カッパ狛犬とインフルエンザ

更新日:2012/1/28(土) 午前 1:49


▲常堅寺境内・十王堂(最上段に閻魔大王がみえる)

 蓮峰山常堅寺・丸谷住職と談話していて、本堂が南面ではなく東面している理由の不明性や、境内の十王堂とセットのカッパ狛犬といわれる狛犬が頭に皿をもつかのごとくになぜつくられたのかなど、小さな謎がいくつもあることが話題となった。カッパ狛犬の表情はお世辞にもかわいげがあるとはいえない、いえないどころか、かなり凶暴なゾンビ的面つきをしているとはわたしの感想──。




▲十王堂を護るカッパ狛犬

 帰りの車中、つよい悪寒を感じ風邪をひいたかとおもいながら倉庫アパートへもどると、いきなり体が動かなくなった。体中の要所の骨が全部折れた感覚というべきか、要するに立つも座るもならず、ようやく布団にもぐりこんだものの高熱が追い打ちをかけてくる。意識がややかすんだ状態だったが、こういうときはただ眠るしかないと自分に言い聞かせた。しかし、いざ眠ろうとするものの、病魔襲来があまりに唐突であったし、これはカッパ狛犬の祟りかなどと、おそろしく非現実的な発想も浮かんできて、よく眠れたものではない。カッパ狛犬に無理解のまま悪口を言った(思った)のはわるかったななどと殊勝にも反省したりしている。以下は、三十九度という高熱のなかでのカッパ狛犬への妄想言で、だれもこれは信じてならない話である。
 中世の自由仏教の雄・曹洞宗が教線の拡大を図るためにとった方法が、すでに廃寺となっていた天台宗寺院を再興し、その寺院を曹洞宗寺院として新たに定立してゆくというものだった。常堅寺境内に十王堂が残存していることに、ここがかつて天台宗の寺院であったことがよく表れている。天台宗がそこに寺院を建立するとき、その地にはすでに神まつりが先行していたはずで、それは常堅寺の地も例外ではなかった。天台宗寺院によって、この地の最重要な神はどこへ行ったかといえば十王堂に封印されたとみるしかない。この神は水霊神であり、純な神まつりからすれば東面してまつられる神だった。それが十王堂に封印されたのである。それを守護する狛犬はこの神を信奉する民の比喩でもあろうか。あるいは水霊神の眷属神とみたててカッパ化の形象となったものか、さらに想像をたくましくしていえば、頭をえぐられるのは、自由な思考を封殺されるのと一緒だろう。途方もない怒りを湛えた狛犬の表情は尋常でない。ひょっとすると、これはもともと、カッパを意図した造型ではなかったのかもしれない。
 高熱の猛威は次の日も収まらず、ニュースでは、埼玉県の某病院で院内感染、インフルエンザによる発熱のため高齢の女性が亡くなったといっている。このときはじめて、わたしは自分の症状が風邪の類ではないかもしれないとおもいはじめた。そもそも風邪とインフルエンザのちがいをよくわかっていなかった自分だった。ネットで検索していたら、中外製薬「インフルエンザ情報サービス」にたどりついた。そこには「インフルエンザと“かぜ”(普通感冒)とは、原因となるウイルスの種類が異なり、通常の“かぜ”(普通感冒)はのどや鼻に症状が現れるのに対し、インフルエンザは急に38~40度の高熱がでるのが特徴」とある。
 ほかに「主な症状」として、悪寒・頭痛・筋痛・関節痛、高度な全身痛・倦怠感などが列挙されているが、どれ一つあてはまらないものはない。合併症としては、気管支炎・インフルエンザ肺炎・細菌性脳炎・脳症が挙げられている。発症二日目にして、わたしはインフルエンザについての学習をすることになった。しかし、学習したからといって症状が改善されるわけではない。ワクチン注射をしに病院まで出掛けてゆく体力の余力もないし、そもそもクスリというものを信用していない自分がいる。
 部屋を隔離病棟のようにしてひたすら眠ることを心がけるも、「高度な全身痛」のため睡眠はぶつ切れ状態だ。体を横にしていてできるのは「考えること」くらいだろう。現代の情報社会は、このインフルエンザ感染による高熱はせいぜい四日の寿命らしいことを教えてくれる。
 しかし、庶民感覚で少し時間を巻き戻してみるならば、こういった得体の知れない病魔に対処するには神仏に頼るしかなかったというのは、そう古い時代の話ではない。たとえば、ただお地蔵さんに祈る、あるいは、病魔を祓う力をお不動さんに発揮してもらおうとした時代があった。ここであえて「神」をいわないのは神仏混淆をイメージしているからなのだが、このお地蔵さんやお不動さんを、本尊(釈迦牟尼仏)とは別に二つともに保有しているお寺がある。常堅寺末寺で天英山喜清院という(遠野市青笹町)。


