伊豆・三嶋大社へ──広瀬神のその後【Ⅱ】

更新日:2011/4/6(水) 午前 3:23

 金氏はさらに、風土記の記述から、「百済系の大山祇神」を奉祭する「百済系渡来人の越智氏族」(第九巻)と、越智氏を百済系の渡来氏族とまで断じています。列島内の諸氏族はいうにおよばず、わたしたち一人一人のDNA的記憶からいっても、それぞれの祖はいずこからの渡来人であることは肯定できるものです。したがって「渡来人」そのものについての金氏の言説は否定するものではありませんが、越智氏に限るならば、それを「百済系渡来人」と断定することが妥当かどうかという問題は残ります。
 なぜならば、越智─河野氏の秘伝的家伝書『水里玄義』には、その祖を秦徐福と神饒速日命とする二つの異伝承が書かれているからです。前者は秦氏と関わり、後者は物部氏同族といった意識の表れを語っています。
 白石成二『古代越智氏の研究』(創風社出版)には、長岡京出土の二つの木簡が紹介されています。そこには、「伊与国越智郡旦[あさ](朝)倉村秦足国[はたのたりくに]戸白米伍斗」、「伊予国越智郡朝倉村物部家公[もののべのいえきみ] 戸白米伍斗」と書かれていて、越智氏の性格を考える上で示唆することが多いです。
 秦氏と物部氏の存在が確認できる越智郡朝倉村について、白石氏は、次のように述べています。

 木簡に記された朝倉の地は古墳の里として知られている。県下最大の群集墳と言われる野々瀬古墳群、墳丘は東西三十六㍍、南北三十㍍で竪穴式石室をもつ樹之本古墳、そして多伎宮古墳群などがある。その中でも多伎神社の境内に三十余基あったとされる多伎宮古墳は、栗石を積み上げて造られた積石塚で朝鮮半島に多くみられる特異なもので、木簡によって確認された秦氏との関係が強く想定される。このように郡内に多くの秦氏が実在したことから、秦に関連する伝承が生じたのであろう。

 新羅・伽耶系渡来人の秦氏も、その祖は徐福にいくだろうというのは私見ですが、それはおくとしても、古墳的史実からいえば、越智氏は百済よりも、むしろ新羅に近縁性をもっていたようです。


▲津島

 伊予国越智郡には、オオヤマツミ神をまつる越智氏と、瀬織津姫神をまつる越智氏がいました。前者は大三島を中心とするもので朝廷の祭祀思想に準じてオオヤマツミ神をまつり、後者は来島[くるしま]海峡に浮かぶ小さな津島を本拠とし大三島と一線を画すように瀬織津姫神をまつりつづけていました。『古代越智氏の研究』は、「今治市と大島の間の海峡は早瀬で航海の難所として知られる来島海峡」、この海峡には「多くの小島が点在している」として、次のようにつづけています。

 今治側からあげると小島、馬島、中渡島、武志島、毛無島、小武志島、大突間島、そして津島である。津島の山上には大岩が幾つもみえ、「津島立石」と言われ、ここが旧津島神社の跡地である。こうしたことから来島海峡の東水道を航行する場合の目標となっており、現在でも西端に潮流信号所が設置されている。これら来島群島の中では津島は最大であり、現在も有人の島である。津倉湾の入口にあることから門島[つしま]と呼ばれ、明治期には渦浦村となっている。いかにも急流の来島海峡に存在するにふさわしい地名である。〔中略〕
 この「津島」に関連して江戸末期の人である半井梧庵はその著書『愛媛面影』で「津島神社」に注目している。そこには「津島山上に立たせり。俗に津島大明神と名づく。祭る所瀬織津姫なりと云ふ。三代実録に曰く、仁和元年二月十日丙申、授伊予国正六位上徳威神、門島[つしま]神、宇和津彦神従五位下。民部帳に曰く。越智郡門島神社或津島神、神田六十一束二字田、観松日古香殖稲命[みまつひこかえしねのみこと]御宇三年戊辰、祭所瀬織津比咩也。有神戸部巫戸。」とある。

