閑話休題──隠居ということ

更新日:2011/2/11(金) 午前 11:32


▲あっという間に雪の花

 ブログ「千時千一夜」は今日二月十一日で満二歳となり、読者にはあらためてお礼申し上げます。
 この連休は全国的に雪模様らしく、今、これを名古屋の倉庫事務所で書いているのですが、朝から大粒の雪が降りだしていて、三十分も経たないうちに、一面が「白」の世界となってきました。
 二月十一日は、戦前は紀元節、戦後は建国記念日とされますが、この日は、かつて(平安時代)に宮中でおこなわれた園韓神祭とゆかり深い日でもあります。園韓神社は『延喜式』神名帳に「宮内省坐神三座 並名神大 月次新嘗」と記され、これら異国の神をそれなりに大切にしていたようです。
 現在、園神社は大物主神、韓神社は大己貴命、少彦名命をまつるとされますが、こういった神名による祭祀をまともに信じている人はいないでしょう。
 金達寿『古代朝鮮と日本文化』は、日本の神社文化のルーツは新羅にあることを説得的に述べています。また、新羅の原号は「ソ」で、としますと、園神は「ソ(新羅)の神」ということになります。
 園韓神とは何かについては諸説あって、ここで祭神論議をするつもりはありませんが、ただ宮中の神楽歌に、「三島木綿[ゆふ] 肩にかけ われ韓神[からかみ]の 韓招[お]ぎせむや 韓招ぎせむや」などとあり、この「三島木綿」の「三島」が、ここのところこだわっている三嶋明神(∴大山祇神・大山積神)と関係しているようです。
 また、勅撰和歌集『後拾遺和歌集』少将内侍の、次のような歌もあることを、自分の覚えとして記しておきます。

ちかきだにきかぬみそぎをなにかその から神までは遠く祈らん

 倉庫事務所の土地の整理ともからみますが、今考えている個人的なことは、積極的な「隠居」ということです。あるいは、隠居的旅暮らしは可能かということでしょうか。西行や芭蕉が好きで、そろそろ自分も好きにさせてもらおうかというところです。どこからか、今までもじゅうぶんに好き勝手やっているのに…といった声も聞こえないわけではありませんが。
 瀬織津姫という神の祭祀を考えるにあたって、自分のなかでまだ解けていない最終的な問いは二つかとおもっています。一つは、表層からは消えているにしても、この神の祭祀が列島の広範囲にみられるのはなぜかということ、もう一つは、この神の創祀起源の上限はいつかということです。これらは、縄文時代からあったはずの水神信仰、その消えた系譜を多少なりとも復元する課題とも関わっているとおもわれますが、いずれにしても「旅」のなかで考えてみたいということです。
 ところで、あまり長い話になると、ヤフーブログでは限界があるようです。また、ほかにも、ネット世界そのものがもっている危うさも一方にみえてきましたから、ブログはブログと割り切ることも必要なのかもしれません。三年めの入口で、そのあたりの勘所が少しつかめてきたかなといったところです。

求菩提山・岩岳川の守護神──鬼の供養のために

更新日:2011/2/5(土) 午前 0:18

 渡邊晴見『豊前地方誌』(葦書房)には「岩岳川は豊前市の母なる川」とあり、求菩提[くぼて]山を信仰的な源流山とする岩岳川は、当地において特別視されているようです。重松敏美『豊刕求菩提山修験文化攷』(豊前市教育委員会)は、
 水は、山に湧き、里に流れて、人々の生活があった。山は、水の神であるわけである。里に流れれば田の神である。〔中略〕
 現在、豊前市に流れている川を岩岳川と呼んでいる。本来、水源は犬ヶ岳であるが、これを犬ヶ岳川と言わない。岩岳川の呼び名は、求菩提山から起こっている。求菩提山名は、寺号の上につく山号の名前であって、求菩提山のことを地形名では、岩岳山と古くよんでいる。岩岳川の名はここから発している。

 現在は地形山名として求菩提山が定着していますが、もとは「岩岳山」で、この山を源流山とするゆえに「岩岳川」の名があるとのことです。
 求菩提山頂は文字通り「岩」がごろごろしていて、なかでも、冬でも雪が積もらない霊石は白山権現の影向石ともいわれ、しかも、この霊石の割れ目の奥には地熱がこもっていて、冬には水蒸気の噴出がみられるとのことです。


▲求菩提山頂の霊石

 この山頂の霊石の割れ目の奥底に、岩岳川の水源中の水源があるようです。求菩提山には五つの窟がありますが、なかでも水源の窟とみなされているのが第二窟の普賢窟です。『文化攷』は、次のように書いています。

 岩壁に神仏を現[うつ]したものの中に、普賢窟がある。多聞窟もそうであるが、この普賢窟のことを、三昧耶形[さんまやぎょう]とある。その意は他の器物で仏を象徴するかたちをいい、女陰の形をする岩壁の亀裂をさし、聖体化している。これを胎蔵窟ともいっている。
 この亀裂の中に地下水が湧き、流れている。眼には見えないが、その音は不可思議かのように響き、これを普賢三昧耶の梵音と称している。
 岩岳川の水の源はここにあって、水分神を祀ってあった。江戸期まで盛んに水神祭が行なわれている。