▲喜清院【参道と本堂】

 喜清院は藩政時代、自身の鎮守として早池峰大権現をまつっていたが、現在の境内社は白山権現と不動堂である(参道をはさんで対面してまつられている)。これら境内社との関係は不明だが、本堂の横室には、延命地蔵菩薩と不動明王像が安置されている。像高はともに三○㎝ほどの小像で、前者は寺宝とされる。『いわてのお寺さん─南部沿岸と遠野』によれば、「毎年六月二十四日、正月二十四日に地蔵講があり、信心の善男善女が参詣し盛大である」とあり、この地蔵講が過去のものでないことを告げている。像容は、半跏像で、地蔵尊としてはとても珍しい姿をしている。地母神的慈愛を感じさせる傑作像である。不動尊(不動明王)の像容は、上半身と下半身のバランスの不安定さを衣紋によって上手に隠している。しかし、そういった技術的批評は意味がなかろう。この不動明王の「眼」は死んでいない──、それがいいし、それがすべてである。


▲喜清院【延命地蔵菩薩半跏像】


▲喜清院【不動明王像】

 喜清院にはかつて早池峰大権現がまつられていた。江戸期(宝暦期)、喜清院には現在の境内社・白山権現はまつられていなかった。少なくとも、盛岡藩『御領分社堂』の記録にはそうある。消えた早池峰大権現はどこへ行ったか──。とりあえず、早池峰の「お山」へ帰ったということにしておこう。
 インフルエンザ三日目に入り、熱は下がりはじめたようだが「高度な全身痛」は相変わらずだ。ただし、自力で立ち上がれるようになったのは大きい。この三日間で口にしたのは、バナナ四本と、それまでも慣習的に愛飲していたS健美茶四リットルで、食欲メータはほとんど零を指したままだった。日頃、知らず知らずに過剰に食べているはずで、その蓄えを考えれば三日程度の絶食もどきは案外体にいいのかもしれない。高熱の洗礼によって一度壊れた全身機能が、部品をはめ直して再生してくるイメージが音をともなって聞こえてくるようだ。人体をロボットのように観念する感覚がなんとなくわかる気がしてきた。
 四日目──。インフルエンザの症状は確実に快方へと向かっている。その襲来は突然であったが、撤退の脚もかなり速いようだ。岩手県のインフルエンザ情報を調べてみると、県の情報としては「インフルエンザ流行注意報発令」(病原種はインフルエンザウイルスA)とあり、前述の中外製薬のサイトでは1月第2週から「警報」と表示されている。本格的流行はこれからなのかもしれない。
 明け方、夢の中──。この因布留縁座神は枕元にやってきて「もう行く」という。「ああ」と応えると「また来るから」という。「どうせ嫌われ者だろう、好きにしたらいい」──。もう対処の仕方はわかったからと独りごちながら、そのまま眠りの深海に下りていった──。

遠野郷天女伝説の故地──三陸町綾里・綾織姫大神【Ⅲ】

更新日:2012/1/21(土) 午後 2:06

 さて、六角牛山の天女(織姫)伝説および綾織の地名譚を語っていたのが『遠野物語拾遺』第三話だった。六角牛山の天女(織姫)は、遠野三山三女神伝説と重層しているのだが、これは帰するところ、三女神の母神がもつ性格の多層性にゆきつくようにみえる。
 伝説を読むとは、伝説を語り継ぐ人々の「心」を読むのと等価であるようにありたい。ここに、遠野郷に伝えられてきた天女(織姫)伝説と深く関わりそうな織姫伝説が三陸沿岸部にあるので、もう少し「神」にまつわる伝説を巡る旅をしてみる。
 岩手日報社出版部編『岩手の伝説を歩く』に、大船渡市三陸町綾里に伝わる綾織姫伝説が収録されている。伝説の概要は次のようなものだ。

 その昔、東北地方がエゾと呼ばれていたころ、陸奥鎮守府多賀城から明神ヶ沢に鎮座する衣多手[きぬたて]神社に、美しい姫が堂守としてきた。姫は機織りが上手で、機織る毎日だった。
 ある時、姫は後の世にまで残るような大きなものを織りたいと長い機をかけ、何日もかかって織り上げた。ところが、姫はそれを自分の庵[いおり]に持ち帰り、櫃[キビツ]の中にいれ、姫はどこかに消えてしまった。しばらくして櫃を開けてみると、布は石に変わっていた。

 この短い伝説は、あくまで伝説だと読み飛ばしてしまいそうな内容に一見みえるが、三陸町綾里の「明神ヶ沢」なる地に、『延喜式』神名帳に載る陸奥国気仙郡三坐の一つ「衣太手神社」(伝説は「衣多手神社」と表記)がまつられていた伝承は注意を引く。ここに謎の「美しい姫」がやってきて、機を毎日織っていたという。それが、長い機を織り終え櫃に入れたまま「どこかに消えてしまった」という。残された櫃を開けてみると、織り上げた布は「石に変わっていた」といった後日譚まで記されている。この石は「キビツ岩(石)」の名で、「明神ヶ沢」にある。


