいうまでもなく、伊勢の地においても、これはいえる。
 おもえば、赤神権現堂の「祭神と本地」は、「阿伽神大権現(国常立尊)=薬師如来」と書かれていた。「阿伽(閼伽)」とはサンスクリット語で聖水の意味で、日本でいえば、たとえば東大寺二月堂の本尊・十一面観音に、本堂下の若狭井から汲んで捧げられる聖水を「阿伽水」という(二月堂のお水取り)。赤神神社が、自身の神を「赤神」ではなく、あえて「阿伽神」と表記していたことは、案外、これにも聖なる水神の意を含ませていたものとみられる。
 かつて「旭桜」が生える石梁から噴出落下していた真山大滝である。この大滝の下流部に位置する西水口集落は、「ナマハゲ鬼ども」がやってこないことを誇りにしている。外宮神=豊受大神と瀬織津姫の関係を論じると話が広がりすぎるが、豊受大神が宗像神であることを記録しているのが『宗像神社史』(宗像神社復興期成会)であることのみ添えておく。
 本来の赤神は、おそらく、子どもを怖がらせる鬼たちを許容しなかっただろうとおもう。
 赤神神社五社堂の石段積みの鬼伝説で、現在流布されているのは、朝、鶏鳴の真似を「アマノジャク」という村人がして鬼を退散させた話が主流となっているが、これは赤神を漢武帝と見立てたときの眷属の鬼たちの話である(「九百九十九の石段」、『男鹿市史』上巻所収)。また、ナマハゲ鬼を正月の来訪神=福神とみなす民俗学的解釈もあるが、これは、男鹿の神まつりの基幹部分をみようとしない後付けの解釈で、わたしにはとうてい認められない。
 人見蕉雨『夏木草』は、「土老の物語に云く」として、里人に難をもたらす鬼を誅した赤神の話を収録していた(『赤神神社報告書』所収)。

土老の物語に云く。山鬼常に人民を悩し屠る。赤神是を患ひ事に託し是を誅せんと思ひ此石磴を一夜に造る事を命ず。纔[わずか]に四五石を残し鶏鳴く。よつて山鬼を誅し其害を除く。

 ここに出てくる「土老の物語」は貴重で、「常に人民を悩し屠る」「山鬼を誅し其害を除」こうとした赤神は、これもけっして子どもを怖がらせる鬼を許さなかったこととおもう。ナマハゲ鬼伝説一つをみても、その背後に、赤神祭祀の変質があったことがうかがえるのである。

532〜534 円仁と円空──北の旅の終焉地・松島へ 風琳堂主人 2007/02/12 (月)〜02/14 (水) [57873〜58013]

一 龍泉寺の十一面観音

 寛文八年(一六六八)、円空は男鹿半島・赤神神社五社堂(客人権現堂)に、地神・赤神(阿伽神)への供養の気持ちで十一面観音を彫像・奉納すると、美濃国へのとりあえずの帰路につく。ここで「とりあえず」と書いたのは、円空の美濃国への帰路行には「寄り道」がいくつかみられるからだ。円空の旅には物見遊山の気分はなく、彼の「寄り道」には、それぞれに理由があったものとおもわれる。以下に、北の旅の最後となるが、円空の足取りを追いつつ、彼が残していった彫像について、その作成の動機をさぐってみたい。
 赤神神社五社堂の石段を南へ降り、赤神山の聖域・結界の外へ出ようとすれば、人はだれでも登拝口横の「祓川」を渡ることになる。円空は、この祓川の滝神・禊祓神をまつる金剛堂(のちの今木神社)に、しばしの別れの礼拝をしに立ち寄っただろうことはまちがいないものとおもう。赤神山から男鹿半島の南岸部を東の土崎湊へと向かう道程では、右手に男鹿の海(日本海)が広がっていて、晴れていれば、はるか南海上に、この祓川の神とゆかり深い鳥海山(出羽富士)さえ望めたことだろう。
 男鹿島をあとにする最後の最後にきて、円空はなぜか、おそらく初めての薬師如来(座像)を彫像していた(男鹿市増川の八幡神社)。この像がなぜここにあるのかははっきりせず、詳しい彫像の動機は推測するしかない。
 赤神の本地仏は、円仁の来訪以来、薬師如来とされてきたにもかかわらず、円空は赤神山に薬師如来を奉納しなかった。しかし、彼は、その赤神山と少し距離をおいたところに、一体の薬師如来を置いていった。薬師如来と十一面観音の組み合わせは、その背後に一対の国津神男女神の関係が秘されているらしいことは、早池峰山の地神隠祭後の仏教祭祀や、各地の国分寺・国分尼寺の本尊祭祀にもみられる。円空は、赤神山をふりかえるようにして、男鹿の最後の地に、十一面観音と一対の薬師如来を彫り残していったようなのだ。とすれば、これは、国津神男女神の「関係」そのものへの供養の気持ちが円空にあったことを表していることになる。おもえば、円空彫像のはじまりは仏像からではなく、天照皇大神と阿賀田大権現という一対の男女神像からであった。この阿賀田大権現と呼ばれた謎の女神は、美濃・尾張では禊祓神かつ水神とみられていて、要するに、これも瀬織津姫であった(「阿賀田大権現とはなにか」参照)。
 赤神山のあと、円空の十一面観音を次に確認できるのは、秋田市上新城石名坂にある(あった)高倉山観音院龍泉寺である。この寺の由緒も古い。

養老年間舎人親王の御弟で阿彦三位浮房卿、行基菩薩の御跡を探ねて諸国を行脚し漸く秋田市上新城石名坂の菩薩にめぐり会い、これを記念して館を作り出家せしと云う。今に残る阿彦の館跡、阿彦の池跡、墨染の桜跡は、その時代より伝わりし跡なり。その後延暦二十一年慈覚大師も此の地に至れしと云う。〔中略〕
其の後円空大師、行基菩薩の遺跡を尋ねて当寺に入り、大いに仏徳を感じ、十一面観音菩薩を刻みて納めたり。                    (「湯殿山龍泉寺縁起」)

 養老年間(七一七〜七二四)に、行基がこの秋田の地を歩いていたという。また、彼のあとを追って「舎人親王の御弟で阿彦三位浮房卿」がやってきて、この上新城石名坂の地で行基とようやくに出会ったという。舎人親王というのは『日本書紀』の編纂代表者とされる。その弟に「阿彦三位浮房卿」なる人物は確認できないが、縁起はそう主張している。さらに延暦二十一年(八〇二)には、慈覚大師=円仁も当地へやってきたという。円仁の生年は延暦十三年(七九四)で没年は貞観六年(八六四)とされる。円仁は八歳という幼少時にここへやってきたことになるが、ともかく、縁起にはそのように書かれている。そして時代は下って、円空も「行基菩薩の遺跡を尋ねて」龍泉寺へやってきて、ここで十一面観音を彫像・奉納したとされる。
 縁起が記す時間の真偽はおくとして、龍泉寺に行基および円仁の伝承があったとすれば、円空がここへやってくる動機としてはたしかにありうるものとおもう。龍泉寺の十一面観音立像は像高一九二センチという大きなもので、円空は、よほど力を込めて彫像したことが想像される。
 上新城石名坂の龍泉寺は明治期に能代市清助町へ、同市の湯殿山能代出張所(旧鳳凰庵)と合併して移転していて、そこで、新たに真言宗湯殿山龍泉寺を名乗ることになる。上新城にはかつての遺跡が草に埋もれてあるのみである。
 ここにはなにもないかもしれないとはおもったが、実際に訪ねてみると、石名坂の集落には真山神社があり、その本殿前には、とてつもなく太い欅[けやき]が大きな竜のようにはべっている(写真)。ときに由緒書などよりも、一本の神木が秘めている「時間」が、その社の古い祭祀を雄弁に語ることになる。近くの氏子の古老の方から、この真山神社の神は女神で、男鹿の真山神社の神とは姉妹[あねいもうと]の関係にあるという貴重な伝承をうかがった。どんな名の神様ですかと尋ねてみたが、はっきりしていないとのことだった。
 秋田県神社庁『秋田県神社名鑑』によれば、この真山神社の鎮座地は秋田市上新城五十丁字大木前、由緒は「不詳」、しかし、筆頭祭神は邇々芸[ににぎ]命と天照皇大御神の二神と表示している。上新城で郷土史および菅江真澄の研究をしている永田賢之助氏からいただいた資料とご教示によると、同地の真山神社は、戦前までは「五十丁目神明社」で(鎮座地名とも符合する)、享和二年の棟札には「奉再建天照太神宮」とあり、また、「別当高倉山龍泉寺」の名が記されている。
 戦後に、神明社から真山神社へと社名変更するというのはとても奇異なことで、これは、同社がもともとは真山神社であったゆえに最初の社名に戻したものなのだろう。それと、男鹿の真山神=赤神と上新城の真山神が「姉妹」という関係伝承をもっていたことをあわせて考えると、両神社の祭祀・祭神を無縁のものとみなすことはできまい。
 龍泉寺には、行基と円仁の伝承があり、ここにはさらに、真山神=赤神とゆかり深い祭祀があることを円空が知ったなら、一旦は赤神山(本山・真山)をあとにしたものの、やはり龍泉寺を素通りすることはできなかっただろうとおもう。
 菅江真澄は当地をも訪れていて、その紀行文『笹の屋日記』から抽出すれば、龍泉寺は真言宗で、大同二年(八〇七)に坂上田村麻呂が創建、同寺には、仁寿時代(八五一〜八五四)に、慈覚大師の開眼になる「徳大勢至菩薩」があって、これは秘仏とされていた、また、行基作「観世音」と円仁作「地蔵大士」があったとされる(永田賢之助『上新城の歴史探訪』私家版)。永田氏も指摘していたが、行基作の「観世音」(十一面観音)は、円空のそれである。寛文八年(一六六八)という江戸時代初期、円空は無名の一遊行聖にすぎず、そんな無名者の彫像が、しかし、その彫りの巧みさから、行基伝承と重なって行基仏となってしまったのだろう。
 男鹿・赤神山では、円仁が薬師如来によって封じた地神=赤神を供養せんとして、円空は十一面観音を彫像・奉納していた。上新城では、ここでも同じく、円仁が「徳大勢至菩薩」と「地蔵大士」(地蔵尊)によって当地の地神を封じていたことが考えられ、そこに円空は、あらためて十一面観音を彫像・奉納したようなのだ。これは、恐山の地神を円仁が地蔵尊と姥尊に置き換えたところへ、円空が恐山の地神供養の気持ちで十一面観音を彫像・奉納していたことの再現ともみえる。
 能代市の湯殿山龍泉寺は、主尊を大日如来としている。この仏は、同市の鳳来山能代寺の本尊を迎えたもので、そこに、湯殿山能代出張所(旧鳳凰庵)と上新城の龍泉寺が合寺・合併して湯殿山龍泉寺を名乗るという寺歴をもっている。湯殿山龍泉寺の寺歴がもっている、この一見複雑な経緯は、つまるところ、明治期の神仏分離から廃仏・廃寺へとなだれ現象がおこったときに、神仏混淆の本義を失うことなく、あえて困難を承知の上で生き残ることを選んだ密雲海師の、神仏一体の法灯を消さないとする強い意志によるものだった。
 円空の十一面観音は、湯殿山龍泉寺においては客仏ということになるが、ここには、同じく行基伝承をもつ旧鳳凰庵の薬師如来も一緒にまつられている。大日如来を主尊とし、薬師如来と十一面観音が、同じ本堂で祭祀を共にしているというのは珍しい。同寺の由来には、湯殿山能代出張所(旧鳳凰庵)と上新城の龍泉寺は「縁あって合併し」と語られていて(『古里の信仰─能代山本の寺社めぐり』北羽新報社)、この観音が、ただの客仏ではないことがわかる。円空の十一面観音と行基伝承をもつ薬師如来、そして大日如来にみられる神仏混淆の「縁」は、他仏よりもたしかにはるかに深いものがある。同寺に「円空会」が設けられているのも、理由があることであろう。


二 鳥海山北麓の遙拝山・日住山

 鳥海山の北麓(秋田県側)、子吉[こよし]川の河口域に開けたところが現在の由利本荘市である。同市観音町の大泉寺と日役[ひきじ]町の蔵堅寺に円空の観音座像がある(蔵堅寺のそれは、現在、郷土資料館に移管)。
 蔵堅寺の観音座像は、漁師によって蝦夷地(北海道)の海で拾い上げられたもので、当地で彫られたものではない。北海道における神仏分離時の廃仏の猛火による円空彫像の受難は、津軽・鰺ヶ沢の「海上激流黒本尊」にもみられ(「岩木山の鬼神信仰」参照)、それでも大変な距離をやってきたものだが、その鰺ヶ沢よりもさらに百キロ以上南下した由利本荘の地にまで確認できる。同観音は右肩などに海から引き上げるときに打ち込まれた銛の跡やあちこち欠けていて、少し痛ましい姿をしている。仏像の「美」の完璧性とはほど遠いかもしれない。しかし、円空の彫像がもっている、あるいは、円空の信仰・思想が「形」となって表れた仏たちがそれぞれに秘めている生命力の強さは、一般的な芸術的鑑賞眼や感覚を、はるかに凌駕・超越しているだろう。
 大泉寺の観音は、これも同寺で彫像されたものではないものの、彫像地は、子吉川支流・芋川の源流部に位置する由利本荘市小栗山(旧大内村)である。もう少し細かくいうと、芋川支流の滝川、そのさらなる支流・代内[のしない]川の源流部の黒森山(五四一b)東山麓、ここはまさに山深き隠れ里のような小さな村で、その村の太子堂にあったとされる。像容は、蔵堅寺の観音座像と比べると明らかに異なっていて、これは上新城の龍泉寺後の彫像とみられる。
 丸山尚一『新・円空風土記』(里文出版)によると、この太子堂は修験寺でもあったが、もともとは、佐々木美濃守が聖徳太子像を背負ってここへやってきて開いたものらしく、佐々木は当地の木地師の長[おさ]でもあったという。同郷の縁もあったのだろう、円空はここに身を寄せ、ていねいな観音座像を一体彫りあげた。この観音は、とても温和・柔和な表情をしていて、円空のこれまでにない自足したおもいがよく表れているようにみえる(写真)。蝦夷地からはじまる円空の彫像(地神供養)の旅を追ってきて、ここにきて、円空の彫像に深い安堵と余裕が生まれたとしても、その難儀な旅を想像するなら、これはうなずけるようにおもう。
 この旧大内村の南に位置するのが日住[ひすみ]山(六〇七b)で、里宮・日住白山神社(由利本荘市鮎瀬字石橋山)には、ほかの合祀神に紛れるも瀬織津姫が現在もまつられている。ここは江戸期、「本荘藩一ノ宮」とされていたようだ(鳥居横の社標)。
 ところで、日住白山神社には、他社一般と大きく異なっていることが少なくとも一つある。それは、社殿が南面していない、つまり、北面していることである。同社では、参拝者は南に向かって拝することになり、この拝む南方正面に聳えるのが、出羽国の主峰・鳥海山(二二三六b)である。日住白山神社は、日住山の里宮ではあるが、むしろ鳥海山の遙拝社を意識した造営となっている。この鳥海山の神(大物忌命)が、もともとは瀬織津姫であったことについてはすでにふれた。日住山は小さな富士山の姿をしている。里宮が鳥海山の遙拝社とみられることは、日住山自体が鳥海山の里山あるいは遙拝山だということなのだろう。
 氏子総代の方から、明治時代の末に政府に提出したとされる日住白山神社の由緒書(控え)をいただいた。

村社 日住白山神社
祭神 天照皇大神 伊邪那岐神 伊邪那美神 菊理姫神 瀬織津姫神 大彦命 天宇津女命
由緒 創立仁明天皇ノ御宇嘉祥三庚申年ニシテ僧円仁巡錫ノ時祠ヲ樋脇白山ノ地ニ建テ伊邪那岐神 伊邪那美神 菊理姫神ヲ奉祀シ神像一体ヲ石ニ刻シテ奉安セリト云フ即チ白山妙理大権現ト公称ス後チ瀬織津姫神ヲ合祭シテ 皇室ノ御尊栄ト国家ノ安泰トヲ祈リ奉ル此時ニ当リ遠近四方ノ人民来リ集リ其附近各処ニ村落ヲナシ産土大神ト尊称セリ慶長十六辛亥年楯岡豊前守神田五段歩ヲ奉納セリト云フ而シテ由利領内守護神トシテ深ク尊崇セリ〔後略〕

 円仁の名がまたもや出てきたが、一読の読後感からいえば、瀬織津姫は「皇室ノ御尊栄ト国家ノ安泰」を祈るために、円仁がまつった白山妙理大権現(伊邪那岐神、伊邪那美神、菊理姫神)にかつて「合祭」されたもので、決して主神ではないとなるだろう。
 しかし、由緒のあとの合祀記録を読んでいくと、ある事実に気づかざるをえない。この合祀過程を一覧化すれば、次のようになる。

明治四十一年五月五日  村社宮比神社(由利郡石沢村滝ノ沢字滝ノ沢)を合祀
同           無格社古四王神社(同郡同村鮎瀬字沢田)を合祀
明治四十三年一月二日  無格社日住神社(同郡同村滝ノ沢字日住山)を合祀
明治四十四年一月十四日 無格社大日霊神社(同郡同村上野字上野)を合祀

 由緒が記していた祭神は七柱で、ここから白山三神(伊邪那岐神、伊邪那美神、菊理姫神)を除いた四柱が、この合祀社四社に対応している。筆頭祭神の天照皇大神は大日霊神社、大彦命は古四王神社、天宇津女命は宮比神社の神で、残りの瀬織津姫神は日住神社の神ということになる。日住神社鎮座地の地名は「滝ノ沢字日住山」で、日住山には、いかにも滝神・瀬織津姫の祭祀があったこともうかがえる。
 由緒の合祀記録では、この日住神社一社のみは「文武四庚子年ノ創立ニシテ国司武将ノ崇敬最モ深ク寛永元甲子年以後ハ領主六郷家第一ノ崇敬社ニシテ本荘領一ノ宮ト称ス」と、きわめて重要な説明がなされている。日住神=瀬織津姫神の祭祀のはじまりは文武四年(七〇〇)で、円仁が白山妙理大権現をまつったとされる嘉祥三年(八五〇)の一五〇年前という古さである。越後国を割いて出羽郡を建てたのは和銅元年(七〇八)で、それを出羽国と昇格させたのは和銅五年(七一二)のことである(続日本紀)。日住神=瀬織津姫神の祭祀が、朝廷による出羽建郡・建国の前にはじまっていることに注意する必要がある。
 由緒の主文は、白山妙理大権現(白山三神)に「後チ瀬織津姫神ヲ合祭」し、「此時ニ当リ遠近四方ノ人民来リ集リ其附近各処ニ村落ヲナシ産土大神ト尊称セリ」とある。この「後チ」がいつのことかはっきりわからないように書かれている。そして、巻末の合祀記録によれば、日住神=瀬織津姫神を白山神社に「合祀」したのは「明治四十三年一月二日」とされ、こちらは明確な日付まで記している。
 由緒の主文と合祀記録を再読・整理すれば、瀬織津姫神を白山妙理大権現に「合祭」したときをもって「産土大神ト尊称」し、この「合祭」神は、慶長十六年(一六一一)からは「由利領内守護神」とみなされていた。一方、由緒の合祀記録では、日住神=瀬織津姫神は「国司武将」からも深く「崇敬」されてきて、日住神社は、寛永元年(一六二四)以後は「本荘領一ノ宮」だったという。日住白山神社の社標に刻まれていた「本荘藩一ノ宮」というのは、白山神社ではなく日住神社のことだった。
 このように整理してみると、白山神と日住神のどちらが主神だったかは明瞭であろう。しかし、日住神=瀬織津姫神は、かつては白山妙理大権現に「合祭」され、そして、明治四十三年一月二日には白山神社に「合祀」されていて、不思議というしかないが、二度の合祭・合祀をこうむっているのである。
 この二度の合祭・合祀過程をもう少し具体的にいえば、円仁が平安期に持ち込んだ白山妙理大権現と、この地方にとても古くからまつられてきた瀬織津姫神を「合祭」し、まとめて「産土大神ト尊称」したが、明治四十三年に、それまで日住山(山頂)に単独神としてまつられていた日住神=瀬織津姫神を、あらためて里宮へ「合祀」したということになる。
 しかし、まだすっきりしないことがある。それは、古くからまつられてきた日住神=瀬織津姫神と、円仁があとから持ち込んできた白山妙理大権現との祭祀関係がどこか曖昧であるということだ。
 この曖昧問題の核心部分をはっきりと述べてみよう。瀬織津姫が当地に初めてまつられたのは文武四年(七〇〇)のことである。そして、円仁が「白山妙理大権現」を当地にまつったのは嘉祥三年(八五〇)である。円仁(に象徴される天台宗徒)のこれまでの各地の行跡(神仏習合を方法とした地神封じ)をみても、文武四年にはじまる日住神=瀬織津姫神の祭祀をそのまま放置しておいて、しかも、その至近の地(「石沢村」同村内)に、白山妙理大権現を新たに別立てでまつるなどということはありえないといってよい。なぜなら、円仁が「勅命」によって地神封じをしなければならない筆頭対象神こそ、この瀬織津姫神であったからだ。つまり、円仁(たち)は、当地の地神=瀬織津姫神の祭祀に、たとえば早池峰山の瀬織津姫が早池峰大権現となったのと同様に、「白山妙理大権現」という権現称号をかぶせ(「公称」させ)、その地神の名を伏せようとしたことが考えられるのである。
 日住山における瀬織津姫祭祀は明治期の「合祀」時点から消え、里宮の日住白山神社に被合祀神としてまつられるというのが現在の姿である。しかし、その社名が雄弁に語るように、日住神と白山神は、最低でも同格祭祀がなされてしかるべきだろう。当地の最古神である日住神=瀬織津姫神は、円仁がもってきた白山妙理大権現と一体の「産土大神」とみられていた。瀬織津姫神を明治期に曖昧に降格祭祀する理由は、氏子の感覚からいえば無いに等しいもの、あるいは許容しがたいものだったとおもう。
 日住白山神社の由緒のことばをもう少していねいに読むなら、「伊邪那岐神、伊邪那美神、菊理姫神」という「白山妙理大権現」がまつられたとき、円仁は「神像一体ヲ石ニ刻シテ奉安」したとされる。白山三神の神像は三体ではなく「一体」であったという記述は、一見小さなことにみえるかもしれないが、これは重要な主張である。円仁は日住神=瀬織津姫神の祭祀に白山妙理大権現をかぶせた。由緒はそれを、さも瀬織津姫のほうが「後チ」に「合祭」されたかのように述べているが、円仁が瀬織津姫の上に白山妙理大権現を置いたという行為が示唆しているものは大きい。これは、白山祭祀を考える上で深淵な意味をもってくることになる。そもそも白山神とはなにかについては、本書下巻(『瀬織津姫と円空』)で論じるが、心ある読者は、この日住白山神社の祭祀経緯を記憶しておいてほしい。
 ちなみに、日住白山神社に合祀されていた日住神社は、昭和二十九年(一九五四)、元地に再建されている。この日住神は、由緒にみられた瀬織津姫神だとだれでも想像するだろう。しかし、この新たな日住神の名は「大日霊女神」だという(秋田県神社庁『秋田県神社名鑑』平成三年)。同じように瀬織津姫神を消去した神社は秋田県内にまだある。上桧木内神社である(仙北郡西木村:現仙北市西木町)。ここは江戸期まで熊野権現として郷中の崇敬を集めた社であったが、明治四十三年に村内七社を合祀して上桧木内神社となる。瀬織津姫は、ここでは熊野神として主神祭祀がなされているにもかかわらず、『秋田県神社名鑑』は、この神の名を誌面から消去している。明治期、氏子側の由緒で強く主張されていた日住神=瀬織津姫神が、このように変更されたのは戦後近年のことで、この神の受難が現在もつづいている証左といえよう。
 引用の日住白山神社由緒書は、政府に承認された公的な由緒書である(『秋田県神社名鑑』にも、主文のみは同内容で再録されている)。この由緒主文を読むかぎり、明治政府の祭祀思想からみて「公認」されるだろう内容ではある(「瀬織津姫神ヲ合祭シテ皇室ノ御尊栄ト国家ノ安泰トヲ祈リ奉ル」などは典型的)。しかし、合祀記録を含む全体を再読・精読するなら、主文の由緒表現上の論理破綻が浮き立ってくる仕掛けがなされていたことに気づく。本由緒書は、明治政府の祭祀思想に向けて媚びた表現を仮装しながら、しかし、由利郡あるいは本荘藩の氏子衆に、かくも長きにわたって信奉されつづけてきた日住神=瀬織津姫神の祭祀記録・歴史は消さないという、相当に考え抜かれた上で作成されていた。
 日住山には「八櫃の滝」、峰続きの鬼倉山(六〇一b)には「石沢村」ゆかりの「石沢大滝」もある。江戸期、円空が由利郡を訪れたとき、里宮はともかくも、日住山には瀬織津姫の祭祀が営まれていた。日住山の北の峠(小友峠)を越えて太子堂へ向かうとき、あるいは本荘藩のどこかで、この日住山には瀬織津姫神がまつられているという話を円空が耳にしたことは考えられることだ。円空の北からの霊場詣で(地神供養)の旅で、瀬織津姫という神の名が変質・変改されることなく、そのままにまつられている初めての山こそ日住山ではなかったか。当地で彫られた観音にみられる奥深い微笑には、円空の余裕と篤信と歓喜が、あわせて込められているようにおもう。
 夕暮れ近かったが、円空が彫像の場に選んだとされる大内村の太子堂を訪れてみた。堂は二つの沢が落ち合うところにあり、ここは東に向いて建てられている。堂の背後と左右は山並がつづき、東方前方のみは開放感たっぷりに空が遠く広がっている。ここは、朝の陽光を正面から受ける造りのようだ。参道の木々が松だというのもいい。堂守を代々している田代氏によると、沢を少し登ると、窟[いわや]を抱える滝があるとのことだ。夕暮れてきてそこへは行けなかったが、この話を聞いて、円空がここを気に入っただろうことはまちがいないとおもった。
 この谷奥の不思議な空間には、もう一つの時間が、実にゆったりと流れている。円空はここで、それまでの長旅の疲れが、それは体というよりも精神の疲れというべきだが、きっと、ふと消えるおもいをもったこととおもう。体のほうは、あるいは近くの秘湯「滝温泉」で癒したかもしれない。


三 雄物川の水源神と円空十一面観音

 円空の足跡は、男鹿半島から秋田市上新城の龍泉寺、そして南下して由利本荘市の太子堂へとたどることができる。男鹿あるいは秋田から美濃国へまっすぐ帰ろうとするなら、船か徒歩かはともかく、日本海を海岸沿いに南下するのが自然におもうが、彼の足はなぜか、東の方へと向かっているようだ。
 由利本荘の太子堂のあと、円空の次の「寄り道」は、さらに内陸にはいった雄勝郡雄勝町院内(現湯沢市)である。円空の北の行脚における最後の十一面観音立像が、当地の愛宕神社にある。
 愛宕神社は江戸期、「秋田十二社の一の宮」とされ、藩の崇敬ただならぬものがあった。これは、佐竹藩(秋田藩)の大きな財源をなしていた院内銀山と関わりがある。
 院内郷土史研究会『愛宕神社の由来』(昭和四十九年)の写しをいただいた。愛宕神社の由緒沿革を読んでみる。

この神社は、坂上田村麻呂北方征伐の頃、弘仁二年(八一一)に、東北地方の鎮圧と良民の統治に活用する為、初めは院内法領舘(現舘山)の山上に安置された。その後四百二十余年間山上にあって諸民の尊崇を集めて居つたが、鎌倉時代の貞永元年(一二三二)現在の場所に社殿を建築し、御本尊を名ある仏師に造成させて移転したものである。〔後略〕

 神社の背後には「法領舘(現舘山)」と呼ばれた丘陵があり、この愛宕神は、そこに弘仁時代から鎌倉時代まで鎮座していたらしい。この里宮の造営にあたって「御本尊」を神体としたことに、神仏混淆の様がよく表れている。由来書は、この本尊は「地蔵尊」としている。
 神仏混淆時代、神社が神社として単独に存在することのほうが珍しいが、この愛宕神社も例外ではなく、里宮造営地の横には、すでに法領舘山上の神に対する別当寺があった。延命山長安寺という。由来書は、長安寺は貞観九年(八六七)に「慈覚大師の開基」と記し、愛宕神社祭神は「火産霊大神」としている。円仁の没年は貞観六年(八六四)が定説で、貞観九年の時点をいうなら、円仁の名を語った(騙った)天台宗徒というのが正確なところかもしれない。なお、長安寺については『三代実録』貞観九年十月の条に「出羽国長安寺、定額に預かる」との記録がある(「院内千年史略年表」、松田忠治編『たてやま風土記』所収)。「定額に預かる」寺を定額寺というが、これは朝廷の経営管轄下にある寺を意味する。朝廷にとって、愛宕神は眼のはなせない神であったようだ。
 それにしても、慈覚大師=円仁の名がまた出てきた(以下、円仁という語は、天台宗徒の象徴[シンボル]としての円仁という意味でつかう)。そして、「火産霊大神」である。この神名はすでにみたように、今木神=不動尊と習合する滝神にあてられていた(「男鹿の鬼風」参照)。それが、ここでは愛宕神だという。
 由来書には「秋田六郡三十三観音第十番の札所として知られる上院内観音堂御本尊の十一面観音も定朝作と伝えられ」などと書かれていたが、この十一面観音が「定朝作」ではなく円空作であることは、すでに確認されている。
 上院内観音堂の本尊として、円空の十一面観音はまつられていた。では観音堂の鎮座地はどこかというと、それは院内銀山のなかだという。
『院内銀山絵図』(天保期の作)には、たしかに観音堂が描かれていて、また、このお堂と対面して薬師堂(薬師山)も描かれている。円空の十一面観音は、その後、豪雨によって堂ごと流され、現在の愛宕神社におさまるのだが、薬師如来については、その後の所在は不明だという。絵図は、観音堂と薬師堂の間を流れる川(現在の銀山川)の源流部に、不動滝と不動堂も描いている(明治十七年作製の『羽後国雄勝郡院内銀山町全図』は不動堂を川上神社と表示)。
 資料館(院内銀山異人館)でいただいた「院内銀山遺跡」という案内によれば、この不動滝のすぐ上には不動坑という院内銀山最古の坑道跡があったという。円空が訪れたとき、不動坑はすでに使われておらず、円空がおもうところの滝神、しかも、不動尊と習合する滝神と対話しながら彫像するのに、この坑跡は籠るに恰好の条件を有していたとおもわれる。
 銀山不動滝(仮称)は、南西の大仙山(九二〇b)の懐にあり、案内は、大仙山の項を、「銀山はこの山と東安山の下に掘られた。雄物川は大仙山を源流とする」と記している。渡部和男氏も「雄物川源流不動滝」と指摘している(『院内銀山歴史散歩』私家版)。なお、同氏の写真集『院内銀山』の不動滝の項には、緑竹なる俳人の「藤咲けば藤の色なり滝の波」の一句が添えられている。銀山不動滝の脇には、円空ゆかりの「藤」までもが繁茂している──。
 雄物川の最源流部に、この「不動滝」がある。円空は、北の最後の十一面観音を、雄物川の水源神・滝神(のちの川上神)と対話しながら彫像していたようだ。
 上院内観音堂は、「秋田六郡三十三観音第十番の札所」でもあった。この観音堂について、『秋田六郡三十三観音巡礼記』は、次のように書いている(渡部和男『雄勝町の歴史』所収)。

第十番 雄勝郡上院内観音堂 本尊十一面観音、大仏師定朝作。地蔵菩薩、慈覚大師の作。今は愛宕山長楽寺とかや。
    楽みの遠からぬ身は苦の修行薩?の慈悲にやすむ院内

 円空の十一面観音を「定朝作」とした原典は本書かもしれないが、渡部氏も、これは円空作だろうとしている。なお、渡部氏は御詠歌の「薩?[さった]」は菩薩のこと、また「長楽寺」は長安寺のことと注している。薩?=菩薩は十一面観世音菩薩、長安寺は円仁創建の延命院長安寺のことである。
 ところで、上院内観音堂は長安寺と関係があり(「今は愛宕山長楽(安)寺とかや」)、そして、ここには「地蔵菩薩、慈覚大師の作」があったという。現存しない円仁作の地蔵菩薩ではあるが、この地蔵尊は、円仁が愛宕神の本地仏として彫像したものだろう。それが、雄物川の最源流部の観音堂にあったのである。
 円空は、円仁の地蔵尊の横に十一面観音を彫像・奉納した──。とすると、これは、恐山や龍泉寺、そして当地と、円空の一貫した対置行為ということになる。円仁は、雄物川の水源神を伏せて仏に置き換えるとき、地蔵尊がふさわしいと判断して彫像したのだろう。円仁にとって、この地蔵尊と習合する神は、長安寺においては愛宕神であり、大仙山においては雄物川の水源神であった。円空のこれまでの霊場めぐりにおける十一面観音の彫像・奉納をふりかえると、それらの彫像には、その土地(山岳霊地)の地神としての瀬織津姫が伏されていることへの、円空流の鎮魂供養の気持ちが込められていた。
 現在、雄物川の最源流部・院内銀山の地において、瀬織津姫祭祀のくっきりとした痕跡を拾い出すのは、赤神祭祀などと同じように、それほど容易ではないが、しかし皆無というわけでもない。以下に、その傍証を試みてみる。
 明治新政府による「廃藩置県」の命によって、多少の紆余はあるものの現在の県の境界が決まるわけだが、それぞれの県には、母なる大河と呼ぶにふさわしい川がある。東北でいえば、青森(津軽)は岩木川、岩手・宮城を貫流する北上川、福島では阿武隈川、山形では最上川といった具合だ。秋田は北に米代川が東から西へ流れ、そして雄物川が、南から北の男鹿半島へ向かって流れている。秋田の大河といえば、やはり雄物川であろう。円空は、その水源地で十一面観音を彫像している。
 菅江真澄は『小野のふるさと』で(ここには小野小町の伝説もある)、「しろがねほる山見にまかるとて、院内といふところにとまる。ながる水を桂川といふ」と記していて、雄物川の上流部(院内地区)の川名を「桂川」としている。この川に面して愛宕神社があるが、桂川といえば、やはり京都嵯峨野のそれがよく知られる。京都・桂川が保津川と名を変えるところに流れ込むのが清滝川で、これを遡上したところに清滝(空也滝)がある。この滝は愛宕山(九二四b)の登拝口の禊ぎ場ともなっていて、この山に鎮座しているのが、全国の愛宕神社の総本社である。そのことと、菅江の「桂川」の記述が関係があるのかどうかは、にわかに定めがたい。ただ、桂という木は水神と縁深い木で、それは各地に散見される「桂清水」の命名によく表れている。また、中国の伝説では、桂は月に生えている木とされ、菅江はこれを意識したものとおもうが、引用のあと、次の一首を添えている。

  てる月の中にながるる桂川
    よるはことさらすみ渡りぬる

 月明かりに浮きでた桂川は、まるで月のなかを流れているようだ、この異世界はひときわ澄み渡っているといった歌意であろうか。菅江の透徹した眼光を感じさせる歌である。
 円空も「てる月」を詠み込んだ、次のような歌を残していた。

  水色の夜の御神の玉ならは(ば)
    照る月と再拝つゝ

 円空の歌は、当て字ともいえる漢字が多用されていて、これをどう読むかで歌のニュアンスがずいぶんと変わってくる。この歌は、定型の音数律(五七五七七)にあてはまる漢字の読み方がわたしには浮かばないが、円空が「水色の夜の御神」という霊神を「照る月」に重ね、それを「再拝」しているといった内容の歌であろうことは想像できる。円空にとって、月神と聖なる水神(水色の夜の御神)は同じにみえている。菅江の歌についても、澄み渡った夜の一天に輝く月に「桂」ゆかりの川神・水神の姿を透視しているといった読み方も可能かもしれない。
 少なくとも円空にとって、月神と水神は無縁ではない。そして、これは瀬織津姫という神の比喩としても成り立つことといってよい。
 そもそも雄物川の「おもの」とは何に由来するものなのだろう。この川名由来については諸説あったようだが、現在は、「院内の尾物沢から源を発していると云うことから、雄物川と呼ぶようになったのだとの説が有力」とされる(島田亮三『雄物川の漁業 四季』湯沢工事事務所)。この有力説を知ると、なるほどそうかということに一応はなるが、しかし、「尾物沢」の「おもの」が明快に説かれたわけではない。これについては、正鵠を射るかとおもえる指摘があるので紹介したい。京都・下鴨神社権宮司の新木直人氏は、神社祭祀の立場・見識から、次のように述べていた(四手井綱英編『下鴨神社 糺の森』ナカニシヤ出版)。

 御手洗川は『烏邑縣纂書』に、思河[おもいがわ]ともいうとあり、また御手洗川の下流が奈良の小川となり、さらに瀬見の小川となると記されている。思河は、物忌川が転じてオモノガワ、オモイガワとなったものと思われる。

