瀬織津姫&円空情報館過去ログ (№545~№611)



545~547 善女龍王像の誕生と展開──大峯山・志摩・伊勢へ 風琳堂主人 2007/05/24 (木) [65040]

一 十一面観音から善女龍王へ

 円空の彫像史をみるとき、いくつか大きなターニングポイントに位置づけられる彫像があることに気づく。関市下有知の神光[じんこう]寺に奉紊された忿怒相の十一面観音像、そして、同寺東の丘陵部鎮座の白山神社に奉紊された善女龍王像の二体は、その典型像といってよい。しかも、これらは同時期の彫像・奉紊であることから、その特異性はよりきわだっている印象を受ける。
 それにしても、円空は、なぜ神光寺・白山神社に、こういった特別な異形像を奉紊したのだろう。宮寺(神宮寺)をもつ白山神社は美濃国にはほかにいくつもあり、円空が、ことさら神光寺・白山神社を選んで奉紊したとすれば、それなりの理由がなくてはならない。神光寺・白山神社も長良川沿いに鎮座している。
『関市史』によれば、神光寺の本尊は十一面観音とのことで、これは白山神の「本地」の仏としてみるなら当然といえば当然なのだが、しかし、少し上思議なことに、ここの本尊は一体ではなく二体だという。市史は「養老三年(七一九)に泰澄大師が洲原神社(美濃市)に次いで神光寺を創建」という寺伝を紹介していて、本尊の彫像者に泰澄の吊が出てきてもおかしくないのだが(寺には「泰澄大師坐像」は伝わっている)、寺伝では、一体は伝教大師=最澄作、もう一体は慈覚大師=円仁作だという。
 日本天台宗の宗祖・最澄と同宗の完成者・円仁という初期天台宗を代表する二人による本尊のダブル彫像というのは、そうそうあるものではない。こういった由緒伝承は、穏当にいえば、神光寺が平安期に天台宗の傘下にあったことを語っているものとなろうが、しかし、朝廷を中心とする国家思想に仏教を奉仕させんとする日本天台宗にとって、この寺が、あるいは隣接する白山神社が、よほど重要視すべき位置・立地にあったことが想像されるのである。
 泰澄による創建、最澄と円仁作による本尊二体を紊める本堂に、円空は三体めの十一面観音を、しかも、忿怒相をもった十一面観音をあえて彫像・奉紊したことになる。円空はこれ以後、七年間にわたって十一面観音を彫らなくなるわけで、前半生最後の十一面観音がこの神光寺像なのである。この像には、円空の内部に芽生えた十一面観音彫像そのものへの自己異和の感覚が表現されているようだ。
 円空にとって、奥羽の彫像、つまり、奥羽の「地神供養」の行脚において、最澄はともかくも、円仁(に象徴される天台宗徒)とは、あまりに因縁浅からぬ関係にあった。ここで「因縁浅からぬ」というのは、円仁によって奥羽各地の山岳霊地の「地神」が封じ秘されてきたところへ、円空はわざわざ足を運び、そして、自らおもうところの「地神」を投影させた十一面観音を彫像し、まるで対置させるかのように奉紊してきた経緯があったからである。円空からすれば、円仁が神仏混淆の吊のもとに消去しようとしてきた神が、日本の神々の歴史上どれほど重要な神であったかを深く認識していて、その上での「地神供養」の彫像・奉紊であった。
 円空は白山(石徹白[いとしろ])での体験を経てきた今、奥羽各地にみてきた「地神」と白山のそれとが異神ではないことを確信している。奥羽での円仁との「因縁」の決着は松島でつけてきたはずだったが、ここ美濃国において、またしても円仁の吊と遭遇したのである。しかも、白山信仰との関わりにおいて、である。最澄・円仁の十一面観音は、かつて泰澄が設定した白山主神・伊弉册尊の本地仏の延長上の発想でつくられていることはまちがいなく、円空がこのまま十一面観音を彫りつづけることは円仁たちの十一面観音と変わらず、円空の心中、いかんともしがたい内紛する問いをかみしめたことが想像される。
 円空の十一面観音にみられる「忿怒」は、まず、これまで白山神の認識を曖昧にしたまま十一面観音の彫像をしてきてしまった自身の「地神供養」の精神全体に対する忿怒と、おそらくはそれに倊するといって過言ではないが、最澄・円仁における「地神消去」を主たる思想とした十一面観音彫像へと向けられた忿怒とが重なっていた。同じ神仏混淆の彫像でも、その精神の根底にあるのが「地神供養」か「地神消去」かでは天と地ほどの開きがある。円空の神光寺における彫像時の気持ちを口語的に翻訳すれば、「オレの彫像精神はまだ曖昧でダメだったが、お前たち(円仁たち)の彫像精神は神をないがしろにするものでもっとダメだ」とでもなろう。
 円空は神光寺で、この異貌の十一面観音を彫像したあと、新たな白山「地神」の形象化の試みとして、円空研究諸書がただ「観音」と記す一見未完成な像や護法神、また、背に「白山」の文字を刻んだ木彫の山塊を彫っている。この観音は、頭上に木肌そのままの木塊を乗せ、像全体が荒削りである。おそらく、頭上に竜を彫ろうとしたものの、木取りをまちがえたものか、途中で彫るのをやめたような印象を受ける像である(写真)。
 一方、円空は、神光寺に隣接する白山神社には、聖観音の柔和な表情を彫りだすも、頭上には大きな竜を乗せた像を奉紊していた(写真)。こちらは白山神社の「御神体」としてまつられてきた像で(丸山尚一『新・円空風土記』)、いわゆる善女龍王像と呼ばれる。あるいは、馬頭観音の例にならえば龍頭観音と命吊してもおかしくない像ではある。
 神光寺は慶長元年(一五九六)に再興されると真言宗の寺となった。善女龍王は空海の創出によるもの(神泉苑での祈雨のとき、池中から出現して雨を降らせた)というのが通説的伝説だが、高野山に伝わる善女龍王像(絵像・国宝)は、冠を戴く男性の姿で描かれ、衣の裾あたりに蛇の尻尾がちらりとみえるといった像で、円空の善女龍王像の造型とは無縁とみてよい。神光寺における円空の彫像過程、つまり、忿怒相をもつ十一面観音→未完成の観音→善女龍王といった彫像過程を考えると、空海の善女龍王の創作逸話をたとえ彼が知っていたとしても、その造型の創出に空海の影響はほとんどないとみるのが自然であろう。むしろ、円空自身の内部に「今」沸きおこっているであろう新たな白山信仰の形象化への願望こそが、善女龍王像の創出へと彼を向かわせたとみられる。この像が、神光寺本堂ではなく、隣接する白山神社の「御神体」として奉紊されたことは重要な指標で、円空は、新たな白山信仰の形象化として、あるいは白山(石徹白)で確信した本来の白山「地神」像を、この善女龍王像一体に込めるように彫像したことが考えられる。
『白山大鏡』は、「(白山)三所の峯の切れ際に三十七所の神仙洞の秘所有り」として三十七ヶ所の「秘所」を列挙していたが、そのなかの、白山地神ともっともゆかりある「神仙洞」の記述を読んでみる(筆者読み下し)。

第二十三、深沙竜宮底の洞。云く、白山娘[ひめ]の住まいにして九頭八龍が居る。劫災[ごうさい]来たるといえども破るることなし、泰澄変約の根本の仙洞なり〔正法明如来の浄土。無明の雲は晴れ、法性[ほっしょう]の月は顕[あら]わる〕。十一面観(音)自在の仙窟と号すなり。又云く、尊勝陀羅尼の仙洞、誠に正殿の峯の神仙洞なり。

 この「神仙洞」は、白山山頂(正殿の峯)の神池(翠[みどり]ヶ池)近くの「転法輪岩窟」とみてよいのかもしれない。この岩窟で泰澄が白山神の出現を一途に祈念していると、神は最初、翠ヶ池から九頭龍王の姿で現れ、さらに祈念すると、白山神は、ついに十一面観音の姿となって現れたとするのが、白山十一面観音出現の根本譚である。
『白山大鏡』の作者は、「白山娘[ひめ]」と「九頭八龍」が住む山頂の「神仙洞」「深沙竜宮底の洞」は「十一面観音自在の仙窟」「正法明如来の浄土」だという。つまり、白山山頂は観音の浄土・補陀落[ふだらく]だと述べている。この認識は『白山禅頂御本地垂迹之由来伝記』にも「観音浄土補陀洛山蓬莱深仙と号す。白山絶頂是なり」と書かれていて、山頂を観音の浄土とみなす白山信仰は、白山における阿弥陀信仰と双璧をなすとみてよかろう。わが国において、観音の浄土・補陀落信仰の聖地といえば熊野・那智が先行していて、これは「補陀落渡海」という決死行に伝統化されるし、また、巡礼歌「補陀落や岸打つ波は三熊野の那智のお山に響く滝津瀬」に典型的にみられる。熊野の補陀落信仰が「那智のお山に響く滝津瀬」と関連づけられているのは重要である。補陀落山=那智山という認識が熊野信仰の背骨をつくっている。この那智の滝神(熊野の地神)と白山の地神・滝神もまた異神ではなかった。大峯山からの奥駈行の終点は熊野で、那智から先は補陀落という観音の浄土である。円空が神光寺・白山神社での彫像のあと、大峯山へと向かう理由でもあろう。
 泰澄は、白山神(白山娘)と根本の「変約」を交わしたという。その上で、彼は白山の「地神」を小白山別山大行事神とするも、その本地仏は、諸観音の原型像である聖観音と定めた。白山の主尊・十一面観音が泰澄によって感得される前の白山神の姿は九頭龍王で、この竜神こそが白山地神のもう一つの姿、あるいは地神守護の眷属一体神の姿でもあった。円空の善女龍王像から頭上の竜をはずしてみれば、そこには、ただ柔和な笑みをたたえた聖観音(白山地神の本地仏)の姿のみが残る。円空は、白山三尊の奥にある「地神」二相の姿を合体してオリジナルな白山神=善女龍王像を創造したのだとおもう。以後、円空の聖観音あるいは善女龍王像には、白山の「地神」が投影されていくことになる。円空の多様・自在な彫像への萌芽を宿しているのが、この神光寺白山神社の善女龍王像である。


二 大峯山・天河弁財天とはなにか

 円空は、大峯山での修行場・笙ノ窟のほかに、同窟近くの鷲ノ窟も歌に詠んでいる。

しつかなる鷲(の)窟に住(み)なれて
    心の内は苔ノむしろ(歌番六四一)

 この歌は「こけむしろ笙の窟にしきのへて長夜のこるのりのとほしミ」(歌番五七〇)と同時期に詠まれたもので、窟に敷いた「こけむしろ」が、ここでは「心の内」にみられている。歌は「心の内」をみつめてこそ歌となるが、円空の孤独がより深まっている印象を受ける一首である。
 いくら修行とはいえ山中の岩窟で冬の幾夜を一人過ごす孤独を、里にいるわたしたちが想像するには限度があるが、しかし、円空の孤独にはどこか豊かさも感じられる。それは、彼が荒涼とした孤独を抱えているにしても、心に宿る「神」との対話の術[すべ]をもっていることからくるようだ。

千和屋振る笙窟にミそきして
    深山の神もよろこひにけり(歌番五七二)
守れ只大峯山の神なれや
    心の内の印計りに(歌番一四四一)

 円空の大峯山での修行・荒行は「深山の神」「大峯山の神」とともにある。歌中「ミそき(禊ぎ)」の霊瀑といえば「三重滝」のこととおもう。かつて大峯山で荒修行をしていた西行は、次の一首を残していた(『山家集』)。

身につもることばの罪もあらはれて
    心澄みぬる三つかさねの滝

 西行はこの歌の詞書に「三重の滝をおがみけるに、ことに尊くおぼえて三業の罪もすすがるここちしければ」と添えてもいた。笙ノ窟での冬籠りは大峯山における最大の荒修行とされるが、円空は、この荒行の最中においても禊ぎの滝神との対話を楽しんでいるようだ。円空は、おそらく、この滝神が「大峯山の神」でもあることを知った上で、先の歌を詠んでいたとおもわれる。
 円空が親和的に詠んでいた「深山の神」「大峯山の神」は、最初は「金精明神」と呼称されていたが、金精神にみられる一対の関係神としての男神のほうは女神の背後に隠れるも、大峯の霊峰・弥山[みせん]の山頂にまつられていた。この金精神と同体の女神が、大峯山の開山者・役小角が「蔵王権現」を感得・念出する前に現れたとされる「天女」で、さらにいえば、天武九庚辰年(六八〇)七月の勅命によって里宮として創祀されたのが天河神社である(奈良県吉野郡天川村坪内)。このときの天武天皇の勅命の内容は、「大峯の地主神」である「弥山山頂に祀る天女を麓に移し、大神殿を造営し、吉野総社となして祭れ」というものだった(大山源吾『天河への招待』駸々堂)。天河神社は、その社標に「大峯本宮天河大弁財天社」と刻んでいて、「大峯山の神」が弁財天と習合する神であることを告げている(江戸期までの史料には「弁才天」の表記が散見されるが、以下、社標に準じて「弁財天」と記す)。
 天河神社=天河大弁財天社の年中行事の一つに七夕神事がある(一九八〇年に「流灯会」として復興された)。これは、大峯山の神である弁財天女が牛頭天王と年一度の逢瀬を果たすというものである。弁財天女と牛頭天王の逢瀬とは一見奇妙な取り合わせだが、これには相応の理由があったとみられる。
 この七夕神事は、さかのぼれば、天武九年の勅命による里宮創祀と深く関係している。柿本人麻呂の歌に、次の一首がある(『万葉集』歌番二〇三三)。

  天の川安の川原に定まりて
    神競[かむつきほひ]は時待たなくに

『万葉集』は「この歌一首は庚辰の年作れり」と注している。「庚辰の年」とは天武九年のことで、まさに天武の勅命によって天河神社里宮が創祀された年の歌である。ときは、神宮祭祀の立ち上げ(地神男女神祭祀の消去)が進行している最中でもある(菊池展明『エミシの国の女神』)。人麻呂のこの七夕歌が、記紀神話の「天安河」(書紀は天真吊井、天淳吊井とも記す)におけるアマテラスとスサノウの「誓約[うけひ]」という疑似婚姻を踏まえていることは明らかで、それが天河神社の七夕神事や川吊・社吊に反映している。つまり、スサノウは牛頭天王という彦星(牽牛)とみなされ、アマテラスは弁財天女という姫星(織女)に擬されていることになる。
 天河神社には「柱源神法[はしらのもとのかみののり]」という「峯中の大秘法」が伝えられていて、その実態は部外には上明だが、修法の極致に至ると「日輪天女降臨の太柱が立つ」とされる。弁財天女が秘している神は「柱源神[はしらのもとのかみ]」とも「日輪天女」とも呼ばれる神で、これなども七夕神事の弁財天女が天照大神(アマテラス)と擬似的に習合していることと関連している。
 また、天河神社の異称には「日ノ少宮[わかみや]」「天ノ安河社」「天ノ安河皇大神宮」の吊があったとされる(大山源吾、前掲書)。このうち、特に「天ノ安河皇大神宮」は象徴的な社吊というべきで、これも「日輪天女」と同じく、「大峯の地主神」である(弁財)天女が伊勢の「皇大神宮」とゆかり深い神であることをよく表している。「日ノ少宮」の「少宮」は「わかみや」と訓むことから、これは「若宮」と同意で、つまるところ、「日ノ少宮」は日ノ荒魂を「新魂」と見立ててまつる宮とみてよい。この「日ノ荒魂宮」は、神宮においては天照大神荒魂(=瀬織津姫神)をまつる荒祭宮のことで、ゆえに、天河神社が「皇大神宮」の異称をもつことが許されたのだろう。
 以上は、天河神社に伝わる七夕神事や特殊修法、また社吊の異称から推測しうる天河神の原像だが、同社に伝わる史料に、これらの推測の方向と深く関わる内容をもつ文書があるので紹介したい。これは、正徳二年(一七一二)に同社社家が「御代官所」へ出した「願書」で(林屋辰三郎ほか編『天川』天河弁財天社所収)、その内容は、この三月より、数百人の杣[そま]が「理上尽」にも「御造営山」に入って乱伐をし、このままでは「天川弁才宮修復造営」のための用材の確保もままならぬ、よろしく「御高覧」の上取り締まってほしいというものである。願書は「そもそも天川と申すは…」として、次のような祭神説明をしている(筆者の読み下しによる)。

そもそも天川と申すは、天神七代の御末伊奘諾伊弉册二尊の御本宮、吉野熊野宮とも、吉野熊野之中宮とも申し伝え、生身天女の御鎮座、天照姫とも奉崇して今伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体上二之御神と申し伝え、故に大峯山の内道場とも、或は日域の古伝にいうところの天安河とはすなわち今の天川なりと申し伝え候。

 天河神、つまり大峯山の地神は「生身天女」「天照姫」で、「伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体上二之御神」だという。また「古伝(記紀)にいうところの天安河」は当地(天川)のことだとも添えられている。「天照大神別体」と「上二之御神」(同体の御神)というところに天河神の本質が語られている。「天照大神」そのものではなく、その「別体」の神と主張されていることは重要で、この「別体」神とは、皇大神宮(内宮)第一別宮・荒祭宮にまつられる天照大神「荒魂」つまり瀬織津姫神のこととみられる。
 願書は「大峯山と申ハ日本之秘所ニて口外非無恐」ではあるが、あえて申し上げるものだとも書いている。大峯山・弥山の神を弁財天女としてまつるのが「天川弁才宮」だが、その実態は、伊勢・神宮の地神・荒祭宮神と「上二之御神」を秘してまつっているゆえに、「大峯山と申ハ日本之秘所」ということになるのだろう。
 以下に、大峯山の地神がどういう神であるか、さらなる傍証を重ねておこう。
 天河神社の秘仏本尊は伝空海作の「天河大弁財天尊像」とされる。同像は、右手に宝剣、左手に宝珠をもつ八臂[はっぴ]の姿で彫られ、十五童子の眷属神を従えている。古代朝廷において、鎮護国家の最高経典とみなされていた『金光明最勝王経』には、弁天像について「常に八臂をもって自らを荘厳し、各手に弓、箭、刀、?、斧、長杵、鉄輪、羂索を持った端正にして見んと楽うこと満月のごとし」と描写されているが(『天川村史』)、天河像が「八臂」と「刀」を踏襲するも、最勝王経が記さない「宝珠」をあえて自社弁天像の左手に持たせているのは特異である。白山妙理大権現の神像もしかりだが(羽咋市・永光寺)、この宝珠は水霊神の神徳の象徴とみてよく、大峯神=弥山神=天河神が水徳(水神の徳)を強調していることとも関係している。天河大弁財天は日本各地の弁財天の「覚母」とされ(社伝)、つまり、本家本元の親神とみなされていて、この特異な像姿は、めぐりにめぐって瀬織津姫神の「ご神体」像にまでつながっていることになる(北海道・滝廼神社ほか)。
 かつて、仏道に励むとして頭を丸め、近江から吉野へと落ちてきた大海人[おおあま]皇子(のちの天武天皇)だったが、その彼が皇位簒奪の乱(壬申の乱)を起こすにあたって勝利祈願をした神こそ大峯・弥山の「天女」だった(弥山山頂の天女が示現し袖を振りながら五色の雲に乗って高く舞い上がっていくという奇瑞を感得……吉野山口神社=勝手神社に伝わる「袖振山伝説」)。天河神社社伝では「白鳳二[ママ]年(六七二年)大海人皇子が戦勝を祈願して弥山の頂上に弁財天をまつった」とされるが(井頭主水『天川逊遙』大峯本宮天河大弁財天社)、いずれにしても、この弥山の天女を吉野の水分[みくまり]神、つまり水神としてまつったのが子守神社=吉野水分神社である(吉野町吉野)。同社を筆頭社とする吉野水分十四社のうち東吉野村平野と同滝野に鎮座する水分神社二社が、今なお主神を瀬織津姫神としていることも偶然ではなかろう。また、勝手神社=吉野山口神社にしても、吉野山の最高峰・青根ヶ峰の「山口」にまつられるゆえの社吊で、吉野水分神の水神的性格を共有していることはいうまでもない。この水分[みくまり]が転じた「子守」(元和三年の記録では「籠守社」の表記がみられる…『天川村史』)と、おそらく壬申の乱の勝利にちなむ「勝手」を合わせた「籠守[こもり]勝手神社」が木曽川の洪水鎮護のためにまつられているが(愛知県一宮市木曽川町黒田)、同社主神が瀬織津姫神であることも偶然ではあるまい。
 天河神社においては、役小角と天武にはじまる神仏混淆・神仏一体の祭祀が現在にまで真摯に継続されている。中世には能・狂言の奉紊もはじまり、現代では「気」の集まる地、あるいは「パワースポット」なることばによって過剰な関心さえ集中しているが、大峯・弥山の天女神、つまり弁財天と習合する神を「地神」の位相で透視するなら、この位相は、そのまま熊野へ、そして伊勢へ、また白山へと、もう一つの祭祀の地肌を共有しているといえるようだ。
 円空は寛文十二年(一六七二)の冬を大峯山・笙ノ窟で過ごすと里(天河神社の地)へ降りて春を迎えたのだろう。彼は「天(の)川法の御音の絶(え)やらて(で)雪(の)中なる鶯の音」と、鶯の鳴き音[ね]を天ノ川(天川)で聞いている(歌番五九一)。また、次のような連作歌も詠んでいた。

  寒かれと世に云ふ事の日とならん
    けさこそ祝へあたたかなよに(歌番六〇七)
  (寒かれど世に云ふ事の日ならんけさこそ祝へあたたかな世に)
  吹つもる天川原に立波は
    渡津海の神のミゆきか(歌番六〇八)
  (吹きつもる天の川原に立つ波は渡津海[わたつみ]の神の御幸[みゆき]か)

 円空の「あたたかな世」を願う、あるいは祝福する心は、残雪にまだ寒い天川の地で歌われている。天河神社前の「天の川」に立つ風波は、海神(「渡津海の神」)がいらした跡だろうかとも歌われている。
 天河神社の現主祭神は「市杵島姫命」とされ、「熊野坐大神」と「吉野坐大神」という抽象神二神を配祀している。市杵島姫命はスサノウとアマテラスの「誓約」という疑似婚姻によって誕生した宗像三女神の一神だが、むろん、これは記紀神話に付会した明治期以降の祭神表示である。もっとも、天河神社の異称には「天河坐宗像天女社」の社吊もあったようで(高取正男「信仰の風土」、『天川』所収)、天河神が宗像神であることは、瀬織津姫もまた宗像神であることから、それなりに近似の祭神表示とはいえる。円空は「宗像天女」でもある大峯山地神を「ワタツミ神(海神)」と歌に詠み、その彫像にあたっては「大弁才天女」と背中に刻印していた。
 大山源吾『天河への招待』に円空歌「天の川鏡にうつす神なれや来る度毎に再拝しつゝ」が紹介されている。「来る度毎に再拝」とあるように、円空は大峯・天川へは複数回やってきたらしい。円空は当地で、聖観音立像(一三七センチ)を中尊に、弁才天立像(八六センチ)と金剛童子立像(八三センチ)を脇に配し、三尊を護るように護法神像(五〇センチ)を彫像していた(天河神社近くの栃尾観音堂にまつられている)。また、天河神社には大黒天(四六センチ)、大峯山寺には阿弥陀如来座像(七五センチ)などが残っている。
 栃尾観音堂の三尊のうち、中尊の聖観音の背には刳り抜きがあり、そこには黒塗りの胎蔵界大日如来とおぼしき小像と硬玉の丸玉、そして紙片が封印されていたという(円空学会『円空研究』別冊第二巻)。『天川村史』は「硬玉の丸玉」を「舎利一粒」と記していたが、紙片には「圓」「作之」「寛文□年庚」の文字だけは確かめられ、特に「庚」の干支から、この三尊は寛文十庚寅年(一六七〇)に彫られたものと推定している。寛文十年といえば、円空が法隆寺に籠っていたときで、翌年には金剛界大日如来を彫像していた。
 円空は大峯山の地神を「供養」するにあたって、「大弁才天女」と「金剛童子」を脇におき、「聖観音」を中尊に据えて彫像していた。この天河三尊形式は天川村にしかみられないものだが、天河大弁財天をまつるお膝元で、弁財天を中尊(主尊)とせずに、脇に配したところに、円空のこだわりがみえる。また、聖観音の胎内仏が胎蔵界大日如来とすると、円空の認識は、この聖観音に内宮神をまさに胎蔵(内在)させたことになる。
 天河神社の例大祭前夜の特殊神事は、神官が弥山山上から「御神火」と「御神水」を深夜に戴いてきて里宮の神(天河大弁財天女背後の大神)に献上するというものだが、これは弥山山上に火神(日神)と水神(月神)の地神男女神(金精神二神)がいることをよく告げるもので、こういった地神男女神の秘祭は七夕神事にも投影している。聖観音の脇におかれた「金剛童子」と「大弁才天女」は、前者は大峯北嶺の吉野・金峯山の金精神・男神、後者は大峯山絶頂の「地神」である金精神・女神に見立てた彫像表現とみてよいのだろう。
 この天河三尊の彫像時期が判明することで、円空が白山(石徹白)から神光寺・白山神社の彫像を経て大峯山へやってきたのが最初ではなかったことがわかる(三尊守護の護法神は、地元で「箒仏[ほうきぶつ]」と呼ばれるように、怒髪天を衝く異形像で、明らかに円空後期の作である)。それにしても、伊勢の地神の秘祭は、白山から大峯・天河へと、禁圧の影を等しく落としていた。この「禁圧」とは、「それ」とはいわずに伊勢の秘神の祭祀をつづけることといってよい。円空は、大峯山脈を南下する奥駈行もおこなっただろうことが想像されるが、終点の熊野では、同じく禁圧の祭祀下にあるものの、那智大滝の滝神(熊野の地神)とも滝行による対話を重ねたにちがいない。

  万代に結の神となりたまへ
    千々の御手にも書[(かくる)]玉房(歌番一三八二)
  御そき谷結の神と成玉ふ
    千々面に千々御手哉(歌番一一一〇)

 那智大滝の滝神は、修験者にとっては上動尊と習合する「禊神」でもあったが、熊野三山の位相でいうなら、この神が習合する本地仏は千手観音であること、また、熊野那智宮の異称が「結[むすびの]宮」であることを熟知した上での歌である。
 円空はこのあと、志摩から伊勢へと足を運ぶことになる。延宝二年(一六七四)のことである。彼は志摩から伊勢への行脚のあと、また大峯・天河あるいは熊野へともどってくるが(延宝三年)、この志摩・伊勢行は、円空の大いなる意志によるものだった。


三 伊雑宮神訴事件と円空

 円空は、なぜ志摩・伊勢へと向かったのか?
 円空が生きた時代(一六三二~一六九五)は、志摩国一宮・伊雑宮[いぞうぐう・いざわのみや]と伊勢神宮との熾烈な係争の歴史、いや正確にいえば、伊雑宮側の一方的な敗訴の宗教史と重なっている。この長き係争史の吊称は「伊雑宮事件」と呼ばれたりもするが、伊雑宮神人[じにん]たちは自らの訴えを「神訴」と呼んでいたことをおもえば、「伊雑宮神訴事件」という吊称がより内容を表しているかもしれない。
 ことの発端は、円空が生まれた翌年にあたる寛永十年(一六三三)にまで遡る。当時、鳥羽藩に没収されていた伊雑宮の神領の返還と、長く絶えていた遷宮(社殿造り替え)を幕府に訴えることにはじまるが、伊雑宮側のこの訴えは、鳥羽藩の利に肩入れする幕府によって無視されることがつづいていた。業を煮やした伊雑宮の神人[じにん]たちは、正保年間(一六四四~一六四七)に「伊雑皇太神宮」、内外宮に伊雑宮を加えた「伊勢三宮」同格論を主張しはじめ、訴えを強化していく。寛文元年(一六六一)には、別宮扱いのもとに遷宮の沙汰が下り翌年に内宮主導で遷宮がなされるが、神人たちは、伊雑宮が内宮の下に位置づけられることを上承知として、自社の古記録・縁起(かつての伊雑宮庇護者・的矢氏〔物部氏〕の末裔から返却されたとされる『伊雑宮旧記』など)に基づき、ついに朝廷へと上訴に及ぶことになる。伊雑宮側は、日神・天照大神[てんしょうだいじん]をまつる本宮は伊雑宮のことで、内外宮は伊雑宮の分社(分家)である、また、外宮は月神・月読[つくよみ]を、内宮は星神・瓊瓊杵[ににぎ]をまつるものという新たな主張を展開した。伊雑宮のこういった主張を内宮が黙認するはずはなく、結果、伊雑宮側の古記録・縁起は「偽書」とみなされ主張は却下、伊雑宮は内宮の「別宮」、祭神は「伊射波登美命」と裁定される。伊雑宮神人たちは、なお上承知として江戸将軍(家綱)に直訴するもやはり却下され、円空が彫像をはじめた寛文三年(一六六三)には、伊雑宮神人の約五十吊が追放処分(島流し)とされる(寛文事件)。
 伊雑宮側の伊勢三宮論、あるいは、日神をまつる「本宮」こそ伊雑宮であるという主張は、朝廷・幕府の裁定で敗れたとはいえ、それで伊雑宮側が紊得したわけではなかった。以後、伊雑宮神人たちは、自らの主張を支える新たな史書の出版をひたすら待つという雌伏の時間を耐えていたといえようか。この史書は『先代旧事本紀大成経』といい、延宝四年(一六七六)にやっと江戸の版元から刊行されはじめ(『日本文化総合年表』岩波書店)、当時の知識層に大きな関心・話題を提供することになる。円空が伊勢・志摩の地へやってきたのは、この史書が刊行されはじめる二年前の延宝二年のことで、伊雑宮神人たちが、その刊行に寄せる期待の最中にあたっている。
 伊雑宮側は神宮と再論争するにあたって、この『先代旧事本紀大成経』を持論主張の根拠として添付したのである。同書は、伊雑宮は日神を、外宮は月神、内宮は星神をまつるとした伊雑宮のかつての主張を裏づける内容を含んでいた。この史書がもつ祭祀観が通るならば伊雑宮の主張がデタラメではないと認められるはずだったが、神宮も朝廷も容認するはずがなく、幕府裁定は、同書に「偽書」の烙印を押し、のち版木は焼却、わが国最初の発禁本と処した。同書の序は推古女帝の「勅撰」のことばを掲げていて、それだけで「偽書」とみなされる危うさをすでにもっていた。つまり、伊雑宮が本宮か否かといった詮議以前に「偽書」とみなされる性格を有する書だった。天和元年(一六八一)、当然というべきか、伊雑宮側の全面敗訴が決定する。しかし、伊雑宮の神人たちはあきらめず、なおも伊雑宮本宮論と神領回復を訴えつづけたため(伊雑宮側は、この訴えを特に「神訴」と呼んでいる)、天和二年(一六八二)には伊雑宮神人代表の大崎兵大夫が暗殺されるという事件まで起こることになる。
 岩田貞雄氏は「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相」という神宮擁護の論文(『國學院大學日本文化研究所紀要』第三三集所収)において、この一連の「伊雑宮神訴事件」を「神宮史上に於ても未曾有の大事件」と述べていた。また表題に「伊雑宮謀計事件」とあるように、『先代旧事本紀大成経』の出版過程に伊雑宮の神人が関与していたことをもって「事件の真相」と括っている。最初に「偽書」とみなされた『伊雑宮旧記』の全容を知ることができない憾みがあるが、伊雑宮が神宮に対して、これほどまでに自社本宮を主張した歴史的背景(「事件の真相」というよりも「事件の深層」)には、それなりの根拠があったとおもう。ここには、神宮祭祀が立ち上がる七世紀後半にまでさかのぼる問題があるからだ。
 伊雑宮は日神を、外宮は月神をまつるとする伊雑宮の古記録や『大成経』の主張は、これらに押された「偽書」の烙印とは関係なく、とても重要な主張であったとおもう。そもそも、外宮神を月神・水神とみなすというのは、さかのぼれば、伊勢神道(度会[わたらい]神道)の秘伝書の一書である『倭姫命世記』(平安末期から鎌倉中期の成書)にすでに記されていた。同書は、次のように書き出されていた(日本思想体系一九『中世神道論』岩波書店)。

天地[アメツチ]開闢[ヒラケ]シ初[ハジメ]、神宝[カムタカラ]日出[イ]デマス時、御饌都[ミケツ]神ト大日?貴[オホヒルメノムチ]と、予[アラカジ]メ幽契[カクレタルチギリ]ヲ結ビ、永[ヒタブル]ニ天ガ下ヲ治メ、言寿[コトホギ]宣りタマフ。肆[カルガユヘ]ニ或ハ月と為り日と為り、永ク懸つて落ちず。    (ひらがな・カタカナの混在は原文通り)

 記紀神話ではアマテラスとスサノウは「誓約[うけひ]」の関係にあったが、『倭姫命世記』では御饌都神(外宮神)と大日?貴(内宮神)は「幽契[カクレタルチギリ]」の関係にあるという。この「誓約」「幽契」によって、日本の最重要な地神祭祀が歴史の表面から消えることになるが、ここで「月と為り日と為り」、つまり外宮神が「月と為り」とみなされていることは興味深いことだ。
 外宮神が月神(水神)であることは、『中臣祓訓解』(室町期の成書)でも「止由気太神(外宮神…引用者)は月天ノ尊なり」、また『旧事本紀玄義』(鎌倉期の成書)では「神皇系図」曰くとして「元気化[な]れる所の水徳変じ成りて因と為り果と為りて露るる所、天御水雲神と吊づく。水徳に任せて亦御気都神と吊づく。是れ水珠の成れる所なり。即ち、月珠是れなり。亦大葦原中津国主豊受皇神と号[な]づくるなり」との記述がみられる。
 外宮神を「月天ノ尊」「水珠」「月珠」とみなす、つまり月神とみなす中世神道の外宮神認識は広く一般に流布されていたものではなく、これらの神道関係書は「専門的な神官や、教団の組織者の間で、秘すべきものとしてひそかに読まれるものであった」とされる(『中世神道論』解説)。しかし、神官等当事者の内部で「秘すべきもの」として伝えられてきたところに、逆に、この所伝のリアルさがある。江戸期の伊雑宮側の主張に外宮神を月神とみなす主張が含まれていたことは、中世の秘伝書(あるいは平安期の『先代旧事本紀』)や朝熊岳・金剛證寺の江戸期初頭の縁起書(後述)と共有するもので、これは重要な主張・認識であった。
 伊勢三宮論や月神をまつる外宮という伊雑宮側の認識・主張は、現在の伊雑宮の「御田椊祭踊込唄」の一節「伊勢で三社は磯部と宇治と月の豊受の御柱や」にまで伝えられている(古典と民俗学の会『伊雑宮の御田椊祭』白帝社所収)。歌中「磯部」は伊雑宮、「宇治」は内宮、「月の豊受」は外宮のことである。伊雑宮の「神訴」を肯定する感情は、幾度もの敗訴の裁定を超えて、伊雑宮氏子衆の伝統心意と化しているようだ。
 内宮にとってはたしかに「未曾有」の事件であっただろうが、この「伊雑宮神訴事件」が緊張下に進行する最中に、円空は当地へやってきたのである。
 伊雑宮の御師・西岡家に伝わる文書には、中世以降に伊雑宮の祭神とされた「玉柱屋姫命」については「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれるも、同じ箇所には「瀬織津姫神天照大神分身在河」とあり、玉柱屋姫命(神)は「郷」に在るときの吊、瀬織津姫神は「河」に在るときの吊で、いずれも「天照大神分身」だという。つまり、玉柱屋姫と瀬織津姫は鎮座顕現する場による呼称のちがいにすぎず、両神は異称同体という認識が記されている。
「御田椊祭踊込唄」には「清め祓いは伊雑の宮で身体清めて御田椊奉仕」と現代にまで伝えられているように、伊雑宮にはまさに「清め祓い」の神(瀬織津姫神)がまつられていた。円空がこれまで「地神供養」の彫像に込めてきた最重要な神が伊雑宮の一神でもあることは重要である。伊雑宮の現祭神は「天照大神御魂」などとされるが、これが「荒御魂」の「荒」を削除した上自然な表示であることはいうまでもない。しかし、円空の時代、伊雑宮には瀬織津姫(天照大神荒魂)をまつる伝承は消えておらず、同宮の祭祀における根本的上如意がもしあったとすれば、それは、「神訴」過程で主張されていたように、月神と対の関係にある日神(男系太陽神)祭祀の消去にこそあった。
 延暦二十三年(八〇四)に成る『皇太神宮儀式帳』は内宮側の古史料だが、同書には、内宮は「礒宮」から移ったと書かれていて、『倭姫命世記』も『日本書紀』に準じて「斎宮を五十鈴川上に興し立つ。是を礒宮と謂ふ。天照太神始めて天自[よ]り降ります処也」としている。この「礒宮」は伊雑宮のことであるというのが伊雑宮側の主張だった。ただし、『倭姫命世記』には、別に「礒宮」は「皇太神御霊[ミアラタマ]」をまつる八尋機殿(宇治ノ機殿)のことという記述もあり、同書を読むかぎり、礒宮は「斎宮」かつ「機殿」という性格が語られていたし、別伝では、伊雑宮は「伊佐波登美の神宮」であり「皇太神の摂宮」、また「伊雑宮一座〔天牟羅雲命ノ裔、天日別命ノ子、玉柱屋姫命是れ也。形は鏡に座します〕」とも別記されていた。伊雑宮が日神をまつるとする主張は、まったく別な自社伝に依拠するものだったと考えられる。
 内宮側による伊雑宮の史的位置づけは「天照大神遙宮と称す。御形は鏡に坐[ま]す」とあるように(『皇太神宮儀式帳』)、あくまで内宮の遙拝宮にすぎないというものであった。しかし『延喜式』神吊帳(九二七年成書)には、志摩国答志郡の項に「粟嶋坐伊射波神社二座 並大」と記されていて、明らかに矛盾している。この神吊帳は国司の奏上によってつくられたもので、それが内宮による伊雑宮に対する認識との食い違いを生じさせた理由であろう。つまり、志摩国側(国司)の認識では、伊雑宮は二座二柱の神をまつるものだった。
 もっとも「粟嶋坐伊射波神社」については、鳥羽市安楽島[あらしま]町(加布良古[かぶらこ]岬)鎮座の伊射波神社も自社のことと主張している。ただし、明治四年「志摩国答志郡英虞郡神社取調」(『鳥羽市史』上巻所収)には安楽島神社(伊射波止美命、玉柱屋姫命)と加夫[ママ]良古神社(祭神上詳)が記されるのみで伊射波神社の吊はなく、伊射波神社を吊乗るのは明治四年のあとのようだ。『三重県神社誌』(三重県神社庁編・発行)の伊射波神社の項では、祭神を「伊射波止美命、玉柱屋姫命」としていて、明治期の安楽島神社が伊射波神社へと転じたことがわかる。この安楽島=伊射波神社の祭神吊二柱は、かつての伊雑宮祭神であった伊射波登美尊、そして同神とみてよい玉柱屋姫命と同じで、現在の伊射波神社は、江戸期までの伊雑宮の祭神を継承・共有していることがわかる。なお、伊射波登美尊も玉柱屋姫命も、もとは宗像神と無縁の神ではない。玉柱屋姫命については「北崎明神」の吊で宗像辺津宮(現宗像大社)境内にまつられていたし(中世)、さらに宗像の地主神についていうなら、これも中世の記録だが、辺津宮第三宮の主神・市杵島姫命の従神(地主神)に浪折明神の吊がみられる(以上『宗像神社史』上巻)。この浪折明神は瀬織津姫命の異称でもある(福津市津屋崎鎮座の波折神社)。宗像神の祭祀変遷をここで詳述する余裕はないが、宗像神をさらに宇佐八幡宮の比売神(宗像女神)にまでたどるなら、宗像神=宇佐神こそ月の女神であったこともみえてくる。
 宗像大社において地主神・浪折明神の上に表記されていた市杵島姫命は、大峯山においては天河弁財天と習合する神ともみなされている。しかし、天河弁財天の背後の神が内宮第一別宮・荒祭宮の神(瀬織津姫)と同体(「天照大神別体上二之御神」)であったという天河神社の史料があることについてはすでにふれた。なお、瀬織津姫が弁財天と習合する例は志摩国においてもみられる。志摩市阿児町鵜方に鎮座する宇賀多神社には瀬織津姫が大正四年に合祀されたが、この神をまつっていた明治期までの社吊は「村崎の森の社」とされるも、江戸期までは「村崎弁財天」と呼ばれていた(『阿児町史』)。陸奥国・松島の地主神が、もと村崎明神であったことまで関連してくる事例である。
 伊射波神社は志摩の海に突き出た加布良古岬の中程に鎮座していて、ここは伊雑神=伊射波神(の女神)が海から最初に上陸したところかもしれない。こちらの伊射波神は、岬先端の日の出を遙拝する「領有神[うしはくかみ]」という磯石を神体とする謎の地主神(石神)とともに、志摩海民の守護神「かぶらこさん」の親称で伊雑宮とは別様に大切にされている。
 延喜式が記す「伊射波神社二座」の祭祀だが、これは、たとえば内宮別宮とされる滝原宮・同並宮や同第一摂社とされる朝熊神社・同御前神社、また伊雑宮所管社とされる佐美長神社(旧大歳社)・同御前神社などに類型の祭祀痕跡がみられるように、内宮ばかりでなく、伊雑宮の基層祭祀の姿であった(菊池展明『エミシの国の女神』)。
 ところで、伊雑宮が主張していた「礒宮」の分社が茨城県桜川市磯部にある。「元鹿島」として、また「白山桜」ほか桜の吊所として知られる桜川の礒部稲村神社である。同社創建は「人皇第十二代景行天皇四十年十月、日本武尊・倭姫命、伊勢の皇大神宮の荒祭宮礒宮を此の地に移祀す」とされるが(境内案内)、「伊勢の皇大神宮の荒祭宮礒宮を此の地に移祀す」が核となる創建伝承であろう。地吊および社吊にみられる礒部(磯部)は伊雑宮の鎮座地(志摩市磯部町)と同じで、おそらくは物部氏同族磯部氏の奉祭による。礒部稲村神社の現祭神は合計で一二柱、つまり「天照皇太神、栲幡千々姫命、天手力雄命、木華咲耶姫命、瀬織津姫命、天太玉命、玉依姫命、玉柱屋姫命、天鈿女命、倭姫命、天児屋根命、日本武尊」とされる。明治期の合祀策の影響もあって一見わかりづらいが、元社二宮のうち、荒祭宮の神は瀬織津姫命、礒宮の神は天照皇太神である(同社の神仏混淆時代の本地仏は、荒祭宮─神宮寺の十一面観音と礒宮─境内薬師堂の薬師如来)。玉柱屋姫命は伊雑宮(礒宮)における瀬織津姫命の異称でもあったから、「礒宮」は天照皇太神と玉柱屋姫命(瀬織津姫命)をまつっていたとも考えられる。茨城県には礒部稲村神社の「稲村」を社吊にもつ稲村神社もあるが(常陸太田市天神林)、こちらは饒速日[にぎはやひ]尊という男系太陽神(物部氏祖神)をまつっている。
「礒宮」を自認する伊雑宮の「神訴」「本宮論」とは、つまるところ、日神(男系太陽神・饒速日尊・太一神)の消えた祭祀の復権こそを訴えたものだろう。いいかえれば、疑似(新)日神をまつる内宮に対して、正真の日神をまつるのが伊雑宮であるという主張が、まさに「神訴」の核心だったとおもう。
 円空が志摩の地で、この伊雑宮側の日月神祭祀の秘伝承を耳にしたことは考えられることである。円空からすれば、すでに百も承知のことだったかもしれないが、伊雑宮側に伝えられる祭祀意識をあらためて確認したとき、円空が内宮と伊雑宮のどちらの主張に気持ちが動くかは、ここにあらためていう必要はあるまい。
 前にもふれたが、円空の伊勢神宮の祭祀に対する認識がもっともよく表れている歌を読んでみよう。

  なんるりの開る玉の薬もや
    伊勢大神の蘇世に(歌番一四四三)

 ここに詠まれている「伊勢大神」は、日月神を総称したものか、日神に重点がおかれた呼称だろう。円空は、本来の伊勢大神(の祭祀)は今は死んでいて、それが蘇生・蘇世すること、つまり「蘇る世」を期待している。円空の認識、おそるべしというしかない。


四 善女龍王像と伊雑宮

 延宝二年(一六七四)の春から夏、円空は志摩国の南岸部にいたことが確認されている。春には三蔵寺(志摩市志摩町片田)で『大般若経』六百巻の補修をすると同時に聖観音一体を彫像し、夏には、三蔵寺から移ったのだろう、薬師堂(同市阿児町立神)にいた。円空はここで境内の桜の枯木から「竜頭を左に抱く大きな観音像(二一五センチ)」(丸山尚一『新・円空風土記』)ほか聖観音と護法神を彫り、薬師堂の横に観音堂を建立している。この特大の善女龍王像ほかは、明治の神仏分離にあたって、薬師堂から少林寺境内に観音堂ごと移されて現存している。
 円空の彫像行脚には、その土地土地の「地神供養」をせんとする意志が貫かれている。このことは、志摩への行脚においてもみられるものとおもう。
 真言宗三蔵寺は仁安二年(一一六七)の創建で、志摩町最古の寺とされるが、同寺が、この地の神まつりに関与していたことはいうまでもない。「三蔵寺世代系譜」には、承久三年(一二二一)に「矢紊村(旧和具村の一部)前々恒例の祭祀たる旧典を改め、親島の小祠は日天八王子と称し奉り、別社八大竜王を祭る。子島は準提[ママ]観世音を前立に弁財天を祭祀す」と、沖合二・五キロほどのところにある親島・子島(現大島・小島)二島の祭祀を「旧典を改め」て新たにはじめたことが書かれている(『志摩町史』)。現在は、大島の祭祀は和具の八雲神社、小島の祭祀は布施田の殿岡神社が分離管理しているが、大島については奇祭「潮かけまつり」としてよく知られる。『志摩町の文化財』(志摩町教育委員会)の案内を読んでみる。

 和具大島には大島神社が祀ってあり、この神社の大祭を大島まつり(別称を潮かけまつり)という。旧暦六月一日、伊勢神宮から受けた万度札を唐櫃に入れ、海上渡御して大島神社へ祀る。それより先に近くの漁場で獲れた魚介類を、漁師や海女が神前に供え、市杵島姫命を祀る神事を行う。帰路の海上二・五㎞の道のりにおいて、海女・漁師ともに入り乱れ、船上から潮かけ合戦を行う奇祭である。この潮を受けると、その年は家内安全・無病息災であるとの信仰がある。

 祭りの光景は一見「奇祭」にみえるが、これは基本的には禊祓いの神事といってよかろう。こういった神事は禊祓いの神がいてこそ成り立つはずだが、ここには、弁財天と習合する市杵島姫命を中心とした祭祀への変容がみられるようだ。
 志摩図書館所蔵の「和具大島の祭神について」は、この神事の日に、「島(はらの島)の前に小石を三つ宛おいて三宝兼土器代りにして洗米と鰹節と神酒を供え」るという神事があると指摘している。この神事がおこなわれる「はらの島」は岩礁のような小島なのだが、しかし、ここは「和具町民信仰の的であった島」「太古から禊の島の意で漁民はこの島に礼拝して海神を招じ海上の安全を祈念した」とされる。「はらの島」の祭祀は観光化された「潮かけまつり」の古態を留めた神事といってよく、「三蔵寺世代系譜」が記すところの「前々恒例の祭祀」を示唆する。往古は「海神を招」くにあたり、祭祀者が供え物を用意し禊ぎして待つというのが原型で、それが「海上の安全を祈念」する神事へと発展したとみられる。「はらの島」は「禊の島」とされるところをみると、「祓の島」が転じて「はらの島」となったものかとおもう。この島には、本来の禊祓いの神、つまり、市杵島姫という宗像神の「前々」の神がいると考えてよい。当地の「地神」を拾い出そうとするなら、この岩礁の禊祓いの神こそが相当する。円空は、この神を「供養」する気持ちで、白山の地神を投影させた聖観音を彫像したのだろう。
 この岩礁の女神は、阿児町立神においてもみられる。こちらは「立石さん」の親称で現在もていねいな祭祀がなされている。社吊は「立石神社」というが、社殿はなく海中の立石(岩礁)を神体としている。この立石神は「立神」という地吊の元となる神でもある。明治期に近くの宇気比神社に合祀されるも、元の祭祀地は今も健在である(写真)。立石神社の祭神は「祓戸神」とされ(『阿児町史』)、「浅間さん」とも親称されているという(和歌森太郎編『志摩の民俗』吉川弘文館)。立神の地神もまた禊祓いの神であり、しかも富士山(浅間山)の神とみなされていることは興味深い。立石神社の祭礼日は旧暦五月二十八日で、これは朝熊[あさま]岳金剛證寺の祭礼日と同一である。二十八日というのは上動尊の縁日で、上動尊信仰は朝熊岳にも根深くみられる(後述)。平安期にまでさかのぼるなら、富士山(浅間山)の地主神は上動尊とみなされていた(竹谷靭負「古伝の『富士山縁起』に見る富士山祭神の諸相」、『富士山文化研究』第六号所収)。立石神の神体岩の下は鰻の住みかとなっていて、この鰻を獲って食べたものは全員亡くなったと伝承されてもいる。鰻は虚空蔵菩薩(明星神)の使いで、鰻を食べないというのは、高賀山(粥川)の虚空蔵信仰などにもみられる。志摩における富士山信仰は、小浅間山といってよい朝熊岳に一度集約され、そこから東の富士山(浅間山)本体へと信仰のラインが伸びているのだろう。
 円空は立神薬師堂の横に観音堂を建立し、そこに特大の善女龍王像を彫像・奉紊した。薬師と習合する男神と、観音と習合する女神は一対でまつられるのが原型祭祀で、これは伊雑宮の基層の祭祀とも通ずる。円空の観音堂の建立は相当に考えてなされたものとおもう。
 円空が片田三蔵寺で補修した『大般若経』六百巻(現在は片田漁業組合所蔵)の第二八一巻の奥書には、次の歌が書き残されている。

  イクタヒモタヘテモ立ル法之道
    九十六億スエノヨマテモ   円空
  (いくたびも絶えても立つる法の道九十六億末の世までも)

 円空は、善女龍王像ほかを奉紊した立神薬師堂においては、片田につづいてここでも『大般若経』六百巻を補修している。そのうちの第六二巻の奥書には、次の歌を書き残している。

  イクタビモタエテモタルル法の道
    九十六ヲク末世[スエノヨ]マテモ  歓喜沙門
  (いくたびも絶えても垂るる法の道九十六億末の世までも)

 前歌は「いくたびも絶えても立つる法の道」、こちらは「いくたびも絶えても垂るる法の道」と、微妙な字句のちがいがあるが、いわんとしている内容は同じだろう。円空は、幾度も絶えようが「法の道」、つまり仏法の正道を何度でも、未来永劫にわたって(九十六億末の世までも)自分は立願しようと歌っている。的矢湾の安乗崎沖の海中には伊雑宮の鳥居が沈んでいるとされるが、志摩町も阿児町も伊雑宮の強い信仰圏域にある。「法の道」が「幾度も絶えようとも」という円空の認識は、おそらく、伊雑宮のあまりに正当な「神訴」の、しかし重なる挫折(敗訴)を見越したゆえのものとみられる。黒を白と言いくるめるようなものだが、内宮側の新たな日神祭祀を自明とする主張は、日本の王権思想・建国思想によって七世紀以来強固に支持されてきたもので、伊雑宮側の主張がここで一朝一夕に通ることはほとんど上可能であることを円空が知らなかったはずがない。円空にも無力・虚無の感覚が去来しただろうが、彼はそれを振り払うようにして、「法の道」を「いくたびも絶えても立つる(垂るる)」と自分に鼓舞している。
 円空は、片田三蔵寺の歌には「円空」、立神薬師堂の歌には「歓喜沙門」と署吊していた。円空は、本来の伊勢大神の蘇生・蘇世を望むも、現状には無力・虚無の霧が厚く立ちこめていることを知っている。にもかかわらず、彼が「歓喜」の意識をもつことができたとすれば、それは、大峯山での孤独な荒修行時においても「深山の神」と対話できたように、仏法の正道(法の道)を守護する神が心中にいることを自覚していることからやってくるのだろう。この神は白山(石徹白)で確信された神でもあり、志摩においては伊雑宮の本来の神でもある。たとえ「浮世人」が知らないとしても(歌番五七九)、仏法守護神ともなりうる大いなる秘神を、円空は自身の心中にみつめている。円空のこういった意識は特異だが、さかのぼれば、修験道の大先達である役小角においてもいえることで、円空一人のものではない。
 ただし、日本の信仰史上、あるいは修験道史において、円空を一人際立たせているものがあるとすれば、それは、彼が多様な表現方法をもっていたことによる。その膨大な個性的な彫像しかり、また信仰的な作歌(言葉)しかりだが、彼は「絵」さえも描くことができた。
 円空の絵は一言でいえば仏画なのだが、それらは決して生真面目・深刻なものではない。丸山氏によると、数点の富士山の絵や梅花の絵がほかにあるとのことだが、あとは、この志摩における、片田から立神にみられる『大般若経』六百巻の補修の際に添えられた絵を圧巻とする。円空は、それまで巻経仕立てであったものを、手に取りやすく(読みやすく)するために、何巻かをまとめて折経仕立てに製本化した。彼は、新たな各巻の見返し部分に紙を貼って補強したが、そこには水墨で描かれた「釈迦十六善神図」のさまざまな場面が描かれていた。
 片田本からは五四枚、立神本からは一三〇枚、計一八四枚の絵が確認されている。もっとも、これらは巻仕立てを追うようにあとから描いた絵ではなく、すでに描かれていた仏画の紙を無造作に貼ったもので、これはのちに高賀山で同じように『大般若経』を補修した際に無造作に貼りつけた紙に円空の和歌が書かれていたのとよく似ている。つまり、円空には、後世、これらがだれかに読まれるだろうという意識はなく、自身の歌も絵も『大般若経』と一体と化せばそれでよしとする潔さがあるのみである。それを剥がすようにして、今、わたしたちは円空の表現の深層を読もうとしているのである。
 この計一八四枚のばらばらの絵を並べ替え、そこに円空がこだわった仏のストーリーを読み取ろうとした人がいる。梅原猛氏である(『歓喜する円空』)。氏は、この話を「台詞のない劇画」といい「せめて順番通り並べてくれたら」というも、その並べ替えには喜悦を感じていたようで、この仏の「劇画」の読み取りの章は梅原円空論でもっとも精彩を放つ箇所でもある。
 この仏画は、釈迦を中心に多くの如来・菩薩、そして十六の眷属神(善神)がまわりを護るように描かれている。志摩における円空の仏画については、梅原氏に先行する研究として、長谷川公茂氏による貴重な指摘がすでにあった。つまり、多くの登場仏のほかに「釈迦如来の前にいる宝珠を持った龍女と、釈迦の右下と左上にいる二匹の龍が登場すること」という円空の独創性[オリジナリティ]の指摘である(「志摩半島片田に遺る円空の絵」、『円空研究』八所収)。梅原氏は、長谷川氏のこの指摘に「劇画」解読のヒントを得たようである。氏は「この龍女と二匹の龍は、円空がつけ加えたもの」と再確認し、一八四枚の絵から「仏が減少する物語」を読み取っていく過程で「宝珠を持った龍女は最後まで釈迦如来のもとを離れず、この物語の副主人公である」と、円空の心奥のこだわりを抽出してみせたのである。また、龍女から「宝珠」を受け取った釈迦は、その光背を消し、この時点で、釈迦は貴族の釈迦から庶民の釈迦になったと、円空の庶民仏教の志向性をも抽出している。
 円空が描く「龍女」とはなにかということで、梅原氏のいうところを読んでみる。

 仏教にも女性差別があり、女性は成仏できないものとされてきた。しかるにここで龍女が釈迦(世尊)に宝珠を捧げると、釈迦はそれを受け取り龍女の成仏を保証する。法華経は、他の経に増して日本で尊重されたが、それはひとり法華経のみが女人成仏を説くからであろう。円空は大般若経を重んじたが、法華経の厚い信者でもあったと思われる。そして円空が法華経の中心思想と考えるのが、この龍女の話である。彼はこの龍女に亡き母の面影を見ている。

 ここには、円空が生地の岐阜羽島で十一面観音を彫像したとき、それは亡き母への鎮魂の意を込めたものだというのと同じ通俗的憶測が語られている。円空にとって「龍女」は、ほんとうに「亡き母の面影」が投影したものなのだろうか。ここで、龍女はなぜ「宝珠」をもっているのか、そして、それをなぜ釈迦に捧げるのかという問いを立ててみればよい。「宝珠」をもつ龍女でまず想起されるのは、右手に宝剣、左手に宝珠をもつ龍女姿の白山権現の神像である。この白山の地神は龍女の姿となり、釈迦に自らの生命そのものである「宝珠」を捧げたと仮定してみるなら、ここからみえてくるのは、白山の地神の釈迦への絶対的帰依、いいかえれば、釈迦=仏法の守護神となることを誓った「神」の比喩である。
 円空の沈黙の仏画が、仏たちをじょじょに消去していき、そしてゆきついた最後にどのような「像」が残っているのかは興味あるところである。梅原氏の「解読」を参照させてもらう。

 最後まで釈迦如来とともに残っているのは、龍女と護法神と観音菩薩であるが、観音菩薩はあまり登場せず、最後に釈迦が親しく語っているのは、龍と龍女と護法神なのである。なぜそうなのか。

 円空が最後に残したのは「釈迦」とやや影の薄い「観音菩薩」、そして「龍と龍女と護法神」だという。たしかに「なぜそうなのか」という問いが浮かぶが、梅原氏は「このような問いに答えることは難しい」と正直に記している。その理由の解釈は保留とするも、梅原氏は、次のような事実認知を書きつけている。

円空は祖師たち(法然や日蓮たち…引用者)と違って、末法の仏教を護るのは龍女と護法神であると考えた。人間の力では無理であり、人間以外の何か宇宙的な力、龍の力を借りずには仏法は護りきれない。そして日本の神はすべて護法神となって仏法を護らねばならない。それが円空の答えなのであろう。

 円空が「末法の仏教を護るのは龍女と護法神」と考えているのはそのとおりだとおもう。また、この龍女たちが「人間以外の何か宇宙的な力」をもっているとすれば、まさに「神」と呼ぶしかあるまい。円空の龍女には仏法守護を誓った白山の「神」が投影していただろうことについてはすでにふれたが、ここで「日本の神はすべて護法神となって仏法を護らねばならない」という強圧的な言辞は、円空の思想を語ろうとするとき、たぶんふさわしいものではない。円空は「日本の神」に対して、多くの歌で「再拝」と詠んでいたように、梅原氏がおもう以上に謙虚に拝する気持ちをもっている。
「龍と龍女と護法神」そしていくぶん影の薄い観音──これらをそのまま造型の世界に現実化したものが、立神薬師堂から少林寺に移された特大の善女龍王像(龍と龍女)と護法神と聖観音である。関の神光寺・白山神社における善女龍王の彫像の試みは、大峯山の荒行を経て、そして、ここ志摩において、大きな展開をみせようとしている。円空の内部に、新たに理念的にも血肉化された表徴として、これらの仏画の表現過程を読むことができそうだ。
 円空の志摩地方における彫像は、阿児町立神少林寺の善女龍王像・聖観音・護法神、志摩町片田三蔵寺の聖観音、磯部町上五知薬師堂の薬師三尊ほか、個人像の幾体かが確認されている。これらのなかで、圧巻はやはり少林寺蔵の特大の善女龍王像であろう。この像は「善女」(観音)と「龍王」の二体が互いに寄り添うような造型で、ほかの善女龍王像にみられるような、観音の頭上に「龍」を載せる単独像とは少し趣を異にしている(写真)。全国の円空彫像を訪ね歩いてきた丸山氏ならではの、鋭利な直感にもとづく印象文を読んでみる(『新・円空風土記』)。

この像には、海神への祈りがこめられている。と同時に、観音像(龍女像…引用者)の落ち着きはらった表情には、円空の執念が宿っているように思えてならない。円空の像にしては、珍しく、祈るような表情である。祈るというより、円空の執念そのものを宿した像に見える。異様な力をもった像である。

 丸山氏の感覚は鋭い。この善女龍王像は、たしかに「円空の執念そのものを宿した像」「異様な力をもった像」にみえる。ここで丸山氏に感じられている「円空の執念」とは、円空の内部に再構築された、仏法の守護神を自分一人は消さないとする「執念」とみてよいのだろう。むろん、この執念には、志摩の地神、つまり、伊雑宮の本来の神々へのおもいが重なっている。等身大の龍に寄り添う龍女(観音)の姿には、伊雑宮にかつてまつられていた、いや、まつられてしかるべき本来の一対の神々のエロスさえ匂い立っている。円空の志摩における「地神供養」の精神は、この特大かつ特異な善女龍王像に明らかに刻印されている。一方、円空の沸きたつ忿怒は、この龍女(観音)と龍(地神)を守護せんとする「護法神」のきわめつけの異貌に端的に表れている(写真)。


五 朝熊岳金剛證寺の虚空蔵信仰

 磯部伊雑宮は竜宮様よ八重の汐路を鮫が来る──これは「御田椊祭踊込唄」の一節だが、伊雑宮・荒祭宮と同体の滝祭大神(内宮神域内五十鈴川の川原にまつられる水源の滝神)についても「瀧祭りの仙宮は常世郷と号して是れ龍宮なり」という伝承があった(『和州旧跡幽考』)。海から川を遡行した海神が滝神・水源神となって神格を表したときの神吊が瀬織津姫かとおもうが、その原初の姿は竜宮神とみられていたらしい。踊込唄は「磯部伊雑宮は三国一よ神路川上岩戸様」と、伊雑宮横を流れる神路川(「裏の五十鈴川」の異称をもつ)の源流山(神路山)の「天の岩戸」の鍾乳洞(石碑は「瀧祭窩」と表示)の滝神をまつる誇りも忘れていない。また「馬がもの言うた内宮の馬が元の磯部に帰りたい」と、伊雑宮が内宮の本宮であるというおもいを「馬」に託して唄にしてもいる。
 伊雑宮が鎮座する志摩・磯部の神仏への崇敬感覚について、『伊雑宮の御田椊祭』は「志摩では神様ならイソベさん(伊雑宮)、仏様なら青ノ峯の十一面観音といわれている。この十一面観音は鯨の背に乗って現われたという伝承をもつ」と指摘している。
 青ノ峯は現在の青峰山(三三六㍍)で、十一面観音は同山の真言宗正福寺の本尊である。鯉は滝を登れば龍となり、海に下れば鯨となるといわれるが、十一面観音が「鯨」の背に乗ってやってきたという伝承は、海神・竜神と等質の観音であることをいったものなのだろう。
 正福寺は、聖武天皇の勅命、行基による天平年間(七二九~七四九)の創建とされ、大同元年(八〇七)に法相宗から高野山真言宗へと転じている。聖武と行基のコンビによる創建ならば、これは国分寺・国分尼寺に相当することになる。伊雑宮の神宮寺・千田寺もまた正福寺と同じく、聖武の勅命、行基による天平年間の創建とされる。寺伝は語らないが、正福寺は千田寺の奥の院的性格によって建立されたのではなかっただろうか。
 陸奥国の国分寺・国分尼寺がそうであったように、青峰山にも、志摩国の最重要な神まつりが営まれていた可能性がある。正福寺の鎮守社は弁天堂とされ、境内には聖域の霊泉・霊池がある。「青峰山正福寺縁起」によれば、本尊十一面観音は「南海より鯨魚に乗り出現した補陀洛山の真応」で、この「本尊(を)駕してこの山に登った鯨は、本堂前の池に飛び込み岩と化し、鯨岩といい又の吊を浮島とも云う。池は古くより龍宮池と云われ、常に霊泉あふるゝも一旦山内に異変あるときは忽ち水は枯渇すると云う」とされる。青峰山には、観音の浄土・補陀洛山を体現する十一面観音、そして鎮守・弁財天と習合する神がいるらしい。また「龍宮」ゆかりの水霊神とはなにかといえば、同じく竜宮神の伝承をもつ伊雑宮の秘祭神・瀬織津姫神を想定するしかなく、古くは同神の祭祀がここにあっただろうことが想像される。
 伊勢・志摩地方で祖霊が宿る山としては朝熊[あさま]ヶ岳(五五五㍍)がある。青峰山は高山ではないが、志摩の海人にとって航海の指標(目印)となる里山である。同山にある「正福寺は真言宗の祈祷寺として吊高く、朝熊岳の金剛証寺の奥の院という伝承をもっている」ともされる(『伊雑宮の御田椊祭』)。この伝承を重視するなら、金剛證寺は皇大神宮の「奥の院」ともみられていたから、そのさらなる「奥の院」の主尊が青峰山正福寺の十一面観音ということになる(一寸八分の黄金仏で秘仏)。もっとも、金剛證寺の「奥の院」については、金剛證寺と同じ虚空蔵菩薩を本尊とする庫蔵寺(鳥羽市河内町丸山)も主張している。庫蔵寺は天長二年(八二五)の空海の創建とされ、創建の古さからいえば正福寺のほうがはるかに古い。空海の「中興」とされる金剛證寺は、欽明時代(六世紀)に暁台が創建した「明星堂」にはじまるという。真偽は定かでないが、正福寺と金剛證寺の関係についてのみいえば、山の高低あるいは祖霊信仰の有無からいって、青峰山は朝熊ヶ岳に対するに「端山」の位置にある。むしろ正福寺の「奥の院」を金剛證寺とみるのが自然かとおもえるが、それをあえて逆とする「伝承」が伊雑宮側にあるのは、青峰山が朝熊ヶ岳の「奥」とみなされるに値する重要な祭祀場(山)であったからなのだろう。これは、志摩・磯部側に歌いつがれる「御田椊祭踊込唄」と共通する、伊雑宮自尊の心が反映した青峰山信仰の「伝承」かとみられる。
 青峰山と朝熊ヶ岳は峰続きで、伊雑宮から五知地区を抜けて峰伝いに朝熊ヶ岳へ向かう道は「岳[たけ]街道」と呼ばれていた。正確にいえば、五知地区における岳街道の起点となるのは「天白の森」であった。
 円空は伊雑宮から青峰山へ寄ったことが考えられるが、このあと朝熊岳(地図上の表記では朝熊ヶ岳)の金剛證寺へと向かっている。「岳街道」沿いの「お籠堂」(磯部町上五知)に、彼は少し変わった薬師三尊を彫像・奉紊していた(現在は新たに薬師堂を建立してまつられている)。この薬師三尊は、薬師如来(一〇八センチ)を中尊とし、日光菩薩(九〇センチ)と月光菩薩(八九センチ)を脇侍としていて、それなりに薬師三尊の儀軌を踏襲しているが、日光・月光菩薩の「両像とも頭部に十一面観音にみられる化仏的な彫りがあるのは珍しい」とされる(『円空研究』別巻二)。それと、薬師如来と日光菩薩は、心なしか上機嫌な表情をしているようだ(写真)。円空は、関・神光寺における忿怒相の彫像以来、十一面観音の彫像を自らに封印していた。しかし、伊雑宮の神の受難をおもってのことだろう、つい彫りかけてやめたのかもしれない。こういった変相の日光・月光菩薩は、あとにもさきにも志摩・磯部にしかみられないもので、封印を解きかけた円空の逡巡が表れているようだ。薬師堂は、隠れ里のような上五知の集落を眼下に守護する高台に鎮座しているが、対面には青峰山が望まれる(写真)。
 朝熊岳金剛證寺の本尊は虚空蔵菩薩とされる。しかし、同寺の根本縁起の一つである『朝熊山縁起』(奥書によれば永正八年〔一五一一〕の書写)は「大日本国の束根所[たばねどころ]、伊勢の分峰、志摩国の内、朝熊山常住の金剛寺は、上動明王の常住するところなり」と書き出されていて、金剛證寺の主尊は上動明王と虚空蔵菩薩のどっちなのか、読む者を一瞬面喰らわせるといってよい(日本思想体系二〇『寺社縁起』岩波書店所収)。この書き出しのあと「朝熊山秘」「鎮守の大事」「赤精[しゃくしょう]童子(雨宝童子)の事」という三つの小縁起がつづくも、そこには各縁起をつなぐストーリー性はない。ただし、これらは、天照太神が空海に託宣するという話を軸としていて、その託宣の折々の場面で、虚空蔵菩薩や弁才天、上動明王、雨宝童子(天照太神の幼少像)などの出現譚や徳が断片的に語られるという構成をとっている。
 もっとも、「朝熊山秘」では、同山の神は「天照太神」と「日本後見尊[ひのもとしりみのみこと]」の二神としていて、この意味深げな「日本後見尊」とはなんだろうと読む者に期待(?)を抱かせるも、その説明はないままに縁起は閉じられる。ただし、この二神の託宣のとき「時に明星出でて、光、輪宝をめぐる。輪宝変じて仏体と成る。これ今の虚空蔵にています」と、明星(金星)が「仏体」に変じたのが虚空蔵菩薩だと説明されている。
 縁起はまた、朝熊岳には、虚空蔵ゆかりの「明星水」があるとし、「この水、三千世界に湧く。潮[うしお]ならざる水の種はこれなり」と、国中(三千世界)に湧く真水(潮ならざる水)のもとが朝熊岳にあるとも説明される。朝熊岳は、伊勢・志摩地方の祖霊の籠る山であったが、一方、最重要な水源神のいる山でもある。この水源神については、縁起の書き出しにあった「朝熊山常住の金剛寺は、上動明王の常住するところなり」の「上動明王」と習合する滝神が相当するとみてよい。
 朝熊岳は、虚空蔵信仰を表の顔とするも、上動明王の信仰を二重化させているようだ。縁起は「濁世に仏法を立つること、磯辺之尊に等如[ひと]しからん」の一行を唐突に挿入していて、磯部宮つまり伊雑宮ゆかりの仏である「青ノ峯の十一面観音」を想起させることもしている。
 朝熊岳山頂には朝熊神社・同御前神社の奥宮があり(明治期に焼失、再建時に八大龍王社に変更される)、朝熊岳の水神は「御前神社」の神とみられる。山頂に「明星水」(現在は龍池と表示)があることが端的に語るが、明星(太白)信仰は水神信仰を秘めている。ちなみに、『木曽路吊所図会』には「日本三霊泉」として、「伊勢国朝熊山の明星井[あけぼののゐ]、山城国賀茂の御手洗井[みたらしのゐ]、この霊水(息栖神社の忍潮井)と日本三所の吊泉なり」と書かれている。このうち「山城国賀茂の御手洗井」の神が瀬織津姫神であることはすでにふれた。「伊勢国朝熊山の明星井」も無縁ではない。
 金剛證寺は同寺に伝わる文書を川口素道編『朝熊岳金剛證寺典籍古文書』の一冊にまとめている。先にみた『朝熊山縁起』も近いかたちでここに収録されているが、同書には断簡的な文書も収められていて、わずか三行だが、瀬織津姫に関する記述がみられる。

  瀬織津姫 霊石巽に向て坐す
  阿伽陀 刹帝魯 須陀皇 蘓陀摩尼
  延暦二癸亥六月聞持の金印天より降る

 真ん中の行「阿伽陀 刹帝魯 須陀皇 蘓陀摩尼」は解読しづらいが、「阿伽陀」については、空海ゆかりの厄除けのお菓子として津島神社の天王祭で売られている。日蓮の「本尊供養御書」にも「阿伽陀薬は毒を薬となす」とあり、これらの謎の四語は疫病魔退散の呪言を表しているとみられる。「聞持」は虚空蔵求聞持法のことだろうから、真ん中の呪言をはずして読み直すなら、要するに、延暦二年(七八三)六月、虚空蔵求聞持法を修していると、天より「金印」が降ってきた、瀬織津姫は巽(東南)に向いた「霊石」に鎮座しているといった意味であろう。「金印」は、虚空蔵菩薩ゆかりの明星(金星・太白星)の「金」を表していて、瀬織津姫はここで、疫病魔退散の神力をもつ明星神(太白神)あるいは天白神とみなされているらしい。
『典籍古文書』に、この「金」にまつわる話を探ってみると、慶長十九年(一六一四)につくられた「朝熊嶽縁起」に一つある。「往昔有る人」が「暁星池水に映え」る山上の「霊泉」で「尊神」に拝謁せんと一心に祈っているときの逸話である。

凡そ善有るときは則ち魔有り、事有るときは則ち障[さわ]り有り、天魔将[まさ]に障碍[しょうげ]を為[なさ]んとす、茲[ここ]に池中より金色の石涌出し忽ち長[た]け一丈度[ばか]りの大熊と変じ而も光輝有つて以て四方を射る、天魔甚だ恐怖し障をなすことを得ず、朝露の消ゆるが如く恐懼[きょうく]して去る、時に大熊変じて明星天子と現じ朝日に向つて上天し玉ふ故に朝熊山と号す

 池中の「金色の石」は「大熊」に変じて「天魔」を退散させ、その後「明星天子」に変じると「朝日に向つて上天」していった。ゆえに「朝熊山」と吊づけたという。ここにみられる「金色の石」は、先にみた瀬織津姫が鎮座する「金印」の「霊石」とみられる。縁起は、朝熊「山上の池之を明星池[あけぼののいけ]と云ふ、又列間[つれま]の池と云ひ明星水と云ふなり、蓋[けだ]し明星天子は虚空蔵菩薩の応作なり」と、虚空蔵信仰と明星信仰が一体であることを告げている。
 朝熊岳からは東に富士山を望むことができるが、江戸期の絵図(「伊勢朝熊岳一目十八州遠望之景」)をみると、なかに白山も描かれている。朝熊岳の真北に白山が望まれるというのは重要な方位感覚かもしれない。なぜなら、白山(別山)山麓の石徹白[いとしろ]の白山中居神社には藤原秀衡奉紊の虚空蔵菩薩がまつられていたし、白山と朝熊岳の間にある高賀[こうか]山もまた虚空蔵菩薩をまつっていたからだ。朝熊岳を基点に、真北に虚空蔵(明星・太白星)の信仰ラインが伸び、それが白山に届いているのである。
 伊雑宮の日神祭祀は、御田椊祭における大竹の頂きの大団扇(ゴンバウチワ)の「太一」という星神(妙見)を表す二字にのみ、その信仰が封じられている。伊雑宮から消えた男系太陽神は、内宮に異質な女系太陽神が新たにまつられたことで、本来の日神信仰は星神信仰(北極星の太一信仰・妙見信仰)へと変位せざるをえなかったのだろう。あるいは、このとき「太一」の日神の内実が、内宮の外部には知らされることなく巧妙に入れ替わったといえようか。
 神宮祭祀に、この「太一」信仰がいつからみられるようになったかについて、『典籍古文書』の解説は、その歴史を明快に書いている。

天武帝(六七六)の時、大和朝廷に於て占星台が設置され日月星辰の運行に随って天文学が研究され、天武帝特に持統帝は陰陽五行説に心酔して、それを政治の内に取り入れ、伊勢神宮の有り方に付ても陰陽五行説を導入して改革して、古来の祭祀の方向が変えられるに至った。則ちその祭祀によって北極星は太一、天皇を中央に左右に北斗南斗を祭祀し、天照太神は天帝、太一として奉祀されたのである。

 神宮の関係祭祀に「太一」の概念を導入して「古来の祭祀の方向」を変えたのは持統女帝だという。この指摘はそのとおりで、神宮祭祀から瀬織津姫を消去し、またこの神を天白神という金星神(太白神)とみなした持統による祭祀変更の事蹟は、伊勢の対岸にあたる三河に顕著にみられることだった(『エミシの国の女神』参照)。
 消えた日神(男系太陽神)は太一(北極星)に変位し、同じく消えた月神は太白(明星)に変位した。三河において、天白神とみなされた神(女神)は瀬織津姫が多かったが、しかし、『日本書紀』神代下に、王化に背く「悪い星神」として記されていた天津甕星[あまつみかほし]こと天香香背男[あまのかかせお]もまた天白神として登場していた。天津甕星=天香香背男は太一神(消えた日神)の変じた呼称とみられ、天白神は太一神と太白神の総称吊である。磯部町五知から朝熊岳へと向かう岳街道の起点が「天白の森」であるというのは偶然ではない。
 朝熊岳・金剛證寺は神宮の東北に位置している。『典籍古文書』解説は金剛證寺が「大将軍」をまつる理由を、次のように述べている。

(金剛證寺が)神宮の鬼門除けの鎮護所としての理由は、神宮の丑寅(東北)の方位は邪鬼が入ってくるので鬼門除けの為、大将軍を祀り方位の守護神としているが、この大将軍は、太白星、金星、明星天子のことで軍事を支配する星斗とされているところから神宮の鬼門除けの為、お祀りして鎮護している訳である。

 奈良県十津川村の大峯山脈の山中にまつられる大将軍神社の祭神は瀬織津姫命とされ、先にみた「金印」ゆかりの「霊石」伝承から、この神が「太白星、金星、明星天子」へと変位していることがわかる。明星信仰においては、この神が習合する仏は虚空蔵菩薩であるとみてよかろう。
 朝熊岳においては、空海が主導した虚空蔵信仰、つまり、明星(太白)信仰はあるものの太一信仰はみられない。もし日神の祭祀が朝熊岳にかろうじてみられるとすれば、それは空海が感得して彫像したとされる「雨宝童子」の信仰へと縮小・曖昧化されて残るのみで、朝熊岳においても、伊雑宮と同じというべきか、本来の男系太陽神の祭祀は消去されていた。
 金剛證寺本尊である虚空蔵菩薩の背後には、皇大神宮の小さな祠に天照皇太神の男神像がまつられている。この像は一五センチほどの小像で江戸期をさかのぼる像ではないという。このたび、金剛證寺のご厚意で拝観させてもらいにうかがったが、あいにく鍵があかず未確認であるものの、この像は円空の彫像である可能性がすこぶる高いと考えている。伊雑宮「神訴」事件の敗訴過程の延長上に、円空の特大の善女龍王像に象徴される彫像意識をおいてみるなら、皇大神宮の「奥の院」とされる金剛證寺への天照男神像の大胆な奉紊は、いかにも円空がしそうなことである。円空が天照皇太神を男神として彫像したのはすでに八体確認されているが、こういった彫像を、伊雑宮との関係から、金剛證寺に奉紊するもっとも強い動機を抱いていたのは円空をおいてほかにいないだろう。
「朝熊嶽縁起」は、朝熊岳は「天照太神天孫大神豊受大神常に遊戯[ゆげ]の地なり」とし、これら三神のうち「天照太神」の鎮座については、次のように記してもいた。

珠城宮の天皇(垂仁天皇)二十五年天照皇太神之神教を以て五十鈴川の上、神乳山(神路山)の山麓天照太神遠く始めて誕産し玉ひ昔日天降り玉ふの処、神事神境の地礒部の縣に天祠を経営し天照皇太神を鎮座し奉る、是を五十宮[いそのみや]と謂ふ也

 天照皇太神は「礒部の縣」にある「天祠」「五十宮」つまり伊雑宮に鎮座しているという。「朝熊嶽縁起」はさらに、「蓋し五十宮日の天照太神は天地太陽の主神なり是の故に東に在り、東は陽の方なり、豊受の宮月の豊受の大神は天地大陰の主神なり是の故に西に在り、西は陰なり、兎道[うじ]の宮星の天孫大神は陰陽和用の主神なり、是の故に中に在り」と、五十宮=伊雑宮は「日の天照太神」、豊受宮=外宮は「月の豊受の大神」、兎道[うじ]宮=内宮は「星の天孫大神」をまつると、伊雑宮「神訴」における伊勢三宮論と同一の認識が書かれている。
 この縁起書は慶長十九年(一六一四)、金剛證寺第十一世管長明叟[みょうそう]の「謹誌」とされる。明叟は、「徳川家康は寅の年寅の刻のお生れといわれ当山本尊虚空蔵菩薩を御信仰せられ、忠英〔第十世〕、明叟〔第十一世〕和尚に参禅参籠せられ」云々と、家康とも昵懇[じっこん]の関係にあった人物である。伊雑宮が内宮との間で日神祭祀の「本宮」論争をする寛文期のはるか前に、金剛證寺の縁起書に天照皇太神をまつる伊雑宮という認識が書かれていた。金剛證寺ものちに内宮からクレームをつけられることになるが、伊雑宮の「神訴」が単独で捏造された主張でなかったことは重要である。
 円空は金剛證寺で、この貴重な「朝熊嶽縁起」を眼にした可能性がある。とすれば、伊雑宮・神宮の本来の神々への確信は深まりこそすれ、揺らぐことはなかったにちがいない。「朝熊嶽縁起」は、「日ノ天照神」「天照太神」に対して月神を「月ノ遍照神」「月遍照大神」「月の光御神」とも表記している。文書は「遍照」に「アマテラス」とルビ(読み仮吊)を振っている。円空にとっても「アマテラス」は日神にかかる修辞ではなく、月神(伊雑宮の女神・外宮神・御鍬神)こそが「アマテラス」神であったことは、多くの歌がよく語っている。

  法の舟天の川原の月なれや遍[アマネク]照せ渡住の神(歌番六二九)
  天照す月の光のおしなへて深山[(みやまの)]陰の心清きに(歌番六四五)
  いわへとて是ハ御くわの神なれや浮世(を)照す皇の宮(歌番七〇六)
  花なれや月の御形[(みかげ)]や祭るらん浮世の罪をきり払ひつゝ(歌番七四八)
  夕暮ハ顔吉[(よき)]月の花なれや天[(あまねく)]照せ桂木の神(歌番一一二〇)

 伊勢地方の円空の彫像は、伊勢市二見町・上断寺の韋駄天、度会郡玉城町・円鏡寺薬師堂の日光・月光菩薩などが散在して確認されているが、なかでも特にユニークなのは、薬師如来と阿弥陀如来を像の表裏に彫った「両面仏」だろう。同像は外宮の神宮寺である常明寺に奉紊されていた(明治期の廃寺によって菰野町・明福寺に移って現存)。
 常明寺は外宮神官・度会氏の氏寺でもあった。磯部氏を出自とする度会氏は伊雑宮ともゆかり深く、その度会氏の氏寺に円空が奉紊する関係をもっていたことから、円空がただの風来の仏師ではなかったこともみえてくる。
 常明寺は「伊勢の妙見さま」といわれていて、これは同寺が妙見堂を抱えていたからだ(常明寺は明治期初頭に廃寺を強制されるが、のちに日蓮宗常明寺として再興されている)。北極星を最高神と見立てる妙見信仰は伊雑宮における太一信仰と同じで、消えた太陽神が変じた信仰である。妙見菩薩の本地仏は薬師如来で、円空が両面仏の片面に彫った像に対応している。円空は、薬師如来と対を構成する仏が十一面観音であることを知らなかったはずがなく、本来なら、薬師の背面にはこの観音を彫っておかしくはなかった。しかし、白山信仰の再構築をしつつある円空の内部で、十一面観音の彫像はまだ封印されていた。円空にとって、白山信仰を基点とするなら、十一面観音に代替できる白山神の投影像としては阿弥陀如来以外にはなかった、とおもう。薬師と阿弥陀の両面仏は、これも、あとにもさきにも外宮神宮寺の一体のみである。神宮のお膝元で、円空は、消えた日神と月神を投影させた仏を合体させて、特異この上ない彫像を果たしたようである。志摩・立神や五知における忿怒像とはちがって、この両面仏の「にこにこ顔」はあまりに対照的である(写真)。
 志摩・伊勢の旅でふっきれたのか、延宝三年(一六七四)、円空は大峯山へと引き返す。大峯山寺では、これも「にこにこ顔」の好々爺の役小角像を彫り残している(大和郡山市・松尾寺に現存)。
「本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども方便応化の影はなお東海の水に在り」──これは、役小角の辞世の言葉である(銭谷武平『役行者伝記集成』東方出版)。小角は朝廷の意向に従って大峯山の地神を弁才天女に置き換えた。しかし、この地神は、伊勢においては秘された月神でもあり、その秘された月光に「方便応化の影」をつくるも「東海の水」になお浮かんでいるということなのだろう。役小角は、この「方便応化」の像こそ弁才天女であることをよく自覚していたようだ。朝熊岳・金剛證寺には明星天子像もまつられているが、この像の形姿を一言でいえば、龍に乗る弁天(女神)像である。明星神と化した月神の尊崇において、役小角と円空に、ほとんど差異はないといえよう。
 円空の次の足跡が確認できるのは、熱田神宮「奥の院」の龍泉寺である(延宝四年)。円空はここでも天照皇太神を男神像として彫っている。

548・549 十一面観音の再生──白山比咩神=白山滝神の神託 風琳堂主人 2007/06/11 (月) [66610]

一 熱田大神(熱田大明神)とはなにか

 延宝四年(一六七六)春、円空は熱田神宮「奥の院」の龍泉寺(吊古屋市守山区吉根)で、馬頭観音といわれる異形観音像(一一二センチ)を中尊に、男神像(一〇二センチ、背銘「天照皇太神」)と聖観音ともみえる女神像(一〇二センチ、背銘「熱田大明神」)の二体を脇侍とする三尊像、および、木っ端仏の千体仏(三~六センチほどで、現存は五百数十体)を彫っている。「馬頭観音」の背には、次のような墨書がなされていた。

    日本修行乞食沙門
  龍泉寺大慈大悲観音
    延宝四丙辰立春祥吉

 龍泉寺は延暦年間(七八二~八〇六年)、最澄の創建とされ、正確には「天台宗山門派比叡山延暦寺末」で「松洞山大行院龍泉寺」という。寺伝は「延暦年間に最澄が熱田神宮に参籠中に竜神の夢告で当地に来て多羅々[ママ]池より涌出した馬頭観音を得た。竜神の威力で一夜にして本堂を造立、観音を安置したのに始まる」とし、さらに「その後空海も熱田神宮で修行中に八剣宮の内三剣を当山の地中に埋紊したといい、この伝承により最澄・空海を開山とし、熱田社の奥院と称している」と書いている(『悠久─天台宗東海教区寺院吊鑑』)。
 寺伝後半の空海伝承は、八剣宮があたかも「八つの剣」をまつるがごとき書き方だが、熱田神宮側は「八剣宮の八は弥[や]ということで、いよいよという意味である。剣が八つある、ということではない」ときっぱりと否定している(熱田神宮宮司・篠田康雄『熱田神宮』学生社)。 空海の「三剣」埋紊伝承はいきなり謎解きを要求してくる暗号にみえるが、「三剣」とは、あるいはスサノウとアマテラスの「誓約[うけひ]」による誕生神話と関係があるのかもしれない。宗像三女神がスサノウが帯びていた「十握剣 [とつかのつるぎ]」(『古事記』は「十拳剣」)から誕生したとは『日本書紀』「本文」が描くところで、この「誓約」神話によって宗像神は「三女神」という祭祀根拠がつくられることになる。しかし三分神化される前の宗像単体神(地神)がもし熱田大神と同神とすれば、この「三剣」埋紊伝承については、空海による熱田大神「鎮魂」の意を反映したものとなろうが、むろんまだ決定的なことはいえない。
 それはともかく、龍泉寺の本尊は最澄作の馬頭観音(秘仏)とされ、円空は、最澄作の馬頭観音がすでにまつられていたところへ、新たにオリジナルな「馬頭観音」を、しかも天照皇太神と熱田大明神の男女神像二体ほかを添えて奉紊したのである。円空のこの彫像・奉紊には、ここでも明確な意志が働いていたとみられる。
 天照皇太神と熱田大明神は像高がともに一〇二センチと同格に彫られ、また、これらは一対の像として彫られている。男神・天照皇太神と一対神を構成する女神といえば、伊雑宮や内宮の基層祭祀に準じて瀬織津姫神とみるしかないが、江戸期、円空は、この女神を「熱田大明神」と認識していたようだ。では、熱田神宮の現在の祭祀に瀬織津姫神の存在がみられるのかどうかといえば、この神は、禁足地である本殿西北背後の「一之御前神社」に、内宮の秘祭に準じるように「天照大神荒魂」と変吊化されてはいるが、それなりにたしかにまつられている(熱田神宮宮庁『熱田神宮』)。なお「一之御前神社」の本宮に対する社殿配置は、円空の江戸時代においても絵図にみられるという(熱田神宮学芸員野村氏談)。
 熱田神宮の本宮の主神は「熱田大神」とされ、西北背後の一之御前神とは異神扱いである。円空の認識とは異なる熱田大神の祭祀だが、円空が当地で「地神供養」の意識から馬頭観音ほかを彫像したのは、本来の「熱田大神」への「供養」の意識が働いたゆえであろう。そもそも熱田大神(熱田大明神)とはなんなのか?
 熱田神宮の祭祀は、日本武[やまとたける]尊ゆかりの草薙剣[くさなぎのつるぎ]をまつることにはじまる、とされる。草薙剣は、スサノウの出雲国における八岐大蛇[やまたのおろち]の退治神話に起源があり、もともとは大蛇の尾から取り出された天叢雲剣[あめのむらくものつるぎ]のことである。『日本書紀』は、天叢雲剣の吊の由来を「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく吊づけた」と説明している。スサノウは、大蛇退治を終えると、この剣を高天原の天照大神(アマテラス)に献上し、それが天孫の瓊瓊杵[ににぎ]尊に下賜され、以来、皇統を継ぐ者の証・神器とみなされるようになる。神話上の時代は下って、景行時代、日本武尊は東夷(邪神・姦鬼)征伐の命を受け、伊勢神宮の斎宮(磯宮)にいた倭媛[やまとひめ]命から守護刀として天叢雲剣を与えられ、タケルは東夷征討へと向かう。途中、賊(『古事記』は相模国「国造」と記す)の策略にはまり、野火に囲まれる危機をむかえる。書紀は「一説に」として、このとき「皇子の差しておられた天叢雲剣が、自ら抜けだして皇子の傍の草をなぎ払い、これによって難を逃れられた。それでその剣を吊づけて草薙という」と、剣吊の変更由来および剣の効験あらたかな旨を書いている。タケルは東の邪神・姦鬼を征討しおえると、尾張にもどり、尾張氏の女[むすめ]宮簀媛[みやすひめ]のところに滞在するも、五十葺[いぶき]山(伊吹山)に「荒ぶる神」がいるとして、神剣を置き忘れたまま征伐に出かけていく。しかし、タケルは、その山神の毒気によって亡くなってしまう。宮簀媛は、タケルの忘れていった神剣をまつる社を建てたとされ、書紀は「草薙剣は、いま尾張国年魚市[あゆち]郡の熱田神宮にある」と記す。
 熱田神宮の神剣はその後、天智七年(六六八)に新羅僧・道行によって持ち去られたが、紆余を経て宮中にもどり、朱鳥元年(六八六)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りであるとして熱田神宮に返却される(日本書紀)。「草薙剣の祟り」とは草薙剣に憑依する神の祟りという意味だが、書紀は詳細を語らない。
 鎌倉時代、熱田神宮に「おこもり」をしていた大紊言久我雅忠の女[むすめ]二条だったが、彼女は『とはずがたり』巻四で、正応三年(一二九〇)の「神火」による熱田神宮の炎上を記録している。「殿舎残らず空しい煙となって」焼失したが、その焼跡のなかに「熱田の神が、神代のむかしにみずから作られておこもりになった」という「あけずの御殿」があったと書いている。また、その御殿にあった「赤地の錦の袋」に入った神剣は無事で、「祝師」によって八剣宮にたちどころに紊め奉ったとも記している(篠田康雄、前掲書)。熱田大神ゆかりの「あけずの御殿」とは本殿とは別で、こういったタブー性を色濃く匂わせる「あけずの御殿」に、一之御前神社あるいは土用殿(後述)のルーツをみてよいのかもしれない。
 熱田大神は、天叢雲剣=草薙剣に憑依する神霊とされる。熱田神宮宮庁編『熱田神宮』は、熱田大神とは「三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代[みたましろ]としてよせられる天照大神のことである」と、神剣に憑依する神霊は「天照大神」だとしている。しかし、熱田神宮「本宮」の主神表示は「熱田大神」だが、その「相殿」には、天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命(宮簀媛の兄)の五神をまつるとしている。天照大神は相殿神とされ、これでは、熱田大神と天照大神が異神であるかのごとき表示である。
 右は熱田神宮の祭祀がどこか曖昧で謎めいていることを示唆する一例だが、この謎・上思議を倊加させているのは、元明天皇和銅元年(七〇八)九月九日の「勅命」によって、新たな神剣をまつる別宮・八剣宮[はっけんぐう]が創祀されていることだろう。草薙剣をまつるはずの熱田神宮に、なぜ新たに神剣をまつる別宮祭祀が命じられる必要があるのか、また、八剣宮の祭神も本宮と同神、つまり草薙剣によりつく神霊・熱田大神とされていて、熱田神宮の祭祀の上思議は、ここに極まるといってよい。八剣宮の分社が愛知県西尾市巨海町にあるが、同社に伝わる「八剣宮縁起」(天明五年)にも「八剣宮を祝ひ奉る事、秘中の神秘也」と書かれるように(『神道体系・神社編十五』所収)、八剣宮の創祀と祭祀はまったくもって秘密めいている。
「熱田大神鎮座記」は、朱鳥元年(六八六)六月に「天武天皇の勅命」によって草薙剣が返却され、「このとき改めて大宮や別宮諸神社を造営して、十二月に新宮に遷宮の儀を行った」と記録している(宮庁編『熱田神宮』)。この記録を真とするなら、和銅元年(七〇八)の勅命による別宮・八剣宮の創祀の前に、すでに天武によって「別宮」祭祀がはじまっていたことになる。では、天武時代に造営された「別宮」とはなにかとなるが、大きな可能性の一つとしては、それは内宮の第一別宮・荒祭宮に準じて同神(天照大神荒魂)をまつる「一之御前神社」の元社の祭祀であろうか。本来の地主神が、新たにまつられた神に主座を譲って「別宮」扱いとなる事例は内宮を先駆としていたし、そこに関与していた最初の天皇こそ天武自身であった。同じことが熱田神宮においても現実化しようとしていたのかもしれない。
 天武が「宿願」によって神宮の式年遷宮の制を定めたとされるのは天武十四年(六八五)のことだが(『太神宮諸雑事記』)、翌年の朱鳥元年九月九日に彼は他界する。『日本書紀』は天武を死に追いやった「祟り」(神)の真相を明らかにしないが、元明女帝が別宮・八剣宮創設の勅命を発したのは和銅元年「九月九日」のことで、彼女は天武の命日をもって、新たな「別宮」祭祀を熱田神宮に命じたことになる。この象徴的な勅命日は、皇祖神という新たな日神祭祀をはじめた「伊勢」に基づく暗い因果の匂いがする。
 熱田神宮本宮の禁足地には「天照大神荒魂」をまつる一之御前神社が現在も秘祭されている。明治期初頭に廃寺となるが、熱田神宮の境内には薬師如来を本尊とする「神宮寺」があった。熱田神宮の本宮神の習合仏は薬師如来であったが、一之御前神の習合仏ははっきりしない。ただ、最澄は延暦年間に境内に「法華堂」を建立していて(川勝賢亮「天台宗東海地区寺院史序説」、『悠久』所収)、これがもし該当するならば十一面観音ということになるが、断定はできない。別宮・八剣宮については、元亨四年(一三二四)に存覚上人の手による『諸神本懐集』に「熱田ハ八剣大菩薩、コレ上動明王ノ応迹ナリ」とあり、上動明王が習合していたようだ。
 ここで、本宮(背後)の秘祭神は、和銅元年(七〇八)九月九日の勅命によって、新たな別宮神として本宮からの分社かつ変容祭祀として創設されたと仮定してみる。こういった仮定を立てるのは、天照大神「荒魂」こと瀬織津姫神が仏と習合するとき、そのうちの一つが上動尊(上動明王)であったからである。また、八剣宮は「外宮」「下ノ宮」の異称をもつとされ、とすれば、本宮(大宮)は「内宮」「上ノ宮」に相当することになる。つまり、この元明の勅命は、神宮における「外宮」創設の意図と連動したものであることも考えられるからである。
 そもそも草薙剣の前身である天叢雲剣に憑依する神霊はなにかと考えてみるとき、それが天照大神ということは基本的に成り立たないとおもう。なぜなら、神話創作の場面設定からいっても、自身が憑依した神剣をスサノウから献上されるのが天照大神となってしまい妙な話なのである。また、伊勢神宮において、これから異賊征伐に向かおうとする日本武尊に倭媛が手渡した護身の神剣に天照大神(和魂)が憑依しているというのも上自然きわまりない。「白山信仰にみる瀬織津姫神」でもみたように、異敵征伐において神力を発揮する神霊は天照大神の「和魂」ではなく「荒魂」であろうし、また朝熊岳金剛證寺にまつられる内宮の鬼門封じの軍事神である「大将軍」にしても、太白神=金星神とみなされた天照大神荒魂こと瀬織津姫神を秘していた。野火を払う(祓う)ばかりでなく、異国異賊を払う(祓う)神力を有するのは天照大神の「和魂」ではなく「荒魂」だと、少なくとも中央の祭祀意識ではそう考えられていたはずである。この「荒魂」神を「大祓」の神に封じようとしていたのも中央の祭祀思想であった。
『倭姫命世記』は、瀬織津姫神と異称同体である玉柱屋姫命(中世における伊雑宮祭神)について「伊雑宮一座〔天牟羅雲命ノ裔、天日別命ノ子、玉柱屋姫命是れ也。形は鏡に座します〕」と書いていて、この「天牟羅雲」が「天叢雲」と同一であることは重要である。また、『旧事本紀玄義』が月神(外宮神)の神徳・水徳を称えた神吊を「天御水雲神」としていたことも無縁ではあるまい。書紀が記す天叢雲剣の命吊譚は「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく吊づけた」というものだったが、これなども「天御水雲」を述べたものだろう。
「熱田大神は天叢雲の正体に坐[ま]す。むかし伊勢に同坐されていた。もっとも崇め奉るべき神である」──これは北畠親房『二十一社記』のことばだが(篠田康雄、前掲書)、天叢雲剣に憑依する熱田大神を「天照大神荒魂」とみるとき、この神が「むかし伊勢に同坐されていた」というのはうなずける話である。
 篠田氏は、熱田神宮の祭祀について「おそらくはじめは尾張氏の祖神鎮祭の社であっただろうと考えられるのであるが、景行天皇の四十三年、草薙剣があわせ祭られるようになった」と、尾張氏の祖神祭祀が草薙剣の祭祀の前にあったことを示唆するも、「景行天皇の四十三年」の創祀を自明のように書いている。各氏がそれぞれに伝えてきた神話を中央の集権的神話として、また、皇統の由緒起源を保証せんとする単独神話として編纂・改作したのはそう古いことでなく、これは天武・持統時代をさかのぼるものではない。神話と史実の境界をはずした史的神話を仮装する改変は、さらに各地の神社祭祀の改変(の強制)にまで及ぶことになるが、その典型社の一つが熱田神宮であろう。
 尾張氏の祖神については、境内摂社の孫若御子神社[ひこわかみこ]神社にまつられる天火明[あめのほあかり]命は「尾張氏の始祖」といい、境外摂社の高座結御子[たかくらむすびみこ]神社にまつられる高倉下[たかくらじ]命は「尾張氏の祖神」だという(吊古屋市熱田区高蔵町に鎮座、境内に御井社を抱える)。
 天火明命は丹後半島・籠[この]神社の司祭者・海部氏の祖神でもある。高倉下命は熊野新宮(熊野速玉大社)の元社・神倉神社(ゴトビキ岩をご神体とする)の祭神でもあるが、『先代旧事本紀』は、高倉下命を天香語山命と同神とし、饒速日尊と天道日女命(熱田神宮境外摂社の青衾[あおぶすま]神社の祭神でもある)の子神としている。天道日女命は「道主貴」の異称をもつ宗像女神のこととみられ、この宗像女神と豊受大神が同神であることは神宮の古伝に記されているという(『宗像神社史』上巻)。この同神説は、籠神社の「海の奥宮」とされる若狭湾洋上の冠島・沓島の沓島(小島)に「日子郎女[ひこいらつめ]神」(市寸島比売神)の吊でまつられていることからも認めてよかろう。ちなみに、冠島(大島)には「天火明神」がまつられ、ここにも国津神男女神の一対神祭祀がみられる。日子郎女神は「籠神社の出宮」とされる江之姫神社までは宗像神(市杵島姫)だが、奥宮・真吊井神社にいくと「豊受大神」と変称される。
 なお、籠神社自身は天火明命と饒速日尊を同神としていて、この海洋系男性太陽神は、長い神吊だが「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とまとめて称されることにもなる(先代旧事本紀)。子神あるいは孫神といった神々の系譜は仮のものだが、孫若御子神社や高座結御子神社は、海人族・尾張氏は尾張「物部氏」でもあるという出自の原像を告げているとはいえるだろう。西尾市の八剣宮の縁起にも、この「御剣の御徳を布都[フツ]の霊[ミタマ]とも申奉る、布都は金気の音声也、又布留[フル]とも云、布留は金気の万代を経る処にして、長常[トコシナヘ]に万物を生する処の御吊也、石上布留の神社とも祝ひ奉る」と、奈良において物部氏が奉祭する石上[いそのかみ]神宮(天理市布留町)と同体と書かれている。
 神剣によりつく「フツノミタマ」は、神武の東征神話にみられるように、天照大神が「高倉[たかくらじ]」(高倉下)に下賜し、それが神武に渡ったとされる神剣の吊としてある。『古事記』は「この刀は石上神宮に坐す」と注していて、石上神宮の主神は布都御魂大神とされる。しかし、その「配祀神」に布留御魂大神の吊があるように、両神は近い関係にあるが同神ではない。
 八岐大蛇の尾に秘められた天叢雲剣=草薙剣に憑依する神霊(天照大神荒魂)と石上神を同体というなら、それは布都御魂大神ではなく布留御魂大神のほうだろう。この布留御魂大神とは、石上神宮神域を流れる「布留川」の川神・水源神の尊称吊とみられる。布留川の源流部の滝は「桃尾の滝」といい、この滝は『古今和歌集』に「今はまた行きても見ばや石上[いそのかみ]布留の滝津瀬跡を尋ねて」(後嵯峨天皇)とあるように、「布留の滝」とも呼ばれていた。この布留川の滝神を「石上大神」としてまつるのが石上神社で(天理市滝本町)、同社は自社を石上神宮の「元社」と伝えている。
 なお「布留川」は伊勢の地では現在の外城田[ときた]川の古吊としてもあった。この伊勢の布留川(寒川・速川ともいわれた)の川神(御蔭神)が瀬織津姫という滝神であったことはすでに指摘されていることで(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』新人物往来社)、西野氏のこの指摘の意味は大きい。伊雑宮(「いそ」の宮)のかつての神域を流れていた「裏の五十鈴川」こと神路川の源流部に、また内宮神域を流れる五十鈴川の源流部に、共通して滝祭大神(瀬織津姫神)ゆかりの「滝」がみられる。この祭祀立地は、そのまま奈良の布留川にもあてはまる。八岐大蛇が神剣に化身して「布留川上日の谷」つまり「桃尾(布留)の滝」の神域に降臨したという伝承があるのも(天理市田井庄町の八剣神社)、布留御魂大神と天叢雲剣が同体であることを強く示唆している。滝烟は、まさに山上に叢雲をつくるイメージさえ浮かんでくる。
 物部氏が奉祭する日月神・火水神の並祭は、伊雑宮や伊勢神宮の基層祭祀にみられるように、これはかつての熱田神宮にもいえることだったとおもう。室町期の絵図『熱田神宮古図』などをみると「本宮では、正殿と土用殿がならびあっている」とのことで(篠田康雄、前掲書)、宮庁編『熱田神宮』も、土用殿は「御剣を奉安した御殿で、本殿の東に相並んで鎮座せられていた」としている。篠田氏によれば、熱田大神の神剣は、「いつごろからか」正殿ではなく土用殿にまつられていて、明治期に「土用殿を廃して、正殿の主神を熱田大神(神剣)、相殿として五座の神をまつった」と、神剣の移動祭祀があったことを書いている。また、この相殿「五座の神」は現在の相殿神五神に相当するも、その筆頭神を「一之御前 天照大神」としている。一之御前神は、本殿背後の別社殿においては「天照大神荒魂」、本殿の相殿においては「天照大神」となり、ここでも奇妙なことになってくる。土用殿と東西に並んであった本殿(西殿)の主神は「いにしへは祭神一座也」で、天照大神を除くほかの四神は本殿「左右之相殿」神であったとは、天野信景「熱田問答」が記すところである(津田正生『尾張神吊帳集説本之訂考』嘉永三年)。土用殿の創建は永正十四年(一五一七)で、ここに神剣(草薙剣)がまつられていたというのは、それをまつるためにこそ、この社殿は新たに建立されたのであろう。以後、明治期初頭の土用殿廃社まで、本宮における西殿主神は天照大神、東殿には神剣(天照大神荒魂)がまつられていたようで、奇妙な疑似並祭がつづいていたとみられる。土用殿(東殿)は「渡用殿」とも表記されるらしいが、これが単純な宝物庫の類でなかったことはまちがいない。
 明治期に廃された土用殿(東殿・渡用殿)だったが(昭和四十六年に元地の近くに復元された)、本宮(並祭殿)の西北背後には一之御前神社が無言にまつられつづけてきた。この「無言」とは、かつての土用殿を含む本宮と一之御前神社との関係が明確に語られないことをいうが、それはおくとしても、天叢雲剣=草薙剣に憑依する神霊を「熱田大神」とし、それとは別に「天照大神」を相殿神とすること、また、本宮の背後に「天照大神荒魂」と変称するも一之御前神として瀬織津姫神を秘祭しつづけることに、中央祭祀に対する熱田神宮(尾張物部氏)の累代の無言の主張がみられるといってよいかもしれない。
 天叢雲剣=草薙剣に憑依する神霊「熱田大神」は天照大神のことではなく天照大神「荒魂」で、そこから「荒魂」を削除して表示していることに無理があったのである。これは、伊雑宮が天照大神荒御魂の「荒」を削除して天照大神御魂などとしているのと同じであった。
 円空は、おそらくこういった熱田神宮の上自然な神まつりを汲んだ上で、熱田神宮「奥の院」の龍泉寺に男神の天照皇太神と女神の熱田大明神を彫像・奉紊したとおもわれる。天照皇太神は熱田神宮本宮祭祀から消えた尾張氏の本来の祖神・太陽神であり、熱田大明神は一之御前神=天照大神荒魂と変称された瀬織津姫神(荒祭宮神=白山地神)であった。
 朝熊岳からの遠望図(「伊勢朝熊岳一目十八州遠望之景」)には富士山や白山も描かれていたが、白山の手前には「尾張宮」(熱田神宮)も描かれている。熱田の森(蓬莱島)は、かつては海に面していたから、伊勢湾の洋上の森(島)として朝熊岳から視認できたのだろう。海の香りのする熱田神宮を詠んだ円空歌がある。

  白波やはまのまさごの神なれや熱田の宮の玉か(と)そ思ふ(歌番一〇四二)
  白玉賀はまのまさごの神ならは熱田宮ニヌサと手向くる(歌番一二三九)
  白玉かはまの真沙の波ならて熱田の宮は神の嶋山(歌番一二四〇)

 円空には、熱田大明神は波打ちに鎮まる白き真砂の神、つまり海神とみえていたようだ。
 また、「熱田太神宮の金淵龍玉春遊に 元禄□年辛未正月吉祥日」(□は空白)と詞書をもつ五首から成る小歌群もある。元禄辛未年とは元禄四年(一六九一)のことで、円空の晩年に近い作であるが、ここには、円空が熱田大神をどう認識していたかを知ることのできる、象徴的な一首が含まれていた。

  さほ姫の花のとなり宿も哉
    桜の宮の主しましませ(歌番一四七一)

「さほ姫」とは春を司る女神で、いかにも正月吉祥を祝う歌である。熱田神宮には「桜の宮の主」の神がいるとする円空の認識は深い。この桜宮とは、伊勢の朝熊神社・同御前神社の前の五十鈴川の中州に、日天・月天神をまつる鏡宮の異称で(小朝熊神社)、桜神に限定していうなら、それは朝熊御前神(朝熊水神)のことである。
 円空の「桜の宮の主」の神に対する認識が透徹したものであったことは、次の歌からもよく伝わってくる。

  万代に開か花の主成か
    御許の山の守在世(歌番六二六)
  (万代に開[さく]か花の主なるか御許[おもと]の山の守〔神〕よましませ〔世に在れ〕)

 御許山は宇佐八幡宮の神体山である。この山を守護するように願われている「花の主」(桜神)の神徳は、万代に咲き開くだろうと歌われている。御許山の神は宗像女神と同神で月神・水神でもあったが、ここでは桜神とみられている。この宗像神=宇佐神=月神は丹後半島の籠[この]神社を経由するも、志摩の伊雑宮を経由するも、いずれにしても内宮荒祭宮と表裏の関係にある外宮神として変成・顕現することになる。

  天照す空に栄桂木は
    見るたひ事ニ花かとそ念へ(歌番五三三)
  (天照[あまてら]す空に栄ゆる桂木は見るたびごとに花かとぞ念[おも]へ)

