御 霊 神 社
御霊〔ごりょう〕さん
御祭神・御神徳
天照大神荒魂(瀬織津比売神)
津布良彦神・津布良媛神(旧攝津国津村郷の産土神)
応神天皇(広幡八幡大神)
源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)
以上 五柱

 浪速の氏神として多くの氏子崇敬者の崇敬を集めていますが、古来、開拓、治水、生産、商業、文化、生命、厄病平癒、生活、交通、安産の守護神として仰がれ、特に厄除け、縁結び、諸事円満成就、開運招福、商売繁盛、夫婦円満、子孫繁栄の神様として格別な尊崇を受けています。

お由緒
 当神社は古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靱、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長堀の西部、南北堀江の西部等旧攝津国津村郷の産土神として、信仰の中心になっていました。
 当神社の創立は、太古大阪湾が深く入りこんで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓江(つぶらえ)と云い円形の入江に創祀された圓神祠に始まり、嘉祥三年(850)の「文徳実録」に八十嶋祭の祭場が圓江でそこに創祀されたのが圓神祠とされ、八百年代後半の創建とされています。ご神威高く、上古天皇御即位の大嘗祭につづく八十嶋祭に預かり給ひ、後に土地が次第に固成して村を形成しその名も津村と転訛しました。
 豊臣秀吉公の大阪居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が来集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。
 中でも石州津和野藩主亀井?矩候が邸地を割いて寄進されたので、文禄三年(1594)境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江(現在の靱)から現在地に鎮座しました。(1994年が船場鎮座四百年になります。)
 寛文年中御霊神社と改称、元禄九年(1696)御霊大明神とご贈号、宝暦三年(1753)九月正一位の神階を授けられました。また伏見宮家より神輿修復のご寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬、明治六年(1873)郷社に昇格し、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬が厚く、お弓神事、火焚神事や夏祭のお旅所への神輿渡御列(明治までは淀屋橋から大川筋を下博労御旅所へ船渡御神幸)の華麗さとは浪速名物の一つに数えられ現在に至っています。
 大正二年(1913)府社に列し、大正十五年(1926)には境内の浄瑠璃文楽座が出火し本殿に類焼焼失、昭和五年(1930)に再建しましたが、昭和二十年(1945)空襲によりすべて炎上しました。
 戦後仮本殿と社務所の一部を再建、昭和二十四年には神社と神域復興に着手し、昭和三十二年(1957)ご社殿を再興、次いで昭和三十四年(1959)鳥居玉垣を再建し年を追うて往時に勝る神社の威容をとりもどしています。
 境内には明治十七年(1884)から大正十五年(1926)まで人形浄瑠璃御霊文楽座があり、文楽二百年の歴史のうちでも、もっとも華やかな時代をつくりました。〔中略〕
 神社の境内に常設小屋があり、今の幻燈に類する錦影絵は、徳川末期より明治初期に上方芸術として大衆の好評を受けました。
 御霊さんを中心とした平野町淡路町一帯は、市内の五大商店街の一つに数えられ、羽二重造花商「花十三(はなとみ)」をはじめ北船場の服装雑貨や家庭用品の提供場所であり、また文楽はじめ多くの文化生活の中枢として繁栄をきわめました。
 船場の商家はもとより山片蟠桃先生、緒方洪庵先生、福沢諭吉先生はじめ懐徳堂や適塾の塾生も参詣されたと言われ、「朝詣り」と「一六夜店」は特に有名で、古書にも「例月一六の六斎日には夜店あまた出て至て賑わし」とあります。
 文学では、近松門左衛門の「曽根崎心中」(難波津の西国三十三所の霊地霊仏めぐり)に「……いらかならべし新御霊(第三十三番御霊宮──津村)に、拝みをさまるさしも草、……」、また同じく近松門左衛門「与兵衛・おかめ ひぢりめん卯月の紅葉」の(上之巻二十二社廻り)に「……夢をつむらの新御霊、……」と書かれ、谷崎潤一郎の「春琴抄」に佐助が「御霊様に祈願をかけ朝夕拝んでおりました効があって有難や望みが叶い……」とあります。
 御霊神社は船場言葉の御寮人(ごりょうさん=商家の若奥様)と語呂が似ているところから御霊さんや御霊はんと親しみをもって呼ばれ、崇敬されてきました。


境内・境外
東宮 皇大神宮
津布良神社
恵比須神社
猿田彦神社
東宮十二社
末社 松ノ木神社
大黒社
堀江行宮 大阪市西区南堀江4-28-29
楠永神社 (御霊神社旧跡)
大阪市西区靱本町2-1


(2001年11月吉日 寺田操様よりご送付)
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