空海と伊豆山祭祀【上】

更新日:2009/4/3(金) 午前 3:04



『神道体系』神社編二十一には、伊豆山祭祀に関する縁起書が複数収録されていて、それらを読んでいると、全体にかなり高度・複雑な神仏習合、また神々習合のさまが、さながら曼荼羅模様のごとくに展開されている印象を受けます。
 この高度・複雑な習合思想を伊豆山に持ち込んだ人物は、平安期・嵯峨天皇の時代に鎮護国家の最前衛の仏教徒として頭角をあらわしてくる空海をおいてほかにいないだろうとおもわれます。
 わたしがこのように空海を名指しするのは、以下のような文面が縁起書(「伊豆山略縁起」)に確認できるからです。

弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ〔中略…後述〕大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り、詳[つまびらか]に清規を定め、初[はじめ]て密法を修して、深秘を高雄の僧正及[および]杲隣[こうりん]大徳に附属し玉ひ、其後天長二年乙巳、中本宮・其余社頭・僧房を経営して、永く鎮護国家瑜伽の道場と成せしより、今に其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし、

 弘法大師こと空海は、弘仁十年(八一九)に伊豆山にやってきて、それも「勅命」によって伊豆山を管轄し、こまかな社則(「清規」)を定めたとされます。また、ここで初めて「密法」を修め、その「深秘」の極意を弟子たちに伝えたようです。空海は天長二年(八二五)にもやってきて、伊豆山の「中本宮」ほかを経営し、ここを「鎮護国家瑜伽の道場」と定めたとされます。
 縁起の作者は、空海が定めた「其法則[ほっそく]を守り、深密の行業、神殿の秘事、日々の修法、護国の勤念[ごんねん]懈[おこた]ることなし」と、空海の教えを忠実に継承していることを、半ば誇りをもって書いてもいます。空海が「鎮護国家」のために定めた「法則」や「深密の行業」・「神殿の秘事」が具体的にどのようなものかは、部外の者には、うかがうことが容易ではありません。
 しかし、「勅命」を奉じた空海による伊豆山祭祀への干渉といった視点で再読してみますと、伊豆山祭祀は、空海の登場を画期として、大きな変動を蒙っただろうことは想像できます。
 遠野郷に伊豆権現(瀬織津姫命)が伝えられたのは大同元年(八〇六)とされます。この伝承を信じるならば、空海が伊豆山祭祀に手を加えた弘仁十年(八一九)から天長二年(八二五)という時間の「前」に相当していますから、空海以降、伊豆山から「瀬織津姫命」の祭祀が消えたのではないかという仮説を立ててもそれほど無理はなかろうとおもいます。
 明治四年(一八七一)に国家に提出された「伊豆国加茂郡伊豆山神社書上」は、「社伝ニハ、正殿ヲ忍穂耳尊、相殿二座ヲ栲幡千々姫命・瓊々杵尊ト称シ来リ、其外区々之諸説等モ御座候」、しかしながら「祭神之事、古来一定仕ラス」とし、正殿は火牟須比命、左相殿は伊邪那岐命、右相殿は伊邪那美命とすることを「右確定支度(右確定したく)」と申請しています(結果、受理されます)。
 平安期から江戸期までの神仏・神々習合の各縁起の内容は、ここで全否定されることになりますが、そもそも「祭神之事、古来一定仕ラス」の淵源はといえば、やはり空海にまでさかのぼって考えてみる必要がありそうです。
「神社書上」は、社号については「旧称」として伊豆御宮、伊豆大権現、走湯大権現の三つがあったとし、さらに「社地沿革」の項では、「上古ハ日金山鎮座」、「次牟須夫峯ニ遷座」、「次亦今之社地ニ遷座」と、その変遷を記しています。また、それぞれに割注のかたちで、以下のような補足説明をしてもいます(個々の鎮座・遷座ごとに改行、それぞれの割注を〔 〕で記します)。

上古ハ日金山鎮座〔本宮ト称ス、是所謂伊豆ガ根ニテ、今之社地ヨリ乾六十町許山嶽上、今ニ至リ、小祠存ス〕
次牟須夫峯ニ遷座〔中ノ本宮ト称ス、社地ヨリ北八町許山中、今ニ至リ、鳥居礎・敷石等存シ、且小祠アリ、祭日六月晦日〕
次亦今之社地ニ遷座〔因テ新宮ト称ス〕

 これを読みますと、社地の変遷ばかりでなく、それに対応するように社名の変遷もあったことがわかります。曰く、本宮→中ノ本宮→新宮(現在の伊豆山神社)の順です。ここで想起されるのは、「伊豆山略縁起」の記述です。縁起は、空海が「中本宮」ほかを経営し、「永く鎮護国家瑜伽の道場」となしたと書いていました。この「中本宮」は「中ノ本宮」のことですが、「神社書上」の割注(補足説明)は、この「中ノ本宮」の項の末尾に「祭日六月晦日」と記しています。つまり、空海が「鎮護国家瑜伽の道場」とみなした中本宮は「六月晦日」を祭日としていたのでした。
 この「六月晦日」は、いうまでもなく「六月晦大祓」の日です。伊豆山の社則(「清規」)を定めたのは空海でしたから、この大祓の日を、新たな伊豆御宮(中本宮)の祭日と定めたのも空海ということになります。
 明治期、たしかに「祭神之事、古来一定仕ラス」だったかもしれませんが、「古来」、本殿あるいは山頂から降格祭祀がなされ、しかも大祓の神と限定されてきたのが瀬織津姫という神でした(岐阜県・野宮神社、白山史料にみる瀬織津姫神の項を参照)。伊豆山においても同じことがいえるだろうと考える理由は、空海の登場以前に、自身の守護神として伊豆権現(瀬織津姫命)をもって伊豆から遠野までやってきた四角藤蔵がおり、今もこの神をまつりつづける遠野・伊豆神社の存在があるからです。
 空海は「勅命」によって伊豆山へやってきて、そこで「鎮護国家」の名のもとに新たな社則(「清規」)を定め、しかも「密法」の「深秘」まで伝えたとされます。
 空海の真言密教の全体像を解読するのは至難ですが、そのエッセンスを抽出することは不可能ではないとおもわれます。「走湯山縁起」巻第五は、巻末に、空海による「真済面授口伝」なる名で、次のように記しています(筆者読み下しで引用)。

海底大日印文五箇口伝、中心伊勢大神宮、内胎蔵大日、外金剛界大日〔已上中台〕、南方高野丹生大明神〔宝珠〕、西方熊野〔蓮花〕、北方羽黒〔羯磨〕、東方走湯権現〔円鏡〕、
日本是大日如来、密厳花蔵浄刹也、四仏を四方に安じ、天照大神を中心に処す、此海底印文、皆大龍の背に在るなり、

