閑話休題──瀬織津姫たちの甲子園

更新日:2009/8/25(火) 午後 3:45



 鹿児島・大隅国の守公・守君神社(明治五年以降は「祓戸神社」へと社名が変更される)の瀬織津姫祭祀を語ろうとしますと、その背景には養老四年の隼人の乱があり、この乱の鎮圧軍(朝廷軍)の先頭に立ち、異敵(隼人)調伏神としてやってきた八幡大神と宇佐・大隅の秘神であろう瀬織津姫神の関係にふれないわけにはいかず、ここだけは単純な神社・祭祀紹介ではすまないようです。
 いきおい、八幡大神・同比売(比咩)大神、あるいは八幡祭祀とはなにかという問いに向き合うことになります。これまでの諸氏の八幡祭祀論において、明快な八幡祭祀の本質が語られたことはなく、このことは、比売(比咩)大神とはなにかという問いに絞って各論考を読んでみますと、その「語られなさ」は瞭然としています。
 御許山信仰と近似の祭祀に宇佐氏一族(支族)が奉祭する八面山の神がいます。八面山(写真)にはもともと「聖母神」がいましたが、この聖母神は神功皇后のことと解釈する通説的祭神説が強くあるものの、八面山を離れますと、そこには明治二年までは「瀬織津姫命」の名がみられる事例もありました。
 岩手県陸前高田市の氷上神社由緒書(昭和十七年)には、「明治天皇御製」とされる歌が収録されています。

  いにしへの姿のまゝにあらためぬ
     神のやしろぞ尊かりける

 明治期初頭、ここで詠われている「神のやしろ」を「いにしへの姿のまゝにあらためぬ」という明治天皇の意向を実現せんとして、各地の「瀬織津姫命」の祭祀が消えていきました。もし本気で日本の神まつりを「いにしへの姿のまゝにあらため」ようとしたら、その「改め」の筆頭対象社はいうまでもなく伊勢神宮(の皇祖神祭祀)ということになりますが、この歌がそこまでの「いにしへの姿」を詠ったものでないことはいうまでもありません。
 日本の神まつりに対して、一見真摯な思いを吐露した明治天皇歌ですが、大分の地で、その尊[たっと]いはずの「神のやしろ」の改めのもとに消えた(消された)のが八面大明神=瀬織津姫命でした。
 ところで、八面大明神は鷂[たか]神社の縁起逸話において、宇佐神宮大宮司に自分を「今宮」としてまつるようにと託宣していました。なぜ「今宮」なのだろうという新たな問いも生じてくるわけですが、こういった託宣があったことを知れば、瀬織津姫神と今宮も深い関係にあるだろうことを想像させずにおきません。
 手元にある『福岡県神社誌』下(昭和十九年)をぱらぱらめくっていましたら、旧豊前国に含まれる京都[みやこ]郡に今宮神社の名を二つみつけました。一社は、現・みやこ町岩熊にある若宮八幡神社に合祀された今宮神社、もう一社は、行橋市福丸にある清地神社の境内社である今宮神社です。前社の祭神は「大枉津日神・八十枉津日神」、後社のそれは「禍津日神」と表示されています。また、巻末の「無格社一覧」にも三社の今宮神社に祭神「八十禍津日神」と表示されています。
 瀬織津姫神の貶称異称であるマガツヒノカミが今宮神社複数社に記されていて、鷂神社における八面大明神の託宣縁起はどうやらウソではなかったようです。
 それにしても、今宮神社は共通してマガツヒノカミという瀬織津姫神の異称を表示しています。豊後高田市真玉の八面宮には、このマガツヒノカミの名さえ残さないという徹底性がみられましたから、その意味では、貶称とはいえ、マガツヒノカミという神名が今宮神社に確認できることは貴重というべきかもしれません。
 そんなことをあれこれ考えていて、ふとテレビのスイッチを入れたところ、画面は高校野球の試合(大分・明豊高校と静岡・常葉橘高校の試合)を映しだしていました。回は9回表、1点負けている大分・明豊高校のバッターは「今宮」とアナウンスされ、「なに?」といった感覚で画面を凝視することになりました。「今宮」はゼッタイに打つぞとおもってみていましたら、そのとおりになりました。大分・明豊高校は「今宮」の一打で土壇場で同点に追いつき、結果12回に勝ち越して準々決勝に進むことになりました。
 大分・明豊高校の準々決勝の相手は岩手・花巻東高校とのことで、その名を消されることなく瀬織津姫神が山神として唯一鎮座する早池峰山は花巻の東方に聳える山で、これはマガツヒノカミと瀬織津姫神の試合になるなと、ここで妄想的甲子園の世界の虜[とりこ]になったようです。
 この準々決勝は互いに一歩も譲らない壮絶な試合でした。大分・明豊高校の今宮君は身長171センチという小柄な選手で、150キロを超える速球投手と野手を兼ね、しかも強打者で(高校通算62本塁打)、新聞は「小さな巨人」と評していました。一方の岩手・花巻東高校の菊池雄星投手は大会屈指の好投手で、試合は、この二人の投げ合いではじまりました。4回までに4点と小刻みに得点を重ねた花巻東高校でしたが、エース投手の菊池君が背筋を痛めて5回に突如降板すると、試合の流れは大分・明豊高校に味方し、8回裏にはついに6対4と逆転、このまま大分・明豊高校の勝利で試合は終わるかとおもわれました。しかし9回、劣勢の花巻東高校でしたが執念で同点に追いつき、ついに試合は延長戦へ。
 ドラマは10回に起こりました。10回表の花巻東高校の攻撃、ワンアウト一塁で打席に立ったのは、二番バッター、身長155センチの佐藤涼平君です。送りバントで佐藤君は一塁へ全力疾走するも、一塁手と激突、小さな体は宙に舞い、地面に叩きつけられた体はかすかに動く気配もありません。両チームの選手たちはいうまでもなく、球場全体に凍った空気が張りつめました。担架で運ばれてゆく佐藤君は、まだ動く気配もなく、これはただならぬことになったのではないかとだれもがおもったはずです。
 花巻東高校は、佐藤君が捨て身でつくったチャンスを活かして勝ち越しに成功します。翌日の新聞は、この場面を次のように書いています。