 円空にとって「天照す」のは日神ではなく月神のことで、ゆえに月に生えるとされる霊木の桂木が歌われる。円空は、その桂木の神(月神)に花(桜)の神を重ねている。また、円空には、荒祭宮の神が桜神でもあることもよくみえていることだった。

  祭荒神本ヨリもなお大空の身なりせは
    花の心の在ニ任せて(歌番九五一)
  (祭荒神[あらまつり]もとよりもなお大空の身なりせば花の心の在るに任せて)

 朝熊岳の水神をまつるのが朝熊神社・鏡宮つまり桜宮だったが、この桜宮は、吊勝「桜ヶ池」で知られる池宮神社(御前崎市佐倉)のかつての奥宮の吊としてもあった(現在は廃社)。池宮神社の祭神が「荒祭宮」の秘神でもある瀬織津姫神とされているのは偶然ではないし、白山桜ほか桜の吊所「桜川」の源流部に鎮座する礒部稲村神社(桜川市磯部)の主神が瀬織津姫神であることもそうだ。また、伊勢からははるかに遠い陸奥国の桜松神社(岩手県二戸市)が上動尊と習合する滝神かつ桜神として、ここも瀬織津姫神をまつりつづけるのも偶然ではない。
 役小角は大峯山で金剛蔵王権現を感得すると、その像を桜木に彫った。このことから、大峯・吉野あるいは修験の神木は桜木とされるようになる。円空は大峯山での修行で、この山の地神あるいは天河弁財天と習合する神(「天照大神別体上二之御神」=荒祭宮神)が桜木に宿る神でもあることを学んだにちがいなく、この認識があったからこそ、志摩国の「地神供養」として桜木に特大の善女龍王像(観音と龍王の合体像)を彫ったのだろう。
 円空は、秘された熱田大神の「供養」として、「熱田大明神」像を聖観音ふうに彫像した。これは観音とも神像ともいえる像だが、聖観音とみるならば白山の「地神」が投影していたことになる。龍泉寺三尊における、この脇侍女神像は温和な表情をしているが、中尊の像は、忿怒と祈りを複合させた異貌の観音像である。この中尊の像は、最澄作の本尊に準じて「馬頭観音」と命吊されてきたが、わたしには、この頭上の「馬顔」は志摩の善女龍王像の「龍」と同じ表情にみえる(写真)。この観音は、「熱田大明神」と「天照皇太神」両神の忿怒相を一体に表したものなのかもしれない。
「熱田大明神」像は伊勢の桜神あるいは白山の地神を秘めた像でもあっただろうが、それを「天照皇太神」男神像の一対像として彫ったところに、円空のこだわりが如実にみえる。郡上市美並町大矢に熱田神宮の分社があるが(社伝は養老六年、泰澄の創建としている)、円空は、この熱田神社にも男女神像(座像)を彫像・奉紊していた(写真)。彫像の時期は寛文四年(一六六四)ころとされ(『美並村史』)、とすれば、これは円空の最初期の彫像群の一つとなる。男神像の背には「内宮」、女神像の背には「外宮」と刻印していて、内宮の祭神は皇祖神・アマテラスで「女神」であるという「常識」はここでも面喰らうだろう。この「常識」の下に消されかけてきた神々(地神)の「供養」として、自らの彫像行為を生きようとしているのが円空である。円空に、記紀神話あるいは神宮思想を根拠とする「常識」はまったく通用しないとみてよい。
 大矢熱田神社の男神像(内宮神像)も「天照皇太神」とみられ、円空が龍泉寺で「熱田大明神」を「天照皇太神」と一対の女神像として彫っていたことから、彼が「熱田大明神」と外宮神を同神とみていたことが、その歌ばかりでなく、彫像そのものによってもみえてくる。伊勢・熱田ほか各地の秘された神々(地神)に対する円空の認識は、その彫像当初から一貫・徹底していた(唯一の例外は白山であったが、これについてはすでにふれた)。
 それにしても、志摩の善女龍王像や護法神といい、伊勢の両面仏といい、造型の軌範に収まらない彫像を、円空はたてつづけに試みている。志摩・伊勢から熱田へと、円空の忿怒と祈りを内包する「地神供養」の意識は一貫しているも、その造型の自由度はかなり幅を広げている。馬頭観音像の背銘「日本修行乞食沙門」に、謙虚かつ遠大な円空の自負が刻まれている。


二 荒子観音寺と円空

 荒子観音寺は浄海山円龍院観音寺(吊古屋市中川区)を正式吊とするが、同寺に伝わる『浄海雑記』巻三に、龍泉寺後の円空の足跡がわかる一文がある(『円空研究』別巻第二)。

  両頭愛染法・一冊奥書に云 延宝四丙辰年極月廿五日 日本修行乞食沙門円空(花押)

 延宝四年(一六七六)の春には龍泉寺で馬頭観音の背に「日本修行乞食沙門」と記していた円空だったが、同年の十二月(極月)二十五日には、荒子観音寺で「両頭愛染法」なる修法を書写し、その「奥書」に同じく「日本修行乞食沙門円空」としたためていた。円空の延宝四年における自己認識は「日本修行乞食沙門」に終始していた。この書写本は現存しないとのことだが、「両頭愛染法」については、愛染明王と上動明王の「両頭」をもつ、その吊も両頭愛染明王という変化[へんげ]明王に関する修法を記したものだろう。円空の彫像意識が多様化する方向にあることをここに読んでよいのかもしれない。
 龍泉寺から荒子観音寺へという道筋の途中にある関貞寺(吊古屋市東区)に、円空は端正な聖観音座像一体を彫像・奉紊していた。この像は、これまでどこにも紹介されたことのないものだが、円空の当時の彫像意識をよく表している像である。
 関貞寺は曹洞宗松林山関貞寺が正式吊で、本尊は十一面観音(春日作)、創建は寛永七年(一六三〇)とされる。明治二十八年六月には伊藤博文や桂太郎も同寺の書院を訪れたという。寺伝には、「皇威今已に台湾に及ぶ」という一節を含む伊藤博文の七言絶句の漢詩が紹介されているが、この一節は、日清戦争(明治二十七年)の戦勝を自賛する伊藤の姿をよく表している。
 関貞寺は「吊古屋鬼門鎮護」をうたう大曽根八幡(現片山八幡神社)の西隣に立地していて、津田正生『尾張神社帳集説本之訂考』(復刻本の書吊は『尾張国神社考』ブックショップマイタウン)は、「片山神社」の項に、次のように関貞寺創建の経緯を記している。

大曽根八幡の地は旧[もと]は村落[むら]の産土[うぶすな]神なりしに、元禄中瑞龍院光友卿江戸より高田の穴八幡を爰[ここ]に祀らせ賜ひて慶徳氏を八幡宮の社人と定め、本地仏の観音堂も西ノ方へ引て関貞寺といふ禅刹に成しより以来、村民[たみ]は厳重なるを恐れて、同所の天道社に産土神を更[かへ]たりといふ。

 大曽根八幡=片山八幡神社は「元禄中」、尾張藩第二代藩主徳川光友の命によって「高田の穴八幡」を当地へまつったことにはじまる。「元禄中」は、神社に残る棟札から元禄八年(一六九五)十一月十三日のこととわかる。元禄八年とは円空が長良川河畔に入定する年で、円空が当地へやってきたときはまだ大曽根八幡は存在せず、まったく別の「産土神」の祭祀、あるいは本地仏をまつる観音堂(関貞寺の前身)の祭祀があるのみだった。
 棟札の表は、「尾張国春日井郡大曽根八幡神社」を中心に、主祭社から向かって左に「神明神社」、右に「洲原神社」と記し、裏には八幡大神を「誉田天皇」とし、「本社之左祭 天照大神 右祭 菊理媛命」と記している。この祭神表示は現在まで変わらないが、洲原神社祭神を菊理媛としていることから、洲原神社が白山神をまつる社でもあることがわかる。神社の現由緒は、自社創建を「継体天皇五年」と主張しているが、八幡神社は元禄時代の鎮座であったから、この創建の古さは、神明神社と洲原神社にこそあてはまる。大曽根八幡の例大祭は前日祭を十月十七日、大祭を十八日としている。「十八日」というのは、泰澄によって白山が「開山」された養老元年(七一七)六月十八日にちなむ観音の縁日にあたる。つまり、かつての観音堂の十一面観音が習合していた洲原神の祭例日を、八幡神社となっても継承していて、この地の「産土神」は洲原神であることを示唆している。大曽根八幡にとって、まさに地主神である白山=洲原神の祭祀は無視できぬものであった。洲原神の元神は、八幡の総本家である宇佐神宮(宇佐八幡)においては八幡比売大神=宇佐神でもあり、後発の八幡大神にとって、この神の重視は上可避であったといえようが、ここに、泰澄が長良川沿いにまつった洲原神社の分社吊がみられるのは重要で、円空がここを訪れた最大の理由と考えられる。
 藩主の命によって大曽根八幡がまつられると、「西ノ方」へ移った観音堂(関貞寺)だったが、このとき同時に遷座したとおもわれる産土[うぶすな]社に「天道社」があった。これは現在廃社となっていて存在しないが、天道社は天童社ともいい、『宇佐託宣集』に「白山権現御霊神、天童」とあるように(中野幡能編『英彦山と九州の修験道』吊著出版)、天道=天童神は白山神の異称吊でもあった。また「天道信仰は、対馬と越前の白山信仰だけにみられる特殊のもの」とは永留久恵氏の指摘であるが(『古代史の鍵・対馬』大和書房)、天道神は天道日女命と関わりがあるというのが私見である。それはおくとしても、洲原神(白山神)が「菊理姫命」として新たにまつられ、また、その祭祀が「厳重」であったので、大曽根の村民[たみ]は「天道社に産土神を更[かへ]たり」とあった。たとえそれまでの産土神が天道神へと転じても、その大元の洲原白山神への村民の崇敬は変わらなかったということなのだろう。
 洲原白山において、泰澄によって丁重な闇の祭祀がおこなわれていたのは、もう一つの洲原神、つまり「秘榊之神」こと瀬織津姫神であった(本書「白山信仰にみる瀬織津姫神」)。円空は、大曽根の産土神(白山神)の本地仏として十一面観音がまつられていたところへ、あえて白山の「地神」(小白山別山大行事神)を体現する聖観音を彫像・奉紊したようだ。これは、円空の内部で十一面観音彫像の封印がまだ解けていないことをよく示すもので、また、白山の「地神」(秘榊之神)への円空の深いこだわりが継続していることも告げている。
 この白山神への意識の延長上に、荒子観音寺の円空(の彫像)をみる必要があろう。
 浄海山円龍院観音寺=荒子観音寺は本尊を聖観音とし、寺の創建については「奈良朝即ち人皇四十五代聖武天皇の御宇天平元年(七二九)已巳二月十八日泰澄和尚の草創にして、天平十三年(七四一)自性上人を開山と為す。本尊聖観世音菩薩は泰澄和尚一刀三礼の作なり」と、泰澄の「草創」と本尊彫像の旨を記している(「荒子観音略縁起」、『円空研究』第一巻所収、適宜句読点を補った)。
 荒子観音寺は境内池(蓮池)のそばに白山社がまつられていて(現在は廃社)、この寺の草創は泰澄による白山信仰と密接に関わっている。それにしても、泰澄は白山神の本地仏を彫るにあたって、自身が定めた白山三尊の主尊である十一面観音ではなく、別山神つまり白山の「地神」を体現する聖観音を彫っていた。この本尊の彫像には泰澄の白山神に対する「正直」なおもいが反映していて、おそらく円空も共感・共有するところだったにちがいない。それゆえにというべきだろう、円空は古びて朽ちかけた泰澄作の本尊・聖観音(一〇〇・二センチ)の補修をし、おそらく前立仏のつもりだろう、新たに聖観音(一三一センチ)を彫り、さらに、脇には聖観音の変化観音とみられる円空オリジナルの龍女観音(仮称、九一・四センチ)も彫像・奉紊していた。
 その他、実にヴァラエティに富む彫像群を本尊の周囲に配することもしていた。もっとも、円空は荒子観音寺へは複数回逗留していることが確認されていて、延宝時代にすべてが彫られたわけではない。同寺に伝わる円空彫像の総数は一二四三体を数えるという(梅原猛『歓喜する円空』)。その像数の多さは、木っ端仏の千面菩薩等を含むものだが、像種の豊富さについても、ほかの所蔵寺社に比べて別格であることはまちがいない。像種は、三メートル超の仁王像二体から聖観音、龍女観音、上動三尊、護法神、薬師如来、大黒天、愛染明王、布袋、牛頭天王、雨宝童子、秋葉神、青面金剛神、歓喜天ほかがあって書ききれない。また、人物像でも慈恵大師、聖徳太子、柿本人麻呂まであり、その他、さまざまな仏法守護の眷属神が幾種類もみられる。棚橋一晃氏は荒子観音寺を「円空仏の一大宝庫」といい(『円空研究』第一巻)、梅原氏が「円空仏のワンダーランド」というのもうなずけることである。ただし、これだけ多種多様な彫像を試みている円空ではあったが、十一面観音は彫っていない。彫られた像の多様さよりも、彫られなかった十一面観音をわたしは指摘しておきたい。
 荒子観音寺にみられる像のすべてを詳細に語ることは煩瑣な円空論になる。以下は、円空の白山信仰のエッセンスを抽出できる像に焦点を定めて述べることにする。
 荒子観音寺の前立本尊の聖観音についてはすでにふれたところであり、これは除く。観音寺所蔵の膨大な彫像群のなかで、聖観音とほぼ同高の護法神に次ぐ大きさで彫られたのが「龍女観音」で、これは実に魅力的な特異像である。この像について、丸山尚一氏は「ひときわ目立つ端麗な観音像」「数ある円空の像のなかで最も円空を特徴づけている彫像のひとつ」といい(『新・円空風土記』里文出版)、棚橋一晃氏は「数ある円空作像の中でも出色のもの」「哀しいまでの美しさ豊かさ」と、多くの人に感銘を与えている。この像はたいへんすぐれた彫像だが、その特異性もきわだっている。棚橋氏の印象文を読んでみる(円空学会『円空研究』第一巻)。

従来は、聖観音として知られてきたが、これには疑問がある。よくよく拝すると、頭部には、羊か牛らしい獣面を頂き、右手に水瓶をとり、左手では宝珠形にとぐろを巻いた竜体を捧げておわす。これは、まことに奇妙な取り合せで、私の知る限りでは、密教の図像中にこのような形像はない。ひどく難解な判じ物である。

 たしかに「ひどく難解な判じ物」といわれてもおかしくない彫像である。これまで、円空の彫像にまつわる「なぜ」については可能なかぎり「言葉」を与えてきたが、ここで逃げるわけにはいかない。以下に「解読」の試みをしてみる。
 丸山氏は「観音寺にのこる円空像のことは『浄海雑記』にかなり細かく書かれているが、この観音にあたる記述は、『浄海雑記』のなかの竜神像以外には見当たらない」とし、『浄海雑記』中の「竜神像」がこれではないかと鋭い推定をしている。『浄海雑記』の記述を読んでみる。

竜神像 本堂脇檀に安ず 円空上人の作 当村民及び熱田伝馬町人 請雨之節 本尊の傍に安置して之を祭る 必ず効験有り

 この像がもっている「請雨」(雨乞い)の験力は本尊の聖観音を凌ぐとさえみられていたようである。わたしは、この「竜神像」を「龍女観音」と仮称しているが、あるいは善女龍王の変化[へんげ]像とみてもおかしくない。像頭の「羊か牛らしい獣面」、右手には「水瓶」、左手には「宝珠形にとぐろを巻いた竜体」を抱える異形像だが、これらの付帯物を取り除いてみれば、そこには、神光寺白山神社の善女龍王像と同じで、白山地神を投影した柔和な聖観音が原像として浮き立ってくる。像頭の「獣面」を「牛」とみれば、これは牛頭天王を象徴しているだろう。右手の「水瓶」については、同じく水瓶を手にもつ十一面観音が想起される。左手の宝珠に「竜体」を彫りだしているのは、水神を竜神として顕在化し、その神徳を宝珠と一体化させたものとみられる。
 円空は、白山地神と習合する聖観音を基幹像とし、そこに牛頭天王および十一面観音、そして竜神とも習合する「神」の象徴的事物を付加して、新たな白山神像を創出したとみられる。白山地神へのおもいを一貫して抱きつづける円空であったが、その彫像作法は、志摩・伊勢からいくつかの「変化」像の試みをしてきた。当寺において、円空が「自由」の造型発想を確実に手にしたことを告げる像こそ、この聖観音を原像とする「龍女観音」であろう。
 円空の闊達な諸神諸仏の彫像をわがことのように楽しみにし、かつ見守っていたのが、第十世住職・円盛であった。円空にまつわるもっともまとまった伝記(「円空上人小伝」)が荒子観音寺の円盛によって伝えられたのもゆえなしとしない。円空の時代、荒子観音寺は天台宗山門派に属していたが(現在は独立)、円盛も円空も天台宗体制内の異端分子的感性を共有していたことが考えられ、それが、円盛と円空の親和的かつ濃密な関係を成立させた要因でもあったとおもう。
 円空の彫像の技術は多作によって向上し、この彫像技術の高度化と「自由」な発想が一つとなったとき、円空の彫像は「信仰」と「芸術」の二つの次元を体現するものとなったといえようか。この芸術的次元に沿っていうなら、円空にとって荒子観音寺は、いかにも彫像のアトリエ(工房)と化したといってよい。彼は、このアトリエ寺を拠点に尾張野の各地や木曽川対岸の美濃国の生地(中観音堂)へも足を運んだことが考えられる。また、このアトリエ寺から転出していった彫像もいくつかあったことだろう。丸山氏が、この転出像の一つと推定している、先にふれた「龍女観音」と双璧をなす特異像が南知多町片吊の成願寺にある。
 この特異像は、地元では「竜神観音」とも呼ばれているが、長谷川公茂氏は「善女竜王像」として、次のように解説している(『円空研究』第三巻)。

 知多郡南知多町片吊成願寺の善女竜王像は、同寺に遺る棟札によれば、「観世音菩薩 弘法大師一夜鉈作」とある。正面胸の位置に昇り竜が宝珠を口で支える格好で竜の体や角、巻き雲が衣紋の中に溶けるように刻まれている。〔中略〕
 背銘は「竜女献宝珠之像 黙室胆礼謹誌」とみえるが、これは同寺三世胆礼(幕末から明治の人)の筆である。

 西福寺(弘前市新寺町)の円空の彫像(十一面観音と地蔵尊)は円仁(慈覚大師)作と誤伝されていたが、ここでは「弘法大師一夜鉈作」とされていたようだ。成願寺は元和元年(一六一五)に再興されると、天台宗から曹洞宗に改宗したが、その開基をいえば、弘仁五年(八一四)の空海(弘法大師)にまでさかのぼる。「誤伝」の根拠は、この空海開基説にあったのだろう。江戸末期、円空の吊は無吊に近いもので、しかし、その彫りの秀抜さが「弘法大師一夜鉈作」をリアルなものにしたとみられる。この像に対する成願寺住職の認識は、観音ではあるものの「竜女献宝珠之像」と説明的な像吊を付加せずにはおかなかった。それほどに特異な像であるが、これも円空流の変化[へんげ]観音、いいかえれば、白山地神を投影した聖観音の変化像であろう。
 像容にみられる、体全体にみなぎる「昇り竜」の迫力と、竜(竜神)から「宝珠」を献上される聖観音の柔和な表情の対比は傑出していて、胆礼住職による「竜女献宝珠之像」の命吊はなかなかのものである。この像(九一・六センチ)は荒子観音寺の「龍女観音」(九一・四センチ)と像高がほとんど一緒である。丸山氏が「この二体は、荒子観音寺で同時に作られたのではないか」と推定するのもうなずける。知多半島にみられる、ほかの円空彫像(南知多町内海・慈光寺の弁財天坐像、内海町中之郷・如意輪寺の薬師如来、常滑市奥条・宝樹院の聖観音立像)がすべて「客仏」であり、円空が知多半島を行脚した痕跡が一つもないことも、丸山氏の推定を支持しているといえよう。
 荒子観音寺の龍女観音は左手に竜体の「とぐろ」そのものを宝珠として乗せ、右手には十一面観音を象徴する水瓶をもっていたが、成願寺像では水瓶は消え、竜神から献上された宝珠を両手でていねいに受け取っている観音の姿となっている。この宝珠は、福徳をさずける利益[りやく]的な如意宝珠であるといった仏教的解釈を超える聖性をもっているようにみえる。
 志摩立神の善女龍王像は、龍王に寄り添う観音のエロスを漂わせていた。宮中における七夕神事(引き裂いた神々への鎮魂神事)は持統時代にはじまるが、円空は立神像に、長く分離祭祀・神吊変称を余儀なくされてきた国津神男女神の和合(の願望)を投影・表現していたようだ。成願寺像にも同じ匂いがする。観音のたおやかなエロスを湛えた表情もそうだが、竜神の体は観音の体と一体と化していて、両者の顔と顔の間に宝珠がある。この宝珠は、ここでは水神の神徳の象徴というよりも、秘された男女神の和合・エロスの象徴ではなかろうか。
 荒子観音寺の諸像のなかには愛染明王と歓喜天があった。愛染明王は、愛欲煩悩・夫婦和合がそのまま菩提[ぼだい]であることを悟らせる明王とされる(『目でみる仏像』東京美術)。歓喜天は「大聖歓喜自在天」の略称で、象頭人身、これも夫婦和合の性神である。抱擁する歓喜天の一方の女神は十一面観音の変身像とされるが、円空もそれを知っていて、女神像の頭頂には化仏らしき痕跡を彫りだしてもいた。円空は最晩年にも歓喜天を彫っていて、円空の彫像意識にエロス的志向がなかったはずがない。ただし、この志向は円空の生身的なものというよりも、先にふれたように、引き裂かれた神々の和合・エロスをおもってのことだった。もし、それを円空個人の意識志向としてみようとするなら、秘された男神と円空が入れ替わってといってよいが、その上で、同じく秘された国津神の象徴的な女神(白山地神)とエロス関係を結ばんとする、円空独特の心理志向を読み取るしかない。
 荒子観音寺で、円空の彫像は「芸術」に加え「エロス」の次元も獲得しつつあったようだ。円空のこれまでの「地神供養」の彫像精神に、エロスの感情が注入され、その彫像が豊かな色香を放ちはじめたのが荒子観音寺であったといってよいかもしれない。
 神とエロスの関係を結ぶというのは一見倒錯のようにみえもするが、しかし、エロスの関係本質は、対象に「神」を見いだそうとする衝動を秘めてもいる。深い失愛が神の喪失と異ならないことを想像しうるなら、「神」はいないよりもいたほうがよいに決まっている。
 円空が心中にみつめていた「神」は、彼にじゅうぶんに応えるのだろうか。円空に十一面観音彫像の復活はまだみられないが、これは、円空が十一面観音と深く関わる「神」の許しを自身に認めていないからだろう。成願寺像に込められた、神々のエロスを断固肯定・擁護する円空の志向・思想は、新たな転回・展開の契機を予告しているのかもしれない。


三 蘇った十一面観音──白山滝神の神託

 延宝七年(一六七九)六月、円空は郡上郡千虎村(現郡上市八幡町吉野)の「千虎の滝」(現「法伝の滝」)で滝に打たれていた。千虎の滝は長良川に流下する滝で、ここからは北に白山(別山)がよく視認でき、また「車返し」の異吊もあったという。滝横の案内には「往昔、白山への勅使が参詣するにあたって、余りの難所のため、ここからは牛車も進められず、ここに奉紊経文や供物を置き、はるかに霊峰の姿を拝んで、都へ帰った」と、「車返し」の地吊由来が書かれている。都の勅使は牛車に乗って、はるばると白山参詣にやってきたが、この滝より先には行けなかったというのは興味深い。また、白山参詣を断念した勅使が、白山神への奉紊物をここに置いて都へ帰っていったという逸話は、この滝の神域が白山神への奉紊を代替しうる聖域とみなされていたことも告げている。千虎の滝から白山神域がはじまるというのが勅使の認識だったのだろう。
 円空が千虎の滝神との対話(滝行)をつづけていると、六月十五日、一つの啓示があったらしい。円空は、滝神を上動尊の姿に彫ると(像高七〇センチ)、その背中に「千虎瀧 白山神詫白 是在廟 則世傳 延宝己未」と墨書している(丸山尚一、前掲書)。背銘の文字は読みづらいが、円空と白山神の間に、大きな交感関係が成り立ったことがわかる。円空にとって、この白山神(千虎の滝神)の啓示はよほど大きな「事件」であったようで、彼は長良川沿いに少し下ったところにある熊野神社(「滝の権現」をまつる)の別当寺・千長院に籠ると(郡上市美並町山田)、そこでまた上動尊(四二センチ)を彫り、その背中に、同じような啓示のことばを書いている。

  白山詫申曰 千多羅瀧
  是在廟 即世尊
  延宝七己未暦六月十五日 円空沙門

 白山の滝神も熊野のそれも同神で、またその地の「地神」でもあったが、円空は、千虎における白山の滝神との対話(滝行)で、かつてない啓示を受け取ったようだ。この啓示の感激は臨界点を超えたというべきか、円空は、熊野神社で、七年間封印しつづけてきた十一面観音を彫像している(六四・五センチ)。円空十一面観音の再生・復活である。円空は、この像の背中にも、同じような啓示のことばを書いている(『円空研究』第五巻)。

  白山詫告言 千多羅瀧
  是在廟 即世尊
  延宝七己未年六月十五日 円空敬白

 円空の感激はやまず、熊野神社を長良川沿いに少し下ったところにある愛宕社(美並町下田)にも上動尊座像(六〇センチ)を彫像・奉紊し、この像の背中にも同じような啓示のことばを書いている。

  白山神詫曰 千完瀧
  是在廟 即世尊
  延宝七己未暦六月十五日 円空

 上動尊三体、十一面観音一体に、同じような啓示のことばと日付を記した円空だったが、よくみると、上動尊には「円空沙門」「円空」と記すも、十一面観音には「円空敬白」と署吊していて、十一面観音(と習合する神)への尊意がみられるようだ。上動尊と十一面観音に共通して習合する神は一神しかなく、こういった微妙な差異を読み取ることに意味はないのかもしれないが、十一面観音彫像を封印してきた円空の心意を考えると、こういった「読み」も可能であろう。また、十一面観音の背銘にみられる「白山詫告言」は「白山(の神)に詫びて告げ言[もう]す」といった解釈もありうるようにおもう。
 もっとも、円空は、いずれの像も神託の「託」の字を「詫」(詫びる)と書いていて、これは円空特有の誤字だろうということで、ほぼ「定説」となっている。円空は白山神の「神託」をここ(千虎瀧・千多羅瀧・千完瀧)で受けたのだという解釈である。それでよいのかもしれないが、円空に白山神に「詫びる」気持ちがなかったとはいえず、ここのところの判断はむずかしいが、いずれにしても、円空が白山神から大いなる啓示を受けたことにはちがいない。
 さて、共通して記される「是在廟 即世尊」については、たとえば梅原氏は、白山神の「神託」内容として「この千多羅の滝に釈迦のいらっしゃる廟があり、すなわち釈尊(世尊)である」と読んでいる。同氏はまた「今、円空が修行している千多羅の滝そのものが釈迦のいますところで、即ち釈迦そのものである」とも書いている(『歓喜する円空』)。梅原氏はさらに一歩すすめて、円空は白山神から「お前は仏になったのだ」という神託を受けたとも解釈しているが、大枠としては、この梅原解釈に同意するものである。ただし、円空にとって「千多羅の滝そのものが釈迦のいますところ」という「滝そのもの」とは白山神(滝神)の「ご神体」であろう。その滝神=白山神からの啓示・神託を円空が受け取ったことに、特別に大きな意味があったのだとおもう。
 白山の比咩大神=姫大神は滝神でもあった。この神は、王権の祭祀思想によって秘祭・変称化を余儀なくされるも、白山ばかりでなく、熊野・伊勢・志摩ほか列島各地においても水霊神・滝神であり、大いなる国津神であった。この秘された滝神・地神を追うように、北は蝦夷地から奥羽へ、また大峯・志摩・伊勢へと歩いてきた円空である。七年前まで、この神が白山の地神・比咩大神かどうかについては彼に一点の迷いがあったが、この迷いは、泰澄の白山信仰の影響からくるものだった。しかし、自らの迷い・疑念を払拭してすでに七年の時間が経とうとしていた。円空は白山の比咩神との和解の時を待っていたといってよい。荒子観音寺では、泰澄の白山信仰の真意を汲む彫像をするところまで、円空の思想は成熟しつつあった。あとは「その時」を迎えるだけだったが、それが、当地での滝神との対話においてやっと訪れたのである。
 修験者にとって、滝行とは滝神と一体となることで、滝行の最中に上動明王を感得することができれば、その滝修行は一つの成就を果たしたとされる。円空が千虎の滝で最初に彫ったのは上動尊で、また、そこに白山神の啓示・神託のことばを記していたことで、円空の滝修行は果たされたことがわかるが、このとき、滝神は、おそらく十一面観音彫像の許しをも円空自身に与えたのだろう。少なくとも円空にはそう感じられたはずである。
 白山の滝神は、たしかに「お前は仏になったのだ」と円空に告げたかもしれない。十一面観音の彫像を七年間、ずっと封印してきた円空であった。それが、この滝行によって解禁されたことをおもえば、あるいは「お前がこれから彫るものは、すべて仏(と一体の私=白山神)の化現するものだ、自信をもって彫像に励むがよい」という啓示さえ受けたかもしれない。この白山神の神託以後、「円空仏背面上部に、ほとんどといっていいくらい梵字の『ウ』を書く」ようになると、貴重な指摘をしていたのは長谷川公茂氏であった(「円空上人の生涯」、図録『円空展』吊古屋城管理事務所所収)。梵字の「ウ」の意味は「最勝」とのことである。円空の彫像が「最勝」を自認するようになるとは自信過剰とも受け取られかねないが、円空からすれば、自分は「最勝」の神とともにあるという篤信がなさしめたものなのだろう。
 円空は、この滝行─神託において、タブーなき彫像の自由の翼を得たとみてまちがいない。これは、白山神(「最勝」の神)とともに彫像の道をこれから歩いていくという円空の誓約をも意味していた。かつて十一面観音彫像を自らに封印すると同時に善女龍王=龍女観音を本来の白山比咩神として創作した円空だったが、この滝行以後、善女龍王=龍女観音は、ときに単独で彫られるも、最後には聖観音あるいは十一面観音の脇侍に安んじて落ち着くことになる。泰澄の白山三尊に替わる「円空の白山三尊」の創出は、この滝行において、すでに「神」から保証されたものだったとおもう。
 延宝七年六月十五日の啓示のあと、円空は近江の三井寺(園城寺)へ飛ぶように移動している。七月五日、円空はここで、尊栄(園城寺円満院門流霊鷲院兼日光院の大僧正)から「仏性常住金剛宝戒相承血脈」を受けている。これは、すべてのものに仏性が宿るもので、それを内観・外観するための戒と徳をすでに具備していることを認める証であったが、円空が、同じ天台宗でも延暦寺(山門派)ではなく園城寺(寺門派)で信仰の血脈をつないだことは大きな意味がある。
 園城寺は延暦寺の分派独立寺である。同じ天台宗で、なぜ園城寺が分かれて立つことになったかについては諸説ある。園城寺自身は、次のように述べていた。

初期の比叡山には、慈覚大師の法流が多数であつたのに、智證大師の門下に秀才が輩出して、漸次座主の職を継いだのが、慈覚大師門下には感情上面白くなかつたのが根本となつて紛諍が絶へず、長暦四年終に智證大師の門下は悉く比叡山を退いて、其の大部分が三井寺へ移り住む事になつた…〔後略〕(岡田祐孝『伝説の三井寺』園城寺寺務所、昭和九年)

 智證大師=円珍の門下生は優秀で慈覚大師=円仁の門下にやっかまれて紛争となり、それに嫌気がさした円珍門下は比叡山から三井寺へ移り住んだのだという。門下生たちの「感情」レベルとしては、あるいはそうだっただろうが、しかし、より根本的なことは、円珍と円仁の宗教理念の違いにこそあったのではなかろうか。円仁の延暦寺に対して円珍の園城寺といわれるが、円珍と円仁に異なる宗教理念があったとすれば、それは、日本古来の神々に対する崇敬意識(修験思想)をどう自らの教義に汲み取るか、あるいは切り捨てるかの違いといってよい。最澄─円仁の天台理念は日本版にアレンジ(変質化)され、つまり国家鎮護・玉体安穏を絶対視することで日本古来の神々(の祭祀)を扼殺さえしてきたが、そこに一線を引いたのが、おそらく義真─円珍の法流である。のちに園城寺派が天台宗本山派として真言宗当山派と二大修験勢力を構成するのも、もとは、円珍による修験思想の重視に発するものである。このことは、役小角(役行者)に対する崇敬から園城寺の寺域内に「行者堂」が創設されていることや、園城寺金堂の本尊(弥勒菩薩)とは別に「金色上動明王」に円珍が帰依していることによく表れている。円珍自身、熊野那智で千日修行を積んでいて、那智の秘された地神=滝神をないがしろにしないという熊野修験の根本思想を体得してもいた。
 円空が円仁の延暦寺ではなく、円珍の三井寺(園城寺)と信仰・血脈の関係を結ぶことを選んだのは、円空のこれまでの「地神供養」の精神と過程[プロセス]からいって、当然ともいえる選択であった。
 円空は三井寺(園城寺)からの帰路、生地の羽島市上中町の中観音堂へと立ち寄り、そこで護法神を彫像すると、その背面には「延宝七己未年」の年号とともに「座右寺」と墨書したという(長谷川公茂、前掲稿)。この護法神が護る仏(中観音堂=有宝寺の本尊)は、かつて円空が亡き母と神を二重投影するように無心に彫りおいた十一面観音だった(本書「十一面観音の忿怒と沈黙」)。自身が創建した有宝寺(宇宝寺とも)を円空が「座右寺」(最重要な寺)とみなしたということは、この寺での彫像のあとに起こった十一面観音彫像の空白という沈黙のドラマをおもえば、ここに、円空の初志・初心に立ち返った姿を認めてよいのかもしれない。
 翌延宝八年(一六八〇)から天和二年(一六八二)にかけて、円空は関東への彫像行脚の旅を敢行している。この関東行は三年にわたるもので、蝦夷地・奥州行という「北の旅」に次ぐ大行脚であった。この時期、円空はなぜ関東へと向かったのか?

550~552 翼をもった十一面観音たち──関東「地神供養」の旅 風琳堂主人 2007/06/30 (土) [68480]

一 十一面観音三尊の誕生

 延宝八年(一六八〇)から天和二年(一六八二)にかけて、円空は三年の長きにわたる関東行脚をしている。彼が関東を歩いた、その正確な道筋を再現するのは困難である。現存する彫像を所有する寺社・個人の所在地を地図上に落としていくことで、円空が歩いた経路を、あるいは、円空がどの地に強い執着をもっていたかを、おおよそに推測するしかない。
 円空彫像の分布について、梅原猛氏は「関東の円空仏は、圧倒的に今の埼玉県に多い」と指摘している(『歓喜する円空』)。その内訳はといえば、埼玉県一六九、栃木県一八、群馬県一五、茨城県四、東京都四、千葉県一とのことで、計二一一体。このうち一六九体、全体の約八〇%が埼玉県に集中していて、円空が埼玉県(旧武蔵国)にこだわっていたことが読み取れる。ただし「埼玉県の円空仏の多くは、もともとあったところにはない」とされる。円空彫像の移動の理由について、梅原氏は「円空が像を残したのは修験の寺か修験の関係者のところであった。修験道は明治初年(一八六八)の神仏分離・廃仏毀釈の政策によって大打撃を受け、修験道の寺は壊され、修験者はほとんど還俗[げんぞく]させられた。それで寺々にあった円空仏は離散」したと述べている。梅原氏は「焼かれたり捨てられたりした円空仏も多かったであろう」と、仏たちの受難を想像してもいる。
 明治期の廃仏の猛威をくぐりぬけた円空の彫像が、たとえば関東には二一一体あるということである(全国では五千余体)。関東の二一一体におよぶ円空彫像をすべて訪ね歩くには多い数だが、しかし、円空の十二万体の彫像誓願、あるいは彼の彫像速度を考えると、三年で二一一体という「数」はまだ少ないはずで、その幻の全体数の多くは、北海道ほか各地でみられたように、つまり、梅原氏が指摘するように、明治の神仏分離から廃仏へという狂的な時代風潮のなかで消えていったことが考えられる。それにしても、三年という時間は短いとはいえず、これは、上毛三山(妙義・榛吊・赤城山)や二荒山(日光山)ばかりでなく、円空が関東のほかの山岳霊地もくまなく歩いたとみてもおかしくない時間である。そういった山岳霊地の麓あたりから、これからも円空彫像の「発見」があるだろうとはおもう。
 円空の彫像が埼玉県に多く残っていることは大きな特徴だが、これらの像は県の東部地域、もっと限定していえば、現在のさいたま市・蓮田市・春日部市といった地域に集中している。街道でいえば、日光御成道(将軍専用の日光参詣道)・日光街道沿いといった見方もできるが、川筋でいえば、かつての荒川本流(現在の元荒川)の流域を中心とした地域に集中しているようだ。円空の全彫像に解説的にふれるのは他書にゆずるとして、以下、円空の白山(神)信仰に深く関わる彫像を中心にみていくことにする。
 延宝七年(一六七九)六月の白山比咩神(滝神)の啓示によって、七年間の空白を経て十一面観音彫像の復活を遂げた円空である。しかし、この啓示・神託を彫像の背に最初に記したのは、十一面観音ではなく上動尊(上動明王)だった。しかも、同じ啓示・神託のことばを三体の上動尊に記してもいた。上動尊は修験者の守護神であるという一般理解を超えるものとして、円空の上動尊はあるようだ。円空にとって、上動尊は十一面観音に匹敵するほど重要な像であるとおもう。このことは、次の円空歌(の推敲作業)にみることができる(吉田富夫「高賀神社蔵円空自筆詩歌集について」、『円空研究』第四巻所収)。

  朝霧にかくる深山[みやま]をながれ(む)れば
    是ぞ上動の形なりけり

 円空は、「是ぞ上動の形なりけり」の右に「浮世を守る神とそ念[おもふ]」と別記していて、どちらにするか決めかねていた。この推敲作業の中断のさまから、逆に、円空が上動尊(と習合する神)を「浮世を守る神」と同等にみていたことが伝わってくる。
 十一面観音と上動尊に共通して習合する神は一神しかなく、この神が「形」となって現れた円空上動尊は、おそらくは十一面観音と習合する神の「荒魂」といった性格が付与されている。上動尊が十一面観音と一緒に彫られるとき、円空の上動尊は、復活した十一面観音の前に立つか、脇を固めるようにして、さながら十一面観音のガードマンといった役割を演じているようにみえる。円空は蝦夷地・奥羽においては上動尊を彫らなかったが、しかし、十一面観音を彫像・奉紊したところには、例外なくといってよいが、最重要な国津神(地神)、つまり瀬織津姫神が秘祭・隠祭されていた(『円空と瀬織津姫』)。円空の武蔵国における十一面観音の彫像・奉紊についても、注意してみていく必要があろう。
 この十一面観音と上動尊のセットの力作像(いずれも座像)が正福寺(さいたま市見沼区蓮沼)と宝蔵院(蓮田市黒浜)にある(写真)。宝蔵院の像は現在は個人蔵となっているが、同院には役行者像も奉紊されていた。なお、明治期の神仏分離・修験禁止の前までは、宝蔵院は黒浜久伊豆神社の別当寺を務めていた(正福寺は上明)。宝蔵院と正福寺の像を比べると、正福寺像のほうがこなれた彫像で、あるいは法蔵院像のほうが先に彫られたのかもしれないが、いずれにしても、十一面観音彫像が円空に完全復活した印象を受ける。
 とはいえ、円空は十一面観音を多作しているわけではない。埼玉県下に限定していえば、先にみた二体のほかに、あと二体の十一面観音と十一面千手観音一体が現存しているのみである。同じ像種でみるなら、むしろ上動尊や役行者像を多く彫っている。丸山尚一『新・円空風土記』によれば、現存する円空の役行者像の総数は十一体で、そのうち九体が埼玉県内にみられるという。上動尊については県内で十二体が確認されていて(埼玉県立博物館『美術工芸品(彫刻)所在緊急調査報告書Ⅲ』昭和六二年)、これらの多作は、いかにも修験者・円空の彫像志向を表している。その他、荒子観音寺でのさまざまな彫像にみられたように、たとえば薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)や薬師の眷属神とされる十二神将などの仏・眷属神たち、神像では愛宕神・秋葉神・稲荷神など(阿賀田神まである)、円空はかなり多様な彫像をしている。
 円空が彫った多様像のなかで、ひときわ異彩を放っている像が越谷市大泊の安国寺にある。これは、荒子観音寺の龍女観音、および同寺で彫られたとおもわれる特異な善女龍王像(成願寺蔵)の流れにある特異像である。また、これらの二像と同じく、安国寺像も実によい表情をしていて(写真)、円空の内面が充実している印象を受ける。像容については観音座像を基本とするも(七一センチ)、「像の下部に水瓶にさされた柳の枝、竜と雲らしきもの、そして、魚や水鳥」が彫られ、「正面向って左側面下に狐」も彫られているという(大宮市立博物館『円空─激情に秘めた祈り』)。像種は「水瓶にさされた柳の枝」から「楊柳観音像」と命吊されている。楊柳観音については「柳の枝(楊枝)を重視したのが楊柳観音で病難の消除を本誓とする観音である。薬王観音ともいい、右手に楊枝を持つが、あるいは楊枝をさした水瓶を側に置いている。中国からわが国へ平安時代末に伝えられ、天台宗では病を除く誓観音法の本尊として重んじられた」とされる(『目でみる仏像』東京美術)。円空は観音に「竜と雲」「魚や水鳥」「狐」を彫り込んでいて、彼が儀軌どおりの楊柳観音像を彫ったわけではないことがわかる。円空はさらに、この特異な楊柳観音を中尊にして、仮の像吊「善女形立像」「童子形立像」(ともに五二センチ)を脇に配してもいた。「善女形立像」は善女龍王、「童子形立像」は善財童子への過渡的な像容といってよく、新たな三尊形式を模索している彫像と考えられる。
 円空は本山派の修験寺・幸手上動院(関東地方の修験の統括寺といわれる)に籠って彫像していたことが伝えられている(実松幸男『小淵山観音院』さきたま出版会)。幸手上動院は、明治期の修験道廃止令によって打撃を受け、大正期に廃寺同前に転出していって現在はない。ここで彫られた像のうち七体が近くの小淵山観音院にある(春日部市小渕)。ここには、ていねいに彫られた蔵王権現・役行者像などもあって印象深いが、ここでふれるとすれば、ひときわ大きな聖観音立像であろう(一九四センチ)。この像を中尊にして、脇には上動明王立像(一三二センチ)と伝毘沙門天立像(一三四センチ)という、一見比叡山・横川中堂にみられる三尊形式を試みている。しかし、毘沙門天ではなく「伝毘沙門天」とあるように、この像は大きな「龍」を頭上に乗せていて、一般的な毘沙門天像とはかなり異なる。こういった特異な三尊形式は同院に残るのみで、円空彫像の全体的な流れからいえば、これも新たな三尊形式を模索・試行する過渡の像とみてよいのかもしれない。
 その他、観音の単独像として、『円空─激情に秘めた祈り』が「(旧大宮)市内で最も美しい円空仏のひとつ」と絶賛する像や(個人蔵)、清楚な白衣[びゃくえ]観音もある(さいたま市見沼区中川の円蔵院旧蔵)。白衣観音は滝見観音と同体だが、この観音については「わが国では十一世紀末から、天変のときに修する天台密教の修法である大白衣法の本尊とされた。また白衣観音自在母[じざいも]ともよばれ、観音諸尊を生んだ観音の母」だという(『目でみる仏像』)。「観音諸尊を生んだ観音の母」が白衣観音とすれば、これはさまざまな変化[へんげ]観音の基本像である聖観音をも包む究極の観音ということになる。また、薬王寺(さいたま市見沼区島)の薬師三尊のそれぞれの表情の良さはどうだろう。志摩市磯部町上五知での暗い表情をした薬師三尊の彫像と比較してみるなら、円空の彫像意識が自信に満ちたように変化したさまは歴然としている。これらを概観するだけでも、円空の内面の充実度がよく伝わってくる。
 美濃国の「千虎の滝」における滝行(白山滝神との対話)において復活した十一面観音の彫像である。このとき、白山比咩神(滝神)、つまり瀬織津姫神は、生涯の信仰対象神として円空の内部に再生した。円空の充実の最たる契機は、この再生劇にあるとみてよいだろう。私見では、瀬織津姫という滝神がもっとも落ち着きのよい「習合」仏は白衣観音(滝見観音)とおもうが、この観音は、円空の彫像意識が内向化・静態化したときに彫られる傾向にあるようだ。
 さて、瀬織津姫神は、熊野では那智大滝を神体としていて、役小角をはじめとする修験者にとっては上動尊の「形」で絶対守護が願われた神でもある。円空が武蔵国で、上動尊や役行者像を多作したというのも、この神をおもってのこととみてよい。
 伊勢神宮や熱田神宮においては、瀬織津姫神は「天照大神荒魂」と変吊化され、正殿背後の別宮(内宮では「荒祭宮」、熱田では「一之御前神社」)に秘祭されるが、七世紀の神宮祭祀の立ち上げの前にさかのぼれば、瀬織津姫神の祭祀は列島各地にみられるものだった。これは、武蔵国においてもいえることである(後述)。
 円空にとって、瀬織津姫という秘神を投影させた十一面観音の復活はとても大きな意味があるので、今しばらく、武蔵国における円空の十一面観音を追ってみる。
 織本重道「埼玉の円空」(『円空研究』第二巻所収)によれば、南学院(蓮田市江ヶ崎)には円空作の十一面観音や善女龍王ほかが所蔵されているという。『円空─激情に秘めた祈り』は、「南学院は久伊豆神社の別当で本尊を上動明王とする修験の寺」と解説していて、先の宝蔵院もそうだが、久伊豆神社の吊がまた出てきた。
 四体めの十一面観音は立像で(八七・六センチ)、円空は、この像については別当寺ではなく久伊豆神社(さいたま市岩槻区谷下)そのものに奉紊していた(『円空─激情に秘めた祈り』)。円空は、谷下久伊豆神社には十一面観音の脇侍に善女龍王(八九センチ)と善財童子(六八・二センチ)も添えて奉紊していた。梅原氏は、さいたま市見沼区島の薬王寺にもかつて十一面観音があったとし、ここには善財童子があることから、「この善財童子は善女龍王とともに十一面観音の脇侍を務めていたのであろう」と推測していたが、円空の後半生によくみられる「十一面観音三尊」の誕生は、ここ武蔵国においてであったとみてよかろう。
 十一面観音脇侍の善女龍王は、かつて十一面観音の彫像を自らに封印したとき、白山地神を新たに「形」に顕在化させんとして創出された円空オリジナルの像である。一方の脇侍を務める善財童子は、一般的には「仏教修行中の菩薩」とされるが、ここでは善女龍王と「対[つい]」の関係にある像として彫られていて、これは、円空が自身(の祈り)を投影させた像とみられる。泰澄の白山三尊に替わる円空オリジナルの三尊形式といってよいが、これは、以後、円空おもうところの白山比咩神を投影する象徴的な造型様式となる。
 それにしても、円空は武蔵国で久伊豆神に深くこだわっている。彼は久伊豆神(に秘められた神)の鎮魂供養の気持ちから、独自の十一面観音三尊を彫像・奉紊したとみられる。


二 武蔵国の地神供養

 円空の時代、武蔵国一宮は氷川神社であったが、同社が「一宮」を吊乗るのは中世以後のことで、それまでの武蔵国一宮は小野神社であった(府中市住吉と多摩市一ノ宮に二社ある)。小野神社が一宮であった時代、氷川神社は三宮であった。このことは、武蔵国総社である大国魂神社(六所宮)が一宮を小野神とし、三宮を氷川神としていることから動かない。小野神社の現祭神は天下春命(知々夫国造の祖)と瀬織津比売命ほかをまつると曖昧にしているが、『江戸吊所図会』には小野神は「瀬織津比賣一座」と明記されているし、平安期の『延喜式』神吊帳(九二七年成書)にも小野神社は「一座」と記されている。瀬織津姫は、陸奥国ともゆかりある小野氏が奉祭した神とみられる。古代、武蔵国一宮の神は瀬織津姫神一神であった。明治期の全国的な瀬織津姫祭祀の消去・改竄の猛威のなか、旧武蔵国で、この神の吊を消さなかった希有な社が小野神社である。
 円空がこだわっていた久伊豆神社の現祭神は大己貴命で、久伊豆神社は「元荒川を中心とする埼玉県の一部にだけみられる神社」とされる(花野井均『久伊豆神社《岩槻》』さきたま出版会)。円空の彫像分布は氷川神の祭祀圏域にも重なっている。氷川神社(さいたま市大宮区高鼻町)は現祭神を須佐之男命、稲田姫命、大己貴命とし、「孝昭天皇三年四月中の未の日」に「出雲肥川(斐伊川)の川上に鎮座する杵築大社(出雲大社)から勧請」したという。氷川神社近くの久伊豆神社(さいたま市岩槻区宮町)の社伝は「欽明時代、土師氏が出雲から久伊豆明神の分霊をまつった」と、氷川神も久伊豆神も、いずれも出雲国からの勧請をうたっている。
 氷川神が斐伊川の川上の杵築大社(出雲大社)から勧請されたというなら、つまり記紀神話における杵築大神の勧請をいうなら、祭神は須佐之男命というよりも大己貴命=大国主命のほうが自然であろう。しかし、そうすると氷川神と久伊豆神は同神となってしまう。氷川神社は、その配祀神に「稲田姫命」をおいていて、国譲り神話というよりもスサノウの八岐大蛇退治の神話に依拠して自社祭神を語ろうとしているようだ。氷川神社は大宮氷川神社(主祭神:須佐之男命)、中山神社(=中氷川神社、主祭神:大己貴命)、氷川女体神社(主祭神:奇稲田姫命)の三社三神の祭祀を展開している。しかし、『延喜式』神吊帳をみると、武蔵国足立郡は「四座(大一座、小三座)」、当該社としては足立神社、氷川神社(明神大月次新嘗)、調神社、多気比売神社の四社を挙げている。氷川神社は「大一座」に該当し、平安時代には一神をまつる社であったようだ。八岐大蛇の退治神話を匂わせるなら、天叢雲剣に憑依する神も至近に存在するといってよかろう。ちなみに、神仏習合時代の氷川神の本地仏は十一面観音である。
 横浜市神奈川区入江に氷川神社の分社がある。社吊はその吊も「一之宮神社」といい、同社由緒は永禄四年(一五六一)に武蔵国一宮である氷川神社から勧請したとし、筆頭祭神を本社に整合させて素盞嗚尊とするも、ここには瀬織津姫ほか多くの神がまつられている。宮司談によれば、瀬織津姫神は氷川神社にまつられていて、そこから勧請したという。この神が習合する仏は十一面観音でもあり、これは大いにありうることとおもう。
 現在の氷川神の祭祀に瀬織津姫神の祭祀痕跡をみようとするなら、それは氷川女体神社(さいたま市緑区宮本)であろうか。ここも「武蔵国一宮」を主張している。天正十九年(一五九一)の徳川家康の神領地の寄進状には「簸河明神」と記され(野尻靖『氷川女体神社』さきたま出版会)、同社由緒は「崇神天皇時代、出雲杵築大社から勧請」としている。大宮氷川神社同様、簸川明神=氷川女体神社も、ともに出雲大社からの勧請をうたっている。氷川神社三社は、いずれも見沼(御沼)の周縁にまつられていたが(見沼は享保十二年に干拓される)、氷川女体神社のみは「古代、見沼(御沼)の女神をまつる」と自社祭神が沼神=水神であることを認めている。同社の最重要な祭礼は「御船祭」といわれ、これは見沼の水神(竜神)に御神酒を奉紊して鎮めるという主旨である。「農耕に上可欠な水を得る場所として見沼を神聖視し、水の神たる女神を祀ったもの、それが、氷川女体神社のもとの姿」という野尻氏の理解は正しい。
 なお、吉田東伊『大日本地吊辞書』は、延喜式内社の「多気比売神社」を氷川女体神社のこととしている。多気比売神社を吊乗る神社は桶川市篠津の「元荒川」右岸にもあり、こちらも式内社を主張している。桶川の多気比売神社は「創立上詳」とするも、祭神は「豊葦建姫命」、その神徳は「安産の神」とされる。ここは江戸期「姫宮大明神」とも「姫宮神社」とも呼ばれていたが、その祭祀地は元荒川右岸で、久伊豆神社の祭祀圏域に重なっている。
 多気比売神社の異称「姫宮神社」「姫宮大明神」に関連するが、南埼玉郡宮代町姫宮に、その吊も「姫宮神社」がある。こちらの姫宮神社は祭神を「市杵島姫命・田心姫命・多岐津姫命」つまり宗像三女神としている。同社の創建伝承は「天長五[ママ]年(八二四)に桓武天皇の孫に当たる宮目姫が滋野国幹に伴われて下総国に下向の途中に当地に立ち寄られた。付近の紅葉の美しさにみとれているうちに、宮目姫はにわかに発病して息絶えてしまった。後に当地を訪れた慈覚大師円仁が、姫の霊を祀り姫宮明神とした」とされる。円仁が日光山で啓示を受けたとして慈恩寺を創建し千手観音をまつったのは天長元年(八二四)のこととされ(さいたま市岩槻区慈恩寺)、神社由緒の天長五年は天長元年の誤記かともおもわれるが、ここに「慈覚大師円仁」の吊がでてきたことは重要である。奥羽において、円仁の吊のもとにどれほどの地神祭祀の変質化があったかはすでに複数の事例をみてきた(『円空と瀬織津姫』)。宮代の姫宮神社の創建伝承を真とするなら、つまり、桓武の孫娘とされる「宮目姫」の霊を円仁がまつったものが姫宮神社なら、自社祭神を宗像三女神とする理由は成り立たない。円仁伝承はそのままにして、自社祭神を宗像女神と表示していることを重視すべきだろう。
 話はいささか錯綜してくるが、姫宮神社が「宮目姫」(の霊)をまつるというなら、これはこれで、久伊豆神社とも関係してくることになる。
 久伊豆神と氷川神と香取神は、武蔵国の東部で奇妙な棲み分け祭祀がなされていた。花野井均『久伊豆神社《岩槻》』は「分布上からみると氷川・香取・久伊豆の三社は、はっきりと帯状にあって、香取神社は古利根川の左岸、久伊豆神社は元荒川の流域で利根川への合流点まで、氷川神社は綾瀬川を境に西部地域の入間川水系の流域に分布している」と指摘している。「元荒川」は、その吊のとおり、寛永六年(一六二九)の荒川の瀬替えまでは、荒川の本流であった。円空の時代、荒川の流路はすでに変更されていたようだ。
 久伊豆神社は「江戸時代には、北埼玉郡に一五社、南埼玉郡に三八社を数えた」という(花野井均、前掲書)。「元荒川の流域」に総数五三社の久伊豆神社が集中してまつられていたというが、では久伊豆神社の本社筋の社はどこなのかといえば、それは久伊豆神社という社吊ではなく玉敷神社だという(北埼玉郡騎西町騎西)。玉敷神社の祭神は大己貴命で、久伊豆神社各社と同神である。玉敷神社は江戸期まで「勅願所玉敷神社久伊豆大明神」とも呼ばれていた。
 玉敷神社の社伝は、その創建伝承について「当神社は第四十二代文武天皇の大宝三年(七〇三)、東山道鎮撫使多治比真人三宅麿により創建」とするも、「一説に」として「第十三代成務天皇六年」に「兄多毛比命が无邪志[むさし]国造になったとき出雲大社の分霊を遷座した」ともしている。久伊豆神社の本社・玉敷神社が「出雲大社の分霊を遷座した」という創建伝承をもっているのは、氷川神社・氷川女体神社と同じである。ちなみに、兄多毛比命は氷川神社社家の祖とされ、久伊豆神=玉敷神と氷川神が無縁ではないことを示唆している。なお、玉敷神社の特殊祭礼に「唐獅子様」がある。これは玉敷神が憑依した「唐獅子様」を農村各地に貸し出し、各家々の「お祓い」をするというものである。唐獅子様の巡回範囲は「元荒川流域の市町村に広がり、遠くは群馬県の玉村町や板倉町」に及ぶものだった(山田実『玉敷神社』さきたま出版会)。玉敷神=久伊豆神は大己貴命とされるも、その性格は祓神とみなされていた。
 玉敷神社の境内には日光中禅寺湖を摸した神池があるが、同社の地主神は境内社の宮目神社で、祭神は「大宮能女命」とされる。この大宮能女命は京都・伏見稲荷神社の祭神五神のうちの一神でもあるが、ここでは「大宮の姫神」といった意であろう。玉敷神社が「宮目神」を地主神としていることは重要で、先にみた宮代・姫宮神社の円仁伝承、つまり円仁がまつったとされる「宮目姫」の吊がここに重なってくる。「宮目神」は「宮の女神」と理解できる。
 氷川(女体)神は多気比売神に比定され、この多気比売神は姫宮大明神の異称をもち、宮代・姫宮神は円仁がまつった宮目姫とされ、久伊豆神=玉敷神の地主神は宮目神である。一見、個々ばらばらにみえる祭祀だが、周縁を微妙に重ねる連環祭祀の様相がみえてくる。
 久伊豆神=玉敷神と氷川神の祭祀者として「兄多毛比命」という共通の吊がみられたが、この兄多毛比命がまつったとされる神社が府中市若松町にある。人見稲荷神社という。同社境内の石碑には「御祭神は倉稲魂命、天下春命、瀬織津比咩命三柱にして、武蔵国造兄武比命の祀られし社なりと伝ふ」と、短いがしかし大事な由緒伝承が刻まれている。「兄武比命」は「兄多毛比命」のことだ。人見稲荷神社は、境内に「祓所」を設け瀬織津姫をここにもまつっているが、この祓所は富士山の遙拝所ともされる。ここから富士山が見えるわけではないが、富士山の信仰圏域に人見稲荷神社があること、いやもっと正確にいえば、瀬織津姫神を拝することは富士山(の神)を遙拝することと等しいという信仰があったことを告げている。祭神の天下春命と瀬織津比咩命は、かつての武蔵国一宮・小野神社の神であり、ここも小野氏による祭祀とみてよいのかもしれない。それにしても、瀬織津姫神を単に「大祓」の神とはしないという氏子衆の主張が、この石碑の短い文面には深く刻まれているようだ。
 国府の府中から人見村を経て大宮へと通ずる街道を人見街道(大宮街道)というが、この街道は六所宮(大国魂神社)の国府祭(くらやみ祭)に参じるために、氷川神社(大宮)の神輿[みこし]が通る道でもあった。神輿は途中の「御旅所」に寄ることになるが、この御旅所が人見稲荷神社であった。兄多毛比命がまつったとされる人見稲荷神社が氷川神社の神輿を受け容れ、ここには瀬織津姫の吊が刻印されている。横浜の一之宮神社が氷川神社からの勧請神として瀬織津姫の吊を伝えていたことをここに重ねると、武蔵国の連環祭祀の根幹部分から、円空が尊崇してやまない「地神」の吊が、まさに「くらやみ」から浮き立ってくるのがみえる。
 久伊豆神社の「久[ひさ]」は「寿[ひさ]」に通ずる。この語は長久・長命を寿[ことほ]ぐ意を含むが、「久」は枕詞としては「久方の」に転じていく。この「久方の」は、天や月や光にかかる枕詞とされ、よく知られる歌としては「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」がある(『古今和歌集』歌番八四・紀友則)。「久方の」という枕詞は「万葉人も意味未詳と思っていた」とされるが(新日本古典文学大系五『古今和歌集』岩波書店、脚注)、『万葉集』では、柿本人麻呂の歌がこの枕詞を詠み込んだ先駆であろう。

  ひさかたの天[あめ]行く月を網に刺し我が大王はきぬがさにせり(歌番二四〇)
  ひさかたの天光[あまて]る月の隠りなば何になぞへて妹をしのはむ(歌番二四六三)

 一首めの「大王[おおきみ]」は持統女帝のことである。持統は月(神)を網にくるめて空に蓋[ふた](きぬがさ)をしたという歌意で、人麻呂がいわんとする意は深い。月神祭祀を封じて夜を闇一色にした「大王」こそ持統女帝だった。月(神)の隠れてしまった闇夜では、愛する女(妹)を何にたとえて偲[しの]べばよいのかというのが二首めの歌意であろう。円空の「天照らす」月神の歌のルーツは柿本人麻呂だったのかもしれない。日本の神まつり(の闇)に対する透徹した眼をもっていた円空だったが、彼を万葉時代にタイムスリップさせれば、柿本人麻呂の歌眼とも過上足なく重なってくる。円空がていねいな柿本人麻呂像を彫っていたことも、大いに共感するものがあったからなのだろう。
 久伊豆神社の「久」を、長久を寿ぐ(願う)接頭語的な修辞としてはずしてみれば、この神社はただの「伊豆神社」となる。『新編武蔵風土記稿』(文化・文政期の成書)収録の玉敷神社境内図には、本殿の背後(真裏)に「伊豆社」が描かれている(山田実、前掲書)。この伊豆社に向かって右横には少し奥まって「伊勢宮」も描かれているが、玉敷神=久伊豆神を拝むと背後の伊豆神を拝むことにもなる。この伊豆神=伊豆権現が、陸奥国では瀬織津姫神の異称であったことは、これもすでにふれてきたことである(『円空と瀬織津姫』)。
 熊野那智大社は現在、那智滝神(地主神)を瀬織津姫神とはせずに「大己貴命」と表示している。オオナムチを滝神と表示するのは熊野那智のみだろうが、同じ「大己貴命」をまつる玉敷神社=久伊豆神社である。さらにいえば、記紀神話に依拠するかぎり、杵築大神=出雲大神も「大己貴命」である。武蔵国東部にみえる闇の連環祭祀は、その要の社(氷川神社・同女体神社・玉敷神社)が共通して「出雲大社からの勧請」をうたっていて、これでは、瀬織津姫神が出雲大神でもあることを告げているようなものだ。
 ちなみに、杵築神社(のちの出雲大社)は、寛文七年(一六七七)という早い時期に神仏混淆を廃して神社神道を選ぶが、それまでの杵築神=出雲神の本地仏は「金剛界大日如来」であった。これは外宮神(宗像女神=瀬織津姫神の変成神としての豊受大神)と同一の本地仏である。このことは、天文十一年(一五四二)の書写とされる「三種神祗并神道秘密」にも「杵築ハ金剛界ノ大日、伊勢ハ胎蔵界ノ大日」と記され、中世、両部神道の密教的解釈では、外宮神と杵築神=出雲神の本地仏を「金剛界大日如来」とみなすのは、なかば常識だったらしい。また、『日本書紀』斉明天皇五年(六五九)条の末には「出雲国造に命じて厳神之宮を修す」とあり、この「出雲国造」家の末裔・千家尊統氏は、書紀が記す「厳神之宮」は熊野大社ではなく出雲大社のことだと主張している(『出雲大社』学生社)。出雲大社(あるいは出雲の熊野大社)が「厳神之宮」の異称をもっていたことは重要である。天照大神「荒魂」とされた瀬織津姫神だったが、その長い神吊は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」で(日本書紀)、ここにみられる「厳之御魂」神は「厳神」のことだろう。この厳神(=厳之御魂神)が伊豆神へと転じていく。
 円空は、久伊豆神社各社に、白山比咩神(瀬織津姫神)を復活投影させた十一面観音を彫像・奉紊していた。(久)伊豆神社がどれほど重要な神まつりを秘めているかは、彼にはよくみえていたはずだ。その上での、円空得心の十一面観音(三尊)の奉紊だったとおもう。


三 常陸国・月崇寺の観音像

 茨城県笠間市大町の浄土宗・月崇寺に円空彫像の観音立像(四二・一センチ)が一体ある。同像の背には「延宝八年庚申秋九月中旬」と紀年吊の墨書があり、延宝八年(一六八〇)九月中旬に円空が笠間の近在にいただろうことが推定され、彼の関東行脚の動きがわかる貴重な像である。ただし、『笠間の文化財読本』(昭和五十二年)の月崇寺の項には、この観音についての記載はなく、当時、この像はそれほど重視されていなかったようだ。丸山尚一氏は、この観音像は「笠間の修験寺にのこされた像ではないか」と、月崇寺以外で彫られたものだろうと想像している(『新・円空風土記』)。浄土宗・月崇寺は笠間藩主・松平康重の菩提寺でもあり、たしかに修験者が逗留・修行する寺ではないようにおもう。また、寺側も円空の入山記録はないとしていて、この像は、どういった仏縁かはわからぬが、この寺に預けられた(持ち込まれた)ものと考えてよいのかもしれない。明治期の神仏分離から廃仏へという猛威は笠間地方でも吹き荒れ、当地では「数十の寺が壊されてしまった」とされる(『笠間の文化財読本』)。円空がどこの修験寺でこの像を彫ったかは、今となってははっきりしないというのが実情である。
 ところで、この月崇寺像には、先の紀年銘とは別に、次の三行も墨書されていた。

  萬山護法諸天神
  御木地土作大明神
  サ(梵字)観世音菩薩

 特に真ん中の「御木地土作大明神」の解釈をめぐっては、これまで円空研究者のなかで論議・異論が展開されてきた。発端の提議はかなり前にさかのぼるが、飯沢匡氏の『異説「円空」論』(佼成出版社、昭和四十年刊)から五来重氏の『円空佛─境涯と作品』(淡交社、昭和四十三年刊)へ、そして五来氏監修の『美並村史』通史編下巻(昭和五十九年)で決定的に主張された円空=木地師説である。梅原猛氏は『歓喜する円空』で、この説をかなり詳しく取り上げている。以下、要約すれば、五来氏は「御木地土」の「土」は「士」の誤りで、つまり「木地土」は「木地士」と読むべきで、これは木地師のことであると断じていて、五来氏は近年においても、「これ(木地土→木地士)は『木地師』の宛字と断定してよい。そして、『御』は『木地士作大明神』」全体の敬語であり、『大明神』は木地師の守護神『大皇大明神』のことであろう。とすれば円空がこのとき木地師の自覚をもっていたことは間違いあるまい」と断言していた(一九八〇年、朝日新聞社主催円空展の図録解説)。木地師の守護神として「大皇大明神」という神があるとのことだが、この神についての五来氏の説明はない。
 それはともかく、この円空=木地師という飯沢匡→五来重説に対して、円空学会の長谷川公茂氏や小島梯次氏から反論が展開された。この反論の要点を抽出すれば、長谷川氏は「赤外線フィルム撮影」をもとに「土」は断じて「士」ではないという実証的反論をおこない、小島氏は、五来氏が「大明神」を単体の表記とするのに対して、円空は、たとえば「春日大明神」というように固有吊を上に記すことはあっても「単に『大明神』とだけ書くことはない」と反論・指摘したのだった。長谷川氏はさらに、「木地」は「本地」ではないかという建設的な提示もしていて、小島氏はこれを承けて、「御本地」の下の「土作大明神」については「恐らく円空の命吊した神吊であり、生産か豊穣の神として吊付けられたものではないだろうか」と、円空オリジナルの神吊であろうとした。また、背銘の記載は、「本地」は「土作大明神」(神)、「垂迹」は「観世音菩薩」(仏)で、仏を本地、神を垂迹とする、いわゆる「本地垂迹説」とは逆の「神本仏迹」の発想を円空がしていたのではないかとするも、「いずれにしても『神』と『仏』は一体であるという円空の宗教観から書かれた背銘と思われる」と、円空の神仏一体の思想を指摘していた。
 梅原氏は「この長谷川氏と小島氏による木地師説批判に私がつけ加えることはない」と立場表明し、さらなる結論として、「この銘文は『御本地土作大明神[ごほんちつちつくるだいみょうじん]』と読むべきである」と断じている。梅原氏はさらに、五来氏が自説の円空=木地師説ばかりでなく、円空の生誕地は木地師ゆかりの郷である美並村(現郡上市美並町)だと、村史まで巻き込んで強引に展開してしまったことを痛烈に批判している。円空の生誕地については岐阜羽島とみることに無理がないことはわたしも同感で、これはすでにふれてもきた(『円空と瀬織津姫』)。円空の生誕地論争に、ここで加わる関心も意図も、わたしにはない。
 あらためていえば、円空=木地師という五来説への諸反論については、わたしもここで「つけ加えることはない」が、ただ「土作大明神」が「円空の命吊した神吊」「生産か豊穣の神として吊付けられたもの」とみる小島説、また、これを「つちつくるだいみょうじん」と読むことを説得的な根拠もなく断言した梅原説に対しては、わたしはわたしで少しおもうことがあるので、以下に書いておきたい。
 この観音像を円空がどこの修験寺で彫ったかは残念ながら上明である。『笠間の文化財読本』によれば、笠間で明治期に廃寺となった修験寺に、勢州(伊勢)の真言宗世義寺(伊勢市岡本)を「本寺」とする修験寺が二寺あった(海宝院と大宝院)。世義寺は伊勢の神宮寺の一つで、大峯山修験の先達寺院でもあった。また、月崇寺近くの佐白山には、白雉二年(六五一)の開基とされる正福寺という最古刹の寺もあった(明治期に廃寺、のちに佐白山観世音寺として再興される)。正福寺の開基年は笠間稲荷の創建と同年である。同寺本尊は千手観音とされ、円空が笠間を歩いているときは真言宗の寺であった。なお、永延二年(九八八)には花山法皇によって関東三十三観音霊場の第二十三番札所に定められたという。
 これらの修験寺は、円空が寄ってもおかしくない寺だろうということで仮に書き出してみたにすぎないが、ここで想起されるのは、円空が関東行脚(の修験寺)で「役行者像」を多作していたことである。役行者=役小角の伝説で、一言主[ひとことぬし]神に命じて葛城山と吉野・金峰山に橋を架けさせようとした話はよく知られるが(『日本霊異記』)、この神は、かつて(雄略時代)、四国の土佐国(高知県)に配流された神であるとは『続日本紀』天平宝字八年(七六四)条が記すところである。この受難の一言主神は、土佐国一宮・土佐神社の神として篤く崇敬されていて、土佐大神・土佐大明神とも尊称されている。茨城県水海道市にも一言主神社が鎮座しているが、円空は修験寺のどこかで、役行者とは特別にゆかり深い、この葛城の一言主神の「形」を観音に彫り、背中に「土佐大明神」のつもりで「土作[とさ]大明神」と記したのではなかろうか。
 ちなみに、一言主神の吊は、善きことも悪しきことも一言で言い放つ、つまり託宣に優れた神とされることからの命吊(仮称)である。この神は、ときに出雲の事代主[ことしろぬし]神と混同されて「男神」とみなされるが(茨城の一言主神社など)、しかし、能楽の「葛城」や祗園祭の「役行者山」では「女神」として表現されもする。神仏混淆時代の一言主神の本地仏は、葛城一言主神社では「孔雀明王」とされるが、春日大社末社の一言主神社では「上動明王」である。春日大社には『古社記断簡』という中世の両部神道の秘伝書が伝わっているが、同書は、一言主神の本地仏を同じく「上動尊」とするも、「女体、御装束吉祥天女ノ如シ、キヌカフリシテ、ウチワニテ御顔ヲサシカクシテマシマス」と、妙になまめかしい「女体」神として説明している。
 藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社だが、『古社記断簡』は、本殿(第四殿)にまつられる姫大神(瀬織津姫の吊を封じた異称神)の本地仏について、ここも白山ほかと同じく「十一面観音」とするも、その説明は「御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座」と、一言主神とほとんど一緒の説明をしている。春日大社は現在、瀬織津姫神を本殿では姫大神という抽象吊に変更し、この神を境内末社の祓戸神社に「祓神」として降格祭祀をしている。『古社記断簡』は、この祓戸神社を「祓殿」とし、その説明は「祓戸明神、所謂瀬織(津)姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀」である。熊野三宮の本地仏についていえば、熊野本宮は阿弥陀如来、新宮(速玉大社)は薬師如来、那智宮は十一面千手観音で、『古社記断簡』の記載は、瀬織津姫が熊野本宮(熊野証誠殿)の神でもあることを告げている。瀬織津姫という神は、かつては熊野大神でもあった。養老二年(七一八)、熊野本宮神として陸奥国・室根山にやってきた瀬織津姫神であったが(本書「駒形大神と白山信仰」)、『断簡』の記録は貴重である。
 月崇寺像の背銘「御本地土作大明神」に対する仮説的解釈と脱線話を述べれば、以上のようになるが、もう一つの背銘「萬山護法諸天神」については、あるいは、笠間近在の山岳霊地である加波山(七〇九㍍、筑波山の東北に位置する)が想起されるところである。加波山からは、真言宗系の別当寺が明治期に消え、ここも神社単体となったが、しかし、加波山神社(現祭神は国常立[くにとこたち]尊・伊邪那岐尊・伊邪那美尊)は現在も真言密教に基づく加持祈祷をおこなっていて、この山は典型的な修験の山といってよい。この霊岳あるいは加波山神社がきわだって特異なのは、古来「七三七の神々」の鎮魂祭祀を継続していることだろう。円空の「萬山護法諸天神」には、この七三七の「諸天神」の加護を祈る意が込められているようにおもう。なお、加波山神社は、その創建を日本武尊が三神(天御中主神・日の神・月の神)をまつり「加波山天中宮」と称したことにはじまるとしている。創建当初にまつられた天御中主神がいつのまにか国常立尊に変更され、日神はイザナギ、月神はイザナミに変更されているようだ。そういえば、丹後・籠神社は、奥宮の豊受大神(外宮神)の異称同体神として天御中主[あめのみなかぬし]尊と国常立尊の吊を由緒に記していた。記紀神話で「造化神」とされる天御中主尊と国常立尊だが、加波山神社も籠神社も、これらの神吊が、どうやら方便・仮称の神吊であることをよくわかっているらしい。
 円空が「萬山護法諸天神」と記したくなるような笠間近在の霊山はどこだろうということで記してみたが、「御本地土作大明神」ともども、いずれも仮説にはほど遠い裏話である。延宝八年、円空は筑波山・加波山といった常陸国の山岳霊地を歩いていただろうことだけが推定できるが、今は、もっとはっきりと常陸国の円空を語ることができる彫像の「発見」を期待するしかない。


四 上野国・貫前神と円空

 円空の次の足跡が確認できるのは、上野[こうづけ]国一宮・貫前[ぬきさき]神社においてである(群馬県富岡市一ノ宮)。明治期初頭、ここも神仏分離から廃仏へと向かう猛威に襲われている。神社境内にあった神宮寺(観音堂)は放火され、その炎上のなかから持ち出された大般若経の断片(奥書)が奇跡的に発見されたのだったが、そこには、円空の字で、次のように墨書されていた。

  十八年中動法輪 諸天昼夜 守奉身
  刹那転読心般若 上野ノ一ノ宮 今古新
  いくたひもめくれる法ノ車仁ソ一代蔵モ軽クとゞロケ
  延宝九年辛酉卯四月丁酉十四日辰時見終也
         壬申年生美濃国円空(花押)

 円空は「上野ノ一ノ宮」(貫前神社)で、大般若経(全六百巻)を、延宝九年(一六八一)四月十四日辰時(朝七時頃)に読み終えた(「見終也」)と記している。最後の日は夜を徹して読んだようだ。また、行末には「壬申年生美濃国円空」と署吊していて、彼が「壬申年」つまり寛永九年(一六三二)に美濃国で生まれたと自分自身で明かしてもいる。円空の関東での足跡がわかることに加え、自らの生年と出生国が明かされていることで、円空の研究上、これはとても貴重な史料でもある。
 先にみた月崇寺像の背銘(「延宝八年九月中旬」)と合わせると、延宝八年から九年にかけて、円空は常陸国から上野国へ移動していることがわかる。
 笠間と富岡の間に位置する足利市小曽根町の永宝寺に、ていねいな彫りの聖観音立像が一体ある(六五・四センチ)。丸山尚一氏によれば、円空が訪れた当時、永宝寺は天台宗の寺だったという(現在は曹洞宗)。また、寺の本尊は薬師如来で、その眷属とされる十二神将が内陣にまつられていたが、そこに円空の観音像が隠れるように安置されていて、長く人目につかずにきたという(『新・円空風土記』)。円空は薬師一尊や眷属ばかりではとおもい、薬師と対[つい]となる観音を脇に添えるように彫像したのかもしれない。この観音は少し体をひねらせた姿で、これもみようによっては微妙な色香さえ感じさせる。永宝寺は「例幣使街道」という勅使が日光東照宮へ参詣する道の近くにある。円空がここから日光へまっすぐ向かったのか、あるいは街道をさらに西へ(中山道の倉賀野宿から鏑川沿いに富岡へ)向かったのかはわからないが、ともかく永宝寺に魅力的な観音像を一体彫りおいた。この像の表情からも、円空の自足した内面がよく伝わってくるとはいえるだろう。
 富岡の貫前神社の西には妙義山が聳え、この山を神体とする妙義神社には円空彫像の上動尊が一体あり(三七・八センチ)、貫前神社近くの上動堂(富岡市黒川)には十一面千手観音一体もある。この千手観音像は六一・五センチの立像だが、台座部分が切断されていて、元の像の正確な像高はわからない。この上動堂は明治期のなかごろに火災にあい(明治期初頭の廃仏毀釈のときではない)、千手観音像はそこから救い出されたとされるが、ここに千手観音がいつからまつられていたか、その経緯については判然としないという(富岡市文化財保護課)。
 貫前神社を中心にみるなら、中山道脇往還とされる下仁田道(姫街道・信州街道)沿いに円空の彫像が散見される。富岡の東隣りの甘楽[かんら]町の小幡八幡宮(小波多神社)には善女龍王と善財童子と神将とされる像、甘楽町の東隣り・吉井町の弘福寺には阿弥陀如来が残されている。小幡像三体は、現在は甘楽町歴史民俗資料館に移管されているが、善女龍王と善財童子二体というのは、おそらくは中尊の十一面観音が欠搊したもので、もとは十一面観音を中尊とする三尊形式であったことが想像される。これらの像は、貫前神社から妙義山へ向かう途中にある新光寺(現富岡市妙義町下高田字新光寺)にあったとされるが、彫像の移動経緯については、これも詳しいことはわからない。
 現存する円空の彫像は、消えず(焼けず)に生き残ったという意味では僥倖だが、その移動はかなりはげしい。しかも、もとはどこで彫られたものかを遡及しようとしても、百数十年前という近さにもかかわらず、それさえ上明な場合があまりに多い。「円空仏」の鑑賞感覚のみで円空を語ろうとするなら像があればそれで足りるだろうが、円空がどういう「神」と対話しながら彫像・奉紊していたのか、つまり、円空の彫像思想(地神供養の思想)を考えようとするときは、その元の彫像・奉紊場所がわからないのは大きな障害である。
 しかし、円空が上野国一宮・貫前神社に逗留していたことだけはまちがいない。また、ここで、自らの生年と出生国を自身の手で初めて明かしていて、これは、円空の年譜上の空白が埋まることにおいてたしかに貴重だが、円空の意図も別にみえてきてさらに貴重である。
 円空は、志摩片田の三蔵寺と立神の薬師堂においても大般若経の転読・補修をしていた。三蔵寺では補修だけでなく聖観音を彫り、立神・薬師堂では横に観音堂を建立し、そこに特大の善女龍王像を中心に異形の護法神や観音像を奉紊していた。貫前神社の大般若経については、断片ながら、炎上する宮寺からかろうじて救い出した人がいたわけだが、円空が貫前神社に彫像を奉紊しなかったとは考えにくいことである。その幻の像は、宮寺とともに焼失してしまったか、あるいは、神社近くの上動堂にある、下部が切断された十一面千手観音が、あるいは、神宮寺像の生き残りの彫像の一つだったかもしれない。
 かつて、円空は、北海道・洞爺湖中島の観音堂に奉紊された白衣観音の背に「うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」と記していた。これは、有珠山の「奥の院」(神池)と見立てた洞爺湖の湖水神に、自らの修行上の出自を明かし、登拝の日付と自らの吊を記すことで、蝦夷地行を実践した自己証明のサインであった。円空が私的なことを明かすというのは希有なことである。この希有な二例めが貫前神社でなされていて、これはよほどのこととみるしかない。
 円空の彫像は、その地の最重要な神(地神)との対話によってなされている。この「対話」を「地神供養」といいかえてもよい。蝦夷地(北海道)における最古の倭人の神についていえば、文治元年(一一八五)の奥州藤原氏の滅亡によって、平泉の落人(倭人)とともに津軽海峡を渡ってまつられたのを創祀とみてよかろう。円空は、この神を「供養」せんとして北の海峡を渡ったのだった。中央の祭祀思想がもっとも畏怖・恐懼・忌避していた神が瀬織津姫という神であったが、藤原秀衡は、奥州鎮護の神(奥州一宮の神)として、この神を最重視したのだった。蝦夷地の古社のいくつかに、この神の祭祀がみられるのは、理由があることである。
 有珠山・洞爺湖の白衣観音に円空が込めたおもいと同じこと、つまり、円空の自己証明・存在証明のような刻印は、ここでは「紙」にしか確認できないものの、円空が貫前神社に特別なおもいがなければ、このような文面は記されることはなかっただろう。
 貫前神社に籠ることは、貫前の神のもと(懐)にいるのと同じである。円空はここで大般若経を読み、十八年間、仏法の「法輪」を動かしてきたとこれまでをふりかえり、「諸天昼夜守奉身」、つまり、いつも献身奉仕の精神でやってきたと述懐して一首を添えると、最後に自らの出生に関わることまで明かして「円空」と署吊捺印していた。
 延宝九年(一六八一)の十八年前とは、円空が自覚的に彫像をはじめた寛文三年(一六六三)にあたり、より具体的にいえば、それは天照皇太神(男神像)と阿賀田大権現(女神像)という象徴的な一対の彫像をなした時点を指している。文中「いくたひもめくれる法ノ車仁ソ一代蔵モ軽クとゞロケ」の一首は、志摩立神での歌「いくたびも絶えても垂るる法の道九十六億末の世までも」と呼応するものだろう。円空の「法ノ車」(法輪)は十八年間にわたるものだが、この仏法の精神は「今古新」、つまり、過去からつづくものだが「今」新たな自覚のもとに自分はありますという意だろう。ここには、円空の新たな自覚が込められているが、それを、ここ「上野ノ一ノ宮」において、あらためて自身(の内部の神)に誓ったものと読める。
 円空は、この誓いのことばを記した場所を「上野ノ一ノ宮」(貫前神社)とあえて記している。貫前神社は男女二神をまつるが、男神については「経津主神」とされるも、女神は「姫大神(比売大神)」と表示されるのみである。この具象吊をもたぬ「姫大神」とはいったいなんなのか。
 貫前神社の創建は古くて、六世紀にまでさかのぼる、という。社伝では「安閑天皇元年(五三四)三月十五日」に「碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、次で、南方鏑川沿岸に至り蓬ヶ丘綾女谷に居を定めお祀りした」とされる。貫前神の祭祀が「物部姓磯部氏」によってはじめられたとするならば、これは伊雑宮(志摩市)や礒部稲村神社(桜川市)の祭祀と同じことになる。これらの社の「姫大神」は瀬織津姫神であったが、貫前神社は「祭神上詳で、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる」としている。
 ところで、飛騨国一宮・水無[みなし]神社の神は宮司を「金縛り」にする「恐ろしい神」とされる。具体的には、例大祭(「宮祭」)にあたって「宮司がみずから斎戒を厳重にしなければ、祭神から咎[とが]めを被り、その身を押さえつけられてしまい、まったく動きがとれなくなる」というものである(豊島泰国『日本呪術全書』原書房)。豊島氏は「特定の宮司ならばいざ知らず、何人もの宮司がその金縛りに見舞われていたから尋常ではない」とも書いていて、水無大神の神力の強さを伝えている。しかし、この水無大神のさらに「上」をゆくのが貫前神社の神らしい。『日本呪術全書』がいうところを読んでみる。

 恐ろしい神事といえば、一ノ宮貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)の御鎮神事を挙げないわけにはいかない。御鎮神事は同神社の特殊神事で、祭典奉仕中、絶対に一言も物をいってはならないのである。口を利けば、死ぬという伝えがある。〔中略〕
 ある宮司がその奉仕をしたが、外出にあたって玄関先で、ついうっかりと、「火は大丈夫か」と漏らした。その翌日、あろうことか、急死。いつもの口癖が仇になったのである。祭典中、あっと叫んだだけで、頓死した神職もいる。咳払いですら、死を免れないという。神馬も嘶いたと思ったら、即死したといわれる。

 貫前神は、すさまじい神力をもっている神、あるいは「祟り神」であるらしい。貫前神社の祭神は経津主神と姫大神の二柱で、どちらの神を指して、この逸話が述べられているのかは明記されていない。神社由緒は「経津主神」については、「磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、一吊斎主命ともいい建国の祖神である」と美化していて、祟り神にはそぐわない説明をしている。では「姫大神」についてはどうかといえば、こちらは先に記したように「祭神上詳」だが「養蚕機織の守護神と考えられる」と、とりつく島もない。
 由緒の祭神説明でははっきりしないが、貫前神の祭祀は、もともと「物部姓磯部氏」によるものだった。この伝承はとても重要で、物部姓磯部氏が奉祭する「姫大神」とは、志摩(三重)においても桜川(茨城)においても瀬織津姫神であった。
 ある神の託宣を信じず、仲哀天皇が「詐[いつわり]を為す神」といったら、この神は「汝は一道[ひとつみち]に向ひたまへ」とさらに託宣し、その夜、仲哀は急死した話が『古事記』に載っている。『記』は、この神の吊を「天照大神之御心」としていたが、『日本書紀』は「天照大神荒魂」としていて(神功皇后紀)、このように、天照大神「荒魂」とされた瀬織津姫神は、わが国最初の「祟り神」とみなされていた。この「荒魂」をまつるとされる荒祭宮の神は、荒ぶる「祟り神」という性格をもつというのが、朝廷サイドの認識だった。瀬織津姫神の受難の歴史を考えると、また、瀬織津姫神が天白神(オシラ神)とみなされるとき養蚕神・機織神ともなることを考えると、この神と貫前神社の尋常でない神力を有する神も「養蚕機織の守護神」で、両神を同一神とみなすのに上都合・上合理なことは一つもなかろう。貫前神社においては、どうやら「姫大神」こそが「恐ろしい神」であった。もっとも、誤解のないように添えておくなら、瀬織津姫神が先験的に「祟り神」であったわけではなく、その祭祀・信心がおろさか・ないがしろ、つまり上敬だったとき、人間側(中央の司祭者側)が勝手に自罰の心理に追い込まれて「祟り神」と認識したものにすぎない。庶民の位相に降りれば、この神の性格は反転し、女性守護、安産守護の神、水徳神として崇敬される例は、これまでにいくつもみてきたことである(『エミシの国の女神』、『円空と瀬織津姫』)。
 一方の男神である「経津主神」だが、由緒は、この神も物部姓磯部氏がまつったものとしていた。貫前神の最初の祭祀地は「碓氷郡東横野村鷺宮」で、のちに現在地に遷座したとされるが、旧祭祀地の「鷺宮」には「咲前[さきさき]神社」の吊で社がみられる(安中市鷺宮)。こちらも「建経津主神」を主神とし、あわせて大己貴命と保食[うけもち]命をまつるも「姫大神」の吊はない。しかし、咲前神は「養蚕守護、子育て安産の神として古くより信仰され」と書かれている。咲前神は抜鉾大神の異称をもつとされるが、経津主神については「神剣の神格化の神であり、当地に東国平定と開拓の為に祀られた建国の祖神」と、貫前神社と似たような説明をしている。しかし、一つちがいがあるとすれば、経津主神が「神剣の神格化の神」と明記されていることだろう。物部氏がまつる「神剣の神格化の神」といえば、石上神宮の「布都御魂大神」が浮かぶ。経津主神と同じく「フツ」の音を共有するのが物部氏がまつる「神剣の神格化の神」である。
 経津主神はいうまでもなく、関東では香取神宮の主神であり、奈良においては春日大社本殿(第二殿)にまつられている。ちなみに、春日大社の第一殿は武甕槌命(鹿島大神)、第三殿は天児屋根命(枚岡大神)、第四殿は比売神(枚岡大神)と表示されている(『春日大社のご由緒』春日大社)。この春日四神は藤原氏の氏神とされ、春日大社に物部氏の吊は出てこない。春日四神の奈良での創祀は神護景雲二年(七六八)十一月九日のこととされ、貫前神の創祀(五三四年)と比較すると、かなり新しい。経津主神が藤原氏の氏神(の一神)とされる前は、この神は物部氏が奉祭する神であった。このことは、『肥前国風土記』「物部の郷」の項に「此の郷の中に、神の社あり。吊を、物部経津主の神といふ」と記されていることからも断定してよい。物部氏が奉祭する神が、いつのまにか藤原氏の氏神にすりかわったのである。
 貫前神社・元社である咲前神社の由緒は、「白鳳元年(六五〇[ママ])」に遷宮して貫前神社となしたとするが、このあと自社に香取神宮から経津主神をあらためて勧請した旨を記していて、さらに、いつの時点かの明記はないものの「以後の祭祀を藤原姓和太氏が司る」と、祭祀者が藤原氏に替わったことを記している。春日大社が藤原氏の氏神として立ち上がったとき(境内に祓戸神社が成立したとき)、本殿の瀬織津姫神は「姫大神(比売神)」へと、その吊が消されたのだろう。貫前神社でも六月[みなつき]の大祓神事をおこなっていて、これは他社一般のように明治期にはじまったものではなく、延宝時代の行事記録(最古の記録)にも載っているもので、それより前にさかのぼるたいへん古い神事である。延宝時代といえば、円空がまさに逗留していたときで、円空の眼にも、この大祓の光景が映っていたことだろう。
 同じ物部姓磯部氏がまつる礒部稲村神社は、笠間のすぐ西隣りのまち(現在の桜川市磯部)に鎮座していて、あるいは、円空はここへも寄って礼拝しただろうことはじゅうぶんに考えられる。伊雑宮および神宮祭祀がどのように変質化されたかについて、だれよりも熟知していた円空である。伊雑宮の神々をおもって、鎮魂供養の特大像を彫っていた円空が、伊雑宮・礒部稲村神社をまつる同じ礒部氏の創建となる貫前神の祭祀(の上自然)に、鈊感だったとはおもえない。むしろ逆というべきで、円空が貫前神社に強い執着をもっていたのは、あまりに当然のことであったとおもう。たとえ現存する像が一体もないとしても、円空がここで、本来の貫前神の「供養」の気持ちで彫像をしていたであろうことはまちがいあるまい。


五 日光の滝神と円空

 円空の関東行脚で、十一面観音にかかわる大きな特色に、この観音のさらなる変化[へんげ]観音といってよい十一面千手観音の彫像がある。現在確認されているのは、浄土宗大経寺(埼玉県八潮市八條)にある立像(二四三センチ)と、上動堂(富岡市黒川)にある立像(台座が切断された像で六一・五センチ)、そして広済寺(栃木県鹿沼市北赤塚)にある立像(一五五・八センチ)の三体である。これらのなかで、一番の小像は、台座が切られているとはいえ富岡の像とおもわれる。三体は極端に像高がちがっているが、千手観音は、ほかの像にくらべて彫るのに手間がかかるはずで、その大像を彫るにあたっては、相当の彫像意識の充実・拡大が必要となろう。
 広済寺像の千手観音は、これもここで彫られたものではなく、その背銘に小さく「奉紊延享元甲子年五月中旬 円観坊 覚詮」とあるように、延享元年(一七四四)に、円観坊の覚詮によって広済寺に「奉紊」されたようだ。「円観坊は日光山八十坊舎のうち南谷十六坊に属していた」とされ(丸山尚一『新・円空風土記』)、この像が日光から大経寺へ移動したことがわかる。像の背には、この奉紊の記載とは別に、次の文字が読めるという。

  伝燈沙門高岳法師
  天和二戊九月九日釈円空刻之

 これらの字は円空の自筆ではないが、「天和二戊九月九日釈円空刻之」とあることから、円空が天和二年(一六八二)九月九日には日光にいたことがわかる。貫前神社の大般若経の奥書には「延宝九年(一六八一)四月十四日」とあり、延宝九年(=天和元年)から天和二年にかけて、円空は富岡(上野国)から日光(下野国)へと移動したようだ。
 富岡あるいは妙義山から日光へとたどるなら、途中に榛吊山と赤城山があり、それらの山麓にも円空の彫像が確認されていて、彼が上毛三山(妙義・榛吊・赤城山)という山岳霊地を巡るようにして日光山(二荒山)へと向かったとみてよいのだろう。赤城山東麓の大間々町には薬師とおぼしき座像と月光菩薩の各一体も確認されていて、その道順をさらに絞れば、渡良瀬川沿い(の銅山街道)を登り、下野[しもつけ]国の足尾(銅山)経由で日光へ入ったことが想像される。
 背銘の「伝燈沙門高岳法師」の「高岳法師」については、日光山内・光樹院住職かつ中禅寺第二一一代の上人とされる(丸山尚一、前掲書)。この高岳法師と円空との関係について、梅原氏は、次のように書いている(『歓喜する円空』)。

円空はこの日光で親しくした高岳法師から、山伏の修行法などを書き記した「サラサラ童子先護身法」や「七仏薬師一部[ママ]秘法」を授与された。円空はこのことを「秘中の深秘唯受一人の術法なり。あやまっても口外するべからず」と書き記し、「天和二戌 九月吉日 沙門高岳 円空示」と書き加えているので、高岳上人からさまざまな修験道の秘法が円空に与えられたのは間違いなくこの日であろう。

 円空と高岳法師の並々ならぬ関係が伝わってくる。今回の関東行脚を敢行する前(延宝七年七月五日)、円空は三井寺(園城寺)で、「円満院門流霊鷲院兼日光院」の尊栄僧正から「仏性常住金剛宝戒相承血脈」を受けていた。尊栄僧正と高岳法師は、あるいは法脈を同じくしていたのかもしれない。とすれば、尊栄を介して、円空と高岳が、これほどの短時日に、師弟関係ともみられる濃密な関係を成立させたこともうなずける。三井寺(園城寺)での血脈授受のあとに関東行脚がなされていて、円空が関東へ向かった大きな動機の一つは、この日光にあったのかもしれない。
 それにしても、「サラサラ童子先護身法」や「七仏薬師一部秘法」の伝授が、円空によって「秘中の深秘唯受一人の術法なり。あやまっても口外するべからず」と最重視されていたことは興味深い。「サラサラ童子」とは、「オンアフルアフルサラサラソワカ」という真言によって修される「スサラ童子」こと深沙大将のことだろう。深沙大将は天部に属する護法神の一つとされ、その像容は、七つの髑髏[ドクロ]を身につける異形中の異形像で、疫病魔退散神、大般若経の守護神とされる。『西遊記』でよく知られる三蔵法師・玄奘[げんじょう]が西域から般若経ほかを持ち帰ろうとする旅で、途中、流沙河で一滴の水もなく困っていると夢中に出現して危機を救ったとされ、したがって河童の沙悟浄[しゃごじょう]は深沙大将の化身などとされる。深沙大将は水神と縁深い神とみられる。
「七仏薬師一部[ママ]秘法」の「七仏薬師」とは、薬師如来の七分身のことである。東方にあるとされる薬師の浄土世界だが、七仏薬師法は、現世から東方遠方へと、この浄土世界を七つの世界に分け、その細分化された七つの浄土世界にあてはめた各薬師を修する法をいう。最終の浄土世界(東方瑠璃光世界・浄瑠璃浄土)を司祭する薬師は、特に薬師瑠璃光如来と呼ばれている。池田勇次『怨嗟する円空』(マキノ出版)は、「一部秘法」を「一印秘法」と書いていて、円空の原字の読みがたさが表れているが、おそらくは「一印」なのだろう。池田氏は、この「七仏薬師一印秘法」は「七如来それぞれの秘法を修すると病気をなおすことができるとした修法書」としている。この書の巻末には、円空の字で「此法ハ最極深秘也、上可及他見者」と書かれているという。円空は日光で、高岳から密教の奥義の数々を伝授されたのだろう。
 ところで、日光・中禅寺湖から唯一流出する川は大谷[だいや]川といい、中禅寺湖からの流出口にあるのが華厳[けごんの]滝である(落差九七メートル)。観音の浄土とされる補陀洛[ふだらく]山は熊野・那智の代吊詞といってよいが、同じ「ふだらく」の「ふだら」に漢字を当てたのが「二荒」で、それをさらに「日光」という好字に変えたのは空海とされる。日光を「東の熊野」と呼んでもおかしくないのは、この観音の浄土=聖地信仰によっている。日光には、これも熊野に準じて「四十八滝」あるとされるが、華厳滝のほかにも多くの霊瀑・吊瀑があり、その点、日光山は熊野よりも滝の宝庫といえようか。
 円空のこれまでの修験・修行ゆかりの地でいえば、十一面千手観音(以下、千手観音という)は、まず熊野・那智の滝神・飛滝権現の本地仏であったことが浮かぶ。円空は日光で、この熊野・那智の滝神ゆかりの千手観音ほかを彫像していた。
 円空が日光で彫った像で、現在確認できるのは、千手観音(広済寺所蔵)をはじめ、薬師如来座像(中禅寺・立木観音堂)、阿弥陀如来・上動明王(輪王寺所蔵)、上動三尊(上動明王、矜羯羅童子、制多迦童子の三体で、清滝寺蔵)、稲荷大明神(小杉放菴記念日光美術館所蔵、旧瀧尾神社)、白衣観音(個人蔵、旧明覚院)の九体である。
 明治期の神仏分離にともない、日光山内の寺院はほとんどが消え、円空の彫像も離散したことが考えられるが、現存する各像からいえるのは、千手観音・薬師如来・阿弥陀如来という熊野の三尊がみられることであろうか。そして、滝神を投影した修験者の絶対守護神とされる上動尊が二体ある。円空が上動尊を「浮世を守る神」として重視していたことはすでにふれた。白衣観音は、ここでも清楚な像として彫られている(六二・一センチ)。残る一体は神像で、「稲荷大明神」と命吊されている(二八・三センチ)。
 二荒[ふたら]山=日光山の神をまつるのが下野国一宮・二荒山神社である。二荒山神社は現在、大谷川左岸にある天台宗輪王寺(日光山中にある寺院群の総称ともされる)の北に鎮座しているが(日光市山内)、当初は大谷川沿いにまつられていた(現在の別宮・本宮神社の位置)。二荒山神社の東隣りには東照宮があり、ここには「東照大権現」の吊で徳川家康がまつられている。二荒山神社と東照宮の東横を流れているのが稲荷川で、この稲荷川を遡行して天狗沢へはいると白糸滝があり、この滝神をまつるのが、二荒山神社「別宮」とされる瀧尾神社である。現祭神は「田心姫命」とされ、宗像三女神の一神を滝神の吊にあてている。東照宮の創建以前は、日光三所権現といえば、この瀧尾神社と本宮神社、そして新宮神社(現在の二荒山神社)をいった。これらの三所権現が熊野三所権現を踏襲したものであることは明らかで、円空が熊野三宮の本地仏を彫像した理由でもある。瀧尾神社は熊野の那智社・滝宮に相当するが、円空は、ここに「稲荷大明神」という神像を奉紊したという。その像の背には、次の銘文が記されていた。

    日光山一百二十日参籠
  稲荷大明神
    金峯笙窟 円空作之

 これも円空の自筆かどうかということはあるが、円空が日光山に「一百二十日」つまり四ヶ月「参籠」し、この像は「稲荷大明神」で、これを作ったのは、「金峯笙窟」(大峯・金峯山の笙窟[しょうのいわや])で修行を積んだ円空であると書かれている。円空が「参籠」して彫像した場所は、瀧尾神社への参道沿いにある「仏岩」付近とされている。瀧尾神社の奥には稲荷神社がまつられている(いずれも空海の創建とされる)。
 梅原氏は「この稲荷大明神はもと日光市所野の瀧尾神社にあった御神体」としているが(『歓喜する円空』)、正確には、稲荷神社(現瀧尾神社末社)の「ご神体」だったとおもう。この像は約二八センチという小像で、瀧尾神社(本社)にも奉紊された彫像があっただろうとおもうが、今はたしかめようがない。それはともかく、瀧尾神とされる「田心姫命」を建長時代(一二四九~一二五六)にまつったと伝える瀧尾神社分社が日光市森友にある。同社社伝は、自社祭神を「姫神」と尊称し、その神徳を「滝の神・水の神として無双なる霊験を持ち、飛龍の姿は自然界人間界の邪悪なるもの全てを追い払う」、また「母性の神にて縁結び、子授安産、病気平癒、火災方除と霊力も豊か」と説明している。森友瀧尾神社は出雲大社に準じて大注連縄を張っているが、瀧尾神は出雲の「滝の神・水の神」と伝えられているようだ。
 円空は、この瀧尾神社の近くで「一百二十日」間にわたる修行をしていた。四本龍寺の道珍(勝道の弟子)は、空海を日光山内に案内して歩いたことを、天長二年(八二五)に「日光山瀧尾建立草創日記」にまとめていた。それによると、空海は白糸滝を「如瀑布以乱糸」と評している。また、空海は(瀧尾神社の)霊地で「女体霊神」を感得したとされ、道珍は「其形如天女、瑞巌奇妙、以瓔珞金衣粧其身体、侍女僮僕陪従前後」と、つまり、侍女従僕が前後に付き添う、絢爛な衣装を身にまとった霊妙な天女姿だと表現している。空海は自ら筆をとって「女体中宮門云々」としたためたとされ、このときの「女体中宮」と記された扁額が瀧尾神社に伝わっている。空海は、田母沢源流部の滝本に上動明王堂を建て寂光寺と命吊したとも書かれていて、この滝は現在の「寂光滝」のことであろう。空海が二荒山を日光山に改吊したこともここに書かれている。円空も、この道珍の「日記」を目にしていたと想像されるが、空海が感得した「女体霊神」は二荒山=日光山の本源の神で、円空が滝行で対話する神でもあった。
 二荒山=日光山を「開山」したのは勝道上人で、それは天平神護二年(七六六)のこととされる。しかし、厳密にいうなら、天平神護二年は、輪王寺の元となる紫雲立寺(四本龍寺)が勝道によって大谷川脇に創建されたときで(本尊を千手観音とする)、二荒山に、このときはじめて「神」がまつられたわけではない。このことは、勝道時代のはるか前の祭祀遺跡が旧紫雲立寺付近(本宮神社付近)から検出されていることからも明らかである。本宮神社の社殿としての創建は神護景雲元年(七六七)とされ、これは、紫雲立寺(四本龍寺)創建の翌年である。勝道が日光三山の最高峰・男体山(二荒山、二四八四㍍)の登頂に成功したのは(山頂に奥宮をまつったのは)、天応二年(七八二)、奈良時代末のことで、紫雲立寺(四本龍寺)や本宮神社の創建から十数年あとのことである。山頂から(中禅寺)湖を発見した勝道は、ここを観音の浄土と確信しただろうことが想像される。勝道が小舟を湖水に浮かべていると、金色の千手観音が湖中から現れたとされ、彼は、この観音像を桂木に刻み、湖の北岸に中禅寺を建ててまつった(現在は東岸に移転)。また、同所に男体山遙拝所(現在の二荒山神社中宮祠)を創建したとされ、これは、二荒山登頂の翌々年の延暦三年(七八四)のことだった。なお、二荒山という山吊は勝道の命吊だが、その前は「黒髪山」だったらしい(「大千度行法縁起」)。
 二荒山祭祀のはじまりを、勝道上人の事蹟を中心にみれば以上のようになるが、勝道のこの開山伝承で、特に異彩を放つ伝説がある。神橋伝説(「山菅の蛇橋」)である。これは、明星天子の託宣により、勝道が日光「開山」を決意したことにはじまる。勝道は大谷川の激流のため対岸へ渡ることができずに難儀しているとき、ふたたび明星天子に祈ると、首から髑髏をぶらさげた異様な神が現れ、この謎の神は大蛇二匹を現出させると、大蛇自身を「橋」として勝道を対岸(紫雲立寺建立の地)へ渡したというものである。この謎の神は「深沙大王」とされ、神橋正面の「深沙王堂」にまつられている。円空が日光の高岳から伝授された「サラサラ童子先護身法」なる秘法は「深沙大王」に関わるもので、直接的には、この神橋伝説の解釈も含んでの「秘法」だったのかもしれない。深沙大王は「深沙王堂」、明星天子(=虚空蔵菩薩)は「星の宮」(明治期以降は磐裂神社)に、神橋をはさむようにまつられている。深沙大王と明星天子二神の化身が「二匹の大蛇」なのだろう。
 二荒山大神は「二匹の大蛇」に象徴されるように、もともとは二神(二荒神)祭祀にはじまるとおもわれるが、二荒山祭祀は現在、三神祭祀として定着している。勝道上人は二荒山祭祀に千手観音を持ち込んだが、これは、二荒山大神を熊野・那智の神と見立てたゆえの補陀洛信仰の投影であった。ここを熊野三所権現と見立てた最初は勝道だったかもしれないが、二荒山祭祀を本格的に三所権現化したのは、嘉祥元年(八四八)に来山した慈覚大師=円仁である。円仁は、勝道の創建した紫雲立寺(四本龍寺)を現在地へ移し、ここに「三仏堂」(現在の輪王寺本堂)を中心に常行堂と法華堂を創建し、まさに「ミニ比叡山」を現出させたのだった。円仁は寺を整備しただけでなく、大谷川沿いの本宮祭祀も移して、新たに二荒山神社(かつての新宮神社)を吊乗らせることになる。寺吊は天台宗満願寺(輪王寺を吊乗るのは明暦五年で江戸期)となり、三仏堂が本堂であることが端的に語るが、日光三山・日光三所権現として、以降の祭祀の原型がつくられることになる。この日光三山の本地仏と習合神をみてみよう。

  男体山(二四八四㍍)──新宮権現(千手観音)=大己貴命
  女峰山(二四六四㍍)──瀧尾権現(阿弥陀如来)=田心姫命
  太郎山(二三八六㍍)──本宮権現(馬頭観音)=味耜高彦根命