 普賢窟(胎蔵窟)の「亀裂の中に地下水が湧き、流れている。眼には見えないが、その音は不可思議かのように響き、これを普賢三昧耶の梵音と称している」とあり、岩岳川の水源がまさに「神妙」の音[ね]とともに語られています。普賢窟には「水分神」がまつられていたとあり、ここでは、その水神(水分神)の名は語られていませんけれども、ここには「岩瀧宮」がまつられていました。『文化攷』は、明治期初頭の文献から、次のように神の名を明かしていました。

岩瀧宮  瀬織津姫命

 求菩提山頂・白山権現の足下に、「瀬織津姫命」という白山祭祀の本源神の名がみられるというのは、実に貴重です。宮号に「岩瀧」とあるように、この神は滝の神でもあります。普賢窟の地下水が湧出して岩肌をやわらかに流れている様を「普賢の滝」と呼んでいますが、これもまた岩岳川の水源の滝です。


▲普賢の滝

 犬ヶ岳の霊神は「鬼神」とみなされていましたが、これは、天皇を中心とする律令的国家構想と連動している伊勢の皇祖神祭祀を相対化する神でもあったからです。まさに「王政復古」的に近代天皇制を国家構想の基本に置いて動き出した明治政府(の神祇思想)が、そういった「鬼神」祭祀を容認するはずもなく、明治十三年二月に成る「神社明細書」からは、「瀬織津姫命」の名は消えることになります(『文化攷』)。
 しかし、「鬼神」規定は中央の祭祀思想による一方的なもので、求菩提山・犬ヶ岳を「水神」が住まう山として信仰してきた山麓の民の生活感覚からすれば、この神による水の守護を願う信仰の方がはるかに普遍的といえるはずです。
 かつての筑前・豊前国を中心に、おびただしい数の貴船神社の祭祀がみられますが、これは、岩岳川流域においても例外ではありませんでした。宗像大神も、それと同体の八幡比売大神も、その水神的神徳を自然に発現するような祭祀は封じられていて、その代替のように勧請されたのが貴船神社かとおもわれます。求菩提山の場合、その修験的性格から白山権現を山頂に勧請しましたが、これは国家鎮護を標榜するもので、白山神の水神的神徳は、一社の例外はあるものの、広く岩岳川流域には還元されなかったようです。
 明治四十三年、岩岳川流域の貴船神社五社を合祀したのが石清水八幡神社ですが(豊前市の「白籏之森鎮座」…社頭の石碑)、このうち、大字広瀬に鎮座していた貴船神社に、岩岳川の水源神の名がみられます。『築上郡史』下巻は、「諸社祭祀に云」として、次のような所伝を記しています。

貴船社祭所、瀬織津姫、高靇、素盞嗚尊也 一、瀬織津姫神は古時日向小戸原より御影向也、高靇、素盞嗚命者人王五十九代宇多天皇丁巳歳在神託同殿合祭也






▲石清水八幡神社

 貴船神の古祭祀として瀬織津姫神の名がみられます。貴船神社の祭神は、現在、一般的にはタカオカミ・クラオカミといった名で語られることが圧倒的に多いです。しかし、石清水八幡神社のほかにも、たとえば、宗像大神の祭祀者である宗像大宮司が、かつて自身の守護神として私祭していた貴船神にも瀬織津姫神の名がみられますから、この神を古層あるいは本来の貴船神とみることに不都合なことはありません。
 明治期以降、求菩提山の表層祭祀からは消えた岩岳川の水源神の名を、貴船神として現在にまで伝えつづけている石清水八幡神社の存在は特記に値します。その気骨ある祭祀思想が見え隠れしているのは、当地がなるほど「鬼の里」(『豊前地方誌』)であったことを告げてもいるようです。
 ところで、岩岳川流域には「鬼木」という地名があります。ここは、広瀬の隣地区になるようですが、この「鬼木」という名は、犬ヶ岳の「鬼」に由来するもののようです。現地の案内板には、次のように書かれています。

楠にまつわる伝説
 昔、犬ヶ岳に棲む鬼が度々ふもとに降りてきて村人を苦しめていた。そこで求菩提の権現様が、鬼に、「求菩提の中宮から上宮へ登る道に一〇〇〇段の石段を、一夜のうちに積むことが出来たら犬ヶ岳に住むことを許すが、出来なければ追い出す」と。鬼はいわれた通り石積みを始めたが、なにしろ怪力の鬼の事、夜明けまでに完成しそうな勢いである。許せばまた村人を苦しめる事を知っている権現様は、一計を案じ、鶏をまねてばち傘を叩き、高らかに鳴いた。九九九段まで積み終えていた鬼は、朝が来たと思って一目散に海に向かって走った。途中鬼木のこの大楠にとりすがり「もう駄目だ」と大粒の涙を流して泣いたという。
 それ以後、この楠に今のような木瘤[きこぶ]ができるようになり、村人たちはこの老木を鬼木と呼ぶようになった。鬼はそのあと、ふらふらと椎田の海岸まで歩き、鬼塚という島に辿り着いたところで息が絶え、頭はこの島に、胴体は求菩提に埋められた。この島はその後、満潮には浮島となり、干潮には砂州となって水没することがなかった。しかし、昭和三〇年代の干拓事業で、陸地になってしまったが、形は当時のまま保存されている。


▲求菩提山の鬼の石段

 ここで伝説的に語られている鬼が、定型通りに「村人を苦しめていた」とされるも、けっして性根が悪鬼でなかったことに注意する必要があります。「求菩提の権現様」とは白山権現のことですが、鬼は犬ヶ岳霊神の眷属といった関係にありましょう。鬼の石段積みと、その断念の話は全国各地にみられるものですが、山に住めなくなった豊前の鬼は「大楠」にとりすがって「大粒の涙を流して泣いた」とされます。


