河野氏の信仰

更新日:2010/11/11(木) 午後 3:49

 安芸国(広島県)の西部、旧佐伯郡に集中するようにまつられる神社に河内[こうち]神社があります。それらの多くは、主祭神を大山祇尊(命)、大山津見神、大山都見神、あるいは弥都波能売神としていますが、旧佐伯郡佐伯町と吉和村にまつられる三社の河内神社のみ、祭神を瀬織津姫神としています。
 それら三社の由緒を『広島県神社誌』にみますと、一社は「永禄年中(一五五八~七〇)、伊予国より源清文と申す者、神宝を持ち来り創祀」、一社は「延徳三年(一四九二)創建」、一社は「永禄十二年(一五九六)九月十五日、当村河野杢元と申す者が勧請」とされます。断片的な由緒ながら、河内神としての瀬織津姫神は、瀬戸内海対岸の伊予国から安芸国へやってきたことがうかがえます。また、祭祀者の一人「河野杢元」の「河野」氏の本国も伊予国でしょう。
 戦国大名に名乗りを挙げる、あるいはのし上がることができなかった河野氏です。これは、亡国による生活の流亡を余儀なくされたことを想像させますし、としますと、氏神を奉戴しての流亡であったとみられます。一社の由緒には「神宝を持ち来り創祀」とあり、これは「神宝」を喪失した伊予国のX社があったということを意味しているといえるかもしれません。
 河内神社は四万十川流域などにも散見され、この川の中州にまつられていた神社は現在、川の対岸へと遷されるも、ここに瀬織津姫神がまつられています(四万十市・小島神社)。
 伊予国における河内神としての瀬織津姫神は、伊予市双海町の豊田神社(旧社号は河内神社)、また、明治四十三年、喜多郡内子町の弓削神社に合祀された河内神社などに、わずかにその祭祀を今に伝えています。
 戦国の乱世を生き抜くことができなかった越智─河野氏ですが、その秘伝的家伝書『水里玄義』に「落ちたぎつ」の神(瀬織津姫神)へのこだわりを伝えていました。そもそも、この家伝書の書名は「水の里の玄義」という意味を表しています。伊予史談会編『予章記・水里玄義』の解説(影浦勉氏)によれば、「書名の『水』は河の扁、『里』は野の扁をとり、『玄義』は奥深い義を意味する」とされ、河野氏の「水」への深いこだわりが読み取れます。
 応永元年(一三九四)頃に成る、河野氏の歴代の事蹟を編年体に記述したとされる書が『予章記』です。同書には異本が多く、ここでは『予章記・水里玄義』所収の上蔵院本と長福寺本に拠りますが、この二つの『予章記』から、越智─河野氏における「水」へのこだわりがよく読める箇所を以下に要約します。

 越智玉興と越国(ベトナム)生まれの玉澄の異母兄弟、そして役小角の三人が文武三年(六九九)、難波唐崎から伊与(伊予)の見島(三島)へと向かう際、備中沖で船の飲料水が無くなった。困りはてた玉興が三島大明神に祈願し弓で海潮を攪拌すると「不思議の清水」が湧いてきて、この水で皆は救われた。このため備中沖を「水島ノ渡」と名づけた。この不思議の清水の源は、越智氏の領地・伊与国の高縄山である。この山は「観音菩薩霊験ノ地」、当初は十六天童(十六王子神)の霊蹟地で今は「新宮」と号している。ゆえに高縄山の麓を「河野ノ邑」と名づけ、玉興は玉澄を養子とし、以後、河野を名乗る。

 役小角と越智玉興の同行関係の伝承などはとても興味深いものがありますが、ここでは、深入りしません。越智─河野氏が、十六天童(十六王子神)の霊蹟地である高縄山、その山に湧出する十六天童ゆかりの「不思議の清水」に、つよい報謝の念を抱いていたことを読み取った上で浮かぶのは、この十六王子神と河野氏の信仰関係の内実とは何だったのかという問いでしょうか。
 越智─河野氏が、十六王子神に特別な信仰意識をもっていたらしいことは、上記考察からも伝わるかとおもいますが、これについては、『大山祇神社略誌』も指摘するところです。

 愛媛県内には大山積神を主祭神とする神社に十六王子神を祭る神社が数多くあるが、それら由緒をたずねるとき、河野家の保護と信仰を抜きにしては語り得ないものがある。

 十六王子(神)というのは、大山積神の本地仏が措定されてはじめて成り立つもので、そもそも、この本地仏・大通智勝仏なる仏からして一般になじみがあるとはいえません。略誌のいうところを読んでみます。

 大山積神の本地仏は大通智勝仏であった。しかし、なぜ大通智勝仏が本地仏となったのか、その経緯は必ずしも明確ではない。大山積神は古くから全国津々浦々にまつられ、国土の守護神として厚い信仰をあつめてきた。東西南北四方八方を守護すると考えられる大通智勝仏と、十六人の王子の仏徳のために大山積神の本地仏とされたのであろうか。

 大通智勝仏は「東西南北四方八方を守護する」仏とのことですが、全方位の守護を一仏が担うというのは難儀なことだろうと下世話に想像されもします。この想像はわたし一人のものではないようで、孫引きとなりますが、『仏教大辞典』の解説には、「其の仏(大通智勝仏)未だ出家せざりし已然に十六王子あり、父王成道の後、彼の諸王子は之に従って出家して沙弥となり、〔中略〕今皆十方の国土に出現しつつある」とあります。つまり、大通智勝仏の分身である十六王子が「皆十方の国土に出現」して、各方位を分担して守護するという考え方がありました。
 略誌は、十六王子の神社・祭神と、それら分身たちの担当守護する方位と仏徳を整理していますので、概覧してみます(最後の「仏徳」は『仏教大辞典』によるもので、必ずしも「徳」といえるのかは疑問ですが、そのまま転写します)。

1 大気神社………保食神─────東、阿閦
2 千島神社………磐裂神─────東、須弥頂
3 倉柱神社………倉稲魂神────東南、師子音
4 轟神社…………啼沢女神────東南、師子相
5 阿奈場神社……磐長姫命────南、虚空住
6 比目木邑神社…木花開耶姫命──南、常滅
7 宇津神社………枉津日神────西南、帝相
8 御前神社………狭田彦神────西南、梵相
9 小山神社………闇靇神─────西、阿弥陀
10 早瀬神社………瀬織津姫神───西、度一切世間苦悩
11 速津佐神社……速佐須良姫命──西北、多摩羅跋相檀香神通
12 日知神社………大晝目命────西北、須弥相
13 御子宮神社……大直日神────北、雲自在
14 火■神社………火須勢理神───北、雲自在王  (■は維に心)
15 若稚神社………火々出見命───東北、壌一切世間怖畏
16 宮市神社………市杵島姫命───東北、釈迦牟尼