 これは、下鴨神社の神域「糺[ただす]の森」を流れる御手洗[みたらし]川についての一文である。「オモノガワ」は「物忌[ものいみ]川」が転じたもので、これは御手洗川の異称だという。御手洗川は、御手洗池から湧き出す川で、この池の上にまつられるのが井上社である。井上社の別名は、その立地から御手洗社とも通称されるが、同社の神が瀬織津姫である。ちなみに、御手洗池の底から湧き出す水の泡を見立ててつくられたのが「御手洗[みたらし]団子」で、下鴨神社は自社をその発祥地といっている。瀬織津姫は御手洗団子ゆかりの神でもあったことになる。
 なお、御手洗川が物忌川でもあるという指摘は、さらに大きな意味をもってくることになる。鳥海山の神は「大物忌命(神)」と表示されつづけてきたが、この不可思議な神名についても、つまりは「物忌川」の大神とみなされた瀬織津姫に対する、屈折した尊称・仮称だったということがみえてくる。院内の尾物沢→雄物川についても「物忌川が転じてオモノガワ」とみれば、これも御手洗神=瀬織津姫とはゆかり深い川名であったとなる。もっとも、「おもの沢」の命名については、瀬織津姫を水源神・滝神という初源の姿ではなく、「おもの」神、つまり、物忌神=御手洗神=禊祓神へと変改したあとの沢名・川名ではある。
 雄物川の源流部にみられる「おもの沢」の名だが、これをどこまで遡って確認しうるかという問題はたしかにある。しかし、一般的にいって、基幹本流の川名は為政者の都合によって変遷するも、源流部の小さな沢は古名を留めていることが考えられる。こういった認識があってこそ、尾物沢→雄物川説が認められているのだとおもう。御手洗川についての引用ではふれられていなかったが、御手洗川=物忌川の異称に「祓川」の名をもってきても、そこに意味のちがいはない。
 遠野の瀬織津姫神の祭祀において、滝神・瀬織津姫ゆかりの滝川を「祓川」と命名したのは円仁だった(『早池峰山妙泉寺文書』)。「尾物沢」にも、その前の沢名・川名があったことが考えられるが、それが現在は消えてしまっているのだろう。雄物川の源流部には、不動滝という修験ゆかりの滝もある。ここには不動尊と習合する滝神が秘められているはずで、そして、御手洗神=物忌神ゆかりの「尾物沢」である。ここには円仁の地蔵尊があった。だれが「おもの」つまり「ものいみ」の名を持ち込んだかがみえてくるようだ。そこに、円空は、十一面観音を彫像・奉納していた。
 恐山がそうであったように、天台宗徒によって地蔵尊がまつられるとき、そこには三途の川の境界神・関神としての姥神(脱衣婆ともみなされた神)がとなりあわせであった。大仙山の真北にあるのが姥井戸山(九二七b)で、両山の間を流れる沢と不動滝からの流れとが合流して雄物川の本流上流部をつくる。姥井戸山もまた雄物川の源流山の一つであろう。優婆塞[うばそく]という私度僧の女性側呼称を優婆夷[うばい]というが、この「優婆夷が居住する処」だから「優婆夷処[うばいど]」で、それが山名由来だろうとの説もある(湊寧『雄勝年代記』技術出版)。大仙山と松ノ木峠と姥井戸山を結ぶラインは、かつての由利郡と雄勝郡の郡境をなしている。わたしは、優婆夷居住説をいうよりも、境界神・関神としての姥神がいた山、しかも「井」(川)を守護する姥神がいた山ゆえの「姥井戸山」ではなかったかとおもう。
『秋田六郡三十三観音巡礼記』に、円仁伝承と小野小町伝説が重なる興味深い記述がある。曰く、「野中山小野寺は七番の札所で、本尊千手観音は仏師定朝の作、この寺に慈覚大師が住み、のち(小野)良実が建立した。慈覚大師は古書を集めて小町像の体中に蔵し、これを小町百とせの像という」──。菅江真澄は、この小町像について、「野中山小野寺に今残って居る像は、三途川の姥という」と記していた(渡部和男『雄勝町の歴史』)。
 慈覚大師=円仁は「古書を集めて小町像の体中に蔵し」たという。小町像に封印された「古書」とは人目をはばかる縁起書かとおもわれるが、像はもともとは神像だったのだろう。この神像は「小町百とせの像」から「三途川の姥」の像ともみなされていた。ここには、三途川の姥神が小野小町と習合するさまがみられる。院内と隣接するのが「小野の里」(旧雄勝郡小野村)で、ここには小町塚を擁する小町神社さえある。小野小町と習合した「三途川の姥」神であったが、この姥神化にからんで円仁の名が伝えられていたのは暗示的である。
 小町神社(小町塚)の近くにあるのが現在の「二ツ森走り明神」である。菅江真澄は『雪の出羽路』で、この「走り明神」について「出羽郡司小野良実卿の氏神と斎奉る神社といへり、今は正一位稲荷大明神とまをし奉る也。此の波志理明神とはいかなるよしの御神号なるかしらず、古はいといと大きやかに作れる宮処と云ひ伝ふ、今はさゝやかの社なり」と書いている。
 小野氏の氏神を特定していうには史料が足りないが、武蔵国多摩郡(現多摩市)にある、かつての武蔵国一ノ宮・小野神社の主神は瀬織津姫である。また、承和五年(八三八)、遣唐船に乗ることを拒んだために嵯峨上皇の怒りをかい隠岐島へ配流された小野篁[たかむら]だったが、彼が都へもどる祈願をしていたのが壇鏡の滝といわれる。この滝神をまつるのが壇鏡神社で(隠岐郡都万村大字那久)、ここにも瀬織津姫がまつられている。小野氏と瀬織津姫はどうも浅くない関係にあるようだ。「小野の里」は比叡山の東西麓二ヶ所にもみられるが、小野氏の本貫地といえば東麓側(琵琶湖西岸)だろう。比叡山・延暦寺の鎮守神は山王大権現こと日吉大社だったが、その境内社に走井祓殿という小さな祠がある。この祠は比叡山から流れくる大宮川の橋のたもとにまつられている。同社主神も瀬織津姫である。走井祓殿は、比叡山の回峰行者が持ち歩いた「回峰手文」(村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』所収)には「走井宮」と記され、その割注には「祓戸神本地弁才天或地蔵或釈迦」とある。つまり、天台宗内部においては、走井神=祓戸神(←瀬織津姫)が習合するのは弁才天または地蔵尊、または釈迦如来という認識である。「回峰手文」には下鴨神社の境内図も載せられていて、そこには「井上ノ弁天」の名もある。下鴨神社の井上社=御手洗社の神が瀬織津姫であることについては先にふれた。
 小町伝説と二ツ森走り明神については、「小町十三歳の都に上る時、(芍薬の)実を取りて走り明神の社内に植置き神に祈りて行末絶滅なからん事を欲す」、また、「弁才天二ツ森の上にあり、小野小町母の守り神を本尊とす」などの記述が散見される(『雄勝町史』)。「走り明神」の本地は「弁才天」だったようだ。菅江が「いかなるよしの御神号なるかしらず」とした謎の「走り明神」は「走井明神」の転じたものとみてよかろう。
 荒子観音寺(名古屋市)に伝わる文書『浄海雑記』は、円空の出家と教学について、「円空上人、〔中略〕幼き時、台門に帰し、僧と為る。稍長ずるに及て、我尾高田精舎の某に就きて胎金両部の密法を稟け」と記録している(丸山尚一『新・円空風土記』所収、カタカナの送りがなはひらがな表記に改めた)。円空は幼いときに「台門」(天台宗)に帰依して僧となった。少し大人になると、尾張の「高田精舎」にて「胎金両部の密法」を授けられたという。「高田精舎」は、現在の医王山高田[こうでん]寺である(北名古屋市)。寺伝では、高田寺は養老四年(七二〇)に行基によって創建され、大同年間(八〇六〜八一〇)に最澄によって天台宗となったされる。円空の時代、高田寺は衰退していて往時の隆盛の面影はなかったようだが、それは本質的なことではない。円空は、天台密教(「胎金両部の密法」)に精通していた──。この天台密教がもっている地神封じの呪儀・方法、いいかえれば、秘儀的神仏混淆の方法を、円空がまったく知らなかったとは考えられないことである。
 天台宗徒の認識では、瀬織津姫という神を祓戸神あるいは三途川の姥神とみなしたときに「本地」と見立てる三仏の一つとして、地蔵尊はあった(恐山祭祀は象徴的)。大仙山麓で、雄物川の水源神(大仙山神)を物忌神(おもの神)=禊祓神へと変改したとき、そこに円仁が置いたのが地蔵尊であった。天台宗の「回峰手文」は、この地蔵尊の背後に伏せられた神を祓戸神(←瀬織津姫)とみることをつよく示唆している。
 もう一つ、傍証となる話を紹介したい。
 円仁は雄物川の源流部に地蔵尊を、しかも愛宕神の本地仏として置いていった。「回峰手文」は、「愛宕山権現」の割注を「三部峯伏拝本地地蔵」とし、さらに「王城鎮守伏拝」とつづけ、それなりの尊意を表すことを書き記している。このように、地蔵尊を「本地」としていた愛宕神だったが、この神については、遠野にきわめつけの話が伝えられている。以下は、遠野市綾織町上綾織に鎮座する愛宕神社の由緒である(綾織村教員会編『綾織村誌』昭和七年)。

社格 無格社  祭日 旧七月廿四日  氏子 九五
 石階段百余級その中間に鳥居あり。上りつむる処に神楽殿あり。更に上りて本殿あり。南面して松樹の間より綾織平野を望む。祭典には神楽獅子踊等を奉納し参拝者多し。
 本社の創建は明らかならざれども、近村火災多く人家山野共に焼くること多し。ここに至り里人相協りて、寛治年間(一七四七〜一七五三…【注】神武紀元)火災の見張所を置けり。その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり。
 本社を拝すれば感応最も多し。赤阪家にて家人眠り居りしに夢に愛宕神社の神霊を見たり。驚きて起き上りしに、誰人か放火して既に大事に至らんとす。急ぎて之を焼(消)しとめ霊験のあらたかなるに感じ、本社に石檀を献納せり。〔後略〕

 祭日の「旧七月廿四日」の二十四日というのは地蔵尊の縁日である。それにしても、京都の愛宕本社がこれを読んだらびっくりするかもしれない。明治期以降、愛宕神を瀬織津姫と主張していたのは、おそらく全国で遠野のみだろうが、わたしは、遠野側の祭神伝承のほうを信じる。愛宕神社横にはかつて滝もあり、その滝跡は現在もみられる。『綾織村誌』には、神官作となる神社由緒の多くがもっている、どこかこわばった作為・虚偽の記述姿勢が微塵もない。あるのは、伝承をただ「正直」に伝えようとする姿勢のみである。
 京都の愛宕山は、大宝年間(七〇一〜七〇四)に、役小角(役行者)と泰澄(雲遍上人)によって開かれたとされる、いわば神仏混淆の魁[さきがけ]をなす山の一つである。泰澄は、養老元年(七一七)に白山の開山者となる人物だが、彼も神仏混淆による地神隠しをしている。このときは元正女帝の「勅命」の名のもとにそれをなしていたが、泰澄が朝廷からの要請で「鎮護国家法師」という大役を受諾したのは大宝二年(七〇二)のことだった(『泰澄和尚伝』)。愛宕山へ地神封じに役小角と出かけたとき、泰澄にとって、これは「鎮護国家法師」としての初仕事であったかもしれない。愛宕神は、この二人によって、その本来の神名を権現称号に変更され、その後は、本地仏の勝軍地蔵と太郎坊=天狗の山となる。愛宕権現から愛宕神社を名乗るのは明治期のことで、そこで神名があれこれと登場してくるが、そのうちの一つが「火産霊神」である。延喜式神名帳は「山城国愛宕郡」の「愛宕」を「あたご」ではなく「おたき」と訓じている。この古訓「おたき」は、もともとは「御滝」に由るものではなかったか──。
 円空歌集に、愛宕神を詠んだ歌がある(歌番一二二七)。

  時雨ふる愛石(宕)山に吹(く)風ハ
    出雲の国の神かとそ(ぞ)思ふ

 愛宕の山には時雨[しぐれ]が降りそそぎ、そこに、出雲の国から神の風が吹いている。三読するも不思議な歌だが、円空は、時の雨に降られてかすむ愛宕神(御滝神)と、風と化して、それとはみえない「出雲の国の神」を、どうやら無縁の神とはみていないらしい。
 歌の解釈はともかく、以上二つの傍証を真とするなら、雄物川最源流部にも、瀬織津姫神の祭祀がかつてあったことになる。
 大仙山の懐に銀鉱脈が発見されたのは慶長十一年(一六〇六)で、この年を境として、大仙山は信仰の歴史を捨て、欲望の山へと変貌する。翌年には「さしも人も通わぬ沢山[さわやま]に忽[たちま]ちにして山小屋に千軒、下タ町千軒の町をつくる」といった光景が出現し(『院内銀山記』)、「初期労務者概数七千人」にもふくれあがる(「院内千年史略年表」)。ここで働くのは、多くは郷里からはみだし、あるいは食い詰めてやってきた人びとで、アウトローのなかにはキリシタンも含まれていた。人間の希望と絶望と欲望がひしめきあう急造の銀山都市をあてこんで、あらゆる職種・商売がやってきてはあだ花を競いあった。日本人になりすました(つもりの)異人宣教師さえやってきたという。山中に突如出現した、「銀[しろがね]」をめぐる狂騒の光景だったが、そこには幕府と藩が一体となった過酷な収奪もつづいた(『たてやま風土記』)。この狂騒の都市では、野卑ともいえる生命の花が一方に咲くこともあったが、しかし不如意に生命を失うことも多々あった。無縁仏供養のおびただしい石塔の光景が、今もここには広がっている。
 かつて円仁(たち)によって封じられた瀬織津姫神だったが、円空の出現によって、この神は十一面観音と一体となって再生し、一方の、これも円空作だったかもしれない薬師如来とともに、銀山都市の盛衰と哀感・苦楽を見守っていたものとおもう。十一面観音の御詠歌「楽みの遠からぬ身は苦の修行薩?の慈悲にやすむ院内」には、せめてもの慰謝を願う心が歌われている。しかし、ここに、雄物川の水源を守護する神がいることをよく知っていたのは、あるいは、円空ただ一人だったかもしれない。


四 松島の月と円空

 円空の彫像が次に確認できるのは、松島・瑞巌寺においてである。院内から松島までは距離があるが、この道中の過程を考えると、円空の足取りは案外軽かったのではないかと想像できる事実がある。
 雄物川に流れ込む川に役内川がある。これは院内と小野の境界をなす川でもある。役内川の源流山といえば神室[かむろ]山(一三六五b)だろう。神室山の古名は「比羅保許[ひらほこ]山」といい、天平九年(七三七)には、すでに中央には知られていた山である(続日本紀)。『秋田風土記』は、同山を「鏑[かむろ]岳」とし、「昔験者[げんざ]の行場にして南鳥海という」、菅江真澄は『雪の出羽路』で「神室嶽に大物忌ノ神のみやところありし天応延暦のころならん」と記していて、ここにも鳥海山の神がまつられていたようだ(湊寧、前掲書)。
 この役内川に沿うように、神室山に向かって伸びているのが鬼首[おにこうべ]街道(羽後街道)である。途中に秋の宮という温泉集落があり、ここには円空の彫像があったとされるも今は不明とのことである(丸山尚一『新・円空風土記』)。しかし、鬼首街道の途中に円空彫像の伝承があったことで、院内から松島へと、円空が歩いていた道がみえてくる。
 右手(南)に神室山を望みながら鬼首街道を登っていくと、奥羽脊梁山脈の鞍部ともいえる鬼首峠にたどりつく。ここからは東前方に荒雄岳(九八四b)がみえてくる。荒雄岳にも鳥海山神がまつられていた。この荒雄岳を源とするのが荒雄川(下流は江合川)で、この川は北上川と「江合」ったあとは太平洋へと向かう。円空は、この荒雄川沿いの街道(羽後街道)を東へ(松島へ向かって)下っていったものとおもう。
 荒雄岳山頂の奥宮に対する里宮・荒雄川神社(大崎市岩出山町池月)は、鳥海山神=荒雄岳神が瀬織津姫であることを隠さない希有な神社である。円空が歩いていた寛文八年(一六六八)頃には、おそらく洪水鎮護を祈ってのこととおもうが、荒雄川沿い三十六ヶ所に瀬織津姫神がまつられていた(「岩木山の鬼神信仰」参照)。円空が山岳霊地の各地で「地神供養」の対象神とみていた瀬織津姫という神が、ここでは、それまでの隠祭・秘祭がウソのように堂々とまつられ、しかも、これほどの集中祭祀がなされている──。円空にとって、これはあとにも先にもみたことのない瀬織津姫祭祀の光景だったにちがいない。ここでは、「地神供養」の彫像・奉納の必要はまったくなかったはずで、おそらく、ただ礼拝すればよかっただろう。松島へと向かう円空の足が軽かっただろうと想像する所以である。
 ところで、円空の北の旅の終着地が、なぜ松島・瑞巌寺なのだろう。また、なぜここで、釈迦如来を彼は彫像したのか──。
 円空が蝦夷地から奥羽への行脚の最終地を松島に定めたとすれば、それなりの理由があるはずである。そもそも瑞巌寺とはどういう寺なのか。
 瑞巌寺の現在の正式名は臨済宗「松島青龍山瑞巌円福禅寺」というが、創建時は天台宗の寺であった。その創建経緯について、『瑞巌寺の歴史』(同寺発行)は明快に書いている。

 この松島の地に、一つの寺が建てられ、青龍山[せいりゅうざん]延福寺[えんぷくじ]と命名された。松島に建てられたので、松島寺[まつしまでら]とも呼ばれた。天台宗に属したこの寺こそ瑞巌寺の最初の姿である。伝承に拠[よ]れば、それは天長五年(西暦八二八)の事であった。
 開山─草創のお坊さんを、慈覚大師[じかくだいし]円仁[えんにん]という。東北地方の大山[たいざん]名刹[めいさつ]は慈覚大師開創の縁起を有している事が多い。一例を挙げれば、
福島県 霊山寺[りょうぜんじ](霊山町) 大蔵寺[だいぞうじ](福島市)
山形県 立石寺[りっしゃくじ](山寺 山形市)
岩手県 中尊寺[ちゅうそんんじ]・毛越寺[もうつうじ](平泉町)
      黒石寺[こくせきじ](水沢市)
秋田県 蚶満寺[かんまんじ](象潟町)
青森県 円通寺[えんつうじ](恐山)などである。〔中略〕
 右のような慈覚開創の伝承が成立した経緯としては、先ず慈覚大師が、東北地方に隣接する下野国[しもつけのくに]壬生[みぶ](現栃木県都賀[つが]郡)の出身であった事、次に、平安時代初頭の、朝廷による東北地方の経営強化、即ち蝦夷[えぞ]対策の強化が、その原因に挙げられよう。
 ともあれ、延福寺は慈覚大師が日吉山王社[ひえさんのうしゃ]の神輿[みこし]を先頭に、三千の学生[がくしょう]・堂衆[どうしゅう]を率いて下向、創立し、淳和[じゅんな]天皇の勅願寺[ちょくがんじ]となった事を、寺に伝来する「天台記」は伝えている。〔後略〕

 松島の地に、円仁によって青龍山延福寺が創建されたのは、天長五年(八二八)のことで、彼は「三千の学生・堂衆」を引き連れてやってきたという。彼らをどこから連れてきたかといえば、いうまでもなく比叡山延暦寺からであろう。
 それにしても、三千人の門徒とは半端な数ではない。誇張があるかもしれないが、「三千」という数字をまずはそのまま受け取っておく。念のために瑞巌寺に確認したところ、三千人を収容できる宗教施設の遺構は確認できないとのことである。ならば、やはり誇張の数字かともおもわないでもないが、ここで気づくのは、「東北地方の大山[たいざん]名刹[めいさつ]は慈覚大師開創の縁起を有している事が多い」という指摘である。
 大山名刹であるかどうかはともかく、これまでにみてきた円仁伝承をもつところ(東北地方)を挙げてみれば、恐山円通寺、八峰町の白瀑神社(不動堂)、男鹿の赤神山、秋田市の龍泉寺(現在は能代市に移転)、日住山(日住白山神社)、大仙山・長安寺、そして遠野の早池峰山(妙泉寺)である。これらに、『瑞巌寺の歴史』が「一例」として挙げていた寺々をあわせてみれば、その総数は十四霊山・霊場となる。しかし、これは、東北地方の円仁伝承をもつ全体からいえば、まだ「一部」の数であろう。試みに、これらの霊山・霊場に、いつの時点の円仁伝承があるかを概覧してみる。
 恐山円通寺は貞観四年(八六二)、白瀑神社(不動堂)は不明、赤神山は貞観二年(八六〇)、龍泉寺は仁寿時代(八五一〜八五四)、日住山(日住白山神社)は嘉祥三年(八五〇)、長安寺は貞観九年(八六七)、そして早池峰山(妙泉寺)は斉衡年中(八五四〜八五七)。
 霊山寺は貞観元年(八五九)、大蔵寺は不明、立石寺は貞観二年(八六〇)、中尊寺・毛越寺は嘉祥三年(八五〇)、黒石寺は天平元年(七二九)に行基が開基、嘉祥二年(八四九)に円仁が中興、蚶満寺は天平宝字八年(七六四)に開基、仁寿三年(八五三)に円仁が再興。
 以上である。円仁伝承をもつ「最古」のところは、嘉祥二年(八四九)に円仁が中興したとされる黒石寺である(同寺裏山には早池峰山遙拝所が設けられている)。
 これらは円仁伝承をもつ寺社の「一例」にすぎないが、ここで気づくのは、文字通り「最古」の円仁伝承を有する寺は、ほかならぬ天長五年(八二八)創建を伝える青龍山延福寺(現在の瑞巌寺)だということである。そして、ここには、円仁が比叡山から「三千」の門徒を連れてやってきた。東北地方各地の霊地に、かくも多くの円仁伝承が誕生するのは延福寺創建以後のことで、これらのことが指し示すことは、おそらく一つしかない。つまり、多くの天台宗徒が円仁の名のもとに、松島・延福寺から東北各地(の霊地)へと散ったということである。
 これは、穏当にいえば、天台宗の布教に門徒たちが東北各地を歩いたとなるが、実態としては、やはり「朝廷による東北地方の経営強化、即ち蝦夷対策の強化」を目的としたものだった。円仁の時代、蝦夷は「えぞ」ではなく「えみし」と訓じるべきかとおもうが、赤神山が伝えていたように、円仁(たち)は「勅命」によって蝦夷[えみし]の地へやってきたのである。つまり、「東北地方の経営強化」、「蝦夷対策の強化」の目的をより具体的にいうなら、このエミシの国において、それまで信奉されてきた土地神を「権現」化し、あるいは「仏」に置き換えることで、この地神祭祀を封じることにあった。
 これまでみてきたように、円空が訪ね歩いた奥羽各地の霊山・霊場の土地神・地主神は、いずれも瀬織津姫という神であった。朝廷サイドが瀬織津姫神の祭祀を消去しようとする最大の理由は、この神がたんに東北地方各地の土地神であっただけではなく、皇祖神をまつるとして、七世紀後期に創設された伊勢神宮の地主神でもあったからだろう。いや、天皇を中心とした律令制中央集権国家、あるいは、神宮を頂点とする神々の体系化を骨子とする天皇制宗教国家が成立する以前にまでさかのぼれば、この神は列島各地にまつられていた可能性さえある。この古代国家が「王政復古」の名のもとに近代国家の顔をしてきたとき、瀬織津姫祭祀が「明治天皇の勅命」によって封じられたのも、あるいは戦後現在にまで瀬織津姫神を秘すという動きが神社界に消えていないのも、その源の理由は一つといってよい。
 日本の「正史」第一号は『日本書紀』だが(七二〇年に成書)、その前の『古事記』(七一二年に成書)をみても、そこに変名化はあっても、瀬織津姫という神の名は見事なまでに消去されている。しかし、たとえば、齶田浦神(=赤神)の祭祀は斉明四年(六五八)にはすでにあり、日住神祭祀のはじまりは文武四年(七〇〇)のことで、いずれも瀬織津姫神の祭祀が記紀成立の前にさかのぼることを告げている。しかし、これらは、それこそ「一例」にすぎない。
 東北地方の瀬織津姫祭祀のすべてを消去して歩くとしたら、円仁一人ではとてもなしうるものではない。それが三千の天台宗徒の動員ということなのだろう。この数字が逆証していることは、それほどまでに、このエミシの国に瀬織津姫祭祀が各地にあったということである。
 円仁が、東北各地にみられた瀬織津姫祭祀の消去をとうてい一人でなしえなかったように、円空もまた、伏せられた地神供養のために東北全域を一人で歩くことはできないとおもったにちがいない。かつての延福寺は、円空の時代、天台宗ではなく臨済宗の瑞巌寺となっていて、過去に地神封じを至命とした天台宗の秘儀はすでに払拭されていたが、円空としては、エミシの国における、かつての天台宗・円仁の拠点寺へ行き、最後の「供養」をする必要があった。円空が瑞巌寺へ向かった最大の理由・目的である。
 ところで、円仁が天長五年(八二八)に延福寺を創建したとき、この松島の地にもすでに地主神がいたことはいうまでもない。紫神社(松島町高城)は、自社を「天長年間の時には既に御鎮座されていた古社」だと主張している(由緒書「松島総鎮守紫神社」)。『宮城郡誌』は、この紫神社の項に江戸期の貴重な証言を再録している(仙台の新鋭作家・今野政明氏のご教示)。

聞老志。松島明神。在高城驛西樹林中。郷黨曰之紫明神。未詳祭何神焉。或曰松島明神。以在桂華島爲是。然以方隅取之。則豈阻遥海離平陸者。爲鎭護地主哉。當以此神祠。爲松島地主也。風土記。紫明神社。傳云。往古稱之。曰松島明神。不詳何時勸請何神。

文中「聞老志」は佐久間洞巌『奥羽観蹟聞老志』、「風土記」は、『風土記御用書上』(安永風土記)のことである。漢字ばかりが並んでいて現代人には読みにくい面もあるが、両書はいずれも、松島明神=紫明神は「鎭護地主」「松島地主」と伝承されるも、「未詳祭何神」「不詳何時勸請何神」と、つまり、いったい何神をまつるのか、あるいは、いつ何神を勧請したのかはわからないと記録している。現在の紫神社は、天之御中主神を祭神としているが、これが明治期以降の仮称神であることはいうまでもない。
 紫神社石碑(昭和四十二年)に記された由緒沿革を読んでみる。

千年の古社松島町の総鎮守紫神社は高城の西方紫雲山に鎮座坐しますもと蛇ヶ崎梨木平に祀りしを治承の初め現在の地に遷祀し社名を村崎明神と称す甞て源義経当社に詣で武運を祈る時に暮春境域の藤花満開にして恰も棚引ける紫雲にも似たるを賞でしより社名を紫神社と改むと言う

 もう一つの紫神社石碑(昭和五十一年)には、次のように刻まれている。

松島町の総鎮守たる当社は昔時松島明神と称し初め蛇ヶ崎梨木平に鎮座せられしが人皇第八十代高倉天皇治承四年此の地に奉遷し紫神社と改称せりと伝ふ

 これら石碑に天之御中主神の名を刻まなかったのは賢明といえるが、二つの石碑文面からみえることは、「松島町の総鎮守」として崇敬されてきた松島明神は、元は海岸部(蛇ヶ崎梨木平)にまつられていたが、「治承の初め」、現在地に「遷祀」し、「社名を村崎明神と称」した。「治承四年(一一八〇)」に源義経が「武運」を祈るために当社を訪れ、彼は「藤花満開」の紫雲山にちなんで「社名を紫神社」と改め、現在に至っているということだろう。室町期の成書とみられる『義経記』巻七には「宮城野の原、榴[つつじ]の岡、千賀の鹽竈[しおがま]、松島など申(す)名所々々を見給ひて」とあり、義経の松島詣ではたしかにあったのかもしれない。
 謎の松島明神は「村崎明神」を名乗る神だったが、義経によって「村崎」は「紫」という好字に変更されたらしい。
 福島県飯坂温泉の最古社に村崎神社があるが(現在は八幡神社境内社)、この村崎神は瀬織津姫である。円仁が、奥羽における天台宗拠点寺の創建場所として、なぜ松島を選んだかといえば、ここにも、その祭祀をそのままに放置できない神がいただろうことが考えられるのである。
 先に、わたしは「東北各地にみられた瀬織津姫祭祀」と書いた。円空が北の旅の最後に選んだ松島も、あるいは周辺の地も例外ではないとおもう。以下に、最後の傍証をしてみたい。
 松島明神は「桂華島」にもまつられていた(『奥羽観蹟聞老志』)。この桂華島は現在の桂島で、ここに鎮座している桂島神社の現祭神は「奥津彦老翁神、奥津姫老女神」、鎮座地名は「塩竃市字神手洗六六」とされる(『宮城縣神社名鑑』)。松島明神を瀬織津姫という「女神」とみると、この神は、桂島においては「奥津姫老女神」と表示されていることになる。鎮座地名の「神手洗」は「御手洗」のことだろう。なお、桂華島=桂島のさらなる沖合(「遥海離平陸」)の島には「大根明神」がまつられていたが、貞観時代(八五九〜七六)に大地震・大津波がおこり海没すると(貞観六年か…後述)、この大根明神は花淵崎へ遷座・遷宮して鼻節神社(延喜式の「明神大社」)を名乗ることになる(『七ヶ浜町史』)。鼻節神社祭神は現在、岐神「猿田彦大神」とされているが、同社境内社には、その故地「大根」を遙拝するために仮宮二基(西ノ宮、東ノ宮)が設けられていて(写真)、大根明神もかつて対神の祭祀がなされていたことがわかる。
 陸奥国府・多賀城が創設されたのは神亀元年(七二四)のことだが、この多賀城周辺の神まつりの特徴は、国津神男女神の一対神祭祀が集中してみられることである。桂島神社しかり、大根明神しかりだが、さらにいえば、鹽竈神社前の「祓川」河口の先にある籬[まがき]島の曲木神社(奥津彦大神、奥津姫大神)、多賀城近くの浮島[うきしま]神社(奥鹽老翁神、奥鹽老女神)、そして、志波彦・志波姫神もそうだろう。
 多賀城が創設された十三年後の天平九年(七三七)に、陸奥国分寺・国分尼寺が宮城野の志波の地に創設される。その地名にもみられるが、この官寺は、志波彦・志波姫神社の並祭地に創建されたものである。国分寺・国分尼寺の創設にともない、鎮守神として新たにまつられたのは白山神社だったが、このとき、志波彦・志波姫神の祭祀は当地から消える。いや、正確にいえば、志波姫神社のみは、国分尼寺近くに「姥[うば]神社」の名で生き残った(以上『邦内風土記』および白山神社氏子の方からのご教示)。かつての志波彦・志波姫神社は、白山神社由緒書がさりげなく記していたように、「聖武天皇陸奥国分寺創設以前の大社」であった。国分寺(白山神社)と国分尼寺(姥神社)の間は八百メートルの回廊によって結ばれていたという。
 志波姫神社から社名変更を余儀なくされた姥神社だったが、同社は現在、国分尼寺の北数百メートルのところに移転するも現存している。姥神社石碑には、祭神は「伊豆佐賣[いずさひめ]神」と刻まれている。消えた一方の志波彦神社は祭神を志波彦大神とされるも、その後、宮城野区岩切の地へと遷り、さらに鹽竈神社別宮へと遷宮がなされて現在に至るが、鹽竈神社のただの境内社ではなく「別宮」とされていることに、鹽竈(男)神と志波彦神が無縁の神でないことがよく表れている。
 志波姫神社は宮城県内に三社あり、伊豆佐賣神社は二社ある。大崎市古川桜ノ目にある志波姫神社の神は現在「天鈿女[あめのうずめ]命」と表示されているが、同社由緒書には、次のように書かれている(『古川市史』)。

志波姫神社 桜ノ目字高谷地
  延喜式内社栗原郡七座の一社で、天平神護元年(七六五)の勧請になるものという。昔は七月十日を祭日としていたが、塩釜の塩釜神社の祭礼と同日であったので(塩釜神社は差潮の時に御供を献じ、志波姫神社は引潮の刻をもって御膳を捧げるのを例としていた)、その後八月十日と改め、さらに明治二十四年から九月十日を祭日とした。この日旧例によって古式の弓箭の式や相撲等が奉納されてきた。〔後略〕

 志波姫神社と「塩釜神社」の祭祀が無縁でないことがよく伝わってくるだろう。志波彦神社は鹽竈神社「別宮」として、ある意味「里帰り」したともいえるが、しかし、志波姫神にはそれがなかった。塩竈神社前の川名を「祓川」といっていることが何を意味しているかは重要である。
 もう一社、栗原郡志波姫町(現栗駒市)の志波姫神社の由緒(境内案内)には、次のように書かれている。

  志波姫神社は木花開耶姫命を祀る延喜式神明[名]帳栗原郡七座の内の大社にして、人皇第四十五代聖武天皇の神亀天平年間の創建といわれ、延暦年間(七九六─八〇一)に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。社はもと伊豆野権現社と称し、築館の町裏玄光に鎮座されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿のすべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。〔後略〕

 先の志波姫神社は「天鈿女命」と表示していたが、こちらの志波姫神は「木花開耶姫命」だという。こういったちぐはぐさに志波姫祭祀の流転・変転のさまが象徴されているが、それはともかく、ここの志波姫神の権現称号は「伊豆大権現」だという。国分尼寺のかつての志波姫神社が「姥神社」に変更されるも、その祭神を「伊豆佐賣神」と石碑に刻んでいたことが、この「伊豆大権現」へとつながってくる。遠野において、伊豆大権現といえば瀬織津姫である。また、日本の神道史において、三途川の「姥神」と貶称された唯一の神こそ瀬織津姫である。
 志波姫と呼ばれた神(姥神)が瀬織津姫の異称神であることから、逆証的にみえてくることがある。それは、志波姫の対神となる志波彦神という男神は、背後に男系太陽神を秘めているだろうということである。この男系日神(火神)と女系月神(水神)の一対神の祭祀は、伊勢神宮の基層の神まつりの姿でもあった。国府・多賀城近辺に、神宮祭祀以前の国津神男女神の祭祀が残存していることは、王化の祭祀思想からいえば由々しきことだったにちがいない。鹽竈神社(=志波彦神社)も、近在各社にみられるように、もともとは一対神の祭祀をしていたとおもわれる。
 鹽竈神は現在「鹽土老翁神」という男神一神と表示されている。しかし、鹽竈神は製塩を司る神でもあるが、むしろ「安産守護」の神徳のほうが優先されている。江戸時代、鹽竈神社別当寺・法蓮寺が配っていたという「安産掛軸」の図には「所祭鹽土老翁推古二年宇寅七月始御安産祈奉」と記されている(押木耿介『鹽竈神社』学生社所収)。鹽土老翁神という男神は「推古二年」から「御安産」を祈る神としてあるというが、この掛軸図の神像は、なぜか釜を頭に載せた女神像なのである。これは一見奇妙な絵だが、鹽竈神には、安産守護を神徳とする女神が秘められているということなのだろう。
 松島地主神をまつる桂島神は、祭神名を「奥津彦老翁神、奥津姫老女神」としていた。松島明神=奥津姫老女神という表記例にならえば、鹽竈神「鹽土老翁神」の一方の女神は「鹽土老女神」とでもなるのだろうが、この「老女神」を消去した祭祀をしているのが、現在の鹽竈神社である。「老女神」の「老女」を漢字一字で表したものが「姥」である。江戸期の絵図(佐久間洞巌『鹽竈浦上回顧図』)には、鹽竈神社「祓川」河口の岬を「姥崎」と描かれている。ここにも「姥神」とみなされた神がいたはずで、その姥神化の痕跡として「姥崎」はあり、円仁ゆかりの「祓川」という川名はある。消えた老女神=姥神は志波姫神であった。
 村崎明神=松島明神、志波姫神、姥神=伊豆佐賣神など、また、駒形神をここに加えてもよいが、瀬織津姫という神は、多くの「国津神」の異称・仮称をもつことになる。記紀記載の「公認」の神名に置き換えるにはなじまないのが本来の国津神であろう。この謎めいた国津神祭祀は、陸奥国、あるいは東北各地に、消しようもなく現存しているといえる。
 蝦夷地の姥神=川濯神としての瀬織津姫もまた安産守護神であったが、特にいえば、福島大神宮の川濯神の旧祭祀社は「月ノ崎観音堂」であった(「北辺の神への鎮魂」参照)。瀬織津姫は川濯神として分離祭祀がなされるが、観音堂のほうは明治期、月崎神社(祭神:月夜見尊)となる。こういった祭祀過程は、瀬織津姫が月神でもあったことを暗に告げているものとみえる。また、江差町伏木戸の川裾神社(祭神:瀬織津姫神)は、江戸期までは「水月堂」と呼ばれていた。水月は「月水」に変転・類想され、瀬織津姫神は、ついには「下の病」・「婦人病」を治す神にまでなる。こういった「下」の神徳をもつとみなされた瀬織津姫の祭祀は各地にみられるが(琵琶湖岸の唐崎神=御手洗神など)、その根拠は、この神が月神=水神でもあり、また禊を司る神(「そそ」の神)ともみなされていたことにあった。琵琶湖西岸(比叡山東麓)の「志賀の唐崎」が松と月の名所、そして禊祓の聖地としてつとに知られるように、瀬織津姫は、松島においても月神であっただろう。
 松尾芭蕉は『奥の細道』に、「松島の月先づ心にかかりて」と、奥羽への旅の動機を明快にしたためていた。松島が月の名所であることは古来変わらない。円空も、一首、松島の月の歌を残している(歌番八一二)。