▲木瘤のある鬼木

 鬼が最終的に息絶えたところは、椎田の海岸にある「鬼塚という島」「浮島」とされていて、この浮島は、犬ヶ岳霊神ゆかりの島ですし、求菩提山の縁起では白山権現が初めて出現した島でもありました。鬼は、母なる神ゆかりの島で息絶えたことになり、おもえば、鬼は、この母なる神ゆかりの岩岳川を下るように山を下りてきたのでした。
 鬼は、岩岳川沿いの「大楠」に、その足跡をのこしていて、なぜ「大楠」なのかという問いも生じてきます。ここで想起されるのが、瀬戸内海・大三島の大山祇神社における大楠伝承、つまり、大三島の水霊神は大楠に宿るという信仰があったことです。犬ヶ岳の山霊神は沈黙の水霊神でもありましたから、この神が宿る大楠に鬼がとりすがって泣いたというのは、大三島と同質の大楠伝承があったからだろうと想像されもします。
 この大楠ゆかりの神社が初河瀬神社で、これも明治期、貴船神社と同様に石清水八幡神社に合祀されています。『築上郡史』が記す由緒を、少し読みづらいところもありますが、書き出してみます。

元鬼木村社 初河瀬神社  
祭神 応神天皇、三女神、淀姫神、大国主神で字宮本に鎮座せしもの。
由緒 縁起に云「三女神、姫御神あがめ奉るは人皇三十代敏達天皇の御宇巳卯歳初瀬の辺に毎夜ひかりものし人おそれて行通う者なし、午未に当り岩崛の別当と云、八百歳の翁いかなる神のとがめかなと祈りしにふしぎなるかな一、七日のあけぼのに白旗四流ふり下り十歳斗の稚子とげんじ、我淀姫なりと御声を放ちけすが如くに失せ給う、即此神を祭る〔中略…このあと応神天皇の出現譚がはいる〕
宇佐より楠一本大神左近頭源治仲、中上坊衛林法師御供にて参る此時一の締鉾立と名付、村上に御休息若宮八幡宮とあがめ奉る、此木宮の内巳寅方に植神木と名付夫より翁岩屋にこもりすがたなし、庚寅六月二日此時より初河瀬三社八幡宮をあがめ奉る寅卯に当り広瀬と申五町ばかりの地八月十五日御幸、御祈禱有〔後略〕

 正確な解読が困難な箇所もありますが、縁起の最初部分を要約しますと──、「三女神、姫御神」をまつる当社(初河瀬神社)は、敏達天皇時代に「初瀬の辺」(岩岳川の辺)に毎夜光り物があり人は恐れて行き通う者がなかった、そのとき、「八百歳の翁」である「岩崛の別当」がどのような神のとがめ(祟り)かと神の出現を祈禱・祈念していると七日目の明け方に、「白旗四流」とともに十歳ばかりの稚子が現れ、「我は淀姫なり」と告げるとたちまち姿を消した、それで、この神をまつったのだ──。
 淀姫神と「三女神、姫御神」の関係が明瞭に語られていないうらみがありますが、縁起は、初河瀬神社の祭祀の中心に淀姫神がいることを告げています。その後、宇佐の「大神左近頭源治仲、中上坊衛林法師」がやってきて、神木の「楠一本」を植えて「若宮八幡宮」とし、さらに「初河瀬三社八幡宮」と称したようです。縁起は、のちに「鬼木」と称される大楠が、初河瀬神社の神木として、宇佐の神職たちによって植えられたものであることを語っています。
 初河瀬神社という社号は、淀姫神を河瀬神、つまり、川神・水神とみなしたことによるもので、当然ながら、岩岳川の水源神とは共通する性格をもっていたとみなせます。淀姫神の出現に、求菩提山の「岩崛の別当」が伝説的な媒介となっていたことも示唆的です。
 いや、もう少しはっきりいっておくならば、『築上郡史』の編者が指摘するように、淀姫神は豊姫神のことで、「肥前川上大明神」と同体です。『郡史』は、この指摘以上のことを書いていませんけれども、肥前国から川上大明神を勧請した、その名も川上神社(河上大明神)が紀伊国にあり(和歌山県田辺市上秋津)、同社主祭神は瀬織津姫神とされます。
 岩岳川流域にまつられる貴船神と初河瀬神、そして、水源の求菩提山普賢窟に、同じ神の名がみられることはきわめて重要です。今は語られる機会を逸しているにしても、瀬織津姫神は岩岳川の守護神でもあったとみてよかろうとおもいます。
 現在、鬼木(大楠)の近くに、つまり、初河瀬神社の旧社地には、八幡宮の刻碑の下に、向かって左に貴船神、右に初河瀬神の石祠が並んで建立されています。この石碑的祠は求菩提山・犬ヶ岳と対面するように建てられていて、それぞれの祠内には「貴船大明神」・「初河瀬八幡大神」と刻まれています。両神が岩岳川の水源神と関わるばかりでなく、八幡祭祀とも深く縁ある神であることを、静かに、しかし雄弁に語りかけているようです。