「走湯山縁起」巻第五の作者(延尋)は、弘法大師が弟子「真済」に語ったことは「面授口伝」(の秘伝)で、今廃忘を嘆くがゆえにこれをおそれながら注すとしています。
 最澄というよりも円仁といったほうがよいでしょうが、天台密教は、内宮の秘神を神仏習合の方法でどう封印するかに腐心しました。これはまだ単純といえなくもありませんが、空海の真言密教は、同じ封印でも、自身の密教理念の中心にまず大日如来を据え、しかも、この大日如来を胎蔵界と金剛界の二種に分化させるという複雑な仮構をなしたというのが大きな特徴です。さらにいえば、胎蔵界大日如来を内宮に、金剛界大日如来を外宮にあてはめ、四方東西南北に守護神・権現を配することをしたようです。これは、四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)の外来思想を空海流にアレンジした印象を受けますが、それはともかく、空海は、南に丹生大明神、西に熊野権現、北に羽黒権現、東に走湯権現を配したのでした。いや、正確には「四仏を四方に安じ」とあり、走湯権現の本地仏についてのみいえば、これは千手観音だったようです。
 それにしても、この「真済面授口伝」を読みますと、空海が「伊勢大神宮」をいかに重視していたかがよく伝わってきます。この「伊勢大神宮」あるいは「天照大神」は、少なくとも東方においては走湯権現(本地仏:千手観音)を守護神・守護仏とする必要があったわけで、ここに「伊勢大神宮」「天照大神」を根本的に脅かす伊勢の地主神がそのままにまつられつづけることはあってはならぬことでした。空海の「鎮護国家」の思想をありていにいえば、こういうことになります。
 ところで、引用の「海底大日印文五箇口伝」という深秘の印文は「皆大龍の背に在る」とされていました。この「大龍」とは何なのでしょう。
「走湯山縁起」巻第五は実は二種類あって、先に引用した縁起とは別の「裏縁起」とでもいうべき、「深秘」につき「不可披見」の添書きをもつ別縁起に、この「大龍」が出てきます。
 内容を要約していいますと、日金山(久地良山…伊豆山)の地底には「赤・白二龍」がいる、尾は「筥根(箱根)之湖水」(芦ノ湖)に、頭は「日金嶺之地底温泉沸所」にあるとされるように、まさに「大龍」です。この龍は背には「円鏡」があり、これは「東夷境所」を示現する「神鏡」だとのことです。また、この龍には「千鱗」があり、その鱗は「千手持物之文絵」を表すもので、それぞれの鱗の下には「明眼」があるともされます。そして、その正体は「生身千手千眼也」と明かされます。
 伊豆権現=走湯権現の本地仏・千手観音は、ここでは「千手千眼」と記されるも、これは、白山における十一面観音の前身として現れた九頭竜神と酷似する発想です。要するに、伊豆山においては、地主神の謂いとして「大龍」があるようです。
 この地主神「大龍」については、表縁起のほうでは、「根本地主」として二神あり、一は「白道明神」、本地は地蔵菩薩、その体は男形である、二は「早追権現」で女形、本地は大威徳明王であるとされ、この表縁起では龍体の表現は消え、神仏習合の複雑な表現に置換されます。ちなみに、大威徳明王は、不動明王を中心とする五大明王の一つで、六面六臂六脚の異形明王です。
 天平元年(七二九)に伊豆権現が善光寺如来ゆかりの戸隠山に失踪したとき、霊湯(走り湯)は涸渇したとされ、権現が伊豆山からいなくなったのは「当山の人、信力薄きが致す処なり」と、伊豆権現に代わって託宣したのが白道明神でした。この白道明神(男形)と一対の関係にあるのが早追権現(女形)で、この早追権現が伊豆権現と重なってきます。
 縁起第五(の表縁起)は、早追権現は、日々夜々、日金山地底の「八穴道」を往来しているから「早追」といい、この権現は、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非を取捨勘定するとされ、早追権現がただならぬ神徳を有していることを伝えています。
「伊豆山略縁起」は、「山中の秘所は、八穴の幽道を開き、洞裏の霊泉は、四種の宿痾を愈[いや]し、二六時中に十方[じつはう]の善悪・邪正を裁断し玉ふ事、是権現の御本誓なり」と明記していて、ここでいう「権現」は伊豆権現=走湯権現のことです。
 この「二六時中に十方の善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、早追権現のものでもあり、伊豆権現と早追権現という等質の神徳を有する二つの権現の名がみられることに、伊豆山における権現祭祀の複雑さが象徴的に表れています。これらに、異なった本地仏をあてはめ、さらに複数の眷属神を配し、それらにもさまざまな本地仏をあてはめてゆきますから、その権現祭祀の複雑度はいや増すことになります。
 しかし、伊豆権現と早追権現がもつ「善悪・邪正を裁断し玉ふ」という神徳は、もともとをいえば、空海が自身の「鎮護国家」の思想と密教(「深秘」の「密法」)理念を融合させた必然として、伊豆山祭祀の表層から消去した「神」のものでした。
 この「神」が、地底で(まさに「地主神」ですが)、権現として表現されるときは「早追権現」、地上で(走り湯の)権現として表現されるときは「伊豆権現」または「走湯権現」となるということなのでしょう。
 伊豆山における、空海が伝えた「習合の秘訣」(「伊豆山略縁起」)はたしかに複雑怪奇とさえいえるものですが、少なくとも、伊豆権現と早追権現については、地上地底という明暗の位相における「神」を基体とした上での「権現化」をいったもので、この両権現に秘されている(封印されている)神が異神であるということではありません。
(つづく)

伊豆権現と善光寺如来

更新日:2009/4/1(水) 午前 1:51



 天平元年(七二九)、東国に疫病が蔓延したとき、伊豆権現の神威では病から人々を救う術[すべ]がないとして、ピンチヒッターのごとくに伊豆山に勧請された白山神(白山権現)でした。「伊豆国伊豆御宮伊豆大権現略縁起」(通称「伊豆山略縁起」、『神道体系』神社編二十一所収)の作者は、このとき、伊豆権現は信州に「臨幸」していて伊豆山にはいなかったと割注していました。では、伊豆権現は何をしに信州に出向いていたのか、あるいは、伊豆山を留守にしていた伊豆権現とはなんだったのかという問い・関心も湧いてきます。
「伊豆山略縁起」(元書は「走湯山縁起」)は、伊豆権現の事蹟をほぼ編年で記述するといった編集方法で編まれています。天平元年からすれば十九年ほどさかのぼりますが、ここに伊豆山からいなくなった伊豆権現の逸話が記されています。

四十三代元明天皇和銅三年庚戌二月、社殿震動し、扉自ら開け、神鋒・霊鏡雲に入り、北方をさして飛去[とびさり]しかば、神部・僧侶驚愕して精誠懇祈せし時、神あり託していはく、我は是地主白道明神なり、権現善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふが故に、戸隠山に幸[みゆき]し玉ふ、固[もと]是当山の人、信力薄きが致す処なり、我[わが]力の能く留[とゝむ]る処にあらずと、云々、爾来四十余年の間、山中草木萎爾[いし]し、霊湯涸竭[こかつ]して、烟気[ゑんき]をも挙[あげ]ずと、云々、

 和銅三年(七一〇)二月、権現(伊豆権現)は、「当山の人、信力薄き」を理由に、伊豆山から信州の戸隠山に移ってしまったといいます。その不在時間は「四十余年」とあり、この間、「三業の病」にも霊験あらたかであった走湯[はしりゆ]の霊湯は涸れ、湯煙も立つことはなかったとされます。東国の疫病は天平元年(七二九)のことで、このとき、なるほど伊豆山には走湯権現=伊豆権現はいませんでした。白山神(白山権現)は、本来の伊豆権現と等格の神威をもつ神で、ゆえに代替が可能との判断(神託)がなされたのでしょう。
 伊豆権現が伊豆山からいなくなったことを、権現になりかわって託宣した「地主白道明神」とはどういう神なのか、また、伊豆権現との関係はどうなっているのかがはっきりしませんが、それは今はおくとして、伊豆権現は、「四十余年」もの長きにわたって伊豆山に不在をつづけるも、けっきょくは帰ってくることになります。「伊豆山略縁起」のいうところを読んでみます。

