秦氏と瀬織津姫祭祀

更新日:2010/12/8(水) 午後 11:47


▲鳥海山

 秦氏には、秦始皇帝を祖とする系と、徐福を祖とする系の二つがみられるも、前者には、秦氏本流の秦河勝を中祖としながら、始皇帝ではなく徐福を「竜祖」(始祖)と主張する長曾我部(長宗我部)氏がいます。これはほんの一例ですが、しかし、官製『新撰姓氏録』が語る始皇帝系秦氏の系譜は額面通りに受け取れないことを告げています。それと、秦河勝の名は出さないものの、秦徐福を祖とする「内伝」と、神饒速日命を祖とする「外伝」(『新撰姓氏録』)をともに語る越智─河野氏がいます。
 秦氏あるいは物部系氏族と瀬織津姫祭祀には、とても深いつながりがあります。このことの傍証として、複数の神社祭祀の事例を提出することができますが、それらが「傍証」以上でないのは、そこに、現在からはみえにくい「祭神差替」の問題(中央の祭祀思想にとっての必然的問題)が秘められているからです。しかし、同一的傍証が集積されて共通のベクトルがみられるとき、個々の事例はパーツ的な傍証でも、その集積の総体が指し示すことには大きな意味があります。
 せっかくの機会ですから、このパーツ的「傍証」事例をいくつかみてみます。
 大和岩雄『秦氏の研究』は、膨大な史料の紹介・読み込みをしながら、五世紀以降の渡来人としての朝鮮系(加羅・新羅系)秦氏と限定するも、秦氏の像をかなり説得的に提示している労作です。
 本書には「秦氏の祀る神社と神々」の章があり、香春神社・宇佐八幡宮・伏見稲荷大社・木島坐天照御魂神社・蚕養神社・松尾大社・白山神社など計十三の神社と関係社が取り上げられています。ここには大山祇神社は含まれていませんが、収録の神社と秦氏との抜き差しならぬ関係が考証されていて、なかには、瀬織津姫祭祀をつよく示唆する言及も散見されます。
 大和氏は、京都府向日市向日町北山に鎮座する向日[むこう]神社(『延喜式』神名帳では「向[むかへ]神社」と表記)の向日神について、次のように書いています。

「向日二所社御鎮座記」は、神社の裏の峰(八尋矛長尾岬)を「朝日の直刺[たださ]す地、夕日の日照[ほで]る地、天離[あまさか]る向津[むかつ]日山」と書き、(向日神は)この山に鎮座したと書いているが、『日本書紀』は神功皇后摂政前紀に、伊勢の度会の五十鈴宮の神を天疎向津媛[あまさかるむかつひめ]と書く。この神は、一般に天照大神の荒魂といわれているが、天照大神を『日本書紀』が「大日孁貴[おほひるめむち]」、『万葉集』が「天照日女[ひるめ]之命」と書くように、天照大神は向津媛が日神に成り上がったものである。

 引用の「向日二所社御鎮座記」は「元慶三年(八七九)、神祇官に提出された」もので、いわば公的な由緒書ですが、向日神が「天離る向津日山」に由来する神名であることを告げていて貴重です。向日神社の現在の由緒書は、向日神は御歳神のことと説明していますが、最古の由緒記の記述を尊重すべきでしょう。
 大和氏は、この「天離る向津日山」から「天疎向津媛」(『日本書紀』の表示は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」)を考え、この神は「天照大神の荒魂といわれている」と、瀬織津姫祭祀の世界に踏み込む一歩手前までは書いています。しかし、「天照大神は向津媛が日神に成り上がったもの」という解釈を添えるだけで、踵[きびす]を返すことになります。こういった「成り上がり」の言説は読み捨てるわけにいきません。もしこの語をつかうならば、ここは、「天照大神は向津媛の性格・神格を収奪して皇祖神・日神に成り上がったもの」というのが正確な言い方です。
 ところで、御鎮座記の「向日二所社」ですが、一社は向日神社、もう一社は乙訓坐火雷神社のことで、後社の火雷神は松尾大社の大山咋神のこととされます。『古事記』の大年神の神統譜は、大年神と天知加流美豆比売の子神として大山咋神の名を記していて、御歳神(御年神)については、大年神と香用比売の子神としています。向日神(天疎向津媛命=瀬織津姫神)を御歳神(御年神)に置き換えて、大年神の神統譜で語ろうとしているところに、秦氏とこの神の親縁性が表れています。
 大年神の祭祀は秦氏と深く関わっていて、それは、たとえば松尾大社の祭祀氏族として秦氏がいることにみられますし、『古事記』は、大年神と神活須毘神の子神として、大国御魂神・韓神・曽富理神・白日神・聖神といった神々の名を連ねています。秦氏ゆかりの新羅系の神々として、少なくとも、韓神・曽富理神・白日神・聖神の名はあります。
 大和氏は「向日神社の祭祀氏族は天照御魂神の火明命を祖とする六人部[むとべ]氏だが、当社の北隣を物集女[もづめ]といい、『和名抄』の山城国乙訓郡物集郷の地である。物集連は『新撰姓氏録』では秦氏系」、「この秦氏系氏族が、向日神社のすぐそばにいることは、無視できない」と、秦氏系氏族が向日神社の祭祀に関わっていることを、その氏族的観点から推定しています。「向日二所社」には秦氏がまつる神の社が含まれていますから、向日神(天疎向津媛命=瀬織津姫神)もまた、秦氏と無縁とみなすことはできませんし、物部系氏族といってよい尾張氏同族・六人部氏と秦氏の関係も同様です。
 なお、向日神が鎮座していた「天離る向津日山」は、「朝日の直刺[たださ]す地、夕日の日照[ほで]る地」と形容されていました。この形容句は、『古事記』の天孫降臨段における、「此地[ここ]は韓国[からくに]に向ひ、笠沙[かささ]の御前[みさき]に真来[まき]通りて、朝日の直刺[たださ]す国、夕日の日照[ほで]る国」に正確に対応しています。九世紀に神祇官に提出された「向日二所社御鎮座記」は、天孫(ニニギ)が降臨したとする記紀神話の地は、もともと「天離る向津日山」であったことを示唆してもいます。これは、日向国の地名譚にも関わってくるものでしょう。
 秦氏と瀬織津姫祭祀には深い関連があることを示す「傍証」はまだあります。たとえば、大和氏は次のように書いています。