▲キビツ岩(右)と石祠


▲キビツ岩と綾里港

 明神ヶ沢の現地を訪ねてみると、「美しい姫」は「姥[うば]」に変えられた伝説が書かれた案内板がある。それは「明神ヶ沢と綾巻明神(伝説)」と題され、そこには「土地の人々は、姥が綾を織ることから綾織姫と呼び、神様のように敬愛したと云う。綾巻明神は、綾里で最古の神社であると云われる」とある。綾織姫は「長い機」を巻き取って櫃に納めたことから、おそらく「綾巻明神」の異称を生じさせたものなのだろう。それが衣太手神の異称でもあるらしい。
 ところで、伝説では、綾織姫は「どこかに消えてしまった」と書かれていたが、『岩手の伝説を歩く』は、「行方知れずとなった綾織姫は、遠野に移ったとの説もあり、綾織の地名がそれを裏付けるともいわれる」と、伝説の後日譚を書いている。この綾織姫が機(綾)を織っていた里ということで「綾里」の地名譚ともなるが、この魅力的な織姫が「遠野に移った」と伝承されている。この移動は人のそれではなく、神の伝播をいう可能性があるのは、同書が「綾里川をさかのぼった野形地区に、綾織姫をまつった白山神社が、竹林のなかにひっそりとたたずむ」と、白山神社の祭神でもあるらしいことから想像できる。
 昭和八年に刊行された『綾里村誌』をみると、この白山神社について、次のように書かれている。

白山神社
祭神  白山媛命(是は綾織姫命なりと)
宮殿  縦一尺二寸 横二尺   社地 東西三十間 南北三十間。
鎮座地 綾里村字野形      地主 平之丞。
例祭日 旧十一月十四日

 ここには、綾織姫命を白山媛命の異称とする祭神説明がなされている。綾織姫は、綾里においては綾巻明神であり、衣太手神でもあり、白山媛命でもあるということになる。それが遠野と関わっているらしいのである。白山神社は今でも小さな祠だが、そこに奉納されている神札には、次のように書かれている。

奉斎綾織姫大神功勲之随尓守幸賜


▲綾里・白山神社


▲奉納神札

 綾織姫は「大神」と尊称され「幸」を願われる神らしい。案内していただいた三陸町史編集委員の一人・熊谷常孝さんによれば、白山神社祭礼日には綾織姫の幟が立つとのことである。
 一方、遠野郷において、織姫(綾織姫)に相当する神といえば、早池峰神かつ瀧姫神でもある瀬織津姫神をおいてほかにはいまい。愛知県三河地方において、天白神としての瀬織津姫神は、麻織りの織姫神として伝えられていたことも想起される。
 さて、残る衣太手神だが、『気仙神社総覧』(岩手県神社庁気仙支部)によれば、この神をまつっていた社は「衣太手神社五社」と呼ばれ、その内の一社と伝えられているが明らかではないとするのが大船渡市立根町の五葉神社(現祭神:稲蒼魂命)である。この「五社」は具体的にどの社かは不明だが、『気仙神社総覧』は、少なくとももう一社、自社の旧号を衣太手神社という由緒をもっている社があることを告げている。三陸町越喜来字肥ノ田に鎮座する新山[にいやま](現祭神:宇迦之御魂神)である。同社の由緒は示唆に富む内容をもっているので、以下に書き出してみる。

由緒
 建立権主平相国清盛入道の長男小松内大臣平重盛、末男奥州仙台笠井城主横沢の住人平重氏一門が菩提大乗妙典三部一字一石の供養あって此処に納めて観世音を奉建立、別当は天台宗門にて寂光山円覚寺という。年代は永仁年中(一一四一~一一四二)。「大同類聚方」に「気仙郡気前郷(三陸町)に衣太手神があり、神主は秘伝の薬草を気仙薬といっている」と記している。衣太手神はやがて延喜五年(九〇五)に官社に登録され、気仙郡三座の一となっている。
 いまの三陸町の須賀[すが](浦のアイヌ語)の地に鎮座していた。
 越喜来の越も根元は越人[こしじん]の着港の伝説から生れた地名ではなかったか。
 新山神社は平泉藤原清衡の建立の新山寺の後身としても、この地が式内社衣太手神の故地ではなかったか。

 衣太手神の名は『延喜式』神名帳のほかに『大同類聚方』にも記載されているという。同書を繙いてみると、そこには「介前薬 陸奥国気仙郡気瀬直麻呂之所奏元者同国衣太手神社伝方」云々、つまり、気仙薬の説明として「陸奥国気仙郡の気瀬直麻呂が上奏したもので、元は同国の衣太手神社に伝わる処方」とある。その「衣太手神の故地」に、藤原清衡は新山寺を建立し、それが明治期以降、新山神社となったというように読める。
 綾里明神ヶ沢のかつての衣太手神社には綾織姫がやってきて、立根町の五葉神社と越喜来の新山神社が衣太手神祭祀の故地という伝承をもっている。


▲立根町・五葉神社


▲越喜来・新山神社

▲新山神社参道石段より越喜来湾を望む(3.11大津波の疵痕は癒えていない)

「衣太手神社五社」のうち三社がみえてきたが、あと一社、衣太手神をまつるとする社がある。陸前高田市高田町に鎮座する氷上[ひのかみ]神社である(現祭神:衣太手神・登奈孝志[となこし]神・理訓許段[りくこた]神)。気仙郡三座をまとめてまつるというのは無理があるが、祭神を衣太手神としているのは、これまでみてきたなかで氷上神社が唯一である。