  松嶋や小嶋の水松手向らん
    櫛器の水に浮ふ玉かも

 またしても難読の漢字が出てきた。「水松」はイチイと訓むが、東北ではウッコ(オンコ)といったほうが通りがいい。ちなみに、遠野早池峰神社の神木として、このウッコはある。イチイの木は邪気を祓う霊木でもあり、垣根として植えるのはそのためである。「櫛器」は、髪をくしけずるときに櫛を浸す水盥のことだが、ここでは剃刀なのかもしれない。この水盥に「浮ふ玉」こそ、松島の月(神)なのだろう。円空は、窟に籠り(松島は海岸洞窟が多い)、旅で伸びた髪を剃ろうとしているが、目の前に置かれた「櫛器」には松島の月の霊神(玉)が映っている。今、自分が彫ろうとしている木は近くの「小嶋」から拾ってきた「イチイ」で、それから彫りだした像を、松島の神に手向けます──、といった歌意であろうか。円空は、松島の月神との対話を楽しんでいるようだ。
 瑞巌寺にある円空彫像は「獅子に乗った釈迦如来像」とされ、その材質は、歌にみえる「イチイ」ではなく欅[けやき]とのことである。『瑞巌寺の歴史』は、この像は「虫に喰われ、手部や面貌が定かでなく」とするも、「欅の根元を用い、円空仏の中では最大級の容量である」と書いている。実見した印象では、たしかにずんぐりとしていて重そうにみえる。
 この釈迦如来像は座像姿で、蝦夷地に集中してみられた観音座像と同じように蓮台の上に端座している。しかし、「欅の根元」を「獅子」の体に見立て、そこに顔らしきものをちょこんと彫りだし、この根株の獅子姿の上に釈迦の座像を蓮台ごと乗せるといった破天荒な姿をしている。
 円空は、北の旅の最後にきて、風変わりな釈迦如来像を一体彫った。釈迦像はいうまでもなく、仏陀=釈尊を投影した像で、その意味で、あらゆる仏像の根源に位置するものといえる。円空にとって瑞巌寺(延福寺=松島寺)は、かつて円仁がエミシ対策の最大拠点として建立した寺であった。奥羽各地にみられる、円仁の名による地神封じは、この寺を拠点[センター]としてはじまっていた。そういった最重要な拠点寺に、円空が派生像ではなく根源像ともいうべき釈迦像を対置するように彫りおいたのには、深い理由があるようにおもう。あるいは、天台宗の神仏混淆の秘儀においては、祓戸神(←瀬織津姫)の本地仏の一つとして釈迦如来があったことも関係しているかもしれない。この祓戸神を秘めた釈迦像を仏教最強の守護獣「獅子」の上に乗せたということは、釈迦像に化身した神は、これからは無敵に移動が可能となったともいえる。円空の複合するおもいが、この一見風変わりな像には込められているようだ。
 松島には、松島明神という地主神のほかに、現在の瑞巌寺の裏にまつられる葉山神も「松島地主」とみなされていた。松島には地主神が二神いることになるが、葉山神社には、さらに奥の院があり、ここは滝の上に不動堂を架け、近くに三面大黒をまつっている。円仁が、田村麻呂創建とされる毘沙門堂に彫像・奉納した像こそ不動明王だった。これを中心として、眷属四明王(東方降三世、南方軍荼利、西方大威徳、北方金剛夜叉)を配したために、ここは現在「五大堂」と呼ばれている。滝神と習合する不動尊をまつる不動堂を、葉山神社が自らの「奥の院」としていることは、円仁による、松島地主神を封じた不動尊の彫像と無縁ではなかろう。葉山神は現在、志波姫神や富士山神ともされる「木花開耶媛命」だという(『瑞巌寺の歴史』)。
 その祭神の是非はともかく、松島に「葉山」信仰(祖霊信仰)がみられることについては、『瑞巌寺の歴史』が「元来、松島は霊の集まる場所、この世とあの世を結ぶ境界点であった」という指摘と関連している。松島は、すでに霊場的特殊性をもっていた。
 葉山は麓山・端山などいくつか漢字表記を変えていわれるが、基本は端山であろう。この信仰の基本を構成する一般要素はおそらく二つである。一つは、作神(水神)信仰、もう一つは、祖霊信仰。後者については、死者を一旦端山(里山)に葬り、そこで死者の魂の浄化をまって、その魂は最終的に絶対霊地の高山へと赴くというものである。この絶対霊地の高山が「深山[みやま]」である。
 松島の葉山信仰は葉山神社「奥の院」が滝を神体としていることで、そこには水神信仰が認められる。しかし、ここで一つ不思議なことに気づかざるをえない。それは、葉山=端山が設定されているにもかかわらず、「深山」に相当する絶対霊山が松島にはみあたらないのである。
 円仁の前のこととして、坂上田村麻呂の伝承が、ここ松島においてもみられる。五大堂の前身・毘沙門堂については先にふれたが、富山[とみやま](一一七b)の山頂にある観音堂も田村麻呂創建を伝える。ここには、十一面千手観音がまつられている。山頂の富山観音堂の鎮守社は熊野権現で、小さな祠の扉を開けると、そこには熊野那智大社の神札が神体らしく奉納されていた。寺伝では、ここから富士山が見えたので「富山」と名づけたという。安藤広重『六十余州名所図会』の「陸奥 松島風景富山眺望之略図」にも、たしかに富士山の姿が描かれている(『瑞巌寺の歴史』所収)。富士山を遠望できる西限は熊野那智(の妙法山)だが、視認しうる北限の地が松島とすれば、松島と熊野は、富士山を媒介して意外に近い感覚で位置していることになる。富山観音堂の鎮守神が那智滝神であるというのは、大いにうなずけるようだ。
 かつて、松島からは富士山が見えた──。円空の眼も富士山をとらえていたとすれば、彼の感慨には余人の想像を超えるものがあっただろう。なぜなら、円空が十二万体の彫像、つまり全国の地神供養の彫像を一人誓願した神こそ富士山神であったし、また、それに応えるように一丁の鉈を円空に授けたのも富士山神であったからだ(『浄海雑記』)。円空は、北の旅の最後の地・松島で、かつて「志」を誓った神と、おもいもかけず再会した──。これ以上のドラマはなかろう。
 松島において、霊が最後に往きつき住まう祖霊の山(深山)こそ、あるいは富士山であったかもしれない。中世を通して、富士山には月の女神「かぐや姫」の祭神伝承がみられるが、平安期には富士山の地主神は「不動明王」であった(竹谷靭負「古伝の『富士山縁起』に見る富士山祭神の諸相」、『富士山文化研究』第六号所収)。
 円空歌集に、月神讃歌といえる連作歌がある(歌番五七八〜五八〇)。

  清して月のも中の形なれや見るに心のおとろかれねる
  (清くして月の最中[もなか]の形[かげ] なれや見るに心の驚かれねる)
  おそろしや浮世人ハしらさらん普照す御形再拝
  (おそろしや浮世の人は知らざらん普[あまね]く照らす御形[みかげ]再拝[おろがむ])
  面白や月の御形は花なれや浮世照すちゑの鏡か
  (面白や月の御形[みかげ]は花なれや浮世を照らす知恵の鏡か)

 円空は、世を普[あまね]く照らしているのが太陽だとは歌わない。「浮世」は「憂き世」でもあろう。円空は、闇夜(憂き世)を片寄ることなく公平に照らす「月の御形[みかげ]」(月神)を「再拝」している。この月神の真を世の人は知らないだろうが、自分だけは何度も拝もうともうたっている。先の歌では、「月の御形」(月神)は「水色の夜の御神」として拝まれていたが、ここでは、この神は「ちゑの鏡」(知を映しだす神)だともされる。
 松島の月神・地主神は富士山と無縁ではない。鎮護国家、あるいは護国仏教に生涯を捧げた円仁が亡くなるのは、貞観六年(八六四)とされる。いささか因縁めいてくるが、富士山がかつてない大噴火をおこしたと、甲斐国司が朝廷に奏上したのも貞観六年のことだった。

535・537 駒形大神と平泉・白山神 風琳堂主人 2007/03/17 (土) [59890]

はじめに

 円空は美濃への帰国後、白山信仰を飛躍的に深めていきます。その劇的深化のきっかけには、白山山麓での秘蔵の文書との出会いがあったものとみられます。この秘蔵文書には、円空がもっとも尊意をもってみていた瀬織津姫神の名がありました。文書は、藤原秀衡が白山(別山)南麓、白山中居神社が鎮座する石徹白[いとしろ]へ送り込んだ白山神守護の特命を受けた家来衆(上村十二人衆)の末裔が秘守・死守してきたもので、白山信仰と円空を考える前に、奥州における秀衡と白山神との関わりの輪郭だけでもふれておこうとおもいます。本稿は、駒形神と白山神が無縁の神ではなかったことの傍証の試みでもあります。
 なお、引用の古史料の大半は、HP「義経伝説」(佐藤弘弥氏主宰)収録の復刻・読み下しに負うこと大です。先に謝意を表しておきます。


一 祭神のことを私議するものあり

 陸奥国には同じ駒形大神をまつる社で、延喜式に登録されている駒形神社と駒形根神社の二社がある。前社は岩手県奥州市水沢区に、後社は宮城県栗原市沼倉に鎮座している。駒形神社は戦前までは祭神不詳とされるも国幣小社、駒形根神社は大日?尊と吾勝尊ほか四神を配して主神とする郷社であった。駒形神社は駒ヶ岳を、駒形根神社は栗駒山(須川岳)を神体山としてそれぞれ信仰圏域をつくってきた。
 駒形大神とはなにかについては、「早池峯山駒形大神」という遠野の石碑伝承から、この謎めいた神に瀬織津姫が秘されていることにすでに言及した(「北辺の神への鎮魂─姥神・駒ヶ岳の神とはなにか」)。駒形大神が国家から特別視されていたことは、延喜式内社陸奥国の項に二社採録されていることや、岩手の駒形神社が祭神不詳にもかかわらず「国幣小社」と遇されていたことに端的にみられる。では、宮城の駒形根神社はどうであったかといえば、こちらも劣らずに重要視されていたことは、その社標が駒形根神社ではなく「勅宣日宮」と表示されていることにみられる。菅原巳之吉『栗駒村誌』(昭和十四年)は、「郷社駒形根神社」の項に、次の境内石碑の文面を再録している。

勅宣日宮
昔王政の盛なりし時は、天祖大御神の大神のまにまに神祇をまつらせ給ふこといと厳明なりき。されば延喜式の神名帳に載せて神祇官より幣帛奉りし、神社三千百二十二座に及びて式外の神社はその数を知らず、国人敬神の心篤き故に神亦加護し給ひなば、神人合体して世運の盛なるは言うも更なり。天変地妖なく四時順行して凶年来らず、疾疫起らず、人民蕃息して天の益人の称空しからざりき。
ここに本郡の式社駒形根神社は出羽の国をかけて百八十六村の鎮守なるが、霊験日々に新たにして、山の名おう名駒の続きて出づるのみかは、郷村の産物は五穀をはじめとして衣食住のものみなこの神のめぐみにもるるものなし。さて神恩に報い奉るとの事古来朝旨を以て駒形の嶺に神社を建て、天祖天照大神皇孫吾勝々天忍穂耳尊を祭り、又日本武尊をも副へてまつり来しかば、昔蝦夷を征討したる田村麻呂将軍を始めとして皆此の大神に祈らざるはなく、終に夷を北地に追い退けて良民長く憂患を免れたりき。然るに世くだり神道衰へて王政すたれしかば、仏徒ほしいままに此の神を偽りて仏と称して、はては旧典を失ふに至りしを、天下再び治まりて仙台藩の時元文年間神官村民等相議りて藩に訴へ、京師の神道管領吉田家に諜報してやや旧制に復したれども、規模狭少にして古札百分の一に至らず、剰へ祭神のことを私議するものありしかど、是は佐久間翁の観跡聞老誌にも記し、水戸家の大日本史の神祇志にも載する事今は世に疑ふべくもあらずなりぬ。
 況や今日維新の大御代にありて、旧説を主張し古札を興して神人合体なりし古風にかへしたらは尊き神霊もいかでか幸福を降して守り給はざらん。故に同志相議り赤心を大碑に表し千載の後に伝へむとす、因て予め事の理由をここに記すになんありける。
明治二十七年四月
                         正七位 久米幹文撰
                                 佐々木舜永書

 駒形根神社は「出羽の国をかけて百八十六村の鎮守」であったという。この信仰圏の広大さは半端ではない。『雄勝町史』も「安永書上」(安永風土記)を引用して、「仁寿元年(八五一)陸奥国駒形神加階の事見ゆ、式内社、駒形神、一二三迫、西磐井、羽州雄勝郷、凡百八十六邑総鎮守」としている。陸奥国・出羽国の国境を越えて駒形神は信奉されていた。文中「一二三迫」は一迫・二迫・三迫のことで旧栗原郡に該当している(現在は栗原市・大崎市にまたがる)。
 碑文は「明治二十七年」に刻まれたもので、ここには「駒形の嶺に神社を建て、天祖天照大神皇孫吾勝々天忍穂耳尊を祭り、又日本武尊をも副へてまつり来し」という認識が書かれ、「天祖天照大神」と「皇孫吾勝々天忍穂耳尊」が強調されている。「吾勝々天忍穂耳尊」は、記紀の通説理解からいえば、厳密には「皇孫」ではないが(皇孫は忍穂耳尊の子・瓊瓊杵尊とされる)、それはおくとしても、吾勝々天忍穂耳尊という祭神名については、大日?尊(天照大神)とともにまつられる「吾勝尊」の具体的な説明として、あえてここに記されたようだ。理由は、碑文が記すように「祭神(吾勝尊)のことを私議するものありし」で、たしかに「吾勝尊」といわれてもどんな神かは「私議」したくもなっただろうからだ。それを「吾勝々天忍穂耳尊」のことだと主張されれば、大方は「私議」を控えたにちがいない。しかし、この吾勝尊=吾勝々天忍穂耳尊という等号説明は「佐久間翁の観跡聞老誌にも記し」と碑文は刻んでいたが、佐久間洞厳『奥羽観蹟聞老志』(一七一九)は、式内社としての駒形根神社の社名・存在を記すのみで、こういった祭神説明の記述はまったくしていない。


二 駒形神と大祓神

 駒形根神社「六十八世宮司」鈴杵憲穂氏は『栗原郷土研究』第三十二号(平成十三年四月刊)に、神社に伝わる秘蔵の史料「陸奥国栗原郡大日岳社記」を公開している。これは駒形神を考える上で超一級の史料といってよい。鈴杵氏は掲載の前書きで、本史料は「先祖が誇り高く、後世に残した物で、神社の宝物として庫戸に収蔵されていたもの」、ただし「子孫の宮司として公開してよいものか、神罰を恐れている」、「迷いに迷っての結果」だが公表に踏み切ったと、その胸の内を正直に書いている。
 鈴杵氏は前書きで、「駒形神社は元文四年既に神仏分離が行われていた」と記し、「それまでは天台支配の駒形山大昼寺と別称されていた」と、神仏混淆時代のことを記している。社伝では、「嘉祥三年(八五〇)仁明天皇の御宇、慈覚大師が下向してから駒形山大昼寺と称し、大日如来を祀り、祭式は仏式になった」とされる。つまり、嘉祥三年(八五〇)から元文四年(一七三九)までが、駒形根神社の神仏混淆時代ということになる。それにしても、神仏分離が全国の社寺に対して強制されるのは明治期初頭が一般だが、駒形根神社は、すでに江戸期の半ばに神道化を実践していた異例な社の一つである。ちなみに、出雲大社の神仏分離→神道化は寛文七年(一六七七)のことで、こちらは異例の魁[さきがけ]をなしていた。
 駒形山大昼寺は嘉祥三年(八五〇)慈覚大師=円仁の創建とのことで、この嘉祥三年には中尊寺・毛越寺も円仁によって開基・創建されている。これらの開基・創建が同年に行われていることは偶然ではない(後述)。
 初公開の「陸奥国栗原郡大日岳社記」だが、その奥付日付は「元文五年四月」とあり、巻末に「神道管領長上占部朝臣兼雄」の朱印が押されている。つまり、元文四年の神仏分離の翌年という早い時期に社記は書かれ、また、これは、全国の神社支配権を一手に掌握していた京都・吉田家(「神道管領」)によって公認された由緒書であることがわかる。
 社記は、駒形山(栗駒山=須川岳)には日宮[ヒルミヤ]と駒形宮の二宮があることを記し、日宮の冒頭は「古ヘノ陸奥ノ国〔吾勝郷雄勝郷〕ノ界[サカヒ]駒形ノ巓[イタダキ]大日嶽[オホヒルダケ]ニ在[ア]レマス」と書かれ、駒形山は大日嶽をピークとする山であることが告げられる。『安永風土記』(一七七二)は栗駒山の項を「一山 二ツ」として「大日嶽 高大敷大道五里程」と「駒ヶ嶽 高大敷大道四里廿六丁程」と記し、駒形山(栗駒山=須川岳)が二つの「嶽」から構成されているとしている。駒形山=栗駒山は、大日嶽と駒ヶ嶽から成る総称ということなのだろう。
 社記の日宮の祭神は、大日?[オホヒルメ]尊を中心に天常立[アメノトコタチ]尊と国狭立[クニサタチ]尊を左右に、そして吾勝[アカツ]尊を中心に置瀬[オキセ]尊と彦火[ヒコホ]尊を左右に(「一伝」として、彦火火出見[ヒコホホデミ]尊と国狭槌[クニノサヅチ]尊を左右に)まつり、「コレヲ駒形峯大明神ト謂[マフ]ス」とされる。つまり、大日?尊と吾勝尊を中心とした六神の総称として「駒形峯大明神」はあるということらしい。
 この日宮の祭神説明に対して、一方の駒形宮のほうは「祭ル所ノ神数十座」としていて、大日?尊と吾勝尊を中心とした日宮の祭祀と、駒形宮の「数十座」の祭祀とを合わせて、駒形山山上の祭祀がなされているとする。
 この駒形山山上の祭祀はわかりにくいが、「里宮」の説明においても、「皇子(日本武尊)自ラ親顕 大日?尊吾勝尊及ビ諸神[モロガミ]等ヲ大日嶽ニ斎[イツ]キ祭リ 以テ東国鎮寧ノ祈リヲ為[ナ]シタマフ 今大日嶽ニ鎮座ノ神此レ也」と書かれ、駒形山(=大日嶽)には、「大日?尊吾勝尊及ビ諸神」が鎮座しているというにぎやかな祭祀を述べるのみで、駒形神をことさらに一神に特定しないといった曖昧な書き方をしている。
 社記や風土記の記述からいえば、駒形神の主神は「大日?尊吾勝尊」の二神と解釈できるが、しかし、駒形神の筆頭祭神を大日?尊=天照大神とするなら、また、吾勝尊=吾勝々天忍穂耳尊とするなら、岩手の国幣小社・駒形神社が戦前まで「祭神不詳」としていた理由はまったく成り立たない。これら二神が駒形神ならば「祭神不詳」とする必要はまったくなかろうからだ。岩手の駒形神社は戦後、駒形根神社に準じて、駒形根神社祭神六神をまとめて「駒形大神」とみなすというように変わる。
『安永風土記』は、駒形根神社(社記は駒形宮と表記)は駒ヶ嶽にあり、「社 南向三尺作 窟ノ内ニ相建居申候事」「祭日 九月廿九日」とし、日宮については、「社 東向三尺作 大日嶽絶頂ニ相建居申候事」「祭日 九月八日」としている。これらは山頂部の社殿二つをいったもので祭神説明はないが、駒形(根)神は、日宮神「大日?尊」と対等に記される「吾勝尊」のこととみられる。駒形根神社社記の祭祀説明のわかりにくさは、駒形根神社=駒形宮は「諸神」「数十座」の祭祀をするもので、駒形(根)神の鎮座嶽を曖昧にしていることに尽きる。社記の冒頭は、駒形山は「古ヘノ陸奥ノ国〔吾勝郷雄勝郷〕」の境界に聳える山だと書かれていた。「吾勝郷」は吾勝尊ゆえの郷名であろう。吾勝尊と呼ばれる謎の神こそが本来の駒形神の異称とみるしかない。駒形神=吾勝尊とはなにか。
 社記は「駒形大明神ノ祭日及ビ祭式」の項の冒頭を、次のように記している。

   旧記ニ云フ 日本武尊曰ハク駒形大神ニ奉祀スル者 必ズ神宮ノ祭式ニ擬ス可キ也 又云フ御岳大神及ビ吾勝大神神幸ノ時 鼻節神必ズ啓行スベシト〔鼻節者[ハ]蓋シ猿田彦大神ト謂フ〕 又云フ 岳宮里宮太諄辞[フトノリトゴト]大祓有リ 宮司コレヲ掌ル 尤[モット]モ一社ノ重任也

 駒形大神二神(御岳大神と吾勝大神)の祭祀は「神宮ノ祭式ニ擬ス可キ也」という。御岳大神の「御岳」とは大日嶽のことで、この岳神の筆頭神は「大日?[おほひるめ]尊」とされていた。大日?尊は神宮(内宮)正殿神とされる天照大神=アマテラスの異称である。駒形山祭祀のわかりにくさは、どうやら神宮祭祀(のわかりにくさ)と二重化していることからくるようだ。
 神宮において、内宮神=天照大神と同格・別格祭祀がなされているのが、神宮の地主神を秘してまつる第一別宮・荒祭宮で、この宮の神は「天照大神荒魂」と呼ばれる。駒形大神を景行時代に当地へまつったとされる日本武尊(ヤマトタケル)の姨[おば]が倭姫[やまとひめ]だが、彼女が自身を御杖代[みつえしろ]として、天照大神を三輪山山麓から伊勢へと奉斎する紆余の過程を記したのが『倭姫命世記』(神道五部書の一書)である。荒祭宮の神は同書で、次のように説明されている(『中世神道論』、『日本思想体系』所収)。

荒祭宮一座〔皇太神宮ノ荒魂。伊邪那伎大神所生[アレマス]神。八十枉津日神と名づくる也〕一名は瀬織津比盗_是れ也。御形は鏡に座します。

 駒形山において、皇太神宮神=大日?尊とともに別格神としてまつられるのが吾勝大神である。「吾勝」の「アカツ」「アガツ」と類音を有する神がここには記されている。一名を「瀬織津比盗_」とするも「八十枉津[やそまがつ]日神」がそれである。「八十」は、大いなるといった意味を含む接頭語で、これをはずしてみれば、マガツヒノカミという音が残る。謎の吾勝大神・吾勝尊は、天照大神=大日?尊の「荒魂」、つまり「枉津[まがつ]大神」が転じた神名かとみられる。
 社記は、駒形大神二神(御岳大神と吾勝大神)の神幸においては、鼻節神(猿田彦大神)を先払いの神とすべきだという(「啓行スベシ」)。鼻節神は、陸奥国では鹽竈神の元神(の男神)で、この神をまつる鼻節神社は延喜式においては「明神大社」という破格の祭祀対象社とみなされていた。鼻節神=猿田彦大神は道先案内・先導の神とされるのが俗解である。一方、神宮においては、この神は興玉神と呼ばれ、神宮の地主神の一神(男神)で内宮正殿玉垣内に秘して丁重にまつられている。興玉神は、二見浦から五十鈴川を遡行し上流部の鏡岩に影向した最古の農耕・太陽神である。
 駒形大神の祭祀は神宮の祭式に擬すべきであるという社記の記述は重要である。社記はさらに、なかでも「大祓」については「宮司コレヲ掌ル 尤[モット]モ一社ノ重任也」と記している。「尤も」は「最も」だろう。大祓の祭式こそが「最モ一社ノ重任也」と認識されていることは、駒形神祭祀の内情を明かして余りあるというべきかもしれない。なぜなら、遠野・早池峰郷においては、この大祓神とされた神、つまり瀬織津姫神こそが早池峰大神=駒形大神だからである。駒形根神社は、瀬織津姫神を自社の主神におくことなく枉津大神から吾勝大神へと変名化したらしい。ここには、本来の駒形山の主神を消し、さらに大祓神へと降格祭祀をした、その罪障感からだろう、「大祓」を自社の最重要な祭式として認識しているさまがみられる。
 神宮祭祀が駒形山祭祀に投影しているということは、駒形山にも秘めた男系太陽神の祭祀があるということなのだろう。神宮祭祀がそうであったように、駒形山の大日嶽において、大日?尊(=天照大神)が強調されることに、神宮の擬制的祭祀もまたよく投影しているとみられる。鼻節神という男系太陽神を駒形大神二神の神幸に必ずともなえというのも、これも屈折した太陽神祭祀への配慮を暗示しているようだ。


三 吾勝尊という駒形神

 石碑「勅宣日宮」は、駒形根神社は「出羽の国をかけて百八十六村の鎮守」と刻し、『安永風土記』は「式内社、駒形神、一二三迫、西磐井、羽州雄勝郷、凡百八十六邑総鎮守」と記していた。駒形山・駒形根神社の信仰圏域の一つである「一迫」の鬼首[おにこうべ]村にあるのが荒雄岳で、この山神・水神をまつるのが荒雄川神社である。大崎市岩出山町にある荒雄川神社里宮は、駒形山信仰圈で、おそらく唯一といってよいが、その主祭神の名から瀬織津姫神の名を消すことなく表示しつづけている希有な社である。
「陸奥国栗原郡大日岳社記」は、この荒雄岳を「中山」とし、荒雄川神社を「吾児宮」として、次のように記している。

吾児[アカコノ]宮〔伝ヘニ曰ク吾勝児[アカツコ]尊ヲ祭ル 大日[オホヒル]尊ヲ合セ祭ル〕
奥州一迫荘鬼首村〔古ヘノ吾勝郷〕中山ニ在リ コレヲ吾兒[アカツコ]大明神ト謂フ 又曰ク脇子明神ト 社跡猶存シ祭日別当無シ 中山ノ左右ニ姉森〔或ヒハ日神ヲ祭ルト〕弟森〔或ヒハ速男神ヲ祭ルト〕有リ 及ビ従神三十六神ノ社跡有リ 今ニ略[ホボ]存ス

 荒雄川神社の異称は「三十六所明神」で、これらはすべて瀬織津姫を祭神としていたが、「三十六所」は文中「従神三十六神ノ社跡有リ」と正確に対応している。駒形根神社の社記は、瀬織津姫神の名を、吾勝児[アカツコ]尊、吾兒[アカツコ]大明神、脇子明神といった異称を並べて記している。また、駒形神の異称は吾勝尊・吾勝大神であったが、「児」の一字の有無が類縁の神であることをよく告げている。駒形神=吾勝尊の「児」神=子神が吾勝児尊ということだが、これは字義通りに親子関係にある神という意味ではない。
 社記は、吾勝尊をまつる吾勝宮の項を、次のように記している。

吾勝宮
 同州(奥州)西岩井荘市野々村〔古ヘハ吾勝郷吾勝児村〕忍骨山[オシホネヤマ]ニ在リ 祭ル所ノ神一座吾勝尊 或ヒハ曰ク日本武尊ヲ合ハセ祭ルト謂フ コレヲ勝宮大明神 今ニ保呂羽大権現ト云フ小社猶存ス 祭日別当有リ

 吾勝尊という駒形神は「古へ」の「吾勝郷吾勝児村」にまつられているという。吾勝児村は吾勝児尊がまつられるゆえの村名であろうが、そこには吾勝児尊ではなく駒形神=吾勝尊がまつられ、現在は「保呂羽大権現」と呼ばれているという。保呂羽大権現は秋田県側に信仰が根強くみられるが、この権現は役小角ゆかりの蔵王権現ともされる。保呂羽権現の本社は、秋田県横手市にある保呂羽山波宇志別神社である。「保呂羽」の意味についてはアイヌ語で解く必要はなく、これは宝竜・法領・法量・飛竜などと同類で、ルーツは熊野那智の地主神・飛滝権現にゆきつく。つまりは、那智の滝神とみられる瀬織津姫をいう(「岩木山の鬼神信仰」参照)。
 もう一社、吾勝尊という駒形神をまつる神社を社記から拾ってみる。

  雄勝宮
   羽州ニ在リ〔古ヘハ陸奥国〕 雄勝郡駒形荘相川村〔古ヘハ相換村〕 雄子骨[オシホネ]山ニ在リ 祭ル所ノ神一座吾勝尊 或ヒハ曰ク日本武尊ヲ合ハセ祭ルト謂フ コレヲ正勝大明神 今ニ東鳥海山相川大権現ト云フ 宮殿猶存シ祭日別当有リ

 東鳥海山は現在の湯沢市小野の東に聳える山で、南の神室岳は南鳥海山ともいい、いずれも鳥海山の神と同神としている。鳥海山の神は大物忌命とされるが(鳥海山の開山者は円仁とされる)、この神と荒雄岳・荒雄川の神が同神であることはすでに指摘されている(「岩木山の鬼神信仰」参照)。駒形神=吾勝尊と荒雄岳・荒雄川神=吾勝児尊を、異神とみる必要はまったくあるまい。瀬織津姫神は、遠野の石碑伝承が記すように、駒形大神でもあった。
 社記はまた、「伊豆箱根神社三座」の項を「祭ル所ノ神ト駒形大神同体也」とも記している。遠野郷の早池峰神社の元社・親社は旧来内[らいない]村の伊豆神社(伊豆権現社)であり、両社いずれも、祭神は瀬織津姫である。なお、箱根神社については、その地神は芦ノ湖の水神・九頭竜神、つまり、白山神や戸隠神と同体である。芦ノ湖の湖岸北に聳えるのも駒ヶ岳(神山)で、ここは箱根神社の神体山とされている。社記が駒形大神と箱根神(=白山神)を「同体」と述べていることは重要である。
 社記は「仏氏駒形山ヲ以テ仏場ト変ヘ為シテ以来当社ノ祭典礼式皆其ノ故実ヲ失フ 豈嘆スベ可[カ]ラザル哉」、「今按ズルニ仏氏ノ徒[トモガラ]中葉ヨリ駒形宮ヲ以テ誣[タブラカ]シ大日観音ト為ス 俗民頑然ニシテ此ノ誣[ブ]託妖言ヲ信ジ 鳥魚ノ類ヲ供スルヲ忌ミ参詣ノ人モコレヲ忌ミ憚ル 古例ノ廃ルハ此クノ如シ 哀シマザル可[ベ]ケン哉」といった、神仏混淆による神祭式の故実・古例が失われたことへの慨嘆の言葉を記す。ここでやり玉に挙げられている「仏氏」の筆頭人物こそ慈覚大師=円仁といってよい。
 東北において、円仁の名・伝承がある霊地・霊山には、必ずといって過言ではないが、先住の最重要な地神祭祀への神仏混淆という名の祭祀・祭神改竄があった。しかし、この社記がもっている一方の問題に、社記の作者は自覚的ではない。駒形根神社は、明治期の神仏分離を元文四年(一七三九)に早々と先行して実施したが、このとき、明治新政府がおこなったのと同じように、新たな祭祀において表に出してはならない神に対して、それを「神神混淆」ともいうべき曖昧な方法で封じたことである。これは「神仏混淆」を方法とした地神封じを延々とおこなってきた「仏氏」たちの意図と本質的に差異はないのだが、社記の作者は、このことに思いが働いていないようだ。勅命によって「国家鎮護」の大建前のもとに円仁たちがおこなってきた地神封じの苦労も、これでは台無しだが、それはおくとしても、荒雄川神社が自社祭神を瀬織津姫神と主張しているにもかかわらず、駒形根神社と吉田家は、この神名を「吾勝児尊」などという「私議」したくもなるような曖昧な神名に確定しようとしたのである。
 荒雄川神=瀬織津姫神は、中世より荒雄川(江合川)沿い三六ヶ所にまつられていた。しかし、この三六ヶ所の祭祀は突如廃止される。荒雄川神社の社伝は、それを、「寛保三年(一七四三)に、幕命によって江合川(荒雄川)沿いの三六所明神を合祀した」と記している。
 石碑「勅宣日宮」は「京師の神道管領吉田家に諜報して(祭式が)やや旧制に復した」などと刻んでいたが、「陸奥国栗原郡大日岳社記」が「神道管領吉田家」の公認の元に作製されたのは元文五年(一七四〇)のことであった。この社記は、駒形神祭祀の関係社「二十余社」を吉田家に報告するかたちとなっているが、これまでにみてきたように、自社の最重要な祭式を「大祓」としていて、それと裏腹だが、明らかに瀬織津姫祭祀がなされている社があるにもかかわらず、瀬織津姫の「せ」の字も出すことなく勝手に祭神名を変更して記録化している。
 社記が完成した元文五年のわずか三年後に、荒雄川神=三六所明神の本社への合祀が「幕命」によってなされている。神宮祭祀を脅かす神を排除するという朝廷の祭祀思想を体現する「神道管領吉田家」が、荒雄川沿い三六ヶ所に瀬織津姫神が集中してまつられる事実を知れば、それは容認できるものではなかったのだろう。それが「幕命」による合祀の理由と考えられる。つまり、神宮祭祀の固守・固執といった観点でいえば、「神道管領吉田家」と朝廷は一体であり、彼らが抱く祭祀思想・神宮思想を、幕府→仙台藩を使って荒雄川神社に対して下命・行使したというのが実態であろう。京都・吉田家は江戸期の神社本庁であった。


四 鬼姫と呼ばれた滝神

 駒形根神社の根本社記といってよい「陸奥国栗原郡大日岳社記」は元文五年(一七四〇)に作製された。前年の元文四年には早々と神仏混淆から脱して神道一本の社として再生したというのが現在の駒形根神社のはじまりである。
 同社宮司の鈴杵氏は、社記の前書きで、「元文以来が突然と出てくる。まるで、神社が突然とできたようである」と驚きを隠さない。また、この社記の成書時、「その時、仏教時代の史料を隠したものであろう」と推測してもいる。「突然とできた」のは神社ばかりでなく、社記、つまり、日本武尊による駒形神の勧請といった現在に流布される由緒記もそうだったにちがいない。この神仏分離時に「仏教時代の史料を隠した」というのは、これも明治期の神仏分離から廃仏へと向かった動きとよく似ている。ただ、それが一般にはみえないところ、つまり駒形根神社一社内でおこなわれたというちがいはある。
 いずれにしても、駒形山(栗駒山=須川岳)における「仏教時代の史料」は断片的なものしか残っていない。これまでにみてきたところをふりかえってみれば、円仁に象徴される天台宗徒の痕跡は、神宮寺の駒形山大昼寺が円仁によって嘉祥三年(八五〇)に創建されたということ、また、「仏氏ノ徒[トモガラ]中葉ヨリ駒形宮ヲ以テ誣[タブラカ]シ大日観音ト為ス」とあったように、駒形山には大日如来と観音(馬頭観音)の二尊が本地の仏として設定されたことがわかるのみである。これらの垂迹神は、大日如来については大日?尊、観音(馬頭観音)については吾勝尊(駒形神)が対応している。
 ところで、栗駒山=須川岳は奥羽山脈の一角を構成する山(連峰)で、南東の栗原郡側には一迫川・二迫川・三迫川、西の秋田・雄勝郡側には赤川→鳴瀬川や皆瀬川、北の西磐井郡側には磐井川を流出させる水分[みくまり]の山でもある。『大日本地名辞書』の表現では「磐井川の源頭にあたり、中央分水山脈の一雄峰なり」となる。駒形神に秘された神が水分神・水神であるという神徳をもつことは、この山の立地・地勢そのものが証している。栗駒山を水源山として流れ出す川で、山の西の諸川がゆきつくのは雄物川であり、東の諸川はすべて北上川(古えの日高見川)の支流を構成している。
 社記の冒頭は「古ヘノ陸奥ノ国〔吾勝郷雄勝郷〕ノ界[サカヒ]駒形ノ巓[イタダキ]大日嶽[オホヒルダケ]ニ在[ア]レマス」と書かれていた。雄勝郷は雄勝郡として、現在は秋田県の郡名としてみられるが、かつての陸奥国・駒形山の祭祀を中心にみるなら、荘園郷としての雄勝郷の名を有していた。同じく、栗原郡や西磐井郡の吾勝郷もあった。たとえば、社記には、栗原郡一迫の鬼首村は「奥州一迫荘鬼首村〔古ヘノ吾勝郷〕」と書かれる。「一迫荘」の表記が荘園であったことを端的に表している。
『雄勝町史』は、「荘園の制度は大化の改新後天平十五年に定められたものであるが出羽国については極めて明らかでない。駒ヶ嵩荘(駒形ノ荘)だけは仁寿元年に五箇の荘の荘園を神領として祭祀料を徴収していた。即ち宮城県の一ノ迫[ハザマ]の荘、二ノ迫の荘、三ノ迫の荘、岩手県の西磐井の荘、秋田県の駒形の荘の五箇の荘であった。駒形の荘とは雄勝郷のことである」と、駒形山(駒ヶ嵩)には四方に五箇の荘が設けられていたことがわかる。また、駒形山の祭祀料の徴収が仁寿元年(八五一)になされていたことから、この荘園の制度が駒形山の神仏混淆時代と重なることがわかる。円仁が駒形山大昼寺を創建した嘉祥三年(八五〇)の翌年に祭祀料の徴収がされている記録があるのは重要なことだろう。なぜなら、駒形山が円仁によって神仏混淆化されたことと、駒形山祭祀に関わる五箇荘が整備されたことは関係していると考えられるからである。石碑「勅宣日宮」が、「本郡(栗原郡)の式社駒形根神社は出羽の国をかけて百八十六村の鎮守なる」と高らかに述べていたのも、この五箇荘の荘園領域を指すといってよい。
 ところで、「陸奥国栗原郡大日岳社記」は、神道側の立場から、「仏氏駒形山ヲ以テ仏場ト変ヘ為シテ以来当社ノ祭典礼式皆其ノ故実ヲ失フ」、「仏氏ノ徒[トモガラ]中葉ヨリ駒形宮ヲ以テ誣[タブラカ]シ大日観音ト為ス」と、「仏氏」による駒形山祭祀の変質を指摘していた。この仏氏のはじまりの象徴として慈覚大師=円仁の名はある。
 栗駒山の山岳登山家・小関純夫氏によると、栗駒山の山頂部には「三途の川」があり、その川にかかる約四〇bほどの滝は「鬼姫ノ滝」と命名されているという。それにしても「鬼姫ノ滝」とはよくも名づけたものである。こういった異様な滝名がみられるのは、全国でも栗駒山だけではなかろうか。まさにエミシの国ゆえの「鬼」姫の滝なのだろう。
 栗駒山を中心とした荘園郷といってよい吾勝郷・雄勝郷の雄勝郷には、地獄の霊場として知られる川原毛地獄があり、円仁はここで地蔵尊を彫っている。俗に三大霊山、つまり、地獄の思想を体現している三大霊地といえば、この川原毛と恐山と立山とされる。越中の立山には最澄による姥尊彫像の伝承があり、川原毛と恐山には円仁伝承がみられる。
 駒形根神社を「駒形山大昼寺」と称し、そこに本地仏として「大日観音」をまつったのも円仁であった。円仁は唐・五台山竹林寺で浄土思想をすでに学んでいた。わたしは、駒形山=栗駒山に地獄・浄土の思想を持ち込み、この山の地神・水神を封じたのは、やはり円仁だったろうとおもう。
 吉田東伍『大日本地名辞書』は「封内記」(田辺希文・希元『封内風土記(安永風土記)』)の記載として、栗駒山=須川岳の関係記事を紹介している。

封内記云、西磐井郡須川岳、温泉在岳中、浄土在北領、土俗号五百羅漢。石高三尺乃至一丈五尺許、数百相並、胎内クグリ石、高二丈許、其中有穴、人皆クグリ之、八万地獄、沢中而四方大小湖池相連、剣山尖石並峙、死出山小峰也、白洲峠産硫黄、三途川、源出自須川大日沢、会磐井川、岩井渤化、磐井川之源也。

 栗駒山=須川岳は火山で、北嶺の剣岳には須川温泉という山上の温泉がある。三途の川はこの剣岳(剣山)尖石(死出山小峰)から流れくる湯川なのだろう。この川は、須川大日沢(大日嶽)から流れくる川(現在の磐井川本流)と合流し「磐井川之源」を構成している。三途の川の「鬼姫ノ滝」近くには「北奥の滝」と命名された滝もみられるが、三途の川で「鬼姫」(姥神だろう)と呼ばれた滝神こそが本来の駒形山=栗駒山の地神(酢川=須川温泉神)だったとおもう。なぜなら、駒形神=吾勝大神こと枉津日神=瀬織津比盗_は、神宮においては滝祭大神、つまり五十鈴川水源部の滝神でもあったからである。また、この神は伊豆・熱海においては伊豆権現=走湯[そうとう]権現と呼ばれ、岩窟内から湧き出し流れくる走湯[はしりゆ]の温泉神でもあった。この走湯は、江戸期までは熱海の海岸に落下してまさに滝をなしていたように、つまりは湯滝神でもあった。
 駒形山(栗駒山=須川岳)は大日嶽と駒ヶ嶽の二峰から成る総称山名だったが、駒形山の主座(ピーク)を大日嶽に譲ったまま、一方の駒ヶ嶽の所在は不明という不思議が今もある。この消えた駒ヶ嶽という謎の峰は、栗駒山の北嶺・剣岳の異称としてあったことが考えられる。


