駒形大神と白山信仰──藤原秀衡が奉じた神



風琳堂主人



 円空は蝦夷地・奥州から美濃国への帰国後、多少の曲折はあるものの、ついには白山信仰を飛躍的に深めていく。その劇的深化のきっかけには、白山山麓での秘蔵の白山文書との出会いがあったことが想像される。この秘蔵文書には、円空がもっとも尊意をもってみていた瀬織津姫神の名があった。文書は、かつて、藤原秀衡(一一二二~一一八七)が白山(別山)南麓、白山中居神社が鎮座する石徹白[いとしろ](岐阜県郡上市白鳥町石徹白)へ送り込んだ白山神守護の特命を受けた家来衆(上村十二人衆)の末裔が秘守・死守してきたもので、白山信仰(瀬織津姫神)と円空を考える上で、奥州における藤原秀衡と駒形神・白山神との関わりにふれておくのは意味あるものとおもう。
 円空も駒形神には特別のおもいがあったことは、いくつかの歌に読み取ることができる。

   いさむらん渓山陰の神ならは花の林は駒が嶽かも
  (勇むらん渓[たに]山陰[やまかげ]の神ならば花の林は駒ヶ岳かも)
  駒嶽尾岐の花の林哉法の道路ににほひかくらん
  (駒ヶ岳荻の花の林かな法[のり]の道路[みち]に匂ひかぐらん)
   駒か嶽のりくら山の神なるかけさの御山に夕立そする
  (駒ヶ岳乗鞍山の神なるか袈裟〔今朝を掛ける〕の御山に夕立ぞする)

 円空は駒ヶ岳・駒形山(駒が嶽)の神を「渓山陰の神」と詠う。「山陰」の渓谷神(水神・滝神)というのは円空歌独特の比喩的表現である。また、円空は駒形神と乗鞍岳の神を異神あるいは無縁の神とはみていないことが歌から伝わってくるが、これはまちがっていない。
 駒ヶ岳・駒形山は、北は蝦夷地(北海道)から奥州各地、また、伊豆・甲斐・信濃など全国にわたってみられる山名である。円空の歌は、信濃駒ヶ岳を詠んだもののようだが、この駒形神と呼ばれる山神の祭祀は、それほどまでに広く各地山岳霊地に展開していた。しかし、駒形神とはそもそもなにかは必ずしも分明ではない。
 本稿は、円空が蝦夷地から奥州の旅で地神供養の対象神として心中に秘めてきた瀬織津姫という伊勢の秘神が、駒形山(駒ヶ岳・栗駒山)から白山の神へとつながっていることを、藤原秀衡の信仰対象神とともに明かす試みである。
 本稿には円空の名は登場しないが、円空が信奉してやまない神、円空歌でいえば「おそろしや浮世人[(うきよのひと)]ハしらさらん普[(あまねく)]照す御形[(みかげ)]再拝[(おろがむ)]」(長谷川公茂編『底本 円空上人歌集』歌番五七九、一宮史談会)にみられるように、「浮世人」がほとんど知らない、しかし円空一人は「再拝」してやまない瀬織津姫という神を駒形山にみようとするものである。この神は、蝦夷地・樽前山(苫小牧市)においては「明治天皇の勅命」によってまでも、その祭祀・神名を消そうとされてきたことがよく告げるように(『円空と瀬織津姫』上巻)、わが国の最重要な国津神の一神である。この神の祭祀消去の歴史については、明治期の「勅命」云々は一例にすぎず、江戸期から中世・古代へ、つまり、神宮祭祀が現在のように定められたことを至峰とする七世紀後半にまでさかのぼるものである。『古事記』・『日本書紀』(記紀)に一切登場しない瀬織津姫という神名だが、しかし、その神名を現在にまで残した神社は、それでも全国で四百社ほど存在している(『円空と瀬織津姫』上巻巻末祭祀リスト)。これらはまだ氷山の一角の祭祀社数であることに、この神へ寄せた民衆の信仰心理の深層がみられる。駒形山・駒ヶ岳の祭祀は、そういう意味で、これもまだ一例であることはいうまでもない。
 なお、本稿における引用の古史料の大半は、HP「義経伝説」(佐藤弘弥氏主宰)収録の復刻・読み下しに負うところ大である。先に謝意を表しておきたい。


一 祭神のことを私議するものあり

 陸奥国には同じ駒形大神をまつる社で、延喜式に登録されている駒形神社と駒形根神社の二社がある。前社は岩手県奥州市水沢区に、後社は宮城県栗原市沼倉に鎮座している。駒形神社は戦前までは「祭神不詳」とされるも国幣小社、駒形根神社は大日孁尊と吾勝尊ほか四神を配して主神とする郷社であった。駒形神社は駒ヶ岳を、駒形根神社は栗駒山(栗原郡の駒形山の意で須川岳の異称をもつ)を神体山として、それぞれ信仰圏域をつくってきた。
▲早池峰山駒形大神の石碑(遠野)
    
 駒形大神とはなにかについては、「早池峯山駒形大神」という遠野の石碑伝承から、この謎めいた神に瀬織津姫が秘されていることにすでに言及した(「北辺の神への鎮魂─姥神・駒ヶ岳の神とはなにか」、『円空と瀬織津姫』上巻、所収)。駒形大神が国家から特別視されていたことは、延喜式内社陸奥国の項に二社採録されていることや、岩手の駒形神社が「祭神不詳」にもかかわらず戦前まで「国幣小社」と遇されていたことに端的にみられる。では、宮城の駒形根神社はどうであったかといえば、こちらも劣らずに重要視されていたことは、その社標が駒形根神社ではなく「勅宣日宮」と表示されていることにみられる。菅原巳之吉『栗駒村誌』(昭和十四年)は、「郷社駒形根神社」の項に同社境内石碑の文面を再録している。

                    勅宣日宮
                     昔王政の盛なりし時は、天祖大御神の大神のまにまに神祇をまつらせ給ふこといと厳明なりき。されば延喜式の神名帳に載せて神祇官より幣帛奉りし、神社三千百二十二座に及びて式外の神社はその数を知らず、国人敬神の心篤き故に神亦加護し給ひなば、神人合体して世運の盛なるは言うも更なり。天変地妖なく四時順行して凶年来らず、疾疫起らず、人民蕃息して天の益人の称空しからざりき。
                     ここに本郡の式社駒形根神社は出羽の国をかけて百八十六村の鎮守なるが、霊験日々に新たにして、山の名おう名駒の続きて出づるのみかは、郷村の産物は五穀をはじめとして衣食住のものみなこの神のめぐみにもるるものなし。さて神恩に報い奉る
   との事古来朝旨を以て駒形の嶺に神社を建て、天祖天照大神皇孫吾勝々天忍穂耳尊を祭り、又日本武尊をも副へてまつり来しかば、昔蝦夷を征討したる田村麻呂将軍を始めとして皆此の大神に祈らざるはなく、終に夷を北地に追い退けて良民長く憂患を免れたりき。然るに世くだり神道衰へて王政すたれしかば、仏徒ほしいままに此の神を偽りて仏と称して、はては旧典を失ふに至りしを、天下再び治まりて仙台藩の時元文年間神官村民等相議りて藩に訴へ、京師の神道管領吉田家に諜報してやや旧制に復したれども、規模狭少にして古札百分の一に至らず、剰へ祭神のことを私議するものありしかど、是は佐久間翁の観跡聞老誌にも記し、水戸家の大日本史の神祇志にも載する事今は世に疑ふべくもあらずなりぬ。
   況や今日維新の大御代にありて、旧説を主張し古札を興して神人合体なりし古風にかへしたらは尊き神霊もいかでか幸福を降して守り給はざらん。故に同志相議り赤心を大碑に表し千載の後に伝へむとす、因て予め事の理由をここに記すになんありける。
        明治二十七年四月
                                正七位 久米幹文撰
                                        佐々木舜永書