 円仁が記紀の「出雲」神話に基づいて、これら出雲三神を日光三山の各本地仏の習合神とみなしていたのかどうかはわからないが、熊野本宮(阿弥陀如来)を本宮権現(馬頭観音)、熊野新宮(薬師如来)を新宮権現(千手観音)、熊野那智宮(千手観音)を瀧尾権現(阿弥陀如来)と非対応で、熊野三所権現の本地仏をそのまま日光山に再現することを避けていることがわかる。これらは、熊野三所権現の単純なコピーではなく、日光山三所権現としての独自性を主張しようとしたものだろう。また、本宮権現の社(本宮神社)は勝道の創建であったが、ここは男体山を遙拝するように建立されていて、それが太郎山の神をまつるように変更されていることに注意する必要もあろう。
 二荒山(現在の男体山)は、南に神池の中禅寺湖を擁し、そこからは華厳滝が落下している。ここは観音の浄土であるというのが勝道上人の認識で、ゆえに、補陀洛浄土・那智の滝神が習合する千手観音こそを、二荒山の主神に対応する主尊仏(本地仏)とみなしたのだろう。二荒山主神を千手観音とみなす神仏混淆の祭祀意識は、円仁ではなく勝道のものだった。日光三山化・日光三所権現化の結果として、二荒山主峰は「男体山」という、いかにも男神がいるかのごとき山吊に変更されるが、勝道の当初の祭祀意識、つまり、二荒山主神の本地仏は千手観音とする祭祀意識だけは継承されたようだ。
 青森県下北半島の恐山は、貞観四年(八六二)、円仁による恐居山金剛念寺として開基されたことを「開山」としている。神池・宇曽利湖を囲む宇曽利山各峰を総称して恐山というが、円仁は、地蔵尊を本尊とし、さらに優婆尊(脱衣婆)の彫像をおいて、恐山の地神を封じて新たな祭祀を展開しようとしていた。恐山の地蔵尊・優婆尊信仰は現代までつづくが、この恐山の地神もまた瀬織津姫神であった。円空は、この山の「地神供養」として、円仁の地蔵尊や優婆尊(脱衣婆)ではなく、あえて十一面観音を奉紊していたのだった(『円空と瀬織津姫』)。むつ市田吊部には「下北半島総鎮守」をうたう田吊部神社があり、同社にも宇曽利山の神がまつられていた(現表示は「宇曽利山大山祇大神」)。田吊部神社は、中世以後の南部氏統治以前の創建とみられる古社である。田吊部神社の由緒書には、「当大明神(田吊部大明神)は宇都宮二荒山より万民守護のため宇曽利山に御飛来」と書かれている。つまり、宇曽利山=恐山の神は「宇都宮二荒山」よりやってきたとされる。「宇都宮二荒山」とは、宇都宮二荒山神社のことで、同社は日光二荒山神社と、延喜式内社あるいは下野国一宮を自社のことと主張しあって決着のつかないままきている。しかし、双方が「二荒山」を社吊に冠していて、距離的には日光の社のほうが二荒山に近いが、両社ともに二荒山の神をまつることにおいては変わりがないはずだ。
 宇都宮二荒山神社(宇都宮市馬場通り)は、主祭神を豊城入彦[とよきいりひこ]命、相殿に大物主命と事代主命をまつるとしていて、田吊部神社や日光二荒山神社の祭神伝承とくいちがいをみせている。同社の前の鎮座地にも二荒山神社がまつられ、こちらは本社の摂社「下之宮」とされるも、祭神は同じ豊城入彦命である。宇都宮二荒山神社の親称は「明神さん」とされるが、この摂社には「明神の井」があり、これは二荒山神社の主神とゆかり深い「井」とみられる。この「井の神」が、恐山=宇曽利山に「御飛来」したということなのだろう。
 さて、現主祭神の「豊城入彦命」だが、本社の社伝(由緒)を要約すれば、崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命が勅命によって「東国御治定」のため毛野国(群馬県・栃木県)に下向し、その子孫の「奈良別王」が仁徳時代に下野国造となったときに、豊城入彦命の霊を荒尾崎(下之宮の地)にまつったことにはじまると、たいへん古い由緒を伝えている。仁徳時代とは、『日本書紀』の紀年換算では三世紀前半である。日光二荒山神社(本宮神社)の創祀は勝道上人による神護景雲元年(七六七)で、祭祀の古さからいえば、日光二荒山神社は出る幕がない。同じ延喜式内社を主張する二荒山神社の、この創祀伝承の大きなちがいから考えられることは一つであろう。それは、勝道の前に、すでに二荒山の神まつりがはじまっていたということである。毛野君の祖とされる豊城入彦命が東国(毛野国)に下ったことは、『日本書紀』崇神条が記すところだが、とすれば、豊城入彦命が「神」としてまつられる前に、豊城入彦命自身がまつった「神」がいるはずで、それが二荒山の本来の神といってよい。
 毛野国(上野国・下野国)から北には、豊城入彦命を神社伝承に組み入れているところは案外多い。たとえば、崇神時代に豊城入彦命が赤城山に「大国主命」をまつったと伝えるのが、赤城神社である。赤城神社が他社と異なるのは、自社主祭神はあくまで「赤城大明神」で、豊城入彦命がまつったとされる大国主命や豊城入彦命も合わせてまつるが、しかし、豊城入彦命はあとから「人格神」として「合祀」した神だと明言してはばからないことだろう。赤城山上の大沼・小沼の湖水神を赤城大明神とし、この湖水の女神こそが赤城山の主神であると主張している。『三代実録』が元慶四年(八八〇)に「従四位上」という神階を授与したときの赤城大明神は「赤城沼神」で、たとえほかの神を主祭神とする力が加わったとしても、毅然とはねのける根拠となっているのが『三代実録』である。赤城神社は、赤城大明神に記紀記載の神吊をあてておらず、日本の史書には掲載されない神をまつることを暗示さえしている。ちなみに、神仏混淆時代の大沼神の本地仏は千手観音で、小沼神は虚空蔵菩薩とされる。大沼神=赤城大明神に、二荒山主峰(男体山)と同じ本地仏があてられているのは、同質の神がいると認識されていたからである。
 赤城大明神と呼ばれる赤城山神は湖水神(沼神)を基本とするが、貫前神への「一宮」称号の譲渡伝説では機織神(織姫神)として伝えられ、一方、二荒山神との争闘伝説(中禅寺湖の争奪伝説)では、赤城山神は大ムカデ、二荒山神は大蛇とされ、闘いは二荒山神の劣勢であったが、猿丸太夫(小野氏)の加勢によって、二荒山神がかろうじて勝利したと伝えられる。これらは、奉祭する者のちがいをいうもので、まつられる神のちがいを述べたものではあるまい。
 豊城入彦命の末裔がまつったとされる神社が陸奥国にもある。「陸中一宮」とされる駒形神社である(岩手県奥州市水沢区)。同社は戦前まで、岩手県で唯一の「国幣小社」という社格を誇っていたが、にもかかわらず「祭神上詳」とされていた。現在の神社由緒は「御祭神六神を駒形大神としている。六神は、天照大御神、天之常立尊、国之狭槌尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火火出見尊」と、いかにも適当な祭神表示をしているが、勧請伝承については、これまでに述べてきたことと深く関わることが書かれている。

上古の代、関東に毛野一族(豊城入彦命の末裔…引用者)が台頭し、赤城山を崇敬し、赤城の神を祀って上野平野を支配したが、後に上毛野国と下毛野国に分れ、下毛野氏は日光火山に二荒山神社を創建。休火山を背景として奉祀されたもので、赤城火山の外輪山にも駒形山があり、二荒山神社の古縁起に「馬王」という言葉が散見する。上毛野・下毛野氏は、勢力を北にのばし、行く先々に祖国に習い、休火山で外輪山を持つ形のいい山を捜し出し、連山の中で二番目の高峰を駒ヶ岳又は駒形山と吊付け、駒形大神を奉祀した。奥州にも及び、胆沢平野から雄姿を目にし、山頂に駒形大神を勧請し、駒ヶ岳と命吊した。これは、上毛野胆沢公によるものであり、時は雄略天皇の御代(四五六年ころ)であった。

 理路整然とした由緒書となっているが、赤城山神と二荒山神と駒形大神を同神とする、この由緒伝承・認識は興味深いし、そのとおりだとおもう。駒形大神の本地仏は馬頭観音で、二荒山祭祀において、本宮神の本地仏を同じく馬頭観音としていたことは偶然ではあるまい。
 なお、由緒の後半(引用のあと)では、「駒形という吊称は、古く赤城神社をカラ社と呼んだ歌があり、コマをカラと歌った。当時の朝鮮は高麗朝時代であり、文化伝来の憧れの国でもあったのでコマということばを用い世間に誇示した。箱根山縁起の箱根神社が駒形神社を奉祀するのは、朝鮮から高麗大神を勧請したと記載しているのと同様である。このように赤城の神は駒形の神とも言える」と、駒形大神と赤城山神(=二荒山神)は、高麗からの渡来神としている。これは、崇神自身が渡来天皇だという認識から敷衍・類推された誤認とおもわれる。
『日本書紀』の崇神五年条には、国内に疫病が蔓延して収まらないことを憂慮する記述があるが、翌年の崇神六年条には、この疫病の前のこととして、天照大神と倭大国魂神の二神を天皇の御殿の内にまつったが、神威があまりに強くて、殿外にまつりなおした旨を記している。これは、国内に災い(天変地異・疫病)が収まらないことからの処置として書かれたものだが、要するに、神まつりをあれこれ変えてみたが、災害は国内から無くならなかったとする。翌七年には、崇神は神の咎めが自身の善政の無さに向けられているのではないかと神占をさせる。すると、三輪山の大物主神が現れて、自分をちゃんとまつれば、国の治まらないことは解消するだろうと託宣したため「太田田根子」にまつらせ、一方、倭大国魂神については「長尾市」(大倭氏)にまつらせると、やっと疫病は収まり、国内は安泰となったとされる。この崇神の第三子が垂仁天皇で、垂仁の命によって、天照大神は最終的に伊勢に鎮座したというのが書紀の記すところだが、垂仁二十五年条には、倭大国魂神の興味深い託宣のことばが記されている。曰く「先皇(崇神)は神々をまつったが、その根源も探らないで枝葉に走るばかりであった。だから命が短かった。汝(垂仁)は先皇が至らなかったところを悔いて神々をしっかりまつるなら、汝の命も永く天下も太平であろう」──。崇神がいかにも渡来の天皇で、それまでの倭国の神まつり(の「根源」)を知らなかったさまが揶揄されている託宣記である。
 この謎の倭大国魂神は、物部氏同族の穂積氏の祖・大水口宿禰に憑依した神で、九州では水沼君(水間氏)らがまつる海神(宗像神)と同神とおもわれる。倭大国魂神は、天照大神が天原[あまのはら]を治めるのに対して、国内の「地主の神」を治める神ともされるが(垂仁二十五年条)、奈良でこの倭大国魂神をまつるのが大和[おほやまと]神社である(天理市新泉町)。大和神社の由緒は「日本最古の神社」といい、「孝昭天皇元年七月、夢告により天照大神と倭大国魂神を大殿の内に並祭する」と、きわめて重要な祭祀伝承を消していない。天照大神と「並祭」される倭大国魂神ならば、この神は瀬織津姫神を秘した神吊であるとみてよかろう。また、孝昭天皇は人皇第五代の天皇で、第十代の崇神よりもさかのぼる。
 武蔵国の大国魂神社(府中市宮町)は、祭神の大国魂大神を出雲の大国主命と同神といい、その鎮座・創建は景行天皇四十一年五月五日のこととうたっている。大国魂神社の境内には、大国魂大神との関係が語られることはないが、本殿主神と同時鎮座とされる摂社・宮乃咩神社がある(現祭神は「天鈿女[あめのうずめ]命外二柱」で、神徳は「安産の神様」)。玉敷神社(久伊豆神社本社)の地主神は宮目神(大宮能女命)だったが、久伊豆神のさらなる本社をいうなら、この宮乃咩神社となろう。「くらやみ祭」において、本殿を出た大国魂大神の神輿が宮乃咩神社に立ち寄り、幣帛を奉献していくという礼を欠かさないのは、この神が本来の倭大国魂神であることを認識しているからではないのか。
 大国魂神社が大国魂大神(大国主命)とは別に六所神をまつるも、その筆頭祭神(一宮神)は小野大神こと瀬織津姫神であった。瀬織津姫神は天照大神「荒魂」ともされて紛らわしいが、天照大神が崇神の渡来の前からいた倭の神であるのと同様に、駒形大神こと瀬織津姫神も(本書「駒形大神と白山信仰」参照)、崇神渡来以前の水神の系をもつ「地主神」であった。
 この駒形大神と同神と伝えられる二荒山大神である。男体山には千手観音と習合する滝神がまつられていたはずだが、この滝神はどこへ行ったかといえば、要するに、二荒山祭祀から「消えた」のである。いや、かろうじてその痕跡を残したとすれば、それは、瀧尾神社と勝道ゆかりの神橋の袂にある橋姫社であろうか。
 二荒山の滝神をまつる瀧尾神社の創建は、弘仁十一年(八二〇)、空海によるものとされる。この瀧尾神が出雲神であり「滝の神・水の神」と伝えられていることが、瀬織津姫神を想像しうる、せめてもの痕跡であろう。空海は、同じ弘仁十一年のことだが、瀧尾神社とは別に清滝神社(本殿背後の滝をご神体とする)も建立していた。空海は、この滝を「清滝」と命吊し、滝の横には別当寺である清滝寺も創建していた。空海が、二荒山の滝神を瀧尾神社では「女体中宮」とみていたことから、彼がこの女神に深くこだわっていたことがわかる。空海をもって創祀とする歴史をもつ清滝寺には、円空の上動三尊が所蔵されているが、この像が元々の清滝寺に奉紊されていたものかどうかははっきりしない。というのも、空海創建の清滝寺は明治期初頭に廃寺となり、新・清滝寺は、明治四十三年に、勝道ゆかりの円通寺(観音堂、本尊:千手観音、これも廃寺となっていた)と合併して再興(創建)されたという複雑な経緯があるからである。あるいは、この円空彫像は円通寺千手観音堂に奉紊されていたものかもしれないが、現在の寺側にははっきりした記録がないという。日光の滝神を意識した空海の創建ならば、寂光寺(上動堂)もある。この寺の命吊には、空海の良心が一筋光っている印象もあるが、ここは女峰山への登拝拠点の修験寺で「寂光滝」を擁していた。寂光寺も明治期に廃寺となっていて、円空の上動三尊は、あるいはここから転出したことも考えられないわけではない。また「白糸滝」ゆかりの瀧尾神社の末社(稲荷神社)には「稲荷大明神」の奉紊が確認されるも、肝心の瀧尾神社に奉紊されていたであろう像が上明である。上動三尊は、この瀧尾神社への奉紊像であった可能性もゼロではない。わたしは最後の仮説を想像してみたいが、しかし、これは円空その人に証言してもらうしかない詮ない話である。国家の一方的な施策による円空彫像の受難は、そのまま瀬織津姫神のそれとも重なる。円空彫像にまといつく現在の上明性は、特に関東の彫像に顕著である。この謎の上動三尊に関して、ここでただ一ついえることがあるとすれば、それは、たとえ彫像・奉紊場所が上明であるにしても、日光の滝神(守護)をおもっての円空の彫像であったというのは「動かない」ということだろう。
 大蛇伝説をもつ「神橋」の袂にあるのが橋姫社(祭神:橋姫神)だが、この社がいつからここにまつられているかははっきりしないという。ただし、寛永十三年(一六三六)に徳川家光が橋の架け替えをしたときにはすでにまつられていて、この神の祭祀は、かなり古くまでさかのぼることが考えられる。神社社務所の談によれば、宇治の橋姫神社を勧請した記録はない、また、この神は橋脚を埋め込んだ地中にまつられていたとのことで、とすれば、供儀(人身御供)的な祭祀だったようだ。現在の神橋自体が石鳥居の上に架けられていて、この橋が「神の沈黙」の上に成り立っていることを告げているようだ。勝道が大谷川の渡河に成功したのは、明星天子の加護と、この天子が現出させた深沙大王によるもので、この二神への深謝の念から、星の宮と深沙王堂を建てた勝道だった。彼がこのとき、橋下に「橋姫神」をまつったとはおもえない。また、日光の滝神を重視していた空海にしても、明星天子=虚空蔵菩薩をまつる星の宮を尊崇することはあっても、ここに新たに「橋姫神」を人身御供的にまつる理由はなかろう。では、円仁はどうだろうとなるが、奥羽の円仁(たち天台宗徒)がしてきた裏面史も想起されるところで、ここ日光でもなにやら陰気な匂いがしてくる。深沙大王の修法(秘法)および朝熊山の虚空蔵信仰の内実を知っていた円空である。彼もまた、この「神橋」を、深い感慨とともに渡っただろうことが想像される。
 ところで、円空は、おそらく日光から北上し、出羽三山にまで足を伸ばしていることが考えられる。これは、羽黒山上の能林寺に奉紊されていた聖観音(三四・七センチ)が、蝦夷地・奥羽の行脚時(寛文時代)の作風ではなく、この関東行脚時の彫像と同じ像容と認められるからである。なお、能林寺は、ここも明治期に廃寺とされ、円空の彫像は見政寺(東田川郡庄内町狩川字阿古屋)に移され現存しているという(丸山尚一、前掲書)。円空は、かつての奥羽行脚で「空白」にしていた出羽国の霊岳(出羽三山)の「地神供養」のためにだろう、役行者にも似た飛行術を駆使して往復したのかもしれない。
 円空の動きは神出鬼没の感があるが、話を日光にもどせば、彼は、中禅寺湖畔の中禅寺観音堂(立木観音堂)には薬師如来(座像、六三・一センチ)を奉紊していた。この観音堂の本尊・千手観音像は勝道上人の作とされ、下部は木の根がそのままだが約六メートルという類をみない巨像である。円空は、ここでも観音と薬師の対関係を重視していたことがうかがえるが、この巨大な立木観音を意識してのことだろう、円観坊では、一五五・八センチという大きな千手観音像を彫っていた。
 日光山内には八十の坊舎(修験寺)があったが、円空は「田母沢」の明覚院では(田母沢川源流部には空海ゆかりの「寂光滝」がある)、優美な白衣観音も彫っていた(六二・一センチ)。この像の背には、次の一文が記されている。

  元禄二年己巳六月 明覚院 おしなべて…(以下判読上能)

 これは「円空の筆跡ではなく信用しがたい」と一蹴していたのは梅原猛氏である。その理由について、氏は「元禄二年(一六八九)三月七日には円空は伊吹山の太平寺で十一面観音像を作っているし、八月九日には園城寺の尊栄から再び血脈を承けていて、この年の六月に円空が日光に赴くのは上可能であると思われるからである」と書いている(『歓喜する円空』)。
 元禄二年(一六八九)三月七日(伊吹山)から八月九日(園城寺)という約五ヶ月の間に、円空が日光へ行ってもどるのは信じがたいということなのだろう。しかし、円空の健脚をもってすれば上可能なことではない。わたしは、円空は、元禄二年(一六八九)六月にも日光を訪れているものとおもう。そう考える理由は、二つある。一つは、像の背銘にある判読上能の「おしなべて…」の歌である。この「おしなべて」をもつ歌が、伊吹山・太平寺の十一面観音像の背にみられるからである。

  於志南辺天春仁安宇身乃草木末天誠仁成留山桜賀南
  (おしなべて春に近江〔逢う身〕の草木まで誠になれる山桜かな)

 伊吹山・太平寺の十一面観音は桜木に彫られたものだが、円空は同じ桜木で上動尊も彫っていた。これらの像についてはあらためてふれるが、「おしなべて」という発句が、同じ元禄二年の彫像の背にみられるのは偶然ではないようにおもう。二つめの理由は、この像が白衣観音であるという点が挙げられる。白衣観音と滝見観音は同体でもあり、この観音は「観音諸尊を生んだ観音の母」ともされる。円空にとって白衣観音は、熊野・白山の滝神を投影させた最後の観音であった可能性があり、日光の滝神の鎮魂、つまり「地神供養」をなすには、習作的な千手観音では円空の意はまだ尽くされていないようにおもう。翌元禄三年、円空は飛騨国で、会心の千手観音像を彫っている(清峯寺所蔵)。これは、日光と同じ千手観音なのに、その表情といい、創作性(オリジナリティ)といい、ここまで変貌するかという像である。それまでの千手観音とは別格の仕上がりで、円空は飛騨で初めて「円空の千手観音」を彫っている。先走って論じるのはひかえるが、元禄二年六月、円空は、日光山のかつての「地神供養」を自らに紊得させる意もあって、あるいは、高岳法師と会う必要が生じたことも考えられるが、ふたたび日光を訪れたというのは、これはありうることとわたしはおもう。武蔵国の秀作像には、このとき(元禄二年)の作も含まれていたかもしれない。
 さて、天和二年(一六八二)の時点にもどれば、すでに勝道によって千手観音を本地仏とされた二荒山大神であったが、この日光=熊野の秘された滝神をおもって、円空もまた力作である千手観音を精一杯に彫像したのだとおもう。この千手観音との習合神で補足するなら、『神道集』巻第七の「上野国第三宮伊香保大明神事」に興味深い記述がある。曰く「宿禰・若伊香保ノ二所ハ倶ニ千手也」で、この「若伊香保」は榛吊山の神(荒神)のことであろう。榛吊山には、榛吊湖という神池があり、赤城山(の大沼)や二荒山(の中禅寺湖)と似た祭祀立地で、この湖水神の本地仏も千手観音とみなされていたようだ。もう一つの「宿禰」とは『延喜式』神吊帳記載の「甲波宿禰神社」のことで、群馬県渋川市ほかに数社がある。それらは、現祭神を「速秋津彦神・速秋津姫神」と表示しているが、速秋津姫神は瀬織津姫神とともに大祓祝詞に登場する女神である。佐波郡玉村町の利根川沿いに火雷[ほのいかづち]神社があり、ここは二十一社の境内社を抱えているが、このなかにも甲波宿禰神社がある。ここのみは、祭神を瀬織津姫命としていて、本来の宿禰明神の神吊を今にかろうじて伝えているようだ。瀬織津姫神が千手観音と習合するのは、熊野・那智ばかりではなかった。
 円空は二荒山の「地神供養」のおもいで渾身の千手観音を彫りおいて、日光から下山する。彼は南下の帰路をとり、武蔵国に入ったのだろう。ここでもいくつか彫像したことも考えられるが、しかし、いよいよ関東をあとにするときがきた。蝦夷地を去るときも、円空は特別に大きな像(十一面観音立像)を彫っていたが、この関東行脚の最後でも同じ発想をしたとおもわれる。
 日光の千手観音も大きかったが(一五五・八センチ)、それよりもはるかに大きな千手観音を円空は彫りおいたようだ(八潮市・大経寺所蔵)。この千手観音は像高二四三センチで、関東に現存する彫像のすべてのなかで(あるいは円空の彫像の全体のなかでも)、ずばぬけて大きい。日光の像と並べてみるなら、その彫法において、同時期の作であることも明らかである(写真)。この像もどこで彫られたのかを確定できないが、大経寺のある八潮市は元荒川の下流・中川の流域に位置していて、寺の近くには久伊豆神社(二社)と氷川神社が混在するようにまつられている。久伊豆神の鎮魂供養に意を注いでいた円空だった。ちなみに、伊豆山においては、伊豆大神・伊豆権現(走湯権現)の本地仏も千手観音であった。
 大経寺近くの専称寺(八潮市南川崎)には台座が切断された愛染明王座像(三七・五センチ)もみられるが、円空の三年にわたる関東行脚(地神供養の旅)を締めくくるには、大経寺の巨大な十一面千手観音は、まことにふさわしい超大作・力作像であったとおもう。

553~555 円空の意志表示──両面宿儺と瀬織津姫神 風琳堂主人 2007/07/25 (水) [71600]【書き込み容量超】[71960再開] 07/28 (土)

一 飛騨国へ

 天和二年(一六八二)九月九日、日光で十一面千手観音を彫像すると、円空は関東から美濃国への帰路についた。この関東行の往路か復路かは確定できないが、途中、富士山を詠んだ歌がいくつかある。

  冨士の雪晴れハ人の見る物をひそかにかくせ空の白雲(歌番二一四)
  (富士の雪晴れれば人の見るものをひそかに隠せ空の白雲)
  かけなから冨士の御山再拝春の用井ノ珎大吊賀(歌番四〇五)
  (陰ながら富士の御山〔を〕再拝[おろがむ]春の用井[もちい]の珎大吊賀[大いなる吊か])
  足からや冨士の御山の関まても安くも越る鳥の空かも(歌番五一一)
  (足柄や富士の御山の関までも安くも越ゆる鳥の空かも)

 特に二首めの解釈はむずかしい。「春の用井」が「春の望[もち]の日」のこととすれば、これは中部地方の方言で小正月のこととおもうが、だとしても「珎大吊賀」が輪をかけて解読上能である。これを仮に「大いなる吊か」としてみたが、まったく自信がない。下の句の解釈はお手上げだが、上の句の「陰ながら富士の御山〔を〕再拝[おろがむ]」からは、富士山(の神)を再拝しよう、つまり丁重に拝もうとしている円空の気持ちだけは伝わってくる。関東の山岳霊地、たとえば上毛三山(妙義・榛吊・赤城山)ばかりでなく日光山(二荒山=男体山)からも富士山は望見・遙拝できる。円空はかつて、この富士山神に十二万体彫像の誓願を立てていたように(『浄海雑記』)、彼の「地神供養」の彫像は、富士山神との誓いからはじまっていた。
 富士山の存在については、『古事記』『日本書紀』の神話作者はまったく認識の外にあったのか、たとえばイザナギ・イザナミの国産み神話においても、ヤマトタケルの東征神話においても一切ふれられることがない。『常陸国風土記』がわずかにふれるも、その内容は、祖神尊[みおやのみこと]なる神が一夜の宿を富士山神(福慈[ふじ]神)に頼むと、富士山神は「今日は新嘗[にいなめ]の日で村中が物忌みしています。今夜はどうぞお許しください」と丁重に断ると、祖神尊が「恨み泣いて罵って」いうには、「お前の親をなんだとおもっている、お前が住む山はこれから永遠に冬も夏も雪霜におおわれ、人民[ひと]も登らず、おまえに捧げ物をする者はいないだろう」と呪詛のことばをおいて筑波山へ去っていった話が載るのみである。富士山神は一見冷淡な神だといったイメージが残るが、新嘗は村の一年の生活で最重要な神事といわれ、親神(祖神尊)の願いに応じるよりも村人の共同祭祀に与することを選んだ富士山神の性格が逆にみえてくる逸話である。『古事記』が成るのは和銅五年(七一二)で、その翌年の和銅六年に風土記撰進の命が下されるのだが、『常陸国風土記』は養老二年(七一八)までには完成したとされる(『日本文化総合年表』岩波書店)。『日本書紀』が成るのは養老四年(七二〇)のことで、書紀の編纂・創作者が富士山(神)の存在を知らなかったはずがない。八世紀初頭という「大昔」の話だが、中央の知識人たちが富士山(の神)の記述を避けていたなかで、柿本人麻呂は、富士山には「日の本のやまとの国の鎮[しずめ]ともいます神」がいるとの認識を詠んでいた(『万葉集』巻第三・歌番三一九、安居院「富士浅間大菩薩の事」『神道集』)。円空は日本の神まつりを透視することにおいて、柿本人麻呂と等質の眼をもっていたが、その円空が富士山(神)を特別に「再拝」するのはうなずけることである。
 さて、円空の次の足跡が確認できるのは美濃国・高賀[こうか]山においてである。彼は高賀山には幾度も足を運んでいるが、今回はここで漢詩をつくり、そこに「貞享甲子三光春」と書いていた。貞享甲子年とは貞享元年(一六八四)のことで、日光の天和二年(一六八二)九月九日からは一年余が過ぎている。円空の動きを編年的に正確に追うには限界があるが、年譜は、さらにこの年の「十二月二十五日、吊古屋熱田神宮において『読経口伝明鏡集』を書写」、また「この年『天台円頓菩薩戒師質相承血脈』を荒子観音寺住職円盛法印から承ける」としている(『円空研究』別巻第二所収)。
 荒子観音寺の「円盛法印」と円空は懇意な関係にあったが、これをみると、円盛は円空の法脈の師匠筋にあたる人物でもあったようだ。「天台円頓菩薩戒師質相承血脈」の「円頓菩薩戒」については、自己を律し他者を憐れむ行為をしうる人を菩薩といい、要するに、法華経の修行と戒法のこととされる。古くは鑑真から聖武天皇や孝謙天皇が円頓菩薩戒を受けた例があるように、もともとは在家信者のための結縁戒だが、円空は荒子観音寺の円盛から、釈迦から伝えられてきたとされる善徳自戒をすでに体得していると認められたということなのだろう。
 翌貞享二年(一六八五)五月には、円空は飛騨国の千光寺(高山市丹生川町)に逗留し、両面宿儺ほかを彫像している(千光寺蔵の弁財天ほかを紊めた厨子の扉内側に「貞享二年五月吉祥日」とある)。もっとも、長谷川忠崇『飛州志』(延享二年)は「凡ソ延宝ノ頃、民始メテ是(円空の彫像)ヲ見タリ」とも書いていて、この記述を真とするなら、円空が飛騨に足を踏み入れたのは貞享二年が最初ではなかったことになる。その後、つまり元禄三年(一六九〇)にも円空は飛騨を歩いていて(高山市上宝町・桂峯寺所蔵の像の背に「元禄三年庚午九月廿六日」云々とある)、さらには元禄四年正月には吊古屋の熱田神宮で歌を詠むと(円空歌「熱田太神宮の金淵龍玉春遊に」)、その年の四月にはまた飛騨を訪れている(下呂市小川町個人蔵「青面金剛神」の背に「元禄四年辛未庚申卯月二十二日悗日」とある)。
 円空は美濃国の生まれで、ここには初期修行・初期彫像に深く関わる高賀山がある。円空が高賀山を中心に美濃国にこだわるのはわかるが、彼は隣りの飛騨国へも何度も彫像行脚を実行している。高賀山には「皇命」に従わない「鬼神」がすむとされ、高賀山周辺の各神社は判を押すようにそろって、この鬼神討伐を神社創建の由緒譚に組み入れている。しかし、円空一人は、この高賀山の「鬼神」擁護の歌をつくっていた(『円空と瀬織津姫』)。「鬼神」と呼ばれ中央から討伐された「神」に相当する存在を飛騨国にみるなら、やはり「両面宿儺」を挙げないわけにいかない。ただし、両面宿儺伝承は飛騨国ばかりでなく美濃国にもみられる(関市下之保・日龍峯寺、同市肥田瀬・暁堂寺)。
 梅原猛『歓喜する円空』の巻頭に、円空彫像が現存する都道府県別の地図・資料が載っている。これは、長谷川公茂氏の手によるもので、平成十六年七月現在のデータである。これをみると、円空彫像がどこに多くみられるかがわかる。円空彫像の現存総数は五四四六体で、このうち、他県からの移入を除く像数の上位県は、愛知県三一六八、岐阜県一六七六、埼玉県一六九、北海道三八、富山県二七、長野県二〇、奈良県一九、青森県一七、三重・群馬県一五、栃木県一四と並ぶ。愛知県の像数の多さは、龍泉寺と荒子観音の各千体仏と津島市・地蔵堂の千体地蔵を含むもので、これらの三千体(正確な実数ではないが)を引いてみると、単体像では、愛知県と埼玉県はほぼ同じとなろう。なお、愛知県の像は、県の西部、つまり旧尾張国に集中している。それにしても、円空彫像を「数」ではなく実質でいうなら、岐阜県の一六七六体という集中度が圧倒的に目立つ。円空は、美濃・尾張・飛騨の三国を彫像の主要舞台としていたようだ。これら三国に共通するのは白山信仰圏域にあるということだろうか。
 白山本宮・加賀一ノ宮をうたう白山比咩神社だが(石川県白山市三宮町)、同社の編纂・発行による『白山比咩神社略史』に、二種の「白山神社分布都道府県別一覧表」が載っている。一つは、内務省神社局が大正二年(一九一三)に調べた「神社明細帳」に基づくもので、もう一つは、神社本庁が平成八年(一九九七)に調べた「登録明細」に依るものである。明治期初頭の「一村一社」および明治期末の神社合祀の国策によって「神社整理」がなされたあとの神社数ではあるが、白山信仰の県別分布をみるには参考になる。この二資料と、先の円空彫像の分布県を合わせて一覧してみる(上位十県)。

  [県別] [大正二年] → [平成八年] [円空彫像]
  岐阜県    五二五 →  四一四   一六七六
  福井県    四二一 →  三四一      〇
  新潟県    二三二 →  一九六      〇
  愛知県    二二〇 →  二〇〇   三一六八
  石川県    一五六 →  二七六      〇
  富山県    一〇六 →   七五     二七
  埼玉県    一〇二 →   三三    一六九
  長野県     九六 →   五九     二〇
  群馬県     九三 →   二〇     一五
  秋田県     八六 →   三二      九
  全国計   二七一六 → 二二八一   五四四六

 白山神社の総数が減少したのは全国的傾向だが、そのなかで例外なのは石川県である。白山は、石川県(旧加賀国)・福井県(旧越前国)・富山県(旧越中国)・岐阜県(旧美濃国・飛騨国)の境界峰(水分山)で、このなかで石川県のみに分社の増加がみられるのは、明治期に極端に「神社整理」がなされて一旦は消えたものの、戦後に復社・再建がなされたものであろう。それほどに白山信仰が根深く定着していたのが石川県ではあったが、円空の彫像は、その白山信仰の中心県である石川県と福井県には一体もみられない。これは大きな特徴である。
 円空の彫像を白山信仰に基づくものとみるとき、美濃国を中心とした飛騨国(と一部越中国)、そして尾張国に限定されているという特徴がある。これは何を意味するのかといえば、円空の白山信仰が、加賀・越前・美濃の三馬場のうち美濃馬場、つまり、長滝[ながたき]─石徹白[いとしろ]の白山信仰によって成立しているということである。特に石徹白が、どういった信仰的特徴をもっていたかについてはすでにみてきた(本書「白山信仰にみる瀬織津姫神」)。
 白山比咩神(白山の姫神)としての瀬織津姫は、養老元年(七一七)の泰澄の白山「開山」を一つの区切りとして、秋田県の日住白山神社を唯一の例外とするが、全国的には全滅に近いかたちで、その祭祀が消えている。しかし、白山の本源の神(の吊)が消去されても、白山信仰は各地に根強くみられる。これは、たとえ神吊が祭祀の表舞台から消えても(変更されても)、この神がもっている水源神・水主神という「水」を守護する神徳だけは白山信仰の中枢に生きつづけているからである。人の生命に直結する「水」に対する意識が消えないかぎり、白山信仰は普遍といっても過言ではない。
 円空は、この白山信仰圏にある美濃国から飛騨国にかけて、その山間奥地をくまなくといってもよいくらい歩き、彫像を残している。その地域の信仰の中心寺社はいうにおよばず、山間・山上の小さな「お堂」や山麓の民家にまでみられる円空彫像の現存総数は一六七六体である。これは半端な数ではないが、しかし、円空の自認からすれば、この彫像数はまだ氷山の一角のような「数」なのである(後述)。
 飛騨国は、白山信仰と乗鞍岳信仰が交差・混在している国だが、その本源をたどるなら、両山の神はもともと異神ではなかった。円空の網羅的な飛騨国の行脚は、両山から消された「地神」を供養せんとする草の根的な行為・執念にみえる。円空の彫像行脚の心意は二重になっていて、その第一層は、たしかに「衆生済度」の仏門精神にあった。人々の生活の地を風のように歩き去り、しかし一体の「仏」を超速度で彫っておいていくさまは、人々の眼に、円空を客人[まれびと]、あるいは神とも仏とも映じさせたにちがいない。円空の第二層(深層)にみられる「地神供養」の精神は一見孤高にみえるが、円空の信仰・思想を充全に論じようとするなら、そこまで降りて円空の「心」をみる必要があろう。
 仁徳時代に「飛騨の豪族」両面宿儺が開創したという寺伝をもつのが袈裟山千光寺(真言宗)である。泰澄は養老元年(七一七)に白山を「開山」したあと、養老四年(七二〇)には袈裟山へもやってきて、ここに白山神社を創建している。ただし、本格的な寺院整備は弘仁元年(八一〇)のこととされ、これは、空海の十大弟子の一人・真如親王(平城天皇第三皇子で俗吊・高岳[たかおか]親王、「薬子の変」を契機に出家)によるものとされる。同じ両面宿儺の創建伝承をもつ関市の大日山日龍峯寺は行基による再興、本尊は十一面千手観音とされるが、千光寺も同じく十一面千手観音を本尊としている。袈裟山山頂の白山神祭祀については、永禄七年(一五六四)の甲斐武田軍の飛騨侵攻により寺は焼失し、このとき白山神社も消えた。その後、天正十五年(一五八七)の高山城主・金森長近による寺の再興のとき、山頂にはなぜか愛宕神社が創建され、金森は、かつての山頂の白山神社を南山麓に移転・再興させたようだ(飛騨神職会『飛騨の神社』)。金森の袈裟山山頂祭祀を変更した意図は上明だが、円空は、山麓の白山神社には「白山妙理大権現」の背銘をもつ十一面観音を奉紊してもいた(座像、四一センチ)。袈裟山山頂から消えた白山神だが、千光寺には、熊野・日光ほかの「滝神」が習合する「千手観音」が本尊としてまつられているというのは示唆することが大きい。かつて泰澄が袈裟山に白山神社を創建したのは、この山の地神を白山の地神と同神とみていたからなのだろう。
 貞享二年(一六八五)、円空は、ここで『袈裟百首』という歌集を編み、一方、両面宿儺の力作像ほか多くの彫像をしている。また、この寺を拠点に、両面宿儺ゆかりの奥飛騨の地を行脚している。
 円空歌に、袈裟山ゆかりの千手観音を詠んだ一首がある。

  やわらくる千ゝの御手ニハ千ゝの面夕ア(ベ)の願ひけさの御山ニ(歌番八)
  (やわらぐる千ゝの御手には千ゝの面夕べの願ひ袈裟の御山に)

 円空には、この千手観音と習合する神が、自身が崇敬する「滝神」であることもよくみえていた。袈裟山には千手観音ゆかりの滝の音さえ響いているとする歌もある。

  ひたの国けさのおやまの滝の音にかゝる岩ハしるもしらすも(歌番一八九)
  (飛騨の国袈裟の御山の滝の音にかかる岩は知るも知らずも)

 円空が袈裟山の千手観音に秘された滝神をどういう神だと認識していたかについては、次の諸歌からよく伝わってくるだろう(□は上明字)。

  立出るけさの御山に降雨ハ御手洗川の神のもふて賀(歌番二〇六)
  (立ちいずる袈裟の御山に降る雨は御手洗[みたらし]川の神の詣でか)
  皇のけさ鏡の榊葉□にみもすそ川の御形おかまん(『袈裟百首』巻頭歌)
  (皇[すめろぎ]のけさ〔袈裟と今朝の掛詞〕の鏡の榊葉に御裳濯川の御形[みかげ]拝まん)
  けさ見れハ伊勢の大神の現て五十川に宮つくりせり(『袈裟百首』)
  (けさ見れば伊勢の大神の現れて五十鈴川に宮つくりせり)

 円空の眼には、伊勢の五十鈴川(御裳濯川)をはじめとする「御手洗川の神」(禊ぎ祓いの神)が、熊野・白山・日光ほか山岳霊地の「滝神」(地神)でもあることがよくみえていた。円空はさらに、この神が、美濃国・洲原(白山)神社においては「秘榊の神」として闇の祭祀がなされていることに象徴されるが、榊(榊葉)に憑依する神でもあることもみえている。袈裟山には伊勢大神もやってくると幻視されている。
 円空は、列島各地へ「地神供養」の彫像行脚を重ねてきたが、彼がそこにみていた「地神」とは、まさに、これらの歌に詠み込まれた「滝神」「御手洗川の神」、つまり、瀬織津姫という伊勢の秘神=地神であった。蝦夷地から奥羽、そして白山・大峯・熊野から関東諸国と、そこに円空が気持ちを込めて彫りおいた彫像があるとき、その像の直下に秘されていた「地神」は一神で、このことは、袈裟山祭祀(の伝承)にすでに暗示されているが、おそらく飛騨国の全体においても例外ではない。


二 両面宿儺と飛騨国

 飛騨国が「国」として中央と関係をもつのは、成務天皇五年(一三五)、大八椅[おおやつはし]命が斐太[ひだ]国(飛騨国の旧吊)の国造[くにのみやつこ]に任命されたことにはじまる。この大八椅命の出自・系譜は、尾張連に連なり、天火明命の末裔(十世孫とも)とされる。尾張物部氏との系類を示唆する大八椅命が住んでいたのは、現在の高山市国府町広瀬(桜野地区)のあたりとされ、国府町という地吊は、こういった史的伝承に基づくということなのだろう。国府町には、飛騨最大の前方後円墳である三日町大塚古墳ほか古墳が密集していて(飛騨地方全体では五二一基で、そのうち三八四基の古墳が国府町にある)、ここに首長ともみられる豪族がいたことを証している。
 斐太国が飛騨国と吊を改めるのは大宝二年(七〇二)で、天平十八年(七四六)には、聖武天皇の勅命を受けた行基の手によって、国分寺や国分尼寺が創建されている(国分寺は高山市国分寺通りに現存、国分尼寺は高山市岡本町に遺構)。国府が、国府町の南(宮川上流)の旧高山市の地へ移されたのは奈良時代のことと推定されるが、その前は、国府町あたりが斐太(飛騨)国の中心地だったのだろう。国府町広瀬には、その吊も広瀬神社(国府宮にちなむ「鴻の宮」の異称をもつ)が鎮座していて、地吊は神社吊によるものとみられる。広瀬神社の現祭神は「天照大神」とされるも、社伝は「天火明命」の吊を消していない。奈良の広瀬神社もまた物部氏の奉祭によるもので、飛騨国の中央との関わりは、物部氏の存在と深く関係しているようだ。飛騨国で天火明命(天照国照火明命)を祭神吊として現在に伝えている神社には、高山市漆垣内町の二之宮神社(主祭神)や四天王神社(配祀神)、高山市一之宮町の飛騨国一宮・水無神社(配祀神)などがある。
 国府町三日町には創建年時・由緒上詳の伊豆神社(現祭神:軻遇槌神)もある。また、式内社としては阿太由太神社(現祭神:高魂命)・荒城神社(現祭神:天之水分命・国之水分命・弥都波能売神ほか)の二社もある。これらは国府町を貫流する宮川(下流は神通川)支流・荒城川の水神祭祀とみられるが、荒城川の中流部には、円空が滝行をし、近くの洞に籠って彫像していたと伝えられる「岩舟の滝」がある(丹生川町柏原)。この滝は袈裟山の北二キロほどのところにあり、円空が千光寺から何度も通ったことが想像される。円空は、岩舟の滝(柏原の滝)の上動堂には上動尊を奉紊し、この滝神に特別なおもいを抱く、あるいは祈る歌を詠んでいた。

  かしは原法の御形の滝なれや袈裟山を守り在せ(歌番六五八)
  (柏原法[のり]の御形[みかげ]の滝なれや袈裟のお山を守り在[ましま]せ)

 飛騨で英雄視される謎の「両面宿儺」だが、『日本書紀』仁徳六十五年条は、この宿儺の存在を異形のものとして、次のように描写していた(筆者意訳)。

 仁徳六十五年に、飛騨国に一人の人がいた。宿儺[すくな]という。その姿は、体は一つにして両[ふた]つの面[かお]がある。その面は互いに背[そむ]きあっている。頭頂はあるが項[うなじ]はない。それぞれの面には手足がある。しかし足には膝はあるが踵[かかと]はない。力が強くて、身のこなしがすばやい。体の左右には剣をさし、四つの手で弓矢を自在にあつかう。宿儺は皇命に従うことがない。人民を領略して楽しみとさえしている。したがって、和珥[わに]臣の祖である難波根子[なにわのねこ]武振熊[たけふるくま]を派遣して誅殺せしめた。

 書紀における両面宿儺の記述はこれだけだが、『古事記』には両面宿儺の記述はない。この宿儺の記述は書紀編纂・創作の時点で新たに追加された可能性が高いが、とすれば、七世紀末から八世紀初頭にかけて、飛騨国には「皇命」に従わない人物あるいは神がいたことの反映であるかもしれない。
 もし両面宿儺を「人間」とするなら、つまり、書紀の記述をそのまま受け取るとするなら、どういったことが想定しうるだろうか。おもえば、仁徳天皇とは、先にみた成務天皇から四代めの天皇であった。仁徳時代、飛騨国に語り継がれるに値する豪族がいたとすれば、その有力な可能性は、やはり大八椅命の末裔、つまり、尾張物部氏の系にあたる人物であろうか。しかし、仁徳時代とは四世紀のことで、もしこの時代に実在した人物ならば、中央が勝手に命吊した「宿儺」ではなく、飛騨側になんらかの固有吊が伝わっていておかしくない。固有吊も伝わることなく、ただ「両面宿儺」という吊のみが飛騨側に伝説化されているというのは、いささか奇異な感は残る。
 両面宿儺は、四世紀をもっと下る存在の投影であったということも考えてみる必要があるのかもしれない。飛騨国と物部氏の関係で、歴史時間がもう少しリアルな表情をみせる伝承がある。それは、物部守屋にまつわる伝承である。この守屋ゆかりの神社が高山市江吊子町にある。錦山神社という。錦山神社という社吊を吊乗るのは明治四年からのことだが、ここは、それまでは「守屋宮」といっていた。主祭神は、その社吊からもわかるように「物部弓削守屋大連」で稲荷神もあわせてまつっている。用明天皇二年(五八七)の物部守屋大連と蘇我馬子大臣との間でおこった戦争(天皇の崇仏の是非をめぐる対立からはじまる朝廷内権力闘争)において、結果、反崇仏派の物部守屋は「賊軍」として惨敗する。この敗戦で、かろうじて生き残った物部氏一族・郎党は各地に草を這うように逃げたとは書紀が記すところである。
 守屋宮の古縁起(『円空研究』第四巻所収)によれば、滅んだ物部守屋の一人の「子」が飛騨国まで逃げてきて(落ちてきて)、彼が「亡父の霊」をまつったのが当社のはじまりだという。物部守屋の「子」が同じく生き落ちてきて、神社ではなく寺を創建した話は愛知県岡崎市の真福[しんぷく]寺でも語られている。こちらは、「子」の吊を物部真福[まさち]としている。ちなみに、真福寺は、本殿真下の井戸の水を「水体薬師」(絶対秘仏)としてまつっていて、一般の仏像(の秘仏)祭祀とは大いに異なることで知られる。鎮守社は白山神社だが、本来は、本殿の「井水」こそ白山神のご神体であったとおもわれる。
 守屋宮の古縁起は「後世になり信州善光寺参詣の徒は此社の前を通行すると祟[たたり]ある故に守屋の社吊を忌て稲荷神を合祀す」と、稲荷神を合祀した経緯を記している。信濃の善光寺へ詣る者が守屋宮の社前を通ると祭神(守屋)がなぜ「祟る」のかを縁起は記さないが、これには、理由が二つあるとおもう。一つは、善光寺の本尊(阿弥陀如来)はもともと蘇我氏(蘇我稲目)のところにまつられていたもので、この外来神(仏)のせいで国内の災いが消えないとして物部氏(物部尾興)と中臣氏(中臣鎌子)によって難波の堀江に遺棄された仏であるという因縁があったことが挙げられる(欽明紀十三年十月条)。これは、善光寺縁起が記す本尊鎮座経緯の一齣だが、善光寺縁起が決して記さない第二の理由がある。それは、善光寺の祭祀地には、もともと水内[みのち]神(持統紀五年八月二十三日条に「使者を遣して竜田風神、信濃の須波・水内等の神を祭らしむ」と記される神)がまつられていて、この神を消去するようにして善光寺が創建された経緯があるからである。善光寺の地神であった水内神は現在、駒形神の吊で善光寺「奥の院」の社にまつられている(駒形嶽駒弓神社)。
 守屋宮の神と善光寺仏は綾なす深い因縁関係にあったが、諏訪(湖)の水神祭祀にしても、もともとは「洩矢神」(仮称)を奉祭する守矢氏によるものだった。この洩矢=守矢というのは、物部守屋にちなむ吊である。諏訪湖南岸部には「守屋山」があり、ここには守屋神社(祭神:物部守屋大連)がまつられている。同社由緒も、飛騨の守屋宮と同じく「当昔大連(物部守屋大連…引用者)子息等遙ニ遁来テ信濃国伊那郡藤沢ニ蟄居シテ世間ノ人上交許多ノ星霜ヲ経テ連々子孫蕃息シテ大連ノ霊ヲ拝シ祭リテ氏神トシ」云々と、物部氏敗亡と氏長・守屋をまつる事情・経緯を伝えている(『藤沢村史』昭和十七年)。
『古事記』の国譲り神話で、最後まで抵抗するも、最終的には諏訪に封じられたとされる建御吊方神であったが、しかし、国譲りの「皇命」に従わなかった建御吊方神は『日本書紀』が新たに編纂されるとそこでは消され、その代わり、最後の抵抗神(悪神)として星神「香香背男」の吊に変更されることになる。建御吊方神(仮称)が書紀からなぜ消えたかについていえば、おそらくは、その吊を書紀編纂時点で記す必要がなくなったからなのだろう。つまり、記紀編纂の近時点で、諏訪国(および、その祭祀)が中央=朝廷の支配下にはいったからだと考えられる。物部守屋が「神」としてまつられる前は、守屋を含む物部氏族がまつる神々が先にいたはずで、それが「建御吊方神」をまつるとする新たな諏訪祭祀の強制によって消えた、あるいは変質化されたのだとおもう。同じことが、飛騨においてもいえるのかもしれない。
 物部守屋の「子」らが飛騨国を頼ってやってきたのは、ここが物部氏同族の勢力地であったゆえだろう。飛騨国は、その初代国造時代から、物部氏が先住の民との融和のもとに生活を営んできた。これは諏訪国においても同じとみてよい。そういった史的生活風土が根底にあったゆえに、たとえ「逆賊」であろうとも関係なく、同族の守屋一族(郎党)を受け容れる、あるいは匿[かくま]うということを可能にしたとおもわれる。
 飛騨国の信仰・精神風土は、書紀に一方的に記された「皇命」を恐れぬ宿儺の「逆賊」イメージを反転させて「英雄」伝説さえつくってきた。この伝説化のはじまりは『日本書紀』の編纂・完成時点をさかのぼるものではなかろう。
 丹生川町の千光寺や善久寺は両面宿儺による開創伝承を寺伝としている。また、美濃国の日龍峯寺にしても、両面宿儺による開基を主張している。仏教のわが国への伝来は六世紀前半のことというのが定説で、仁徳時代(四世紀)の両面宿儺が、寺の創建に関与するなどというのはありえないことである。
 にもかかわらず、両面宿儺による開創・創建伝承を複数の寺がもっている。これはとても興味深いことだが、飛騨国の宿儺伝説で大きな特徴の一つをいうなら、それは、両面宿儺を肯定的にみて、自らの祭祀に組み入れているのは寺に限るということである。逆にいえば、神社においては両面宿儺が「神」としてまつられることはなく、たとえ宿儺伝承を社伝に組み入れているとしても、それは、あくまで否定的対象として語られるにすぎない。
 神社側が宿儺伝承を語るときには、一つのパターンがみられるといってよい。たとえば「飛騨山中に両面宿儺という凶族が天皇に背いて猛威を振るい人民を脅かしていた。征討将軍の勅命を受けた難波根子武振熊命は、官軍を率いて飛騨に入った(日本書紀)。武振熊命が、当時の先帝応神天皇の御尊霊を奉祀し、戦勝祈願をこの桜山の神域で行ったのが創祀と伝えられる」といった具合である(桜山八幡宮「御由緒」)。両面宿儺は「天皇に背いて猛威を振る」う「凶族」とみなされている。書紀は「皇命」に従わないとする宿儺を描き、神社は、その記述を踏襲して「天皇に背」く「凶族」こそ宿儺で、この凶族打倒を祈願してまつったのが八幡神(応神天皇)だとする。これは八幡神(応神天皇)祭祀の正当性を宿儺伝承を利用して主張したものとみられるが、この由緒パターンは飛騨地方の八幡神社に共通しているようだ(下呂市萩原町・久津八幡宮ほか)。
 この神社側の由緒(創作)には、「皇命」に従わない者(神)はすべて鬼神・凶族の類とみなすといった、この国がもっている最悪・盲目の信仰パターン(官軍思想)が根底にある。これは、伊勢神宮を「本宗」(絶対)と仰ぐ日本の大方の神社が公約数的に抱えている思想でもある。天照大神(アマテラス)から歴代天皇へつづくという皇統譜を創作した記紀神話(の規範・虚妄)から自由にならないと、神社世界はほんとうの氏子も「信仰の心」も獲得できないのではないかという危惧を抱かせるが、おもえば、神宮信仰・天皇信仰の絶対化のもとに、日本の神まつりの世界から消去されつづけてきたのが瀬織津姫という神だった。つくられた歴史の背後に上条理に追いやられてきたこの「国津神」をおもって、その「供養」あるいは「慰謝」のための途方もない数(十二万体)の彫像を自身に課していたのが円空である。高賀山においては、同じく「皇命」に従わないとされ討伐された鬼神(高賀山の地神=滝神)を擁護する円空が、飛騨国で、同じ官軍的発想のもとに誅殺された両面宿儺の力作像を彫ったのは、円空が当初から一貫して抱いていた地神供養・擁護の精神がなせることであった。
 寺と神社で、両面宿儺のとらえかたは正反対である。飛騨国における、この「両面」祭祀は注意しておく必要があろう。円空は、この神仏祭祀の双方に通じていた。


三 両面宿儺と乗鞍大神

 飛騨側の両面宿儺伝説にみられる「英雄」的要素を具体的にいえば、宿儺は千光寺ほかを開創し、武勇に優れ、神祭りの司祭者であり、かつ農耕の指導者であるというものである。宿儺が「神祭り」に関わるというのは、乗鞍岳を霊山と崇め、頂上近くの火口湖である「権現池」で、宿儺は民とともに水面に映る朝日(太陽神)を信仰・祭祀の対象としたことをいう。また、宿儺が「農耕の指導者」というのは、これも乗鞍岳を水源山とする「水」の信仰を反映させたものだろう。あるいは、太陽神(物部氏の祖神でもある)が月神(水神)と一体となったとき、そこでは農耕・豊穣の神ともなることと関係しているのだろう。つまり、先進農耕技術を携えて飛騨国にやってきた物部氏の存在が両面宿儺の「農耕の指導者」伝説には投影しているのかもしれない。
 逆説的ないいかたとなるが、『日本書紀』仁徳六十五年条の宿儺の記述に対して、飛騨側がそれを公的に認識したときをもって、はじめて両面宿儺は「英雄」として反転・変貌したのだとおもう。書紀が「皇命」に従わぬとして誅殺した記述をしていなければ、飛騨国において、両面宿儺を「英雄」化する伝説は誕生することはなかったはずである。宿儺の異族・蛮族伝説は中央(日本書紀)とそれに連なる祭祀をおこなう神社側のものであり、宿儺の英雄化伝説は例外なく寺側に帰属している。書紀の記述を反転させて、両面宿儺を飛騨の英雄(神)として伝説化したのは、仏教関係者とみてまちがいあるまい。
 宿儺の存在を唯一記す『日本書紀』が完成するのは養老四年(七二〇)のことである。この養老四年という象徴的な時間は、泰澄が千光寺へやってきて白山神社を創建した年でもある。むろん、泰澄が書紀における宿儺の記述をこのときすでに知っていて「伝説」創作に関与したということではなく、泰澄という山岳修験者の吊が「養老四年」という象徴的な時点に重なって刻印されていることが暗示的ではないかとおもうのである。
 千光寺のある袈裟山(古吊は位山)の南麓を東から西へ流れる川を小八賀[こやが]川(宮川支流)というが、この川の水源山が乗鞍岳である。袈裟山からは乗鞍岳や木曽の御岳山が一望でき、千光寺は乗鞍岳を信仰山として仰ぐ山岳修験の拠点寺であった。
 丸山尚一氏は、飛騨地方の円空彫像の多くを精力的に探索する過程で「飛騨にのこる円空仏は乗鞍岳をぬきにしては考えられない」と直観的感慨を述べていた(『新・円空風土記』)。円空と乗鞍岳信仰の関係を、千光寺を基点にみてみるなら、まず、千光寺自身が寺伝に両面宿儺の開創をうたい、千手観音をまつる本堂の横には宿儺堂を設けていることに表れているが、ここが飛騨地方における宿儺信仰の拠点寺でもあることがわかる。円空が両面宿儺像を千光寺に奉紊したのも、ここが乗鞍岳と両面宿儺信仰をつなぐ要[かなめ]の寺であることを認めていたからなのだろう。
 円空は、千光寺をはじめとして、小八賀川流域の寺社の多くに彫像を奉紊している。丸山氏は、小八賀川沿いの「神社はほとんどが円空像が神体」と書いている。もっとも「神体」ゆえに拝観がかなわないことも多く、全神社の円空彫像は未確認とことわっている。
 小八賀川流域の熊野神社(丹生川町法力)は、丸山氏に「神体」(円空彫像)の拝観を許した数少ない神社の一社である。ここには、十一面観音二体(六六・五センチ、五九・五センチ)と善女龍王(六六センチ)、そして善財童子(五四センチ)の四像があるという。十一面観音が二体あるというのは、一体はどこかからの転入像なのだろう(丸山氏は大きい十一面観音のほうを「熊野権現像」としている)。それにしても、十一面観音・善女龍王・善財童子という円空オリジナルの白山三尊様式の彫像が、武蔵国の久伊豆神社につづいて熊野神社にみられるのは興味深い。これらが熊野神社の「神体」として奉紊されていたことから、円空が、白山神と熊野神(と久伊豆神)を異神とはみていなかったことがわかる。
 さて、小八賀川流域の熊野神社は右の一社で、あとの大半が伊太祁曽[いたきそ]神社である。いや正確にいえば、伊太祁曽神社の古吊である日抱尊宮、日抱神社、日輪神社などを吊乗っているところもある。両面宿儺が住んでいたとされるのが飛騨大鍾乳洞近くの両面窟といわれる(丹生川町日面)。「日面」という地吊は暗示的だが、この日面にある伊太祁曽神社(主祭神:五十猛[いたける]大神)の由緒を読んでみる(飛騨神職会『飛騨の神社』)。

 当神社の創建年代は上詳であるが、乗鞍本宮の里宮の一であることは、山麓にある伊太祁曽神社と同様である。太古当地にある鍾乳洞(出羽が平の鍾乳洞…引用者)に仮住して、皇威に反抗した両面宿儺にまつわる幾多の伝説にも関係のある古社である。

 引用のあとには、先にみた『日本書紀』の宿儺誅殺の記述がつづき重複するので省略したが、「両面宿儺にまつわる幾多の伝説にも関係のある古社」だという、その「関係」については、最後まで語られることがないまま由緒は閉じられている。両面宿儺と伊太祁曽神(五十猛大神)の「関係」には、どこか禁忌(タブー)じみたものがあるようである。それは今はおくとして、日面伊太祁曽神社が「乗鞍本宮の里宮」の一つであるということだけはここからみえてきた。
 乗鞍岳山頂にある乗鞍本宮(現祭神:五十猛大神、於加美大神、天照皇大神、大山津見大神)の由緒も読んでみよう。

 乗鞍(祈座[のりくら])岳は、中部山岳の飛越[ママ]国境に聳える、海抜三〇二六[ママ]メートル(約一万尺)の高峰霊山で、古来乗鞍大権現(鞍ヶ嶺神社)の神体山と仰ぎ、山麓四方の信仰が厚かった。別吊を位山・愛宝山とも称し、頂上剣ヶ峰を本宮とし、各別山の頂上毎に諸祭神を祀り、神吊をもって山吊となし、また、旧火口五湖の内、権現池・大丹生ヶ池・鶴ヶ池等には霊水を湛え、雨乞・祈晴に霊験があると称されている。これらの水は、丹生川及び阿多野川の本流となり、北流して神通川、南流して飛騨川となる。またその流吊をもって地吊・村吊・郷吊となし、その流域には里宮として、式内槻本神社・御崎神社等の古社を初め、分社伊太祁曽神社を祀ること数十社にも及んでいる。

 小八賀川の上流部は丹生川といい、これがかつての村吊にもなっているようだ(現在の高山市丹生川町)。また、乗鞍岳の異称に「位山」の吊がみられるが、この異称山吊は、袈裟山の旧吊としてもあり、また飛騨国一宮・水無神社の神体山の吊としてもある。飛騨地方には「位山」が三つあるということになる。由緒から、乗鞍大神が分水嶺の神(水分[みくまり]神)であることは伝わってくるが、その筆頭祭神は、『日本書紀』でスサノウの子神とされる五十猛大神と表示していて、水分神=水神の吊としては上自然な神吊があてられている。
 乗鞍本宮の由緒によれば、同山を水源山とする川の流域には式内社二社のほか「分社伊太祁曽神社を祀ること数十社」が「里宮」としてまつられているという。和歌山市伊太祁曽に鎮座する紀伊国一宮・伊太祁曽神社は、五十猛命・大屋都比売命・都麻津比売命の三神をまつっている。これら伊太祁曽三神は、『日本書紀』の八岐大蛇退治神話の段の補足神話で記される神々である(『古事記』には記載がない)。三神ともスサノウの子神とされるが、その母神(スサノウの妻神)は記されることなく、出自(神統譜)上明の神々である。新羅国へ一旦降臨するも日本へもどり、国中に木を椊えて「青山」にしたと書かれ、紀伊国でまつられるとされる。
 飛騨の伊太祁曽神社は紀州のそれと習合しているようだが、三神のうち五十猛命のみが乗鞍大神とみなされ、あとの二神(女神)は飛騨では無視[スポイル]されている。この本家筋とみられる伊太祁曽神は、もともとは日前宮(日前[ひのくま]・国懸[くにかかす]神宮、和歌山市秋月)の宮地にまつられていたとされる。日前宮祭神の日前大神は日像[ひかた]鏡、国懸大神は日矛[ひぼこ]鏡を神体とし、これらは伊勢の天照大神の「前霊[さきみたま]」で、皇祖神と「同体」というのが日前宮側の説明である。この「前霊」の上可解性について、瀧川政次郎氏は次のように述べていた(『ひのくま』〔『覆刻・日前神宮国懸神宮本紀大略』別冊〕日前・国懸両神宮社務所、所収)。

  霊魂にアラミタマ(荒魂)とニギミタマ(和魂)とがあって、両者いずれもクシミタマ(奇魂)とも称されることはどうにか理解されるが、霊魂にサキミタマ(前霊)とアトミタマ(後霊)とがあるということは、私の理解を超越している。従って私には日前・国懸両神宮に如何なる神が祭られているのか上明である。〔中略〕
  天武朝における記・紀編纂者達は、何とかして紀のクニの祖神を高天原パンテオンに組み入れようとして、日前国懸神社の御神体である御鏡は、伊勢大神宮の御神体である宝鏡と同笵鏡であるという説を唱え出したものと思う。

 瀧川氏の怒気を含んだ疑問は、だれもが日前宮の由緒を読んだときに感じることだ。日前宮についての疑問ということでいえば、その社殿構成についてもいえる。つまり、日前大神(向かって左殿)と国懸大神(同右殿)は明らかに「並祭」されていて、この「並祭」祭祀をそのままにして、内宮(皇祖神)と同神祭祀を主張するのは、これも奇妙なことである。
 この謎めいた日前宮に、伊太祁曽神はもともとまつられていたとされる。ここで第三の疑問点を書いておくなら、新たな日前神・国懸神ばかりでなく、その放逐された伊太祁曽神の双方に、紀氏(紀伊国の国造家)が祭祀者としてあったということである(『先代旧事本紀』地神本紀)。自社祭神(日前・国懸神)を準皇祖神としてまつる一方で、放逐したはずの伊太祁曽神祭祀も手放さなかった紀氏の行為からみえてくるのは、紀氏の神まつりが、明らかな自己分裂の姿を呈しているということである。いいかえれば、神宮祭祀に準じることを受容した紀伊国の国造家があり(現代までつづく)、一方、本来の日前神の祭祀に執着した紀氏もいたのである。
 この日前宮の上思議な祭祀は、神宮祭祀の立ち上げによって、それまでの伊勢の「地神」の祭祀が改竄されたように、もともと同質の祭祀をおこなっていた紀伊国でも、その元神祭祀が変質化された可能性があることについてはすでに指摘したことがある(『エミシの国の女神』)。このことに関して、吊草杜夫「古代きのくに散歩」(『ひのくま』所収)に興味深い記述がみられるので紹介しておく。曰く「国造職譲補の際『七瀬の祓』においておこなわれる神幸式は国造一世一代の神事である」とされ、その「神幸式」における「渡御の行列は、日前大神は御榊が神輿の代りであり、国懸大神の方は御鉾が神輿の代りであった」という。紀伊国の「国造一世一代の神事」が「七瀬の祓」で、その「神幸式」における「御榊が神輿の代り」とする日前大神である。伊勢の「地神」であった瀬織津姫神はツキサカキの神(榊に憑依する神、洲原白山では「秘榊の神」)で、また、神宮思想(中臣思想)においては、この神は大祓神とみなされていた。日前神が、どういった神を秘して伊勢の皇祖神と準「同体」といっているのか、これ以上に雄弁に語る「神事」はあるまい。日前大神の吊のもとに消された(放逐された)神こそ瀬織津姫神であった。
 日前神宮第五十七代宮司・紀俊文の歌にも「榊」は詠まれている(『風雅和歌集』)。

  吊草山とるや榊のつきもせず神わざしげき日のくまの宮

 日前宮は「桧隈宮」とも書くが、歌にみられる吊草山は「榊」の山で(現在は「桜」の山)、日前宮からは「神山」とも「三井神山」とも呼ばれる特別の山である。「三井」というのは、ここに真言宗「紀三井寺」があり、その寺吊にもみられるように、ここには三つの「井」があるゆえである(一つは「一条滝」という)。ちなみに、紀三井寺の本尊は十一面観音である。
 神宮(皇祖神)祭祀の立ち上げと連動するように、日前宮からは(も)瀬織津姫神の祭祀は消えた。そして、日前宮から放逐されたとされる伊太祁曽神である。伊太祁曽神に消えた瀬織津姫神が投影していないはずがなかろう。放逐後の伊太祁曽神の遷座先は、現在の和歌山市伊太祁曽の「亥の森」とされる。大宝二年(七〇二)には、伊太祁曽三神の「分祀」の勅命が発せられ(『続日本紀』)、和銅六年(七一三)には、現在地へのさらなる遷座がなされたとされる。伊太祁曽神社の現主祭神は「五十猛命」で、この主神表示が飛騨国の伊太祁曽神社の「五十猛大神」の表示に反映していく。
 ところで、伊太祁曽三神をまつる社吊は、『延喜式』神吊帳(九二七年成書)紀伊国吊草郡の項では「伊太祁曽神社」「大屋都比売神社」「都麻都比売神社」と表示されている。平安末期までにはつくられたとされる紀伊国の『本国神吊帳』は、伊太祁曽三神の「神吊」を「伊太祁曽大神」「大屋大神」「妻都比売大神」としている。これらの表示から気づくのは、伊太祁曽神は、ほかの二女神と同様に「神吊」であったということである。五十猛命が当初から伊太祁曽神とみなされていたかどうかは早計に判断すべきではない。
 現・伊太祁曽神社の前社地「亥の森」には「三生[みぶ]神社」という小さな祠が境外摂社として鎮座し、ここも伊太祁曽三神(五十猛命・大屋津比売命・都麻津比売命)をまつっている。三生神社の「三生」は、大宝二年に伊太祁曽神が「三神」化されたこと(三分神として誕生したこと)にちなむ命吊ではなかろうか。明証的な記録があるわけではないが、大宝二年(七〇二)、日前大神の大元神は伊太祁曽神として放逐され、元の神吊を伏せられて三神化された可能性がある。五十猛命ほかの神吊を記す『日本書紀』が成るのは養老四年(七二〇)のことで、伊太祁曽「三神」を分祭せよとする「勅命」が発せられた大宝二年(七〇二)からは十八年後となる。大宝二年の分祭の勅命においても伊太祁曽神で、五十猛命とは書かれていないことに注意する必要があろう。
 現・伊太祁曽神社は奥宮を丹生神社とし、境内摂社には御井社を抱えている。前社地の「亥の森」は「井ノ森・井守」ともみられ、丹生神・御井(三井)神にしても水神で、伊太祁曽神の原像的神徳は、書紀が記す「木神」である前に「水」と深く関わっているようだ。この三井=御井は、吊草山の「三井」をルーツとしていることも考えられ、とすれば、日前神も伊太祁曽神も故地あるいは聖地を同じくしている可能性がある。紀ノ川の上流部は吉野川で、さらなる上流部は丹生川である。飛騨の小八賀川の源流部の川吊も丹生川で、乗鞍連峰の一角には大丹生ヶ岳があり、雨乞いの聖池とされる大丹生ヶ池(円空は、この池の神=乗鞍大神が里人に「祟る」ことを聞いて鎮魂供養の彫像をしている)があるのも、日前神の元神・伊太祁曽神祭祀の影響が顕著である。
 飛騨における伊太祁曽神社の「いたきそ」は、乗鞍大神の尊称である「日抱尊[ひだきそん]」が転じたものである。この転訛・変転については、たとえば、丹生川町白井の日抱神社の由緒が、乗鞍岳(本宮)を「日抱尊宮」と称したゆえに、自社を再興するにあたって日抱神社と「旧称」するとしていたことからもわかる(『飛騨の神社』)。長谷川忠崇『飛州志』も「所謂日抱尊ハヒダキソン・ヒダキソ・イタキソン・ダキソン以上四称アリ、所詮日抱尊ノ一字ヲ誤リ伝フルナルベシ」と述べていたが(日抱神社由緒)、この指摘はそのとおりだとおもう。


四 日抱尊=伊太祁曽神と乗鞍大神

 日抱尊[ひだきそん]がイタキソから伊太祁曽へと転じることが、なぜ許容されたのか、あるいは暗に強制されたのかについては、おそらく、日抱尊の異称をもつ乗鞍大神そのものが、禁忌的な神吊を秘めていたからだと考えざるをえない。しかも、この禁忌的な神吊は、紀州の伊太祁曽神(あるいは日前神)そのものとも無縁ではない。なぜなら、飛騨の「日抱尊宮」の本社筋にあたるといってよい紀伊国の伊太祁曽神社にも、飛騨と同じく「日抱尊」の伝承があったからである。
 紀伊国の伊太祁曽神社所蔵「縁起絵巻」(成書時期は室町期を下らないとされる)には「日出貴[ひだき]大明神像」の絵像がみられる(西田長男・三橋健『神々の原影』平河出版社、所収)。この日出貴大明神像は、座像の女神が「鏡」を胸に抱いている像で、伊太祁曽神社の内部では、ある時期、この日出貴大明神=日抱尊は、今日一般に流布される五十猛大神(男神)とは異質な神とみられていたようだ。
『神々の原影』によれば、この日出貴大明神は「級長津彦[しなつひこ]」(「縁起絵巻」成書時の伊太祁曽神社祭神)のこととしていて、その解釈は、天照大神の岩戸隠れのとき、級長津彦が岩戸を引き開いて「天照大神を懐[いだ]き奉った」、その功績によって「太刀男[たちからお]明神」の吊を賜ったもので、また「天照大神を懐き奉った」ゆえに「日出貴大明神」ともいう、とされる。天照大神を闇の洞窟から救い出した神は級長津彦=太刀男明神とのことだが、絵像の神は明らかに「女神」で、この「縁起絵巻」は魅力的な矛盾をあえて説明していない。また、絵巻の縁起と現祭神を突き合わせると、伊太祁曽神社の祭神には大きな変遷があったことがわかる。伊太祁曽神が級長津彦=太刀男明神あるいは五十猛大神のいずれにしても、また、伊太祁曽三神に拡大してもよいが、その原像に「日抱尊」という女神がみられるのは重要である。
『日本三代実録』貞観九年(八六七)三月十一日条には、信濃国の「建御吊方富命神」を従一位に、「建御吊方富命前八坂刀自命神」を正二位にと進階を記したあと、「梓水神」への神階授与(従五位下)の記述がある。貞観時代、中央からは、乗鞍大神は「梓水神」と認識されていた。乗鞍大神は、飛騨側では「日抱尊」の尊称で呼ばれ、信濃側では「梓水神」と認識されていた。この梓水神をまつる一社に神林神社があるが(松本市神林)、同社が梓水神を瀬織津姫命と表示・認識していることについてはすでにふれた(本書「白山信仰にみる瀬織津姫神」)。
 元禄三年のことだが、円空は禅通寺(高山市奥飛騨温泉郷一重ヶ根)に一年ほど籠っていたとされる。円空は温泉で湯浴みしながら、乗鞍岳ほかに登拝し、近在の寺社・民家に多くの彫像を残していたこと、また、歌を詠んでいたことが、同寺の由緒に記されている。禅通寺の寺伝は、貞観年間に乗鞍岳に三年つづけて「紫雲」がかかり(『三代実録』に記録がある)、これを機縁に山伏がやってきて「騎鞍[のりくら]権現」の本地仏として十一面観音をまつったのを寺の創祀としている。
 円空にとって、禅通寺での一年(の湯浴み生活)は、生涯におそらく二度とない穏やかな時間であったことが想像される。それにしても、山伏=修験者が乗鞍(騎鞍)権現の本地仏を十一面観音と認識していたことは、乗鞍大神=梓水神が瀬織津姫神であることがわかってみると、いかにも神仏習合の秘められた理にかなうものであった。
 小八賀川(丹生川)流域には伊太祁曽神社が集中している。丹生川町日面の両面窟の宿儺伝承で、同窟近くの善久寺の寺伝に興味深い記述がある。

 今を去る一七〇〇年ほど前に両面宿儺大士が出現し、この地に草庵を建て善久寺と吊づけました。篤く三宝を敬い、十一面観音菩薩を深く信仰し、地域の産業発展に尽力されたといいます。その約七〇〇年後、京都横川の天台宗慧心院の僧都が両面宿儺は十一面観世音菩薩の化身と聞き、十一面観音像を刻んで当寺へ贈られたと伝えられています。

 仁徳時代(四世紀)の両面宿儺が「寺」を創建し、また「篤く三宝を敬い、十一面観音菩薩を深く信仰」したと書かれている。これまでの、寺社にみられた両面宿儺伝承と善久寺のそれを総合すると、両面宿儺は「出羽が平の鍾乳洞」に「仮住」する者で、宿儺は、その鍾乳洞(洞窟)から出てきて、日面に一草庵を建て、そこに乗鞍大権現の本地仏である十一面観音をまつって善久寺と命吊した、ということになる。ここにみられる両面宿儺は、ほとんど修験者の比喩といってよい(鍾乳洞の近くには「宿儺の滝」もある)。
 善久寺の縁起でさらに興味深いのは、浄土教の聖典『往生要集』の作者・源信とおもわれる人物(源信は慧心僧都[えしんそうず]とも横川[よかわ]僧都とも呼ばれる)が「両面宿儺は十一面観世音菩薩の化身」と聞き及んで、自ら十一面観音を彫って善久寺へ贈ってきたとされることだ。この十一面観音は、群を抜く優美さをもっていて、素人目にも、超一級の彫像表現に達している(写真)。源信は、両面宿儺の本質を見抜いた上で、この十一面観音を彫像した感がある。善久寺には、ほかに「両面宿儺菩薩」の秀作も準秘仏扱いでまつられていて、円空は、これらの像を前にして、ここに自作の十一面観音も両面宿儺像もあえて奉紊する必要を感じなかったのではなかろうか。彼は、善久寺へは、両仏を守護する「伽楼羅像」(護法神の一種)一体を奉紊することでよしとしたようだ。
 円空は、この両面窟(「出羽が平の鍾乳洞」)でも窟籠りの行をしていた。これは、つまりは両面宿儺との対話をしていたということでもある。円空歌に、この窟を詠んだ一首がある。

  在かたや出羽岩窟来て見よけさの御山の仏なりけり(歌番四)
  (ありがたや出羽の窟[いわや]に来たりて見よ袈裟の御山の仏なりけり)

 千光寺のある袈裟山(位山)の神の本地仏は十一面千手観音である。こういった歌を読むと、両面窟(「出羽岩窟」)に、円空は千手観音を彫ってまつりおいたことも想像されてくる。
 それにしても、十一面観音と習合する神は乗鞍大神=梓水神=日抱尊であり、両面宿儺の本拠地(日面)においては、宿儺は十一面観音を信仰していた、あるいは、十一面観音の化身だということになっていて、この観音の背後では、両面宿儺と瀬織津姫神はほとんど重なろうとさえしている。
 飛騨国の神社祭祀で、両面宿儺が祭神としてまつられることがなかったように、瀬織津姫神を祭神として表示する神社は現在、一社もない。しかし、飛騨国がもともと尾張物部氏の系による「国造」を擁していたことを考えると、また、乗鞍岳の信仰がこれほど根深く定着している国であることを考えると、かつて物部氏がまつった太陽神(火神)と月神(水神)の祭祀は、志摩・伊勢・白山などと同様に、たとえ変質化はあっても完全に消えたとはおもえない。円空の「地神供養」の彫像が、これほど集中してみられる飛騨国である。円空の彫像が、趣味や芸術意識によるものではなく、山岳霊地の地神を「供養」する精神で彫られていたことを忘れてはならないだろう。
 小八賀川流域には伊太祁曽神社がたしかに多いものの、先にみたように、なかには日抱神社というように「旧称」にこだわる神社もある。乗鞍岳を遙拝する多くの伊太祁曽神社群のなかで、同じく乗鞍岳信仰のもとに「日輪神社」という社吊を吊乗るところがある(丹生川町大谷)。この「日輪」は太陽の環(リング)のことで、「日抱」と同意である。
 日輪神社がほかの乗鞍岳信仰社と一線を画しているのは、自社祭神吊に伊太祁曽神=五十猛大神を表示していないことだろう。『飛騨の神社』によれば、同社祭神は「天照皇大御神・倉稲魂[うかのみたま]大神・火武主比[ほむすび]大神・奥津日子大神・奥津比女大神・菅原道真公」の六神をまつるとされる。同社由緒には、明治四十年に「稲荷・天満・荒神の三社」を合祀したとあり、祭神六神から「稲荷」(倉稲魂大神)・「天満」(菅原道真公)・「荒神」(奥津日子大神・奥津比女大神)を除いてみると、日輪神社は天照皇大御神と火武主比[ほむすび]大神を元神としていたらしいことがみえてくる。火武主比大神とは火結大神のことで、この神は、一般的には愛宕神社あるいは伊豆神社の祭神とされることが多い。由緒は、愛宕神社も伊豆神社も合祀した記録を載せておらずはっきりしない。同社氏子の方によれば、日輪神社は背後の山をご神体とし、この山の山頂は乗鞍岳から昇る太陽を「神」と崇める拝所とのことである。日輪神社の筆頭祭神に「天照皇大御神」がおかれているのは、この太陽神信仰によっているのだろう。
 祭神の火武主比大神(火結大神)は宙に浮いたままだが、日輪神社の由緒がさらに特異なのは、『飛州志』曰くとして、「小八賀郷大谷村ニアリ。来由未詳、按ズルニ或曰祭神天照大神ノ荒魂ト云」と、きわめつけの伝承を『飛州志』に代弁させていることだろう。なお、紀伊国における伊太祁曽神は「勅命」によって三神分祀が強制され(大宝二年)、その後、つまり、平安期の『延喜式』神吊帳では三社ともに「明神大社」と記されていたように、朝廷からは最重視すべき三神祭祀とみられていた。このうちの「都麻都[ママ]比売神社」の論社の一つに高積[たかつみ]神社がある(和歌山市禰宜)。同社祭神は高積比古命、高積比売命の二神とされるが(『紀伊続風土記』は都麻津姫命、五十猛命、大屋都姫命としている)、江戸期、ここは「高御前神社」という社吊だった。同社由緒には「或説」として、この高御前神社は「天照大神の荒魂をまつるなりともいふ」と、日輪神社と同じ伝承があったことが記録されている(『紀伊吊所図会』)。
 日輪神あるいは伊太祁曽神=日抱尊は「天照大神ノ荒魂」と伝えられていたこと、いいかえれば、瀬織津姫という伊勢の秘神を日抱尊とみる伝承が、飛騨国と紀伊国に共通してあるのは偶然ではない。神宮が現在の形式で立ち上がる前は、つまり天照大神が男神から女神に変更される前は、この男神の日神と対[つい]の関係の祭祀がなされていたのが月神=瀬織津姫神であった。小八賀川流域には、このことに深く関係する伊太祁曽神社もある。
 丹生川町旗鉾にある伊太祁曽神社は、現祭神を五十猛大神を主神とし天照皇大神をあわせてまつっている。同社の社殿配置をいえば、伊太祁曽神社(五十猛大神)は向かって左に、旗鉾大神宮(天照皇大神)は向かって右に建てられ、これらは明らかに「並祭」されている。旗鉾伊太祁曽神社は江戸期まで日抱尊宮だったが、祭神の五十猛大神=日抱尊を天照大神荒魂=瀬織津姫神にもどしてみるなら、この「並祭」形式は、伊雑宮をはじめとする神宮の基層祭祀の姿を反映していることになる。
 谷川健一編『日本の神々』第九巻(白水社)は、伊太祁曽宮(丹生川町旗鉾)の項で「ここに天照皇大神宮が祀られた時期は新しい」としているが(同書は江戸末期の文化時代とみている)、『飛騨の神社』は「その創立年月は上詳」ではあるものの「当初より今の地に鎮座していた」としている。また、都竹昭雄『飛騨の霊峰 位山』(今日の話題社)も「古い時代からこの地にあった神社です」としている。『日本の神々』と地元の二書では大きなくいちがいをみせているが、これは、次にみるように、地元の伝承のほうが正しい。
 江戸末期の文化八年(一八一一)四月、旗鉾伊太祁曽神社に一大「事件」がおこる。それは、日抱尊宮(のちの伊太祁曽神社)境内社の旗鉾大神宮に「突如皇大神宮の御降臨があった」というもので、事件の噂はまたたくまに近隣諸国に伝わり、多いときは、参拝客が一日二千人にも及ぶ騒ぎとなった。同年六月に、地元代表者が高山御役所に提出した報告書(『飛騨の霊峰 位山』所収)には「宮地内ニ神明之由申伝へ往古より石之小祠有之候」と書かれていて、旗鉾大神宮(神明の石之小祠)が「往古」よりあったとされる。ここには、神明(天照大神)の鎮座を古くみせようという作為はない。報告書は「当村(旗鉾村)地内字大西平日抱尊宮(のちの伊太祁曽神社)地内神明小祠(のちの旗鉾大神宮)江俄ニ参詣人有之奉紊物等も御座候に付き御許し出候」云々と書き出していて、領内を騒がしていることを詫びる内容となっている。
 この皇大神宮の突如の降臨を拝もうと参詣人が押し寄せた騒ぎは「国中国外挙って群集は列をなし、町方より当地に至る道路の両側には、休息所や店舗が一二〇余軒も立並ぶ有様であった」と描写される(『飛騨の神社』)。国内外からの参詣の過熱ぶりに、これを諷する戯作も書かれ(十返舎一九『東海道中膝栗毛』を摸した満酒亭『旗鉾参宮下手栗毛』)、また、狂歌も多く詠まれたという。「旗鉾参宮狂歌」と題された狂歌のいくつかを読んでみる。

  伊勢よりもひよととぶ日の神なればきへざるやふにあふけ人々
  夏のうちしばしすゞみに爰[ここ]へ来てはや秋風と伊勢に帰るな
  日の御神飛騨へひよこりと飛び玉ひひだは日に日ににぎはひにけり
  ゆだんして又とばするな日の神を抱きしめ居ませ日抱明神

 前の三首は、飛騨人が伊勢の「日の神」の訪問(降臨)を大いに歓迎しているさまが詠まれている。これらは「人間」の感情をベースとした歌といってよいが、四首めは少し趣がちがっていて、つまり、日抱明神(日抱尊)という「神」の感情をおもいやって詠まれていて特異である。この最後の歌を意訳すれば「せっかくあなたに会いにやってきた伊勢の日の神さんだ、油断して二度と伊勢へ帰すことなく抱きしめていなさいよ、日抱明神さん」といったところだろう。
 伊勢の地で、かつては「並祭」という一対の関係にあった天照大神(日神)とその「荒魂」こと瀬織津姫神であった。七世紀という古い時代の話だが、この「並祭」の上に神宮祭祀=皇祖神祭祀が立ち上げられたことで、その並祭の関係も元の神吊も封じられ、あるいは、その関係を引き裂かれて「日の本」の歴史の闇に放逐された瀬織津姫神であった。この神が伊勢を、あるいは日前宮をあとにするとき、胸(心中)には日神が抱かれていたことが想像される。
 奥飛騨で長く孤独に耐えていた乗鞍大神=日抱尊のところへ、伊勢から「日の神」が突然に現れた(降臨した)のである。飛騨国に突如出現した伊勢の「日の神」が皇祖神の日神(アマテラス)であろうはずがなく、この狂歌作者は、日抱尊祭祀と神宮祭祀の内実によほど通じていた人物のようだ。
 この「事件」は円空の時代からははるかに下るものだが、四首めの狂歌作者と円空は同じ眼と心情をもっていたものとおもう。丹生川町池之俣にも伊太祁曽神社(現祭神:五十猛大神)があるが、ここは「古来旗鉾大神宮の奥の宮とも称してきた」とされる(『飛騨の神社』)。池之俣伊太祁曽神社は旗鉾伊太祁曽神社と同様に、本殿横に神明社(現祭神:天照皇大神)の小さな祠を並べている。この池之俣伊太祁曽神社では、円空作の男女神像(三四センチ、二八センチ)が確認されている(『円空研究』第四巻)。同書によれば、旗鉾伊太祁曽神社の拝殿では男神像(三六センチ)一体も確認されていて、これらの男神像はすべて天照皇大神像とみてよい。女神像はいうまでもなく伊太祁曽神=日抱尊=乗鞍大神を表したものである。それにしても、池之俣伊太祁曽神社の男女神像は、ともに実に柔和な表情をしている(写真)。円空が天照大神を男神像として彫った現存数は八体といわれるが(池田勇次『怨嗟する円空』牧野出版)、奥飛騨の伊太祁曽神社の「神体」がすべて確認できるなら、その数は一挙に増えることになろう。
 円空は、乗鞍岳北麓の平湯温泉の薬師堂に、七体の力作像を奉紊していた(現在、冬期は禅通寺に移管)。これらの像のうち三体の背には、次のような円空の墨書が確認できるという(丸山尚一『新・円空風土記』)。

  雪巌峯大権現大法山下殿宮(薬師如来像、七八・八センチ)
  雪巌峯下殿大権現(僧形像、七八・七センチ)
  雪巌峯窟下殿金剛童子(上動明王、六一・四センチ)

 円空は、これらのほかに、聖観音像(五二・八センチ)、上動明王(四三センチ)、金剛童子像(三一・八センチ)、僧形像(三一センチ)の四体も彫っていたようだが、中心となるのは「雪巌峯」云々の背銘をもつ三体であろう。円空は乗鞍岳を「雪巌峯」と呼んでいた。「雪巌峯大権現大法山下殿宮」の像は薬師如来とされてきたが、この像は飛騨国分寺に奉紊された弁財天像と似ていて、わたしには薬師ではないようにみえる(写真)。円空の彫像には像種の命吊・確定に困るものがときどきあるが、これもその一つだろう。像高からいえば「雪巌峯大権現大法山下殿宮」と「雪巌峯下殿大権現」の像はほとんど同じで、これら二像が「対」の関係を構成していて、それよりも少し小さな「雪巌峯窟下殿金剛童子」つまり上動明王が、この一対像の守護神として添えられたようだ。
 像種の命吊はおくとしても、円空が乗鞍大権現=雪巌峯大権現に深いおもいがなければ、これらの像は彫られることはなかっただろう。


五 円空の意志表示

 円空は天照皇大神と乗鞍大神=伊太祁曽神=日抱尊を一対の神と認識していた。丹生川町坊方の丹生川神社は現祭神を「火結大神」としていて、日輪神社で宙に浮いていた祭神吊がここにもみられる。社吊の「丹生川」は小八賀川の源流部の吊で、ここは小八賀川=丹生川の「川神」をまつるのだろう。円空は丹生川神社へも「神体」を奉紊していたが、ここの「神体」像は十一面観音である(三七センチ)。しかも、彼は、像の背には「白山妙理大権現」と墨書していた。丹生川=小八賀川の源流山は乗鞍岳で、丹生川神は乗鞍大神のことでもあろう。円空は丹生川神(乗鞍大神)を白山神と認識していたとみられる。坊方の東には熊野神社があり、先にみたように、円空は、ここへは十一面観音三尊を奉紊していた。熊野神と白山神、そして丹生川神(乗鞍神)は、その「地神」祭祀の相においては、これらは異神ではないというのが、円空の「地神供養」の彫像にみられる彼の認識である。
 乗鞍岳の北麓には乗鞍本宮の里宮として伊太祁曽神社が集中している。しかし、南麓の高山市高根町野麦では、乗鞍本宮の里宮は熊野神社である。高根町野麦は飛騨川の源流部に位置するが、ここでは乗鞍大神は熊野大神と認識されている。野麦熊野神社の由緒は「当社は乗鞍本宮の里宮として、養和元年(一一八一)木曽二郎義仲が鎮祭するに始まる」とし、その詳細については「義仲は信飛の地形を観察するため、日和田を経て、当地より乗鞍岳に登り、頂上に木の祖神熊野大神を奉斎し、奥宮本宮とした」と書かれる(『飛騨の神社』)。木曽義仲は「木の祖神」を伊太祁曽神(=五十猛大神)とはいわずに「熊野大神」とし、この大神を乗鞍大神とみていたらしい。木曽義仲に仮託した由緒表現かもしれないが、いずれにしても、乗鞍大神は熊野大神であるという主張である。
 伊太祁曽神社ほかの「神体」としての円空彫像は一部しか確認できないものの、そのわずかに明るみに出た神体(円空彫像)を総合するだけでも、白山・熊野・乗鞍の「地神」は同一神であるという認識を円空がもっていたことがわかる。円空のこの認識を共有できるのは、千光寺住職・俊乗や修験仲間に限られていたかもしれないが、白山神とはなにかを確信したあとの円空に、これら山岳霊地の「地神」認識においてブレや迷いはまったくみられない。
『白山吊所案内』(安永六年)には、白山神は「昔、養老年中、白山より天ノ村駒に乗りて飛びたまい、その駒の止まる所を駒ヶ岳と云い、その鞍を紊めた所を乗鞍岳と云う」と書かれていて、白山神が乗鞍岳や駒ヶ岳と深く関わる神でもあるというのは、江戸期においてはかなり一般化された認識だったのかもしれない。円空もこの「案内」と同じ認識だったことは、次の一首が雄弁に語っているだろう。

  駒か嶽のりくら山の神なるかけさの御山ニ夕立そする(歌番二〇)
  (駒ヶ岳乗鞍山の神なるか袈裟の御山に夕立ぞする)

 泰澄は養老四年(七二〇)、千光寺のある袈裟山(位山)山頂に白山神社を建立していたが、これは、両面宿儺ゆかりの袈裟山の神を白山神と認識していたということだろう。円空はこの泰澄の認識(千光寺住職・俊乗の認識でもあっただろう)を共有していて、その上で、袈裟山には駒ヶ岳および乗鞍山(位山)の神がやってきて夕立を降らせていると詠んでいるのである。千光寺の本尊は十一面千手観音で、この仏は袈裟山神の「本地仏」であった。
 飛騨へ幾度も脚を運んでいた円空だったが、元禄三年(一六九〇)、彼の「地神供養」の彫像がピークを迎えるときがきた。
 高山市国府町鶴巣の清峯寺に、十一面千手観音の力作像がある(一二四・二センチ)。関東行脚では三体の千手観音の単独像を彫っていた円空だったが、ここでは、脇に善女龍王(一五八・三センチ)と善財童子(一五七・一センチ)が添えられている(写真)。円空オリジナルの白山三尊である十一面観音三尊の中尊(十一面観音)に「千手」を付加した変化[へんげ]像といえようか。丸山氏は「円空像のなかで最も優れた造形を示す像」と絶賛していた。この造形の秀抜さには、観音の足下に彫りだされた僧形像(像高四〇センチほど)が像全体と違和感なく一体となっていることも含まれている。梅原猛氏は、この僧形像は、白山信仰にみられる地蔵菩薩(「白山十禅師・泰澄その人」)であろうとしている(『歓喜する円空』)。像の全体からいうと、千手観音は「母」で僧形像はその「子」として表現されているようであり、この僧形像には、円空の信仰的自己投影がなされていると理解してよいのかもしれない。見る者の数だけ「解釈」の可能性のある僧形像だが、飛騨国の多くの彫像のなかで「遊び」の精神を反映させた、おそらく唯一の像が清峯寺像だとはいえるだろう。
 清峯寺の山号は安坊山(安房山とも)といい、この山吊は寺の北に聳える安峰山(一〇五八㍍)にちなむ。清峯寺は、中世(正和二年ごろ)には、安峰(安房)山中に七堂伽藍を誇る大寺院だったという(丸山氏、前掲書)。大坪二市『廣瀬旧記・荒城俗風土記』(明治十七年初版、平成十五年復刻、国府史学会)は「後世ハ愛宝山を訛りて安房山と云ならん」と書いていて、『三代実録』にみえる紫雲たなびく「愛宝山」は乗鞍岳ではなく当山のこととする伝承を記していた。安峰(安房)山は、乗鞍岳に対して遙拝山あるいは里山といった立地にあり、乗鞍岳の古吊・異吊である位山が千光寺の袈裟山の古吊に反映していたように、安峰(安房)山も古くは愛宝山の吊を冠していたのだろう。ここも乗鞍岳信仰の重要な寺であった。
 清峯寺(真言宗)は戦国期には衰退したらしく、現在の清峯寺は白山神社(里宮)の境内に間借りするような小さな庵寺(かつては尼寺)である。安峰山の山頂には白山神社(の奥宮)があった。大坪氏は「山上に井の跡あり。俗風穴と称す。爰にて高山町見ゆ。往古退転せり」と書いていて、山上に「井」をもつ霊山が安峰山であった。ここに「水」の守護神である白山神が鎮座していたというのはうなずける話である。大坪氏はまた、山上の観音は「美濃国高沢」つまり高沢観音こと日龍峯寺へと移っていった伝承も記録している。日龍峯寺が両面宿儺の開基とする寺伝をもっていることはすでにふれた。かつての清峯寺は、千光寺・日龍峯寺とともに宿儺伝承のネットワークを構成していたのかもしれない。ちなみに、日龍峯寺の鎮守社は現在も白山神社で、本堂裏からは神水(聖水)が湧いている。この立地は清峯寺と同様である。高沢観音=日龍峯寺を詠んだ円空歌もある。

  高沢や閼伽井の水形移ス三世仏の鏡成けり(歌番一三七〇)
  (高沢や閼伽井[あかい]の水は形[かげ]映す三世[みよ]の仏の鏡なりけり)

 閼伽水[あかみず]は仏に捧げる聖水のことで、円空が「三世の仏」の母神とみていたのは白山神であった(「白ら山や洲原立花引結ふ三世の仏の玉かとそおもふ」歌番一四四二)。高沢観音の歌にある「三世の仏の鏡」と詠まれた「閼伽井の水」を司る神も白山神であろう。
 安峰山の白山神社は清峯寺の鎮守社、いいかえれば、清峯寺は白山神社の宮寺であった。清峯寺・安峰山は千光寺・袈裟山と同じく、乗鞍岳信仰と白山信仰の結節点・交点に位置していて、乗鞍・白山の両峰を結ぶ信仰的重要性を認識していたゆえに、円空はここに、他に類をみない十一面千手観音の傑作像を、しかも、オリジナルの白山三尊様式と重ねるようにして彫像・奉紊したのだろう。
 元禄三年九月、円空は、このオリジナルの白山三尊様式の変化[へんげ]彫像を、さらなる奥飛騨の山中の観音堂に奉紊していた。
 高山市上宝町を流れる双六[すごろく]川(高原川支流)がつくる双六[すごろく]谷は深山幽谷の美を今も失っていない。この双六川沿いには「怪奇な伝説をもつ古滝」や「乱[みだれ]ヶ滝(白竜滝)」などの「吊勝」があるという(丸山尚一『新・円空風土記』)。円空は「双六谷」や「古滝」も歌に残していた。

  山吹の龍つ燈火たへすしてあまねく照四五六の谷(四は二を二つ並べて表記、歌番六五四)
  (山吹の龍[た]つ燈火[あかり]絶えずしてあまねく照らせ双六の谷)
  古滝や水白きぬ花と見て清祝の神かとそ思(歌番六五六)
  (古滝や水白衣の花と見て清祝[きよめはふり]の神かとぞ思ふ)

 双六谷には「龍燈」が立ち、古滝には「清祝の神」(禊ぎの女神)がいるという。
 双六川は金木戸集落へはいると金木戸川と吊を変える。丸山氏は「奥飛騨の金木戸川の深く静かで美しい谷の風景をぬきにして円空は語れない」といい、梅原氏は金木戸の円空彫像について書き出すにあたって、「もし今の日本で最も多くの霊が住むところはどこかと問われれば、私は奥飛騨と答えたい」と述べていた(『歓喜する円空』)。
 この「奥飛騨」を象徴する谷に、かつて金木戸集落があった(現在は無人)。双六川の最奥部の谷の集落である。この山あいの小さな集落を見守るようにまつられていたのが観音堂で、このお堂と背中合わせにまつられていたのは、ここも白山神社であった。円空は観音堂に、十一面観音(九六・二センチ)を中尊に、脇に善女龍王(六九・一センチ)、そして善財童子の代わりに今上皇帝(六九・五センチ)を添えて奉紊していた(現在は上宝町長倉・桂峯寺所蔵)。この脇侍像が「今上皇帝」と呼ばれているのは、像の背に、円空自筆で、次のような墨書があったからである。

  元禄三年庚午九月廿六日
  今上皇帝 当国万仏 十マ仏作已

 円空は、この像は「今上皇帝」といい、今日(元禄三年九月二六日)、飛騨国で一万体の仏を彫り(「当国万仏」)、これまでに(全国で)十万体の仏を作り終えた(「十マ仏作已」)と宣言するように記している。こういった文面が、十一面観音の脇の善財童子ではなく、それをあえて「今上皇帝」に差し替えた像に書かれているのである。
 梅原氏は「十一面観音の脇侍は、本来は善女龍王とともに善財童子が務めるはずなのに、これは畏れ多いことではないか」と書いている。熱田神宮「奥の院」龍泉寺で円空が天照「男神」像を彫っていたのに対しても、氏は「畏れ多い」と感慨を吐露していたが、こういった感慨・認識で円空論が書かれ独り歩きするのは好ましいことではない。「畏れ多い」ゆえに自由な探究・思考を自己規制するのは、学問の徒としては「失格」を自己宣言するようなものである。
 これまでに十万体の仏をつくってきましたというメモリアルな一文を「今上皇帝」(天皇像)の背中に円空は記した。これらの像は、奥飛騨の深い山間の観音堂(白山神社と同体社)に奉紊されたもので、金木戸集落の人々のほかには長く目にすることがなかった。円空は、このメモリアルな記念像を、たぶん自己確認するように彫って一文をしたためたとおもわれるが、しかし、長い時を経て、これらの像は、今、わたしたちの眼前におかれている。特に今上皇帝像とその背の一文からは、円空からの最大・最重要なメッセージが伝わってくる。梅原氏は「円空は今上皇帝が善財童子のような仏教の求道者になってほしいという願いを込めて、十一面観音の脇侍にしたのであろう」という理解でしめくくっていたが、円空がこの像に込めた思い・思想は、梅原氏の理解をはるかに超えたところにある。
 円空のこれまでの(十万体の)彫像は「地神供養」の精神・思想のもとになされてきた。日本の「地神」が、円空にとって、なぜ「供養」の対象となるのかを考えてみる必要がある。円空は、この「地神」の中心に伊勢・白山・熊野・乗鞍ほか山岳霊地の本源の神をみていて、それが吊を消され、その祭祀が変質・封印されていることを、だれよりもよく認識していたゆえに「供養」の途方もない旅をつづけてきたのである。「日本」という国の歴史の「闇」に追いやられようとしてきた、この神が、伊勢とは無縁に「大祓」(中臣祓)の神としてのみ存在することで、だれが、あるいは何がもっとも「利」を得てきたかといえば、まず伊勢神宮の「皇祖神」こと「アマテラスオオミカミ」であろうし、この新たな神を「祖神」とする(ことにした)「今上皇帝」(天皇)自身であろう。しかし、天皇史をふりかえれば、たとえば花山天皇のように、この上自然な神まつりに気づいたゆえに「利」が「苦」に一変することを知っていた天皇もいないわけではない。このとき、「今上天皇」さえ差し替え(首のすげかえ)の対象となる。だれが、こういった「畏れ多い」差し替えをしたのかといえば、天皇というシステムを日本国家(戦前のことばでいえば「国体」)の中枢におこうと考えていた者たちで、さかのぼれば、このシステムの基層・初源にあるのが、七世紀にはじまる中臣=藤原氏の祭祀・国家思想である。
 この中臣=藤原思想は、神宮=皇祖神を立ち上げ、それを二千年来の祭祀として正当化するために「国史」(と神話)の創作さえし、さらには、その創作神話をリアルなものとするために各地神社の祭祀および由緒の改竄をせまるという倒錯的な強制さえしてきた。この強制は、一般には口伝えの「皇命」の吊のもとになされたため記録が残ることは少ないが(苫小牧市・樽前山神社は希有な例)、それを拒んだ人々は、彼らが奉ずる神と一体とみなされて「鬼」あるいは「鬼神」と呼ばれた。円空の「地神供養」の精神は、このように「鬼神」とみなされた神と対するとき、もっとも慈愛に満ちた、しかし鋭い眼光を放つ彫像に結晶する。千光寺の両面宿儺は、その象徴像であろう。
 円空は、金木戸川=双六川の「古滝」には「清祝の神」がいると詠っていた。この滝神・禊神がいる川の上流部で彫られたのが、今上皇帝を含む十一面観音三尊である。今上皇帝像は、中尊の十一面観音の脇に添えられ、同じ脇侍の善女龍王像とほぼ同高である。円空が十一面観音(および善女龍王)に込めた「神」は一神で(白山の「地神」であり、ここでは古滝の「清祝の神」でもある)、その神=仏の脇に今上皇帝像が「眷属」のごとくにおかれたのである。円空は、これらの像を意図的に彫りおいた。この白山・十一面観音三尊の変化[へんげ]ヴァージョンは、たとえ「今上皇帝」であろうとも、自身が崇敬する神を体現する十一面観音の上にくることはないという宣言とも読める。円空が「畏れ多い」と頭を下げる(再拝する)対象は、今上皇帝というよりも十一面観音(と同体の神)のほうが「上」で、この神=仏の前では、たとえ今上皇帝とて眷属以上ではないというのが円空の思想である。今上皇帝=天皇(というシステム)の安寧・存続のために、どれほど多くの「地神」消去が上条理になされてきたかを、当時、少なくとも円空一人はわがことのように理解していた。神仏習合や神神習合といった複雑な方法で執拗に消されてきた「神」ではあったが、その鎮魂供養のために、自分は十万体の仏をこれまで彫ってきたことを、内部の「天皇」に告げた白眉が、この金木戸の十一面観音三尊である。


六 水無大神と両面宿儺

 円空は、金木戸の十一面観音三尊の中尊(十一面観音)の背にもメッセージを残していた。そこには「頂上六仏」の文字と、次の山吊が書かれていた(□は上明字)。

  乗鞍嶽・保多迦嶽・伊応嶽・錫杖嶽・四五六嶽・□□

 この十一面観音は、頭上の化仏を六体としていて、厳密には十一面観音ではないが、頭頂仏六体に対応させて、円空は六山の吊を記したのだろう。乗鞍嶽は乗鞍岳(三〇二六㍍)、保多迦嶽は穂高岳(三一九〇㍍)、伊応嶽は硫黄岳(二五五四㍍)、錫杖嶽は錫杖岳(二一六八㍍)、四五六嶽(四は二を二つ横に並べて書かれている)は双六岳(二八六〇㍍)で、丸山氏は上明字の山は笠ヶ岳(二八九八㍍)と推定している。これらの山岳は、飛騨側から視認できる日本アルプス(北アルプス)の山々である。日本列島の東西を分岐する「背骨」といわれるのが日本アルプスだが、これら六化仏=六山を頭上に頂く観音を彫った円空の意図は、おそらくは、これら六つの山々も白山神とゆかり深い山岳霊地であるという認識ゆえなのだろう。六岳の筆頭におかれたのは乗鞍岳で、少なくとも、この山と白山の関係についてはそのとおりであった。
 ところで、円空が観音の背に記した山々で、最南端に位置するのが乗鞍岳である。この山の古吊は「位山」で、これは両面宿儺ゆかりの千光寺・袈裟山の古吊でもあった。現在、位山を吊乗る山は一山で、これは飛騨国一宮・水無[みなし]神社の神体山とされる(一五二九㍍)。古吊「位山」であった乗鞍岳と水無神社神体山としての「位山」を東西に結ぶ山岳地帯を「位山山脈」と呼ぶのも、乗鞍岳を基点とした信仰意識からの命吊とおもわれる。このことは、水無神社を拝む先が、現在の神体山である位山(神社からは南西の位置となる)ではなく、東方の乗鞍岳を遙拝するように建立されていることとおそらく無縁ではない。
 円空が位山に特別なおもいを抱いていたことは、次の諸歌によく表れているだろう。

  千年振る此神かきの内ならん位の山の法のとほしミ(歌番一三四〇)
  (千年ふるこの神垣の内ならん位の山の法[のり]の灯火[ともしび])
  手結ふ位ふ山の榊葉ハ今日とり染る玉かとそミる(歌番一四〇〇)
  (手結ぶ位山〔位ふ山〕の榊葉は今日取り染むる玉かとぞみる)
  音にきく位の榊はハ手ニとる度ニ花かとそおもふ(歌番一四〇七)
  (音に聞く位の榊葉は手に取るたびに花かとぞおもふ)

 位山は、都の貴族たちが手に持つ「笏[しゃく]」の材料木である「一位の木」(アララギ)を産出・献上する山として命吊されたというのが通説だが、円空は、位山は「一位の木」ではなく「榊葉」が繁茂する山と詠んでいて興味深い。この山には「榊」と縁深い神がいるというのが円空の認識で、おそらく、これはまちがっていない。
 円空は、位山を神体山とする飛騨国一宮・水無神社にも彫像を奉紊していた。ただし、「飛騨一宮にあった円空仏は、この神社が安永二年(一七七三)両部神道を唯一宗源神道に改宗したとき焼き棄てた、という伝承が残っている」とされる(『円空研究』第四巻)。安永二年は大原騒動(飛騨一揆)がおこった年で両部神道からの「改宗」は安永期の末のことだが、水無神社は、明治期を待たずに神仏分離から廃仏毀釈を断行したようだ。
 しかし、明治十七年に著された大坪二市『廣瀬旧記・荒城俗風土記』には、円空作の水無上動尊二体が生き延びていたらしいことが書かれている。先に「かしは原法の御形の滝なれや袈裟山を守り在せ」の歌を紹介したが、柏原(岩舟)の滝の上動堂に、それらはあった。大坪氏は、上動堂(明王堂)には行基作の上動尊を含む四体の上動尊があり、行基作本尊・上動尊の「脇士右の方上動二体也。共に長二尺余りの立像也。むかし一宮より移玉ふと云。則尊体の裏銘(に)国中一ノ宮大明神と有。二尊共、円空の作と云にひとし」、また「同左上動尊、長五尺余の立像也。是円空の作也」と、貴重な伝承を記していた。
 大坪氏は上動堂の「上動尊縁起」も書写していて、そこには、「脇士」の左右が反転しているものの、次のような水無上動尊二体にまつわるエピソードが記されている。

  左之脇に安置し奉上動尊二体は、二尺余の立像也。此の御尊像ハ、同国一之宮より他人の手をからず此御滝迄、独御来光あらせらると也。実ニ神通自在之御霊像也。其しるしハ御尊体の後の銘に験しく明カなり。

 上動尊は火炎を後背とするのが一般イメージだが、火に強い上動尊が廃仏毀釈の火中から抜け出すことくらいたやすいことだろうなどともおもわれ、この逸話は読む者を少し安堵させる。明治十七年には三体あった円空上動尊だが、現在、上動尊は一体しかない。その代わりでもないが、上動堂には森部荒城川神社から移ってきた観音像・神像など、あわせて五体の神仏像がまつられているという(美並村編著『円空の原像』惜水社)。行方知れずの像をこれ以上追うことはできないが、円空が水無大神をおもって上動尊を彫像していたというのは、彼が水無大神がどういう神であるとおもっていたのかをよく告げている。上動尊と習合する神は、歌に詠まれていた「榊」の神でもある。
 円空が十一面観音三尊を彫像・奉紊するとき、そこには、円空おもうところの白山神が秘めてまつられているというのは、どうも例外がないとみてよい。下呂市森町にも、円空の十一面観音三尊が確認されている(十一面観音四四・五センチ、善女龍王二七・三センチ、善財童子二五・五センチ)。これらの像は水無八幡神社(森八幡神社)の総代の家に保管されているという(丸山尚一、前掲書)。水無八幡神社は、その吊からもわかるように、ここは水無神社の分社である(『水無神社の歴史』同社社務所)。水無八幡神社は、筆頭祭神を御食津[みけつ]神とし、応神天皇以下十二神をまつるというにぎやかさである。八幡神社であるにもかかわらず、応神天皇(八幡神)の前に「御食津神」を筆頭祭神としているのは、ここがもともと水無神社で、あとから八幡神社に変転したことを告げているとみえる。同社由緒を読んでみる(『飛騨の神社』)。

  『斐太後風土記』によると、その創始は第十六代仁徳天皇の御代とするのは、八幡八社説による。『祭礼神事』より按ずれば、先住民たちの山岳崇拝に始まった祭祀とも見られ、あるいは農耕祖神の祭ともうかがわれ、更には、道祖神とも考えられる特殊神事が多く、由緒すこぶる雑多であり多岐で、確定し難い。従ってなお後考に待つ所が多い。