 緊迫した空間に、少しだけ穴があいた。10回1死一塁、花巻東の攻め。送りバントをした佐藤涼が一塁上で相手選手と交錯し、倒れた。タンカで運ばれる姿を、次打者の主将・川村は間近で見つめる。
 最初、気持ちはたぎっていた。「もう、(佐藤)涼平は試合に戻れない。あいつの分も」。その、わずかな空白が心を静める。「スタンドを見た。みんな、応援してくれているな、と。あれで落ちついた」。再開後、ストライクを取りに来た直球を見逃さなかった。(「球音」、『朝日新聞』2009・8・22〔土〕朝刊)

 10回表に勝ち越した岩手・花巻東高校でしたが、大分・明豊高校にはその裏の攻撃があり、まだ試合がどうなるかはわかりません。
 緊迫した10回裏の攻防がはじまろうとしていたとき、突如、球場にどよめきと拍手と歓声が湧き起こりました。なんと、ベンチから、あの小学生のような体の佐藤君がにこにこしながら走りだしてきたからです。彼はチームの仲間とグラブをぶつけて挨拶を交わすと、センターの守備についたのです。
「もう、(佐藤)涼平は試合に戻れない」とおもっていたのは、勝ち越し打を放った川村君だけではなかったはずで、佐藤君のこの劇的なカムバックは、花巻東高校の勝利を決めたとおもいました。なぜなら、勝敗を超えてほっとしたのは、自チームや球場の観客ばかりでなく相手チームの選手たちも同じだったようにおもえたからです。最後の攻撃をする大分・明豊高校の各バッターには、さわやかともいえる淡白さがみられたというのは新聞が書かないことですが、球場の女神は、佐藤君に最高の勝利をプレゼントした印象がいつまでも残りました。
 身長171センチの今宮君が「小さな巨人」ならば、身長155センチの佐藤君は「小さな大巨人」でしょう。今宮君は試合後のインタビューで「こんなチビが154㌔を投げられた。小さな体でもできるということを、いろんな人に伝えることができたと思う」と、胸を張って答えたといいます。佐藤君へのインタビュー記事はみませんでしたが、この今宮君のことばは佐藤君のものでもありましょう。
 この二人の存在は、全国の野球少年ばかりでなく、大きくて深い感動と勇気を与えたことはまちがいありません。
 エースピッチャーを欠いた岩手・花巻東高校は、準決勝で、今大会に優勝することになる愛知・中京大中京高校に大敗して甲子園から姿を消します。
 大分・明豊高校と岩手・花巻東高校──。マガツヒノカミか瀬織津姫神かといった、こちらの妄想甲子園の世界を吹き飛ばしてくれる最高の試合を観させてもらいました。
(写真1は宇佐平野から望む八面山、写真2は瀬織津姫神を境内社にまつる八坂神社〔筑上郡上毛[こうげ]町垂水〕から山国川の背後に八面山を望む。撮影:白龍)

鴨氏の心意気?──日光神社(財部町)の祭祀から

更新日:2009/7/13(月) 午前 1:16



 嘉暦三年(一三二八)、新田義貞に敗れた足利尊氏は再起を図るために九州へ逃げ延びてきます。尊氏は宇佐八幡に武運再興の祈願もしていましたが、大隅国桑原郡の日向[ニツカウ]山九品院般若寺(本尊:千手観音〔上古は阿弥陀如来〕)に逗留してもいて、次のような興味深い歌を詠んでいます(『三国名勝図会』所収)。

  日に向ふ山のあるしを来て見れば
    端山に照らすありあけの月

 また、この歌に対する般若寺の「別当の返歌」──。

  吾妻より西の山の井清ければ
    月日も澄める寺井なるらん

 尊氏歌で詠まれている「あるし(主)」を「神」に置き換えてみますと、尊氏・別当両氏ともに、居場所のなくなった「月日」の神をよくわかった上で歌を詠んでいるようで、なかなか心憎い交流歌の印象を受けます。般若寺の山号「日向山」の日向に「ニツカウ(にっこう)」の訓みが付されていましたが、「月日」の神は、このとき、般若寺の「山の井」「寺井」に宿っていたのかもしれません。

 鹿児島県曽於市財部町に「天照大御神またの名撞賢(木)厳之御魂天疎向津毘売命」を主祭神とする日光神社があります(写真1~5)。社殿は東面していて、日と対面する「向津毘売」の祭祀をおもえば、これは納得できる社殿配置といえます。日光神社は、般若寺の印象の延長でいえば、あるいは「日向[にっこう]神社」であってもおかしくはなかったようです。
 ところで、日光神社の祭祀には、いくつか解せない点があります。まずいえるのは、祭神表示にみられる「またの名」で結ばれている「天照大御神」と「撞賢(木)厳之御魂天疎向津毘売命」の関係が曖昧だということがあります。もっとはっきりいえば、ここは「天照大御神」ではなく「天照大御神荒御魂」(荒祭宮の神)とでもしないと撞賢(木)厳之御魂云々の神名は「またの名」として成り立ちません。
 このことは、神宮側の認識からも援証できることで、それは、たとえば『神宮要綱』(神宮皇學館館友会、昭和三年)の、次のような記述に端的に表れています。

荒祭宮
蓋[けだ]し荒祭大神は日本書紀に撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し、古来皇大神宮の神威霊験と称せらるゝものは必ず此の大神の神託に因れり。