 駒形根神社は「出羽の国をかけて百八十六村の鎮守」であったという。この信仰圏の広大さは半端ではない。『雄勝町史』も「安永書上」(安永風土記)を引用して、「仁寿元年(八五一)陸奥国駒形神加階の事見ゆ、式内社、駒形神、一二三迫、西磐井、羽州雄勝郷、凡百八十六邑総鎮守」としている。陸奥国・出羽国の国境を越えて駒形神は信奉されていた。文中「一二三迫」は一迫・二迫・三迫のことで旧栗原郡に該当している(現在の栗原市・大崎市にまたがる)。
 碑文は「明治二十七年」に刻まれたもので、ここには「駒形の嶺に神社を建て、天祖天照大神皇孫吾勝々天忍穂耳尊を祭り、又日本武尊をも副へてまつり来し」という認識が書かれ、「天祖天照大神」と「皇孫吾勝々天忍穂耳尊」が強調されている。「吾勝々天忍穂耳尊」は、記紀の通説理解からいえば、厳密には「皇孫」ではないが(皇孫は忍穂耳[おしほみみ]尊の子・瓊瓊杵[ににぎ]尊とされる)、それはおくとしても、吾勝々天忍穂耳尊という祭神名については、大日孁[おおひるめ]尊(天照大神)とともにまつられる「吾勝[あかつ]尊」の具体的な説明として、あえてここに記されたようだ。理由は、碑文が記すように「祭神(吾勝尊)のことを私議するものありし」で、たしかに「吾勝尊」といわれてもどんな神かは「私議」したくもなっただろうからだ。それを「吾勝々天忍穂耳尊」のことだと主張されれば、大方は「私議」を控えたにちがいない。しかし、この吾勝尊=吾勝々天忍穂耳尊という等号説明は「佐久間翁の観跡聞老誌にも記し」と碑文は刻んでいたが、佐久間洞厳『奥羽観蹟聞老志』(一七一九)は、延喜式内社としての駒形根神社の社名・存在を記すのみで、こういった祭神説明の記述はまったくしていない。


二 駒形神と大祓神

 駒形根神社「六十八世宮司」鈴杵憲穂氏は『栗原郷土研究』第三十二号(平成十三年四月刊)に、神社に伝わる秘蔵の史料「陸奥国栗原郡大日岳社記」を公開している。これは駒形神を考える上で超一級の史料といってよい。鈴杵氏は掲載の前書きで、本史料は「先祖が誇り高く、後世に残した物で、神社の宝物として庫戸に収蔵されていたもの」、ただし「子孫の宮司として公開してよいものか、神罰を恐れている」、「迷いに迷っての結果」だが公表に踏み切ったと、その胸の内を正直に書いている。
 鈴杵氏は前書きで、「駒形神社は元文四年既に神仏分離が行われていた」と記し、「それまでは天台支配の駒形山大昼寺と別称されていた」と、神仏混淆時代のことを記している。社伝では、「嘉祥三年(八五〇)仁明天皇の御宇、慈覚大師が下向してから駒形山大昼寺と称し、大日如来を祀り、祭式は仏式になった」とされる。つまり、嘉祥三年(八五〇)から元文四年(一七三九)までが、駒形根神社の神仏混淆時代ということになる。それにしても、神仏分離が全国の社寺に対して強制されるのは明治期初頭が一般だが、駒形根神社は、すでに江戸期の半ばに神道化を実践していた異例な社の一つである。ちなみに、出雲大社の神仏分離→神道化は寛文七年(一六六七)のことで、こちらは異例の魁[さきがけ]をなしていた。
 駒形山大昼寺は嘉祥三年(八五〇)慈覚大師=円仁の創建とのことで、この嘉祥三年には中尊寺・毛越寺も円仁によって開基・創建されている。これらの開基・創建が同年に行われていることは偶然ではない。
 初公開の「陸奥国栗原郡大日岳社記」だが、その奥付日付は「元文五年四月」とあり、巻末に「神道管領長上占部朝臣兼雄」の朱印が押されている。つまり、元文四年の神仏分離の翌年という早い時期に社記は書かれ、また、これは、全国の神社支配権を一手に掌握していた京都・吉田家(「神道管領」)によって公認された由緒書であることがわかる。
 社記は、駒形山(栗駒山=須川岳)には日宮[ヒルミヤ]と駒形宮の二宮があることを記し、日宮の冒頭は「古ヘノ陸奥ノ国〔吾勝郷雄勝郷〕ノ界[サカヒ]駒形ノ巓[イタダキ]大日嶽[オホヒルダケ]ニ在[ア]レマス」と書かれ、駒形山は大日嶽をピークとする山であることが告げられる。『安永風土記』(一七七二)は栗駒山の項を「一山 二ツ」として「大日嶽 高大敷大道五里程」と「駒ヶ嶽 高大敷大道四里廿六丁程」と記し、駒形山(栗駒山=須川岳)が二つの「嶽」から構成されているとしている。駒形山=栗駒山は、大日嶽と駒ヶ嶽から成る総称ということなのだろう。
 社記の日宮の祭神は、大日孁[オホヒルメ]尊を中心に天常立[アメノトコタチ]尊と国狭立[クニサタチ]尊を左右に、そして吾勝[アカツ]尊を中心に置瀬[オキセ]尊と彦火[ヒコホ]尊を左右に(「一伝」として、彦火火出見[ヒコホホデミ]尊と国狭槌[クニノサヅチ]尊を左右に)まつり、「コレヲ駒形峯大明神ト謂[マフ]ス」とされる。つまり、大日孁尊と吾勝尊を中心とした六神の総称として「駒形峯大明神」はあるということらしい。
 この日宮の祭神説明に対して、一方の駒形宮のほうは「祭ル所ノ神数十座」としていて、大日孁尊と吾勝尊を中心とした日宮の祭祀と、駒形宮の「数十座」の祭祀とを合わせて、駒形山山上の祭祀がなされているとする。
 この駒形山山上の祭祀はわかりにくいが、「里宮」の説明においても、「皇子(日本武尊)自ラ親顕 大日孁尊吾勝尊及ビ諸神[モロガミ]等ヲ大日嶽ニ斎[イツ]キ祭リ 以テ東国鎮寧ノ祈リヲ為[ナ]シタマフ 今大日嶽ニ鎮座ノ神此レ也」と書かれ、駒形山(=大日嶽)には、「大日孁尊吾勝尊及ビ諸神」が鎮座しているというにぎやかな祭祀を述べるのみで、駒形神をことさらに一神に特定しないといった曖昧な書き方をしている。
 社記や風土記の記述からいえば、駒形神の主神は「大日孁尊吾勝尊」の二神と解釈できるが、しかし、駒形神の筆頭祭神を大日孁尊=天照大神とするなら、また、吾勝尊=吾勝々天忍穂耳尊とするなら、岩手の国幣小社・駒形神社が戦前まで「祭神不詳」としていた理由はまったく成り立たない。これら二神が駒形神ならば「祭神不詳」とする必要はまったくなかろうからだ。岩手の駒形神社は戦後、駒形根神社に準じて、駒形根神社祭神六神をまとめて「駒形大神」とみなすというように変わる。
『安永風土記』は、駒形根神社(社記は駒形宮と表記)は駒ヶ嶽にあり、「社 南向三尺作 窟ノ内ニ相建居申候事」「祭日 九月廿九日」とし、日宮については、「社 東向三尺作 大日嶽絶頂ニ相建居申候事」「祭日 九月八日」としている。これらは山頂部の社殿二つをいったもので祭神説明はないが、駒形(根)神は、日宮神「大日孁尊」と対等に記される「吾勝尊」のこととみられる。駒形根神社社記の祭祀説明のわかりにくさは、駒形根神社=駒形宮は「諸神」「数十座」の祭祀をするもので、駒形(根)神の鎮座嶽を曖昧にしていることに尽きる。社記の冒頭は、駒形山は「古ヘノ陸奥ノ国〔吾勝郷雄勝郷〕」の境界に聳える山だと書かれていた。「吾勝郷」は吾勝尊ゆえの郷名であろう。吾勝尊と呼ばれる謎の神こそが本来の駒形神の異称とみるしかない。駒形神=吾勝尊とはなにか。
 社記は「駒形大明神ノ祭日及ビ祭式」の項の冒頭を、次のように記している。