 文中「民部帳に曰く」とされるなかにみえる、「観松日古香殖稲命」は孝昭天皇の和風諡号で、その三年に「瀬織津比咩」がまつられたというのは、日本書紀年で換算すると紀元前のことで、途方もない話です。また「民部帳」そのものを確認できず、これは怪しい伝承というしかありませんけれども、津島に瀬織津姫神が古くからまつられていたことはまちがいありません。
 津島=門島神としての瀬織津姫神については別に言及したことがありますが(「大濱八幡大神社──越智・河野氏の気概」)、白石氏は、「大浜八幡神社の社伝によれば、天智天皇の時に大島の津島にあった門島神を遷座し、門島神社と号した。平安時代になって大分の宇佐八幡神社より八幡神を勧請して大浜八幡に改称したと言う」、「大島の門島神を勧請して大浜八幡神社となったこと、つまり大浜八幡神社の前身は門島神であったことは確実とみてよかろう」とも添えています。
 津島は小さな島で、津島越智氏がそれなりの勢力でこの島を本拠としていたことを、わたしは『古代越智氏の研究』で初めて知りました。この津島越智氏は宇和郡にまで展開がみられるとのことですが、津島越智氏と津島=門島神の関係について、同書のいうところを読んでみます。

(津島は)瀬戸内海航路の来島海峡の難所中の難所とされる場所に位置していたから、航海の安全を祈願する神として重要視された。そうでなければ、四国側の大浜八幡神社などよりも高い社格を与えられるということは考え難いことであろう。
 そしてこの津島にある門島神が重要視されたのは史料からみる限り大同二(八〇七)年から仁和元(八八五)年の平安時代であり、伊予国周辺で海賊の跳梁が顕著となった時期と重なっている。神階はその神を祭祀する氏族に対して与えられるものとすれば、門島神に対する従五位下の叙位は越智郡の「津島」に本拠を有して同神を篤く信仰していた越智氏に対するものであったと言える。

 伊予国周辺における「海賊の跳梁」と津島=門島神への神階の叙位が関係あるとすれば、朝廷による津島=門島神(瀬織津姫神)への異敵降伏祈願の意味が込められていたゆえなのでしょう。たしかに、瀬織津姫神は異敵を祓う神威を有する神と信じられていた時代で、このことは、大分県中津市の闇無浜[くらなしはま]神社をはじめ多くの例をみることができます。
 ところで、こういった叙位の問題とは別に、津島は「瀬戸内海航路の来島海峡の難所中の難所とされる場所に位置していた」わけで、海峡の潮流の早瀬をそのままに社号としたとおもわれる、その名も「早瀬神社」が大三島・大山祇神社の境内社・十七神社に確認できます。
 大山祇神社本社においては、境内社の一社にすぎないというように降格祭祀がなされていますが、津島の越智氏によって「篤く信仰」されていたのが津島=門島神(瀬織津姫神)でした。
 越智氏が東進した地が伊豆国で、それが瀬戸内海・大三島一帯を本拠としていた同じ越智氏族ならば、伊豆にも津島=門島神(瀬織津姫神)の祭祀は伝播したものと想像されます。
(つづく)

伊豆・三嶋大社へ──広瀬神のその後【Ⅰ】

更新日:2011/4/6(水) 午前 3:18

 金達寿[キムタルス]『日本の中の朝鮮文化』は、列島内の古代朝鮮遺跡を訪ねる、全十二巻の紀行文集です。本シリーズは一九七〇年から足掛け二十一年にわたって刊行されたものですが、今では当たり前のようにつかっている「渡来人」の概念を定着させた書といえます。日本に統一国家が形成されるのは六~七世紀からのことで、それ以前に「帰化人」ということばをつかうのはおかしいというのが、金氏の一貫して主張することでした。これは、当然ながら『日本書紀』の史観、つまり、つくられた皇国史観への再考を迫るものでもありました。
 少し具体的にいいますと、たとえば、四世紀の古墳から朝鮮と同じ出土物が検出されたとき、朝鮮との「交流」があった、あるいは朝鮮から「伝来」「輸入」されたなどといった、日本人識者からの解説がまことしやかになされていたりすると、金氏はすかさず、「物」だけがやってくるということはない、「人」も同時にやってきたのだと批評のことばを投げかけます。日本にまだ統一国家が成立していないとき、このようにやってきた「人」は、帰化人ではなく、渡来人だというのが金氏の主張です。
 本シリーズによって、古墳初心者であるわたしなどは、最新の古墳情報はともかく、全国にわたる考古学的な知見と接することができて、また、いながら「旅」をしたようで、なにか得をしたような気になります。本書には、遺跡・古墳(の被葬者=渡来人)ばかりでなく、渡来人が信奉していた神仏や寺社祭祀への言及もみられ、なかには異論があるものもないではありませんが、『日本書紀』の史観から自由な分だけ、共感・共有できることが多く、ときに読み手を「考える場」に誘ってもくれます。たとえば、こういった記述があります(同書第八巻)。