 愛宕五坊の内の高尾山寺だが、愛宕山の開山について、愛宕神社の神宮寺白雲寺の縁起は、大宝年中(七〇一~七〇四)に役小角と雲遍上人が愛宕山に登り、禁裏に奏上して山嶺を開き、朝日峯に神廟を造立したのにはじまると書く。雲遍上人は白山開山の泰澄上人のことである。
 泰澄は秦氏出身であるが、泰澄(雲遍)開山の愛宕山を、「白山[はくさん]」というのは、山城秦氏の本拠地の木島神社(木島坐天照御魂神社)や広隆寺(太秦寺)のある太秦の西南(西北の誤記…引用者)に、この山はあり、秦氏の山岳信仰の対象になっていた聖山だからである。

 ここには、実に興味深いことが圧縮されて書かれています。曰く、愛宕山は「秦氏の山岳信仰の対象になっていた聖山」で、この山には「白山[はくさん]」の異称があること、また、愛宕山「開山」のあと、養老元年(七一七)、加賀・越前・美濃の境界山である白山の「開山」に関わる泰澄は「秦氏出身」である──。
 秦氏が「聖山」と仰ぐ愛宕山には愛宕神社の本社がありますが、全国的視野からいえば唯一の例外となるものの、東北の山深い里である遠野郷においては、戦前まで、愛宕神は瀬織津姫神と伝えられていました(『綾織村誌』)。
 また、泰澄は「鎮護国家法師」の名のもとに白山の本源神を十一面観音に置き換えて伏せるも、そこには、愛宕山と同じく瀬織津姫神がいました(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。
 秦氏と白山神祭祀が濃密な関係にあることについては、滋賀県の園城寺(三井寺)の鎮守神に三尾明神・新羅明神・白山明神がみられ、このうちの三尾明神に関する『寺門伝記補録』に決定的ともいえる記述があります(『秦氏の研究』所収)。

 三尾神、在於北道 現白山明神 彼此一体分身神也〔中略〕社司秦河勝之胤 有臣国ト云者 始任当社神職 自厥以来 秦氏連綿相継

 中世に成る『寺門伝記補録』ですが、三尾明神と白山明神は「一体分身神」とあり、いつのことかは不明であるものの、秦河勝の末裔「臣国」なる者が初めて神職となり、それ以来、秦氏が「連綿相継」いで神職をつとめているという内容です。
 大和氏は、秦氏の本拠地における祭祀社として木島神社(木島坐天照御魂神社)の名を挙げていましたが、同社は「蚕の社」と親称されています。これは、天照御魂神社と蚕養[こかい]神社が並んでまつられているからですが、秦氏のさまざまな殖産技術の一つに養蚕・機織があります。
 白山・愛宕山の表層祭祀からは消えていますが、瀬織津姫神もまた養蚕・機織の神であり、東北においてはオシラ神でもあったことは『エミシの国の女神』がすでに考証していることです。『秦氏の研究』は、オシラ神の研究者でもあったニコライ・ネフスキィによる柳田國男宛ての書簡を引用していて、そこにも、決定的なことが書かれています。

「東北地方のオシラ神はよく養蚕の神だと云はるゝ理由は、仰せの如く当地方では蚕の事をシロコとかシラコとか云ふ為でせう。米沢城三の郭の中の白子大明神之社、一名宮城子[みやきこ]、白子村の名有、宮城郷是也云々。白子大明神記因に云〔中略〕大物忌之神之社の垂跡なり。和同[ママ]年中、此御神之示現に依て、此地の桑林へ蚕を降らす。其白き事雪の降るがごとし。故に号て此地を白子村と云ふ、云々。右の神社の末社の中には子玉の社あり蚕神殿を祭ると云ふ(右は米沢里人談に依る)」