   旧記ニ云フ 日本武尊曰ハク駒形大神ニ奉祀スル者 必ズ神宮ノ祭式ニ擬ス可キ也 又云フ御岳大神及ビ吾勝大神神幸ノ時 鼻節神必ズ啓行スベシト〔鼻節者[ハ]蓋シ猿田彦大神ト謂フ〕 又云フ 岳宮里宮太諄辞[フトノリトゴト]大祓有リ 宮司コレヲ掌ル 尤[モット]モ一社ノ重任也

 駒形大神二神(御岳大神と吾勝大神)の祭祀は「神宮ノ祭式ニ擬ス可キ也」という。御岳大神の「御岳」とは大日嶽のことで、この岳神の筆頭神は「大日孁[おほひるめ]尊」とされていた。大日孁尊は神宮(内宮)正殿神とされる天照大神=アマテラスの異称である。駒形山祭祀のわかりにくさは、どうやら神宮祭祀(のわかりにくさ)と二重化していることからくるようだ。
 神宮において、内宮神=天照大神と同格・別格祭祀がなされているのが、神宮の地主神を秘してまつる第一別宮・荒祭宮で、この宮の神は「天照大神荒魂」と呼ばれる。駒形大神を景行時代に当地へまつったとされる日本武尊(ヤマトタケル)の姨[おば]が倭姫[やまとひめ]だが、彼女が自身を御杖代[みつえしろ]として、天照大神を三輪山山麓から伊勢へと奉斎する紆余の過程を記したのが『倭姫命世記』(神道五部書の一書)である。荒祭宮の神は同書で、次のように説明されている(『中世神道論』、『日本思想体系』所収)。

  荒祭宮一座〔皇太神宮ノ荒魂。伊邪那伎大神所生[アレマス]神。八十枉津日神と名づくる也〕一名は瀬織津比咩神是れ也。御形は鏡に座します。

 駒形山において、皇太神宮神=大日孁尊とともに別格神としてまつられるのが吾勝大神である。「吾勝」の「アカツ」「アガツ」と類音を有する神がここには記されている。一名を「瀬織津比咩神」とするも「八十枉津[やそまがつ]日神」がそれである。「八十」は、大いなるといった意味を含む接頭語で、これをはずしてみれば、マガツヒノカミという音が残る。謎の吾勝大神・吾勝尊は、天照大神=大日孁尊の「荒魂」、つまり「枉津[まがつ]大神」が転じた神名かとみられる。
 社記は、駒形大神二神(御岳大神と吾勝大神)の神幸においては、鼻節神(猿田彦大神)を先払いの神とすべきだという(「啓行スベシ」)。鼻節神は、陸奥国では鹽竈神の元神(の男神)で、この神をまつる鼻節神社は延喜式においては「明神大社」という破格の祭祀対象社とみなされていた。鼻節神=猿田彦大神は道先案内・先導の神とされるのが俗解である。一方、神宮においては、この神は興玉神と呼ばれ、神宮の地主神の一神(男神)で内宮正殿玉垣内に秘して丁重にまつられている。興玉神は、二見浦から五十鈴川を遡行し上流部の鏡岩に影向した最古の農耕・太陽神である。
 駒形大神の祭祀は神宮の祭式に擬すべきであるという社記の記述は重要である。社記はさらに、なかでも「大祓」については「宮司コレヲ掌ル 尤[モット]モ一社ノ重任也」と記している。「尤も」は「最も」だろう。大祓の祭式こそが「最モ一社ノ重任也」と認識されていることは、駒形神祭祀の内情を明かして余りあるというべきかもしれない。なぜなら、遠野・早池峰郷においては、この大祓神とされた神、つまり瀬織津姫神こそが早池峰大神=駒形大神だからである。駒形根神社は、瀬織津姫神を自社の主神におくことなく枉津大神から吾勝大神へと変名化したらしい。ここには、本来の駒形山の主神を消し、さらに大祓神へと降格祭祀をした、その罪障感からだろう、「大祓」を自社の最重要な祭式として認識しているさまがみられる。
 神宮祭祀が駒形山祭祀に投影しているということは、駒形山にも秘めた男系太陽神の祭祀があるということなのだろう。神宮祭祀がそうであったように、駒形山の大日嶽において、大日孁尊(=天照大神)が強調されることに、神宮の擬制的祭祀もまたよく投影しているとみられる。鼻節神という男系太陽神を駒形大神二神の神幸に必ずともなえというのも、これも屈折した太陽神祭祀への配慮を暗示しているようだ。


三 吾勝尊という駒形神

▲荒雄川神社(大崎市岩出山町池月)
    
 石碑「勅宣日宮」は、駒形根神社は「出羽の国をかけて百八十六村の鎮守」と刻し、『安永風土記』は「式内社、駒形神、一二三迫、西磐井、羽州雄勝郷、凡百八十六邑総鎮守」と記していた。駒形山・駒形根神社の信仰圏域の一つである「一迫」の鬼首[おにこうべ]村にあるのが荒雄岳で、この山神・水神をまつるのが荒雄川神社である。大崎市岩出山町にある荒雄川神社里宮は、駒形山信仰圈で、おそらく唯一といってよいが、その主祭神の名から瀬織津姫神の名を消すことなく表示しつづけている希有な社である。
「陸奥国栗原郡大日岳社記」は、この荒雄岳を「中山」とし、荒雄川神社を「吾児宮」として、次のように記している。