 河野家の秘伝的家伝書がこだわっていた早瀬神社(瀬織津姫神)は、小山神社(闇靇神)とともに西方を守護し、その仏徳的表現は「度一切世間苦悩」とあります。一切の世間の苦悩を度す(救う)というのは神徳とみてもおかしくありませんが、瀬織津姫神に期待される、この途方もない神徳は、伊予国あるいは河野氏一人のものではなかったことも想起されます。白山信仰の秘伝書(『白山大鏡』)には、この神徳がそのままに記されていました。

正殿南道を以て、正法明如来の道に指[しめ]す。越南路西の道を以て、等覚菩薩道に当てる。源は仏説に出て妙理は泰澄の誓なり。一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊の垢を洗う。妄業の闇忽[たちまち]に晴れ、籃[かご]の渡しに及ぶ。険難の三途大河を亘[わた]りて、現身[うつしみ]に於て直[ただち]に見仏聞法の仏土に至る。情有りて唱うべし。生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る。

 伊予国(河野氏)の信仰においては「度一切世間苦悩」、白山の信仰においては「瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」とあり、この神への信仰期待にはまったく異なるものがありません。
 こういった別格的神徳を抽出してみますと、十六王子神とはいうものの、瀬織津姫神が十六分の一の神にすぎないというのは方便の祭祀表示ではなかったかとおもわれてきます。少なくとも河野家の秘伝的家伝においては、十六分の一の神であったとは考えにくいです。
 略誌は、「愛媛県内には大山積神を主祭神とする神社に十六王子神を祭る神社が数多くある」としていて、たしかに、「大山積神を主祭神とする神社」に瀬織津姫神の名がみられる社が二社あります(祭神を十六王子神、十六皇子神と表示する社は除く)。このうちの一社を紹介します(引用は『愛媛県神社誌』)。

三島神社 旧郷社
  伊予郡双海町(現伊予市双海町)高岸一三二〇番地
〔主祭神〕 大山積神
〔配神〕 雷神、高靇神、少彦名命、猿田彦命、瀬織津姫神、高彦根神
〔境内神社〕 高岸神社(味鉏高彦根命)、出雲淡島神社(大国主命、少彦名命)、猿田彦神社(猿田彦命)、床浦神社(大地主神)、住吉神社(表筒男命、中筒男命、底筒男命)
〔例祭〕 一〇月二二日〔中略〕
〔特殊神事〕 一二月大祓祭
〔由緒沿革〕 元明天皇和銅五年八月勅詔により、神亀元年八月二二日越智郡大三島鎮座大山祇神社より勧請奉斎し、伊予一四郷各郡の一宮の一に列せられ、由並郷八ヵ村の大氏神である。〔中略〕
 明治五年一月郷社に列格。

 宮司氏に確認したところ、瀬織津姫神は古くからまつられているが、その勧請経緯ははっきりしないとのことです。したがって、十六王子神としてまつられたものとは断定しかねますが、ここに瀬織津姫神が単独で配祀されていることは大きな意味があるようにおもいます。
 略誌は、十六王子の勧請社の一例として、河野氏ゆかりの高縄山を社号としてもつ高縄神社をも挙げていましたが、同社の主祭神は大山積神とされます。高縄山の山頂近くには高縄寺が現存し、同寺は高縄神社の神宮寺・別当寺で、本尊は十一面千手観音です。大山積神の本地仏は大通智勝仏でしたから、高縄寺が千手観音をあえて本尊としていることが示唆すること、これも多大です。なぜなら、十六王子神のなかで、十一面千手観音を本地仏とする神は、さしあたり、瀬織津姫神をおいてほかにはないと考えられるからです。越智─河野氏の信仰の要諦神を、こういった神仏習合の姿にも「読む」ことができます。

大山祇神社境内社・十七神社の早瀬神

更新日:2010/11/8(月) 午前 5:08

 氏子衆によって「瀬織津姫命」をまつると主張されていたにもかかわらず、明治期になると、明治天皇の「勅命」の名のもとに、祭神が「大山津見神」ほか二神と表示されることになったのが北海道苫小牧市の樽前山神社です(詳細は『円空と瀬織津姫』上巻)。
 こういった強引としかいいようのない祭祀を展開して、なお自省することのない神社神道の世界ですが、ここに体よく利用表示された「大山津見神」をまつる総本社が愛媛県大三島に鎮座する大山祇神社です。樽前山神社を念頭において大山祇神社の祭祀をみますと、かつての摂社(現在は末社)の一つに、瀬織津姫神をまつる早瀬神社の名がみられ、どうやら大山祇神社と瀬織津姫祭祀は無縁というわけではないことがわかります。樽前山神社は、類縁の神をもって祭神変更された可能性があります。
 なお、大山津見神」は『古事記』による神名表記ですが、大山祇神社においては「当社では神社名に大山祇、祭神名に大山積をあて祇と積を書き分けている」としていますので(『大三島詣で』大山祇神社々務所)、以下、ここでもそれに従って表記することにします。
 全国に一万余社の分社をもつとされる総本社・大山祇神社ですが、その祭祀概要・歴史は一般にあまり知られていないようにおもいます。『大三島詣で』は、そのあたりのことを手際よくまとめていますので、まずは入口ということで、関係記事を読んでみます。

伊豫一の宮 大山祇[おおやまづみ]神社
御祭神 大山積神[おおやまづみのかみ] 一座
 瀬戸内海のほぼ中央、芸予諸島の中心をなす大三島は、平成十一年五月全通した愛媛県今治市と広島県尾道市の間を十本の橋で結ぶ「せとうち・しまなみ海道」拠点の島であり、瀬戸内海国立公園のなかでも景勝の地として知られる。
 大山祇神社は島の西側宮浦に位置し、国指定天然記念物楠群に覆はれた境内に鎮座している。
『三島宮御鎮座本縁』によれば、はじめ島の東側にあたる瀬戸にまつられたが、のち現在の大三島町宮浦字榊山一番耕地に大宝元年から霊亀二年まで首尾十六年をかけて大造営をなし、養老三年四月二十二日正遷座が行なはれたと記されている。
 天孫瓊々杵尊の皇妃として迎えられた木花開耶姫命の父にあたる大山積神は、皇室第一の外戚として日本の建国に大功をあらはし、全国津々浦々にその分社が祀られている。大正四年十一月十日、四国唯一の国幣大社に昇格するのも右の由緒によるものである。
 古来日本総鎮守として尊称せられ、三蹟の一人藤原佐理が、日本総鎮守大山積大明神と揮毫奉納した神額は、国の重要文化財に指定され大切に保存されている。
 伊予風土記に「御島[みしま]に坐す。神の名は大山積……」と見える当社は、延喜式神名帳にも大山積神社と記されるが、土地の人々は三島明神、また大三島さんと呼んで崇め、記録にも残されている。
 古事記に「山の神、名は大山津見神」とあり、日本書紀には「山の神等を山祇[やまづみ]と号す」と、そして伊予風土記に「大山積の神、一名[またのな]を和多志[わたし]の大神」とあって、山神である一方海神・渡航神としての神徳を兼備、鉱山・林業は無論のこと農業神として、さらに瀬戸内海を航海する人々の篤い信仰をあつめてきた。
 悠久の歴史にあって、七十五代崇徳院に雷神と高靇神が増祀されたことがあるが、やがて康治元年八月下津社が、久安三年六月上津社が創建されると、上津社に雷神が、下津社に高靇神が遷されて本社は大山積神一座の元姿になる。尚、これ以降本社・上津社・下津社の三社をもって汎く大山祇神社と崇めまつる信仰となり今日に及んでいる。
 現今、官国幣社の制は廃せられたが、全国一〇、三二六社の大山積神をまつる総本社として、日本一の甲冑・刀剣を所蔵する神社として、四季を通じ多数の崇敬者、拝観者が訪れる。





