瀬織津姫は「縄文の女神」に非ず

更新日:2009/4/28(火) 午後 4:01

 瀬織津姫という神を霊感・妄想・狂騒的に語らないこと──。
 これは自分に戒めていることの一つですが、瀬織津姫祭祀を取り巻く「陰気」があまりな場合を眼にすると、ややもすると「冷静」さを逸脱しそうになる自分があることに気づきます。
 日本の主導的な祭祀思想(神宮を中心とする神社神道の思想)は、瀬織津姫祭祀に対して、ときに露骨な仕方で「陰気」を演じます。この祭祀思想が表立って語らぬ最大の根拠は、天皇(の安泰)のために、ひいては、その祖神をまつる神宮の安泰のために、神宮祭祀を脅かす神は排除・消去するという妄想的執着にあります。これが「味の素」ならぬ「陰気の素」の真因といえます。
 しかし、瀬織津姫という神の立場からいえば、天皇といえども国内に数ある祭祀者の一人で、つまり、村の一神官と本質的に差異があるわけではない、となりましょう。この一祭祀者である天皇を神聖視・絶対視し、ときに死守しようとさえする祭祀思想・妄想が幾重にも取り巻いていて、瀬織津姫祭祀との間に軋轢の痕跡を残すことになります。
 もし自分が藤原不比等であったならば、あるいは、明治期の神祗政策の最高責任者であったならばと仮定してみますと、自分ならば、瀬織津姫祭祀の消去をもっと徹底的にやっただろうとおもいます。具体的には、この神を「祓戸大神」という性格以外でまつっている場合は「祓戸大神」の祭祀への説得的変更を徹底化し、それがかなわぬならば、この神の祭祀を完全に消去しただろうとおもいます。
 これは、天皇と神宮の安泰・永続という「大義」に生きようとする仮定での極端な話ですが、日本の神祗政策は、この点において不徹底であった、あるいは失敗したというしかありません。一例を挙げれば、東北の山中、遠野郷の一神社、江戸期までの伊豆権現を神社化した伊豆神社の祭神「瀬織津姫命」を、そのまま残したことが象徴しています。
 全国各地に、この「伊豆神社」の類例が四〇〇社以上あることを述べれば、日本の神祗政策の不徹底・失敗はより明瞭となってきます。これらの祭祀が個々具体的に明かされることは、瀬織津姫という神を考える上でも大きな意味があるものとおもいます。
 インターネット世界の出現は、情報の公開・共有化を大きな特徴としています。藤原不比等の時代をいわずとも、明治期初頭、コピー機もまだない時代に、こんな新世界が誕生するとはだれも想像しえなかったはずです。
 瀬織津姫祭祀の消去側からすれば、「社録ノ没収」(「早池峰神社昇格申請書」昭和三年)をすれば事足りたと考えても仕方のない時代でした。しかし、この消去思想(日本の主流的神祗思想)がただ一点見逃していたのは、神(の名)を神社祭祀から消すことができても、そこには氏子(人間)の「心」の反映としての神は残るということです。つまり、たとえ神(の名)を消せても、人の「心」までは消すことはできないということです。このことをもっともよく伝えてくれているのが、富山県高岡市の速川神社でしょうか(富山県の項を参照)。
 早池峰─遠野郷の守護神としての瀬織津姫という神を、試行的に探索した『エミシの国の女神』という本の初版発刊は二〇〇〇年一〇月で、それからすでに九年近くになります。この間の時間は、インターネット世界の本格的普及の時間と重なっています。
 現在の視点からいえば、この本がもつ、瀬織津姫という神を論じる上での功罪がみえます。この本がもつマイナスの面はいくつかありますが、ここで内省を込めて一つ明らかにしておきたいことがあります。それは、当時、瀬織津姫に関する先行的研究書が皆無の時代だったとはいえ、この神を「縄文の女神」であるかのごとくに曖昧に記述している点です。
 水は人が生きるのに絶対不可欠ですから、水の神は縄文時代から生と生活の場面で最重要な一神であったとはいえるとおもいます。記紀神話は、この積年の水の神の系を重視するのとは対極的に書かれていて、そういう意味では、縄文からの水神の系に連なる神々を内蔵・内包する神として瀬織津姫をみることは可能です。しかし、この連綿とつづく「水神の系」を想像することなく、瀬織津姫という神をストレートに「縄文の女神」とみなすなら、これは大いなる錯誤となりましょう。
 冷静に考えるなら、縄文時代に「瀬織津姫」という神名があったはずもなく、したがって、瀬織津姫への讃辞として「縄文の女神が復活する」といった論は成り立ちようもないことは、やはり指摘しておく必要があります。
「瀬織津姫」という漢字表記の神名は、その音の美と相俟って、相当によくできた神名です。あるいは「できすぎ」といっても過言ではない神名ですが、こういった神名表記は、かなり漢字文化のセンスをもっていないと創作しえないものです。
 瀬織津姫という神の創祀で、最古の伝承をもっているのは欽明天皇の時代でしょうか(新潟県・長瀬神社、福島県・宇奈己呂和気神社)。つづく敏達天皇の時代にも、この神の創祀を伝える社があります(静岡県・池宮神社)。少し時代が下って、斉明天皇時代の齶田[あぎた]浦神(秋田浦神)を瀬織津姫と伝えるものや(秋田県・住吉水門龍神社)、天智天皇時代の前にさかのぼる瀬織津姫祭祀を伝える大川神社(のちの唐崎神社、滋賀県)など、記紀が成立する八世紀以前をみても、瀬織津姫祭祀を伝える神社は各地に存在します。
 神功皇后を卑弥呼のことと偽装しようとしたのが日本書紀でしたが、彼女が「天照大神荒魂」(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)をまつらせたとされる広田神社(兵庫県)の祭祀を史実とみなすと、瀬織津姫祭祀の歴史は一気にさかのぼることになりますが、これは後代(記紀の創作時代)の付会的由緒といえそうです。
 瀬織津姫という神名創作(漢字表記)のセンスのよさを考えますと、漢字文化の倭国への流入を視野に入れる必要がありそうで、それは、やはり仏教文化の伝来とセットであろうとおもわれます。欽明・敏達時代が瀬織津姫という神の創祀の上限ではないかと考えるのは、この時代から、倭国中枢(支配者層)に仏教の受容と格闘のはじまりがみえるからです。
 瀬織津姫という神の創祀を、歴史時間的に、どこまで遡上して考えうるかということで、欽明・敏達時代を想定してみたのですが、この神の祭祀が、さらに弥生を飛び越えて縄文時代にまで一気にさかのぼることは、やはりありえないことでしょう。
 欽明・敏達時代以前、倭国の最重要な神は、まったく別の名で呼ばれていたものとおもわれます。
 瀬織津姫という神は、神宮創祀以後、たしかに歴史的に長い受難の時を生きてきて、にもかかわらず、この神は重なる「陰気」をはねのけ、桜松神社の歌のことばを借用すれば、現在まで「すずやかに」健在をつづけています。瀬織津姫神に「何かを期待する」といった自己の心放棄の姿勢で臨むのではなく、この神をあるがままに、つまり「神は神のままに」理解しようとすることがむしろ大切ではないかとおもっています。これは、人間の「心」を理解することと、必ずや通ずるものとおもわれるからです。