 日光神社祭神の「天照大御神」は、内宮においては正殿の神ですし、「またの名」とされる「撞賢(木)厳之御魂天疎向津毘売命」は、正殿背後の荒祭宮の神(荒祭大神)です。
 日光神社における、この苦しい「またの名」の二神表示の淵源は、江戸期にまでさかのぼってもみられるようです。たとえば、天保十四年(一八四三)に成る『三国名勝図会』には「日光神村にあり、祭神伊勢内宮、天照大神又加茂上下大明神、相殿に鎮座なり」と書かれています。
 日光神社は、なぜ「祭神伊勢内宮、天照大神」をそのままに現在も表示しなかったのだろうという、棘のような疑問が残ります。
 大隅半島・東串良町の廣田神社は、戦前まで「天照大神荒魂」をまつっていた記録がありましたが、現在、その「荒魂」(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)を削除して天照大神を祭神としていますから、日光神社は、廣田神社とはまったく逆のことをしていることになります。「内宮、天照大神」を「内宮荒祭宮、天照大神荒魂」の意で「撞賢(木)厳之御魂天疎向津毘売命」と表示(祭神主張)するというのは、それほど容易なことともおもわれず、あるいは、それなりの秘伝由緒書が社内にあったのかもしれません。
 日光神社の由緒について、『ふるさとのお社─鹿児島県神社誌』(鹿児島県神道青年会編)から引用します。

日光神社
鎮座地   曽於郡(現曽於市)財部町北俣九二六〇
御祭神   撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命
       豊受毘売命 天小屋根命 天太玉命
       御年神 須佐之男命 大己貴命
       蛭児命 稲田姫命 羽山戸命 羽山津見命
例祭日   四月十三日
境 内   五、九三八坪
現等級   二級社(旧郷社)
由 緒
 和銅三年庚戌年、京都の加茂神主某の庶子鴨頼長が、伊勢大神宮並び加茂上下大明神を奉じて下向し、当社を建立して、代々神主を勤め神事を修めた。
 往古は有封の社で、禁裏の官幣、代々の武将による社殿造営もあり、至徳三年の鴨守長譲状には公方家の祈祷を勤めたことが記され、崇敬余社と異なる大社であった。しかし源平の大乱の頃より神領も減り、足利将軍の中葉より次第に衰微し、天正・文禄年中の豊臣秀吉の検地の結果大方の神領が没収され、神事も形のみを行うに至った。また、慶長四年の庄内の役の際、当社の加護があったとして、同五年三月十三日島津義久公が参拝され、二〇石余の神領を寄付している。
 明治以前は日光神宮と称し、島津藩主代々の崇敬も厚く、明治までは御神幸祭や鈎木引の行事が盛大に行われたが、今は中絶している。北俣、南俣の地名は、村々が二手に別れて実施された鈎木引の行事に由来するという。
 明治四十二年、御手、太玉、森崎、小国、蛭子の各無格社を、同四十三年、兵主、早馬の両無格社を合祀した。
 主祭神は天照皇大神の別名異称である。

 ここには相殿神の「加茂上下大明神」(看板案内)が脱漏しているようですが、それはおくとしても、「主祭神(撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命)は天照皇大神の別名異称である」と念を押すように記されています。
 日光神社の創祀は和銅三年(七一〇)とあります。『続日本紀』は和銅六年(七一三)四月条に、「日向国肝坏[きもつき]・贈於[そお]・大隅[おおすみ]・姶纙[あいら]の四郡を割き、始めて大隅国を置く」と記していて、日光神社が創祀されたのは、まだ大隅国の建国前、つまり、日向国の曽於(贈於)郡の地においてでした。
 それにしても、由緒は「京都の加茂神主某の庶子鴨頼長が、伊勢大神宮並び加茂上下大明神を奉じて下向し、当社を建立」と記していて、この「加茂神主某の庶子鴨頼長」は、おなじく「加茂神主某の庶子」の家筋に生まれた鴨長明を想起させます。
 鴨長明が下鴨神社本宮神よりも重視・礼拝していたのが井上社(御手洗社)の瀬織津姫神でしたが(岐阜県「野宮神社」参照)、この瀬織津姫神の「またの名」が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命でした。和銅時代の鴨頼長にしても、下鴨の祭祀と深く関わる瀬織津姫神の存在を知らずに日向国まで流れて(?)きたはずもなく、また神職筋の家系であれば、「伊勢大神宮」の荒祭大神の「またの名」を知らぬということもありえないことでしょう。
 日光神社の創建者が「加茂神主某の庶子」の家筋とはいえ鴨氏であり、この鴨氏が「代々神主を勤め神事を修めた」とされるわけですから、「撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命」の名が社内に伝えられてきたことはじゅうぶんに考えられることです。
 日光神社の江戸期から戦前までの関係文献を収録しているのが、高木秀吉『財部町郷土史』(財部町教育委員会)です。先にみた『三国名勝図会』もここに紹介されていますが、日光神社の祭神が確認される最古の文献は、宝永三年(一七〇六)に成る「財部社差出帳」です。該当箇所を読んでみます。

一、日光神宮 隅州曽於郡財部宗廟
尊体者伊勢内宮天照大神、相殿ニハ賀茂下上大明神、祠官蛭牟田宮内、元禄十一年戊寅十一月二十二日、公儀江茂差出候其写本也

『郷土史』は「この文書は祠官蛭牟田宮内が、日光神社の由緒等委細を取調べて、藩庁に報告したもの」と解説していて、「伊勢内宮天照大神」を主神とすることは江戸期の公的文書に記されていたのでした。ちなみに、「祠官蛭牟田」氏ですが、『三国名勝図会』は「鴨頼長の裔といひ今に社司たり」と注記していて、鴨氏の祭祀はつづいていたものとみえます。また、この「財部社差出帳」は元禄十一年十一月二十二日に公儀へ差し出したものの写しだとあり、元禄十一年(一六九八)時点に、すでに神社調べに近いことがなされていたようです。
 それはともかく、天保十四年(一八四三)に成る『三国名勝図会』が「祭神伊勢内宮、天照大神又加茂上下大明神、相殿に鎮座なり」と記していたのも、宝永時代(あるいは元禄時代)の公的な「差出」記録を踏襲したものといえます。
『財部町郷土史』によれば、祭神に「撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命」の名が登場してくるのは近代にはいってからのようです。明確な年月日の記載を欠いているものの、『郷土史』は「財部町神社明細書」からとして、次のように記しています。