五 平泉白山神の古跡地

 栗駒山=須川岳を水源山として流れくるのが磐井川で、この川は北上川の有数の支流の一つである。『封内風土記』(一七七二)が平泉の項に「西磐井郡吾勝郷平泉邑」と記すように、磐井川流域の「平泉邑」を含む諸村もまた、駒形山祭祀にとっては荘園郷=吾勝郷を構成していた。
 栗駒山は栗原郡の駒形山で、その頭の文字をとって栗駒山と命名されたものだが、これは北奥(岩手)の駒形山(駒ヶ岳)と区別するための名であった。相原友直『平泉雑記』(一七七三)は、「栗原ノ駒形岳ハ西岩井五串ニ跨リ、平泉ノ西ニアタリ、平泉ヨリ奧道二十余里ヲ隔ツ、其山突亢トシテ青空ヲササヒ残雪皚々[カイカイ]トシテ五六月ニ至ルマテ消ルコトナシ」と、栗駒山を「栗原ノ駒形岳」としていて、「俗に此山須川嶽ト云」とも書いている。
 引用文中「五串」は「いつくし」と訓じるが、この「いつくし」と関わる宮が磐井川流域にある。『封内風土記』は「五串邑」の項の神社紹介で、「山王窟 伝に曰く、仁明帝の嘉祥三年、慈覚大師の勧請。土人これを称し、厳宮[いつくしのみや]大明神山王山と云ふ。あるいは厳美宮[いつくしのみや]と云ふ」と、「いつくし」を厳宮あるいは厳美宮の訓にあてている。山王窟の厳宮=厳美宮には厳神あるいは厳美神と呼ばれる謎の神が鎮座していて、慈覚大師=円仁は嘉祥三年(八五〇)、ここに「山王窟」、つまり比叡山守護神の山王神を勧請したらしい。嘉祥三年というのは、駒形山に駒形山大昼寺が円仁によって創建された年で、これらは一連の円仁の行為とみられる。
 駒形根神社社記「陸奥国栗原郡大日岳社記」は、この厳宮=厳美宮を美宮[イツクシノミヤ]として、次のように説明している。

美宮
 同州(奥州)西岩井荘五串邑厳美[イツクシ]山ニ在リ 祭ル所ノ神三座 三美女[ミツウツクシノ]神〔大日?尊ノ姫児[ヒメミコ]〕後ニ大日?尊ト合ハセ祭ル コレヲ美女宮[ウツクシヒメノミヤ] 或ヒハ曰ク美麗[ウツクシノ]大明神 今ニ山王権現ト云フ 山ヲ以テ神体ト為ス 故ニ宮殿無シ 中古已来美窟ヲ宮殿ト為ス 小宮猶存シ祭日別当有リ 蓋[ケダ]シ此ノ山ノ美[ウツクシノ]山 コノ美窟[ウツクシノイワヤ]清麗言[カタ]ルベカラズ 瀑流有リ 白糸綿々大空ヲ懸[カケ]ルガ如シ 巌石皆斐美有リ滑沢宜[ムベ]ナル哉 麗美[ウツクシ]山ノ名有リ

 歯の浮くような賛美がなされているが、風土記記すところの厳神あるいは厳美神と呼ばれる謎の神は「三美女神」であり、「大日?尊ノ姫児[ヒメミコ]」だという。記紀神話は、天安河における大日?尊=アマテラスとスサノウの「誓約[うけひ]」によって五男三女神の誕生を書いていて、これを下敷きとしての記述なのだろう。アマテラスの「姫児[ヒメミコ]」は、まさに「三美女神」、つまり、俗に宗像三女神を指す。
 社記はまた、三途の川の水源山の剣岳の神については、次のように記している。

剣嶽
 此ノ嶽 奥州西岩井荘五串邑ニ在リ〔古ヘノ吾勝郷美麗[ミイツクシノ]村〕祭ル所ノ神ハ素戔嗚尊ノ三剣也 伝ヘニ曰ク此ノ岳ヲ以テ神体ト為ス 故ニ宮殿無ク此ノ嶽也 険阻ニシテ群山ヨリ秀デ草木生ヘズ 巌石ノ光鋭ク恰モ白刃ヲ並ベ立テタルガ如シ 里人嶽上ヲ渉る[ワタ]ルヲ得ズ 故ニ名ヲ剣嶽ト号ス

 越中立山の地神が鎮座する立山別峰・剣岳を彷彿とさせる記述だが、栗駒山の剣岳においては、「祭ル所ノ神ハ素戔嗚尊ノ三剣也」とされる。アマテラスとスサノウの「誓約[うけひ]」神話によれば、この「三剣」によって誕生した神は宗像三女神であった。つまり、厳神=厳美神は、剣岳から三途の川へ、そして磐井川を流れて山王窟のある厳美[イツクシ]山=麗美[ウツクシ]山にもまつられていたことになる。この神は「言[カタ]ルベカラズ」の神でもあった。
 山王窟のある厳美山=麗美山は、現在、その山王窟にちなんだものだろう、山王山(五七二b)の表記で地図上に載っている。この山王山を水源山としているのが本寺川(磐井川小支流)で、社記は「瀑流有リ 白糸綿々大空ヲ懸[カケ]ルガ如シ 巌石皆斐美有リ滑沢宜[ムベ]ナル哉」と絶賛していた。川名の本寺川の「本寺」は、かつては「骨寺」といった。本寺川沿いには「骨寺村荘園遺跡」があるように、このあたりはかつての「骨寺村」であった。
『封内風土記』は五串村(現在の一関市厳美町)の「本寺」の項を、「伝曰く、慈覚大師の白骨の首を葬り、ゆえにその処を骨寺と称す。古昔、文字を骨寺と書く」としている。円仁の「白骨の首」を埋葬したゆえに「骨寺」だという伝承があるらしい。円仁の遺志による埋葬伝承については山形の山寺(立石寺)がつとに知られるが、五串村の埋葬伝承は「慈覚大師の白骨の首」としていて、こちらはどこかなまなましい。
 この骨寺村には、かつて「大日山中尊寺」があった。風土記は「今の中尊寺、この地よりこれを移す」と書いていて、現在の関山中尊寺の古跡が、ここ骨寺村だったという。また、同村には「平泉野」があり、こちらは「伝曰く、これすなわち古昔、平泉出る所の地なり。今の平泉の本元にて、この地より、今の地へと移る」といった古伝承が収録されている。
 円仁による中尊寺の開基は嘉祥三年(八五〇)のことというのが通説である。また、中尊寺の鎮守神・守護神は、北に白山神社、南に日吉神社(日吉山王社)が設けられていたが、これらの祭祀元地も骨寺村であったようだ。
 高平真藤編『平泉志』(明治十八年)は「骨寺」について、次のように記している。

今之を本寺と云へり。一説に当村蓮花谷に逆柴山[さかしばやま]と云ふありて、此処に慈覚大師の髑髏[どくろ]を埋めて建し塔あり。故に骨寺と号し、其寺跡及ひ尼寺の跡あり。又平泉野と云ふ所もありて、野中に冷水あり。旱魃[かんばつ]といへとも涸[か]るることなし。即ち平泉の本源なりと云へり。又山王窟あり。堂は窟に拠りて造れる様、達谷窟の毘沙門堂に準す。嘉祥年中、中尊寺に遷すと云へり。(適宜句読点を補った)

 中尊寺は、嘉祥三年に円仁が平泉の現在地へと遷したもので、それをもって「開基」年としている。また、その旧跡地から、円仁は、白山神社と山王窟=日吉山王社を、中尊寺と一緒に遷座させたようだ。
 ここで注視すべきことが、少なくとも三つあることに気づく。一つは、現在の関山中尊寺が、かつては「大日山中尊寺」と称してはじまっていたこと、もう一つは、山王窟(山王社)は円仁によって勧請されたものだったが、ここには、宗像三女神を仮称神とする駒形山剣岳の神がすでにまつられていたこと、最後は、「平泉の本元」「平泉の本源」とされる霊泉の湧き出す「平泉野」の地(骨寺村)には白山神社がすでにまつられていたらしいことである。ちなみに、比叡山延暦寺の鎮守・日吉山王社境内の客人宮・白山姫神社が同社に勧請されるのは平安末期のことで、宗像神をまつる宇佐宮が同社に勧請されるのは、時代がさらに下った慶長三年(一五九八)のことである。


六 平泉白山神と駒形神

 駒形山は大日嶽と駒ヶ嶽を総称した山名であった。骨寺村(五串村)には駒形山祭祀における荘園があったこと、および、かつての中尊寺の山号が「大日山」であったことからいえることがある。それは、かつての中尊寺は骨寺村の地、つまり西磐井郡五串村の地で、駒形山祭祀の北側の信仰圏域における神宮寺として建立されたのが最初の姿であっただろうということである。円仁が山の東南方にあたる栗原郡において「駒形山大昼寺」を創建したことと、西磐井郡五串村に建立された「大日山中尊寺」の山寺号は密接な関係があるようにみえる。社記は駒形山の大日嶽を「オホヒルダケ」と訓じていた。「日」を「ヒル」と訓じる慣例からいえば、中尊寺山号の大日山は「おほひるやま」である。つまり、円仁の発想からいうなら、大日?尊[オホヒルメノミコト]の鎮座する山こそが大日山である。いいかえれば、大日如来に混淆した皇祖神が「中尊」として鎮座する山が大日山(大日嶽)であり、この山名は駒形山よりも優位に立つ必要があった。その発想の延長上に中尊寺という寺名があるとみなくてはならない。
 山王山の南の磐井川沿いには「瑞山[みずやま]」という小字地名がある。駒形根神社社記は、この瑞山についても紹介のことばを費やしている。

瑞山〔或ヒハ瑞瓊[ミズニ]山ト云フ〕
 同村(奥州西岩井荘五串村)ニ在リ 祭ル所ノ神ハ大日?尊ノ瑞珠[ミズタマ]也 此レ亦山ヲ以テ神体ト為ス 故ニ宮殿無シ 山深ク谷ハ幽瀑流川ノ沢ノ美ハ珠玉玲瓏ノ如シ 実[マコト]ニ此レ瑞瓊[ミズニ]山也 山口ニ霊沼有リコレヲ号シ曰ク瑞沼ト 沼南ニ瓊綸積[ニホツミ]森有リ

 平泉野にしても、この瑞山=瑞瓊山にしても、現在、これらをどこに比定・限定するかはむずかしいところである。ただし、瑞山については、吉田東伍『大日本地名辞書』が「水山、一に瑞山に作る」として、「平泉名勝志云、水山の山王窟は、形勢達谷窟に相似たり」と貴重な引用をしていた。「平泉名勝志」の認識では、前述の山王窟のある山王山が瑞山=水山となるらしい。平泉野の「平泉」と呼ばれる霊泉が、もし瑞山=瑞瓊山の山口の霊沼=瑞沼のこととすれば、そこにまつられていた白山神は「大日?尊ノ瑞珠」でもあったことになる。こういった神名は、駒形山祭祀圏内、あるいは、駒形根神社社記内においてのみみえるものといってよく、その意味することは、大日?尊=天照大神の水徳を体現・突出化させた近似神・尊称神ということであろう。ここで大日?尊ではなく、ことさらに「大日?尊ノ瑞珠」と呼称することに、この社記の屈折した表出心理がみえかくれしている。神宮内域において、水徳を一身に体現している神は荒祭宮の神(天照大神荒魂)あるいは同神の滝祭大神とみてよい。また、荒魂は新魂ともみられ、その新たな生成の瑞々しいさまをいいかえたものが「瑞珠」なのかもしれない。
 社記は、剣岳および山王山の神は宗像三女神としていたが、この三女神をまつる社をもう一社記載している。姫宮という。

姫[ヒメノ]宮
 同荘(羽州駒形荘)山田村玉森ニ在リ 祭ル所ノ神三座大日尊ノ姫児[ヒメミコ] 後に大日尊ト合セ祭ル コレヲ姫大神ト謂フ 今ニ正八幡大明神ト云フ 小宮猶存シ祭日別当有リ

 文中「大日尊」は大日?尊のこととおもうが、この宗像三女神は八幡姫大神を表している。羽州駒形荘にある姫宮は「今ニ正八幡大明神ト云フ 小宮猶存シ」とあるように、この宮は八幡神社の名で湯沢市駒形町大門に現存している。
 社記は、円仁の前のこととして、この大門八幡神社とも関わる坂上田村麻呂伝承も記していた。

 往昔 田村将軍東賊ヲ討ツノ時 駒峯大明神ニ祈誓シ其ノ夜神策ヲ夢中ニ得テ 以テ悉ク凶徒ヲ滅シ 奥羽復平ス 将軍 報賽ヲ為シ 大イニ修造ヲ加ヘ以テ礼典ヲ尽シ 此ノ山麓ノ四至ニ当テ四大門ヲ建テ駒形大明神ノ五字ヲ自書シテ掲グ〔或ヒハ云フ小野篁亦云フ小野春風ト〕 古額伝ハラズ 鳥居ノ跡今尚山ノ四辺ニ在存ス

 坂上田村麻呂が戦勝祈願をした神として「駒峯大明神」はあった。田村麻呂は「奥羽復平」がかなえられると、駒形山山麓の四方に大門を四つ建立し、そこに「駒形大明神」の額を奉納したという。社記は、この「古額伝ハラズ」としていたが、大門八幡神社にはこの「古額」が伝わっていた。同社は祭神を阿弥陀八幡とするも、由緒の項に、「大同年中に坂上田村麻呂奥羽下向のおり、ここに白旗を建て自ら神像をつくり、白山妙理大権現を祀ったという。その時の自書による駒形大明神という大額が今も保存されている」と驚くべきことが書かれている(秋田県神社庁『秋田県神社名鑑』)。
 大門八幡神社の前身社は、田村麻呂が「白旗を建て自ら神像をつくり、白山妙理大権現を祀った」、しかも、奉納した大額には「駒形大明神」と自書されていたというのである。田村麻呂にとって、駒形大明神は白旗神とも白山妙理大権現ともみなされる神であったらしい。この由緒・伝承に、駒形根神社社記が記す八幡姫大神の祭神伝承を重ねると、駒形大明神は白旗神・白山神・八幡姫大神(宗像神)と、一見無縁にみえる神名が並ぶことになるが、これらに共通して秘められた神が一神いることに気づかざるをえない。
 田村麻呂奉納の大額について神社に確認したところ、いつのまにか所在不明となっているとのことだが、かつての大門八幡神社には、田村麻呂伝承を仮装するも、駒形大明神と白山神、そして八幡姫大神を同神とみなすという、日本の神まつりの深層に対する透徹した認識をもっていた人物がいたようである。
 田村麻呂や円仁から時代は下るが、嘉応二年(一一七〇)、藤原秀衡が鎮守府将軍に任命されたとき、彼が「奥州一の宮」に定めたのは、駒形根神社でも駒形神社でもなく、駒形大神=吾勝大神の子神をまつるとみなされていた荒雄川神社であった。秀衡が信奉した室根神社(室根山の旧名は鬼首[おにこうべ]山)もまた瀬織津姫を熊野本宮神としてまつっていた(のちに瀬織津姫の名は消える)。同社社伝は「嘉応年間(一一六九〜一一七〇)まで勅使の下向があったが、藤原秀衡が鎮守府将軍として平泉に御所を置いてから朝廷では前例を廃した」と記している。室根神社への勅使派遣が廃されたのは、秀衡が荒雄川神社を「奥州一の宮」に定めたことが理由だろう。これは、御所という奥州統治の要の場所を平泉に定めたことで、かつての中尊寺と縁深い大日山=駒形山を奥州の総鎮守の山としたということである。
 しかし、にもかかわらず、秀衡は駒形根神社や駒形神社ではなく、荒雄川神社を「奥州一の宮」に選定した。秀衡にとって、本来の駒形神をまつるのは荒雄川神社だったということなのだろう。藤原秀衡が、瀬織津姫神をまつりつづける荒雄川神社をあえて選んだ、この意識のありようは特記しておいてよい。
 おもえば、奥州藤原氏初代の藤原清衡、あるいはその父・経清が拠点とした豊田館(奥州市江刺区岩谷堂)のある江刺郡の総鎮守は、これも白山権現であった(『江刺郡志』大正十四年)。奥州藤原氏の白山信仰は累代のものとみることができる。さらに藤原氏を安倍氏にまでさかのぼるなら、それは早池峰山信仰へとつながっている。早池峰山が白山と同じ祭礼日(旧暦六月十八日)としていたことや、同じ本地仏(十一面観音)としていたことは偶然ではない。
 中尊寺境内に現存する白山神社(江戸期までは白山権現)については、「白山權現ハ中尊寺一山ノ鎮守也」、「神体ハ昔ヨリ秘シテ不許拜見之、本地仏十一面観音、慈覚大師ノ作、宮殿ノ外二安ス」とされる(『平泉雑記』)。この白山神社の社殿は南面しておらず、北北東方向を拝むように建立されている。この遙拝の先に聳えるのが、駒形大神=瀬織津姫をまつりつづける早池峰山であることも偶然ではあるまい。秀衡は奥州鎮守府将軍という最高位の立場もあっただろう、平泉からは遙か遠地といってよい加賀・越前・美濃・飛騨の国界に聳える白山にまで、本来の白山神守護の関与をしていくことになる。秀衡も大門八幡神社の謎の認識者と同じ慧眼をもっていたことが考えられるのである。

538・539 九戸政実と瀬織津姫 今野政明 2007/03/27 (火) [60756]

 前回私が投稿いたしました「伊達政宗と瀬織津姫」のなかで、「荒雄川神社」の表記において何箇所か「荒“尾”川神社」と誤変換(誤字)があったことをここにお詫び申しあげます。
 また、内容について、数人の方から感想を寄せていただいたのですが、『エミシの国の女神』を読まれていない方におかれましては、そもそも瀬織津姫がいかにタブーな存在であるかが分からないだけに理解しづらい部分が多かったようです。「千時千一夜」の読者の方であれば、少なくともその部分については理解されているという甘えで省略しすぎたのかも知れません。重ねて反省致します。
 また、今回は本文を常体にてすすめさせていただくことを予め申しあげます。


1. 忘れ去られた英雄

 岩手県二戸市に「九戸(くのへ)城」という城跡がある。馬渕(まべち)川と白鳥川、猫淵川が三方を流れ、それらの浸食で峻険な断崖に囲まれた平山城である。
 ここ数年、この城は地元の観光の目玉として注目度が高まっている。厳密に言えば「九戸政実(くのへまさざね)」という武将が注目を集めている。九戸政実とは、この城に籠城して豊臣秀吉軍と互角に戦った武将である。昨今の注目度の高まりは、平成13年に出版された高橋克彦氏の『天を衝く(講談社)』という小説に影響されてのことだろう。この小説は九戸政実を主人公にしており、クライマックスはまさにその「秀吉対政実」の籠城戦である。
 しかしこの小説が出るまで、政実は地元ですらあまり知られていなかったようだ。私の知人小林氏は、岩手県九戸郡の建設会社の嫡男である。その地の風俗は彼に聞くのが一番と信じ、それなりに参考にしている。数年前、小林氏に九戸政実について質問したことがあるが、なんと名前すら知らなかった。彼が特種だったのかも知れないが驚いた。別に私は小林氏を責めるつもりはない。かく言う私も紫藤正隆著『仙台領の戦国史(宝文堂)』を読むまでは、九戸政実という武将を知らなかった。同書でその英雄譚を知り、たまたま脳裏に焼きついていたのだ。その時以来、それだけの武将であれば地元ではかなりの英雄扱いであろうと勝手に思っていたのだ。それが名前すら浸透していないという現実に驚いたというわけである。
 よくよく考えてみればしょうがないのかもしれない。たしかに私の地元仙台においても、伊達氏以前に君臨していた「国分氏」や「留守氏」については、ほとんどの市民が知らないようである。九戸郡や二戸郡においても、政実以後は約20年も「南部信直」が本城にしている。九戸政実は南部信直の家臣扱いであり、滅びた一族の最後の将でもある。しかも天下人公認の領主「南部氏」に抗った人物である。もしかしたら、地元では英雄というよりも、むしろ隠蔽すべき存在であったのかもしれない。
 それでもそういった英雄はたいがいどこかで意地のように語り継がれているものである。事実「九戸城」という城の名前にはそれを感じる。この城は、政実一派が滅ぼされたあと、「三戸城」からこの地に移った南部信直によって「福岡城」と改名された。信直は「盛岡城」に移るまでの20数年間この「九戸城あらため福岡城」を南部の本城としている。ところが、昭和10年の国史跡指定の際、この城の名称には「福岡城」ではなく「九戸城」の名が採用されたのだ。これは地元の意思であり意地であろう。この感覚は「大阪城」天守閣復元の際、徳川期のものではなく秀吉のそれにこだわった大阪人の感情に似ている。「二戸市歴史民俗資料館」の関係者によると、地元メディアや有識者のアピールの成果で、最近は九戸政実の名はだいぶ浸透してきたという。やはりせめて岩手県民くらいはこの名将を誇りに思ってほしいと私は思う。


2. 秀吉国内最終戦の苦い思い出

 「九戸一揆」とも「九戸の乱」とも呼ばれた九戸城を最終舞台にした「大喧嘩」は、もともとは南部内の相続問題から発展したものだった。信直は南部主流派の地位を獲得していたわけだが、課題は残されていた。政実率いる「九戸党」は依然南部最強の一派であり、信直がいかに主流派とはいえ、とてもコントロールしきれる相手ではなかった。九戸政実は、一大名の家臣に納まるにはあまりに器が大きすぎた。おそらく伊達政宗に匹敵する奥州最強の武将だったと推測される。なにしろ、天下の秀吉軍が6万(一説に10万、『奥羽永慶軍記』では15万)の兵をもって、九戸城に籠るわずか5千の政実軍を倒せなかったのだ。この秀吉軍とて決して烏合の衆ではない。関白「豊臣秀次」を総大将に、「浅野長政」、そして「蒲生氏郷(がもううじさと)」が率いる秀吉軍屈指の精鋭だったのである。特に蒲生氏郷といえば伊達政宗のライバルとしても知られる名将である。その「伊達政宗」のことはもちろん、秘かに「徳川家康」の監視役をも兼ねる使命で「会津黒川城(若松城あるいは鶴ヶ城)」92万石の領地を賜った実力者である。皮肉にもその余りある実力は秀吉からも警戒されていたようだ。それ故に都から遠ざけられたともいう。また、若くして死んだため、秀吉から毒殺されたという説まで飛び交ったのだ。とにかく「蒲生氏郷」とはそれほどの名将なのである。それほどの実力者が主力でありながら、しかも6万の軍勢をもってしても政実軍5千の兵を倒せなかったのは事実である。
 結局、上方軍(秀吉軍)は九戸氏の菩提寺「長興寺」の住職「察伝(さってん)和尚」を利用した。住職に、和睦と“偽り”政実を説得させる作戦に出たのだ。政実も全滅など望んではいない。幼い我が子「亀千代丸」を安ずれば情も出よう。和睦であればそれにこしたことはないだろうし、その交渉の使者が信頼する菩提寺の住職とあっては受け入れる他はない。ところが、城外に出てきた政実を捉えた上方軍は、一転して約束を破り、城に火をかけ焼き討ち皆殺しにしてしまったのだ。そして政実他主力メンバーについては、栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)まで連行し斬首した。つまり騙まし討ちでようやく九戸政実を倒したのだ。
 ここで、上方軍が謀略を行使するに至る構図について考えてみたい。この謀略は秀吉の意思だったのだろうか。私は違うと考える。これは「現場」の首脳陣の意思ではなかったかと思う。圧倒的有利な立場の、しかも最強であるべき正規軍が、たかが田舎豪族を潰せなかったのである。和睦など出来るわけがないではないか。こんなことを秀吉にそのまま報告できるわけがない。サラリーマンの方ならこのときの現場の迷いを理解できるのではなかろうか。昨今のニュースにもよく見られる「問題発生の隠蔽」に本質が似ていると思うのは私だけであろうか。もはや武士の精神もなにもあったものではない(もっとも武士道的な思想は平和な江戸時代以降だからこそ熟成されたものらしいが)。現実には、この時点では例えば九州の島津なども秀吉に完全に屈服していたわけではない。北でこのような醜態があったことは決して世間に広まってはいけなかったはずである。こういうほころびから全国に反乱ののろしがあがる可能性もあったことだろう。悲しいかな、いずれにしても政実以下九戸一族はせん滅されなければならなかったのかもしれない。九戸政実が忘れ去られた背景はそんなところにあったのだと思う。
 山川出版社の県史シリーズ『岩手県の歴史』に、

──引用──
 この九戸政実について、『奥羽永慶軍記』は「東夷の愚鈍」ときめつけているが、それはあまりにも酷であろう。

という記述があった。もしやこの『奥羽永慶軍記』が政実を無名にしてしまった根源かと思い、私はその内容に目を通して見ることにした。幸い「無明舎出版」から今村義孝氏の校注による同文献翻刻の復刻版が販売されていたので、それに甘えることが出来た。
 現在の秋田県雄勝生まれの著者「戸部一?(かん)斎正直」が元禄11年(1698年)に稿了したという『奥羽永慶軍記』は、天文から元和年間に至る奥羽の群雄争乱を生き生きと、客観的かつあたたかく描いている。東北を舞台にした軍記として極めて貴重で、多くの識者に引用されている。元禄11年であれば、九戸政実が没しておよそ百年後であり、語り継がれた伝承というよりは、おそらくまだ新しい記憶として残っていたのではなかろうか。既に徳川幕府の世でもあり、南部には気兼ねしても、秀吉には気兼ねなく書ける時代だったと思われる。よくよく見ればこの「一?斎正直」という名前は「馬鹿正直」とも読めてユニークだ。とにかく珍しく「九戸政実」についての記述が多い貴重な文献史料である。
 『岩手県の歴史』にある「東夷の愚鈍」とはおそらく、ひとつには『奥羽永慶軍記』の以下の部分への対応だろう。

──引用──
 元来東夷の愚かさは、謀とは夢にもしらず、〜以下省略〜

 どうも私の感想としては、『岩手県の歴史』の読後に感じたニュアンスとは微妙に違った。
 政実より800年も昔には、この地はまさに蝦夷の国であった。蝦夷の首長「アテルイ」が、征夷大将軍「坂上田村麻呂」と互角に戦った末、最後は和睦して投降した歴史がある。しかしアテルイは田村麻呂の助命嘆願も空しく、京にて桓武天皇に殺されてしまうのである。
 つまり、軍記が政実を「愚」と評する指摘とは、秀吉という「時代の趨勢(すうせい)」に抗ったことよりも、アテルイの事例があるにも関わらず、謀議にはまって投降してしまったことに対しての「嘆息」のように読める。私には情愛に満ちた苦言と感じるのだ。
 ただ、もうひとつの「愚」の理由と思われるのは政実の妻子が打ち首となる次の一説である。こちらは手厳しく、かつ情感的に描写しており、思わず涙腺もゆるむ。

──引用──
 政実が女房いひけるは、「暫しの間待候へ。心静かに念仏し討れ候べし。」といふ。外地、「静に念仏申し給へ。夫(それ)のみならず、何なりとも仰置れたき事も有らば承り候はん。」とぞ申ける。女房、亀千代に向て、「此謀反の事、日頃みづからさしも申つるを、父上つゆ聞入れ給はず、よしなき事を思ひ立て、咎(とが)なき我々まで斯(かか)る憂目を見る事こそ悲しけれ。よしゝ、是とても前世の事とおもへば誰に怨もなし。只(ただ)嗜むべきは最後なり。相かまへて未練に恥じ見え候(せか)な。西に向て念仏されよ。父母共に浄土へ行き、一所に居候らはん。今此世界よりは、めでたき所なるぞ。」とて西に向かひ、念仏申しければ、亀千代もわるびれたるけしき(気色)もなく、おとなしやかにいひけるは、「弓馬の家に生れ、敵に討れ死ぬるは定たる事に候へば、今更歎(なげく)べきに候はず。」と西に向て手を合せ、いたいけなる姿にて念仏申ければ、傍若無人の者迄も涙を流しけり。外地も哀れには思ひけれども、時刻移りてはあしかりなんと、既に太刀を抜き、後に廻れば、母いひけるは、「身づからより討るゝは順にて候へども、稚きもの、母が討るゝを見て後るゝ事もや候はん。先、其子を切て給はれ。」と云ふ。外地「心得候。」と亀千代丸が首、水も溜らず打落す。母是を見て、「今は此世に思ひ残す事はなし。」とて守刀を抜き、みづから喉を刺通しけり。

 本稿の展開に大変重要なポイントが含まれているので現代風に意訳しておきたい。

──意訳──
 政実の妻は敵武者に「心を落ち着かせたいので念仏の時間をください。」と願った。武者は「よかろう。他に何か言い残すことがあればどうぞ申しあげよ。」と言った。妻は共に処刑される幼き我が子「亀千代丸」に向かって「父には、常々謀反など起さないよう忠告していたのに、少しも言う事を聞いてくれませんでした。とんでもないことをしでかし、悲しいことに、結局、罪のない私達までこんな目にあうはめになりました。まあ、これも前世からの宿命と思えば誰にも怨みなんかありません。最後だから未練が残らないように西を向いて念仏を唱えなさい。父も母も一緒に浄土(死後の世界、極楽)に行きますよ。この世よりずっと幸せなところですよ。」そう言うと西に向かって念仏を唱え始めた。幼い亀千代丸も特にわるびれもせず、「武士として生まれれば敵に討たれて死ぬことは当然です。今更歎くものでもありません。」と西に向かって手を合わせ、念仏を唱えた。そのいたいけな姿に恐れを知らぬ敵武者たちまでが涙を流さずにはいられなかった。武者も同じ思いであったがあまり時間もかけられないので、刀を振り上げ後ろに廻った。その時、母は言った。「本来私から首を落とされるべきものでしょうが、母親が殺されるところを見るこの子が不憫です。先にこの子から切り捨ててください。」武者は「わかりました。」と言って、亀千代丸の首を一瞬に切り捨てた。これを確認した母は「もはやこの世に思い残すことはありません。」と守刀を抜いて自らの喉を刺し自害した。

 なるほど、これでは政実を愚か者にもしたくなるだろう。なんとも切ないくだりである。おそらくこのくだり故に政実は愚将扱いになったのだろう。
 さて、ここで母子共に念仏を唱え死後の世界に浄土を見ている信仰心は注目しておきたい。これは「九戸の乱」を考える上で重要な骨格と考える。


3. 幻の伊達・九戸連合軍

 豊臣秀吉は、何故一領国の内乱の、たかだか「家臣クラス」の鎮圧に6万とも10万とも言われる不自然な大軍勢を向かわせたのか。まるで前年の「小田原北条攻め」に匹敵する戦を思わせる。九戸政実が北条に匹敵する相手という判断だったのだろうか。私は、それはないと考える。結果論として、政実は大軍をものともせぬ奮闘を見せたが、当初の想定とは違ったと思う。私は、これは表向き九戸政実に向けられているが、実は伊達政宗を意識しての行軍ではなかったかと考えている。いや厳密に言えば伊達政宗筆頭の仮想「奥州連合軍」に対しての行軍だったと思うのである。
 推測にしかならないが、私は伊達政宗と九戸政実には密約があったと考えている。少なくとも「葛西氏」と「大崎氏」の一揆に対する政宗の扇動の有無について言うならば、限りなく「黒」に近い。
 そもそも、「葛西・大崎」両氏は何故「小田原北条攻め」に参陣しなかったのか。これは伊達が参陣をためらっていたからとも言われている。名門「芦名氏」を滅ぼした伊達はこのとき100万石をゆうに超える領土を手に入れ最盛期を迎えていた。その実質勢力は200万石クラスであったという説さえある。紛れもなく奥州最大の勢力であり、藤原氏の再現を予感させていたであろう。近隣大名が、伊達の動向を見極めて動こうと考えるのはごく自然な判断である。遠い秀吉よりも身近な伊達の恐怖が上回ったということだ。
 ところが土壇場になって急遽伊達は小田原に向かった。葛西・大崎両氏は泡をくった。もう遅い。取り残されてしまったのである。
 政宗は計算高い。秀吉は最大野党「徳川」を配下に加え、今まさに関東の雄「北条」をも落とさんとしている。これと戦うには自分が中途半端であることに気づいたのだろう。この時期、奥州武士で秀吉の恐ろしさを一番わかっていたのは政宗であったと思う。
 しかし決して野心が消えていたわけではなかった。まだ小田原の熱がさめやらぬ時期に政宗は一揆を扇動していたと思われる。いかにまだ20代半ばと若く血気盛んだったとはいえ、半端な反抗心だけとは思えない。政宗は大どんでん返しを狙っていたのではなかろうか。
 もちろん伊達単独では勝負にならないことも計算できていただろう。最低でもあるていど奥州が一枚岩になることを目論んでいたとしても不思議ではない。幸か不幸か、奥州仕置による新領主達は日常的に乱暴狼藉を働いていたので葛西や大崎の領民の不満は高まっていた。彼らからすれば、政宗がいかにこれらの地で忌み嫌われていようとも、狼藉を働く京儀の新領主よりはマシに思えたに違いない。「敵の敵は味方」という深層の感情が生まれつつあったことだろう。政宗はその点をぬかりなく見抜いていたはずである。それらのくすぶる爆発力は利用できそうだ。
 こうなれば、当然ながら北のカリスマ「九戸政実」を利用しない手はない。政宗にとって背後の南部は気がかりだったはずである。しかしその南部を政実が落としてくれれば一気に一大連合軍が完成する。そんなことを考えていたのではなかろうか。
 「二戸市立図書館」の書棚をあさっていると、永井正義著『九戸乃乱』を見つけ、その中に興味深い記述があったので以下に引用しておく。

──引用──
 〜略〜 大崎の残党と自称する富山師安(とやまもろやす)と言う者がいた。実はこの者は伊達政宗の家臣で、政實を扇動するよう密命をもっていたのである。

 永井氏の情報元がわからないので精査不十分だが、政宗の性格を考えると、私はこのことは十分あり得た、いやあったとしか思えないのである。政実にしても、なんらか伊達との密約があればこそ反乱に踏み切れた可能性はある。しかし、相手は天下の秀吉である。秀吉にすれば十分予測可能なことだろう。とはいえ秀吉にとってこんな危険なことはない。もちろんこの段階で全盛期の秀吉は、いかに伊達政宗と九戸政実が連合しようとも負けるものではない。
 しかし、天下の地盤は決して磐石ではなく、下手に苦戦などをしようものなら、九州のような油断ならない地域でも火の手があがりかねない。そんなことになれば虎視眈々と機会をうかがう徳川家康までがどう出るかわからないだろう。一歩間違うとまた戦乱の世の中になってしまうのだ。秀吉はそれを防ぐためにも政宗を威嚇する必要があった。
 そんな中、伊達の家臣「須田伯耆(すだほうき)」が裏切った。一揆勢を扇動する政宗の密書を携え蒲生氏郷に密告した。その密書を見てライバル蒲生氏郷は青ざめた。もともと信用はしていなかったが、予感が警報と化した瞬間である。共に奥州を鎮圧する役割を担わされていたはずの政宗が、背後から自分に襲いかかる。最も危険な軍勢が不意打ちしてくる可能性が見えてきたのである。氏郷は自分が四面楚歌にあることを認識した。
 氏郷は当然このことを秀吉に告訴した。秀吉は政宗を京に呼びつけ詰問した。ところが政宗は、これを捏造された偽書だとして居直ったのだ。政宗の花押(サイン)は鳥の鶺鴒(せきれい)のような形をしているのだが、政宗はこんなこともあろうかと、その眼にあたる部分には必ず穴を開けて捏造対策をほどこしているのだという。秀吉はその密書をこれまでの政宗の書状と比べてみた。その上で政宗を「無罪」としたのだが、真偽はいかに。
 ここが政宗の抜け目ないところだが、どうやら政宗は秀吉に出した書には全て穴を開け、一揆勢に出していたものと区別していたと考えられる。仮に、実はそのような対策を講じていなかったとしても、それはそれで黙認した秀吉の絶妙な戦略がにじみ出て興味深い。
 いずれにしても秀吉は弁明する政宗の猿芝居を信用し、氏郷を諌めた。おそらく秀吉は政宗など信用していなかっただろう。ただ、ここで政宗を追い詰めることには危険を感じていたと思われる。下手に追い詰めると「窮鼠猫を噛む」で、ひょっとしたらなし崩しに「奥州連合軍」が成立してしまうかもしれない。ここは一旦政宗を信用し、政宗が表面上ゴマをするだろうことを計算し、最大限利用しようと考えたのだろう。
 秀吉はますます一揆鎮圧を圧勝で終わらせる必要性を感じたことだろう。それをもって政宗に対して決して勝てないことを悟らせる必要があった。それがこの過剰ともいえる軍勢の理由だったのではなかろうか。
 さて、政宗は10万を超える大軍勢の計画を知って、秀吉の予想外の全力投球に面食らったと思われる。結局秀吉の思惑どおりすんなり引き下がった。それどころか、鎮圧する側にまわらざるを得なかった。秀吉はあえて政宗と疑惑の関係にある葛西・大崎の鎮圧を任せたのだ。つまり踏み絵である。葛西・大崎こそ「いい面の皮」である。
 政宗は疑念を晴らすためには過剰な攻撃を必要とした。その奥州最強の圧倒的軍事力を持って、ついに両氏にとどめを打ってしまった。また、証拠隠滅のためにも老若男女問わずなで斬りにしてしまった。なんという悲惨な話だろう。これで幻の奥州連合軍は事実上解体したのではなかろうか。
 さて、政実はどんな心境であったか。幾多の戦国大名を飲み込んだ秀吉軍の精鋭、しかも史上稀に見る大軍勢が津波のように自領めがけて押し寄せてくるのだ。頼みの伊達の援軍は見込めず、しかも葛西・大崎は滅びてしまった。もはや九戸政実に勝算はない。しかしそれでも政実は戦う道を選んだのである。
 それにしても、これだけの軍勢が動いた合戦にも関わらず、歴史の教科書上あっけない一揆として扱われているのはいかがなものか。