                    吾児[アカコノ]宮〔伝ヘニ曰ク吾勝児[アカツコ]尊ヲ祭ル 大日[オホヒル]尊ヲ合セ祭ル〕
                    奥州一迫荘鬼首村〔古ヘノ吾勝郷〕中山ニ在リ コレヲ吾兒[アカツコ]大明神ト謂フ 又曰ク脇子明神ト 社跡猶存シ祭日別当無シ 中山ノ左右ニ姉森〔或ヒハ日神ヲ祭ルト〕弟森〔或ヒハ速男神ヲ祭ルト〕有リ 及ビ従神三十六神ノ社跡有リ 今ニ略[ホボ]存ス

 荒雄川神社の異称は「三十六所明神」で、これらはすべて瀬織津姫を祭神としていたが、「三十六所」は文中「従神三十六神ノ社跡有リ」と正確に対応している。駒形根神社の社記は、瀬織津姫神の名を、吾勝児[アカツコ]尊、吾兒[アカツコ]大明神、脇子明神といった異称を並べて記している。また、駒形神の異称は吾勝尊・吾勝大神であったが、「児」の一字の有無が類縁の神であることをよく告げている。駒形神=吾勝尊の「児」神=子神が吾勝児尊ということだが、これは字義通りに親子関係にある神という意味ではない。
 社記は、吾勝尊をまつる吾勝宮の項を、次のように記している。

  吾勝宮
   同州(奥州)西岩井荘市野々村〔古ヘハ吾勝郷吾勝児村〕忍骨山[オシホネヤマ]ニ在リ 祭ル所ノ神一座吾勝尊 或ヒハ曰ク日本武尊ヲ合ハセ祭ルト謂フ コレヲ勝宮大明神 今ニ保呂羽大権現ト云フ小社猶存ス 祭日別当有リ

 吾勝尊という駒形神は「古へ」の「吾勝郷吾勝児村」にまつられているという。吾勝児村は吾勝児尊がまつられるゆえの村名であろうが、そこには吾勝児尊ではなく駒形神=吾勝尊がまつられ、現在は「保呂羽大権現」と呼ばれているという。保呂羽大権現は秋田県側に信仰が根強くみられるが、この権現は役小角ゆかりの蔵王権現ともされる。保呂羽権現の本社は、秋田県横手市にある保呂羽山波宇志別神社である。「保呂羽」の意味についてはアイヌ語で解く必要はなく、これは宝竜・法領・法量・飛竜などと同類で、ルーツは熊野那智の地主神・飛滝権現にゆきつく。つまりは、那智の滝神とみられる瀬織津姫をいう(「岩木山の鬼神信仰」、『円空と瀬織津姫』上巻)。
 もう一社、吾勝尊という駒形神をまつる神社を社記から拾ってみる。

  雄勝宮
   羽州ニ在リ〔古ヘハ陸奥国〕 雄勝郡駒形荘相川村〔古ヘハ相換村〕 雄子骨[オシホネ]山ニ在リ 祭ル所ノ神一座吾勝尊 或ヒハ曰ク日本武尊ヲ合ハセ祭ルト謂フ コレヲ正勝大明神 今ニ東鳥海山相川大権現ト云フ 宮殿猶存シ祭日別当有リ

 東鳥海山は現在の湯沢市小野の東に聳える山で、南の神室山は南鳥海山ともいい、いずれも鳥海山の神と同神としている。鳥海山の神は大物忌命とされるが(鳥海山の開山者は円仁とされる)、この神と荒雄岳・荒雄川の神が同神であることはすでに指摘されている(「岩木山の鬼神信仰」参照)。駒形神=吾勝尊と荒雄岳・荒雄川神=吾勝児尊を、異神とみる必要はまったくあるまい。瀬織津姫神は、遠野の石碑伝承が記すように、駒形大神でもあった。
 社記はまた、「伊豆箱根神社三座」の項を「祭ル所ノ神ト駒形大神同体也」とも記している。遠野郷の早池峰神社の元社・親社は旧来内[らいない]村の伊豆神社(伊豆権現社)であり、両社いずれも、祭神は瀬織津姫である。なお、箱根神社については、その地神は芦ノ湖の水神・九頭竜神、つまり、白山神や戸隠神と同体である。芦ノ湖の湖岸北に聳えるのも駒ヶ岳(神山)で、ここは箱根神社の神体山とされている。社記が駒形大神と箱根神(=白山神)を「同体」と述べていることは重要である。
 社記は「仏氏駒形山ヲ以テ仏場ト変ヘ為シテ以来当社ノ祭典礼式皆其ノ故実ヲ失フ 豈嘆スベ可[カ]ラザル哉」、「今按ズルニ仏氏ノ徒[トモガラ]中葉ヨリ駒形宮ヲ以テ誣[タブラカ]シ大日観音ト為ス 俗民頑然ニシテ此ノ誣[ブ]託妖言ヲ信ジ 鳥魚ノ類ヲ供スルヲ忌ミ参詣ノ人モコレヲ忌ミ憚ル 古例ノ廃ルハ此クノ如シ 哀シマザル可[ベ]ケン哉」といった、神仏混淆による神祭式の故実・古例が失われたことへの慨嘆の言葉を記す。ここでやり玉に挙げられている「仏氏」の筆頭人物こそ慈覚大師=円仁といってよい。
 東北において、円仁の名・伝承がある霊地・霊山には、必ずといって過言ではないが、先住の最重要な地神祭祀への神仏混淆という名の祭祀・祭神改竄があった。しかし、この社記がもっている一方の問題に、社記の作者は自覚的ではない。駒形根神社は、明治期の神仏分離を元文四年(一七三九)に早々と先行して実施したが、このとき、明治新政府がおこなったのと同じように、新たな祭祀において表に出してはならない神に対して、それを「神神混淆」ともいうべき曖昧な方法で封じたことである。これは「神仏混淆」を方法とした地神封じを延々とおこなってきた「仏氏」たちの意図と本質的に差異はないのだが、社記の作者は、このことに思いが働いていないようだ。勅命によって「国家鎮護」の大建前のもとに円仁たちがおこなってきた地神封じの苦労も、これでは台無しだが、それはおくとしても、荒雄川神社が自社祭神を瀬織津姫神と主張しているにもかかわらず、駒形根神社と吉田家は、この神名を「吾勝児尊」などという「私議」したくもなるような曖昧な神名に確定しようとしたのである。
 荒雄川神=瀬織津姫神は、中世より荒雄川(江合川)沿い三六ヶ所にまつられていた。しかし、この三六ヶ所の祭祀は突如廃止される。荒雄川神社の社伝は、それを、「寛保三年(一七四三)に、幕命によって江合川(荒雄川)沿いの三六所明神を合祀した」と記している。
 石碑「勅宣日宮」は「京師の神道管領吉田家に諜報して(祭式が)やや旧制に復した」などと刻んでいたが、「陸奥国栗原郡大日岳社記」が「神道管領吉田家」の公認の元に作製されたのは元文五年(一七四〇)のことであった。この社記は、駒形神祭祀の関係社「二十余社」を吉田家に報告するかたちとなっているが、これまでにみてきたように、自社の最重要な祭式を「大祓」としていて、それと裏腹だが、明らかに瀬織津姫神祭祀がなされている社があるにもかかわらず、瀬織津姫神の「せ」の字も出すことなく勝手に祭神名を変更して記録化している。
 社記が完成した元文五年のわずか三年後に、荒雄川神=三六所明神の本社への合祀が「幕命」によってなされている。神宮祭祀を脅かす神を排除するという朝廷の祭祀思想を体現する「神道管領吉田家」が、荒雄川沿い三六ヶ所に瀬織津姫神が集中してまつられる事実を知れば、それは容認できるものではなかったのだろう。それが「幕命」による合祀の理由と考えられる。つまり、神宮祭祀の固守・固執といった観点でいえば、「神道管領吉田家」と朝廷は一体であり、彼らが抱く祭祀思想・神宮思想を、幕府→仙台藩を使って荒雄川神社に対して下命・行使したというのが実態であろう。京都・吉田家は江戸期の内務省神社局(→神社本庁)であった。