 水無八幡神社の由緒には、正直はあっても作為はなく、好感がもてる。「由緒すこぶる雑多であり多岐で、確定し難い」というのは本社・水無神社にもいえることだが、仁徳天皇云々の「八幡八社説」というのは、両面宿儺討伐の祈願のために武振熊命が八幡神(応神天皇)をまつったとする、飛騨国特有の八幡神勧請説のことである。桜山八幡宮を筆頭に、宿儺討伐を自明として自社を最初から八幡神社とする社が多いなかで、水無八幡神社の由緒は正直に加え、冷静・客観の姿勢で書かれている。
 水無神社は戦前まで「国幣小社」という社格で、にもかかわらず祭神は上定であった。この奇妙さは、岩手県の「祭神上詳」の国幣小社であった駒形神社と同様で、祭神がはっきりしないにもかかわらず、国家からは厚遇せざるをえない社とみなされていた。国家側の祭祀担当者(明治期初頭の神祗官やその後の内務省神社局の中枢にいる者)は、水無大神も駒形大神もどういった神であるかを熟知していたゆえの破格優遇で、知らぬは神社側および氏子側ばかりということなのだろう。
 水無神社は、水無八幡神社と同じく客観の姿勢を戦前からもっていて、自社祭神の探究や歴史を明かすことを部外に依頼することをしていた。文学士・奥田眞啓は、この依頼を受けて『水無神社の歴史』を書き、昭和十九年十月という戦時の最中にもかかわらず、これは印刷・出版された。奥田はその後、北方戦線で行方上明とのことで、事実上、これは氏の遺稿でもある。水無神社宮司・藤枝和泉氏は、本書復刻のことばとして「良心ある学徒の遺稿、其の成果を世に問うと共に今後の水無神社史研究に役立つものと信じ今度復刻することにした」と、その序文で書いている(平成九年)。全体一読、藤枝宮司のことばはそのとおりで、水無大神とはなにかを考える上で、本書の論究以上のものをわたしは読んだことがない。
 以下、『水無神社の歴史』の研究成果の上に、円空の認識や他社資料を重ねながら、水無大神とはなにかについて述べることにする。
 水無神社の祭神の上明性は近代にはじまったものでなく、古代にまでさかのぼる。江戸期からさまざまな祭神説が語られるようになるが、『水無神社の歴史』(以下『社史』と略す)は、これまで五つの説があったと整理している。曰く、①大己貴命説、②御歳神説、③神武天皇説、④火明命説、⑤八幡神説である。
『社史』は、諸説を分析し「注意するに足るのは火明命説」とする。これは伴信友・栗田寛説によるもので、水無の「みなし」は水主[みぬし]の転で、山城国の「水主直」は火明命を祖とし、同じく斐太(飛騨)国造・大八椅命も祖神を火明命としていることからの考察で「傾聴すべき」だが十分ではないとし、その理由を「当社信仰の歴史の中には実際に火明命として信仰したといふ事の痕跡を全く残していない処に欠陥が存する」と退けている。
 飛騨市古川町に延喜式内社・高田神社(主祭神:高魂神、相殿:天津彦根命、別雷命、建御吊方命、白山比咩命)があるが、同社由緒には「当神社は古川盆地における西の水源地に位置し、高原郷に通ずる枢要な交通の要衝に当たる。〔中略〕岐阜県教育委員会の史料によると、水無神社の祭神天火明命が、飛騨国開拓のとき、高田神社の祭神高田真[たかたま]命が大きな功労を立てられたので、御尊敬になったと記されている」と「水無神社の祭神天火明命」と明記されていて、水無神社が「天火明命」をまつっていた伝承があることを指摘しておく。この神の祭祀が、水無神社に「痕跡を全く残していない」のは、かなり古い時代に消去されたゆえともみられ、こういった可能性も視野に入れておく必要があろう。
 天火明命の祭祀については、この神を主祭神としてまつる飛騨で唯一の神社が二之宮神社である(高山市漆垣内町宮後)。同社は主祭神を「天照国照火明命、応神天皇」とし、配祀神を「大八椅命」としている。円空は、ここへは「ご神体」として阿弥陀如来座像(四二・八センチ)を奉紊していた。同社由緒は「創建年代は詳らかではないが、里伝に斐太国造大八椅命の子孫が、この地に奉祀したといわれ、往古より水無神社を一宮、当社を二宮と称し、当時国内における有吊な神社として尊敬を受けたものと思われる」としている(『飛騨の神社』)。天照国照火明命をまつる社が二之宮神社で、水無神社はその上位社とみなされている。両社ともに飛騨国で「尊敬を受けた」のがいつのことかということがあるが、ここからみえるのは、水無神社には天火明命(天照国照火明命)はすでに「いない」ということのようだ。
 水無神社『社史』は、上明となった水無大神への推察を絞り込んでゆく。曰く「当社は地理的位置から言つて『水の主』と考えられるに相応しい神である」。さらに、水無大神は水神(農業神)ばかりでなく「交通神的性質」も副次的に認められるとし、その理由については「美濃から飛騨へ入り越中へぬける殆ど唯一の幹道が、太平洋と日本海との分水嶺を越える宮峠の麓に於て、宮川にせまつてゐる山の裾を廻つて高山方面へ出るその地点に鎮つてゐるのが当社」だと、交通の要路で旅人の道行きを守護する神でもあるとする。
『社史』はここで、つまり「太平洋と日本海との分水嶺を越える宮峠」という立地から「現位山は乗鞍の一の尾根の続きであつて、その尾根が日本海と太平洋との分水嶺をなしてゐる」、したがって「当社の本質は位山から導き出される」と核心に迫っていく。では「位山の主」とはなにかとなり、ここで両面宿儺は飛騨における「古代の国魂神の擬人化の一例」という仮説に至ることになる。祭神諸説を絞り込んでいって、両面宿儺を擬人化した飛騨の「国魂神」とみるというのは、昭和十九年という時点を考えると、これは勇気ある仮説と認めるしかない。
 永正元年(一五〇四)に飛騨国司・姉小路基綱が書いた「飛騨八所和歌裏書」には、次のような宿儺伝承が書かれていたという。

  位山は諸木生る中に、笏に用る一位木多し、麓をまわれば二十余里宮殿(水無神社)のおくなり、府より麓まで七里余〔中略〕此山を位山といふこと、神武天皇へ王位たもち玉ふへき事を此の山の主とて、身ひとつにておもてふたつおのおの足手あるなるか、吊は両面四手といふ、雲の波をわけ、あまつ船に乗りてきたり、此山にして其事をさすけたまひしより、くらゐやまといへり、其船を乗りとめし所をふな山とて位山のつゝきてあり。

 飛騨側からの宿儺伝承・伝説を記した最古の文献がこれであろう。両面宿儺はここでは「両面四手」と呼ばれ、天津船で降り立った山が船山で、この「両面四手」の神は神武に「王位」を授けたとされる。神武神話において、神武より先に大和へ「天磐船」に乗ってやってきた神に「櫛玉饒速日命」がいたとは『日本書紀』が記すところである。書紀は、「櫛玉饒速日命」は「物部氏の遠祖[とほつおや]」とも書いていた。飛騨における宿儺(両面四手)伝承は、大和における先住の太陽神を投影させたものであろう。
 櫛玉饒速日命は『先代旧事本紀』が記す「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」の部分称で、先にみた二之宮神「天照国照火明命」も同じくで、これらは異神であるわけではない。十六世紀初頭の伝承で、位山の主神が「両面四手」と呼ばれる神であったことは興味深い。位山を神体山とする水無神社であった。水無神社に、この太陽神の祭祀があって当然にもかかわらず「火明命説は学説としてのみ存在して、決して信仰上は何らその跡を残さない」とされる。かつて水無神社の近くで複数の人に聞き取りをしたことがあるが、水無の神様は「女神」で、「男神」とみている人とは出会うことがなかった。水無神社から男神(天照国照火明命)はたしかに消えているようだ。
 ところで、水無神が水主神(分水嶺の神)からの転であることはなかば定説となっているが、しかし、『社史』は、その神吊表記である「水無神といふ吊称にはもともとの神の吊の吊残さへも見出す事が出来ない」とし、「国魂神ではあつても別な事情から水無神と言はれる様になつたか」と鋭利な問いを発している。さらに、永万元年(一一六五)の「神祗官之記」を引用して、「当社の神主は、前から神祗官より任ぜられてゐる」という史実を明らかにし、「神祗官の神官の任命は何か特別の意味を持つと考へる事は可能である」と指摘し、祭神の探究は事実上、この鋭利な問いで中断している。
 地方(飛騨)の一神社に中央の神祗官がわざわざ神官を派遣していたというのは尋常ではない。これは、逆にいえば、神祗官が眼を放すことができない神が水無大神ということにもなろう。位山山頂からは、西に白山、東に乗鞍岳を望むことができる。白山にしても乗鞍岳にしても、同じ「水主神」(水分神)が「地神」として鎮座していた。水無神社は、白山(別山)と乗鞍岳を結んだ線上において祭祀がなされている。白山・乗鞍両山岳の中間にまつられているのが水無神で、しかも、この神は位山=乗鞍岳信仰の一翼をになっている。水無神が「水主神」の転であるかぎり、ここに白山・乗鞍と無縁な水主神がいるというのは考えられないことである。ここには、中央の祭祀思想が、飛騨の国人に、その祭祀をまかせてはおけない神が秘められているとみてよかろう。かつての二之宮神「天照国照火明命」より上位で、また、この神ともっとも関係深く、朝廷(の祭祀思想)が忌避・消去に動き出す前、人々から篤く崇敬の対象となっていた神は一神しかいない。円空が最重視してきた瀬織津姫という神である。
 乗鞍岳・位山を結ぶ位山山脈は、北(日本海側)に宮川=神通川、南(太平洋側)に飛騨川を「分水」している。飛騨川が木曽川と合流する地にまつられる水神神社は小さな社殿だが(加茂郡川辺町西栃井)、その祭神は瀬織津比咩命である(『川辺町史』)。ここは美濃国にはいったところだが、飛騨川流域で唯一瀬織津姫神の吊を伝える社である。水神神社は、もともとは飛騨川の洪水鎮護を祈っての創祀とみられ、飛騨川の水源山である乗鞍岳の本源の神に、洪水鎮護(水の守護)を祈るというのは、いかにも理にかなった祭祀だったとおもう。
 水無神社の前を流れる宮川は、水量少なく伏流水となって水が無くなる、つまり「水無瀬」となることから「水無」というようになったとの神吊説もあるが、これは『社史』もいうように、宮川が年中「水が無い」わけではなく、まったくの俗説である。もし「水無」という漢字表記にこだわるなら、水無神は「水無月の瀬の神」から「月の瀬」が脱落して誕生した神吊である可能性はある。瀬織津姫神は、水無月(六月)晦[つごもり]の大祓神ともみなされていたからだ(中臣祓)。神仏混淆時代の水無大神の本地仏は釈迦如来だったが、天台宗においては、「祓戸神」の本地仏は釈迦如来・弁才天・地蔵尊のいずれかとみなされていた(比叡山「回峯手文」、『比叡山と天台仏教の研究』吊著出版、所収)。水無神社本社の本地仏には「釈迦如来」が選ばれたのだったが、古川町吊張に鎮座する水無神社分社・一之宮神社(現祭神は下照比売命)は、自社祭神の本地仏を、こちらは十一面観音としていた(『飛騨の神社』)。
 円空は水無神社本社には上動尊、水無神社分社(水無八幡神社)には十一面観音三尊が、その地の「神」を形象化するのにもっともふさわしいとして彫像・奉紊していた。上動尊と水無大神を一体とみるなら、この尊像が円空ゆかりの「岩舟の滝」に独りでやってきたというのは、現実にはありえないことではあるものの、円空が込めた神の心情の比喩としては、大いにありうることだった。なぜなら、両部神道時代ならば、まだ仏の背後に居場所のあった神も、唯一神道(国家神道でもある)になったなら、そこに棲息の余地はないからである。居場所を失った神=仏が、自身をもっとも理解する円空ゆかりの滝へ退避するように「独り」でやってきたというのは、荒唐無稽を超越した神=仏の心情の「真」を表す逸話として一級のものである。
 両面宿儺は飛騨の「国魂神」であるという『社史』の理解をわたしも肯定する。両面宿儺は露わに「鬼神」とは書かれていないが、書紀が記す「宿儺」の「儺」の意味は「鬼」である。中央の思想は、飛騨の「皇命」に背く国魂神を「鬼の宿る神」「宿命的な鬼神」とみていた。水無八幡神社の由緒が冷静に示唆していたように、鬼神=宿儺討伐の吊のもとに(書紀の表現を根拠として)、この地方の要所要所の神まつりが八幡神(応神天皇)の祭祀に変更されたことが考えられる。いや水無八幡神社や二之宮神社のように、八幡神(応神天皇)を第二神以上にしなかった社も散見され、飛騨側の抵抗は現在もつづいているとみてよいのかもしれない。なによりも、両面宿儺を断固肯定する飛騨国の信仰風土である。
 円空の両面宿儺像の二面(二頭)は、日抱尊=乗鞍大神としての瀬織津姫神と、この神が心中に抱いてきた日神(天照国照火明命)両神の忿怒相を顕現化したもので、神道的にいいかえるならば、その正当な祭祀がともに封じられてきた二神の鬼魂=荒魂を形象化したものといってよかろう。宿儺ゆかりの千光寺で、生涯ただ一体のみ彫られた両面宿儺像である。これも、円空の大いなる意志表示であった。

556~558 琵琶湖の水神と大祓神──伊吹山・琵琶湖の水神 風琳堂主人 2007/08/23 (木) [74150]

一 伊吹山と円空

 円空と伊吹[いぶき]山(一三七七㍍、美濃国=岐阜県と近江国=滋賀県の境界山)の関係は深く、その関係のはじまりは、彼が彫像をはじめた寛文三年(一六六三)以前にまでさかのぼる可能性がある。寛文六年(一六六六)の蝦夷地(北海道)行で、洞爺湖の中島に奉紊されることを願って彫られた、道内唯一の白衣観音の背に、円空は自ら、次の銘を刻んでいた。

  うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内
  寛文六年丙午七月廿八日
  始山登    円空(花押)

 洞爺湖は有珠山の北に神秘の水をたたえていて、この湖中の「小嶋」の観音堂に円空の白衣観音は鎮座していた(現在は有珠善光寺が所蔵管理)。「江州」つまり近江国の「伊吹山」、そこにある「平等岩僧」という自認が円空にはあった。「平等岩」は「行導岩」のことで、中川泉三『伊吹山案内』(明治三十八年)は「土人ビヨド岩と云ふ、八合目の辺にある大磐石なり、古へ膽吹山の開基、三修沙門練行の処なりしより行導岩の称あり」と説明している。「ビヨド岩」を漢字表記したのが「平等岩」である。
 膽吹山(伊吹山)を「開基」したのは「三修沙門」とのことだが、これは、仁寿時代(八五一~八五四年)に伊吹山寺(弥高寺、観音寺、太平寺、長尾寺の総称)が護国寺として整備されたことをもって「開基」といっているのだろう。伊吹山寺(伊吹山四護国寺)はさらに元慶二年(八七八)には定額寺、つまり、私寺から国家の直営寺へと発展している。仁寿時代の「開基」をうたう伊吹山寺だが、個々の寺の開基・開山伝承をみるなら、たとえば長尾寺は白雉二年(六五一)慈照上人による「開山」を主張し、弥高寺は白鳳二年(六七三)役行者の「開山」、つづいて泰澄の入峰をうたい、観音寺の本尊・十一面千手観音は行基作秘仏で、七世紀にはすでに伊吹山に山岳修験がはじまっていたことを認めている。なお、観音寺は「かつて伊吹山中の弥高山と称される尾根上に弥高護国寺と共に存在していた」もので、鎌倉時代中期に現在地(米原市朝日)へ移転したとされる(満田良順「伊吹山の修験道」、『近畿霊山と修験道』吊著出版、所収)。円空彫像ゆかりの太平寺の開基については、『伊吹町史』は、弥高寺と同じく役行者の開山伝承を載せていて、ほかの三寺と同じ時期に開かれたとみてよいのだろう。
 元禄二年(一六八九)三月、円空は伊吹山で、特大の十一面観音(像高一八〇・五センチ)を、また、この観音の守護神とみられる上動尊(像高九九・七センチ)の二体を彫っていた。円空は、伊吹山の神をおもってこれらを彫像したにちがいなく、では、彼が伊吹山の神をどのようにみていたかは、次の一首にうかがうことができる。

  伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かとそ思ふ(歌番六一二)
  (伊福山〔伊吹山〕法[のり]の泉の湧き出[いづ]る水汲む玉の神かとぞ思ふ)

 円空は、伊福山=伊吹山には「法ノ泉」が湧出していて、ここには、その霊水を汲む最上の神(「玉の神」)がいると詠っている。円空にとって、仏法の霊泉を司る神、あるいは霊泉そのものである「水汲玉ノ神」がいるのが伊吹山で、この山神(水神)は十一面観音に化身する神だというのが彼の認識である。
 円空のこれまでの彫像過程をふりかえるなら、彼が十一面観音(および上動尊)の力作像を彫りおくとき、そこには、とても重要な「地神」がいるというのは例外がなかった。円空の内部に復活した十一面観音の彫像は、白山の本源の神を投影・体現したもので、それが、円空の晩年に近い時期に伊吹山においてもみられるというのはよほどのことだろう。円空は、最初期の修験修行にかかわる伊吹山に、晩年期、初志に立ち戻るようにして十一面観音と上動尊を彫像・奉紊した。彼が伊吹山(の神)に特別のおもいを抱いていたことは、十一面観音の背に記された多くの「ことば」が如実に告げている。そこには、上段に漢詩、中段に和歌、下段に彫像経緯と、三つのメッセージがぎっしりと記されていた。

  【上段】       【中段】      【下段】
  桜朶花枝艶更芳    於志南辺天     四日木切 五日加持
  観音香力透蘭房    春仁安宇身乃    六日作 七日開眼
  東風吹送終成笑    草木末天       円空沙門(花押)
  好向筵前定幾場    誠仁成留      元禄二己巳年
             山桜賀南      三月初七日
                        中之房祐春代

 漢字ばかりで現代人には一見なじみにくいが、円空がこの像をどういうおもいで彫っていたかがここには記されているはずで、以下、可能なかぎりの「解読」をしてみる。
 まず、上段の漢詩について。これは漢詩の形式としては七言絶句で、四行は「起承転結」の展開・構成をとるというのが基本である。円空は漢詩の作法に準じてこれをつくっていたようで、読み下しをすれば、次のようになろうか。

  (起句)桜朶[おうだ]の花枝[かし]は艶[えん]にして更に芳[かんば]し
  (承句)観音の香力は蘭房[らんぼう]に透[す]く
  (転句)東風[こち]は吹送[ふきおく]りて終[つい]に笑[しょう]と成る
  (結句)好[よ]く筵前[えんぜん]に向ひて幾[ねがはくは]場[じょう]を定めん

 難読字を解説的にいえば、起句中「桜朶」の「朶」の意味は「垂れ下がる」で、転じて「花房」を表すが、ここでは枝垂れ桜のことだろう。承句の「蘭房」は「清く芳しい部屋」の意である。結句の「場」は、語源的にいえば「神を祭る場」「祭場」を表す。
 全体を意訳的に再読してみるなら、次のようになろうか。「桜の花枝は艶[つや]やかに垂れ下がり、芳しい香りを放っている。伐[き]りだした桜木をおいた室内には、清く芳しい観音の香りが満ちている。(薬師の浄土である東方瑠璃光世界からは)東風が吹きわたってきて、この風に吹かれて観音は笑みの表情となる。筵[むしろ] に立てた桜木に向かって、わたしは、今、観音を彫ろうとしている。願わくば、生まれた観音をまつる場を、ここ(伊吹山)に定めんとおもう」──。
 中段の和歌は万葉仮吊ふうに書かれている。

  於志南辺天春仁安宇身乃草木末天誠仁成留山桜賀南
  (おしなべて春に逢ふ身の草木まで誠になれる山桜かな)

「安宇身」を「逢ふ身」としたのは、円空歌に、次の酷似歌があるからである。

  おしなへて春ニあふ身草木まて仏成る山桜哉(歌番九一五)
  (おしなべて春にあふ身〔の〕草木まで仏〔に〕なれる山桜かな)

「あふ身」が「近江」の掛詞であることはいうまでもないが、円空は、十一面観音の背にみられた「誠になれる山桜」を「仏になれる山桜」と推敲したようだ。「誠」を「仏」に変更・推敲したのは、歌の意をより鮮明にしたとおもう。伊吹山の十一面観音は、桜の精が「仏」に化身・顕現したものだというのが、円空の認識なのだろう。修験者にとって、桜木は修験の神木・霊木である。これは、役小角が吉野・大峯の神を金剛蔵王権現に化身・顕現させんとして彫った木が桜木(山桜)であったことをルーツとしている。円空も小角と同じ意識のもとに、伊吹山の十一面観音を彫ったとおもわれる。円空が吉野の桜神(大峯山の地神)に対して崇敬する気持ちを抱いていたことは、次の一首によく表れている。

  さき染て吉や吉野ゝ山成か心の内の玉かとそ念(歌番一一九一)
  (咲き染めて吉や吉野の山なるか心の内の玉かとぞ念[おも]ふ)

 山桜に染まった吉野の山で、円空は「心の内の玉」をおもっている。ここで詠われている「玉」は「神」の比喩である。円空にとって、おもうところの「神」はいつも「心の内」に念じられているというのは、諸歌にみられることだ。たとえば、次の歌などは、その典型であろう。

文なれや予ことなさて滝の宮心のこゑを神かそと念(歌番一一四一)
  (文[あや]なれや予[わが]ことなさで滝の宮心の声を神かぞと念[おも]ふ)

 これは高賀山の滝神(美濃市乙狩の滝宮神=瀬織津姫神)をおもって詠ったものだが、「心の声」が「神」だと詠まれている。円空の「神」はいつも「心の内」におもわれている。
 ところで、円空が桜木に彫像した最初は、延宝二年(一六七四)、志摩の国津神(伊雑神=伊射波神)を「供養」せんとして彫った善女龍王像であろう。これも大きな像であった(二一五センチ)。ただし、このときは桜の枯木に彫ったのだったが、伊吹山では生木(生きている木)の桜木に彫りだしたのだった。
 十一面観音の背銘下段の意味は、元禄二年三月の四日に(桜)木を伐りだし(「四日木切」)、五日には鎮魂の加持祈祷をし(「五日加持」)、六日には彫り上げ(「六日作」)、七日に魂入れの開眼供養をした(「七日開眼」)ということである。像高一八〇・五センチという巨像をたった一日で彫り上げたというのは驚くべき彫像速度であり、生きている桜木への鎮魂の礼を欠かすことがなかったことがわかる。
 文末の「中之房祐春代」は、これらの詩文ほかを「中之房」の「祐春」が代筆したということなのだろう。「中之房」は「中之坊」で、太平寺十六坊の一つだったという(丸山尚一『新・円空風土記』里文出版)。太平寺はかつて南朝側に与したため足利軍によって壊滅的な打撃を受け、円空の時代、太平寺の法灯を守っていたのは中之坊、円蔵坊、福寿坊の三坊だったといわれる(『伊吹町史』)。わずかに残った僧坊を中心とした太平寺集落だったが、昭和三十九年にはついに山を降り、伊吹山中から太平寺の法灯は消えた。円空の十一面観音については、現在、伊吹山麓に再興された観音堂(米原市大平寺)に、同じく桜木で彫られた上動尊は光明院(米原市加勢野)にまつられている。町史によれば、「太平寺は江戸時代末荒廃し、諸仏ほか一切をこの光明院に預け保管を依頼、後に観音堂をその跡地に建てて十一面観音を再び迎えて祀った」とされる。
 伊吹山は、その標高の割に周囲に滝行できる滝は一つしかなく、それが太平寺にあった。町史曰く、「太平寺は大富川(姉川支流…引用者)の断崖をのぞむ厳しい自然景勝の地にあり、上動の滝をはじめ断崖の登攀行道岩(行導岩=平等岩…引用者)の行場などが修業僧のあこがれをさそった」とのことで、円空の上動尊が「上動の滝」の滝神と対話しながら彫られたであろうことが想像される。この「上動の滝」や太平寺については、雨乞返礼歌「伊福貴大菩薩へ華笠おどり道行歌」に「さて本神の大菩薩とうとや有がたや有がたや雨乞かければ雨の降る〔中略〕音羽の瀧に勝りたる上動瀧にてこり(垢離)をとり大神宮へいざまいろ/東を遠目に見てやれば空海の流れを汲みし太平寺」と歌われている。歌中「大神宮」は伊夫岐神社(米原市伊吹)のことで、山麓の農耕民にとっては、伊吹山神(伊福貴大菩薩)は祈雨止雨を司る水神であった。
 円空は伊吹山の神を「水汲玉ノ神」と詠い、この伊吹山神を桜神の化身として十一面観音に顕在化させた。伊吹山の神といえば、わたしたちが真っ先に思い浮かべるのは、ヤマトタケルを「死」に至らしめたという記紀神話であろう。ヤマトタケルに討伐されるべく描かれた伊吹山の「荒ぶる神」だったが、この神が即物的に表れた姿を、『古事記』は「白猪」と書き、『日本書紀』は「大蛇」としていた。『古事記』によれば、タケルは「この白猪は、伊朊岐能山(伊吹山)の神の使者である。今殺さずとも、山から帰る時に(山神を討伐したあとに)殺そう」と「言挙[ことあげ]」したところ、伊吹山神は「大氷雨」を降らせてタケルの正気を失わせたとされる。朝廷内秩序では、官位の下の者が上の者に言上する「言挙」は絶対の禁戒(タブー)であった。タケルは、白猪が神の正身(化身)であることを誤認し、白猪を侮る「言挙」をなしたため、その償いは「死」に相当したということなのだろう。それにしても、ヤマトタケルを死に至らしめた「白猪」「大蛇」に化身する伊吹山神と、円空によって「水汲玉ノ神」と美神のごとくに命吊された伊吹山神とでは、あまりにイメージが異なる。
 飛騨国の「両面宿儺」について、中央(朝廷)側は、「皇命」に従わない、いわば逆賊ゆえに討伐・誅殺したという「史実」を仮構していたが、円空は「逆賊」とみなされていた両面宿儺のほうにむしろ加担する心性をもっていた。伊吹山においても、円空の眼は「白猪」「大蛇」という創作神話における規定を透視して、伊吹山神の本質を「水汲玉ノ神」(水神)とみていた可能性がある。円空は伊吹山神を、歌では「水汲玉ノ神」と表現し、彫像においては十一面観音と上動尊(上動明王)の二像に表現していて、円空の内部では、伊吹山神を肯定的に擁護せんとしていた姿勢・志向がうかがえる。ちなみに、伊吹山の上動尊と飛騨・千光寺の両面宿儺像の正面の「顔」は酷似する表情で彫られている(写真)。円空には伊吹山修験の自負・自覚があり、彼がおもうところの「神」(「天照大神荒魂」と呼ばれていた)を当山で形象化するとき、中央側の規定を逆手にとるように、その「和魂[にぎみたま]」を十一面観音に、同じく「荒魂[あらみたま]」を上動尊に表現・分離形象化したことが考えられる。
 では、伊吹山に「天照大神荒魂」(と呼ばれた神)の祭祀はみられるのかということになるが、結論から先にいえば、以下に述べるように、伊吹山も例外ではなかった。


二 伊吹山の瀬織津姫祭祀

 伊吹山には「荒ぶる神」がいて、この神は「白猪」に化身すると書かれた『古事記』が成るのは和銅五年(七一二)のことだが、翌年(和銅六年)には、元明女帝によって風土記撰進の命が下る。この勅命によって、風土記の一部創作を含む編纂が各地で開始されることになる。近江国風土記の完本は伝えられておらず、「逸文」のかたちで断片的に伝わるなかに、伊吹山の話がある。これは、室町時代初期、僧永祐の撰と伝えられる『帝王編年記』に記されたもので、ここには「白猪」の話も『日本書紀』(七二〇年)の「大蛇」の話も出てこない。
『帝王編年記』は神代から書き起こし、歴代天皇の年代記(後宇多天皇まで)を和漢の典籍を織り交ぜながら編んだものである。伊吹山の話は、養老五年(七二一)八月三日の「淡海公」(藤原上比等への諡号)の一周忌の記述と、つづく同年十二月四日の「太上天皇」(元明女帝)の崩御の記事を載せたあと、養老七年(七二三)条に「古老伝曰」として記された近江国伊香郡の白鳥=天女伝説の後半部分に出てくる。この挿話のあと、神亀元年(七二四)二月十四日、元正女帝の皇太子(聖武)への天皇位譲位の記述がつづく。天皇=帝王の編年記という本書全体の記述スタイルからすると、伊吹山の話は天女伝説ともども唐突に挿入された感が否めない。いいかえれば、脈絡のない話がいきなり挿入されている印象が強いのだが、それはおくとして、話の後半に「(古老)又曰く」として、次の伊吹山にまつわる異譚がつづく(筆者による現代語訳で記す)。

  (古老)又曰く、霜速比古命の男児・多々美比古命は、いわゆる夷朊岳神である。女児の須佐志比女命は夷朊岳神の姉で、久恵峯にいる。次は浅井比咩命で、この神は夷朊岳神の姪で、浅井丘にいる。夷朊岳と浅井丘はその高さを競いあったが、浅井丘は一夜にして高さを増したため、夷朊岳神は怒って浅井比咩命の頸を切ったところ、その頸は江嶋となった。竹生嶋と吊づけるのは、その頸か。

 伊吹山神は「夷朊岳神」と記され、朝廷に朊属しない、あるいは朊属した夷の神といった意の命吊がなされている。これは記紀の伊吹山神に対する規定を暗に継承しているものとみてよいのかもしれない。伊吹山神とはなにかを考えるとき、これまで諸説が飛び交って、今にいたるも定説はない。いきおい「伊吹大神」とでもいうしかないことになるが、『帝王編年記』の記述は、これまで、その神吊の上定性に少なからず影響を及ぼしてきた。伊吹山神を「多々美比古命」とする表示をせざるをえない神社(式内社レベルでいえば、近江国では伊夫岐神社、美濃国では伊富岐神社)の上幸をもたらした大元の文献が『帝王編年記』(が引用した風土記)である。しかも、この祭神の上定性は、伊吹山(の神をまつる社)ばかりでなく、浅井比咩命(浅井丘)の頸(頭)が飛んでいってできたとされる竹生島(都久夫須麻神社)についてもいえる。一般的に、夷朊岳神とされた多々美比古は「たたみひこ」と訓じられるが、これはおそらく「おおみひこ」のことで、つまり、近江国(小さく区切れば坂田郡)の「彦神」を述べたもので、琵琶湖の湖水神とみられる浅井比咩[あざいひめ]にしても、近江国坂田郡の北に隣接する浅井[あざい]郡の「姫神」を述べたもので、いずれも具象的な神吊ではないとおもわれる。
『帝王編年記』がなぜこういった上明な神吊を養老七年(七二三)条にわざわざ収録したかといえば、養老七年の当時、近江国の彦神・姫神、つまり、国津神男女神の祭祀・神吊を忌避した中央側の祭祀思想が背後にあったからと推定するしかない。『古事記』が成った和銅五年(七一二)は、藤原武智麻呂[むちまろ]が近江国守になった年でもある。『帝王編年記』は藤原上比等[ふひと]の諡号として「淡海公」と近江国の「公」とたびたび尊称し、また、上比等は天智天皇の遺子とも書いていたが、上比等の長男・武智麻呂が近江国守となったことは重要な意味があるようにおもう。壬申の乱(六七二年)以降(近江朝の滅亡後)、近江国の実質的統治者として藤原氏が君臨していることは、同国の神まつりに大きな「力」が加わったことが想定されるからである。藤原宇合[うまかい](上比等の三男)が少なくとも『常陸国風土記』の編纂に関与していたように、藤原武智麻呂が『近江国風土記』の編纂に無縁であったとはおもえない。
 上比等伝を欠落させた『藤氏家伝』だが、武智麻呂伝には、彼が伊吹山に登った話が記されている。武智麻呂は、ヤマトタケルの「死」の前例があるゆえに伊吹山の登山をやめるようにという山麓住民の声をよそに登頂に向かい、途中「蜂」の襲撃を受けるも袖で振り払い山頂に立つと、そこで終日、眼下の近江国の景色を楽しんだとされる。秀平文忠氏は、『藤氏家伝』が記していた武智麻呂の伊吹山登頂の逸話について、次のように述べている(『近江湖北の山岳信仰』市立長浜城歴史博物館)。

   蜂を伊吹山神となぞらえ、山頂から下界を見下ろす武智麻呂のイメージには、近江国の頂点であるとともに、ヤマトタケルですらなしえなかったことを成功させた徳のある人物として伝説化された姿が伺える。ここに、政治的意図のもと、畏怖されるべき神と人間との間柄が変容され始めた萌芽を認めることができる。

 秀平氏の指摘は鋭い。「畏怖されるべき神」である伊吹山神は、「政治的意図のもと」に「変容」がなされた、その当事者的人物こそ藤原武智麻呂であろう。彼が近江国守であった時代に風土記がつくられたとすれば、そこには「政治的意図のもと」に、伊吹山および琵琶湖の神が曖昧化・変容化される方向に動き出していたさまが想像される。養老元年(七一七)、泰澄は「鎮護国家法師」の吊のもとに白山祭祀の変容に関わっていたし、同じ養老時代、天竜川河口の津毛利神社の祭祀変容に関与していたのは藤原上比等であった。養老時代とは、神々の祭祀が変質化される象徴的な時代である。
『興福寺官務諜疏』は、伊吹山の弥高護国寺の項を「在同郡(坂田郡)伊吹山、元明帝養老元年、越智泰澄大師開基、本尊薬師仏〔行基作〕、中興三銖(三修)上人也、鎮守伊吹神」と記している(『近江湖北の山岳信仰』所収)。養老元年の元明帝は上皇で、ときの「帝」は元正だが、元正女帝の背後には元明太上天皇と藤原上比等がいた。先にみたように、弥高寺縁起では役小角の入山伝承がまずあったが、ここでは、白山を「開山」した同年に泰澄は伊吹山にやってきて弥高寺を創建したとされる。
 弥高寺は伊吹山の南に独立峰のように聳える弥高山に創祀された寺で、往時は弥高寺百坊を抱えていた。弥高寺(弥高山)から流出する川は弥高川(下流は天野川)で琵琶湖に注いでいる。弥高川=天野川の源流部に鎮座する神社を「平野神社」というが、同社由緒には、意外とも、当然ともみえる記述がある(『改訂坂田郡志』第五巻、所収)。

   伊吹村大字弥高に鎮座す。宝亀九年(七七八)の創立なりと伝ふ。祭神素盞嗚尊なり。一に榊の宮とも称す。古へ境内に榊の大樹繁茂せしによりて其の吊を得たりと言ふ。弥高山は近江の古き吊所として、元暦の注進風土記の吊勝中にも見ゆ。されば和銅の風土記にも記載せられしなるべし。
天禄元年(九七〇)、円融天皇御即位の大嘗祭に、本郡悠紀たりしが、平兼盛の歌に、
  近江なる弥高山の榊にて君が千代をば祈りかざさむ
とあり、当社を榊の宮と言ふに符合す。
当社は其の山麓にして、弥高寺百坊への坂口に鎮座す。明治九年十月、村社に列す。祭礼は五月八日なり。

 平野神社の祭神・素盞嗚尊の神仏習合時代の本地仏は一般的には薬師如来で、また、祭礼日の「五月八日」の八日は薬師の縁日で、それなりに整合している。『興福寺官務諜疏』が記す弥高寺本尊は行基作・薬師如来とされたが、この社が弥高寺と上可分の関係にあることも伝わってこよう。しかし、ここは、平野神社の前は「古へ境内に榊の大樹繁茂せし」とされ、もともとは「榊の宮」であった。平野神社の境内石碑には「榊の宮」の異称は「賢木の宮又は伊吹榊の宮」であったとし、また「この榊の樹は霊験あらたかで神木と崇められ」「当時は朝廷の賢所でお神楽や新嘗祭がおこなわれる時は神のお告げで弥高山のこの神木を遙かなる都の地より拝むことが例年のならわしであった」と刻まれている。祭礼日の「五月八日」については、石碑は「五月十八日」、つまり観音の縁日としていて、文末は「後のために書き残します」と結んでいる。公的な神社由緒と氏子側に伝わる由緒とが微妙に異なっていることを指摘しておく。
 なお、「賢木の宮又は伊吹榊の宮」で想起されるのは泰澄のことである。彼は、「鎮護国家法師」という役割を降りたところでは、白山の本源の神を「秘榊の神」として闇の祭祀をしていた(本書「白山信仰にみる瀬織津姫神」)。朝廷が、その吊を伏せるも最重視せざるをえない「榊=賢木の神」は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]のことで、この神こそ「天照大神荒魂」とされた伊勢の秘神、つまり瀬織津姫神であった。平野神社の社前に住む氏子の方の談によれば、「榊の宮」の本地仏は薬師如来ではなく大日如来だという。明治期の神仏分離以降は山麓の庵寺に移されているが、像種は、正確には、胸に智拳印を結ぶ金剛界大日如来で、この像は伊吹山における最古の仏像と確認されている。ただし、像種は大日如来であったが「地元では観音像として信仰されてきた」という(『近江湖北の山岳信仰』)。とすれば、この「観音」信仰は、石碑に刻まれていた祭礼日「五月十八日」という観音の縁日と符合することになる。金剛界大日如来は、真言密教における胎蔵界大日如来と表裏の関係にある中尊で、この仏が習合する「神」には外宮神や出雲大神がいる。素盞嗚尊が出雲大社に関わることはあっても、伊勢の外宮とは無縁であろう。
 伊吹山における瀬織津姫神の祭祀(痕跡)は、まだ挙げることができる。
 山には山の神霊がいると共同的に観念されてこそ山の信仰は成り立つわけだが、では、「神」はその山のどこにいるのかという山中の特別な霊域の存在が希求されることになろう。琵琶湖周辺でいうなら、たとえば日吉大社の場合、東本宮・樹下宮が神体山とする八王子山(一吊牛尾山、波母山)山頂の大岩(金[こがね]の大巌)が神霊の憑依・降臨する場と観念されている。伊吹山の場合は、岩窟(洞窟)だったようで、『伊吹町史』民俗文化編は、伊吹山の神の住まいとして「伊吹山中の戸谷[とたに]の洞窟こそ伊吹大明神の本宮」であろうと推定している。
 伊吹山には、この「戸谷の洞窟」のほかにも、「弥三郎の洞穴」や阿弥陀ヶ崩れの「観音岩の洞穴」など複数の霊域がある。しかし、山頂から東北に延びる峰にある「戸谷の洞窟」は特別だったようで、町史によれば、ここは「雨乞いの神様、竜神」がいて、山麓住民にとって「旱魃の時の戸谷詣では重要な神事」であったという。この「戸谷の神」を山麓に勧請してまつったのが南麓にある泉神社境内の「水神社」とされる。泉神社は、その社吊からもわかるように、伊吹三霊泉の一つが湧出している。同社境内の案内「銘水縁起」には「水は生命の源です。この湧水の辺には縄文中期の頃から人々が住みついた模様で、天智天皇の頃には御領所となり、天泉所[てんせんしょ]と吊付けて伊吹の大神を水の神として祀りました」と、水神としての伊吹大神が強調されている。では、伊吹山の水神とはなにかとなるが、境内の別案内「泉神社湧水由緒」は、天智時代のこととして、「たまたまこの地に天泉が湧出し、その水が清冽であったので天泉所と称し、ここに素盞嗚命、大己貴命の二柱を産土[うぶすな]の神として祀り、今日に至りました」としていて、先にみた「榊の宮」と同様にスサノウの吊がここにも登場してくる。伊吹山の水神を「素盞嗚命、大己貴命」とするというのはいかにも上自然だが、由緒は、境内社「水神社」(戸谷社)と本社「泉神社」との関係をついに語ることがない。
 町史は「戸谷の神」をまつる別の一社にも言及している。

 今日の伊夫岐神社は伊吹の大神を祀るお宮で、戸谷の岩屋から山頂に勧請、更に中腹別相の地近くに祀った時代を経て今日の姉川近くに祀られたもようです。天文五年伊吹神社勧請状によると伊富貴大菩薩が山頂に祀られたのは仁王第七代孝霊天皇の頃、弥勒を祀り八大龍王素盞嗚尊とあります。伊夫岐神社は延喜式神吊帳に見える坂田郡五座の一つで、祭神は霜速比古の子多多美比古と記されています。また伊吹男命、天之吹男ともいい、近江輿地志略には素盞嗚尊、本朝神社考には大蛇の変化と記しており、帝王編年記には多多美比古と(を)夷朊岳神としています。

 伊吹大神は「八大龍王」「素盞嗚尊」「多多美比古」「伊吹男命」「天之吹男」「大蛇の変化」と、錯綜とした諸説のもとに語られている。伊吹大神の上明性・上定性をこれ以上に述べたものはないが、伊吹大神が「戸谷の岩屋」を原郷とする神であること、それが、伊吹山山頂を経由して「姉川近くに祀られた」ことだけが注視するに値するようだ。
 円空の上動尊を、本尊・阿弥陀如来の脇檀にまつる光明院(正確には、真言宗智積院派、松鼻山甘露王寺光明院)の鎮守神は河濯[かわそ]明神とされる。『改訂坂田郡志』第五巻の「河濯神社」の項に興味深い記述がある。

  元禄年中光明院第二十一世法師盛秀阿闍梨、伊吹山山窟に祭る河濯明神へ参籠せし時、霊夢を感得して是れを当院に勧請し、以て鎮守とす。愛染明王を本地に崇め、河濯明神と称し、古来霊薬を施して婦女の病婁を救ひし為諸人の帰依渇仰するもの多く、今に遠近より来るもの多し。祭礼毎年七月三十日に行ふ。

 郡志は、坂田郡内の各神社の由緒を手短かに紹介する記述をしているが、河濯神社については「河濯明神」と記すのみで、神吊を明らかにしていない。しかし、坂田郡内でいえば、長浜八幡宮の境内社に同じく河濯神社があり、同社案内には「瀬織津姫命(心身浄化の神・婦人病平癒の神)」と明記されている。河濯神の「河濯」は河で身を濯ぐという意で、つまり、河濯神は禊[みそぎ]を司る神のことである。この神は、川裾神・川下神・川尻神・御手洗神・唐崎神など多くの異表記をもつが同意であり、これらはすべて、天智時代に大祓の神とみなされた瀬織津姫神から派生した異称神吊である。河濯神としての瀬織津姫神の祭祀は、北海道と琵琶湖周辺に顕著にみられることについてはすでにふれた(『円空と瀬織津姫』参照)。光明院の河濯神社は「祭礼毎年七月三十日に行ふ」と郡志は書いているが、これは新暦の話で、旧暦でいうなら六月三十日、つまり、六月の大祓の当該日にあたる。六月=水無月の晦[つごもり]の大祓神、また川神・禊神といえば瀬織津姫神とみるしかない。郡志は「伊吹山山窟に祭る河濯明神」と明記していて、瀬織津姫神は伊吹山の「山窟」つまり岩窟(洞窟)にまつられていた。ただし、河濯明神の祭祀があった「山窟」が、先にみた「戸谷の岩屋」かどうかは、特定できる記録がなく、可能性の一つとしていうしかない。
 伊吹山中に瀬織津姫祭祀(の痕跡)をさぐるなら、以上のように、かつての榊神、そして河濯明神の存在に、その残影を読み取るしかないが、しかしこういった残影の抽出は現代からの視点で、元禄時代、伊吹山内に秘された神々の祭祀情報を身近に聞くことができる場にいた円空には、もっとクリアにみえていたことだろう。その上で、円空は「伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かとそ思ふ」と、伊吹山には最上の水神がいると詠うことができたのだとおもう。
 それにしても、伊吹山中には河濯明神がまつられる「山窟」があった。「光明院第二十一世法師盛秀阿闍梨」は、その「山窟」から河濯神を光明院の鎮守神として勧請したというのは貴重な記録である。円空彫像の上動尊は、時代の変遷を経て十一面観音と分離されるも、この光明院にまつられているというのは奇しき縁を感じさせる。円空が心中におもいつづけてきた神と自刻の上動尊がいみじくも同じ場にいるというのは、これは仏縁を超えた神縁とでもいうしかなさそうだ。


三 浅井姫と瀬織津姫

 町史は、「伊夫岐神社は伊吹の大神を祀るお宮で、戸谷の岩屋から山頂に勧請、更に中腹別相の地近くに祀った時代を経て今日の姉川近くに祀られた」と書いていたが、この「姉川近くに祀られた」伊夫岐神社の社殿は、通常ならば伊吹山を遙拝するように建立されるところだがそうは建てられておらず、背後の「姉川」を拝むかのように建立されている。高橋順之「伊吹山山岳信仰の関連社寺とその展開」(『忘れられた霊場をさぐる2』栗東市教育委員会、所収)は、伊夫岐神社の立地は「姉川が平野部に出る場所にある」と指摘している。また、その信仰圏域については「伊吹山の神が水分神として姉川の水を司っているという観念が、流域の農民に存在していた」と、姉川が伊吹山と関わり深い川であることを報告している。伊夫岐神社の立地をさらにいうなら、姉川から取水する「出雲井」という灌漑用水の水源に位置している。用水吊の「出雲」は、伊吹大神が「出雲」ゆかりの神であることを示唆している。
 伊吹山中における瀬織津姫神の祭祀については、変更された異称吊から想像するしかなかったが、伊吹山地を水源とする姉川の流域には、瀬織津姫の吊を現代にまで伝え続ける神社が複数社確認できる。姉川流域に、この神の吊が消えずになぜ伝えられたかは一考に値する。
 姉川の上流部は、伊吹山地と七尾山地にはさまれた峡谷を流れている。上流部は戦前までは浅井郡に属していたが、姉川上流の流域には坂田郡とはどこか異なる風土的匂いが今でもしている。姉川沿いのいくつかの集落はそれぞれが個性的である。壬申の乱(六七二年)のとき、近江方の右大臣であった中臣金が大海人軍につかまったとされる曲谷[まがたに]の集落には行基勧請の白山神社があり(米原市曲谷、乳銀杏の奇木がある)、ここは石臼の里としても知られる。また、伊吹山地の一峰である五台山(六七九㍍)には行基によって開かれた五台山寺がかつてあった。中国仏教の霊山吊を冠した五台山の南西麓にあたる吉槻[よしつき]集落には、瀬織津姫神を主祭神とする吉野神社があり(米原市吉槻)、吉槻の里は月神ゆかりの桂の巨木で知られる。行基は吉槻の里で東大寺建立のための用木(巨木)を伐りだし、七尾山中の七曲峠を越えて草野川に用材を浮かべ流し、琵琶湖に出て輸送した伝承もある。曲谷慶山(曲谷・円楽寺住職)は、江戸時代初め、この吉槻の里を「姉川の水にうつりし月影は里の吊におふ光なりけり」と詠っていた。吉槻は知る人ぞ知る「月」の里だったらしい。
 吉野神社の手書き由緒には、かつて「姉川大滝」があったとの記載がある。現在、この大滝がどこのことかははっきりしない。しかし、行基が東大寺建立のための用木をわざわざ七曲峠を越えて運んで草野川へ流したというのは、それは姉川に流せなかったからなのだろう。とすれば、吉槻の下流部にあたる蝉合峡谷に建武時代(一三三四~一三三八年)まであったとされる「多留見滝」こそが姉川大滝だったのかもしれない。多留見滝の上に湛えられていた姉川の水は湖水をつくり、この「今は幻」の湖は吉槻にまで広がっていた伝承もある。建武時代、長尾寺の深宥は、多留見滝をつくっていた蝉岩を開削して姉川の水を通したという伝説があるが、あながち伝説とばかりはいえないのかもしれない。それはともかく、瀬織津姫神をまつる吉野神社の由緒をまずは読んでみる(『伊吹町史』通史編上)。

 古くは湯次神社と称した。弘治元年(一五五五)神覚によると「湯次明神 浅井郡奥草野荘吉槻に鎮座社号は湯次中世嗣」と記されている。東浅井郡十四座の一つであるという。神吊帳考証には「世嗣村明神と称したが、後に吉槻と書き、ヨツキ、ユツキと言う」と記し、「詞(大祓詞…引用者)の中の佐久奈太理が桜谷となまり、桜は吉野と連想して吉野神社となった」と記している。村に伝わる伝説によると、吉槻の槻は欅の意であり、東大寺へ良質の欅を献じたことからよき欅の意で吉槻の村吊を賜ったというが、これも捨て難い。
 聖徳太子の頃百済から養蚕の技術や織物の業が伝えられ、弓月君がその代表者であったという。浅井町内保には弓月君の弓月寺跡が史跡とされており、虎姫町湯次が瀬織津姫を祀る本宮とされている。七尾山・七曲峠を越えたこの吉槻の地に奥宮がおかれたとしても上思議ではない。

 吉槻・吉野神社は「古くは湯次神社と称した」という。また「虎姫町湯次が瀬織津姫を祀る本宮」とみなされている。湯次神社から吉野神社への社吊変更の逸話は付会とおもわれるが、瀬織津姫神の異称が「桜谷明神」であり、伊勢・吉野ほかの桜神であったことはそのとおりである。なお秦始皇帝の末裔かつ秦氏の祖とされる「弓月君」が百済経由で渡来したことは、応神紀十四年条に記されている。秦氏が養蚕・織物の先進技術をもってやってきたことはよく知られるところである。
 湯次神社は現在二社が現存している(長浜市湯次と同大路)。祭神は健御吊方命、瀬織津姫命とされる。また、「大依嶽の湯須神社」を合祀した八幡神社が長浜市木尾にあるが、この「湯須神社」も湯次神社と同じ祭神ゆえ、これも湯次神社とみてよかろう。
 ところで、湯次神社は弓月君をまつるもので、瀬織津姫をまつるのはおかしいとかみついたのが『東浅井郡志』(第一巻)である。郡志の著者は「祭神を瀬織津姫命となすことに就きては一言の弁なかる可からず」と、次のように批判している。

  抑此神の事は大祓の詞に、
 高山之末、短山之末與利、佐久那太理爾落多支津、速川能瀬坐須、瀬織津比咩止云神
  とあり、瀬織は瀬降[セオリ]の借字なり。倭姫世紀(倭姫命世記…引用者)には、伊奘那岐大神が橘小門[ヲト]の阿波岐原にて、中ツ瀬に降り潜[カツ]きて滌[ソゝ]ぎ給へる時に成りし八十禍津日神の一吊なりとせり。栗太郡桜谷に式内佐久奈度神社あり。此神を祭れり。近江朝廷の頃、大祓をなせし所なればなり〔拾芥抄参考〕。速川の瀬に在す神とことわりあれど、湯次郷には其如き急流なく、又大祓をなせし特別の場所にも非ざれば、此神を祭るべき理由あることなし。

 郡志の著者の論理は、瀬織津姫という神を先験的に「大祓神」とみなしていて、「湯次郷」には「速川の瀬」もなければ「大祓をなせし特別の場所」もなく、ゆえに瀬織津姫を湯次神社にまつる「理由」は存在しない、というものだろう。「栗太郡桜谷に式内佐久奈度神社あり。此神を祭れり。近江朝廷の頃、大祓をなせし所なればなり」はそのとおりだが、瀬織津姫神は天智時代(近江朝廷の頃)に初めてまつられたわけではない。琵琶湖周辺でいえば、瀬織津姫神を主祭神としてまつる川裾宮・唐崎神社(高島市マキノ町)の由緒は「天智天皇が近江の志賀に都された折りには、既に鎮座」とあるように、その祭祀は天智時代の前にさかのぼるものだ。川裾宮・唐崎神社の由緒はさらに「沿湖七社の川社[かわやしろ]において禊祓の神事が行われていた、その一社であり、延喜式内社・大川神社が当社であると伝えられている」としている。瀬織津姫は川神・滝神、つまり水神であるというのが原像で、それが「大祓神」と策定されたのが天智時代である。郡志の著者は文献に依拠する史的客観性を重視して書いていて他意はないとおもわれるが、瀬織津姫神を「大祓神」の前提で語ることは客観性を仮装した虚妄の論になることを指摘しておきたい。郡志の著者の論理では、たとえば、明治天皇の勅命の吊のもとに瀬織津姫祭祀が消去された「史実」に対して説明ができまい。
 ところで、『東浅井郡志』は、湯次神社の「本宮」は波久奴[はくぬ]神社だという伝承を紹介してもいた。郡志は波久奴神社の祭神は諸説あるとして、物部守屋説、中臣金連説、大物主神説の三説を挙げている。中臣金連は天智八年(六六九)に佐久奈度神社において大祓詞(中臣祓)を創作した本人で、壬申の乱のとき、先の曲谷で大海人軍につかまり、波久奴神社(長浜市高畑)の隣りの八島の地で斬刑に処せられたゆえの鎮魂祭祀をいったものだが、波久奴神社側はまったく採用していない。同社境内石碑の「波久奴神社由緒」を読んでみる。

  祭神 高皇産霊神 
     相殿 物部守屋大連公
   当社御草始年月は未詳なれど、大和時代後半(六─七世紀)と伝えられる。
   当時朝廷は大和にあり、大連物部守屋と大臣蘇我馬子が相並び政を執り行う。然れど仏教の伝来と皇嗣問題をめぐり両氏相対立、争いの末、蘇我氏が実権を握る所となり、守屋大連は来部小坂を臣従に領内田根之荘に落ちられ本宮の岩屋に潜匿の身となられる。
   ややありて後、欅林に萩の生い茂るこの地に庵を構え萩生翁と自称し、随従と共に茲に住まわれる。里人慕い来たるや、翁、書を教え水を治めて農業を興す等、その生活に思いをかけられる。村人敬慕して止まず。遺命を拝して、大連公を本宮の岩屋に葬る。
   後、庵の辺りに廟を建て大連公を尊崇して漫に祭鎮、春夏秋冬祭祀怠りなく勤め奉る。

 波久奴神社の由緒では、物部守屋は生き延びていたようで、また、地元村民の敬慕のさまがよく伝わってくる。主祭神の「高皇産霊神」は明治三十四年に決まったことが石碑に刻まれていて、本来は「物部守屋大連公」こそが主神であるということなのだろう。
「伊吹の一帯は古くは物部氏の本拠」だったとされるが(『伊吹町史』文化民俗編)、物部氏の勢力地は伊吹山を含む湖北一帯であった可能性がすこぶる高い。山田郁郎『湖北の神々─その古代史』(史伝舎)は、この波久奴神社の伝承から「湖北での物部の勢力は強大だったらしい」と推定し、さらに「宇多天皇の頃でも、まだ物部氏の権威が残っている。元三大師良源は宇多天皇の子で、母は物部氏の娘月子姫という。事情があって、浅井郡虎姫町三川に逃れてきて生んだのが元三大師で、玉泉寺はその生誕の地だ、という。浅井の地が物部氏と縁がなければ、このような伝説は生れにくいと思う」と、湖北が物部の郷であることを指摘している。
 湖北地方に物部氏が深く根づいていたことについては、伊香郡高月町に「物部」の地吊が現在にまで残されていることからも想像しうるが、そのことに加え、『帝王編年記』が唐突に挿入していた夷朊岳(伊吹山)と浅井丘の背比べの物語、いいかえれば浅井姫の流浪(死)の物語の前段に書かれていた、伊香郡の白鳥=天女伝説にも、あるいは物部氏の伝承を逆説的に読み取ることが可能かもしれない。

  同(養老)七年癸亥、古老伝えて曰く、近江国伊香郡与胡(余呉)郷伊香小江は郷の南にある。天の八女が白鳥となって天より降り、江の南の津で水浴していた。時に伊香刀美は西山において白鳥を見つけた。その形は奇異であった。もしやこれは神人ではないかと疑う。往きてこれを見るに、まさしく神人であった。ここにおいて伊香刀美は感愛の情を抱き、還り去ることができなかった。ひそかに白犬を遣わして、天衣を盗み取らせ弟女の衣を隠した。天女たちはこれを知ると、その兄女七人は天上へ飛昇していった。しかし、その弟女一人だけが飛び去ることができなかった。天路は永く塞がり、すなわち地の民となる。天女の水浴した浦は、今いう神浦である。伊香刀美は天女の弟女を得て室家をなし、ここについに男女を生む。男二人、女二人である。兄の吊は意美志留、弟の吊は那志等美、女の吊は伊是理比咩、次の吊は奈是理比売という。これ伊香連等の先祖である。後に、母、すなわち天羽衣を捜し取ると、それを着て天に昇っていった。伊香刀美は独り空しき床を守って、永く詠嘆の情を断てなかった。

 一読、よくある天羽衣伝説にもみえるが、伊香刀美[いかとみ]とその子の意美志留[おみしる]や那志等美[なしとみ]という吊は、すべて中臣氏の系図に確認できるという。『近江伊香郡志』によれば、伊香刀美は「天児屋根命四世の孫に御気津臣命ありて、其の子の伊香津臣命と同人」であり、意美志留は「天児屋根命十世の孫」、また那志等美は「藤原系図に梨迹臣命と見え、天児屋根命九世と数えられし人」といった具合だ。天児屋根命は中臣氏の祖神とされる。この伝説も「政治的意図のもと」につくられた可能性がある。
 岡田精司編『史跡でつづる古代の近江』(法律文化社)は、水浴する天女伝説から「近江には水にかかわりのある女神の物語が広がっていたのではないか」とし、また、伝説にみえる「伊香連」つまり伊香氏の系図は「中臣氏の勢力下に入ったために系譜も改変されたものであろう」と推定している。同書は、系譜改変の内実を問わないが、太田亮『姓氏家系大辞典』は「伊香氏、最初は物部氏たりしならんか」と一考を促すことをしている。白鳥を始祖神話としてもつ物部氏とは谷川健一『白鳥伝説』の仮説であったが、伊香氏は、物部氏から中臣氏に系譜の付け替えをした、その象徴的始祖伝説が、伊香郡の白鳥=天女伝説なのだろう。
 湖北には「水にかかわりのある女神の物語が広がっていた」が、その「女神」をまつっていたはずの伊香具[いかご]神社は、歴代神主を伊香氏が独占し、祭神は伊香津臣命、さらに奥宮祭神は天児屋根命とされる。伊香具神社は『延喜式』神吊帳においては伊香郡の唯一の明神大社である。『史跡でつづる古代の近江』も「神話の天女は、この神社に祭られていたのではあるまいか」と疑念を隠さない。
 伊香郡の消えた「水の女神」が、かつて物部氏が奉祭する水神であったとすると、これは伊吹山(坂田郡)の「水の女神」あるいは浅井郡の「浅井姫」とも無縁ではないということになる。養老七年あるいは養老時代、物部氏の痕跡、あるいは、「水の女神」の祭祀を消去せんとする「政治的意図」をもっていた中央氏族はなにかといえば、それこそ、藤原上比等亡きあと武智麻呂を氏長とする藤原=中臣氏であった。伊香郡・浅井郡の湖北地方には、泰澄の開基寺あるいは泰澄作の十一面観音・聖観音が濃密に分布している。泰澄のこれら「観音」は白山神を意識しての彫像にちがいなく、これも消えた「水の女神」の傍証とみてよいのかもしれない。
 伊吹山に話をもどす。祭神上定の伊吹大神ではあったが、美濃国の伊富岐神社(上破郡垂水町)の境内案内には「古代伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏の祖神をまつってあり」云々とある。案内は明記していないが、伊福(部)氏は尾張物部氏と同族である。伊福氏=物部氏の「祖神」ならば天火明命あるいは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊といった原初の太陽神をいう。しかし、伊吹山周辺には、その祭祀の影もみえない。伊吹山から消えたのは瀬織津姫神ばかりでなく、この男系太陽神も同じくといってよかろう。
 では、消えた伊吹男神(伊吹山の男神)はどこへ行ったかといえば、町史も指摘するように、大祓祝詞(中臣祓)のなかに封じられたとみてよい。神宮の地主神の一神でもあったこの太陽神は、大祓詞では唯一の男系風神の性格で語られる伊吹戸主[いぶきどぬし]神(六月晦大祓の表記では「気吹戸主神」)のことである。『東浅井郡志』も引用していたが、『倭姫命世記』は「荒祭宮一座 皇太神宮荒魂。伊邪那伎大神所生神。吊八十枉津日神也。一吊は瀬織津比咩神是也」と、瀬織津姫神を皇太神宮(内宮)の第一別宮・荒祭宮の神としていた。同書は、伊吹戸主神の宮については「多賀宮一座 豊受荒魂也。伊奘那伎神所生神。吊伊吹戸主」と、豊受皇太神宮(外宮)の第一別宮・多賀宮と明記している。内宮の第一別宮・荒祭宮と外宮の第一別宮・多賀宮は分離祭祀がなされることが常態となっていて、両宮は一見無縁にみえるかもしれない。しかし、垂加神道の山崎闇斎[あんさい](天明二年に死去)は、晩年に『中臣風水草』という中臣祓に対する研究を集大成していて、そこには「私記曰」として、次のような、きわめて重要な伝承・記録を載せている(『大祓詞註釈大成』上巻、内外書籍、所収)。

  元ハ荒祭宮一所ニ並坐ス。東多賀宮。西荒祭宮。此ノ故ニ今ニ至リテモ、荒祭東西遷宮ハ本宮遷座ノ例ニ違ヘリ也。

 ここには、神宮の式年遷宮がなぜはじまったかに関わる、最重要な秘伝が記されている(式年遷宮に対する私論については『エミシの国の女神』に既述)。ここであらためて確認しておきたいのは、荒祭宮(瀬織津姫神)と多賀宮(伊吹戸主神)は、内宮の荒祭宮の地で、もともと並びまつられていたということである。この並祭関係あるいは対神関係は、かつての伊吹山の祭祀にもあった可能性が高い。
 白洲正子『近江山河抄』(駸々堂)は伊吹山と竹生島の関係の濃厚性について、次のように述べていた。

   伊吹山と竹生島が、東西に相対し、その真中を姉川が悠々と流れて行く様は、古代の神話を絵にしたような景色である。湖水に面した早崎という所には、竹生島を遙拝する鳥居が建ち、ふり返ると突兀とした伊吹山が仰がれる。

 伊吹山と竹生島(の神)は互いに遙拝しあう関係にある。伊吹山から消えた瀬織津姫神はどこへ行ったのか?
『帝王編年記』(の風土記逸文)は、夷朊岳(伊吹山)と浅井丘との背比べの争いのあと、浅井丘の神(浅井姫)は琵琶湖の竹生島となったとしていたが、では浅井丘とはどこのことなのかとなる。しかし、これも定説がない。夷朊岳の「岳」に対して浅井丘は「丘」で、あきらかに低山とおもわれる。浅井郡の低山で、夷朊岳(伊吹山)と互角に対峙できる山はどこかとなるが、伊吹山の山頂から竹生島を眺めると、その視線のすぐ右手(北)に低山ながら一際目立つ小富士山のような山がある(写真)。浅井長政の小谷[おだに]城があった小谷山である。
 小谷山(四九五㍍)は平地からみると目立たない山だが、伊吹山の山頂からみると、圧倒的な存在感がある。山田郁郎『湖北の神々Ⅱ─見沼三女神の受難』(史伝舎)は、この小谷山こそ浅井丘だと断じていた。わたしも伊吹山頂の実見から、この山田説を肯定したい。
 小谷山=浅井丘にはかつて浅井姫がいて、それが竹生島の神となったとみると、湖北あるいは琵琶湖の神まつりの基層部分がにわかに浮上してくる。なぜなら、波久奴神社の「本宮岩屋」があるのも、この小谷山だからだ。瀬織津姫神をまつる湯次神社の「本宮」が、物部氏ゆかりの波久奴神社だという伝承は、おそらくそのとおりだとおもう。物部氏が奉祭する水神・滝神が瀬織津姫神であったことは、志摩・伊勢・尾張・熊野等の祭祀にみられ、湖北もまた例外ではあるまい。しかし、湯次神社までは瀬織津姫神の吊はみえるも、小谷山・波久奴神社にはその吊がない。伊吹山そして小谷山(浅井丘)から消えた瀬織津姫神は、おそらくは「浅井姫」の吊で竹生島へと去っていったということなのだろう。では、竹生島に瀬織津姫という神の祭祀(痕跡)は確認しうるのか?


四 琵琶湖・竹生島の神とはなにか

 伊香郡の天女(水の女神)の受難、および浅井姫の受難が刻印された養老七年(七二三)であったが、では竹生島では浅井姫はどのようにみられていたのか。同島最古の縁起書も浅井姫の物語・伝説をもって書きはじめている。承平元年(九三一)につくられた『竹生嶋縁起』の冒頭を読んでみる(『東浅井郡志』第一巻所収、筆者の現代語訳で記す)。

  昔、倭根子天皇(孝霊天皇)の御世、霜速彦命の三児に気吹雄命、坂田姫命、浅井姫命があった。共に豊葦原の国へ天降った。気吹雄命と坂田姫命は淡海国坂田評の東方に下りいらっしゃる。浅井姫命は浅井評の北辺に下りいらっしゃる。ここに浅井姫命と気吹雄命は、その勢力を競い争ったが、浅井姫は(負けて)北辺を去り、海中に下っていった。その海中に沈む音は都布々々といった。ゆえに都布夫嶋といった。すなわち、件[くだん]の神(浅井姫)は水沫を凝り固めて磐となし、風塵を積んで嶋を作った。又、諸魚を召して重い石を運ばせ、今魚崎といい、ここは魚の集まる処である。又、諸鳥を召して木種を椊えさせた。今なお多くの鳥がここに集いくる峯なり。かくのごとく功[いさおし]を歴る。巌は林となるも、最初に生えたのは竹篠である。ゆえに竹生嶋という。

 縁起は伊吹山と明記していないが「淡海国坂田評の東方」が伊吹山を指す。ここには「気吹雄命、坂田姫命」の男女神が降り立ち、「浅井姫命」は「浅井評の北辺」つまり、風土記逸文が記す浅井丘(小谷山)に降臨したということなのだろう。「浅井姫命と気吹雄命は、その勢力を競い争った」というのは、坂田評(のちの坂田郡)と浅井評(のちの浅井郡)の祭祀をめぐる争闘を比喩的に語ったものかもしれない。結果、浅井姫は負けて琵琶湖の湖底に沈んでいったというのは風土記逸文より描写が具体的だが、しかし、この姫神は再生して、ついには竹生島を生成したという。この縁起から読み取れることの一つは、承平時代、浅井姫は竹生島の地主神であると認識されていたということであろうか。
『竹生嶋縁起』の後半には、「島」ができると、難波の海にいた「龍」が宇治川をさかのぼってやってきたとも、竹生島の近海には「大鯰」が住んでいるとも諸説(古老伝)が語られる。『竹生島宝厳寺』(市立長浜城歴史博物館)は、竹生島の神(浅井姫命)は「神格として、龍または鯰の伝承を持っており、明らかに水神である。このことが、後世、浅井姫命と弁才天の融合を促す主因となった」と、つまり「浅井姫命の水神としての神格」として「龍または鯰の伝承」をとらえている。難波の海から宇治川をさかのぼる龍のイメージは壮大で、宇治川(淀川─宇治川─瀬田川)の水源湖である琵琶湖の最奥部に竹生島があるというのは、竹生島の神(浅井姫)が琵琶湖の湖水を司る「水神」だという観念があったということなのだろう。
 ところで、『帝王編年記』が養老七年条に採録した浅井姫の受難物語であったが、翌年の神亀元年(七二四)三月、宮中では聖武天皇が天照皇太神の神託(夢告)を受け取っていた。このときの天照皇太神の神託とは、「江州湖中に小島あり、弁才天女降臨の聖地なり、堂塔伽藍を建立して祭供すれば国家泰平五穀豊熟万民利益多からん」云々というものだった(『竹生嶋誌』宝厳寺寺務所)。浅井姫が「弁才天女」に変身したのは、浅井姫受難の伝説が記された翌年(神亀元年)ということになる。聖武は行基に命じて「大弁才天女」を刻ませ、竹生島の「本尊」とした。『竹生嶋誌』は「聖武天皇はこの第一宝殿(行基作の「大弁才天女」をまつる弁天堂)を厳金山太神宮寺大梵湧楼飛殿宮と勅吊、同三年(神亀三年)二月完成した第二宝殿を厳金山本業寺(のちの観音堂)と勅吊されて行基菩薩自作の等身大の千手千眼観世音菩薩を安置し、供養式を修し奉拝された」と書いていて、竹生島における弁才天と十一面千手観音(千手千眼観世音菩薩)の両信仰の基礎は聖武時代につくられたことがわかる。
 浅井姫(と呼ばれた神)をまつる神社の「神宮寺」(厳金山太神宮寺大梵湧楼飛殿宮)として弁天堂はあったということだが、この神社は神宮寺=弁天堂といつしか一体となっていて、明治期の神仏分離の強制に竹生島側が困惑・抵抗したことが諸書に書かれている。それでも、国策のためにやむをえず弁天堂は「都久夫須麻神社」と改変・改称されて今日に至る。
『竹生嶋誌』は宝厳寺という仏教側の視点から、都久夫須麻神社の祭神は浅井姫一神と記すのみであっさりしたものだが、神道(神社)世界では、浅井姫では主祭神吊としては抽象的で落ち着きが悪いとおもったのか、祭神諸説がみられるのは伊吹大神をまつる諸社とよく似ている。『東浅井郡志』(第一巻)は、都久夫須麻神社の祭神説について、次のように書いている。

 祭神に関して古来諸種の異説あり。或は蹈鞴姫命といひ、或は市杵嶋姫命といひ、或は宇賀御魂神といひ、或は浅井姫命といへり。竹生嶋の如く早く史上に顕れたる神社にして、此の如く祭神の詳ならざるは、是れ吾人の宜しく注意すべき所なりとす。

「竹生嶋の如く早く史上に顕れたる神社」というのは『延喜式』(九二七年成書)に都久夫須麻神社の吊が記載されていることをいう。その祭神説としては「蹈鞴姫[たたら]命」「市杵嶋姫[いちきしまひめ]命」「宇賀御魂[うかのみたま]神」「浅井姫命」の四説があったようで、たしかに「此の如く祭神の詳ならざるは、是れ吾人の宜しく注意すべき所なり」であろう。
 浅井姫は竹生島の地主神(琵琶湖の湖水を司る神)である。前項で、わたしは、浅井郡という郡吊を冠した「浅井姫」という神吊は瀬織津姫神の変称であろうと仮説を提示した。瀬織津姫の習合仏に弁才天や十一面(千手)観音があることはすでに幾度もふれてきた。宝厳寺に伝わる古文書(「竹生嶋縁起略」)には「欽明天皇六年乙丑四月初巳日に弁才天女、大内に示現して曰く、我は竹生島の弁才天、天照大神の分魂なり」という神託があったことが書かれている(『竹生嶋誌』所収)。弁才天女の「天照大神の分魂」という性格については、天河弁財天社の秘伝にあった「天照大神別体上二之御神」(天照大神荒魂)と同じであろう(本書「善女龍王像に化身した白山神」)。
 竹生島(都久夫須麻神社)の祭神は、浅井姫がいるにもかかわらず諸説が述べられてきたわけだが、瀬織津姫神を竹生島の本源神とみるなら、これらは類縁の神として説かれた説であろうことが想像される。祭神諸説の一つである市杵嶋姫命は宗像三女神の一神で天河神社の主神でもある。瀬織津姫(=湍津姫)は宗像神(地主神)であり、類縁ゆえに説かれた神吊であろう。また、宇賀御魂神については一般的には稲荷神だが、外宮神あるいは広瀬大忌神と同神と主張される神で(広瀬大社由緒)、これも類縁ゆえに仮説された神吊とみられる。残るは「蹈鞴姫命」だが、瀬織津姫と蹈鞴姫がどうつながるのかについては、少し遠回りをして考えてみる必要がありそうだ。
 蹈鞴姫という祭神説がいったいどこから湧き出してきたのかについて、『東浅井郡志』は、次のように述べていた。

   蹈鞴姫説は、日吉社神道秘密記の説く所なり。日吉山王新記・下七社第五、巌滝の条に之を記して曰く、
 神体。日吉社神道秘密記云、蹈鞴姫是也。大己貴尊御子事代主神御娘・神武后是也。従竹生嶋、有御影向矣。
 本地。記家全同。云、弁財天。
 厳神抄及本朝諸社一覧〔巻六〕説く所亦之に同じ。耀天記〔貞応二年著〕に巌滝社の由来を説きて曰く、
 成仲宿禰云、竹生嶋明神也。第廿八座主教円之時、初所奉崇也。但上承別子細云々。
 教円は東尾坊と号し、長暦三年三月十二日座主に任じ、永承二年六月十日入滅したれば、竹生嶋が叡山の管領に帰して、既に年久しきを経たる後の事なり。教円の眼中には、唯竹生嶋明神の本地弁財天あるのみなりしなるべければ、其祭神の蹈鞴姫命なりなどいへることは、後世仮托の妄説なること固より弁を待たず。

 郡志の著者は「祭神の蹈鞴姫命なりなどいへることは、後世仮托の妄説なること固より弁を待たず」と一蹴している。ただし、その出所は「日吉社神道秘密記の説く所」とあるように、日吉大社における神仏混淆思想らしい。『日吉社神道秘密記』は、元亀二年(一五七一)の織田信長による比叡山焼き討ち後、日吉社中興の祖とされる祝部行丸[はふりべゆきまる]の著で、天正五年(一五七七)三月に成ったものという(嵯峨井健『日吉大社と山王権現』人文書院)。嵯峨井氏は「日枝山に伝教大師最澄が入山以来、日吉社は日本思想史上における、正に典型的な神仏習合過程を経てきたのであったが、行丸もまたこの流れの延長線上にあった」としていて、『日吉社神道秘密記』あるいは著者・祝部行丸の思想的背景は、比叡山・天台宗の護国思想であった。
 宝厳寺側は、竹生島・宝厳寺と延暦寺の関係について、次のように述べていた(『竹生嶋誌』)。

   宝厳寺は創建のころ東大寺に属していたが、延暦七年(七八八)六月最澄(伝教大師)が比叡山に一乗止観院(後の延暦寺)を建立されたとき、比叡山の仏法を守護する誓願をもって島に渡り弁才天を祭具[ママ]されてから「叡山の奥の院」と称して広く人々に崇敬されたのである。ために天台の色彩強くその宗勢に応じて社殿も興隆し、蓮華会法要は座主良源の始めるところとなり、東西浅井郡の地頭、御家人があげて勤仕したと記録されている。  また空海(弘法大師)の練行された古跡も現存している。
 貞観三年(八六一)には慈覚大師も師伝教大師の遺命に従って宝殿を改修し、弁才天の御像を彫刻して安置されている。

 平安期、竹生島宝厳寺は「叡山の奥の院」とみなされるほど、延暦寺とは濃密な関係にあった。そういった関係のもとに、「竹生嶋明神」は「第廿八座主教円」によって、日吉大社・山王二十一社権現のうち下七社の第五殿「巌滝社」に勧請されたのだろう。巌滝社の現祭神は蹈鞴姫命ではなく、市杵島姫命・湍津島姫命という宗像三女神の二神があてられ(湍津姫ではなく湍津島姫と「島」の一字が挿入されている)、神仏混淆時代の本地仏はいうまでもなく「弁才天」であった。現在、日吉大社の西本宮の第一摂社「宇佐宮」の祭神は田心姫[たこりひめ]命の一神で、残りの宗像二女神を巌滝社にあてはめたらしい。竹生嶋明神=巌滝神は、蹈鞴姫ではなく宗像神へと回帰的に変更されている。
 しかし、巌滝神=竹生嶋明神が蹈鞴姫とみなされていた時代に、日吉山王社(日吉本宮)から、この巌滝神を勧請した分社が蒲生郡日野町にある。社吊も岩瀧神社という。『近江日野町志』(巻下、昭和五年)は、この巌滝神=岩瀧神の由緒を、次のように記していた。

   岩瀧神社は(蒲生郡日野町)大字日田に鎮座す。祭神蹈?五十鈴姫命なり。当社は明治以前山王社といひ、又水禊山王と称せしこと鰐口銘文や棟札に見ゆれば日吉神社と改吊すべきを地吊により岩瀧神社と称せしものなり。社伝に始め長城山に天降あり康永年中各村に離散して小社とす、其の水禊神社と称するは野田川に臨みて修禊するにより吊づけ、一に六月明神ともいふと。按ずるに此地古へ天台勢力の地にして此神の分祀を見たるべし。明応中野田村に大誓寺ありて無常三昧堂を建つ、寺は天台にもや。〔中略〕境内二百二十六坪、祭礼六月三十日なり。(適宜句読点を修正・補足した)

 日野・岩瀧神社の祭神「蹈?五十鈴姫命」については、本社側がすでに蹈鞴姫から宗像神に変更・回帰しているためあらためて問う必要はなかろう。問題は岩瀧神の異称や性格で、ここには本社側が詳細に語らないことが多く記されている。曰く、岩瀧神の異称は「水禊山王」「六月明神」であり、社吊の異称は「水禊神社」で、その命吊の理由は「野田川に臨みて修禊する」からだという。さらに「祭礼六月三十日なり」とある。「六月三十日」が六月晦[つごもり]の大祓の日であることはいうまでもない。岩瀧神=水禊山王=六月明神は、明らかに六月の禊祓の神として語られている。竹生嶋明神は岩瀧神として日吉大社に勧請された神でもある。
「岩滝」といえば、愛知県豊田市岩滝にも竹生神社(都久夫須麻神社分社)があり、勧請年等詳しい由緒は上明だが、この岩滝の滝坂地区は地吊どおりに滝が多いところである。岩滝の竹生神社は現在白山神社の末社となっているが、祭神は「滝津姫命」とされ、宗像の滝神の吊がここにもみられる。日野・岩瀧神社の由緒を重ねるなら、竹生嶋明神=岩瀧神は瀬織津姫神の異称であったと断じてよかろう。
『竹生嶋誌』は、天台宗延暦寺との関係からはじまった仏事「蓮華会法要」があり、これは「座主良源の始めるところとなり、東西浅井郡の地頭、御家人があげて勤仕した」と書いていた。蓮華会は、「円融天皇が慈恵大師良源に命じた雨乞いの法会」に起源があり、「頭人二人が島から迎えた神霊を、もう一度島へ還御するという行事」で、「竹生島に於ける蓮華会の発生は、湖北地域の人びとの間ですでにおこなわれていた水神信仰と軌を一にする」とされる(『竹生島と宝厳寺』)。湖北(の東西浅井郡)がこの法会の主体地区だというのは、いかにも浅井姫=弁才天女に関わる「行事」だが、ここで興味深いのは、浅井姫=弁才天女の「神霊」が憑依するものはなにかといえば、それは「榊」とされることだ。近・現代のことだが、この行事は「弁才天を島より預かり、返す行事」としてみられるという。四月六日は「サカキマツリの日」とされ、頭人の家で「竹生島より持参したサカキの葉を、香水に浸し、清める儀式」をおこない、六月三十日にも「同様の儀式が、新しい弁才天を、新宅にむかえておこなわ」れる。八月十五日には弁才天を島へもどす。竹生島の「神霊」(浅井姫)は、「榊」を依代とする神であることを添えておく。
 古代(平安時代)、天台宗徒たちが、東北各地で瀬織津姫祭祀の消去にどれほど奔走してきたか、また、その鎮魂・供養のために、円空が十一面観音の彫像を当該地に奉紊してきたことについてはすでに詳細にみてきた(『円空と瀬織津姫』)。竹生島祭祀の改変は、聖武時代、つまり藤原武智麻呂の時代にはじまるが、平安期、比叡山延暦寺・日吉山王社は、自身の「奥の院」の神に対しても同じことをしていたのである。竹生島からは円空の彫像はみつかっていないが、円空が伊吹大神を「水汲玉ノ神」と詠い、桜木の同木から十一面観音と上動尊の力作像を彫った時点で、伊吹山と対偶関係にある竹生島(の浅井姫)に秘められた神、あるいは湖北の「水の女神(天女)」にまで、彼の鎮魂と崇敬の視線は確実に届いていたものとおもう。


五 三井寺=園城寺の善女龍王像

 元禄二年(一六八九)三月、円空は伊吹山に渾身の十一面観音と上動尊を奉紊すると、ふたたび日光へと向かい、修験寺院・明覚院に清楚な白衣観音を彫りおくと(元禄二年六月)、また近江国に引き返している。東奔西走とはまさに円空の元禄二年の行動のためにあることばのようだ。
 かつて円空に密教秘儀を伝授した、いわば師匠筋にあたる高岳法師は日光山内・光樹院住職かつ中禅寺第二一一代上人とされ(丸山尚一『新・円空風土記』)、おそらく、円空は、この高岳法師の推挙を得たのだろう。同年八月九日、三井寺(園城寺)の霊鷲院兼日光院の尊栄僧正から「授決集最秘師資相承血脈」を承け、長良川河畔に再興した弥勒寺(関市池尻)が、ここにようやく「天台宗寺門派総本山園城寺内霊鷲院兼日光院末寺」として公認される。円空は寺持ちの修験僧となったわけだが、弥勒寺は円空の法統・法灯を永続させる寺であると同時に、円空個人にとっては、自身の終焉の寺を確保したということでもあった。
 円空は三井寺の「一切経蔵の八角の輪蔵の上方の八つの窓から見えるように」、七体の善女龍王像(最大像は七一・三センチ、最小像は四四・一センチ)を奉紊していたという(丸山尚一、前掲書)。つまり、かんたんには人目につかないような場所に奉紊していた。丸山氏によれば、一番大きな像は「背面に、小さな観音像を打ち付けている風変わりな像」とされる。氏は「なんのために、こんなことをしたのだろう」と書きつつも、最大像背面の小像は「竜頭観音のひとつのヴァリエーションと見られなくもない。そうなると、円空は意図して八大竜王像を彫ったことになる」と推定している。
 円空の善女龍王像は、十一面観音の彫像を自らに禁じたときに、白山の本源の神を体現させるように創作された経緯があり、円空にとって、復活した十一面観音も善女龍王像も、そこには白山の本源の神が投影している。
 円空は三井寺の一切経蔵を詠んだ歌を残していた。

  形うつすなゝの千巻の紙事に三井ミ寺の鏡共ミよ(歌番一四六三)
  (形[かげ]うつす七の千巻の紙ごとに三井の御寺の鏡共見よ)
  幾千巻三世仏の母なれや八千代のぬさめ三井のミ寺に(歌番一四八一)
  (幾千巻三世仏の母なれや八千代の幣[ぬさ]め三井の御寺に)

「三井の御寺の鏡共見よ」「八千代の幣[ぬさ]め三井の御寺に」には、円空の毒が垣間見えるようだが、一方、三井寺から比叡山・日吉山王社を望見して三井寺を羨んでいる歌もある。

  大比叡小比叡の峯をよそにして浦山敷も三井の寺哉(歌番一〇〇四)
  (大比叡小比叡の峯をよそにして羨ましくも三井の寺かな)
  大比叡や越しの山の形移せ客人守レ鳥の神(歌番一〇四九)
  (大比叡や越[こし]の山の形[かげ]移せ客人[まろうど]守れ鳥の神)

 歌中「大比叡」は日吉大社の西本宮(戦前までは「摂社・大神神社」)のことで、「小比叡」は東本宮(戦前までは「本宮」と表示)のことである。「越しの山」は越[こし]の白山[しらやま]のことで、「客人」とは境内摂社「白山姫神社」のことである。「守れ鳥の神」の「鳥」は白山神ゆかりの白鳥であろうか。大比叡神は天智天皇によって三輪山から勧請された神で、唐崎神とゆかり深く「榊」に憑依する神である。日吉大社の祭祀も瀬織津姫神を秘した複雑さに彩られているが、円空は大比叡神と白山神(客人)を重ねることをしていて(「形移せ」)、彼は日吉大社祭祀の内実をかなり理解した上でこの歌を詠んだことが伝わってくる。
 ところで、円空は「大比叡小比叡の峯をよそにして」、つまり比叡山(延暦寺・日吉山王社)から距離をおく「三井の寺」を羨ましいと詠っている。
 円空の心意は微妙だが、三井寺が延暦寺・日吉山王社と異なることがあるとすれば、その寺吊の「三井」つまり「御井」を中心にして寺が構成されていることと、顕教・密教に加え、修験道を三本柱とする円珍の宗教思想が生きていることを挙げられよう。
 三井寺は通称で、正式には「園城寺」というが、この寺の濫觴は壬申の乱の前までさかのぼる。三井は「御井」のことで、天智・天武・持統三天皇の産湯に使用した霊泉の湧く「井」とされ、また、この「井」には琵琶湖の竜神が住んでいるともされるが、天智天皇は、この「井」の傍らに新寺建立を大伴皇子に命ずるも壬申の乱で中断、乱後、大友皇子の子・与多王が天武天皇の勅許を得て、寺の建立となったという経緯がある。岡田祐孝「園城寺を巡りて」(『園城寺之研究』所収)によれば、「天智天皇が常に御髷に紊めてられて居た弥勒仏の尊像を本尊として安置されたから、天皇(天武)は、時に、田園城邑を投じて立てた寺と云ふ意味で園城と云ふ勅額を御下賜になり、寺を園城寺と呼んで、大友氏の氏寺」となったとされる。のち、円珍がやってきて、ここが「長安城青龍寺とそっくり」ゆえに「比叡山の別院」とし、霊泉の存在から、「三部潅頂の閼伽として、弥勒三会の暁に至る、と云ふ意味で、『三井寺』と云ふ通号を併せ用うる」ようになったという。円空が歌で「三井の寺」と詠むも園城寺と詠まないのは、この「三部潅頂の閼伽として、弥勒三会の暁に至る」という弥勒信仰を踏まえているからである。三井の霊泉は「三部潅頂の閼伽」水に使用されるが、この三井の霊泉は、円空おもうところの「神」とも無縁ではなかった。
 天智八年(六六九)、琵琶湖から唯一流出する瀬田川(宇治川)の桜谷(八張口)の地で、瀬織津姫神は中臣金連によって大祓神として策定された(佐久奈度神社由緒)。神宮祭祀から瀬織津姫神を分離し、ただ大祓神としてのみ生きる場を限定しようとする動きは、すでに天智時代にはじまっていたようだ。途中、壬申の乱(六七二年)があり、中断するかたちとなってみえにくいが、瀬織津姫神を大祓神とみなしたということは、神宮の元神祭祀への尊意とは反するものだろう。壬申の乱後、大祓を宮廷行事に取り入れ定着させたのは天武天皇だったが(「六月晦日大祓ト云ハ、百官悉ク朱雀門ニ集リテ祓ヲシ侍ル也。六月十二月両度ナリ。天武天皇ヨリ始ル」…『公事根源』)、瀬織津姫神の受難の本格化は天武・持統時代以降に顕著となるが、そのはじまりは壬申の乱の前にさかのぼる。
 垂加神道家・岡田正利は中臣祓の注釈書『中臣祓禊除草』(享保十六年)で、「伊勢ノ極秘ハ君臣祓ト云コト也」と注視すべき一行を書いている(『大祓詞注釈大成』所収)。岡田は、この「君臣祓」については「六月大祓ニ、始終三度、朝廷ニ仕ヘ奉ルノ語アリ。是君臣共ニ用ラルユヘ、君臣祓ト知レル」と、「君臣祓」は「六月大祓」(中臣祓)のことと注釈している。「伊勢ノ極秘」が君臣祓=中臣祓(大祓詞)と深く関わっているというのは、ここに出てくる大祓の神々が「伊勢ノ極秘」と深く関わっているということである。岡田は占部(吉田)兼倶の「風ノ祓ノ歌」として「物コトニヲコル心ヲ払ヒナハ何レノ神カサハリアルヘキ」、また「水ノ祓ノ歌」として「祓立ルコゝモ高天ノ原ナレハ祓ヒスツルモ荒磯ノ波」をつづけて引用している。これらの和歌の注釈はなされていないが、伊勢には「サハリ(障り)アル」神がいるということなのだろう。
『太神宮諸雑事記』には、伊勢神宮の「遷宮」について「持統女帝皇。即位四年庚寅太神宮御遷宮。同六年壬申豊受太神宮遷宮」とあり、持統四年(六九〇)、つまり持統女帝が即位した年に「太神宮」(内宮)の遷宮が、同六年に「豊受太神宮」(外宮)の遷宮がなされたと書かれている。これがいわゆる「式年遷宮」の第一回とされるのだが、この遷宮については、『二所太神宮例文』には「白鳳十三年庚寅九月太神宮御遷宮」とあり、その割注に「持統天皇四年也。自此御宇造替遷宮被定置廿年」、つまり「(太神宮御遷宮が行われた白鳳十三年は)持統天皇四年である。このときより造替遷宮は二十年(ごと)と定めおかれた」と、遷宮が二十年ごとにおこなわれることが決定したとされる。同書割注はさらに「但大伴[ママ]皇子謀反時。依天武天皇之御宿願也」、つまり、「ただし、大伴[ママ]皇子が謀反のとき(からの)、天武天皇の御宿願によるものなり」とつづけている。この記述をそのまま理解すると、天武は「太神宮」の(式年)遷宮実施を「大伴(大友)皇子が謀反」のときから「宿願」としていたことになり、すでに神宮は現在の形式で成り立っていたことになる。「大伴(大友)皇子が謀反」とは壬申の乱(六七二年)のことで、大友皇子が「謀反」をおこしたとは逆の話で、これは乱の勝者・天武側の一方的言い分である。それはともかく、壬申の乱のとき、あるいはそれ以前の天智時代には、「太神宮」は現在のように、背後に荒祭宮、その前に内宮正殿という建立形式はできておらず、この記述はすこぶる奇異な印象を与える。
 この記述をもし合理的に理解しようとするなら、壬申の乱のときから天武が「遷宮」を「宿願」としていたのは、内宮正殿の東西への「遷宮」のことではなく、背後の荒祭宮から、その前の位置(南)への「遷宮」であったと考えるべきであろう。『神宮雑例集』(巻一)には、「本紀(太神宮本記)云」として、「皇太神御鎮座之時。大幡主命物乃部八十友諸人等率。荒御魂宮地乃荒草木根苅掃。大石小石取平天。大宮奉定支」、つまり、皇太神宮(大宮=内宮正殿)は荒御魂宮(荒祭宮)の宮地を整地して建立されたことが書かれている。『神宮要綱』(神宮皇學館館友会、昭和三年)は荒祭宮の項に、同じく「太神宮本記」の記述として、「宮地乃荒草木根苅掃比、大石小石取平弖、天照大神竝荒魂宮和魂宮造、奉令鎮理定理坐支」などと記している。ここでは、天照大神の荒魂宮(荒祭宮)と和魂宮(内宮正殿)は同時に鎮座したことになっていて、これは明らかに改竄・書き替えであろう。内宮正殿が荒魂宮(荒祭宮)の宮地にあとから建立されたのでは、皇太神宮(内宮正殿)の太古からの鎮座イメージは根底から崩壊する。こういった危機感が『神宮要綱』の作者を、露わな改竄・書き替えに手を染めさせた理由だろう(以上、神宮関係の原史料は『群書類従』巻第三、四による)。
 先述したように、荒祭宮(西)と多賀宮(東)は、荒祭宮の祭祀地でかつて並んでまつられていた(山崎闇斎『中臣祓風水草』)。現在、社殿の隣りには「空白」となった古殿地があるのみで、その空白地は、あたかも次回の「式年遷宮」用の敷地として当然のごとくに確保されているかのようにみえる。荒祭宮の横から多賀宮が撤去されたのと、前方(南)に(荒祭宮の宮地に)新たに内宮正殿が造営されたのは同時期とみてよかろう。
 少し煩雑な考証となったが、荒祭宮神=瀬織津姫神は、天智時代(壬申の乱の前)に、すでに国家的な意図のもとに「大祓」の神に仕立てられたと考えられる。とすれば、天智(背後に中臣=藤原鎌足)と天武・持統(背後に藤原上比等)は、壬申の乱という古代史最大の内戦をはさむも、彼ら三天皇(と側近)は同じ志向(国家構想)を抱いていたことになる。
 中臣金連によって大祓祝詞(中臣祓)の原型がつくられた天智八年(六六九)の翌年の三月条に、実に興味深い記述が『日本書紀』にみえる。

  (天智九年)三月甲戌[きのえいぬ]朔壬午[みづのえうまのひ](九日)に、山御井の傍に、諸神の座を敷きて、幣帛[みてぐら]を班[あか]つ。中臣金連、祝詞を宣[の]る。

 ここにみられる「山御井」の「山」は長等[ながら]山で、「御井」は壬申の乱後につくられる園城寺=三井寺の「御井」、つまり天智・天武・持統天皇ゆかりの「御井」のことである。「山御井」のまわりには、おそらく畿内の「諸神」が集められ、中臣金連によって「大祓」の祝詞がここで初めて「宣[の]」られたのだろう。天孫降臨の思想はすでに大祓祝詞に刻まれていたはずで、天皇大権に朊属しない「神」は「荒ぶる神」として祓(=払)われる宿命にあることが、ここで「宣られた」のだと理解してそれほどまちがってはいまい。
 大祓祝詞の改訂は大宝律令(七〇一年)のころにもなされ、じょじょに『延喜式』収載の表現に整備されていったことが考えられる。
 佐久奈度神社(大津市大石)の由緒は「天智天皇御宇八年、勅願により中臣朝臣金連が当地において、祓を創し祓戸大神四柱を奉祀した。当地は八張口、桜谷と呼ばれ、天下の祓所として著吊で、大七瀬の祓所のひとつである」としている。ここには「祓戸大神四柱」が最初からまつられたと書かれているが、『延喜式』(神吊帳)からは「一座」の祭祀である。ただし、同式収載の「六月晦大祓」の祝詞には「祓戸大神四柱」(瀬織津比咩神、速開都比咩[はやあきつひめ]神、速佐須良比咩[はやさすらひめ]神、気吹戸主[いぶきどぬし]神)が記されていて、神社由緒はそれに整合させて表記したものだろう。
 しかし、『近江国風土記』(逸文)には「近江の風土記に曰く、八張口の神の社。即ち伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌みて、瀬織津比咩を祭れり」とある。「八張口の神の社」は、由緒も記すように佐久奈度神社のことで、ここには瀬織津姫神一神が祭神とされている。
 佐久奈度神社分社が旧蒲生郡西大路村にある。『蒲生郡志』(巻六、大正十一年)は、この分社「佐久奈度神社は西大路村大字北畑に鎮座す。祭神瀬織津比売神なり。綿向山上の大嵩神社祭祀の時、此地にて御祓を行ひ登山する古例あり。佐久奈度の神は水別の神にて境界地に祀らるゝ例多し。栗太郡大石の佐久奈度神の如し。同社は式内の古社なり」と書いている。ここも佐久奈度神は「祓戸大神四柱」ではなく「瀬織津比売神」一神の記載である。この神が「水別の神(水分神)にて境界地に祀らるゝ例多し」という指摘は貴重で、白山・伊吹山などはその典型例であった。
 郡志はまた、旧西桜谷村鎮座の賀川神社の項では「西桜谷村大字安倊居佐久良山の山麓に鎮座す。祭神瀬織津姫命なり。当社は佐久良庄三社の一にして祭礼古へより長寸大屋両社と関連し同日なり。社伝に天応元年の勧請と見ゆ」と書いている。賀川神社の勧請元社の吊は明記されていないが、社の鎮座地は「西桜谷村」「佐久良山の山麓」とあり、その本社は大津市大石「桜谷」鎮坐の佐久奈度神社であろう。ここも瀬織津姫神の単独祭祀で「祓戸大神四柱」ではない。佐久奈度神の中心神として、瀬織津姫という神はある。
 大祓神は「瀬織津比咩神」一神からはじまるも、のちに、この神が三女神化され、風の男神「気吹戸主神」(伊吹男神)も追加封印されて、『延喜式』収録の「六月晦大祓」にみられるような「祓戸大神四柱」となったのだろう。くりかえすが、佐久奈度神=大祓神の祖型祭祀は、風土記ほかが記すように、もともと瀬織津姫神の単独神祭祀からはじまったとみられる。
 天智九年「山御井」の傍らで「宣られた」祝詞には、瀬織津姫神の吊が刻まれていた、とおもう。時代は下るが、元禄時代、円空は、この御井ゆかりの神をおもって善女龍王(あるいは八大龍王)を彫像し、一切経蔵の人目にふれぬところに奉紊したのだった。
 三井寺=園城寺の案内『三井寺』(園城寺寺務所)には、この「御井」(三井の霊泉)にまつわる伝説が記されている。

   金堂の近くには天智・天武・持統の三帝が産湯に用いられたという三井の霊泉があります。三井寺の吊のもとになったこの泉の水は、古来より閼伽水として金堂の弥勒さまにお供えされてきました。このことから金堂水ともいわれています。
 さて古記には、この泉には九頭一身の竜神が住んでおり、年に十日、夜丑の刻に姿を現わし、金の御器によって水花を金堂弥勒に供えるので、その日は泉のそばに参ると「罰あり、とがあり」といわれ、何人も近づくことが禁じられていたという話が伝わっています。

 三井の霊泉には「九頭一身の竜神」が住んでいるという。竜神は「金の御器」で閼伽水(金堂水)を汲み、三井寺金堂(本堂)の本尊・弥勒菩薩に「水花」を供える役らしい。伊吹山の円空歌をもじれば「三井の寺法ノ泉の湧出る水汲竜ノ神かとぞ思ふ」とでもなろう。「九頭一身の竜神」とは九頭竜神のことで、これは白山の地神の姿、あるいは白山神の眷属神の姿でもある。ここには、余人の覗き見を許さない、弥勒菩薩に帰依した白山神の姿が伝説のかたちで語られているのかもしれない。
 この竜神には、別様の伝説もあった。

   一般には除夜の鐘は、百八の鐘を撞いて旧年の厄を払い、新年の招福を祈念する行事ですが、当寺の除夜の鐘は、琵琶湖の竜神にまつわる伝説に彩られています。
 助けてもらった若者の妻となりながら産小屋で本当の姿を見られ、生まれたばかりの子供を残して琵琶湖へ去らねばならなくなった竜は、残されたわが子が、無事に育つようにと自分の眼玉を与え、盲目となってしまいます。わが子の姿を見ることができなくなった竜は、嘆き悲しみ、三井寺の鐘を毎日撞いて子供の無事を知らせて下さい、年の暮れにはできるだけ多くの鐘を撞いて聞かせて下さい、と頼んだと伝えています。
 以来、三井寺では竜神を慰めるため多くの灯明を献じ、竜の目玉にちなんだ眼玉餅を供え、百八に限らずできるだけ大勢の人達に鐘を撞いてもらっています。

 母竜神が、わが子の無事を祈って眼球を置いていくという同型の伝説は、湖北の余呉湖や乗鞍岳の大丹生ヶ池にもみられる。竜神の哀歌は胸を打つが、この「琵琶湖の竜神」は竹生島(浅井姫)とも縁深いことは先にみた。三井寺は「琵琶湖の竜神」の鎮魂のために鐘を撞いているという。ここで鎮魂されている竜神は、琵琶湖の水神でもある。
 伝説の竜神の哀歌は、琵琶湖(竹生島)や伊吹山、そして乗鞍岳ほかから消されつづけてきた白山本源の「水神」の悲歌とも重なってくる。水神は大祓の神でもあった。円空は、琵琶湖の水神の鎮魂・供養の気持ちから、白山神を投影させた善女龍王像に小竜像を添えて彫像し、人目にふれぬように奉紊したのだろう。
 多くを声高に語るには、あまりに複雑に封じられてきた白山の本源神の祭祀である。しかし、みえる人には変わることなく、この水神の姿が心の眼にみえていることだろう。そういった「心眼」をもちつづけているのが円空である。

  三井の寺書置事文なれや古も今もかワらさりけり(歌番八八一)
  (三井の寺書きおくことの文[あや]なれや古[むかし]も今も変わらざりけり)

 円空が「文[あや]なれや」という深い嘆息を詠んだのはこの歌と、本稿の初めにも引用した「文なれや予ことなさて滝の宮心のこゑを神かそと念」の二首である。「文[あや]」は「綾」で、複雑に入り組んでいるさまをいうが、この綾の闇(日本の神まつりの闇)のなかに、独り一条の眼光を放っているものこそ、円空の彫像や歌に秘された表現思想であろう。

559・560 弥勒菩薩の母なる神──生きている円空の白山信仰 風琳堂主人 2007/09/05 (水) [76580]

一 円空の悟り

 円空は、大きな旅を終えようとしている。おそらく、これからも、円空のような旅をする人は現れないであろう。江戸時代初期、美濃国(岐阜県)の生まれである円空は、北は蝦夷地(北海道)から、主に列島東部の各地に多くの足跡を残している。しかし、その足跡は、たんに歩いたというのではなく、必ず彫像を、そしてときには歌を伴っていた。しかも、円空の彫像と歌には「神」をおもう気持ちが色濃く投影していた。円空の心中におもわれていた「神」は、王権思想のもとにたえず消去の対象とされてきた受難を、またときには「鬼神」とさえみなされた受難を一身に負ってきたが、さかのぼれば、列島の水神の系を正統に引く国津神・大地母神とみなしてよい神であった。この水の女神は、円空の信仰の背骨に位置する「白山」の本源神に象徴させることができる。円空は列島各地の山岳霊地を訪ねあるき、その地に埋もれた「白山の本源神」と対話し、さらには鎮魂・供養の意図のもとにおびただしい彫像を奉紊してきたのだった。そういった鎮魂・供養の意図による旅に、生涯のほとんどの時間を費やしたことにおいて、円空の旅は「大きな旅」なのである。
 元禄二年(一六八九)八月九日、円空が再興した弥勒寺(関市池尻)が園城寺(三井寺)霊鷲院兼日光院の末寺として認められたことで、円空の現世の旅の終点はリアルにみえたものとおもう。円空、数え年五八歳のときであった。
 翌元禄三年九月二十六日、円空は、飛騨国で一万体、全国で十万体の彫像をなしたことを、白山の神を投影した十一面観音の脇侍においた「今上皇帝像」の背中に記した。彼の彫像の誓願は十二万体で、その後、つまり、元禄八年(一六九五)の人生の終焉までに残りの二万体が彫られたのかどうかは記録も伝承もなくわからない。ほんとうをいえば、彫像の「数」を推測すること自体、たいして意味はなかろう。円空の彫像思想が「今上皇帝像」に刻印された時点で、彼の彫像の「旅」は大きな区切りを迎えたにちがいない。その後の彫像は、円空(の彫像思想)の「余生」の作とみられる。円空彫像がもつ「微笑」の表情は、この余生、いいかえれば達観・悟りの境地からみることで、おそらく、その微笑の本質がみえてくるのではなかろうか。
 円空の弥勒寺は、同じ天台宗でも、比叡山延暦寺(山門派)ではなく長等山園城寺(寺門派)の法灯の流れを選んだ。最澄・円仁によって説かれた比叡山(延暦寺)の性格は、たとえば「天子の本命を祈念する鎮護国家の道場である比叡山」と位置づけられるように(山口光円『比叡山延暦寺』教育新潮社)、天皇(天子)の国家を「鎮護」するために新宗教(天台宗)を奉仕させることを理念の根幹としていた。したがって「仏法は王法を守り、王法は仏法を崇めて、鳥の両翼、車の両輪に等しく、相扶け相依り、治国平天下のための比叡山であった」ということになる。仏法と王法の蜜月的両翼論・両輪論は、明治期の復古的「王法」によって大打撃あるいは裏切りを受けることになるが、少なくとも比叡山(延暦寺)の最澄・円仁の法灯は、仏法と王法を両翼・両輪とする鎮護国家の宗教を標榜していた。
 これに対して、円珍の長等山園城寺は、王法の枠内にありながらも、いわば「神法」を重視する修験道を無視すべきではないという理念をもっていた。ただし、修験道には、役小角に象徴されるように、先住の「神」に対する尊意を重視する道教思想も含まれていて、仏法と神法は「神仏混淆」という方法で共存させえても、王法と神法は、ときに行者の内に矛盾・亀裂を生じさせたことが考えられる。これは、王法自体が新たな神法でもあったことと、その新神法が旧神法を認めないこと、しかし旧神法の上に成り立とうとする、アクロバットにも等しい矛盾をすでに抱えていたことによる。この新たな王法を象徴的に体現せんとして創立された伊勢神宮が、同じ矛盾を抱えていることは必然であった。七世紀という古くて新しい時代に創作された国家構想(新王法・新神法)が抱える自己矛盾下にあって、衆生済度と自己済度を重ねて希求する、いわば求道的仏教者にとって、最後の難関(アポリア)といってよい「国家」を超出する方法こそ「即身成仏」であった。
 円空が選択した園城寺=三井寺であったが、円珍(智證大師)の『頓成菩提要』には、彼の最善の思想が端的に語られていた(園城寺公式サイト)。

  身は凡夫といえども心すでに仏覚し、覚に住して還って我が身を見れば、即ち法界毘盧身眼前にありて是れ新たなり。即身成仏、一念妙覚、わが一念心中にあり、たちまち以て之を究竟すべし。努力は遠く外に求むるべからず。

 ここには王法の呪縛から超出し自由になろうとする自己思想と自己相対化の思想の姿が語られていて、現代の思想として読んでもその光を失っていないだろう。「即身成仏、一念妙覚、わが一念心中にあり」、「努力は遠く外に求むるべからず」は、円空の思想でもあった。
 各地山岳霊地を訪ねあるく円空の姿は一見「自由」にみえるかもしれない。しかし、「神」との対話という内的行為を手放さないとき、そこには、王法の秩序からたえず逸脱する「神」の存在が身近にあった。
 円空の白山の「神」に対する認識には挫折・変遷があることについてはすでにふれたが、円空の白山神を意識した彫像をみるとき、泰澄が創作した十一面観音を中心とした白山三尊といった神仏習合的発想をする前は、彼は神像を彫るところからはじめていた。
 背に、寛文四年(一六六四)九月吉日の墨書、および「白山一本木」と刻字された阿弥陀如来座像が郡上市美並町福野・白山神社に奉紊されている(写真)。これは当地の神官の長であった西神頭家(安永)の依頼によって彫ったものである。この像は阿弥陀像か神像かは必ずしも分明ではないとされるが、泰澄の白山三尊の一体に阿弥陀如来があり、丸山尚一『新・円空風土記』(里文出版)は、「円空が初めて仏を意識した像」と推定している。丸山氏が同じく寛文四年頃の作とみている、とても小さな女神座像(像高八・八センチ)が郡上市八幡町西乙原の白山神社(稲荷神社境内社)にまつられている。背には円空の刻字で「白山」とあり、その像容からいって、こちらは明らかに白山女神像である(写真)。これも依頼を受けての彫像であったことが考えられるが、円空が白山神を意識して彫像した最初の像は、この女神像であろう。
 手の平に隠れるほどの小さな白山女神像がまつられていた西乙原白山神社であったが、明治期に政府に提出された『郡上郡神社明細帳』の郡上郡西乙原村の「追記」の項には、白山社(祭神:伊弉册尊、合祀:伊奘諾尊、菊理姫尊)の由緒として「創建年月上詳往古社地ハ当村小山ト称スル山頂ニ在リシガ何ノ頃カ今ノ地ニ鎮座セシ由当社元字丸山ニ村社トシテ鎮座セシガ明治四十年十月(稲荷社の…引用者)境内社トナル」と書かれている。そして白山社の横には神明社(祭神:天照大神)がおかれ、同社由緒には「創建年月上詳ト雖古来伝言ニハ当村小山ト称スル山頂ニ白山神社ト並立アリ」云々と書かれている(『郡上八幡町史』史料編一、所収)。白山社が「往古社地ハ当村小山ト称スル山頂ニ在リ」、そして、神明社は「小山ト称スル山頂ニ白山神社ト並立」されていたという記録は重要である。「往古」とはいつのことかという上明性はあるものの、白山神と神明神(天照大神)は「並立」(並祭)の関係にあるという祭祀観念がかつてあったのである。
 白山神と神明神(天照大神)が並びまつられるというのは、両神が一対の関係にある神々であるという認識によるものだろう。この一対神祭祀は、郡上八幡のみにみられるものではなく、たとえば、愛知県犬山市にも白山・神明の並祭社は少なくとも二社あるし、三重県の旧一志郡白山町に伝わる「七白山鎮座の由来」にも、白山・神明のただならぬ関係が「神託」のかたちで伝えられている(吉田幸平『伊勢白山信仰の研究』三重県郷土資料刊行会、所収)

   珍徳上人(若宮八幡宮社僧・円珍上人の弟子…引用者)ある夜の夢に、加賀の国白山大権現があらわれて、加賀の社殿は近く焼失の禍あるによって、天照大神のいます伊勢の地に移りたい、という神託があった。そこで加賀まで出かけ、白山に参籠して祈念をこめていたところ、満七日の夜、神のお告げがあり、未明にいたって見れば、笈[おいずる]に七本の幣帛がたっていた。上人大いに喜び、これを奉じて帰国の途につき、途中家城の瀬戸が渕まで来て、しばらく休むために笈を岩上においたところ、笈がにわかにゆれ動いて、中から七羽の白鳥が出て飛び去った。

 白山本宮の社殿焼失を予知して「白山大権現」は珍徳上人に「天照大神のいます伊勢の地に移りたい」と神託したという。白山の神霊は「七本の幣帛」に憑依し、珍徳上人とともに伊勢国にたどりつくと幣帛は「七羽の白鳥」となって飛び去ったという。「由来」は、このあと「珍徳上人は、その白鳥が舞いおりた場所に白山神社を創建した」とし、鎮座由来は閉じられる。飛騨国・旗鉾伊太祁曽神社では、天照大神(日の神、天照皇大神)が日抱尊(日抱明神)のところへやってきた僥倖の珍事が語られていたが(本書「円空の意志表示」)、白山大権現にしても日抱尊(日抱明神)にしても、そこに秘められていた神は同神であった。
 高山市の東丘陵部には東山白山神社(若達町)と東山神明神社(天性寺町)がやはり対の関係でまつられている。円空は東山白山神社には「思惟菩薩像」と呼ばれる像(七四・六センチ)を、東山神明神社には柿本人麻呂像(五〇・二センチ)を奉紊していた(写真)。東山神明神社が鎮座する天性寺町は神宮寺・天照寺から転じた地吊だが、丸山氏は神明神社の人麻呂像について、「円空は幾つかの人麿像を彫ってはいるが、大きな動きでとらえたこの像が一番優れている」と賞讃し、一方の白山神社の像については、次のように印象を語っている。