「維新の神仏分離令」は神と仏とを分離しただけではなく、神社の祭神や神社名をも変えているという事実である。
 これは日本全国、ほかにもたくさんそういうことがある。たとえば、伊豆(静岡県)三嶋大社の祭神は百済系の大山祇神であったが、これが維新後は事代主命に変わっている。いまは大山祇、事代主の二祭神となっているけれども──。

 第八巻は「因幡・出雲・隠岐・長門ほか」の地域を対象としたもので、北辰星をまつる妙見宮が天御中主神社へと変わった例などから書かれた部分です。天御中主神社といった社号は明治の前には存在しなかったもので、こういった社号・祭神の変更事例は、たとえば(牛頭)天王社が八坂神社あるいは津島神社に変わり、祭神はスサノオに統一されるなど、ほかにもあります。
 引用中、祭神変更の一例として、「伊豆(静岡県)三嶋大社の祭神は百済系の大山祇神であったが、これが維新後は事代主命に変わっている」とあります。「百済系の大山祇神」というのは、『伊予国風土記』(逸文)にみられる、大山積神は「和多志[わたし] (渡海・航海守護)の大神」、この神は仁徳天皇の時代に出現したもので、「百済[くだら]の国より度[わた]り来まして、津の国の御嶋[みしま]に坐[いま]しき」という記述に依拠したものです。
 オオヤマツミ(大山祇・大山積)という神が百済からの渡来神であるという風土記の記述は、列島内の朝鮮文化を訪ね歩く金氏にとっては、わが意を得たりといったところか、随所で言及されています。三嶋大社祭神から大山祇神が消去されたのはなぜかについて、金氏のいうところはこうです(同書第七巻)。

 要するに、大山祇(積)命は古代朝鮮三国の一国である百済から渡来したそれだったので、一八七一年の明治四年に官幣大社となっていた三嶋大社の祭神がそういう朝鮮の神であってはぐあいわるい、というわけだったのである。

 官幣大社・三嶋大社が「朝鮮の神」をまつるのは「ぐあいわるい」というのは、一読そうかとおもわないわけではありません。しかし、四国唯一の国幣大社・大山祇神社をみますと、三嶋大社と同様な祭神変更はまったくみられませんでした。また、北海道の樽前山神社では、本来の祭神は瀬織津姫神でしたが、それを「明治天皇の勅命」の名のもとにオオヤマツミ神に祭神変更させた事例さえあります(菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻)。金氏のことばにならえば、「朝鮮の神」をまつるよりももっと「ぐあいわるい」神がいたのです。したがって、「朝鮮の神」云々は、祭神変更の本質的理由とみなすことはできないだろうとなります。
 明治期初頭、三島明神をどのような神として表示するかについて、識者の間で、あるいは三嶋大社において、オオヤマツミ神ではないという祭神異論があったということだとおもいます。もっとも、オオヤマツミ神ではなく事代主命を三島明神とみなす祭神論にしても、説得性は大いに欠如しています。かほどに、三島明神の不明性は根深いといわねばなりませんが、これは、おおよそ八世紀初頭の時点からはじまる不明性で、つまるところ、神宮祭祀との対照関係を踏まえて説くしかないことだとおもいます。天皇を中心とする国家を再構築せんとする明治政府の国家思想と連動して、天皇の祖神をまつるとする神宮の絶対化が標榜されていたわけですから、こういった本質論議がなされるはずもない時代だったとはいえますが。
 ところで、オオヤマツミ神が仁徳天皇の時代に出現したなどという風土記の記述は考証のしようもないもので、金氏もそこにふれることはありません。ましてや、オオヤマツミ(大山祇・大山積)という百済系渡来神と、金氏が新羅系渡来神とみなしている瀬織津姫神、つまり、神宮祭祀の思想から表立ってまつることはならないとみなされていた神とが、大三島においては至近の関係として伝えられていたことなども、当然ながら視野の外だったようです。
(つづく)