愛宕神社(岩手県遠野市綾織町上綾織36-12)

更新日:2009/4/27(月) 午後 7:17



 遠野郷の瀬織津姫祭祀を語ろうとするとき、この愛宕神社が抱えている問題はとても大きく根深いものがあります。
 岩手県神社庁編『岩手県神社名鑑』(昭和六十三年刊)は、県内の神社由緒・祭神を記録したものですが、まずは、ここに記載されている愛宕神社に関する由緒を読んでみます。

愛宕神社
  旧社格 無格社
  鎮座地 遠野市綾織町上綾織三六地割一二番地
祭神 軻遇突智命
例祭 旧七月二十四日
由緒
 寛治年間(一〇八七~一〇九四)の創建と伝えられるも不詳。
主要建物 本殿七・二五坪、拝殿一〇坪
境内地 一七六坪
氏子  一〇〇戸
崇敬者 二、〇〇〇人〔後略〕

『岩手県神社名鑑』は公刊されたもので、ここには、愛宕神社祭神は「軻遇突智命」、由緒は「寛治年間(一〇八七~一〇九四)の創建と伝えられるも不詳」と書かれています。
 全国愛宕神社の総本社は、京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山(京都市最高峰の霊山)に鎮座しています。山頂の若宮(奥宮)の祭神(主神)が「軻遇突智命」(火産霊命と同神…日本書紀)で、遠野・愛宕神社も本社祭神と同神であることがわかります。
 しかし、遠野郷は、名鑑が記す祭神「軻遇突智命」および由緒「不詳」に対して、明確に「否」とする史料を保持しています。綾織村教員会編『綾織村誌』(昭和七年刊)が記すところを読んでみます。

愛宕神社
社格 無格社  祭日 旧七月廿四日  氏子 九五
 石階段百余級その中間に鳥居あり。上りつむる処に神楽殿あり。更に上りて本殿あり。南面して松樹の間より綾織平野を望む。祭典には神楽獅子踊等を奉納し参拝者多し。
 本社の創建は明らかならざれども、近村火災多く人家山野共に焼くること多し。ここに至り里人相協りて、寛治年間(一七四七~一七五三…【注】神武紀元)火災の見張所を置けり。その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり。
 本社を拝すれば感応最も多し。赤阪家にて家人眠り居りしに夢に愛宕神社の神霊を見たり。驚きて起き上りしに、誰人か放火して既に大事に至らんとす。急ぎて之を焼(消)しとめ霊験のあらたかなるに感じ、本社に石檀を献納せり。〔後略〕