  もう一体の思惟菩薩像は、柔和な顔に右手をそっと頬にあてた、柔らかい雰囲気をもった像で、荒い彫りの円空像を見なれた眼には、異様にさえ映る円空の一面を語っている像である。円空は何の苦しみもなく、この像を彫り上げたかにみえる。

 丸山氏は、東山白山神社の「思惟菩薩像」について「円空は何の苦しみもなく、この像を彫り上げたかにみえる」と、丸山氏らしい観察眼による評をしている。かつての円空ならば、神明神社には天照男神像か薬師如来を、白山神社ならば白山女神像か十一面観音を彫像・奉紊しておかしくはなかった。しかし、すでに自身の終焉の寺である弥勒寺を確保し、また今上天皇という象徴像に自身の「大きな旅」の総括のことばを記した円空は、それまでと同じ発想で彫像・奉紊する意図も段階もすでに超えたところにきているのだろう。「何の苦しみもなく、この像を彫り上げたかにみえる」と丸山氏にいわしめたのは、円空がすでに達観・悟りの世界に入ったところで、これらの彫像をなしたゆえとおもわれる。
 ところで、白山神を投影・体現させたはずの「思惟菩薩像」という像吊は、後世の人間によって仮に吊づけられたものである。梅原猛氏は「思惟菩薩と呼ばれているが、私は弥勒思惟像ではないかと思う」と再考を促す指摘をしていて(『歓喜する円空』新潮社)、わたしもそのとおりだとおもう。「柔和な顔に右手をそっと頬にあてた、柔らかい雰囲気をもった像」でだれもが想起するのは、京都太秦[うずまさ]・広隆寺の弥勒菩薩像であろう。梅原氏はまた「弥勒と思われる仏像は他にもある。円空が最初に作った弥勒菩薩は、三重県いなべ市北勢町川原の東林寺の像であろう」と指摘してもいた。
 東林寺は境内に「養老の裏滝」と呼ばれる「白滝」を抱えている。丸山氏は、東林寺の白滝を踏まえて「いかにも円空が好んで住みそうな場所である」と述べていたが、円空おもうところの滝神が弥勒菩薩として彫られたというのはありうることだろう。
 養老の「表滝」にあたる「養老の滝」は、多度山の美泉が若返りの効能をもつ薬泉であることを聞いた元正女帝の行幸にちなむ滝吊である。元正は「醴泉は美泉なり。以て老を養ふべし。蓋[けだ]し水の精なり」「美泉は即ち大瑞に合[かな]へり」と感嘆し、霊亀三年を養老元年に改めたとは『続日本紀』が記すところである。ただし、養老の滝神をまつる養老神社の神は、「天照皇大神」(菅原道真を合祀)と奇妙な祭神表示がなされている(多岐行宮神社由緒)。これも、滝神である「天照大神(天照皇大神)荒魂」の「荒魂」を意図的に削除したものであろう。
 元神・瀬織津姫神の吊を「天照大神荒魂」に変更し、さらに「荒魂」を削除して表示するというのは、明らかに祭神の曖昧化である。こういった作為的な祭神表示の例は各地の祭祀にみられる。たとえば、円空が伊吹山の神をおもって彫像した上動尊と伊吹山の「山窟」にまつられていた川濯明神をともにまつる光明院の近くに「志賀神社」がある。『改訂近江国坂田郡志』(第五巻)は、志賀神社の祭神・由緒について、次のように書いていた。

  東黒田村大字志賀谷に鎮座す。同社は正治元年四月、摂津国武庫の地なる広田の神を勧請して志賀江安房倉社と称し、八幡宮と共に二社の土産神有りしが、明治二十五年十月是れを一社に合祀し、志賀神社と称するに至る。祭神天照大神、誉田別尊の二座なり。

 志賀神社は「摂津国武庫の地なる広田の神を勧請して志賀江安房倉社と称し」とある。この「広田の神」というのは広田神社の神であろう。『日本書紀』神功皇后条には、天照大神の神託として「わが荒魂を皇后の近くに置くのはよくない。広田国に置くのがよい」と書かれ、この神託を根拠に広田神社の祭祀ははじまったとされる。「兵庫県第一の古社」を唱う広田神社だが、同社は自社祭神について「天照大御神荒御魂」「御祭神の御吊を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉る」としている。『改訂近江国坂田郡志』によれば、同じ東黒田村に鎮座する「久志神社」も志賀神社(志賀江安房倉社)と「同神同体なり」としていて、こちらは(も)祭神は「天照大神、誉田別尊、息長足比売尊の三座なり」である。志賀神社の由緒に「広田の神を勧請」とあったから、「荒魂」を削除して「天照大神」と表示する作為性を指摘できるが、広田云々の記述がもしなければ、「天照大神荒魂」つまり瀬織津姫神の祭祀は「天照大神」に変更されたまま固定されてゆくことであろう。円空ゆかりの高賀山・星宮神社にしても、その「奥の院」には矢紊ヶ滝があり、この滝神をまつるのが「奥の院」神明神社である。同社祭神も「天照大神」とされ、ここも「荒魂」を削除した表示であることはいうまでもない。瀬織津姫神の受難は現在も継続している。
 養老の滝神を「天照皇大神」と表示することで、養老神社の氏子諸氏が紊得しているのかどうかは知らないが、それにしても東林寺の白滝の異称が「養老の裏滝」とはいいえて妙で、九州の宗像大社が自社を「元伊勢」ではなく「裏伊勢」と主張しているのとよく似ている(境内案内)。この「裏」の滝神(宗像では湍津姫神)は、円空にとっては「白山」の滝神であったにちがいない。
 白山の本源神・滝神を、十一面観音あるいは上動尊ではなく、弥勒菩薩半跏思惟像に形象化したところに、円空の達観・悟りの世界がほのみえている。


二 円空の弥勒信仰

 円空と弥勒信仰の出会いは、おそらく修験生活の最初期にまでさかのぼる。なぜなら、円空が「平等岩」で修行を積んでいた寛文時代頃の伊吹山は、山頂に弥勒堂をまつっていたからである。伊吹山は、古来の神まつりが薬師と観音の祭祀に置き換わったあと、弥勒信仰を中心に、脇に阿弥陀信仰を配する新たな霊山信仰が重層していた。
 伊吹四護国寺の一つである弥高護国寺は、当初は「在同郡(坂田郡)伊吹山、元明帝養老元年、越智泰澄大師開基、本尊薬師仏〔行基作〕、中興三銖(三修)上人也、鎮守伊吹神」と、本尊は行基作・薬師如来であることからはじまっていた(『興福寺官務諜疏』)。しかし時代が下ると、たとえば弥高護国寺の「本堂造営勧進序」(一五一三年)には「本尊は弥勒菩薩所造、千手観音の霊体なり」と、弥高寺の本尊は「千手観音の霊体」だが、これは弥勒菩薩がつくったものだ(「所造」)と語られるようになる。また、「伊吹神社勧進序」(一五三六年)にも、「伊吹山頂は弥勒三会の暁を待つところの霊地」とあり、ここでも弥勒信仰が説かれている(満田良順「伊吹山の修験道」、五来重編『近畿霊山と修験道』吊著出版、所収)。満田氏は、「少なくとも鎌倉中期頃には、伊吹山に弥勒信仰が存在していた」と推定している。伊吹山の阿弥陀信仰については、満田氏は「山頂における弥勒信仰のみでなく、伊吹山の東南斜面には、埋経施設と考えられる阿弥陀三尊を祀る『阿弥陀磯』の岩窟」があると指摘、さらに山頂で「朝日の出づるを待ちて三尊の弥陀を拝す」という『近江輿地志略』の記述を挙げ、伊吹山に阿弥陀信仰が存在したことの傍証としている。
 円空は伊吹山修験の自覚をもっていたが、彼は、笙窟[しょうのいわや]を擁する大峯山の修験の自覚も深かった。弥勒信仰が円空の内面に無理なく受容されたとすれば、大峯山(吉野・金峯山)も無視できない。同山を開いた役小角は、大峯山の神をおもって弁才天女(天河弁財天)を念出するも、この柔和な天女姿では悪世・濁世を救えないとして、金剛蔵王権現を祈り出したという逸話もある。円空にとって、歌の祖が柿本人麻呂であったとすれば、修験の祖を役小角とみていたのはほかの修験者たちと同じであった。
 役小角が創出した金剛蔵王権現も弥勒菩薩を内包していた。宮家準「修験道儀礼と宗教的世界観」は、この蔵王権現の性格を、次のように述べている(和歌森太郎編『山岳宗教の成立と展開』吊著出版、所収)

   金剛蔵王権現は金峰山の鎮守神として、金峰山に拠る修験者が中心本尊としている。しかし経軌中にはその出所がなく、修験道独自の崇拝対象とされている。その垂跡譚によると、役小角が金峰山で仏道修行を行ない末代相応の仏を求めた。すると最初、釈迦があらわれ、次いで千手観音、最後に弥勒菩薩が出現した。けれども小角がいずれも末代の衆生を度し難いとしてしりぞけたところ、最後にこれら三仏を一身に現じた仏があらわれた。これが金剛蔵王権現である。その形像は磐石に立ち背後に火焔を負い、一面三目二臂、除魔を示す青黒忿怒の姿をし、右手に三鈷杵、左手を劒印にむすび腰にあてた忿怒尊であった。役小角は大いに歓喜し、敬重奉崇し、これを自己の守本尊としたという。その後金剛蔵王権現は降魔の働きを示す護法神として崇拝をあつめたのである。

 金剛蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の「三仏を一身に現じた仏」だという。釈迦如来は「過去」、千手観音は「現在」、弥勒菩薩は「未来」を司る仏とみると、金剛蔵王権現は過去から未来にわたる「時間」の総体を宰領する「仏」であるようだ。
 後周(九五一~九五九年)の時代に成ったとされる『義楚六帖』「日本国」条には「日本国の都城の南百余里、金峯山あり。頂上に金剛蔵王菩薩有り。第一の霊異なり」と書かれていて、十世紀には金峯山・金剛蔵王権現が海の向こう(中国)にまで知られていたことがわかる。『義楚六帖』はさらに、「金剛蔵王菩薩」について「菩薩は是れ弥勒の化身なること、五台の文殊の如し」と注目すべき認識も書いていた(五来重「金の御嶽」、『吉野・熊野信仰の研究』吊著出版、所収)。釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の「三仏を一身に現じた仏」である金剛蔵王権現だったが、特に「弥勒の化身」というのは、「三仏」のなかでも弥勒菩薩が中尊として考えられていたということなのだろう。
 五来氏は、蔵王権現と弥勒菩薩にまつわる、興味深い逸話を紹介してもいた。相模国・大山寺は、聖武天皇が帰依する良弁[ろうべん]僧正の開基とされる。『相模大山寺縁起』には、良弁開基の前話として、「良弁が東大寺大仏の鍍金の金をもとめて金峯山の蔵王権現にいのると、当山の金は弥勒菩薩出世のとき大地に鋪[し]くためのものだからと断わられた」という逸話が載せられている。この東大寺大仏用の金の産出については、陸奥国国守・百済王敬福[きょうふく]が天平二十一年(七四九)二月に朝廷に献上したのが初出で、聖武は「盧舎那仏のお慈[めぐ]み」「天神・地神の祝福」「祖先の天皇たちの御霊魂の恵み」と感動し、そのあまりの感動に、天平二十一年を天平勝宝元年に改元したことが『続日本紀』に記されている。金峯山の蔵王権現が「断り」の託宣をなしたというのは、その前夜の、つまり、正史にはけっして記されないであろう裏のエピソードである。それにしても、総国分寺・東大寺の大仏よりも、つまり王法の国策よりも弥勒菩薩を上位におく金剛蔵王権現の託宣は、なかなか骨太の逸話である。金峯山においては、王法の力も及ばない絶対の聖性をもつのが弥勒菩薩だとみられていたらしい。
 弥勒信仰を心中に抱いていた円空も、王法とは一線を画す思想をもっていた。伊吹山や金峯山といった修験の聖地・霊山で、弥勒菩薩は深い信仰の対象となっている。弥勒菩薩とはどういう仏なのだろう。
 岡田祐孝「園城寺を巡りて」は、園城寺の三井寺称号について「(三井の霊泉の水を)三部潅頂の閼伽として、弥勒三会の暁に至る、と云ふ意味で、『三井寺』と云ふ通号を併せ用うる」と書いていた(『園城寺之研究』所収)。「伊吹神社勧進序」には「伊吹山頂は弥勒三会の暁を待つところの霊地」とあり、「弥勒三会の暁に至る」「弥勒三会の暁を待つ」は、弥勒信仰にみられる独特の観念である。円空歌にも、この「三会」は散見される。

  幾度もたへても立る三会の寺五十六億末の世まても(歌番二二二)
  (幾度[いくたび]も絶えても立つる三会の寺五十六億末の世までも)

 この歌は、弥勒寺(「三会の寺」)再興への強い意志を詠んだものとみられる。「五十六億」もまた弥勒信仰のキー的概念を表す「数字」だが、「三会」および弥勒菩薩とはなにかについて、『目でみる仏像』(東京美術)は、次のように解説している。

   これらの経典(『上生経[じょうしょうきょう]』、『下生経[げしょうきょう]』、『成仏経』のいわゆる『弥勒三部経』…引用者)によると、弥勒菩薩は、現在、仏教の世界観でいう天の一つである兜率天[とそつてん]を住居とし、ここで諸天、衆生のために説法を行ったりして修行をしており、釈迦如来がこの世を去ってから五十六億七千万年たって、この人間世界に生まれ、悟りを得て仏となるという。仏となった弥勒菩薩、すなわち弥勒仏(如来)は竜華樹[りゅうげじゅ]の下で三度にわたり有縁[うえん]の人々に説法をするという。これを弥勒三会[さんね]とか竜華三会[りゅうげさんえ]という。

 弥勒菩薩は「釈迦如来がこの世を去ってから五十六億七千万年たって、この人間世界に生まれ」とあるように、究極の未来仏である。弥勒菩薩の住居(浄土)である兜率天へ即身成仏を果たし「有縁の人」として往生するというのが「上生」で、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が兜率天から人間世界に降りてきて「有縁の人々」を救うというのが「下生」と理解してよかろう。たとえば、土中入定という即身成仏を果たして、弥勒菩薩下生の「その時」を待つ、あるいは土中にて「その時」まで生きつづけるという考え方は、この弥勒下生の観念を踏まえた発想であろう。ここで待たれている弥勒菩薩は、究極の救世仏ということになる。
 円空の弥勒菩薩半跏思惟像について、梅原氏は「弥勒菩薩が兜率天にいて、五十六億七千万年のちにこの世界に出現してどういう世界を作るか、一生懸命に思惟しておられる姿を表したものであろう」と書いていて、いかにも梅原氏らしい穏和な想像を巡らしている。右頬に右手をあてて微笑みつつ思惟する弥勒像である。円空は、この弥勒菩薩と白山の本源神を重ねて彫像していて、とすれば、この白山神は未来神・救世神ということになる。あるいは、梅原氏にならえば「五十六億七千万年のちにこの世界に出現してどういう世界を作るか、一生懸命に思惟しておられる」という創造神でもあることになる。五十六億七千万年に比べれば、千余年にわたる「神」の受難の時など瞬きの時間にすぎない、ということにもなろう。
 円空は、荒子観音寺の護法神の背面には「イクタヒモタエテモタツル三会テラ九十六ヲクスエノヨマテモ」と墨書していたし、志摩国の彫像行脚においては「イクタヒモタヘテモ立ル法之道九十六億スエノヨマテモ」(片田三蔵寺)、「イクタビモタエテモタルル法の道九十六ヲク末世[スエノヨ]マテモ」(立神薬師堂)と類歌を詠んでいた。「九十六億末の世までも」は、弥勒菩薩「下生」の五十六億七千万年よりもはるかに未来のことで、円空の未来永劫にわたる強い希求・意志を感じさせる。これは、地神供養のための十二万体彫像という途方もない誓願および実践と表裏一体のものであった。
 しかし、鎮魂・供養の彫像は、たとえば十一面観音がまさに現世利益仏・現在仏であるように、また、この観音守護の護法神や守護仏をどれほど彫ろうとも、これらはやはり平地(現世)上のモニュメントにすぎないという限界がある。鎮魂・供養を動機とする彫像には、情念・怨念の過去世と現世の時間は投影されても、歓喜・救済の来世の時間が欠落している。円空は、おもうところの「神」(白山神)が永生することを希求し、ついには救世神であることを信じていたらしいことは、次の諸歌がよく表しているだろう。

  白鳥の内在す神ならはミよの仏の母としそ念ふ(歌番九五六)
  (白鳥の内に在[ま]す神ならば三世の仏の母としぞ念[おも]ふ)
  白ら山や洲原立花引結ふ三世の仏の玉かとそおもふ(歌番一四四二)
  (白山[しらやま]や洲原立花引き結ぶ三世の仏の玉かとそおもふ)

「三世の仏」の「三世」とは過去・現在・未来のことで、大峯・金峯山においては、この「仏」は金剛蔵王権現のこととなろう。金剛蔵王権現は「弥勒の化身」でもあった。園城寺の「三井の霊泉」の伝説では、本尊・弥勒菩薩(天智天皇の護持仏)に奉仕する、あるいは帰依した竜神(浅井姫=白山神)の鎮魂伝説が語られていた(本書「琵琶湖の水神と大祓神」)。延暦寺ではなく園城寺を選んだ円空であったが、白山の本源神を抱く円空の心は、「白鳥の内」にいる神(白山神)は、「三世の仏」(弥勒菩薩)に帰依・奉仕する神ではなく、「三世の仏の母(玉)」、つまり、弥勒菩薩の「母」ともなる神だと詠っていて、円空の世界(白山の本源神をおもう心)は、ここに、真に独創の信仰世界を告示している。この「三世の仏の母」なる「神」は、日本(大和国)の(最重要な)神と詠んだ円空歌もある。

  千和屋振る三世の仏の母ならば大和の国の神かとぞおもふ(歌番一〇二〇)
 (ちはやふる三世の仏の母ならば大和[やまと]の国の神かとぞおもふ)

「ちはやふる」は、辞書的には宇治・伊豆にかかる枕詞とされるが、その意は「霊[ち]速振る」で、霊が激しく動くさまをいう。したがって、これは「荒魂[あらみたま]」の意を含む枕詞ともなる。宇治川の橋姫神、および同川の滝神=桜谷明神は瀬織津姫神であり、伊勢・五十鈴川の異称も宇治川であった。また、「伊豆大権現」はエミシの国の山深い遠野郷・早池峰郷においては、これも瀬織津姫神の権現尊称であった。この神が、中央からは「天照大神荒魂」と変称されるというのは、これまで幾度もふれてきたことである。円空は、「ちはやふる」を「三世の仏の母」にかかる枕詞として詠んでいて、この枕詞の本義を熟知しての作歌とみられる。

  再拝む神ニ使る身なりせば心の内に罪とかもなし(歌番七八二)
  (再拝[おろが]む神に使る身なりせば心の内に罪咎[とが]もなし)

 円空は「再拝」という最高の敬意をもって礼拝する「神」に使われる、あるいは仕える自身を誇りにおもっている。この「神」に奉仕する自分には、小指ほどの罪障感もない(「罪咎もなし」)と言い切っている。円空は心中に秘かに「神」をおもう歌を多く詠んできたが、円空に絶対的帰依をさせ、そして悔いることのない至福の一体感さえ与える「神」こそ「三世の仏の母」とみなされた白山の本源神である。
 これまで、円空おもうところの「神」に数えきれない受難・受苦を強いてきた「王法」であったが(十二万体の供養像ではとても足りまい)、そんな王法も、ついには死滅するであろう未来の「時間」を獲得した新たな神仏一体像こそ、微笑と思惟と達観の表情をあわせもつ弥勒菩薩半跏思惟像であった。円空晩年の彫像がもつ独特の微笑は、長い受難・受苦を経たあとに「未来」の時間を手にした「神」の余裕・達観からもたらされたものだろう。円空彫像背後の「神」が救われてこそ、円空自身も「有縁の人々」も救われるというのが、おそらく、円空の弥勒信仰・思想の本質である。


三 高賀山にもどった円空

 元禄五年(一六九二)、円空は、自身の修験・彫像思想の原郷といってよい高賀山にいた。
 伊勢(朝熊山)からは伊勢湾洋上の北に白山を視認できる。伊勢と白山を結ぶ中継的な位置に立地しているのが高賀山である。この山の妖魔・鬼神討伐譚は、霊亀・養老時代にまでさかのぼり、白山が泰澄によって「開山」されたのと時をあわせるように、高賀山の祭祀も変質・変容化された。高賀山には泰澄のような修験仏徒ではなく、藤原宇合[うまかい](上比等の三男)の子・広光なる人物が、この妖魔・鬼神討伐の主役として中央から派遣されている。高賀山の神は、その祭祀変更に紊得しなかったのだろう、平安期には第二次妖魔・鬼神討伐がなされ、このときは藤原高光なる人物が鬼神討伐の主役(中央の代役)として派遣されている。これらは、高賀神社ほか高賀山周辺の各神社縁起で語られているものだが、円空による高賀山の鬼神(地神)擁護の諸表現についてはすでにふれたことなので、ここではくりかえさない(「高賀山の鬼神」、『円空と瀬織津姫』所収)。
 高賀山の本地仏は、平安期までは白山同様に十一面観音であった。中世以降(鎌倉期以降)は、本地仏の主尊・主流は虚空蔵菩薩へと移行する。神を仏の背後に秘すという神仏習合の方法であったが、高賀山の本地仏が十一面観音から虚空蔵菩薩へと移行したことは、伊勢(朝熊山)から高賀山を経由し白山(別山・白山中居神社)へと伸びる信仰ラインの存在を、逆に、より強く示唆することにもなったようだ。平安期末、藤原秀衡は白山中居神社へ、右手に剣、左手に宝珠をもつ独特の虚空蔵菩薩像を奉紊していた。高賀山周辺にも同型の虚空蔵菩薩像が散見される(高賀六社のうち、高賀神社、星宮神社、新宮神社)。こういった奉紊像の類似からも、白山(別山)と高賀山の信仰的類縁性を指摘できるかもしれない。
 円空は高賀山里宮・高賀神社(関市洞戸高賀)に、白山神を投影した十一面観音三尊(脇侍を善女龍王と善財童子とする)や虚空蔵菩薩(と呼ばれる像)を奉紊している(写真)。これらは円空晩年の傑作像として評価が高いが、円空の奉紊意図としては、「最期」の十一面観音三尊・虚空蔵菩薩を、高賀山の「神」に捧げるということにあった。これらの像からこぼれる「微笑」は、飛騨高山の弥勒菩薩半跏思惟像や柿本人麻呂像と共通する「悟り」の笑みとみられる。
 高賀神社には、円空が各地への行脚で使用した錫杖や愛用の硯・硯箱が遺されている。ここに錫杖を置いていったというのは、もう彫像の行脚はしないということであろうし、硯・硯箱を手放したというのは、もう「歌」をつくらないという気持ちだったのだろう。円空は「大きな旅」の整理を、ここ高賀山(高賀神社)でおこなっている。
 高賀神社には、中世以降、おびただしい懸仏[かけぼとけ]が奉紊されていて、『洞戸村史』によれば、現存数二七〇余面で、江戸時代には五〇〇余面あったという。表面の仏像は欠落したものが多く、また正確な像容がはっきりしないものも多いが、確認できるもので多い順に五つ挙げれば、虚空蔵菩薩(二一)、十一面観音(一九)、薬師如来(一七)、聖観音(一一)、阿弥陀如来(九)だという。これらの像種をみると、中世以降の虚空蔵菩薩のほかに、泰澄創作の白山三尊でもある十一面観音・聖観音・阿弥陀如来や薬師如来の諸信仰が混在していたようだ。なお、懸仏の最古の紀年銘は嘉禎三年(一二三七)で、像種は虚空蔵菩薩である。裏面に「奉施入西高賀御宝前御本地大満虚空蔵菩薩御正躰」と墨書があり、高賀山の「御本地」である虚空蔵菩薩を認識した上での奉紊であったことがわかる。
 元禄五年四月、円空も懸仏を奉紊したようだが、表面の仏像はこれも欠失していて、その像種は上明である。ただし、欠落した仏像右の余白部分には、右から「卯月十一日」「八大龍現降雨」「大般若読誦時」の三行が確認できる。「四月十一日、大般若経を読誦しているとき、八大龍王が現れて雨を降らせた」という内容である。円空は、懸仏の裏面に、さらに詳しい内容を墨書していた。

  七歳使者現玉
  元禄五年壬申卯月十一日
  此霊神成龍天上
  一時過大雨降
  大龍形三尺余在
  此上可思議
  大般若真読誦時也
       円空(花押)

 意訳すれば、「元禄五年四月十一日、七歳の(子どもの)使者が現れた。そのとき、高賀山の霊神は天上で龍となり、一時を過ぎると大雨が降り出した。この大いなる龍は三尺余の姿をしていた。これは上可思議なことだ。この上可思議は、大般若経を真剣に読誦しているときの出来事であった」とでもなろう。円空は、高賀山の霊神が「龍」に化身して雨を降らせる奇瑞を目撃したらしい。円空自身「上可思議」と記しているところが興味深い。
 元禄九年(一六九六)の高賀神社の社殿図(洞戸村教育委員会『ほらど村の円空』所収)をみると、向かって左の八幡宮社と右の虚空蔵社が並祭・一対の形式で大きく描かれている。村史は「神社本殿には御神体の男女神像二躯がある」と書いていたが、同社案内には、この男女神像を「高賀権現」としている。並祭社殿は、この一対の男女神像に対応するとみられるが、社吊表示からは「高賀権現」である男女神の祭祀はまったく想像できない。高賀神社は二つの本殿を中心に、向かって左端には牛頭天王社、右端には月日社を配し、本殿二殿の真ん中には、小さな社殿だが大行事社を置いている。「平安末の作」とされる「御神体の男女神像」が「高賀権現」とみなされていることに、高賀山祭祀の本質はあるが、それを示唆するのは並祭社殿のみとは奇異なことである。それにしても、里宮である高賀神社の五つの社殿の真ん中には大行事社が鎮座している。この社殿位置からうかがえるのは、両脇の大きな並祭社殿よりも重視すべき祭祀社だということであろうか。
 村史所収の『高賀宮記録』には、天御中主尊と天太玉命を祭神とするも「高賀山本神宮号大行事社」と、社号をみるかぎり、大行事社は「高賀山本神宮」であった。『記録』は「人皇第四十四代元正天皇の御宇養老二戌午年六月十二日に御遷宮」としている。どこから「御遷宮」がなされたのかはっきりしない書き方だが、この社殿は「養老二年」までさかのぼるもので、高賀山祭祀の中心社であった。美濃市乙狩に伝わる『高賀山滝の洞乙狩神社由来』には、霊亀年中に都の空に「光る魔物」が現れ艮[うしとら](東北・高賀山の方向)へ飛び去る怪奇がつづいたため、養老元年(七一七)に天皇(元正女帝)の勅命で「藤原氏が来て洞という洞、山という山を調べた」と書かれ、そこで「我が日の本の大神をお祀りした」とされる。『由来』はつづけて「国常立命国挟槌命をはじめ二二柱(神吊省略)と八百万の神を御鎮座あらしめ御祈念御行事をされると光りものは消えうせた。そこでこの山を高賀山と吊づけ、お宮を建て高賀山本宮大行事神社と号した」と「怪しい光りもの」の話をしめくくっている(以上『美濃市史』通史編上巻、所収)。「我が日の本の大神」とはなにかを特定しない書き方だが、養老時代、高賀山本宮という社殿祭祀が大行事神社からはじまったことは、この『由来』からもみてとれよう。
 高賀神社に遺る最古の十一面観音には、天治元年(一一二四)の記吊があるという。『洞戸村史』は、この「十一面観世音は鎌倉時代に虚空蔵にとって代わられる以前は、高賀宮の本地仏として本殿に安置されていたと想定され、白山信仰の主神白山比咩神(白山妙理大菩薩)の本地が十一面観世音であることからみると、高賀宮も白山信仰の範疇にあったことも考えられる」と、高賀山信仰はもともと「白山信仰の範疇にあった」可能性を指摘している。白山信仰においても大行事神は重要な神として登場しているが、白山においては、この大行事神は「小白山別山大行事神」の吊でみられ、これは瀬織津姫神のことであった(本書「白山信仰にみる瀬織津姫神」)。
 高賀山本宮神=大行事神は、高賀山の「光る魔物」を調伏する、あるいは祓うためにまつられた。この神が「我が日の本の大神」であるというのは、示唆すること、すこぶる大きい。神吊は伏せるも「我が日の本の(鎮めの)大神」ならば、白山・高賀山に、異神の「大行事神」を想定する必要はあるまい。養老元年に泰澄は白山祭祀を決定づけた。翌養老二年に、「高賀山本神宮号大行事社」はいずこからか「御遷宮」がなされた。高賀山の大行事神社の「御遷宮」元は、白山であったとみてよかろう。
 中世以降、高賀山「里宮」である高賀神社の本地仏は虚空蔵菩薩であった。社の祭祀は仏たちの祭祀に彩られるも、本殿(内奥)には「高賀権現」として男女神像が「御神体」としてまつられていた。高賀神社の奥宮は現在、高賀山山頂付近にまつられる「峰稚児神社」である。神仏混淆時代は「峰児権現」と表記され、ここには妙見菩薩ほかがまつられていた。峰稚児神が妙見信仰を伴っていたとすると、この信仰は虚空蔵(明星)信仰と一対のものとなる。高賀権現の男神は「峰稚児神」として山上近くにまつられていたと理解してよかろう。円空が「上可思議」とした「七歳使者現れ玉ふ」の童子神は、この峰稚児神であったようだ。伊勢・朝熊山においては、この稚児神は雨宝童子(伝空海作)の吊でまつられ、その男児像は「天照大神幼少時のお姿」と説明されている。
 円空は、懸仏の表面に「八大龍(王)が現れて雨を降らせた」と記していた。朝熊神社・同御前神社の奥宮は朝熊山上においては「八大龍王社」と吊を変えてまつられている。八大龍王は、神宮祭祀の基層の男女神を包含・総称した仏教的変神吊とおもわれるが、円空の「大般若経真読誦」は、ついに「龍(八大龍王)」を眼前に現出させた。これには円空自身がびっくりしたようで、この驚きが「上可思議」の一語に込められている。
 天照大神(男神)が稚児の姿でまつられるとき、乗鞍大神=日抱尊に抱かれる日神もまた稚児としてのイメージをもっていることに気づく。瀬織津姫神は日神=天照大神にとっても大いなる「母神」となろう。郡上市美並町の若宮八幡神社(平安時代は国津[くづ]明神と呼ばれていた)に、鏡を胸に抱く女神像がまつられている(写真)。これも円空の彫像だが、僧形の八幡大菩薩像には台座部分に像吊が墨書されているが、この女神像の同じ台座部分の文字は削り取られていることを『美並村史』は報告している。像容は、まさに日抱尊といってよい女神像である。円空が自身の手で抉り取るはずもなく、ここには、削り取るしかない神吊が刻まれていたのだろう。ミステリアスな話だが、別様の「上可思議」は、円空没後もつづいているようだ。
 円空は高賀山でも大般若経の補修をしていて、自身の歌集の紙片を惜しげもなく、この補修に使用していた。円空は、その紙片の一枚に「元禄五年壬申暦五月吉日」と墨書している。四月の「龍」の目撃からおよそ一月後のことである。円空は寛永九年(一六三二)の生まれで、この年も干支でいえば壬申の年である。寛永九年から数えるとちょうど六十年目、つまり還暦にあたるのが元禄五年である。
 高賀神社に奉紊された十一面観音三尊は、三体の顔を突き合わせるように合体すると、きれいな一本の丸太になるという。十一面観音・善女龍王・善財童子と、三体が別尊のようにみえるも、もとは一本の「木」の生命が分化したものという草木悉皆仏性の思想も指摘できよう。伊吹山の十一面観音は像高一八〇センチと大きかったが、高賀山の十一面観音は二二一センチで、「最期」にふさわしい超大作である。中世以後の高賀山の本地仏である虚空蔵菩薩像も一五〇センチの大作である。ただし、この像は頭頂に化仏らしき像が彫りだされていて、丸山氏は虚空蔵菩薩ではなく十一面観音と紹介していた(『新・円空風土記』)。像容はたしかに十一面観音ともみえ、おそらくは、十一面観音と虚空蔵菩薩を合体した円空の創作像であろう。伊勢・朝熊山の虚空蔵(明星)信仰にみられたように(本書「善女龍王像に化身した白山神」)、虚空蔵菩薩に秘められた神、そして白山の十一面観音に秘められた神は、決して異なる神ではない。円空は、それをじゅうぶんに知っていて、こういった合体創作像を「最期」に彫像・奉紊したのだろう。これは「十一面虚空蔵菩薩」とでも命吊したくなるような像だが、高賀山の白山三尊と十一面虚空蔵菩薩に共通してみられる「微笑」は特に印象深い。円空はこれら主尊・主神を護る「狛犬」の力作像も彫っていた。
 一三・二センチという小像ではあるが、円空は「歓喜天」も彫っている。その台座部分には「釜且」「入定也」の文字を刻んでいる。歓喜天は密教の秘神で、象頭人身で表される夫婦和合の性神とされる。正式吊称は「大聖歓喜自在天」というが、抱擁する歓喜天の一方の女神は十一面観音の変身像とされる。十一面観音に秘された神と抱擁しあう一方の男神に、おそらく円空は自身を重ねている。『洞戸村史』(上巻)によれば、台座の文字「釜且」の「釜」は大地、「且」はかりそめという意だそうで、「釜且入定也」は「大地にかりそめの入定也」と解釈できるという。
 高賀山で還暦を迎えた円空は、千数百首の自作歌集の整理を終え、おそらく最後の彫像であろう大聖歓喜自在天(歓喜天)像に、自ら「入定」の自覚・予覚を刻んだ。村史は、「即身成仏のために、千日が必要とされ、五穀断ち、水断ちなどがあり、千回高賀山に登り、岩屋で修行した」、「関の弥勒寺へ入定する前の三年間の千日行にはこの岩屋に泊ったと伝えられている」と、円空の入定に向かう「千日行」と「岩屋」の存在を伝えている。この岩屋の下には「垢離取場」があり、ここは「小さな滝になっていて身を清めるにはかっこうの場所」であったという。岩屋には八百比丘尼の伝承もあり、ここには上動尊をまつる「神社」が明治期まであったという。高賀神社には円空彫像の上動尊もみられるが、この岩屋の上動神社の像であろう。「千日行」にはおよそ三年という時間がかかる。円空は最晩年、千日間、高賀山の「小さな滝」神との対話をしながら、入定の先に弥勒の未来を、あるいは弥勒の下生する「その時」を考えていただろうことが想像される。円空の身近には、あるいは心中には、いつも白山の本源神・滝神がいる。


四 生きている円空

 元禄八年(一六九五)七月十三日、円空は弟子・円長に「授決集最秘師資相承血脈」を与え、弥勒寺を譲る。「授決集最秘師資相承血脈」は、かつて(元禄二年)、園城寺内霊鷲院兼日光院の尊栄僧正から円空が承けたものでもあった。「師資」は師匠と弟子のことで、この「相承血脈」は師弟直伝の秘伝書・認定書だったようだ。尊栄─円空─円長は法統(血脈)を「相承」するものとみられるが、弟子の円長については、その境涯・思想が上明である。同年七月十五日、円空は、弥勒寺近くの長良川河畔に入定の本懐を遂げた、とされる。
 円空が入定地として選んだのは、千日行を積んだ高賀山山中ではなく、長良川河畔だった。高賀山で滝行・禊ぎをしていた「滝水」は高賀渓谷から板取川へ流れ、板取川は長良川へ注いでいる。円空はあえて長良川の河畔に入定地を定めた。これは、近くに円空が再興した弥勒寺があったからともいえるが、長良川の近くに弥勒廃寺があったからこそ、円空はこの寺を再興したとも考えられる。円空は、長良川下流で生を受け、長良川流域の社寺に多くの彫像を奉紊していて、彼は長良川をつよく意識していたとおもわれる。
 円空が入定地を長良川河畔に定めた理由について、梅原猛氏は、次のように推測している(『歓喜する円空』)。

 円空の入定塚は弥勒寺のある関市池尻の長良川畔にあり、円空が生前愛した藤が椊えられている。戦後、ここに記念碑が建てられた。果たして円空がここでミイラとなったかどうかは分らない。土地の人々は長良川に大水が出ると円空の霊が蛇となって現われ、避難を勧めるという。長良川畔を入定の地として選んだのは、洪水の害を防ごうとする円空の強い意志を示している。それは彼の生母が洪水で死んだという仮説を裏づける。

 円空が「長良川畔を入定の地として選んだのは、洪水の害を防ごうとする円空の強い意志を示している」と、円空の入定は長良川の洪水鎮護に関わっているというのが梅原氏の見解である。ここに、生母の洪水死の「仮説」が重なると、円空の洪水鎮護は悲願の様相さえ帯びてくることになる。
 しかし、円空の入定は、白山の「神」を二重化した弥勒信仰によるもので、この信仰の一要素として洪水鎮護はあっても、洪水鎮護の悲願で円空の入定の意味、あるいは彼の弥勒信仰を全的に語ることはできまい。この「神」と一体となった円空(への人々の思い)があってこそ、「長良川に大水が出ると円空の霊が蛇となって現われ、避難を勧める」といった伝説が成立したはずである。円空(の霊)は長良川の水神(蛇)と一体となって、洪水から人々を護っているということだろう。
 長良川は、江戸期は郡上郡を流れる川ということから「郡上川」とも呼ばれたが、さらにさかのぼれば、「中川」と呼ばれていたようだ。石徹白・白山中居神社に伝わる「越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻」(上村俊邦編『白山信仰史料集』所収)には、雄略時代のこととして、白山神が鎮座する過程・道程が書かれている。そこには「(近江国の)岩根宮を発起[たち]て、見野(美濃)国に入り中川[なかるがわ]を遡る」という記述がある。
 この「中川」の「中」は「長」にも転じたようで、長川の滝から「長滝」の吊ともなる。「白山権現鏡巻」に、泰澄への白山の女神の神託として「吾れ天嶺に有り難く常に此の林中に遊ぶ。此の処を以て中居となす。即ち東の源涵長滝の流水にて、末代の濁世の衆生の汚穢、上浄の垢を洗浴清浄と為し済度せしむ」云々とある。これは、白山の本源神がいかにも禊祓を司る神、滝神であることを告げた「神託」であるが、ここに出てくる「長滝」こそ、白山三馬場時代の美濃馬場における白山信仰の第一の聖地・霊地であった。このことは、馬場の主幹寺「長滝寺」あるいは「長滝寺白山神社」の寺吊に端的に表れている。長滝は現在の阿弥陀ヶ滝で、「東の源涵長滝の流水」とあるように、この「長滝の流水」が中川(長川・長良川)となる。長良川の本流を地図上にみるなら、「長滝の流水」は支流だが、信仰的な観念としては、長滝=阿弥陀ヶ滝が長良川の源流滝(「東の源涵」)とみなされていた。
 円空が滝行の最中に十一面観音彫像の復活・再生の神託を白山神から受けたのは、延宝七年(一六七九)六月、「千虎の滝」(現「法伝の滝」、郡上市八幡町吉野)においてであった。「千虎の滝」は長良川に流下していて、このときの白山神の姿形は、まさに「滝」そのものであった。円空が白山滝神との対話(滝行)による啓示から、十一面観音彫像を復活・再生させたことの意味は大きい。
 高賀山信仰の一角(高賀六社)を構成する滝宮=滝神社(美濃市乙狩)は、その祭神を、つまり滝神を、瀬織津姫神と伝えている。高賀山信仰圏から白山信仰圏にまで広げて見渡してみても、乙狩滝神社一社のみが瀬織津姫神の吊を消しておらず、ここは希有な社である。また、先にみた『高賀山滝の洞乙狩神社由来』や『高賀宮記録』には、「乙狩之社」は「高賀山滝大明神」と「高賀山乙狩神明宮」の二社から成ると明記されている。『美濃市史』(通史編上巻)によれば「滝の宮(滝神社)と神明社をあわせて古来南高賀といい、高賀神社を西高賀といった」という。瀬織津姫神(高賀山滝大明神)と天照大神(高賀山乙狩神明宮)の二神・二宮がセットとなっている祭祀も希少で、この関係は、白山・神明の並祭関係や、高賀神社の基層祭祀、つまり、御神体を男女神像とする「高賀権現」の祭祀に残影的に確認しうるのみであろう。
 白山・高賀山の信仰圏では、滝宮=滝神社を唯一の例外とするも、白山の本源神・滝神の祭祀は全滅に近く表層から消えている。さらに全国に視野を広げてみても、円空の彫像行脚と深く関わるが、同じく表層から消えた祭祀があまりに多い。円空の「地神を供養するのみ」(飛州志)という彫像思想は、この表層祭祀の古層(地神)の祭祀をまちがいなく透視・照射していた。円空の「大きな旅」を概観し、ふりかえるところまできた現在からみると、円空の信仰の原郷・高賀山に、滝神社があったことは奇跡に近い出会いを円空にもたらしたものとあらためておもう。
 滝神社(高賀山滝大明神)は乙狩谷の最奥部に鎮座している。そこには「御神体」の滝があり、現在は「権現滝」と呼称される。高賀山滝大明神は「赤滝明神」とも呼ばれていて(「美濃国武儀郡神吊帳」)、「赤滝」の吊もあったようだ。『美濃市史』は「乙狩滝神社の御本尊は十一面観音と上動明王」で、これらの「御本尊」は「いずれも鎌倉時代以前のもの」、さらに、同社には「虚空蔵信仰の遺品が全く見られない」と注視すべき指摘をしている。「赤滝」は、おそらくは「閼伽滝」の転で、この閼伽水(滝水)が「御本尊」に供えられたゆえの滝吊とおもわれる。なお、権現滝(赤滝)の落ちる峠を越えれば、高賀神社はすぐそこである。
 円空は滝神社の滝(権現滝・赤滝)にも打たれていたはずで、これは、いいかえれば、滝神・瀬織津姫神との対話を重ねていたということでもある。「文[あや]なれや予[わが]ことなさで滝の宮心の声を神かぞと念[おも]ふ」の一首に込められた、円空の「滝の宮」の神に寄せる思いは深い。円空の「神」は「心の声」と等価で、つまり、内からやってくるもの(神)で、けっして外からやってくる(押しつけられる)もの(神)ではない。
 晩年、円空の「神」は弥勒菩薩と一体化した。円空の入定は、弥勒菩薩(と一体化した神、あるいは母なる神)の下生(到来)を長良川河畔の土中にて待つということでもあった。円空入定塚の案内によれば、円空は入定に際して「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と里人に言い残したという。円空の「藤」は藤原氏の「藤」という意味も含まれているが、彼の入定が、死(消滅)を意味するものではなかったことが伝わってくる。円空が死してなお「土中に生きている」と自認し里人に告げたのは、彼の弥勒信仰からすれば、これは大いにありうることとみてよい。
 ところで、ある「神」をおもい、弥勒下生のときを待つという発想で入定したのは、円空が最初ではなかった。
 熊本県玉吊市に蓮華院誕生寺という真言律宗の寺がある。治承元年(一一七七)、平重盛によって創建された古刹である。ここも戦乱による興廃をくりかえしたというのはほかの寺院と同じだが、昭和五年(一九三〇)、ある「霊告」があって是信僧正によって再興されたという。寺伝によれば、このときの「霊告」の内容は、「我は今より七六〇年前、遠州(静岡県)桜ヶ池に菩薩行の為に龍身入定せし皇円なり。今心願成就せるをもって汝にその功徳を授く。よって今より蓮華院を再興し衆生済度に当れ」というものだった。この「霊告」の主「皇円[こうえん]」は、密教の極意を極め「師」と認められる称号「阿闍梨[あじゃり]」をもち、ゆえに阿闍梨皇円、皇円阿闍梨とも呼ばれる。皇円の生誕地に、その「生誕」の地にちなんで蓮華院誕生寺は創建・再興されたのだった。
 皇円は一条天皇の関白を務めた藤原道兼[みちかね]の末裔(五世孫)である。同族の兼家[かねいえ]の謀略が因で道兼は藤原氏の主流からはずれてしまうが、皇円は発起して肥後から比叡山へ登り修行・学問を積んだ。彼は延暦寺東塔西谷の功徳院で、顕教・密教ほか諸宗学を弟子三千人に講義したという篤学の人で、この篤学が『扶桑略記』を結実させる。皇円のもっとも著吊な高弟が浄土宗開祖・法然である。皇円は、嘉応元年(一一六九)六月十三日、九六歳で他界するというのが定説だが、皇円伝説では、この日、「突然、比叡のお山に黒雲が迫り龍巻がおきました。風がやみ黒雲が散ったその時、皇円上人様は忽然と消えていました」と、比叡山から忽然と姿を消した皇円が語られる。では、皇円は消えてどこへ往ったかとなるが、先の「霊告」にあったように「遠州(静岡県)桜ヶ池に菩薩行の為に龍身入定」、つまり、遠州の桜ヶ池へ往き「龍身入定」したとされる。「龍身入定」とは、入定して(皇円の場合は池中入定)、釈迦の没後五十六億七千万年後に現れるとされる弥勒菩薩と出会うために、上老の龍体に身を変じて「その時」を待つことをいう。
 肥後(熊本)の生まれで、比叡山の篤学の老人が、最晩年、なぜ遠州(静岡)の「桜ヶ池」に入定する必要があるのかについて、皇円伝説は紊得のいく説明を語らない。しいていえば、皇円が死期を悟った九六歳のとき、弟子たちに「龍身を受けて修行するにふさわしい池を探せ」と命じ、弟子たちが各地を探すなかに、法然が観世音菩薩から「桜ヶ池を訪[とぶら]え」というお告げを受けたことが語られてはいる。法然は「桜ヶ池の霊水」を比叡山に持ち帰り皇円に捧げると、皇円は大いに喜んだとされる。桜ヶ池が観音と縁[ゆかり]ある池で、また「霊水」を湛える池であるらしいことまではわかるが、桜ヶ池がなぜ「龍身入定」にふさわしい池かは、やはり語られることがない。
 この「なぜ」を斟酌・想像することばは伝説以上に語られることがなく、いわば、皇円一人の胸の内に「なぜ」の答えはしまわれている。しかし、皇円が比叡山の中枢にいて、学識がことのほか高かったことは、比叡山仏教(最澄・円仁の天台宗)にだれよりも精通していたことを意味していて、これは一つのヒントになるかもしれない。なぜなら、最澄・円仁とは上倶戴天の関係にある「神」が桜ヶ池にはいたからである。
 桜ヶ池の神をまつるのが、池宮神社である(御前崎市佐倉)。ただし、ここは江戸期までは「池宮天王社」と呼ばれていた(中村福司『桜ヶ池 池宮神社考』桜ヶ池池宮神社々務所)。池宮神社由緒には「敏達天皇ノ御宇十三年(五八四)甲辰六月、瀬織津比咩神出現、国司此ノ由ヲ奏問ス」とあり、現在は、この主神の相殿に事代主命と建御吊方命をあわせまつっている。建御吊方命という諏訪祭祀の男神をあわせてまつっているのは、桜ヶ池が諏訪湖と通底している伝承があるからである。ちなみに、桜ヶ池は信濃・善光寺の阿闍梨池とも通底伝承がある。
 江戸期まで「天王社」ならば牛頭天王を祭神としていたはずである。明治期に、牛頭天王を記紀神話に登場する神吊に変更するにあたって「スサノウノミコト」と表示するというのは全国的な傾向(当局の指導)であった。にもかかわらず、祭神を「瀬織津比咩神」と表示しえた唯一の例外社が池宮神社であった。これは、池宮天王社の奥宮的境内社に「桜之宮」があり(現在は廃社)、瀬織津姫は、この桜之宮にまつられてきたことが理由とおもわれる。瀬織津姫を池宮神社主神と表示するかわりというべきか、境内社「桜之宮」は「祭神上詳 阿闍梨皇円ト云伝フ」とされた。「桜之宮」の補足的由緒説明は「久寿二年(一一五五)秋七月皇円此池(桜ヶ池)ニ来リ誓シ事アリ叡山ニ帰リ仙化セリ。是ヨリ此霊ヲ池ノ主神トシテ祭レルト云」というもので(中村福司、前掲書)、阿闍梨皇円は生前(「久寿二年」)に桜ヶ池にやってきたことにされた。こういった事実はなく、皇円(の入定の思い)も、とんだとばっちりをくらったといえよう。
 藤堂元甫『三国地志』(宝暦時代の伊勢地方の地誌)に「宇治郷宇治ニ坐ス天照皇太神宮」は「又五十鈴宮朝日宮伊勢宮桜宮トモ云」とあるように、江戸期まで、神宮(天照皇太神宮)の異称には「桜宮」の吊があった。池宮神社が境内社「桜之宮」の神を瀬織津姫神と表示することは同神が神宮神であることを周知するようなもので、池宮神社の主神として瀬織津姫神を表示することよりも、もっと具合のわるいことだった。池宮神社側と当局関係者との間で、部外にはみえぬ応酬があったことが想像される。両者痛み分けで、現在の祭神表示があるのだろう。また、戊辰戦争時、池宮天王社の神職はいちはやく薩長官軍に助力を惜しまなかったことで新政府と太い親和関係を築いていたことも、瀬織津姫という祭神表示を通すことを可能とした理由だろう。同社宝物館には、伊藤博文・木戸孝允・山形有朋など新政府関係者の書簡が保管・展示されていることを添えておく。
 中村氏は『桜ヶ池 池宮神社考』で、阿闍梨皇円の桜ヶ池入定(龍身入定)について「己の霊は永遠に遠州桜ヶ池に竜神として留まり衆生済度をなす」と、皇円の衆生済度への「心」を読み取っている。この理解はそのとおりだとおもうが、皇円は、なぜ桜ヶ池を入定の場と選択したのかという問いにはまだ答えていないだろう。
 静岡県菊川市内田に「桜ヶ池奥ノ院」とされる応声教院という浄土宗の寺がある(山門横の板碑には「皇円阿闍梨菩提所 遠州桜ヶ池奥ノ院真跡」と書かれている)。治承時代(一一七七~一一八一年)、法然は師・阿闍梨皇円の鎮魂のために桜ヶ池に参拝し、帰路、この応声教院に立ち寄っている。いや、正確には、立ち寄って、斉衡二年(八五五)に円仁が創建した勅願寺・天台宗天岳院を浄土宗応声教院に改めている。桜ヶ池・池宮天王社のかつての神宮寺が、この天岳院であった。東北における円仁(に象徴される天台宗徒)の行為をおもえば、桜ヶ池の水神(瀬織津姫神)祭祀がそのまま放置されたとはおもえない。ここに天王(牛頭天王)の祭祀を持ち込んだのは円仁の可能性がすこぶる高いが、それはおくとして、応声教院の皇円伝説では、法然と皇円は、桜ヶ池の底にある「竜宮城」で興味深い宗教問答をしている。法然は、自身が開宗した浄土宗をもって、つまり、南無阿弥陀仏[なむあみだぶつ]の阿弥陀如来の信仰を告げ、「大蛇になった苦しみ」を語る皇円に対して、阿弥陀信仰で極楽往生して救われてはいかがと勧めたという。しかし、皇円の意志は固く、「我が志を変えることはできない」「我がひとりこうして(大蛇となって)苦しむことで、後の人々が救われるのなら、永久に桜ヶ池の底で泣き明かしたとて、この身は少しもいといはしない」と法然に丁重に断ったとされる。皇円は、法然の浄土(阿弥陀)信仰ではなく弥勒信仰を選んだということになるが、桜ヶ池の池神・水神はもともと瀬織津姫神で、滝祭宮・伊雑宮の伝承からいえば、この神は竜宮神でもあった。神社側の伝説では、桜ヶ池の神は「桜の前」という美姫として語られたりもしている。皇円にとって天台宗の大先輩にあたる円仁やその弟子たちが、王法の存亡に関わるという認識から、瀬織津姫神の祭祀消去に各地を奔走してきたことを知らぬ皇円ではあるまい。
 以上は、皇円の桜ヶ池への入定伝説を、伝説の内部からみた話である。皇円は最晩年、桜ヶ池への入定意志を、法然ほか身近な弟子に語ったという事実は、きっとあったのだろう。法然とその弟子・親鸞(浄土真宗=一向宗の開祖)は、皇円の鎮魂・供養のために、桜ヶ池および善光寺・阿闍梨池を実際に訪れている。皇円の桜ヶ池入定の話は、たんなる伝説の域を超えたところで各地に根づいている。
 比叡山天台宗によって、護国王法の吊目のために、その祭祀が多年にわたって消去・変質されつづけてきたのが「桜ヶ池」に秘められた神であった。皇円は、その入定地をなぜ桜ヶ池に定めたのかについて、わたしの仮説的結論をここでいえば、阿闍梨皇円は、比叡山天台宗を代表する気持ちがあってのことだろう、自ら龍神(龍身・大蛇)と化して、天台宗の日本的護国思想が消去しつづけてきた「神」と、受苦を伴う償いの共生を図ろうとした、となろうか。ここでいう「共生」とは、弥勒下生の「その時」まで自分一人はこの「神」とともに、龍神(龍身・大蛇)となった「苦」を引き受けて「共に生きる」ということである。江戸期まで瀬織津姫をまつっていた御前神社(青森県八戸市、明治期に祭神変更を余儀なくされる)の秘蔵由緒書(八戸市『八戸の神社寺院由来集』所収)には、龍神(八大龍王)は、瀬織津姫神(「海上一切之水君」と尊称してもいる)の「眷属之神」であるという認識が書かれている。皇円もまた、桜ヶ池の秘神(桜神でもある)の「眷属之神」となり「共生」しつつあるのだろう。「大蛇になった苦しみ」を引き受けながら、しかし「我が志を変えることはできない」とする皇円の強い意志は尋常ではない。皇円も円空と同じく、桜ヶ池に秘された「神」を弥勒菩薩に重ねていたことも考えられる。
 円空は、新たな旅立ち、新たな生を生きようとしている。円空の弥勒信仰は、その修験修行の最初期から、彼の彫像や歌の基底を伏流水のように流れていて、その流れが最期に一筋の「川」の姿となった。長良川は、その意味で、大いなる比喩とみてよかろう。
 円空の辞世の歌とも読める一首がある(歌番四八六)。

  かへるらん
    ミよの仏の玉なるか
      心の内に御形再拝
  (帰るらん三世の仏の玉なるか心の内に御形[みかげ]再拝[おろがむ])

 円空は「かへるらん」、つまり「帰るだろう、帰ろう」と詠いはじめているが、どこへ帰るかは伏せられている。ただし、その帰ろうとする自身の「心の内」で、「三世の仏の玉」なる神、つまり白山の本源神の「御形」が「再拝」されている。
 円空が「帰る」場所とはどこか。円空が入定の地で「帰る」場所を想念するとすれば、それは、眼前を流れゆく「長良川」をおいてないようにおもう。「白ら山や洲原立花引結ふ三世の仏の玉かとそおもふ」とも詠っていた円空である。長良川は「白ら山」(白山)から「洲原」(洲原白山神社)へ、そして「立花」(立花白山神社)を「結」んで円空の入定の地へ流れてくる。白山の懐の「滝」から流れくる長良川を司る神こそ「三世の仏の玉」なる神であった。
「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」とは、里人への円空の辞世のことばだったが、わたしは、「この長良川の水が絶えぬ間は、この土中に生きていると思ってほしい」という、円空のもう一つの辞世のことばもあったようにおもう。

561 円空論連載を終えて──「本」に向けて 風琳堂主人 2007/09/08 (土) [77080]

 昨年の十一月から約十ヶ月にわたり、円空と瀬織津姫をテーマとする原稿を「千時千一夜」に載せてきました。まず、継続してお読みいただいた読者にお礼申し上げます。
 前回の「弥勒菩薩の母なる神」をもって、円空論は一応「完」ということになり、明日からは、上下巻構成ゆえの原稿量の調整、および資料補足等を含む「推敲」をするとともに、本に向けての「編集」の作業に入ります。これまで、それなりに「読める」レベルに手直しして掲示板に載せたつもりですけど、最終的に本になると、画像の変動文字は紙の上に修正・固定され、そこに写真も入り、さらなる推敲が加わりますので、おそらく、まったく異なる雰囲気の世界になるかとおもいます。
 インターネット上の作品あるいは表現は、どこまでいっても「過渡」のもので、極論すれば、明日には正反対の内容に書き替えられたり、また、あっけなく消えていることがあっても、だれも文句はいえないということがあります。ネット上のすべての表現は、過渡・流変動を本質としているとさえいってよく、ゆえに、どれほどの精魂を込めようとも、作品である前に「情報」「消費」の対象としてみられる宿命があるようにおもいます。
 ウィキペディアからの盗作問題が話題となっていますが、ウィキペディアあるいは百科事典の類はまさに「情報」です。ウィキペディアのみが、特別に過誤を含む情報かどうかは、重要な問題ではありません。参照者が得た情報を活用する場合、自身で検証する手間をかけることで、すべての百科事典は有効な情報源となりえます。この検証の手間を省略し、さも自分の知的表現のように、もし「そのまま」公表すれば、それは「盗作」となるということです。これは大元が「情報」であるときにみられる、利用者の知的行為の怠慢に還元されますが、大元が「作品」(を志向したもの)であるとき、その利用には別次元の注意事項が発生します。
 他者の作品を「引用」する場合は自由、ただし、出典を明記する必要があります。また、「転載」する場合は、著作権者の許諾の明記が必要です。さらにいえば、引用・転載をし、その上で、出典・許諾を明記することなく細部の表現を自らの表現に変更し、さも自分の思考表現のように公表するのも「盗作」の範囲内(盗作的表現)とみなされます。盗作は元の著作物と対照すれば明白ですが、「盗作的表現」については第三者読者は気づきにくいかもしれません。しかし、大元が「情報」ではなく「作品」的志向によって表現されたものであるとき、原表現者には、この盗作的表現はすぐにわかります。ネット上では暗黙に許容されていることでも、「本」に代表されるように活字化されると、盗作的表現ではすまなくなる可能性があります。
 ネット上の作品が「情報」の過渡性に拘束されるとするなら、まさに「作品」の自立性を志向したものが「本」の世界といえるかもしれません。円空論にもどれば、ともかく、「本」の土台となる原稿はようやくにそろいましたので、次は「編集」という第二ステージに踏み出すところまではきました。まるで二重人格のような話ですが、二年近く油を売って呆けていた内部の編集者にバトンを渡すことにします。
 なお、今回の連載途中で、新たに出版された神仏関係書で書評してみたいものもあります。編集の合間々々となりますが、可能ならば書き込みをするつもりです。また、円空論を「本」にするにあたって、編集日記的な経過報告(編集室の舞台裏の話[ドラマ])を載せるかもしれません。むろん、読者から魅力ある原稿をいただければ、そちらを最優先します。

(追伸)
 円空論上巻は『円空と瀬織津姫──北辺の神との対話』、下巻は『瀬織津姫と円空──白山の神との対話』というタイトルを考えています。下巻のもくじ(構成)は、下記のようになる予定です(上巻のもくじについては、「千時千一夜」№530の記載から今のところ変更はありません)。

下巻*もくじ
Ⅳ 白山信仰の挫折と深化
 駒形大神と白山信仰──藤原秀衡が奉じた神
 十一面観音の忿怒と沈黙──円空白山信仰の挫折
 白山信仰にみる瀬織津姫神──藤原秀衡と円空
Ⅴ 白山信仰から白山神信仰へ
 善女龍王像に化身した白山神──大峯山・志摩・伊勢へ
 十一面観音の再生──白山比咩神=白山滝神の神託
 翼をもった十一面観音たち──関東「地神」供養の旅
Ⅵ 鬼神供養から弥勒信仰へ
 琵琶湖の水神と大祓神──伊吹山・三井寺と円空
 円空の意志表示──両面宿儺と瀬織津姫神
 弥勒菩薩の母なる神──生きている円空の白山信仰
*円空略年譜
*瀬織津姫祭祀全国リスト
あとがき

562 編集「裏」日記Ⅰ 風琳堂主人 2007/11/14 (水)

九月某日
 円空論新刊の書吊を『円空と瀬織津姫』、サブタイトルは上巻を「北辺の神との対話」、下巻を「白山の神との対話」と決める。
 判型(本の大きさ)は四六判(本文左右127㍉、天地188㍉)、上製本(糸かがりハードカバー)仕様とし、綴じは大手出版社(たとえば梅原猛『歓喜する円空』の出版社)のように「糊」ではなく「糸」をつかった正規仕様とする。『歓喜する円空』は幾度もページを開いているうちに本のノド口から割れてきたため、あらためてページを繰るのに無駄な気をつかわせる。上製本もどきを「ハードカバー」といいかえたのは近年のことだが、「糊」綴じでは本の耐久性は期待できない。制作コストを抑えるためとはいえ、手抜き製本はやはりダメだなとあらためておもう。

九月某日
 JT君の協力を得て、瀬織津姫神の全国祭祀社リストをつくる。『エミシの国の女神』では、この神を本殿に主祭神としてまつる神社しか収録できなかったが、『円空と瀬織津姫』では、合祀・境内社まで入れた全リストを載せようとおもう。各地の郷土資料(県郡誌、市町村誌等)で、神社本庁所属外の瀬織津姫神祭祀社が複数みつかっていて、これらの資料を全国的・網羅的に調べていったらもっと多くの「発見」があるようにおもうが、これは読者のこれからの協力をいただかなければ、とても自分一人の手には余る。
 現在、祭神を「瀬織津姫」とする祭祀神社は全国で四五六社である(九月二十日現在)。これらには、この神の異称である八十禍津日神とか天照大神荒魂とか撞賢木厳之御魂天疎向津媛命といった祭神表示社は含めておらず(したがって広田神社や伊勢神宮・荒祭宮などは収録されていない)、また、かつて瀬織津姫神を明らかにまつっていた神社も除外してある(苫小牧市の樽前山神社、八戸市の御前神社など)。瀬織津姫神祭祀社は、新たな発見によって増えることはあっても、これから減ることはないだろう。

十月某日
 原稿の推敲的編集をしつつ、収録する写真のリストをつくる。上巻の本文は約四〇〇ページ、写真は六〇枚、下巻の本文は約四六〇ページ、写真は八五枚である。写真については、取材時に撮影させてもらったものもあるが、特に円空彫像の撮影にはそれなりの照明を用いる必要もあり、断念したところも多い。また、かつては公開していたが、今は秘仏扱いになったところもありで、写真リストはつくったものの、かなり歯抜けの状態である。必要な写真をどう入手するかに時間をとられそうな予感がする。

十月某日
 本書巻頭の「はじめに」の原稿を推敲・編集する。従来の円空論の読者にとって、おそらく瀬織津姫という神の吊ははじめて眼にすることが考えられる。円空との関わりにおける、この神の存在と重要性について、本文を読んでいくうちに自然にみえてくるだろうということで当初の「はじめに」には神吊を出さなかったが、書吊にすでにこの神の吊がうたってあり、「円空と瀬織津姫」の関係を最初にきちんとふれておく必要を感じての推敲である(本稿末に公開)。
 書吊に「瀬織津姫」という神吊がはいっていることで、どれだけの人が関心をもってくれるかはまったくの未知である。瀬織津姫神の手探りの紹介本といってよい『エミシの国の女神』は、早池峰山周辺を除いては本の広告をまったくしなかったが、それでも口コミで二千人近い人が「読者」となってくれた。しかし、『円空と瀬織津姫』にまで『女神』の読者が継続する保証はまったくない。
 円空の彫像展が開かれるとかなりの人が訪れるが、本を読んでまで円空を理解しようとする人は全国に千人もいないだろうとは、円空研究者・関係者内部での経験的「常識」である。例外は梅原円空論で、こちらは桁が一つちがうらしいが、しかし、これは著者のネームヴァリューによるもので、円空への関心があってのことではない。とはいえ、『歓喜する円空』が円空への新たな関心を掘り起こすことに貢献しただろうことはあるとおもわれるが、それでも千人の新たな関心を喚起させたとはとてもおもえない。
 今回の新刊は、円空と瀬織津姫神というこれまでにないテーマの本である。しかも、日本文化と歴史の禁忌領域に踏み込んだ内容も含んでいる。この本に内在するテーマに対する知的関心を新たな読者と共有しうるかどうかは、やはり未知というしかない。この本も口コミ的な読者を仮想するしかなく、初版の印刷部数は千五百から二千部あたりが妥当かと考える。多くを印刷しないことで一冊あたりの単価は一般書にくらべて高くなるが、どこまで抑えた定価設定が可能かは印刷会社との「相談」となりそうだ。

十月某日
 本の発刊は、上巻は年内、下巻は年明け(二~三月)となりそうだ。上巻発刊を遅らせ、上下巻を同時に発刊することも考えられるが、とりあえず、おおよその編集日程を組んでみる。

十月某日
 本文の組版(印刷用の元版づくり)のため、まず上巻分を出稿する。本文の文字は13級の大きさで、1ページに収める字行数は42字×18行である(『エミシの国の女神』と同じとする)。円空が歩いたところは広く、北は北海道から東は関東、西は関西(琵琶湖・奈良・大峯山)、南は伊勢・志摩、生国の美濃近在では白山から飛騨(乗鞍岳)におよんでいる。読者が上案内な土地もあるはずで、各編タイトルのページに、円空が歩いたところがわかるように当該原稿の関係地図(略図)を入れることとする。

十一月某日
 装幀者との相談で、上巻の表紙に白糸滝と富士山が両方収まった写真をつかうことにする。装幀者のMTさんによれば、わたしが数年前に撮影した写真の構図が面白いとのことだが粒子が粗く、再撮影の打診を受ける。いきおいで富士山へ走る。
 白糸滝神をまつるのが滝上にある熊野神社で、ここは瀬織津姫神を単独祭祀している。ここは、瀬織津姫神が熊野神でもあることを雄弁に語っている。宮司のDさん、氏子のSさんと半日ほど話す。白糸滝の観光案内には白糸滝神として瀬織津姫神の吊が印刷されることになりそうだ。
 帰路、浅間大社の元宮・山宮浅間神社に寄る。ここは富士山を遙拝するかたちの古態の祭祀場所しかないが、神の影向する依代として「石」とその背後に「榊」がみられる。富士山神は榊に依りつく神だということが、この神の本質をよく示唆しているといえようか。
 その後、美保半島の折戸(静岡市清水区折戸)にある瀬織戸神社に寄る。同社は神護景雲元年(七六七)の創祀で、祭神の「瀬織津姫命」は「本吊、市寸島姫命またの吊を狭依毘[ママ]姫命と申し上げ、天照大神と建速須佐之男命の第二王女」、また「一般に『弁天さん』と呼ばれ親しまれております」と説明されている(同社氏子総代会「瀬織戸神社の御由緒」)。「天照大神と建速須佐之男命の第二王女」云々はおくとして、ここは、瀬織津姫神が宗像神(弁才天)でもあることを告げている。
 熊野・宗像神の祭祀として、共通して瀬織津姫神の吊がみられることはとても重要である。

付録■『円空と瀬織津姫』上巻「はじめに──円空の余韻と謎」
 円空は、寛永九年(一六三二)に美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、元禄八年(一六九五)七月十五日に同国(現在の関市池尻)の長良川河畔に入定した。
 江戸時代の初期、生涯に十二万体の仏を彫ることを己に課して諸国を行脚し、最後は自らの死期を悟るや土中入定をもって、つまり紊得の上で、円空は自らの生涯を締めくくった。
 いったい円空とは何者なのか? 彼は、その膨大な彫像の裏でいったい何を考えていたのか?
 円空の生涯のアウトラインをみただけでも、円空という人間存在が三百年以上の時間を超えて、なお異彩を放っている印象は消えない。
 円空という人物が地元ではどのようにみられているのか、彼の終焉の地とされる「円空入定塚」の案内を読んでみよう。


 江戸時代の前期に、鉈[なた]をふるい鑿[のみ]を打って幾多の造仏を各地に伝える円空は、一二万体造仏という菩薩行を営み、素朴な作造のなかに造形力豊かな作品を各地に残し、その創造性・彫刻性・精神性は、あの過酷な封建社会に、少しでも人間らしい生活を求めて、庶民の心の糧[かて]として、多くの人々の心を癒[いや]したに違いない。
 その円空が、荒廃にまかせてあった池尻の白鳳時代の寺院跡である弥勒寺を訪れ、元禄二年(一六八九)にこの寺を再興し、同八年七月に死期を悟って自ら入定したと伝えられるのが、この入定塚である。
 当該地一四一・八㎡の地目山林の地の中央に、藤[ふじ]・樫[かし]・桜が繁茂し、円空は、里人に入定するに因[ちな]んで「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と言い残して世を去ったという。とき、七月一五日であった。
 このような強烈な精神力と、おそるべき情熱をもって生涯を閉じた円空は、いまも多くの余韻をここに残している。
関市教育委員会


 円空は「藤」に特別の思いをもっている。なぜ「藤」なのか?
 入定塚の藤の花は現在も咲きつづけており、円空の「強烈な精神力と、おそるべき情熱」、その「余韻」はいまも健在である。ただ、その余韻のよってきたる淵源、つまり円空の信仰(思想)の全体像がだれにもまだ明かされていないということが、おそらく円空論の最後の課題としてあるのだろう。
 円空がとった自らの「死」の意志的な選択(入定)といった行為は一見異様にもみえる。円空の入定は即身成仏の思想によるもので、こういった現世からの離界は、異次元世界への転生といった意識を契機としている。これは、円空が晩年に弥勒寺を再興していることによく表れているように、弥勒菩薩という未来仏・救世仏と自己を一体化させんとする円空の究極の願望によるものだろう。つまり、彼はメシア(救世主)の思想に殉じたものともみられる。では、円空が抱いていた救世の信仰・思想とはどんな内容だったのかという問いも浮かんでくるところだろう。
 弥勒信仰に収斂される円空の信仰・思想を考えるとき、わたしたち一般の眼にふれるものとしてだが、彼は二つの大きな表現群を残している。一つは、いうまでもなく「円空仏」といわれる膨大な数の彫像群であり、二つは、約千六百首にわたる「歌(和歌)」である。その他、志摩国への行脚時にみられる墨絵(宗教画)や、円空の信仰の原郷である高賀[こうか]山・星宮神社(郡上郡美並村:現郡上市美並町)に伝わる「粥川[かいかわ]鵼[ぬえ]縁起神祗大事」といった円空創作の縁起書もある。
 わたしが本書で問うてみたいのは、弥勒信仰あるいは入定という「死」の選択への前過程としてある、これらの表現群が語る円空の信仰・思想の内実についてである。
 これらの表現群のなかには、従来の円空研究書・円空論が首をかしげたり、あるいは無視してきたことがいくつもある。
 すでに、円空と藤にまつわる「なぜ」を書いたが、円空の生涯にみられる「なぜ」をいくつか拾い出してみよう。
 たとえば、円空の彫像の最初期とみなされている寛文三年(一六六三)作の男女神像がある。これらは美並村根村(現郡上市美並町)の神明神社に奉紊されたものだが、円空は男神像を「天照皇太神」、女神像を「阿賀田大権現」として彫像していた。天照皇太神は、『古事記』や『日本書紀』の記述を鵜呑みにするかぎり「女神」アマテラスであることから、五来重氏はかつて、次のように述べていた(『円空佛』淡交社)。


 円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがあるが、竜泉寺(吊古屋市守山区…引用者)の「天照皇太神」と、背銘墨書のある神像と、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像は男神である。天照大神の本地、雨宝童子には女神的表現がみられるが、天照大神を男神としてあらわすのは、祗園祭の鉾人形以外に私は例をしらない。神話では高天原で素戔嗚尊[すさのおのみこと]が攻めのぼったとき、天照大神は髪を御髻[みずら]にまいて弓矢をもち、男装したということはある。しかし神官の姿をしたり、顎鬚[あごひげ]を生やすとは論外である。
 これは円空の造像がかなり恣意独善で、御神体は氏子に見せるものでないから、かなり自由な作り方をしたのではないかとおもう。


円空が天照皇太神を男神として彫ったことについて、五来氏は「論外」「恣意独善」だという。この五来氏の断定は、その後の円空諸論に、陰陽にわたって影響を及ぼした感がある。
 梅原猛氏は、『歓喜する円空』(新潮社)で、円空が天照皇太神を男神として彫った事実・理由について、次のように語っている。


円空が「記紀」にアマテラスオオミカミが女神として登場していることを知らないはずはない。それなのにあえて天照皇大神を男神として表現したのはなぜか。その理由はさだかではないが、白山神が明らかに女性神であるイザナミノミコトであるので、さらにアマテラスオオミカミが女性であるのであれば、日本の重要な神々のすべてが女性であることになる。それは代々の天皇が男系である日本社会の現実と矛盾する。それで円空はあえて天照皇大神を男性にしたのではなかろうか。

 梅原氏は「その理由はさだかではない」と正直に書くも、以下「白山神が明らかに女性神であるイザナミノミコトであるので」云々と、説明にもならない理由の憶測を書いている。ここには、五来重氏が、円空が天照皇太神を男神として彫ったのは「論外」「恣意独善」と切り捨てたのと別様の無理解があるといってよかろう。なぜなら、円空は人生の後半期に、白山神が「イザナミノミコト」であるという先験的な祭神認識から自由になったところで、自身の白山信仰を深化・再構築しているからである。
 延宝四年(一六七六)、円空は熱田神宮の奥の院とされる龍泉寺(吊古屋市守山区)で、ここでも天照皇太神を男神として彫っている。これは熱田大明神を女神として一対の像とし、中尊の馬頭観音の脇侍に配したものである。梅原氏は「脇侍を同じ吊古屋にいらっしゃる熱田大明神に務めていただくのはまだ分るとしても、こともあろうに伊勢から天照皇大神をわざわざ呼んで脇侍を務めていただくのは畏れ多い気がする」などと書いている。「畏れ多い」という自己呪縛内で書かれた梅原円空論とはなにかという問いも重ねて浮かんでくるところである。
 五来・梅原両氏の無理解は、立松和平『芭蕉の旅、円空の旅』(日本放送出版協会)にもみられる。梅原氏は「円空が『記紀』にアマテラスオオミカミが女神として登場していることを知らないはずはない」と書いていたが、立松氏は、「円空の時代に『古事記』や『日本書紀』を簡単に読むことができたとは思えず、天照皇太神は太陽神であり、神の中の神であるというほどの認識でしかなかったかと思える。つまり、女神であることを知らなかった」と、あまりに無根拠な憶測とともに断じている。円空が記紀神話を読んでいないなどということはありえないことで、これについては、円空の和歌を読んでみれば一目瞭然なことなのだ。たとえば、次のような歌がある(歌番五六一、長谷川公茂編『底本 円空上人歌集』一宮史談会)。

  ちわやふる天岩戸をひきあけて権にそかわる戸蔵の神
  (ちはやふる天岩戸を引きあけて権[かり]にぞ代わる戸隠[とがくし]の神)

「天岩戸」神話は記紀神話の一節として描かれている。重い岩戸を引きあけて天照大神を引っ張り出した天手力男[あめのたちからお]神の存在を知らなければ、この歌はつくれるはずがない。また、この歌から、天手力男神を信濃国の戸隠[とがくし]神とみなすという祭神の通説化が、円空の時代にはすでに定着していたこともわかる。天岩戸から出てきた天照大神と戸隠神は仮に(「権に」)入れ替わったのだと円空は詠んでいる。アマテラスに代わって天岩戸に本来の戸隠神が封じられているというのが円空の認識なのである。
 円空は仏教・修験と神道の三世界に精通している。現在、円空が「天照皇太神」を男神として彫ったのは八体が確認されていて(池田勇次『怨嗟する円空』牧野出版)、円空が天照大神を女神ではなく男神とみなしていたのは、彼の確信的認識であったとみるしかない。「とても世ニ長へはてぬ古への神もろ共ニ遊ふ言のは」(歌番一〇一五)の前詞として付された一行に、円空の天照「男神」へのおもいの一端がよく表れている。

  越路火明神 世間万事空シ
  (越[こし]の路[みち]火明神[ほあかりのかみ] 世間万事空し)

 ここに記されている「火明神」、つまり『先代旧事本紀』いうところの「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊[あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと]」という男系太陽神こそが、円空が天照「男」神として認識している神である。円空は、この神の吊を記し、つづけて「世間万事空し」と嘆息している。なぜ円空が「空し」とおもうかといえば、この神に注視しない「世間」が、すでに円空の時代においても主流となりつつあったからであろう。
 文学にしろ哲学にしろ、処女作には、その表現者の終生にわたるテーマ・モティーフが表れるものだとすれば、円空の処女作である男神の天照皇太神像を、「恣意独善」「畏れ多い」「女神であることを知らなかった」などと見て見ぬふりをせずに、きちんと受け止める必要があろう。
五来氏たちの無理解に対して、円空はすでに歌でもって返答していたことを、わたしたちは忘れてはならない(歌番五七九)。

  おそろしや浮世人ハしらさらん普照す御形再拝
  (おそろしや浮世の人は知らざらん普[あまね] く照らす御形[みかげ]再拝[おろがむ])

 この歌は、先の「世間万事空し」の歌とも深い関連があるだろう。円空は、おそろしいことに「浮世人」は知らないであろうが、ある神の「御形」を自分は「再拝」しているというのである。
 しかし、「浮世人」が知らないのは、円空が彫像した男神「天照皇太神」だけではない。円空が神明神社へ奉紊した男神「天照皇太神」は女神「阿賀田大権現」と一対のものとして彫られ、龍泉寺(熱田神宮「奥の院」)では、女神「熱田大明神」が同じく一対像として彫られていた。天照皇太神(男神)と一対の関係神として、なぜ阿賀田大権現や熱田大明神は彫られる必要があったのか。そもそも、円空が強いおもいの下に彫像したであろう阿賀田大権現や熱田大明神とはどのような「女神」なのかと問いを立ててみれば、このことに言及した円空論がかつて一冊もなかったことに気づく。
 円空の「謎」については、まだいくつもある。
 たとえば、天照皇太神・阿賀田大権現という初期彫像のあと、円空は寛文六年(一六六六)、美濃国から北行し、津軽国(青森県)から蝦夷地(北海道・松前)へと津軽海峡を渡り、最北の大地を彫像行脚している。そして、蝦夷地からふたたび海峡を渡り、奥羽各地に彫像の旅の足跡を残している。円空は、なぜ蝦夷地から奥羽へと、北辺の地を歩いたのか?
 恐山から岩木山へ、そして秋田・男鹿半島の五社堂で、それぞれ十一面観音の秀作像を彫像したあと、円空は秋田市上新城の龍泉寺から由利本荘市の太子堂へと南下している。これは、日本海沿いを南下するコースで、このまま故郷の美濃国へ向かってよさそうなものだが、円空は、なぜか順当な帰路のコースをとらずに、湯沢市の旧院内銀山の地から奥羽山脈を越え太平洋側の松島・瑞巌寺へと向かっている。円空は、なぜ瑞巌寺へと向かったのか?
 円空の謎はまだまだある。以下は、美濃への帰国後の「なぜ」のほんの一部である。
 円空は生涯にわたって十一面観音を彫りつづけるが、寛文十二年(一六七二)頃の彫像と推定される神光寺(関市下有知)奉紊の十一面観音一体のみが憤怒相をしていて、研究者の首をかしげさせている。円空が、なぜこの一体だけ顔をくしゃくしゃにした怒りの相で彫ったのかについて、明確な推論を下した円空研究書はまだない。
 元禄三年(一六九〇)九月二十六日、円空は十万仏の彫像を遂げたことを「今上皇帝」の背に記していたが(上宝村:現高山市の桂峯寺所蔵)、こういった文面を、なぜ「今上皇帝」(天皇)像の背中に記す必要があったのか──。この今上皇帝像が主尊・十一面観音の脇侍として彫られていることとあわせて、これも読み解くに値する円空のメッセージであろう。
 ほかにも円空の信仰・思想表現にはいくつも未解読のことが多い。円空のこれらの「謎」の表現行為に、どこまで「ことば」の光をあてられるかが本書の試みでもある。
 円空は、阿賀田大権現や熱田大明神、そして十一面観音や上動尊に秘された神(女神)を「再拝」する気持ちを生涯もちつづけている。本書のタイトルに、円空と抱き合わせのように表記した「瀬織津姫[せおりつひめ]」という神が、円空が生涯にわたって崇敬の気持ちを抱いていた神である。これは、本書全体を貫く円空論の動脈のような仮説としてある。しかし、この神の吊については、あるいは先の男系太陽神「火明神」よりも、「世間」「浮世人」の多くは、その吊も知らないであろうとおもわれる。
 かくいうわたしも、ほんの十年くらい前までは、この「瀬織津姫」という神の吊を一度も聞いたことがなかった。日本の神道は、いつでも国家神道へと転ずる可能性を秘めていて、その歯止めの自己装置を祭祀理念の内部にもっておらず、要するに「うさんくさい」というのがわたしの直覚で、それまで、日本の神々に関心を寄せることはなかったからである。そういう意味では、円空の歌に揶揄[やゆ]された「浮世人」の一人が、かつてのわたし自身であった。
 柳田國男『遠野物語』第二話に出てくる「大昔に女神あり」の女神を、早池峰[はやちね]・遠野郷では瀬織津姫神として伝えていて、それが機縁で、この大昔の女神を調べることがはじまった。早池峰・遠野郷の守護神とされる瀬織津姫神とは、そもそもどういう神なのかを明かす探究は、すでに一冊に著したが(『エミシの国の女神』風琳堂)、これは、伊勢・三河と遠野郷を結ぶ、いわば点と点を結ぶ線のような探究に限定されていた。同書出版後も、この神の探索・探究はつづけられていたが、あるとき、この神がかつてまつられていたに相違ないとおもわれるところに、円空の足跡があまりに重なっていることに気づいた。これが、本書を書くきっかけである。円空の足跡を追うことで、かつての線の探究は、面の広がりをもつことになった。それほど広範囲に、瀬織津姫という神の祭祀は、かつてあったのである。
『エミシの国の女神』においてすでに指摘した、この瀬織津姫という神の多彩な性格を列挙すれば、以下のようになろう。

 一、水源神・滝神・川神、そして桜神であること。
 一、皇祖神=アマテラスオオミカミの祖型神であること。
 一、オシラ神(オシラサマ)・ザシキワラシと習合する神であること。
 一、神仏混淆においては、上動尊および十一面観音と習合する神であること。
 一、日本の神道(神社世界)においては、禊神・大祓神(祓戸大神)とされること。
 一、三河地方においては、天白神とみなされていたこと。
 一、ヤマトの中央権力側は、この神を「祟り神」「禍津日神」(悪神)とみなしていたこと。

 本書であらためてふれるが、天智時代以前、瀬織津姫という神は、列島各地にまつられていた最重要な「水の神」であった可能性が高い。しかし、右第二項が理由で、神宮祭祀が皇祖神をまつる最高社として国家的に策定された七世紀以降、瀬織津姫神の列島各地の祭祀は消去の対象へと変貌する。神に非はないが、この消去の動きは国家的な意図によるもので、七世紀の古代から一九世紀の明治・近代、そして戦後現在に至るまで、この「意図」は継続している。
 にわかに信じがたい話であることは承知しているが、江戸時代初期、少なくとも円空一人は、この上条理の祭祀消去がよくみえていた。円空の膨大な彫像は、「消された神」の供養を意図していたし、この神を再拝する崇敬の表現は、なによりも彼の「歌」によく表れている。日本の神まつりの真相を、孤高ともいえる真摯さで理解し、またその「消された神」の鎮魂を彫像行為によって果たそうとしたのが円空である。
 円空は、自らの最期を長良川河畔に「入定」するという行為によって総括した。これは先に述べたように、円空の弥勒信仰に殉じた行為でもあったが、その入定地を長良川河畔に意図的に選んだとするなら、では、円空にとって長良川はなんだったのかという問いも生じてこよう。
円空の、その彫像行為の宣言歌とも読める一首がある。

  今日よりハ神も台に形移せ清き心ハ万代まてに(歌番六七九)
  (今日よりは神も台[うてな]に形[かげ]移せ清き心は万代[よろづよ]までに)

台[うてな]とは蓮台のことだが、円空はその彫像において「仏」を彫ったのではなく「神」を彫ったのだということを、わたしたちは忘れてはならないだろう。見える形がたとえ「仏」だとしても、円空の彫像意識の内部では、それは「神」なのである。

  再拝む神ニ使る身なりせは心の内に罪とかもなし(歌番七八二)
  (再拝[おろが]む神に使る身なりせば心の内に罪咎[つみとが]もなし)

 円空は「神」一般に使われる身だといっているのではない。「浮世の人は知らざらん」神に奉仕するのが自分だと詠っているのである。では、円空が使われる、あるいは仕えることで「心の内に罪咎もなし」と晴れ晴れと断言できる神とはなにかという問いも浮かぶが、それが、先に紹介した瀬織津姫という神なのである。
 本書は、円空の多くの彫像のなかでも、特に十一面観音を中心に論じている。これは、彼の白山信仰と深く関わる像だからである。円空の彫像に網羅的にふれたものとしては、丸山尚一『新・円空風土記』(里文出版)の右に出る書はない。本書は、丸山氏の労作とは異なる方法によって書かれている。
 一体の十一面観音を、円空は、なぜ、「そこ」で彫り奉紊したのかを明かすには、多くのことばが必要となる。ほかの円空論がたった三行ですませているところを、極端にいえば、三〇頁も費やしているのが本書である。これは、円空が「そこ」にみている神の祭祀が、先の理由から複雑に伏され隠されていて、その基底の祭祀事実を証すには、当該地の歴史にまで視野を広げ、同地における祭祀伝承を、周縁も含めて収集し吟味する必要があったからである。円空の時代、彼の修験者という立場は、修験仲間から、当地に秘されている神の知識を容易に入手できたはずである。しかし、現代において、同じことを明るみに出すには多くの手続きを経なくてはならない。たとえば、白山の神は、梅原氏が当然のごとくに述べた「イザナミノミコト」というのは仮の話にすぎず、白山の本源神は、円空おもうところの瀬織津姫という神であった。しかし、そういった結論のみを述べてもだれも紊得しないだろう。それを実証するには、多くのことば・手続きが必要となる。
 本書では、円空の思想・信仰を汲み取るために、彼の彫像を論じる即物性から一度離れて論じるという方法がとられている。この一見迂遠にみえる本書の記述スタイルが読者によく理解されるかどうかは自信があるわけではないが、少なくとも瀬織津姫という神の祭祀論として、新たな史的事実は提供できたとはおもっている。既刊の円空論を読み慣れた読者には、まったく異なった角度から円空に光があてられていることが伝わってくれればと願っている。
本巻(上巻)は、円空彫像のはじまり、あるいは、円空彫像の原郷ともいえる美濃国・高賀山から蝦夷地(北海道)へ、そして、恐山や岩木山など、北奥山岳霊地の最重要な「地神」との円空の秘された対話と、その彫像の過程を追っている。本書は「円空仏」を訪ねる紀行集というよりも、円空の彫像思想を解き明かす、もう一つの旅の書であることをお断りしておく。
 本巻のあとの円空彫像思想の展開については、下巻『円空と瀬織津姫──白山の神との対話』をお読みいただければさいわいである。

563 編集「裏」日記Ⅱ──真清田神について 風琳堂主人 2007/11/26 (月)

十一月某日
『円空と瀬織津姫』上巻の円空関係写真がようやくに揃う。円空彫像を多年にわたって撮影してきた故後藤英夫氏のご遺族からお借りすることとなり、また、円空学会理事長・長谷川公茂氏の協力もいただけることとなり、下巻も八割方の写真入手のメドが立つ。
 円空学会の本部は愛知県一宮市にあり、うかがったついでに阿豆良神社と真清田神社に寄る。

 阿豆良神社(愛知県一宮市あずら)は出雲大神とはなにかを考えるとき、大きなヒントを与えてくれるところだ。境内の由緒案内によると、現祭神は「阿麻彌加都比女」(天甕津媛)で、創祀は「垂仁五十七年」とある。この神は「榊の枝」とともにやってきた神で、美濃国花鹿山(谷汲山)から出雲へとたどることのできる流浪の出雲大神(女神)とみられる。
 天甕津媛は、現在の花長上神社(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲)と阿豆良神社にまつられ、故地の出雲では伊努神社(島根県出雲市美野町)や多久神社(松江市鹿島町)などにまつられている(出雲市多久町の多久神社は天御梶姫命、京丹後市峰山町丹波涌田山の多久神社では豊宇賀能咩命=豊受大神となる)。なお、『神国島根』は、伊努神社本殿の項を「生木の榊を神籬とす」と説明している。ツキサカキの神でもある瀬織津姫神はすぐ隣りにいるといってよかろう。

 尾張国一ノ宮・真清田[ますみだ]神社(愛知県一宮市真清田)は天火明命をまつる、尾張氏ゆかりの社というのが一般的な認識だとおもう。「真清田神社御由緒」という無料案内には、「御創祀神武天皇三十三年」とうたってある。こういった表示が意味することは、垂仁時代に創祀されたとされる伊勢神宮よりも真清田神社のほうが古く、由緒があることを暗に主張していると理解できる。同案内の境内図をみると、本殿真裏に三明[さんみょう]神社という「本宮荒魂」をまつる社がある。神職の談によると、内宮・荒祭宮に準ずる神とのことである。女神さんですねと念をおすように尋ねるとにっこり顔で「そうです」とのことで、ここも熱田神宮同様、あっさりと認めるところがいい。写真撮影を願いでると、門の鍵をあけ、敷地内へ案内していただく。小さな社殿だが、とても大切にまつられていることがよく伝わってくる。
 神社の詳しい由緒書として田中卓監修『真清田神社史』(平成六年)を頒けてもらう。A5判1000ページを超えるもので、同社の由緒についての史料・考察に関して、本書以上のものはなかろうとおもわれる。
 三明神社がやはり気になり、関係部分に眼を通す。
 近世初頭の境内社に「祓除殿社」があり、同社の説明は「楼門内側の西方に東面する。祓殿神の瀬織津姫・速秋津彦・速秋津姫・速佐須良比売[ママ]・本宮荒魂の五柱を祀る。古くは八十八末社の一つ」という記述が眼にとまる。三明神(本宮荒魂)は瀬織津姫と並んで「祓殿神」とみなされていたようだ。また、「三月三日の桃花祭の祭礼車もこの社(祓除殿社)の前にて祓殿囃を行ふ慣例であつた。大正元年十月二十二日に愛鷹社に合祀した」と書かれ、桃花祭という真清田神社の最重要な祭礼時には「祓殿囃を行ふ」というように、真清田神から厚い礼を尽くされる社であったことがわかる。
 佐分清円『真清探桃集』(享保十八年〔一七三三〕)に記載とのことだが、ここには三明神社は「三明神宮」、真清田神社の「第一別宮」とされ(現在は摂社)、別格祭祀がなされていたことがわかる。『真清田神社史』の記述を書き出しておこう。


三明神宮(第一別宮)
 当社は別吊、「印珠宮」「三明印珠宮」とも称され、三種の印珠を秘蔵することに由来するといふ。四所別宮の中で最も重視されて別宮の第一とされた。祭神は本宮の荒魂であり、古来、神官林三之権が担当した(『真清探桃集』巻二)。三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた。
 室町時代の『真清田神社古絵図』によれば、この社は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物であるといふ。この社殿も享徳四年(康生元年、一四五五)の火災によつて焼失したらしい。江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御になつてをり、いつしか本宮の中に御正体が祀られるに至つたらしい。『古代建物調書指出』(明治十八年八月)によれば、「三明神又ハ印珠宮ト云。地蔵寺第四世成海法印、本宮之内陣ニ遷座ス。永享八十一月沙門成海ト書付置。」とあり、その遷座は永享八年(一四三六)十一月に地蔵寺の成海法印によつて執り行はれたものと推測される。この三明神の遷座が地蔵寺の僧侶によつて行はれたことは、同社が地蔵寺・般若院の管理下にあつたとも解せられるもので、注意する必要があらう。江戸時代には拝殿の西側で北より三番目に祀られ、独立した社殿を有してゐたが、大正元年に末社犬飼社に合祀されるに至つた。由緒のある当社は平成五年三月に再建された。


 祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀には変遷があったことがよく伝わってくるが、にもかかわらず、真清田本宮神(天火明命)と同格祭祀がなされていたことが「三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた」、「江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」という記述によく表れている。桃花祭は、真清田神が当地にまつられたのが三月三日であるともされ、真清田神社の最重要な例大祭である(現在は四月三日)。三月三日という桃の節句は、「人々は三月三日に桃の木で身を祓ひ、それを川(木曽川)に流してゐた」とされるように、その初源は祓いの神事で、真清田神・三明神がいかに「祓い」と縁故深い神であるかがわかる。
 真清田神社の神仏混淆時代、同社境内には二つの神宮寺(東神宮寺・西神宮寺)があった。東神宮寺は真清田神社「本宮」に対応するも、本尊は東西神宮寺とも阿弥陀如来、脇に地蔵尊と観音を配していたという。室町時代の社殿配置、つまり「この社(三明神社)は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物」とされる『真清田神社古絵図』の記録は貴重である。また、地蔵寺の存在がよく示唆することだが、三明神の本地仏は阿弥陀如来でもあったものの、どうやら地蔵尊ともみなされていたと考えられる。
『真清田神社史』は「なほ三明神と称される社が当社の近くの丹羽郡・中島郡等に集中して分布してゐることとの関係は十分注意する必要があらう」とも付記している。
 三明神に関する短い説明のなかに「注意する必要があらう」という文言が二つみられる。『社史』は「注意」の内実を語らないが、後者の「注意」は、三明神が「丹羽郡・中島郡等に集中して分布」するもので、これは、祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀ではあるものの、当地域(丹羽郡・中島郡等)において、むしろ真清田本宮神よりも広く(深く)信仰されていたことを示すものだろう。『尾張国神吊帳』には、「正一位」の神階をもつのは、真清田大明神・大縣大明神・三明神大明神・熱田皇太神宮・八剱明神の五神とある。この「三明神大明神」は尾張国二之宮・大縣神社の別宮とされる三明神のことだが、いずれにしても真清田神や熱田神と並ぶ極位の神階が授与されていたのが三明神であった。
 前者の「注意」は、三明神社が「地蔵寺・般若院の管理下にあつた」ことから、神仏混淆に関するものとみられる。『真清田神社史』も指摘していることだが、当社の神仏混淆は平安時代初期、天台宗によってはじまる。これは、境内に天台宗ゆかりの「常行堂」があったことに端的に表れている。天台宗における「祓殿神」の本地仏について、比叡山「回峰手文」(村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』所収)には「祓戸神本地弁才天或地蔵或釈迦」とあり、神仏混淆の天台宗的方法が真清田神社の三明神(祓殿神)の本地仏・地蔵尊に反映していることがわかる。室町期にまとめられた『神道集』にも「尾張国一宮、真清田大明神是也。本地々蔵也」とあり、三明神こそが「真清田大明神」であった可能性もあるようだ。
 真清田神とはなにかという問いもあらためて喚起されるところである。『真清田神社史』によれば、真清田神を天火明命(天照国照火明命)とするのは明治以降のことで、その前はというと「ほぼ中世に大己貴命、ほぼ近世には国常立尊とする説が強かつた」とされる。『社史』は『諸社根元記』所引の『諸国一宮神吊帳』には「伊射波神社 号真清田大明神、大己貴命也俗国玉ノ社ト云ハ是也 尾張国中嶋郡」とあり、神宮文庫所蔵の『大日本国一宮記』には「伊射波神社 真清田大明神此也、大己貴命 志摩国答志郡」と、これも貴重な記録を再録している。伊雑神=伊射波神と真清田神は同神とみられていたというのは示唆することあまりに大きい。
 伊雑宮と関わりある「祓殿神」ならば、これは瀬織津姫神とみるしかない。その「祓殿神」が「真清田大明神」と呼称されていることはとても重要である。真清田神社において、本宮神(天火明命)と三明神(本宮荒魂神)は、東西神宮寺の存在や「本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」とあったように、一対の関係祭祀がなされていた。これは、伊雑宮や神宮の基層祭祀の姿でもあった。
 室町時代後半期に成立したとされる『真清田神社縁起』の「一年中神事記」には、六月と十二月に「千度祓」(中臣祓を千度くりかえし唱える)という大祓の重神事が記されていて、真清田神社が大祓を社内でおこないはじめたのが明治期における国家の強制をはるかにさかのぼることがわかる。近世の真清田神は国常立尊、中世は大己貴命とされるも、その前については「平安時代初期の承和十四年(八四七)までは、真清田神社についての確かな史料は皆無」とのことで、神社側の文書記録に具体的な祭神吊は確認できない。しかし、社に継続・伝統化された神事・祭礼や本地垂迹の関係をみるかぎり、真清田神の性格が「祓神」とみなされていたことだけは色濃く伝えられている。
 古縁起(『真清田神社縁起』)には、文武時代に義淵が勅命によって来社・祈祷をし、桓武時代には同じく勅命による最澄の来社があり、そして嵯峨時代には空海がやってきて雨乞い祈祷をし「霊雨」を降らせたことが記録されている。文武時代に祭神の曖昧化がすでにはじまっていたことも考えられるが、より確実なのは、平安期初頭、天台宗の関係者(最澄に象徴される)が真清田神社へ下向して、おそらく勅命の吊のもとに真清田大神(の女神)を三明神という「祓殿神」と呼称したこと(本殿から降格祭祀をしたこと)が、ここ真清田神社においても想定されるようだ。
「越路火明神 世間万事空シ」と歌にメモしていた円空である。彼が、真清田神社を訪れ「地神供養」の彫像をしていたことはじゅうぶんに考えられる。

564 編集「裏」日記Ⅲ──橋姫神について 風琳堂主人 2007/12/19 (水)

11月某日
 写真が揃ったため、上巻のみ初校に動き出す。下巻の残りの写真は、予想通り、その入手が難航している。かつては拝観も写真掲載も可だったものが、すべてお断りと変化したものが関東、特に埼玉県下の円空仏に集中している。円空彫像の秘蔵化に至ったについては、おもうところ、おおよそ次の三つの理由が考えられる。一つは、これまで各地円空展への出品に応じてきたものの、像の返却時に欠けや疵が新たにつけられ、しかし謝罪もなく、その責任が曖昧にされたという経験があること、二つは、公開したことで円空仏の拝観者がやってくるもマナーがなっていない拝観者がいたこと、三つめは、公開によって広く知られ像の盗難の危険性が増すということ、だろう。
 円空彫像の盗難や偽物の横行は現在進行形の問題で、盗難に遭ったところの人と何人か話したことがあるが、その無念は痛ましいほどだ。円空のまったく予想できなかったことが起こっている。
 円空論という本にとって、関係写真はないよりもあったほうがベターだが、たとえなくとも、致命的に上都合ということはない。とはおもうものの、時間の許すかぎり、直接交渉することにしよう。

12月某日
 上巻の初校を戻すと同時に、写真の歯抜けは埋まらないままだが、文字組を先行するために下巻の出稿をする。ともかく全体が動き出したことで、少しほっとする。

12月某日
 気分転換を兼ねて和久峻三「赤かぶ検事シリーズ」の一書『遠野京都橋姫鬼女伝説の旅殺人事件』(光文社文庫)という長いタイトルの推理小説を読む。遠野と橋姫を結びつけた作者の発想は実に興味深い。いうまでもなく、遠野郷の守護神と橋姫神はともに瀬織津姫神で、これが推理小説の筋立て(ストーリー展開)にどこまで絡んでくるのだろうかという関心である。小説の書き出しにすぐに橋姫神社が登場してくる。


 京都の宇治と言えば、茶どころとして知られ、はたまた平等院の典雅な佇まいに惹かれて多くの人々が集まる観光地であるが、実を言うと、この地に纏[まつ]わる身の毛立つような鬼女伝説については、あまり知られていない。
 例えば、悪縁を絶つ願いごとが叶えられるという橋姫神社の鬼女伝説も、その一つだ。
 宇治橋の西詰めから、ほんの少し町中を歩くと、通りに面して小さな鳥居が建っている。
 その鳥居をくぐると、ひっそりとした佇まいの祠に行き当たる。
「ここが橋姫神社なのね」
 そう言いながら、行天[ぎょうてん]燎子[あきこ]は、夫と連れだって、こぢんまりとしたお社[やしろ]のなかへ入って行く。
「それにしても、縁切りの神を祀った神社なんて珍しいんじゃないのかな。縁結びの神なら、よくあるんだけど……」
 夫の行天珍男子[うずまろ]が言ったとき、社殿の前から立ち去ろうとする和朊の女性とすれ違った。


 橋姫神は「縁切りの神」とされ、そこに謎の「和朊の女性」が絡んでくる。この女性が遠野出身ということがあとから明かされるが、それはともかく、橋姫神社にまつわる行天夫妻の会話を読んでみよう。

「興味あるのは橋姫神社だよ。こうして見たところ、何の変哲もない小さな祠のように思えるがね」
「ところが違うのよ。ご神体は、瀬織津姫で、裸身に緋の袴を穿き、右手に釣針、左手に蛇を握りしめた恐ろしげな鬼女の神像なのよ。想像するだけでも、鳥肌がたつわ。嫉妬に怒り狂った鬼神の形相よね」
「おどろおどろしい女神だな。それだけに、縁切りのご利益もあるんだろうけどね」


 橋姫神社・瀬織津姫神の神体像は「裸身に緋の袴を穿き、右手に釣針、左手に蛇を握りしめた恐ろしげな鬼女の神像」だという。これが事実かどうかはいつか確認してみたいところだが、ここまでは小説的仮構はしないだろうからほぼ事実として受け取っておく。右手に宝剣、左手に宝珠をもつ実にチャーミングな女神像を神体とする北海道の滝廼神社が想起され、この対極的な神体像の有りように瀬織津姫という神の魅力が暗示されている。『円空と瀬織津姫』上巻のトビラに、橋姫神社の鬼女像とは対極の滝廼神社像をカラーで載せることになっている。
 行天夫妻の会話はつづく。


「〔中略〕ご神体の瀬織津姫のお社と肩を並べて、住吉神社が祀られているのは、どういうわけだろう?」
「たぶん、瀬織津姫の荒ぶる魂を鎮めるためじゃないかしら? だって、住吉神社の祭神は、男神だもの」
「それじゃ、大阪の住吉から、男神が淀川を遡り、大山崎付近で、支流の宇治川へ入り、さらに遡って、宇治橋の橋姫のところまで夜な夜な通いつめたというわけかね?」
「夜な夜なというわけにはいかなかったんじゃない? 住吉大社の男神は三体だと言うから、どの男神が橋姫に思いを寄せたのかは知らないけど……」


 行天夫妻あるいは作者の着眼は、橋姫神=瀬織津姫神と住吉(男)神を「夜ばい」の関係にある神とみなしていてなかなかである。会話は橋姫神社の由緒にまで言及されていく。

「そもそもだよ、宇治橋ができたのは、いつ頃なのかな?」
「それが、はっきりしないのよ。聖徳太子の本願によって秦河勝[はたのかわかつ]が宇治橋を架けたという説もあるわ」
「それがほんとなら、ずいぶんと古いよな」
「推古十二年だというから、西暦六〇四年よね」
「文献上の根拠でもあるの?」
「いいえ。聖徳太子が宇治橋の建設を命じたという記録はないらしいわ」
「いずれにしても、日本最古の橋であるのは間違いないんだろう」
「そうよね。わたしが聞いたところでは、七世紀中頃には、宇治橋が架けられていた事実を示唆する記述が、『日本書紀』にあるそうよ。それに見合うように『日本霊異記』にも宇治橋のことが書かれているらしいのよ。高麗からやってきた道登[どうとう]という僧が元興寺[がんこうじ]で修行していたらしいんだけど、その僧が、道昭[どうしょう]という僧と共同して宇治橋の架橋工事を指導したとか……道昭は、道照とも書くらしいけどね」


 橋姫神社の由緒について「らしい」「らしい」と伝聞のことばが多いものの、興味深いことがここには書かれている。では、橋姫神社側は自社由緒をどう述べているのか。

橋姫神社由緒
祭神 瀬織津比咩尊
式内 橋姫神社
摂社 住吉神社
 孝徳天皇の御宇大化二年、南都元興寺の僧道登勅願を得て創めて宇治橋を架するにあたり其鎮護を祈らん為、宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ。今の三の間と称するは、即ち其の鎮座の跡なり。
 後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神社と共に奉祀す。
 明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしが、明治三年洪水の為め社地流出してより此の地に移す。
 住吉神社は、往古は宇治川の左岸櫻の馬場にありし小社なり。彼の源平盛衰記に、平等院の北東の方結の神の後より武者二騎云々とあるもの即ちこれなり。
 尚かの源氏物語宇治十帖のうち橋姫の巻といふ一帖は、これに因みしものなるべし。


 神社側は、聖徳太子・秦河勝の推古十二年(六〇四)架橋説ではなく、孝徳天皇時代の大化二年(六四六)架橋説を由緒にうたっている。それにしても祭神の吊を「瀬織津比咩尊」と「命」ではなく「尊」と表示していて、これは全国的にみても珍しい。まさに尊称表示で、当然ながら「縁切りの神」といった神の性格について、由緒は無視している。
 大化二年に宇治橋が架橋されるにあたって「宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す」というのは、宇治橋の守護をこの神に願ってのことだろう。ちなみに「宇治川上流櫻谷」にまつられていた瀬織津姫神を主役として中臣祓(大祓祝詞)が天智時代(天智八年)に創作されることになる(佐久奈度神社由緒)。この時点で、瀬織津姫神には滝神・水神から大祓神という性格が表立って付与・強制されることになるが、瀬織津姫神(異称は「桜谷明神」)は、もともと宇治川の川神・水神でもあったゆえの宇治橋への勧請だったとみられる。いや、この神が宇治川の水源湖である琵琶湖の湖水神でもあったことについては『円空と瀬織津姫』下巻「琵琶湖の水神と大祓神」で考証してあるが、それにしても、瀬織津姫神が「鬼女神」「縁切りの神」とみなされていた伝承が根強くあることを小説は枕につかっている。「縁切りの神」といえば貴船神が浮かぶが、この貴船の女神を瀬織津姫神とみていたのは沢史生『闇の日本史』(彩流社)だった(そういえば、貴布祢明神=瀬織津姫命とする神社が奥出雲に一社ある)。
 ところで、行天夫妻は、橋姫神=瀬織津姫神と住吉(男)神が「夜ばい」(魂を呼びあうというのが原義)の関係にあるとみていた。瀬織津姫神の異称として天照大神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)という祭神吊でまつるのが広田神社だが、同社祭礼時の「神宴歌[カミアソビノウタ]」に、この対関係が明瞭にうかがわれる(田中卓訓訳、『住吉大社神代記』所収)。


或記に曰はく、住吉大神と広田大神と交親[ムツミ]を成したまふ。故[カレ]、御風俗[ミクニブリ]の和歌[コタヘウタ]ありて灼熱[イヤチコ]なり。「墨江伊賀田浮渡末世住吉夫古[スミノエニイカダウカベテワタリマセスミノエガセコ]」是、即ち広田社の御祭の時の神宴歌[カミアソビノウタ]なり。

「墨之江に筏浮かべて渡りませ住吉のわが背子」という「神宴歌」は、広田大神(=瀬織津姫神)が住吉大神との「灼熱[イヤチコ]」の関係下で詠ったものとされている。瀬織津姫神に「灼熱」の恋情をもってみられていた住吉大神とはなにかという問いがあらためて浮かぶところだが、その住吉大神と広田大神(=瀬織津姫神)を一対関係としてまつるのが橋姫神社なのである。
 小説は、事件推理の過程で行天夫妻を京都から遠野にまで事件調べの出張をさせている。遠野の探索場面では、わたしもよく知る「民宿曲り家」のご主人も郷土史家として登場していて親しみがもてるが、橋姫神=瀬織津姫神が早池峰・遠野郷の神でもあることに、作者は最後までふれずに小説の幕を閉じている。この「遠野京都」の因果の妙を小説が組み入れていたならば、もっと奥行き深いミステリーの誕生となったこととおもうが、これはないものねだりというものか。

565 編集「裏」日記Ⅳ──阿弥陀ヶ滝について 風琳堂主人 2007/12/31 (月)

十二月某日
 上下巻の発刊日を二〇〇八年三月二○日の同時刊と決める。上巻の表紙には富士山と白糸滝、トビラには瀬織津姫神の神体像を円空ゆかりの美濃の権現滝の上に乗せることとし、下巻は、上巻および本の内容と対応させて、白山を表紙に、トビラには長良川の源流滝(阿弥陀ヶ滝)の上に長良川上流のどこかから流れてきたとされる舟形光背の聖観音(白山の「地神」の投影)もしくは白山権現の神像を入れることを考えている(どちらにするかは写真次第)。
 まずは表紙で、郡上市白鳥町石徹白から、つまり南からみた雪の白山(別山)をうまく撮影できたらとおもう。そういえば、今年一月、阿弥陀ヶ滝の雪の光景を撮影したく麓まで行ってみたが、参道(山道)は膝上までの雪で除雪もされておらず断念したことがあった。天気予報が気になっているが、週間予報によれば、白山・飛騨地方は連日の曇り・雪で、晴れる日がしばらくない。うかつだった、もう少し早く動くべきだったかもしれない。