▲左:貴船大明神、右:初河瀬八幡大神

大山祇神社の神仏習合思想──大通智勝仏と十六王子

更新日:2011/1/25(火) 午後 3:54

 大山積神と同体と考えるのが自然であろう三嶋龍神の存在や、大山祇神社の元宮・横殿宮の水霊神・御手洗神としての大山積神をみますと、そこには、龍神かつ御手洗神でもあった瀬織津姫神、つまり、伊勢・神宮祭祀においては天照大神荒魂と仮称される絶対禁忌の神が秘められていた、あるいは「神神習合」されていたようです。
 大山積神を祖神と仰ぎまつる越智氏は物部氏であり、にもかかわらず、物部氏の祖神とされる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を、大三島あるいは大山祇神社の祭祀に読むことは、現在、事実上困難といえます。神宮祭祀とは別系のニギハヤヒという男系太陽神を消去することが越智氏の自由意志であったはずがなく、この太陽神と一対の月神でもあろう后神をまつることも自ら封じた越智氏でしたが、越智氏と同族の河野氏になると、その本拠地である風早郡で、この祖神祭祀をそれなりに展開していたことは特記に値します(国津比古命神社・櫛玉比売命神社)。
 また、河野氏は、風早郡において信仰霊山として仰いでいた高縄山の西麓に、小さな社ではあるものの「荒魂神社」をもまつっています。『愛媛県神社誌』は、同社祭神を「天照大神」としていますが、その社号が端的に語るように、正確な祭神名は「天照大神荒魂」、つまり、三嶋龍神でもあった瀬織津姫神を表しています。同社神紋は大山祇神社と同じで、越智─河野氏が、中央祭祀への順化・同化を全面的に受容していたわけではなかったことを告げてもいます。






▲荒魂神社

 越智─河野氏による、中央祭祀への抵抗は、高縄山という信仰霊山を中心とする風早郡の祭祀に顕著にみられますが、これは、越智郡大三島・大山祇神社本社においても別様に読み取ることは可能です。
 大山祇神社境内には、八世紀初頭、本社が横殿宮から遷宮すると同時にまつられた祓殿神社があります。同社は現在、「伊豫国総社」と「葛城神社」との三社合祭殿として一宇にまつられていますが、祓殿神社の祭神は「大禍津日神・大直日神・伊豆能売神・速佐須良姫神」とされ、他社一般からいえば、ここに瀬織津姫神を祓殿の神として表示してもおかしくはありませんでした(葛城神社祭神は一言主神)。大祓祝詞に出てくる速佐須良姫神を表示するも、同祝詞の最初に出てくる瀬織津姫神をあえて祭神表示していないことは示唆することが多いです。ここには、瀬織津姫神を単純に大祓神(祓戸大神)としないという大山祇神社の祭祀意志の痕跡があります。
 中央の祭祀思想からすれば、新たな本殿祭祀において、また境内社・祓殿神社においても、両方から伊勢の絶対禁忌の神の名が消えたことで、おそらく所期の「勅命」意図は実現されたはずです。しかし、越智氏は、大山祇神社本社においては、中央の祭祀思想を受容するも、本社と摂社あるいは末社関係にあった早瀬神社に、この伊勢の秘神の名を残していました。
 早瀬神社は、もともと越智七島の一島・津島にまつられていた社で、同社は現在、祓殿神社と対面する、もう一つの境内社・十七神社にまつられています。


▲津島


▲十七神社

 十七神社は、その名が示すように、十七の社の合祭殿ですが、そのうちの一社として早瀬神社があります。もう少し正確にいいますと、大山祇神社の周辺の島々には、衛星群のように摂社・末社が配されていて、そのうちの一社が早瀬神社です。ここでいう「早瀬」は、川の早瀬ではなく海の早瀬、つまり、潮流・瀬戸を意味していて、瀬織津姫神は瀬戸・海峡の守護神とみなされていたものとおもわれます。大山祇神社の元社・横殿宮が鼻刳瀬戸[はなぐりせと]の海浜にまつられていたこととも、当然ながら関係しているといえます。
 大山祇神社に神仏習合の思想が持ち込まれるのは平安時代末のことですが、本社の衛星群のように配されていた十六の摂社・末社も、本社とは一体のものという考えから、大山積神の本地仏は大通智勝仏とし、その十六王子を摂社・末社にあてはめることになります。この十六王子社を、諸山積神社(祭神:大山祇命・中山祇命・麓山祇命・正勝山祇命・志藝山祇命)とともに合祭したのが十七神社です。
 この十七神社という合祭殿が成立する過程については、『大三島詣で』は、次のように書いています。

 宝亀十年(七七九)越智七島の浦処々に鎮祭したが、その地隔絶して風雨の時祭祀調はず、正安四年(一三〇二)二月遙拝十六社を諸山積神社と相並べ合せて一棟とした。神社古図に「一の王子、十六王子」とある。

 この由緒記述を信用するならば、瀬織津姫神を含む十六社の創祀は奈良時代末の宝亀十年(七七九)となりますが、この神は大山祇神社の元宮祭祀に関わっていましたから、これは復活祭祀といえます。越智氏は、「越智七島」という北斗七星の「七」の思想に習合させて、瀬織津姫神をそこに紛れこませるようにして復活祭祀をはたしたものかもしれません(大山祇神社における妙見・北辰信仰についてはあらためてふれます)。
 さて、『大山祇神社略誌』は、大山積神の本地仏は大通智勝仏、この仏には、出家前に十六の王子があり、その十番めの王子が早瀬神社・瀬織津姫神に相当するとしています。さらにいえば、この十番めの王子は西方を守護する役目をもち、その仏徳は潮音山向雲寺「度一切世間苦悩」と、『仏教大辞典』を援用して説明しています。「度一切世間苦悩」は、一切の世間の苦悩を度す(救う)という意味で、ほかの十五王子とは別格の仏徳が語られています。
 白山信仰の秘伝書(『白山大鏡』…上村俊邦編  ところで、『大三島詣で』は、横殿宮(横殿神社)の項で、次のように書いています。