一、祭神 撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命
一、相殿 豊受毘売命、天小屋根命

 また、『郷土史』は「昭和十年頃の記録」として、同じ祭神表示記録を紹介してもいます。ここであらためて疑問におもう、というよりも、むしろ感心するのは、近代になって、江戸期の公的文書に記されていた「伊勢内宮天照大神」をあえて棄てて、「撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命」という祭神表示を主張し、かつ、それを通して現在に至っていることです。
「撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命」は荒祭大神こと瀬織津姫神の異称ですから、江戸期の公的文書に記されていた「伊勢内宮天照大神」を破棄して祭神主張するには、よほどの動機があったにちがいありません。また、勇気も要ったはずです。
 現在、それを明証的に語る史料とは出会えていませんが、日光神社は「天照大御神またの名」という奇妙な条件を付すものの、「撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命」という祭神名の主張だけはついに曲げませんでした。くりかえしますが、日光神社の主神が「天照大御神」ではなく「撞賢木厳之御魂天疎向津毘売命」であることは、その「東面」する社殿がなによりも雄弁に語っています。この「向津毘売」の祭祀に、鴨氏の強いこだわりをおもうのはわたしだけでしょうか。(鹿児島関連資料・写真:日向の白龍)

千人の瀬織津姫──私物化を超えて

更新日:2009/7/11(土) 午前 5:24

 タイトルに「千人の瀬織津姫」と設けたのは、千人の心に宿る瀬織津姫神がいるという意味です。
 最近、自分がおもう瀬織津姫のイメージとはチガウといった理由で、一方的に決別状をいただくということがあり、瀬織津姫という神がなせる思い込みの世界・感情が起因なのでしょうが、人間の具体的な関係を破棄するほどに瀬織津姫神に思い入れた感情は度しがたいという感想をもちました。
 わたしにとって瀬織津姫という神とは何かという自問を立てますと、その出会いは遠野郷の小さな神社(伊豆神社)からはじまります。当時、まだだれも瀬織津姫という神について関心を寄せることがない時代でしたし(たぶん)、学問的探究も蓄積のない時代でした。当時すでに、内海邦彦さんが『わが悠遠の瀬織津比咩』という本を講談社から出版していて、遠野郷の守護神といってよい瀬織津姫という神がどのように語られているのか熱心に読んだ記憶があります。内海さんは、瀬織津姫という神がとても重要な神であることを示唆するところで著を閉じていて、もう少し知りたい不完全な感覚を引きずったまま、あとは自分流で調べるしかないかと今日まできたといえます。
 各地の瀬織津姫祭祀の伝承を総合してゆくと、この神に寄せた人々の思いの深さに圧倒されるということがよくありました。一方で、この神が千三百年にわたる受難を蒙ってきた実態・歴史もみえてきて、この対極的な「神の有り様[よう]」は何を意味するのかという問いとの格闘もはじまりました。
 江戸時代初期、神々の歴史上からいえば一見マイナーかもしれない瀬織津姫神に、信仰・生涯のパートナーを見て、自らの「生」を生ききった円空という異彩を放つ修験者の存在を再認識したときは衝撃でした。円空(の信仰)を語れば、自ずと円空が「愛した神」をも語ることになるはずとおもい、『円空と瀬織津姫』という本を出版することに集中しました。
 わたしがすこぶるアナログ的に各地の円空の行動と瀬織津姫祭祀の資料・実態を洗いだそうと飛び回っていたとき、仮想空間であるインターネットの世界では、瀬織津姫という神が、その秘神性ゆえでしょうが、霊感的対象神として異質な読者空間のなかで独り歩きするという第三の世界が展開していることを知りました。
 彼あるいは彼女たちは、瀬織津姫という神に何を求めているのかは今もうまく理解できているわけではありませんけれど、円空が一点、魅力的にみえるのは、神(瀬織津姫神)は、自分の心の外に存在するものではないことを、ほんとうによくわかっていたなということでした。
 千人には千の心があり、したがって「神」は千の存在の姿があることは当然なのです。したがって、「神」を自分の心の器で独占しようとするというのは、かなりのエゴイズムというしかありませんし、そのとき、「神」はいつのまにか「心の外」に放逐されているということにもなりかねません。円空は、このことを生涯にわたって警鐘していたといっても過言ではありません。
 円空には円空の瀬織津姫があるように、この神に心の何割かを投影した人にも、その人の瀬織津姫が存在・生成するはずです。
 瀬織津姫神には、全国各地に分身・分神がいて、瀬織津姫という神の大枠の歴史的受難はすでに明かされているものの、その分身・分神の瀬織津姫たちにはまだ個々に光が当てられているわけではありません。交通不便な江戸時代初期、円空はこのことをよくわかっていて、全国へ、瀬織津姫の分身・分神との出会い・鎮魂の、言を超える徒歩の行脚に終生を費やしています。
「わたしだけの瀬織津姫」という独占の感情を他者と共感しようとするのは、いずれ齟齬・破綻をきたすはずで、千人いれば千人の瀬織津姫がそこ(心)には存在し、こういった異質な他者を認めることは、異質な瀬織津姫、つまり異質な他者の「心」を認めることと等価ではないかとおもう次第です。
 蛇足ながら、わたしの内部の瀬織津姫はかなり庶民的で、「大祓」が嫌悪する罪も穢れもわがこととして生き、かつ超えてゆく神のイメージがあることを添えておきます。