 大山祇神社の現行祭祀の起源として、「大宝元年から霊亀二年まで首尾十六年をかけて大造営をなし、養老三年四月二十二日正遷座が行なはれた」とあります。ただし、大山祇神社には元の祭祀場があり、そこから「正遷座」されたものとのことで、この草創については、「はじめ島の東側にあたる瀬戸にまつられた」とあります。
 大三島における大山積神の草創の祭祀場についてはあらためてふれますが、大宝元年(七〇一)から造営をはじめ、新社殿は霊亀二年(七一六)に完成するも、その三年後の養老三年(七一九)に元社地から「正遷座」がなされ、現在につづく大山祇神社の祭祀が成立したという経緯をまず押さえておこうとおもいます。
 この新社殿の祭祀がはじまるのは養老三年四月二十二日とありますが、『大三島詣で』によれば、「養老三年(七一九)四月鎮斎」の由緒をもつ境内社に「祓殿神社」があります。本殿祭祀と同時に創建された祓殿神社が明記されているのは貴重な記録というべきです。
 祓殿神社は現在、「伊豫国総社」と「葛城神社」との三社合祭殿として一宇にまつられていますが、大山祇神社は、この祓殿神社の祭神を「大禍津日神・大直日神・伊豆能売神・速佐須良姫神」としています(葛城神社祭神は一言主神)。大祓祝詞に出てくる速佐須良姫神を表示するも、同祝詞の最初に出てくる瀬織津姫神を祭神表示していないことには、やはり注意がいきます。ここには、瀬織津姫神を単純に大祓神(祓戸大神)としないという大山祇神社の小さな抵抗の意志が認められるようです。
 では、瀬織津姫神はどこにまつられているのかとなりますが、それは同じ境内社でも「十七神社」内の早瀬神社においてです。
 十七神社は、文字通り十七の神社の合祭殿で、『大三島詣で』は、次のように説明しています。

 宝亀十年(七七九)越智七島の浦処々に鎮祭したが、その地隔絶して風雨の時祭祀調はず、正安四年(一三〇二)二月遙拝十六社を諸山積神社と相並べ合せて一棟とした。神社古図に「一の王子、十六王子」とある。合計十七の神社に二十一体の木彫御神像をまつるもので、うち十七体は平安初期の神像として、国の重要文化財に指定されている。
 保延元年(一一三五)大山積大神の本地仏として大通智勝仏がまつられてから百六十余年後の正安四年、大通智勝仏の十六人の王子になぞらえた十六社が本社境内にあつめられる頃には、河野家を中心とする大通智勝仏の信仰、そして十六王子神の信仰が愛媛県下各地にひろめられていったと考えられる。

 一社(諸山積神社)と十六の各神社が合祭されて十七神社と呼ばれているわけですが、神仏習合時代には「一の王子、十六王子」とみなされていたように、早瀬神社(瀬織津姫神)は「十六王子」の一社(一神)でした。また、大山祇神社本社に対しては、宝亀十年(七七九)に越智七島にまつられた「遙拝十六社」の一社でもあったようです。
 煩雑となりますので「遙拝十六社」の全社名と祭神名をここに列記することは控えますが、瀬織津姫神が大山積大神の本地仏・大通智勝仏の十六王子と習合していたことは興味深いです。『大三島詣で』からみえてくる瀬織津姫祭祀は以上かとおもいます。
 ところで「河野家を中心とする大通智勝仏の信仰、そして十六王子神の信仰」とある「河野家」ですが、河野氏の前は越智氏(さらなる元は「小千」と表記)でした。大宝時代の新殿の造営に関わる、大山積大神の祭祀氏族として、この小千=越智氏はあります。
 明応八年(一四九九)に成る『水里玄義』は、河野教通の主命によって家臣の土井美作守通安が河野家の秘伝的家伝をまとめたとされる書ですが(伊予史談会編『予章記・水里玄義』所収)、ここに、河野家が十六王子神をどうとらえていたかがうかがえる記述があります(原文は漢文、伊予史談会による訓読文を引用)。

それ越智姓は、三島大明神を以て氏神となす。越智郡三島の額に曰く、日本総鎮守正一位大山積大明神と。本地は大通智勝仏なり。仏説に、大通智勝仏に十六王子有り、云々と(法華化城喩品)。故に当社に十六王子有るは本地の意に適[かな]へるか。よりて元祖を以て三島の霊となし、小千[おち]御子より玉興に至る十六代、十六王子に準してこれを立つ。蓋し伊与皇子の別伝なり。玉興より上代を以て天祖と称するはなお天神七代と云ふかことし。

 ここには、越智玉興より以前の十六代を十六王子に重ねていることが書かれています。玉興とその子の玉澄(玉純とも)が、大宝元年からの社殿造営に関わっています。
『予章記・水里玄義』の編者は、「河野通清・通信父子の活躍した平安時代末期以前の記述については、荒唐無稽の記事が多く、そのまま史実として信頼できない」、「純正な史書ではないから、その取扱いには十分な注意をしなければならない」と、取り扱い注意を喚起しています。そのことを承知の上で、別の箇所における、次のような記述にはやはり注目せざるをえません。

饒速日の後胤小市[ママ]田来津[おちたきつ]、天智天皇の二年癸亥御宇、太[ママ]唐百済を攻む。田来津を将軍として百済に向かはしめ、ここに於て卒す(私[ママ] 田来津は守興の事か。予、和漢の年表を考ふるに、天智二年、日本、百済を救ひて太唐と戦ひしことを録せり)。