吉里吉里の精神──大槌湾の「ひょうたん島」

更新日:2011/3/29(火) 午後 7:32

 今月(3月)22日付の『朝日新聞』朝刊に、「ひょうたん島壊れた」「モデルの地復興の旗頭」「岩手・大槌町」の見出しで、次のような記事が載っています。

 岩手県大槌町は、作家・劇作家の故・井上ひさしさんの代表作「ひょっこりひょうたん島」や「吉里吉里人」のモデルとされる。地震と大津波は町を無残な姿に変えた。だが、生き残った町民は吉里吉里の精神で結束し、復興に向けてどこまでも前向きだった。(森本未紀、河村能宏)
 大槌湾沖の小さな島、蓬莱島には、大小二つの丘があり、島影はひょうたんの形をしていた。小さい方の丘に灯台があった。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つとされ、町の自慢だった。震災前は毎日正午に町内にテーマソングも流れた。
 だが、島は津波にのまれ、灯台も流された。ひょうたん形の丘も一部が崩れ落ちた。
 町職員の佐々木健さん(54)は「『泣くのはいやだ、笑っちゃおう』という希望をもたらしてくれるのがひょうたん島。これから復興の旗頭になったらいい」と話した。
 町中心部から北東に約4㌔。海岸沿いに広がる吉里吉里地区は、小説「吉里吉里人」のモデルとなった。東北の寒村が日本から独立をめざすという物語。ベストセラーとなり、同地区は「吉里吉里国」として井上作品のファンたちに親しまれてきた。
 地震と大津波で「吉里吉里国」も一面がれきの山と化した。約300世帯2500人が暮らすが、約30人が亡くなり、約45人が行方不明になっている。
 だが、震災当日に住民自ら対策本部を発足させ、翌日から、経営者の許可を得て、ガソリンスタンド地下のタンクに残された灯油や軽油の確保に乗り出した。地元の水道事業者らが手動ポンプをつくり、13日までに設営。14日から油をくみ上げた。灯油は避難所を暖める暖房機器に、軽油は、地元の建設会社や造園会社から提供を受けた重機に供給された。住民100人以上ががれきの撤去に乗り出し、生活道路の確保を目指した。
 避難所で被災者の相談を受ける芳賀広喜さん(63)は胸を張る。「吉里吉里国は大変なことになったけど、人々の結束は強くなった。吉里吉里の人間であることを誇りに思う」

 NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」は、ドン・ガバチョなどのコミカルな名も思い出され、わたしも子どもの頃、毎回楽しみにしていた番組の一つでした。
 大槌町全体の被災については、現在「市街地はほぼ壊滅状態。町長をはじめ519人死亡。約1千人行方不明。約5750人避難」(29日付新聞)とあり、大槌町吉里吉里地区の自立復興のなかで語られた、芳賀広喜さんの「吉里吉里国は大変なことになったけど、人々の結束は強くなった。吉里吉里の人間であることを誇りに思う」ということばが印象的です。
 甚大な被災のなかで「復興の旗頭」(シンボル)として語られていた「ひょうたん島」、記事によれば、この島の正式名は「蓬莱島」とのことです。
 かつて「閑話休題──大槌湾の弁天島」と題して、大槌湾に浮かぶ小島にある弁天神社を紹介したことがありますが、この弁天島が「蓬莱島」です。井上ひさしさんの「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる島はほかにもありますが、大槌町の人々にとっては、この島こそ「ひょうたん島」であり、それが復興のシンボルとしてあるならば、そうであってほしいものです。
 新聞に載った震災後の蓬莱島(弁天島)の写真には、へし折られた灯台の土台が写しだされていて、津波の破壊力をあらためて感じさせます。ここは、かつて、わたしが三陸の海で初めて釣りをした所でもあり、「あの灯台が……」とおもうと、やはりことばが途絶えます。また、掲載の写真は、弁天神社の社殿や樹木(松など)もとらえています。おそらく、社殿内の神体像(弁天像)ほかは、鳥居とともに流出してしまったと想像されますが、弁天さんの「家」や樹木はよく残ったものです。


▲朝日新聞


▲在りし日の弁天神社(灯台から撮影)