その後の「桜谷の社殿」──「狂」の神から「大福」の神へ

更新日:2009/7/10(金) 午後 2:20



 江戸期の「北」の探検家・松浦武四郎(一八一八~一八八八)は「蝦夷地[えぞち]」を北海道と命名した人物ですが、彼は若い頃には九州も歩いていたようです。松浦が高千穂を訪れたときの紀行文には、高千穂・天真名井の地(桜谷)に「高山末、短山の末と唱る丘あり」、「其下に早川の瀬、桜の瀬などといふ小川あり。また瀬折津姫の社もあり」と記されています(「西海雑誌」、ブログ「梨の木平の桜」にて紹介)。
 高千穂の桜谷の地にも瀬織津姫祭祀があったことの意味はことのほか大きいです。
 大淀川の源流部の桜谷には、昭和二十年(一九四五)まで「社殿」があったが、同年の「大暴風雨に、桜谷の社殿は崩壊」したと記していたのは『末吉郷土史』でした。
 その後、この「桜谷の社殿」は再建されたのか、もし再建されているとしたなら、その祭神はどう表示されているのかが気になって、末吉(曽於市)の教育委員会に問い合わせてみました。
 結論からいいますと、社殿は平成二年(一九九〇)に再建され、紹介いただいた檍神社の神職氏によりますと、年一回祝詞を唱えるのみだが、社名は「桜谷神社」と呼んでいる、祭神は記録がなく不詳とのことでした。
 四十五年めにしてやっと再建された桜谷神社ですが、社守をしている方にも「氏神さん」以上の神名は伝わっておらず、瀬織津姫という神の置かれている歴史的立場をあらためておもうことになりました。
 神名不詳の桜谷神社は天岩戸の前にあります。正確には、天岩戸と対面するように社殿が設置されていて、参拝者は天岩戸にお尻を向けて拝むかたちとなります。つまり、桜谷神は天岩戸内のもうひとつの日神と対面していることになりますが、これは、神名不詳であるにもかかわらず、桜谷神が日向姫=向津媛(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の性格をもっていることを示唆しています(写真9)。
 さて、この桜谷の東の山を越えたところを南に流れる安楽[あんらく]川の、現在の花房峡のあたりがかつての「上津瀬」でした。そこには明治四十二年まで「上津片加男神社」がありましたが(同年、檍神社に合祀)、『三国名勝図会』(一八四三年)は、この社の祭神について、次のように記していました。

上津片加男神社上津瀬にあり、祭神三座八十狂津日神、表津少童命、表筒男命是なり。勧請の年月詳ならず。

 記紀における瀬織津姫神の貶称神名である八十禍(枉)津日神の「禍(枉)」では足りずに「八十狂津日神」と、あえて「狂」の字をあてているというのは、実は『三国名勝図会』に限っても、ここ(上津片加男神社)だけではありません。
 たとえば、「西霧島在所六所権現社」(現在の霧島神宮)の末社の項を、次のように記しています。

七社明神社 本社の末にて、本社の兌方二里川北村にあり、祭神八十狂津日命、神直日命、大直日命、天伊佐布玉命、天表春命、天背男命、経津主命。

 筆頭祭神に掲げられるも「八十狂津日命」はここでもみられます。この嫌悪を込めた貶称神名を瀬織津姫神にもどしてみますと、この神が霧島山の原祭祀(天孫降臨神話に準拠する前の祭祀)とも無縁ではない可能性が示唆されていて、逆説的な意味で、これは貴重な記録とはいえます。
 ここで、『三国名勝図会』の性格について少しふれておきますと、この書がもっている「皇国史観」の問題があります。これは、「書紀は、万世の正史なり」、「書紀は、皇国の古史第一の正書なり、是を破りて誤りとせば、皇国の事跡、日月地に墜ると斎しきなり」といったことばに端的に表れています。図会にみられる、書紀(日本書紀)の記述を絶対軸とする史観・思想の徹底性は半端ではありませんし、本書は藩撰によるものですから、この史観・思想は薩摩藩のものでもあります。
 図会は、日向・大隅・薩摩三国の地誌の記述においては比類のない正確さが認められるものの、一方、かなりの社寺に言及してもいて、薩摩藩の江戸末期における社寺調べの様相さえ呈しています。
 こういった薩摩藩の皇国史観・皇国思想の下で、書紀の記述を「破りて誤り」と指摘しかねない瀬織津姫という神の存在・祭祀が無事に通るはずもなく、それが「狂」の表記となったといえるかもしれません。
 しかし、これまでの本ブログ記事においても折々にみてきたように、瀬織津姫神への嫌悪による貶称(ときには「神の消去」)は、一人薩摩藩に限定されるものでないことはいうまでもありません。
 全国的にみれば、以下は氷山の一角のような事例にすぎませんが、日本の神道世界が瀬織津姫神(異称神名を含む)に対して、具体的に、どのような対応をしてきたかをいくつかみてみます。
 まず「狂」の女神の追加事例──。写真1の左・三所社は明治二年の「旧藩神社明細牒」、右・六所社は明治十五年の「大分県神社明細牒」記載のものですが(大分県立図書館所蔵)、三所社は「八十狂津日命」、六所社は「八十狂日命」とあります。「狂」の表示は、鹿児島ばかりでなく、大分にも確認できます。
 その他、全資料ではありませんが、明治期の神社資料を通覧しますと、「狂」の女神とはされなかったものの、旧豊後国の国東郡に限っても「八十枉津日神」の祭祀が六社、旧豊前国の宇佐郡(の一部)にしても四社みられます。宇佐神宮の神領地地域に、この神の祭祀がかつて集中していたことは何を意味しているのか、興味深いものがあります(大分全県の資料に広げて通覧するなら、八十枉津日神あるいは撞賢木厳之御魂天疎向津媛命といった瀬織津姫の異称祭祀社数はさらに増えることでしょう)。
 アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」神話で誕生したとされる三女神でしたが、なかでもタギツヒメの代わりに瀬織津姫神が三女神の一神としてまつられているのが出水市・厳島神社でした(鹿児島県「宇佐・宗像神としての瀬織津姫神」参照)。
 瀬織津姫と異称同体とみてよいタギツヒメの、明治期における受難の実例もみておきます。
 大分市に豊後国一之宮を主張する神社が二社あります。一社は西寒多[ささむた]神社、もう一社は柞原[ゆすはら]八幡宮です。明治二年の「旧藩神社明細牒」には、柞原八幡宮には「湍津姫命」が主祭神格でまつられていました。なぜそれがわかるかといいますと、由緒の覧に、次のように明記されていたからです(写真2)。