其後四十六代孝謙天皇天平勝宝元年己丑十一月、山中鳴動し、林樹花開き、温湯本[もと]乃[の]如く湧出、霊鏡・神鋒飛[とび]帰りて、復[また]宝殿に入らせ玉ひ、託しての玉はく、我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり、今大菩薩京師に入り玉ふ、我亦行[ゆき]て、大菩薩に謁せんと欲す、汝等宜しく神鏡・宝鋒を捧げ、都に到るべしと、云々

 天平勝宝元年(七四九)十一月、伊豆権現は「四十余年」(正確には三九年)ぶりに伊豆山に帰ってきたようです。この帰還時の託宣は伊豆権現のもので、「我れ鎮護国家のために、八幡大菩薩と宝契あり」と、ここでは善光寺如来ではなく八幡大菩薩との「宝契」が語られます。それも「鎮護国家」のためとされます。
 また、「今(八幡)大菩薩京師に入り玉ふ」とあり、これは、八幡大菩薩がはるばる九州の宇佐から東大寺大仏の完成式典のために入京してくることを指しています。ただし、『続日本紀』は、八幡大菩薩ではなく八幡大神と比咩神の二神の入京としています。伊豆権現にとっては、「比咩神」の存在は不問に付して、八幡大神すなわち八幡大菩薩との「宝契」関係こそが大事なのでしょう。
 伊豆権現の伊豆山への帰還は、当地の人々による「信力薄き」が厚くなったからだとはされておらず、ただ八幡大菩薩との「宝契」として語られる「鎮護国家」を帰還の動機としているようです。伊豆権現の伊豆山からの失踪の動機と帰還のそれとが微妙にずれていることからいえるのは、一言でいえばですが、「四十余年」の間に、伊豆権現の信仰・思想的な「転向」があったということでしょうか。厳密にいえば、伊豆権現の祭祀者自身の「転向」があったことの反映として、この託宣のことばはあるようにみえます。
 藤原不比等が右大臣に就任するのは和銅元年(七〇八)のことで、これは元明が天皇位に就くのが前年七月のことでしたから、二人は同じ時期に朝廷の最高位の舞台に立ったといってよいでしょう。不比等が亡くなるのは元正天皇養老四年(七二〇)で、元明・元正両女帝の背後で、つまり和銅から養老時代にかけて、朝廷の政治と祭祀に対する実質的権力を掌握していたのは藤原不比等だったといえます。
 この時代、不比等が各地の神社祭祀に少なからず干渉の手を差し向けていたことはいくつか事例が報告されています(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。「当山の人、信力薄き」と託宣された和銅三年(七一〇)も、そういった不比等の時代にあたっています。白山が泰澄によって、その祭祀が仏教化の名の下に秘祭化されたのは養老元年(七一七)で、また、その山頂の瀬織津姫神は勅使出迎えの川濯神へと降格され、白山における大祓の神事がはじまったのも養老時代でした(岐阜県・白山史料にみる瀬織津姫神【下】の項を参照)。
 伊豆山においても、朝廷からの祭祀干渉があったはずで、それを不本意にも受け容れた氏人が大勢を占めたとき、当山の人々の「信力」が薄くなったと、伊豆権現を嘆かせたのではなかったのでしょうか。
 ところで、伊豆権現と「深く度生の悲願を契り玉ふ」とされた善光寺如来(阿弥陀如来)ですが、勅撰和歌集『玉葉集』(一三一二)に、「善光寺阿弥陀如来の御歌」として、次のような意味深長な一首が収録されています(長野市教育会『善光寺小誌』昭和五年)。

  伊勢の海の清き渚[なぎさ]はさもあらばあれ我は濁れる水に宿らむ

 清濁の対比において、善光寺如来が「伊勢」と反面的に関係する仏であることがよく伝わってくる歌です。善光寺如来は、「我」は濁世にあって(濁れる水に宿って)、衆生を救わんといった歌意かとおもいます。伊豆権現が「善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふ」とされるのも、この歌の意を共有するものでしょう。
 善光寺阿弥陀如来は絶対秘仏とのことで、衆生が拝めるように前立仏(本尊のコピー仏)がつくられていますが、寛文時代に、この前立仏にちなんだ「新仏御詠歌」もつくられ、そこには、『玉葉集』の歌を本歌取りした、次のような歌もあります(善光寺史研究会『善光寺史研究』大正十一年)。

  五十鈴川きよき流れはさもあらばあれ我は濁れる水に宿らん

 前歌の「伊勢の海の清き渚」を「五十鈴川きよき流れ」といいかえ、善光寺如来が宿る「濁れる水」を伊勢の五十鈴川の清き流れに対比させています。五十鈴川の清き流れに沿ってまつられているのが伊勢神宮(内宮)で、そこに宿る神(皇祖神)は、あくまで「清き渚」「きよき流れ」、つまり清浄なる空間にいる、しかし「我は濁れる水に宿らむ」というのが善光寺如来の歌です。伊勢の地を皇祖神(アマテラス)に譲り、自身は善光寺如来として生きようとする伊勢の地神の歌といってもよさそうです。
 善光寺の年中行事をみてみると、「盂蘭盆[うらぼん]六月祓」という盆の行事があって、寺にしては奇妙な行事をしていることがわかります。『善光寺小誌』は、同行事を「六月三十一日[ママ]夜参詣通夜夥し(焼餅道者と云ふ)。妻戸鼓鐘打ち礼堂百万遍念仏数珠廻し行ふ。旧事記三宝記等に六月祓とす。翌日大施餓鬼会行ふ」と記していて、善光寺には明らかに「六月祓」の神、つまり、瀬織津姫神がいます。
 また、善光寺本覚院境内にある阿闍梨[あじゃり]池は今は小さな池跡しかみられませんが(写真1)、この池は遠州の桜ヶ池と通底しているとされます(写真2・3)。この桜ヶ池の神(現在の池宮神社主祭神)は瀬織津姫神で、この神と善光寺の関係はかなり深いものとおもわれます。
 ところで、善光寺・阿弥陀如来の「奥之院」は駒形嶽駒弓神社とされ、ここは水内[みのち]神社の「奥社」でもありました(写真4~6)。小口伊乙『土俗より見た信濃小社考』(岡谷書店)は、この善光寺「奥之院」の社について、次のように述べています。

 長野市の上松には駒形嶽駒弓神社という社があり、村人の口碑によればこの社は、「昔、水内神社の祝詞殿より裏、正北方の森々たる樹木立の中にあって奥社であったが後世仏教盛んなるに及んで善光寺仏によって水内神は湮滅せり」といい、しかし「現在でも善光寺へ参詣の砌、如来の奥之院なりしとて当社へ参詣する者絶えず、如来堂裏、年越宮に飾る所の注連を本社境内に持ち来り、旧暦二月一日を以て焼き捨てるの例あり」と。この神社は、字駒形嶽にあり、祭神に建御名方富命、彦神別神、相殿に保食命を祀るとしている。尚注連を交番に焼く十五防[坊]は往昔水内神社の神官であったともいう。いわば駒形神社は仏教以前からの社であったというのであろう。