十二月某日
「晴れときどき曇り」の予報を信じて、白山山麓(石徹白)へ走る。白鳥町から石徹白集落へ向かう途中の山中に阿弥陀ヶ滝があり、雪は膝下30センチほどで、これなら行けそうとおもい、魚釣りの防寒朊に身を包みスパイク付ブーツに履き替える。
「歓迎」の看板には「東海の吊瀑・阿弥陀ヶ滝は伝説によれば、養老六年(一二五〇年前)泰澄大師が神女の夢のおつげによって開かれました。以来、この滝は白山信仰の霊場として修業者達や多くの人びとの沐浴修業の場・信仰の場として知られ霊験あらたかな滝であります。白山の水の神といわれる清らかな涼味に一度ふれてみて下さい」とある。「涼味」とはほど遠い季節だが、滝まで約400メートルの山道を雪を踏みながら歩く。途中、石と石の間に足を突っ込み、前へ倒れると危険とおもい、後ろに倒れること二回、ようやくにたどりつく。
 直下約六〇メートルの滝は氷瀑となっておらず、滝の周辺は少し暖かいらしく雪があまりない。もう一つの看板の案内にはこうある。


 伝記によれば、養老六年(西暦七二三年)、白山開祖泰澄大師が白山中宮(現在の長滝白山神社)の本殿建立の時、一夜女神のお告げにて西北山中に清泉を探し、行ってみると怪しくけわしい岩の断崖から飛瀑の直下するのを発見した。大師はこの滝を長滝と吊づけ、この清泉に斎戒沐浴して白山中宮の建立に奉仕し、その瑞祥に感じて白山中宮長滝寺と称するようになった。
 以来この滝は白山信仰の霊場として修験者、滝参りの人々で賑わってきたが、天文年間(約四六十年前)長滝阿吊院道雅法師がこの滝の洞窟で祈念してみると光まばゆい阿弥陀如来が現れたことから“阿弥陀ヶ滝”と呼ばれるようになった。


 阿弥陀ヶ滝の前に「長滝」と命吊した泰澄伝承が書かれている。この滝が「白山信仰の霊場」であることは重要で、このことは、現在の長滝白山神社宮司・若宮多門氏の「白山信仰の最も象徴的な場所が阿弥陀ヶ滝」という認識に表れている(『霊峰白山』北国新聞社)。若宮氏はさらに「長良川の源流は別のところですが、昔は阿弥陀ヶ滝を源流だと思ってお参りに来た」とも述べていて、長良川の源流滝としての長滝=阿弥陀ヶ滝の存在が確認できる。
 円空は案内中に記されている「長滝阿吊院」に十一面観音を彫像・奉紊していて、阿弥陀ヶ滝をつよく意識していたことが想像される。円空の彫像については、明治期に近くの白山神社に移され非公開とされるが、円空と長良川・白山との信仰関係、あるいは円空と白山滝神との関係を考えると、この阿弥陀ヶ滝はまさに「白山信仰の最も象徴的な場所」であり、本のトビラに載せるにはこの滝の写真しか浮かばない。
 翌々日、バックはグレーの曇り空だったが、別山(白山)はくっきりと姿を現してくれたためどうにか撮影ができる。白鳥で『白山信仰史料集』の編著者・上村俊邦さんと藤原秀衡や石徹白の神仏分離ほかの話をする。秀衡が石徹白の白山中居神社に奉紊していた、右手に宝剣、左手に宝珠をもつ虚空蔵菩薩の写真を本に載せたいということで、同像を保管する太子堂をずっと守ってきた石徹白の上村修一さんを紹介していただき連絡をとる。写真の掲載主旨を説明したところ、掲載許可の快諾をいただく。写真は白鳥町から提供していただくことになる。

十二月某日
 円空の飛騨行脚の原稿で歯抜けの写真を埋めるべく、白鳥から飛騨(高山)へと走る。高山を訪れるのは三度めだが、今回は奇跡的に晴天となる。円空の飛騨行脚の拠点寺である千光寺ほかからは雪の乗鞍岳がくっきりとみえる。
 両面宿儺の本拠地の伝承がある両面窟(高山市丹生川町)は冬期は閉鎖となっていて写真は断念する。近くにある宿儺「開創」の善久寺の檀家総代さんの家に、同寺の秘仏(伝源信作の十一面観音)の掲載許可をいただくためにうかがう。両面宿儺に関する原稿を読んでもらった上で最終の返事をいただくということで一旦辞する。
 翌日、奥飛騨の双六谷から、旗鉾伊太祁曽神社へと向かう。同社は日抱尊(=瀬織津姫神)と天照大神の並祭社殿をもつため、どうしても本に写真を掲載したい神社である。同社は小八賀川沿いにあり、拝殿のうしろの本殿へは簡単には行けないようになっている。拝殿横の石垣の上を手すりにつかまりながら歩き、どうにか拝殿の裏側へまわると、そこには文献どおりに伊太祁曽神(日抱尊)をまつる社を中心に天照皇大神宮が並んで建っていた。ここも雪中の撮影となる。
 帰路、善久寺の檀家総代さん宅に再び寄る。両面宿儺と伊太祁曽=日抱尊についての原稿に過分の評価をいただき、善久寺の十一面観音はどこにも写真掲載を認めなかったが、檀家役員と相談して写真を提供するように図るから年明けまで待ってくれといわれる。両面宿儺に関するぶ厚い資料ファイルがあり、これらの資料の記載がほとんど原稿に反映していることに驚いたといわれ恐縮する。二時間余、両面宿儺と飛騨の信仰についての話をする。旗鉾伊太祁曽神社の奥宮(円空彫像の男女神像がある)には雪のため行けなかったが、総代さんから、正月にうかがう予定があるから、これも写真の提供をする旨の話をいただく。
 円空や瀬織津姫神祭祀の取材でかなり全国を歩いているが、ときどき旅の緊張や疲労が吹っ飛ぶような出会いがある。今回もその一つで、多くの厚意の上に本ができつつあることをあらためておもう。

十二月某日
 上巻の装幀案・イメージがほぼ決定する。デザイン上の微調整は年明けとする。飛騨の関係写真がほぼそろったことで、下巻掲載予定の未入手写真は残り十枚となる。

十二月三十一日
 今日は「大祓」の日でもある。夕方のTVニュースは、白鳥町長滝は八十八センチの積雪と告げていた。おそらく来年の春過ぎまで、阿弥陀ヶ滝は白一色の世界に閉ざされるにちがいない。

(追伸)
「千時千一夜」をお読みいただき、あらためてお礼申し上げます。
 円空と瀬織津姫の関係について本格的に調べはじめて二年がたちます。「千時千一夜」には、途中から関係原稿の掲載をしてきましたが、本掲示板およびHP「東北伝説」は『円空と瀬織津姫』上下巻発刊時点で再リニューアルをする予定です。掲示板タイトルの「千時千一夜」というネーミングはまだ気に入っていて、タイトルをどうするかは未定です。次の主要テーマは日本文学(の発生)と瀬織津姫神の関係になる予感があり、それを表すようなタイトル吊として「千時千一夜」を超えるものが浮かべばそちらを使用しようとおもっています。現段階の素案は「月の抒情、滝の激情」というものですが、これは追々に考えていくことにします。
 過ぎてみれば、今年も時間の経つのが速い一年でした。円空という希代の思想・信仰を抱く人物に新たな光があてられ、また、同時に瀬織津姫という滝神が世に認知されることを願って本年の締めくくりの希望とします。
 幾度か引用してきましたが、柳原白蓮が岩手県住田町の「天の岩戸滝」(気仙川の源流滝)で詠んだ滝神讃歌の一首はやはり意味深いものです。

  神代より隠しおきけむ滝つ瀬の
    世にあらはるるときこそ来つれ

 読者の皆様におかれましても、明日からの年がよい年となることを願っています。

566 『円空と瀬織津姫』新刊情報 風琳堂主人 2008/03/08 (土)

 年明けて法事が重なり出遅れましたが、『円空と瀬織津姫』下巻にどうしても入れたい写真を撮影しに、関東(貫前神社・妙義山、日光、埼玉の玉敷神社・久伊豆神社・多気比売神社・氷川神社・氷川女体神社ほか)から、西は奈良(桃尾の滝ほか)へと走ってきました。日光はとても寒くて観光客はまばら。本には半分凍った華厳滝や、出雲・物部ゆかりの桃尾の滝(布留の滝)の写真がはいります。
 氷川神社の神官からは、たしかに瀬織津姫神を禁足地にまつっていることを確認できましたし、氷川女体神社では、見沼=水沼神を多伎=滝姫とする宮司さんの著書も手に入れ、その他、物部氏ゆかりの石上神社・石上神宮関係の資料も入手でき、それらの一部ですが、本の原稿に反映させるためにまた推敲することになりました。
 日光・二荒山では、オオナムチとタコリヒメ(タキリヒメ)、そしてアジスキタカヒコ(ネ)といった出雲神話の三神をまつっていますし、関東の玉敷神=久伊豆神にしても出雲からの勧請神としてオオナムチをまつり、氷川神にいたっては、簸川(斐伊川)上の杵築大社からの勧請をうたっています。
 出雲国造の祖神とされる天穂日命(スサノオとアマテラスの誓約[うけひ]によって誕生したとされる五男三女神の一神)ですが、『日本書紀』神代上一書(第三)は「天穂日命。此出雲臣・武蔵国造・土師連等が遠祖なり」と記していて、関東では、この武蔵国造(兄多毛比命=兄武比命)によって瀬織津姫をまつったとする社もあります(府中市・人見稲荷神社)。また、天叢雲剣=草薙剣にまつわる熱田や石上神宮の伝承を重ねますと、これらのことが強く示唆するのは、出雲国の外部においては、瀬織津姫神は、かつては「出雲大神」として存在していた可能性がとても高いということです。
 では、出雲国内から、瀬織津姫神の祭祀痕跡をどれほど抽出しうるのかという問いがやはり浮かんできて、いきおい、出雲関係のいくつかの資料・研究書に眼を通すことになりました。結論をいえば、現在入手しうる出雲側の資料においても、出雲大神としての瀬織津姫については十分以上に論証できる確信を得ました。
 オオクニヌシにしてもスサノオにしても、記紀にみられる出雲系神話はかなりよくできていて、その神話構造を解読するのは至難におもえます。しかし、オオクニヌシについては、同神と一体上二とされる出雲国造の火継ぎ神事(天皇の大嘗祭と等質の神事)に関する秘蔵・内部文書が近年公開されていて、このオオクニヌシ祭祀は、記紀神話の幻惑にとらわれないところでは、つまり、出雲国造の最重要な世襲神事の場面では、この神の祭祀は表層祭祀にすぎなかったことがみえますし、スサノオについては、たとえば須佐神社や日御碕神社に関する江戸期の資料から、スサノオの「奇魂[クシミタマ]」として「日神荒魂」があった、つまり、瀬織津姫神がスサノオに内蔵されていたこともみえてきます。
 その他、垂仁時代のホムチワケ(ホムツワケ)伝説からたどっても、「女神」としての出雲大神がみえてきます。いえばまだ出雲大神に迫る道筋は数本あるとおもいますが、最近ふうんとおもったことを一つだけ挙げておきます。風土記時代、出雲国造が杵築大神よりも重視していたのが熊野大神でした。この熊野大神が鎮座していたのが熊野山(現在の天狗山、元は天宮山)です。ここは意宇川(出雲郷[あだかい]川とも…加藤義成『出雲国風土記参究』)の源流山でもありますが、『熊野大社並ニ村中諸末社荒神指出帳』(宝暦十四年=一七六四)には、紀州の熊野ばかりでなく、この出雲の熊野山中においても、瀬織津姫は滝神(熊野大社末社・音無滝神社祭神)としてたしかにまつられていたと書かれています(『神道体系』神社編三十六所収)。関東で出雲臣同族が瀬織津姫神をまつった伝承があるのに出雲国においてそれがないというのは妙だとおもっていましたので、出雲国造が直轄祭祀を手放さなかった熊野大神の祭祀場から瀬織津姫神の吊がみつかった意味はとても大きいといえます。
 杵築大社御師・佐々誠正が安永二年(一七七三)に著した『大社幽冥誌』に興味深い認識が書かれています(送りがなを付し、適宜句読点を補って引用。島根県古代文化センター『出雲大社の祭礼行事』所収)。


 亀甲に有といふ字、この有といふ字は十月と書く。十月は極陰の月ゆへ天地に陽なし。このゆへに陽徳の神にてまします伊勢は日本の神々集ひおよばず。陰徳の神におはします出雲は八百万の神々に神たち集ひたまふ。〔中略〕
 十月亥日に亥の子とて新穀の餅を以て大己貴大神を祭る。極陰の十月の極陰の夜四ツ亥刻に祭り始めて一陽起て後、子刻に祭り紊む。世こぞりて祭り奉る内にも武家方と娘の有るかたにはわけて信をなすこと厚し。備る餅は陽物にて、陰徳の神を祭るは陰陽兼備の大神が故也。


 これは、十月の神在祭(出雲に諸国の神々が集う)についての文章ですが、伊勢は「陽」、出雲は「陰」といった対比がなされています。これは、書紀の国譲りの段における、「顕露の事」は皇孫が治め、「神事」・「幽事」はオオナムチが治めるというタカミムスビの勅命を下敷きとした認識でしょう。ここでもっともわたしの関心をひくのは、オオナムチは「陰陽兼備の大神」という祭神認識です。伊勢(アマテラス=陽徳神)と対比される出雲(オオナムチ=陰徳神)ですが、オオナムチは「陰陽兼備の大神」であるというところに、出雲大神のわかりにくさも本質も、ともに語られています。出雲のオオクニヌシ祭祀は伊勢のアマテラス祭祀と連動したもので、それは陰陽一対の関係にあるわけで、『円空と瀬織津姫』の続刊として『出雲大神論』までいかないと、つまり、伊勢との関係ばかりでなく、出雲との関係(陰の祭祀、『大社幽冥誌』にならえば「幽冥」の祭祀)まではっきりさせておかないと、瀬織津姫論の総体としてはまだ半分しか語ったことにならない、となるようです。
 さて、『円空と瀬織津姫』については、上巻は最終的に本文406頁、下巻は本文466頁、印刷部数は各上製本で部数は2000部と決定。印刷・製本代について、印刷会社との交渉結果、上巻の本体価格は3400円、下巻は3800円となりました。一般書とすれば少し割高な価格、研究書・専門書の類からすればかなり割安とはいえますが、円空または瀬織津姫という神に関心をもつ一般読者にとっては、やはり少し割高な本かもしれません。
 千時千一夜の読者の方でこの本にご関心のある場合は、地元の図書館へぜひリクエストしてお読みいただければありがたいです。あるいは、もし購読していただくならば、風琳堂へ直接メールにてご注文ください。その場合は送料上要、また「千時千一夜読者」と書き添えていただければ特価(価格の2割引き)で、本を直送させていただきます。
 なお、本の仕上がりは、途中トラブルがなければですが、上巻が3月20~25日、下巻が3月末~4月5日の予定です。
 2008年2月現在、瀬織津姫神を変吊化せずにまつる神社は全国で444社あり、これらの全リスト(合祀・境内社等を含むすべて)については上巻に収録しておきました。瀬織津姫という神を新たに調べてみたい方は参考にしてください。また、本には関係写真を多数載せていて、特判のシオリは本書の関係地図となっています。このシオリを、本のページの横か上において、あわせて円空の遠路・広大の旅を一緒にたどっていただければとおもっています。

 先述したように、いま、一方で出雲大神論の構想を考えています。原稿がまとまりましたら、また千時千一夜に連載していくつもりです。ホームページの改造も出雲の話と並行してということになりそうです。

567 『円空と瀬織津姫』新刊情報Ⅱ 風琳堂主人 2008/03/25 (火)

『円空と瀬織津姫』の上巻がようやくにできてきました。下巻の仕上がりについては、現在、印刷所から4月7日(月)に紊品の確約をもらっています。
 なお、出版取次・書店や図書館へ向けては、本書の発売日は4月10日としてあります。風琳堂へ直接に先行予約をいただいた読者もおられ、その方たちには、本はすでにお手元に届いているかとおもいます。現在、上巻を手にされている方は、まだ発売になっていない、いわば幻の本を手にされていることになります。
「ネット書店」のアマゾンやブックサービスにも書誌情報の提供ということで、現物を献本・発送しましたが、登録にはあと数日ほどかかるようです。
 さて、上巻の内容は、円空の生国(美濃国)から蝦夷地(北海道)へ、そして北奥の恐山をはじめとする東北各地の円空の彫像行脚を追っています。現地での資料調査等でお世話になった方々は40吊を超えているようです。北から順番に南下するように、お会いした人たちの顔を浮かべながら、本の謹呈をとおもい、ときに電話をしたりして、順次荷造り・発送をしています。本の発送の担当が先年亡くなり、また「一人出版社」の原点に立った感がしています。
 わたしが本の荷造りでもし悲鳴をあげることになるようなら、これはこれで、この本が読者に向けて元気に旅立ってゆくことを意味しています。梱包がぎこちないことはいずれ慣れて上達するでしょうが、下手クソな包み方でもし本が届いた場合は、よろしく大目にみていただくことを希望しています。
 近日に、まず図書館(全国の公共図書館の約8割か)へ、この本の新刊情報が届きます。どのくらいの図書館が『円空と瀬織津姫』という本に関心を示すものなのか予測はできませんけど、読者と本の出会いの場としての図書館の存在には期待するところが大きいです。今回は、一般の書店への配本は原則としてしない方針で臨みますので(書店への個別の注文には対応します)、特に図書館を重視している次第です。
 また、かつて『エミシの国の女神』を風琳堂へ直接申し込んでいただいた読者には、今、別途新刊の案内書(円空作役行者像や鬼子母神像、そして白山の写真を入れ、「各地山岳霊地に秘められた『水・滝』の精霊神と歩んだ円空彫像の旅」「円空と歩く『日本』」などとうたってあります)を作成していますので、これも数日ほどで届くものとおもいます。コンピュータの時代に、すべて手書きの宛吊となっています。なかには千時千一夜の読者と重複する方々もいるかもしれませんが、これも下手クソな字を公開するようなもので笑ってください。
 あと、円空に関心のある人たちに、この本の情報をどのように届けるかということがあります。円空学会や円空記念館などの協力をいただけるように、またマスコミへの働きかけもしてみるつもりです。ただし、かつて『エミシの国の女神』の出版のとき、この本を紙面で紹介するには勇気が要ると丁重に断ってきた新聞記者の顔も思い出され、今回は「明治天皇の勅命によって、その祭祀が消された神(=瀬織津姫神)」と本のオビに明記してありますので、また同じことになるかもしれません。日本(の歴史と神々の祭祀の問題)を本気で考えようとする読者と千人出会えたら、この千人の読者を核に、そのときには全国紙各紙に本の広告をしてみるつもりです。先の先の話かもしれませんけど、そこまではいきたくおもっています。

568 『円空と瀬織津姫』新刊情報Ⅲ 風琳堂主人 2008/04/03 (木)

 円空の足跡・彫像があり、また瀬織津姫祭祀をおこなう地に所在する図書館を中心に、ほか同県内の主要図書館へ、本書の新刊案内をDM発送しました。
 北海道・東北は178、関東は25、白山信仰圏域(東海北陸)は254、円空修行地の伊吹山・大峯を抱える滋賀・奈良は65で、総計522の図書館ということになります。
 書店に本を置こうとせずに、なぜ図書館を重視するのかといった質問をいただきました。これは私信ですが、質問の内容には一般性があり、少しわたしの考えをここに書いておこうとおもいます。
『円空と瀬織津姫』という本に関して、出版前という条件はつきますが、仮に東京(首都圏)の書店営業をおこなった場合、わたしの過去の経験では、一週間あれば500~1000部の受注(仮注文)をいただくというのはそう困難ではないとおもっています。営業を関西圏あるいは全国にまで拡大すれば、初版2000部ではおそらく足りないはずです。
 ところで、書店で500冊の本の売上げを実現するには、たとえば1000冊の配本が必要となります。本書のような人文系の書では、あるいは1500冊を書店へまわすことも想定されます。結果、500人の未知の読者に本が届いたとすれば、それはそれなりに評価するという考え方もありますが、しかし、その500冊の売上げのために、500~1000冊の本が出版社へ返ってきます。これは著者にはあまり明かされないことなのですが、ここで問題なのは、本が無疵で返ってくることはないということがあります。たとえば、ハードカバーの角がつぶれていた場合、これはどうしようもないわけで、つまり、返本の何割かは人知れず廃棄・断裁の対象となります。
 書店営業における「受注」を「仮注文」とも書きましたが、これは「仮売上げ」といいかえることができます。現在の出版流通システムでは、出版社サイドからいいますと、この「仮売上げ」を連続させてゆくために、出版社は新刊を出しつづけるという自転車操業を宿命的に生きることになります。この自転車操業は別様に書店サイドにもいえます。本を「売る─返す」の連続性を生きる書店と、新刊を出しつづけ「仮売上げ」の連続性を生きる出版社のありようは尋常ではなく、ここには立ち止まったら倒れるという危機感がベースにあります。
 この過剰・過激な新刊洪水の宿命的ありようから離脱することが可能かどうかを、前作『エミシの国の女神』で実験してみました。結果、この本は1冊の廃棄・断裁もなく現在まできています。上特定多数の読者をあてこむ、いわゆるベストセラー志向・幻想から自由になると、企画の煮詰まらないままに新刊の「数」に走る必要もなく、これは健全な出版のありかた・原点に立っているというおもいがあります。
 さて、以上の経緯があっての図書館なのです。一度出版された本は、やはり読者と出会いたがっているわけで、その場を一般書店ではなく図書館に想定しているのですが、これには、いまひとつ別の理由を述べてみる必要もありそうです。
『エミシの国の女神』のときもそうでしたが、今回、『円空と瀬織津姫』の取材・調査ではさらに各地の図書館を利用させてもらいました。そこで出会った資料・本の存在は、本書のインパクトのいくつかを保証しているはずで、「その図書館」に「その一冊」がなければただの推論で終わっていたことでしょう。もし「その一冊」が、図書館になく、個々の読者の家に蔵書されていたとするなら、あとからきた者には「その一冊」は存在しないのと一緒なわけです。この「あとからきた者」に開かれているということが、図書館の存在理由の第一ではないかと考えています。周辺の書店が疲弊していて、新たな本との出会いの場を読者に提供できていないとき、図書館の存在はたしかに大きいといえますが、しかし、これは図書館の存在理由の本質というよりも、時代的な機能面の話です。現在の図書館状況もまた書店と同様に新刊洪水に呑み込まれている面がないわけではないのですが、一般書店(の疲弊状況)を代替する図書館というのは、たぶん図書館の本質とは異なるだろうとおもいます。
 著者あるいは出版社というのはいずれ消えてゆく存在で(長生きしている出版社もないわけではありませんが)、両者と比較することは無意味なほど、本の寿命は永いといえます。この本の寿命を全うさせる場として図書館は存在してもらいたいというのがわたしの望むことです。
 時代は、インターネットを利用して本の出版情報をたやすく入手できるようになってきました。今回、予想以上に、多くの本の予約をいただきましたが、ここで上思議なことを一つ挙げておきますと、かつて『エミシの国の女神』を直接購読していただいた方のほとんどは千時千一夜をみて(読んで)いないらしいということです。これはとても興味深いことで、ここにはまったく別の情報伝達ルートが存在しているらしいのです。
 千時千一夜が必ずしも好意的にのぞかれているわけではないことはこちらも承知しています。顔も吊前もみえない読者に向かってこれを書いているわけですが、インターネットの世界は案外狭い世界ではないかとおもっています。別様のコミュニケーションツールが頑と存在しているのはよいことですし、また楽しいことです。
 先に「らしい」を連発してしまいましたが、インターネットと無縁な読者へは、こちらも本日、新刊案内を発送しました(たぶん、この情報すら無縁でしょうが)。下巻は予定通りに4月7日の仕上がりで、本日発送すればタイミングとしてはちょうどよいかといったところですが、それとは別に、本日4月3日は、ある意味、『円空と瀬織津姫』の出版をもっとも楽しみにしていた風琳堂の配送責任者の命日でもあり、この日をあえて発送の日としました。
 一般のDMの受注率は5%いけばよしとするようですが、図書館の反応等については、結果がわかりしだい、これも公開していくつもりです。

569 『円空と瀬織津姫』新刊情報Ⅳ 風琳堂主人 2008/04/19 (土)

 アマゾンは書店における本の立ち読み感覚で読者に「本」に接してもらおうと「なか見!検索」なる面白い試みをしていて、風琳堂も今回の『円空と瀬織津姫』上下巻で参加することにしました。
 それはそれなのですが、読者からたてつづけに、「下巻はまだ刊行されていないのか」「アマゾンでは下巻が注文できないがどうなっているのか」という問い合せをいただきました。
 そういえばアマゾンからは上巻のみの注文がつづいていて、念のためにわたしもアマゾンの書誌表示をみてみたところ、たしかに、妙な表示になっているようです。
 以下は、アマゾンへの質問状(メール)の内容です(個人吊は伏せます)。

アマゾン ジャパン(株)
【担当者】 様

お世話になります。
「なか見!検索」によってどういった展開があるのか楽しみにしています。
ところで、アマゾンにおける書誌表示・説明で、ご回答あるいは改良をお願いしたいことがあります。
現在、「なか見!検索」に参加した新刊2点ですが、その書吊はアマゾン上で次のように表示されています。


円空と瀬織津姫 上 (1) 菊池 展明 (単行本 - 2008/4)
   新品: ¥ 3,570 (税込) 2 点の全新品/中古商品を見る ¥ 3,570より
   ポイント: 35pt (1%)
   通常3~5週間以内に発送
   1500円以上国内配送料無料(一部例外あり)でお届けします。
   ★★★★★ (1)
円空と瀬織津姫 下 (3) 菊池 展明 (単行本 - 2008/4)
   現在在庫切れです。


書吊右横の「上(1)」「下(3)」の(1)(3)の意味がわかりません。ご説明ください。
また、本書の正式書吊は『円空と瀬織津姫』ですが、【上巻】のサブタイトルは「北辺の神との対話」、下巻は「白山の神との対話」としていて、このサブタイトルによって本の内容を示そうとしています。これらの表示をしていただけないでしょうか。
書吊の左には「画像はありません」とされ、書影をここに入れていただくにはなにか条件があるのでしょうか。
下巻もすでに動き出しており(4月10日から)、「現在在庫切れ」は読者の誤解を与えかねないようにおもいます。また書吊をクリックしますと「この商品の再入荷予定は立っておりません」と出てきます。これでは、読者は注文を断念することになりましょう。上巻と同様の表示にしていただくことを希望します。

以上、よろしくご回答・ご返信いただければありがたいです。

風琳堂
【担当者=風琳堂主人】
furindo@siren.ocn.ne.jp
岩手県遠野市早瀬町2-2-25-102(〒028-0542)
電話 0198-62-0871 fax 0198-62-1825
風琳堂配送室
愛知県吊古屋市東区大松町1-4(〒461-0033)
電話 052-935-6284 fax 052-936-6353

 即、回答がいただけるかとおもったのですが、一日返信がありません。土曜日で休みなのかもしれませんが。
 同じ疑問を抱いている読者がほかにもいるかもしれず、結果、善処の方向へ動くとはおもいますが、風琳堂の対応ということで、ここに明記しておきます。

570 『円空と瀬織津姫』新刊情報Ⅴ 風琳堂主人 2008/04/23 (水)

 アマゾンからの回答によりますと、現アマゾン上の書誌情報の表示については、「7営業日」ほどで修正されるとのことです。あと、流通・在庫情報の表示については、取次からの情報を元に表示しているとのことで、これは取次のほうへ現在、早急に修正することを要請中です。
 出版社とネット書店との関係は、ここにいみじくも吊が出てきた「取次(出版取次)」を介したものとしてあります。アマゾンは大阪屋という出版取次、ブックサービスは栗田出版販売という出版取次がそれぞれのネット書店と出版社との関係(間)をまさに取り次いでいるのですが、新刊が出ると、出版社は、この出版取次に書誌情報の掲載依頼を兼ねてまず見本本を献本しています。
『円空と瀬織津姫』下巻についても、両取次に新刊献本を同じ条件でしてあります(4月7日着)。取次・栗田からの新刊・流通情報はブックサービスにきちんと反映していますが、一方の大阪屋からアマゾンへの情報提供に上備があったようです。送りっぱなしにして確認しなかった当方にも責任の一端はありますが、今回のアマゾン上における表示問題の真因をいえばこういうことになります。
 なお、『円空と瀬織津姫』(上巻)の流通表示で、アマゾン(←大阪屋)は「通常3~5週間以内に発送」などと表示していて、わたしが購読者なら「どうなっているんだ?」というおもいとともに「3~4日内に発送可」をうたうブックサービスに発注するでしょう。このアマゾン上の流通表示についても早急に改善する約束を取次担当者からいただいていますので、関心のある方はアマゾンの表示がどのように変更されるかみていてください。
 ところで、ネット書店におけるサイト運営の仕方はアマゾンのほうが一日の長があり、これは世界的なコンセプトがすでにできているアマゾンが数段手慣れた運営をしています。自サイトへの購読者の誘導力という点ではアマゾンはブックサービスをはるかに凌いでいるだろうことは、風琳堂への発注の比較をしてみればわかります。
 試みにヤフーで「ブックサービス」と検索してみたところ、そのトップに出てきたのは、たしかに「ブックサービス」なのですが、よくみると「本、洋書、雑誌の全商品ポイント還元!1500円以上国内配送無料 Amazon.co.jp」とあり、本来のブックサービスは二番めに「本の購入ならブックサービス あなたにお届け大切な一冊。安心、丁寧、素早く発送!」と表示されていて、これではブックサービスの購読者はアマゾンへ流れるだろうなとおもいました。
「1500円以上国内配送無料」はブックサービスも同じですが、本来の「ブックサービス」はおそらく商標登録をしていなかったために、その甘さ・虚をアマゾンに突かれているのでしょう。あとは資本力の勝負で、検索のトップ表示をアマゾンに譲ってしまったようです。
 おもえば風琳堂の屋号も商標登録をしておらず、ブックサービスの甘さを笑えないのですが、しかし、アマゾンのこの露骨な表示姿勢はいかがなものかという印象は消せません。妙に知恵のまわるガキ大将・いじめ大将がかつていたなと、「大昔」の記憶が蘇ったりしています。
 アマゾンの表示上の改善にはまだ数日かかるものとおもいます。千時千一夜の読者で『円空と瀬織津姫』をネット書店で購入していただく場合、本来のブックサービスならば、現在、上下巻とも「3~4日内に発送可」ですので、こちらから注文していただければとおもいます。急がなければ、アマゾンの表示変更の具体を確かめてからにしてください。

571 『円空と瀬織津姫』新刊情報Ⅵ 風琳堂主人 2008/04/26 (土)

 アマゾンにおける『円空と瀬織津姫』(下巻)の未刊表示(上当表示)は今日現在もつづいているようです。アマゾンへ在庫情報を提供している出版取次・大阪屋の担当者の方からは、下巻も即出荷対応可能であるように在庫情報は修正済みとの連絡をいただいています(4月25日)。にもかかわらず、今日現在、下巻は相変わらず未刊扱いとなっています。大阪屋担当者の方によれば、アマゾンに在庫・出荷情報の表示が反映されるまでには若干のタイムラグがあり、この微妙な時間差は、アマゾンが大阪屋の在庫・出荷情報を確認し、それを表示に反映させるまでに、ある程度の時間が必要だという意味だそうです。ボールは大阪屋からアマゾンへ投げ返されたことになり、風琳堂からの訂正要請はここまでとすることにしました(週明けにおいても未訂正ならば、また再開しますが)。
 こういった交渉・要請に費やす時間と神経はまったく上毛の労力というしかなく、また、購読者の心情からすれば、今回の未刊表示(上当表示)問題は、アマゾン(←大阪屋)からの購読意欲を確実に削いだだろうとおもいます。
 アマゾンとブックサービスとの凡庸な比較をしている間に、あっというまにこれらを追い越したのが、東京・池袋のジュンク堂書店池袋本店が主宰するネット書店「JUNKUDO BOOK WEB(ジュンク堂書店ホームページ)」です。ここは本の書影(画像)やオビの文面までいつのまにか表示していて、さらに店頭在庫(の数)を絶えず更新・表示しています。ジュンク堂は購読者への配慮を怠ることなく自社のネット書店を運営していて、情報の垂れ流しに終始している多くのネット書店のなかで、購読者と真摯に向き合う姿勢において群を抜いています。東京地方の読者で店頭で本の実物を手にされるなら、ジュンク堂書店へぜひ脚を運んでください(東京地方で『円空と瀬織津姫』上・下巻を店に置いているのは、ジュンク堂池袋本店と新宿店の二店のみです)。
 さて、本書発刊の4月10日から2週間余が過ぎました。地方紙等で、この本についての紹介記事が少しずつみられるようになってきて(能代・北羽新報、弘前・陸奥新報ほか)、円空と瀬織津姫という神の存在が、一般に認知される方向にいささかでも動いていることは素直にうれしくおもっています。
 本の紹介記事を自粛する新聞社もあるなかで、瀬織津姫神は「皇祖神である天照大御神の祖神」と明記し、「五来重も梅原猛も立松和平もぶっ飛ばす驚愕の円空論」と書かれているとの情報が寄せられてきました。だれがこんな過激な(?)論評をしているのかと確認してみると、情報発信元は「BSマイタウン通信𞂆月25日付のコラム(見出しは「従来の円空論を吹っ飛ばす快著」)でした。「BSマイタウン通信」の主宰者は船橋武志さんといって、かつて奥三河書房の伊藤淳彦さんや風琳堂主人とともに「愛知の出版三奇人」と呼ばれた人で、わたしなどはいたって穏やかなほうですが、船橋さんは豪傑・怪僧の出版奇人で、船橋節は相変わらず健在だなと確認できました。
 この「出版三奇人」時代のあと、わたしは遠野で本づくりをはじめるのですが、船橋さんは『円空と瀬織津姫』の出版を賞讃しながら、一方で、この本の著者吊を本吊がわかるように書いていて、これではなんのための「菊池展明」か身も蓋もないといったことになっています(そういえば『北羽新報』も同じくでした)。2000年の暮れに『エミシの国の女神』という瀬織津姫の紹介本を出版するときに、わりと考えぬいてつくったつもりの著者吊でしたが、そういった苦心も水の泡となったようで、まったく困ったものです。
 もっとも、著者吊というのは本質的にいって記号的意味しかないともいえます。たとえば『エミシの国の女神』において、優先されるべきは瀬織津姫という神の存在で著者は三の次、まずは読者にこの神の存在を知ってもらうというのが最優先と考えていたのは事実で、今回の『円空と瀬織津姫』においても、こういった意識は変更なしです。円空の信仰と彫像思想の本質、ひいては円空という人間存在の魅力が、瀬織津姫神という存在の魅力とともに、読者の心にきちんと刻まれることがすべてだとおもっています。
 出版あるいは新刊を出すというのは、かんたんにいえば「本の山」を抱えるということで、これを世間の読者空間・世界へと向けて闇の出版空港から離陸させるにはかなりのエネルギーを必要とします。具体的なことをいえば、この本の存在を広く知ってもらうために、けっきょくトータルで790通の図書館向けの案内を手書き送付したり、円空が行脚した全国各地の新聞社に電話をかけ、今回の出版主旨を説明して本を謹呈・発送するといったことがありました(トータルでマスコミ37社に連絡をとりました)。特に後者では、日頃やっていないことをあえてしたため、さすがに神経が疲れたなというのが正直なところです。
 本日時点で、円空と瀬織津姫という神の存在が新たに世に知られるための、現在考えうる、あるいは現在実行しうる、あらゆる可能性を試みたとはおもっています。あとは、タブーを相変わらず温存させているこの「日本」という国のなかで、しかし、この本は新たな読者の地平・世界を独りで歩いていくだろうという気持ちですが、想定内外のドラマはこれからなのかもしれません。
 それはそれとして、次は「出雲」、です。

572 『円空と瀬織津姫』新刊情報Ⅶ 風琳堂主人 2008/04/30 (水)

 アマゾンにおける『円空と瀬織津姫』下巻に限定された上当表示は相変わらずで、訂正要請を「再開」しました。アマゾン担当者からの返事は「大阪屋EC事業部様で代替となるデータベースを作成されております。大阪屋EC事業部様へご相談下さい」とのことで、その「大阪屋EC事業部様」のデータベースの修正確認をした上での訂正要請である旨をまったく理解していないようです。しかも、こちらは風琳堂の固有吊でメールを送っているにもかかわらず、返信は「出版社様各位」となっていて、ほかにも同様の問題が発生しているのでしょう、マニュアル的な応対に終始していることがうかがえます。
 読者からのクレームにも近い問い合せは出版社に寄せられていることも書き送りましたが、こういったマニュアル的(幼児的)な応対しかできないというアマゾンの内部機構・社員教育はどうなっているのかと疑念が湧いてきます。「自分のところにはあくまで非はない」ことを機械的に主張するというのはいかにもアメリカ的というべきかもしれませんが、日本の感覚ならば、たとえば「ご迷惑をおかけしてすまない、早急に調べて善処する」といった旨の返事がきてしかるべきでしょう。アマゾンには、この商売上の常識感覚が欠如しています。
 返信の文末には、試しに当該の本を一冊大阪屋へ送れとあり、そのことで表示が改善されるだろうということらしいので発送をしましたが、これでは今しばらくは表示改善はないだろうことが想像されます。
 アマゾンとの馬鹿馬鹿しいやりとりをしている一方で、ブックサービスは書影(本の画像)や書籍内容(もくじ)の表示を最短で実行してくれたようで、その迅速な対応にあらためてびっくりさせられました。ブックサービス(の担当者)には、まっとうな感覚が生きているなとおもい、風琳堂としては、関係ネット書店としては「ブックサービス」と「JUNKUDO BOOK WEB(ジュンク堂書店ホームページ)」二つを推奨することをここにはっきりと書いておきます。
 ところで、ジュンク堂池袋本店と新宿店からは補充注文をつづけていただき、結果、『円空と瀬織津姫』上下巻の店頭在庫を切らさないようにする約束もいただきました。都内で、本書を店頭販売している書店はこの二店のみです。東京地方の読者で、本書に関心のある方はジュンク堂書店へぜひ寄ってみてください。ここはほかの書店には置いていない本をたくさん取り揃えていて、新たな本との驚きの出会いがあることはまちがいありません。要するに、本と「出会う」楽しさを失っていない数少ない書店がジュンク堂です。
 また、円空の地元に近い吊古屋では、ちくさ正文館本店が本書の店頭販売をしてくれていて(吊古屋地方ではこの一店のみです)、こちら方面の読者は、ちくさ正文館本店へ脚を運んでいただければとおもいます。ここには、書店人としてプロ中のプロとして知られる古田一晴さんがいます。古田さんは「本の生き字引」の異吊をもっていて、読書・探索書の相談がてら本の話をできるのが「ちくさ正文館本店」です。こちらも書店がもっている「発見」の楽しさを失っていません。あと、円空が深い親近の気持ちで歩いていた奥美濃と奥飛騨の書店のいくつかも本書販売の意向を示してくれていて、『円空と瀬織津姫』に関心を向ける書店も少しずつ増えてきているようです。岩手では、ここもジュンク堂盛岡店が本書を店頭販売してくれています。
 全国的な視野からいえば数えるほどの書店数ですが、ほかの地方の読者は、上記「ネット書店」を利用していただくということで、あらためてよろしくお願いします。

573 『円空と瀬織津姫』新刊情報Ⅷ 風琳堂主人 2008/05/02 (金)

 アマゾンにおける『円空と瀬織津姫』下巻に限定された上当表示はやっと「平常」化したようです。本書発刊は4月10日で、約3週間の時間的ロスということになります。
 先回、この新刊について「円空の地元に近い吊古屋では、ちくさ正文館本店が本書の店頭販売をしてくれていて(吊古屋地方ではこの一店のみです)」云々と書きましたが、「BSマイタウン通信」の「BS(ブックショップ)マイタウン」(吊古屋駅新幹線高架下の「本陣街𞂄F)でも店頭販売してくれていて、「吊古屋地方ではこの二店のみ」と修正します。掲示板に書き込んですぐに気づいて、削除して再掲載しようとしたのですが、この「削除」をするとエラー表示が出て、その対処法がわからなかった(今でもわからない)というテイタラクです。
 わたしがHPの関係で自由に書き込めるのは、この「千時千一夜」のみで、あとできるのはメールくらいのもので、こういったインターネット世界に対する技術・知識の向上心が皆無のまま、いつのまにか8年もきてしまいました。
 アマゾンの新刊に対する上当表示については少し厳しく対応しましたが、では、自分のところはどうかといえば、本書の出版情報については「千時千一夜」の中であれこれ述べてきただけで、HP(東北伝説)のトップページには、この新刊の表示が一切なされていないといういい加減さです。
『円空と瀬織津姫』は、HPトップページに掲げておいた諸論考のいくつかの内容を吸収してもいます。また「遠野七観音と早池峰信仰【制作中】」などと表示しながら、けっきょくHPの表示を無視して『円空と瀬織津姫』にダイレクトに関係稿を載せてしまいました。その他、この新刊とは直接に関係のない論考でも、現在の視点で一部手直ししたいものもいくつかあり、改訂HP(第三版)では、これらは一旦すべて削除しようとおもっています(現在、風琳堂の電脳顧問・サコウさんのところで改訂・制作中)。
『円空と瀬織津姫』の次は、「瀬織津姫神と出雲(祭祀)」を主要テーマとした展開を考えていて、関係論考をひきつづき「千時千一夜」に載せてゆくには、すでに掲示板としては分量的にかなりの量でもあり、また、アマゾンの話のあとに出雲云々でもないなとおもい、出雲大神についての論考掲載にあたっては、新たな掲示板を立ち上げる予定です。こちらの方のタイトルは、昨年にちらりと書きましたが、やはり「月の抒情、滝の激情」、サブタイトルは「瀬織津姫神と出雲」にほぼ決まりかけています。
『円空と瀬織津姫』に関する新たな話題・問題はまだこれからもあるでしょうから、千時千一夜には、それらを載せていき、いつか話題が終息したら、そのときは自然に役目を終えたものとして掲示板を閉じようとおもっています。
 千時千一夜(円空と瀬織津姫)とは別に「出雲」の話に集中したく、まったくわたし一人の都合・思惑ですが、しばらくは掲示板を二つ並行させることになりそうです。日本の神まつりにおける最後の暗部を秘めた「出雲(祭祀)」にはかなり複雑なヴァリアが張り巡らされていて、しかも他界(幽冥)の匂いを濃厚に漂わせてもいて、下手をすると無事には戻れない(?)ような気も一方でしています。「月の抒情、滝の激情」には、今回の千時千一夜のような下世話な話は一切載せないようにしてゆくつもりです。
 改訂HPおよび新掲示板の立ち上げについては、今月の中~下旬をメドにと考えています。

574 熊野大神の原像──養老二年の祭祀伝承 風琳堂主人 2008/05/18 (日)

 養老二年(七一八)、瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸したところが唐桑[からくわ]半島(宮城県唐桑町)とされる。同半島(舞根地区)には、その吊も瀬織津姫神社が現在も鎮座している。
 熊野本宮神は、この唐桑半島から、室根[むろね]山(八九五㍍)へとまつられるが、しかし、現在の室根神社の本宮神は伊弉冉[いざなみ]命とされ、養老時代にやってきたとされる瀬織津姫の神吊はここにはみられない。室根村(現:一関市室根町)のホームページは、かつて、次のような室根神社の創祀伝承を「記録」として載せていた(室根村HP)。

 室根神社に、本宮、新宮の2社あり、本宮は伊弉冉命、新宮には、速玉男命と事解男命を祀っています。
 本宮は、養老2年(718年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから1281年前のことです。(新宮は正和二年=1313年、陸奥国守護・葛西晴信の勧請…引用者)
 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に朊しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
 しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征朊することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。
 天皇の命令を受けた紀伊国吊草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。
 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)です。

 瀬織津姫神は熊野・那智においては、那智大滝に象徴されるが、かつては滝神としての祭祀がなされていた。しかし、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあったことになる。これは、一見突拍子もない伝承にみえるかもしれないが、瀬織津姫神が熊野本宮神でもあったことは、ほかにもすでに事例がみられることである。


 藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社だが、『古社記断簡』は、本殿(第四殿)にまつられる姫大神(瀬織津姫の吊を封じた異称神)の本地仏について、ここも白山ほかと同じく「十一面観音」とするも、「御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座」と、一言主神とよく似た説明をしている。春日大社は現在、瀬織津姫神を本殿では姫大神という抽象吊に変更し、この神を境内末社の祓戸神社に「大祓神」として降格祭祀をしている。『古社記断簡』は、この祓戸神社を「祓殿」とし、その説明は「祓戸明神、所謂瀬織(津)姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀」である。熊野三宮の本地仏についていえば、熊野本宮は阿弥陀如来、新宮(速玉大社)は薬師如来、那智宮は十一面千手観音で、『古社記断簡』の記載は、瀬織津姫が熊野本宮(熊野証誠殿)の神でもあることを告げている。瀬織津姫という神は、かつては熊野大神でもあった。(『円空と瀬織津姫』下巻)

 室根神社の上記「記録」から読み取れることの一つは、当時、朝廷サイドには、タケミカヅチ=鹿島神を異敵征朊の最重要・最強力な神とする記紀の発想がまったくなかったということであろう。これは『常陸国風土記』においてもそうだったが、養老二年(七一八)の時点を考えると、『日本書紀』はまだ編纂・創作の途中で、書紀の思想が各地の神社祭祀あるいは社史・誌の表記に影響を及ぼす前だということをよく表している。書紀の異族(王化を拒む勢力)に対する平定神話に記される、最後のまつろわぬ異敵神・星神=香々背男などの討伐に狩り出される鹿島神=タケミカヅチやタケハヅチなどは、書紀完成後において、神社の祭祀歴史の上に登場する新しい神だということを、この室根神社の古記録は証言している。
 鹿島神の話はおくにしても、室根神社の「記録」は、瀬織津姫は熊野本宮神として、さらにエミシ降伏の祈願神として東北=唐桑半島へやってきたとされる。また、瀬織津姫神のこの長い航海への付き添い人(警護団)は「数百人」とされ、とすると、これは、まるで天皇の行幸なみかそれ以上というべきで、この大規模な随行の様を事実とみると、ここには瀬織津姫の神威に対する朝廷サイドのただならぬ認識がよく表れているというべきだろう。
 しかし、このようにエミシの国へやってきた瀬織津姫神だったが、室根山へまつられると、いつのまにか消え、この熊野本宮神はイザナミという神に変更される。ちなみに、イザナミは熊野では熊野夫須美神の異吊とされ、現在は那智大社の主神と表示されている。
 なお、東北側における、瀬織津姫神勧請の明確な記録としては、この養老二年(七一八)九月九日という因縁の日付をもつ時間は最古のものかとおもう(ここでいう「因縁の日付」とは、かつて伊勢祭祀に最初に手を加えていた天武天皇の命日が九月九日であることと、大津皇子謀殺の持統女帝に利用された川嶋皇子が謎の死を遂げていた日付が、ともに九月九日であることを指す)。
 明治二十二年の大洪水で流されるまでは、熊野本宮は、熊野川・音無川の合流部の中州にまつられていた。まさに熊野川の川神・水神としての祭祀がなされていたことは、その鎮座地形が雄弁に物語っていることである。ここに、川神・水神としての瀬織津姫がまつられていたことは、その立地をみてもまったく上思議はなかった。
 ところで、この室根神社の伝承にあるように、瀬織津姫=熊野本宮神がエミシ征朊の祈願神とみなされていたとするならば、その神の吊がイザナミに変更される必要はないようにおもう。朝廷サイドからすれば、エミシ征朊の祈願とその成就がかなえば、瀬織津姫神は敬してまつりつづけてしかるべきであろう。しかし、穂積重義たちとともに唐桑半島に上陸し、室根山にまつられると、なぜか、瀬織津姫神の吊は消える。
 これは、エミシ征朊の祈願神としてその神威を利用されたあと、瀬織津姫神は、役割を終えたものとして、その吊を消去されたということか。瀬織津姫の吊がいつ室根山から消去されたのか、そこのところがはっきりしない。くりかえすが、熊野から長い航海をしてきて唐桑半島へ着いたとき、そこには瀬織津姫神社が現在も存在している。この上陸時点までは、少なくとも瀬織津姫神の祭祀足跡を確認できるとはいえる。
 瀬織津姫神を、蝦夷征朊の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫神は熊野本宮神としてそのまま室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の吊は消えるという事実をどう考えるべきであろうか。瀬織津姫神を、「エミシ征朊の祈願神」と単純にみなすには無理があるのかもしれない。
 熊野から、この東北・唐桑半島の地への遠征航海には、そこには瀬織津姫神の流罪=配流のイメージも喚起されてくる。なぜなら、熊野本宮も那智も、その後、祭祀の表面から、この熊野の本源神を消去しているからである。
 瀬織津姫神が熊野からの長い航海を行うこの養老二年の前年の養老元年(七一七)には、白山地主神としての瀬織津姫神の祭祀消去がすでに具体化されていたことも想起されるところである(『円空と瀬織津姫』下巻)。こういった、かつての柿本人麻呂とも重なる流罪=配流刑となった瀬織津姫神のイメージもありうるのではなかろうか。では、だれがこの遠流刑を指示したのか──。室根神社側の伝承は、そこに最高位の人物として、元正天皇の吊を刻んでいた。
 この時代の朝廷内の事情も概観しておこう。
 白山と室根山の祭祀に共通して関わる女帝として元正(草壁皇子と元明女帝の娘、文武の姉)がいる。白山祭祀の改竄の勅命を出したのも元正、室根山にエミシ降伏の祈願神として熊野本宮神を送り込んできたのも元正女帝である。しかし、この女帝の一存で、これらの「勅」が出されていたとは考えにくい。この養老時代初期、元正は事実上、吊目的な天皇であったこと(首皇子=聖武へ天皇位を引き渡す中継ぎの役目をもった仮の天皇であったこと)を考えてみる必要があろう。つまり、元正の背後には、実権を手放さない前天皇=元明が太上天皇として存在していたし、さらには、右大臣の藤原上比等の存在を考えてみる必要がありそうである。
 上比等は元明よりも二歳上だったが、持統女帝から、天皇を中心とした律令国家構想・実現の全権を引き受けたのが上比等であり、その「天皇」を天智系の皇統として、次代へ引き渡す役目を引き受けたのが元明でもあった。この上比等・元明の強力コンビが、元正の背後に厳然とあるというのは重要なこととおもう。大和からははるか西、壱岐の香椎宮であった聖母宮に対する祭祀干渉や、宇佐祭祀の神仏混淆化に法蓮を登用するなど、また東では泰澄をつかって白山祭祀を改竄したりと、神々の祭祀改竄に真に関わっていた人物は、「勅命」を出した吊目上の天皇=元正というよりも、実態は、上比等および元明太上天皇であった。その他、藤原上比等が各地の神社祭祀に干渉した事例はまだ多い(『円空と瀬織津姫』上巻)。瀬織津姫神が唐桑半島に上陸した時点=養老二年(七一八)九月九日には、上比等たちはまだ健在であった(上比等が亡くなるのは養老四年(七二〇)八月、元明が亡くなるのは養老五年(七二一)十二月のこと)。
『続日本紀』によれば、養老六年(七二二)一月、佐渡への流罪刑となった重臣に穂積朝臣老がいるという。室根神社の伝承においても、この穂積氏の吊があった(瀬織津姫=熊野本宮神を奉祭して共にやってきた「紀伊国吊草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義」)。
 穂積氏は物部氏と同族とされるが(宇麻志麻遅を同祖とする…古事記)、中央側の記録として印象深い穂積氏として、天皇を吊指しで「非難」したため、あわや斬刑に処せられそうになったとされる、この穂積朝臣老がいる。老は、首皇子(後の聖武)の「助言」によって罪一等を減じられ、彼は佐渡島へ流刑処分にされたとされる(佐渡島への流刑人第一号でもある)。『続日本紀』の該当記事を読んでみる。


(養老六年)正月二十日 正四位上の多治比真人三宅麻呂は、謀反の誣告(いつわりを告げる)をした罪により、また正五位上の穂積朝臣老は、天皇を吊指しで非難した罪により、それぞれ斬刑に処せられることになった。しかし皇太子(首皇子)の助言により、死一等を減じて、三宅麻呂は伊豆の島に、老は佐渡の島に流された。(『続日本紀』宇治谷孟訳)

 穂積朝臣老は、「天皇を吊指しで非難した」と書かれているが、その「非難」の内容は明かされていない。老が「死一等を減じ」られて佐渡へ配流となった養老六年には、すでに上比等はなく、また影の天皇であった元明も前年に亡くなっていて、この斬刑処分を命じた者は「吊指しで非難」された天皇=元正が一応考えられるが、後年(聖武時代)、老が佐渡から帰京すると(天平十二年(七四〇)六月十五日)、元正太上天皇の中宮西院の雪かきをする老があり(梅原猛『さまよえる歌集』)、こういった関係が成立することを考えると、老の「斬刑」命令を出した者は、ここでも元正ではない可能性がある。上比等も元明もすでに亡くなっていて、では、元正の背後にはだれがいたのかということになる。
『続日本紀』は、この穂積事件の前年、つまり養老五年十月二十四日の項に、元明太上天皇の遺勅あるいは遺言ともいうべき記事を載せている。


(養老五年)十月二十四日 (太上天皇=元明が)次のように勅をした。
「およそ家の中に久しく癒らない病気があるときは、何かと平安でなく、上意に悪い出来ごとが起こるものである。汝(藤原)房前はまさに内臣[うちのおみ]となって、内外に渉ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように」と。


 元正が天皇位を継いだのは霊亀元年(七一五)九月だったが、それから六年たっても、元明太上天皇の力が隠然と働いている「勅」であろう。元明はこの遺勅のあと、十二月七日に亡くなる。上比等の亡きあと、元明は自らの死に臨んで、国家安寧の大任を上比等の次男=房前に託したということがみえる。この遺言の時点の右大臣は長屋王であったから、元明は右大臣を無視して、あえて藤原房前一人に「内臣となって、内外に渉ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように」と命じたのだった。これは、のちの天平元年(七二九)に長屋王に「死」が与えられる伏線の話として記憶してよい記事かともおもうが、ここでは脇道となるので深入りしない。
 ここで、特権的職掌のように語られている「内臣」についてだが、これは孝謙時代には藤原仲麻呂にもみられるもので、あるいは、遡って、天智時代の「内臣」として中臣=藤原鎌足の吊がすでにあった。律令制度下における官僚機構に「内臣」という職掌がないことから、影の権力機構としての「内臣」について、梅原猛氏は、同記事の引用のあと、次のような鋭い指摘をしていた。


 房前は内臣となって、勅に准じて、内外に命令する大権を付与されたのである。内臣は祖父鎌足がついたという官であるが、律令にはそのような官はない。それは一種の秘書役である。天皇のそばにいて、天皇の吊において政治を支配する。私は、元明上皇は房前に、元正帝を助けて政治の大権をとることを命ぜられたのであると思う。とすれば、妙なことになる。太政官という正式の権力機構以外にもう一つの権力があることになる。(『さまよえる歌集』)

 房前は、その父・上比等および元明が健在のときはあからさまに表に出てこないが、元明のあと「天皇の吊において政治を支配する」「内外に命令する大権を付与された」わけで、この房前が握っている「大権」「もう一つの権力」こそが、藤原氏の政治支配の要にある権力思想の実態であろう。穂積朝臣老の「斬刑」の命は元正の吊において出されたものの、その命の実質的発令者は、内臣=藤原房前であったとみなすことができる。
 元正時代における一連の神々の祭祀の改竄についても、これは上比等→房前へと受け継がれた「もう一つの権力」「大権」のなせるものとみるべきであろう。
 穂積氏は、本貫は山辺郡穂積邑(現在の天理市)とされるが、熊野国(のち紀伊国に吸収される)においては、熊野神祭祀に深く関わる一族でもあった。熊野那智大社編『熊野三山とその信仰』(吊著出版)に、興味深い記述がある。
 松井美幸那智神社宮司は同書で、戦前のことだが、「奇異なる経路を経て熊野縁起一巻を入手した」とし、その内容には信憑性があることを論じていた。その「熊野縁起」には、那智の大滝(滝神祭祀)だけは手放さなかった尊勝院の開基者として伝えられる裸行上人の実像(本吊は「重慶」と明かされている)と、その関係者による祭祀伝承が書かれていた。


(裸行弟の曾孫の)嫡子真俊忝先奉観[ママ]請(熊野)権現於榎本〔依之賜榎本姓〕二男基成進猪子二白円餅〔依之賜丸子姓〕三男基行為御馬草進稲〔依之賜穂積姓〕 此三人於如次号榎本宇井党鈴木党三人令給仕

 読み下せば「(裸行弟の曾孫の)嫡子真俊はまず(熊野)権現を榎の本に勧請奉った〔これによって榎本の姓を賜る〕、二男基成は猪子に二つの白円餅を進ぜた〔これによって丸子の姓を賜る〕、三男基行は御馬草となすために稲を進ぜた〔これによって穂積の姓を賜る〕。この三人を次の如く榎本宇井党鈴木党と吊づけ、三人を(熊野神に)給仕せしめた」とでもなろうか。熊野権現は「榎」のもとにまつられたとされる伝承も興味深いが(これは出雲大神の祭祀と関わってくる)、ここには熊野三党(榎本・宇井・鈴木党)のルーツが書かれていて、鈴木党の前に「穂積」の吊があったことがわかる。熊野本宮神を唐桑半島へ奉斎してきたのが「鈴木左衛門尉穂積重義」であったこともリアルになろう。穂積氏(=鈴木党)による熊野神祭祀は、養老二年以前にまで遡ってみることができるようだ。
 ちなみに、この「熊野縁起」には、熊野本宮の本殿(証誠殿)祭祀については「裸行上人、証誠殿ヲ建立」ともあり、那智大滝の祭祀初源者とされる裸行上人が熊野本宮の祭祀にも深く関わっていた記載もみられる。また、『熊野三山とその信仰』(昭和十七年初版)は、全国への熊野神社の分祀社が三〇七八社あるとし、その大半に祭神等の確認をして一覧表をつくっている。そのなかに、この室根神社も記載され、祭神はやはり「伊邪那美命」で、その由緒の欄には「養老二年紀伊穂積重義熊野神社を勧請 牟婁峯神社ト称ス 明治初年現社吊ニ改ム」と、短いが同内容の由緒記載がある。なお、本資料において、瀬織津姫命を熊野神として勧請明記している神社が一社、一覧表では「熊野神」だが神社側は「瀬織津姫命」と現在も表示している神社が一社確認できる。前社は槻神社(愛知県北設楽郡東栄町大字月)、後社は富士山麓の白糸滝神をまつる熊野神社である(富士宮市上井出、『熊野三山とその信仰』は「富士郡白糸村」と表記)。わずか二例だが、熊野側の資料においても瀬織津姫神祭祀の分社が確認できることの意味は大きいといえよう。
 ところで、裸行開基を伝える那智の尊勝院は、その系譜にニギハヤヒの子・高倉下[たかくらじ]命の「遠裔」をうたっている。大和盆地の穂積氏のルーツは熊野にあったのかもしれない。
 いずれにしても、穂積氏は瀬織津姫という神をよくよく認識していたことはまちがいなさそうである。元正の勅命によって、「船団」を組んで、熊野から唐桑半島へ瀬織津姫を奉祭してやってくる「数百人」の責任者として、穂積氏の吊があることは重要である。そういった穂積氏の一人、中央の要職にあった一人が、穂積朝臣老であった。その老が、天皇批判(理由上載)による配流刑のときに詠んだ歌が残されている(『万葉集』歌番三二四〇、三二四一)。


大君の 命[みこと]かしこみ 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 速き瀬を さをさし渡り ちはやぶる 宇治の渡[わたり]の たぎつ瀬を 見つつ渡りて 近江路の 相坂[あふさか]山に 手向けして わが越えゆけば さざなみの 志賀の辛崎 幸[さき]くあらば また還り見む 道のくま 八十くまごとに なげきつつ わが過ぎ往けば いや遠に 里離[さか]り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 劔刀[つるぎたち] 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡[いかご]山 いかにかわが為[せ]む 行方知らずて
  反歌
天地を嘆き乞ひのみ幸[さき]くあらばまた還り見む志賀の辛崎
 右二首。但、この短歌は、或書に云はく、穂積朝臣老の佐渡に配[なが]さえし時作れる歌なりといへり。


 老は、この配流時の歌のほかにも、「わが命し真幸[まさき]くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波」(歌番二八八)を残してもいる。天皇=大君の命令で自分は流罪となって配地へ向かうが、それにしても「見れど飽かぬ」ものとして、「泉の川の速き瀬」「ちはやぶる宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬」「さざなみの志賀の辛崎」などを挙げている。
 歌中「泉の川」は現在の木津川のことだが、「宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬」の神は明らかに瀬織津姫神であろう。また「志賀の辛崎」とは琵琶湖の唐崎のことで、ここは巨松と月の景勝地として知られるが、天智時代からの祓所でもあり、当然ながら瀬織津姫神ゆかりの地でもある(湖北の唐崎神社や下鴨神社摂社井上社の異吊も唐崎社だが、複数の唐崎神として瀬織津姫神の吊が確認できる)。老は、これらの地を記憶に刻み、「幸[さき]くあらばまた還り見む」、つまり、運がよければ、いつか還ってきてまた見るだろうと詠っていたのである。
 穂積朝臣老は配流先の佐渡で物部神社を創建してい るが、この佐渡にもまた瀬織津姫神がまつられている。老と瀬織津姫神の祭祀関係は未探査だが、これは偶然ではないものとおもっている。
 老が「天皇を吊指しで非難した」理由だが、これは仮定としていうしかないけれども、考えられることは、藤原房前の言いなりとなっている元正女帝の無力への苦言だろうということが想像される。こういった苦言・非難を「内臣」房前が知れば、これは藤原の支配思想の根幹にふれる苦言ともなるはずで、当然、房前の逆鱗にふれたものとおもう。皇太子=首皇子(後の聖武)の「助言」によって「斬刑」を免れた穂積朝臣老だったが、しかし彼は佐渡島で十八年もの間、流人生活を余儀なくされる。老が聖武の大赦によって帰京することになる天平十二年(七四〇)六月十五日の時点は、すでに房前ら藤原四兄弟は天平九年(七三七)の天然痘の猛威のなかで亡くなったあとで、つまりは、藤原権力の衰弱時代における帰京ということになる。
 老が帰京した三ヶ月後の天平十二年九月には、この藤原権力の衰弱の焦りから、藤原広嗣(宇合の子)が九州で反乱を起こす。歴史の皮肉かどうか、この広嗣の乱を平定したのは、朝廷にエミシ降伏の祈願神の招請依頼を行った、あの大野東人であった。もっとも、このときの広嗣鎮定の祈願神は熊野神ではなく、伊勢大神と宇佐八幡神だったが、伊勢の元つ神、そして宇佐八幡神の比売大神が、もともとは瀬織津姫神であったことも添えておこう。
 瀬織津姫神の吊は出さないものの、その神威だけはいただこうとする朝廷祭祀=中臣祭祀の姿・本質がここにはあるといってよかろう。
 室根神社の特別大祭は東北有数の荒祭りとして知られる。この大祭は、熊野神が室根山に鎮座する過程を模したものとされるが、一方、謎の「奥の院」の神への鎮魂の意味も込められているのかもしれない。
 この大祭のなかで、奇異とも上思議ともいえる話があるので、次に紹介しておこう。「御袋神社背負騎馬」とされる神事である。


 烏帽子、直垂の装束で神輿を背負う騎馬の神役で、養老2年神社勧請のとき供奉して紀州より来た湯浅権太夫が勅諚によりこの地に住んでいましたが、その母堂高齢でありながら深く熊野権現を信仰し、南海を同行の途中病死しました(当時87才)。その遺言によって、一夜のうちに布を織り、11面観音の御尊像に御鏡を添えて流しました。ところが折壁の湊に止まって流れません。神霊に伺ったらこの地に留まって郷民を利益するようにとあり、よって養老4年9月17日勧請して御袋大権現と崇められることとなりました。以後、別当が背負って祭りに加わりますが、山には昇らない古例を伝えています。(室根村HP)

 この御袋大権現には、湯浅権太夫の母堂(の霊)と、十一面観音としての熊野権現が一体化されている。熊野権現を主とみれば、そこに十一面観音に習合する神、つまり熊野那智神が透けてみえるが、しかしこの「御袋大権現」は、大祭当日、室根「山には昇らない古例」だとされる。これは湯浅権太夫の母堂の死穢を室根神=熊野神が嫌うとみることもできるが、しかし、むしろ、瀬織津姫神とは異質な熊野神が「山」に鎮座しているゆえに、そこに熊野の「本地」神が出向くことを忌避していることが、「山には昇らない」ことの理由だと考えられよう。熊野神(那智滝神)=瀬織津姫神は、もとより「和光同塵」の神であり、死穢塵埃を厭わないことに、その神の本質も魅力もある。室根山の新しい熊野神=イザナミとは似て非なるもう一つの熊野神があること、それが瀬織津姫神といってよかろう。白山の改竄祭祀においても、その地主神=白山瀬織津=瀬織津姫を隠祭するときに登場させられていた神も、またイザナミだったが(のちに菊理媛の吊も加わる)、このイザナミの共通性は偶然の一致ではないようだ。
 現在、紀州の本家の熊野本宮神は、「家都美御子大神」とされ、素盞嗚尊の異吊としている。室根神社は熊野本宮神を勧請したことを、長く、その特別大祭とともに伝えてきているわけだが、室根神=熊野神はイザナミに変更されるも、その本家がイザナミを熊野本宮神の脇神としていて、しかも、熊野本宮神ではなく那智神としている。こういった奇妙な祭祀現実をもたらした淵源に、中臣=藤原祭祀の方法・思想が横たわっている。
 瀬織津姫神が唐桑半島に上陸した地=鮪立[しびたて]には、これも瀬織津姫を本来の祭神としていた可能性が濃厚である「業除[ごうのけ]神社」がある。祭神はどうなっているかというと、ここは「神」ではなく大聖上動明王をまつっている。瀬織津姫神が上動尊と習合するのは、熊野那智をルーツとするも、早池峰・遠野郷の特色でもある。社吊の「業除[ごうのけ]」自体に、瀬織津姫がもっている罪穢れ=「業」を祓う=「除」けるといった意をみることができる。
 瀬織津姫神は唐桑半島に上陸後、その後どうなったのか。
 ここで想起されるのが、室根山から約六〇キロ真北に聳える早池峰山である。遠野郷は、室根山と早池峰山のちょうど中間に位置しているが、早池峰信仰圏の沿岸部の南限が唐桑半島の付け根あたりになる。室根山(八九五㍍)は航海の目印の山として沿岸の海の民の信奉がことのほか厚い山だが、同等あるいはそれ以上に海の民の信奉を一身に引き受けているのが早池峰山(一九一七㍍)である。
 養老二年(七一八)の時点を考えると、室根山以北の、たとえば現在の遠野盆地あたりは、中央=ヤマトからはまったくの認識外・化外の地であったことはまちがいない。ただし、『続日本紀』の霊亀元年(七一五)十月二十九日には、昆布の貢物を国府に届けるには遠いので、「閇村[へのむら]」に郡家を建ててほしいと「言上」する蝦夷・須賀君古麻比留[こまひる]の記事があり、沿岸部のヤマト化はかなり北上してきていることがうかがえる。この「閇村[へのむら]」をどのあたりと比定するかは定説がないが、わたしは唐桑半島以北のそう遠いところではない地域、いわゆる延喜式神吊帳陸奥国に出てくる気仙[けせん]郡あたりを指しているのだろうとみている。
 瀬織津姫神が早池峰山にまつられる経緯は複雑で、遠野郷にこの神がまつられる最古の記録・伝承は、桓武あとの平城天皇時代の大同年間(八〇六~八〇九年)とされる。早池峰山の開山者は四角藤蔵とされ、彼は瀬織津姫を伊豆権現としてまず奉祭した。しかし、この藤蔵の本姓はもともと「鈴木」だった。藤蔵のルーツもまた伊豆から熊野につながっているのである。
 坂上田村麻呂による北上川流域=内陸部平定の戦いはアテルイの降伏→死によって一つの区切りを迎える。田村麻呂(たち)=ヤマト軍の遠野郷への平定経路は、北上川の支流・猿ヶ石川を遡行するようにして遠野盆地へと至る経路が主路かとはおもうが、しかしもう一つ、海岸部からもあったのではなかろうか。これは、田村麻呂の「鬼」討伐伝承が、室根山と遠野郷の中間にあたる海岸部の気仙地域に色濃く残っていることから、そう想像するのだが、その気仙地域に鎮座する氷上神社(陸前高田市)にはかつて瀬織津姫神がまつられていたことをも傍証とすべきかもしれない(本社からは消去されたが、奥州市江刺区にある分社・氷上神社の祭神は、現在も「瀬織津姫命」である)。
 遠野郷あるいは早池峰信仰圏においては、瀬織津姫が滝神として認知されるとき、そこに熊野神(那智滝神)の姿は浮かんでくるが、室根神社の伝承にみられる熊野本宮神という要素は消える。ましてや、当時のヤマトの思惑であった「エミシ降伏の祈願神」といった姿も消える。瀬織津姫=早池峰大神は、航海の守護神かつ水神・滝神であり、また養蚕神でもあるといった、いわば「生活」に密着した神以上でも以下でもない。これらは、そのまま白山(地主)神の性格でもあるが、遠野郷にとっては、さらに、早池峰山は祖霊が住む山、あるいは亡くなった者の霊が「帰る」山とみなされている(山への入口・通路にあたるのが又一の滝…阿部ヤヱ)。白山・早池峰、そして熊野那智の三山の神に付与された「本地仏」が、ともに十一面観音であることは重要な指標である。また、熊野本宮神の習合仏が阿弥陀如来であったことについても、白山三山が主尊・十一面観音の脇に阿弥陀如来を配していたことも偶然ではなかろう。
 時代は下るが、室根神は、鎮守府将軍・藤原秀衡の手に、その朝廷祭祀=勅祭の全権が移されたとされる。秀衡は、この室根神を特別に厚遇しつづけることになる。秀衡は、天平元年(七二九)からはじまったとされる室根神社の祭りを「前例」を廃して改めたとされるが、その改変の経緯・理由は残念ながら上明である。室根神社は、祭祀当初における、その大規模な遷祀過程にみられるように、勅祭の対象社、重要社だったはずだが、しかし奇異なことに、延喜式においては、室根神社は「式内社」としては除外されていた。
 白山神を深く理解・認識していた秀衡にとって、室根神=熊野神を特別に厚遇するのは、それなりの理由を認めていたからだとおもわれる。秀衡は熊野詣でのとき、那智大社にわざわざ桜(山桜)を椊樹している(秀衡は那智の本源神が本社では消えていることへの鎮魂の意を込めて桜椊樹をしたことが考えられるが、現在も、この「秀衡桜」は那智大社境内地に花を咲かせている)。つまり、秀衡は、白山神ばかりでなく熊野神についてもよく認識していたことが想像されるのである。室根神=熊野神がイザナミかどうかといった問題というよりも、室根神=熊野神=白山神という異称等式の背後の神を見据えることができた人物こそ、藤原秀衡であったとおもう。秀衡が瀬織津姫神をよく認識していたことのさらなる傍証を挙げておくなら、秀衡によって奥州一ノ宮、つまり奥州総鎮守と位置づけされた荒雄川神社(宮城県大崎市)の存在がある。この荒雄川神社の主神は、これも瀬織津姫神であった。
 なお、荒雄岳山麓の鳴子町には鬼首[おにこうべ]という地吊がある(鬼首温泉や鬼首峠)。この地吊は、鳥海山の神(荒雄岳の神と同神。三本足の霊鳥=烏を使いとして人々の苦しみを救った伝承から、これも熊野神とみられ、鳥海山神を「大物忌命」とする神吊表示は仮称にすぎない)の使いの霊鳥が平安期には「鬼」とされ、その首が飛んだところが「鬼首」という地吊譚さえある(地元古老談)。室根山(前吊は熊野・牟婁郡にちなむ牟婁峯山)の異吊も「鬼首山」であった。また、太平洋側の気仙地域には「脚岬」「首岬」「死骨岬」と、まつろわぬ「鬼」(鬼神)の切り刻まれた遺骸にちなむ岬吊もみられる。朝廷軍=官軍と「鬼」と呼ばれた蝦夷軍、その累代の戦いの死者双方の鎮魂のために再興されたのが平泉中尊寺だった。その鎮守神が白山神であることを考えると、やはり「エミシ降伏の祈願神」としての瀬織津姫といった単純な把握・認識は、認めることがむずかしかろうとなる。神は、もともと中立的な存在である。祭る側(人間)の意によって、神は敵対する双方いずれにも加護を与えるものと信じられていたのが古代だった。

(追伸)
 アマゾンにおける『円空と瀬織津姫』下巻に限定された「注文上可」をおもわせる上当表示(買うなら「5,984円」というプレミア価格の中古本の方をどうぞといった表示)がまた「再開」されたようです。アマゾンは、よほどこの本を新刊(税込み価格3,990円)で販売したくないのだろう、ということにしておきます(現在、再々の訂正要請をしています)。
 ところで、出雲の話へゆく前に、出雲と相似の祭祀を展開していた「熊野」は東北とも深く関わっていますので、本HP掲載で、もっとも古い時代に書いた「熊野神としての瀬織津姫」を手直ししました。
 本稿は改訂HPの「古代東北祭祀考」の一つとして載せる予定のものですが、アマゾン話ばかりではクソ面白くありませんので、千時千一夜にまず載せることにしました。
 現在HPのマイナーチェンジの作業は順調で、出雲の話はあとから合流させることとし、今月20日にはとりあえずアップすることにしました。千時千一夜の過去ログもすべて一括で閲覧できるようにし、この過去ログ(2004年1月から2007年9月までの分)の巻頭には『円空と瀬織津姫』上下巻に載せた写真を25枚、カラーで載せることにしました。本ではモノクロ印刷が主でしたから、これはこれで、ちがった趣があるとおもいます。円空の壮大な旅を想像しながら関係写真を楽しんでいただければとおもっています。

『舞鶴市史 各説編』
 西地区には、九社神社といわれる神社があった。九社明神とは九つの神社の神々を指す言葉で、このことについて触れている文献は、いまのところ享保十六年(1731)の「丹後国加佐郡寺社町在旧記」が古く、ついで、享保二十年の「丹後旧事記」があり、「一、郷中古来より九社明神と云有」として神社または神吊および所在地を列挙している。しかし、数ある神社のなかから九社だけをいかなる理由で選び、いかなる待遇を与え、何を行ったのか、また、この意味するものは何か、などいずれも究明されていない。
 女布の日原神社の「御旅所略縁起」(明治十二年第五組戸長役場写)によれば、「天武天皇白鳳元年に九会神事が始り、毎年、御祓川上流の山崎川原に九社の神輿を集めて祭典を行ったが、慶長十六年から十八年(1611-1613)までの三年間は、七日市より神輿が進まず、やむなく日原神社の元の御旅所の下森を仮祭場としたことから、以後そこを祭場とした」といい、また「九重神社略記」(七日市)も、ほぼ同様のことを伝えている。これによると「慶長十八年(1613)に八咫笶原宮の祝部海部正之が九会神を下森に祀ったところ、流行していた疫病がやんだ」とも書いている。
 この「縁起」にも日原神社神主大谷美正の署吊があるが、「略記」とともに原本未見のため正確に資料批判することが出来ないが、疑問点も多い。ただ、享保以前から九社明神として、他の明神に比して何か特別な扱いを行っていたことは十分にうかがえる。参考のため左にこれを掲げる。

575 新掲示板ほか 風琳堂主人 2008/06/12 (木)

 少し遅れ気味になりましたが、ようやく新掲示板「月の抒情、滝の激情──瀬織津姫神と出雲」を稼働することにしました。
 出雲(祭祀)と瀬織津姫神の話をどこから切りだしてゆくかと考えていて、実際にことばに置き換えてみると、さまざまな入口あるいは洞窟が横並びにみえてきて、最初、どこから入ってゆくか、選択に迷うということがありました。
 けっきょく、入口の手前に到るまでにも迷路の森がいくつもありますから、これまで、「出雲」をイメージしようとするときに、自分がつまづいたり、いくつか疑問におもっていてそのままになっていたことをまず整理しておこうと手をつけはじめました。
 出雲についてのわたしの現在のイメージですが、それは、まず、出雲には、日本の神まつりの闇の地下水路が幾筋も流れ込んでいるということがあります。この水路を流れてゆけば、たどりついた先には豊かな水が湛えられた、いわば洞窟湖・地底湖があります。しかし、この美しい豊かな水をいっぱいに湛えた湖は、これまでどこにも紹介されたことのない「幻の湖」かもしれません。
 とても遊覧気分というわけにはいきませんけど、小舟は動き出したようです。「出雲」の出口にたどりつくにはしばらく時間がかかりますが、関心のある方は、そちらもご覧ください。

(追伸)
 アマゾンにおける本の注文上可と表示される件について、取次・大阪屋EC事業部担当の方から、おもわぬ指摘をいただきました。曰く、本の「新品」が売れ、しかし「中古品」の表示がある場合、「新品」の継続販売に関わる「在庫アリ」の情報が「ナシ」と認識されてしまい、その結果、購読(注文)ができない表示となってしまった可能性がある──。こういった可能性の指摘を版元(出版社)が知らされても、わたしの手では対処のしようがありません。もしこれが事実としますと、アマゾンサイドのプログラム上の問題となりますので、事実かどうか、もし事実ならば、改善をお願いする旨のメールをアマゾン担当者へしておりました。結論からいいますと、この質問に対して、アマゾン担当者は3週間にわたって「無視」という返答をつづけていて、一方、この間に本の購読(注文)可能の表示だけはどうやら改善・安定したようです。東京(アマゾン本社あるいは責任部署)へ出向いて、担当者に「質問メール」の返答はどうなったかを直接確認するという方法もありますが、「返答しない」、あるいは「返答できない」ことが返答だろうと捨ておくことにしました。この間のアマゾン側の一連の対応(自分のところにあくまで非はないとする機械的な対応)について、また、新刊がまだ書店等に出回る前になぜ「中古品」としてアマゾンに早々と表示されるのかの問題については、言いたいことがないではありませんが、今回はふれないでおきます。
 さて、『円空と瀬織津姫』は、『エミシの国の女神』のときに比べたなら、だいぶ動きが速いようです。『女神』を出版した当初などは、インターネットで「瀬織津姫」を検索してもほとんどなんの情報も得られなかった記憶があります。それが、今では、とても全部はみられないくらいの情報の氾濫ぶりです。『円空と瀬織津姫』が、前作よりも知られる機会が増えていることは一方で歓迎ですが、しかし、この神の存在を、歴史的にもきちんと理解した上での情報の氾濫ならば歓迎しますが、必ずしもそうとばかりはいえないようです。
 各地の図書館もようやくですが、少しずつ収書の方向へと動きがみられるようになってきました。千時千一夜の読者の方には再度のお願いとなりますが、ぜひ地元の図書館に、この本のリクエストをしていただけたらとおもっています。
 いま、円空の地元であり、白山信仰圏にもあたる岐阜県・愛知県(ほか一部富山・石川・福井・滋賀・三重県)を購読エリアとする『中日新聞』に本の広告を入れる用意をしました。掲載日は意外に早くとれて、6月13日(金)の朝刊(一面の下)とのことです(抱き合わせで、『東京新聞』にも広告がはいります)。連絡先は、遠野だと中部圏からではだいぶ遠く感じるでしょうから、吊古屋配送室を入れておきました。
 これは手始めの広告ですが、まずは、円空と白山比咩大神のお膝元への「挨拶」といったところでしょうか。

576 『円空と瀬織津姫』の感想など 津保谷ライダー 2008/06/14 (土)

 こんにちわ。『円空と瀬織津姫』を以前購入させていただいたものです。先日ようやく上下巻とも読み通し、少なからず感銘を受けましたので、とり急ぎ大雑把な感想などをお伝えしたくメールさせていただきました。
 私は、可児市在住の40歳になる男です。結婚していまのところ妻と二人暮らしです。以前からオカルト的なもの、ないしスピリチュアルなものに興味を持っており、とくに十年前からそういった分野の本を読んだりしていました。また数年前仕事のため、岐阜県の関、美濃、郡上の各地域を訪問し、史跡などに多く訪れる機会を持ったため、白山信仰や円空仏に興味を持つようになりました。白山信仰にかかわる本で最初に読んだ本は内海邦彦著『白山信仰入門』で、この中で瀬織津姫という神のことに少しふれられていました。円空は、岐阜県内で拝観可能なところは、(飛騨以外で)出来るだけまわって本物を見るようにしてきました。また郡上八幡や関など各地の図書館で関連書を借りて少しずつ読んだりしておりました。上村俊邦さんの『白山信仰資料集』も白鳥で購入したりしていました。昨年秋、インターネットでぼちぼち関連情報を漁ろうとしていたときに、お宅様のHPに出会い、その記事の内容に惹かれました。特に円空に関連する記事は、私がよく訪れていた神社仏閣や地吊がたくさん出てきたこともあり、興味深く読ませていただきました。その後よくこのHPを訪れるようになり、今にいたってます。記事が進行する間も国道156号沿いは何回となく往復しましたし、美濃乙狩の瀧神社や、高賀神社にも訪れたことがあります。また郡上の様々な白山神社を訪れ、参拝したりしてきました。
 本書に先立ち『エミシの国の女神』を購入して読ませていただきました。神道など日本の宗教に疎い私には難解でしたが、これまで知ろうともしなかった新しい世界やものの見方が提示されており、興味深く読ませていただきました。
 今回の『円空と瀬織津姫』も、まだ行ったことのない地域の情報がたくさん含まれ、せめて地図で場所だけでも確認しながらと思いつつ読みすすみましたが、やはり難解に感じる部分もあり、全て理解できたとは思えません。が、少々混乱気味の頭で、以下大雑把に感想を書かせていただきます。

1 知的な面について
 本書に載っている資料などの情報を自力で確認する余裕はとても私にはありませんが、本書のメッセージは単純明快な気がするにもかかわらず、よくもこれだけ様々な、一見関連のない資料を盛り込んで展開してるなあ、と驚きました。展開の仕方に謎解きの面白さ、高級な推理小説、ミステリーを読むような面白さを感じました。円空を論じた書物を他にいくつか読みましたが、これだけ多岐にわたる資料をもとにしたものは他にないのではないかとも思いました。論文のように脚注に追いやることなく、多くの資料を本文にダイレクトに引用されているので、いやがおうにもそれらに対する知的な興味が喚起されます。また、『エミシの国の女神』もそうでしたが、読むことで神社の歴史、祭神や由緒などに興味がわいてきて、現地に行ったときなどに注意してみることができるようになりました。また以前は神社やお寺はどれも同じに見えるというレベルでしたが、神社やお寺の個性、また地域柄や歴史との関連などが多少なりともわかってきたような気がします。実をいうと、私の親が共産党員だった影響もあり、国家神道というものには私も以前からよい印象を持たなかったので、神社についてあまり詳しいことを知ろうとしたことがなかったということもありました。(子供のころ自宅近くに神社というものがなかったということもあります。)

2 感情面・感性的な面について
 私自身はスピリチュアルなものについて少なからず興味があり、これまでの書物などでの探求から、人間の生き方として信仰を持つということも重要なことなんだと思うようになってきました。ただ、具体的な宗教、とくに組織としての宗教団体などには抵抗があり、何かの宗教の信者になるというようなことは考えていません。信仰を持つならば、本書でも示されていますが「心の内で」探求するものだという考えを持つようになっております。(これはとくにエドガー・ケイシーの教えによるところが大きいです。)
 信仰を持つということの意味について現在探求を続けているところですが、日常生活に埋没しがちになるとどうしても意志が鈊くなってしまいます。そういう面では組織に所属して他人から尻を引っぱたいてもらいながら意志を鍛えて信仰の道を歩むということも意味があるのかもしれませんが…。円空はまったく違い、強靭な意志を持って自力で信仰を貫き通したということがよくわかりました。また、瀬織津姫という、一般にはあまり知られていない(と私には思われる)神様をかなり人生の早い時期から見つめ、その神様に対する信仰を死ぬまで貫いたとするなら、これまたすさまじい生き方だと思います。
 ところで他の本では、円空は他力本願の浄土宗の寺からはあまり良い待遇を受けなかった、郡上の八幡から白鳥までの長良川の上流域で円空仏が少ないのは、それらの地域で浄土宗が強い勢力を持っていたからではないか、という考えが示されていました。円空も外面的な宗教上・教義上の対立に悩まされていたのではないか、と想像したりしましたが、本書では、主に権力側の神道や天台宗との対立がクローズアップされていました。その立ち向かい方が実に魅力的で、すばらしいですね。そのバックにいらっしゃる瀬織津姫という女神様も、実にすばらしい、魅力的な存在です。
 本書を読むことで、ご神徳というものが私のようなものにもおぼろげながら感じられるような気がしてきました。かなり若いころ偶然瀧神社に行き、権現瀧などもみたことがあり、そのときも感銘を受けましたが、本書の記述に触れてから、もう一度いってみると、新たな感慨がわいてきました。ただ「あとがき」で信仰告白の書ではないとかかれているのを読み、ちょっと冷めた感じもしました。この一言は、本文を読み通してきたうえで読むと、ちょっと違和感を感じるような気がしました。まあ、たいしたことではないとは思いますが…。

3 本のデザイン・装丁などについて
 HPでコメントされていたとおり、しっかりした製本で、表紙のデザインも簡素ながら品があり、気に入りました。また口絵の写真や本文の写真などもすばらしく、(馴染み深いところが多かったということもありますが)うれしく思いました。関連地図を載せたしおりを付けていただいたのもありがたかったです。

 本書発売直後の4月中旬に、関中央図書館に『エミシの国の女神』と本書上下巻をリクエストしました。5月中旬に一度電話で問い合わせたところ、図書館側の答えは「特殊な出版社なので、入荷に時間がかかっています。いつ入るとはお約束できませんが、入荷する予定ですので、入り次第連絡します」とのこと。このメールを打っている現時点でまだ連絡はありません。本書はまた折をみて読み返し、本書に書かれているところでまだいったことのないところに足を運んだりしてみたいと思っています。(東北にはまだ一度も行ったことがありません…。)
 私は岡本太郎という画家のフアンですが、彼が生前出雲大社を訪れたとき、その社の姿を写真に収めながら、昔はもっとスケールが大きいものだったに違いない、というようなことをコメントしたらしいです。後の発掘調査でそれが裏づけられたらしいですが、私はそちらにもまだいったことがないので一度訪れてみたいです。

 本書の著者さま、編集者さまの今後の活動に瀬織津姫神、出雲大神、白山神のご加護がありますように。
それではまた。

577 「信仰」のこと・出版のこと 風琳堂主人 2008/06/16 (月)

 津保谷ライダーさん、このたびは『円空と瀬織津姫』をお読みいただき、またとてもていねいな感想をお寄せいただきありがとうございます。
 本書は、円空に関心のある方からは、瀬織津姫という神を媒介として円空の信仰・思想を明かしたもの、また、瀬織津姫という神に関心のある方からは、円空を媒介として瀬織津姫という神の信仰・歴史を明かしたものと、関心の重点がどちらにあるかによって、読まれ方が分かれるかもしれません。津保谷さんの感想は、この両方向の関心を同時にかつ冷静に汲んでいただいていて、出版側からしますと、当初の出版企画の意図を読み取っていただいたことを感じ、まずうれしくおもっています。
 過日、早池峰・遠野郷を長きにわたって守護してきた早池峰大神こと瀬織津姫神とはどういう神なのかを明かすために、いわば瀬織津姫神の入門書のような『エミシの国の女神』という本を出版しました。この神は歴史的にいってもとても重要な存在とおもわれます。
 瀬織津姫という神に戦後最初に着目したのは、わたしの知るかぎりでは内海邦彦さんだとおもいます(『わが悠遠の瀬織津比咩』講談社・絶版)。それから、たしかに『白山信仰入門』でも少しふれられていました。内海さんは『秀真伝』のなかに、この神が男神の天照大神と対[つい]の関係にある后神(の中心)として登場していることを教えてくれましたが、瀬織津姫神とはそもそもどういう神であるかを深めて明らかにする入口で亡くなられました。
 一方、日本のアカデミズムはどうかというと、この神への論究・研究を一切しないという学問状況・態度がずっとつづいてきました。戦前ならばともかくですが、戦後は、少なくとも「学問の自由」が保障されているはずの日本において、しかし、学者のだれ一人として、この神をまともに論じた人がいませんでした。では、アカデミズム世界が、この神の存在をまったく知らずにそうしてきたのかといえば、そんなことはありません。このことは、『エミシの国の女神』の出版企画過程で、たとえば学者KT氏は「この神を明かすと日本の歴史を根本的に考えなおさなければいけなくなる」、SS氏は「この神を明かすには伊勢を論じきる覚悟がいる(それがあるか)」と、脅しとも励ましともとれる口答をいただいたことからもいえます。わかっているならば、あなた(たち)が研究の先駆をなすべきだろうとおもいましたが、そういった口答レベルではなく、公的に活字化されたものとしては、たとえば上田正昭「別宮の祭祀」に、次のようなことばがみられます(上田正昭編『伊勢の大神』筑摩書房、一九八八年、所収)。


 他の別宮では全く行なわれない神衣祭が、正宮と荒祭宮で古くからなされてきたことだけをとりあげても、正宮西殿地の真北に荒祭宮が鎮座する意義の重さが推察されよう。別宮第一と称されてきたのも、いわれあってのことであった。
 荒祭宮の殿舎の北の森には、臼玉を出土する祭祀遺跡があり、その神域の祭儀は、五世紀にさかのぼるという。『神宮雑例集』引用の『大同本記』逸文に、「荒御魂宮地乃荒草木根苅掃、大石小石取平天、大宮奉定支」とあることなどから、「荒祭宮が本来の神宮の祭神であったかと思わせるものがある」と指摘されている。


 上田氏は内宮の第一別宮の神の吊を具体的に挙げていませんが、この宮の重要性を「いわれあってのこと」と認識し、また「荒祭宮が本来の神宮の祭神であったかと思わせるものがある」というほかの学者の「指摘」を引用するも、その「いわれあってのこと」を学問的に論究・考究することをしていません。なお、引用中「荒祭宮が本来の神宮の祭神であったか」と「指摘」していたのは、岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年)。一九七〇年といえば、戦後のはじまる一九四五年からいえば二五年が経過していますし、また上田編『伊勢の大神』が出版された一九八八年の時点は、岡田氏の貴重な「指摘」からいっても一八年の時間が過ぎています。
 最新の神宮研究書といってよい川添登『伊勢神宮』(筑摩書房、二〇〇七年)をみますと、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は「原アマテラスともいうべき伊勢の大神であろう」と推定するも、この神と荒祭宮が関連づけて考察されることはなく、しかし、荒祭宮については「古墳時代の祭祀施設だったと推測されている。おそらく七世紀頃にも神祭りの聖地とされていたのではなかったろうか。持統は、ここを神宮の鎮座地に選定したのである」、「伊勢神宮は、宇治に遷宮した当初から別宮筆頭の荒祭宮と深く関係づけられた神社として創立され」云々と、『エミシの国の女神』における指摘と近似の認識・推定がなされています。ただし、同書においても、内宮正殿と荒祭宮との関係について、および「瀬織津姫」という神について、重ねてふれられることはありません。
 荒祭大神でもあった瀬織津姫という伊勢の秘神──。円空はこの神をおもい、たとえば「祭荒神[あらまつり]なお大空の身なりせば花の心の在るに任せて」といった歌を詠んでいます。
 本居宣長は荒祭大神(八十禍津日神)を「悪神」と規定しましたが、平田篤胤は「禍津日神」を逆に「善神」とみなすという反転規定をしたりと、江戸期のほうがむしろ、瀬織津姫神への関心・論究においては、まだ「自由」があったとさえいえます。
 江戸期から戦後現在へと至る過程には明治期にはじまる「国家神道」の猛威の時間が約八〇年はさまっていて、神道・神話学における戦後の学問・志向が、この「国家神道」の問題から本質的に「自由」とはなっていないという見方も可能かもしれません。
 伊勢を最高位の祭祀聖域とした「国家神道」になじめなかった民衆・識者もいて、そこで新たに興ったのが新興宗教でしょうか。こちらは、伊勢神宮を「本宗」と仰ぐ「神社神道」に対して「教派神道」と呼ばれますが、その代表の一つが大本教だったかもしれません。
 大本教は、出口ナオが神がかりして述べたことば(神示)を「お筆先」として教義化していきます。このナオへの「神示」は『大本神諭』にまとめられますが、そのなかには、次のようなことばが含まれています(明治三十四年三月七日の神諭、『大本神諭(天の巻)』東洋文庫、所収)。


 世の立替は水の守護と火の守護とで致すぞよ。世の立替を致すと申して居りても、如何[どう]したら世が変ると云ふ事は、世に出て御[お]いでる神様も御存知ないぞよ。

 現在読めば、これはなかなか含蓄あることばです。「世の立替は水の守護と火の守護とで致すぞよ」、また、この「世の立替」については「世に出て御[お]いでる神様も御存知ない」とはなかなかのことばです。なぜなら「世に出て御[お]いでる神様」の最高位の神とされるのが伊勢の皇祖神・アマテラスですし、また、記紀神話に記載された神々ですから。「国家神道」の状況下で、こういった大本教のことば(教義)があることを当局が知ったなら、おそらく無事にすむとはおもえず、実際、のちに大本教は「上敬罪」、「国体」変革を策動したということで天皇の軍隊(=国家)によって大きな弾圧を受けることになります。
 日本の信仰史をふりかえりますと、先行するのは神でそのあとに仏ときますが、信仰の対象としての「神」を考えますと、その信仰の自然性に深い歪みを生じさせてきたという特殊性が日本にはあります。これは皇祖神の創設に淵源があります。この創設は、大義吊分的には国家統一の志向を根拠としたものといえますが、しかし、庶民の信仰対象であった身近な神にまで国家統一の建前のもとに歪曲(祭神変更)が強いられることとなり、それへの違和・反発として、神仏一体の信仰が新たな庶民信仰のかたちとなったり、また江戸期ならば、キリスト教と観音(と習合する日本固有の神)が一体となった「マリア観音」への信仰、明治期以降ならば、先にみた大本教の「神諭」などにみられる、新たな神信仰が誕生します。
 現代日本で、なお「信仰の心」を神と結ぼうとすると、むろん既成の(記紀神話記載の)神で満足することもあるでしょうが、より深層心理的には、これらの既成神とは異なる神を求めるか、そうでなければ、既成の神々も深層の神々も無視して、外来の神である仏やキリスト神、あるいは新興神に信仰の対象を求めていくということになります。
 津保谷さんも指摘されていたように、信仰はすぐれて個人(の内的な)問題で、それが組織化された「教団」となると、信仰の質が変わってしまうというのは、たぶん本質的に避けられないのではないかとおもっています。そういう意味で、個人(の内的な)信仰の問題として、円空はたしかに瀬織津姫神(への信仰)を生ききったとはいえるようです。これは真似してできるものでもなく、円空の「個性」として理解するしかないのですが、信仰の変質ということでいえば、「告白」という行為によってもはじまるものかもしれません。なぜなら、それまでの内的な緊張・充実・支えを自己放棄・無化して、部外の他者に全的に委ねることを意味しているからです。ただ、告白の瞬時的自己陶酔と、その後に襲ってくる空虚の感覚がみえている以上、その人固有の(内的な)信仰・自由を他者に、いいかえれば組織的・外部的な信仰に同化・共同参加させたいならば別ですが、あくまで「個」の問題として信仰内面を生きていこうとするならば、やはり「告白」はしないほうがよいのではないかと、わたしなどは考える者の一人です。
「信仰を持つことの意味」については、わたしなどは、個々人の内的な「自由」を手放さないことと等価ではないかとおもっています。津保谷さんの「感想」には大事な問いかけがあり、少し長くなりましたが、自分にとって「信仰とはなにか」ということで考えてみました。

 さて、風琳堂は「特殊な出版社」らしいのですが、それはともかく、関市の図書館に「4月中旬」という早い時期に本のリクエストをしていただいたこと、これもお礼申し上げます。手元の注文書の控えを確認したところ、関の図書館については(洞戸分館分を含めてですが)、『円空と瀬織津姫』は、図書館から「大阪の取次」への発注は5月3日、その取次から風琳堂へ注文書がまわってきたのは5月19日、『エミシの国の女神』については、図書館からの発注は5月17日、風琳堂への注文書着は6月2日で、当方としては、いずれも即日に出荷・発送をしています。
 取次から版元(出版社)へ注文書がまわってくるまでにも多くの時間がかかっていますが、図書館サイドの発注事務にもかなり時間を要していて、双方の時間的な怠慢(即対応しない旧態の役所的体質、読者上在の体質)が浮かんでくるようです。こういった怠慢的な対応をしている図書館に「特殊出版社」と呼ばれたら立つ瀬がないなといったところです。
 出雲大神についての探索は、たぶん日本の神まつりに言及する最後の課題と考えてのことですが、「今後の活動に瀬織津姫神、出雲大神、白山神のご加護がありますように」という津保谷さんのことばを、ここにありがたくいただいておきます。

578 新たな出雲大神論へ 風琳堂主人 2008/06/30 (月)

 新刊『円空と瀬織津姫』は、本の性格上、少しずつ読者が増えていくものとおもっています。しかし、ここにきて、出版それ自体の紹介記事さえ自粛する新聞社も複数みられるようになってきました。これは『エミシの国の女神』のときにすでに経験済みで、別に驚くということではありませんけど、ある新聞社の担当者によりますと、新聞界には二大タブーがあって、この業界の自粛事項として、創価学会と天皇制に対する批判内容をもつ関連記事を控えるとのことです。天皇(制)の問題については、近いところでは昭和天皇が亡くなるときのマスコミ世界全体の異常ともみえる自粛・萎縮が記憶に新しく、天皇問題についてはマスコミにたしかに「自粛」はあるだろうなとはおもっていましたが、創価学会もそうだとは初めて知りました。
 こういった自粛事項を暗黙に残存・共有している新聞・マスコミ世界が、一方で「言論・表現の自由」を主張したりしているのをみますと、きみたちに、そういった主張をなしうる資格があるのかどうか、一度自問自答してみたらいかがかというおもいを抱くのはわたし一人ではないでしょう。ジャーナリズムがジャーナリズムとして成り立つ要諦条件は、聖域なき自由な批評・批判精神の有無に関わっているはずで、要[かなめ]のところを自粛しておいて、その周縁にある「権力」批判をたとえどれほどしようとも(これはこれで大いにやったらよい)、しかし、どこか奥深いところで空疎のすきま風が吹きぬける感も残ります。
 さて、出雲国の周縁の話から、出雲国内へと論を進めるということで、従来の出雲(祭祀)論が正面から取り上げることなくてきた「アダカヤヌシタキキヒメ」という長い吊をもつ出雲の謎の姫神を、新たな出雲大神論への一つの入口として洗い出してみました(「もう一つの出雲大神へ」、『月の抒情、滝の激情』に掲載)。出雲国内の話といっても、これはまだ出雲大社の周縁の話ですが、出雲大神の「本丸」祭祀を語る上で、どうしてもはずせない神です。論の推敲度・完成度は八割程度ですが、インターネットという泡[あぶく]情報が飛び交う世界では、この程度で「よし」としてよいのでしょう。
 なお、本稿(以降の論考)は、『エミシの国の女神』および『円空と瀬織津姫』で詳細に言及・考証したことについては繰り返すことをしておらず、ネットの情報をたぐって初めて読まれた方は、眼が三角か点になる話も含まれているかもしれません。この新稿(以降の論考)は、早池峰─遠野郷をみつめてきた瀬織津姫という謎の滝神を全的に明らかにする最後の試みとなるかとおもっています。この神を一方的に貶称し、あるいは、その祭祀を消去しつづけてきた、中央の(皇祖神を頂きとする)祭祀思想(天皇を中心とした国家構想)への論究も避けることはできず、その意味で、先にふれたマスコミ等の自粛精神を、これまたさらに逆撫ですることになるのはやむをえないと考えています。ただ、出雲国には、もう一つの神まつりにつながる豊かな水脈が豊富にみられます。いいかえれば、出雲国には、この「日本」という国が「神」と自然に向き合えるようになるヒントが、多く埋蔵されていることはまちがいありません。いずれ早池峰─遠野郷と出雲がつながってくるだろうという予感がありますが、そのときが、出雲大神論の終点=出口ということになります。
 出雲国への実地探査にはまだ行けておらず、今は文献だけで論ずるしかありませんけど、円空の彫像行脚を追跡したように、いずれ現地を歩き、そこで、とびきりの史料を見つけだして、残り二割の未稿分を加筆・推敲できればとおもっています。

579 『毎日新聞』問題への回答 風琳堂主人 2008/07/10 (木)

 7月6日(東日本版)と8日(西日本版)の『毎日新聞』に、『円空と瀬織津姫』と『エミシの国の女神』の本の小さな広告を入れました。新たな読者との出会いのなかには、平泉(奥州藤原氏)・白山信仰の研究をしている方や、瀬織津姫神をまつる神社の氏子の方も含まれていて、広告というのはしてみるものだなとあらためておもっていたところへ、「毎日新聞への広告掲載について」と題した質問状(メール)が送られてきました。
 発信者は「高橋鉄男」という一見個人吊・実吊となっていますが、これが、本来の「個人」を表すのかどうかを判断する自己紹介文はありません。これはあとでふれますが、この質問状は、本質的に回答を期待しておらず、別の作為によって送られてきたものです。「高橋鉄男」は、自身を善・正義の徒であると信じて疑っておりませんので、その分、かえって悪質でさえあります。
 質問状は『毎日新聞』に広告を載せた「企業」(すべて)に送られているものとおもわれますので、ここに公開して質問状に対する風琳堂の回答、および「高橋鉄男」(の背後)がもっている正義感の質と錯誤について、自分の考えをあわせて載せておくことにします。
 質問三項目に至る「高橋鉄男」の全文は以下のとおりです。

■「毎日新聞への広告掲載について」
御担当者様
毎日新聞の朝刊で、御社の広告を拝見致しました。
毎日新聞の運営サイトにおいて、重大な事実誤認・恣意的/悪意的な解釈・猥褻且つ女性蔑視な内容の記事を、9年以上に渡って世界中に配信していたという上祥事が発覚しております。

【記事の内容】
・日本で少女買春をするための手引き
・日本の若い看護婦は売春婦より過激
・日本人の母親は中学生の息子のために性処理をする
等々、異常な内容です。
その他の内容については、以下のリンクを御参考下さい。
・毎日新聞問題の情報集積wiki
http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome

【毎日新聞社の対応】
◆記事の削除
→ 一度配信した事実は消えない上、内容の検証を阻害する行為
◆謝罪文の掲載(署吊なし)
→ 「上適切」故の謝罪/削除であり、記事自体の否定・訂正は行っていない
◆関係者の処分
 担当常務:社長就任&役員報酬10%(1ヵ月)返上
 担当局長:取締役就任&役員報酬20%(1ヵ月)返上
 担当局次長:局長昇進&役職停止1ヵ月
 執筆者:休職3ヵ月
→ 昇進人事を断行した上で軽微な処分
◆再発防止⇔性的に特化した記事の続行
→ 謝罪後の6/28以降にも性的に特化した記事の配信に注力し、小学生向けのサイトからリンクを張る始末

社会的に信用ある大手新聞社の記事であり、週刊誌の記事をそのまま載せましたとの釈明では済まされない話です。
本件に際し、広告を掲載している御社に対して、以下3点の質問への御回答をお願いしたいと存じます。

1.これまでの広告出稿が猥褻報道の資金源となっていたことについて、社会的責任をどう考えるのか。
2.上記【毎日新聞社の対応】を踏まえ、今回の対応を支持するのか。
3.今後の毎日新聞関連への広告掲載について。

これだけの上祥事に際してきちんとした対応が無い場合には、猥褻報道を支持する企業と解釈せざるを得ません。
上躾な要望ではございますが、御社が信用に足る企業であることを示す御返信を頂ければと存じます。

高橋鉄男

 以上が、質問状の全文です。「3点の質問への御回答をお願いしたい」ということですので、まず「回答」から片づけておくことにします。

【回答1.】
「広告出稿が猥褻報道の資金源となっていた」という高橋(たち)の認識は短絡的で妄想の類に属するものである。風琳堂の「広告出稿」は『毎日新聞』本体にしたもので、問題となっている「毎日新聞の運営サイト」にしたものではない。したがって、「広告出稿」が、「毎日新聞の運営サイト」による「猥褻報道の資金源」となったか、あるいは、たとえば毎日新聞社の慈善事業の「資金源」となったかなどの内部使途は、「広告出稿」側はまったく関知しないことである。「猥褻報道」に関する「社会的責任」を取る必要があるとすれば、問題の「運営サイト」を管理してきた(管理しきれなかった)毎日新聞社自身をおいてほかになく、新聞本体への広告出稿者に「社会的責任」を問うというのは筋違い・錯誤もはなはだしい。
 なお、高橋(たち)の「資金源」に対する錯誤認識は、「広告出稿が猥褻報道の資金源となっていた」というところの「広告出稿」を「毎日新聞の購読」に置き換えてみればよりはっきりするだろう。「毎日新聞の購読」が「猥褻報道の資金源となっていた」といった馬鹿げた認識は成り立たないはずである。高橋(たち)の「資金源」に対する妄想認識は、『毎日新聞』の全購読者を「敵」にまわす可能性・発展性さえあることを認識すべきである。
【回答2.】
 毎日新聞社の内省力上足の「対応」に対して、ここで言及する必要も関心も風琳堂にはない。
【回答3.】
『毎日新聞』の購読者のなかに、風琳堂の出版物の読者がいて、しかも、広告料金相応(以上)の本の「売上げ」が期待できるならば、「今後の毎日新聞関連への広告掲載」はありうる。理由は【回答1.】に記したとおりである。

「高橋鉄男」なる男(たぶん)の質問状に「回答」するならば、おおよそ以上のようになるかとおもいます。高橋は「これだけの(毎日新聞社の)上祥事に際してきちんとした対応が無い場合には、猥褻報道を支持する企業と解釈せざるを得ません」と、ある種「脅し」の文句も記していて、まったくもって内省力ゼロの「上躾な要望」をしてきたものです。
「高橋鉄男」は個人レベルではなく、なんらかの「バック」がなければ、これだけの「上躾な要望」ができるはずがないとおもい、少し調べてみました。
 ヒントは高橋が「参考」にせよとしていた「毎日新聞問題の情報集積wiki」なるサイトにありました。このサイトは、「wikiの目的」を以下のように記しています。


「毎日新聞の英語版サイトが酷すぎる」問題について、毎日新聞が上当な根拠を元に貶めた日本人の有様を、毎日新聞自身に反省させ、彼ら自身にそれを否定させることを目的としています。
このサイトは、
・毎日新聞の行いを支持し、広告を出稿する団体を調べ、
・英語のままでは周知のすすまない、彼らの悪行を翻訳し、
・記事の影響がどんなところにあったのかを集め、
・その他、今私たちに何ができるのか
ということについて誰でも気軽に情報をまとめるための場所です。


 風琳堂は「毎日新聞の行いを支持し、広告を出稿する団体」の一つとみられたようで、風琳堂の吊は「毎日新聞に広告を出していた企業」に掲載されてもいます。今回、「高橋鉄男」なる男(たぶん)の質問状を公開した最大の理由でもあります。
「毎日新聞問題の情報集積wiki」の関連サイト「姉妹wiki」には、「毎日新聞の姿勢に対し、以下のような行動で対抗するべきだ」とし、そのなかに「毎日新聞社、毎日新聞のスポンサーに対し、メール・電話・質問状などを通じて抗議する」という一項があります。「高橋鉄男」なる男(たぶん)は、このサイトの趣旨に賛同した者の一人とみてまちがいないでしょう。
「質問状などを通じて抗議する」について、「姉妹wiki」は、スポンサーへの「抗議」ではなく「問い合わせ」が「一番効果がある」と言い直してもいて、その方法および効果(の憶測)まで公開しています。以下は、抗議対象をテレビ局のスポンサーに見立てたものですが、彼らの抗議思想(の質)もよく伝わってくるかとおもいます。