▲陸前高田・氷上神社本社

 奥州市江刺区梁川に鎮座する氷上神社の由緒は、「本社の創建は元和三丁巳歳(一六一七)三月。別当内野三蔵院、気仙郡高田村(現陸前高田市)に鎮座せる氷上神社の御分霊を小梁川右膳地行の御除地たる烏帽子山頂に勧請せしに始まる」としていて、この分社祭神は「瀬織津姫命」とある(『岩手県神社名鑑』)。衣太手神をまつる氷上神社の分社が、遠野郷の織姫でもある早池峰神かつ瀧姫神でもある「瀬織津姫命」を明記しているのはことのほか重要にみえる。
 六角牛山への登拝道にある不動滝、この滝神を「太瀧神社」として本殿背後にまつるのが六神石神社だが、同社は、この滝神を「日本武尊」などとしている。『岩手の伝説を歩く』は「綾里川をさかのぼった野形地区に、綾織姫をまつった白山神社が、竹林のなかにひっそりとたたずむ」と書いていた。この綾里川をさらにさかのぼった源流部にあるのも不動滝である。『綾里村誌』は、この滝神をまつる社を「瀧不動明王神社」とし、その鎮座地を「綾里村字野形」、祭神を「日本武男命」としている。「日本武男命」は「日本武尊」のことだろう。この奇異な祭神表示は、綾織姫伝説とともに六角牛山に伝播したものかともおもわないわけではないが、しかし、これも、明治期の神道国教化政策のなせる奇異さとみるのが理にかなっているにちがいない。前述の『御領分社堂』には、修験持社堂として「福岡御代官所七時雨村」の項に別当・三蔵院持ちの「瀧不動明王堂」が記されている。「由緒等不相知」とあるが、これは現在の桜松神社のことで、境内の不動滝は日本滝百選にも選ばれている。ここにまつられる神は「瀬織津姫命」である。熊野・白山・早池峰の瀧姫神でもある瀬織津姫神は、ヤマトタケルなどに安直に置き換えられる神ではないことを確認しておきたい。
 綾里の小さな小さな白山神社は、綾織姫大神という尊称で織姫伝説をこの地につなぎとめていた。この大神が白山比咩神であり衣太手神であるかぎり、綾織姫大神と遠野郷の織姫神・瀧姫神でもある瀬織津姫神は、かぎりなく重なる神姿をしているとはいえるだろう。


▲綾里・不動滝への参道




▲瀧不動明王神社


▲綾里・不動滝【男滝(白糸滝)】


▲綾里・不動滝【女滝】

遠野郷天女伝説の故地──三陸町綾里・綾織姫大神【Ⅱ】

更新日:2012/1/20(金) 午前 10:31

 柳田國男『遠野物語』第二話によって一般に流布されるようになった遠野三女神伝説だが、ここには「大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処」云々と、三女神のほかに、その母神に相当する大昔の女神が登場している。母神は「伊豆権現の社」に留まり、その子神である三女神が遠野三山(早池峰・六角牛山・石神山)の山神となるわけだが、この伝説を神社祭祀と照合していくとき、「伊豆権現の社」(現在の伊豆神社)と早池峰神社の神が同じ「瀬織津姫命」で、つまり、母神と子神(の一神)が同じ神であるという、一見矛盾した親子関係がみえてくる。
 伝説がもし母神の存在を記していなかったならば、三山に三女神がいるということで収まり、伝説は一応完結する。しかし、逆にいえば、この母神の存在を記したことによって、伝説はわたしたちに、伊豆神社─早池峰神社を結ぶ基軸の祭祀ラインが重要であることを教えているともいえるだろう。
 物語は語らないが、三女神が三山の山神として別れたところは附馬牛の神遣[かみわかれ]峠で、そこには神遣神社がまつられている。『定本附馬牛村誌』は、神遣神社は「祭神として早池峰、六角牛、石上の三山の神霊を祀る」とするも、「もと神遣権現堂と云い慈覚大師の開基と伝えられ、早池峰二十末社の首座である」と書いている。


▲神遣神社

 円仁(慈覚大師)が神遣権現堂の開基(創祀)に関与しているとすると、遠野三山三女神伝説の創作契機は円仁時代まで遡及して考えてみる必要が出てくる。
 円仁は、斉衡年中(八五四~八五七)に早池峰山麓へやってきて、妙泉寺と新山宮を創建すると、さらに早池峯大権現の神輿を造り、また、「二十末社を社辺及び村里に安置し、当山の鎮護と為す」とされる(「妙泉寺継図幷兼記」、『早池峰山妙泉寺文書』所収)。この「二十末社」の首座に神遣権現堂があったことは重要で、円仁による三女神創祀の可能性がおぼろにみえてくる。


▲神遣権現碑(「慈覚大師開基」「早池峯二十末社之上首」の刻字がある)