4. 加賀国一向宗徒の下地

 政実の元には先に滅ぼされた葛西・大崎の腕利きの浪人達が集まった。帰る場所がなかったとも言えるが、政実がなにかひきつけるものがあったからだろう。少なくとも政実は葛西・大崎らの惨劇を目の当たりにして、既に秀吉に勝てないことを知っていたはずである。それでも戦ったのだ。この反乱の不屈の「魂」を支えたものは一体何であったのだろうか。本当に単純に政実が愚かだったのだろうか。
 人間が「死をも恐れない動き」が出来るのはどういう時か。その心理を損得感情で分析するのは少々抵抗があるが、あえて言うならば「自らの死よりも大切なものがある場合」であろう。それは家族等の愛すべき存在を守ろうとする場合とほぼ定義づけ出来ると思うが、軍記から想像するに、政実はその愛すべき存在が滅亡してでも抗ったことになる。つまり他に動機があったと考えられる。例えば現代でもイスラム圏を中心に死をも恐れないテロ戦争が繰り広げられている。その勇気の源は、今の日本人には理解し難い神への信心であることは言うまでもない。信者にとって、自らが信じる神は国家や法律より上位にあるのだ。
 戦国時代を事実上終息させた「織田信長」が最も手を焼いた敵は誰か。実は武田や上杉といった戦国武将ではなく、「本願寺」だったともいう。僧兵はもちろん、いわゆる「一向一揆」という市民ゲリラは相当に手ごわかった。敬虔な信者は自ら信じる神仏が弾圧されると感じたとき(信長が宗教そのものを弾圧したとは思っていないが)、まさに神がかりともいえる強さを発揮する。なにしろ死をも恐れぬ過激な行動をいとわなくなるのだ。私は九戸(領民も含めて)の不屈の魂を支えていたものは、それと同様な信仰心に基づいた精神構造だったと考えている。そこで注目すべきは前述『奥羽永慶軍記』のくだりである。政実の妻子は、死に際して「念仏」を唱えたという。そして「浄土」という言葉を使っている。ここには一向宗的な一面を強烈に感じざるを得ない。もちろん、軍記自体の全編にわたるドラマチックな展開から考えて、編者の付会であったかも知れない。しかし、私はやはりこのような展開はあったものと思っている。
 一向一揆が最も激しかったのは「加賀国(現在の石川県を中心とした地域)」であろう。室町後期の長享2(1488)年、この地では守護「冨樫正親」が一揆勢力に敗北し、その支配権を制されてしまうという驚くべき事態が起きている。その後一向宗信者勢力の支配は、天正8(1580)年、織田信長に滅ぼされるまでの実に約100年間も続いていた。この時代、全国的にその傾向があったとは言え、「加賀国」のそれは尋常ではない。一体何故であろうか。一つには浄土真宗“中興の祖”「蓮如(れんにょ)」自らが布教したことも大きかっただろう。しかし私は加賀国が持つそもそもの「土壌」に注目している。それは以下の記述に集約される。『加賀一向一揆』というホームページから引用する。

──引用──
1 白山と阿弥陀如来
白山は山容からいうと、白山は御前峰、大汝峰、剣ヶ峰の3峰からなり、これら主峰の南に、別山という山があります。しかし信仰の対象としての白山は、御前峰、大汝峰、別山の3峰が神格化され、御前峰を主峰として白山妙理大菩薩・菊理媛命(きくりひめのみこと)とし、本地は十一面観音、大汝峰は大己貴命(おおなむちのみこと)で本地は阿弥陀如来、また別山は別山大行事・本地は聖観音とされています。これら3神が天台系の白山三所権現として崇められてきたわけですが、しかし中世においては本地垂迹説の流行により、垂迹の神々よりも本地の仏のほうが重要視され、白山本宮といえども神事より仏事が多く行われていました。
したがって加賀越前では、浄土教の流行も含めて阿弥陀如来への親近感が、他国よりも少なからずあったと考えられています。

 念のため文中の「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」の説明をしておこう。これは日本人独特の宗教観を代表しているといえる。奈良時代あたりからみられる「神仏混淆(しんぶつこんこう)」あるいは「神仏習合」思想の延長で、平安以降「日本の神は、その正体(本地)である仏や菩薩が、民衆を救うために仮の姿(垂迹)で現れたものである。」すなわち「日本の神は実は仏である。」という考え方が定着した。「本地=仏」「垂迹=神」ということである。逆に「日本の神を外国の偶像(仏)と同じに考えるとは言語道断」として分離させたのが、明治の神仏分離「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」である。
 さて、どうやら加賀ではそもそもの白山信仰が根強かったようである。その白山の「本地」が「十一面観音」や「阿弥陀如来」、つまり浄土思想の仏であったわけである。
 もしかしたら、「加賀国一向一揆」の底力の根源は、この地における一向宗(浄土真宗)の深層に脈々と息づく「白山信仰」にあったのかもしれない。
 そもそも「白山信仰」とはなにか。これは一言で言い表すにはあまりに深すぎるのだが、私なりに感じるものをきわめてシンプルに述べさせてもらう。信仰者に言わせれば「それは全然違う」ということになるかもしれない。だからあくまで「私なりに感じるもの」という前提を付け加えておく。そうでもしなければ、私なりに感じる「浄土信仰」との整合性をご理解いただけないと思うからだ。
 白山信仰とは、暗闇から一気に開けるまぶしいまでの「白」に感じる「神聖なもの」に対する信仰であると思う。それは暗闇という「黒」があってこそ引き立つ。「黒」は現実社会でいうところの様々な業苦でもあり、それから開放される瞬間の「白」はまぶしいほどに神聖なのである。だからこそ修験のような苦行を体験してこそ近づける境地であるのかも知れない。苦行の後に目の前にせまる「白山」は、その象徴としてこれ以上ないほどの神々しさがあったことだろう。ひょっとしたらそれは生きることから開放された状態、つまり「死」を示しているのかもしれない。
 一向宗、つまり浄土真宗は、阿弥陀如来を信じ、想念すること、具体的には「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱え続けることで死後「浄土」に導いてもらえるのだと考える。もちろんこれもまた信者にすれば「そんな単純なものではない」と言われるかもしれないので、浄土信仰に対する私なりのイメージということにさせてもらう。
 この両者に共通することは、必ずしも現世に未練がましい思いがないということではなかろうか。黒の後にある白こそが神聖であるということと、現世よりも死後に浄土が開けるという発想はどこか通じるものがあると思うのだ。このことが白山信仰という下地の上に一向宗が広まりやすかった理由だと私は考える。つまり一向一揆を決行した信者の心理としては、「死んだとしても阿弥陀様が浄土に導いてくれる」と信じているわけだから、今日の私達には理解できない「死をも恐れぬ攻撃」が可能になってくる。これは鎮圧する武士側はかなりの恐怖を感じたことだろう。なにしろ通常なら効果があるはずの「威嚇」が全く通用しないのだ。妥協点が見つからない。相手を全滅させる以外自分が生きる道はない。
 ここに、政実の妻子最後の姿を重ね合わせると、九戸政実一派の決して屈しない強さの正体が見えてくるのである。白山信仰の土壌があればこそ、一向信徒はより純粋で死をもおそれぬ魂をもつようである。では、政実には白山信仰の下地があったのであろうか。


5. 九戸氏の信仰心

 九戸政実の信仰を掘り下げて考えてみたい。
まずは菩提寺である長興寺をみてみよう。岩手県九戸郡九戸村長興寺に今も残っており、地名にもなっている。前述のとおり九戸氏の菩提寺であり、偽りの和睦を勧めるはめになった「察伝(さってん)和尚」の寺である。つまり政実が最も信頼していた寺である。この寺の境内案内を見てみる。

──引用──
 鳳朝山長興寺
 曹洞宗、聖観世音を本尊としている。永正元年(1504)、金沢の宗徳寺大陰恵善和尚が奥州巡教の途中に、この地を治める九戸氏の求めに応じ創建開山したと伝えられ、一帯の文化の中心となった。九戸氏代々の菩提寺として雄大な堂塔伽藍があったが、元禄6年(1693)の山火事で焼失し、その後159年を経た嘉永5年(1852)に再建されている。
 本尊の聖観世音は鎌倉中期の作といわれ、文化財として注目されている。また、村指定有形文化財の不動明王が二体あり、境内の公孫樹は、村指定天然記念物となっている。

 曹洞宗ということで、浄土真宗(一向宗)ではないようだが、聖観世音菩薩が本尊であることと、不動明王が二体あることは注目しておきたい。前者は天台系の白山三所権現の一であり、後者は瀬織津姫をにおわせる。また、創建開山の宗徳寺大陰恵善和尚が、金沢(加賀)から来ていたことも注目に値する。
 そしてもうひとつ、同じ九戸村長興寺にある「九戸神社」も見てみよう。九戸村のホームページによれば、この神社は承和9(842)年建立で、九戸村総鎮守であり、九戸氏代々の祈願所といわれている。『二戸郡誌』の記載を引用する。

──引用──
九戸神社
所在地 九戸村長興寺字桜沢  祭祀 天御中主大神 神体 木造(鎧小手当臑当を着用し、右手に剣、左手は宝玉を持った立像、壬生円仁の作という) 
〜中略〜
 社は古来、北辰妙見と称したが、明治4年九戸神社と改称、同年3月郷社に列せられた。
 勧請創建は承和9年(842)6月とも言われるが、天正3年(1575)3月寺沢焼と言われる山火事が延焼して、境内の樹木、社殿、社家、宝庫等類焼、(わずかにご神体だけは御手洗池に沈めて難を免れた)古文書、古器物等を焼失したため、勧請年代の確証は得られない。
〜以下省略〜 

 まず、主祭神として「天御中主(あめのみなかぬし)大神」が祀られているが、明治4年以前は「北辰妙見社」であったことがわかる。北辰とは北極星や北斗七星のことであり、特に「妙見菩薩」は「天御中主大神」の本地といってもよく、明治に定められた祭神名はそれに由来しているのだろう。
 さて、北斗七星はともかく、北極星については全天の星がそれを中心にまわることからか、「帝位」や「天子」に例えられる。
 実はこの「天御中主」は私の中では特に重視すべき「祭神表記」のひとつなのである。というのも、明治以降に定められた祭神表記であることが多く、合わせて、それ以前の実態が不透明な神社に多い。
 しかし真の祭神あぶり出しは、宮城県の松島にある「紫神社」と福島県飯坂温泉の「村崎神社(現八幡神社境内社)」の傍証を重ね合わせることにより仕上がる。
 まず松島の紫神社は、境内石碑から、もともとは「村崎神社」と称していたようである。現在の表記に変わったのは、源義経が立ち寄った際、境内の藤が紫なのを見て「紫」にあらためたからだという。そして同社の祭神は「天御中主(あめのみなかぬし)」である。
 一方、風琳堂主人によれば、福島県飯坂温泉の最古社である「村崎神社(現八幡神社境内社)」の祭神は「瀬織津姫」であるという。
 ここに天御中主の名に隠された正体が、瀬織津姫であったことが浮かび上がる。
 ところで、私は「ムラサキ神社」の原初の漢字は、色の「紫」であったと考えている。松島のそれは義経が名づけたものらしいが、仮にその当時「村崎」だったとしても、それ自体それ以前のいずれかの時代に変えられた当て字ではなかろうか。
 その理由を述べる。私は『広辞苑 第四版 (岩波書店)』で「紫」のつく言葉を洗い直してみた。その中で気になったものを挙げてみる。
【紫の雲】A皇后の異称【紫の星】紫微星(しびせい)に同じ。伊勢集「日の光重ねて照れば一も二つに色やなるやむ」【紫の宮】中宮・皇后の異称。
いかがだろうか。どうやら「紫」には「皇后」の代名詞的要素が色濃いようだ。瀬織津姫はどのような女神であったか。瀬織津姫には隠蔽された男神アマテルの后神という要素がある。しかも「紫色」は、赤と青という代表的な二色が交わって出来る色であることは誰でも知っている。つまり一対神を抽象化するにはもってこいの言葉ではなかろうか。それに比べ「村崎」の文字からは瀬織津姫を想像しにくい。いや、あえて想像しにくいように変えられたのだと私は考える。
 話は戻って、松島「紫」と飯坂「村崎」の傍証から「天御中主」は瀬織津姫の変わり果てた姿だと考えられるわけだ。そうなると、同様に「天御中主」を祭神とする「九戸神社」にも、本来は「瀬織津姫」を祀っていた可能性が浮かびあがってくるのである。
 もう少し傍証を続けよう。『二戸郡誌』には、その九戸神社の「ご神体」の説明として「木造(鎧小手当臑当を着用し、右手に剣、左手は宝玉を持った立像、壬生円仁の作という)」とある。風琳堂主人の『円空と瀬織津姫―北辺の神との対話』のなかで、瀬織津姫を祭神とする「滝明神」について『江差町史 第三巻』からの引用があった。風琳堂主人によれば、この「滝明神」は明治八年の『神社明細書』においては明神号を廃して「滝廼神社」と改称されているのだというが、ここでの瀬織津姫の神体像は「右手に剣、左手に玉をもって岩上に立つ、像高四十センチほどの白衣の女体姿」だったという。
 念のため「瀬織津姫」について、風琳堂のホームページ『東北伝説』の中から、菊地展明著『エミシの国の女神(風琳堂)』に対する、「季刊『銀花』2001年春号」の書評に説明してもらおう。

──引用──
本誌第117号で紹介した遠野の風琳堂から、二年ぶりに単行本が出た。柳田國男の『遠野物語』第二話に登場する女神は、名を瀬織津姫といって、遠野の霊峰、早池峰山の母神として信仰されている。瀬織津姫は全国各地に祀られているが、遠野郷や早池峰郷には特に多いのだという。この女神は水をつかさどる神であったが、『古事記』『日本書紀』では名前が消え、なぜか悪神としても伝えられる。その理由を探っていくと、その昔、女帝持統の時代に、伊勢神宮の新しい神、アマテラスを皇祖神として新国家統一のシンボルに据えようと画策した、権力者たちの強い意志が見えてくる。神自身に悪の要因があるのでなく、どうやらヤマト権力の中枢にいる者の作為が働いたらしい。古代の文献や全国各地の伝承を読み解きながら、天皇制の闇の側面に鋭く斬りこんだ、これは風琳堂渾身の一冊である。

 これだけで説明し尽くし得るものではないのだが、重要なポイントが凝縮されていると思われるので参考にしていただきたい。もうひとつ付け加えるならば、その「女神アマテラス」のモデルが瀬織津姫であった可能性が高く、それゆえにその存在自体が隠蔽されなければならなかったと思われる。「瀬織津姫」の祭祀はトップシークレットの「祭祀」であると考えられるのである。
 これまでの傍証から、九戸氏はその問題の瀬織津姫を信仰していた可能性が見えてくる。
 全盛期の九戸氏がどれだけの範囲に勢力を広げていたかは明言できないが、少なくとも、「旧九戸郡」の範囲は間違いなく掌握していたことだろう。そして九戸城を含む「旧二戸郡」全域でみてもその精神性においては共通であったと思われる。実はこの「旧二戸郡」には、さらに決定打に近い傍証が存在する。それは「安代」(現八幡平市)にある「桜松神社」である。『二戸郡誌』の祭祀表記にも迷いはなく、そのものズバリ「瀬織津姫」を祭神にしてはばからない。驚いたのは、郡誌によれば、もとは「滝不動(桜松滝不動)」と称していたものが、明治維新の神仏混淆禁止令のときに「瀬織津姫」を祀り、「桜松神社」に改称したのだという。他の多くの神社では、むしろその時期をきっかけに「瀬織津姫」を隠蔽していった。それを考えたとき、この勇気は絶賛に値する。
 もちろん「桜松神社」は明治にはじめて「瀬織津姫」を祀ったのではなく、「滝不動」のはるか以前から、それこそ悠久の時を越えて復活しただけだろう。現地に足を運んだ私は、そのあまりの「堂々さ」に驚いた。神社は人里はなれた山奥に鎮座するのだが、地図を確認しながら現地への道を探していると、市街から神社に向かう道には巨大な鳥居がまたがっていた。まだ市街ともいえるこの地において、巨大な鳥居が堂々と威容を誇っている姿には驚きを隠せなかった。私は、瀬織津姫の祭祀を続けている神社であれば、もっとひっそりと鎮座しているものと思っていたのだ。それがどうだろう。私にはまるで「祀って悪いか」と誇示しているようにさえ思えた。もはやこの地の本来の信仰が何かを疑う余地はなかろう。冬場に訪れたこともあり、境内はかなり雪深かった。場所によって2メートルの積雪はあろうか。しかし、平日にも関わらず、社殿や参道はもちろん、駐車場やトイレへのアプローチなどが丁寧に除雪してあった。私は参道の両側の小型除雪車に切り取られた直線的な雪の壁に感心しながら社殿まで向かった。この行き届いた管理を見て、私はより確信を深めた。九戸政実が信奉していた神は間違いなく「瀬織津姫」であっただろう。
 さて、ここで政実の妻子が死に際して念仏を唱えていたことを振り返ってみる。この事実から推測できるのは、この妻子の浄土信仰だ。それは九戸一揆にみるその圧倒的結束力と加賀国一向一揆のそれとの共通性からも十分考えられる。
 ただし今ひとつしっくりこないのは菩提寺の長興寺が曹洞宗であることだ。
 曹洞宗について、またしても「私なりのイメージ」で解説しておく。曹洞宗は座禅などを組み、基本的に自ら悟りを開く、いわゆる出家を重んじる宗派であると思われる。浄土信仰のように阿弥陀様にお願いして浄土に導いてもらうものとは根本的に異なる。普通に考えたら、同じ仏教にも関わらず180度違う思想同士である。
 なのに、九戸家を見ると菩提寺が曹洞宗にも関わらず、阿弥陀様に念仏を唱えているという実に不思議な現象が起きているのだ。
 ところが、これはあるフィルターを通すと一致してしまうのだ。前述のように浄土信仰については、少なくとも加賀・越前におけるそれは「白山信仰」の下地の上にある。これは疑う余地がなかろう。
 実は曹洞宗についても同じことが言えるようなのだ。曹洞宗の大本山は永平寺(あるいは総持寺なのだが、何故二つあるかについての解説は他に譲ることにする)であるが、やはり白山信仰の本場「越前」の寺である。そして、永平寺の鎮守神が「白山権現」であることは見逃せない。
 時代はだいぶ遡るが、奥州平泉の「藤原秀衡(ふじわらひでひら)」も白山信仰の信奉者であった。藤原氏の信仰の聖地、「平泉中尊寺」に白山神社が勧請されていることからもそれは推測できる。それどころか、この「平泉(ひらいずみ)」という名は、現在の福井県勝山市すなわち「越前」にあった「平泉寺(へいせんじ)」に因んだ命名であるという。越前は加賀と並んで白山信仰の本場であるが、「越前平泉寺」はまさにその一大拠点であった。そしてこの白山信仰は、藤原秀衡というフィルターを通すことで「瀬織津姫」に基づくものだということが推察できる。しかもそれは白山信仰の複雑さとは裏腹に、あまりに簡単に解決する。藤原秀衡の時代も奥州には数多の神社があったはずである。その中であきらかに白山信仰者のはずの秀衡があえて「奥州一ノ宮」として選択したのは、他でもない「荒雄川神社」である。それは宮城県大崎市(旧玉造郡岩出山町)に鎮座する。何を隠そう荒雄川神社は堂々と瀬織津姫を主祭神として表記している稀有な神社なのである。
 宮城県は瀬織津姫を堂々と祀る神社が少ない。その中で境内案内にまでこの女神を明記してあるという事実は、この地の根強い信仰に対する執念とすら思えてくる。
 さて、九戸政実が処刑された地は「栗原郡三迫(現宮城県栗原市)」だという。政実らは、何故上方軍に投降したその場ではなく、栗原郡三迫(宮城県栗原市)まで連行されて斬首されたのか。上方軍にすれば、どうせ約束を反故にする計画で、残る反乱分子への見せしめなのであれば、反乱のターミナルでもある「九戸城」でけじめをつけるのが最も自然で効果的ではないか。
 例えばアテルイは一応京まで連れて行かれた。それは連行者「坂上田村麻呂」が律儀にアテルイとの約束を果たそうとしたからだ。だが京まで行ったところで桓武天皇が許さなかっただけである。
 しかし、政実は京まで連れて行かれることもなく、妙に半端な場所で斬首された。一説には豊臣秀次の陣がそこにあったからだというが、その秀次もこのためにわざわざ北上して栗原まで来たようである。『栗駒町誌』の記述を引用する。

──引用──
 二本松に下向滞在中の三好中納言秀次は、黒川より馳せ参じた。伊達政宗の先陣案内によって、二本松を進発、栗原三迫に下向到着せられた。堀尾帯刀・石田三成等その陣に参向して、九戸城退治の状況を報告したが秀次大いに満悦、九戸徒党をば速かに誅戮せよと命じたので政実以下八名は、奥州の秋深い九月二十日遂に斬首された。政実の首は、秀次の下知に従い、上方に送り豊臣秀吉の実検に供したのである(以上仙台叢書、奥羽旧指録、南部史要による。以下伝説) 〜以下省略〜

 この文面からは、「二本松」からなのか「黒川」からなのかよくわからない。黒川にしても「福島県の会津」とも、「宮城県の黒川郡」とも受け取れる。しかし秀次の出発点はここではさほど重要ではない。秀次の陣がもともと栗原にあったわけではないことがわかればそれでいい。
 そしてここでもうひとつポイントなのは、伊達政宗が秀次を案内していることである。つまりこれにより政宗が政実の処刑に立ち会っていた可能性があることがわかる。
 話を戻す。何故政実の処刑地は栗原だったのか。単純に地理的な中間地点であったからとも考えられるが、私はもう少し勘ぐっている。基本的にこの斬首は最大最強の不安要素、「伊達政宗への見せしめ」だったのであろう。
 また、私の推測どおり、政宗が奥州連合軍を画策していたならば、その連合軍共通の「精神的主柱」を何かに求めていたと考える。この栗原の地は、九戸氏の本拠地と何か共通する精神の本場であったのではなかろうか。「その土壌へのみせしめ」に政実はここで斬首されたのではなかろうか。
 九戸政実を偲んでこの地にも「九戸神社」が祀られている。この場所は政実の胴体が埋葬された場所で、江戸期を通して荒れ果てていたものを、明治初年になってその塚の上に祠を建てて追慕されたものであるという。偶然か必然か、この地は「荒雄川神社」からもそう遠くはない。私は、九戸政実がこの地で処刑された意味を深く考えざるを得ないのである。

540・541 十一面観音の忿怒と沈黙──円空白山信仰の挫折 風琳堂主人 2007/04/11 (水) [61900]

一 白山三尊の彫像

 蝦夷地・奥羽の長旅の最後の地・松島で、おもいもかけないことであったが、円空が再会した、あるいは円空を出迎えたのは、かつて十二万体の彫像を誓願した富士山神であった。奥羽山脈南端のはるか先で、富士山が手招きしているイメージが浮かぶ。松島から郷里・美濃国へと帰る円空の足跡は不明だが、北の地の「地神供養」の報告と挨拶のために、また、各地山岳霊地の地神供養の「志」の継続を再度誓うために、円空が途中、富士山に立ち寄ったとしても、これはありうる想像であろう。
 北の地の地神供養の行脚において、円空の十一面観音は立像かつ単独像として彫像されていた。しかも、この像は、日本の国津神のなかでも最重要な一神といってよい瀬織津姫[せおりつひめ]という神を秘めたもので、その鎮魂・供養の気持ちから彫像・奉納されたものだった。
 円空は後年、ふたたびエミシの国の出羽三山へと足を向け、ここに聖観音一体を彫像・奉納したことが確認されているが、ここでは、初期円空の十一面観音の「その後」を追ってみる。円空の、瀬織津姫神への鎮魂意識を秘めた十一面観音彫像は、帰郷後、どのように継続してみられるのかは、円空を論じる上ではずすことができない。
 円空が美濃国に帰ったことが確認できるのは「寛文九年(一六六九)十月十八日」の棟札の日付をもつ白山三尊(十一面観音、聖観音、阿弥陀如来)座像(関市武儀町雁曽礼の白山神社蔵)においてである。この三尊形式は、かつて泰澄が白山の本地仏三尊として創作・設定したものである。円空の十一面観音は、はっきりいって、ここでは精彩を欠いている。
 この十一面観音を含む三尊彫像の日付を確認できる棟札の文字は「西神頭安永の筆とみてよく」、また、この三尊は「はじめ、美並村下田にあったが、寛文十二年に、雁曽礼にうつされたもの」と指摘していたのは池田勇次氏である(円空学会『円空研究』別巻二)。西神頭[にしごとう]安永は、美並村(現郡上市美並町)における円空彫像のはじまりに関わる庇護者的人物で、さらにいえば、この地域の元締め的神職を世襲する頭首でもあった。また、西神頭家は、白山開山者とされる泰澄(の弟)につながる家系譜さえもっていて、円空の初期白山信仰の形成に大きな影響を及ぼしている(後述)。円空は、この西神頭家の依頼によってこれらを彫像したのかもしれないが、しかし、泰澄の白山三尊を規範通りに摸した彫像をしていたことにはちがいなく、円空の主体的彫像意志がここでは後退してしまっている印象は消せない。いいかえれば、円空における白山信仰の深化は、この時点ではまだみられないといってよい。蝦夷地から奥羽へと歩んできた円空の十一面観音の彫像過程には、彼の地神供養の「意志」が一貫していた。このことを考えると、帰郷後にみられる没主体的「十一面観音」彫像の事実は、円空の彫像意識の内部に、小さな齟齬の種を胚胎せしめたかもしれないことが想像されるのである。
 円空論諸書の円空年譜は、この年(寛文九年)に、鉈薬師(名古屋市千種区)で、鎌倉初期の本尊・薬師如来を中心に、その脇侍・眷属神、つまり、日光・月光菩薩、阿弥陀如来・観音菩薩、南無太子、そして十二神将の計十七体の彫像・奉納をしたと記している。鉈薬師というのは円空の鉈彫りの彫像があったゆえの通称で、正式には陽光院(現永弘院)薬師堂(医王堂)である。梅原猛氏は、「円空が東北・北海道の旅で大変腕を上げたという評判が美濃・尾張一帯に広まったゆえであろうか、円空は尾張公に厚く保護されていた明の遺臣・張振甫[ちょうしんぽ]の菩提寺である鉈薬師堂の群像を作る機会を与えられる」と書いている(『歓喜する円空』新潮社)。東北・北海道の旅における円空彫像の「評判」云々は梅原氏の空想にすぎないが、円空が尾張公(尾張藩第二代藩主・徳川光友)の庇護下にある張振甫が建てた薬師堂(名古屋城の廃材を下賜されて建立される)に彫像・奉納している事実を虚心にみるなら、円空が諸国行脚の一乞食僧であったという説(飯沢匡・五来重氏)は再考する必要があるのかもしれない。おもえば、蝦夷地・松前藩の家老・蛎崎蔵人と信頼・厚遇関係をもったというのも、円空の彫像の実力がたまたま知られたということのみで、こういった特別な関係が成立したとは考えにくいことである。断片的ではあるが、「円空上人、姓は藤原、氏は加藤」という『浄海雑記』の伝承記述も想起されるところで、円空は、それなりの家筋を出自としていたが、円空自身、これを詳細に語らなかったし、また、その家筋の記録が現存していないだけのことかもしれないのである。円空に藤原氏の末裔意識があったことについてはすでにふれた(「藤の呪力」、『円空と瀬織津姫』所収)。


二 法隆寺の大日如来像

 寛文十年(一六七〇)から翌年にかけ、円空は奈良の法隆寺に籠り、大日如来座像を彫像している(像高七九センチ)。佐藤武氏は、法隆寺の大日如来像について、次のように「解説」している(『円空研究』別巻二)。

円空は寛文十年に法隆寺を訪れている。
どうして円空が法隆寺を訪れたのか、その経緯はわからないが、大峯山の修行と関係があるとみられる。この頃の法隆寺は法相宗本山興福寺の末寺であり、密教、修験なども山内にはあったとされている。彼は法相宗を中心に密教や修験も学んだと思われる。
寛文十一年(一六七一)七月十五日、師の法隆寺巡堯春塘から法相宗血脈相承の許状を貰っている。
法隆寺には円空作としてはきわめて珍らしい知拳印で五仏の宝冠をいただく金剛界の大日如来を造顕している。この像は寛文期のていねいさと稚拙さをもつが、五仏宝冠にすぐれた手法を示している。

 円空の時代、法隆寺は「法相宗本山興福寺の末寺」であったという。興福寺はいうまでもなく藤原氏の氏寺であり、円空の法隆寺行は、彼の「家筋」との関係があって可能となったものかもしれない。とはいえ、円空の法隆寺=斑鳩[いかるが]寺における修行がけっして楽なものでなかったらしいことは、次の歌が如実に語っている(歌番五〇〇、長谷川公茂編『定本円空上人歌集』一宮史談会所収)

  いかるかの音に聞たにほいなきに
    我家ならぬ飯ニうへつゝ

 法隆寺の鐘が鳴り響いているが、干飯[ほい]もなく、ここは我家ではない、飯に飢えつつもひたすらに修行していることだ──、といった歌意だろうか。円空の歌には、ときに、あまりに人間的な本音が顔をのぞかせることがある。おそらく、円空は飢えに耐えながら、それでも大日如来像を一体彫り上げたのである。それにしても、なぜ大日如来なのか?
 この円空の彫像は、「知拳印で五仏の宝冠をいただく金剛界の大日如来」だという。「胎金両部」の神道的解釈からいうなら、これは、外宮神(豊受大神)の「本地」の仏ということになる(内宮神は胎蔵界大日如来とされる)。「幼き時、台門に帰し、僧と為る。稍長ずるに及て、我尾高田精舎の某に就きて胎金両部の密法を稟け」た円空だったが(『浄海雑記』)、彼が法隆寺で「金剛界の大日如来」を彫像していたことから、円空の「胎金両部の密法」はさらに高度に会得されていたことがわかる。さらにいえば、ここで「法相宗血脈相承の許状」をもらったことは、円空が「密法」ばかりでなく法相宗(小乗仏教)の体得者として公的に認められたことを意味していて、円空の仏教に関する「知」が確実に総合化しつつあることを告げてもいる。
 円空が法隆寺で、「金剛界の大日如来」に込めた神(外宮神)を詠んだとおもわれる歌がある(歌番九五二)。

  万代に目出度き神在て
名を九重のいかるかの寺
  (万代[よろづよ]にめでたき神の在[ましまし]て名を九重の斑鳩[いかるが]の寺)

 法隆寺には「目出度き神」がいるという。それが外宮神だとすると、これをどう理解するかはかなりむずかしいことだが、以下に、その「解釈」の試みをしてみる。
 円空が大日如来座像を法隆寺寺域内のどこで彫像し、どこに奉納したかは記録がなくはっきりしない。
 由緒伝説の話だが、聖徳太子に、法隆寺創建の地を神託し、また、法隆寺の守護神となることを誓った神として龍田明神がいる。この龍田明神をまつるのが、法隆寺西一キロほどのところに鎮座する龍田神社である(生駒郡斑鳩町龍田)。斑鳩町西隣の三郷町にも龍田大社があり、龍田神社は大社の「新宮」と位置づけられていて紛らわしいが、大社(本宮)は天武時代の創建で、本来の龍田神社「本宮」は龍田山の山頂にあった。この山頂の本宮が天武時代に里へ降りて、新たに風神としてまつられたのが龍田大社で、平群郡あるいは斑鳩の里の地主神をまつるといえば龍田神社である。
 神仏混淆時代、龍田神社の社務を統括していたのは法隆寺であったが、神社拝殿の東には、胎金堂(大日堂)があった。この堂は、龍田神社の実質的な別当寺とみてよいかとおもうが、明治の神仏分離時に撤去される。円空の大日如来像は、あるいは、ここへ彫像・奉納されたものかもしれない。龍田神の「本地」の仏として、つまり法隆寺の地主神として、円空が金剛界大日如来像を彫像・奉納していたとすると、ここからいくつかみえてくることがある。
 龍田神社は『延喜式』神名帳(九二七年成書)に「龍田比古龍田比女神社二坐」と記されていたように、もともとは国津神男女神をまつる社であった。現祭神は、龍田大社にならって天御柱命と国御柱命を筆頭祭神とし、龍田比古神と龍田比女神、そして瀧祭神ほかを主神として横並びにまつっている。この瀧祭神は、神宮においては、五十鈴[いすず]川=御裳濯[みもすそ]川の川原に無社殿でまつられる石神でもある。瀧祭神がまつられる地は、五十鈴川の水源神・滝神を新たに社殿(のちに荒祭宮と呼ばれる)にまつる前の旧祭祀地とみられる。つまりは、荒祭宮神(=瀬織津姫)と瀧祭神は異神ではない。このことは、岡山・吉備津神社神域の最奥部にまつられる瀧祭神社=瀧祭宮が、その祭神を瀬織津姫としていることからも断定してよい。龍田神社にも、円空が崇敬する瀬織津姫という神がみられるというのは重要なことだ。円空歌に、この五十鈴川=御裳濯川の神を詠んだ一首がある(「袈裟百首」、□は不明字)。

  皇のけさ鏡の榊葉□に
    みもすそ川の御形おがまん

 一首全体の歌意を正確に述べることはできないが、「みもすそ川の御形[みかげ]」を「鏡の榊葉」に重ねて「おがまん」ということらしい。円空が御裳濯川=五十鈴川の川神(皇神)に対して尊意を抱いていることだけはよく伝わってくるだろう。
 円空の時代から千年ほどの昔、ときは、天武・持統天皇の時代(白鳳時代)にまでさかのぼる話だが、龍田神を「風神」と見立て、この神とセットの祭祀が「勅命」によってなされていた神に「広瀬大忌[おおいみ]神」がある(『日本書紀』天武・持統紀)。広瀬大社は、法隆寺の約二キロほど南、奈良盆地のすべての川が流れ込む大和川を守護する要所にまつられている。その立地がなによりも雄弁に語るが、広瀬神(大忌神)は大和地方の要の水神・川神としての祭祀がなされている。龍田神社に瀧祭神=瀬織津姫神の名が刻まれていたように、広瀬神社本殿内にも、江戸期まで「天照大神荒魂瀬織津姫神」がまつられていた(『大和志料』)。
 七世紀後半の天武・持統時代には「広瀬大忌神」とされていたが、平安期になると、その社名は「廣瀬坐和加宇加賣神社 名神大 月次新嘗」などと記されることになる(『延喜式』神名帳)。広瀬大社の現由緒書は、同社祭神を「若宇加能売[わかうかのめ]命」と表示するも、「主神若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売[とようけひめ]大神(伊勢外宮)、宇加之御魂[うかのみたま]神(稲荷神社)、広瀬大忌神とも呼ばれ、総て同神である」と書くことをはばからない。かつての本殿の「瀬織津姫神」は、明治期に、境内の「祓戸社」に降格祭祀がなされ、現在、その神名まで一般にはわからないようにされている。
『日本書紀』に、龍田風神に対して広瀬水神ではなく「広瀬大忌神」とあえて表記されていたことに、瀬織津姫神の受難のはじまりが見え隠れしている。天武・持統時代の広瀬大忌神は、もともとは、これも瀬織津姫神の変称名であった(『エミシの国の女神』参照)。鳥海山神の瀬織津姫神が「大物忌神(命)」と表示されつづけてきたことと、同根の問題がここにはある(『円空と瀬織津姫』参照)。
 ところで、広瀬大社の境外末社に饒速日[にぎはやひ]命社がある。ここは広瀬大社神職の樋口氏(物部氏末裔)が代々「祖神」をまつってきた由緒をもつ。物部氏は日神=火神(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)を奉祭することで知られる。広瀬大社は現在、本殿の相殿神に「櫛玉命」の名をかろうじて残しているものの、この神名が「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」から「櫛玉」を抽出した略称神名であることは明らかであろう。本来、物部氏がまつる太陽神こそが広瀬大社本殿の一方の主神(男神)であったはずである。
 もう一方の主神(女神)であった瀬織津姫神だが、これも物部氏が奉祭する神であった可能性が高い。物部氏による瀬織津姫神の祭祀は、たとえば物部氏同族磯部氏による神宮の基層祭祀(日月神あるいは水火神の一対神祭祀)にみられ、さらに、王化思想の化外地であった古代奥羽各地(ニギハヤヒの降臨伝承をもつ鳥海山などは象徴的)にもみられる。
 江戸期(延宝時代)に成る『和州旧跡幽考』には、「瀧祭神と廣瀬龍田神、則ち同躰異名にして、水氣の神なり」といった貴重な古伝承が記録されている。法隆寺鎮守社の龍田神社祭神の一方の女神である「龍田比女神」は、瀧祭神、そして広瀬神と「同躰異名」であり、いずれも「水氣の神」(水霊神)だというのはそのとおりだとおもう。
 円空の金剛界大日如来は、外宮神を視覚化・具象化した像である。円空が崇敬してやまない瀬織津姫神の影が、それも外宮神と重なるように、法隆寺近在にはみられるようだ。円空が法隆寺に一年近く逗留していて、龍田・広瀬神の変質過程(歴史)に無頓着であったとは考えにくいことである。円空歌に龍田姫を詠んだ歌もある(歌番三九、□は不明字)。

  龍田姫かさしの玉の□□□□□(おほよわ見)
    ミたれにけりとけさの白露

 括弧内の字は円空歌集によるものだが、円空歌の原文の字にあたってみるも、難読字が並んでいて、古文書読みの素人ではとても歯がたたない。「ミたれにけり」は「乱れにけり」か「水垂れにけり」か──。歌意の全体解釈についてはこれも放棄するしかないが、円空が「龍田姫」という神に意を注ぐように詠んだ歌であることにはちがいない。


三 眞教寺から中観音堂へ──円空十一面観音の二つの「謎」について

 法隆寺から生地(岐阜県羽島市)への帰路、円空は眞教寺本堂「閻魔[えんま]堂」(三重県津市下弁財町)において、蝦夷地・奥羽からの帰郷後、初めての十一面観音「立像」を彫っている。これは像高二三六センチという大作の単独像で、美並村で泰澄の規範通りに彫った白山三尊の中尊としての十一面観音座像とは、同じ十一面観音ではあるものの、その彫像意識において、また、その彫像技法において、大きく異なった印象を受ける。眞教寺「閻魔堂」の特大の十一面観音は、その風貌も少し変わっている。この像は、蝦夷地から奥羽にかけて彫ってきたどの像とも異なる表情をしている。丸山尚一『新・円空風土記』(里文出版)は「飛鳥仏[あすかぶつ]を連想させる」「法隆寺の百済観音のイメージ」と書き、梅原猛氏は、次のような感想を述べている(『芸術新潮』二〇〇四年九月号)。

三重県津市の眞教寺には秀麗な十一面観音像があるが、従来の円空の十一面観音とはひと味もふた味も違う。それを見たとたんに私は、法隆寺の百済観音を思い出した。切れ長の魅惑的な目をした、円空仏では珍しく首が細く、すらりとした八頭身の美人である。化仏もていねいに彫られていて、ひとつひとつが深い魅力を放っている。円空がどうしてこのような美人観音像を作ったのか。この十一面観音も百済観音のように謎を秘めた仏なのである。