 潮音山向雲寺(上浦町瀬戸)の境内には横殿神社の祭神大山積神の本地仏である大通智勝仏の仏体御神像を安置する十劫山大通庵の御堂がある。

 東西南北四方八方を守護するとされる大通智勝仏ですが(『大山祇神社略誌』)、この仏(「仏体御神像」)の像容はあまり一般に知られることがありません。向雲寺境内の「十劫山大通庵の御堂」は、現地では「横殿大明神本地堂」と堂標に記されていて、ここには、大通智勝仏ばかりでなく、その王子とされる十六王子(如来)がまとめてまつられていて貴重です。


▲潮音山向雲寺


▲横殿大明神本地堂


▲堂標


▲横殿大明神本地堂の内景




▲十六王子(如来)【右】




▲十六王子(如来)【左】

 大三島において、瀬織津姫神の名をそのままに、唯一確認できるのが、十六王子の十番めにあたる早瀬神社で、この十番めの王子(如来)が瀬織津姫神の本地仏(「仏体御神像」)ということになります。
 十六王子の如来名称を記した説明紙には「苦悩如来」と簡略化して記されていますが、当該仏の台座部分には「第十西方 度一切世間苦悩如来」と書かれています。個人的な印象では、大山積神の本地仏とされる大通智勝仏に比して、仏像というよりもやはり神像に近い印象を受けます。さらに私感をいえば、大通智勝仏よりもよほどチャーミングでさえあります。はるか遠くにまで、おだやかな視線をはせているのも印象深いといえそうです。


▲大通智勝仏




▲瀬織津姫神の神像(度一切世間苦悩如来)

 大山積神の本地仏とされる大通智勝仏、その王子(子)の仏の一つを本地仏とするのが瀬織津姫神です。こういった親子関係を偽装した神仏習合思想にも、大山積神と瀬織津姫神がとても近しい関係にあったことが表れています。
 八世紀初頭、中央の祭祀思想(の強制)を受容した越智氏でしたが、その後の神仏習合の場面をみますと、大山積神が秘める三嶋龍神の本姿を捨てていなかったこと、このことだけは指摘しておきたくおもいます。

大三島・入日の滝──三嶋龍神の神徳【Ⅱ】

更新日:2011/1/15(土) 午前 11:19

 大楠と水霊神の関係にこだわってみるならば、同じく境内にある大楠「能因法師雨乞いの楠」をみるべきかもしれません。『略誌』は、次のように説明しています。

能因法師雨乞いの楠
 伊予守藤原範国の命により祈雨のため大三島へ詣でた能因法師が「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と詠じて幣を奉ったところ伊予国中に三日三晩降り続いた(金葉和歌集)という。宇迦神社前の古木がこれである。





 能因法師は、雨乞い祈願するにあたって、大山積神がまつられる本殿ではなく、この大楠に「幣を奉った」とあります。また、「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」にしても、本殿神ではなく大楠に宿る神への奉納歌でしたから、能因法師は、この大楠に、大三島の水霊神(雨を司る神)が宿ることを認識していたものとみられます。
『略誌』は、「宇迦神社前の古木がこれである」と書くのみで説明がありませんが、宇迦神は龍神で、ここに三嶋龍神の祭祀があるようです。『大三島詣で』は、この宇迦神社について、次のように書いています。

宇迦神社
鎮座地 本社境内(放生池の島)
祭 神 宇賀神
例祭日 三月十五日
 木造・素木・流れ造り・屋根銅板葺き。池をはさんで木造・素木・屋根銅板葺きの拝殿。現在の社殿は昭和五十七年十二月新築。
 例祭のほか、本社の例大祭にさきだち、旧暦四月十五日から二十一日までの七日間、大祭期間中の好天を祈る祈晴祭が、当日晴天のときには旧暦四月二十四日に祈晴奉賽祭が行なはれ、その神饌は放生池に投供される。
 古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社として信仰されており、雩の神事には安神山頂の龍神社にお籠りをし、つづいて宇迦神社の放生池(土地の人が、べだいけんと呼ぶ)をさらえ、境内で千人踊りをした。