四 鬼姫と呼ばれた滝神

 駒形根神社の根本社記といってよい「陸奥国栗原郡大日岳社記」は元文五年(一七四〇)に作製された。前年の元文四年には早々と神仏混淆から脱して神道一本の社として再生したというのが現在の駒形根神社のはじまりである。
 同社宮司の鈴杵氏は、社記の前書きで、「元文以来が突然と出てくる。まるで、神社が突然とできたようである」と驚きを隠さない。また、この社記の成書時、「その時、仏教時代の史料を隠したものであろう」と推測してもいる。「突然とできた」のは神社ばかりでなく、社記、つまり、日本武尊による駒形神の勧請といった現在に流布される由緒記もそうだったにちがいない。この神仏分離時に「仏教時代の史料を隠した」というのは、これも明治期の神仏分離から廃仏へと向かった動きとよく似ている。ただ、それが一般にはみえないところ、つまり駒形根神社一社内でおこなわれたというちがいはある。
 いずれにしても、駒形山(栗駒山=須川岳)における「仏教時代の史料」は断片的なものしか残っていない。これまでにみてきたところをふりかえってみれば、円仁に象徴される天台宗徒の痕跡は、神宮寺の駒形山大昼寺が円仁によって嘉祥三年(八五〇)に創建されたということ、また、「仏氏ノ徒[トモガラ]中葉ヨリ駒形宮ヲ以テ誣[タブラカ]シ大日観音ト為ス」とあったように、駒形山には大日如来と観音(馬頭観音)の二尊が本地の仏として設定されたことがわかるのみである。これらの垂迹神は、大日如来については大日孁尊、観音(馬頭観音)については吾勝尊(駒形神)が対応している。
 ところで、栗駒山=須川岳は奥羽山脈の一角を構成する山(連峰)で、南東の栗原郡側には一迫川・二迫川・三迫川、西の秋田・雄勝郡側には赤川→鳴瀬川や皆瀬川、北の西磐井郡側には磐井川を流出させる水分[みくまり]の山でもある。『大日本地名辞書』の表現では「磐井川の源頭にあたり、中央分水山脈の一雄峰なり」となる。駒形神に秘された神が水分神・水神であるという神徳をもつことは、この山の立地・地勢そのものが証している。栗駒山を水源山として流れ出す川で、山の西の諸川がゆきつくのは雄物川であり、東の諸川はすべて北上川(古えの日高見川)の支流を構成している。
 社記の冒頭は「古ヘノ陸奥ノ国〔吾勝郷雄勝郷〕ノ界[サカヒ]駒形ノ巓[イタダキ]大日嶽[オホヒルダケ]ニ在[ア]レマス」と書かれていた。雄勝郷は雄勝郡として、現在は秋田県の郡名としてみられるが、かつての陸奥国・駒形山の祭祀を中心にみるなら、荘園郷としての雄勝郷の名を有していた。同じく、栗原郡や西磐井郡の吾勝郷もあった。たとえば、社記には、栗原郡一迫の鬼首村は「奥州一迫荘鬼首村〔古ヘノ吾勝郷〕」と書かれる。「一迫荘」の表記が荘園であったことを端的に表している。
『雄勝町史』は、「荘園の制度は大化の改新後天平十五年に定められたものであるが出羽国については極めて明らかでない。駒ヶ嵩荘(駒形ノ荘)だけは仁寿元年に五箇の荘の荘園を神領として祭祀料を徴収していた。即ち宮城県の一ノ迫[ハザマ]の荘、二ノ迫の荘、三ノ迫の荘、岩手県の西磐井の荘、秋田県の駒形の荘の五箇の荘であった。駒形の荘とは雄勝郷のことである」と、駒形山(駒ヶ嵩)には四方に五箇の荘が設けられていたことがわかる。また、駒形山の祭祀料の徴収が仁寿元年(八五一)になされていたことから、この荘園の制度が駒形山の神仏混淆時代と重なることがわかる。円仁が駒形山大昼寺を創建した嘉祥三年(八五〇)の翌年に祭祀料の徴収がされている記録があるのは重要なことだろう。なぜなら、駒形山が円仁によって神仏混淆化されたことと、駒形山祭祀に関わる五箇荘が整備されたことは関係していると考えられるからである。石碑「勅宣日宮」が、「本郡(栗原郡)の式社駒形根神社は出羽の国をかけて百八十六村の鎮守なる」と高らかに述べていたのも、この五箇荘の荘園領域を指すといってよい。
 ところで、「陸奥国栗原郡大日岳社記」は、神道側の立場から、「仏氏駒形山ヲ以テ仏場ト変ヘ為シテ以来当社ノ祭典礼式皆其ノ故実ヲ失フ」、「仏氏ノ徒[トモガラ]中葉ヨリ駒形宮ヲ以テ誣[タブラカ]シ大日観音ト為ス」と、「仏氏」による駒形山祭祀の変質を指摘していた。この仏氏のはじまりの象徴として慈覚大師=円仁の名はある。
 栗駒山の山岳登山家・小関純夫氏によると、栗駒山の山頂部には「三途の川」があり、その川にかかる約四〇㍍ほどの滝は「鬼姫ノ滝」と命名されているという。それにしても「鬼姫ノ滝」とはよくも名づけたものである。こういった異様な滝名がみられるのは、全国でも栗駒山だけではなかろうか。まさにエミシの国ゆえの「鬼」姫の滝なのだろう。
 栗駒山を中心とした荘園郷といってよい吾勝郷・雄勝郷の雄勝郷には、地獄の霊場として知られる川原毛地獄があり、円仁はここで地蔵尊を彫っている。俗に三大霊山、つまり、地獄の思想を体現している三大霊地といえば、この川原毛と恐山と立山とされる。越中の立山には最澄による姥尊彫像の伝承があり、川原毛と恐山には円仁伝承がみられる。
 駒形根神社を「駒形山大昼寺」と称し、そこに本地仏として「大日観音」をまつったのも円仁であった。円仁は唐・五台山竹林寺で浄土思想をすでに学んでいた。わたしは、駒形山=栗駒山に地獄・浄土の思想を持ち込み、この山の地神・水神を封じたのは、やはり円仁だったろうとおもう。
 吉田東伍『大日本地名辞書』は「封内記」(田辺希文・希元『封内風土記(安永風土記)』)の記載として、栗駒山=須川岳の関係記事を紹介している。