欽明天皇之御宇八幡大神豊前宇佐ニ降臨之砌 神勅ニ因テ湍津姫命ヲ此地ニ移祭シテ柞原大神宮ト称シ奉ル 今ノ御社ハ天長四年比叡山延暦寺僧金亀和尚宇佐神ノ霊験ヲ蒙リ奏聞ヲ経テ承和三年三月〔中略〕新ニ社殿ヲ建立〔後略〕

 この由緒通りの祭祀がもし展開されますと、宇佐神宮の比売大神は湍津姫命とみなされかねません。タギツヒメと瀬織津姫神は至近の関係にありますから、このことを認識している当局の神祗関係者(たち)が、これを許すとはおもえません。案の定といいますか、明治二十三年の「神社明細牒」からは「欽明天皇之御宇八幡大神豊前宇佐ニ降臨之砌 神勅ニ因テ湍津姫命ヲ此地ニ移祭シテ柞原大神宮ト称シ奉ル」という創祀伝承とともに湍津姫命の名は消え(消され)、天長四年(八二七)の分霊勧請説、つまり、現在へとつづく勧請・由緒表示が定まります(写真3)。柞原八幡宮は自社の最重要な神および由緒の消去を代償のようにして、県社から国幣小社へと社格が上昇してゆくことになります。
 柞原八幡宮にみられる明治期の類例はほかにもあることですが(北海道「樽前山神社」参照)、社格上昇とは結びつかないものの、瀬織津姫(祭祀)の露骨な消去実態の「現在」を鹿児島県の神社にみておきます。
 昭和十年、鹿児島県神職会によってまとめられた『神社誌』(扉に「不許出門可深秘」の一行、鹿児島県立図書館所蔵)には、旧藩時代(明和五~六年)の神社調べの記録と昭和十年時の「現神社明細帳」が対比できるように並記されていて、興味深い資料となっています。このなかにみえる、旧肝属郡東串良町池之原に鎮座する廣田神社(写真4・5)には、その社名からも想像できますが、天照大神荒魂がまつられていました(写真6、オレンジ線は筆者)。
 ところが、社を実際に訪ね、境内の案内をみますと、そこには「荒魂」が削除され、ただの「天照大神」と表示されています(写真7)。これでは、天照大神荒魂こと瀬織津姫神ではなく皇祖神・アマテラスが祭神とされていることになります。
 西宮市の廣田神社本社でさえ「天照大御神荒御魂(御祭神の御名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉る)」としているのに、これはどういうことだろうと疑問が湧いてきますが、廣田神社社標の裏には、次のように刻まれています。

祭神天照大神
  御大典奉祝記念
    平成二年書

 桜谷神社の再建も平成二年(一九九〇)のことでしたが、この碑文の意図するところは、現天皇の即位を記念して、当社は天照大神(アマテラス)をまつるというものでしょう。もし祭神名が「天照大神荒魂」のままだとしますと、「御大典奉祝記念」の一行は成り立ちませんし、あるいは皮肉とも受け取られることになります。皇祖神・アマテラスを背後から脅かす最たる位置にいるのが「天照大神荒魂」こと瀬織津姫神ですから、この神を消去してこそ皇祖神の安泰を図れるというのが、廣田神社社標碑文の本義です。
 荒魂(瀬織津姫神)を削除し祭神をアマテラスで通したいのならば、まず社名を変更し、鳥居は神明鳥居に変え、本殿の千木も外削ぎから内削ぎ(内宮仕様)に変更するくらい徹底すべきでしょうが、この小手先の「御大典奉祝記念」と「祭神天照大神」のセット表示は、「陰気」を突き抜けて「滑稽」の域に達しているようです。
 しかし、かくして、瀬織津姫神(天照大神荒魂)は、この現代においても削除・消去の対象神でありつづけているという事実は、まずだれよりも天皇自身が重く受け止める必要があるのかもしれません。
 さて、「狂」の女神から、いくつか「陰気」な事例を羅列してきましたが、最後に逆の例を一つ紹介します。
 大分県安心院[あじむ]町上内河野に鎮座する六社明神は、明治二十三年の「大分県神社明細牒」では「大禍津日命」ほか五柱をまつると記載されていましたが、『安心院町誌』(昭和四十五年)では「大福津日[おほさきつひ]命」と表記されています。瀬織津姫神の名を出せないならば、せめてもという気持ちがよく表れている神名変更です。
 町誌は「大福津日命は幸福をめぐむ神である」と説明していて、かつての大禍津日命から大福津日命への変更表示は確信的行為であることが読めます。
 京都・下鴨神社の境内社・井上社(御手洗社)の瀬織津姫神は「御手洗団子」ゆかりの神でしたが、安心院ではどうやら「大福」の神様のようです。「幸福をめぐむ神」が、一方では「狂」の神とされる日本の神社世界です。(鹿児島・大分関連資料・写真:日向の白龍)

大淀川源流部の「桜谷」──イザナギの禊祓神話と瀬織津姫祭祀

更新日:2009/7/7(火) 午後 8:03



 甲斐畩常『高千穂村々探訪』(私家版)に、次のような記述があります。

(天真名井の)湧水は十社(高千穂神社の異称「十社明神」「十社宮」…引用者)を中心とした古代からの住民の生活水である。同じ湧水の渾々と湧く御塩井には今はないが、昔は桜川妙見社の名が見える。瀬織津媛を祭り此所十社宮の御旅所にて石すゑあり毎年六月三十日御神幸ありと明細記にあるが、今はおのころ池を巡り上の石すえ台に休息されている。