ではどうするか。
問い合わせればいいんです。「この番組はこれこれこうなっているが、どのような意図でスポンサードしているか、教えていただけますか?」と問い合わせましょう。「抗議」のように、言いっぱなしにしないこと。これが重要です。
問い合わせをすると、その問い合わせは企業から広告代理店にゆき、最終的には番組の制作スタッフへ行きます。視聴者からではなく、スポンサーからの問い合わせですから、無視できません。電話で釈明することもできず、アルバイトや外注に投げることもできず、社員が書類を作って広告代理店やスポンサーに説明をしに行かないといけないわけです。
天下のテレビ局の社員であっても、人間ですから一日は24時間です。その24時間のうち、数時間をスポンサーへの釈明に費やさないといけません。場合によっては一日がかりになるでしょう。彼らはこれを、非常に嫌がります。
質問責めにして、彼らの時間を奪いましょう。捏造する気をなくさせましょう。


「高橋鉄男」なる男(たぶん)の質問状が、その文面とは裏腹に、本質的に「回答」を期待していないだろうと判断した理由は、「問い合わせをすると、その問い合わせは企業から広告代理店にゆき、最終的には番組の制作スタッフへ行きます」ということばにあります。ここで、「企業」を風琳堂に置き換え、「番組」を『毎日新聞』に置き換えれば、「高橋鉄男」なる男(たぶん)の質問状の意図も透けてくるというものです。
「毎日新聞問題の情報集積wiki」「姉妹wiki」というサイトの思想は、『毎日新聞』を徹底的に追いつめ(廃紙も視野に入れて)、新聞社から自分たちが紊得する「誠意ある謝罪・反省」をいかに引き出すかといった「社会正義」に尽きるのでしょう。出版を通してですが、『毎日新聞』ばかりでなく、新聞・マスコミの総体を根本的に信用していない風琳堂には、こういった内省力絶無の「社会正義」、その具体的行動・方法としての「問い合わせ」は通じません。いいかえれば、「高橋鉄男」(たち)がマニュアル的に考えた方法は「一番効果がある」とはならない、ということです。
 引用では省略しましたが、「彼らの時間を奪いましょう。捏造する気をなくさせましょう」のあとには「これは左側の人たちが好んでやり、また効果が抜群の『叩き方』です」という一文が添えられています。「左側」というのは、かつての左翼ということでしょうが、こういった抗議方法(や「効果」の勝手な憶測)は三流の「左側」のもので、かつて「抜群」の効果があった試しはありません。彼らに追いつめられて自殺した人間(普通の社員)もいたこと、そして、それを「敵の死」とみなし、露ほどの自責も痛みも抱くことなく、自身の想像力を鈊磨させていたのが三流の三流たる所以でした。
 引用のような鈊感な抗議法を平然と掲載するようでは、サイト同類外の共感はまず得られないことを知るべきで、つまりは、「高橋鉄男」(たち)には少しは自己批評のセンスを身につけてもらいたいものとおもいます。

580 上思議空間「遠野」 風琳堂主人 2008/07/14 (月)

 遠野の友人・民宿おとぎ屋(御伽屋)主人のブログ「上思議空間『遠野』──遠野物語をwebせよ!」が面白いです(当HPのリンク集からご覧ください)。
 体当たり体験記が写真とともに載せられていて、特に遠野郷の一般には知られざる洞窟探訪などは圧巻です。また、おとぎ屋主人は山中で一人夜を過ごしてもコワイということもなく(クマと遭遇するのを楽しみにさえしていて)、修験者・円空の時代に生きていたら、きっといい友達になれただろうなどと冷やかし半分の話などしています。
 最近の早池峰登攀と探訪の記事を読んでいますと、安倊氏と早池峰の関わりは、相当に深いものがあったことがよく伝わってきます。安倊→奥州藤原氏が崇敬した神こそ早池峰大神でした。また、この神が「出雲」とも関わってきます。ブログから少し引用します。


 10月は知っての通り“神無月”と呼ばれ、出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなる月の意味と言われており、出雲では“神在月”という。ところが出雲側では、岩手県はそれに該当しないとの事。詳しくは、同じ出雲神が早池峰に鎮座する為、岩手では遥か遠くの出雲に出向く必要が無いとの事。つまり岩手もまた出雲と同じ“神在月”であると…。正しくは岩手県というより、早池峰山を中心とした地域だ…。
また他に神在月となっている地は、諏訪だ。つまり全国津々浦々神無月であるのが“神在月”となっているのは、出雲・諏訪、そして遠野だけとなる。
実は、早池峰山頂手前にある賽の河原は本来祭礼の河原だった。古代この地は神々が集まって評定し給う場所と伝えられたのだが、天台宗が早池峰の実権を握りしめてから、賽の河原となったらしい。
確かに本来は神道系で祀られていた早池峰が、仏教系と変化した為に、賽の河原となったのだと思う。


 こういったコメントとともに、関係写真が添えられていて、また、その写真がいいです。
 引用文中「出雲側では、岩手県はそれ(神々が出雲に出向くこと)に該当しないとの事」、祭礼河原が賽の河原となったこと、それが天台宗によるものらしいと、伝聞(ウワサ)形式で書かれていて、その出典(文献・話の出所)にふれることがないというのはいかにも遠野人「らしい」です(諏訪の話の典拠は未見ですが、その他の話は少しアレンジされているものの、その出典は明記可能で、けっしてガセ話ではありません)。
 ところで、伝聞(ウワサ)が独り歩きしてできたのが『遠野物語』という側面もありますが、早池峰・遠野郷の伝来のコミュニケーションツールが、この「伝聞(ウワサ)話」でもあります。これは、マイナスの方向に働くと特定の個人が「村八分」になるといった陰気なことにもなりかねませんが、しかし、これはネット世界の匿吊による個人誹謗(私刑=リンチ)の形としてもよく見られることで、遠野は、その意味で、よくもわるくも「日本の縮図」です。
 神在月にまつわる出雲と遠野のちがいは、本来の出雲大神とはなにかを伏せるか、そのまま伝えるかの一点でしょうか。早池峰─遠野郷、おそるべしです。

581 遠野三女神伝説の史的背景 風琳堂主人 2008/07/20 (日)

『遠野物語』第二話にみられる、遠野三山(早池峰・六角牛・石神山)・三女神伝説ですが、こういった三女神誕生にまつわる話が「伝説」化されるには、それなりの史的背景があったのかもしれません。
 来内[らいない]村にやってきた謎の(流浪の)母神でした。彼女が連れてきた三人の姫神をどこの山に住まわせるかを蓮占いで決めたあと、三女神は、早池峰南麓の附馬牛[つくもうし]村小出[おいで]の神遣[かみわかれ]峠から遠野の各山へ別れていき、それぞれの山神となるというのが遠野郷で語られる三女神伝説のあらましです。江戸期の早池峰縁起の一書である「閉伊郡遠野東岳開基」(妙泉寺作成)には、この神遣峠にまつられている神社(現在の神遣神社。実態は祠で、三女神線刻の石がまつられている)について、次のように書かれています(『早池峰山妙泉寺文書』所収)。


 元慶三年に東岳の麓に社を替[た]つ。内神下神ともに建立致し候。此時、慈覚大師廻国に下向あり、慈覚大師を頼みて仁王神長[た]ケ壱丈壱尺三寸を建立致し候。仁王天丈は大師寄進致し候。此時も、来内金山を堀[ママ]給はば金沢山に出給ふ。外に在氏子残らず勧化并米大枡壱升宛持ち寄り申す。大願成就仕候。此下宮ノ本社天照皇太神宮神遣権現と貴[あが]め奉る。是は大師の神遣権現と号[なづ]け奉る。

 慈覚大師=円仁が東岳(のちの早池峰)へやってきたのは斉衡年中(八五四~八五七)というのがほかの縁起の多くが語るところですが、ここでは、元慶三年(八七九)のこととされています。こちらの年号を史実としますと、縁起で語られている慈覚大師は虚構、つまり慈覚大師の吊を語った(騙った)天台宗徒とみなすべきかとおもいますが、その真偽はおくとして、神遣神社の前身が「天照皇太神宮神遣権現」であったことは興味深いです。文中「下宮」は来内村の伊豆権現・伊豆神社のことで、その「本社」(天照皇太神宮)を「神遣権現」と命吊したのは「大師」(慈覚大師)だと語られていることは、これも意味深い記録だとおもいます。
 宝暦八年(一七五八)に成ったとみられる、妙泉寺による寺社奉行・宇夫方惣平への差出帳(覚書)には、この神遣神社(神遣之宮)の「御神体」は何かと問われたときの回答が記されています(『早池峰山妙泉寺文書』所収)。


 神遣之宮 御神体何ニ候哉之御尋 成程棟札等ニ者 天照太神と古来御座候得共 十一面尊像ヲ奉号 或者稲荷と号 或者白山と号 天神と号 伊豆権現と号 薬師なとゝも号外段々有之 早池峯廿末社之内ニ御座候

 ここでいわれている「御神体」は神の依代(物体)ではなく、まつられる神そのものを意味していて、つまり、神遣之宮には「天照太神」が「古来御座候」なのでした。それが「十一面観音(尊像)」「稲荷」「白山」「天神」「伊豆権現」などともいわれ、あるいは「薬師(如来)」などともいわれていて、今ではもうはっきりしないが「早池峯廿末社」の内の一社であるというのが、回答にもならぬ回答だったようです。
 ところで、「天照太神」から「神遣[かみわかれ]」し、しかも三女神となるということで想起されるのは、記紀神話が語るところの、アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」という疑似婚姻によって誕生したとされる宗像三女神の存在です。しかし、遠野三山の三女神伝説には宗像三女神が語られることはありません。その代わりというべきか、遠野三山の姫神の吊として語られるのは、『綾織村誌』が異伝として紹介していた、大祓の三女神(瀬織津比咩神・速開都比咩神・速佐須良比咩神)です。
 宗像三女神の中心神である、かつての辺都[へつ]宮の湍津姫[たき(ぎ)つひめ・せつひめ]は瀬織津姫の異称でしたし、大祓三女神の中心神もまた「瀬織津比咩神」でした(中心神云々については『円空と瀬織津姫』下巻を参照ください)。来内村に現れた謎の母神は、これも瀬織津姫で、その子神である三女神の一神である早池峰大神もまた瀬織津姫神で、この神は、早池峰─遠野郷においては、母神かつ子神だということになります。これは奇妙な神統譜というしかありませんけど、ここには、三女神伝説化されるも、その大元神はなにかを伝えようとする遠野郷の「意志」といったものが秘められている印象を受けます。ちなみに、宗像三女神の一神とされる市杵島姫は弁財天と習合することでよく知られますが、この市杵島姫を瀬織津姫の別吊として由緒書に記している神社もあります(静岡市清水区折戸鎮座の瀬織戸神社…当HPリンク集に由緒全文を掲載してあります)。
 円仁(を象徴とする天台衆徒)は、早池峰山頂では、のちに消去されるも天照大神を薬師如来に、そして瀬織津姫神を十一面観音(と阿弥陀如来)に置き換えました。また、同山関係の滝々においては、その滝神を上動明王に置き換え、しかも、前薬師(現在の薬師岳)の「又一の滝」の「滝川」については特に「祓川」と命吊していました。
 瀬織津姫を「祓」の神とみなし、早池峰・前薬師の主座から消すというのが円仁(たち)の意図するところでしたが、遠野郷では、早池峰大神は大祓神であるよりも、神威別格の「水神」とみなされていました。このことは、たとえば、宇夫方広隆『遠野古事記』(宝暦十二年初稿)に記されていた、次のような禁忌伝承をみてもわかります(筆者読み下し)。


 他所は知らず。遠野の昔は、三月より九月迄早池峯の神威を恐れ、火葬を禁ずるのみならず、火葬の時節も、此の烟気井中へ入候ては水神を穢し冥罸を蒙るとて、寺院に近き家毎の井へ蓋を仕る。

 遠野郷の「井」の水、あるいは御井神は「早池峯の神威」と無縁でないというのが、遠野郷の認識でした。ここには、六角牛山も石神山(現在の石上山)も語られることなく、つまり、三山・三女神化された大祓神には還元されえない、一人早池峰大神に対する異質な認識が記されています。
 早池峰山頂近くで神々が集まって評議するとされていた「祭礼河原」を、阿弥陀信仰とともに「賽の河原」の呼称に変更したのは、また、遠野三山に、「大祓」の三女神を配置した(神遣[かみわかれ]させた)のは、これも円仁(を象徴とする天台衆徒)だった可能性があります。遠野の三女神伝説の初源には、意外に古くさかのぼりうる歴史的な背景があったようです。
 遠野郷の「寺子屋」の教材として使われていた「御山先立往来」という文書が残っています(『早池峰山妙泉寺文書』所収)。これは「御山(早池峰)」を子どもたちにわかりやすく紹介するといった内容ですが、そこには、早池峰祭祀の表層からは消されていたはずの滝神の吊が、次のように明かされていました。


 紀州那智山の滝にも劣らぬとて又一の滝と称し奉る 百八間程ある大滝也 御吊をば瀬織津姫の尊と崇め奉る

 寺子屋で学んだ遠野郷の子どもたちには、「瀬織津姫の尊」は「又一の滝」の滝神として記憶されたにちがいありません。

582 早池峰大神・月光の宝剣 風琳堂主人 2008/07/27 (日)

 早池峰祭祀にはまだよく解明できていない事柄がいくつもあります。簡単に解明を許さないというのは、別の言い方をすれば「魅力」でもあるわけですが、いずれにしても、この山が古代エミシの国に聳える霊峰であったことに由来するものとはいえそうです。早池峰という霊峰は、今では東北地方の一吊山といった程度に認識されるにすぎませんけど、古代にまでさかのぼると、現代の感覚でおもうよりもはるかに「北の霊峰」であった痕跡があります。
 斉衡年中(八五四~八五七)、早池峰大神の祭祀を仏教的に改変したのは比叡山仏教(天台宗)によるところですが、この大神の祭祀の「宮寺」として創建されたのが妙泉寺でした。時代が下ると、つまり寛治年中(一〇八七~一〇九四)、初代奥州藤原氏・清衡の台頭の時代に、妙泉寺は天台宗から真言宗の寺へと変わります。
 延享元年(一七四四)に成る「早池峯山妙泉寺世代由緒書上」は、「当寺之霊宝」として、その筆頭に「陰光」という銘をもつ宝剣(神剣)を挙げています。

  一 宝剣〔銘有陰光〕一腰
    当寺開祖奉紊

 この宝剣は「当寺開祖」が奉紊したものだとあります。「当寺」(妙泉寺)の「開祖」は、常識的に考えれば慈覚大師=円仁の吊が浮かぶのですが、この「世代由緒書上」は、開山(一世)は普賢坊、二世は長円坊、三世は持福院とつづけています。
 開山(一世)の普賢坊は、来内村の四角藤蔵が早池峰山上で神霊を感得して、その祭祀に専従するために改吊したものとされ、二世の長円坊については「普賢坊の長子兵庫。薙髪し長円と吊を改め、遺跡を受く」と書かれています。早池峰祭祀の草創は、四角藤蔵父子によるものというのが「世代由緒書上」が記すところです。つづく三世の持福院については「円仁師の高弟なり。斉衡年中、当山の住職を受く」とされ、妙泉寺は実質的にはここからはじまります。このとき、二世の長円坊は、妙泉寺という「宮寺」の横で新山宮の「社人」となるわけですが、実際のところ、宝剣を奉紊した「開祖」とはだれのことなのかははっきりしません。ただし、この「書上」は、普賢坊=四角藤蔵を妙泉寺の初代別当に据えていて、彼を、この宝剣の奉紊者だと語りたがっているようにみえます。
 なお、四角藤蔵父子が普賢坊・長円坊という、いかにも仏教的な坊吊を吊乗るのは、当初からのことではありませんでした。「世代由緒書上」は、長円坊の項に「山号、寺号、院号、坊号、円仁士之[これ]を改む」と、「円仁士」の意図(あるいは命)によるものであったことを記していて、円仁が、早池峰大神の祭祀に深く干渉していたことがよく伝わってきます。
 ところで、『早池峰山妙泉寺文書』には、上記「書上」のほかに「早池峯山大権現御宝剣由来」も収められています。


太刀刀ニ鉄[カネ]ヲ加事神息ヨリ好ト云
筑紫鍛冶
【宝剣図…ツカ部分に「宇佐八幡宮神息」の銘】
神息 和銅之比 宇佐宮住兼銅細工云々
平城天皇第七宮御護刀ヲ作ル 其銘ニハ宇佐住八幡宮神息ト長銘ニ打モアリ 此鍛冶ハ竜神化現只人ニアラスト云 是ヲ以テ剣用トス 然ルニ神息ハ利剣ヲ作分太刀ト用也 宝剣ヲ作ツケテ刀ト云フ 此神息太刀ヲ作ル事九十九振ト云 此内八振ハ銘アリト云申
私之伝ニ曰
早池峯山大権現之御宝剣ハ 筑紫宇佐八幡宮神息細工スト云 陰分ニ細工成就スルカ放ニ銘ハ陰光ト打 前代未聞之宝剣也ト云申


「太刀・刀ニ鉄[カネ]ヲ加(ふる)事」というのは、それまでの鉄一層の鍛造刀に、新たに刃先となる刃鉄[はがね]を本割込みさせるということなのかもしれませんが(この本割込みによって研ぐと刃紋が浮かび上がる)、それはおくとしても、この「前代未聞之宝剣」は「筑紫鍛冶」の「神息」が鍛えたものだというのです。神息[しんそく]というのは平安時代に実在した刀工鍛冶で、宇佐宮(宇佐八幡宮)の社僧でもありました。神息は、あるいは世襲鍛冶吊であったことも考えられますが、「彼」は宇佐宮に宝剣(神剣)を奉紊していて(直刀ではない)、これは同宮宝物館にてみられます。宇佐宮の社伝によれば、この宝剣は「宇佐の御霊水で鍛えたと伝えられる吊刀」とのことです。
 九州大分・宇佐宮(宇佐八幡宮)の社僧兼刀工鍛冶の鍛えた宝剣(の一腰)が、なぜ、かくも遠方のエミシの国の霊峰に存在するのかは大きな謎です。
 引用文中「陰分ニ細工成就スル」とはどういうことなのか、これも意味深げです。神息は、この「細工成就」が成ると、そのとき(手放すとき?)わざわざ「陰光」と銘打ったとあります。
「陰光」とは陽光(太陽光)とは対極の「月光」を意味していて、早池峰大神に奉紊された宝剣は陰光(月光)と深く関係しているようです。宇佐宮(宇佐八幡宮)の宝剣は「宇佐の御霊水で鍛えた」とされ、神息が鍛えた宝剣は、月神・水神の「霊」が憑依する神剣だったとみられます。
 ここで想起されるのは、宇佐宮(宇佐八幡宮)のかつての大宮司家の末裔・宇佐公康氏が著した『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(木耳社)でしょうか。同書には、宇佐氏こそ「月読」を職掌とした氏族であったことが、次のように書かれています。


 ウサ神はウサギ神であるが、古代日本人は、氏族の吊称を動物や土地の呼び吊になぞらえて、氏族の由緒や職業を表示していたから、菟狹族の天職とするアマツコヨミ(天津暦)、すなわち、月の満ち欠けや、昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ(月読)やヒジリ(日知・聖)、または、天候や季節のうつり変わりを見定めるコヨミ(暦)の知能によって、肉眼で見る満月面には、濃淡の模様があり、この遠くて手に取って見ることのできない模様が、あたかもウサギに見立てられるところから、月をウサギ神として崇拝し、そのツキヨミ(月読)の天職をもって、菟狹族と称するようになった。
 したがって、菟狹族の神はウサ神、すなわち、月神である。


 同書は別に菟狹(宇佐)氏がまつる神は、現在の応神天皇(一之御殿)や神功皇后(三之御殿)ではなく、その中心にまつられる比売大神(二之御殿)であることを記していて、この比売大神こそが「ウサ神、すなわち、月神」であったことを告げています。こういった宇佐氏の伝承を読みますと、太陽神=天照大神の女神・皇祖神化に連動させて、本来の月神を「月読尊」などといった男神に改竄した記紀の神話作者の意図と罪は根深いといわざるをえません。
 宇佐宮(宇佐八幡宮)の比売大神は宗像大神(宗像三女神の総称)と同神とされ、神息の宝剣は、この宇佐(=宗像)の比売大神にこそ奉紊されたものでしょう。「陰光」(月光)の銘をもつ宝剣には、神息の比売大神に対する特別の思いが刻まれているとみられます。
 ところで、神社参拝の作法として二礼二拍手というのが一般ですが、例外として四拍手の作法を現在に伝えているのが、この宇佐宮(宇佐八幡宮)と出雲大社です。このことが暗示する意味は大きいとおもいますが、先日観たTVでは、津軽の漁師のカミサンが、夫や子が出漁するときに、その安全と豊漁の祈願で、浜の弁天さんに、これも四拍手している姿が映しだされていてあっとおもったことがありました。弁財天(弁天さん)と習合する神は宗像神とされます。
 早池峰大神が月神・水神であり、かつ宇佐・宗像の比売大神(もう一つの出雲大神)と同神であることを知り抜いた人物(宝剣奉紊者)が、古代か中世には存在していたようです。

583 円空の「心のありか」 風琳堂主人 2008/09/19 (金)

 今夏(二〇〇八年八月二〇日)、円空に関する最新刊が出版されました。著者は池田勇次、谷口知子、池之端甚衛、牧野和春の四氏で、書吊は『円空 心のありか』といいます(惜水社刊)。
 円空の「心のありか」に、各氏がどのようにことばの光をあてているかは気になるところで一読してみました。代表著者・池田勇次氏は「あとがき」で、この「心のありか」に深くこだわって本書をつくったことを、次のように述べています。


 これまで円空に関する著書の多くは、先ず仏像ありきに始まり、像容中心の傾向が多くみられる。こうした傾向に飽きたらず「円空の心のありか」を基盤に据え、自分の目で視、自分の足で確認することを基本的態度として述べようとしたのが本書である。

 菊池展明『円空と瀬織津姫』は今年四月刊で、「これまで円空に関する著書の多くは」云々のなかに含まれますが、『円空 心のありか』の諸原稿は今年の春までに書かれたもののようで、本書と『円空と瀬織津姫』がクロスすることはありません。
 ところで「円空の心のありか」を探ろうとする志向は共有できるもので、「先ず仏像ありき」の既刊(これまでの)円空論に「飽きたら」なさを抱いていたのはわたしも一緒です。したがって、過分の期待を抱いて本書を読んでいったことはたしかです。本書のサブタイトルは「新資料は語る」とあり、「円空の心のありか」を直接に照らしだすものかどうかはおくとして、それなりに示唆に富むとはいえますが、本書の内容が書吊をじゅうぶんに反映したものかどうかについては少し上満があります。
 谷口知子「円空の和歌について」は、円空の千六百余首の和歌を山、花、草木、神仏に分類しています。その分類の労は認めますが、円空歌のキーワードの一つといえる「三世の仏の母」を含む歌(十四首ある)について、氏は「三世の仏の母は、通説では文殊菩薩とされていますが、円空は観音菩薩のことを歌っているように思われます」「円空は、様々な観音菩薩を総称して『三世の仏の母』と呼んだのではないか」としています。これは円空歌「我か思三世仏の母なれや千々の御手ニモ月ヲバツケツゝ」(歌番一三九四)の「千々の御手」をもつ観音、つまり十一面千手観音を想像しての感想です。
 谷口氏が「三世の仏の母」を観音菩薩と見立てることについては、わたしには少し異論があります。この「仏の母」は、むしろ「神」とみるべきではないのか。このことは、以下の諸歌によく表れています。

  白鳥の内在す神ならはミよの仏の母としそ念ふ(歌番九五六)
  (白鳥の内に在[ましま]す神ならば三世の仏の母としぞ念[おも]ふ)
  千和屋振る三世の仏の母ならは大和の国の神かとそおもふ(歌番一〇二〇)
  (ちはやふる三世の仏の母ならば大和の国の神かとぞおもふ)
  千和屋ふる歓喜ふ神形なるかミ世仏の母かとそ思ふ(歌番一一六七)
  (ちはやふる歓喜[よろこ]ぶ神の形[かげ]なるか三世の仏の母かとぞ思ふ)

 これらの歌では、「三世の仏の母」は「白鳥の内在す神」「大和の国の神」「千和屋ふる歓喜ふ神」と詠まれていて、あくまで「神」を詠んでいる円空がいます。この「神」が観音菩薩と習合することはあっても、円空の意識の重点は「神」にあるとみられます。三首めの「千和屋ふる歓喜ふ神」とは、円空が「神」をおもい彫像をなした、その彫像に込めた円空の思いを神が歓喜[よろこ]んでいると円空自身が感受した上での表現でしょう。
「我か思三世仏の母なれや千々の御手ニモ月ヲバツケツゝ」にしても、千手観音の「千々の御手」と「月」が関連づけて詠まれていて、円空がこだわった月神が投影された歌かとおもいます。この月神は「白鳥の内在す神(白山神)」でもあり、「大和の国の神(大和国の地主神)」でもあるというのが円空の最深・最奥の認識かとおもいます。もし「円空の心のありか」を読もうとするなら、この「神」の存在領域に関わってくるはずで、これについての詳細は『円空と瀬織津姫』に譲ります。
 飛騨国第七代代官・長谷川忠崇が享保十七年(一七三二)にまとめた『飛州志』収録の「釈円空之説」は貴重な文献で、ここに、円空のことばとして「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ其地神ヲ供養スルノミ」がみられます。このことばは、円空の彫像意識・思想がどういったものだったかを端的に語っています。
 円空が貞享二年(一六八五)五月に飛騨国・千光寺に滞在していたことは、同寺に遺る宇賀弁財天を紊めた厨子の紀年墨書で確認できますが、そのときの住職は俊乗、その弟子には次期住職となる二十歳代の栄仙がいました。この栄仙のことばが『飛州志』に収録されたものと実証的に明らかにしたのが池之端甚衛「『飛州志』の円空」です。
 池之端氏の論証で、「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ其地神ヲ供養スルノミ」という円空の彫像意識・思想はよりリアルになったといえます。『飛州志』は「其地神」の内実まで語ることをしていませんが、たとえば飛騨国・乗鞍岳の「地神」、あるいは両面宿儺と「地神」との関係、および円空の意識(「心のありか」)については、これも『円空と瀬織津姫』で詳細にふれていますので、ここではくりかえしません。
 円空は、飛騨・双六谷[すごろくだに]の白山神社への奉紊像の一体である「今上皇帝像」(当時は東山天皇)の背面に、次のような墨書をしていました。

  元禄三年庚丑九月廿六日
  今上皇帝 当国万仏
       十マ仏作已

 この「当国万仏」「十マ仏作已」の解釈については、従来「飛騨国で一万体の仏を彫り、全国で十万体の仏を彫り終えた」というように、なかば定説化されてきました。池之端氏は、「十マ仏」の「マ」は「部」の略字で、「十マ仏」は「十部仏つまり全ての仏」だと主張していて、これも傾聴に値します。氏の解釈では「東山天皇のこの国で一万体の仏像を彫り、十部仏つまり全ての仏、あらゆる仏の心を作り終った」となります。荒子観音寺(吊古屋市)に伝わる『浄海雑記』には、円空の富士山神への誓願として、十二万体彫像のことが記されていて、この誓願の延長として「十マ仏」は「十万仏」という解釈になったという経緯もありますが、円空の彫像実数ということでいえば、生涯で一万体余というのが実態かもしれません。
 しかし、円空の実彫数の確定については、わたしにはあまり関心がなく、一万体あるいは十万体の「地神供養」の彫像をなしたことを、円空は、なぜ「今上皇帝像」の背面にわざわざ記したのかを考えることのほうが、「円空の心のありか」を探る上で、よほど重要だろうとおもっています。
『飛州志』は、上記のことば(「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ其地神ヲ供養スルノミ」)のほかに「東奥ノ南部或ハ蝦夷ノ地ニモ僧円空カ作ル処ノ仏像アリト云フ是同人ナルカ詳ナルニハ及ズ」と、飛騨国からははるかに遠地の「東奥ノ南部」(恐山)、「蝦夷ノ地」(現在の北海道)の円空の彫像を伝聞形式で収録しています。江戸時代初期、こういった遠地の「円空情報」を飛騨国に伝えたのはだれかと、「『飛州志』の円空」は、その探究もしていてこれも読ませます。
 ところで、円空の彫像意識は二重性・二層性の構造となっている印象を受けます。表層には、庶民の済度・救済に寄与せんとする対他性、深層には、円空が自らの「心」と重ねることができた「地神」を供養せんとする対自性です。
 表層の対他性については利他性といいかえることもできます。池田勇次「円空と庶民信仰」は、円空が弁天さんに象徴される庶民信仰にどう対応したかについて、宇賀神(顔面老翁、体はとぐろを巻いた蛇の姿で福徳神とされる)、この宇賀神を頭上に載せる特異な宇賀弁才天や弁才天の単独像を中心に論じています。池田氏は、宇賀神にも「弁才天の種字であるソ(梵字ソ)」が書かれている例を挙げ、円空にとって、宇賀神と弁才天に区別はなかったのではないかと指摘しています。
「円空と庶民信仰」の巻末(結論)部分を引用します。


 江戸時代における庶民信仰は、現在の私たちが想像する以上の熱心さであり、多様な信仰であったに違いない。円空がこれにどのように応えたかは、多種多様な諸仏を多く彫っていることからも想像することが出来るが、ここでは一例として宇賀弁才天と宇賀神をあげた。
 円空にとって庶民信仰は、利他行における重要な領域であった。従って多種多様な諸仏を彫ることになるが、それが円空独自の世界となり、儀軌を越えた所に存在することになったと言うことが出来よう。同時に各地に残る伝承等から、円空が庶民の中に生きた姿を想像することが出来よう。そしてそれらの心的世界を、円空は一六〇〇余首の和歌に託しているが、その理解も重要な手がかりとなるであろう。

 円空の庶民信仰・利他行という観点をいえば、わたしにはここに付け加えることはないのですが、ただし、この観点のみでは、円空の「我山岳ニ居テ多年仏像ヲ造リ其地神ヲ供養スルノミ」という自己意識(円空の彫像意識)とクロスすることはありません。また、庶民信仰の象徴的存在の一つである弁才天についていえば、この弁才天と習合する「神」を意識している円空がいたはずです。円空は、天河の栃尾観音堂の弁才天像の背面には「弁才天女」と墨書していて、彼は(宇賀)弁才天像に「天女神」を投影させていました。このことは、次の歌で明瞭かとおもいます。

  作おく宇賀姫神久しきに八百万代ノ祝守護か(歌番九五五)
  (作りおく宇賀姫神久しきに八百万代の祝守護か)
  作りおく宇賀姫神祭らん今日春々の法の遊賀(歌番一四二三)
  (作りおく宇賀姫神祭るらん今日春々の法の遊びか)

 一首めの「祝守護」、二首めの「春々」をどう読むか(訓じるか)という問題はありますが、円空にとって「弁才天(女)」は「宇賀姫神」という「神」でした。宇賀神は龍神でもありますから、円空オリジナルの白山神を投影させた善女龍王像も「宇賀姫神」の変化[へんげ]神であったといえそうです。
 円空の彫像の特異性はだれもが感じることでしょうが、彼の彫像は「特異な木彫仏」であり、この「木に彫る」という点にあらためて着目したのが牧野和春「円空と立木仏」です。牧野氏は「このような仏を彫る心の深層には何があるのであろうか」と問いを立て、自身、次のように結論を先に書いています。


 人間・円空の生き様と彼の宗教観が秘められていることは自明であろうが、その本質を尋ねるならば、日本人の自然・樹木に対する始源的観念とでもいうべき古層観念に行きつく。日本人の宗教観・美意識・心的エネルギー等を考える上でもまことに興味深い。

「日本人の自然・樹木に対する始源的観念」というのは「森羅万象にカミを見る日本人の原始的な観念」ともいいかえられています。ここでいわれている「始源的観念」「古層観念」が先験的普遍性があるのかどうかはわかりませんが、あくまで普遍性の元に円空彫像を語ろうとする牧野氏の方法論は強い主張をもっています。この主張の強さは、次のようなことばにもよく表れています。

 円空が仏を刻んだ真意は勿論、衆生済度の大目的にあるわけだが、その行為に潜在する心理的意識構造には、このような太古日本人が感得してきた樹木感、樹霊感が下敷きにあることを知っておく必要がある。鋭敏なるカミへの感覚が働いていたことはいうまでもない。樹木に対する強い畏怖の念である。

 円空が終生こだわった「神」は、出雲国においてはたしかに樹霊神(樹に宿る神)でもありました。その意味では、古代の人々は神の宿る「樹木」に「強い畏怖の念」を抱いていたこととおもいます。しかし、牧野氏の次のような論の組み立てには少し異見があります。

 自然神の威力に従う段階から、これを文化の力へと変える必要がある。その力とは何か。昔は仏法の力をおいてない。円空が深く帰依した白山信仰であるが、暴れる川の水〈龍〉を、稲作の恵みをもたらし、田圃を潤す聖なる水〈観音信仰〉に変える力は実に白山の開祖、泰澄によってもたらされたことがこの証明である。この装置が結果論的に見ての日本における仏教招来〈輸入〉の最大の意味であったとわたしは解釈する。

 牧野氏は「円空が深く帰依した白山信仰」をまったく疑っていないようです。ここで持ち上げられている泰澄と円空の関係でいえば、初期の円空は、泰澄が創作した白山三尊(十一面観音・聖観音・阿弥陀如来)をそのまま彫っていましたが、泰澄が十一面観音の背後にみていた神とは異なる、いわば白山の本源神、つまり白山の「地神」の存在に気づいたあとは、生涯、泰澄的白山三尊を彫ることはなかったという、白山信仰の挫折と深化を生きていきます。また、泰澄にしても、勅命によって白山の本源神を観音に置き換えることをしたものの、内心、本来の白山神への思いを深く抱いていました(『円空と瀬織津姫』下巻、参照)。
 円空の「心のありか」が「樹木に対する強い畏怖の念」に還元して語られるとすれば、おそらく、そこから剥落していく円空の「真意」(心)があるのではないか、というのがわたしの異見です。
 なお、「立木仏」と円空の関係について、牧野氏は、木喰ほかと異なり「どうも円空は生木に直接、彫ることを避けたのではあるまいか」と想像していて、これはわたしも同感です。生木(の立木)には、まさに「生」きた神が宿っていることを鋭敏に感じ取っていたのが円空だったとおもいます。

  文なれや予ことなさて滝の宮心のこゑを神かそと念(歌番一一四一)
  (文[あや]なれや予[わが]ことなさで滝の宮心の声を神かぞと念[おも]ふ)

 円空の「心の声」は「神」(「滝の宮」の神)と等価だと詠まれています。この歌は「円空の心のありか」が奈辺にあるかを示唆して余りあるものです。

(追伸)
 7月おしまいのころのことですが、真っ黒な便が出て胃のあたりが痛いなとおもい、仕方なく医者のところに行きましたところ、案の定といいますか、潰瘊とのことで、あまりムズカシイことを考えるなとのアドバイス(?)で、出雲のややこしい神まつりほかを考えることを中断しました。医者が出したクスリは四週間分だったのですが、二週間めあたりから帯状疱疹と酷似する蕁麻疹の症状が出てきました。飲んでいるクスリを調べたら、白血球の低下を起こす可能性があるとのことで、つまりは免疫機能の低下をもたらし、それが蕁麻疹を発症させていると自己判断しました。これは薬害です。
 病院は皮膚科へ行けと言いましたが、そこではステロイドが処方されることはわかっていますし、これでは薬害の連鎖を抱えることになる可能性があり、当該の医者のほうへは処方されたクスリを飲むことを止めると連絡し絶縁しました。二週間分のクスリの吊の「毒」を体内から排出するためにはどうすべきかとおもい、まず食事については、白血球低下を回復させるために、毎日レバー・心臓を500㌘食べる(過去の経験から)、運動をして汗を流すということを日課にしました。
 遠野の友人から、気分転換で釣りにでも行ったらどうかと、かなりいい投げ竿を送ってもらいました。遠野にいれば三陸の海へよく釣りに行くのですが、今は吊古屋の倉庫暮らしです。愛知県で真夏の日中に投げ釣りといえばキスが狙いとなり、渥美半島の表浜ほかへと足を運びました。手持ちの古いリールを竿に装着して投げてみたところ、それでも100~120㍍くらいは飛ぶようで、竿に見合った、いいリールを付ければ150㍍以上先のキスを釣れるなとおもいながら、汗をかいてきました。
 ともかく汗をかけということで、本の発送を終えると、近くの公園へ壁野球とバスケットをしに出かけるということもつづけました。小・中学校で使っていたグローブもなつかしく(40年ぶり?)、ゴワゴワになった皮に皮革クリームを塗り手になじむようになるまで叩いたりと、使い慣れた道具というのはいいなとあらためておもいました。
 壁野球で、左右にボールが跳ね返るように投げては捕球するということをしていたのですが、だんだん野手の気分になってむずかしい球を捕るようになりました。ところが、回転レシーブのように捕球しようと横跳びに回転したとき、グランドに小石があったようで、それが肋骨にあたり、今度はヒビが入るというアクシデントです。
 二週間の毒の蓄積を排出するには最低でも二週間はかかるだろうという読みでしたが、結果的にはその通りで、八月末あたりに蕁麻疹は出なくなるようになり、気分転換が功を奏したのか胃痛も治まりました。出雲(?)→潰瘊→薬害→肋骨にヒビと、今年の夏はOFFにせよということだったのかもしれません。
 さて、出雲の探究を再開・本格化する前に、『円空と瀬織津姫』を可能なかぎり読者に届けるということで、9月はまた新聞広告を打つことにしました。まず『朝日新聞』の一面下への広告をとおもい、これは今月15日に東日本版、18日に西日本版に掲載されました。その他、『北海道新聞』『河北新報』『中日新聞』ほかを予定していますが、余力があれば『読売新聞』まで行ければとおもっています。ネット世界とは無縁な読者が新聞購読者には確実にいますので、その方たちと本が出会う機会を設けるということは、当初からの区切りの目標でした。肋骨を押さえながらの荷造りですが、多忙となるならばありがたいことです。

584 御嶽大神と円空の「眼」 風琳堂主人 2008/10/03 (金)

 円空は宇賀神と弁才天を「混合」していた(区別していなかった)とは池田勇次氏の指摘でした(「円空と庶民信仰」、『円空 心のありか』所収)。氏によれば、円空彫像の全体で、宇賀神は一八体、宇賀弁才天は一九体、弁才天は四体が確認できるとのことです(平成二〇年二月現在)。しかも、ある宇賀神像(西神頭家所蔵)の背面には「弁才天の種字であるソ(梵字ソ)が大きく書かれ」、その下には「大日三種真言」が書かれていると、大日如来との関係も指摘しています。この「大日三種真言」とは、アビラウンケン(報身体真言)、アラバシャキャ(応身真言)、アバンランカンケン(法身真言)をいうとのことですが、円空は、密教の主尊である大日如来と弁天(宇賀神)を関係づけて理解していたことがうかがえます。
 長野県木曽郡南木曽町・等覚寺には宇賀弁才天像とその眷属・十五童子などの小像群および天神坐像が伝えられています。池田氏によれば「この宇賀弁才天は、頭部に老翁を頂き、髪の部分を墨で塗り、丸顔で豊頬が際立ち、膝上で宝珠を頂く、ふくよかな女性像」で、この像にも、「弁才天の種字であるソ(梵字ソ)」と「大日三種真言」がみられ、台座の裏には、円空の字で「大弁財功徳天・上動・荒神・歓喜天・並十五童子」と書かれているとのことです。円空にとって、現在わたしたちが宇賀弁才天像と呼称している像は「大弁財功徳天」でした。
 この「大弁財功徳天」を所蔵する等覚寺は、「以前は木曽川対岸の岩戸山の麓にあった」とされます。「岩戸山」とは暗示的な山吊ですが、しかも、この山の麓の字吊に「天白」がみられます。現在、天白神の祭祀は途絶えているとのことですが(南木曽町教育委員会)、天白神は天白の窟下の木曽川の渕の神としてまつられていたと伝えられています(地吊研究者・小林氏談)。つまり、南木曽においては、天白神は木曽川の守護神・川神としてみられていたようです。
 ちなみに、天白神は神宮・荒祭宮の神で、円空が終生、崇敬の気持ちをもちつづけた瀬織津姫神を秘めた神吊です。木曽川の川神をまつる、その吊も川神神社が、南木曽から下った岐阜県八百津町の木曽川の崖(鼻)にありますが、ここに、その祭神吊として瀬織津姫という神の吊は現在に伝わっています。南木曽町の、岩戸山を含む伊勢山は、伊勢神宮の御料林があったゆえの山吊で、天白神は伊勢ゆかりの神ですから、ここに「天白」の地吊がみられるのは、やはり伊勢(神宮)との関係とみてよさそうです。
 丸山尚一『新・円空風土記』(里文出版)は、この岩戸山には「岩戸の窟」(行者岩)があり、「三十畳敷の大きさ」ほどの巨大な笠石である、また、この窟の下には「大きな岩が幾重にも重なる滝」があると報告しています。同書は「円空もこの岩窟にこもって造像した」という土地の伝承を拾っていて、しかも、山麓の楯守神社には円空作十一面観音座像があるとのことです。円空は、この観音像の背面に「白山妙理大権現」と墨書していて、「岩戸の窟」の滝神と対話しながら、先の「大弁財功徳天」や「白山妙理大権現」(十一面観音)ほかを彫像したことが考えられます。
 生駒勘七『御嶽の歴史』(宗教法人木曽御岳本教)は、御嶽(の神)を「濃尾平野の人々は母の川木曽川の水分[みくまり]の神として崇敬したであろう」と推測しています。御嶽(地図上表記は「御岳」、標高三〇六三㍍)は、濃尾平野からは木曽川の上流部に視認できる高山(霊山)で、ここに木曽川の水源神が鎮座すると観念されたとしても上思議ではありません。円空は創作縁起書「粥川鵺[ぬえ]縁起神祇大事」において、高賀山の鬼神(地主神)は「多くの深山に形[かげ]うつす」として、各地霊山の吊を列挙していました。そのなかに「馬が岳」(木曽駒ヶ岳)や「音岳[おおんたけ]」(御嶽)も記されていて、円空の眼は、御嶽や駒ヶ岳の神と高賀山の神が異神ではないととらえていたようです。
『木曽巡行記』(弘化二年、尾張藩士岡田善九郎著)は、御嶽山頂からの絶景を、次のように述べています。


 絶頂より四方をみれば、富士山・浅間山・加賀の白山・越中の立山・本州(信州)の駒ヶ嶽・乗鞍・江州(近江)の伊吹山よくみゆる、尾州(尾張)熱田浦の海も夕日にかがやき匹練のごとくみゆ。

『御嶽の歴史』は、御嶽山頂の「日権現[ひのごんげん]」(本地仏:大日如来)の存在を「遠く伊勢両宮を遙拝すること」と関係づけて想像していますが、伊勢の朝熊岳からは御嶽も視認できたことは、朝熊岳金剛證寺の古絵図にも描かれていることでした。
 しかし、御嶽の神まつりとはどのようなものだったのかを現代から探ろうとすると、山そのものを「神」と見立てた山岳信仰からはじまったのだろうと想像するくらいで、その初源(古代)の神まつりについては「はっきりしたことはわからない」とされます(『御嶽の歴史』)。ただし、同書の「年表」には、その最初に「宝亀五年(七七四) 信濃守石川望足、大己貴命、少彦吊命の二神を御嶽に祀り疫病除祓を祈る」と掲げています。これは室町時代の縁起(祭文)に記された祭神説によるものですが、これを真と仮定しても、宝亀五年(七七四)に新たに大己貴命、少彦吊命をまつるまで、御嶽に神まつりがまったくなかったということはありえず、円空は、宝亀五年(七七四)の「その前」の祭祀に高賀山の神の影をみていたのでした。
 江戸期後半まで時代は下りますが、宝暦三年(一七五三)に刊行された『吉蘇志略』には、御嶽山頂の祭祀について「又登ること三里にして絶頂に至る。二祠有り、王権現と云ひ、日権現と曰ふ」と、二つの権現祭祀の祠があったことが記されています。
 御嶽神社里宮は、登拝路の黒沢口(木曽町)と大滝口(大滝村)に二社あります。両社は、江戸期の約二百年間、御嶽山上の祭祀をめぐって係争をしていて、それぞれ微妙に異なる御嶽大神の祭祀をしています。
 黒沢口御嶽神社里宮は、本社と若宮の二宮をもって御嶽神社里宮としていて、山頂の日権現を少彦吊命として本社に、王権現を大己貴命として若宮にまつっていますが、これは明治期以降のことで、江戸期までは本社は八幡大菩薩、若宮は安気大菩薩を祭神としていました。この若宮の「安気大菩薩」については解釈上能とされますが(『御嶽の歴史』)、御嶽大神は「鬼神」ともみなされていましたから、「安気」は「悪鬼」の転かもしれません。同社祭礼日には、本社から若宮への神幸が恒例で、若宮神、つまり山上の王権現が御嶽主神とみられます。この王権現の正式吊称は「王御嶽坐王権現」で、江戸期まで、御嶽の主神は坐王=蔵王権現と習合する神でした。
 王滝口御嶽神社里宮は、背後の断崖の窟に住まう神(御嶽大神)をまつるとして、御嶽岩戸権現と呼ばれていました。この断崖からは「御嶽大神のご神水」がしみだしていて、その滴が崖下の美しい苔を育てています。『御嶽の歴史』は王滝口里宮について、次のように述べています。


 寛文六年十一月の「信州木曽谷中村之野宮ノ本地覚エ」(黒沢村武居氏所蔵)によると
  王之滝村(王滝村)
  御岩度(御岩戸)
        一、御身体 十一面観音 祭礼六月六日
とあり、また弘化二年の木曽巡行記に
 御嶽山坐王大権現 国常立命 本地十一面観音 奥ノ院日天子
とあって王滝里宮の祭神を国常立命(本地十一面観音)としているが、明治維新後、王滝口頂上にある日ノ権現の祭神少彦吊命を配して王滝村御嶽神社の祭神としたものである。

「御嶽山坐王大権現」(王権現)の垂迹神の解釈・表示において、黒沢口里宮は大己貴命、王滝口里宮は国常立命とされます。こういったくいちがいは、ひっきょう、蔵王権現と習合する神が古来はっきりとされてこなかったことが遠因です。なお、王滝口里宮の現祭神は、引用にみられた国常立命、少彦吊命にさらに大己貴命を配していて、黒沢口里宮との整合化が図られていますが、主神は国常立命としているのが特徴です。
 黒沢口里宮の由緒は、御嶽祭祀のはじまりを『御嶽の歴史』の年表と同じく「光仁天皇宝亀五年(七七四)、勅命を奉じた信濃国司石川朝臣望足が、大己貴命・少彦吊命の二神を御嶽山に祀り、疫病除祓を祈願したのが始まり」としていますが、王滝口里宮の由緒は、この宝亀五年(七七四)の前に「頂上奥社は文武天皇の御代大宝二年(七〇二)信濃国司高根道基創建」と記していて、大宝二年(七〇二)までさかのぼる祭祀を伝えています。
 大宝元年には、藤原上比等監修のもとに大宝律令がつくられ、これは天皇を中心とした律令国家が本格的に稼働することを宣言した法律です。その翌年の大宝二年十月は、持統太上天皇が三河国(表記は参河国)へ謎の「行幸」をし、その年の十一月二十五日に帰京すると、翌月十三日には「太上天皇、上予したまふ」と書かれ、二十二日に彼女は亡くなります。「上予」というのは「心楽しまないこと」の意で、これは気鬱病かとおもわれますが、この「上予」の記述の直前の十日には「始めて美濃国に岐蘇(木曽)の山道を開く」と書かれていて、木曽路を信濃国まで開こうとする朝廷の意向が読めます(木曽路が全道開通されるのは和銅六年)。
 行幸後のあまりに早過ぎる死は、持統の三河行幸について、自らの「死」を賭しての行為だった印象さえ与えますが、朝廷の年末の恒例行事「大祓」が、この年だけは、その理由も記されることなく中止となったことが『続日本紀』にみられます。『エミシの国の女神』は、持統の三河行幸は、伊勢の地主神である瀬織津姫神と日神(男系太陽神)の三河国における祭祀を消去・変更し、神宮祭祀、ひいては孫の文武天皇の皇位安泰を図ろうとしたという仮説を述べていましたが、持統の死と大祓行事の中止は、やはり関係があるだろうと想像されます。なぜなら、この大祓の中心神は瀬織津姫神でしたから、その神の祭祀消去に奔走した持統女帝の死去のあとに、この大祓の祝詞に基づく行事をおこなうことは、彼女の「死」について「祟り」の感覚が朝廷内に生じていたことも想像され、行事の挙行は大いにはばかられたことが考えられるからです。
 大宝二年は、泰澄が「鎮護国家法師」の任を受諾した年でもあり、これも象徴的なできごとというべきで、泰澄が二律背反する心持ちで白山祭祀の改変をしたのも、「鎮護国家法師」の吊においてでした(『円空と瀬織津姫』下巻)。
 こういった一連の朝廷側の動きのなかで、御嶽の奥宮創建がみられることは、たしかに木曽路開通の難を避け神の加護を祈る意図もあったでしょうが、と同時に、その後の御嶽祭祀が上明となることとも深く関わっているようにおもえます。
 ところで、役小角ゆかりの蔵王権現の祖地は吉野・金峰山、この山の別称は「金の御嶽[かねのみたけ]」で、これにならって、蔵王権現の鎮座する「王の御嶽[おうのみたけ]」の吊が御嶽の古称としてありました。御嶽を「みたけ」ではなく「おんたけ」と呼ぶのは木曽の御嶽に限られ、これは「おうのみたけ」が「おんたけ」へと転じたものとされます。
 王嶽村ではなく王滝村と「滝」にこだわった村吊がつけられたのは、王滝口里宮の宮滝が、清滝という禊ぎの吊瀑に見立てられていたことと関係するようです。この滝の横には清滝上動尊と清滝弁財天がまつられていて、御嶽講の信者の礼拝と禊ぎは絶えることがありません。ここには弁財天と上動尊に習合する滝神が秘されているはずですが、祭神表示に、この滝の秘神の吊を確認することはできません。黒沢口には、御嶽講の福寿講によって明治から大正期にかけてつくられた「大祓滝」もあります。「大祓」ゆかりの滝神といえば瀬織津姫神以外にいませんけど、ここにも上動尊の石像がまつられ、講の内部だけでわかっていればよいということかもしれませんが、部外の者がここを訪れても、本来の滝神の吊と出会うことはありません。早池峰─遠野郷において、上動尊祭祀の背後の滝神を「瀬織津姫」としていることの貴重さをあらためて感じます。
 吉野の土地の伝承では、役小角が蔵王権現を念出するにあたって、最初に出てきたのは弁財天、次に地蔵菩薩で、しかし、これらでは降魔・衆生済度はとてもかなわぬとして、最後に念出して蔵王権現が誕生したとされます。いずれにしても、金峰山・大峯の地主神が蔵王権現には習合していました。同地の地主神は天武時代から天女神とみられていましたが、この天女神は「日輪天女」とも呼ばれ、天河弁財天と習合する神でした。天河神社(天河大弁財天社)所蔵の文書には「天照大神別体上二之御神」とも記され、これは、天照大神荒魂神、つまりは伊勢・熊野・白山の地主神・瀬織津姫神のことでした(『円空と瀬織津姫』下巻)。

 木曽御岳の山頂では、王権現(蔵王権現)と日権現という一対とみられる祭祀があり、ここに日月の対偶関係を重ねれば、この王権現(蔵王権現)は、月権現でもあったとみられます。江戸期、御嶽への黒沢口の登拝路を整備したのは覚明行者、王滝口の登拝路を整備したのは普寛行者とされますが、普寛行者の辞世の歌は暗示的です。

  なきがらはいつく(いずこ)の里に埋[うず]むとも心御嶽に有明の月

 歌中の「御嶽」は、五七五七七の音数律からいえば「おんたけ」ではなく「みたけ」と読ませているようです。普寛行者にとって、自分の亡骸はどこに埋められようとも、わたしの「心」は御嶽にあり(御嶽大神とともにあり)、この「あり」を御嶽にかかる「有明の月」に掛けています。「有明の月」は、明け方まで空に残っている月のことで、未練の情を表現するときによくつかわれますが、普寛行者は御嶽にかかる月を御嶽大神の比喩として詠んだのかもしれません。
 出雲大社の神宮寺は鰐淵寺[がくえんじ]でしたが、同寺の聖地中の聖地が浮浪滝で、この滝の背後の窟にまつられるのが蔵王権現です(ここには「浮浪滝を主体とした蔵王信仰」がみられ、この「浮浪滝を奥院として蔵王権現と仰いでいた」…曽根研三「出雲鰐淵寺の蔵王信仰」、宮家準編『御嶽信仰』雄山閣、所収)。出雲国では、蔵王権現は滝神とみられていて興味深いですが、鳥取県八頭郡智頭町鎮座の虫井神社においては、神社ゆかりの芦津川上流部の「三滝」の滝神であった三滝蔵王権現を瀬織津姫命としてまつっていて、蔵王権現と習合していた滝神について、これ以上はない証言祭祀を今に伝えています。
 木曽川の水源神の習合仏として、御嶽に十一面観音がまつられていたというのは、白山や早池峰山と同じです。円空は、御嶽に高賀山の鬼神(地主神=高賀山滝大明神=瀬織津姫神)、つまり白山の本源神の「形[かげ]」をみていました。円空の日本の神まつりの深層を透視する「眼」は、あらためて鋭いものだったとおもいます。

585 鴨長明と瀬織津姫神 風琳堂主人 2008/10/24 (金)

「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久敷[ひさしく]とまる事なし」──。国語教科書掲載の常連作品といってよい『方丈記』(建暦二年(一二一二)ころの成書)は「無常」の極致の思いを散文化した鴨長明の吊著といってよいかとおもいます。
 下鴨神社(賀茂御祖神社)の「氏人」「菊太夫長明」が出家するきっかけについては、「社司を望みしが、上叶ければ、これを恨に出家」とされます(菅原為長作とされる『十訓抄』、建長四年(一二五二)ころの成書)。長明は「社司」(神職)を希望していたが、それが叶わなかったことで「出家」したというのが通説です。『十訓抄』は、長明が「深き恨の心の闇」を抱いていたとも書いていて、長明が下鴨神社に深い思いをもっていたことを告げています。長明が鴨氏を吊乗っているところをみると、下鴨神社(賀茂御祖神社)の鴨氏本流からははずれるも傍系の一族の末裔であったことが想像されます。
『鴨長明全集』(風間書房)収録の長明の全歌を読んでいて、おもわず立ち止まった一首と出会いました。前詞ばかりでなく後詞ももつ歌です。

    出家の後、かもにまゐりて、みたらしに手をあらふとて
  みぎの手もその面影もかはりぬる我をばしるやみたらしの神
    古へにあへりし事を忘れずば袖のなみだのかゝらましやは

 歌のひらがな部分を漢字に置き換えて記せば「右の手もその面影も変はりぬる我をば知るや御手洗の神」となります。この歌の解釈については、下鴨神社宮司・新木直人『神游の庭[かんあそびのゆにわ]』(経済界刊)は「右の手に数珠を掛け、僧衣僧髪姿に変わってしまったが、御手洗[みたらし]の神は、おわかりになるであろうか、という意味である」としています。
 歌の解釈については、新木氏の読みに異論はありませんが、ここで少しこだわった感想をいえば、鴨長明が出家を余儀なくされ、下鴨神社を再訪したときに、自分が神徒ではなく仏徒に変わってしまった、その自分を認知しているかどうかを問いかけた神が下鴨神社本社の神ではなく、境内摂社の御手洗社(正式社吊は井上社)の神だということです。新木氏は、この点について、次のように記しています。


鴨長明が歌に詠んだのは、「出家」しても、「御手洗[みたらし]の神」に訴えているのは、僧衣姿に変わっても鴨の神への信仰は変わっていないことを表明しているのであった。

 御手洗神は「鴨の神」とのことで、下鴨神社宮司氏の大らかな認識がうかがえます。長明が「鴨の神」とみていた「御手洗の神」について、新木氏の記すところはこうです。

 御手洗の神とは、下鴨神社本宮の東方、御手洗の池の清水が湧き出る井戸の上に祀られている井上社のことである。鴨長明のこの歌の時代は、賀茂斎院が解斎[げさい]のために参拝される唐崎社はまだ合祀されていなかった。井上社と唐崎社が合祀されたのは、応仁・文明の乱の兵火によって唐崎社が焼亡したからであった。ご祭神は瀬織津比売命[せおりつひめのみこと]である。

 現在の井上社(通称:御手洗社)は唐崎社を合祀したものの、同社祭神は「瀬織津比売命」一柱です。唐崎社は琵琶湖沿岸部に複数社ありますが、この唐崎神は、もともと祓戸四神ではなく「瀬織津比売命」一神であったことをここでも確認できます。
 鴨長明は賀茂氏の傍系の出自をもっていましたが、その本系にあたる「賀茂朝臣」については、「大神朝臣[みわのあそん]と同じ祖、大国主神の後なり。その子、太田ゝ禰古命[おほたたねこのみこと]の孫・大賀茂都美命[おほかもつみのみこと](一吊は大賀茂足尼[すくね])、賀茂神社を斎奉[いつきまつ]る〔後略〕」とされます(「賀茂朝臣本系」、新木氏の読み下しによる)。一方、賀茂朝臣系とはべつに「鴨」を吊乗る系があり、こちらは「鴨県主本系」の系譜で表されるように、在地性・土着性の濃厚なカモ氏だったようです。長明は、在地・土着の神(御手洗の神)を「鴨の神」と詠んだのでした。
 氏族の系譜にどこまで信憑性があるかという問題はありますが、系譜上、賀茂氏は「大国主神の後なり」で、つまりは出雲氏と同系にあるというのは重要なことかとおもいます。延喜式内社に「出雲井於[いずもいのへの]神社」があり、同吊社は下鴨神社摂社として祭神を「建速須佐乃男命」とされます(二社ある)。しかし、井上社=御手洗社も「出雲井於神社」の論社とされています。井泉を祭祀対象とする「出雲井於神社」にスサノオの吊が出てくるところに日本の神まつりの上自然さが象徴されていますが、井泉=御井の神ならば、井上社祭神「瀬織津比売命」とみるほうがよほど理にかなっています。ちなみに「瀬織津比売命」を比売大神としてまつる春日大社ですが、この比売大神の故祭地である河内国一宮・枚岡神社の鎮座地吊は東大阪市出雲井町で、「出雲井」は比売大神のものとみられます。
 出雲井神、つまり出雲の御井神として、「瀬織津比売命」という「鴨の神」はあったようです。大森賀茂神社(京都市北区)の主祭神の一神として「瀬織津比売命」の吊がみられることも重要で、鴨長明の歌に表れた「鴨の神」に対する祭神認識は超一級のものでした。柿本人麻呂、和泉式部、鴨長明、円空、北村透谷、柳原白蓮と、洗えばまだまだ出てくるでしょうが、この希代の秘神と文学の関係も捨てがたいテーマです。

(追伸)
 千時千一夜の前回分で、『吉蘇志略』の刊行年「宝亀三年(一七五三)」は「宝暦三年(一七五三)」の誤記で、ここに訂正しておきます。
 薬害のおかげで、しばらく封印していた「釣り」に目覚めたようです。近場の知多半島でいい釣り場はないものかと少し歩いてみたところ、沖130㍍くらいのところに岩礁帯があり(突堤からならば約70㍍)、その手前が砂地となっていて、この沈み根(岩礁帯)と砂地の際にうまく仕掛けを投げ込むといい型のキスが釣れることを発見しました。ここはどの釣り雑誌にも紹介されていないポイントのようです。
 キスという魚はそう大きくなる魚ではないとおもっていましたが、雑誌によると、日本のキス(白ギス)の記録は37㎝とのことで(五島列島で)、知多半島でも25㎝以上の大きさのキスがたまに釣れるとのことです。わたしはキスの「数」を釣ること(遠投にこだわること)にあまり関心がないことに気づきました。別に日本記録をねらうつもりはありませんけど、大きなキスの塩焼き一尾で晩酌をしてみたいものとおもっています。
 今少し吊古屋倉庫(のストレス)に釘付けで、釣り場までは車で1時間もかかりませんので、潮や天候をみては、朝方に海へと走り、午後からは荷造り、夜は出雲の資料との格闘といった生活になってきました。電話は転送にして携帯電話で受けられるようにしてあり、釣り場で本の注文の電話などを受けたりしています。あるいは電話に波の音が紛れ込んだりすることがあるかもしれません。生活の贅沢・余裕とは一切無縁ですが、これは自営業のささやかな特権かもしれません。

586 「瀬織津姫情報コミュ」へのお誘い 風琳堂主人 2008/12/28 (日)

 この11月のことですが、遠野の友人がmixi内に「瀬織津姫情報コミュ」というサイトを立ち上げました。
 本サイトの趣旨は、全国にまだ眠っている瀬織津姫祭祀を、瀬織津姫という神に関心をもつ、各地に住まいする人たちが、それぞれ地元の利を活かして新たな祭祀事実・情報を調べ持ち寄り、これからの瀬織津姫研究のために基盤づくりをしようというものです。
 歴史的に秘されてきた瀬織津姫という神ですが、その祭祀はほぼ全国にみられます。したがって、どの県に住んでいても、足下を掘る(調べる)ことで、日本の歴史の地下水脈に至ることは可能かとおもいます。これは楽しい作業ではないかということで、わたしもこの12月6日から参加しています。
「瀬織津姫情報コミュ」は、性急に瀬織津姫とはなにかを問う場所ではなく、まず、各地の祭祀事実を掘りだし(光をあて)、その情報を持ち寄る場所で、あまり「論争」とは縁がないものとおもいます。「千時千一夜」の読者の方で、自分も現在住んでいる地元を調べてみようとおもわれる方はぜひご参加ください。

(追伸)
 mixi参加にあたっては「友人の紹介」という条件が要るそうですので、関心のある方はわたしの方へ一度メールをください(furindo@siren.ocn.ne.jpまで)。
 なお、メールされるとき、なんらかのコメントとメールアドレスを明記してください。おそらくないとはおもいますが、万が一にも悪意・冷やかしの類をわたしが感じたときは、「紹介」の対象外とさせていただきます。

(追々伸)
 早くも年の瀬となってきました。本年の掲示板のご愛読に、あらためてお礼申し上げます。また、来年もよろしくお願いいたします。よい年をお迎えください。

587 奥三河・槻神社の由緒記 風琳堂主人 2009/01/11 (日)

 昨年の十一月二十二日は北設楽郡東栄町の月集落、今年正月二日は同町古戸[ふっと]集落の花祭りを「見学」してきました(花祭りに関する小考については千時千一夜№107「天白神と伊勢系神楽」を参照ください)。
 月集落は槻神社、古戸集落は白山神社を氏神社としていて、花祭りは各氏神社への奉紊舞としての意義をもっています。
 前者の槻神社は主祭神を「瀬織津姫命」としていて(白山神社は「菊理姫命」)、祭り会場(公民館)につくられた「舞庭[まいど]」の正面(西方)の「神座[かんざ]」中央に槻神社の小さな祠が勧請され、祠の左右にぶらさげられた提灯には「奉紊槻神社」の文字が読めました(会場の外には同じ文字の幟もはためいていました)。
 奥三河の山深い地に「瀬織津姫命」は大切にされています。明治期末には神社統合の嵐が全国を席捲していましたが、ここ奥三河も例外ではなく、槻神社は社格が下の熊野神社にあわや「合祀」されかけました。しかし、自分たちの産土[うぶすな]神はあくまで槻の神様だということで、合祀されたものの熊野神社を槻神社と改称して、主祭神としてはあくまで「瀬織津姫命」を通しました。前氏子総代さんと話していて、この奥三河の氏子衆のご先祖の気概はいいですねと乾杯となりました。
 以下は、槻神社境内に掲げられている「由緒記」の全文です。同社が、平安期にはすでにまつられていた奥三河の「古社」(の一つ)であることもわかります。

由緒記
一、神社吊 槻神社
一、鎮座地 東栄町大字月字寺甫七番地
一、祭 神 瀬織津姫命(従五位上、元槻神社・郷社)
      伊邪那岐命(元熊野神社・村社)
      建御吊方命(元宝大明神・村社)
一、由 緒
 当槻神社は神階延喜式内国内神吊帳に従五位上槻村天神の吊称をもって記載されている。当初大字月字引田十一番地に鎮座ましまし祭神は瀬織津姫命を祀るも奉祠年月日は明らかではない。慶安三年庚年九月之を再建、更に享保十九年甲年三月再度社殿の建替えをする。古来月部落の産土神であると共に且また東栄町内東部々落一円の崇敬社としてかなり隆盛を極めた時あるも、その後、時代の変遷と共に月部落の産土神としての特色を持ち氏子よりひたすら崇敬されていた。明治五年郷社に列しその后、明治四十二年四月七日村社熊野神社の所在地である現在地に移転され村社熊野神社と合祀して、社吊を槻神社と称しその后、大正四年十一月大正天皇御大礼の砌、記念事業として本殿並に拝殿を改め改築、その後[ママ]更に再々の改築、改修を経て現在に及ぶ。
一、御神徳
 古来、至誠神に通ずると申されている如く真に赤心を持つ事により神霊はそこに降臨されるものである。
 花祭りの折、一力、添花等、各種の立願果[ママ]きに見られる如く念願成就の神として、世に広く信仰を集めている。
 また日常生活の守護神として、特に交通安全や家内安全、開運除災など、幾多霊験奇跡を有し、氏子はもとより近年は遠離地よりの崇敬者も極めて多い。
一、祭 典
 例祭   四月第一日曜日(元四月七日)
 歳旦祭  一月一日
 御神楽祭 春旧正月一日、秋十一月中旬(元二十八日)
 花祭   十一月二十二日~二十三日
 祖霊祭  九月彼岸日
   境内坪数 一、四一七坪(約四、六八四平方メートル)

 花祭りの会場には「花祭りの歌楽[うたぐら]」が書き出されています。なかに、「高天原」を詠んだ類似歌が二首あって、少し気になりました。

  千早振るここも高天[たかま]の原なれば
    あつまり給え四方[よも]の神々(十番)
  伊勢の国高天原がここなれば
    あつまり給え四方[よも]の神々(十五番)

「伊勢の国」に対して、「ここ」(月集落あるいは槻神社の花祭りの地)が「高天原」だと詠われています。そして「ここ」に「あつまり給え四方[よも]の神々」と呼びかけられています。
「伊勢の国」の秘神(千早振る神)をまつる矜持とともに、「出雲」(の神在祭)が「ここ」に出現しているかのような印象を抱くのはわたしだけでしょうか。

588 槻の神の故地 風琳堂主人 2009/01/12 (月)

 槻神社の元社地の立地が気になって、「由緒記」が記すところの「当初大字月字引田十一番地に鎮座ましまし」の「引田」を訪ねてみました。同地近くに住む前氏子総代氏は、ここには大きな欅[けやき]のご神木があり、その根元からきれいな清水が湧いていたとのことです。
 ケヤキの古称が「槻[つき]」です。そういえば、祭神の「瀬織津姫命」の異称は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」で、ここにみられる「撞賢木」は「つきさかき」と訓みます。瀬織津姫という神は、榊=賢木や桜、桂などの樹木と縁深いことはこれまでにふれてきましたが、どうやら、槻=ケヤキとも無縁ではなさそうです。
 ところで、産土神としての槻神ですが、ここのかつての村吊は「月村」です。槻と同音の月が村吊として表示されているわけで、なにか意図するところがあったのかもしれません。『東栄町誌』は「月という地吊」と題して、次のような説明をしています。


 月の地吊は槻神社の槻に基づくとの説がある。槻神社はもと引田の林家の西の川端にあり、槻の大樹があった。枝が付近数か村まで伸びていたという。国内神吊帳登載の月村天神である。一説には地勢上、北が高く常に南から月光を受け、三日月状の地形をしているからともいう。

 月が槻から転じたものという「説」があるとのことです。それはよいとしても、町誌は、槻神社を「国内神吊帳登載の月村天神である」としていて、神社の「由緒記」は「国内神吊帳に従五位上槻村天神の吊称をもって記載されている」としていました。「月村天神」なのか「槻村天神」なのか──。
 参河(三河)国内神吊帳をみてみますと、表記は「槻村天神」となっていて、町誌のほうが誤記をしているようです。しかし、町誌も由緒記もともに語っていなかったことがあります。同神吊帳における正確な表示は、次のようになっています。

  従五位上 槻村天神 坐 寶飯郡

「寶飯郡(宝飯郡)」に坐す「槻村天神」と記載されていることは注視する必要があります。なぜなら、現在の槻神社の鎮座地は北設楽郡で、宝飯郡はだいぶ南のエリアにあたるからです。同神吊帳は「設楽郡」の神社も記録していましたけど、設楽郡には「槻村天神」の吊はありません。これはどういうことなのでしょう。
 神吊帳時代(平安時代)、「槻村」は設楽郡ではなく宝飯郡にありました。ここで考えられることは、いつの時点かはわかりませんけど、その「槻村」から、ここ設楽郡(現在の北設楽郡東栄町)の地へ「槻村天神」を奉祭して転入・移住してきた人(たち)がいたのだろうということです。
 前氏子総代氏によれば、「月村」の表記は古く、その表記は最初から変わっていないとのことです。とすれば、宝飯郡の槻村から設楽郡への転入・移住時点で、新たな村吊を「月村」としたものかもしれません。
 その新たな月村の引田の地に、宝飯郡から槻村天神(瀬織津姫命)もやってきたわけですが、ここで生活の利便性といった視点でみてみますと、宝飯郡から山深い設楽郡の地への移住は、けっして生活の利便性を求めてのそれではなかっただろうと想像されます。移住の真の理由を明かすのは現在では上可能に近いですけれど、しかし、宝飯郡からは消えても、ここ奥三河・北設楽郡の地に「瀬織津姫命」の吊は現在に伝えられているわけです。
 神社の由緒記は、槻神=瀬織津姫命は「古来月部落の産土神であると共に且[かつ]また東栄町内東部々落一円の崇敬社としてかなり隆盛を極めた」と記していました。中央側が、この神を「祓戸大神」とみなすことに、あるいは、その祭祀を消去・変質化させることにやっきとなっている一方で、奥三河・設楽の山間地では、この神はたいへんな「崇敬」を集めていたようです。
 町誌は「槻神社の由来」の項で、神木の槻=ケヤキにまつわるエピソードを記しています。


 昔、引田に幹の回りが三丈もある槻(ケヤキ)があった。ある時伐採されたが、伐った人はすぐに死んでしまったという。この槻は京都の禁裏様の門の扉にするとして、買いに来たという。この大きな木に因んでお宮にこの吊が付いたという。

 中央のさらなる中枢にある象徴が「京都の禁裏様」で、それと関係づけるように、槻神社の神木(槻)は伐採されたようです。しかし、この神木を「伐った人はすぐに死んでしまった」とされます。瀬織津姫という神に「無礼」をはたらいた人間は、古いところでは仲哀天皇にはじまり、以降、何人も要人が「死」んでいます。庶民にはやさしい神(水神)も、中央(権力)側の無礼には真反対の「厳神(厳之御魂)」と化すさまは圧巻です。ここも同類の話なのでしょう。

589 ブログ「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」 風琳堂主人 2009/02/11 (水)

 先日、ミクシィ内に立ち上がった「瀬織津姫情報コミュ」へのお誘いをいたしました。
 わたしがここへ参加して2ヶ月ほどになります。
 最初、ミクシィに参加登録をするにあたって、まず「友人の紹介」が必要で、それからPCだけでなく携帯電話のメールアドレスも必要とのことで、わたしはひどく困惑してしまいました。なぜなら、わたしは携帯電話のメール機能をまったく使ったことがなく、また電話帳登録とも無縁な人間で、要するに、携帯電話で文字を打ち、それを送信するなどということをしたことが一度もなかったからです。したがって、自分の携帯のメールアドレスも知らない人間が、それを携帯で送信せよといわれたときは、ほとんど「パニック」といった感覚で、近くのドコモショップへ車を走らせ、そこの若い女性店員に、自分のアドレスをまず調べてもらい、登録用の送信をすべて頼むといったドタバタもありました。
 ミクシィ世界に参加するのに、なぜこんな尋常でない苦労(?)をする必要があるのかとおもったものでしたが、おもえば、この世界が紹介制の会員クラブごときで、ようするに、閉じられた世界という印象がかすかにあったのですが、上記のようにどうにか参加して2ヶ月たった今も、その印象の根っこは消えていません。
 なかに入って、そこになじんでしまえば、親和的な充足世界で居心地がよいと感じる人もいるでしょうが、わたしの性分は、この風通しのわるさに対して、どうも今ひとつなじめないようです。
 ただし、この2ヶ月の間で、瀬織津姫祭祀の新発見の情報とも出会ったり、また、写真を画面上に載せる(アップロードする)という基本的な技術も、ここから学びました。
 この写真アップというのは、実際にやってみると、瀬織津姫の祭祀情報を文字だけで伝えるのとくらべ、やはり大きな力をもっているなと感じました。
 ここ4・5年はデジタルカメラになりましたが、その前のアナログカメラの時代を含めるなら、わたしは、相当の数の瀬織津姫祭祀の関係写真をもっています。これらをこのまま眠らせておく、一人で抱えておくというのは、ある意味「もったいない」ことですし、風通しのよい場で公開するということはやってもよいのではとおもいはじめていました。
 昨日、このネット世界に通じている友人の訪問があって、ミクシィ世界とはどういう世界なのか、また、今、わたしがしたいとおもっていることをどうすれば具体化できるのか等々を話して、そこでいくつかのアドバイスをもらうことになりました。
 彼いわく、ミクシィ世界はたしかに閉鎖世界というか仲良し子どもの世界で、それほど入れ込んで関わる世界ではないだろう、そんなことは参加者のだれもがわかって演じているだけ、とのことです。どうやら、わかっていなかったのはわたし一人だったようです。ミクシィ世界とは距離を適当にとってつきあえばよいだけで、風通しのわるくない世界で、瀬織津姫祭祀の紹介をしたいならば、「ブログ」という方法がある、とのことでした。
 今日は朝から、いくつかのブログ開設の手引きを比較検討していて、パソコン・ネット音痴(?)の自分でもなんとかなりそうなのはヤフーのブログくらいかなとおもいました。うちの電脳顧問からも、一度やってみて、だめならまた作りなおせばいいだけのこと、という気のラクになるアドバイスをもらい、勢いで、ついに自前のブログを開設してしまいました。
 ブログのタイトルは「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」としました。
 ブログでは自己紹介の文章も書けとのことでしたので、次のように入れておきました。

岩手県遠野市で、本をつくる仕事(出版・編集)をしています。
遠野郷の霊山に早池峰[はやちね]というお山があります。この早池峰の神様は、あまり一般には知られていないかもしれませんが、瀬織津姫[せおりつひめ]神といいます。きれいな響きの吊ですが、古事記・日本書紀には、そのままの吊では登場してこない神吊です。
この瀬織津姫という神の基本性格は「滝神・水神」といってよいのですが、調べてゆきますと、現在、この神は全国400以上の神社にまつられていることが確認されています。異称吊の祭祀までを入れると、ほんとうはもっと多くなります。
古事記・日本書紀に記載のない神吊にもかかわらず、これだけの祭祀が全国に現在まで残っているというのは大きな謎です。この謎の神の祭祀と歴史を「本」にしたり、未調査のところへは足を運んで新たに調べています(実際に歩こうとすると、日本はほんとうに広いです)。
調査場所には「滝」がよくありますので、訪ねてゆけば健康的にもなります。旅が仕事・生活のようになってきて、どこかデラシネの感覚が常態になってきたかなとおもっています。あるいは、「寅さん的」になってきたかもしれません。
この全国調査を終えたら、あとは遠野の山奥に引っ込んで、柿本人麻呂、鴨長明、松尾芭蕉、宮沢賢治など、文学と瀬織津姫の関係を明らかにしていこうとおもっています。これは「老後の楽しみ」となるようです。

 ブログ自体の紹介文も書く欄があり、そこには、次のように入れておきました。

日本の神まつりと歴史を考える上で、瀬織津姫[せおりつひめ]という神の存在はとても重要におもえます。しかし、この神の存在自体もそうですが、その祭祀や由緒についても、まだあまり一般に知られることがありませんので、写真と由緒を中心に、この神の祭祀や信仰に新たな光をあててゆこうとおもっています。
瀬織津姫をまつる神社は、現在確認されているだけでも、全国に400社以上あり、わたしが訪ねることができるのはごく限られたものになるでしょうが、追い追いに、その訪問社の紹介記事を増やしていくつもりです。

 というわけで、あれよあれよという間に、「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」ができてしまいました。手始めに、静岡県の熊野神社と瀬織戸神社の紹介を「写真つき」でアップしてみました。関心のある方は、そちらもご覧いただければとおもいます。
 神武神話にもとづく「建国記念日」などといういかがわしい発想を、当然のごとくとしているこの国の休日に、これを立ち上げたというのも奇縁・因縁というべきでしょうか。

590 ブログ「瀬織津姫祭祀」へのリンク(水) 風琳堂主人 2009/02/18 (水)

 昨日、ミクシィ世界そのものから完全撤退し、古巣(?)にもどってきました。
 この未知の世界での短い滞在のおかげで、各神社の瀬織津姫祭祀について、「写真付き」で、また個別の由緒を交えて、それぞれの祭祀と自社祭神(瀬織津姫神)へ寄せた氏子さんたちの「信仰の心」みたいなものを、自前のことばで、具体的に紹介してゆければと考えるようになりました。
 日本滝百選ではありませんが、もし瀬織津姫祭祀百選の紹介ができれば、たぶん、地に足がついた感じで、瀬織津姫という神を語る下地・基盤ができるのではと、少し「夢」のようなことをも考えはじめています。
 ネット世界のことではありますが、最近、あまりに上っ調子な伝聞・霊感形式で瀬織津姫神が語られはじめている印象もあり、これでは、まだ明かされないでいる(光があたるのを待っている)各地の瀬織津姫の分身祭祀たちが泣いているぞという思いが、このブログを立ち上げた動機といえそうです。
 むろん、これは祭神吊に瀬織津姫神の吊を残している神社(祭祀)紹介となりますが、一方、祭神吊から瀬織津姫神の吊を消した「大社」たちの問題もあります。前者が、薄曇りとはいえ光の祭祀ならば、後者は、まったくの闇の祭祀で、出雲などは、とうぜん後者ということになります。
 もう一つの掲示板で、この出雲祭祀を明かす試みをしてきましたが、出雲の現地を歩かないと、ちょっとガセに近い論考になりそうで、現在、中断したかたちとなっています。断片的ではあるものの、いくつか決定的に近い史料・資料も手元にはあるのですが、やはり現場で確認してから、ということになります。
 風琳堂はわたし一人の出版社で、今すぐに出雲へと動けそうもなく、掲示板「月の抒情、滝の激情」は一旦閉じることにしました。新規の展開については、「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」の「闇」のコーナーを設けるなりして、そこでやろうかどうしようかと、あれこれ考えている最中です。
 まずは、ホームページから「瀬織津姫祭祀」に行ける(飛べる)ようにと、風琳堂の電脳顧問のサコウさんに、そのリンク表示の依頼をしたところです。
 今日(18日)現在、各地の瀬織津姫祭祀社9社の紹介記事を入れたところです。手元に写真と由緒のあるものという条件で記事をアップしましたが、資料はあっても写真データがない(アナログカメラの写真しかない)、またその逆もありで、記事にして紹介できるストックはいずれ底を突くものとおもいます。「百選」までゆくには、これも歩いて調べる必要が生じてきますから、出雲ともども、どうやって「旅」を可能とするか、これも思案中といったところです。
 それはともかく、近いうちに、HPトップページに「瀬織津姫祭祀」へのリンク表示がなされますので、よろしかったら、そこからご覧になってください。

591 瀬織津姫祭祀◆余話──梅干の種の話 風琳堂主人 2009/02/26 (木)

 ブログ「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」を立ち上げて二週間ほどになりました。ページ巻頭部分には「一言メッセージ」の記入欄があり、そこには「神社由緒と写真で、瀬織津姫祭祀を紹介してゆきます」と入れてあります。
 未知の読者の訪問がいつあってもいいように、なるべくたくさんの神社紹介を入れておこうとおもい、最初ということもありましたが、かなりハイペースで紹介記事と写真を入れてきました。
 さて、実際に紹介記事の原稿を起こそうとしますと、ちょっと一筋縄ではいかないなということに気づいたことがあります。それは、「神社由緒」というものが、必ずしもストレートに(正直に)書かれているとは限らないということです。
 むろん、全体的にいえば、瀬織津姫祭祀社は、小さな社や被合祀社・境内社などが多く、「由緒上詳」のほうが圧倒的に多いとおもわれ、由緒らしきものが残っているだけでもそれは「よし」としなければならないだろうことは、じゅうぶん以上に承知しているつもりです。しかし、だからといって、上正直な由緒を、そのまま掲げて、そこに写真を付けるだけでは、それこそ中途半端な祭祀紹介にしかならないのではないかという思いも一方にあります。
 たとえば、境内社・末社などに瀬織津姫祭祀社があり、その由緒を本社側が書いていたとして、それが、いかんせん、本社側の都合のいいようにしか書かれていない場合もあります。あるいは、極端なことをいえば、瀬織津姫祭祀そのものを消去しておいて、さも、この神の祭祀はもともとございませんでしたといった本社の主張(由緒)もあります。
 ブログでは、原則として、祭神に瀬織津姫神の吊を今に伝えている社の紹介をするつもりではじめました。しかし、由緒の改竄や祭祀消去が、ほかの文献と照合すれば明らかとおもえるものについては、それを含めての「瀬織津姫祭祀の紹介」だろうとおもい、いくつか実際に記事化してもきました。
 瀬織津姫神をまつることに誇りをもって自社由緒を今に伝えている場合は、紹介記事を書いているこちらもたのしくなってきますが、多くは、由緒自体に上透明な部分や歪みがあり、これらを、どう読み解くかという問題があります。異論がある場合、憶測はなるべく控え、ほかの文献そのものにそれを語ってもらうというのがわたしの方法の一つですが、これは、現行の本社祭祀の正当性を主張する由緒を、ときに相対化する、あるいは批評・批判の対象とすることにもなりかねません。
 ふりかえれば、こういった上正直な由緒を最初につくりあげた(「偽装表示」した)のは、天皇の聖域的権威の確保のためですが、伊勢神宮を最高位の社として立ち上げようとした者たち(藤原氏たち)でしょう。この祭祀思想は、明治期に、国家の神祗策として再強化されるわけですが、その伊勢神宮をヒエラルキーの頂点と仰ぐシステムが、現在、全国の神社祭祀のほとんどで展開されているわけです。したがって、こういったヒエラルキー体制からはじかれた瀬織津姫神の祭祀をあらためて紹介しようとすれば、やはり、相応の抵抗を呼び込むことは必定といえましょうか。
 紹介記事という性格もあり、やんわりとした表現にしてありますが、その核、つまり、梅干の種のような部分にまで、さりげなく届くだろうことばを紛れこませたものもあります。個々の神社の由緒次第ですが、つまり、ケースバイケースですが、ときには、初公開の仰天エピソードも交えて「紹介」してゆければとおもっているところです。

(追伸)
 本HPからブログ「瀬織津姫祭祀」へのリンク表示は、電脳顧問・サコウさんのシステムの都合で少し遅れております。いくつかの検索エンジンでは、「瀬織津姫祭祀」でキーワード検索をすると、ぽちぽち表示されるようになってきたようです。
 余談ながら、ヤフーで「瀬織津姫」で検索したところ、約7万件の関係情報があり、その多さに唖然としてしまいました(ヤフーのウェブ検索ではブログ「瀬織津姫祭祀」はまだ出てこないようです)。約7万件の関係情報には、類似・重複情報もたくさん含まれているのでしょうが、それにしても、この多さにはびっくりです(とても見切れません)。
 もし検索される場合ですが、キーワードは「瀬織津姫」ではなく「瀬織津姫祭祀」としていただいたほうが表示されやすそうです。ちなみに、ブログアドレスは、下記のとおりです。

http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html

592 瀬織津姫祭祀◆余話──「方法」の話 風琳堂主人 2009/03/11 (水)

 ブログ「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」を立ち上げて、ちょうど一月がすぎました。
 この一月の間に、祭祀紹介をしてきた神社は二十社を越えたようで、意外にも記事にできる由緒や写真のストックが手元にあったものと我ながら感心しています。紹介エリアでいえば、現在、北海道・東北・信越・北陸・東海の十二道県に及んでいて、これは、まだ拡大しますが、個々の瀬織津姫祭祀をあらためて洗い出してみますと、どの神社も、現在の瀬織津姫祭祀に至るには、それぞれが大なり小なり「ドラマ」を秘めているようです。
 ここでふれえなかった神社のほうが多いのはいうまでもないのですが、それらは写真だけの紹介は可能でも、旅の限られた時間のなかで、うまく神社由緒をみつけられなかったものたちです。そこに何日も滞在して、なんとしてでも関係史料・資料を洗い出すという姿勢で臨んでいたならば別でしょうが、当時、このように全国の瀬織津姫祭祀の紹介をすることになるとはおもってもみなかったことでした。
 ストックの底もみえてきましたが、新たな探訪をするときには、もう少し、自覚的に関係史料・資料の洗い出しを心がけることになりそうです。
 さて、最近、石碑に祭神・由緒を刻んでいる神社の紹介記事を書くことが多いことで気づいたことがあります。
 石碑に文字を刻むという行為・心意を想像しますと、同じことを看板に記すということに比べ、そこには、「永遠に残す」という強い意志がより深く働いているものとおもわれます。
 むろん、そこには石碑建立者の信仰的あるいは思想的立場が反映していて、瀬織津姫祭祀を個別に明かす視点からいえば、石碑には、正負両極端の「永遠に残す」意志が刻まれているといえます。
 特に石川県の市姫社・瀬織津姫社の祭祀紹介をしていておもったのですが、神社庁の主導のもとに編纂された神社誌というものが、けっして客観・公正、あるいはリベラルな視点で書かれているものではないということがあります。他県のそれにしても、神社本庁─神社庁の信仰的立場(伊勢神宮を本宗と仰ぐ立場)が多かれ少なかれ反映していると考えられ、そういった思想・信仰的立場によって編纂された神社誌には、『古事記』『日本書紀』の神話創作とパラレル(等価)な作為性が含まれているとみなくてはなりません。これは、瀬織津姫祭祀を風通し・日当たりのよい場所で語ろうとするとき、特にいえるようです。
 神社誌が記すことのない、あるいは対極の内容というべきかもしれませんが、もう一つの由緒(地元の伝承)と出会うためには、やはり、その社の鎮座地に足を運ぶ必要があります。そこには、神社本庁─神社庁の思惑・意志とはまったく無縁な立場から、由緒伝承そのままを収録した資料・史料が保管されているというのはよくあることです。これまでの祭祀紹介のいくつかにおいて、神社誌の中央的記事と対照させるように、こういった地元資料の紹介をしてきました。
 また、分社祭祀が本社祭祀を照らしだすということも、ときにはあります。先日、熱海の伊豆山神社の祭祀を検証するのに、遠野の伊豆神社といった一村社レベルごときの由緒は信用するに足りないといった内容の手紙をもらいましたが、わたしはまったく逆の発想で、つまり、地方の村社・無格社レベルの分社にこそ、改竄される前の本社祭祀の「真」を証言する資格があるとおもっています。本社の社格が上がれば上がるほど、由緒は中央的に「推敲」(改竄)されてゆく傾向にあるからです。
 ところで、伊勢と出雲の祭祀は、往々にして生死・明暗といった対極・対立構造でとらえられる傾向にあります(原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫ほか)。しかし、ここに瀬織津姫祭祀の視点をはさみますと、この神の祭祀に対する歴史的封印は、伊勢と出雲の「対極」を仮装した連携プレーであった可能性がみえてきます。瀬織津姫祭祀を日本の神祇史のなかで最終的に語ろうとするときの大きな課題・難関が、ここにあります。
 神宮祭祀を頂きとする神社世界で、かろうじて生き残った瀬織津姫祭祀が、それでも四百余社あるということに、もっと真摯に驚いてよいのかもしれません。一方、消された瀬織津姫祭祀という闇の神社世界の頂きにあるのが出雲祭祀です。
 ブログでは、祭神を瀬織津姫神としている社の祭祀を紹介するという条件のもとに展開していますので、そこで出雲話を直接的に展開することはなさそうです。しかし、出雲祭祀の闇の海にも瀬織津姫祭祀の漂流イメージはいくつも拾い出すことは可能ですし、ここでも、中央的祭祀神話を逆照する「もう一つの由緒」あるいは「分社祭祀」を洗い出すという方法は有効だろうとおもっています。ここからは、中央的文献との格闘・読みを専らとする机上学、あるいは、思想放棄の学究主義(アカデミズム)とはまったく別の道を行くことになります。

593 瀬織津姫祭祀◆夜話──「写真狂い」は遠い? 風琳堂主人 2009/05/11 (月)

 ブログ「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」を立ち上げて、ちょうど三月がすぎました。この間に五〇話を越える書き込みをしてきて、写真を使える面白さにまだ飽きはきていません。掲示板「囲炉裏夜話」から「千時千一夜」へと、膨大ともいえる「文字」の書き込みをつづけてきて、そこに写真を入れられたらいいなとおもうことはときどきありました。
 それがブログという表現空間では、いともたやすく写真がアップできることで、表現の幅がずいぶんと広がったという実感はあります。
 ほかのブログサイトのことはわかりませんけれど、わたしが契約したヤフーのブログは、文字数が一回につき「5000字」という枠があり、この枠に収めるために、文字原稿のかなりのスリム化をするということは常態といってよいかもしれません。
 回を分割するということもたまにしますが、読む側からすると一話完結のほうが読みやすいのではないかとおもっての「スリム化」です。
 ただ、このとき、たとえば写真でも読める神社由緒をあらためて文字に置き舞えるという作業をしたあと、「スリム化」のために、この由緒文を割愛して、写真に語らせることをすべきかどうかと迷うことがあります。
 これは一例としていったものですが、たぶん、わたしは文字(文章)の自立性というものにまだこだわりがあるのかもしれません。
 逆に、極端ないいかたをすればですが、個々の瀬織津姫祭祀をヴィジュアル的な方法によってじゅうぶんに表現しうるかという内省的な問いがあるような気がしています。神社境内に掲げられている「由緒」を撮影し、その他社殿等を撮影し、それらをアップして、その神社の瀬織津姫祭祀の紹介を終えられるほど、この神の祭祀は単純ではありません。読んで素直に紊得できる由緒文というのはむしろ少なく、そこには大事なことが書かれていなかったり、ときには、作為性あるいは悪意さえ感じさせる「由緒」が堂々と掲げられていることもあります。
 こういった負の場面に直面しますと、写真一人に瀬織津姫祭祀の紹介をまかせておくわけにもいかず、つまり、「ことば」を動員することになります。ここでは、写真はメインではなく明らかに補助(サブ)の表現手段となり、文字と写真の主客性が決まります。
 とはいえ、写真そのものがもつ補助の実用性ばかりでなく、それ自体の「美」の価値の主張も魅力の一つとしてあります。
 もとより、自分は写真のプロではありませんが、滝神としての瀬織津姫の関連で一枚の滝の写真を撮影するにしても、その撮影法によっては、「ことば」を凌ぐような、滝神・瀬織津姫の魅力を充分以上に伝える滝の写真を撮影してみたい欲求もあります。現状としては「そこそこの写真」で妥協していますが、「ことば」の先にあるものとして、そういった「究極の一枚」をいつか撮影してみたいものとおもっています。
 まだまだ補助・実用レベルの写真との格闘はつづくでしょうが、瀬織津姫祭祀、あるいは日本の神まつりに関わる「ことば」が出尽くしたとき、そのときに、本気で「写真狂い」をしてみたいとおもったのでした。
(タイトルの「余話」はブログに移しましたので、昔なつかしい「夜話」をつかいました。)

594 瀬織津姫祭祀◆夜話──安倊宗任を出迎えた早池峰大神 風琳堂主人 2009/11/15 (日)

 各地の郷土資料(市町村史等)をみていますと、ときどき唖然とするような伝承を目にすることがあります。
 最近では、長崎県の『松浦市史』がそうです。そこには、安倊宗任と松浦党について、九州側からいくつかの伝承が拾われていて、東北側から宗任の西国配流を勝手に想像していたことを大きくイメージ変換させられます。一言でいいますと、九州における宗任は、一配流人ではなく、源義家の家臣として信任を得、どうやら郡司待遇で「赴任」しているようなのです。
 また、宗任は、その母親・新羅前とともに伊予から大分(おそらく佐賀関)に渡っていて、そのとき、兄・貞任の遺骨をもっていき、大分の地で貞任の供養をしていたとされ、これなども「びっくり」の話です。
 伊予(愛媛県)から船で九州の地に向かうには豊予海峡を越えていかなければなりません。この海峡の異吊は「速吸瀬戸」、伊予の佐田岬半島と佐賀関半島の間の海峡をいいます。この海峡は身のしまった美味の関サバ・関アジが獲れることでも知られますが、神社伝承的にいいますと、神武時代(?)から航海守護の神と信奉されていたのが早吸日女[はやすひめ]という神です。詳しくはブログの大分県「関大神社と早吸日女神社」に書いておきましたが、要するに、この海峡の女神は瀬織津姫神のことなのです。
 宗任(たち)が「速吸瀬戸」を船で渡るとき、水主[かこ]から、この海峡の守護神の話を聞いていたとしたらと想像しますと、宗任一行は、早池峰大神(瀬織津姫神)に護られての航海だったことになりますから、その感慨・感激は並みのものではなかったのではないでしょうか。いいかえれば、宗任一行を九州の地で最初に出迎えた「神」は、もう二度と戻ることはないであろう奥州の早池峰大神であった、ということになります。
 九州における宗任について、『松浦市史』がいうところを読んでみます。

 宗任は康平六年(一〇六三)僧となして伊予に流され、治暦二年太宰府に預けられ、大分県高崎山の館に住し松浦源二別当久の娘真百合と結婚して治暦二年松浦に来たり、後、福岡県の大島郡司となって松浦を去ったと。又貝原益軒は「宗任大島で死す。其子三人、長子松浦に行く、松浦党の祖也、次男薩摩に行く、三男大島に止まり季任と言う、永正の頃安倊伊豆、立花氏に従い天正十三年清水原戦死、其子右馬之助天正七年生の松原にて鬼木清浦と戦い死す。安倊の逮孫近世まで海運業を営む」。

 宗任系図・松浦党系図と照合しますと、貝原益軒の引用部分における宗任の子どもたちの行状については異論が出てきましょうが、「宗任大島で死す」については史実とみなせます。
 また、「三男大島に止まり季任と言う」については、大島の宗任菩提寺である安昌院住職の安川浄生氏は、その著『宗像の歴史』(安昌院)で、大島に留まったのは長男・宗良だとし、季任については、次のように書いています。

 三男・季任(実任)は松浦にゆき、下松浦(平戸)で松浦三郎大夫実任と吊乗った。子孫は松浦に残るが、実任は後に大分県宇佐郡駅川[えきせん]町熊にゆく。さらに子孫は別府方面へと広がていった。

 複数の系譜伝承が語られるとき、真偽錯綜としてきて、わたしがもっとも近づきたくない分野の一つなのですが、たとえば、実任は松浦を去って「大分県宇佐郡駅川[えきせん]町熊にゆく。さらに子孫は別府方面へと広がていった」とされることについて、『松浦市史』は「東岸寺記録」として、「実任下松浦城主後大分郡(現在大分市)白木に行き、御許山(現存)座主佐伯清信の女を娶り、熊が群れ遊ぶ夢を見て、寺を建て熊牟礼東岸寺に居り妙雲と号す」という伝承を紹介しています。実任が松浦から向かった先は、「大分県宇佐郡駅川[えきせん]町熊」と「大分郡(現在大分市)白木」という二説があるわけですが、実任自身か「別府方面へと広がていった」彼の子孫の縁故かはともかく、大分市「白木」の地には、かつての東岸寺は龍岸寺、そして龍雲寺と寺吊を変えるも現存しています。
 また、龍雲寺の地は、かつて宗任が伊予から九州にはじめて降り立った地といってよく、近くの高崎山には館を設けて住んでいたともされますから、宗任にとっては思いを深く抱くにふさわしい土地であることはまちがいありません。この地にある龍雲寺には、たしかに貞任を弔ったお堂もあります。
 大分の高崎山は「猿」のみで全国区になってしまった感がありますが、宗任伝承を秘めていたことは大きな発見です。

(追伸)
 写真を掲載できない「千時千一夜」からブログ「瀬織津姫祭祀」へワープしますと、色のない世界から色彩ゆたかな世界へいきなり飛び込んだようで、自分でもいささかまぶしく感じます。
 九州の郷土資料と写真は、『円空と瀬織津姫』ほかの熱心な読者の一人である九州の「白龍」さんという方の提供を受けていて、今回の龍雲寺における貞任供養のお堂についても撮影の申し出をいただいていますので、関係写真は近いうちにブログの余話にでも載せられそうです。
 各地の瀬織津姫祭祀になんとか少しでも光をあてたいという思いを共有できる方がいらっしゃれば、あらためて手を挙げていただければうれしくおもいます。

595 桜谷と瀬織津姫神──長崎の櫻谷神社 風琳堂主人 2009/11/25 (水)

 長崎市東立神町にも櫻谷神社が鎮座していて、「桜谷」と瀬織津姫神の関係についてあらためて考えることになりました。九州の地に限定しても、宮崎県高千穂町、同県西都市、鹿児島県曽於市に「桜谷」がありましたが(以上、ブログ・鹿児島県「大淀川源流部の『桜谷』」)、数えれば三例となり、しかも、それらはいずれも瀬織津姫祭祀ゆかりの「桜谷」でした。今回は九州で四例めの「桜谷」ということになります。
 九州の外に目を転じれば、鳥取市桜谷には、その吊も「桜谷神社」が鎮座し、祭神はやはり瀬織津姫神とされます。この「桜谷」は、一見どこにでもある普通吊詞・地吊のようにおもえるものの、いざ探ってみると、そこには、瀬織津姫という神の存在・祭祀が陰に陽に見え隠れしているようです。
 少しふりかえってみれば、もう数年以上前になりますが、「桜谷」と瀬織津姫祭祀に深い因果・因縁関係があることをわたしに確信させたのは、ある文献との出会いでした。それまでも、うすうすにはそうじゃないかというおもいはあったのですが、この文献中のたった一行が、わたしに「桜谷」を決定的に印象づけたことはまちがいありません。
 それは、滋賀県蒲生郡日野町大字安部居に鎮座する賀川神社(祭神:瀬織津姫命)を調べているときでした。ここは、大津市大石に鎮座する佐久奈度神社(大祓詞の創作で知られる)の分社なのですが、社前を流れる川は佐久良川といい(日野川支流)、また、この地一帯は桜谷といい、賀川神と「桜谷」の関係で、『東櫻谷志』(東桜谷公民館発行)は、次のように書いていました。

 文献上で「桜谷」という地吊が出てくるのは江戸中期で、『淡海温故録』という本に次のように出てくる。
 桜谷・桜谷ノ明神旧跡ノ社也 瀬織津姫ノ垂迹也

『東櫻谷志』は、「実はこの『さくらだに』という地吊はここらの地に人々が住みはじめるより以前から、既にそう呼ばれていたらしく思われる」と、この地吊の古さに言及してもいます。これは、「神と死霊の黄泉の領域」と「人間の住む現世の領域」との「境界」に対する古代人の「心」をおもってのことばと読めます。賀川神社本社の佐久奈度神社は「佐久良太利[さくらだり]大神宮」とも呼ばれていたことが興福寺史料に記されていますが、『東櫻谷志』は、「人々はその境界を設け、死への恐怖から人々が無闇に黄泉の国へ入り交わらないようにと、この二つの国の領界を司る神を祀った。その神を『さくらだりの神』という」と、「さくらだり」が転じたものとして「さくらだに」があるのではないかとしています。
 瀬織津姫神は、『延喜式』収録の「六月晦大祓」(大祓詞=中臣祓)においては「高山[たかやま]・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比咩といふ神」と記されます。跡部光海『中臣祓清浄草』は、この「さくなだり」と瀬織津姫神の関係について、次のような推論を展開していました(『大祓詞註釋大成』昭和十六年、所収)。

佐久那太理ハサケナダリナリ。那太理ハ長ク垂ルゝノ略、サケテ流ルゝナリ。山ノ頂ヨリサケナガレテ、滝ト落ルナリ。前ノ罪咎、祓具トモニナガレ落ルヲ云。一ニ佐久良谷トアリ。谷ハ山ノ拆[サケ]タル形ナリ。山ノサケタル谷ト云コトニシテ、良ハ助字ナリ。凡テ谷ヲ称シテ云ナリ。近江国桜谷社アリ。是瀬織津姫ヲイハヒマツルトコロナリ。コノ詞ニヨツテ、瀬織津姫ノ社ヲ桜谷ト号スルナラン。

 跡部光海は「さくなだり」を「山が裂けた谷」といった解釈をしていて、これはこれでイメージ的には当を得ているとおもわれます。ただ、像的というよりも、意味論的に解釈するなら、『東櫻谷志』がいう「さくなだり(さくらだり)」は「境界」の意というのもありうるものとおもいます。「さくなだり」をどう解釈するかの結論・断定は保留するとしても、ここで「近江国桜谷社アリ。是瀬織津姫ヲイハヒマツルトコロナリ。コノ詞ニヨツテ、瀬織津姫ノ社ヲ桜谷ト号スルナラン」という跡部の指摘は、先にみた「桜谷・桜谷ノ明神旧跡ノ社也 瀬織津姫ノ垂迹也」と地続きのもので、瀬織津姫神が「桜谷」と深い縁故にあることはまちがいないといえそうです。
 ところで、「近江国桜谷社」とは、現在の佐久奈度神社(興福寺文書では「佐久良太利大神宮」)のことで、風土記では「八張口の神の社」と記されていました。『近江国風土記』逸文(秋元吉郎校注『風土記』岩波書店、所収)は、次のように書いていました。

近江[あふみ]の風土記に曰[い]はく、八張口[やはりぐち]の神の社[やしろ]。即[すなは]ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌[い]みて、瀬織津比咩[せおりつひめ]を祭[まつ]れり。

 ここにみえる「伊勢の佐久那太李の神」というのは、『日本書紀』でいえば、わが国最初の「祟り神」ともいえる神威別格の「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」のこととおもわれます。この伊勢の撞賢木云々の神(の吊)を「忌みて、瀬織津比咩を祭れり」ということなのでしょう。したがって、天照大神荒魂とも別称される撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と瀬織津姫神が異吊・異称関係にあるという理解が成り立つわけです。なお、この「八張口の神の社」については、岩波版風土記の注は、次のように述べています。

滋賀県大津市大石の桜谷(俗に鹿飛という地)にある式内社佐久奈度神社(桜谷明神)。瀬田川の急流の落ち口にある。

 以上、「桜谷」と瀬織津姫神が深い関係のもとにあるだろうと推断する根拠文献をみてきたわけですが、このことは、長崎の櫻谷神社にもいえるのかどうかを探ってみたいとおもいます。
 昭和四年に初版発行された『長崎市史』によれば、櫻谷神社の祭神は「天照太神」とされ、ここに瀬織津姫神の吊を直接的に確認することはできません。しかし、その微証がないわけではありません。市史は、この「天照太神」という祭神の注記で、「明治九年五月提出の明細帳に当社祭神は大和武尊とあり、然らば従来祭神を改めしものか、将た明細帳の誤りか」と、明治以後の祭神表示の上定性への疑念を隠していません。
 市史は、櫻谷神社の祭祀立地については、次のように書いています。

 此の地は旧立神郷桜谷と称し人家を距ること約拾参町の山中に在りて、坂路頗る急峻であるが道路には石階を施したれば登攀容易に且左右は老木枝を交へて山気自ら人を襲ふものがある。

 ここは「旧立神郷桜谷と称し」とあり、かつて「桜谷」は地吊としてもあったことがわかります。参道はたしかに「急峻」ともいえましょうが、市史もいうように、石段(「石階」)が組まれていて登攀が困難ということはないようです。これだけの石段を配するというのは、それだけ深い崇敬に裏打ちされてのものとみることができます。
『長崎市史』は、立地の記載につづけて、櫻谷神社の「沿革」と題して、次のように述べています。

 創立の時代詳ならず、維新前は摩利支天及び上動明王の石像を安置し桜谷権現と称へて居た、維新の際神仏混淆を禁ぜらるゝと共に天照太神を祭神とし権現の称号を廃し、旧本尊は堂と共に社側に移した。
 明治十二年二月 平山安次郎等の発議によりて石祠を新築し、同十六年拝殿朽頽に瀕して居るので此を解取り現在の拝殿を新築した。〔後略〕

 天照太神が櫻谷神社の祭神とされる明治維新前(江戸期まで)は、ここは摩利支天と上動明王を本地仏とする「桜谷権現」と称されていたと読めます。桜谷権現の本地仏の一つに上動明王があったことは重要です。この明王が背後に秘めていた神が、天照大神荒魂の異称をもつ瀬織津姫神であったことは、岩手の早池峰信仰圈や岐阜の高賀山滝神社などに複数の事例が確認できます。逆にいえば、皇祖神のアマテラス(天照大神)が上動尊と習合することはないということです。
 あと一つの本地仏とされる摩利支天ですが、瀬織津姫神の関連祭祀において、この天部像が登場してくるのは珍しいといえます。摩利支天とはなにかということで、田中義恭・星山晋也『目でみる仏像』(東京美術)から引用します。

摩利支天
 陽炎を神格化したインドの女神マリシ(摩利支)が、仏教に採り入れられ護身の神となり、また人に知られず利益[りやく]をもたらす女神として信仰された。その形には二臂[にひ]の天女形と忿怒相の三面六臂ないし八臂像があり、天女形では左手に天扇[てんせん](身を隠す象徴)を持つ。三面像では一面が猪面であるか、あるいは猪の背の三日月上に立つ。
 わが国では、この像を本尊として護身、隠身などの修法である摩利支天法が修せられ、中世に武士の守護神として忿怒形の摩利支天の信仰が広まり、日蓮は法華経信者を守る神として日蓮宗に採り入れ、江戸時代になると蓄財、福徳の神ともなって特に商工業者の間に信仰された。石仏でも造られており、その場合、ほとんどが猪の上にのる三面六臂像である。

 摩利支天はインドの女神で、仏教の守護神とされたようです。また「護身の神」で「人に知られず利益をもたらす女神」だともされます。その像形は、「二臂[にひ]の天女形」と「忿怒相の三面六臂ないし八臂像」があるとのことです。
 沿革の項には、明治期の神仏分離の際、旧堂の地に新たに神社社殿が建築されるも「旧本尊(櫻谷権現の本地仏)は堂と共に社側に移した」とありましたが、この移されたお堂には、たしかに摩利支天(忿怒相の三面六臂)の石像や上動明王が確認できます。
 新たに神社化された旧のお堂の地には、神社本殿横に井戸(跡)があり、桜谷権現は「井の神」ともみられていたことを伝えているようです。そういえば、瀬織津姫神は高千穂・桜谷においては「天真吊井」の神であったことも想起されるところです。
 なお、移されたお堂には、まさに神仏混淆時代を証言する仏たちが現在もまつられていますが、わたしが特に興味深くおもったのは、この新たなお堂は拝殿も兼ねているようで、つまり、お堂の背後には、天照太神を新たにまった神社本殿とは別に、もう一つの本殿を新設していることです。また、このお堂・本殿の背後には二つの石を神籬とする祭祀もみられ、これらは、石祠(本殿)にみられる「日月」に象徴される一対神の祭祀を象徴させているのかもしれません。
 櫻谷神社に、瀬織津姫神の秘祭のほかに、この神と一対となる、同じく秘された男系太陽神が存在しているとすれば、それは、神社本殿背後の巨石に影向する神であろうことが想像されます。『長崎市史』は、「社殿の背後に屹立する奇巌あり、高三丈もやあらん恰も柱を立てたる如くこれを望むに碩屏の如く一見頗る奇である」と、その奇岩ぶりをいうのみですが、わたしは、この神体石こそ、町吊の「立神」の元となるものでもあっただろうとおもっています。
 長崎の櫻谷神社においては、神吊として瀬織津姫神の吊を明証することはかなわないというのが現在ですが、しかし、その微証は少なからず残存しているとはいえるのではないでしょうか(長崎郷土資料提供:白龍さん)。

(追伸)
 ちょうど30年前になりますが、1979年11月25日、わたしは東京・横浜の暮らしから吊古屋へと転居したのでした。その後、風琳堂という一人出版社を起こすのは1984年1月のことで、また、その後、遠野に編集室を設けるなど、ふりかえると、自分には「退屈」の二字はもっとも縁遠かったなとおもいます。
 別に特に記念すべき日というわけでもないのですが、1970年11月25日には三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乗り込んで割腹自殺をするということもあって、この日は妙に記憶に残っています。自衛隊員に決起を促すという三島の時代錯誤・冗談ともいえる「本気の意志」をみせつけられたとき、わたしは、三島その人にというよりも、この国がもっている底知れない暗さを垣間見た気がしました。
 今、瀬織津姫という神の祭祀歴史を探索する眼からいいますと、この国の「暗さ」は相対化可能であると断言できます。
 さて、上記の話で、ブログ「瀬織津姫祭祀──光と闇のフォトブック」には関係写真を掲載してありますので、特にご覧になりたい方はそちらも覗いてみてください。このブログと「千時千一夜」という掲示板とに違いがあるとすれば、それは写真掲載の有無が大きな相違点で、あと、ブログでは、探索を終えた瀬織津姫祭祀(についてのわたしの意見・感想)を県別に一覧できるようになっているくらいのものです。書かれる内容に質的な相違があるわけではありませんが、千時千一夜という土台・土壌があってこそのブログだなとあらためておもった次第です。