 まさに史実を仮装した「荒唐無稽の記事」の一つといえますが、ここで興味深いのは、「饒速日の後胤小市田来津[おちたきつ]」なる名を登場させていることです。『水里玄義』の原編者(「予」)によって「田来津は守興の事か」とまっとうな疑問が呈されていますが、ちなみに、守興は玉興の祖父にあたり、先の家伝に照らせば十六王子の一王子神に相当します。
 この「おちたきつ」という名は、河野家の家伝でも特に秘伝部分に関わるものとおもわれ、しかも洒落的表現となっています。この奇妙な名の小千=越智氏は、いうまでもなく、大祓祝詞の文言「高山・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比咩といふ神」にみられる「落ちたぎつ」を意識してのものでしょう。「速川の瀬」は「早瀬」のことで、この社名でまつられているのが瀬織津姫神ですから、越智氏=河野氏は、この神を自らの祖神に忍ばせていたことになります。秘伝の妙というべきでしょう。

▼十七神社

龍蛇の沈黙──大山祇神社へ

更新日:2010/11/3(水) 午前 10:10

 泰澄によって白山の比咩神が十一面観音に置き換えられたのは養老元年(七一七)のことでしたが、その同じ年に創建されたのが八幡浜・八幡神社でした。同社は八幡大神[ヤハタノオホカミ]をまつることにおいて宇佐神宮より先行するとしていて、その経緯として「御分霊奉迎使」が豊後水道を渡って当社へやってきて、大神の分霊を奉じて帰っていった云々、つまり、宇佐神宮の「本源」祭祀を自社由緒において語りつづけています。
 このあたりの分霊経緯をもう少し具体的にみますと、「(御分霊奉迎使は)再び豊後水道を渡り帰りて大分県奈多浜に御上陸、景勝の地を求めて、豊後、日向、肥後の各地を巡幸される事八年、最後に現在の大分県宇佐市亀山の聖地に、聖武天皇の神亀二年(七二五)、御鎮座になられたのが旧官幣大社宇佐神宮の起源」と書かれ、宇佐神宮における八幡大神の創祀が八幡浜・八幡神社のそれに遅れることを主張しています(「総鎮守八幡神社御由緒記」)。
 豊後水道を渡って奈多浜に上陸した八幡大神の九州各地の「巡幸」は「八年」に及ぶもので、最終的に宇佐の「亀山の聖地」(現鎮座地)に落ち着くのは神亀二年(七二五)のこととあります。神亀二年から八年さかのぼると養老元年(七一七)ですから、八幡浜・八幡神社における八幡大神の創祀とほぼ同時に「御分霊奉迎使」がやってきたことがわかります。
 以上は、八幡神社の正規由緒によるものですが、宇佐神宮側は現行の自社由緒で、この「御分霊奉迎使」のことについては一切ふれておらず、ここには、八幡大神の創祀を考える上で、とても重要な問題が横たわっていることを告げています。
 八幡神社の正規由緒ではふれられていませんが、『八幡浜市誌』は、八幡浜という地名誕生とも関わる、八幡大神の出現と創祀について、次のような異説を紹介しています。

 一説には、養老元年に、千丈川の川すその洲崎の干潟に毎夜のように霊光を放つものを漁師が見つけ、引き潮の際に行って見ると八幡様のご神像であった。これを祭ったのが須崎八幡(昭和通り)であるといわれている。

 千丈川は瀬織津姫ゆかりの「千丈鳴滝」を源流滝とみなす川名ですが、この川の河口の干潟に出現した謎の「八幡様」が応神八幡であるはずはありません。養老元年の時点ですから、ましてや、応神の母・神功皇后であることはさらにありません。
 この須崎八幡は、八幡浜・八幡神社の実質的元社とみられますが、八幡浜に漂着した「八幡様」は、いったいどこからやってきたのかという問いが浮かびます。
 八幡大神の創祀において、宇佐神宮に先行することを告げる八幡浜・八幡神社ですが、宇佐神宮の勅使派遣の記録(「歴代宇佐使」…『神道大系』神社編四七所収)を読みますと、その最初に「元明天皇和銅五年、始メテ八幡大神ヲ奉祀ス」とあります。『宇佐神宮史』(史料篇巻一、宇佐神宮庁発行)にしても、同じく和銅五年のこととして、「是歳豊前国宇佐郡に鷹居社を造り、八幡大神を祀る」としていて、和銅五年(七一二)に、宇佐の地で新たに「八幡大神」のまつりがはじまったという理解ができそうです。
 この八幡大神の創祀は勅使派遣のもとになされていますから、これは官命・勅命によるものです。ここで想像しうるのは、この新祭祀をそのまま受容できないとする宇佐の先住神(を奉斎する者)もいたはずだということです。そのことと、八幡浜への「八幡様」の漂着的出現は関係があるようにおもわれます。この仮説的想像を是としますと、「御分霊奉迎使」は、当地に新たに八幡大神の「分霊」をいただきにやってきたというよりも、宇佐の地からいなくなった「八幡様」を呼び戻すために「迎え」にやってきたということになります。宇佐の地には、すでに和銅五年に八幡大神の創祀がありますから、八幡浜からわざわざ「分霊」する必要はないはずです。
 さて、八幡浜から出発した「御分霊奉迎使」は奈多浜に上陸したとありますが、この浜に八幡大神をまつる奈多宮(八幡奈多宮)があります。


 奈多宮の境内案内によれば、ここに応神八幡がまつられるのは天平神護元年(七六五)のことで、案内はつづけて、「応神天皇は、伊予国宇和郡より奈多の浜に御着岸、御滞在の上、ここより宇佐の地へ向かわれる」と記しています。養老元年の時点、八幡浜からここへ奉戴されてきた八幡大神とはいったい何だったのかという問いがあらためて浮かびます。
 奈多宮の案内は、応神八幡創祀の前に、自社を「比売大神発祥の地」としていて、この主張を重視するならば、八幡浜に最初に示現した「八幡様」は、どうやら八幡比売大神のことであったとなりそうです。『東国東郡誌』(明治四十四年)収録の奈多宮由緒には、応神八幡の事蹟として「比売大神ノ古例ニ倣タマヒ此地ニ着岸マシマシテ」云々の文言もみられ、この「比売大神ノ古例」とは、半世紀ほど前の養老元年における八幡浜からの八幡大神「着岸」を指しているとおもわれます。
 それにしても、奈多宮の「比売大神発祥の地」という表現は少し理解に苦しみますが、これは、正確には「比売大神という抽象神名発祥の地」という意味なのでしょう。このように理解しないと、たとえば宇佐の大元山における比売大神の祭祀の古さと、奈多宮のそれとどっちが先行して古いのかといった混乱する問いが生じかねません。比売大神という抽象神名の背後に、具象の神(の名)があることを忘れてはならないとおもいます。
 七世紀末に伊勢に皇祖神祭祀が立ち上げられたことで、日本の神まつりは、途方もない変質・変動の時代を迎えます。大宝元年(七〇一)に律令が整備されたことも大きな契機で、さらに和銅五年(七一二)の『古事記』、養老四年(七二〇)の『日本書紀』の成書も大変動の契機をつくったはずです。天皇を中心とした律令統治を国内に及ぼそうとする朝廷にとって、神宮(皇祖神)祭祀と記紀神話に抵触する各地の神まつりは許容できるはずもなく、これらは官命・勅命のもとに大きく変わることを余儀なくされます。朝廷内で、この官命・勅命の非文的執行に深く関わっていた人物として、藤原不比等という希有の政治策略家はいるといえます。
 朝廷の律令支配は、ときに軍事的威嚇のもとに進められたはずで、それは各地の祭祀支配・服属の強制をも伴うものでした。これは、朝廷に対する各地豪族の服属の意を端的に証すことでもありましたから、先住の神々からすれば、理不尽以外の何物でもなかったでしょう。「鬼」や「大蛇」は生まれるべくして生まれたといえます。
 白山の比売神(比咩神)は、十一面観音の姿となる前は、九頭龍という龍神の姿で泰澄の前に出現したとは、白山の根本縁起が語ることですが、龍神は「八幡様」にもいわれていることです。『宇佐神宮由緒記』(宇佐神宮庁)は、次のように記しています。