 ここで、円仁に三女神創祀の動機はあるのかという問いを立ててみると、わたしは大いにありうるものとおもう。そうおもう理由は、同じく「妙泉寺継図幷兼記」に、「祓川」の割注として「自薬師岳流川也被煩悩垢穢故円仁士躬自名付祓川」とあるからだ。つまり、円仁は薬師岳より流れくる川(滝川)を、煩悩垢穢を祓うために自ら「祓川」と名づけたというのである。滝川は上流に又一滝があり、その滝神は早池峰神「瀬織津姫命」である。この「祓川」命名伝承が真とすると、円仁は早池峰の神霊・瀧姫神を祓神(祓戸大神)に見立てたことを意味する。その上で三女神の創祀ということになると、これは、大祓祝詞(六月晦大祓)に出てくる、いわゆる祓戸三女神(瀬織津比咩神・速開都比咩[はやあきつひめ]神・速佐須良比咩[はやさすらひめ]神)と重なってくる。これらの神名は一般になじみがあるとはいえないのだが、三山三女神伝説の「別伝説」として(話の展開は荒唐無稽の感があり、しかし実に興味深い内容を示唆しているが割愛する)、そこには、瀬織津姫命は早池峯、速秋津姫命は六角牛山、速佐須良姫命は石上山にまつられたとする話も遠野郷には伝えられていたのである(綾織村教員会編『綾織村郷土誌』昭和七年)。
 これら祓戸三女神の母胎神を大祓祝詞自身は決して語らないし、そのようにつくられている。しかし、古代、祓戸大神とみなすというように政治的に策定された神は、もともと瀬織津姫神一柱で、この祓神化は、神宮祭祀と瀬織津姫神を無縁とみなす意図に深因があった(『円空と瀬織津姫』下巻、参照)。瀬織津姫神を三分割して曖昧化する作為が、この神の祓神化のあと追い打ちをかけることになる。つまり、祓戸三女神の創作・誕生である。
 円仁が当地へやってきた斉衡時代からおよそ九百年後の宝暦八年(一七五八)、妙泉寺(住職・宥全)は藩家老・中舘勘兵衛をはじめとする五人から「神遣之宮」ほかへの質問を受け、それへ回答する文書(控え)が『早池峰山妙泉寺文書』に収録されている。「肩金口上之覚書」と題する文書がそうなのだが、ここには、「神遣之宮」のことが、二条にわたって、次のように回答されている。

一 神遣之宮
 早池峯山ニ附候宮ニハ承候ヘ共 御神躰何レ之神社ニ候哉 尤古実可有之 可被申出候

一 神遣之宮 御神躰何ニ候哉之御尋 成程棟札等ニ者 天照太神と古来御座候得共 十一面尊像ヲ奉号 或者稲荷と号 或者白山と号 天神と号 伊豆権現と号 薬師なとゝも号外段々有之早池峯廿末社之内ニ御座候

 当時の妙泉寺住職・宥全は、読みようによってはずいぶんととぼけた回答をしている。神遣之宮の「御神躰」(神号)については「古実」(おそらく円仁開基の伝承)はあるも、さあ何でしょうといった答えぶりだ。たしかに棟札には古来「天照太神」とはあるが、「十一面尊像」といってきた、この天照太神のほかに、稲荷・白山・天神・伊豆権現などとも号し、ほかに薬師をまつるなどともいい、はっきりしない。しかし、「早池峯廿末社」の内の一社であることはまちがいござりませんといった「口上」がつづく。
 妙泉寺が天台宗から真言宗に転ずるのは寛治年中(一〇八七~一〇九四)のことで、真言宗的本地垂迹の発想からいえば、天照太神ならば大日如来となる。しかし、神遣之宮は「十一面尊像」(十一面観音)をまつるといい、これは、円仁の古い天台宗の発想による本地仏である。さらにいえば、早池峰大権現の本地仏も十一面観音だったから、神遣之宮には早池峰大権現と同体の神がまつられていることにもなる。祭神諸説列挙のなかに「白山」「伊豆権現」が含まれていたことにも、それはよく表れている。伊豆権現が神遣之宮と同体ならば、ここには三女神の母神がいるとみてよかろう。現在、それが「祭神として早池峰、六角牛、石上の三山の神霊を祀る」とされる(『定本附馬牛村誌』)。しかし、厳密にいえば、三山三神霊(子神)の母神(伊豆権現、天照大神「荒魂」の異称をもつ)がここでも消えていることになる。
 天台宗の象徴としての円仁以後、九百年の時間が経ったものの、神遣之宮(神遣権現堂)は十一面観音を主たる祭祀としていた。それが現在、遠野三山の三神霊(三女神)を祭神としているのは、結果として、円仁の所期の意図が反映したものとなっている。円仁は、早池峰神(瀬織津姫神)に対して、大祓祝詞と同じ発想で三女神化せんとしたことは、「神遣」(三山に神を分けて派遣する)という社号に表れているようにおもう。円仁が消そうとした母胎神(母神)の単独祭祀を、遠野郷は、その伝説力によって、三女神と母神の関係として消すことなく今に伝えている。ここに、早池峰─遠野郷の民による、伝説を方法とした切り返しの意志を感じ取ることもできよう。
 ところで、円仁が祭祀干渉の対象としたのは早池峰山ばかりではなかった。遠野三山の一山である六角牛山もそうだった(石神〔石上〕山は不明)。江戸期まで六角牛山大権現の別当寺は善応寺といったが、『早池峰山妙泉寺文書』は付録として、標題を「遠野善応寺由緒」、内題を「真言宗房州宝珠院末寺南部閉伊郡遠野 六角牛山善応寺由緒」とする由緒書を収録している。この由緒書の成文の時代は、記載の最終住職の名から推定すると、『御領分社堂』の社堂調べがはじめられた宝暦九年(一七五九)あたりとみられる。少し読みづらいが、以下に原文を引用する。