  封内記云、西磐井郡須川岳、温泉在岳中、浄土在北領、土俗号五百羅漢。石高三尺乃至一丈五尺許、数百相並、胎内クグリ石、高二丈許、其中有穴、人皆クグリ之、八万地獄、沢中而四方大小湖池相連、剣山尖石並峙、死出山小峰也、白洲峠産硫黄、三途川、源出自須川大日沢、会磐井川、岩井渤化、磐井川之源也。

 栗駒山=須川岳は火山で、北嶺の剣岳には須川温泉という山上の温泉がある。三途の川はこの剣岳(剣山)尖石(死出山小峰)から流れくる湯川なのだろう。この川は、須川大日沢(大日嶽)から流れくる川(現在の磐井川本流)と合流し「磐井川之源」を構成している。三途の川の「鬼姫ノ滝」近くには「北奥の滝」と命名された滝もみられるが、三途の川で「鬼姫」(姥神だろう)と呼ばれた滝神こそが本来の駒形山=栗駒山の地神(酢川=須川温泉神)だったとおもう。なぜなら、駒形神=吾勝大神こと枉津日神=瀬織津比咩神は、神宮においては瀧祭大神、つまり五十鈴川水源部の滝神でもあったからである。また、この神は伊豆・熱海においては伊豆権現=走湯[そうとう]権現と呼ばれ、岩窟内から湧き出し流れくる走湯[はしりゆ]の温泉神でもあった。この走湯は、江戸期までは熱海の海岸に落下してまさに滝をなしていたように、つまりは湯滝神でもあった。
 駒形山(栗駒山=須川岳)は大日嶽と駒ヶ嶽の二峰から成る総称山名だったが、駒形山の主座(ピーク)を大日嶽に譲ったまま、一方の駒ヶ嶽の所在は不明という不思議が今もある。この消えた駒ヶ嶽という謎の峰は、栗駒山の北嶺・剣岳の異称としてあったことが考えられる。


五 平泉白山神の古跡地

 栗駒山=須川岳を水源山として流れくるのが磐井川で、この川は北上川の有数の支流の一つである。『封内風土記』(一七七二)が平泉の項に「西磐井郡吾勝郷平泉邑」と記すように、磐井川流域の「平泉邑」を含む諸村もまた、駒形山祭祀にとっては荘園郷=吾勝郷を構成していた。
 栗駒山は栗原郡の駒形山で、その頭の文字をとって栗駒山と命名されたものだが、これは北奥(岩手)の駒形山(駒ヶ岳)と区別するための名であった。相原友直『平泉雑記』(一七七三)は、「栗原ノ駒形岳ハ西岩井五串ニ跨リ、平泉ノ西ニアタリ、平泉ヨリ奧道二十余里ヲ隔ツ、其山突亢トシテ青空ヲササヒ残雪皚々[カイカイ]トシテ五六月ニ至ルマテ消ルコトナシ」と、栗駒山を「栗原ノ駒形岳」としていて、「俗に此山須川嶽ト云」とも書いている。
 引用文中「五串」は「いつくし」と訓じるが、この「いつくし」と関わる宮が磐井川流域にある。『封内風土記』は「五串邑」の項の神社紹介で、「山王窟 伝に曰く、仁明帝の嘉祥三年、慈覚大師の勧請。土人これを称し、厳宮[いつくしのみや]大明神山王山と云ふ。あるいは厳美宮[いつくしのみや]と云ふ」と、「いつくし」を厳宮あるいは厳美宮の訓にあてている。山王窟の厳宮=厳美宮には厳神あるいは厳美神と呼ばれる謎の神が鎮座していて、慈覚大師=円仁は嘉祥三年(八五〇)、ここに「山王窟」、つまり比叡山守護神の山王神を勧請したらしい。嘉祥三年というのは、駒形山に駒形山大昼寺が円仁によって創建された年で、これらは一連の円仁の行為とみられる。
 駒形根神社社記「陸奥国栗原郡大日岳社記」は、この厳宮=厳美宮を美宮[イツクシノミヤ]として、次のように説明している。

  美宮
   同州(奥州)西岩井荘五串邑厳美[イツクシ]山ニ在リ 祭ル所ノ神三座 三美女[ミツウツクシノ]神〔大日孁尊ノ姫児[ヒメミコ]〕後ニ大日孁尊ト合ハセ祭ル コレヲ美女宮[ウツクシヒメノミヤ] 或ヒハ曰ク美麗[ウツクシノ]大明神 今ニ山王権現ト云フ 山ヲ以テ神体ト為ス 故ニ宮殿無シ 中古已来美窟ヲ宮殿ト為ス 小宮猶存シ祭日別当有リ 蓋[ケダ]シ此ノ山ノ美[ウツクシノ]山 コノ美窟[ウツクシノイワヤ]清麗言[カタ]ルベカラズ 瀑流有リ 白糸綿々大空ヲ懸[カケ]ルガ如シ 巌石皆斐美有リ滑沢宜[ムベ]ナル哉 麗美[ウツクシ]山ノ名有リ

 歯の浮くような賛美がなされているが、風土記記すところの厳神あるいは厳美神と呼ばれる謎の神は「三美女神」であり、「大日孁尊ノ姫児[ヒメミコ]」だという。記紀神話は、天安河あるいは天真名井における大日孁尊=アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」によって五男三女神の誕生を書いていて、これを下敷きとしての記述なのだろう。アマテラスの「姫児[ヒメミコ]」は、まさに「三美女神」、つまり、俗に宗像三女神を指す。
 社記はまた、三途の川の水源山の剣岳の神については、次のように記している。

  剣嶽
   此ノ嶽 奥州西岩井荘五串邑ニ在リ〔古ヘノ吾勝郷美麗[ミイツクシノ]村〕祭ル所ノ神ハ素戔嗚尊ノ三剣也 伝ヘニ曰ク此ノ岳ヲ以テ神体ト為ス 故ニ宮殿無ク此ノ嶽也 険阻ニシテ群山ヨリ秀デ草木生ヘズ 巌石ノ光鋭ク恰モ白刃ヲ並ベ立テタルガ如シ 里人嶽上ヲ渉[ワタ]ルヲ得ズ 故ニ名ヲ剣嶽ト号ス