 高千穂・天真名井(の御神水の)湧水地に、かつて「桜川妙見社」がまつられ、その祭神は「瀬織津媛」であったとされます。また、同書所収の高山彦九郎『筑紫日記』寛政四年(一七九二)の条には、次のような記述がみられます(適宜句読点を補足して引用)。

右に櫛振神社。鳥居を入り石階を上る。拝殿、本殿西に向ふ、拝す。下りて右に神代[クマシロ]川とて井あり。是を天のまな井と称す。森を藤岡山、此辺を桜谷といふ。

 これを読みますと、「樹齢約千三百年」(看板案内)といわれる槻[つき](ケヤキ)の根元から湧出する天真名井(写真1)ではなく、その前を流れる神代川を天真名井(「天のまな井」)と呼んでいるように読めますが、ともかく、天真名井ゆかりの「森を藤岡山、此辺を桜谷といふ」とのことです。かつて天真名井(の御神水の)湧水地にまつられていた桜川妙見社(瀬織津媛)の社名にみられる「桜川」は、その源の天真名井のある地が「桜谷」と呼ばれていたゆえの名とおもわれます。
 ところで、近江国(滋賀県大津市大石)の佐久奈度神社における瀬織津姫神の明神称号は「桜谷明神」で、「桜谷[さくらだに]」は、大祓祝詞の「さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」の「さくなだり」が転じたものですが、そこには、文字通りの桜花咲き誇る谷の意味もありました。大祓神かつ桜神としての瀬織津姫神を二重に象徴することばが「桜谷」です(宮崎県西都市鎮座の速川神社は主祭神を「瀬織津比咩命」とし、同社由緒書にも「桜谷に接する地に鎮座」云々と記されています)。
「桜谷」には、瀬織津姫祭祀の影が色濃く落ちています。たとえいつの時点にか「神」は消えても(消されても)、桜谷の地名は遺るようで、南九州に、もう一例となる「桜谷」をみておこうとおもいます。
 イザナミのいる黄泉国から逃げ帰ってきたイザナギが禊祓をしたところといった神話伝承地は高千穂ほか各地にありますが、それが同一市内に二箇所もあるという特異性を際立たせているのが宮崎市です(同市阿波岐原町と大淀川河口の「小戸」)。『日本書紀』は、この禊祓の地を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはきはら]」と記していて、その「小戸」を大淀川河口部(沖合)と主張するのが小戸神社(宮崎市鶴島町)でした。そして、この小戸神社と同じく景行天皇時代の創祀を由緒にもつのが、宮崎市小戸町に鎮座する小社・松熊神社です。瀬織津姫神は、同社境内の案内では「瀬織津咲神」と桜神を匂わせる表記がなされてもいました(宮崎県「橘大神と瀬織津姫神」)。
 大淀川は全長約一〇七キロに及ぶ、宮崎県を代表する大河ですが、源は鹿児島県曽於郡末吉町(現在:曽於市末吉町)に発します。曽於郡はかつての大隅国の一郷ですが、和銅六年(七一三)四月に、「日向国肝坏[きもつき]・贈於[そお]・大隅[おおすみ]・姶纙[あいら]の四郡を割き、始めて大隅国を置く」と『続日本紀』に記されるように、曽於(贈於)の地は古くは日向国に属していました。当時、大淀川がどう呼ばれていたかはわかりませんが、日向国の大河であることはまちがいありません。
 この大河の河口部にイザナギの禊祓の神話伝承地があり、そこの小社に瀬織津姫神(「瀬織津咲神」)の祭祀がみられるわけですが、大淀川源流部の曽於の地にも、同じくイザナギの禊祓の神話伝承地があります。しかも、そこには「桜谷」もあります。
 宮崎県最北部の高千穂町(旧岩戸村地区)には天岩戸神話とともにイザナギの禊祓の神話伝承地があり、こういった伝承地が、なぜ日向国(あるいは日向地方)に集中するのかという問いが浮かびます。「正史」が記すイザナギの禊祓の神話は、記紀神話から排除された瀬織津姫神を、マガツヒノカミという貶称神名に置き換えることを神社祭祀に強制しうる力を秘めています。神社側が「正史」神話と自社祭祀・由緒を結びつけるとき、そこに瀬織津姫神が生きる場はなくなります。
 さて、大淀川をさかのぼった鹿児島県曽於市末吉町には、いかにも禊祓の神話に準拠した社名ですが、その名も「檍神社」が鎮座しています(写真2~5)。同社の由緒から読んでみます(鹿児島県神道青年会編『ふるさとのお社─鹿児島県神社誌』所収)。

檍[あおき]神社(檍大明神)
鎮座地   曽於郡(現在:曽於市)末吉町南之郷四七七二
御祭神   伊邪那岐命 伊邪那美命
         天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神 国之常立神
        豊雲野神 宇比地邇神 須比智邇神 角杙神 活杙神
        意冨斗能地神 大斗能辨神 淤母陀流神 阿夜訶志古泥神
        八十禍津日神 神直日神 大直日神
        表津小童命 中津小童命 底津小童命
        表筒男命 中筒男命 底筒男命
        天智天皇 聖天
例祭日   十月二十四日
境  内   一、三一三坪
摂末社   二社
現等級   四級社(旧村社)
神  紋   菊花紋
神事・芸能 五月三日~早馬祭 鈴かけ馬の奉納、和牛の展示会、婦人の手踊り大会。
由  緒
 当地は元日向国に属し、檍原、橘嶽、高山、短山、佐久良谷諸神蹟、阿波岐原、小戸池、柄基、盤根子、天の浮橋等の神代の名称を今尚残し、町の古跡に指定されている。当神社は、橘の小戸の阿波岐原中津瀬の伊邪那岐命の禊祓の聖地として鎮座された。上代の建立と伝えるが、年月は不詳である。祭神の神代七代の神々は、福山の宮浦神社より勧請されたという。境内の小戸池には清泉が湧出し、安産の神水として信仰がある(写真6・7)。
 元禄三年修築され、島津継豊公の時寛保三年四月重建、その後数回修造された。紀元二六〇〇年(昭和十五年)に改築、昭和五十三年には鉄筋にて第一、第二の鳥居が建立された。なお明治四十二年から四十三年にかけて、南之郷所在の上津、中津、下津、山口、岩宮、真木男、早馬(後日再び遷座)、稲荷の各神社が合祀された。