 祭日の「旧七月廿四日」の二十四日というのは地蔵尊の縁日ですが、この地蔵尊は、本社・愛宕神社の本地仏とされてきた「勝軍地蔵」に対応しているようです。本社・愛宕神は火防の神として、つとに知られます。
 村誌は、この「火防」を最重視していた氏子のご先祖たちの思いを伝え、その火防の神を「火災の見張所を置けり。その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり」と明記しています。さらに、赤阪家の伝承から、「愛宕神社の神霊」のあらたかなる「霊験」も添えています。
『綾織村誌』は昭和七年(一九三二)の刊行ですが、愛宕神社祭神を「瀬織津姫神」とし、堂々たる由緒まで記録しています。『岩手県神社名鑑』は昭和六十三年(一九八八)の刊行で、戦後の公刊です。しかし、ここには、祭神「軻遇突智命」、由緒「不詳」とされ、村誌に記されていた祭神「瀬織津姫神」が「軻遇突智命」に変更されていることがわかります。
 昭和十四年(一九三九)、岩手県神職会によって、県内神社の社格と祭神の一覧を含む『岩手県神社事務提要』が編纂されます。同書にも、愛宕神社は「無格社」、祭神は「瀬織津姫命」と明記されています。
 これら戦前の二史料のいずれもが、愛宕神社祭神を瀬織津姫と記しているにもかかわらず、戦後の編纂となる『岩手県神社名鑑』では、祭神がいつのまにか変更されています。これはとても奇異・奇天烈な話で、念のため、愛宕神社氏子役員の方に、こういった祭神変更があったことについて確認してみたところ、大変驚かれて、そんなことは何も知らされていないとのことでした。これは由々しきことで、関係神職および岩手県神社庁は、愛宕神社氏子の方々に、こういった祭神変更の理由・経緯を納得が得られるように説明する責任があるはずです。また、納得のゆく説明が不可能ならば、祭神をもとの「瀬織津姫神」または「瀬織津姫命」に戻す必要がありましょう。
 わたしは愛宕神社の氏子ではありませんので、こういった、氏子の知らぬところで祭神・瀬織津姫が勝手に変更されているという事実を指摘するくらいしかできませんけれど、もし、わたしが同社氏子ならばと仮定してみますと、氏子九五戸(名鑑は一〇〇戸と記載)の総意を確認し、場合によっては法的訴訟も視野に入れてのアクションをおこしそうだなとおもったものでした。
 それはともかく、愛宕神社境内には昭和四十年の記銘をもつ「早池峰山」の石碑が建立されています。江戸時代初期(慶安~承応時代〔一六四八~一六五五年〕)に成る「早池峯大権現本地本仏並びに二十末社」(『早池峰山妙泉寺文書』所収)によれば、早池峯大権現の「二十末社」には、「白山大権現」を筆頭とするも、なかに「愛宕」も記載され、これがどこの愛宕権現かは分明ではないものの、愛宕神と早池峰神は無縁というわけでもなさそうです。
 早池峰神社の鎮座地・旧附馬牛村に、「愛宕様」の話があります。『定本附馬牛村誌』は「エダコ(巫女)」と題して、次のような不思議な逸話を記しています。

エダコ(巫女)
「口寄せ」と云つて巫女(多くは盲目である)を頼んで、死人の霊を呼び出して話を語らせる。仏が云い残したことや気がかりなことを聞いてやつて、仏へ供養するものであるが、紛失したものの行方とか、病気の時の障り、吉凶などを占う外に、御祈祷して貰うこともある。〔中略〕
 変つた例では坂の下の某氏の家によくない事が続くのでおがんで貰うと、愛宕様のお社を毀しつ放しにしているからだと云われた。しかし附近に愛宕様を祀つたことは無いと云うと確かにあるから探して見ろと云われた。探したが判らない。古老たちも知らなかつたが、その中に近くの山の頂上附近に神宮の土台石らしい石の並んだところを見つけて其処に祠を建てて神官を頼んで祝詞をあげると、髪を長く垂れ、胸に丸い光るものを抱いた女神の姿の顕現を見たと云うことである。

 ここで語られている「愛宕様」は綾織の愛宕神社のことではありませんが、イタコ(巫女)の託宣によってようやく再建された「愛宕様」の祠で、神官が祝詞を奏上すると「髪を長く垂れ、胸に丸い光るものを抱いた女神の姿」が現れたとされます。これは、女神の感謝の気持ちが伝わってくる話ですが、この愛宕の神様が「女神」として「顕現」したというのは、愛宕神の真姿を伝えていて実に興味深いです。
 綾織・愛宕神社の祭神・瀬織津姫は早池峰大神でもあります。この神が「胸に丸い光るものを抱いた女神の姿」をしていたというのは、遠野郷にだけみられる空想話ではありません。
「丸い光るもの」とは円鏡とみられ、この鏡を胸に抱く女神は、飛騨国では「日抱尊[ひだきそん]」(乗鞍岳の神)の名で崇敬されていました。日神の象徴である円鏡を子神のようにして胸に抱く、この「日抱尊」という大いなる女神は、円空が彫った神像の一つでもありましたが、それは乗鞍大神こと瀬織津姫神の姿でもありました(詳細は『円空と瀬織津姫』下巻「円空の意志表示─両面宿儺と瀬織津姫神」を参照ください)。
 両面宿儺の国とエミシの国の早池峰─遠野郷が、瀬織津姫という神を媒介として結ばれる、このイタコ(巫女)の「心力・霊力」に関わる話には脱帽です。村誌の記述に、作為性が微塵も感じられないところがいいです。

木曽・御嶽から消えた滝神──不動明王と蔵王権現

更新日:2009/4/26(日) 午後 3:57



 木曽・御嶽(写真1)は、参道の石碑のほとんどに「御嶽大神」と刻まれていて、なかには、この大神の眷属であるかのように、(滝)不動明王と役行者像が両脇を固める石碑もみられます(写真2)。役行者(役小角)が念出したとされるのが金剛蔵王権現ですが、この権現は御嶽大神とゆかり深く、ゆえに、御嶽大神の脇に役行者像が配されている理由かとおもいます。
 生駒勘七『御嶽の歴史』(宗教法人木曽御岳本教)によりますと、御嶽大神を「濃尾平野の人々は母の川木曽川の水分[みくまり]の神として崇敬したであろう」とされます。御嶽(地図上表記は「御岳」、標高三〇六三㍍)は、濃尾平野からは木曽川の上流部に視認できる高山(霊山)で、ここに木曽川の水源神が鎮座すると観念されたとしても不思議ではありません。
 円空は、創作縁起書「粥川鵺[ぬえ]縁起神祇大事」において、高賀山の鬼神(地主神)は「多くの深山に形[かげ]うつす」として、各地霊山の名を列挙していました。そのなかに「馬が岳」(木曽駒ヶ岳)や「音岳[おおんたけ]」(御嶽)も記されていて、円空の眼は、御嶽や駒ヶ岳の神と高賀山の鬼神が異神ではないととらえていたようです。
『木曽巡行記』(弘化二年、尾張藩士岡田善九郎著)は、御嶽山頂からの絶景を、次のように述べています。