一 当寺社領高 九拾五石
 内 四拾五石 六角牛山
   三拾石  山王
   弐拾石  大日
一 遠野横田館之東六角牛山大権現者本地
 薬師医王善逝如来也
  尊像金仏作者末(未)分明 其尊容殊勝而作誠不凡矣
 開基大同年中也云云 然往昔乱世之時罹兵火 当寺代々之旧記等悉焼失 故不審由緒世代 唯古老伝説曰 斉衡年中 釈円仁師〔慈覚大師〕諸州行脚之時 到乎此郷 登当山之絶頂見有異妙不側而 尋聞山之名於村翁等 答云 未知有其名云云 円仁師甚讃嘆曰 然則表六道利益之相而 可号山於六角牛 然トモ憂此嶽峻乎老幼婦女不能詣参于山頂 仍為之造営于新山宮於山麓 奉号之住吉大明神
 住吉四社之本地者 第一殿薬師 第二殿大日 第三殿弥陀 第四殿本地六角牛新山宮奉号住吉 徹底誠夫冝乎
 神□所謂第一坐天照大神 第二宇佐明神 第三底筒中筒表筒 第四神功皇后云云
又 傍草創守護一寺 因医王善逝而可□ 称寺号於善応 勧化近隣之民家 終所願之造営悉其功成 而後得同伴之弟子何其房〔不知其名〕為当寺之開祖云云
 初代 名不知
 二世 慈仁
 三世 慈尊
 四世 義伝
 五世 自円
  此間世代不知
一 中興円海 承久三〔辛巳〕年入寂 〔後略〕

 善応寺の開基は大同年中と伝えられるが、かつて乱世のとき兵火にかかり、旧記等はすべて燃えてしまい、したがって、由緒や歴代住職の事蹟ははっきりしない。ただし、古老伝説に曰く──と、そんな書きだしである。この「古老伝説に曰く」につづくところに円仁(慈覚大師)の名が出てくる。少し乱暴な要約をするしかないが、円仁は「斉衡年中」(早池峰へやってきたときと同時期である)、当郷へやってきて、山頂に「異妙」あるを見て、山の名を村翁等に尋ねたところ、だれも山名を知らなかった。円仁は、山頂に「六道利益之相」が表れているとして、山号を「六角牛」と名づけた。しかし、この山は高くけわしいので老幼婦女は山頂に登ることができないから、山麓に新山宮を造営し、神号を「住吉大明神」と名づけ奉った。
 以下、住吉大社四殿の各本地仏と神号が語られるが、これがよくわからない。ただし、第四殿の本地を「六角牛新山宮奉号住吉 徹底誠夫冝乎」と、これも正確な読み解きはできないが、住吉大社第四殿は姫神をまつるところだから、「六角牛新山宮」は女神をまつるということをうかがわせている。その神号が「神功皇后」とされることに、第四殿神(六角牛新山宮)の姫神的性格が表れているが、住吉大社第四殿はもともと神功皇后が奉じた姫神を、あるいは三神化される前の住吉大神と対[つい]の関係にある姫神をまつるものだったはずだろう。記紀の創作伝説(神功皇后の三韓征旅譚)に依拠しての記述とすると、この第四殿には廣田大社と同神(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=天照大神荒魂)がはいる可能性がある。
 仮説に仮説を重ねるのはここまでとしたいが、現行の六神石神社が住吉大明神をまつったのは坂上田村麻呂としているものの、この江戸期の由緒は、それを円仁としているところが興味深い。また、六角牛山大権現の本地を「薬師医王善逝如来」とするのも、田村麻呂とは無縁の由緒伝承である。円仁(に象徴される)天台宗徒が、六角牛山の祭祀に介入していたことのほうが、田村麻呂伝説を語るよりもはるかにリアリティーがある。六角牛山大権現が秘めている神が、どうやら男神ではないらしいことを伝えているのが江戸期の由緒ではある。

遠野郷天女伝説の故地──三陸町綾里・綾織姫大神【Ⅰ】

更新日:2012/1/19(木) 午前 5:18


▲常堅寺【仁王門】

 早池峰山妙泉寺が明治期初頭に廃寺となり、山門の仁王像(伝円仁作)を引き取ったのが土淵にある蓮峰山常堅寺である。柳田國男『遠野物語』第八八話に、「土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二か寺の触頭[ふれがしら]なり」とある。常堅寺は境内のカッパ狛犬や寺横を流れる足洗川の河童淵で観光客の人気スポットとなっているが、寺の前身の開創については、「安倍貞任の一族、北浦六郎某を開基とする天台宗であった」と、安倍氏伝承を伝えている(『いわてのお寺さん──南部沿岸と遠野』テレビ岩手事業部)。足洗川対岸には安倍館(安倍貞任一族の館跡)もある。遠野郷には、この常堅寺を本寺とする寺が複数みられる。




▲常堅寺【妙泉寺から移された仁王像】

 六角牛山と対面する寺は綾織・天女伝説ゆかりの曹洞宗・照牛山光明寺のほかに、遠野市上郷町板沢にある曹洞宗・滴水山曹源寺もそうだ。常堅寺の末寺である曹源寺は、常堅寺三世雪翁恕積大和尚(慶長十年〔一六〇五〕示寂)の開山とされる。参道には二本の大杉があり(私見では八〇〇年くらいの樹齢)、曹源寺創建の前にはなんならかの祭祀がここにあったことを暗に告げている。本堂の真正面には六角牛山が聳え、境内には鎮守として白山権現の小さな祠があるが、こちらは早池峰山と向き合っている。