 八幡さまは、奥宮の大元山にも、摂社薦社の三隅の池、菱形池の畔[ほとり]の霊水のわく処にも、各地の馬蹄石[ばていせき](影向石)上にもあらわれたと伝えられている。したがつて田や畑の神とも、龍神などとも申されているので、単に応神天皇の聖徳だけをたたえ祭つた神社でないことは、ハツキリ言える。

 ここで語られている「八幡さま」とは比売大神のことです。由緒記は、別の箇所では「池や霊泉に神があらわるることは、八幡さまの神威の重大な面」といい、あるいは、欽明天皇二十九年(五六九)のこととして、「菱形池のほとりの泉のわく処に、鍛冶をする老人や、八つの頭のある龍があらわれて、この姿をみた者は忽ち病気になつたり、死んだりした」と書いています。このように、「水」と関わり深い「八幡さま」としての比売大神には、水神的性格、龍神的性格が顕著に伝承されているといえます。
 宇佐神宮自身、この比売大神の創祀をどうとらえているのかについて、由緒記は、次のように記しています。

社伝では、天照大御神と素戔嗚尊のウケヒによつてあらわれ、素戔嗚尊の劍を物実[ものざね]とした、三柱の比売大神で、筑紫の宇佐島に天降つた神とされている。宇佐の国造らが、奥宮の大元山を中心として祭つたものと伝えられている。そして八幡さまのあらわれる以前の古い神様、地主神であるとされている。



 記紀神話にみられる「天照大御神と素戔嗚尊のウケヒ」、この誓約[うけひ]によって誕生した「三柱の比売大神」をもって八幡比売大神と総称しているようです。記紀神話に準拠して自社祭神の由緒を語らざるをえないところに、宇佐氏の忸怩たる歴史の思いを読み取る必要があろうかとおもいますが、由緒はつづけて、古来、宇佐氏が奥宮・大元山を中心にまつっていた比売大神は、「八幡さまのあらわれる以前の古い神様、地主神である」としていて、先験的八幡祭祀への亀裂のことばも付加しています。ただし、このように書かれるとき、ここでの「八幡さま」は比売大神のことではありませんから、「八幡さま」という語が多義的不可解性を抱えていることをあらためて感じさせます。
 ところで、由緒記は別の箇所でも、比売大神を「宇佐の地主の神」「新たにあらわれた八幡さまに対して、昔からおいでになつた神」と繰り返していて、新たな八幡祭祀「八幡さま」に対して先住神とみなすように、宇佐の地主神であることを強調しています。
 神亀二年(七二五)、現在につづく八幡祭祀がはじまるのは、宇佐の亀山(菱形山・小椋山の異称をもつ)においてですが、宇佐神宮上宮から菱形池へと降りる途中に、その名も亀山神社がまつられています。由緒記は、「亀山の地主の大山祇神をまつる亀山神社(末社)」とさりげなく記すのみですが、比売大神が宇佐の地主神であることをおもえば、宇佐(亀山)に別の地主神・大山祇神が存在していることは奇異というしかありません。
 宇佐(亀山)には二柱の地主神がいることになりますが、さらなる奇異をいえば、「宇佐八幡宮縁起」(前掲『神道大系』所収)は、「北辰殿事」の項で「当山(亀山)先住之神、本地無双之誓也」と書いていて、第三の地主神の存在を告げていることです。比売大神・大山祇神・北辰神という三様の地主神が語られるところに、八幡祭祀の大きな謎があるといわねばなりませんが、北辰神については、比売大神をまつる第二殿の脇殿としてまつられ、いわば、比売大神の眷属神的関係づけがなされています。
 問題は大山祇神(境内看板の表示は「大山積命」)でしょうか。
 大山祇神(大山積命)をまつる本社は、瀬戸内海・芸予諸島の一つである大三島に鎮座する大山祇神社です。境内には「十七神社」という長屋ふうの社殿があり、ここに鳴滝の神でもある瀬織津姫神がまつられています。大山祇神社創建にあたっては、大三島にも大蛇放逐の伝説があり、龍蛇の沈黙のことばに、もう少し耳を澄ましてみる必要がありそうです。

龍神と瀬織津姫神【補遺】──大蛇の言い分

更新日:2010/10/29(金) 午前 9:27


▲守護神(画:階玲子)

 古来、川は一つの生命体のようにみられていて、洪水による生活被害から、この川は「暴れ川」だといった表現で語られてきました。この「川が暴れる」といったとらえ方には、川は「生き物」で、その生き物が「暴れる」という心的論理が働いています。川は、一方で生活の富をもたらしますが、一方では洪水に象徴されるように生活を破壊しますから、こういった禍福対極の表情・性格をもっているのが川の実相といえます。
 神を決定的に相対化した概念に「自然」がありますが、これは近代以降のとらえ方といってよく、それ以前は、川には川神・水神がいて、特に洪水破壊をもたらす川神は悪神とみなされ、その悪神を呼ぶにあたっては、神以前の「生き物」というおもいもあったのでしょう、また、蛇[じゃ]は邪[じゃ]に通ずということもあったかもしれませんが、邪神の意を含めて「大蛇」と命名したようです。
 瀬織津姫という神をどうとらえるかは、それぞれの立場や思想信条によって極端に異なり、ときに善神・悪神の対極イメージで語られます。ただ、庶民の生活感覚からいえば、雨乞いや洪水鎮護といった「水」に関わる神徳を多く指摘できます。わたしは、水源神・滝神といった見方をしていますが、これにしても「水」の神徳の範囲内の見方です。
 瀬織津姫神は、神道世界では大祓神(神道用語では「祓戸大神」)とみなされるのが一般ですが、瀬織津姫神を祓神とする日本最古の祝詞(大祓詞、『延喜式』収録では「六月晦大祓」)が創作された神社が佐久奈度神社です(滋賀県大津市大石)。この大祓にしても「水」と切れるものでないことは、佐久奈度神社の由緒記の、次のような瀬織津姫に関する紹介文を読めばわかります。