(追伸1)
 この24日、東北自動車道は一般車の通行が可能となりました。すぐに遠野入りをとおもいましたが、ガソリンの給油状況や物流状況がまだ完全復旧しておらず、またガソリンの補助タンクは売り切れとのことで、今しばらく待機のようです。
 遠野の風琳堂編集室は1DKのアパートを使っていて、大家さんに現状確認に行ってもらったところ、電話口で「なんといっていいものやら……」と口ごもった応対で、「そんなにグチャグチャですか」と尋ねると、室内は足の踏み場もないといった状態らしいです。
 聞くところによれば、遠野ではなぜか市役所一つが全壊で、一般の民家の損壊被害も人的被害も多くはなかったそうですが、室内への地震の影響はそれなりにあったとのことです。あるいは、編集用の機器など無事ではないのかもしれませんが、落下・散乱程度で済んでいるとするならば「よし」としなければなりません。

(追伸2)
 売れない土地ならば無理して売らない、活用するということで「都会の小さな隠れ家」(案)を書いたところ、皮肉なことにというべきか、買ってもよいという人が現れました。この話がそのまま進むと、5月末までに名古屋を完全撤去することになります。
 荷物はいったん遠野に部屋を借りて置いておこうかとおもい、不動産業をやっている遠野の知人のHPを開いてみると、25ほどあった賃貸物件にはすべて「御成約」か「商談中」のマークが付いています。知人曰く、ちょうど転勤時期ということもあるが、多くは沿岸からの避難者が借りているとのことです。
 避難者の家族のプライバシーが守られること、また、風呂にも入れてゆっくり眠れることなどは「次」への第一歩ですから、わたしに部屋の空きがないことなどはたいした問題ではありません。ただ、関係荷物をどこかに移す必要はあります。
 ときどき名古屋の倉庫事務所といった書き方をしてきたように、風琳堂はまがりなりにも出版社ですから、相応の「本の山」(在庫)を抱えています。個人的な蔵書類も含めて、おもいきった整理をすることになりそうです。
 関係著者および読者の方には、よろしく「了」としていただくことを希望しています。

貞観時代の天変地異──古記録と東北地方太平洋沖地震【再】

更新日:2011/3/20(日) 午後 9:21

 遅くなりましたが、震災にあわれた方々にはあらためてお見舞い申し上げます。
 何人かの方々からは、わたしが遠野にいるものとおもい、問い合わせをいただきました。しかし、地震発生のとき、わたしは遠野にいなくて、連絡をくれたある人は「よかった」と言ってくれましたが、その後の震災報道をみていますと、とても複雑な心境だというのが本音です。
 岩手の紫波の知人と電話で話していた、ちょうどそのときに地震が発生して、「大きい、動けない、こんな揺れは初めてだ」といったことばが受話器から聞こえてきて、一分後くらいでしょうか、電話が切れました。このときは名古屋の事務所にいて、それからどれくらいたったかはっきり覚えていませんが、名古屋にまで震度4の揺れがきました。
 その後、知人の無事は確認されましたが、沿岸部の知人にはまだ連絡がとれない人もいます。この状況では無事を願うしかないですし、遠野入りするのも困難な状況で、ともかく冷静に自分を保つ以外にないといったところでしょうか。
 なにか書く必要があるなとおもい、先回の「貞観時代の天変地異」を載せましたが、心ある読者から指摘をいただき、結果、削除いたしました。理由は、次のような末尾のことばがあったからです。