▲曹源寺【参道の杉】


▲曹源寺【正面の六角牛山】


▲曹源寺【白山権現の祠】

 岩波書店版『日本文化総合年表』によれば、宝暦九年(一七五九)八月三十日の項に、「幕府、朝廷の命を受け、諸国の神社を調査する」とある。朝廷→幕府の「命」は諸国(諸藩)に下され、盛岡藩において、この「調査」がなされた記録が『御領分社堂』である。この記録集は岸昌一編『御領分社堂』として公刊されている(岩田書院刊)。調査は「修験持社堂」「寺院持社堂」「社人持神社」「俗別当持社堂」の四つに分類されていて、なかの「寺院持社堂」に、上記寺々の名もみえる。
 常堅寺と光明寺は「白山大権現」を「寺院持社堂」として記録されている。曹洞宗開祖の道元が入宋中、太白山山麓の天童山景徳寺において『碧巌集』を書写するも難航していたとき、白山権現が現れて、この書写の手助けをした逸話はあまりに有名である(一夜碧巌)。道元は、この「神恩」に報いるために、永平寺の鎮守神・守護神を白山妙理大権現に定めた。曹洞宗と白山妙理大権現の縁はここからはじまる。常堅寺と光明寺が白山大権現をまつるのは、同じ曹洞宗ゆえに整合しているといえるのだが、特異なのは曹源寺である。宝暦九年時点、現行祭祀の白山権現は記録されておらず、同寺持ちの社堂は「早地[ママ]峰大権現」(以下、「早池峰大権現」と表記する)とあるからである。
 ちなみに、閉伊郡の八ヶ寺(高昌院・徳昌寺・喜清院・対泉院・曹源寺・善勝寺・柳玄寺・江岸寺)と、稗貫郡の一寺(中興寺)が「早池峰大権現」をまつっていると記録されているものの、所在不明ゆえ未確認の一寺(江岸寺)を除けば、そこには、共通項としての特徴を二つ指摘できる。一つは、いずれも宗派を曹洞宗としていること、二つは、「早池峰大権現」の祭祀は明治以降消滅していること、である。
 もっとも、消滅の例外例として、遠野市附馬牛町・岱岩山徳昌寺(喜清院末寺)の「早池峰大権現」の祭祀があるが、これは先代住職の熱意によって戦後(昭和三十年代)に再建されたものである。遠野郷の早池峰信仰の中核的地域が附馬牛地区で、同寺の草創場所に関しては、「古い記録などに依れば、法印(修験者)の開創で当時は、荒川山の不動滝の地に草庵を造った」とされる(『いわてのお寺さん』)。「荒川山の不動滝」の神は、早池峰大権現を仮称とする「瀬織津姫命」であることを添えておく。


▲徳昌寺【再建された早池峰大権現の祠】


▲荒川山不動滝




▲荒川不動

 また、消滅したとはいえ、江戸期に記録がみられない白山大権現を新たにまつる、つまり、早池峰大権現を白山大権現に変更してまつりなおしたと考えられるものとして、前述の曹源寺と、遠野市青笹町の天英山喜清院(常堅寺末寺)の境内祭祀がある。
 それにしても、江戸期(宝暦九年の時点)には閉伊郡・稗貫郡の曹洞宗九ヶ寺が早池峰大権現をまつっていたものが、現在、一社の再建を除けば、ことごとく消滅しているというのは尋常ではない。
 この消滅が明治期の神仏分離策に因があることは想像してよいかもしれない。圭村文雄『神仏分離』(教育社)は、「神仏分離政策の目的」と、明治国家による神道優遇策によって寺院が追い詰められた経緯について、次のように書いている。

 神仏分離政策の目的の最大のものは、日本における国家公認の宗教を江戸時代の仏教から神道に転換させることであった。そのために、身分的には僧侶より神官の地位を引き上げる必要があり、一方では寺院の経済的基盤である寺領を削減し、檀家制度にかわる神社を中心とする氏子制度を作り、寺と檀家との関係を断ち切ることであった。〔中略〕
 寺領の削減については、しばしば明細帳の提出をせまり、慶応四年と明治四年には大幅に上地[あげち]させ、これまでの寺領を村高[むらだか]に編入している。もう一つの経済的基盤である檀家制度にもメスを入れ、氏子制度を導入し、戸籍に氏神の名の記入を命じている。その結果として明治五年の壬申[じんしん]戸籍には、家単位ではあるが、菩提寺[ぼだいじ]と氏神が併記されることになり、この段階で江戸時代以降の戸籍管理業務は寺院の手を完全に離れることになった。