絶頂より四方をみれば、富士山・浅間山・加賀の白山・越中の立山・本州(信州)の駒ヶ嶽・乗鞍・江州(近江)の伊吹山よくみゆる、尾州(尾張)熱田浦の海も夕日にかがやき匹練のごとくみゆ。

『御嶽の歴史』は、御嶽山頂の「日権現[ひのごんげん]」(本地仏:大日如来)の存在を「遠く伊勢両宮を遙拝すること」と関係づけていますが、伊勢の朝熊岳からは御嶽も視認できたことは、朝熊岳金剛證寺の古絵図にも描かれていることでした。
 しかし、御嶽の神まつりとはどのようなものだったのかを現代から探ろうとすると、山そのものを「神」と見立てた山岳信仰からはじまったのだろうと想像するくらいで、その初源(古代)の神まつりについては「はっきりしたことはわからない」とされます(『御嶽の歴史』)。
 ただし、同書の「年表」には、その最初に「宝亀五年(七七四) 信濃守石川望足、大己貴命、少彦名命の二神を御嶽に祀り疫病除祓を祈る」と掲げています。これは室町時代の縁起(祭文)に記された祭神説によるものですが、これを真と仮定しても、宝亀五年(七七四)に新たに大己貴命、少彦名命をまつるまで、御嶽に神まつりがまったくなかったということはありえず、円空は、宝亀五年(七七四)の「その前」の祭祀に高賀山の神の影をみていたようです。
 江戸期後半まで時代は下りますが、宝暦三年(一七五三)に刊行された『吉蘇志略』には、御嶽山頂の祭祀について「又登ること三里にして絶頂に至る。二祠有り、王権現と云ひ、日権現と曰ふ」と、二つの権現祭祀の祠があったことが記されています。
 御嶽神社里宮は、登拝路の黒沢口(木曽町)と大滝口(大滝村)に二社あります。両社は、江戸期の約二百年間、御嶽山上の祭祀をめぐって係争をしていて、それぞれ微妙に異なる御嶽大神の祭祀をしています。
 黒沢口御嶽神社里宮は、本社と若宮の二宮をもって御嶽神社里宮としていて、山頂の日権現を少彦名命として本社に、王権現を大己貴命として若宮にまつっていますが、これは明治期以降のことで、江戸期までは本社は八幡大菩薩、若宮は安気大菩薩を祭神としていました。この若宮の「安気大菩薩」については解釈不能とされますが(『御嶽の歴史』)、御嶽大神は「鬼神」ともみなされていましたから、「安気」は「悪鬼」の転かもしれません。同社祭礼日には、本社から若宮への神幸が恒例で、若宮神、つまり山上の王権現(安気大菩薩)が御嶽主神とみられます。この王権現の正式名称は「王御嶽坐王権現」で、江戸期まで、御嶽の主神は坐王=蔵王権現と習合する神でした。
 王滝口御嶽神社里宮(写真4~7)は、背後の断崖の窟に住まう神をまつるとして、あるいは御嶽大神を遙拝する場として、ここは「御嶽岩戸権現」と呼ばれていました。この断崖からは「御嶽大神のご神水」がしみだしていて、そこにも「岩戸不動尊」がまつられ、この「神水」が崖下の美しい苔を育てています(写真7)。
『御嶽の歴史』は、この王滝口里宮について、次のように述べています。

寛文六年十一月の「信州木曽谷中村之野宮ノ本地覚エ」(黒沢村武居氏所蔵)によると
 王之滝村(王滝村)
  御岩度(御岩戸)
  一、御身体 十一面観音 祭礼六月六日
とあり、また弘化二年の木曽巡行記に
 御嶽山坐王大権現 国常立命 本地十一面観音 奥ノ院日天子
とあって王滝里宮の祭神を国常立命(本地十一面観音)としているが、明治維新後、王滝口頂上にある日ノ権現の祭神少彦名命を配して王滝村御嶽神社の祭神としたものである。