 眞教寺の十一面観音について、梅原氏は「円空がどうしてこのような美人観音像を作ったのか」「謎を秘めた仏」だと問いを宙づりにしている。わたしには、この「謎」は、眞教寺が「閻魔堂」の異称をもっていたことと関わりがあるようにおもえる。
 佐藤武氏は同像の解説で、「眞教寺は比叡山延暦寺の直轄地にあり、円空と天台宗の結びつきを示している」と、きわめて重要な指摘をしている(前掲書)。眞教寺を実際に訪ねてみると、寺に向かって右隣りには市杵島姫神社が鎮座していて、「延暦寺の直轄地」である眞教寺境内に市杵島姫神社が同居している印象を受ける。神社は江戸期まで、北畠顕家の守護神・鎮守神としての弁財天をまつる社であったが、明治期に現社名を名乗るようになる。もっとも、円空が訪れたときは、眞教寺の隣りには弁財天はまだまつられておらず、ここには庚申塚があったという。つまり、庚申と習合する神(塞神・境界神)が、ここの土地神で、そこに享保年間(一七一六〜一七三六)に、この弁財天は鎮座したとされる。境内には樹齢が四〇〇年とも五〇〇年ともいわれる大きなイチョウの神木があり、ここの神まつりは意外と古いものとみられる。
 眞教寺は「天台宗阿古木山眞教寺」というのが正式名で、寺伝には「当山は天台宗総本山延暦寺の末寺」「慶長十九年(一六〇七年)藤堂高次公の建立」とあり、本尊は閻魔大王なのでいつしか当寺を「閻魔堂」というようになったとされる。円空が当地へやってきたのは寛文十一年(一六七一)のことで、円空は意識して閻魔堂に「美人」の十一面観音を彫像・奉納したことになる。ちなみに、寺の山名である阿古木山の「あこぎ」は、当地がかつては安濃津と呼ばれていて、この地名の安の「あ」と濃の「こい→こき」を合わせての命名とされる。安濃津の安濃が脱して「津」のみが残って現在の市名となったものだが、ここは、伊勢街道の要衝の宿場町かつ神宮への献上魚を担当する御厨地であった。
 閻魔堂に閻魔大王がいることはいうまでもないが、この閻魔大王の脇には闇黒童子や倶生神、そしてこれらの前立の位置で三途川の脱衣婆像(寺の表示は「懸衣嫗」)も睨みをきかしている。堂内には「人間の罪を秤る」と説明される天秤棒や男女のさらし首など、地獄の光景がぎっしりと詰まっていて、そのなかに円空の十一面観音はまつられている。まさに「地獄で仏」であろうか。
 中世の成書とされる『天地霊覚秘書』には、神宮の「第一荒魂荒祭神」を瀬織津姫神とし、この神は「焔魔法王所化也」といった記述がみられる。江戸期まで、荒祭神、つまり、円空が心にかけていた瀬織津姫神は「焔魔法王」が化身したもの、あるいは生み出したものという本地垂迹の考えがあった。
 おもえば、円空の眞教寺での十一面観音の彫像・奉納は、かつての恐山における奉納行為と酷似しているようだ。恐山において、地蔵尊と優婆尊(脱衣婆像)を彫像し、恐山の地神をこれら二尊に置き換えたのは天台宗徒の象徴ともいえる慈覚大師=円仁であったが、円空は、そこにあえて十一面観音を彫像・奉納したのだった(「恐山信仰と地神供養」、『円空と瀬織津姫』所収)。恐山の地神もまた荒祭宮の神と同神であったことと、この眞教寺=閻魔堂への十一面観音の彫像・奉納の動機は同じとみてよい。円空が心にかけてきた神は、閻魔大王(焔魔法王)あるいは脱衣婆像(姥尊)と習合させられる神では断じてないというおもいが、後世に「美人観音」とも評される十一面観音をあえて彼に彫らせた理由とおもわれる。しかし、この像は「美人」かもしれないが、その表情は決して明るいものではなく、あるいは、観音一般がもつ慈悲を満面に浮かべたものでもなく、どこか憂いを湛えているというのがわたしの印象である。
 眞教寺での彫像のあと、円空は、生地・羽島の中観音堂に、これも特大像といってよい十一面観音立像(像高二二二センチ)を彫像・奉納している。いや、正確にいえば、観音堂は円空によって創建されたもので、この十一面観音をまつる堂宇として建てられた。こちらの十一面観音は、眞教寺と同じ時期に彫られたことがにわかに信じられないほど温和な表情をしていて、蝦夷地から奥羽にかけて彫像してきた一連の十一面観音を感じさせる。
 中観音堂の像について、丸山尚一氏は前掲書で、「初期の十一面像の決算をした像にふさわしく、円空初期像のなかの十一面のイメージを歌い上げた像」と印象を語っている。円空が、この像に初期十一面観音彫像の「決算」の意を込めたというのは、像の背中に刳り抜きがあり、そこに五輪塔が密封されていたことと関係している。五輪塔というのは死者への供養塔で、伝説では、この死者は長良川の洪水で非業の死をとげた円空の母だろうということになっていて、この伝説をもとに、円空は亡き母への鎮魂・供養の気持ちを込めて中観音堂の像を彫ったというのが、なかば定説とさえなっている。
 円空も人で、彼に母への鎮魂・供養の気持ちがなかったはずはない。ただ、円空のこれまでの十一面観音単独像の彫像・奉納過程には、その土地土地(山岳霊地)の地神供養の気持ちが優先されていた。これは蝦夷地(北海道)から奥羽へ、そして前作の眞教寺の像にまで一貫してみられるもので、その供養対象の地神は、中央の祭祀思想(中臣神道と護国仏教の双方)から折々に消去の対象神とみなされてきた瀬織津姫という滝神・水霊神だった。各地山岳霊地において、この神が消去の筆頭対象神とみなされた最大の理由は、皇祖神という日本の建国思想の要の神をまつるとして創設された神宮=伊勢の地主神でもあったからである。この神が全国に健在であることは、日本の建国思想に安泰はないというのが、中央の祭祀思想が古代から現代にまで抱いてきた危惧・不安の感覚である。円空にとって、瀬織津姫神は自身の氏神でもあり、この神の鎮魂・供養に彼を駆り立てる理由としては、じゅうぶんすぎるものがあった。
 梅原猛『歓喜する円空』は「なぜ円空は、この寛文十一年という年に故郷の上中町にこのような亡き人を供養する観音堂を作り、多くの像をそこに納めたのか」と、もっともな問いを書いている。しかし、その解釈はといえば、次のような唖然とすることばが繰り出される。

私は、そこには円空の錦を着て故郷に帰ろうという気持ちがあったと思う。「まつばり子」として馬鹿にされていた円空が一人前の僧となり、美並で仏像作りを覚え、東北・北海道の旅によって腕を上げ、ついに尾張公からお声がかかり、鉈薬師堂の見事な巨像を作ることになった。この晴れ姿を故郷の人に見せたいという気持ちが円空にあったとしてもふしぎではない。

 文中「まつばり子」というのは私生児のことだが、たとえそうだとしても、円空もここまで俗趣味で解釈されたら苦笑するしかあるまい。これでは、円空は「まつばり子」の孤独に耐えて「仏像作り」に精進し、ついに世間に認められ、生地・羽島に金ぴかの衣を着て凱旋帰国(帰郷)をした成金のイメージである。丸山尚一『新・円空風土記』も「なぜ円空は、この大きな十一面の像を生地の中村にのこしたか。それぞれの理由があるだろうが、この十一面は、ことさら何か理由ありげな像に見える」とまっとうな疑問を書くも、丸山氏は、梅原氏のような俗悪趣味の解釈は控えている。ただ、丸山氏たちの疑問、つまり、円空がなぜ生地における十一面観音の彫像にこだわったかという問いは考えてみるに値する。そこにはたしかに「ことさら何か理由」があったはずだからである。
 木曽川と長良川にはさまれた洪水の常襲地帯で円空は生まれた。母はすでに亡く、この故郷での十一面観音特大像の彫像にあたって、円空が像に込めたものがあるとすれば、それは、まず十一面観音(に秘められている水神・瀬織津姫神)の力による洪水鎮護の切なる願いであっただろうし、さらにいえば、この彫像に亡き母への鎮魂・供養と、まさに亡き神にされようとしてきた瀬織津姫という神を二重化しようとした円空の母性神への願望意識であっただろう。五輪塔という供養塔を十一面観音像の胎内へ埋め込んだ行為を重ねるように読み取るなら、おそらくはこういうことになる。つまり、円空にとって、瀬織津姫神は、生地・羽島の地で、まさに「母神」となったという解釈も可能なのだ。
 円空はその後も何度かここを訪れたとみられ、堂内には主尊の十一面観音のほかに、鬼子母神、弁財天、不動尊、阿弥陀如来、胎蔵界大日如来、聖観音、大黒天、南無太子像、稲荷神、金剛神、護法神、そして天照皇太神とみられる謎の男神像などを彫像・奉納していった。このなかの男神と弁財天の二座像について、『円空─羽島の円空仏』(円空上人遺跡顕彰会)は、「像の底部の年輪のようすから推測されること」として、「(ヒノキの)根元の部分でつくられた二体の坐像は、いずれも割り面を表にして彫られており、男女の対になっていて興味深い」と指摘している。これまでみてきたところでいえば、不動尊とも弁財天とも十一面観音とも習合する秘神が瀬織津姫神で、この神と「対」の関係をもつ男神が天照皇太神であった。これは、円空の最初期の彫像(美並村・神明社における天照皇太神と阿賀田大権現の一対神の彫像)から一貫した円空の認識であった(『円空と瀬織津姫』参照)。
 なお、中観音堂の向きは一般と異なっていたことも挙げておこう。『円空─羽島の円空仏』は「明治二四年の濃尾震災以前は、観音堂は萱ぶきの屋根で三つの間[ま]からなり、今の南向きとはちがって東向きに建っていた」と記録している。東面する観音堂にまつられる十一面観音も当然ながら東、つまり日出[いづ]る方向を向いていたはずで、こんなところにも円空の深いこだわりがあったことがわかる。なぜなら、円空が十一面観音に込めた瀬織津姫という神の長い本名は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」といい(日本書紀)、この長い神名にみられる「向津媛[むかつひめ]」は「向津日女」で、まさに日(太陽)と対面する神を意味しているからである。この神を秘めた観音(堂)がわざわざ東面して建てられたことで、円空が、この伊勢の秘神を深く理解していたことがここでもわかる。ちなみに、奥羽の栗駒山(駒形山)の最高峰に建てられた宮も東面していた。円仁は、この東面する宮の神を大日如来と習合させ、その垂迹神を大日?[おおひるめ]尊=天照大神(アマテラス)とみなしたようだが、駒形山の主峰を大日如来(大日?尊)に譲った駒形大神こそ瀬織津姫神であったことも偶然ではない(本書「駒形大神と白山信仰」参照)。
 中観音堂の諸像はいずれもていねいに彫られており、円空が「母神」を投影させた十一面観音に、この神と関係深い諸仏諸神を脇に添えていたことがうかがえる。これらの像から泰澄が設定した白山三尊(十一面観音、阿弥陀如来、聖観音)を抽出することは可能だが、特に聖観音などは明らかに後期の彫像とみられ、円空は当初、ここでは十一面観音をやはり単独像として彫ったものとおもう。この観音堂(芳莱山有宝寺〔宇宝寺とも〕)は、円空が元禄二年(一六八九)に再興し、元禄八年(一六九五)に入定地とした長良川河畔の弥勒寺(関市池尻)の末寺としてあり、円空が中観音堂(有宝寺)に寄せた思いは生涯、あるいはその後も生きている。有宝寺は文字通り、円空の崇敬する神と亡き母への秘した思い(宝)を有する寺であった。


四 円空十一面観音の忿怒

 円空の時代、現在も感覚的にはそうだろうが、長良川の水源山とみなされていたのは白山であった。円空は中観音堂での彫像のあと、長良川を遡行するように白山へと向かっている。
 円空にとって長良川はほかのどの川よりも特別な存在だった、とおもう。寛永九年(一六三二)、この世に生を受けたのも長良川河口域(羽島市中観音堂の地)であり、寛文三年(一六三二)の彫像のはじまりも長良川中流域の美並村(現郡上市美並町)においてであった。また、延宝七年(一六七九)に白山神から衝撃の啓示を受ける千多羅[ちたら]滝(現在の法伝滝)も長良川に流下していたし(郡上市八幡町)、この啓示の総決算として、元禄八年(一六九五)、弥勒信仰とともに白山神に殉じようと入定したのも長良川河畔であった(関市池尻)。円空の死生・信仰・思想の起点と終点を結ぶ背骨とも動脈ともいえるのが長良川で、彼は、この川から各地への彫像の旅を敢行してはこの川へと帰ってくる。円空にとって、長良川は白山信仰を上流から運んでくる川で、その遡行は信仰の深化を意味していたことだろう。
 梅原猛『歓喜する円空』は、「鉈薬師堂や羽島市の観音堂の諸像によって、円空の儀軌に忠実で写実的な傾向の強い仏像の制作は一つの完成を見た」として、新たな彫像の展開の予感を、次のように述べていた。

 寛文十二年(一六七二)五月、円空は岐阜県郡上市白鳥町長滝[ながたき]の長滝寺[ちょうりゅうじ]を訪ね、別当寺の阿名院[あないん]に十一面観音像を残す。この像は今、白鳥町白鳥の白鳥神社に安置されているが秘仏で拝観できない。白鳥町といえば美濃側からの白山登山の基地であり、円空は石徹白[いとしろ]を経て白山に登ったに違いない。そして六月には美並町半在[はんざい]の八坂神社で牛頭[ごず]天王像を彫っていることが、残された棟札から明らかになっている。牛頭天王はインドの祗園精舎の神で、スサノオノミコトの本地とされる荒ぶる神である。円空は白山に登ってこの荒ぶる神の啓示を受けたのではないだろうか。

 白鳥町もまた長良川上流域にあり、長滝寺は、白山への登拝の三馬場の一つ、美濃側の拠点寺であった(長滝寺は江戸期まで長滝寺白山中宮と呼ばれ、明治期に長滝白山神社と長滝寺に分離)。円空が長滝寺別当寺の阿名院で十一面観音を彫像したことがわかるが、それは「秘仏」とのことで、この像について語ることができない。この彫像の前か後かはわからないが、「円空は石徹白を経て白山に登ったに違いない」という梅原氏の推測はそのとおりだとおもう。
 丸山尚一『新・円空風土記』は、石徹白上在所の杉原家にある小さな観音座像(像高一二・一センチ)の存在を確認していて、この像は「もと、白山中居神社に祀られていたが明治の廃仏毀釈のときに神社わきの杉原家に移った」という伝承を拾っている。ただし、丸山氏は、杉原家の「祖先が白山信仰の御師[おし](先達)を務めていた」ことから、「杉原家に円空が宿って彫像をのこしたことも十分に考えられよう」とも添えていた。わたしの印象では、円空が白山中居神社に彫像・奉納したにしては小像すぎる感がいなめず、白山登拝にあたって御師(先達)の杉原家に泊まったお礼の気持ちで、円空がこの小像を彫り置いていったとみるほうが自然のようにおもえる。
 おそらく白山登拝の帰路であろう、円空は「美並町半在[はんざい]の八坂神社で牛頭[ごず]天王像を彫っている」とされる。梅原氏は「牛頭天王はインドの祗園精舎の神で、スサノオノミコトの本地とされる荒ぶる神」と解説するのみで素通りしているが、円空は、この牛頭天王像を男神ではなく女神として彫っている。「スサノオノミコト」が荒ぶる男神であることは、古事記・日本書紀の神話を一度でも読んだことのある者にとっては常識といってよかろう。円空が「スサノオノミコトの本地」である牛頭天王を「女神」とみていたのは興味深いことである。八坂神社というのは明治期以降の社名で、江戸期までは天王社(牛頭天王社)あるいは祗園社というのが一般的な社名であった。
 古事記・日本書紀が描く神話世界では、アマテラスとスサノウは「姉弟」の関係で、この姉弟神の疑似婚姻を「誓約[うけひ]」と表現し、たとえば日本書紀(本文)は、この二神の「誓約」から皇孫=ニニギノミコトの父神である正哉吾勝勝速日天忍穂耳[まさかあかつかちはやひあまのおしほみみ]尊ほか男神四神、そして田心姫[たこりひめ]・湍津姫[たぎつひめ]・市杵嶋姫[いつきしまひめ]という宗像三女神が誕生したとしている。
 円空の彫像意識からすれば、天照大神=アマテラスが女神でなく男神であることは確信されており、こういった「性」の転換認識は、男神のスサノウにも適用されたことが考えられる。つまり、記紀の神話創作において、アマテラスが男系日神から性転換して創作されたように、その対神を構成していたスサノウもまた女神から性転換して創作されたとも考えられるからである。記紀神話において、月神も女神から男神に性転換されて表記されていたこととも関わるが、円空は牛頭天王と習合するスサノウに秘められた神を「女神」として彫り残した。この円空の認識は、記紀神話を鵜呑みに読んできた一般感覚を逆撫でするものかもしれない。
 明治期以降、それまでの天王社あるいは祗園社の神は、まるで判を押すようにスサノウに全国統一されたが、しかし、少なくとも一社、例外社があった。静岡県御前崎市作倉の桜ヶ池に鎮座する池宮神社である。同社は江戸期まで池宮天王社を名乗ってきた。しかし、明治の神仏分離のとき、ここは社名を「池宮神社」とするも祭神をスサノウとはせずに「瀬織津比当ス」と表示した希有な社であった。円空がこれまでの十一面観音彫像と重ねるようにみてきた瀬織津姫という神が、牛頭天王に秘められた神でもあることを、おそらく円空一人はよく知っていたにちがいない。
 かつて陸奥国国分寺が自社境内に建立されたとき、その元の社地から追われた神に志波彦大神がいた。この神が旧祭祀地からどこに放逐されたかといえば祗園社で(現在の八坂神社、仙台市宮城野区岩切に鎮座)、ここの祗園神も明治期にスサノウとされるも、江戸期には「栗原郡志波姫神社同体神也」という伝承をもっていた(佐久間洞巌『奥羽観蹟聞老志』)。「志波姫神」はかつては志波彦大神と並祭され、つまりは国分寺・国分尼寺の地主神であったが、この志波姫神は「姥神」ともみなされた瀬織津姫神の異称神であった(「円仁と円空」、『円空と瀬織津姫』参照)。江戸期まで、祗園神あるいは牛頭天王と呼ばれた謎の神仏習合神は、スサノウとは異なる「女神」であった可能性もあるのである。京都・八坂神社の祗園祭には多くの山車[だし]が出るが、そこに「鈴鹿山」という山車がある。この山車は祗園祭一の美神をまつるとされる。鈴鹿山の神(鈴鹿権現)が「瀬織津姫命」とされていることもおそらく無縁ではない。
 円空は白山登拝から長良川を沿うように南下の帰路を辿っている。彼は関市下有知に鎮座する白山神社および隣接する神光寺に十一面観音立像・善女龍王像ほかを彫像・奉納している。ここの十一面観音は、五十余体ほどの現存が確認されている円空作十一面観音諸像のなかで、唯一、自虐忿怒相をした像である。また、円空はここで初めて善女龍王の彫像を試みている。これらの像は、円空の彫像意識の内部に大きなドラマがあったことを告げているようだ。


五 円空十一面観音の沈黙

 円空の年譜に、十一面観音の彫像・奉納地を落とし込んでいくと、その足跡がわかるばかりでなく、十一面観音彫像に関して大きな特徴があることに気づく。それは、この関市下有知の白山神社・神光寺での彫像のあと、しばらく十一面観音を彫っていない、つまり十一面観音彫像の空白期があることだ。
 寛文十二年(一六七二)における異形の十一面観音彫像のあと、円空は延宝七年(一六七九)までの七年間、十一面観音の彫像をしていない、つまり自らに封印したようなのだ。そして、この彫像年譜からは、もう一つの側面もみえてくる。それは、七年間という長期間にわたって十一面観音を彫らなかったばかりでなく、寛文十二年以後、円空は元禄八年(一六九五)の入定死のときまで、かつて泰澄によって設定された白山三尊形式(十一面観音を中尊、阿弥陀如来と聖観音を脇侍とする三尊形式)の彫像を一切していないのである。これらのことが意味することはなにかといえば、それはおそらく一つで、つまり、円空がこれまで抱いてきた白山信仰に基づく彫像意識が、この寛文十二年の白山行において、なんらかの崩壊をしたと考えられるのである。円空の白山信仰とはなんだったのか?
 円空が白山信仰と出会ったのは、かなりさかのぼるものである。これは、「円空上人、〔中略〕幼き時、台門に帰し、僧と為る。稍長ずるに及て、我尾高田精舎の某に就きて胎金両部の密法を稟け」と記録している『浄海雑記』がよく告げている。ここに出てくる「高田精舎」は天台宗医王山高田寺(西春郡師勝町:現北名古屋市)のことだが、同寺は養老四年(七二〇)に行基によって創建され、大同年間(八〇六〜八一〇)に最澄によって天台宗になったとされる(一説に「大同年中伝教大師創建」とも)。高田寺は、隣接する白山神社の別当寺として創設されたが、同社創建にまつわるエピソードは興味深い。内藤東甫『張州雑志』(安永時代の成書)の記載を読んでみる(『師勝町史』所収)。

当社者人皇四十四代元正帝ノ御宇養老元(七一七)丁巳年十一月三日之夜〔町田利範〕夢ノ中ニ神女此ノ地ニ降現而宣ク吾ハ伊弉册ノ神也 是ノ高牟田之地ニ居ラント欲スル也宜ク斎奉ル可シ云々(〔 〕は割注)

 白山神として「伊弉册ノ神」が神官・町田利範に夢告したのは養老元年(七一七)十一月三日の夜のことだったという。白山が泰澄によって「開山」されたのは養老元年六月十八日とされ、そのおよそ五ヶ月後に夢告=神託によってまつられたのが、高田寺白山神社だったようだ。町史によれば、同社は当初「高牟天神」あるいは「小高園天神」ともいい「高田六郷の総社」だった。同社の現祭神は伊奘諾尊・伊弉册尊の二神とされ、「養老七癸亥年九月二十二日藤原利範の創祀」と、高田寺創建のあとの創祀に改変されている。
 高田寺(薬師堂)の本尊は行基作とも最澄作ともされる薬師如来だが、境内にはかつては相当規模の観音堂があったようだ。円空が高田寺あるいは隣接する白山神社において、上記の創祀伝承を耳にしていたとすれば、白山主神は伊弉册尊というのが円空の最初の認識であったとみてよいのかもしれない。なお、町史は、当地には洲原講(洲原太々豊栄講)が盛んで「農民の洲原信仰は昔からあつく」と添えている。この「洲原講」、つまり、洲原参りの対象社とは、長良川河畔に鎮座する洲原神社のことで(美濃市須原)、円空の白山信仰の形成に深く関わっていた社でもあることは注視しておいてよい。
 洲原神社は、円空によって、次のように歌われてもいた(歌番一四四二)。

 白ら山や洲原立花引結ふ
   三世の仏の玉かとそおもふ

「立花」とは立花白山神社のことで(美濃市立花)、洲原神社の「御前立」とされる社である。ここも洲原神社同様に長良川に面して鎮座している。この歌の作歌時期は、円空の生涯でいえば後期のものとみられるが、「三世の仏の〜」は、たとえば「白鳥の内(に)在す神ならは(ば)ミよの仏の母としそ(ぞ)念ふ」(歌番九五六)など、円空歌によくみられるフレーズである。白山神は「白鳥」に化身する神でもあるが、円空が「白ら山」の神を、過去・現世・未来という三世にわたる仏法守護の母神とみていることがわかる。
 円空が次に、白山信仰と本格的に出会うのは、美並村の神職・西神頭家においてである。洲原神社の創祀に関わっていた西神頭家には「洲原白山并安定由緒書」ほか白山関係文書が伝えられていて、これらは『美並村史』史料編に収録されている。西神頭家は中世初頭まで洲原(白山)神社の神主を務めていたが「正慶二年(一三三三)、十七代当主・西神頭安宗は郡主の命令によって洲原神社を追われて美並村に移り、村一帯の神職を務めるだけの神主になった」とされる(梅原猛、前掲書)。円空の初期彫像に、庇護するように深く関与するのが美並村の西神頭家である。
 同家に伝わる「洲原白山并安定由緒書」にみえる「安定」は西神頭家の祖・三神安定[みかみのやすさだ]のことで、由緒書は、この三神安定の出自について「越前国足羽郡麻生津里 三神氏安角之三男也」と記している。『元亨釈書』(元亨二年成書)は、泰澄の出生を「姓は三神氏にて越前之州麻生津の人なり。父は安角、母は伊野氏なりし」、石徹白に伝わる「白山権現鏡之巻」は「越前国足南郡麻生津三神氏安角の二男なり。母は伊野姫なり」と記していて、三神安定が泰澄の弟だったということがわかる。円空が泰澄とつながる系譜をもつ西神頭家の庇護のもとに彫像の世界にはいったことは定説といってよいが、円空の初期白山信仰の形成にあたって、西神頭家を媒介とした泰澄の白山思想の影響は特別に大きかったものとおもう。
 円空もまた、この「洲原白山并安定由緒書」を読んでいただろうことが考えられる。由緒書には、泰澄が白山を開山したこと、および白山三尊とその垂迹神の名が、次のように記されていた(原文は漢文ゆえ筆者の読み下しによる)。

(養老元年)六月十八日 白山の天嶺に登りて、しばし神容を拝し上げる。雪嶺三所に之を鎮める。まずは北之岳を大御前と称し、すなわち伊弉冉尊の鎮座なり、本地は十一面菩薩なり。西之岳を高祖太汝と称し、すなわち無量寿仏なり、太己貴命の鎮座なり。また三里南の岳を別山と称し、すなわち菊理媛之尊の鎮座なり、本地は聖観音自在菩薩なり。

 ここには、泰澄が白山の本地仏三尊を十一面観音、阿弥陀如来(無量寿仏)、聖観音としたことが明記されていて、円空のこれまでの白山三尊の彫像と重なる。しかし、ここで重要なことに気づかざるをえない。
 円空の最初期の修行山の一つでもある高賀[こうか]山の滝神社には、高賀山滝大明神こと瀬織津姫という神に、十一面観音と不動尊(ともに平安期作)がすでに習合仏としてまつられていた。円空の十一面観音と習合神の関係に対する明確な認識は高賀山からはじまっていたとみてよく、この認識のもとに、円空はこれまで、十一面観音立像を各地に彫りおいてきたはずである。ところが、西神頭家の由緒書では、泰澄は十一面観音に「伊弉冉[いざなみ]尊」をあてている。円空ならずとも、どちらが正しいのか、疑念を抱くのは必定であろう。
 信頼する西神頭家の依頼によるものだったかもしれないが、円空はこれまで、泰澄が定めた白山三尊をあらわに疑うことなく彫像してきた。円空があらためて白山の神とはなにかという問いを抱いたとしても、それは当然のことだったにちがいない。
 今回の白山登拝において、その問いの答えがみえたのだろう(「白山信仰にみる瀬織津姫」参照)。以後、円空は泰澄が定めた白山三尊を二度と彫ることはなかった。泰澄の十一面観音と円空の十一面観音には似て非なる神が投影していて、円空がこのことに気づいたとき、円空の内部で、これまで抱いてきた白山信仰の規範イメージが音をたてて壊れたとおもわれる。この崩壊のあとか同時か、これまで白山信仰を曖昧にしたまま十一面観音を彫像してきた自身への怒りが、円空の内面にふつふつとわいてきたはずで、それが自虐的忿怒相をもつ十一面観音の彫像に表れたのだとおもう。
 延宝七年(一六七九)、長良川の川上に聳える白山を遙拝できる滝(千多羅滝=法伝滝)における白山神の神託(許し)を感得するまで、円空は、泰澄の白山三尊形式はいうまでもなく、十一面観音そのものを彫ることを自身に許さなかった。
 寛文十二年(一六七二)、この年の暮れ、円空は修験の聖地・大峯山へと向かい、山頂での冬籠りという荒行を自身に課すことになる。梅原氏は「氷点下十度にもなる厳寒の大峯山の岩窟の中にあって修行に励んだ円空の心境は、どのようなものであったのだろうか」と、その修行の厳しさに思いを馳せている。円空としては、それまでの地神供養・修験道の精神を根本から見つめ直す、あるいは鍛え直す必要を感じたゆえの大峯行だったとおもう。

  大峯や天川に年をへて
    又くる春に花を見(る)らん(歌番八六七)

 天川(天ノ川)は熊野川(新宮川)の源流部にあたる川名である。熊野川の源流山でもある大峯山は、厳密にいえば、こういった山名の独立峰があるわけでない。大峯山寺のある山上ヶ岳(金峯山)や笙ノ窟[しょうのいわや]のある大普賢岳、弥山神社(天河弁財天社=天河神社奥宮)のある弥山・八経ヶ岳(一九一五b、大峰山脈最高峰)などを含む宗教的な象徴山名・総称山名で、これは、白山が大汝峰・剣ヶ峰・御前峰・別山などの総称山名としてあることと同じである。

  こけむしろ笙の窟にしきのへ(べ)て
    長夜のこるのりのとほしミ(歌番五七〇)

 大峯山の笙ノ窟で、円空の寛文十二年は暮れていったのだろう。そこには、冬の長夜の時代にまだ消えていない仏法の灯[とほしミ]を、苔むしろの上で一人みつめる円空の姿があった。

542〜544 白山信仰にみる瀬織津姫神──藤原秀衡と円空 風琳堂主人 2007/04/29 (日) [63080]

 我山岳に居て多年仏像を造り其地神を供養するのみ──。これは、『飛州志』に記された、円空が自身の彫像思想を述べたことばである。各地山岳霊地の「地神供養」という円空の彫像意志が本気であったことは、蝦夷地(北海道)から奥羽への十一面観音を中心とした彫像行脚に一貫して読み取ることができる。
 円空が北の各地で「供養」の対象とみていた「地神」は、神々の百科事典を仮装する古事記・日本書紀のどこにも出てこない神で、これは記紀の編纂者がたまたま収録を忘れたからというのではない。そこには、この「地神」を忌避・貶称した変名化はあっても、そのままの名では掲載しないという基本方針こそが貫かれていた。記紀の編纂方針の根底にあるものは、一言でいえば、日本の建国理念・思想をどう合理的に創作するかにあった。これは、具体的には皇統譜の悠久的な連続性を公的に確定する意図といってよい。その皇統譜の初源に立つ神として皇祖神(アマテラスオオミカミ)は創作されたわけだが、この創作意図を根底から脅かす神が記紀から排除されるのは、建国思想からすれば必然とさえいえただろう。古代から現在に至るまで、日本の建国思想と一体の中央的祭祀思想が、過剰・過敏ともいえる執拗さで排除・消去・隠祭の対象としてきた神こそが、円空が「地神供養」せんと心中にみつめてきた神であった。この神の基本的な性格は、大いなる水神(水霊神・滝神)ということに尽きるのだが、しかし、この神が神宮・伊勢の「地神」であり、さらには皇祖神創作の祖型・母胎をなす神でもあったことは、この神に過酷な宿命を負わせることになった。江戸期、この神の命運と自身のそれとを、生涯にわたって重ねることができた希有な思想者・表現者が円空であった。
 梅原猛『歓喜する円空』は「白山信仰こそ彼の思想の原点であり、以後(寛文九年の白山三尊の彫像以後…引用者)、彼は死ぬまで白山の神、特にその主尊イザナミノミコトの本地仏・十一面観音の信者であった」と、円空における白山信仰、あるいは十一面観音(に込めた神)の揺らぎのなさをまったく疑っていない。これは梅原氏一人の認識に止まらないが、円空の生涯全体を考えたとき、「我山岳に居て多年仏像を造り地神を供養するのみ」という円空の彫像意志が、一つだけぐらついていた「山」があったことに気づく。白山である。
 白山の「地神」をどうみるかは、円空ならずとも大きな問いとなろう。「白山信仰こそ彼の思想の原点」となるためにも、白山の「地神」とはなにかが明らかにされる必要がある。
 円空が大峯山に籠って、その彫像思想と修験精神を再鍛錬している間に、白山信仰に秘められた「地神」の存在に迫ってみたい。


一 白山神と駒ヶ岳・乗鞍岳の神

 白山中居神社(岐阜県郡上市白鳥町石徹白)の神官・石徹白家所蔵の古文書『白山名所案内』(安永六年)に、次の一文がある(上村俊邦『白山の三馬場禅定道』所収)。

昔、養老年中、白山より天ノ村駒に乗りて飛びたまい、その駒の止まる所を駒ヶ岳と云い、その鞍を納めた所を乗鞍岳と云う。

 ここで述べられている時代「養老年中」は、西暦でいえば七一七〜七二四年にあたる。白山が泰澄によって「開山」され、その本地仏三尊や垂迹神があれこれといわれはじめるのは養老元年(七一七)のことで、このとき、おそらく白山の地神は「天ノ村駒」という神馬に乗って駒ヶ岳あるいは乗鞍岳へ難を逃れたと読める一文である。ちなみに、日本の建国思想をうたう「正史」第一号の『日本書紀』が成るのは養老四年(七二〇)のことである。
 駒ヶ岳(駒形山)の名は全国各地にみられ、すべてを調べることは至難だが、少なくとも、奥州の駒ヶ岳(栗駒山)の地神・駒形大神が瀬織津姫という神であったことはすでにみてきた。
 では、乗鞍岳についてはどうかといえば、ここにも同じ神の影が濃厚に落ちていた。飛騨と信濃の国界に聳える乗鞍岳も水分[みくまり]の山で、この山を水源山とする川に梓[あずさ]川がある。この川の水神(川神)をまつる社に神林神社があるが(松本市神林)、同社境内の由緒案内には、次のように記されている。

祭神(三座) 
誉田別尊(八幡大神)、建御名方命(諏訪明神)、瀬織津姫命(梓水[あずさかわ]神)
 縁起によれば、承安三年(平安末期、一一七三)、地頭平野刑部がこの地に鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりといわれ、その後諏訪明神を合祀し、さらに神林堰の開鑿によって梓川の水を引き、神林の地が豊かな穀倉地帯となったことを感謝して梓水神を併せ祀ったという。

 鶴岡八幡宮の創建は建久二年(一一九一)で、由緒が記す承安三年(一一七三)の勧請というのは少し怪しいが、それはおくとしても、瀬織津姫命は「梓水[あずさかわ]神」と明記されている。なお、同社拝殿の祭神説明には「建御名方神(諏訪明神) 郷土開拓の祖神、瀬織津姫神(梓明神)穀倉開発の水神、誉田別神(八幡大神) 郷土鎮守の神」と記されている。
 梓川の本流川縁には、神林神社の祭神表示と似ているが、瀬織津姫神と建御名方富神の二神をまつる岩岡神社もある(梓川村:現松本市梓川)。岩岡神社の奥宮は燧[ひうち]岩神社(岩明神)といい、これも瀬織津姫とされ、この「奥宮」は梓川の川中の岩場にまつられている(『梓川村誌』)。燧岩神(岩明神)は、その鎮座立地から、梓川の洪水鎮護・守護を祈っての祭祀とみられる。このように、瀬織津姫の祭祀が散見されるのが梓川だが、『安曇村誌』は「梓水神の鎮座地は霊山としての乗鞍岳」としていて、信濃国においては、梓水神=瀬織津姫神は乗鞍岳の神とみられていることがわかる。
 円空は「駒か嶽のりくら山の神なるかけさの御山に夕立そする」と歌っている。歌中「けさの御山」は袈裟山のことで、円空が貞享二年(一六八五)と元禄三年(一六九〇)に飛騨を訪れ、当地山岳霊地の地神供養行脚の拠点寺とした千光寺の山号でもある(円空はここで歌集『袈裟百首』を編んでもいる)。袈裟山(旧名は位山)には、養老四年(七二〇)、泰澄による白山神社創建も伝えられ、この山の地神は白山神とみられる。そこに、駒ヶ岳と乗鞍岳の神がそろってやってきて夕立を降らせているというのである。『白山名所案内』の一文とあわせて考えると、この歌のもつ意味は深く、こういった歌からも、各地山岳霊地の地神の存在に対して、円空が相当な理解・認識をもっていたことがわかる。
 しかし、この歌は後年のもので、円空は、寛文十二年(一六七二)まで、白山の「地神」についてのみは、その認識をまだ決しかねていた。


二 白山の「地神」としての別山神

 全国の白山神社総本宮とされる加賀の白山比盗_社は、江戸期までは神宮寺である白山寺と同居する白山寺白山本宮と呼ばれていたが(一四八〇年の火災によって手取川沿いの旧社地から三ノ宮の現社地に遷宮し、そのまま本宮を称していた)、明治新政府による神仏分離の強制とその迎合によって白山寺は廃寺となり、『延喜式』神名帳登載の名をもって現社名を名乗ることになる。越前でも加賀と同じく白山中宮平泉寺が廃寺となり平泉寺白山神社となったが、この神仏分離にあたって、美濃のほうは加賀・越前とは大きく異なる道を選んだようだ。美濃の拠点寺社はそれまで長滝寺白山中宮(長滝寺白山本地中宮)であったが、こちらは、前記二寺と異なり、文字通り「神仏分離」し、つまり長滝寺と長滝白山神社へと分離独立して廃寺とはしなかった。白山信仰のスタイルは、古代から近世までの長い年月、神仏一体・神仏混淆の姿をしてきた。廃寺としなかったという美濃側の特異性は特記に値するし、また、その神仏混淆時代の社名が「長滝寺白山本地中宮」と「本地」をわざわざ主張していたことも、二つめの特異性として指摘できるようだ。
 これは白山に限らないことだが、社殿が今も寺の造り(権現造り)をそのまま残していることが各地に散見されるのは、その後「神社」らしく建て替える余裕もなくそのままにきたもので、明治期、いかに急拵えで神社化がなされたかの遺跡的物証といってよい。
 加賀の白山比盗_社(白山本宮)に伝わる由緒書『白山記』は、その書き出しが「白山之記云」とあるため『白山之記』とも呼ばれる。奥付によれば最終書写時期は永享十一年(一四三九)だが、本文前段に「養老三年己未七月三日御託宣成始至此長寛元年癸未四百四十五ヶ年也」とあることから、原本(「白山之記」)は長寛元年(一一六三)頃の成書とされている。
 養老元年(七一七)、白山信仰の神仏混淆化に最初に主体的に関わった人物が泰澄だが、『白山記』は泰澄の開山行跡については詳細に語らないようだ。これは、泰澄が越前の人であること、そして、白山開山の原ルートが越前・美濃経由であったことが関係しているとみられる。このことは、泰澄伝承を伝える社寺の分布が越前と美濃に片寄って集中していることにもよく表れている。
『白山記』は、白山開山者としての泰澄の名を記すもどこか冷淡で、実質的な神仏混淆の立役者は、むしろ平安期の天台宗によるものという認識を優先させている印象を受ける。神仏混淆を本格・複雑化させた天台宗の白山への進出をうかがわせる、『白山記』の記述を読んでみる(上村俊邦編『白山信仰史料集』岩田書院所収)。