 神道の最高祝詞である『大祓詞』には「高山の末短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売という神、大海原に持ち出でなむ」とあります。勢いよく流れ下る川の力によって人々や社会の罪穢れを大海原に押し流してしまう、川に宿る大自然神であることがわかります。

 瀬織津姫を大祓神(当初は天皇・朝廷国家のための大祓神)としてまつる佐久奈度神社においてさえ、瀬織津姫は「川に宿る大自然神」というもう一つの理解が示されています。
 川の悪神・邪神の汚名を一身に負う「大蛇」ですが、八岐大蛇神話にみられるように、スサノオ(王権の祭祀思想を体現する)によって一方的に殺害されるだけが大蛇ではあるまいという想いを抱くのは、たぶん、わたしだけではないとおもいます。
 大蛇と龍神と瀬織津姫──、三者が一つの世界で語られている貴重な民話がありますので紹介します(丹南ライオンズクラブ編『たんなんの民話と伝説』篠山市HP)。

丹波の人取川
 むかし、篠山川には橋もなく、水が浅いので舟を渡すこともできず、少し長雨が続いて水が出るとでき死する者がふしぎに多いので「丹波の人取川」といって、旅人や土地の人々が恐れていました。
 中でも、大山の一の瀬や岡屋のわたり瀬を越す旅人は、ここを非常に恐れ、無事に渡った時は、かならず国許へその事を知らす程でした。
「この川にはきっと主神が住んでいるにちがいない。」
と思った氷上郡のある商人が、なんとかこの難を救おうと大願を起こし、生駒山の歓喜天を信仰して一心においのりをしていましたら、ちょうど、十年目のある夜、夢に一匹の大蛇が現れて言いました。
「わしは、篠山川に棲んでいる主神である。お前の信心の功徳によって心を改め、今から天上して自天竜となろう。わかれにのぞんで、身の上を話そう――。わしは、はじめ畑の三岳に棲んでいたが、そこに役の行者がまつられたので、のがれて藤岡の東窟寺の岩屋へ移ったところが、またもや、十一面観世音がまつられたので、仕方なく次は八幡淵に下って水中に棲み、東古佐の戎が淵、川北の孫兵衛が淵から、上は野間の弁天が淵まで五箇所をすみ家と定め、悪神となって、毎年洪水には大きななまずや鯉やうなぎとなり、あるいは杉の丸太となって、多くの人身御供を取ってきたが、今からは瀬織津比売となり、水難者は一人もないようにするし雨ごいの願いもきこう。これから十年間に、五箇所の淵は埋没するであろう。」
といって姿を消しました。
 すると、ふしぎにも、それから五年目に一番深かった八幡淵が河原となり、その他の淵もおいおい埋没していきました。
 また、それから、水死者は一人もでなくなったし、かんばつ続きでたいへんみんなが困った年などは、雨乞いの祈祷をしたら、たちまち雷鳴がとどろき、大雨が降ったといいます。
 今も、一の瀬やわたり瀬には「川越安全」としるした石碑が残っていますし、京都の伏見東谷壺の滝には、「自天竜大神」をまつったお堂があるという話です。

 読み手の関心の数だけ、さまざまな読み方が可能な民話です。それにしても、大蛇が語る「身の上話」は切々としています。
 生駒山の歓喜天を信仰する「氷上郡のある商人」の夢に現れた大蛇は、商人の信心深さに「心を改め、今から天上して自天竜となろう」と述べ、それまでの身の上話を語ります。曰く、大蛇はもともと山(畑の三岳)に住んでいたが、そこに「役の行者」がまつられるといられなくなり、修験の霊地(藤岡の東窟寺の岩屋)に移るも、今度はそこに「十一面観世音」がまつられたため、山の住み場所を失い、ついには「仕方なく」、篠山川の「主神[ぬしがみ]」となって、悪さを働いたといいます。大蛇は自ら「悪神」を改めて「今からは瀬織津比売となり、水難者は一人もないようにするし雨ごいの願いもきこう」と、善神(瀬織津比売)となることを誓います。
 山神(山の主神)・川神(川の主神)を兼ねる大蛇は、仏教世界に対しては「自天竜」という龍神となり、神道世界に対しては水難除けと雨乞いの神である「瀬織津比売」になるという二様の変化[へんげ]を語っています。篠山川の「八幡淵」「戎が淵」「弁天が淵」は、神仏習合世界を象徴しているとも読め、そういった世界にも大蛇は安住できなかったようです。
 八幡浜の龍王伝説は、安住の地を失った「滝の姫」「滝の精霊」、つまり、瀬織津姫の流浪・変身譚を基調に構成されていました。この丹波民話を、瀬織津姫の視点で読み替えますと、この神は、大蛇・龍神の変化身をもっていることがわかりますし、その神徳の一つ「雨乞い」に注目するならば、八幡浜の伝説でも同じ神徳が語られていたことが印象深いです。
 篠山川の大蛇は、改心して「自天竜」という龍神になると述べられていましたが、龍は必ずしも善神であるとは限らないらしく、悪龍(大龍)の民話も『たんなんの民話と伝説』には収録されています。

竜を退治した話
 昔、むかし、おおむかし。多紀郡がまだ一面に水をたたえて、大きな湖だったころのことです。
 湖の底に一匹の大きな竜が棲んでいました。この竜がたびたび出てきて、人の命をとるので、大変困っていました。ある日、とても力の強い神様が、この大きな竜の頭をねらって、たった一矢で殺してしまわれました。
 湖水は、竜の血で真っ赤になりましたが、それからだんだん水がへってしまって、みんな安心して住めるようになったということです。
 この大竜というのは、実は、多紀郡の真ん中を東から西に流れる篠山川の形を竜にたとえていったことで、その頭が川代の大滝の所にあたるのです。
 神様が、川代に矢を射たということは、水を落とすために、川代を掘り割る大工事が行われたことをいったのです。その大工事によって湖水が一ぺんにひいて、真ん中に篠山川が残りました。つまり、竜が姿をあらわしたのです。