▲放生池の中島にまつられる宇迦神社

 かつて、勅命によって旧社地(横殿宮)から新社地(現在地)へ遷宮するにあたって、先住の蛇神(大蛇)を放逐し、安神山の頂上に龍神(龍王)をまつった、また、この大蛇放逐を機に放生会をはじめたと書いていたのは『三島宮御鎮座本縁』です。この放生会開始には、当時の小千(越智)玉澄による、大三島の先住神に対する鎮魂の想いが込められていたことはいうまでもありません。
 その放生会ゆかりの池(放生池)の中島にまつられるのが宇迦神社ですが、これは、安神山頂の龍神社の里宮的境内社でしょう。雩[あまごい]の神事が、安神山頂の龍神社へのお籠もりから宇迦神社の放生池をさらう(掃除する)ことというように、一連の神事としてあることが、宇迦神社の性格をよく表しています。
 この宇迦神社は「古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社」とあります。『本縁』は、保延元年の「祈晴」に格別の神威を表したのは大山積神(大山祇神社本殿神)としていて、「古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神」は、宇迦神(三嶋龍神)か本殿の大山積神のどちらなのかといった根本的な問いを喚起させます。こういった自己矛盾を内胎したまま、あるいは口を閉ざしたまま、「日本総鎮守」、「四国唯一の国幣大社」(『大三島詣で』)などと自賛的に語るのが大山祇神社(の現在)です。
 もっとも、こういった矛盾する二重祭祀構造を抱えているのは、大山祇神社一社に限られるものではなく、その筆頭と濫觴を挙げれば、いうまでもなく皇祖神をまつる神宮(伊勢神宮)があります。神宮の祭祀思想(朝廷の祭祀思想)に準じた大山祇神社が、神宮の基層神・先住神と同体でもある三嶋龍神を祭祀の中心におかなかったこと、このことを、ここで機械的・短絡的に批判するつもりはありません。この程度の方便祭祀の受容は、その祭祀氏族である越智氏が生き延びるためには、必然の受容であっただろうと想像されるからです。
     *
 大三島の祭祀表層からは消えた三嶋龍神でしたが、この神は、大水上神社の伝承においては、滝宮神・滝神であるとの主張がなされていました。讃岐国では、その名も滝宮神社に、まさに滝神である瀬織津姫神の祭祀がみられますが(観音寺市大野原町井関)、この滝神を大三島に見いだすことは現在できません。
 大山祇神社の神仏習合時代、月光山神宮寺の最盛期には二十四坊があったとされます。『本縁』は、天正五年(一五七七)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったとしていて、早くに廃絶した坊が多かったことが記録されています。ちなみに、『大三島詣で』は、往時の二十四坊の名を、次のように記録しています。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊・瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊

 この中で、盛衰はあったものの、現在にまで法燈をつないでいるのは、今治市の南光坊(隣接して別宮大山祇神社〔地御前〕がある)と大三島の東円坊の二坊ですが、二十四坊のなかに「瀧本坊」があったことが、大三島におけるわずかな滝神祭祀の痕跡といえるかもしれません。
 瀧本坊は、熊野における那智大滝を統括していた坊名としてもあります。しかし、現在、この熊野・那智との関係を記した文書を拾いだすことはできません。したがって、以下は、わたしの想像ということになります。


▲安神山

 大山祇神社の神体山で、龍神社を山頂にまつる山が安神山ですが、この山は大山祇神社本殿およびかつての神宮寺(現在の祖霊社)の右後方に聳える山です。神社側からみて、この山の背後にある、もう一つの神体山・鷲ヶ頭山との間にあるのが、「入日の滝」です。瀧本坊は「滝」にちなむ坊名とみられ、大三島において、修行・信仰の対象となりうる滝は、この「入日の滝」をおいてほかにはありません。「入日の滝」は、大山祇神社のかつての神域内に存在していたはずで、現在、ここには無住の滝山寺(入日の滝寺)があり、その本尊は十一面観音とされます。滝山寺には古い供養塔などがみられ、その鎮守社は小さな祠であるものの、祠内には「出雲大社」の神札がみられます。









▲出雲大社(滝山寺境内)

 大山祇神社一の鳥居の横にある観光案内板は、この「入日の滝」について、「鷲ヶ頭山の山麓にあり、高さ一六m男瀧女瀧にわかれている。その飛沫が夕陽に映じて美観を呈する夢幻境で俗塵が洗われる。古くから蛍の名所として知られている」と書くのみで、滝山寺にしても入日の滝にしても、その歴史をたどることはできません。大山祇神社の現由緒書においても、この滝を解説したものはなく、大山祇神社は「入日の滝」とは無関係としたがっているようです。
 しかし、現地を訪ねてみれば瞭然なのですが、ここは観光案内が「俗塵が洗われる」と書くように、明らかに聖域・霊域です。「入日の滝」の滝神は、その本地仏を十一面観音とし、出雲大神を滝神と見立てているようです。この神仏習合関係は、熊野・那智と酷似しています。那智において、大滝の神(飛滝権現)の本地仏は十一面千手観音でしたし、熊野那智大社は、那智大滝の神を「大己貴命」、つまり、出雲大神としています。また、滝山寺の御詠歌には、「大三島西国第一番台[うてな]の瀧山」とあり、これは、熊野那智(那智山青岸渡寺)が西国三十三観音巡礼第一番札所であったことを擬したものでしょう。「入日の滝」の滝神が、熊野那智の滝姫神を投影させたものであることは明らかで、熊野那智の滝信仰が、大三島の「入日の滝」にはまるごと再現されているようです。




▲滝山寺本堂と御詠歌



▲滝山寺本尊

 三嶋龍神の「雨」を司る神格は大山祇神社境内の「宇迦神社」にみられ、三嶋龍神の滝宮神・滝神としての神格は「入日の滝」にあるとみられます。
 滝山寺は、かつての瀧本坊を再興したものだろうという仮説を、ここに記しておきます。
 この大三島の滝は、その命名を「飛沫が夕陽に映じて美観を呈する」ことに拠っているとのことです。ここで想起されるのは、『古事記』の天孫降臨段における、ニニギのことば──「此地[ここ](竺紫[つくし]の日向[ひむか]の高千穂[たかちほ]の久士布流多気[くじふるたけ]…引用者)は韓国[からくに]に向ひ、笠沙[かささ]の御前[みさき]に真来[まき]通りて、朝日の直刺[たださ]す国、夕日の日照[ほで]る国」でしょうか。『古事記』の表現にならえば、入日の滝は「夕日の日照[ほで]る」滝となります。「笠沙の御前」には、天孫に国譲りをすることになる「大山津見神」がいます。
 因果な話となってきました。わたしが訪ねたときは滝の水量はわずかでしたが、それでも、この「夕日の日照る」滝に、大三島の最重要な神の姿を投影させることはじゅうぶん以上に可能でした。