白山本宮〔本地十一面観音〕霊亀元年に垂迹現れ給ふ。殊[こと]に勅命有りて、四十五宇の神殿・仏閣を造立せらる。若干の神講田等を免じ奉られ、鎮護国家の壇場と定め置かれるは、嘉祥元年戊辰なり。

「白山本宮〔本地十一面観音〕霊亀元年に垂迹現れ給ふ」というところに、本来なら泰澄が関わっているのだが、ここに泰澄の名はない。『白山記』の作者は、むしろ嘉祥元年(八四八)の「勅命」による「四十五宇の神殿・仏閣」の造立、また「鎮護国家の壇場」とみなされた白山のリアルな歴史を強調したがっているようだ。
『白山記』はさらに「四十五宇の神殿・仏閣」の主たるものを列記していて、そこから本稿と関わり深そうなものを抽出すれば、「本宮の社」のほかに「瀧宮〔本地不動〕」「各宝殿三宇拝殿同祓殿」「十一面堂〔法花常行堂〕」などが挙げられよう。
 特に「法花(法華)常行堂」が記されていることから、比叡山延暦寺における浄土・阿弥陀信仰の根本道場である常行堂・法華堂が白山に再現されていることがわかる。また、これが「十一面堂」とされていることから、白山の十一面観音が浄土信仰と不即不離の関係にある仏とみなされていたことがうかがえる。なお、白山を「鎮護国家の壇場」とする「勅命」が発せられたのは嘉祥元年(八四八)とあった。円仁が天台座主に正式に就任するのは仁寿四年(八五四)のことだが、嘉祥時代(八四八〜八五一)、延暦寺の実質的最高責任者は円仁であった。
 陸奥国において、駒形山(駒ヶ岳)が神仏混淆の名のもとに、その地神の祭祀が改竄され、また中尊寺・毛越寺が円仁によって開基されたのは嘉祥三年(八五〇)のことだった。天台座主・山田恵諦氏による『慈覚大師』(第一書房)によれば、中尊寺は円仁によって「天台宗の東北大本山」として開基され、近接する毛越寺については「此の地は都の鬼門に当るので、慈覚大師が嘉祥三年、天皇を擁護し併せて国家を鎮護せんが為に一宇を創し自ら薬師如来を刻んで本尊とし、年号を賜うて嘉祥寺と号した」と、天皇擁護と国家鎮護を目的とした創建であったことを書いている。創建時、中尊寺を神宮寺としていたのが駒形山(大日山)で、ここにも円仁の名が刻まれていた。加賀白山から駒形山(駒ヶ岳)へと、その地神が「鎮護国家」の名のもとに仏の背後に隠されたのは、一連の国家的意向を受けた、あるいは先取りした日本天台宗によるものとみてよかろう。
 中尊寺鎮守の白山神社は早池峰山の遙拝社という社殿の向きをしていて、また、早池峰山の開山にちなむ祭礼日は白山と同じ「六月十八日」としている。さらにいえば、その本地仏も白山と同じ十一面観音とされ、早池峰山と白山の祭祀を無縁のものとみなすことはできまい。ちなみに、「早池峯大権現本地仏並二十末社」(遠野市教育文化振興財団『早池峰山妙泉寺文書』所収)によれば、「早池峯大権現」の二十末社の筆頭社は「白山大権現」である。
 さらに付加すれば、「遠野七観音」のこともある。これらは遠野郷の七ヶ所の小霊地に再建・鎮座しているが、慈覚大師=円仁が一本の桂の木から七体の十一面観音を彫像してまつったものとされる。各観音堂の創建伝承をみてみると、二つの観音堂は不詳とするも、ほかの観音堂は嘉祥四年(八五一)から斉衡元年(八五四)に集中している。早池峰山へ円仁がやってきて妙泉寺を創建するのは斉衡年中(八五四〜八五七)とされ、伝承の時間のみをみるなら、七観音をまつったほうが先だったようである。
 遠野市立博物館刊『遠野七観音』は、これらの観音堂に関する詳細な記録・伝承を収録していて、ここからみえてくる意外なことが一つある。それは、円仁による観音堂の創建は右のごとくなのだが、七観音堂のうち四観音堂が「創建」とは別に「草創」の時間を主張していることである。これらの「草創」時期は、共通して大同二年(八〇七)とされる。早池峰山の開山は大同元年(八〇六)である。九世紀なかば、円仁(に象徴される天台宗徒)が遠野郷へやってきたとき、七観音をすべて十一面観音として彫像し、そこに堂を「創建」したことは暗示的といえる。早池峰山大権現の本地仏も十一面観音とされ、この本尊の同一性が示すことは、おそらく一つしかない。つまり、これらの観音堂「創建」の前、遠野郷にはすでに大同二年から早池峰山の里宮七社としての祭祀があっただろうということである。円仁の観音堂の「創建」によって、その前にすでに「草創」されていた神まつりは十一面観音に差し替えられたとみられる。
 明治の神仏分離のとき、これら七観音のうち二つの堂が神社へと転身した。一つは、その本尊が「確実に平安期まで遡りうる」とされる鞍迫[くらはざま]観音で、もう一つは宮守[みやもり]観音である。前者は白山神社へと、後者は愛宕神社へと転身した。宮守観音から峠を越えた綾織地区にある愛宕神社は、戦前まで、その祭神を瀬織津姫命と伝えていたことも関係があるとみてよかろう(「円仁と円空」、『円空と瀬織津姫』)。
『白山記』や石徹白に伝わる『白山禅頂御本地垂迹之由来伝記』(『白山信仰史料集』所収)などにも「白山七社」あるいは「下白山七社」の記載がみえる。「下」というのは里宮の意で、白山里宮七社ということだが、早池峰山「里宮七社」は、あるいは白山を摸した可能性もある。佐々木又吉氏(『早池峰山妙泉寺文書』編者)も「早池峯山の開山説話は、白山の草創説話と非常によく似ていて、霊泉、七不思議など全く同一の着想である」、これは「延暦寺に対する白山の関係を、中尊寺と早池峯山に想定し、天台の僧によって早池峯山妙泉寺が草創されたものであろう」と、とても鋭い指摘をしている。
 話は少しもどるが、白山において、嘉祥元年に「勅命」によって新たに造立された「堂宇」のなかに「瀧宮」があり、その本地仏は不動尊とみなされていた。さらに、白山の三社殿(宝殿)の拝殿前には「祓殿」が設けられもした。『白山記』は「瀧宮」の本地・不動尊と習合する滝神、また「祓殿」において祓神とみなされる神の名を具体的に記しているわけではないが、それらが瀬織津姫神であろうことは疑いない。このことは、早池峰山周辺の滝々において、不動尊と習合していた滝神は例外なく瀬織津姫神であったこと、および、中臣祓に記される大祓神の中心神・元神が瀬織津姫神であることからも断言してよいとおもう。この滝神・大祓神が早池峰山本来の「地神」であった。早池峰山麓で、円仁によって新たに建立された神宮寺・妙泉寺の前を流れる滝川を「祓川」の名にわざわざ変更したのも円仁であった(『早池峰山妙泉寺文書』)。円仁による「祓川」の命名は象徴的というべきで、早池峰山の地神を「早池峯山大権現」という権現称号に変更し、さらに、その地神の名を伏せて祓神へと降格祭祀しようとした円仁(天台宗)の地神封じの方法を示唆するものとみてよい。白山においても、同じことがいえる可能性がある。
 遠野郷においては早池峰山の瀬織津姫神は駒形大神でもあり、陸奥国の駒形山(駒ヶ岳)の地神もまた同神であった。早池峰山も駒形山(駒ヶ岳)も、その神仏混淆による地神封じは円仁からはじまる。白山がもし早池峰山や駒形山(駒ヶ岳)と大きく異なる点を一つ挙げるなら、それは、円仁を総帥とする天台宗による神仏混淆化の百年以上前、すでに大宝二年(七〇二)に「鎮護国家法師」という要職を受諾していた泰澄が白山開山者として存在していたということである。
 白山の神仏混淆の姿は、泰澄の白山「開山」を核とするも、白山信仰の天台宗拠点寺が加賀・越前・美濃に定置・整備され(天長九年の三馬場の創設)、それぞれがほかの白山(泰澄)信仰の由緒(『泰澄和尚伝記』)を競うように取り入れては同地名・里宮同社名を生じさせたため、白山信仰のわかりづらさを倍加させている。
 平安時代末につくられた加賀側の『白山記』が成書時期としては古く、ゆえに同書は白山信仰を考えるときの根本史料の一つとみなされてきた。しかし、美濃側から新たな白山秘蔵史料の公刊があって、加賀側の『白山記』は相対化して読まれる必要があるというのが現在だが(後述)、まずは、神仏混淆による白山山頂の祭祀について、『白山記』が記すところを読んでみる。

 加賀国石川郡味智[みち]郷に一つの名山あり、白山[しらやま]と号す。その山頂を禅定[ぜんじょう]と名づけ、有徳の大明神住す。即ち正一位白山妙理大菩薩と号す、その本地は十一面観自在菩薩なり。〔中略〕
 東に社あり児宮と号す、如意輪(観音)垂迹なり。西に一社あり、別山の本宮なり。北に並びて高峰峙[そばだ]つ、その頂きに大明神住す。高祖太男知[おおなんじ]と号す、阿弥陀如来の垂迹なり。〔中略〕
 南に数十里を去り高山あり、その山の頂に大明神住す。別山大行事と号す、これ大山の地神なり、聖観音の垂迹なり。

 白山を三山に見立て、そこに十一面観音(白山山頂御前峰)・阿弥陀如来(太男知=大汝峰)・聖観音(別山)の三尊を配したのは泰澄だったが、ここでは、その三尊祭祀がやや複雑化していて、つまり、白山山頂御前峰の十一面観音=白山妙理大菩薩の祭祀を中心に、その東西南北に新たに眷属的に社(神仏)が配置されたかの感がある。
 しかし、ここで少し奇異なことに気づかざるをえない。それは、白山山頂の「西」に別山本宮があると記されるも、さらに「南」の高山に「大山の地神なり」とされる「別山大行事」と呼ばれる神が別立てでまつられていることだ。『白山記』の作者もこの奇妙さに気づいたのか、次のような補足説明をしている。

此れを白山の三御山の御在所と名づく。後に峙つ一少高山は劔御山[つるぎのおやま]と名づく〔神代のミササギ也と〕。この麓に池水あり、翠[みどり]ノ池と号す。適[たまたま]その水を得てこれを嘗[な]むれば、齢[よわい]を延ぶる方なり。大山の傍らに玉殿あり、翠ノ池より権現出生し給ふなり。西に小社あり、別山の本宮なり。権現に譲り奉り南山に渡り給ふなり。

 どうやら、聖観音を本地仏とする「別山大行事」という謎の神は、白山の主座を白山妙理大権現(十一面観音)に「譲り奉」って南の高山へと鎮座地を移した「大山の地神」ということになる。なお、白山主峰・御前峰(二七〇二b)と、その北に聳える大汝峰(二六八四b)の間、少し東方に聳える剣ヶ峰(劔御山、二六七七b))は白山三山からは除外されていて、この山(峰)については、特に「神代のミササギ」と注されていることは意味深長である。「剣」の名を有する山岳名は、立山にしても駒形山(栗駒山)にしても、その山の地神の「死」の匂いを残している。ゆえに「ミササギ」、つまり「御陵」と見立てられているのだろう。剣ヶ峰(劔御山)の麓の翠ヶ池(翠ノ池)には九頭竜神(九頭龍王)がすんでいて、転法輪石窟[てんぽうりんのいわや]で行をつづける泰澄の感得・再念によって十一面観音に変成して出現したというのが、白山十一面観音の根本出生譚(通説)とされる。『白山記』も、ここで「即ち彼の山は泰澄大師行い顕[あらわ]し奉り給ふなり」と、やっと泰澄の名を出している。


三 石徹白と藤原秀衡

 白山妙理大権現(十一面観音)に白山の主座を譲ったとされる白山「地神」別山大行事(聖観音)が鎮座する山が、白山連峰南の独立峰・別山(二三九九b)である。この山を北に望み、西峰の小白山・野伏ヶ岳と東峰の大日ヶ岳に護られるようにして、南方に開けた谷間に鎮座する古社が白山中居[ちゅうきょ]神社である。この社を中心に、人びとは石徹白[いとしろ]集落をつくってきた(岐阜県郡上市白鳥町石徹白、昭和三十三年までは福井県大野郡に属す)。
 石徹白から北に視認できる「白山」は別山のことで、そこに暮らす生活感覚からいえば、別山こそが白山の代名詞であろうとおもわれる。白山中居神社は、九頭竜川の源流川の一つ・石徹白川と宮川(朝日添川)が合流する「川合」の地に鎮座していて、別山=白山の水源神が鎮座するにふさわしい立地である。
 石徹白は、同じ白山信仰圏域に立地するほかの集落とは一味も二味も異なる独自性・歴史を貫いてきた集落で、上村俊邦氏によれば「白山中居神社の神領として成立する石徹白では、一村総てが社家社人であって、幕藩時代も領主の支配を受ける事なく、神頭職・頭社人を中心に自治体制を守ってきた」となる(「杉本家系図」解説、『白山信仰史料集』所収)。石徹白がもっている自治・独立の精神が醸成された一因あるいは主因を考えると、それは、藤原秀衡の「君命」によって奥州から石徹白へやってきて定住した「上村十二人衆」とその末裔の存在と関係があるようにおもえる。
 平安時代末、奥州の藤原秀衡は、当地にはるばると家臣団を派遣してきた。明治期に書かれた「中居神社伝」だが、そこには、次のように記されている(『白山信仰史料集』所収)。

 当時陸奥の藤原秀衡、其の子秀康を遣はして白山絶頂の三社、並びに六道社へ神体及び中居神社へ観音像を奉ぜしむ。
 秀康に奉行せしもの上村彦三郎上村助三郎以下十二人あり、此の十二人は永く此の伊野原に止まり神社に供奉して神中の庶務を管理す。すなわち旧来の社人に対して上村十二社人と云う。今の上村姓の先祖なりとす。〔中略〕
 南北朝の頃に至り、世の乱れと共に社人の威令行なはれず社事乱れしかば、神頭・幣主・祝部を始め上村十二人等議して、美濃国粥川・瓢ヶ嶽にありて近郷を感服せしめ居りし、藤原小河合宇合の後裔なる人を迎へて社中の守護を司らしむ。これを白山神社神主の始祖とす。即ち石徹白紀伊守にして正長元年この地に来たり。

 藤原秀衡の子に秀康の名はない。承久の変(一二二一年)をおこした後鳥羽上皇方の武将に藤原秀康の名があるが、秀衡とは時代が合わず、あとで引用するように、「秀康」は「宗庸[むなつね]」の誤転記かとみられる。それはおくとして、秀衡は「白山絶頂の三社、並びに六道社へ神体及び中居神社へ観音像を奉ぜしむ」ために「上村彦三郎上村助三郎以下十二人」を当地へ遣わしてきたという。彼らは「神中の庶務を管理」し、「旧来の社人に対して上村十二社人」と呼ばれたという。石徹白に「旧来の社人」と秀衡派遣の新参「上村十二社人」(上村十二人衆)の二派があったことは興味深い。
 また、「社伝」は、正長元年(一四二八)に「美濃国粥川・瓢ヶ嶽」、つまり高賀[こうか]山・瓢[ふくべ]ヶ嶽の祭祀を司ってきた「藤原小河合宇合の後裔なる人」を迎えて神社の神主としたとしている。藤原不比等の三男が宇合[うまかい]で、その末裔が白山中居神社の神主の始祖となったようである。
「中居神社伝」は、「上村十二社人」(上村十二人衆)を連れてきた人物を「藤原秀康」としていたが、石徹白に伝わる「上杉家系図」は第八代宗庸を、秀衡の「君命」を受けた者として、その詳細な経緯を記している(井上正「美濃・石徹白虚空蔵菩薩坐像と秀衡伝説」、『仏教芸術』一六五号、毎日新聞社)。

宗庸 武右エ門。奥羽両国の太守藤原秀衡に属す。秀衡神祗を崇め、仏法を信ず。或時櫻井平四郎・源正喜と上杉武右エ門・藤原宗庸とを呼びて謂いて曰く、我聞く、北陸之霊岳白山妙理大権現は我国瑞一の御神にして三世擁護之神也、我常に信じ以て一之願を起す。彼の霊岳本地之尊像を調鋳し奉らん。思い念じ畢り既に上下之尊体悉く鋳揃うと雖も、遠国辺土にして未だ其至念を遂げざる也。予恒に汝等の勤労を検[み]て其誠に感ず。汝等彼の所に贈り奉りて我本懐を達せ不る哉[や]否や。若し然らば三郎忠衡を相添える可き也。正喜宗庸謹んで君命を諾応[うべな]い、旧恩云々。是に於て元暦本甲辰年二月二十二日奥の地を発輿し奉り、東山東海両道自[よ]り国々を歴て北陸越前国大野郡白山の麓伊野原石徹白の地に至る。而して上下之神殿を経営し奉りて、同二年文月[ふづき]朔日を以て、始めて上下之尊形悉く安置し奉る。事終りて旧主に復命す。再度社地に来るの時、神職祝部[はふりべ]政家謂いて曰く、御辺は藤原氏の末葉、某[それがし]は異姓為[た]りと雖も先祖は共に王室輔佐之臣也。吾年六旬余りにして男子無し。常に之を憂う。年来御辺は君命を受けて神祗に奉仕す。某之娘を以て妻となし祝部家に合禅[?]するは如何。宗庸応えて云う。某君命を受け神祗に奉仕するは是れ我が所願也と云う。神職政家喜んで娘を以て宗庸の嫁となし祝部職を継が令む。是石徹白に居住せる上杉之始祖也。郎党上村彦三郎同佐之三[?]右京二郎永く白山権現之社人為り。元久甲子二月八日死す。七十才。勘解由と称す。

 藤原秀衡は「北陸之霊岳白山妙理大権現は我国瑞一の御神にして三世擁護之神也」という認識をもっていた。白山妙理大権現が「三世擁護之神」というのは仏法守護神という意味で、秀衡の信仰がよく投影したとらえ方といってよかろう。
 秀衡は「霊岳本地之尊像」を鋳造し、それを白山へ奉納するため、元暦本甲辰年(一一八四)二月二十二日、「櫻井平四郎・源正喜と上杉武右エ門・藤原宗庸」の二人を郎党(上村彦三郎ほか)とともに石徹白の地に派遣すべく奥州を発たせた。彼ら一行が「東山東海両道自[よ]り国々を歴て北陸越前国大野郡白山の麓伊野原石徹白の地」に到着すると「上下之神殿を経営」し、そこに「上下之尊形悉く安置し奉」ったのは翌年(一一八五)の七月一日(文月朔日)のことだったという。一行は、いったんは奥州へもどるも再度やってきて、石徹白に住みつき「社人」となったということなのだろう。
 石徹白の地理的重要性について、井上氏は前掲論文で「石徹白の白山中居神社は中宮神社と禅頂本社との中継点をなす『なかおり』社で、美濃・越前の両馬場からの流れがここで合流する枢要な地点」と指摘している。「中宮」ではなく「中居」を社名にもつ唯一の白山神社が石徹白の白山中居神社である。この社名については一考してみる価値があるのかもしれない。
 白山中居神社は、その立地からもいえるが、白山の地神=別山神のまつりを特別に重視していたことが考えられる。このことは、元文元年(一七三六)から寛保三年(一七四三)にかけての、平泉寺による白山三山支配の動きに対する石徹白社家側の抗議・反駁文をみれば明らかであろう。そこには「(白山)開闢以来南正面道参詣の儀は石徹白社家の支配であり、他の妨げはなかった」、「白山三社というのは別山・大御前・越南知の三ヵ所だが、この内、別山社並びに拝殿等は往古より私共が支配し修復等をしてきた」といった石徹白側の主張がみられる(『白鳥町史』通史編上巻所収)。この主張は幕府寺社奉行(大岡越前守)によって最終的には却下される。しかし、石徹白にみられる別山祭祀への気骨あるこだわりは、明治期の神仏分離における白山秘蔵史料を守り抜く行為にまでみられるものである。これは、かつて藤原秀衡が奉納仏警護の家臣団の定着地を、ほかの地ではなく、なぜ石徹白としたのかということとも関わっているようにおもえる。
 美濃・越前の各里宮(里寺)に対して、白山中居神社が「中居」的位置にあることはそのとおりだが、「中居」ということばについては、『泰澄和尚伝記』が記す、白山神が「貴女」の姿となって泰澄に神託する場面にもみられる。曰く「我は天嶺にありといえども恒[つね]に此の林中に遊び、此の処を以て中居と為[な]す」である。白山の女神が山頂(天嶺)から里に降り立つ場、しかも、この女神にとっては親和的な「遊び」の聖域として「中居」という神託のことばがつかわれていて、このことと、社名「白山中居神社」の「中居」は関係しているとみられる。
 ところで、この家系図に記されている元暦本甲辰年(一一八四)から同二年(三月二十四日に改元して文治元年)という時間をみていると、秀衡が家臣団を白山へ遣わしたのは、むろん白山への本地仏の奉納を目的とするものではあったが、この派遣には、もう一つの目的もあったのではないかとおもえてくる。
 源義経が壇ノ浦で平家を滅亡させるのは元暦二年(一一八五)三月二十四日のことだが、義経はその後、頼朝との亀裂を深めていく。それが決定的となるのは、義経の鎌倉入りを頼朝が拒んだことで、これは同年の五月二十四日のことであった(『吾妻鏡』)。秀衡家臣一行が白山本地仏の「安置」を終えたのは同年の六月一日で、この近似月日は偶然ではないようにみえる。実際、石徹白(白山)には義経や弁慶にまつわる伝承があり、『吾妻鏡』も義経たちの奥州への逃避行の途中経路に「伊勢美濃等」を挙げている。白山への本地仏奉納の君命を受けた秀衡家臣団は、義経救命の密命をも内に秘めて石徹白へやってきた可能性がある。井上氏は「白鳥から北陸への難渋な行路およびその(義経たちの)待機潜伏の護衛役として、宗庸らは(石徹白へ)派遣された」としていて、わたしもそのとおりだとおもう。
 円空が津軽・三厩の地で観音堂を建立して本尊(観音座像)を彫像したとき、その胎内に納めたのは義経の護持仏・守護仏と伝承される白銀の聖観音であった(縁起では、円空は「霊夢」によってこの観音の来歴を感得したとされる)。義経が泰衡の手によって衣川館で滅び、つづいて頼朝軍によって奥州藤原氏が滅ぶのは文治五年(一一八九)のことだが、義経は、少なくとも白山から平泉までは逃げのびている。義経の守り本尊が聖観音であったことを白山に重ねると、この観音と習合する白山神は「大山(白山)の地神」であった。「白銀の聖観音」の「白銀」は、白銀[しろがね]を装った白山のことだったのかもしれない。
 文治五年、奥州藤原氏・奥州独立国が滅んだことで、石徹白の上村十二人衆は帰るべき故郷を完全に失った。平泉からはるかに遠い「辺土」にいた上村十二人衆の無念の心中に残されたのは、亡き奥州の同朋たちへの鎮魂・供養の気持ちと、藤原秀衡の白山信仰・白山神守護という「君命」、つまり、今は遺命となったが、秀衡の白山信仰に込めた絶対祈願のおもいであったことが想像される。秀衡の絶対祈願とは、祖父清衡にすでにみられる、官・賊という不毛な対立の構図を超える新たな思想・信仰への祈願である。


四 石徹白への道

 白山信仰の内部に少しでも立ち入ろうとすると、そこには不可思議というしかない強い禁圧のヴァリアがあることに気づく。たとえば、泰澄ゆかりの西神頭家に伝わる「洲原白山并安定由緒書」には、次のような記述がある(筆者読み下し)。

一 内伝は、神託、加持法、三種之神歌、七種之神歌、十一面之法也。
一 外伝は、秘密榊之法なり、榊の本枝を注連に着ける。みだりに他家に許さざるものなり、吾家の秘事なり。

「内伝」については、由緒本文で、養老六年(七二二)に泰澄と弟・安定[やすさだ]がともに白山へ再登山したとき、かつて十一面観音を感得・出現させた「転法輪之岩屋秘密之檀上」で泰澄が安定に直々に授けたのが「白山内伝」とされる。この「内伝」の内容は「秘密三種之神歌、七種之神歌、神託、加持之法、十一面之法、白山秘文之神宣」で、さらに泰澄曰くとして「秘伝之法は一子口授相承である、盡未来際(未来永劫)他聞を許さざるべきものなり」と、「一子口授相承」、つまり、文字に残すことなく継承者一子に口伝えで伝えるもので、他聞(口外)は許さないとされる。こういった禁忌・禁圧は尋常ではないが、部外者があれこれ斟酌することではないらしい。
「外伝」については、これも由緒本文に少し語られている。泰澄は養老五年(七二一)閏三月、長良川(本文は「長川」)河畔に清浄地を選んで「下品下生之浄土」と見立て、白山山頂の祭祀を再現するように洲原白山神社をまつったという。その祭祀は、神体山(鶴形山)の山頂奥宮を「内宮」とし、そこに白山三尊をまつり「女人結界之山」とする、また、この山の麓・長良川河畔に里宮を「外宮」として建て、そこにも白山三尊をまつり、特に十一面観音については地蔵菩薩を「前立」として配し、ここまでは「男女結縁之参詣」を許すこととした、というものである。泰澄はさらに、同年十一月一日「丑之刻」(深夜二〜三時)に「秘榊之神」を「外宮」に迎えて、この神に「百味之供物御酒」を捧げ、「管弦伎楽之鐘鼓」を鳴らし、そして「三種之神歌」を奏上したと書かれる。
 旧暦十一月といえば冬である。そんな冬の深夜に、里宮「外宮」に「秘榊之神」なる謎の神がどこから、また、なぜ迎えられたのかを由緒は記さない。しかし、この神に「白山内伝」(秘伝)の一つであった「秘密三種之神歌」が奏上されていることをみると、おそらくは、この神は鶴形山山頂奥宮「内宮」から迎えられたものと考えられる。白山山頂の祭祀を擬した鶴形山山頂「内宮」から、泰澄によって秘密裡に迎えられたのが「秘榊之神」である。しかし、泰澄によって洲原白山がまつられたとき、ここにはすでに牛頭天王の祭祀があった(小林一蓁「白山美濃馬場よりみた白山信仰」、『白山・立山と北陸修験道』名著出版所収)。寛文十二年、円空は牛頭天王を「女神」像として彫像していたが、牛頭天王とも習合する本来の白山神を「秘榊之神」という象徴的・暗号的な呼称で呼んでいることに、泰澄あるいは西神頭家の真摯さ、あるいは孤独がみえてもくる。
 洲原白山神社の分社に葛懸[かつらかけ]神社があり(岐阜市池ノ上)、同社の神が禊祓の神でもあり県[あがた]神でもあること、つまり、瀬織津姫という神であることについてはすでにふれた(「阿賀田大権現とはなにか」、『円空と瀬織津姫』)。瀬織津姫の長い神名は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」で、ここに「撞賢木[つきさかき]」つまり「憑榊」がみえる。前にもふれたが、鳥井源之丞『熊野道中記』(享保七年)に、熊野参詣の途次、「瀬織津姫社」に立ち寄った記録がある。鳥井は、この瀬織津姫社は「社なし榊一本あり本宮より四町西にあり本宮末社也」と書いていて、瀬織津姫という神が、榊神、あるいは榊に憑依する神であることをよく伝えている。洲原白山=鶴形山の「秘榊之神」は、まさに「内宮」の秘神である瀬織津姫神を指しているとみてよかろう。
 円空も後年(巳年〔延宝五年または元禄二年か〕)、「榊」(神)を詠んでいる。

  あら玉の神の榊を再拝
   今日巳の年とさかへまさるハ(歌番三二四)
  しら山や法の己(巳)の日(の)神なれや
   ぬさと手向くる榊葉も哉(歌番三六〇)

 西神頭家の「由緒書」は、里宮(外宮)において十一面観音の「前立」に地蔵菩薩をまつるとしていたが、この里宮の「右傍」には「即ち地蔵大士の垂跡なり」とする「十王堂」をおいたとする。さらに「地蔵菩薩即ち十禅師なり」とも解説していて、ゆえに、洲原白山神社は「三所妙理白山十禅師大権現」と称すとしている。
 藤原秀衡は、白山本宮や石徹白の白山中居神社はいうまでもないが、この洲原白山神社も重視していたようだ。『白山名所案内』(安永六年)は「十禅寺 彦火瓊々杵尊」の項を、次のように「案内」している(『白鳥町史』通史編上巻)。

白山三社を境内に勧請し今号洲原白山、白山三社之神宝者奥州之大守秀衡卿御寄附、御幸之時於当社暫く御滞在ましまし、神慮をすすしめ奉る、是より麓石徹白迄八日めに着御まします。

 秀衡が洲原白山へやってきたように書かれているが、実際のところは、秀衡家臣団の立ち寄りであったとみてよかろう。それにしても、奥州の平泉にいる藤原秀衡が、白山信仰における洲原白山の存在と、その重要性を正確に認識していたとは、おそるべき情報収集力といわねばならない。
 秀衡の時代からおよそ一五〇年後の「正慶二年(一三三三)、十七代当主・西神頭安宗は郡主の命令によって洲原神社を追われて美並村に移り、村一帯の神職を務めるだけの神主になった」とされる(梅原猛)。この追放の理由はわからないが、西神頭家が洲原白山からいなくなったことで、洲原白山神社の祭祀は、その後大きく変容していったことが想像される。安永六年(一七七七)の時点で、洲原白山の神は「彦火瓊々杵尊」などと「案内」されていることに、その変容のさまがよくうかがえる。美並村へ追放された西神頭家が、泰澄ゆかりの洲原白山の祭祀変容をどうみていたかはわからないが、しかし、その祭祀とは無縁の場所にいたにもかかわらず、この貴重な由緒書を現代にまで伝えてきたことは、これも驚嘆に値する。西神頭家の泰澄伝承と一体の白山信仰は、それほどに深いものであったとみるしかない。
 このことは大いに認めるものだが、しかし、泰澄は、白山主神の本地仏は十一面観音、その垂迹神は伊弉册[いざなみ]尊と西神頭家に伝えてきたことは事実で、このことは、同家に伝わる「白山本地十一面観音式礼拝文」でも繰り返されていた。巻末の白山三尊の「御詠歌」を読んでみる(『美並村史』史料編所収)。

御詠歌 三首
別山大権現 本地聖観音 号菊理姫尊
 霊[タマ]ガキハ雲ヨリ上エニアラワレテ幾クヨ久[ヒ]サシキ越[コ]シノ白ラ山
太御前   本地十一面観音 号伊弉册尊
 雲ハミナ谷ニシズミテ久サカタノ月ニハ近キ越シノ白ラ山
高祖太汝  本地阿弥陀仏 号太己貴命
 後チノ代ヲ思イナズケニタゝタノメ越シノ白ラ根ノアラヌカギリハ

 西神頭家の無念は泰澄の忸怩たるおもいとも重なっていて、これら三首の御詠歌にはどこか哀調がある。特に三首めは、幾重にも「秘伝」の禁圧を生きてきた泰澄─西神頭家による、白山信仰を後世(後チノ代)に託すおもいが歌い込まれているようだ。
 円空もまた、この白山三尊の御詠歌を口ずさんだことがあったにちがいない。


五 石徹白に伝わる白山秘蔵文書

 遠野郷で早池峰大権現あるいは十一面観音に何が期待されていたかといえば、それは「救世之大士十一面之尊像」ということばがよく表しているように(「妙泉寺継図并兼記」)、一言でいうなら「救世」に尽きるだろう。このことは、たとえば、延宝九年「早池峯山若宮棟札」には「早池峯大権現、此ハ是レ濁世末法之教主大悲聖十一面観世音之垂迹也」、貞享二年「早池峯山本宮之棟札」には、同じような讃辞だが「早池峯大権現、此ハ是レ濁世末代之教主大悲十一面観世音菩薩之和光垂迹也」と記されているように、「濁世末法(末代)」の世にあって、十一面観音には「救世」の徳が切に期待されていた。早池峰大権現=十一面観音自身、「我レハ是レ救世大士也。衆生済度ノ為、此山(早池峰山)ニ垂迹ス」と自ら宣言(託宣)さえしている(「早池峰山縁起」)。
 西神頭家に伝わる、泰澄作「白山本地十一面観音式礼拝文」本文には、この観音に誓願すれば「十種之勝利」が得られるとしている。それらを要約的にいえば、無病息災、十方諸仏会見、財宝衣食満足、怨敵退散、疫病魔退散、毒薬毒虫退散、刀杖害無縁、水害無縁、火害無縁、横死(行き倒れ)無縁、である。十一面観音の「徳」がいずれも現世利益的であることがわかる。これらはまさに「衆生済度」の徳目であるが、しかし泰澄一人は別だったようで、「本尊は澄水たり、我等は濁波たり」と、十一面観音に聖なる水徳こそをみていた。したがって、この観音のもつ水徳の宿る「慈宝」「尊珠」は「濁水にあるときは、その滴をたちまちに清くかえ、信水にあるときは、(我等の)妄想の濁りもまさに澄めり」となる。ここでいう「信水」とは、この観音と信仰者をつなぐ「信」の関係意識をいっているのだろう。
 泰澄は「鎮護国家法師」の立場上、秘さねばならぬ神を白山三尊の背後に封じたが、そこに封じた神を厚く遇することを忘れなかった。それが、先にみた「秘榊之神」への闇の祭祀とみてよい。泰澄の、この神に対する二重意識は、ほかにも例を挙げることができる。
 加賀の白山比盗_社(白山本宮)の参拝者用大駐車場の片隅に「河濯尊大権現堂」という小堂がある。一般の参拝者は、おそらく気にもかけずに神社へとまっすぐ向かうだろう。このお堂の由来を読んでみる。

河濯尊大権現堂之由来
当御本尊はむかしよりカハスソサマと称へられて難病を御済いくださると信ぜられ殊に下半身の諸病には御霊験あらたかにして祈願参拝の人又御礼詣りの人、日に日に盛んなり。伝説には泰澄大師御自作と謂と雖も往古より度々水火の難により大破損の為に信者之を大修繕を為す。〔中略〕元は神社地内白山参道脇の小祠に鎮座ましましたが明治の頃二回の火難の為に此の処に遷したてまつり現在に至る。遠近の敬信いよいよあつし。然れば病魔の苦しみある人は一たび御参拝なされて病魔退散の御利益をいただきなされ。ゆめゆめ疑う勿かれ。

 河濯尊大権現は、白山比盗_社(白山本宮)の社地内にまつられていたが、「明治の頃二回の火難」にあい、そのために現在地へと遷座してきたという。泰澄ゆかりの権現であり、白山比盗_社は当然詳しい由緒を知っているはずとおもい社務所で尋ねてみたが、神社とは一切無縁であることを繰り返し強調するのみだった。本尊は、度々の「水火の難」のため泰澄の彫像から石像に変わっているようだが、その容姿はチャーミングな女神像といってよい(写真)。
 泰澄が洲原白山で「秘榊之神」として闇の祭祀をしていた瀬織津姫神は、カワスソ神・カワソソ神とも呼ばれていた。この神の祭祀は蝦夷地(北海道)に複数みられ、また琵琶湖周辺にまつられる唐崎神の異称でもあることについてはすでにふれてきた(「北辺の神への鎮魂」、『円空と瀬織津姫』参照)。加賀・白山本宮における、瀬織津姫神の痕跡を伝える、おそらく唯一のものが、この泰澄伝承をもつ河濯尊大権現である。泰澄が加賀の白山本宮で、この神を「河濯尊大権現」として彫像したという伝承が語ることはなにかといえば、それは、「河濯尊大権現」に秘された神を「鎮護国家」の建前のために白山の主祭祀からは消去するも、その存在までは完全に消すことをしない(できない)という泰澄の複雑なおもいである。
 加賀・白山本宮と対極的といってよいのが、石徹白の伝承である。石徹白には泰澄母子伝承・信仰が色濃くみられ、そのことと関係するが、白山信仰の秘蔵史料が二種伝えられている。その他「秘蔵」ではないものの、石徹白には貴重な白山関係史料が伝わっている。これらは、上村俊邦編『白山信仰史料集』としてまとめて読むことができる。
 さて、秘蔵史料二点だが、一つは『白山大鏡』という。同書奥書には「末代の秘本なり。輙[すなわ]ち拝見に及ぶべからず」と書かれ、これは、白山中居神社にまつられてきた泰澄像の胎内に秘されてきたものである。この泰澄像は、江戸期まで白山中居神社にながくまつられてきたが、明治の神仏分離から廃仏へと過激化するなかで、あやうく廃棄されるところを泰澄信奉者の社人によって一命をとりとめたものだった。
 二つは『白山禅頂御本地垂迹之由来伝記』である(以下『由来伝記』と略す)。上村五郎左衛門家、上村太郎兵衛家、そして山崎惣兵衛家に秘蔵されてきたという。たとえば、上村太郎兵衛家本の奥書には、次のように記されている。

右此本は秘秘の上に秘御座候らえば、粗忽に取り扱い致すべからず物なり。他見堅く無用。
明治三午年二月 上村日向藤原眞信写 六十六中石徹白 上村多門様へ上げる。

 明治三年という書写時期は、神仏分離から廃仏へと向かう時代にあたっている。秘かに転写された山崎惣兵衛家所蔵本の奥書の文面はこうだ。

右此書物は白山大権現極秘に御座候らえども、石徹白五郎左衛門明治三年に書写下されたるを山崎尾之助八十一才の秋九月書写す。大切に後に見る可し。他人にカセルベカラズ。

 秘蔵縁起二書は、加賀側の『大鏡巻』および『白山禅頂私記』との類縁がみられるようだが(由谷裕哉『白山・石動修験の宗教民俗学的研究』岩田書院)、石徹白本を読むとき、むしろ異縁の記述を中心に読み解くべきだろう。この異縁の記述こそが、石徹白秘蔵縁起を際立たせている。
 石徹白に伝わる秘蔵縁起二書の奥書にみられる「末代の秘本なり」、「此本は秘秘の上に秘御座候」、「白山大権現極秘に御座候」といった「秘」にこだわることばが、なにゆえこれほど過剰に記される必要があったかを考えてみる必要がある。私見では、その理由は二つあるものとみている。一つは、中央の祭祀思想が歴史的にもっとも表に出してはならないとする神の名がここには堂々と記されていること、二つめは、『由来伝記』は「白山大鏡の補完史料」と解説されるように、両書を組み合わせて読むと、そこから、本来の白山神が紙背から浮き立ってみえてくる仕掛けがなされていること、である。