 越中立山の地神が鎮座する立山別峰・剣岳を彷彿とさせる記述だが、栗駒山の剣岳においては、「祭ル所ノ神ハ素戔嗚尊ノ三剣也」とされる。アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」神話によれば、この「三剣」によって誕生した神は宗像三女神であった。つまり、厳神=厳美神は、剣岳から三途の川へ、そして磐井川を流れて山王窟のある厳美[イツクシ]山=麗美[ウツクシ]山にもまつられていたことになる。この神は「言[カタ]ルベカラズ」の神でもあった。
 山王窟のある厳美山=麗美山は、現在、その山王窟にちなんだものだろう、山王山(五七二㍍)の表記で地図上に載っている。この山王山を水源山としているのが本寺川(磐井川小支流)で、社記は「瀑流有リ 白糸綿々大空ヲ懸[カケ]ルガ如シ 巌石皆斐美有リ滑沢宜[ムベ]ナル哉」と絶賛していた。川名の本寺川の「本寺」は、かつては「骨寺」といった。本寺川沿いには「骨寺村荘園遺跡」があるように、このあたりはかつての「骨寺村」であった。
『封内風土記』は五串村(現在の一関市厳美町)の「本寺」の項を、「伝曰く、慈覚大師の白骨の首を葬り、ゆえにその処を骨寺と称す。古昔、文字を骨寺と書く」としている。円仁の「白骨の首」を埋葬したゆえに「骨寺」だという伝承があるらしい。円仁の遺志による埋葬伝承については山形の山寺(立石寺)がつとに知られるが、五串村の埋葬伝承は「慈覚大師の白骨の首」としていて、こちらはどこかなまなましい。
 この骨寺村には、かつて「大日山中尊寺」があった。風土記は「今の中尊寺、この地よりこれを移す」と書いていて、現在の関山中尊寺の古跡が、ここ骨寺村だったという。また、同村には「平泉野」があり、こちらは「伝に曰く、これすなわち古昔、平泉出る所の地なり。今の平泉の本元にて、この地より、今の地へと移る。また白山社の遺址在り。伝に曰く、慈覚大師、この地より白山社を中尊寺へと移す」といった古伝承が収録されている。現在の中尊寺境内に鎮座する白山神社社伝も、同社の旧祭祀地は「一関磐井川の上流(現在の一関市本寺)」とし、慈覚大師=円仁が嘉祥時代に現在地へ遷座したとしている。骨寺村で「平泉」という霊泉を司る水霊神として白山神はまつられていたようだ。
 円仁による中尊寺の開基は嘉祥三年(八五〇)のことというのが通説である。また、中尊寺の鎮守神・守護神は、江戸期まで、北に白山神社(白山権現)、南に日吉神社(山王社)が設けられていた(山王社は明治の神仏分離期に釈迦堂へと転身する)。
 高平真藤編『平泉志』(明治十八年)は「骨寺」について、次のように記している。

  今之を本寺と云へり。一説に当村蓮花谷に逆柴山[さかしばやま]と云ふありて、此処に慈覚大師の髑髏[どくろ]を埋めて建し塔あり。故に骨寺と号し、其寺跡及ひ尼寺の跡あり。又平泉野と云ふ所もありて、野中に冷水あり。旱魃[かんばつ]といへとも涸[か]るることなし。即ち平泉の本源なりと云へり。又山王窟あり。堂は窟に拠りて造れる様、達谷窟の毘沙門堂に準す。嘉祥年中、中尊寺に遷すと云へり。(適宜句読点を補った)

 中尊寺は、嘉祥三年に円仁が平泉の現在地へと遷したもので、それをもって「開基」年としている。また、その旧跡地から、円仁は、白山神社と山王窟=日吉山王社を、中尊寺と一緒に遷座させたようだ。
 ここで注視すべきことが、少なくとも三つあることに気づく。一つは、現在の関山中尊寺が、かつては「大日山中尊寺」と称してはじまっていたこと、もう一つは、山王窟(山王社)は円仁によって勧請されたものだったが、ここには、宗像三女神を仮称神とする駒形山剣岳の神がすでにまつられていたこと、最後は、「平泉の本元」「平泉の本源」とされる霊泉の湧き出す「平泉野」の地(骨寺村)には白山神社がすでにまつられていたことである。ちなみに、比叡山延暦寺の鎮守・日吉山王社境内の客人宮・白山宮が同社に勧請されるのは平安末期のことで、宗像神をまつる宇佐宮が同社に勧請されるのは、時代がさらに下った慶長三年(一五九八)のことである。


六 平泉白山神と駒形神

 駒形山は大日嶽と駒ヶ嶽を総称した山名であった。骨寺村(五串村)には駒形山祭祀における荘園があったこと、および、かつての中尊寺の山号が「大日山」であったことからいえることがある。それは、かつての中尊寺は骨寺村の地、つまり西磐井郡五串村の地で、駒形山祭祀の北側の信仰圏域における神宮寺として建立されたのが最初の姿であっただろうということである。円仁が山の東南方にあたる栗原郡において「駒形山大昼寺」を創建したことと、西磐井郡五串村に建立された「大日山中尊寺」の山寺号は密接な関係があるようにみえる。社記は駒形山の大日嶽を「オホヒルダケ」と訓じていた。「日」を「ヒル」と訓じる慣例からいえば、中尊寺山号の大日山は「おほひるやま」である。つまり、円仁の発想からいうなら、大日孁尊[オホヒルメノミコト]の鎮座する山こそが大日山である。いいかえれば、大日如来に混淆した皇祖神が「中尊」として鎮座する山が大日山(大日嶽)であり、この山名は駒形山よりも優位に立つ必要があった。その発想の延長上に中尊寺という寺名があるとみなくてはならない。
 山王山の南の磐井川沿いには「瑞山[みずやま]」という小字地名がある。駒形根神社社記は、この瑞山についても紹介のことばを費やしている。

  瑞山〔或ヒハ瑞瓊[ミズニ]山ト云フ〕
   同村(奥州西岩井荘五串村)ニ在リ 祭ル所ノ神ハ大日孁尊ノ瑞珠[ミズタマ]也 此レ亦山ヲ以テ神体ト為ス 故ニ宮殿無シ 山深ク谷ハ幽瀑流川ノ沢ノ美ハ珠玉玲瓏ノ如シ 実[マコト]ニ此レ瑞瓊[ミズニ]山也 山口ニ霊沼有リコレヲ号シ曰ク瑞沼ト 沼南ニ瓊綸積[ニホツミ]森有リ

 平泉野にしても、この瑞山=瑞瓊山にしても、現在、これらをどこに比定・限定するかはむずかしいところである。ただし、瑞山については、吉田東伍『大日本地名辞書』が「水山、一に瑞山に作る」として、「平泉名勝志云、水山の山王窟は、形勢達谷窟に相似たり」と貴重な引用をしていた。「平泉名勝志」の認識では、前述の山王窟のある山王山が瑞山=水山となるらしい。平泉野の「平泉」と呼ばれる霊泉が、もし瑞山=瑞瓊山の山口の霊沼=瑞沼のこととすれば、そこにまつられていた白山神は「大日孁尊ノ瑞珠」でもあったことになる。こういった神名は、駒形山祭祀圏内、あるいは、駒形根神社社記内においてのみみえるものといってよく、その意味することは、大日孁尊=天照大神の水徳を体現・突出化させた近似神・尊称神ということであろう。ここで大日孁尊ではなく、ことさらに「大日孁尊ノ瑞珠」と呼称することに、この社記の屈折した表出心理がみえかくれしている。神宮内域において、水徳を一身に体現している神は荒祭宮の神(天照大神荒魂)あるいは同神の瀧祭大神とみてよい。また、荒魂は新魂ともみられ、その新たな生成の瑞々しいさまをいいかえたものが「瑞珠」なのかもしれない。
 社記は、剣岳および山王山の神は宗像三女神としていたが、この三女神をまつる社をもう一社記載している。姫宮という。