「御嶽山坐王大権現」(王権現)の垂迹神の解釈・表示において、黒沢口里宮は大己貴命、王滝口里宮は国常立命とされます。こういったくいちがいは、ひっきょう、蔵王権現と習合する神が古来はっきりとされてこなかったことが遠因です。
 王滝口里宮の現祭神は、引用にみられた国常立命、少彦名命に、さらに大己貴命を配していて、黒沢口里宮との整合化が図られていますが、主神は国常立命としているのが特徴です。
 黒沢口里宮の由緒は、御嶽祭祀のはじまりを『御嶽の歴史』の年表と同じく「光仁天皇宝亀五年(七七四)、勅命を奉じた信濃国司石川朝臣望足が、大己貴命・少彦名命の二神を御嶽山に祀り、疫病除祓を祈願したのが始まり」としていますが、王滝口里宮の由緒は、この宝亀五年(七七四)の前に「頂上奥社は文武天皇の御代大宝二年(七〇二)信濃国司高根道基創建」と記していて、大宝二年(七〇二)までさかのぼる祭祀を伝えています。
 大宝元年には、藤原不比等監修のもとに大宝律令がつくられ、これは天皇を中心とした律令国家が本格的に稼働することを宣言した法律です。その翌年の大宝二年十月は、持統太上天皇が三河国(表記は参河国)へ謎の「行幸」をし、その年の十一月二十五日に帰京すると、翌月十三日には「太上天皇、不予したまふ」と書かれ、二十二日に彼女は急死します。「不予」というのは「心楽しまないこと」の意で、これは重い気鬱病かとおもわれますが、この「不予」の記述の直前の十日には「始めて美濃国に岐蘇(木曽)の山道を開く」と書かれていて、木曽路を信濃国まで開こうとする朝廷の意向が読めます(木曽路が全道開通されるのは和銅六年)。
 なお、大宝二年は、泰澄が「鎮護国家法師」の任を受諾した年でもあり、これも象徴的なできごとというべきですが、泰澄が二律背反する心持ちで白山祭祀の改変をしたのも、「鎮護国家法師」の名においてでした(『円空と瀬織津姫』下巻)。
 こういった一連の朝廷側の動きのなかで、御嶽の奥宮創建がみられることは、たしかに木曽路開通の難を避け神の加護を祈る意図もあったでしょうが、と同時に、その後の御嶽祭祀が不明となることとも深く関わっているようにおもえます。
 ところで、役小角ゆかりの蔵王権現の祖地は吉野・金峰山、この山の別称は「金の御嶽[かねのみたけ]」で、これにならって、蔵王権現の鎮座する「王の御嶽[おうのみたけ]」の名が御嶽の古称としてありました。御嶽を「みたけ」ではなく「おんたけ」と呼ぶのは木曽の御嶽に限られ、これは「おうのみたけ」が「おんたけ」へと転じたものとされます。
 王嶽村ではなく王滝村と「滝」にこだわった村名がつけられたのは、王滝口里宮の宮滝が、「清滝」という禊ぎの名瀑に見立てられていたことと関係するようです(写真8・9)。この滝の横には清滝不動尊に加え清滝弁財天もまつられていて、御嶽講の信者の礼拝と禊ぎは絶えることがありません。ここには弁財天と不動尊に習合する滝神が秘されているはずですが、祭神表示に、この滝の秘神の名を確認することはできません。
 黒沢口には、御嶽講の福寿講によって明治から大正期にかけてつくられた「大祓滝」もあります(写真3)。「大祓」ゆかりの滝神といえば瀬織津姫神以外にいませんけれど、ここにも不動尊の石像がまつられ(滝上の左)、講の内部だけでわかっていればよいということかもしれませんが、部外の者がここを訪れても、本来の滝神の名と出会うことはありません。早池峰信仰圏に不動尊を「本地仏」とする滝神・瀬織津姫命の祭祀が顕著にみられることは、やはり特異・貴重といえます。
 吉野の土地の伝承では、役小角が蔵王権現を念出するにあたって、最初に出てきたのは弁財天、次に地蔵菩薩で、しかし、これらでは降魔・衆生済度はとてもかなわぬとして、最後に念出して蔵王権現が出現したとされます。いずれにしても、金峰山・大峯の地主神が蔵王権現には習合していました。同地の地主神は天武時代から天女神とみられていましたが、この天女神は「日輪天女」とも呼ばれ、天河弁財天と習合する神でした。天河神社(天河大弁財天社)所蔵の文書には、天河弁財天は「天照大神別体不二之御神」とも記され、これは、天照大神荒魂神、つまりは瀬織津姫神のことです(『円空と瀬織津姫』下巻)。
 瀬織津姫神が弁財天と習合する事例は、静岡・瀬織戸神社、富山・元雄神神社、京都・井上社(通称:御手洗社、下鴨神社境内社)などに確認されますが、この神は、役小角ゆかりの蔵王権現とも習合していた可能性があります。
 木曽御岳の山頂では、王権現(蔵王権現)と日権現という一対とみられる祭祀があり、ここに日月の対偶関係を重ねれば、この王権現(蔵王権現)は、月権現でもあったとみられます。江戸期、御嶽への黒沢口の登拝路を整備したのは覚明行者、王滝口の登拝路を整備したのは普寛行者とされますが、普寛行者の辞世の歌は暗示的です。

  なきがらはいつく(いずこ)の里に埋[うず]むとも心御嶽に有明の月

 歌中の「御嶽」は、五七五七七の音数律からいえば「おんたけ」ではなく「みたけ」と読ませているようです。普寛行者にとって、自分の亡骸はどこに埋められようとも、わたしの「心」は御嶽にあり(御嶽大神とともにあり)、この「あり」を御嶽にかかる「有明の月」に掛けています。「有明の月」は、明け方まで空に残っている月のことで、未練の情を表現するときによくつかわれますが、普寛行者は、御嶽にかかる月を御嶽大神の比喩として詠んだのかもしれません。
 出雲大社の神宮寺は鰐淵寺[がくえんじ]でしたが、同寺の聖地中の聖地が「浮浪滝」で、この滝の背後の窟にまつられるのが蔵王権現です(ここには「浮浪滝を主体とした蔵王信仰」がみられ、この「浮浪滝を奥院として蔵王権現と仰いでいた」…曽根研三「出雲鰐淵寺の蔵王信仰」、宮家準編『御嶽信仰』雄山閣、所収)。
 出雲国では、蔵王権現が滝神とみられていて興味深いですが、鳥取県八頭郡智頭町鎮座の虫井神社においては、神社ゆかりの芦津川上流部の「三滝」の滝神であった「三滝蔵王権現」を瀬織津姫命としてまつっていて、蔵王権現と習合していた滝神の名を伝えています。
 木曽川の水源神の習合仏として、御嶽に十一面観音がまつられていたというのは、白山や早池峰山と同じです。そして、御嶽大神の脇には必ずといってよいほど不動明王が配されていて、これも早池峰祭祀と酷似しています。ただし、そこに、水・滝とゆかり深い不動明王がまつられても、不動明王あるいは蔵王権現を「本地」とする神の名のみが語られないままきているのが御嶽祭祀といえます。
 円空は、御嶽に高賀山の鬼神(地主神=高賀山滝大明神=瀬織津姫神)、つまり白山の本源神の「形[かげ]」をみていました。今から三百年以上前に生きた円空ですが、彼の日本の神まつりの真相を見抜く視線は、この御嶽大神にも届いていたようです。