自然は人智を映し出す鏡だなと、あらためて認識させられたようです。この自然を「カミ」と呼んでも、そこに差異はないといってもよいでしょう。

 これは不用意な書き方で、これですと、今回の地震・震災は「神」が引き起こしたといった文脈で読まれかねません。この「神」がさらに瀬織津姫神へとスライドしてゆく可能性も否定できず、そういった危険性をはらんでいるならばということで削除しました。
 ただし、「貞観時代の天変地異」そのものについては、歴史の証言として残しておいてよいかとおもい、以下に、少しは生きているであろう部分を再録しておきます。
  *
 マスコミに登場する地震・津波研究の専門家の多くから、今回の巨大地震・津波は「想定外」といったことばが語られます。また、その後、福島の原発災害が深刻化するなかでも「想定外」の地震・津波ということばがきかれます。
 ホリエモン事件(?)のときは「想定内」ということばが印象深かったですが、今回は「想定外」です。ただし、東北大学のある地震研究者が、貞観時代の三陸大地震で、その津波によって変異がみられる地質調査をすると、今回の巨大津波とよく似ている旨を語っていました。貞観時代は平安時代の九世紀にあたりますから、千年以上前の地震ということになります。千年という時間は「想定外」というのが現代の多くの学者感覚なのでしょうが、としますと、これは歴史(の記録)を甘くみていたということにもなります。
 貞観時代は、西暦でいえば八五九~八七七年にあたり、このときの三陸大地震について記録していたのは『日本三代実録』という官撰の史書でした。本書には、具体的には次のように書かれています(吉川弘文館『国史大系』所収『日本三代実録』、旧漢字は新漢字に置き換えて引用)。

(貞観十一年五月)廿六日癸未。陸奥国地大震動。流光如昼隠映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆圧死。或地裂埋殆。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其数。海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海数十〔千〕百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。

 貞観十一年(八六九)五月二十六日、陸奥国に大地震がおこり、多賀城の城郭その他建物が倒壊し、その数は知れない。また、大津波(「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」)はたちまち城下に至り、海浜から「数十〔千〕百里」ほど水が押し寄せ、城下の死者は千人に及んだ──。
 大要を粗っぽく記しましたが、この大津波による土質変化を、多賀城・仙台平野からさらに広範囲に調査しているのが東北大学です。この調査結果は、「想定外」といった免責ことばに終始する日本の地震学・津波学に再考を迫るはずのものと考えますが、あるいは、結果は同じで無視されるのかもしれません。千年(以上)という時間に対するセンスをもつのは容易ではありませんから。
 ところで、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北のまつろわぬ民・蝦夷[えみし]の討伐を朝廷に奏上したのは延暦二十年(八〇一)九月二十七日のことでした。前年の延暦十九年(八〇〇)三月十四日には富士山の噴火があり、東北の九世紀は、きな臭さの余韻のなかではじまったようです。
 貞観時代(八五九~八七七)を中心に、九世紀の天変地異は数多く記録されています。当時、当然ながら太平洋プレート云々といった地質学は存在しませんから、こういった異変は「祟り」とみなされていました。仁和二年(八八六)八月四日の『日本三代実録』の記録には、「安房国に天変地異があり、鬼気御霊の祟りで兵難の相があるとし、近隣諸国に厳戒させる」(『日本文化総合年表』)とあり、朝廷側は「鬼気御霊の祟り」を大真面目に認めていたようです。
 ここで、天変地異の九世紀を『日本文化総合年表』ほかから、あらためて年表ふうに書き出してみます。

延暦十九年(八〇〇)──富士山噴火
弘仁九年(八一八)───北関東で地震、死者多数
天長四年(八二七)───大地震あり、以後、地震頻発
天長七年(八三〇)───出羽国秋田に大地震、秋田城・四天王寺等、倒壊
承和八年(八四一)───伊豆地震、死者多数
嘉祥三年(八五〇)───出羽地震、死者多数
斉衡三年(八五六)───この年、地震多く、被害甚だしい
貞観五年(八六三)───越中・越後地震、死者多数
貞観六年(八六四)───駿河国、富士山大噴火(貞観噴火)、阿蘇山噴火
貞観九年(八六七)───阿蘇山噴火
貞観十年(八六八)───播磨・山城地震
貞観十一年(八六九)──三陸大地震、津波(貞観津波)
貞観十三年(八七一)──出羽国、鳥海山噴火
貞観十六年(八七四)──薩摩国、開聞岳噴火
元慶二年(八七八)───相模・武蔵地震、死者多数
元慶四年(八八〇)───出雲大地震
仁和元年(八八五)───薩摩国、開聞岳大噴火
仁和二年(八八六)───安房国で地震・雷など頻発
仁和三年(八八七)───南海地震、東南海地震、東海地震