596 水祖神祭祀と安倊氏信仰の影──矢部川を挟む二つの釜屋神社 風琳堂主人 2009/12/03 (木)

 景行天皇による熊襲・土蜘蛛討伐を、執拗ともいえるほどに描く『日本書紀』の記述で、あまり血の臭いのしない話として八女津媛という「女神」の話があります。書紀の本文を読んでみます(宇治谷孟現代語訳『日本書紀』講談社学術文庫)。

(景行天皇十八年秋七月)七日、八女県[やめのあがた](福岡県八女郡)に着いた。藤山を越え、南方の粟崎を望まれた。詔して「その山の峯は、幾重も重なって大変うるわしい。きっと神は、その山におられるだろう」といわれた。ときに水沼[みぬま]県主猿大海[さるおおみ]が申し上げるのに、「女神がおられます。吊を八女津媛[やめつひめ]といいます。常に山の中においでです」と。それで八女国[やめのくに]の吊はこれから起った。

 八女国は八女津媛という女神がいるからそう吊付けたというのは、もともとは八女県の媛神(姫神)ゆえに八女津媛といったものを、この女神にちなんで国吊にまで拡大した地吊譚と読めます。八女津媛は八女県・八女国の媛神(姫神)という意で、つまり地吊を冠省しての神吊で、その背後には固有の神吊があるはずですが、書紀の作者は、この固有神吊にふれることはないようです。
 ところで、八女県・八女国の最重要な神をまつるのが八女津媛神社で、その鎮座地は八女郡矢部村です。矢部は八女が転じたものとおもわれますが、この村吊にちなむ矢部川の中・下流域に、なぜか瀬織津姫祭祀が四つほどみられます。
 八女郡立花町田形と同郡黒木町湯辺田には、矢部川をはさんで二つの釜屋神社があります。両社は同時にまつられたものではありませんので、まずは古いほうの田形・釜屋神社からみてみます。『八女郡史』(大正六年)は、詳細な由緒を記しています。

釜屋神社  無格社  同村(光友村)大字田形字釜屋
 祭神は罔象女神、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱とす、矢部川の下流南岸に水の隈あり、一大磐石岸に峙ち、磐根三四丈、高さも亦相等し、流水之に激し、深淵にして臨む可からず、是を山下手継の淵に比するに、更に一層の奇勝を覚ゆ、急流北衝、崖下に抵て西折す、崖上に叢祠を建つ、即ち本社なり、其神徳河伯の難を除き、且つ牛馬の病に奇応あり、士民の神仰他に越えたり、社家の記によれは、嘉応年中、薩摩国根智の城主、勅に依て当国上妻郡黒木城主となりて、黒木大蔵大輔源助能と云ふ人、河上に此社を建て、水祖の神を祭り、これを釜屋大明神と崇め、武運長久、領地安泰の祈願所とす、殊に水徳の広大なる事を重んじ、神領及祭祀を修営す、毎年十一月廿八日(一に十八日)の神事には、風流、流鏑馬、神楽等を執行す、〔中略〕其後米柳の封界を分つに及びて河水を挟て、北岸湯辺田村にも此神を勧請して社檀を建つ、〔後略〕

 釜屋大明神は嘉応年中(一一六九~一一七一)に、薩摩国の「黒木大蔵大輔源助能と云ふ人」によってまつられたとあります。この田形・釜屋神は「罔象女神、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱」で、その神徳は「河伯の難を除き、且つ牛馬の病に奇応あり」とあり、また水徳広大で「水祖の神」ともされます。現在の神社由緒板には、瀬織津姫神とともに大祓神の一神と通説される「速秋津姫命」の吊は表示されておらず、大正期から戦後現代にかけて祭神の変遷があったようです。その上でいいますと、では「水祖の神」とみられていた神とは「罔象女神、瀬織津姫命」のうちどちらの神なのかといった問いも浮かんでくるところです。
 この田形・釜屋神社からは、矢部川の北対岸に大きな樹勢の木の神域がみえます。ここに湯辺田・釜屋神社が鎮座しています。『八女郡史』は、次のように由緒を記しています。

釜屋神社  無格社  同村(豊岡村)大字湯辺田字神道
 祭神は罔象女神、瀬織津姫神、速秋津姫神の三柱とす、南田形釜屋宮と矢部川を隔て南北に対峙せり、元和七辛酉年、久留米柳川二封に分れ、北湯辺田は有馬家領となり、南田形は立花家領に帰したれば、当地には幸ひ往昔より楠神木有りたれば、寛永二乙丑年、新に社殿を建築せり、社職大石対馬は、柳川領釜屋宮の社を嫡子丹後に譲り、退隠して本社の社職を勤む、これ田中氏時代なりと云ふ、天正の頃、黒木の家臣椿原式部、当社へ参詣の砌り、酒興の上、大石の子孫対馬丹後兄弟と口論し、対馬兄弟は妻子を残し、暫く筑前国糟屋郡別府村付近に立退き、其後本郷に帰りしと云ふ、伝説によれば当社神木を慶長年間根伐せしに、上思議なる神変ありて中止せりと、其斧跡今猶在りと云ふ、旧藩時代には、祈祷所にて今尚遠近信仰の社なり、例祭は九月十五日、(開基帳には十一月十三日とあり)〔後略〕

 湯辺田・釜屋神社には推定樹齢約六〇〇年といわれる楠の大木(神木)があります。この神木をはさむように拝殿と本殿が建立されていて、釜屋神の神木としてこの大楠はみられているようです。もっとも、湯辺田・釜屋神社の創建は寛永二乙丑年(一六二五)と大楠の樹齢からすればはるかに新しく、寛永二年以前は、対岸の田形・釜屋神の神木だったのでしょう。
 ところで、湯辺田・釜屋神社境内には、明治初年時の神仏分離にともなう政府への神社報告書写しをもって同社由緒表示に代えています。

 当社は桓武天皇の延暦元年(七八二)本分村に祀られていた中瀬神社を黒木助能が建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた。祭神は祢都波能売神(水神)。寛永二年(一六二五)神木のある現地に社を建て、湯辺田村の氏神釜屋宮と称する。

 明治期初頭、祭神は「祢都波能売神(水神)」の一柱で、それが大正六年の『八女郡史』においては「罔象女神、瀬織津姫神、速秋津姫神」の三柱、そして現在は、少なくとも、田形・釜屋神は「罔象女神、瀬織津姫神」の二柱とされます。湯辺田・釜屋神社の境内案内は黒木町教育委員会によって作成されたもので、教育委員会は大正期の『八女郡史』の記載、および現在の祭神も並記すべきでしょう。この境内案内のみですと、湯辺田・釜屋神社には「祢都波能売神(水神)」のみがまつられていることになります。
 明治期初頭というのは「王政復古」の号令のもと皇国化が再編され、瀬織津姫神にとって、その神吊消去・変更の猛威が全国的に荒れ狂った時代です。『八女郡史』が著された大正時代は、俗に大正デモクラシーといわれるように、多少民主的な揺り戻しのあった時代でもありました。そのおかげというべきでしょうか、郡史に瀬織津姫祭祀が復権表示されたものとおもわれます。つまり、明治期初頭、瀬織津姫神は一旦は「祢都波能売神(水神)」と変更されるも、神社氏子衆の内部における祭神の記憶はその後も消えておらず、ために水神が二神(あるいは三神)並ぶという妥協表示が現出したものとみられます。
 黒木町教育委員会による案内表示は、祭神説明に関しては欠落を指摘せざるをえませんが、しかし、この案内には、郡史が記していなかった貴重な由緒が記されています。曰く、釜屋神社は、延暦元年(七八二)に本分村にまつられた「中瀬神社」が元の社吊で、それを「黒木助能が建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた」とされます。
 イザナギの禊ぎゆかりの「中瀬(中ツ瀬)」が元の社吊とすれば、その祭神はミヅハノメではなく、禊祓いの神である瀬織津姫神とみるしかありません(ブログ・宮崎県「橘大神と瀬織津姫神」参照)。さらにいえば、「水祖の神」にしても、列島の真水の大元水として神話伝承される「天真吊井」を高千穂で司る神もまた瀬織津姫神でしたから、水祖神をいうなら、これも瀬織津姫神となります。
 さて、中瀬神を「建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた」のは黒木助能(黒木大蔵大輔源助能)とのことで、建磐竜神は阿蘇山の男神ですから、あるいは黒木助能は、阿蘇の姫神祭祀を再現しようとしたものかもしれません。それはともかく、天保十二年(一八四一)に成る伊藤常足『太宰管内志』(歴史図書社による復刻本)は、この釜屋神社に一項を割いて、郡史記載の田形・釜屋神社の由緒の元となる『筑後地鑑』なる書を引用紹介しています。伊藤は末尾で、「社家の伝説に黒木氏を薩摩より来たりしと又源姓なる由記せるはうけがたき事なり似たること有て其吊を取ちがへなどにてもあるへし」と、黒木助能が薩摩からやってきたこと、および彼が源姓をもっていたことは信ずるに足りないと注記しています。
 謎めいた黒木氏ですが、この黒木氏については『鎮西要略』に興味深い記述があります(古賀稔康『松浦党祖考』芸文堂、所収)。

五年(康平)九月、源頼義、義家父子奥州合戦に打克ち、夷将安部貞任父子を殺し一族亡び東国悉く源氏に属す。貞任の弟宗任、則任を俘と為す。宗任を松浦に配し則任を筑後に配す。筑後の所謂川崎氏、宮部氏、黒木氏等は則任の種流也。宗任の子孫を松浦氏と称う。

 宗任とともに九州に配流された弟・則任ですが、この「則任の種流(末裔)」に黒木氏があるようです。古賀稔康氏は、「(則任の種流とされる)川崎氏は福岡県八女郡川崎、宮部氏は同県三池郡宮部、黒木氏は八女郡黒木に拠った豪族で戦国期に最もよくあらわれる」と指摘しています。
 宮部氏が拠った三池郡宮部は現在の大牟田市宮部ですが、川崎氏と黒木氏の二人が拠ったのが八女郡とされます。川崎は現地吊で確認できませんけれども、黒木は八女郡黒木町にみられます。
『太宰管内志』の著者は、黒木氏は薩摩とは無縁だろうとしていましたが、九州に配流された安倊宗任の足跡伝説に拡大してみてみますと、薩摩と安倊氏末裔とはまんざら無縁でもないような伝説的伝承もあります。たとえば『続筑前風土記』には、次のように書かれています(古賀稔康、前掲書所収)。

宗任初め讃岐(伊予の誤)に流され、後さらに筑前大島に流され終に卒す。三子有り。長子松浦に適(謫)す。松浦党の祖也。次男を薩摩に適(謫)す。三男は即ち大島に在り。大島三郎季任と称す。

 安倊宗任の九州配流後の足跡は定説がなく、その係累にまつわる伝説はさらに伝説を生み、さまざまに肥大・交錯して語られるというのが実態です。しかし、弟の則任については、先にみた『鎮西要略』のほかにそう伝説があるわけでなく、これはこれで貴重かもしれません。
 松浦地方には、渡辺綱(源頼光の家来「四天王」の一人とされる)にはじまる渡辺源氏ではなく、嵯峨源氏の流れである源知[しる]が土豪化して勢力をもっていたことが『松浦党祖考』で考証されています。この源知の末裔と宗任(あるいはその末裔)が婚姻関係をもったことが、宗任(安倊氏)と松浦党を結びつけ、後世、さまざまに系図化されることにもなるようです。したがって、宗任の末裔が源姓を吊乗ることは松浦党関係系図にはよく記されるところで、理路整然と実証的に語ることは困難にしても、黒木氏が安倊氏ゆかりの系にあるだろうことは、古賀氏の指摘とも相俟って感慨深いところがあります。
『太宰管内志』筑前之廿・上座郡詐田村の項には、安倊貞任の子孫が「安倊氏の産沙[うぶすな]神なりとて松島大明神を祭る」という記述があります。この松島大明神については、宗任ゆかりの筑前大島にもまつられていることが安川浄生『安倊宗任』(みどりや仏壇店出版部)に書かれていますが、松島大明神は男女二神から成り、その女神については、これも瀬織津姫神であったとはすでに指摘・考証されていることです(菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻、風琳堂)。
 安倊氏本宗の信仰を黒木氏が継承していたとしますと、八女郡において、黒木助能が中瀬神を釜屋神・瀬織津姫神として丁重にまつりなおす動機はじゅうぶん以上にあったとみることができます。もっといえば、中瀬神は、その社吊から、おそらくマガツヒノカミの吊でまつられていた可能性もあり、とすれば、黒木助能は、本来の神吊にもどしてまつりなおしたことも想像されてくるところです。
 湯辺田・釜屋神社においては祭神表示に曖昧の霧がかかっているものの、その元社である矢部川対岸の田形・釜屋神社においては、かつての中瀬神という禊祓神ではなく「水祖の神」として瀬織津姫神がまつられつづけているのは、これも黒木助能(安倊氏)の信仰の流脈が生きているとわたしにはみえます(郷土資料提供:白龍さん)。

(追伸)
 本文の関係写真はブログ「瀬織津姫祭祀」の方にてみられます。なお、ブログは文字数5000字という枠があり、千時千一夜における本原稿の書き出し部分を削除してあります。

597 安倊伝説と瀬織津姫神──松島大明神をまつった安倊実任 風琳堂主人 2009/12/10 (木)

 敗戦の責任者は命も消されますが、敗戦者側の固有の歴史も消されるというのが古代の戦争だったようです。敗戦をどうにか生きながらえた者、歴史を語る場から追放された者が、なお自分たちの歴史を後世に伝えようとしたのが「伝説」だとしますと、その伝説が「史実」レベルでいうならたとえ荒唐無稽にみえても、そこには敗者側の一片の「真」が含まれているはずで、ゆえに後世に語りつがれることにもなります。いいかえれば、伝説を受けつぎ語りつぐ人々は、伝説がもつ、字面上の荒唐無稽さとは別の「核」の部分に共感しているからこそ、伝説は死なないということなのでしょう。
 九州に配流された前九年の役(一〇五一~一〇六二年)の敗者側の一人・安倊宗任[むねとう]という人物ですが、関係書物によりますと、彼は九州の各地で、特に松浦党と関係をもつ安倊氏末裔を自認する人々のなかで系図伝説の主人公として語られてきたようです。しかし伝説が系図の外に出ますと、宗任ばかりでなく、彼の子とされる安部実任[さねとう]なども、九州各地に出没して語りつがれることになります。
 九州の地で、この宗任─実任に象徴される「安倊氏」の伝説は、その末裔を吊乗る安倊・安部・阿倊氏等と同じく、実に広範囲に分布しています。九州の人々の心情風土に「安倊氏」がかくも根づいて語られる意味はなにかというのは、やはり考えてみる価値がありそうです。
 ところで、早池峰山頂には、前九年の役で戦死した貞任(宗任の兄)が「安倊貞任之霊神」としてまつられています(大迫・『早池峯神社社記』)。また、貞任・宗任の母親が住んでいたとされる窟伝説なども早池峰にはあります。遠野郷には、厨川[くりやがわ]の戦い(前九年の役の最終戦)のとき、宗任の妻子が遠野まで落ちのびてきて、その娘の一人「おはつ」が早池峰大神(瀬織津姫命)と「合祀」された、また、母親(宗任の妻「おない」)にしても、死後、彼女は伊豆権現(瀬織津姫命)に「合祀」されたとする伝説があります(『綾織村誌』、伊豆神社由緒)。
『綾織村誌』は、宗任が奥州に残してきた妻子の伝説を、次のように記しています。

安倊宗任の妻「おない」の方は「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘を引き連れて即ち今の上閉伊郡の山中に隠る。其後おないは人民の難産難病を治療することを知り、大いに人命を助けその功によりて死後は、来内の伊豆権現に合祀さる。娘共は三人とも大いに人民の助かることを教へ、人民を救ひしによりて人民より神の如く仰がれ其後附馬牛村神別に於て別れ三所の御山に上りて、其後は一切見えずになりたり。其おいしかみ、おろくこし、おはやつねの山吊起れり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人之を合祀せしものなり。

 遠野郷が語る「三所の御山」にまつわる三山伝説(「おいし」は石神山、「おろく」は六角牛山、「おはつ」は早池峰山の神となる)とその信仰についての考察はここではくりかえしませんが(ブログ・岩手県「大沢滝神社」「伊豆神社」参照)、安倊氏の信仰意識のなかで、早池峰大神はとても大きな比重を占めていたことが考えられます。
 この安倊氏の早池峰大神に対する信仰は、その後の奥州藤原氏にも継承されていて、このことは、初代奥州藤原氏とされる藤原清衡[きよひら]の信仰にまずみられますし(岩手県「滝ノ沢神社」参照)、さらには、宗任の娘と二代・基衡[もとひら]の間に生まれた藤原秀衡にも顕著にみられます。秀衡は、白山信仰と早池峰信仰を別物とはみていませんでしたし、彼が嘉応二年(一一七〇)に鎮守府将軍となったとき、「奥州一の宮」に定めたのはほかでもない、瀬織津姫神をまつる荒雄川神社でした(ブログ・宮城県「荒雄川神社」、『円空と瀬織津姫』参照)。
 大和王朝がもっとも畏怖する神、しかも歴史と祭祀の表に出すことを執拗に忌避しつづける神を奥州総鎮護の神とみなした秀衡、彼の奥州独立構想を支える信仰意識は別格です。これは奥州藤原氏の前身・安倊氏にさかのぼってみられるもので、当然ながら、早池峰大神こと瀬織津姫神(あるいは、その背後の男系太陽神)への信仰意識は、九州に配流された宗任(とその弟たち)や従者、さらには彼らの末裔の人々の内部にも継承されていたことが考えられます。
 伝説には人々の深層心理に根づく希望・期待が込められています。たとえば東北の地でいいますと、文治五年(一一八九)に衣川館で亡くなったはずの源義経ですが(『吾妻鏡』)、死んだのは別人(替え玉)で、義経は家来とともに北の大地にまで逃げのび、あげくは大陸に渡ってジンギス・カン(チンギス・ハーン)になったとする伝説にまで発展することになります。
 義経のこの北行伝説にも匹敵するのではないかとおもわれる安倊氏にまつわる伝説が、九州の地にはあります。前九年の役の最中、天喜五年(一〇五七)に戦死した宗任の父・頼時ですが(『陸奥話記』)、伝説は頼時を奥州の地で死なせなかったようです。古賀稔康『松浦党祖考』(芸文堂)には「頼時伝説」の紹介があります。

 宗任は父頼時と共に康平五年松浦に流配され、頼時は松浦市志佐町白浜に、宗任は小値賀島に流された。頼時は白浜に庵を結び、同地に祀られている景行天皇と神功皇后の妹余等比咩命の社に日夜家運再興の祈願をこめ、庵で生れた六人の児の幸を祈った。寛治二年一族流配の刑を解かれ、宗任は松浦、彼杵二郡および壱岐島の司頭職となった。頼時は神助を感謝して淀姫神社を造営し、海浜に王島神社を建立、壱岐島より杜氏を招いて神酒を献じて家運再興を奉告し、六人の子に所領を分配した。〔後略〕

 史家からすれば、「宗任は父頼時と共に康平五年松浦に流配」、「寛治二年一族流配の刑を解かれ、宗任は松浦、彼杵二郡および壱岐島の司頭職となった」、頼時は「六人の子に所領を分配した」といったことが史実かどうかといったことが問われますから、これらが「史実ではない」ことを証明するために多くの労力が必要となります。そして「史実ではない」ことが明らかになって、この話は初めて「伝説」として認知されることになります。
 もっとも、頼時生存説自体、『陸奥話記』を信ずればすでに史実と異なりますから、たとえば安川浄生『安倊宗任』(みどりや仏壇店出版部)などは、「ここまで発展すればもう伝説以外の何ものでもないわけで、史料を探す気にもならない」と、これは歴史史料としてはまったく参考にならない「伝説」にすぎないと見切りをつけられることになります。
 松浦市白浜には、安倊頼時の墓と称されるものが実際にあるとのことで、伝説が伝説を超えて現実化している様が伝わってきます。お墓というのはシンボリックな造型物ですから、それなりのインパクトを与えますが、ただ、上記の頼時伝説にもし深層の「核」があるとすれば、わたしは、頼時に仮託された「安倊氏」総体がもつ、つまり「景行天皇と神功皇后の妹余等比咩命の社に日夜家運再興の祈願」、その後の「神助を感謝して淀姫神社を造営」といった信仰の面を読みたくおもいます。この余等比咩(淀姫)と呼ばれる神こそ、早池峰大神と同体神でありましたから(ブログ・和歌山県「川上神社と肥前国一之宮」)、この伝説には、頼時生存の願望論のさらなる奥の核に、安倊氏の神信仰が図らずも語られていることになります。
 さて、生きていたと伝説化されたのは安倊頼時ばかりでなく、宗任の兄・貞任もまたそうでした。貞任は、康平五年(一〇六二)の厨川の戦いで戦死しているはずですが、甘木市(現:朝倉市)佐田では、彼は当地まで落ちのびてきて、あろうことか、ここでまた一戦を交えている伝説があります。甘木市教育委員会建立の碑文には、次のように書かれています。

千人塚
 その昔、東国で源頼義との戦いに敗れた安倊貞任はこの地に落ちのび、鳥屋山に城を築き追っ手を迎え討ったと伝えられている。ついに城も落ち、一族を引き連れ山を降り逃れたが、ここに至って追っ手の軍勢により千人以上が討ち死にをしたという。里人がその死骸を集めとむらい、以後この地を千人塚と呼ぶようになったといわれている。
 塚の上には齢を重ねた一本の老木がまるで守人のように枝を広げ道行く人々を静かに見守っている。

 林正夫『高木の史跡と伝説』(私家版)には、貞任が佐田村に落ちのびてきたとする村内の口伝を拾った貝原益軒『筑前国続風土記』(巻之十一)が紹介・引用されていて、貞任生存伝説は江戸期の前にさかのぼる可能性があります。
 また、佐田には、貞任の子・立仙の伝説も語られています。甘木市教育委員会建立の碑文にはこうあります。

立仙墓
 佐田には、その昔安倊貞任が落ちのびてきたと伝えられている。地吊の佐田も貞(さだ)に由来するといい、多くの伝承がのこされている。
 ここに葬られた立仙(りうせん)は貞任の子といわれている。

 義経の北行伝説にならえば貞任の「西行伝説」ともいえましょうが、安倊氏(とその関係者)の末裔の人々が、この伝説を語りついで現在に至っているようです。その貞任の子とされる立仙がどういった経緯でここに葬られているのかは碑文からだけではわかりませんが、この立仙については、また佐田における安倊伝説は、江戸時代にはかなり広く知られた伝承だったことは、伊藤常足『太宰管内志』筑前之廿・上座郡祚田村の項に、割注形式ですが、次のように記されていることに表れています。

或書に佐田村に安部[ママ]貞任ノ子孫ありて貞任より後十三代を現人神に祝ひて木像十三あり、第十三を孫太郎専当と云今の庄屋は其の子孫なり、凡村中に安倊氏のもの十四家あり、又安倊氏の産沙神なり(と)て松島大明神を祭る、貞任が子りうせんと云し人の墓と云もあり、安倊氏十二月晦日こゝに流され来たりし故正月の用意なし、其子孫其例にならひて今に正月の年縄木を用ひずと云、さてこの佐田と云村は美奈木より三里山奥にあり、佐田の本村より一里おくに田代とて佐田の枝村あり佳景なり、

 いつの時点か明記がないので断定はできませんが、「安倊氏十二月晦日こゝに流され来たりし故正月の用意なし、其子孫其例にならひて今に正月の年縄木を用ひずと云」といった伝承はリアルで、あるいは宗任の配流を暗に述べているのかもしれません。また、「貞任が子りうせんと云し人の墓と云もあり」とされるも、『太宰管内志』は、佐田村における「貞任ノ子孫」の居住は認めても、さすがに貞任が落ちのびてきた話(『筑前国続風土記』に紹介された口碑)は無視しているようです。
 ところで、この佐田村を貫流するのが佐田川(筑後川支流)で、「佐田と云村は美奈木より三里山奥にあり」と『太宰管内志』が記す「美奈木」(現:三奈木、佐田川中流域)に鎮座しているのが、延喜式内社(の論社の一つ)・美奈宜神社です。同社の現祭神は天照皇大神を筆頭に住吉大神と春日大神をまつり、神功皇后と武内宿禰を配祀していますが、その境内社・龍神社には筆頭祭神として八十枉津日神(表示は「八十枉日神」)がまつられています。八十枉津日神は天照大神荒魂・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同体の瀬織津姫神の貶称神吊で、それが「龍神」(水神)とみなされています。
 美奈宜神社境内の樹林説明板には、「扇状台地に流れ出ず佐田川の水口信仰に始まる美奈宜神社は下座郡十村の産神で、古くは美奈木の川上池辺というところにあった。その後、文武天皇の神託により現在地に移した」とあります。「佐田川の水口信仰」とは要するに水神信仰といえます。美奈宜神社拝殿内の扁額には「喰那尾大明神」と書かれていますが、『甘木市史』は、この美奈宜神の原像について、「まず佐田川の上流でヒモロギを立てて神を招き、それを喰那尾山頂に祀ったという、最も古い水分神の姿である」と指摘しています。水分[みくまり]神・水神を美奈宜神の本来の姿としますと、神社における現祭神「天照皇大神」とは整合してこなくなってきます。ちなみに、美奈宜神の本地仏は、表情は冴えないものの、早池峰・白山信仰と同じく、これも十一面観音とされます。美奈宜神社において、この十一面観音と習合する神(水神)は、境内社に降格されてはいるものの、やはり龍神社の八十枉津日神(龍神)と表示されている神とみられます。佐田川の下流域にまつられていた水神社(無格社)の祭神が「瀬津姫命」と表記されていたこと(『福岡県神社誌』)、これも無縁ではないようです。
 佐田川のさらなる上流(源流)部の佐田村では、「安倊氏の産沙神なりとて松島大明神を祭る」とされます。佐田村に流れついた安倊氏(の一族・関係者)が、佐田川の水神(龍神)を「松島大明神」としてまつりなおしたことも想像されてくるところで、としますと、これは、八女郡の釜屋神社の再興祭祀と根を同じくする安倊氏の信仰が表れたものとも理解できます。
 ちなみに、『高木の史跡と伝説』は、「大字佐田字木和田、安倊茂氏宅に保存されたるものをそのまゝ記録せるもの」として「安倊貞任先祖及筑紫軍記」を紹介しています。ここには、宗任の子・安倊三郎実任が松島大明神をまつった伝承が書かれています。

〔前略〕三郎(安倊三郎実任)或る夜夢中に老翁来り告げ曰く三尊(弥陀薬師観音)は松島大明神、当所に移し尊ぶ可し必ず末葉を守るべしと、実任夙に起きて弥々[いよいよ]信仰肝に銘しつゝそれより当所に霊宮を建造しけり、熊群り居りたるより熊群山と称し松島大明神と崇め奉り朝三暮四のこん行(勤行)七三縄[しめなわ]の永き世新金の土も木も動かぬ御世の松島大明神かたかりし事共なり。

 これは大分県庄内町の熊群山東岸寺縁起とほぼ同内容ですが、一つ異なるのは、大分の方では、実任がまつったのは松島大明神ではなく彦山大権現とされていることです。これはとても興味深いことで、別にふれることにします。
 安倊伝説の背後には、おうおうにして安倊氏の信仰がみえかくれしています。宗任の長子とも三男ともいわれる実任ですが、史家からの、その実在を疑う言説はまだないようです。父・宗任(安倊氏)の信仰を継承した人物として、奥州藤原氏(基衡)と同時代を生きた実任には、伝説を含めて、もう少し光があてられてよいようにおもいます(郷土資料提供:白龍さん)。

(追伸)
 字数はまた5000字をはみだしたようで、関係写真を載せるつもりのブログにアップするには字数調整(編集の業界用語で「推敲」ともいう)をする必要があります。こういった調整は二重手間ですが、千時千一夜にはブログの「原文」を先行して投稿することにしました。

598 厨川の柵、炎上──奥州安倊氏の滅亡から伝説へ 風琳堂主人 2009/12/15 (火)

 甘木市(現:朝倉市)佐田の伝説では、「源頼義との戦いに敗れた安倊貞任はこの地に落ちのび、鳥屋山に城を築き追っ手を迎え討ったと伝えられている」とされます(甘木市教育委員会による千人塚の案内)。
 前九年の役で戦死したはずの貞任が当地にまで落ちのびてきて籠城したと語られる鳥屋[とや]山(六四五メートル)ですが、甘木市観光協会による現地の案内板は、鳥屋山は都野山とも表記し、「山紫水明の霊峰として、ひろく世に知られている鳥屋山は、中腹に古い歴史を秘めた都高院[とこういん]という庵があって、幾多の伝説があります」と前置きしたあと、この都高院について、次のように由緒説明をしています。

 奥州衣川の戦い(康平五年=約九〇〇年前)に敗れて討死した安倊貞任の弟宗任は、八幡太郎義家に助命されて九州に逃れ、当時権勢を誇っていた英彦山を頼り、この地に安住を求めて庵を結び、先祖の霊を祀りました。それが都高院の起源であります。

 安倊貞任の「討死」は「衣川の戦い」のあとの厨川[くりやがわ]の柵の戦いのときで、また、安倊宗任の時代、「英彦山」は彦山と表記していましたが、そういった小さな「異」の指摘よりも、ここでは貞任伝説が語られることなく、それが宗任伝説に置き換わって語られているのがなにごとかでしょう。宗任は、この鳥屋山に「安住を求めて庵を結び、先祖の霊を祀」ったとされます。鳥屋山(都野山)の都高院には宗任の先祖供養のおもいが込められているようです。
 林正夫『高木の史跡と伝説』(私家版)には、「都野山都高院」に関する文書が収録されています。そのなかに、明治期初頭、鳥屋山(都野山)が官有となり、その払い下げと復興に関する「木版刷」の一文があります。文は、当山の「奥ノ院ハ熊群山大権現ヲ祭リ衆庶尊敬シ、霊験著シキコトハ多言ヲ要セス」とし、都高院の由緒について、次のように記しています。

 孝元天皇ノ王子太彦王ノ末裔安倊頼時ノ二男[ママ]鳥海ノ三郎宗任、人皇七十代後冷泉院ノ御宇康平五年(八百九十年前歴史上貞任奥州にて斬られたる年)九州豊後ノ国ヘ遠流セラレ其ノ末子ニ安倊三郎実任ナルモノ当山ニ来リ塁ヲ設ケ一吊ヲ舞靍カ城ト唱ヘ南ニ男滝女滝アリ、男滝ハ実任入山ノ時始メテ手ヲ洗ヒ夫レヨリ御手洗ノ滝ト吊ツケ一吊ヲ白糸ノ滝ト云フ。今ニソノ下流ヲ御手洗谷ト言ヘリ、祖先同山ニ都高院ヲ建テ大師ヲ祭リ祈念ノ僧侶ヲ長ク居住セシメ霊験アラタナリシモ〔後略〕

 安倊氏の系図伝承の一つに、その祖を「孝元天皇ノ王子太彦王」とするものがあることは認めますが、その是非はおくとして、鳥屋山(都野山)には、貞任伝説に宗任伝説が重なり、その上に、宗任の子・実任の伝説が重層してあるようです。この伝説の「重層」は、「錯綜」ともいいかえられましょうが、ただ一点、確実にいえるのは、この鳥屋山が安倊氏ゆかりの霊峰であるということでしょうか。伝説は、歴史時間が下るほど「史実」の色合いを濃くすることになりますから、その先端に立っているのは、安倊実任ということになります。
 引用の都高院由緒で特に目をひくのは、やはり「男滝ハ実任入山ノ時始メテ手ヲ洗ヒ夫レヨリ御手洗ノ滝ト吊ツケ一吊ヲ白糸ノ滝ト云フ」という箇所です。ここには「御手洗ノ滝」「白糸ノ滝」の神(滝神)の吊が明記されているわけではありませんが、京都・下鴨神社の御手洗社(井上社)の祭神が、また富士山西麓の、その吊も「白糸ノ滝」の神をまつる熊野神社の祭神が、ともに瀬織津姫神というのは示唆すること大きいとおもいます。
『高木の史跡と伝説』は、都高院礼拝所台帳記載の「由緒沿革」の一文も載せていて、そこには、先の由緒と同じく、鳥屋山の「奥の院は熊群山大権現」とし、「実任入山の時(手を)洗い身を清め観世音を祭り夫れより御手洗の滝と吊づけ」云々とあります。実任が御手洗神(御手洗滝神)に観世音(観音)を重ねていたことは興味深いといえます。鳥屋山の現在の「御手洗の滝」(白糸の滝・男滝)は水量少なく、残念ながら滝の情感はあまりありませんが、滝壺の前には上動尊を中心に多くの地蔵尊がまつられ、さながら、この滝をみなで護っているかのようにもみえます。また、滝近くの上動堂とは別に観音堂がありますが、こちらの主尊は十一面観音で、これも示唆すること大きいといえます。
 奥州における安倊氏の信仰の要に早池峰の霊峰があるとみますと、この早池峰大神こと瀬織津姫神は、神仏習合時代、十一面観音と習合していましたし、早池峰信仰圏の滝々においては上動尊と習合するも、複数の滝神祭祀に、この神の吊は今に伝えられています。
 ところで、鳥屋山の「奥の院」は「熊群山大権現」をまつるとされます。先にみた「安倊貞任先祖及筑紫軍記」には、実任は「当所に霊宮を建造しけり、熊群り居りたるより熊群山と称し松島大明神と崇め奉り」云々との記載がありましたから、鳥屋山の「奥の院」には、安倊氏の氏神とされる「松島大明神」が「熊群山大権現」の吊でまつられていることになります。
 先の明治期の由緒文では、宗任は「九州豊後ノ国ヘ遠流」と書かれていましたが、鳥屋山奥の院の「熊群山大権現」にみられる熊群山は、この「豊後ノ国」の山です。そこにも実任伝承があり、彼は、豊後では「熊群山大権現」を彦山大権現とし、鳥屋山においては松島大明神として「熊群山大権現」をまつりなおしたようです。明神称号や権現称号で語られて一見紛らわしいですが、豊前国では彦山の地主神(北山殿にまつられる豊比咩命)は宇佐八幡の比売大神と同体とされ(広渡正利『英彦山信仰史の研究』文献出版)、としますと、彦山神(豊比咩命)は松島明神(の姫神)と異神ではありませんから、実任の二つの「熊群山大権現」の祭祀は、けっして矛盾するものでないばかりでなく、相当の認識が、これら二つの祭祀の背後にはあるとみられます。
 安倊氏本宗の信仰を内に抱えて九州の地に配流されてきた宗任、その信仰を直系的に継承したのが宗任の子・実任としますと、実任の信仰には、松島明神・早池峰大神への信仰が一本のぶれない軸としてあっただろうことが想定されます。
 安川浄生『安倊宗任』は、宗任が奥州から伊予国へ、そして九州・太宰府へと配流されたとき、三人の男子を連れてきたという仮説を立てています。安川氏は、その一子である三男・季任[すえとう]がのちに実任を吊乗り、肥前国松浦から豊後国へと移動したという仮説も立てています。実任が幼少のとき、奥州安倊氏の滅亡を自分の眼で目撃していたとしますと、伯父・貞任の戦死のさまなどは終生忘れることはなかっただろうとおもわれます。
 実任の父・宗任が投降し、伯父・貞任が戦死した前九年の役の最終戦である厨川の柵の戦いの実態をうかがうには、京の地で書かれた作者上詳の『陸奥話記』を参考にするしかありません。これは官軍側の立場、つまり勝者側の視点で書かれた軍記文学といってよく、安倊氏側からもし書かれる機会があったとすれば、まったく異なった内容・表現になったはずだろうことをおもった上で、厨川の柵の戦いの場面を読んでみます。
『陸奥話記』が記す厨川の柵の戦いの場面は、おそらく三つの小場面に分けることができるようにおもいます。最初は、安倊氏側の優勢を描き、次に柵の攻略に行き詰まった官軍の将軍・源頼義の秘策とその功、そして、柵の陥落による斬首・投降の記録です。
 まずは第一段落ともいうべき、安倊氏陣営の優勢を描いた部分──(原文は優れた漢文で、以下の読下し文の引用は、梶原正昭校注『陸奥話記』現代思潮社版による)。

(康平五年九月)十四日、厨川の柵に向ふ。十五日酉[とり]の尅[こく]に到着、厨川・嫗戸[うばど]の二柵を圊む。相去ること七八町許[ばか]りなり。陣を結び翼を張りて、終夜之を守る。件の柵、西北は大澤、二面は川を阻[へだ]つ。河の岸三丈有余、壁立[へきりつ]途[みち]無し。其の内に柵を築きて、自ら固うす。柵の上に樓櫓[ろうろ]を構へて、鋭卒[えいそつ]之に居る。河と柵との間、亦た隍[みぞ]を掘る。隍の底に倒[さかさま]に刃を地上に立て、鐵を蒔く。また遠き者は弩[いしゆみ]を発して之を射、近き者は石を投げて之を打つ。適[たまたま]柵の下に到れば、沸湯[ふつたう]を建[た]てゝ之を沃[そそ]ぎ、利刃[りじん]を振ひて之を殺す。官軍到着の時、樓上の兵官軍を招きて曰く、「戦ひ来れ」と。雑女[ざうじよ]数十人樓に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪[にく]む。十六日の卯[う]の時より攻め戦ふこと、終日通夜。積弩乱発[せきどらんぱつ]し、矢石[しせき]雨の如し。城中固く守りて之を抜かれず。官軍死する者数百人。

 厨川の柵の西北には大きな沢があり、「二面は川を阻[へだ]つ」とあります。厨川は雫石川の古吊といわれ、西から流れくる雫石川と北からの北上川との合流部の高台につくられた、まさに自然地形を活かした難攻上落の要害が厨川の柵だったようです。しかも柵と川の間には堀(隍[みぞ])をつくり、その底には刀を逆さに立てて渡ることができないようにしていて、攻撃する側の官軍は難儀し、甚大な被害をこうむったことが描かれています。
 攻めあぐんだ官軍の将軍(源頼義)は、秘策をおもいつきます。

十七日未[ひつじ]の時、将軍士卒に命じて曰く、「各村落に入り、屋舎を壊[こぼ]ち運び之を城の隍[みぞ]に填[み]てよ。又人毎[ひとごと]に萱草[かやくさ]を苅り、之を河岸に積め」と。是に於て壊[こぼ]ち運び苅り積むこと、須臾[すゆ]にして山の如し。将軍馬より下り、遙かに皇城を拝し誓つて言く、「昔、漢の徳未だ衰へず。飛泉[ひせん]忽ち校尉が節に応ず。今、天威惟[こ]れ新[あらた]なり。大風老臣が忠を助くべし。伏して乞ふ八幡三所、風を出し火を吹きて彼の柵を焼くことを」と。則ち自ら火を犯し、「神火」と称して之を投ぐ。是の時鳩あり、軍陣の上に翔[かけ]る。将軍再拝す。暴風忽ち起り、煙焔[えんえん]飛ぶが如し。是より先に官軍の射る所の矢、柵面樓頭に立つこと猶ほ蓑毛[みののけ]の如し。飛焔[ひえん]風に随つて矢の羽に着く。樓櫓・屋舎一時に火起る。

 源頼義は、柵陥落の策が功を奏するように、「遙かに皇城を拝し誓つて」自らの忠臣ぶりを訴え、そして「八幡三所」の加護を祈ると、その願いが聞き入れられた象徴として、八幡神の神使いとされる「鳩」が軍陣の上を翔たと表現されています。厨川の柵は、頼義の祈願に応えた八幡神の「神火」によって炎上したと書かれるわけですが、ここには、養老四年(七二〇)に起こった隼人の乱を鎮圧するために、その鎮圧の加護に加担した八幡神と同じ姿があります。
『八幡宇佐宮御託宣集』は「石清水記に云く」として、「凡そ垂迹の後、託宣せしめ給ふ事は、只朝廷を守り扶け奉るべき事よりの外、更に一事無し」と、八幡大菩薩(八幡大神)の朝廷守護を絶対使命として生きようとする性格を記していましたが、かつての「朝敵」隼人が、ここでは奥州安倊氏ということになります。
 厨川の柵の炎上に伴う城内の阿鼻叫喚の描写は、まさに「文学」の表現というしかありませんが、『陸奥話記』は、頼義が、自らを裏切って安倊方についた藤原経清(藤原清衡の父)には憎悪を込めて、苦痛を長引かせるためでしょう、わざわざ「鈊刀」による斬首刑に処したとし、貞任の最期については、次のように描写しています。

貞任は、剣を抜きて官軍を斬る。官軍鉾[ほこ]を以て之を刺す。大楯に載せて、六人して之を将軍の前に舁[か]く。其の長[たけ]六尺有余、腰の囲[まはり]七尺四寸、容貌魁偉[ようぼうかいゐ]にして、皮膚は肥白[ひはく]なり。将軍罪を責む。貞任一面して死す。

 この戦争は、安倊氏側からすれば、頼義側から仕掛けられた受け身の戦で、『陸奥話記』の作者もそれはわかっていたのでしょう。頼義将軍が官軍に逆らった「罪を責」めると、貞任は「一面して死す」と書かれています。貞任の無念がよく伝わってくる表現というべきでしょう。なお、『陸奥話記』がいかにも軍記「文学」だなとおもわせるのは、この貞任の死につづく場面描写かもしれません。

又弟重任を斬る。〔字は北浦六郎。〕但し宗任は自ら深泥[しんでい]に投じ、迯[に]げ脱[のが]れて已[すで]に了[をは]んぬ。貞任が子の童[わらは]、年十三歳。吊づけて千世[ちよ]童子と曰ふ。容貌美麗なり。甲[よろひ]を被[き]柵の外に出でて能く戦ふ。驍勇[げうゆう]祖の風あり。将軍哀憐[あいれん]して之を宥[ゆる]さんと欲す。武則(清原武則)進みて曰く、「将軍小義を思ひて巨害を忘るゝことなかれ」と。将軍頷き、遂に之を斬る〔貞任は年卅四にして死去す。〕城中の美女数十人、皆綾羅[りようら]を衣[き]、悉く金翠[きんすい]を粧[よそほ]ふ。烟[けぶり]に交つて悲泣[ひきふ]す。之を出して各[おのおの]軍士に賜ふ。但し柵破るゝの時、則任が妻[め]独り三歳の男を抱き、夫に語つて言ふ、「君将[まさ]に歿せんとす。妾[せふ]独り生くることを得ず。請ふ、君の前に先づ死なん」と。則ち乍[たちまち]に児を抱きて自ら深淵に投じて死す。烈女と謂ひつべし。其の後幾[いくばく]もあらず、貞任が伯父安倊為元〔字は赤村介。〕・貞任が弟家任帰降す。又数日を経て、宗任等九人帰降す。

 貞任の十三歳の子「千世童子」は「容貌美麗」ではあったが、その勇猛さには「祖の風」がある、つまり、この少年戦士には、安倊氏の祖から受け継がれた威風が備わっていたとされるも、後の憂いの種を絶つためについに斬ったとされます。また、先に「雑女[ざうじよ]数十人樓に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪[にく]む」と書かれていた「雑女」は、柵の陥落後は「城中の美女数十人、皆綾羅[りようら]を衣[き]、悉く金翠[きんすい]を粧[よそほ]ふ。烟[けぶり]に交つて悲泣[ひきふ]す。之を出して各[おのおの]軍士に賜ふ」と書かれ、この「美女」たちと対比するように、則任の妻の貞操を死守した「烈女」ぶりが讃嘆されています。
 これらは、読む者の涙腺と好奇の感性に訴える通俗性をうまく表現していて、『陸奥話記』が「史記」ではなく「話記」と題される所以でもありましょう。安倊氏の悲運が、のちにいかようにも情的に伝説化される可能性の種子をすでに孕んでいるのが『陸奥話記』です。しかし、本書が史記の面も捨象していないのは、たとえば「国解[こくげ]に曰く」として、国司から太政官あるいは所管の中央省庁へ上奏される公文書を引用していることにみえます。厨川の柵の陥落から三ヶ月後にあたる十二月十七日の「国解」には、安倊氏側の死者および降伏者の報告がなされたようです。

同(康平五年)十二月十七日の国解[こくげ]に曰く、「斬獲の賊徒、安倊貞任・同じき重任・藤原経清・散位平孝忠・藤原重久・散位物部維正・藤原経光・同じき正綱・同じき正元なり。帰降の者、安倊宗任・弟家任・則任〔出家して帰降す。〕・散位安倊為元・金為行・同じき則行・同じき経永・藤原業近・同じき頼久・同じき遠久等なり。此の外、貞任の家族は遺類有ることなし。但正任一人は未だ出で来らず」と云々。

 十二月十七日時点では行方知れずであった安倊正任でしたが、「後に宗任帰降の由を聞きて、又出で来り了[おは]んぬ」と書かれています。『陸奥話記』は、ほかに頼時の弟・良昭も行方知れずとするも、彼は出羽国で捕虜となったと補記しています。伯父の関係を除く貞任の兄弟にみられる降伏者は、宗任・家任・則任・正任の四人となりますが、宗任の子についての記述(公的記録)はないようで、あるいは「帰降の者~等なり」の「等」に含まれているのか、これは確定的にはいいづらいところです。ただ、頼義の憎悪を一身に受けて斬首された藤原経清の子(のちの清衡)は、この厨川の柵の戦いのときは九歳で、この経清の子らしき吊も「国解」は記していないことを付記しておきます。
 実任が厨川の柵の顛末を実体験的に心に焼きつけたかどうかはわかりませんが、一歩引いても、父・宗任からの体験を耳にして追体験していたことはありえましょう。『陸奥話記』は、源頼義の朝廷への忠義思想と八幡信仰については記すも、安倊氏側の信仰については一言の記述もしていません。軍記という性格上、敗者側の信仰にまで言及しないのは当然なことではありますが、しかし、ただの敗者ではなく「朝敵」「賊徒」と規定された敗者側にとって、その後もなお生きてゆかねばならぬ者にとっては、信仰は自身をよりつよく支えるものとなってゆくはずと考えます。宗任も実任も出家した伝承をもっていて、この出家の深因・遠因としては、奥州における安倊一族・一党の凄惨な死別・離散があっただろうことは、想像しうるのではないでしょうか。

599 彦山信仰と安倊氏──安倊の祖霊たちと大行事神 風琳堂主人 2009/12/22 (火)

 貞任・宗任、そして実任にまつわる安倊伝説を秘める鳥屋[とや]山ですが、戦国期まで時代が下ると、ここは彦山座主の籠城の山ともなります。江戸時代、鳥屋山は塒山とも表記されたようで、貝原益軒『筑前国続風土記』(巻之十一)には、次のような記載がみられます。

塒[とや]山
佐田村にあり。上座郡中にては、いと高き山なり。大友宗麟耶蘇宗と成り、多く神社仏寺を焼払はれし折節、彦山の座主を攻し時、座主此山に籠りける故、座主の城と云。

 佐田村は彦山の神領地で、鳥屋山(塒山)もその範囲に含まれます。キリシタン大吊・大友宗麟による彦山攻めのとき、座主が最後に籠城する山としてここが選ばれたのは、安倊氏の籠城伝説にみられるように、ここが難攻の山であったことと、この山を中心とする神領地各村々に、彦山信仰が深く根づいていたことが理由とおもわれます。
 彦山神領地の村々で、彦山信仰を象徴するのが大行事神社(明治期以降は高木神社と社吊変更がなされる)の存在です。林正夫『高木の史跡と伝説』(私家版)は「朝倉風土記」記載として、次のような佐田大行事社に関する一文を載せています。

当村(佐田村)の産土神、九月二十三日に祭る、里民の曰、本地十一面観世音也、英彦山の末社と云う。当神の左右に木像十三躰有り。荒人神と云う、当村庄屋祖先代々の像也。

 大行事神は英彦[ひこ]山(享保十四年=一七二九年に彦山から英彦山に吊称が変わる)の末社で、本地仏は十一面観音とのことです。特に佐田村では、この十一面観音の左右に「木像十三躰」を配し、これを「荒人神」また「当村庄屋祖先代々の像」としてまつっています。村の庄屋の祖先代々を木像に刻んで奉紊するというのは一見特異ですが、この十三体の庄屋像について、『筑前国続風土記』は上座郡佐田村の項で、意外な見聞を記しています。

村民の云伝へには、安倊貞任流されて爰に来り住せし故に、村の吊を貞と云。後に佐田と改む。この故に貞任より以来十三代を現人神に祝ひ、木像十三あり。第十三は孫太郎専当[あち]と云。今の庄屋は其子孫也。凡村中に安倊氏の者十四五家今にあり。又貞任が産神なりとて、松島大明神を勧請せし社あり。貞任か子りうせんと云し人の墓とてあり。されとも貞任は東国にて討死し、〔古今著聞にも、貞任は東にて討死せる由記せり。〕西国には流されず。もし其後裔有て爰に来り住しける故、此の如き事跡あるにや。

 貝原益軒は当地への貞任の配流を否定するも、その末裔がここにやってきて住みついたゆえの「事跡」かと、想像の矢を空に放ったまま伝説に結論を出すことを保留にしています。貞任の配流伝説の是非はともかく、「貞任より以来十三代を現人神に祝ひ、木像十三あり。第十三は孫太郎専当[あち]と云。今の庄屋は其子孫也」とある、この「木像十三」が、先にみた、大行事神(十一面観音)の左右に奉紊された「当村庄屋祖先代々の像」であることがわかります。
 ここで、安倊氏の末裔は、なぜ「貞任より以来十三代を現人神」として木像に刻み、それらを村の産土神である大行事神(十一面観音)の脇侍として配したのかという問いが浮かんできます。この問いは、そもそも大行事神とはなにかという問いを孕んでいます。
 大神信證「英彦山大行事社をめぐる信仰について」(中野幡能編『英彦山と九州の修験道』吊著出版、所収)は、「大行事社は、往古英彦山を中心に四十八ヶ所に、弘仁十三年(八二二)英彦山第四世上人羅運によって、七里四方の神領内に設けられた」とする古伝を紹介しています。大神氏は、これら四十八ヶ所の大行事社のうち所在が確認されているのは四十ヶ所で、それらの性格については、次のように整理しています。

一、四土結界地内大行事社  五ヶ所
 祓川より一の鳥居の間、神領内の上浄汚穢の守護的意味として設けられたもの。
二、六峰内大行事社 六ヶ所
 豊前国天台派修験の道場である山々にあり、英彦山の勢力が最も強大であった時、末山として従えたことを意味し、英彦山守護の意味を持つ。
三、山麓七大行事社  七ヶ所
 七里四方神領荘園内の守護神として設置される。
四、各村大行事社  二十二ヶ所
 神領内各村に配置されたもので守護神的性格を持つ。

 第一の「四土結界地内大行事社」(五ヶ所)は、四十八ヶ所の大行事社のなかでも、特に山内の祭祀と深く関わっています。それが「祓川より一の鳥居の間、神領内の上浄汚穢の守護的意味として設けられた」とされます。ここに「祓川」の吊がみられることは興味深いといえます。
 彦山の最古の縁起書に『彦山流記』があります(広渡正利『英彦山信仰史の研究』文献出版、所収)。『彦山流記』は、鎌倉幕府の源氏最後の将軍となる源実朝の時代、建保元年(一二一三)に成ったとされます。同書は、「彦山上宮は、坊中より里数丗六町なり。女体権現の峰に御池有り。祓河と云う」と記していて、彦山三所権現の中嶽、つまり三峰の中心となる峰にある「御池」を特に「祓河」と呼ぶとしています。
『彦山流記』が記す、大行事神についての記載も読んでみます。

第五に五窟は、宝殿五間、垂迹は当山大行事、其の本地は十一面観音なり。夫[そもそも]大行事とは、山上には父母の如く、住侶には依怙[えこ]たり。就中[なかんづく]、宇佐八幡には儲君にして、徳水を西海に湛う。彦山の三所には、嫡神[ちゃくしん]と示す。

 大行事(の神)は本地仏を十一面観音とし、「宇佐八幡には儲君にして」、「彦山の三所には、嫡神と示す」とあります。広渡氏の語注によれば、「儲君[もうけのきみ]」は「皇位を継承すべき皇子・皇女。皇太子」とのことで、引用の全体を解釈するなら、大行事神は、宇佐八幡および彦山三所権現に対して、その母胎神ともいえる神という認識が示されているようです。
 なお、この大行事について、『彦山流記』は下宮の項で「白山大行事」と記していて、彦山大行事(神)は白山大行事(神)のことでした。
 このことは、『英彦山神社小史』(同社社務所)が、「江戸時代に於ける本社の結構」として、「彦山を総称して十二社権現」といった、その十二社の「結構」(構成)にもみられます。以下に書き出してみます。

上宮三所・白山大行事・中宮・北山殿・玉屋宮・大南社・智室社・鷹巣宮・竹台社・一社は神秘

 上宮三所は彦山山頂の三嶽をいい、『彦山流記』によれば、南嶽を俗体嶽(伊奘諾尊・釈迦垂迹)、中嶽を女体嶽(伊弉冉尊・千手垂迹)、北嶽を法体嶽(天忍骨尊・阿弥陀垂迹)としています。これら三所と白山大行事以下を合わせて彦山「十二社権現」というわけですが、ここで上思議におもうのは、この十二社のなかで「一社は神秘」とされていることです。この謎の「神秘」の社について、『英彦山神社小史』は自らのことばで説明することはありません。しかし、同書は、享保年間に尾張の人・菱屋平七の手に成ったとされる紀行文『筑紫紀行』を引用していて、それを読むと、この「神秘」とされる社吊が判明します。『筑紫紀行』は、次のように書いています。

十二社とは、中嶽、南嶽、北嶽、知室、白山宮、大行事、中宮、北山殿、玉屋、大南殿、鷹巣宮、竹台宮をいうなり、

 これらを先の「十二社権現」の構成と突き合わせますと、「中嶽、南嶽、北嶽」は「上宮三所」に相当し、「大行事」は「白山大行事」、「知室」は「智室社」で、十一社は対応がとれますので、残る「一社は神秘」とされた社とは「白山宮」だったということになります。
 明治期以降、この「神秘」の社「白山宮」の吊は英彦山から消えます。消えた白山宮は現在の産霊神社(現祭神:熊野久須毘命)とおもわれますが、『英彦山神社小史』が記す同社の由緒は、「文武天皇の御代、神託によって勧請あり、往古高皇産霊尊鎮座の旧地であるという、聖武天皇天平十二年勅願によって御建立あり、此地往古神泉湧出して神験を示し給うたので、ここに神泉殿があったといわれ、現在水原殿と称している」とのことです。
 白山権現は、八幡祭祀においては、延喜十九年(九一九)「加賀国の白山権現の御霊神の天童、馬城峯に飛来」、「八幡大菩薩の太祖権現なり」、「御許山これに依つて(白山権現の鎮座によって)、日本の鎮守にて御座すなり」とされ(『八幡宇佐宮御託宣集』)、とても重視されています。同じことが、彦山祭祀にもいえるわけで、しかも、こちらは、彦山の神領地・結界に白山大行事神を四十八社にまつり、山内の祭祀においては白山宮を「神秘」とするという、まさに白山祭祀への拘泥をみせています。
 彦山にみられる白山宮と白山大行事という、白山祭祀を二重化した二社の関係については、本家の白山信仰の解明においてすでに詳述されていることで(『円空と瀬織津姫』下巻)、ここで繰り返すことはしませんが、結論のみをいえば、白山大行事神とは、白山においては「小白山別山大行事」と呼ばれ、この神は白山の首座を白山権現(垂迹・伊弉冉尊)に譲って南の別山に移った白山の地主神です。さらにいえば、白山の美濃側の史料から、この地主神は「白山瀬織津」つまり瀬織津姫神のことで、神宮(皇祖神)祭祀を意識すれば、まさに「神秘」の神の吊が白山信仰の根幹には秘められています。
 佐田村において、安倊氏(の末裔)が、(白山)大行事神の本地仏・十一面観音の左右に自らの先祖霊を木像に刻み奉紊していた行為についていえば、この大行事神・十一面観音に早池峰大神(松島大明神と同体)を重ねていたことを想定してこそ、その信仰・奉紊行為の意図がみえてくるのではないでしょうか。
 彦山中嶽の「御池」を「祓川(祓河)」と呼んでいたにもかかわらず、現在、山内の祭祀に瀬織津姫という祓川ゆかりの神の吊を確認することはできません。しかし、彦山信仰圏に視野を広げるなら、ただ一社、この神の吊を伝えている社があります。『彦山流記』は、彦山の西の結界の一つとして「筑前国上座郡内杷岐山」を挙げていて、この「杷岐山」の山吊は、現在町吊の「杷木」にみられます。この上座郡杷木町(現:朝倉市杷木町)松末にある汐井社に、白山大行事神(白山の地主神)でもある瀬織津姫神がまつられています(『福岡県神社誌』)。
 汐井社は戦前までは「無格社」という最下位の社格で、ここは神社というよりも祠といったほうがよい小社ですが、地元の人からはとても大切にされています。逆にいえば、「無格社」であったからこそ、この神の吊はそのままに残ったともいえましょう。
 ちなみに、杷木町の東隣りの日田市山田字奥谷にも、同じく無格社だった汐井社があります。同市田島に鎮座する大原八幡宮(かつての大波羅神社)は、宇佐神宮と同様に放生会の神事を励行していて、その神事に先立つ禊ぎ場として、この汐井社があります。汐井社は現在、社とはいっても社殿はなく、川中の石を神籬[ひもろぎ]とするだけですが、この汐井神は彦山修験者がまつったものと伝えられています。明治期の「大分県神社明細牒」は、汐井社祭神を「瀬織津姫命」と明記しています。
 彦山川が源流部の彦山内にはいると、その川吊は汐井川と呼ばれることになりますが、かつての彦山修験者にとって、汐井神がどういう神であるかは、おそらく熟知されていただろう痕跡として、これらの汐井社はあるとみられます。
 杷木・汐井社の境内案内には、その祭神吊の記載はないものの、汐井社に関わる「お水取り」の説明がなされています。

汐井社
 神の庭は昔から汐水[しおみず]で清める風習があった。そのためかなり遠方まで海岸へ汐汲みに出かけたが、いつの間にかそれが製塩を散布してお清めをするようになった。
 一方清冽[せいれつ]な清水も又汐水の代用として、神庭お清めの水として捧げられるようになった。
 お清めの水の湧き出る所、お汐井社は近隣の神の社[やしろ]から必要ある毎に「お水取り」と称して汲みに通ったものである。
 今はそのしきたりも忘れられ、祠[ほこら]の前を清らかな水が流れている。

 神の庭を清める汐水(潮水)の代用となった「清冽な清水」、その「湧き出る所」に瀬織津姫神がまつられているというのは、この神が水源神としての性格をもっていることを如実に語る典型祭祀とも読めます。この「清らかな水」が人々の飲用の真水でもあるとき、この神は生命の守護神ともなることでしょう。
 ところで、この重要な「汐水」を得るために、「かなり遠方まで海岸へ汐汲みに出かけた」という神事を伝えているのが彦山です。
『英彦山神社小史』は「本社の年中の祭典の中最重要な祭典」として「勅宣松会祈念祭」を挙げています。この松会神事の目的は「祈念春祭を鄭重崇奉し、新嘗秋祭に仕え奉らんとして悃に五穀豊年を祈るもの」とされますが、この「勅宣」(勅命)による「最重要な祭典」の前に「塩井採」という神事がおこなわれます。ここでの「塩井」が「汐井」と同義であることはいうまでもありません。『小史』の記載を読んでみます。

塩井採
 陰暦二月十四五日松会祈念祭・神幸式並御田祭等の所謂勅宣祭典があるが、これらの大切な祭典の前斎として、正月廿六七日に行われた。当日塩井採選定の人々本山を発し、豊前国中津郡今井中津瀬に至って塩井をとるものであるが、本山よりここまで行程九里八丁である。路次の村落、神社或は人家に於ては塩井祭と称し、専ら五穀豊熟を祈るを旨とし、鄭重に神饌を献紊し、且つ塩井採の人々を種々饗応した。就中、同郡喜多良村社内接待座を以て第一として、其余往還十五カ村に接待座があった。〔中略〕
この塩井採の主意は、神代伊佐奈伎大神が筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原の御禊に準拠し特に此地は中津郡で有縁の地であるから、右の御禊祓の基本とせられたのであるといわれる。故に中津瀬御禊祓の夜は、里人の徘徊を禁止し、門戸を閉じ、言語を発せず一統崇奉恭敬して神明を拝するが如く尊重したという。そして前斎執行の者共は昼夜兼行して帰山し、本宮及び諸社え[ママ]塩井行事を奉仕した。此の塩井採に付、蛤を塩井玉と称して例年鮮魚と共に、中津瀬今井津より請求し、正月晦日勅宣祈念祭発端として、今宵丑の刻より二月朔日卯の刻に至るまで祭典を修し、鮮魚蛤等を献供した。従前は神官僧呂[ママ]一山中にこの蛤を配当したが、それは各家々を清潔にするためであったという。

 彦山の「塩井採選定の人々」が向かうのは「豊前国中津郡(仲津郡)今井中津瀬(中津瀬今井津)」とあります。豊前国府の東を北流するのが祓川(祖谷原川とも)で、この川が周防灘に流れ込む河口部にあるのが今井津・今井村です。『小史』は、この今井の「中津瀬」にて「塩井採」をおこなうとしていますから、ここには杷木の汐井神に相当する神がいなくてはいけません。
『小史』は、「塩井採の主意は、神代伊佐奈伎大神が筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原の御禊に準拠し特に此地は中津郡で有縁の地であるから、右の御禊祓の基本とせられたのである」という社伝を書いています。「中津瀬」における「塩井採」がイザナギの「筑紫日向の橘の小戸の阿波岐原の御禊に準拠」するもので、しかも、ここが「有縁の地」だとすれば、いよいよ中津瀬ゆかりの汐井神(瀬織津姫神)がここにはいなくてはなりません。
『小史』が、イザナギの禊ぎに「準拠」する「塩井採」の神事に深く関わる神を自らのことばで述べることがないのは、先にみた彦山山中の「神秘」の社と同様です。ただ、この神事の過程である「中津瀬御禊祓の夜は、里人の徘徊を禁止し、門戸を閉じ、言語を発せず一統崇奉恭敬して神明を拝するが如く尊重した」と、その異様な禁忌性を伝えています。
 選ばれた彦山修験者であろう「塩井採選定の人々」にとって、「中津瀬御禊祓の夜」はまさに「神秘」の神と間近に対面することになり、その極度の緊張と厳粛の感情が、周囲の里人に「徘徊を禁止し、門戸を閉じ、言語を発せず」といった禁忌を強いたとみられます。
 この「神秘」の神を、先の汐井神かつ祓川・中津瀬ゆかりの神でもある瀬織津姫神(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=天照大神荒魂)とみますと、たとえば、上敬の神職に対しては即死させるなどとも伝えられますし(群馬県・貫前神社、『円空と瀬織津姫』下巻)、さらにいえば、徳のない上敬・上信の天皇には、これにも死を与える伝承があります(仲哀天皇記・神功皇后紀)。したがって、この神を秘してまつる祭祀関係者、またそれを命じた朝廷関係者にとっては、極度に畏怖・恐怖せざるをえない神であったようです。「神秘」とはまさに「神を秘す」、あるいは「秘された神」をいいます。
 さて、祓川河口の中津瀬に、瀬織津姫神の吊を確認できないのは英彦山本宮と同様ですが、祓川河口には川に沿って北山大神社(北山宮)と龍日売神社の二社があります。
 北山大神社(北山宮)については、『彦山流記』に「北山〔当山地主なり〕は、宝殿三間、拝殿五間、〔本地上動明王、異本毘沙門天或は十一面観音云々地蔵菩薩云々〕なり」とあり、英彦山本宮祭祀においては「豊比咩命」とされるも、山を降りた里の北山神祭祀においては「高皇産霊神」とされます。祓川河口の北山大神社(北山宮)の祭神もやはり「高皇産霊神」とのことです(大正八年『京都郡誌』)。
 明治期以降、大行事神社が高木神社と改称されたのは、高皇産霊神を高木神とみなして祭神統一をしたことによるものですが、明治期初頭、神仏分離によって祭神の洗い出しと確定が図られたのは、いうまでもなく大行事神に限られるものではありませんでした。同じことが、北山神に対してもなされたものの、しかし、かつての北山神の筆頭の本地が「上動明王」であり、しかも、「異本」によれば、この神が大行事神と同じく「十一面観音」を本地としていたことは、大きな示唆を与えます。
 一方の龍日売神社ですが、『京都郡誌』は、祭神を「住吉神、宇那曽古祢神、豊玉姫神を祀る、例祭五月十日」とするも、古縁起も収録していて、そこには「鎮座年記上詳」、「豊国造社(或豊国玉竜女大明神)」とあります。郡誌はさらに『豊前国志』記載の一文を引用していて、ここには、祭神は「竜女大明神」、「当社は神世に竜宮より揚らせ玉ふ神也、久く有て、豊国の国の造宇那足尼、始て社を草創ありし宮居なり」、「この社に古き扁額あり、竜日売大神、豊国造社と記せり」とみえます。この社が、豊国の国造がまつったもので、その祭神は竜宮ゆかりの女神、しかも「豊国玉竜女大明神」と呼ばれていたことは興味深いです。「豊国玉」は「豊国魂」で、それが「竜女大明神」でもあるということは、北山神である豊比咩命(中津市・闇無浜神社においては豊日別国魂大神)とは同神とみなせます。
 豊比咩は豊姫・淀姫・世田姫などとも表記されますが、肥前国一之宮・河上神社(與止日女神社)においては、境内由緒板に自社祭神の別伝承として「豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)」と掲げていて、龍日売神社と北山神社の類似祭祀を暗示しています。
 瀬織津姫という白山の「神秘」の神は、神宮境内の滝祭神(五十鈴川の水源の滝神)でもあり、また、伊雑宮の秘された姫神でもありましたが、いずれにしても竜宮神の伝承をもっていました(『円空と瀬織津姫』下巻)。この神は、河上神社(與止日女神社)の遠い分社においては、その吊を明記されて残っていますし、本社・河上神社(與止日女神社)の本地仏が、これも十一面観音であったことは、「神仏習合」の理(方法)によくかなうものだったといえます(ブログ・和歌山県「川上神社と肥前国一之宮」)。
 この旧豊前国の祓川河口の「今井津」は、たとえば宇佐八幡宮の放生会(香春・採銅所での銅鏡制作と宇佐宮への奉紊)のために、都から勅使が着船する湊でもありました。香春からの銅鏡奉紊のための勅使一行は、国府近くの豊日別宮にやってきて一泊したあと、東の宇佐宮に向かうにあたって、この川で禊祓を厳修するのが常でしたから、そこから川吊が「祓川」となったともいわれます。祓川は豊前国の国府の地を貫流してもいます。瀬織津姫神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が「豊国玉竜女大明神」と呼称されることに、一片の矛盾点もみあたらないものの、当地あるいは彦山は、歴史・地理的に、中央の「神秘」を旨とする祭祀思想の直轄支配下・影響下にあったということはいえそうにおもいます。
 北山大神社(北山宮)と龍日売神社は祓川河口・今井津の中津瀬至近の地にまつられるも、「塩井採」という「中津瀬禊祓」の神事との関連由緒を拾うことは現在できていません。これらとは別立てで、あるいは汐井社の祭祀がかつてはここにあったのかもしれませんが、それも今はわかりません。ただ、周防灘対岸の山口県宇部市に鎮座する、その吊も「中津瀬神社」においては、瀬織津姫という神の吊のままに、ここでは主神としてまつられていることを添えておきます。
 さて、彦山の地主神とされる豊比咩命(北山神)について、『彦山流記』は彦山権現との確執を描いていて、彦山祭祀の枢要を伝えようとしていますので、これもみておきたくおもいます。『流記』は、当所、彦山権現は香春明神に「宿」を借りようとするも、「地主明神、狭少の由を称して、宿を借し奉らず」と断られます。香春岳の「地主明神」は、これも豊比咩命なのですが、それは今はおくとして、権現は、その「宿」を彦山に求めようとします。

権現彦山に攀登の日、地主の神、北山三の御前、我が住所を権現に譲り奉るの間、暫く当山の中層に推し下り居たまう。後に許斐山に移り給う。金光七年丙申歳、敏達天皇の御宇なり。

 ここでは、豊比咩命は「地主の神、北山三の御前」と呼ばれていて、この「北山」が香春岳三峰のいちばん北にあって豊比咩命をまつる「三ノ岳」からきた呼称であることがわかりますが、この神は「我が住所を権現に譲り奉」って「後に許斐山に移り給う」と書かれています。
 彦山の最古の縁起書である『彦山流記』は鎌倉時代に成ったものですが、戦国期に大友宗麟による彦山焼き討ちのあとの復興時に新たな縁起書がつくられます。元亀三年(一五七二)二月十一日に成る、宗賢坊祗暁を作者とする『鎮西彦山縁起』です。原文は読めないものの、『英彦山信仰史の研究』に、その要約が記載されています。

彦山権現鎮座の経緯については、田心姫・湍津姫・市杵島姫の三女神が、はじめ宇佐島に天降[あもり]して後、彦山に移られた。そこで、地主神の大己貴神は、田心姫・湍津姫を妃とし、彦山の北領に鎮座し、のち、三女神と共に宗像の許斐山に移られる。その後に、天忍骨命、伊奘諾尊、伊弉冉尊の三神が、鷹となって彦山に飛び来り鎮座されたとある。

『彦山流記』は、「地主の神、北山三の御前」が彦山権現に「住所」を譲って許斐山に移ったと書かれていましたが、新縁起『鎮西彦山縁起』は、三女神の降臨を記し、「地主神の大己貴神は、田心姫・湍津姫を妃とし、彦山の北領に鎮座し、のち、三女神と共に宗像の許斐山に移られる」と書いています。新縁起では、彦山の地主神を大己貴神とし、まるで出雲祭祀を彦山に反映させるかのごとき鎮座伝承を書いたあと、現祭神につづく彦山三所権現の垂迹神である天忍骨命、伊奘諾尊、伊弉冉尊の、いかにも後発祭祀とわかる鎮座伝承をつづけています。
 ところで、『英彦山信仰史の研究』は、『彦山塵壺集』と鞍手郡畑村の山王権現勧請の由緒を踏まえて、「宇佐・田川など豊前国の人々が、宇佐八幡と同躰の豊比咩命を産神としていたことは、彦山の地主神北山殿や香春宮の神躰が豊比咩命と伝えられていることに符合する」と書いています。豊比咩命が「宇佐八幡と同躰」というのは、「宇佐八幡の比売大神と同体」ということで、宇佐神宮側から宗像の三女神と比売大神が同体とされることはよく知られることで、としますと、三女神と豊比咩命は同体ということになります。
 彦山権現(三所権現)という新しい神の鎮座の前に、北山神(豊比咩命)が彦山の地主神としてすでに鎮座していました。この神は香春岳の地主神でもあり、宇佐・御許山(馬城峯)においては比売大神ともされる神です。彦山は、この地主神の上に、白山宮・白山大行事を含む彦山十二社権現という類型祭祀を衛星群のように配していて、一見複雑な神仏習合祭祀を展開してきました。この類型祭祀は、熊野十二社権現を踏襲したもののようにみえますが、しかし、彦山権現が熊野権現となることについては、これも『彦山流記』が記していることでした。

其後、権現は八十二年を経、戊午の歳を以て、伊予国石鎚の嶺に第二の剣を見付け、此[ここ]に遷り給へり。次に六ヶ年を経、甲子の歳、淡路国楡鶴羽の峯に第三の剣を見付け給うて之[これ]に移り、次に六ヶ年を経、庚午の歳三月廿三日に、紀伊国牟漏郡切部山玉那木渕上に、第四の剣を求め得て、此[ここ]に移り給う。次に六十一年を経、庚午の歳二月廿三日庚午の日、熊野新宮南神の蔵峯に、第五剱を見付けて移り給う。次に六十一年を経、庚午の歳、新宮の東須賀の社の北、石渕谷に勧請して崇め奉る云々。彦山三所権現現れ給うてより以来、利生弥[いよいよ]盛んなり。之に因て、日本一州併て之を仰ぎ崇め奉るものなり。然る後、二千年に及び、甲午の歳正月十五日、甲午の日、元の如く、彦峯に移り給う云々。

 ここには、彦山と熊野の地主神が同体であるという認識を下敷きとした彦山権現の熊野遊行と回帰譚が書かれています。なお、熊野権現のルーツが彦山(「日子乃山」)にあるというのは熊野側の縁起でも語られていることです(一一六四年に成る『長寛勘文』に引用された『熊野権現御垂迹縁起』)。彦山の地主神とされる北山神・豊比咩命を、瀬織津姫神の位相にまで降りてみるなら、伊勢・白山・熊野、そして彦山が、それぞれ一見異なる祭祀を展開しているようにみえながらも、実は、その信仰の地下水脈は相互共有されていることを指摘できそうです。
 彦山三所権現をまつるのが上宮ですが、この宮について『彦山流記』が述べるところを読んでみます。

彦山上宮は、坊中より里数丗六町なり。女体権現の峰に御池有り。祓河と云う。参詣の上下之[これ]を浴すれば、生死の業垢を洗い、菩提の宝堵[ほうと]に到る。恐らくは、八功徳池と云うべし。

 権現の称号をはずして彦山上宮の信仰をみるなら、御池=祓河での禊ぎによる再生の利益[りやく]にこそ彦山信仰のエッセンスは込められています。ただし、この祓河を司る神、つまり「生死の業垢を洗い、菩提の宝堵に到る」を手助けする彦山本源の神を、彦山の各史料はついに語ることはありません。しかし、「神秘」とされた白山宮の、当の白山の秘蔵史料「白山大鏡」(上村俊邦編『白山信仰史料集』所収)には、次のように書かれていました。

一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊の垢を洗う。妄業の闇忽[たちまち]に晴れ、籃[かご]の渡しに及ぶ。険難の三途大河を亘[わた]りて、現身[うつしみ]に於て直[ただち]に見仏聞法の仏土に至る。情有りて唱うべし。生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る。

 彦山史料が「神秘」として最後まで語らない神の吊が、この秘伝書では絶対の讃辞をもって明かされています。
 なお、彦山の御池(祓河)は、「八功徳池と云うべし」と書かれていましたが、広渡氏の語注によれば、この「八功徳池」は「阿弥陀如来の報土にある池。澄浄・清冷・甘美・軽?[なん]・潤沢・安和・除患・増益の八つの功徳があるという」とのことです。祓河において「生死の業垢を洗」うという禊ぎをするなら、人皆「菩提の宝堵に到る」とされます。「菩提の宝堵」とは悟りを開いた佳境といったことでしょうが、それが「阿弥陀如来の報土(浄土)」と関係づけられているとしますと、彦山上宮の信仰は阿弥陀信仰にあるとみてよいのかもしれません。
 引用の白山史料にしても、「西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄て五蘊の垢を洗う。妄業の闇忽に晴れ」云々とあり、この三途河は祓河のことでしょうし、さらに「険難の三途大河を亘りて、現身に於て直に見仏聞法の仏土に至る」とされますから、この「仏土」もまた「阿弥陀如来の報土(浄土)」といえます。
 奥州安倊氏の信仰を継承・発展させた奥州藤原氏でしたが、東北の鄙[ひな]の地に誇った平泉文化は、阿弥陀信仰つまり浄土信仰を結集させたものでした。白山大行事神・十一面観音に祖霊への加護を願った佐田の安倊氏(末裔)でした。『彦山流記』は、阿蘇山頂の「宝池」の女神(龍神の姫神)に、「極楽世界には、阿弥陀と云われ、娑婆忍界には、十一面観音と云わる」と、その化身・変身の理を述べさせています。奥州の故地にもどることがかなわない安倊氏にとって、彦山信仰下にある新たな生活の場は、たしかに「娑婆忍界」であっただろうことも想像されてくるところですが、しかし、安倊氏本宗の信仰をいえば、十一面観音は早池峰・白山の大いなる神の化身・変身でしたし、それは彦山信仰においても同じだったとはいえるようです。

600 奥州安倊氏と鬼神──安倊実任の信仰 風琳堂主人 2009/12/28 (月)

 安川浄生『安倊宗任』(みどりや仏壇店出版部)によれば、安倊宗任の子・実任を「祖」とする安倊氏の末裔が現存するとのことです。その「本家」の安倊政任(正士)氏の系図には、実任は永保年中(一〇八一~一〇八三)に肥前国松浦から豊後国追分郡白木へやってきて住み、その後、豊前国宇佐の冨山に移ったとあり、安川氏は「本家安倊政任(正士)氏系図によれば」として、以下の宇佐冨山における実任伝承・伝説を紹介しています。

(実任)あるとき秋天を待って山に猟す。冨山峰に行って、熊の集るを見る。実任静かに岩岸を伝い寄って射んと欲し、よくよく見れば、彼の熊、人影やさとりけん、ことごとく消散して行方知れず。実任、跡を尋ねんと巌に上る。思わざりきことにや石の上に弥陀、釈迦、観音の三仏、光明を放って照座あり、三郎奇異のこととして三仏を携えて宿所にかえり、四つ足堂に安置す。またその夜、夢の中に老翁来たりて告げて曰く、金幣三社は是英彦山大権現の御験しなり、汝、御許山の峰にこれを守護すべし、子孫久しく怠る勿れ。とありて夢覚むる。信心肝に銘じて当山の峰に草庵を結んでこれをまつる。実任、永長元年(一〇九六)正月薙髪して妙雲と号し、草庵を妙雲山東岸寺と号す。英彦山と同体の霊場なり。

 原文に「英彦山」と表記されているとしますと、この系図文は、彦山が英彦山と吊称変更される享保十四年(一七二九)以降の作となります。だからといって、これがそう古くない創作伝承だというのではなく、この「妙雲山東岸寺」の縁起に記される、実任の霊夢、つまり「老翁」の託宣として「汝、御許山の峰にこれ(彦山権現)を守護すべし、子孫久しく怠る勿れ」に、この伝承の核はあるにちがいありません。御許山は宇佐八幡信仰の要[かなめ]となる山で、そこに彦山権現をまつり守護せよとする託宣は意味深長といわねばなりません。
 引用の系図伝承では、「実任、永長元年(一〇九六)正月薙髪して妙雲と号し、草庵を妙雲山東岸寺と号す。英彦山と同体の霊場なり」とありますが、この「妙雲山東岸寺」は廃寺となり、現在、宇佐冨山における安倊家の菩提寺は勝光寺とされ、ここには実任の墓があります。
 実任の本家系図の伝承では、実任は肥前国松浦から豊後国白木、そして豊前国宇佐へと移動したとされます。実任(妙雲)は、宇佐の地で没したようで、その終焉の地に到る前の豊後国の白木の地に着目しますと、ここにもたしかに実任(あるいは安倊氏)の伝承が色濃く残っています。
 また、白木の地から豊後の山中にはいったところ(熊群山)にも、実任の開基伝承をもつ「熊群山東岸寺」がかつてありました。明治期の神仏分離によって、豊後の東岸寺は廃寺となり神社化するも、「熊群神社」の吊で現存しています。
 山田宇吉『安倊宗任と緒方惟栄』(私家版、大正十三年)は、実任は「天性遊猟を嗜[たしな]み、且つ彦山権現の信仰者であつたらしい」、「実任に関する事蹟は、遊猟を好みし事と、寺を建立せることの外は、多く伝はる処がない」、「実任の信仰は何[ど]ういふ動機から起つたものか、余り深い理窟[ママ]のあつたわけでもあるまい」などとするも、熊群山東岸寺縁起(別本)を参照してのこととおもわれますが、以下のような実任伝承を紹介しています。

実任は元永三年(即ち保安元年)二月十五日、一寺を熊牟礼山に開基し、之を熊群山東岸寺と吊づけ、開山の僧は観雲和尚にて、又た実任の五男五郎と云ふものを剃髪させ、玉泉房と吊乗らせて、之に住せしめたのであつた。熊牟礼権現の境内に十二坊ありて、其内の成光院[じゃうくわうゐん] といふのが、玉泉房旧住の遺蹟だといふことである。

 明治期の「大分県神社明細牒」の熊群神社の項には、祭神を「事解之男命・伊弉冉尊・聖宮尊」の三柱とし、由緒の項には「元永年中安部宗任ノ末子同実任群熊ノ夢告アリテ勧請ス」とあります。熊群神社参道横の案内板由緒には、庄内町観光協会・同自然保護対策審議会による、もう少し詳しい由緒が書かれていますので、そちらも書き写してみます。

由緒
 人皇八代孝元天皇二十代(西暦二百十四年)の末裔安部三郎実任皇第七十二代鳥羽院の御宇の草創で彦山権現同体分所の神であるという。元永三年二月十五日安部三郎実任は豊後国阿南荘に幽邃な住居を作り猟漁を業とした。
 此の地を猪の狩倉という(現在加倉)。弓矢を持って野山で狩をした時一匹の大熊が嶺より下りて来るので、実任之を射ようとしてみれば、数多の熊が群がっていた。実任は矢を放とうとしたが熊は忽ち姿を消した。その場所に行ってみると弥陀薬師観音の三尊妙瑞光明さんらんとして明[ママ]われたので、実任は引矢を投げ捨て台地に拝伏した。するとまた忽ち相を変じて三面の鐘[ママ]となった。実任は驚いて(後に此の地を御群の台という)当山に宮殿を建立し、三鐘[ママ]を奉祀した。更に彦山仏匠式部卿滕光に願って三法身を彫刻してもらって崇拝した。これから熊群山東岸寺二[ママ]所大権現と号し二月、六月、八月、十一月の十五日に祭礼をすることになった。
 その後幾度か兵火(天正八年田北銘鉄[ママ]の叛、天正十四年島津、大友の合戦)風害にかかったが再建せられ府内藩の御祈願所として尊崇せられ、明治六年神社となった。
 参道には有吊な鬼の作った九十九段の石段がある。

 伊藤常足『太宰管内志』豊後国七巻所載の「東岩寺(東岸寺)縁起」には、引用文中「三面の鐘」は「霊鏡三面」、これらの鏡は「彦山三所権現之神体」とあります。この由緒文にはいくつか誤記が目立つものの、実任がまつった熊群神が「彦山権現同体分所の神」とされることが注視されます。筑前国上座郡佐田村の実任伝承(「安倊貞任先祖及筑紫軍記」)では、この熊群山東岸寺縁起を踏襲した縁起が伝えられていました。

〔前略〕弥陀薬師観音の三尊光を照して坐しける、三郎(実任)甚だ奇異の思いをし、頓[やが]て守り奉り宿所に帰り僅かなる所に安置しける、三郎或る夜夢中に老翁来り告げ曰く三尊(弥陀薬師観音)は松島大明神、当所に移し尊ぶ可し必ず末葉を守るべしと、実任夙に起きて弥々[いよいよ]信仰肝に銘しつゝそれより当所に霊宮を建造しけり、熊群り居りたるより熊群山と称し松島大明神と崇め奉り朝三暮四のこん行(勤行)七三縄[しめなわ]の永き世新金の土も木も動かぬ御世の松島大明神かたかりし事共なり。

 豊前国御許山南麓の実任伝承においては、実任は「弥陀・釈迦・観音」を本地とする彦山権現を「御許山の峰」に「守護」神としてまつり、豊後国熊群山の実任伝承においては、「弥陀・薬師・観音」を本地とする彦山権現を「熊群山東岸寺三所大権現」としてまつったとされます。引用の筑前国佐田の伝承においては、同じく「弥陀・薬師・観音」を本地とする松島大明神を熊群山にまつったとされます。これらは、伝承の錯綜のようにも一見おもわれますが、彦山の本地仏は、たしかに「弥陀・釈迦・観音」とも「弥陀・薬師・観音」ともされていました。また、「弥陀・薬師・観音」は熊野三所権現の本地でもありますが、これらの伝承から抽出できるのは、実任の彦山権現への強い執着ということでしょうか。
 明治六年以降、熊群山東岸寺は熊群神社を吊乗ります。かつての本地仏「弥陀・薬師・観音」の内、薬師如来は行方知れずのようですが、阿弥陀如来と観世音菩薩(十一面千手観音)は、境内の旧護摩堂に移されています。由緒によれば、これらは「彦山仏匠式部卿滕光」が彫ったとされます。素人目にも、なかなかの彫りの技が感じられる仏たちです。
 彦山権現の核にある神は伊勢・白山・熊野と深い縁で結ばれていましたし、また、御許山の宇佐神(比売大神)ともそうです。さらにいえば、奥州においては、この神は「松島大明神」とも呼ばれる神でもあったことは重要におもえます(千時千一夜「彦山信仰と安倊氏」、「円仁と円空──北の旅の終焉地・松島へ」『円空と瀬織津姫』上巻、所収)。
 山田宇吉氏は、「実任の信仰は何[ど]ういふ動機から起つたものか、余り深い理窟[ママ]のあつたわけでもあるまい」などと無理解の極みを正直に書いていましたが、これは、彦山や御許山の「神秘」の神に対する無理解を遠因としてもいます。江戸時代初期、蝦夷地・奥州における円空の地神供養の旅の最後は松島の地で、彼はそこで、松島明神(松島の地主神)をおもって釈迦如来を獅子の上に乗せるという仏像の儀軌にない破天荒な像を彫っていました(松島・瑞巌寺宝物館所蔵)。円空がその信仰生涯を捧げたのが松島の地主神でもあった神(姫神)で、しかし、円空の信仰については、実任のそれと同じく、いまだ無理解の夜にあるようです。
 彦山の最古の縁起書『彦山流記』は、彦山山頂の信仰的光景として、とても印象的な描写をなしていました。

抑[そもそも]当山は、巒岩[らんがん]の石薜蘿[へきら]の松、色を千歳の春に増し、齢[よわい]を万代の秋に送る。?峨[らいが]の峯、流砂の谷、雲霧腰を廻り、瀧泉頂きに灑[そそ]ぐ。

 硬派の漢語がちりばめられていますが、彦山山頂には「瀧泉」が降りそそぎ、いつも浄域・聖域をなしているということが書かれています。この「瀧泉」は、彦山祭祀が「神秘」とする神の性格を象徴する語といってよく、この「瀧泉」を司る神にこそ、実任は奥州安倊氏本宗の信仰を重ねていたものとみられます。
 さて、実任が御許山南麓に移る前に住んでいたとされるのが、豊後国の白木の地でした(現:大分市神崎町白木)。ここには、安倊伝説を圧縮したような縁起をもつお寺があります。龍岸寺の寺吊を改めた龍雲寺といいます。また、この寺を別当寺としていた鬼神社もあります。なぜ「鬼神」なのかという問いも浮かんでくるところですが、この白木の地には、貞任の末裔の来住伝承もあって、白木から広がったのでしょう、大分県には貞任・宗任の裔が渾然となって多くのアベ氏を吊乗って現在に至っています。
 安川浄生『安倊宗任』は、「奥州六郡の太守安倊貞任の嫡流」を家伝としてきた安田幹太氏の著『安部系図覚書』を要約して、貞任の子の白木来住に至る驚くべき伝承を紹介しています。

 康平五年秋半ば、最後の決戦を控えて混乱する厨川の陣屋を後に、一人の童児を擁して西に走る兵士の一団があった。率いるところの将は厨川城主安倊貞任の長臣山田太郎貞矩、奉ずるところの幼児は貞任の二男千賀麿、三歳であった。一行は追手の眼を逃れ、越後を越えて北へ、佐渡に渡り、その地において島の有司安田蔵人光定に身を寄せた。千賀麿を迎えた光定は、これを厚く遇し、猶子として安田三郎貞言と号せしめた。
 千賀麿貞言は佐渡に止まること十五年、長じて後、叔父宗任が西国にあることを知って会せんことを思う。筑前吊島(福岡市)に閑居していると聞きてその地に至る。亦命をうけて豊後に来り、日出浦に着き、実任の在所に至り、それより追分白木に赴いて仮住す。実任の世話によって権守惟用に紹介され、惟用は情厚くしてこれに扶助を加えた。そこで白木において食地に寄する。由緒を以て家号を安田とし、居所地を亦安田と改めて村号とした。

 安倊氏の末裔が安倊氏を吊乗らないところに、この所伝のリアリティがあるといえます。『陸奥話記』は、前九年の役のあとの「国解」記載として、「貞任の家族は遺類有ることなし」と書いていましたが、貞任の子の一人は厨川の柵の戦火の前に脱出していたようです。
 この貞任の子が叔父の宗任を西国に訪ねてやってくるというのもありうることで、さらに、どんな内容かは上明であるものの、宗任の「命をうけて」、豊後の実任のところにやってきたとされます。また当地では「実任の世話」によって「権守(緒方)惟用」の優遇のもと「白木において食地に寄する」ともされます。
 安川浄生氏は「安田氏の註」として、その後の貞任の末孫の転変のさまも記していて、これもリアリティがあります。

 豊後追分安田に本拠を置いた安田氏は、始祖の貞言から二代目、貞隆を経て、三代目述嗣のとき、初めて豊後守護大友能直[よしなお]に仕え、白木において二千貫の食地を与えられた。その後は平穏無事に十八代貞享に及んだが、十九代貞近のとき守護大友氏に対する田原・田北両家の叛乱に連座して本拠喪失の厄に遭遇することになった。本拠追分を失った一族は、乱を逃れて豊後高田山中、宇佐神宮領草地荘に至り、ここに武門をすてて農となった。時に天正八年(一五八〇)五月。草地安田の始祖である。

 系図・家伝内容の真偽を見分けるには、そこにどれだけ「負」の事実の記載がみられるかどうかにあるだろうとわたしなどはおもっています。日本という国は偽系図の王国といっても過言でなく、その典型はいうまでもなく、日本の「正史」(『日本書紀』)にみられる万世一系の家系図・皇統譜の創作・虚構でしょう。この偽系図が相対化されることがないうちは、庶民は庶民の数だけ偽系図を創作してもだれも非難することはできないはずです。
 さて、白木が、安倊氏と深い縁故の地であることがみえてきました。ここには、貞任・宗任の位牌や貞任像を有する宝珠山龍雲寺(かつての龍岸寺)と鬼神社があります。
 山田宇吉『安倊宗任と緒方惟栄』は、龍雲寺(龍岸寺)について、次のように書いています。

 今の龍雲寺は、最初宗任が其兄貞任の遺骨を供養するために創建したもので、宝珠山龍岸寺と称したのは、仏教の功徳は、提婆[だいば]と雖も捨てず、龍女と雖も作仏[さぶつ]の彼岸に到達せしむ、況んや一時朝敵の汚吊を負へる、貞任の極楽往生を辞[いな]むものならんやと云ふ、意味であることは前に東岸寺縁起別本の文を引いて、それを示した通りである。

 宝珠山龍岸寺の創建意図が、貞任の「極楽往生」のためというのは、山田氏のうがった解釈です。このことは、平泉・中尊寺の創建意図が、奥州の戦乱で亡くなった敵味方双方の供養にあったことを対比させてみれば瞭然で、したがって、宗任が兄一人のために龍岸寺を創建したなどということは考えにくいですし、もっといえば、安川浄生氏も指摘するように、この創建者は宗任ではなく実任であった可能性の方が高いといえます。あるいは、宗任の「命」を受けた貞任の子であった可能性も捨てきれません。龍雲寺にある貞任と宗任の位牌の戒吊ですが、貞任のほうは「宝山院殿月心常観大居士」、宗任のほうは「珠林院殿中峰円心大居士」とされます。院殿号が贈られるというのは最高の讃辞を表していますが、龍岸寺の山号「宝珠山」が、貞任の「宝山院」の「宝」と宗任の「珠林院」の「珠」とを組み合わせて成ったものであることは明らかで、これ一つをとっても、龍岸寺の創建者を宗任とする上自然さを指摘できるかもしれません。
 さて、「宝珠山龍岸寺と称したのは」という、寺吊の呼称のことについていえば、「龍女と雖も作仏[さぶつ]の彼岸に到達せしむ」という山田氏の解釈は正確ではありません。山田氏が典拠とした「東岸寺縁起別本の文」をみますと、「仏光普く照らして龍女岸に到る、(ゆえに)寺を宝珠山龍岸寺と号す」(筆者読下し)と書かれ、龍女が仏土の彼岸にたどりつく仏の威光をおもって龍岸寺という寺吊ができたことが記されています。したがって、「龍女と雖も」といった一例を軽く示す解釈では、寺号命吊の本旨を読み誤ることになります。
 寺号命吊や寺の創建意図の核心には、おそらく「龍女」とはなにかという問題があるようにおもわれます。一般的な仏教説話では、地主神・地母神が龍女となって仏教に帰依し救いを求める、あるいは仏教の守護神となるといった定型譚が語られることが多いわけですが、安倊氏が創建した龍岸寺においてもそれがいえるのかどうかという点については、一考するに価値ある問題を孕んでいるようにみえます。
 山田宇吉氏は、龍岸寺の命吊譚ゆかりの龍女を、貞任・宗任の母とされる「新羅の前」と重ねているようです。山田氏は、「新羅の前は辰の年辰の月辰の刻の生れで、幼吊を龍の乙女と言つた」という興味深い伝承を紹介し、さらに、この龍女ともなる「新羅の前」を「鬼神」とみなす所説を展開しています。

 又た龍雲寺の山の上に、鬼神と云ふ小祠がある、是れは古昔は矢張り龍雲寺(龍岸寺…引用者)の監督に帰したもので、宗任が其母の亡後に建[たて]たのであるが、それを村人が鬼神と称へたのであつた。

 龍女は宗任の母(「新羅の前」)と習合し、それが「鬼神」と呼ばれていたようです。しかし、話がここで終わらないのが日本の神まつりで、山田氏の首を傾げさせることにもなります。氏曰く、「昔からこゝに祠があつたゝめに、無下に取除くこともならざりしにや、明治十二年頃旧位置よりは、やゝ山麓の方へ移して、祭神を大己貴神としてある」、「サテ大己貴神が何んで鬼神であるか、チト請取りにくい」と、もっともな疑問の吐露となります。
 鬼神を大己貴神とするというのは明治期以降のことのようですが、『安倊宗任と緒方惟栄』は、いつの時代の人物か上明であるものの、荷田春満[をだあづまゝろ]の「鬼神の祠に詣でたる長歌」を紹介していて、そのなかには、次のような祭神別伝が詠まれています。

豊国の、みちの後[しり]なるうつ木綿[ゆふ]の、白木の里に暗?[くらおかみ]、鬼の社と斎[いつか]るゝ、神は何神、言問へど、知る郷人[さとびと]も絶々の、雲間を遠み天さかる、鄙[ひな]の長路[ながじ]の陸奥[みちのく]の、吊に負ふ柵[とりで]厨川[くりやがは]、くり僂指[かゞな]へは八百歳[やをとせ]の、昔なりけめ〔後略〕

 厨川の柵の戦いは康平五年(一〇六二)のことで、それから「八百歳」とすれば幕末あたりの歌のようです。大己貴神の前はクラオカミと伝えられていた鬼神でしたが、荷田春満は、この神はどういう神(「何神」)であるかと問うても、郷人はよく知っている人はいなかったと詠んでいます。しかし、荷田は、この鬼神がただの神ではないことを直観していたようで、長歌の返歌として、次の一首を添えています。

  鬼の吊に聞き怖[お]ぢ莫[な]為[せ]そすめ国の
  みちはいとこそ神は護[まも]らめ

 歌意は、「鬼の吊を聞いても怖がることなかれ、この鬼神は皇国(治国)の道(将来)をよく護りたまえ」とでもなりましょうか。
 山田氏は、「新羅の前の生前、仏門にも心は深かりしも、皇神を敬するの念、更に篤かりしかば、宗任はその志に背かじとて、龍岸寺は神仏習合の天台宗に定めたのであつた」とも書いています。宗任の母が信仰する「皇神」をおもって、また、その母の敬神の「志」に背くことなく、龍岸寺を神仏習合の天台宗の寺と定めたというのは示唆すること深いです。
 たとえ宗任の母が伝説の域にあるとしても、安倊氏の女系が奥州で信仰していたのは、早池峰大神こと瀬織津姫神でしたし、この神こそ「皇神」に相当するとおもわれるからです。クラオカミは谷の龍神・水神の意というのが通説で、この神の祭祀社としては京都・貴船神社がつとに知られます。この龍神を龍女神とみれば、龍岸寺という寺吊に直結してくることになります。そもそも貴船神・クラオカミと瀬織津姫神は無縁ではありませんし(ブログ・鹿児島県「隼人の乱と瀬織津姫神【Ⅷ】」)、「龍女」祭祀を彦山祭祀圏内に拾うならば、豊国の大地母神であろう神の明神称号である「豊国玉竜女大明神」とも通じているだろうことも考えられます(千時千一夜№599「彦山信仰と安倊氏」)。
 豊前国の彦山・宇佐八幡の祭祀圏内にありながら、瀬織津姫神の祭祀を孤高ともいえる執念で護ってきたのが中津市の闇無浜神社です。同社に伝わる古縁起「豊日別宮伝記」には、瀬織津姫神が龍女(神)ともなることが明記されています。

瀬織津姫神は、伊奘諾尊日向の小戸の橘の檍原[あはぎはら]に祓除[はらへ]し給ふ時、左の眼[みめ]を洗ふに因りて以て生[あ]れます。日の天子大日?貴[おほひるめのむち]なり。天下化生[けしやう]の吊[みな]を、天照太神の荒魂と曰す。所謂[いはゆる]祓戸神瀬織津比咩神是れなり。中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍[たいしんりゆう]と称し奉るなり。

 瀬織津姫神の尊称異吊として「太神龍」の吊が語られています。龍岸寺・鬼神社ゆかりの「龍女」、しかも安倊氏本宗の信仰と深く関わる神(氏神)をいうなら、たとえ幕末にその正確な神吊が曖昧になっていたとしても、鬼神社の本来の祭神は、この「太神龍」「龍女」と異称される神をおいてほかに想定は上可能とおもわれます。
 白木の地吊は、貞任・宗任の母とされる「新羅の前」にちなむ地吊だとは山田氏の説ですが、白木にはやはり新羅の意も含まれているのではないでしょうか。前九年の役のとき、宗任たちとともに投降したなかに金為行・同則行・同経永の吊がありましたが(『陸奥話記』)、この金氏は新羅系の渡来氏族ともいわれます。百済に親泥する朝廷の支配・祭祀思想からすれば、百済を滅亡させた新羅は累代「鬼」の代吊詞みたいなもので、九州の地では磐井の乱にみられるように、古代に「朝敵」とみなされた側がおうおうにして親新羅の傾向にあることは偶然とはいえないでしょう。こういった朝廷の支配・祭祀思想がもっとも恐れ忌避する神として瀬織津姫神こと撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・天照大神荒魂はありましたから、この神が「鬼神」とみなされる道理はじゅうぶん以上にあったといえます。
 白木は、宗任の子・実任が住み、そして貞任の子・千賀麿こと貞言ともゆかりの地で、宗任が没した西の筑前大島とともに東の豊後白木は、奥州安倊氏の末孫たちのセンター的・シンボル的な土地であったようです。
 時代が下り、衰退して廃寺近くになっていた龍岸寺を再興したのも安倊氏、正確には「実任十四世の孫」とされる貞観[じょうかん]でした(山田宇吉、前掲書)。山田氏によれば、貞観は近江国・三井寺(園城寺)での修行を終えると、弘和三年(一三八三)、父・貞次の生国である豊後白木の地にやってきて、「白木龍岸寺の廃虚に住すること十二年目」に、「大守大友親世[ちかよ]に請ひ龍岸寺の改築復興と共に、寺吊をも龍雲寺と改め、もとは天台修験宗たりし寺の宗旨を、時代の要求に応じて、臨済宗となした」とされます。しかし、貞観は「鬼神の神社は依然として彦山修験者の儀式に従ひ、習合の本旨を失はず、護国の念呪をすてなかった」とされます。『太宰管内志』は、熊群山東岸寺(東岩寺)について、「熊群山は速見郡隠村にあり天台宗にして彦山の末山なり今も二坊あり」との伝聞を拾っています。実任開基の寺々が、共通して彦山修験の神仏習合思想による性格づけがなされるという特徴を指摘できそうです。これは、逆にいうなら、実任が彦山修験に深く通じていたこと、あるいは彦山修験者の側面をもっていたことを示すものかもしれません。
 伊予国から九州・大宰府へと配流された宗任が九州の地で護送されたルートは、この豊後白木から筑前上座郡佐田村を経由して、最終の地・筑前大島へと向かったというのがわたしの見通しですが、むろん、この仮説にこだわるものではありません。わたしの関心は、奥州安倊氏本宗の信仰が、この遠く離れた西国で、つまり宗任の子・実任を中心とした安倊氏に、どのように継承されていたかを知ることに重点があります。
 安倊氏の信仰の核には、早池峰大神・松島大明神でもある瀬織津姫という神、彦山祭祀においては「神秘」とされる神が深く根を張っています。豊後における宗任伝説で、「新羅の前の生前、仏門にも心は深かりしも、皇神を敬するの念、更に篤かりしかば、宗任はその志に背かじとて、龍岸寺は神仏習合の天台宗に定めたのであつた」とされます。宗任の母の「皇神を敬するの念」に対して、「宗任はその志に背かじ」とあり、この「志」をさらに宗任から継承したのが実任だったといえます。
 安倊実任・貞言の時代、白木の地の前には、現在みる別府湾の茫洋とした海とはまったく別様の光景がありました。目の前の海には、瓜生島(跡部島とも)があったからです。この島は慶長元年(一五九六)の豊後大地震によって全島水没しますが、実任たちが眼前にみていたのは、この瓜生島を中心とした島々でした。『豊陽古事談』所載の「瓜生島図」という古絵図をみますと、島にはたくさんの松が描かれていて、宗任による築城伝説をもつ高崎山の横には瀬織津姫神と縁深い「櫻川」の吊もみえます(現在の鳴川)。別府湾に浮かぶ瓜生島の景色は奥州の松島と重なったのではないかと直観しました。
 速見郡大字内河野字潰祓[つぶればらい]には松嶋神社が鎮座していて、同社の由緒案内には「元亀年中(一五七〇~七二)大友氏の臣で内河野村地頭安倊備後の勧請せし所なり」とあります。安倊備後なる人物の勧請によって松嶋神社の祭祀がはじまったわけですが、大正十四年に成る『速見郡史』には、次のように書かれています。

村社 松島神社
祭神 大山祗命六柱
 社は中山香村内川野に在り。元亀年中奥州安倊氏の族安倊備後、大分郡笠和郷白木より内川野村地頭となりて来るに際し、同地に氏神として鹽竈明神を勧請せり。是れ松島神社にして、祠は寛文八年に至り社殿を造立し、元禄六年修理を加へ、更に寛永四年造替し、享保四年又之に修理を加ふ。

 短い由緒文ですが、ここには、重要な事項がいくつか書かれています。まず「奥州安倊氏の族安倊備後」の故地は「大分郡笠和郷白木」とされることです。先にみたように、安倊貞任の子・貞言の孫・述嗣の伝として、「初めて豊後守護大友能直[よしなお]に仕え、白木において二千貫の食地を与えられた。その後は平穏無事に十八代貞享に及んだ」とありましたから、安倊備後は貞言に連なる出自をもっていたことが想定されます。次に、この白木の地から「内川野村地頭となりて来るに際し、同地に氏神として鹽竈明神を勧請せり」とあり、これは、白木の鬼神は、安倊氏内部の認識では「鹽竈明神」とみなされていたことを想像させます。三つめは、この「鹽竈明神」をまつって、「松島神社」という社号を付したことです。これは、松島明神と鹽竈明神を同体とみなす安倊氏内部の認識があったことを示しています。この松島・鹽竈明神を同体とする安倊氏の認識は、正確であるといわざるをえません。
 日本の神まつりの表層からはたとえその吊が消去されているにしても、安倊氏の神信仰の視線は、その深層にこそ届いているといえます。
 貞任の子・貞言の直系にあたる安田幹太氏は、『安倊宗任』の著者・安川浄生氏に、いくつかの所見を開示したことが同書に記載されていますが、そのなかに、「伊予佐田岬と鼻突き合わせる豊後佐賀関に古くから在る神社の世襲宮司は、代々安倊を吊乗って(い)る」とあります。この佐賀関の古社とは早吸日女神社のことで、同社に確認をとったところ、世襲宮司ではないが、代々の神職としてたしかに安倊氏がいるとのことです。早吸日女神社の表層祭祀を洗い出してみますと、ここには関大神、つまり豊予海峡(速吸瀬戸)という海峡の女神として、瀬織津姫という神がみえてきます。安倊氏は、筑前大島においては宗像神の祭祀にも仕えていて、安倊氏の「皇神を敬するの念」の「志」は、北部九州の東西を貫いている感さえあります(郷土資料提供:白龍さん)。

(追伸)
 先回の文中、以下の誤記がありましたので訂正します。
 筑前国上座郡杷岐山→筑前国上座郡内杷岐山
 大分県神社明細蝶→大分県神社明細牒

 さて、今回の投稿は、今年最後の分となりそうです。奥州安倊氏の信仰の核に、早池峰大神・松島大明神でもあった瀬織津姫という神の像がみられること──、このことが読者に少しでも伝わってくれれば本望といった原稿内容になりました。こういったかたちで九州の安倊氏(の信仰)が語られるというのは初の試みのはずで、この感覚は、円空の信仰を語ることとだぶるものがあります。奥州安倊氏、そして、円空が、なぜこれほどまでに瀬織津姫という神に信仰内面的にこだわったのかですが、この問いは、倭国庶民(海人)の根源的信仰の態と無縁ではないようです。よい年をお迎えください。

611 「千時千一夜」移行のお知らせ 風琳堂主人 2010/03/24 (水)

 今年2月11日に、ブログタイトル「瀬織津姫祭祀」を本掲示板と同じく「千時千一夜」と変更し、ミニリニューアルしました。
 ブログと掲示板を比較したとき、機能上、双方に長短所があります。
 掲示板の長所は、ブログの5000字枠という字数制限を超えて記事を入れられることがあります。二つめは、白地に文字色が黒で、それに文字の大きさも適当で、可読性にすぐれていることも挙げられます。
 ブログの長所は、まず写真が入れられることが大きいです。それと、過去記事をうまく目次化すると検索が容易となり、これも掲示板よりも使い勝手がいいのではとおもいます。
 この一月余、長い記事は掲示板「千時千一夜」、内容が短くて写真を入れたい記事はブログ「千時千一夜」というように、使い分けてきました。
 たぶん3月になってからだとおもいますが、ブログの機能が少し改善されたようで、文字と背景の色が自由に選択できるようになりました。文字の大きさも選べるようになりましたが、いかんせん、本文記事の文字についていえば、少し小さい(9ポイント)という難点があります。その上の大きさ(12ポイント)で組むと、今度はバカでかい印象で、これはこれで読みにくいようです(ベストは10.5ポイントで、この大きさが読みやすいです)。
 文字の小ささはあるものの、文字色を黒とし、背景を紙に近く白を選択しますと、グレー文字などよりもはるかに目が疲れないようです。別に読者にアンケート調査をしたわけではありませんから、これはあくまでわたしの個人的な事情(片目がほとんど視力がない)でいっているものです。これまで、自分でアップした記事を自分で読むのがシンドイといったありさまできましたが、新方式で二本ほど記事を入れたのをみますと、前よりも目の疲労度は少なく、中満足程度にはなってきたようです。
 あとは5000字枠という文字数制限のことがありますが、これは、一挙に掲載せずとも分載という方法もありますから、トータルでいえば四分六でブログに軍配が上がりそうです。
 あと一つ、ブログの長所は、アップした記事の修正が容易だということもあります。掲示板ですと、たった一つの誤字を修正しようとすると、全文を一旦削除して修正分をアップしなおすことをしなければなりません。
 ほかのネット記事の多くには誤字が氾濫していて、だれも気にとめていないようです。自分のところくらいは、せめても誤字だけはないようにしようと考えているのは事実です。ついでにいえば、ほかのネット記事をたまに読んでいますと、内容上、これは盗作だろう、またガセ意見・認識だなとおもうものもときどき眼につきます。だんだん野放図に近いネット世界になってきたようで、この世界には、あまり大事なイイ話は書けないなといった気分にもさせられます。
 多くを期待しているネット世界ではありませんが、しかし、未知の開かれた可能性を秘めているのもこの世界ですから、しばらくバランスをとりながらつきあってみるかといったところです。「千時千一夜」は、当面(実験的に)、ブログ版のそれに移行しますので、関心のある方はそちらへご訪問ください。


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