早池峰信仰圏の滝神祭祀──又一の滝を中心に

更新日:2009/4/25(土) 午後 3:39



 陸前高田市横田町鎮座の多藝神社由緒は、祭神の欄で「瀬織津姫命 本地仏 不動明王」と記していました。こういった、瀬織津姫命と不動尊の習合関係が現在まで明確に伝えられ確認できるのは、全国的にみても岩手県に集中しています。他県では、不動尊との習合神・瀬織津姫命(の祭祀)はほとんど語られることがなく、あっても稀なケースで、多くは不動尊のみが伝えられるというのが大勢です。
 岩手県に特に集中してみられる瀬織津姫命と不動尊の習合関係ですが、正確にいえば、これは岩手県下全域にみられるわけではありませんから、実際は県単位による特徴として指摘するのは妥当ではありません。
 不動尊を自身の守護神(仏)として各地を歩いていたのは修験者で、その信仰のルーツは熊野(那智)にゆきつきます。「熊野」を信仰的出自とする修験者は、熊野の滝神と不動尊の習合関係を各地の霊山・霊峰に伝えたはずですが、明治期の神仏分離のとき、そこで「仏」(本地仏)と強制的に「分離」された「神」の名を正確に表示しえたのは稀で、これは岩手県下全域を見渡してもいえることです。しかし、修験者が信仰的に深く関わっていた霊山・霊峰を県内に限定し、しかも、瀬織津姫命と不動尊の習合関係を今に伝えている霊山・霊峰はどこかといえば、それは、県内最高峰の岩手山や神奈備山として秀逸な山容をもつ姫神山などではなく、やはり早池峰山とみなすしかないようです。特に早池峰信仰との関わりにおいて、この習合関係は顕著にみられるようです。
 このように、早池峰が抱え、また伝えてきた瀬織津姫命と不動尊の習合関係で、その特異性において、第二の特徴も指摘しておく必要があります。それは、この神が、山の周辺の滝神として伝えられるだけではなく、早池峰の主神・大神としても存在していたことです。円仁(天台宗)による神仏混淆が祭祀の表層を覆ったということはあるにしても、ここには円仁以前の早池峰大神の祭祀者が途切れることなくいました。その祭祀者がいるかぎり、瀬織津姫命を主神として、そのままの名で伝えつづける全国唯一の霊峰が早池峰であることに揺らぎはなかったとおもいます。このことは、修験者が、滝神・瀬織津姫命と不動尊の習合関係を曖昧にせずに現在にまで伝えてきたことと深く関わっているようにおもいます。
 早池峰においては、瀬織津姫という神は、まず早池峰大神であり、この先行する事実は、修験者自身が保持してきた不動尊と滝神の習合関係をより強固に反復・内省する契機となっただろうことが想像されます。熊野(那智)においては、那智大滝の滝神は「地主神」でもありましたから、その地主神が、北の早池峰という霊峰の主神として鎮座しつづけていることは、信仰・修行の原郷としての「熊野」を忘れない修験者にとっては、別格中の別格の霊峰として早池峰を認識することとなったにちがいありません。
 この別格の早池峰において、滝神としての瀬織津姫命の祭祀伝承は、山の周辺に複数みられます。試みに遠野郷側のそれについて、早池峰神社鎮座地の旧・附馬牛村の村誌に語ってもらいます。佐々木又吉編『定本附馬牛村誌』(昭和三十九年)は、「不動社」と題して、次のように述べています。

不動社
 又一滝を始め、荒川の滝や、犬淵の滝の傍にあり、不動明王、或は瀬織津姫命を祀つている。いずれも由緒は不明。祭日は旧六月二十八日。
 通称お不動さまと呼ばれるが、むしろお滝さまと呼ばれる場合が多く、滝そのものが神で、神殿は拝殿の役割に過ぎないような感が深い。

 ここには、「又一滝」「荒川の滝」「犬淵の滝」の三つの滝に、瀬織津姫命と不動尊の習合関係がみられることが指摘されています。村誌という性格上、他村の事例にまでは言及していませんが、それでも一村に三つの事例があることは、関係祭祀の広がりを予感させるものがあります。
「荒川の滝」は「荒川不動の滝」とも呼ばれます(写真1)。「犬淵の滝」の不動社は、現在、白滝神社と神社化するも、ご神体は変わらずに不動明王です(写真2~4)。
「又一滝」とは不思議な名称の滝ですが、村誌は別項を立てて、この滝名の由来について、次のように伝えています。

又一滝
 この滝は修験者宝明院宥永(現山本親邦氏の家の祖に当る)が始めて路を踏み開いたので宥永滝と称されたが、その後諸国遍路の六部が立ち寄つて、紀州那智の滝は海内一と称されるが、これも亦海内一の滝であると嘆賞したことから「亦一の滝」と呼ばれ、後に又一滝と呼ばれるに至つたと云う。
 滝の側に不動明王を祀る小祠堂があり〔後略〕

 なにやらジョーク(冗談)のような命名譚ですが、「紀州那智の滝(一の滝)」に並ぶ「亦一の滝」から「又一滝」になったとのことです。
 なお、「又一滝」の滝水の流れは川名としては「滝川」といいますが、この滝川は、早池峰神社の前では「祓川」とも呼ばれます。この「祓川」の命名者は慈覚大師(円仁)と記録されていますが(『早池峰山妙泉寺文書』)、こういった命名は、円仁(天台宗)による、早池峰大神の「祓神化」の意図を感じさせます。
 円仁が早池峰信仰における滝神祭祀にも関与していたことは、「又一滝」の上流にある「不動滝」に伝えられています。