 各地の神社伝承や地方史などをていねいにみてゆくならば、もっと拾い出すことは可能でしょうが、それにしても、貞観時代は天変地異が集中した時代だったようです。
 気象庁発表によれば、今回の地震名は「東北地方太平洋沖地震」、震災名についてはマスコミによってばらばらで、たとえば「東北関東大震災」とか「東日本大震災」といった仮称がみられます。貞観時代における「東北地方太平洋沖地震」といってよい三陸大地震で気になるのは、その五年前に記録されている富士山噴火です。
 地震・噴火の発生順はともかくとして、近い時間のなかで三陸大地震と富士山・鳥海山噴火、それと三陸からは遠隔の地にある阿蘇山・開聞岳噴火までが記録されています。
 三月十五日には富士宮市あたりを震源地とする地震が発生しました(静岡県東部地震)。気象庁は「この地震による津波の心配はありません」といった通り相場の発表をしていましたが、富士宮市は富士山麓にありますから、富士山噴火の可能性の有無についても言及してよかっただろうとおもいました。
 また、東北地方太平洋沖地震と静岡県東部地震は直接の関係はないだろうとの識者の意見も聞かれます。これはプレートが異なるものだからというプレート論に依拠したものですが、考えてみれば、そういったプレートを実見したものはだれもいませんし、ましてや、各プレートの下の地殻変動がどのようなメカニズムによるものかは不明です。
 自然は予測不能なところで自己主張するはずで、科学・人智は過去(歴史)から学ぶという姿勢を手放さないほうがよいようにおもいます。
  *
 ここで補足しておきたいのは、貞観十三年(八七一)におこった鳥海山の噴火についてです。当時の朝廷側の記録(『日本三代実録』)は、この噴火に対しては異例に多くのことばを費やしています。

(貞観十三年五月)十六日辛酉。先是。出羽国司言。従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到。夏冬戴雪。禿無草木。去四月八日山上有火。焼土石。又有声如雷。自山所出之河。泥水泛溢。其色青黒。臰気充満。人不堪聞。死魚多浮。擁塞不流。有両大虵。長各十許丈。相連流出。入於海口。小虵随者不知其数。縁河苗稼流損者多。或浮濁水。草木臰朽而不生。聞于古老。未嘗有如此之異。但弘仁年中山中見火。其後不幾。有事兵仗。決之蓍亀。並云。彼国明神因所禱未賽。又冢墓骸骨汙其山水。由是発怒焼山。致此災異。若不鎮謝。可有兵役。是日下知国宰。賽宿禱。去旧骸。並行鎮謝之法焉。

 当時、鳥海山という山名は語られず、大物忌神社が山上に在るというように、大物忌神がいます山というようにいわれていたようです。引用の漢文を正確に読み下すのは難儀ですが、出羽国司は四月八日のこととして、噴火(「山上有火」)と焼けた土石が河に流れ泥水があふれかえり、流域の田をつぶした様を記しています。長さ十丈ばかりの大蛇が二匹、流れ下っていって海にはいると、無数の小さな蛇がつき従っていったといった不思議な逸話も書かれています。
 国司の報告の後半によれば、弘仁年中にも噴火があったとしていて、また、噴火は山中の死穢による不浄や、ていねいな神まつりをしなかったことを神が怒ったという理解だったようです。先に、安房国の天変地異は「鬼気御霊の祟り」で、これは兵乱の兆しであるという朝廷側のことばをみましたが、それにならえば、鳥海山の噴火は「大物忌神の祟り」となります。少なくとも、朝廷側は、そのように認識していたとおもわれます。
 この大物忌神が瀬織津姫神を秘した神名であったことの考証はくりかえしませんけれども、この神を「祟り」をなす神とみなしていたのは、朝廷支配層側に、それ相応の「祟られる」意識があったゆえで、庶民とは無縁の話です。
 かつて『エミシの国の女神』を出したとき、「この神は天変地異を司る神。世に出してはいけない」といった匿名電話をもらったことがありました。天変地異、つまり自然災害をこの神の意思によるものとみなす発想は、現代にも根深くあるのかもしれません。しかし、これは、古代の朝廷支配層側がこの神に抱いていた認識を無批判に踏襲したものというべきで、そういった無思考的発想を現代にもつことは大いなる時代錯誤、ある意味、つまり、この神に対する畏怖の感情をもたない分、かつての朝廷思想よりも質[たち]がわるいといえます。
 困難はありますが、瀬織津姫という神が正統に理解される道を信じて、一歩ずつ歩を進めてゆくしかないようです。