 民話の後半では、「人の命をとる」とされた「大竜」への近代的解釈がさらに民話化されるという構成をとっていて、民話の祖型の余韻をいささか殺[そ]いでいる印象を受けます。民話の創作構成の完成度の高さは「丹波の人取川」に及ぶものではありませんが、仮に、人に危害をあたえた「大竜」が大蛇として民話化されていたとしても、話の本筋は成り立つだろうとおもいます。
 龍と大蛇の境界線が曖昧になっていることから、この民話の成立時間は新しいと考えられますが、龍(悪龍)よりも上位の存在として「とても力の強い神様」を登場させていることが、この民話の祖型中の祖型的伝承を表しているのでしょう。
 ところで、古代中国においては、皇帝は龍の加護がなければ皇帝位を維持できないという考えがありました。古代日本の王権(大和王権)は、国内統治のために中国から律令制を輸入・導入しましたが、皇帝(天皇)を守護する龍の思想は無視あるいは忌避したようで、それが記紀神話に龍・龍神を登場させなかった理由の一つかとおもいます。もっとも、八岐大蛇から神剣を簒奪し、それを「三種の神器」の一つとして仮構していましたから、厳密には、草薙剣に龍の加護の思想は暗黙裡に宿っているとはいえるかもしれません。
 また、日本の古代王権が龍・龍神を忌避する理由については、別の角度からいうこともできます。それは、皇祖神(アマテラス)の創作・立ち上げが、海人族の信奉する神、つまり、龍・龍神とも習合する神々の神格・神名の収奪と、その水神神名の消去の上になされたものだということです。そこには、王権の祭祀思想の先住神に対する劣性的負い目が付着していますし、その負い目の意識が記紀神話において龍・龍神の忌避を演じている理由でもありましょう。伊勢神宮の神が皇祖神(アマテラス)であるにもかかわらず、後世にまで「蛇」の伝承を遺していたこと、これも「なにごとか」です。
 伊予国・八幡浜の秘境といってよい千丈鳴滝からはじまる龍神・龍王伝説ですが、そこに、伊勢の先住神(の一神)、あるいは、倭国海民が奉じていたであろう大いなる水霊神の名が刻印されていたことは大きな魅力です。八幡浜の伝説に丹波の大蛇民話を重ねてみますと、この大いなる水霊神は、王権の祭祀思想による悪神(禍津日神)規定とは対極の「善神」であることが浮き立ってきます。古代海民の裔であろう列島庶民の信仰というものに、あらためて想いがいくようです。

▼対岸(須崎観音)から地之大島(地大島)・三王島・大島を望む(手前右の小島は貝付小島)

龍神と瀬織津姫神【Ⅲ】──八幡浜・鳴滝神社の祭祀

更新日:2010/10/27(水) 午前 0:54


▲貝付小島

 地之大島(地大島)の東端には、へその緒のような砂洲でつながっている小島があります。名は貝付小島といいます。この小島を対岸(三瓶町・四国本土)から望見しますと、そこには白い灯台が設置されていて、もし灯台がなければ、たしかに夜の闇の海では、この小島は航海するに危険な障害物と化すにちがいありません。日中の景観美は、夜には危険な表情に一変するとおもわれます。
 龍王神社は龍王池にまつられるのが本社としますと、この小島を正面に見据えるところに小さな分社が勧請されていて、地之大島(地大島)には龍王神社が二社あるということになります。大島の全体を歩けばまだあるのかもしれませんが、龍王神が航海の守護神とみられているのは、この分社勧請によく表れているといってよいでしょう。
 龍神・龍王と変化[へんげ]した「鳴滝の精霊」(滝姫)こと瀬織津姫神でした。八幡浜の龍神・龍王伝説からみえてくるのは、龍王神社の祭神が「闇御津羽神」と現行表示される不自然さです。このクラミヅハノカミという神名は、谷の水神・蛇神といった意味を表すもので、瀬織津姫という滝神の近似的な性格を表してはいるものの、龍王神社に龍神以外で祭神表示するならば、やはり瀬織津姫神がもっとも適切でしょう。
 また、大島の最古社である三王(山王)神社の主祭神とされる三女神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)とも深く関わる瀬織津姫神です。しかし、大島の龍神伝説は、八幡浜のそれとは異なって、「鳴滝の精霊」神を忘却したかたちで語られてきたことが示すように、瀬織津姫という神名を島内に正確に伝えてこなかったことが考えられます。それでも断簡の記憶に基づいたものでしょう、三王神社石碑には「瀬理姫神」の名が刻まれていました。
 日本の神まつりにおいて、最良質の秘神として瀬織津姫という神(の名)はあります。伝説とはいえ、この神の名を伝えてきた八幡浜の信仰土壌は軽視できないものがあります。八幡浜の龍王伝説は、瀬織津姫神の祭祀空間として、千丈鳴滝あるいは鳴滝神社の存在を教えてくれています。
 ただし、『八幡浜市誌』は、山王神社や龍王神社の記事は載せても、鳴滝神社のそれを紹介しておらず、関係記事は、次の一つに限られるようです。

松柏[まつかや]神社(松柏野中)
主祭神 龍神・瀬織津媛・伊邪那岐命・伊邪那美命・闇靇神・句句廼馳命・保食神・田心姫命・湍津姫命・市杵嶋姫命・天忍穂耳尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野橡日命
例 祭 四月一九日
建造物 本殿・拝殿・鳥居・狛犬・灯籠
由緒・沿革 一九一〇(明治四三)年四月八日に、千丈村の鳴滝神社(松尾)、白王神社(松柏)、貴船神社(松柏)、榎田神社(古谷)、八王子神社(松柏)を合併、翌年の一九一一(明治四四)年五月二〇日に鳴滝神社へ他の四社を奉遷して松柏神社と改称した。

 市誌の記事からは各社の「由緒」は不明であるものの、松柏神社成立の「沿革」だけはわかります。それにしても、明治期末の神社合祀の猛威は全国的なもので、八幡浜も例外ではなかったことがよく伝わってきます。しかし、この短い沿革記事からみえてくることが、少なくとも二つはあるようです。
 一つは、鳴滝神社祭神として、「龍神・瀬織津媛」があるらしいこと、もう一つは、「鳴滝神社へ他の四社を奉遷」とあるように、この地区の中心社・重要社として鳴滝神社はあったということです。
 市誌は、鳴滝神社に各社を合祀し、社号を松柏神社と改めたと書いていましたので、その松柏神社を訪ねてみました。ここから少しミステリアスな話となりますが、当該地区には松柏神社はみあたらず、土地の人に尋ねても、そんな神社は聞いたことがないという答えばかりです。消えた(?)松柏神社を探し出すために半日近く時間をとられましたが、結論からいえば、松柏神社の社号表示はどこにもないものの、鳴滝神社に「奉遷」されたはずの白王神社が松柏神社のことでした。
 市誌の記載はあくまで登録上のことだったようで、現地には、合祀されたはずの白王神社や貴船神社は健在で(ほかは未確認)、鳴滝神社も同じくでした。鳴滝神社には、そのご神体というべき「千丈鳴滝」という滝がありますから、こちらは行方知れずということはありません。
 千丈もあろうかというかつての滝は林道によって分断されてしまいましたが、しかし、この林道のおかげで、神社近くまで車で行くことができます。ただし、林道を車で登ってゆくにしてもかなりで、神社は想像以上に高いところにまつられています。つまり、滝の落ち口(銚子口)近くに社殿が建立されていて、林道がなければ、ここは秘境の滝、あるいは秘境の神社だったといえます。
「八幡浜龍神」の発祥地は、人里から隔絶したような山奥(の滝)にあります。市誌からは鳴滝神社の由緒はみえませんでしたが、『愛媛県神社誌』の松柏神社の項に、次のように記されています。