不動滝
 又一滝より更に上流に約一粁溯り、薬師堂の下手にかかつている。両岸は切り立つたような険しい岩壁の深い谷の底にあり、滝壺にある三個の石は慈覚大師が妙泉寺を開き大黒坊を開設した時に、不動三尊に擬らいたものであると伝える。人跡極めて稀なこの場所にこのような見事な滝があり、又古い由緒ある霊蹟のあるのを目のあたり見て目をみはると共に胸を打たれるものがある。

 この「不動滝」は、たしかに「人跡極めて稀」な所にあり、地元では「幻の滝」とさえいわれています(写真5・6)。「滝壺にある三個の石」とはなにやら暗示的で、三柱姫神(宗像三女神)の影向神石の伝承をもつ紫波・早池峰神社も想起されるところですが、慈覚大師(円仁)は、この「三個の石」に不動三尊(不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子)を重ねたようです(紫波・早池峰神社の項を参照)。
 ところで、村誌は、「又一滝」「荒川の滝」「犬淵の滝」の三つの滝について「いずれも由緒は不明」と記していました。しかし、「又一滝」を経由した滝川上流にある「不動滝」に、円仁による「不動三尊」の創祀伝承があり、この伝承を信ずるならばですが、「不動滝」の手前の「又一滝」を、円仁が無関心で通過・遡上したとは考えにくいことです。「又一滝」は、滝の容姿からすると、ここは「紀州那智の滝は海内一と称されるが、これも亦海内一の滝」といった世辞は話半分としても、この滝は凡庸な小滝ではないからです(写真7~9)。
 村誌は「又一滝」について、先の引用とは別に、次のように記しています。

 薬師ヶ岳の中腹にかゝつている滝で、馬留から薬師岳のふところに入り、渓谷の径路を辿ること一粁余りで、繁つた樹木の幹の間から白い布を垂れたように滝が見え滝壺に落ちる水音が聞えて来る。直下約二〇米。その上は又巨大な一枚岩の平盤な川床が長く続いて、昔、アオシシ(カモシカ)がこれを渡ろうとして滑つて滝壺に落下していたことがよくあつたと云う。
 古来、この滝の上に上ること、特にこの上流を横切ることは犯してはならない慣習で、〔後略〕

「又一滝」は「白い布を垂れたよう」と形容されていますが、「古来、この滝の上に上ること、特にこの上流を横切ることは犯してはならない」という禁忌がありました。これは、「滑つて滝壺に落下」する危険性を戒めたものではなく、この滝から奥が、早池峰の絶対聖域・神域とみなされていたからです。
 遠野の語り部の一人・阿部ヤヱさんの『呼びかけの唄』には、次のような伝承が遠野の里にあったとされます。

極楽浄土があると伝えられる早池峰山の手前に薬師岳があり、ここに又一の滝がありますが、この滝を極楽浄土への道とうたうお手玉の唄もあります。

 さりげない書き方ですが、早池峰山には「極楽浄土」があり、「又一の滝」は、その「極楽浄土への道」と伝えられていたようです。これは、「又一の滝」が早池峰山頂の「極楽浄土」へと通じているといった信仰を述べたものですが、これには、少なくとも三様の解釈が可能なようにおもえます。
 一つは、早池峰山が、死者の霊がゆきつく最後の安堵の場(空間)であるという祖霊信仰の山とみなされていて、「又一の滝」が、その「神上がり」の過程における最終的な浄化の装置(神)とみなされていたこと。
 二つは、早池峰大神(および「又一の滝」の滝神)が、熊野あるいは白山における浄土信仰と深い関わりのある神であるとする、日本の神まつりの根幹に関わる伝承をゆるやかに告げていること。
 三つは、「又一の滝」を「極楽浄土」との境界の滝とするならば、この滝には、三途川的な信仰要素があり、それは、さかのぼれば、かつて円仁が、早池峰大神(および「又一の滝」の滝神)を祓神(速川=三途川の境界神)とみなそうとしたことの影響下にある浄土信仰であること。
 この三つの解釈は、突きつめれば別様のものではありませんが、どの解釈をするにしても、「又一の滝」が早池峰信仰にとって、とても重要な場所に位置する滝であることに変わりはありません。
 村誌は「又一(の)滝」をはじめとする滝々の信仰について、「通称お不動さまと呼ばれるが、むしろお滝さまと呼ばれる場合が多く、滝そのものが神で、神殿は拝殿の役割に過ぎない」と喝破していました。これは、早池峰信仰の一側面である浄土信仰とは別次元の信仰ですが、「滝そのものが神」とみなす(修験の)信仰は、つまるところ、熊野・那智に直結・通底しています。
 また、早池峰山頂へ登拝せずとも、里に近いところにある「滝そのもの」「お滝さま」を拝むことは、早池峰山頂(の神)を拝むことと等価であるという信仰を表しているとも理解できます。「人跡」を許す滝々において、人々は、滝を拝する先に早池峰大神を拝していたとすれば、それは、「滝そのものが神」であり、かつ「滝そのものが早池峰大神」でもあるという信仰認識があったことを意味します。これは、早池峰一山に限られた、ある意味、とても特権的な信仰であったともおもわれます。早池峰大神と山腹の滝神が同一神であるという早池峰のもつ特異性は、「滝そのものが神」とする信仰をとても身近に引き寄せただろうことは疑いないとおもわれます。
 以上は、遠野・早池峰神社鎮座地の附馬牛村の「お滝さま」信仰からいえる話ですが、大迫・岳地区において瀬織津姫を滝神とするのは、「笛貫の滝」「魚止めの滝」「七折の滝」の三つがあると記録されています(『早池峯神社社記』)。
 遠野・早池峰神社、あるいは早池峰信仰は、山麓の村々に限定されるものではなく、たとえば南にみるなら、気仙地方の大船渡の港に早池峰山遙拝の石碑が建立されていて、気仙地方をも含む沿岸一帯にまで信仰圏をもっていました。陸前高田市の横田地区における瀬織津姫命と不動尊の習合関係についてはすでにみてきましたが(気仙川流域の瀬織津姫祭祀Ⅰ~Ⅳ)、昭和三年の遠野・早池峰神社による『早池峰神社昇格申請書』には、早池峰神社(早池峰山)の崇敬者は横田村に七十戸あることを「右証明ス」と、横田村長・神原秀三郎によって、同村公印の押捺とともに明かされています。
 不動尊を「本地仏」とする滝神・瀬織津姫命の祭祀(の継続)に、早池峰信仰は強力なバックアップをしていたようです。(写真1~6、撮影:民宿御伽屋主人)