 檍神社には全二六柱の神々がまつられていてにぎやか、あるいは窮屈なことですが、その中に、瀬織津姫神の貶称神名である「八十禍津日神」の名があります。
 同社は「橘の小戸の阿波岐原中津瀬の伊邪那岐命の禊祓の聖地として鎮座された。上代の建立と伝えるが、年月は不詳」とされます。この「禊祓の聖地」近くには「高山、短山、佐久良谷諸神蹟」もあるとのことですが、高山・短山・佐久良谷(桜谷)は、「六月晦大祓」(大祓祝詞)の文言「高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」にちなんでいます。
 由緒記載の「佐久良谷諸神蹟」とは何かということになりますが、『末吉郷土史』(末吉町教育委員会、昭和三十二年)は、薩摩藩の編纂命令によって天保十四年(一八四三)に成る『三国名勝図会』(薩摩・大隅・日向三国の地誌)の当該箇所を引用していて参考になります。

(佐久良谷諸神蹟)
此地東方に連山高低あり、連山の間に一高岡あり、土人是を高天原といふ。高天原の北に並びて山あり、是を高山といひ、高天原の乾方半腹に一山あり、是を短山といふ。高山は高く、短山は低し、短山の西五町許に一高山あり、其山腰を佐久良ヶ崖といふ。佐久良ヶ崖の谷間に渓流あり、是を佐久良谷川といふ(水源当村に出て下流南之郷川に入る)。佐久良谷の内に洞窟あり、是を天磐戸といへり。此洞窟甚だ広からず深さ測るべからず、洞窟を神体と称し廟宇なし、常に参詣する者多し。其洞窟の前に一瀑布瀉き下りて高さ六、七尺あり、洞窟の四面は巌壁重畳として樹林森然たり、実に幽深の境なり、高天原より佐久良谷に至て、皆神代の旧跡と称す。「中臣祓」に所謂神留り座すといひ、高山の末、短山の末、佐久良谷に落滝といひ神代巻に天磐戸を押開とあるは即ち此所なりといひ伝ふ。

 大淀川の源流部は、ここでは「南之郷川」と呼ばれていて、そこに注ぐのが「佐久良谷川」、そして、佐久良谷には洞窟「天磐戸」があり(写真9)、この洞窟の前には「高さ六、七尺」(高さ約二メートルほど)の「一瀑布」(滝)があるとのことです(写真8)。
『三国名勝図会』は、この滝を「高山の末、短山の末、佐久良谷に落滝」としていますが、「中臣祓」は、このあとに「速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」とつづけています。図会は、この重要な神に関わる文言にふれないようにしているようです。
『末吉郷土史』は、図会からの引用のあと、次のように記しています。

 佐久良谷は桜谷とも書く、南之郷高岡小学校の前方にある。昭和二十年の大暴風雨に、桜谷の社殿は崩壊し又その辺り幽邃な深林であつたが、心なき者が伐採して甚だ風致を害した。

 昭和二十年の大暴風雨で「崩壊」した「桜谷の社殿」がその後再建されたのかどうか、また、ここにまつられていたはずの神について、『末吉郷土史』は語ることがありません(後述)。しかし、ここにまつられていた神が「高山の末、短山の末、佐久良谷に落滝」ゆかりの「瀬織津比咩といふ神」である(あった)ことは断言してよいでしょう。
 なお、檍神社祭神のなかの「八十禍津日神」ですが、『末吉郷土史』は「上津瀬(現在の安楽川・花房峡のあたり)には上津片加男神社があつたが、明治四十二に檍神社に合祀した」として、ここでも『三国名勝図会』を引用して、その説明を代弁させています。

上津片加男神社上津瀬にあり、祭神三座八十狂津日神、表津少童命、表筒男命是なり。勧請の年月詳ならず。例祭二月初申日十一月初申日とす。往昔は、今の社頭より丑の方、四間許の所にありしを、此に移せしといへり。宝殿の中に鹿角を多く蔵む。祭祀の時は、糜鹿野猪を猟し得て、牲に供ふ。当社は岡巒の半腹にあり、上津瀬より西南方七八町、坂を登つて至るべし。松林其路を夾めり。社地の向上は山嶂重畳せり。

 上津片加男神社は、檍神社への被合祀社の一社・上津神社のことでしょう。それにしても、「八十狂津日神」という表記にはなかなかの悪意が感じられます。念のため、『三国名勝図会』の原文を復刻・活字化した青潮社版および南日本出版文化協会版をみてみましたが、この「狂」は『末吉郷土史』への引用時の誤植ではありません。
 戊辰戦争時、薩長官軍の雄である薩摩藩は、かつての隼人の民の誇りを放擲して勤皇思想に徹していきます。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・天照大神荒魂・禍(枉)津日神などと異称・貶称される瀬織津姫神に対する嫌悪・悪意の出来[しゅったい]根源は、古来、神宮思想と表裏一体をなす皇化思想にこそありました。この思想は、江戸期、薩摩藩内の神社祭祀にもすでに徹底されていたのかもしれません。(宮崎・鹿児島関連資料・写真:日向の白龍)