 善光寺如来の祭祀がはじまる前の地主神として、水内神、つまり駒形嶽駒弓神(駒形神)の祭祀があったとされます。また、『善光寺小誌』は、この駒形嶽駒弓神(駒形神)は八幡神であるとの伝承も記していて、現祭神との整合性は成り立ちませんが、しかし、遠野郷においては、早池峰大神つまり瀬織津姫神は「早池峰山駒形大神」でもあり(写真7)、また、八幡神にしても、その男神ではなく比咩神(比売神)とみるならば、それは瀬織津姫神のこととして伝える文書(棟札)もすでに確認されていて、いずれにしても、善光寺如来背後の神、あるいは、引用の歌が象徴していますが、この如来と習合している神は伊勢ゆかりの神とみられます。
 伊豆権現が善光寺如来と衆生済度の悲願を共有するのは、遠野の伝承が訴えているように、伊豆権現もまた、瀬織津姫神を秘めているからなのでしょう。
「伊豆山略縁起」は、「権現善光寺如来と、深く度生の悲願を契り玉ふが故に、戸隠山に幸[みゆき]し玉ふ」と記していて、善光寺如来(に秘められた神)と戸隠山とが深いつながりにあることを示唆しています。
 戸隠神社の主祭神は「天手力男命」ですが、善光寺の地主神・水内神が本来の戸隠神とみられます。奥社境内には九頭竜社(祭神:九頭竜大神)がまつられ、この神が「地主神」と表示されています。この九頭竜神は水神・水源神といわれ、白山においては、泰澄が白山主尊・十一面観音を感得・念出する前に出現したとされる神でもあり、いわば、白山神の変相神あるいは眷属神でもあります。
 伊豆山を一度捨てた伊豆権現は、その「幸[みゆき]」先の善光寺如来ゆかりの戸隠山においては、旧知の白山および善光寺の地主神と再会(自己再会)し、それぞれが共通して置かれた歴史の不条理をともに語らうことをしていたのではないかなどと想像されてもきます。
 円空歌に、この戸隠山を詠んだ一首があります。

  ちわやふる天岩戸をひきあけて権にそかわる戸蔵の神(歌番五六一)
  (ちはやふる天岩戸を引きあけて権[かり]にぞ代わる戸隠[とがくし]の神)

 天岩戸神話は記紀神話の一節として描かれています。重い岩戸を引きあけて天照大神を引っ張り出したとされる天手力男神ですが、この歌から、天手力男神を信濃国の戸隠神とみなすという祭神の通説化が、円空の時代(江戸時代初期)にはすでに定着していたことがわかります。しかし、円空は、天岩戸から出てきた天照大神と戸隠神は仮に(「権に」)入れ替わったのだと詠んでいて、つまりは、アマテラスに代わって天岩戸に本来の戸隠神が封じられているというのが円空の認識だったようです。

白山史料にみる瀬織津姫神(白山長滝神社・白山中居神社)【下】

更新日:2009/3/30(月) 午前 1:06



(つづき)
 郡上市白鳥町石徹白には、美濃側と越前側の白山参詣者がここで合流するかのような場所に、白山中居神社が鎮座しています(写真1)。ここは洲原神社と同じく、白山の神が「岩」に降臨する・影向するといった信仰が基本にあるとみられます(写真2)。この磐境[いわさか]信仰と交差することはありませんが、まずは同社由緒の概要を読んでみます(写真3)。

白山中居神社御本殿
 本社は、伊邪那岐神が、天の橋立峠からこの船岡の地を眺められ、朝、夕日の輝き、清流隈筥川の辺、長走りの瀧から短瀧の清き流れの間、背には白山の南正面より続く、雄大なる木々の森が茂って素晴らしい処
「この美[う]まし地[ところ]に私を祀るよう仰せられた」
昔、山中の古喜美、名を武比古が、正月十五日に、夢のお告げを授かり、ご本殿を建てたのが始まりと伝えられています。時恰も、景行天皇の十二年壬午年(八三年)六月十五日にして、吉備武彦命国家鎮護の為、伊邪那岐の大神をこの地に祀られた文献の併設に始まります。〔後略〕

「越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻」には「太魂神一座」の祭祀が営まれていたと書かれる白山媛太魂神(白山比咩神)は、ここではその気配もないような創祀説明となっています。もう一つの境内由緒表示も同内容ですが(写真4・5)、洲原神社が主祭神を「伊奘諾尊」としていたルーツは、どうやらこの白山中居神社だったようです。由緒・祭神のことはともかく、ここに瀬織津姫神ゆかりの「長走りの瀧」の名も出てきます。
 さて「末代の秘本」として石徹白に秘伝されてきた「白山大鏡」でしたが、ここには、「この峯(蓬莱神仙白山の峯)は高天原千木・千倉・置倉の峯なり」とあり、また「白山瀬織津」は「置倉宮」の神とされていましたから、瀬織津姫神は白山山頂(蓬莱神仙白山の峯)にいるということになります。
「白山大鏡」は、この白山山頂の瀬織津姫神を、次のように活写しています。

正殿南道を以て、正法明如来の道に指[しめ]す。越南路西の道を以て、等覚菩薩道に当てる。源は仏説に出て妙理は泰澄の誓なり。一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊[ごうん]の垢を洗う。妄業の闇忽[たちまち]に晴れ、籃[かご]の渡しに及ぶ。険難の三途大河を亘[わた]りて、現身[うつしみ]に於て直[ただち]に見仏聞法の仏土に至る。情有りて唱うべし。生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る。

「瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」──。白山山頂の神が、これほどの絶対的救済神として記述されている史料は「白山大鏡」をおいてほかにはありません。
 また、「白山大鏡」の作者は、中臣神道(中央の祭祀思想)および天台宗という護国仏教(国家仏教)が、「瀬織津比咩と云う神」を大祓神から三途川の姥神とみなしていたこと、あるいは三途川の脱衣婆とも習合する神とみなしていたことをよくよく認識した上で、この神への一方的な貶称化を一八〇度反転させて「苦」を救う最高神と称賛しています。
 奥州において、瀬織津姫神をまつる荒雄川神社(宮城県大崎市)の由緒には「嘉応二年(一一七〇)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし」云々との記載があり(宮城県・荒雄川神社の項を参照)、かつて、藤原秀衡が奥州鎮護の最高神として加護を祈った瀬織津姫神の名が、ここには堂々と記されています。秀衡の浄土思想・信仰を支える存在を、「仏」ではなく「神」の位相でみるなら、ほかに代替できる神はまず存在しないはずです。
「白山大鏡」は、白山中居神社境内の泰澄堂(跡地…写真6)にまつられていた泰澄像の胎内に秘蔵されてきました。明治期の廃仏毀釈のとき、この泰澄像は眉間を割られあわや焼却されようとしましたが、秀衡奉納の虚空蔵菩薩(白山中居神社の本地仏)とともに窮地から救い出したのが、かつて秀衡の家臣であった「上村十二人衆」の末裔の人たちでした(像は新たに建立された大師堂に移される…写真7・8)。藤原秀衡と瀬織津姫神にまつわる歴史の因果とドラマは、ここに極まるといってもよいでしょう。
 この「苦業の因[もと]を救う」とみなされていた瀬織津姫神(白山神)でしたが、その神威は、すでに奈良時代、遠く伊豆国まで知れ渡っていたようです。
「伊豆国伊豆御宮伊豆大権現略縁起」(通称「伊豆山略縁起」)に、次のような記述があります(『神道体系』神社編二十一所収)。

白山権現社 四十五代聖武天皇天平元年己巳夏、東国疫病甚[はなはだ]熾[さかん]にして、人民死亡す、当国北條の祭主等、当山権現(伊豆権現…引用者)を懇祈[こんき]し奉りしかば、託曰[たくしていはく]、業感のなす所、救ふに術[すべ]なし、惟[ただ]白山の威力[いりき]を頼むべしと、云々、時は炎暑の頃なりしを、一夜の内に石蔵谷[いはくらだに]へ雪の降[ふり]つもる事三尺余、旬日を経れども猶消[きへ]やらず、病あるもの是を嘗[なむ]れば、其病苦立地[たちどころ]に平愈す、依て社を営み、年々六月十五日の祭祀、今に至るといへどもたへず、