▲夕日の日照る滝──入日の滝

大三島・入日の滝──三嶋龍神の神徳【Ⅰ】

更新日:2011/1/14(金) 午前 10:13


▲入日の滝

 讃岐二宮・大水上神社の伝承は、三嶋龍神が「雨の神」(雨を司る神)であり滝宮神・滝神でもあることを伝えていました。このことを念頭において大三島にフィードバックしますと、どうしても気になってくるのが、大山祇神社の神体山である鷲ヶ頭山(四三七㍍)と安神山(二六四㍍)の間の滝山にある「入日の滝」です。ここには本尊を十一面観音とする滝山寺があります。話は仏のこととも関わりそうですので、先に、大山祇神社の神仏習合の経緯等を概覧しておきます。
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 大山祇神社に神宮寺ができるのは保延元年(一一三五)のことで、当初は「神供寺」の名でした。『大三島詣で』(大山祇神社々務所)は、「神宮(供)寺は四国霊場八十八ヶ寺の第五十五番札所・月光山神宮寺(他に今治市南光坊がある)として殷賑を極めた時代もあったが、明治元年の神仏分離令によって仏像・仏具その他全てが他所(東円坊…引用者)に移され」、寺は大山祇神社末社「祖霊社」になったと記しています。
 かつての神宮(供)寺の山号は「月光山」とのことで、この魅力ある山号の由来は語られていませんけれども、あるいは、寺の創建時の異様な天変と関わりがあるのかもしれません。
 大山祇神社の根本縁起書の一つ『三島宮御鎮座本縁』には、保延元年、天下はにわかに暗夜のごとくなり、日月の光を見ないこと三日におよび、虚空では軍陣の音が雷のごとくしたため、人民は、おおいに驚きおののいたとあります(筆者要約)。昼に日の光なく、夜にも月の光がない、しかも、空では軍陣の音が雷のように鳴り渡る、そんな日が三日つづいたという記録です。
 縁起書の記述ゆえ話半分に受け取るという読み方もないわけではありませんが、しかし、この天変は伊予国一国のことではなかった可能性があります。同年八月十二日には、朝廷は畿内の二十一社に「祈晴」のために奉幣していて(『中右記』…『日本文化総合年表』)、まさに「天下」に、雨に関わる天変・異変があったことは事実とみられるからです。このときの天変は、要するに、夜ばかりでなく日中を暗夜に変えるほどの尋常ならざる豪雨・雷雨がつづいたということのようです。
 この天変・異変に終止符を打ったのが大山積神でした。縁起の記述を要約しますと、この異変のとき、大山積神は、「吾は、諸々の大地祇(国津神々)を率いて、これ(天変・異変)を掃ひ除こう(祓おう)」と託宣しています。縁起は、この託宣から時をおかずに「快晴」となった、この大山積神の託宣・神威のため、遠近から当社へ参詣する人の数はおびただしく、それが数日つづいたとしています。
 大山積神の託宣が「快晴」をもたらしたことは、朝廷の「祈晴」に対応しています。縁起は、このように大山積神の神威の発現を語るわけですが、ここで注意しておきたいのは、朝廷が「祈晴」のために奉幣していたのは畿内の社々で、大山祇神社は、そこからははずれていたということです。
 縁起は、かくして伊予国の大山積神の神威が朝廷に知られるところとなり、朝廷は、藤原忠隆を勅使として派遣、報謝の「宣旨」によって、本宮および末社のすべてを新たに造営させたとしています。また、それだけではなく、本社に「雷神・高龗」を加えまつり、三社をもって「本社」とするようにという「宣旨」まであったとされます。現在みられる、本殿の三宮祭祀は、この宣旨(勅命)によるものであったことがわかるわけですが、縁起はさらに、この三宮祭祀がはじまるとき、国中の神社の傍らに「神供寺」を設けたとしています。
 この神供寺の建立について、縁起は、大山祇神社には、神供寺のほかに「一于の堂」を建て、そこに大通智勝仏(東西南北四方八方を守護するとされる仏)の像を安置し、大山積神の本地仏とした、また、摂社末社の本地仏も調え、それらを大通智勝仏の左右に並べ、この堂を「仏供院」とも「本寺堂」とも称した、これが大山祇神社の「神供寺」の初めである──、としています。
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 ここには山号のことは語られておらず、「月光山」という山号は後世の命名なのでしょう。ただし、三日にわたる暗夜を通常にもどした大山積神の神威は、暗夜に月光をとりもどした神威を表してもいて、それにちなんで「月光山」という山号がのちに付けられただろうことを想像しておきたくおもいます。
 朝廷が「祈晴」を期待した畿内の諸社に対して、その圏外の伊予国から自己存在をアピールするかたちとなった大山積神でした。大宝時代には、新造営の名のもとに朝廷の祭祀思想に準ずる新たな神まつりの実施を「勅命」していた朝廷でしたが、時代はすでに四百年も経っていて、いささか忘却の彼方にあったのが伊予国の大山積神でした。
 伊予国には(にも)おろそかにできない神がいることをあらためて知った朝廷の対応が、本宮・末社のすべての造営だけでなく、本社に「雷神・高龗」を加えまつることの宣旨(勅命)に表れています。縁起によれば、保延元年の天変は「雨」と「雷」という二つの現象によっていましたから、「雷神・高龗」の新祭祀が、これらに対応していたことがわかります。また、朝廷側には、『日本書紀』の次の異伝が念頭にあったことも確実でしょう。