桜松神社(岩手県八幡平市荒屋新町字高畑89)

更新日:2009/4/24(金) 午前 11:14



 北上川の実質的源流山が七時雨[ななしぐれ]山ですが(写真1)、この山の西麓に鎮座するのが桜松神社です(八幡平市荒屋新町字高畑89)。ここは、不動尊を「本地仏」とする瀬織津姫祭祀で、列島最北部に確認できる社でもあります。「平成の大合併」で八幡平市となりましたが、以前は二戸郡安代町でした。
 岩手県神社庁編『岩手県神社名鑑』(昭和六十三年刊)には、由緒等が次のように記されています。

櫻松神社
  通 称 お不動様  旧社格 郷社
  鎮座地 二戸郡安代町荒屋新町字高畑八九
祭神 滝津姫命
例祭 五月三日
由緒
 元和元年(一六一五)現宮司村上家の祖先がこの地に不動明王を祀りし時より始まる。明治の初めまで櫻松不動明王として尊崇し奉仕してきたが、明治初年(一八六八)宮司村上藤之進が神社を創立し祀官として奉仕す。
 明治四年(一八七一)郷社に列せられる。
境内地 二、九六三坪
宝物  絵馬
氏子  五〇〇戸
崇敬者 一〇、〇〇〇人〔後略〕

 氏子「五〇〇戸」を抱えるというのは、それなりの規模で、それゆえ、戦前の社格が村社より一つ上の「郷社」と認定されたのでしょう。しかし、その代償というべきか、祭神を瀬織津姫命ではなく「滝津姫命」と表示することになり、名鑑にまで、この祭神表示が踏襲されているようです。
 もっとも、滝津姫は宗像三女神の中心神・湍津姫と同音同義ですから、これはこれで、なかなかしたたかな祭神表示と読めなくはありません。
 現在、社を訪問してみれば歴然としていますが、大きな一の鳥居をくぐって安比[あっぴ]川にかかる橋を渡ろうとすると、次のような歌碑が出迎えるように、瀬織津姫の名は公然とわかるようになっています(写真2・3)。

  すゞやかな瀬織津媛のいざ奈ひに朱の匂う橋渡り行く奈里
  (すずやかな瀬織津媛の誘[いざな]いに朱の匂う橋渡り行くなり)

 神域の静寂な杜の参道を進んでいきますと、縁結びの木やら小さな祠があります(写真4~6)。この小さな祠は「鏡」を前立てとしているようで、ここはかつて不動尊と習合していた「神」の祠かなとおもって近づくと、祠の横には真っ黒な蛇(マムシ)がいて驚きました。奉納されている絵馬にも黒い蛇が描かれていて、この黒蛇が祠の神を護っている印象を受けます。
 さて、かつての「櫻松不動明王」の祭祀の名残りで、滝の横には「不動堂」の看板を掲げた社殿(お堂)があります(写真7)。この「桜松」という名称については、名鑑の由緒には説明がありませんが、これは、次のような伝説に基づいています(『岩手の伝説を歩く』岩手日報社)。

 昔、荒屋が里の高畑村に、おじいさんとおばあさんが住んでいた。ある日、二人が川に水くみに行くと、川上の松の木に、桜の花が咲いているのが見えた。不思議に思った二人は、川沿いに上って行くと、川が二またに分かれた。
 右の川底にきれいな姫が映って見えたので、そちらに進んで行くと滝があった。おじいさんは、荘厳な滝の力強さに不動明王の姿を、おばあさんは白糸の機を織る姫の姿を感じて、不動明王と瀬織津姫をまつった。それからお不動さん、桜松さんと呼ばれるようになったという。

 不動明王と瀬織津姫が「滝」の二様の化身の姿であることを、これほど美しく伝説化した話はほかに聞いた(読んだ)ことがありません。瀬織津姫は伊勢の桜神でもありましたから、この伝説の作者(おそらく修験者)は、伊勢と熊野双方の神まつりをよく認識していたものとおもわれます。
 さて、桜松神社「不動の滝」に、その荘厳な力強さに不動明王の姿を感じるか、あるいは、白糸の機を織る姫の姿・瀬織津姫を感じるか──。
 滝横に、不動明王が番人のように睨みをきかせている姿は各地の滝にみられますが、ここも同じくで(写真9)、わたしには、滝神・瀬織津姫の前に立って(座って)、この姫神をそれとなく守護しているのが不動明王かなというイメージをもっています。