 天平元年(七二九)、東国に疫病の猛威が荒れ狂ったとき、伊豆権現は、自分では救う術[すべ]がない、ただ白山の神威(威力)を頼むようにと託宣したというのです。伊豆権現は走湯権現ともいわれ、「略縁起」は、この走湯[はしりゆ]について「いかなる三業の病にても、容易[たやすく]除愈[じょゆ]せざらんや」と、その神威は白山神に優るとも劣らないことを記していました。その伊豆権現が自分では疫病の業苦を救う術がないというのはいささか妙におもえます。「伊豆山略縁起」の作者もこのことに気づいたのでしょう、伊豆権現の「託曰」のあとに、この時伊豆権現は信州に臨幸していてここにはいなかった旨の弁解を割注で入れています。
「伊豆山略縁起」は、冒頭で「夫[それ]伊豆の御宮は、かけまくもかしこき天照太神第一の皇子、正哉吾勝々速日天穂耳尊にして、日本第二の宗廟と崇め、関東の総鎮守なり」と豪語していて、このときの伊豆権現は天穂耳尊だったようです。また「走湯山之記」では、「走湯大権現と申奉るハ、地神第二正哉吾勝々速日天穂耳尊にて」云々とも書かれています。
 伊豆権現は、遠野郷では瀬織津姫神のことですが、伊豆山においては、各縁起は共通して天穂耳尊としています。「地神第二」の神を天穂耳尊とする神道的な一般理解の範疇に伊豆山の各縁起はありますが、この「地神第二」を「白山瀬織津」とするのが白山側の秘伝でした(「白山大鏡」)。
 なお、この地神云々の発想は、「神仏習合」ならぬ「神々習合」といえます。日本の神まつりのわかりにくさは、この二つの習合思想が背景にあることが理由ですが、いずれにしても、さらなる背景としては、鎮護国家を標榜する国体護持の思想が淵源としてあります。
「伊豆山略縁起」は荒神社の項で、その神体は「弘法大師の御作、御長二尺許、三面八臂の立像を安置す、〔異于世間流布之像〕、毎月二十八日、荒神供[く]を修す、〔是大師之所定、清規之一也〕、猶習合の秘訣等、伝へあり」と書いていて、どうやら「習合の秘訣」を伊豆山にもたらしたのは、最澄と並ぶ護国仏教の徒・弘法大師(空海)だったようです。
 ともかく、神仏・神々の「習合の秘訣」を逆手にとって、白山山頂の瀬織津姫神の存在を「末代の秘本」に記し伝えてきたのが白山(石徹白)でした。
 瀬織津姫神の名は、「越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻」と同じく白山中居神社に伝わる「越宗廟白山上下年中行事祭祀巻」の「六月の千座[ちくら]大祓」にもみられます。

(六月の)中の七より八に至り之を行う。七日まず河上の岩窟[いわや]前に及び葉薦[すごも]を敷き、壇を設け座[くら]を調える。青和幣・白和幣各一本、散米・麻共案の上に之を置く。茅輪一枚・机各一脚・玉串各一本・人形各一枚、申ノ刻川祓諸司出仕。而して祭主、先ず河神・瀬織津姫を祭る。神供の神酒之を献じ拍手再拝、祝詞畢[おわ]りて各玉串を採り、身を払い祓[きよ]め訖[おわ]る。人形千輪[ちのわ]の行事終りて、後取[しとり]之を流し共に再拝、畢りて退出[しりぞく]。此れ夕日祓と称するなり。八日辰ノ刻岩窟の前に之を修す、神供神酒常の如し。再拝拍手・祝詞各畢り、玉串を取り修祓[しゅうばつ]前日の如し。人形・贖物[あがもの]悉く後取[しとり]之を流し、連拝終り退出。此れ朝日祓とは称するなり。

 石徹白における大祓は、中央がおこなう六月晦日ではなく「(六月の)中の七より八に至り之を行う」とされます。「中の七より八」は十七・十八日で、白山の例祭日(開山日にちなむ)が六月十八日で(現在は七月十八日)、これに合わせた祭祀だとわかります。十七日は宵宮祭日で、その「申ノ刻」(午後四~六時)におこなうゆえに「夕日祓」と称し、明けた十八日の「辰ノ刻」(午前八~十時)に再び大祓を修するため、これを「朝日祓」と称すということのようです。
 この「六月の千座大祓」の記載で注視すべき点は、大祓の執行が白山の開山日と重ねられていること、および、「祭主、先ず河神・瀬織津姫を祭る」とあるように、大祓神が『延喜式』収録の中臣祓(六月晦大祓)の四柱神ではなく、そのうちの瀬織津姫神一神のみの祭祀として記されていることでしょう。
 白山中居神社では朝廷の大祓に準じて「十二月晦日大祓」も執行しています。こちらは「晦日の大祓は、別祓神を四座に加える」としています。また、「以上の祭祀は、私斉[しさい]に於いて非ず、天下の大礼にして宝祚[ほうそ]長久の祝これなり。四海静謐の祈念なり。能思厚祭慎みてこれを行い怠るべからず」とも書いています。これらは「天下の大礼」で「私斉に於いて非ず」と断り書きを入れているところに、中央の祭祀管理下にあることがよく出ているといえます。「越宗廟白山上下年中行事祭祀巻」はさらに、次のようにつづけています。

右両度の祭奠(二つの大祓)、養老・天平・勝宝・宝字・神護五朝の旧礼なり。階を送り威を増すは、仁寿・貞観・天暦の三朝の御時之を行わせられる。勅使先ず宮川に臨み、身を濯ぎ祓い於き給いて、葉薦[すごも]二枚之を敷く。案を建て太麻・人形を案上に之を置く。祭主先ず進て河神を祭る。

 白山・石徹白における大祓は「養老・天平・勝宝・宝字・神護五朝の旧礼なり」とされ、養老時代、つまり、白山が泰澄によって「開山」されたのとほぼ同時期にはじまったものとみられます。勅使がやってくるたびに「祭主先ず進て河神を祭る」としていて、この「河神」は瀬織津姫神のことです。
 こういった記述・記録を読むと、大祓の励行、つまり、白山山頂から大祓神へと限定・降格祭祀をした「その後」が、朝廷からたえず監視されていた印象を受けます。養老四年(七二〇)五月、懸案だった『日本紀』(日本書紀)がようやく完成・奏上されます。白山山頂および初の公的史書から「白山瀬織津」を消し、朝廷の祭祀・統治思想は一見安泰な船出をしたかにみえましたが、少なくとも白山南麓・石徹白においては、自分たちの「神の山」の記憶を完全に消すことはありませんでした。
 この記憶は、当初は口伝によって伝えられてきたものでしょうが、いつの時点か、それを「文字」に認[したた]め後世に伝えようとしたのが「白山大鏡」でした。「末代の秘本」という自覚のもとに秘蔵しつづけてきた石徹白の意志には、奥州鎮護の最高神として瀬織津姫神を奉じていた藤原秀衡の遺志も、やはり大きな力を添えていたものとおもわれます。