 もともと仏をまつることを主としてきた仏教寺院からすれば、自身の鎮守の神(権現)が消えようが、白山神(権現)に変わろうが、それは二次的以下の関心事だったにちがいない。上地の命令と、それに伴う檀家の喪失は、寺そのものの存続の可否を根本的に自問させたはずで、実際、多くの寺院が消滅(廃寺)を余儀なくされたのだった。
 明治期のこの宗教政策(神仏分離政策)は、具体的には、それまでの権現号の廃止を伴うものであった。寺院と社堂が分離したことをもって神仏分離というのではなく、権現号を廃して神社化することに、真の神仏分離がある。つまり、それまでの権現の社堂は神社を名乗ることになり、そこでは必然的に権現背後の神が表に出てくることになる。早池峰大権現が早池峰神社を名乗るということは、早池峰神(瀬織津姫神)が祭神となるということだ。明治期の神仏分離策の真の意図は、『神仏分離』では「日本における国家公認の宗教を江戸時代の仏教から神道に転換させること」といった抽象的な大枠が指摘されるにすぎないが、より具体的には、伊勢神宮の存立と王政復古を支える皇国史観を根底からくつがえしかねない神の全国的な洗い出し、およびその消去にあった。
 閉伊郡・稗貫郡の九ヶ寺がまつっていた早池峰大権現が残らず消滅しているのは、やはり、偶然とは考えにくい。そこには、以上みたような大きな力(国家的宗教政策の力)が働いていたことが想像されるのである。附馬牛村の早池峰神社本社が、このとき、当局による社録の没収を蒙っていたこととも関わるものだろう。
 それにしても、明治期の神仏分離以前、早池峰大権現をまつっていた複数の寺院がすべて曹洞宗であったことは特筆すべきことだろう。むろん、当時から白山大権現をまつっていたと記録される曹洞宗寺院もあることを挙げておく必要もあろう。遠野郷に限っていえば、前述した「遠野郷十二か寺の触頭」とされる常堅寺、綾織の天女伝説を有する光明寺や、飢饉餓死者の供養のために綾織山中の自然石に五百羅漢を彫った義山和尚ゆかりの大慈寺がある。しかし、常堅寺の末寺として曹源寺と喜清院が早池峰大権現をまつり、さらにこの喜清院の末寺としての徳昌寺もそうだ。また、光明寺の末寺として善勝寺が早池峰大権現をまつり、大慈寺の末寺・柳玄寺も同じくだ。遠野郷内における本寺筋は白山大権現をまつり、末寺筋は早池峰大権現をまつっていた感があるが、いうまでもなく、本寺と末寺がそうであるように、白山大権現と早池峰大権現も無縁の関係にはない。東北の曹洞宗寺院にみられる早池峰(=白山)信仰の深さについては項を改めてふれる。
(つづく)

三陸大王杉と一本のポプラ──大船渡市三陸町越喜来

更新日:2012/1/15(日) 午後 3:46


▲津波に耐えたポプラ

 藤原清衡は新山寺を、奥羽六百ヶ所にまつらせたとされるが、その痕跡を確認できるのはわずかなようだ。奥州藤原氏という敗者の上を流れる歴史時間は過酷である。紫波郡紫波町の新山寺もそうだったが、転変はあるものの、神仏分離以後は、新山権現→新山神社と神社化している。三陸町越喜来[おっきらい]にも清衡建立の新山寺を前身とする新山神社があり訪ねてみた。この新山神社創建の地は、延喜式神名帳に記載される陸奥国気仙郡「衣太手神社」の故地の一つとされ、この衣太手神が遠野郷の天女伝説と関わっている話は項を改める。
 越喜来の象徴[シンボル]といってよいかとおもうが、ここには岩手県内では最巨木の杉「三陸大王杉」がある。推定樹齢は一五〇〇年かといわれるが、実見すれば、たしかにそれくらいは経ていそうな幹の太さである。大王杉は八幡神社の社殿横(向かって左)に聳えている。しかし、幹の傷みは激しく、樹木医の助けがなければすでに枯死していた可能性が高い。また、社殿横(右)には樹木医・山野忠彦氏命名の「千年杉」もあるが、これは千年の樹齢はないようにおもう。


▲八幡神社拝殿(向かって左が「三陸大王杉」、右が「千年杉」)



▲千年杉

 八幡神社境内にある大王杉の樹齢にあわせて八幡神社の創祀を語るわけにいかない。なぜなら、八幡祭祀のはじまりは、七世紀末から八世紀初頭あたりだからだ。さらにいえば、この地は本丸城(八幡舘)があったところで、その城主は多田左近将監といわれ、築城時期は建武年間(一三三四~一三三六)とされる(境内案内)。多田氏の祖は多田満仲、つまり源氏一族で、この多田氏が勧請したゆえに八幡神社の祭祀がここにあるとおもわれるが、いうまでもなく、大王杉のほうがはるかに古い。八幡神社の前に、ここに別の祭祀があった可能性はあるが、現状、それを明かすのは困難である。


▲大王杉と社殿


▲一本の木(画面中央)


▲三陸大王杉(左)と千年杉(右)の樹叢

 それにしても、この杉は太い。社殿背後から撮影していて気づいたのだが、今回の津波によって壊滅的となった町の光景、そこに山と積まれた瓦礫の横に一本の木が立っている。大王杉がある丘陵から下りて近づいてみると、樹種はポプラらしく、東北では珍しい。それにしても、このポプラ、すさまじい津波の破壊力によく倒れずにいたものだとおもう。
 陸前高田市・高田松原の最後の「一本松」、その再生の努力を断念した報道を耳にしたが、越喜来のこのポプラはどうなのだろう。今は冬の季節で、木は葉を落としている。春、それはちょうど大津波の一年後に近いともいえるが、このポプラがもし緑の葉を茂らせるとしたら、それこそ再生のシンボルとなるにちがいない。春か初夏に、また訪ねてみようとおもいながら越喜来を後にしたのだった。