閑話休題──都会の小さな隠れ家

更新日:2011/3/6(日) 午前 2:55


▲「柿本人麻呂の木」

 不動産を「売る」というのは案外むずかしいもののようです。
 名古屋の風琳堂倉庫事務所があるところは一応文教地区らしく(たしかに徳川美術館も近い)、また、近くには24時間営業のマックスバリュ(イオン)や郵便局などもあり、生活の利便性は高いからすぐに買い手は現れます──、これは仲介の不動産担当者のことばの要約ですが、しかし、いざ売りに出してみると、9ヶ月近くになろうかというのに、さっぱり現実化しません。
 土地の相場からすれば安く公示しているのに買い手がつかない、見学にくる人は多いのに買おうという決断をしないというのには理由があります。なにも一家惨殺事件があったとか幽霊が出るというわけではなく、購買を躊躇させる理由は、どうやら土地の西側と南側の一部に高層のビルが境界いっぱいに建っていることにあるようです。
 倉庫事務所は、このビルの日陰の約30坪部分を使用しているのですが、それとは別に、東には古民家に自称「遠野のヤマンバ」が一人で住んでいます。この東側の土地は49坪ほどでまだ明るいのですが、まとめて79坪の土地を売ろうとすると、西の日陰部分の土地が足を引っ張ることになり、商談がまとまらないということのようです。
 東の古民家の庭の片隅には、渋柿の古木があり、特に肥料をあたえるわけでもないのに、多いときは千個ほどの実をつけます。富有柿と偽装表示してスーパーで売り出したなら、まちがって買ってゆく人はきっといるにちがいないという立派な実をつけます。干し柿づくりを希望する友人たちによく箱単位で送ったりしてきましたが、わたしはひそかに「柿本人麻呂の木」などと命名しています。
 できれば、次に土地を買う人にも、この木を生かしておいてほしいという希望があり、見学者には、つい笑いながら「この木は名古屋でも有数の渋柿の銘木です」などと話すものですから、それも土地の購買意欲を減退させる一因だったかもしれません。
 不動産の仲介担当者は「関係ない」と慰めてくれますので、この木のことはおいておくにしても、西の日陰の土地の問題は残ります。ビルのオーナー側に買い上げてもらうのがベストだろうと話をもっていっても、これも首を横に振るばかりでラチが明きません。
 みんなから敬遠される土地に風琳堂(の名古屋事務所)があるというのは因果関係があるかもなと、超非論理的なことを考えるようになってきました。
 しかし、現状を打開する方法がないはずはないと、土地の図面をにらんでいて、一つ思いついたことがあります。それは、みんなから嫌われている土地ならば、なにも無理して売らない、その活用を考えよということです。間口6メートル、奥行き18メートルというところで図面に線引きしてみると、これは典型的な「鰻の寝床」的イメージです。しかも、西と南は高層ビルの壁で、間口は公道に面するも北向きですから、お世辞にも使い勝手あるいは条件がいいとはいえません。さらに図面とにらめっこをしていてひらめいたのが「都会の小さな隠れ家」ということばでした。
 最初は一階を駐車場、二階に事務所兼住居を考えましたが、これではどこにでもある発想ですから「都会の小さな隠れ家」にはなりません。ならばとおもいついたのが、「鰻の寝床」の最奥部の6メートル×10メートルほどにロフト付きの小さな一軒家(2DKくらい)を建て、前に屋根付きの駐車場、公道から玄関へのアプローチは石畳とし、モダンな路地のイメージをつくるという案でした。
 こういった妙案あるいは珍案をおもいつくと、内装・水周りは高級マンションレベルにするとか、東面は朝の採光しか期待できない、視界の良好性も確保できないならば、そこに居るだけで落ち着く空間をどう創作するかということになります。
 小さな家をつくるというアイデアの骨格はできましたから、あとは、東の土地の公示方法を変更するだけです。今度は、西側の嫌われ者の土地を切り離すことになりますから、まったく「新しい土地物件」ということになります。
 こういった「都会の小さな隠れ家」をつくるのにどれほどの費用がかかるものかはさっぱり見当もつきませんが、自分にその資金があるわけではありませんから、これは、「新しい土地物件」がうまく売れてからのことになります。
 なにも土地のことに限りませんけれども、あるモノに付着した一般的マイナスイメージをどう逆転・反転していくかということを考えるとき、ちょっと「燃える」自分がいるらしく、これは「性分」と呼んでいいのかもしれません。