白山史料にみる瀬織津姫神(白山長滝神社・白山中居神社)【上】

更新日:2009/3/28(土) 午後 1:59



 洲原神社前の長良川を遡行するように北上して郡上市白鳥町にはいりますと、ここの長滝地区に、美濃側の白山登拝の拠点である、かつての白山中宮長滝寺があります。明治期の神仏分離によって、現在は白山長滝神社と天台宗長滝寺に分かれていますが、神社境内の「長滝史跡案内」は、白山と長滝、また泰澄との関係の概要を知るにはよい資料かとおもいます(写真1~3)。最初の部分を読んでみます(適宜読点を補足して引用)。

白山南正面拠点 長滝史跡案内
 霊峰白山を御神体山と仰ぎ白山信仰の表日本における一大拠点、いわゆる美濃馬場は古来この長滝のことである。ここには古くから先人の祀る一社があったが、養老元年(西暦七一七年)泰澄大師が始めて白山に登拝してからは、白山妙理大権現を祀る霊場白山中宮長滝寺となった。この長滝寺ははじめ法相宗、後天台宗となり、治安元年(一〇二一年)比叡山延暦寺の別院として六谷六院三百六十房、平安後期から鎌倉時代には一万三千石の神領を賜わったと伝え、神殿堂宇三十余を構え「上り千人下り千人」と広く東海方面から参集する信者により奥美濃文化発祥地として栄え、白山信仰の花が開いたのである。〔後略〕

 泰澄が養老元年(七一七)に白山に登拝、そして「白山妙理大権現」をまつる霊場として白山中宮長滝寺の創建となったことが記されています。しかし、「ここ(長滝)には古くから先人の祀る一社があった」とされ、その上に白山妙理大権現の祭祀がかぶったのでした。
 この「先人の祀る一社」の先行祭祀がここにあったことは、泰澄の白山「開山」、あるいは白山中宮長滝寺の創建を考える上で重要なこととおもわれます。
「史跡案内」は、神仏分離後の神社祭神や寺の本尊についても記していますので、以下に書き出しておきます。

白山長滝神社
 御祭神 伊弉册尊・伊奘諾尊・彦火々出見尊・天忍穂耳尊・大己貴尊
長瀧寺  本尊 大日如来(丈六像、明治三十二年焼失)
阿名院  本尊 阿弥陀如来・大勢至菩薩・観世音菩薩

 白山長滝神社(写真4・5)は、主神・白山比咩神を伊弉册尊とみているようです。また、白山の本地仏が十一面観音ではなく大日如来とされることも少し注意しておいてよいかもしれません。なお、円空もこのことに気づいたのか、阿弥陀三尊をまつる阿名院に、白山の主尊・十一面観音を彫像・奉納していました。
 ところで、案内は、社名・寺名に共通してみられる「長滝」についてふれていませんが、これは、まさに「長滝」という滝名に由来するもので、現在の「阿弥陀ヶ滝」をいいます。
 白鳥町前谷にある阿弥陀ヶ滝は、川筋を厳密にたどると長良川源流の滝ではありませんが、美濃側の白山信仰の拠点寺であった白山中宮長滝寺が、その寺名に「長滝」を冠省していることでもわかるように、この滝は信仰的な意味で長良川源流の滝としてあります。
 阿弥陀ヶ滝の案内を読んでみます。

県指定名勝 阿弥陀ヶ滝(直下約六十メートル)
 伝記によれば、養老六年(西暦七二二年)白山開祖泰澄大師が白山中宮(現在の長滝白山神社)の本殿建立の時一夜女神のお告げにて西北山中に清泉を探し、行ってみると怪しくけわしい岩の断崖から飛瀑の直下するのを発見した。大師はこの滝を長滝と名づけ、この清泉に斎戒沐浴して白山中宮の建立に奉仕し、その瑞祥に感じて白山中宮長滝寺と称するようになった。
 以来この滝は白山信仰の霊場として修験者、滝参りの人々で賑わってきたが、天文年間(約四六十年前)長滝阿名院道雅法師がこの滝の洞窟で祈念をしてみると光まばゆい阿弥陀如来が現れたことから“阿弥陀ヶ滝”と呼ばれるようになった。

 泰澄に「一夜女神のお告げ」をした女神こそ白山の比咩神でしょう。「白山信仰の霊場」としての「長滝」の命名者は泰澄であったわけですが、その後(天文年間)、長滝阿名院道雅法師が、滝に阿弥陀如来を感得してから滝名が「阿弥陀ヶ滝」となったようです。
 長滝(阿弥陀ヶ滝)を訪れてみると、たしかに「怪しくけわしい岩の断崖」から「飛瀑の直下」があります(写真6)。道雅法師は、この滝に阿弥陀如来を感得したとのことですが、そういった知識を念頭において滝の上部をみると、なるほどなにか神か仏か、また幽霊の姿にもみえないことはないななどとおもったものでした(写真7)。
 それはともかく、この「長滝」については、白山信仰のさらなる根幹にかかわる逸話・伝承もあります。

 白山信仰にかかわる史料といえば、加賀側の白山比咩神社所蔵『白山記(白山之記)』が根本史料とされてきましたが、美濃側にもいくつかの史料が存在していました。平成十二年(二〇〇〇)五月、白山関係史料が読み下し文を添えて、つまりだれもが読めるように、一冊の単行本として刊行されたのが、上村俊邦編『白山信仰史料集』(私家版・岩田書院発売)です。上村さんは白鳥町石徹白[いとしろ]出身の郷土史家で、同書に収録されているいくつかの史料は、明治期の神仏分離から廃仏毀釈へと向かうなかで、廃仏を目指す国家神道派と、泰澄への信仰を捨てずに下野した神仏混淆派(帰農派)との対立のなかで、後者によって、なかば命がけで守られてきたものが含まれています。この帰農派の中心人物には上村姓の人が散見され、この「上村」各氏は、かつて奥州の藤原秀衡による白山への奉納仏の警護でやってきて石徹白に住みついた家臣団(上村十二人衆)の末裔とされます。
 以下、引用する史料はすべて『白山信仰史料集』によるものですが、個々の史料についての作者・成書時期等の書誌学的考察は省くことを先にお断りしておきます。
 さて、「長滝」についてですが、「白山権現鏡之巻」に、興味深い記述があります。
 たとえば、白山山麓の「久寿滝[くとうのたき]」で礼拝祈念している泰澄へ白山貴女(白山比咩神)が託宣する場面があります。貴女曰く、「吾天嶺に有り難く常に此の林中に遊ぶ。此の処を以て中居となす。即ち東の源涵[げんかん]長瀧の流水にて、末代濁世[じょくせ]の衆生の汚穢[おわい]不浄[ふじょう]の垢[あか]を洗浴清浄し済度せしむ」──。
 この白山貴女(白山比咩神)の託宣は、一般的な山神・水神のことばではありません。ましてや、白山長滝神社の主神・伊弉册尊のことばであろうはずもありません。ここには、「東の源涵長瀧」、つまり、長良川の源(源涵)である「長瀧」において、「衆生の汚穢不浄の垢」を洗い清め、人々を救う(済度する)ことを泰澄に誓った女神がいます。この貴女神の性格は、禊祓いの霊神以外ではなく、しかも「滝」と深く関わる神ですから、その神名があからさまに記されずとも、わたしたちがイメージしうる神は一神に限られましょう。ちなみに、美濃側の長滝に相当する滝を越前側にみるなら、それは女神[おながみ]川源流部の「弁ヶ滝」となります。この川の滝神の名としては瀬織津姫神の名が伝えられていることについてはすでにふれました(福井県・河濯神社の項を参照)。
 おそらく、だれがいつ、こういった白山貴女(白山比咩神)の託宣のことばを仮構・創作したかといった詮索はほとんど無用です。ここには、従来の白山史料の表現とは大きく異なる白山比咩神の性格が表現されていることが、なにごとかだとおもわれます。
 美濃(石徹白)側の史料の一つ「白山大鏡」は、奥書に「末代の秘本」と書かれているように、この書には他書にみられない重要な伝承が記されています。同書は、白山里宮七社の一つである佐良宮(早松宮、美濃市)にはウガヤフキアエズ尊がいるとするも、それにつづく箇所に、まさに「秘本」に相当する記述がみられます。