六 白山信仰にみる瀬織津姫神

『白山大鏡』は、藤原道長の子・能信を作者としているが、その真偽の探究は、おそらく、本縁起がもっている「秘書」性の本質とはあまり関係がないとおもう。同書は、記紀の神代の記述と泰澄による白山の神仏祭祀(神仏混淆祭祀)を織り交ぜながら、途中、この世の諸苦を救う、まさに「救世大士」の神を、次のように登場させている。

正殿南道を以て、正法明如来の道に指[しめ]す。越南路西の道を以て、等覚菩薩道に当てる。源は仏説に出て妙理は泰澄の誓なり。一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊の垢を洗う。妄業の闇忽[たちまち]に晴れ、籃[かご]の渡しに及ぶ。険難の三途大河を亘[わた]りて、現身[うつしみ]に於て直[ただち]に見仏聞法の仏土に至る。情有りて唱うべし。生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る。

「瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし」──。かつて、藤原秀衡が奥州一の宮の神として、つまり、奥州鎮護の最高神として加護を祈った神の名が、ここには堂々と記されている。秀衡の浄土思想・信仰を支える存在を、「仏」ではなく「神」の位相でみるなら、ほかに代替できる神はまず存在しないだろう。また、『白山大鏡』の作者は、中臣神道(中央の祭祀思想)および天台の護国仏教が、「瀬織津比唐ニ云う神」を大祓神から三途川の姥神とみなしていたこと、あるいは三途川の脱衣婆とも習合する神とみなしてきたことをよく認識した上で、この神への一方的な貶称化を一八〇度反転させて「苦」を救う最高神と称賛している。
『白山大鏡』は、もう一ヶ所、瀬織津姫の名を記していて、こちらは、救世神といった性格とはずいぶんと趣を異にする書き方がなされている。白山里宮七社の一つである佐良宮(早松宮)にはウガヤフキアエズ尊がいるとするも、それにつづくことばである。

地神第二子・白山瀬織津置倉宮は東馬場の麓の宮に坐す。東夷異国の征伐を為し神宮を東の麓に卜す。託宣記に曰く、慶雲二年、我大将軍と為り兇賊の陣を誅し平らぐる。天慶年中、官軍鎮飽し、一乗の法味の勢力我に勝る。

 原文は返り点もなく、読み下しについては、最後の「天慶年中官軍鎮飽一乗之法味勢力勝我」の部分が正確かどうかは少し心もとないことをお断りしておく。
 仮に読み下したものの難文であることは変わらないが、それでも、ここから読み取れることを整理するなら、「白山瀬織津」つまり瀬織津姫は「地神第二子」「置倉宮」の神とみなされ「東馬場の麓の宮」に鎮座していることがまず挙げられよう。あとは、この神が「破軍」の力を有していることが語られているようだ。
「置倉宮」の「置倉」については、泰澄が越智峯(越智山)から蓬莱神仙白山峯へと向かうときの白山絶頂の説明「此峯(蓬莱神仙白山峯)は高天原千木千倉置倉の峯なり」にもみられる。この「千倉置倉」は、大祓祝詞(中臣祓)中の一文「大中臣、天津金木を本[もと]打ち切りすえ打ち断ちて、千座[ちくら]置座[おきくら]に置き足[たら]はして」云々の「千座置座」からきているものだろう。大祓における「千座置座」は、罪をなした者がその代価の品々を差し出しおく台のことで、そこで大中臣が祓祝詞によって罪人の「罪」と「穢れ」の解除[はらえ]をおこなうとされる。「白山瀬織津」が大祓の神力を備えているゆえに「置倉宮」なのだろう。
『白山大鏡』の「千倉置倉」は、『由来伝記』にも「凡よそ白山絶頂は高天原凡天宮、千倉[ちくら]天神・置倉[おきくら]地神の雪嶺なり」と書かれ、「白山絶頂」(禅頂)には「千倉天神・置倉地神」の二神がいるとされる。
 大祓祝詞(中臣祓)の「千座置座」が白山山頂の「千倉置倉」「千倉天神・置倉地神」に濃厚に投影している。こういった記述が白山秘書の二書にみられるのはきわめて重要である。
 なお、『白山大鏡』は、「梵宮神仙の峯」で「瀬織津比唐ニ云う神」と出会うと書いていたが、この「梵宮」と『由来伝記』が記す「高天原凡天宮」は同一ということなのだろう。
「此峯(蓬莱神仙白山峯)は高天原千木千倉置倉の峯なり」──白山山頂は千木高く聳えた高天原で、ここは千倉置倉の峯だという。ここには「置倉地神」(白山瀬織津)と「千倉天神」なる神が鎮座している。「千倉天神」とはなにか。
 この「千倉」については、『白山大鏡』は「白山蓬莱神仙千倉日天宮、南馬場の麓の宮に坐す」とし、「日天宮」との関わりを示している。大祓祝詞(中臣祓)において、瀬織津姫神という川神・滝神と「対」の関係を有する神といえば「気吹戸主[いぶきどぬし]」という風神だが、この神は「多賀宮一座。豊受荒魂也。伊奘諾尊所生神。名伊吹戸主」とされる(『倭姫命世記』)。ちなみに、瀬織津姫については「荒祭宮一座。皇太神荒宮魂。伊邪那伎大神所生神。一名八十枉津日神也。一名瀬織津比盗_是也」と書かれ、いずれも「伊奘諾尊(伊邪那伎大神)」が誕生させた神(所生神)としている。大祓祝詞にみられる男女神の名が、神宮(内宮・外宮)の第一別宮にみられること、これもきわめて重要である。
 神宮において、そもそも瀬織津姫神と一対の祭祀がなされていたのは男系太陽神の天照[あまてる]大神(日神)であった(菊池展明『エミシの国の女神』風琳堂)。神宮「地神」二神の一神であった男系太陽神は故祭地から放逐され、さらに罪穢れを吹き飛ばす風神の性格をもたされて大祓神・気吹戸主神に変じたものとみられる。これは、瀬織津姫神が同じく神宮の「地神」祭祀から「天照大神荒魂」へと変名化され、さらに大祓の神に封じられたことと連動したものとみてよかろう。白山においては、この日神は「千倉天神」「千倉日天宮」の名で記されているようだ。『白山大鏡』は、白山山頂における日天宮の鎮座地について、次のように記している。

一 伊弉册尊日天宮曰く、白山蓬莱神仙峯千倉宮に坐す〔高天原の一なり〕。
二 伊奘諾尊月天宮曰く、香集光明世界主宮、千倉宮科戸[しなど]方戌亥(に坐す)。

 日天宮は「白山蓬莱神仙峯千倉宮」に鎮座し、月天宮は山頂の千倉宮の北西(戌亥[いぬい])に鎮座しているという。「科戸[しなど]」は風のことで、風神・気吹戸主神との関係を匂わせている。それにしても、伊弉册尊がなぜ日天宮にいて、伊奘諾尊がなぜ月天宮にいるのかという問いも浮かぶが、千倉宮との関わりで日天宮と月天宮という日月の宮が記されていることを重くみるべきなのだろう。本文は、この二行につづけて「白山王子二神御子」の宮を記す。

  第一 天太神宮〔大隼人云〕以一身千人化邪見之故〔第二御子行事前立成大隼人〕
  第二 天照太神宮〔日本主天神地祗棟梁神主也〕出雲居、号大神〔天照太神宮是也〕

 あえて原文を引用したが、千倉天神と置倉地神、日天宮と月天宮、そして天太神宮と天照太神宮と、これらが一対の関係のもとに語られていることは伝わるだろう。天太神宮は、ここにしか出てこない宮名だが、天照太神宮と対の関係にあること、および「第二御子行事」と注があることに注意する必要があろう。白山における天照太神が男神・女神のいずれかは『白山大鏡』でははっきりしないが、『由来伝記』のほうの記述は明快である。

于時[ときに]、伊奘諾・伊弉册の御子に四神[よはしらのかみ]御坐[いま]し、一女三男と号す。一女と云うは蛭子の明神、三男とは日神・月神・素盞嗚尊がこれなり。日神と申すは地神五代の最初、忝[かたじけな]くも一天四海の総領・天照大神宮、伊勢国山田原五十鈴川の上に垂迹し給う。〔中略〕
 月神と申すは、豊後国に御座[おわ]す宇佐八幡宮是なり。〔中略〕
 素盞嗚尊は乙子[おとご]を愛育し給う。八百万代の神達御心をなぐさめて、十月出雲国に宮を作りて移らせ給う。

 イザナギの子神四神の誕生譚は記紀神話の要の一つだが、その神話の舞台では、天照大神は「女神」であったはずだ。ところが『由来伝記』は、子神の「三男とは日神・月神・素盞嗚尊がこれなり」と「三男」と書いてはばからない。また、神の性別を問わなければ、「月神と申すは、豊後国に御座す宇佐八幡宮是なり」という認識は、豊前・豊後の誤認はあるものの、これは基本的にまちがってはいない。宇佐八幡宮の大元神である比売大神(宗像女神)こそが月神であったからだ(「恐山の地神供養」、『円空と瀬織津姫』)。この月の女神と対の関係にあるのが日の男神で、先の『白山大鏡』にもどれば、天照太神と「対」の関係にある謎の天太神(第二御子行事)は月の女神でもあることがみえてこよう。
『由来伝記』の作者は、記紀神話を随所にちりばめながら(子神誕生という入れ子構造の複雑さを仮装しながら)、また、泰澄の白山開山伝承を織り込みながら、神宮祭祀の「秘」の部分(地神男女神の一対神祭祀)については、その照準を狂わしていないようだ。
 以上、抽出してきた記載をここで整理してみるなら、まず、白山絶頂には「置倉地神」(白山瀬織津)と「千倉天神」なる大祓神二神が「対」の関係で鎮座している、そして、千倉宮=日天宮の北西には月天宮がある。千倉宮=日天宮ならば、置倉宮=月天宮とみなしてよいのだろう(月天宮は天太神宮ともなる)。
『白山大鏡』は、月天宮の異称を「香集光明世界主宮」としていた。この「香集光明世界主宮」については、同書は「天照太神宮」の記述の直後に「香集世界宮は焔魔宮と号す、三界六道の罪業、衆生一度参詣致せば、永く無数の地獄・罪業の苦を免れる。越南智[おなんじ]宮の麓なり」と説明している。浄土世界の手前の地獄の光景は、あの瀬織津姫讃歌ともいえる場面「一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊の垢を洗う」を踏まえての記述であることがわかる。
『白山大鏡』『由来伝記』の作者は、置倉宮=月天宮の神が「地神第二子・白山瀬織津」「瀬織津比唐ニ云う神」であること、また、天照太神宮と対関係をなしていた天太神宮(第二御子行事)の神も同神であることを明らかに告げようとしている。白山には、多くの子神・眷属神を配する複雑な祭祀がみられるが、その地肌には、神宮に皇祖神がまつられる前の基層神(地神男女神・日月神・火水神)と同じ祭祀がまちがいなく投影・残存している。
 なお、『由来伝記』は、イザナギの子神「三男」は、日天宮(日神)は男神・天照大神で、月天宮(月神)も男神・宇佐八幡神、素盞嗚尊は出雲にいるとしていた。ここで「三男」は「三女」のまちがいだろうと変更を迫られるなら、天照大神は記紀神話に準じて「女神」となってそれなりに整合するが、しかし、月神および素盞嗚尊も「女神」となり、これでは逆に、記紀神話の創作の「秘法」があぶりだされる仕掛けとなっている。月神は本来は女神であった。素盞嗚尊も、女神を背後に秘めている可能性については、円空自身が通念の再考をうながす彫像をすでにしていた。『由来伝記』の作者は、天照大神を女神とするなら、月神を男神とみなす記紀の表記は詭弁であることを暗に主張している。
 以上、抽出・整理したことからみえてくるのは、『白山大鏡』と『由来伝記』の二書が秘めている壮大な仕掛けの思想である。白山における浄土信仰の側面から「瀬織津比唐ニ云う神」の神徳を最大限に讃え、そして、「置倉地神」という大祓神「地神第二子・白山瀬織津」は「白山絶頂」にいるとする。白山の主尊である十一面観音あるいは白山妙理大菩薩(大権現)としての伊弉册尊という字面上の記述の行間から、「瀬織津比唐ニ云う神」が白山信仰における最重要な神「白山瀬織津」として、いつのまにか浮き立ってくることになる。
 石徹白に伝えられてきた秘蔵の信仰史料の所有は、藤原秀衡の家臣団「上村十二衆」の末裔である上村各氏の強い意志によるものだった。秀衡がもっとも崇敬した神の名を、白山(信仰)から消してはならないとする秀衡の遺志は、『白山大鏡』『由来伝記』という秘蔵書に確実に貫かれていた。秀衡の遺志と祈願の心は、石徹白の地で信仰の地下水脈をつくっていたといってよいだろう。


七 泰澄からのメッセージ

『白山大鏡』『由来伝記』に秘められた仕掛けを読み解くならば右のようになるが、白山信仰における秘祭解読の仕掛けを最初にしていたのは、ほかならぬ、白山「開山」者とされる泰澄その人であった。
 泰澄は養老元年(七一七)、勅命によって、つまり「鎮護国家法師」の名のもとに、白山を十一面観音・阿弥陀如来・聖観音の三尊がいる山とし、白山の本来の「地神」を、これら三尊の背後に封じた。この時点で、泰澄の鎮護国家法師としての仕事は基本的に終了したはずで、朝廷の祭祀権力者たちは大いに安堵したであろうことが想像される。
 この大仕事のあと、泰澄は朝廷から絶大な信任を得ていった。養老六年(七二二)に元正女帝の不予(「御悩」)を快復させ、ついには「本地垂迹の霊験此れより弥[いよいよ]顕[あらわ]れ、和尚の高行[こうぎょう]殊に以て鼓動し、天皇帰依し護持僧となす。授くるに禅師の位を以てす。諱[いみな]は神融禅師と号す」とまで書かれる。また、天平九年(七三七)には疱瘡の全国的流行を「十一面の法」によって鎮めたことで、聖武天皇も泰澄に帰依し、「大和尚の位を授く、諱を泰證と号す」とされるも、泰澄は「證」の字を「澄」に改めたいと申し出て「泰澄」の名が確定したとされる(『泰澄和尚伝記』)。
 伝記が記す泰澄の表の顔ははなばなしいが、しかし、泰澄は、たとえば洲原白山では「秘榊之神」を迎える闇の祭祀をおこない、加賀の白山本宮では、神社からは無縁の宣告を受けて境外に放逐される「河濯尊大権現」の神像を彫像したりもしていた。泰澄には、朝廷に向ける顔と本来の白山神に向ける顔と、二つの異なる顔があった。
 白山が「開山」された養老元年(七一七)は『日本書紀』(七二〇)が成る三年前にあたる。本書を日本の「正史」として公開し、対外的にも対朝廷内(国内)にも皇統を中心とした祭政思想の統一を示すというのが、書紀編纂の企画骨子だった。したがって、書紀の公開の前に、本書の神話体系に不都合な神々の祭祀は消去する必要があり、このことと白山「開山」は関係しているとおもわれる。
 白山が泰澄によって「開山」された翌年の養老二年(七一八)の創建とされるのが天竜川河口に鎮座する津毛利神社である(静岡県浜松市参野)。同社由緒(境内案内)は、「元正天皇の御代舎人親王、藤原不比等公、勅を奉じ遠江灘の鎮守として摂津の住吉神社より荒魂を勧請奉祀す」と書いている。しかし、ここは、不比等たちによる創建の「前」があり、津毛利神社は養老二年(七一八)の時点で「勅」による明らかな祭祀改竄があった(「藤の呪力」、『円空と瀬織津姫』)。同社の現祭神は「底筒男之命、中筒男之命、上筒男之命」とされ、これらは住吉大神の「和魂」とされるが、では不比等たちがまつったとされる「荒魂」はどこへいったかといえば、それは「荒祭社」であった。この社は明治六年(一八七三)の時点までは摂社として存在していたが、それまでの祭神は「枉津日命」であった(「津毛利神社文書」)。不比等たちに「枉津日[まがつひ]命」と変名化された神が「秘榊之神」と同神であることはいうまでもない。
 津毛利神社は「西舞坂より東掛塚に至る四十六村の総鎮守」ゆえに「四十六所大明神」の異称をもつ大社であった。それほどの崇敬を受ける神(書紀が記載しない神)をそのままの名で放置して『日本書紀』を公開するわけにはいかず、ときの右大臣たちの直々の下向となったのだろう。同じことが、白山という山岳では「鎮護国家法師」泰澄に命じられたのだ。
 泰澄は、朝廷の意向どおりに白山の「地神」を白山三尊の背後に秘した。しかし、泰澄はこのとき、一見奇妙ともいえる三尊構成を創造した。本郷真紹『白山信仰の源流』(法蔵館)は「本尊たる白山妙理大権現の本地が十一面観音であるのに対し、左脇侍の位置にある小白山別山大行事が同じ観音である聖観音、一方右脇侍の位置にある大己貴が阿弥陀如来というのは、我々がよく目にする阿弥陀三尊などの位置関係からしても、また観音が修行中の菩薩であるのに対して阿弥陀はすでに悟りを開いた如来であるという点からしても、いささか奇異な感を禁じ得ない」と、白山三尊の設定に「奇異」を指摘している。
 わたしの「奇異な感」の重点は、菩薩の下(脇侍)に如来を配したことよりも、十一面観音を中尊とする白山三尊形式に、泰澄が「同じ観音である聖観音」を配したことにある。阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)もそうだが、たとえば熊野三山は、三尊を阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(那智)としていて、三尊形式に「同じ観音」を二種配するというのは白山のみといってよい。
 白山三尊中の阿弥陀如来については、『白山大鏡』が、白山浄土信仰の記述展開として、三途川における「瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし」と記していたことで、この神が阿弥陀如来とも習合することを強く示唆していた。残る二尊、つまり十一面観音と聖観音については、両観音の関係を考えてみれば、十一面観音がまず変化[へんげ]観音であるということに気づく。では、十一面観音は何から「変化」したかといえば、それは聖観音で、聖観音こそが「原」観音である。もっとも、十一面観音ほかの変化観音が「観音」から派生的につくられたことで、その元の観音を変化観音から区別するために「聖」あるいは「正」をあとづけしたものが聖(正)観音とされる。
 泰澄は十一面観音と聖観音という「同じ観音」を白山三尊の中に忍ばせた──。泰澄のこの意図は、白山御前峰という「絶頂」の十一面観音と、別山の聖観音は、ただ「変化」の関係にあるのみで異質な観音ではないということにあるのだろう。泰澄のこの意図を、これらの観音と習合する神に置き換えるなら、十一面観音と習合する白山比盗_(伊弉册尊を仮装する)は、聖観音と習合する「小白山別山大行事」という神(白山の首座を譲って移ったとされる別山神)が「変化」したもので、両神もまた異質な神ではないということになる。
『由来伝記』は、白山七社を北斗七星の「七星」に見立て、「小白山(別山)大行事権現」の本地仏である聖観音は「禄存星」、白山山頂の十一面観音は「巨門星」とするも、里宮「岩根之宮」の項では「本地十一面観音、七星の中の破軍星是なり」としている。
 この十一面観音(と習合する神)がもっている「破軍」の性格については、「地神第二子・白山瀬織津置倉宮は東馬場の麓の宮に坐す。東夷異国の征伐を為し」云々という『白山大鏡』の記述に対応している。「東夷異国」の陸奥国・早池峰山では、瀬織津姫神と習合する十一面観音は「濁世」における「救世大士」に終始していたが、白山においては、「置倉宮」にいる大祓神という性格が突出して、「東夷異国」を祓う(征伐する)「破軍」の力をもつ神とみなされていたようだ。
『由来伝記』は「地神五代之神は、第一は日域嚢祖[のうそ]之神として、伊勢大神宮と顕[あらわ]れ、第二は小白山別山大行事権現なり」と書いていた。この「大行事」については、その名も「大行事神社」が静岡県掛川市下垂木にあり、同社主神は瀬織津姫である。日神=天照太神と対をなす月神=天太神もまた「第二御子行事」であった。小白山別山大行事権現も、この十一面観音背後の神と無縁ではない。
 泰澄が設定した白山三尊のいずれの仏にも、瀬織津姫という伊勢の秘神が投影していた。洲原白山において、泰澄は、自らが三尊の背後に封じた本来の白山比盗_「秘榊之神」を慰謝鎮撫するために、冬の深夜に闇の祭祀をしていた──。この泰澄の思いがあったゆえに、白山三尊に「同じ観音」二体を配すという暗号的設定をしたものとみえる。泰澄の二律背反ともいえる心意・真意を汲んだ泰澄研究、あるいは白山信仰の研究はこれからなのだろう。


八 円空の確信

 泰澄がみていた「秘榊之神」の「榊」については、「真賢木[まさかき]を取りて祓い」などと記されるように(白山中居神社に伝わる『越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻』、『白山信仰史料集』所収)、白山においては、明らかに「祓い」の神が憑依する神木とみなされていた。石徹白における、神道側による史料にも、瀬織津姫の名はみられる。
 雄略二十一年九月一日の夜、「中津国比婆之大宮」にいる白山媛太魂神は「吾所生の越州中において、〔中略〕日は赫[かがや]き、月明らかに萬光満足[みちたり]し処を吾所在に欲するなり」と大途見彦命に神託をした。この神託を雄略に奏上すると「勅詔」が下り、大途見彦は舎人十人を連れ、白山への神幸(遷宮)の旅に出る──こういった書き出しではじまるのが『越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻』である。ちなみに、大途見彦[おおのとみひこ]命は「石徹白社家の祖」とされ(解説)、この大氏の末裔「桜姫(伊野姫)」が泰澄の母であるとするのが「杉本家系図」である。泰澄の出生譚や桜姫(伊野姫)伝説にふれる余裕はないが、ともかく、この大氏一行がはるばる白山へとやってくる場面に瀬織津姫が登場している。

遂に以て越之大野国(石徹白)に入る。而[しこう]して各[おのおの]皆川に臨みて潜[ひそ]み濯[そそ]ぐ因[ゆかり]を以て神を祭る、瀬織津姫神是なり。然る後、隈筥[くまはこ]川を上り伊野原の円岳[まるおか]に到り着く。

 長良川(本文は「中川[なかるがわ]」)沿いを北上してやってきた大氏一行が白山神域に足を踏み入れようかというとき、「各皆川に臨みて潜み濯ぐ」、つまり、身を無垢清浄にする「禊ぎ」のためにまつったのが「瀬織津姫神」だという。なお、日記では、白山上社・下社に諸神をまつったとするも、白山中居神社は「太魂神一座」とし、その「相殿神二座」は「道返大神・泉守道神」としている(同書解説)。瀬織津姫神はここで、あくまで禊祓神とみなされているが、この神名を伏せていないことの意味は大きい。
 瀬織津姫神の名は、『日記鏡巻』と同じく白山中居神社に伝わる『越宗廟白山上下年中行事祭祀巻』の「六月の千座[ちくら]大祓」にもみられる。

(六月の)中の七より八に至り之を行う。七日まず河上の岩窟[いわや]前に及び葉薦[すごも]を敷き、壇を設け座[くら]を調える。青和幣・白和幣各一本、散米・麻共案の上に之を置く。茅輪一枚・机各一脚・玉串各一本・人形各一枚、申ノ刻川祓諸司出仕。而して祭主、先ず河神・瀬織津姫を祭る。神供の神酒之を献じ拍手再拝、祝詞畢[おわ]りて各玉串を採り、身を払い祓[きよ]め訖[おわ]る。人形千輪[ちのわ]の行事終りて、後取[しとり]之を流し共に再拝、畢りて退出[しりぞく]。此れ夕日祓と称するなり。八日辰ノ刻岩窟の前に之を修す、神供神酒常の如し。再拝拍手・祝詞各畢り、玉串を取り修祓[しゅうばつ]前日の如し。人形・贖物[あがもの]悉く後取[しとり]之を流し、連拝終り退出。此れ朝日祓とは称するなり。

 石徹白における大祓は、中央がおこなう六月晦日ではなく「(六月の)中の七より八に至り之を行う」とされる。「中の七より八」は十七・十八日で、白山の例祭日(開山日にちなむ)が六月十八日で、これに合わせた祭祀だとわかる。十七日は宵宮祭日で、その「申ノ刻」(午後四〜六時)におこなうゆえに「夕日祓」と称し、明けた十八日の「辰ノ刻」(午前八〜十時)に再び大祓を修するため、これを「朝日祓」と称すという。
 この「六月の千座大祓」の記載で注視すべき点は、大祓の執行が白山の開山日と重ねられていること、および、「祭主、先ず河神・瀬織津姫を祭る」とあるように、大祓神が『延喜式』収録の中臣祓(六月晦大祓)の四神ではなく、そのうちの瀬織津姫神一神のみの祭祀として記されていること、そして、この大祓名が「千座大祓」とされることから、千座天神(に秘された男系日神)の祟りを、その対神である瀬織津姫自身に「大祓」(日祓)させていることだろう。
 白山中居神社では朝廷の大祓に準じて「十二月晦日大祓」も執行している。こちらは「晦日の大祓は、別祓神を四座に加える」としている。また、「以上の祭祀は、私斉[しさい]に於いて非ず、天下の大礼にして宝祚[ほうそ]長久の祝これなり。四海静謐の祈念なり。能思厚祭慎みてこれを行い怠るべからず」とも書いている。これらは「天下の大礼」で「私斉[しさい]に於いて非ず」と断り書きを入れているところに、中央の祭祀管理下にあることがよく出ているといえよう。『越宗廟白山上下年中行事祭祀巻』はさらに、次のようにつづけている。

右両度の祭奠(二つの大祓)、養老・天平・勝宝・宝字・神護五朝の旧礼なり。階を送り威を増すは、仁寿・貞観・天暦の三朝の御時之を行わせられる。勅使先ず宮川に臨み、身を濯ぎ祓い於き給いて、葉薦[すごも]二枚之を敷く。案を建て太麻・人形を案上に之を置く。祭主先ず進て河神を祭る。

 白山・石徹白における大祓は「養老・天平・勝宝・宝字・神護五朝の旧礼なり」とされ、養老時代、つまり、白山が「開山」されたのと同時にはじまったものとみられる。勅使がやってくるたびに「祭主先ず進て河神を祭る」としていて、この「河神」は瀬織津姫神のことだ。
 こういった記述・記録を読むと、大祓の励行、つまり、白山の主神から大祓神へと降格祭祀をした「その後」についての祭祀が、朝廷からたえず監視されていた印象を受ける。明治期以降、全国の神社に大祓の励行が義務づけられるが、養老時代に大祓を神社行事に組み入れていたのは、白山を含むも、数えるほどの重要社にすぎなかったはずである。
 吉田幸平『伊勢白山信仰の研究』(三重県郷土資料刊行会)は、白山信仰の社家の「秘伝」として、白山神の性格の一つに「穢れを禊ぐ神」という要素があると報告している。この性格については、白山山麓の「久寿滝[くとうのたき]」で礼拝祈念している泰澄へ白山貴女が託宣することば「吾天嶺に有り難く常に此の林中に遊ぶ。此の処を以て中居となす。即ち東の源涵[げんかん]長瀧の流水にて、末代濁世[じょくせ]の衆生の汚穢[おわい]不浄[ふじょう]の垢[あか]を洗浴清浄し済度せしむ」によく表れている(『白山権現鏡之巻』)。ちなみに、「東の源涵長瀧」は現在の阿弥陀ヶ滝のことで、この滝が長良川(長川・中川)の「源涵」(水源)とみなされ、この滝名ゆえに、長滝寺白山中宮(長滝寺白山本地中宮)の寺名はある。
 越前馬場で、美濃の阿弥陀ヶ滝(長滝)に相当する滝といえば、法恩寺山中腹の「弁ヶ滝」である。平泉寺から白山への禅頂道は「法恩寺山と経ヶ岳の間を女神川にそって登り、ワサモリ平から小原峠を越えて三ツ谷川を赤岩に下り、市ノ瀬から旧道を弥陀ヶ原、室堂平、御前ヶ峰に達する」というものであるが(大辻憲太郎『白山よもやま話』江沼地方史研究会)、ここに出てくる女神 [おながみ]川の源流滝が弁ヶ滝である。福井市志比口町にある川上神社の境内案内には、次のように書かれている。

御祭神  美都波能売命 瀬織都[ママ]姫命 大己貴命 伊弉册命
慶長年間(一六一〇年頃)結城秀康公越前の国へ御入部になり、芝原用水を定められた時、昔、白山の麓に奉斎されていた、美都波能売命と、大野郡女神川上流に鎮座ましました、瀬織都姫命の二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座し、その後慶應元年(一八六五年)此の水神の信徒一万より芝原用水郷の中央の志比口(現在の地)に御移転を願い、大己貴命と伊弉册命とを合祀して川上神社と称へ、芝原用水郷、福井城地の町家の浄水とし、水神の徳沢を崇敬しました。
   諸々のなり出るもとは水の神
     もらさてめくむ御祖なりける

 瀬織津姫は「大野郡女神川上流に鎮座」していたが、芝原用水の「上流松岡の地に遷座」し、そして現在地へと再遷座がなされた。女神川源流部の弁ヶ滝の滝神が瀬織津姫であったことはいうまでもないが、瀬織津姫は、芝原用水の九頭竜川の取水口にあたる「上流松岡の地」に鎮座する神明社境内社の「川濯神社」にもまつられている(永平寺町松岡椚)。泰澄が加賀・白山本宮において彫像した「河濯尊大権現」に秘めた神、つまり川濯神(禊神)の名が、ここにもみえている。
『白山権現鏡之巻』に描かれた白山貴女による託宣の場面には、白山神における禊神・滝神(水源神)の性格がよく出ている。この禊神・滝神の名を白山貴女という抽象名ではなく具体的神名として白山の信仰史料にさぐるなら「皆川に臨みて潜み濯ぐ因を以て神を祭る、瀬織津姫神是なり」の「瀬織津姫神」以外にはいまい。
 川上神社由緒には「諸々のなり出るもとは水の神もらさてめくむ御祖なりける」という奉納歌が添えられていて、水神の神徳が讃えられている。越前側の禅頂道途中の「小原峠」を越えたところには、その名も「川上御前社」が鎮座している(石川県白山市白峰)。『白山妙理大権現縁起』の禅定道七宿の項には、泰澄の夢の中に白山神がやはり「天女」の姿となって夢告する場面がある (上村俊邦『白山の三馬場禅定道』所収)。

 師(泰澄)この所に於いて一宿したまう。夢中に天女現じて曰く「吾ここにありて国中の水を守護す。中居の林中天然の横災起きるときは此処に移坐し、鎮まるときは彼こ[ママ]にまた還りて遊居す」と語りおえてうせたまう。
 大師驚き覚めて心静かに法施まいらす。幽谷の草木も奇異の色を顕わせり。是れを以て名となすと。後に大師一社を創建して河上大権現と崇め奉るなり。

 河上大権現=川上御前、つまり白山の「天女」は泰澄に「吾ここにありて国中の水を守護す」と誓ったという。川上神社の奉納歌にみられる「水の神」を「御祖」と仰ぐ心を体現しているのが、瀬織津姫神を秘している白山神の根本性格である。なお、この川上御前は、越前市大滝町では「越前和紙」の祖神(「紙祖神」)としてもまつられることになる(大滝・岡太神社)。ここは大滝神の先行古祭祀があったが、泰澄によって神仏混淆化がなされた。境内案内によれば、大滝・岡太神社は「養老三年(七一九)、越の大徳と称せられた泰澄大師がこの地に来り、大徳山を開き、水分神[みくまりのかみ]であり、紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊と伊奘諾尊の二柱を主祭神とし」た、さらに泰澄は別当寺の大滝寺を創建、本地仏を十一面観音に定めたとされる。同社は「大滝児[ちご]大権現、または小白山[おしらやま]大明神と称し」たという。白山においては「小白山大明神」(別山神)の本地仏は聖観音だったはずだが、ここでは、それを十一面観音と習合させるという魅力的な矛盾をあえて犯している。
 なお、越前禅頂道にある川上御前社の再建を記念して建てられた石碑には、秘された本来の白山神の無念を慮ったかのような、次のような意味深げな歌が刻まれている。

今はたゞ谷の流れに沈むとも
    浮ぶ瀬もある末の世の川

 寛文十二年(一六七二)、円空は白山登拝の中継地・石徹白において、藤原秀衡の特命を受けた「上村十二人衆」の末裔が伝え続けてきた白山秘蔵の文書を眼にしたことが考えられる。「他見堅く無用」「秘秘」「白山大権現極秘」の文書を円空が眼にすることができた理由は、おそらく、津軽での円空の彫像、つまり、源義経の守護仏を自作の観音像の胎内に納め観音堂を建立したことと、上村衆の出自意識が相照らしあったことによる。「円空さん、あなたにならお見せしてもよい」の一言があったのではなかろうか。一読する円空の心中には衝撃・電撃が走ったはずで、このとき、彼は、自身の十一面観音にまといついていた疑念の霧(伊弉册尊か瀬織津姫神かという迷いの霧)が完全に晴れるのをみたにちがいない。
 秀衡は、白山中居神社には虚空蔵菩薩を奉納していた。この虚空蔵は白山中居神社の拝殿にまつられていたものだが、「中居神社伝」が「中居神社へ観音像を奉ぜしむ」と書いていたように、この像は、石徹白では「観音像」とみられていた。井上正氏は前掲論文で、次のように書いている。

本像はもとこの神殿(白山中居神社)に本地仏としてまつられていたもので、明治初年の神仏分離の際川原へ投げ出され、里人たちがこれを泰澄大師堂の諸像とともに二キロほど下流の在所に移し、下在所の祠山に観音堂、大師堂を建てて安置したものという。里人たちは銅造虚空蔵菩薩像を観音と呼び、堂宇を観音堂と呼んでいる。

 明治初年の神仏分離のときの光景が目に浮かぶようだが、本殿の白山三尊ほかはすでに焼却されるも(円空の彫像もこのとき焼けたことが考えられる)、秀衡奉納の「観音」像(虚空蔵菩薩)や泰澄像だけは「里人たち」に一歩のところで救われた。この「里人たち」に「上村十二人衆」の末裔がいたことはいうまでもない。石徹白は、新政府の神仏分離から神道国教化の国策に迎合した社人派(神道派)と、泰澄の神仏一体思想を奉じる帰農派(仏教派)に分裂したが、この帰農派の代表者に、秘蔵の白山信仰史料を転写していた上村太郎兵衛(多門)や上村五郎左衛門の名がみられる(上村俊邦編『石徹白の神仏分離騒動』)。秀衡が奉じた瀬織津姫神を断固擁護する秘蔵文書が、神道派ではなく仏教派によって秘守されてきたことに、この神の史的受難のありようが象徴的にみられる。
 ところで、秀衡奉納の虚空蔵菩薩の姿は少し変わっていて、井上正氏によれば「左掌上に宝珠を載せ、右手に剣を執る」とされ、「他の経軌にもこれにぴったり合うものは見い出されない」となる(写真)。ただし、似た像容のものは、八世紀にまでさかのぼる奈良矢田寺北僧坊や大阪孝恩寺、また中世以降には「同形式の例が多い」としている。「左掌上に宝珠を載せ、右手に剣を執る」姿は、もし神像(女神像)とするなら、これは瀬織津姫神の「ご神体」像となる(「北辺の神への鎮魂」、『円空と瀬織津姫』)。虚空蔵菩薩が白山中居神社の拝殿にまつられていたことから、この像を拝することは、背後の本殿から別山(白山)山頂の霊神を拝むという白山遙拝の信仰ラインもみえてくる。虚空蔵菩薩の左手の如意宝珠は水晶(水精)玉で(白山の水霊神が秘められている)、右手の破邪降魔の宝剣が左手の宝珠(白山水霊神)を護っているという像姿が秀衡の考案であったとすれば、その考えぬかれた深慮による奉納には絶句するしかない。
 曹洞宗の螢山禅師が正和元年(一三一二)に創建した永光[ようこう]寺(石川県羽咋市酒井町)は、鎮守堂に「仏法大統領白山妙理大権現」という銘をもつ神像をまつっている。曹洞宗開祖の道元が入宋中、太白山山麓の天童山景徳寺において『碧巌集』を書写するも難航していたとき、白山権現が現れて、この書写の手助けをした逸話はあまりに有名である(一夜碧巌)。道元は、この「神恩」に報いるために、永平寺の鎮守神・守護神を白山権現に定めた。曹洞宗と白山権現の縁はここからはじまるが、永光寺の白山権現像は、背に「竜」をあしらい「左掌上に宝珠を載せ、右手に剣を執る」姿をした女神像である(写真)。本来の白山比盗_とはなにかを、あまりに雄弁に語る像である。
 嘉祥三年(八五〇)、円仁(に象徴される天台宗徒)は化外[けがい]の地(王化思想とは無縁の地)へはるばるとやってきて、すでに篤く信奉されていた瀬織津姫神の古祭祀(文武四年にはじまる)を封じるように、そこに新たに「白山妙理大権現」をまつった(かぶせた)事例もある(秋田県由利本荘市・日住白山神社)。今おもえば、これは円仁のうかつというしかないが、しかし、その「権現」祭祀は、日住神と白山妙理大権現が有縁の関係にあること、つまり、日住神=瀬織津姫神が白山本来の「地神」でもあることを知悉していたゆえの「うかつ」だったのだろう(「円仁と円空」、『円空と瀬織津姫』参照)。
 円空が石徹白で、秀衡奉納の「観音像」(虚空蔵)を礼拝したであろうこと──、これもじゅうぶんに考えられることだ。そして秘蔵の縁起を再読・熟読したとき、白山比盗_がどういう神であるかを、おそらく円空は心底から確信したにちがいない。このことは、「越の山」(白山)の神に、縁起が記していた「禊祓」という性格を詠み込んだ円空歌があることからもいえるものとおもう(『美並村史』通史編所収)。

  罪共に消(え)ても行(く)か越の山
    雪降(る)袖の花そ散(り)ける

 円空の白山山麓・石徹白における覚醒は、白山に関する地神供養の曖昧さが影のごとくに付着していたこれまでの十一面観音の彫像を封印し、新たな地神供養の像として、白山「地神」を秘めた聖観音と、十一面観音変成の初源の姿、まさに地神の姿であった九頭竜神(九頭龍王)を合体させた善女龍王(竜頭観音)という異形像を彫像の基本に据えていくことになる。十一面観音が白山神の神託とともに円空彫像に再生・蘇生してくるのは、この石徹白体験の七年後のことである。


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