鳴滝神社
 夜昼峠は夜昼を辨ぜぬ森林で老松繁茂し、その麓を松尾と呼び、山中に飛瀑がある。瀑水は千丈の上から落下し瀑渕となってその深さ幾十尋か知れず、瀑音は破鐘の響をもって数十町に聞え、鳴瀧と名付けられている。深渕に洞穴があり、此の瀑渕に雌雄の大蛇が棲み人畜を害したので、八幡宮の神主清家平太夫の祈禱で、大蛇は真穴村の大島の池に去り、清家平太夫は蛇霊に、後年瀬織津姫神を合祀して鳴禱明神と称え、産土神として奉斎した。真穴村の大島の池には、大蛇の子孫今も存在すると云う。

 由緒内容は戦前に書かれたものという印象を受けますが、往時、鳴滝が尋常ならざる滝であったことが活写されています。
 それにしても、神社側(神道)が作成する由緒においては、そこに「大蛇」は登場しても「龍神」が語られることはないようです。「大島の池」へと放逐されたのはあくまで「大蛇」だと語られます。しかし、現地の池畔には龍王神社が、あるいは龍神・龍王が人々の信仰の対象となっています。これは、八幡浜の龍神伝説にみられる保安寺の存在、つまり、仏教側の大蛇解釈が優先されて人々に受容されていることを示しています。
 由緒には、「瀑渕に雌雄の大蛇が棲み人畜を害した」とあります。大蛇が破壊・悪のイメージで語られるのは、記紀神話の八岐大蛇を濫觴とみてよいですが、この悪イメージは、先住神の「荒ぶる心」を神話的に表現したものでしょうし、現象的あるいは象徴的には「洪水」イメージが付着しています。
 鳴滝の大蛇の大島への放逐は「八幡宮の神主清家平太夫の祈禱」によるものでした。神主はさらに、「蛇霊」に瀬織津姫神を「合祀」して産土神と崇めたとあります。これは、瀬織津姫神によって大蛇(先住神)の荒ぶる心を鎮めたということでしょうが、わたしがここで感心するのは、八幡宮の神主は、神道世界では禁忌[タブー]の筆頭神ともいえる瀬織津姫という神をよくここにまつったなということです。
 瀬織津姫をまつることで、先住神あるいは大蛇の荒ぶる心はなぜ鎮まるのか──。こういった問い立てをしてみますと、日本の大蛇伝説のルーツともいえる出雲の八岐大蛇と瀬織津姫神が深く関わっていたことが想起されてもきます。あくまで討伐すべき対象として大蛇を描くことはしても、決して龍神を登場させなかった記紀神話でした。神話上、スサノオによって討伐された八岐大蛇の尾から取り出された神剣(のちの草薙剣、三種の神器の一つ)に憑依する神として、天照大神荒魂こと瀬織津姫神はありました。この神剣をまつる熱田神宮の禁足地(本殿斜め背後)に、この神が今も秘祭されていることはなにごとかです(詳細は『円空と瀬織津姫』下巻)。
 出雲においては、斐伊川源流部の船通山・鳥上滝の滝壺が八岐大蛇の棲家とされ、これは鳴滝も同様です。鳴滝の「雌雄の大蛇」は大島へ去ったと書かれていましたが、同島の三王神社には、大物主神という男系の蛇体神(日神)がまつられています。
 八幡浜の龍王伝説は、女系の蛇体神(月神・水神に相当)を龍神・龍王へと昇華させ、明治期以降は龍王神社の「神」となります。
「八幡浜龍神」の伝説発祥地とされる鳴滝神社ですが、市誌や神社誌によれば、同社の筆頭祭神は「龍神」で、この龍神と習合あるいは「合祀」された神として瀬織津姫神の名があります。仏教の守護神といった神格にこだわらなければ、龍神もれっきとした「神」ということなのでしょう。
 伝説が語るように、瀬織津姫は「滝の姫」(滝の精霊)の意をもつ神名で、この滝姫・滝神といった神格は三王神社主祭神の三女神の一神・湍津姫のものでもあります。実際、湍津姫の代わりに瀬織津姫の名で三女神をまつる神社祭祀も各地にみられ、この三女神は八幡祭祀においては比売大神と同体とされますから、八幡宮神主が、自社祭祀に瀬織津姫神が深く関わっていることを知らなかったはずはありません。
 鳴滝神社の由緒文は短いものですが、しかし紙背から、鳴滝の滝神として瀬織津姫神をここにあえてまつった、当時の八幡宮神主・清家平太夫の勇気と良心は読み取ることができます。
 この清家神主が代々奉仕する八幡神社ですが、その創祀は養老元年(七一七)とされます。同社境内の石碑「八幡濱地名由来記」は、「当神社ノ御祭神ハ八幡大神(ヤハタノオホカミ)ナリ」と、応神八幡[はちまん]の祭祀が展開する前の呼称を唱っています。また、由緒記(「総鎮守八幡神社御由緒記」)は、宇佐神宮は当社の分霊をまつるもので、「宇佐神宮の御本源」として当社があることを複数の史料とともに明かしています。宇佐神宮の前に、「八幡大神」の本源祭祀に関わっていた清家神主家でした。
『愛媛県神社誌』は、八幡神社の境内社に龍王神社があることを記載しています。しかし、その祭神は「龍神・罔象女神」とされ、かつての清家神主がもっていた認識・見識は、鳴滝神社(の由緒)に残存するのみのようです。
 大分県中津市の闇無浜神社は、豊日別宮・龍王宮・太神龍宮などの異称をもっています。同社主祭神の瀬織津姫神について、社伝は「中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍[たいしんりゆう]と称し奉るなり」と、瀬織津姫神の顕現の姿を「白龍」とし、ゆえに「太神龍」(大いなる神龍・龍神)と尊称するとしています。
 水と龍が合体して「瀧」の字は構成されていますが、滝神である瀬織津姫神が「龍」の姿で顕現することは、もっと積極的に認めてよいのかもしれません。八幡浜の龍王伝説に敬意を表したくおもいます。