地神第二子・白山瀬織津置倉宮は東馬場の麓の宮に坐す。東夷異国の征伐を為し神宮を東の麓に卜す。

 文中「置倉宮」は大祓祝詞(延喜式収録の「六月晦大祓」)における「大中臣、天つ金木を本[もと]うち切り末うち断ちて、千座[ちくら]置座[おきくら]に置き足[たら]はして」云々の「置座」に相当します。「白山大鏡」は、「この峯(蓬莱神仙白山の峯)は高天原千木・千倉・置倉の峯なり」とも断じています。
「白山大鏡」の作者は、「白山瀬織津」が大祓の神であることを明確に認識した上で、この神は「蓬莱神仙白山の峯」にいて、かつ「東馬場の麓の宮に坐す」と書いています。この「東馬場の麓の宮」が、美濃馬場の白山長滝神社(白山中宮長滝寺)を指していることはいうまでもありません。
 ところで、「地神第二(子)」は、神道一般では天忍穂耳尊をいいます(第一は天照大神、第二は天忍穂耳尊、第三は瓊瓊杵尊で、以下、記紀記載の皇孫系譜順に第五まで配される)。「白山大鏡」が、この地神第二を記紀の記載に準ずることなく、あえて「白山瀬織津」としているというのは、いかにも特異ではあるものの、しかし貴重な主張といえます。また、「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」では、「地神五代之神は、第一は日域嚢祖[のうそ]之神として、伊勢大神宮と顕[あらわ]れ、第二は小白山別山大行事権現なり」と書かれてもいます。瀬織津姫神を大行事神としてまつる神社としては、一社ですが、たしかに存在します。その名も大行事神社といいます(静岡県掛川市下垂木3224、写真8)。
「末代の秘本」とされる「白山大鏡」には、瀬織津姫神について、さらに驚嘆すべきことも書かれていますが(後述)、ここではもう少し「長滝」にこだわってみます。「白山大鏡」以外の白山史料、たとえば「越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻」といった神道派の書にも、瀬織津姫神の名はみられます。
 雄略二十一年九月一日の夜、「中津国比婆之大宮」にいる白山媛太魂神は「吾所生の越州中において、〔中略〕日は赫[かがや]き、月明らかに萬光満足[みちたり]し処を吾所在に欲するなり」と大途見彦命に神託をしたとされます。この神託を雄略に奏上すると「勅詔」が下り、大途見彦は舎人十人を連れ、白山への神幸(遷宮)の旅に出る──こういった書き出しではじまるのが「越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻」です。この大氏一行がはるばる白山(石徹白)へとやってくる場面に、瀬織津姫神が登場してきます。

遂に以て越之大野国(石徹白)に入る。而[しこう]して各[おのおの]皆川に臨みて潜[ひそ]み濯[そそ]ぐ因[ゆかり]を以て神を祭る、瀬織津姫神是なり。然る後、隈筥[くまはこ]川を上り伊野原の円岳[まるおか]に到り着く。

 長良川(本文は「中川[なかるがわ]」)沿いを北上してやってきた大氏一行が白山神域に足を踏み入れようかというとき、「各皆川に臨みて潜み濯ぐ」、つまり、身を無垢清浄にする「禊ぎ」のためにまつったのが「瀬織津姫神」とされます。瀬織津姫神は、ここでも「川濯神」ですが、この神の名を伏せていないところがいいです。
 史料でいくつか確認できる瀬織津姫神ですが、現在、この神の祭祀はどうなっているのだろうと考えるのはわたし一人だけではないでしょう。この点を上村さんに確認してみたところ、石徹白地区においては唯一ですが、この神はかつて「長走りの滝」にまつられていたという貴重なご教示をいただきました。むろん「かつて」ですから、今は祠もないとのことですが、しかし、滝は消えていません。
「長走りの滝」は隈筥[くまはこ]川(石徹白川の支流・宮川)上流の滝で、白山比咩神が滝神の姿で「中居」して遊ぶに、いかにもふさわしい滝とみえます(写真9)。
(つづく)

洲原白山神と円空【野宮神社・補遺】

更新日:2009/3/24(火) 午前 1:10



 葛懸神社の禊祭りのとき、同社の氏子衆はなぜか野宮神社の集落との境界まで出向いて表敬の挨拶をするといいます。葛懸神社は、もとは縣[あがた]神社・縣明神と呼ばれ、ここの親社・元社は、美濃市須原鎮座の洲原神社とする古伝承がありました。
 洲原神社というのは、白山信仰における美濃国側の中心的な里宮(「前宮[さきみや]」といわれる)で、尾張・三河国などからも「洲原参り」が盛んだったようです。
 円空も洲原神社には特に関心を抱いていたらしく、次のような歌を詠んでいました。

  白ら山や洲原立花引結ふ三世の仏の玉かとそおもふ(歌番一四四二)