  姫[ヒメノ]宮
   同荘(羽州駒形荘)山田村玉森ニ在リ 祭ル所ノ神三座大日尊ノ姫児[ヒメミコ] 後に大日尊ト合セ祭ル コレヲ姫大神ト謂フ 今ニ正八幡大明神ト云フ 小宮猶存シ祭日別当有リ

 文中「大日尊」は大日孁尊のこととおもうが、この宗像三女神は八幡姫大神を表している。羽州駒形荘にある姫宮は「今ニ正八幡大明神ト云フ 小宮猶存シ」とあるように、この宮は八幡神社の名で湯沢市駒形町大門に現存している。
 社記は、円仁の前のこととして、この大門八幡神社とも関わる坂上田村麻呂伝承も記していた。

   往昔 田村将軍東賊ヲ討ツノ時 駒峯大明神ニ祈誓シ其ノ夜神策ヲ夢中ニ得テ 以テ悉ク凶徒ヲ滅シ 奥羽復平ス 将軍 報賽ヲ為シ 大イニ修造ヲ加ヘ以テ礼典ヲ尽シ 此ノ山麓ノ四至ニ当テ四大門ヲ建テ駒形大明神ノ五字ヲ自書シテ掲グ〔或ヒハ云フ小野篁亦云フ小野春風ト〕 古額伝ハラズ 鳥居ノ跡今尚山ノ四辺ニ在存ス

 坂上田村麻呂が戦勝祈願をした神として「駒峯大明神」はあった。田村麻呂は「奥羽復平」がかなえられると、駒形山山麓の四方に大門を四つ建立し、そこに「駒形大明神」の額を奉納したという。社記は、この「古額伝ハラズ」としていたが、大門八幡神社にはこの「古額」が伝わっていた。同社は祭神を阿弥陀八幡とするも、由緒の項に、「大同年中に坂上田村麻呂奥羽下向のおり、ここに白旗を建て自ら神像をつくり、白山妙理大権現を祀ったという。その時の自書による駒形大明神という大額が今も保存されている」と驚くべきことが書かれている(秋田県神社庁『秋田県神社名鑑』)。
 大門八幡神社の前身社は、田村麻呂が「白旗を建て自ら神像をつくり、白山妙理大権現を祀った」、しかも、奉納した大額には「駒形大明神」と自書されていたというのである。田村麻呂にとって、駒形大明神は白旗神とも白山妙理大権現ともみなされる神であったらしい。この由緒・伝承に、駒形根神社社記が記す八幡姫大神の祭神伝承を重ねると、駒形大明神は白旗神・白山神・八幡姫大神(宗像神)と、一見無縁にみえる神名が並ぶことになるが、これらに共通して秘められた神が一神いることに気づかざるをえない。
 田村麻呂奉納の大額について神社に確認したところ、いつのまにか所在不明となっているとのことだが、かつての大門八幡神社には、田村麻呂伝承を仮装するも、駒形大明神と白山神、そして八幡姫大神を同神とみなすという、日本の神まつりの深層に対する透徹した認識をもっていた人物がいたようである。
 田村麻呂や円仁から時代は下るが、嘉応二年(一一七〇)、藤原秀衡が鎮守府将軍に任命されたとき、彼が「奥州一の宮」に定めたのは、駒形根神社でも駒形神社でもなく、駒形大神=吾勝大神の子神をまつるとみなされていた荒雄川神社であった。
 秀衡が信奉していた社に室根神社がある。同社の神体山は室根山で旧東磐井郡(現一関市室根町)に聳えていた。室根山の旧名は鬼首[おにこうべ]山だったが、秀衡が熊野・牟婁郡→牟婁峯山にちなんで山名を変更した。室根神社は、秀衡の時代までは瀬織津姫を熊野本宮神としてまつっていた(のちに瀬織津姫神の名は消え、今は唐桑半島の上陸地に瀬織津姫神社(舞根神社)として小さな祭祀がおこなわれている)。
 室根神社社伝は「嘉応年間(一一六九~一一七一)まで勅使の下向があったが、藤原秀衡が鎮守府将軍として平泉に御所を置いてから朝廷では前例を廃した」と記している。室根神社への勅使派遣が廃されたのは、秀衡が荒雄川神社を「奥州一の宮」に定めたことが理由だろう。これは、御所という奥州統治の要の場所を平泉に定めたことで、かつての中尊寺と縁深い大日山=駒形山を奥州の総鎮守の山としたということである。
 しかし、にもかかわらず、秀衡は駒形根神社や駒形神社ではなく、荒雄川神社を「奥州一の宮」に選定した。秀衡にとって、本来の駒形神をまつるのは荒雄川神社だったということなのだろう。藤原秀衡が、瀬織津姫神をまつりつづける荒雄川神社をあえて選んだ、この意識のありようは特記しておいてよい。
 おもえば、奥州藤原氏初代の藤原清衡(一〇五六~一一二八)、あるいはその父・経清(?~一〇六二)が拠点とした豊田館(奥州市江刺区岩谷堂)のある江刺郡の総鎮守は、これも白山権現であった(『江刺郡志』大正十四年)。奥州藤原氏の白山信仰は累代のものとみることができる。さらに藤原氏を安倍氏にまでさかのぼるなら、それは早池峰山信仰へとつながっている(早池峰山頂には「安倍貞任霊神」がまつられている…大迫早池峰神社由緒)。早池峰山が白山と同じ祭礼日(旧暦六月十八日)としていたことや、同じ本地仏(十一面観音)としていたことは偶然ではない。
 中尊寺境内に現存する白山神社(江戸期までは白山権現)については、「白山權現ハ中尊寺一山ノ鎮守也」、「神体ハ昔ヨリ秘シテ不許拜見之、本地仏十一面観音、慈覚大師ノ作、宮殿ノ外二安ス」とされる(『平泉雑記』)。寺社の多くは南面して建立されるのが一般だが、この白山神社の社殿は南面ではなく南南西に向けて建立されている。つまり、拝殿前に立った参拝者は北北東方向を拝むように建立されている。この参拝・遙拝の先、胆沢平野の彼方に聳えるのが、駒形大神=瀬織津姫神をまつりつづける早池峰山であることも偶然ではあるまい。
 秀衡は奥州鎮守府将軍という最高位の立場もあっただろう、平泉からは遙か遠地といってよい加賀・越前・美濃・飛騨の国界に聳える白山にまで、本来の白山神守護の関与をしていくことになる。秀衡も大門八幡神社の謎の認識者と同じ慧眼をもっていたことが考えられ、さらにいえば、同じ眼を有していた円空と秀衡との時空を超えた出会いが、白山山麓で実現することになる。寛文十二年(一六七二)のことである(『円空と瀬織津姫』下巻)。


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