一書(第七)に曰はく、伊弉諾尊、剣[つるぎ]を抜きて軻遇突智[かぐつち]を斬りて、三段[みきだ]に為[な]す。其[そ]の一段[ひときだ]は是[これ]雷神[いかづちのかみ]と為る。一段は是大山祇神[おほやまつみのかみ]と為る。一段は是高龗[たかおかみ]と為る。

 雷神・大山祇神・高龗神がセットで語られています。現在、大山祇神社本殿に向かって右に上津社、左に下津社をみますが、『大三島詣で』は、上津社には「大雷神。姫神」、下津社には「高龗神。姫神」をまつるとしています。これらは少し曖昧な祭神表記ですが、いわんとしているのは、上津社は「姫神である大雷神」、下津社は「姫神である高龗神」をまつるということです。
 当時、大山積神は「男神」とみなされていましたから、その神威を慰謝する意味もあって、左右に「姫神」を配したのでしょう。『三島宮御鎮座本縁』は、「雷神・高龗神ノ両社ヲ姫神ト祭ルコト当社ノ伝ニテ、内陣之事男子之ヲ勤メズ。太(大)祝始メ上官古老ノ妻女ヲ以テ、遷宮等ノ規式ヲ執成ス。平生ノ神事御戸開ニハ神女[ミコ]内陣ニ入リ、幣帛等ノ入替ヘ相勤ム」と、新たな姫神祭祀に女性をあてるなど、とても気をつかっていた様を伝えています。


▲上津社(上津宮)


▲下津社(下津宮)

 蛇足ながら、『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、昭和四十九年)は、上津社には大雷神ではなく「天照大神」、下津社には高龗神ではなく「火子神」をまつるとしています。「雷神・高龗神」はもともと別の「姫神」ではありませんが、そのうち(大)雷神を「天照大神」としていたのは興味深いことです。なぜなら、雷神の姿に化身して託宣する伝承をもっていたのは、内宮正殿の神(天照大神)ではなく荒祭宮の神ですから、正確には、雷神に相当する神は「天照大神荒魂」ということになります。
『愛媛県神社誌』の勇み足のような記述に対して、大山祇神社の現行由緒は一切無視するという姿勢をとっていますが、こういった付加祭祀の是非よりも、保延元年に、天変の災いを「祓う」神威を顕在化させた大山積神がいたことに、本稿の関心の中心があることはいうまでもありません。
 保延元年の天変時、大山積神の託宣は、「吾は、諸々の大地祇(国津神々)を率いて、これ(天変・異変)を掃ひ除こう(祓おう)」というものでした。ここは、国津神々を率いることができる神威をもった神、しかも、天変・異変の災いを祓うことができる神威をもった神として、大山積神の秘蔵部分の神徳が突出したものと読めます。
 このときの天変・異変の実態は、尋常ならざる豪雨・雷雨でしたから、ここで、大水上神社における三嶋龍神の「雨の神」という性格、つまり、雨を司るという神徳がリンクしてきます。さらにいえば、三嶋龍神は、世の災いを祓う最高位の神徳を有する瀬織津姫神の異称としてあったことも重ねることができます。越智郡(当時)の津島にまつられていた大山積神社が語っていたこと、つまり、大山積神と瀬織津姫神が「∴」(言い換え)の関係にあったことが、ここでも如実に表れていたといえましょう。
 瀬織津姫という神が、多くの災いを祓う神徳をもっていることを顕著に伝えていたのが、大分県中津市の闇無浜[くらなしはま]神社でした(『闇無浜神社─由緒と歴史』所収の古伝縁起「豊日別宮伝記」)。そのなかには、「雨の神」(雨を司る神)としての神徳も当然のごとくに語られていましたし、この神の尊称として「太神竜」(大いなる龍神)の名もありました。
 保延元年の神託時、ここでの大山積神は三嶋龍神(瀬織津姫神)と「=」(イコール)の関係にあったこと、これもほぼ断定できるものとおもわれます。
 ところで、大山祇神社境内には楠の巨木が散見されます。いちばん目立つのは「小千命御手植の楠」で、これは境内のほぼ中心に聳えています。『大山祇神社略誌』の説明を読んでみます。

小千命御手植の楠
 小千命は神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。
 この楠を歴史家奈良本辰哉(辰也…引用者)は「大三島の霊水の湧き出づる源」とし、小説家井伏鱒二はエッセー「大きな木」の中で日本一の大樹だと述べている。


▲小千(乎知)命御手植の楠

 歴史家・奈良本氏が、この大楠を「大三島の霊水の湧き出づる源」とみなしていたことは興味深いです。このことばの真意には説明がほしいところですが、あるいは、大山祇神社内には、大楠には大三島の水霊神が宿るという伝承があったものかもしれません。
(つづく)