 歌中「立花」は立花神社のことで(美濃市立花)、洲原神社と立花神社は、後社が前社の「お前立て」といった関係にあります。
 立花神社の社前には長良川が流れています。鳥居の横に立てられた幟には、社名の立花神社ではなく白山神社と染められていて(写真1)、円空の歌にあるように、ここが白山神の祭祀であることがよく伝わってきます。立花神社は桜の参道も印象的で、一の鳥居は国津神系の鳥居にもかかわらず、拝殿前の鳥居(二の鳥居)は神宮と同形式の鳥居を構えています(写真2~4)。
 洲原神社は三殿から成り、本殿に伊奘諾尊、東殿に伊弉册尊、西殿に大穴牟遅神をまつっています。白山信仰の美濃国の中心社にもかかわらず、本殿に白山比咩神に相当する神名が見当たらないことはいささか奇異です。江戸期、ここは「十禅寺 彦火瓊々杵尊」ともされていて(『白山名所案内』安永六年)、その瓊瓊杵尊も現在は主神扱いされていないようです。ちなみに、洲原神社の分社を相殿にまつる名古屋市東区の大曽根八幡(現片山八幡神社)は、祭神を菊理媛命としています(大曽根・洲原神社のかつての別当寺に円空は弁天像ともみえる観音座像を彫像・奉納していて、円空の洲原神へのこだわりが伝わってきます)。このように、祭神不定の洲原神社ですが、社殿は檜皮葺の屋根をのせた古色ただようもので、神域の森に囲まれた境内もきれいに清掃されていますし、祭神表示の不自然さを不問に付すなら、鎮座する神にとって、ここはさぞ居心地がよいのでは、といった印象を与えます(写真5・6)。
 また、洲原神社も立花神社と同様に、社前を長良川が流れています。正確にいえば、長良川の中州にある「神岩」が社前にあります(写真7)。水神・川神としての白山の神は、長良川の上流(白山)からやってきて、この岩に影向するといった信仰があったものとおもわれます。
 長良川(神岩)からみますと、社叢のなかに神仏混淆時代の名残りである山門(楼門)があり、この門をくぐると、まっすぐ拝殿から本殿へと向かうことになります(写真8・9)。
 中世まで洲原神社の神職をしていた西神頭[にしごとう]家は、先祖を泰澄(白山の開山者とされる)の弟・三上安定としています。
 西神頭家がなぜ洲原神社の神職を解かれたのかは明確な記録がなくはっきりしませんが、同家に伝わる「洲原白山并安定由緒書」(『美並村史』史料編所収)によれば、泰澄は養老五年(七二一)閏三月、長良川(本文は「長川」)河畔に清浄地を選んで「下品下生之浄土」と見立て、白山山頂の祭祀を再現するように洲原白山神社をまつったといいます。その祭祀は、神体山(鶴形山…写真7)の山頂奥宮を「内宮」とし、そこに白山三尊をまつり「女人結界之山」とする、また、この山の麓・長良川河畔に里宮を「外宮」として建て、そこにも白山三尊をまつり、特に十一面観音については地蔵菩薩を「前立」として配し、ここまでは「男女結縁之参詣」を許すこととした、というものです。
 ここでいう「外宮」は現在の洲原神社のことですが、「由緒書」は、この外宮の「右傍」には「即ち地蔵大士の垂跡なり」とする「十王堂」をおいたともしていて、さらに「地蔵菩薩即ち十禅師なり」、ゆえに、洲原白山神社は「三所妙理白山十禅師大権現」と称すとしています(江戸期の「十禅寺」表記につながってきます)。
 この「十禅師大権現」(本地:地蔵菩薩)についてですが、野宮神社の親社である近江国の野々宮神社の由緒には、「明治までは十禅寺大権現とも称した。天明四年の文書には本社十禅師とあり、末社として現在の境内社が記され九尺四方の釣鐘堂、地蔵(蓮花庵)があった」と書かれていました。また、野々宮神社のさらなる親社である日吉大社第六殿、現在の樹下神社(樹下宮)についても、室町期の『神道集』(巻第三)には、「六ノ宮ハ十禅師権現ト名ク、本地ハ地蔵菩薩也」と書かれていました。これらは天台宗の発想によるものですが、どうやら、洲原白山(洲原神社)・野々宮・樹下神社(樹下宮)の三社ともに、同じ神仏混淆の祭祀がなされていたことがわかります。
 日吉大社は境内の走井祓殿に瀬織津姫神をまつり、樹下神社(樹下宮)の祭神は「鴨玉依姫命」としています。この鴨玉依姫命をまつる賀茂御祖神社(下鴨神社)においては、野宮神(瀬織津比売神、樹下神事を司る)は、本殿ではなく境内の井上社(通称:御手洗社)の祭神とされます。また、日吉大社第六殿神(樹下神)は春日大明神でもありましたが(『仏像図彙』)、春日大社の本殿(第四殿)は比売神、瀬織津姫神は境内の祓戸神社の祭神とされます。
 これらに共通しているのは、瀬織津姫神を本殿にではなく、境内社において、あくまで御手洗神(禊神)・祓戸神と限定して(降格して)まつろうとしていることでしょうか。
 日吉大社の走井祓殿は、比叡山の回峰行者が持ち歩いた「回峰手文」(村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』所収)には「走井宮」と記され、その割注には「祓戸神本地弁才天或地蔵或釈迦」とあります。つまり、天台宗内部においては、走井神=祓戸神(←瀬織津姫神)が習合するのは弁才天または地蔵菩薩、または釈迦如来という認識がありました。
「回峰手文」には下鴨神社境内図も載せられていて、そこには「井上ノ弁天」と書かれています。この「井上」は、井上社(御手洗社)のことですが、井上神(瀬織津姫神)はたしかに「糺の森の弁天さん」の異称・親称をもっていました。現在、弁才天と習合する神の多くは宗像三女神の一神・市杵島姫命とされますが、瀬織津姫神を弁才天との習合神とするのは、この井上社のほかに静岡県・瀬織戸神社や富山県・元雄神神社といった例があります。もっとも、瀬織戸神社の由緒は、市杵島姫を瀬織津姫の別称としていて、祓戸神のルーツは宗像(の姫神)にあるとみてよさそうです。
 宗像祭祀についてはここではおくとして、瀬織津姫神を「祓戸神」と見立てたとき、その本地仏を「弁才天或地蔵或釈迦」とするというのが天台宗内部の黙契でした。
 洲原白山(洲原神社)は野宮(野々宮)神ゆかりの社であり、ここは白山里宮(前宮)でもありました。洲原神社の権現表示が「三所妙理白山十禅師大権現」(本地:地蔵菩薩)、つまり、ここに「三所妙理白山」(白山妙理三所権現)の主尊である十一面観音の「前立」として地蔵菩薩(祓戸神の本地仏)が配されたのは、泰澄の創祀として語られるも、実質は、その後の天台宗における付会かつ黙契的表現だったとみられます。いいかえれば、禊祓の神と見立てられた神が洲原神社の本来の祭神だったのでしょう。また、洲原神社においては、地蔵菩薩の祭祀と関わる「十王堂」、つまり、閻魔堂があったとされます。ここには、社前の長良川を三途川に見立てた地獄の思想(浄土信仰)を持ち込んだ天台宗の徒がいたはずで、この三途川があってこその地蔵菩薩だったとおもわれます。
 なお、「洲原白山并安定由緒書」には、同じく養老五年(七二一)十一月一日「丑之刻」に、泰澄が「秘榊之神」を「外宮」(現在の洲原神社)に迎えて、この神に「百味之供物御酒」を捧げ、「管弦伎楽之鐘鼓」を鳴らし、そして「三種之神歌」を奏上したと、興味深い伝承も書かれています。この謎の「秘榊之神」に深くこだわったところに、白山祭祀を勅命によって仏教化(秘神化)した泰澄の深層の本心・良心が見えるようです。「天照大神荒魂」「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の異称をもつ瀬織津姫神は、まさに榊(賢木)に憑依する伊勢(神宮)の秘神でもありました。泰澄が冬の暗闇のなかで一人厚遇のもてなし(慰藉)をしていた「秘榊之神」は、この伊勢の秘神でした。この神が、祓戸神(本地:地蔵菩薩)ともみなされた、洲原白山の本来の神だったとおもわれます。
 洲原神社の分社(葛懸神社)が、禊祭りという特殊神事を今に伝えているのも、親社・洲原神社祭神の「祓戸神」化を継承・投影したものといえそうです。禊祭りのとき、葛懸神社(の氏子衆)が野宮神社との境界までわざわざ表敬の挨拶に出かける理由は、おそらく、野宮神が伊勢・春日・賀茂・白山祭祀と深く関わる最重要神であることが祭祀者のなかで認識されていたためでしょう。あるいは、禊祓の霊神の名を親社(洲原神社)、および自社のように秘匿化することもなく、そのままの神名で祭祀をつづけていたことも大きな理由だったかもしれません。
 野宮神社別当寺の関係者のある自宅には、実は円空彫像の薬師如来(若狭からの伝来とされる)が所蔵されています。公開は控えたいとのことで詳しいことはふれえませんけれど、円空と瀬織津姫神の縁は、洲原白山(洲原神社)を介してばかりでなく、かなり太い糸で結ばれているようです。ちなみに、野宮神の本地仏は地蔵菩薩ではなく、白山および早池峰山と同じく十一面観音でした。
 円空は「白ら山」の神(「洲原立花」にもまつられていた白山の本源神)を「三世の仏の玉」と詠っていました。「三世の仏」は、過去・現在・未来の時間を内包する弥勒菩薩のこととおもわれます。「玉」は「霊[たま]」で、霊神の意でしょう。円空の晩期の信仰・思想は、白山の霊神・秘神を、弥勒菩薩とゆかり深い神と感じ取るところまできていたようです。