 白子大明神(オシラ神)の縁起書(「白子大明神記」)には、この神は「大物忌之神之社の垂跡」だとあります。米沢城の地の桑林へ蚕を雪のごとくに降らせたとされる大物忌神は、ニギハヤヒの降臨伝承をもつ出羽の鳥海山の主神です。この神が、奥羽山脈を越えた陸奥国(宮城県)側へやってくると、そこでは大物忌神の異称として瀬織津姫神の名が明かされることになります(『玉造郡誌』)。蛇足ながら、鳥海山においては、瀬織津姫神は現在、一之瀧神社・二之瀧神社に「滝神」としてまつられていることを添えておきます。


▲鳥海山一之瀧


▲鳥海山二之瀧

 以上は、氷山の一角のような事例ですが、秦氏の神まつりに、瀬織津姫神が深く内在されていただろうことは想像しうるものとおもいます。
 なお、瀬織津姫神は白山や伊勢の表層祭祀から姿を消しただけではありません。秦徐福と物部氏ゆかりの熊野の祭祀においても同じくです。新宮市の阿須賀神社の境内には徐福之宮がまつられていますが、その社号からすれば、この境内社の祭神は徐福だとだれもがおもうでしょう。しかし、『徐福の研究』(新宮市・徐福研究会)は、江戸時代の紀行集(『熊野巡覧記』寛政元年)を徐福関連史料として収録していて、そこには、次のように書かれています。

飛鳥神社 新宮巽方下馬より十六町側にあり、飛鳥一に作明日香、土俗飛鳥社と称す。
  飛鳥社   速玉男命、事解男命 合社
  並之宮   三荒神、日月星神荒魂を祭る。
  同河面之宮 秦徐福所祈之霊神


▲阿須賀神社

 現在、社号については、飛鳥神社は阿須賀神社、並之宮は稲荷神社、同(並之宮)河面之宮は徐福之宮と表示されていますが、興味深いのは、いうまでもなく「河面之宮」の祭神が「秦徐福所祈之霊神(秦徐福が祈る〔祈りまつる〕ところの霊神)」とされていることです。社号から想像するに、この「霊神」は熊野川(新宮川)とゆかり深い水霊神かとおもわれます。
 ここに記されている「秦徐福」は、紀元前三世紀に渡来した徐福のことではないでしょう。ただし、徐福は熊野の民に深く崇敬されていて、その徐福でさえも祈りまつるところの霊神が、ここにはまつられていると理解できます。つまり、熊野の民が深く祈るように信仰する霊神が河面之宮の神とみられます。しかし、『熊野巡覧記』の記録を最後に、この謎の霊神は、その行方が不明となります。熊野川(新宮川)の守護神であろう「河面之宮」の神は、現在、祭神・徐福の背後にいるということのようです。
 秦徐福と神饒速日命という二つの祖をもつ越智─河野氏です。越智氏は、秦氏かつ物部系氏族ですから、越智氏が代々奉仕してきた大山祇神社にも、秦氏ゆかりの神がいると考えるのが自然です。

越智氏と秦氏【Ⅱ】

更新日:2010/12/1(水) 午前 3:47

 大和岩雄『秦氏の研究』によれば、「太秦[うづまさ]」は「秦の族長を示す尊称」とのことで、としますと、弘仁時代、秦氏の主導的あるいは中心的氏族は「太秦公宿禰」ということになります。この秦氏は山城国葛野郡の「太秦」を本貫地としていました。太秦の秦氏で、史上よく知られるのは、聖徳太子の側近的な存在であった秦河勝[かわかつ]でしょうか。
 推古天皇十一年(六〇三)十一月、聖徳太子から「我、尊き仏像有[も]てり。誰か是の像を得て恭拝[ゐやびまつ]らむ」と聞かれ、「臣[やつかれ]、拝みまつらむ」と名乗りをあげたのが秦河勝でした。河勝は太子から拝領した仏像を本尊として蜂岡寺を造立したというのが『日本書紀』の記述です。この蜂岡寺は太秦寺ともいい、のちに広隆寺とも呼ばれることになりますが、同寺は本尊・弥勒菩薩半跏思惟像でつとに知られます。
 推古天皇十七年(六〇九)十月には、新羅からの使いを案内している河勝も記録されていますが、河勝が秦氏の長[おさ]的存在であったことをもっともよく伝えているのは、皇極天皇三年(六四四)七月条です。

 秋七月に、東国の不二河の辺[ほとり]の人大生部多[おほふべのおほ]、虫祭ることを村里の人に勧めて曰はく、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿[いのち]とを致す」といふ。巫覡[かむなき]等、遂に詐[あざむ]きて、神語[かむこと]に託[の]せて曰はく、「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少[わか]ゆ」といふ。〔中略〕都鄙[ひな]の人、常世の虫を取りて、清座[しきゐ]に置きて、歌ひ儛ひて、福[さいはひ]を求めて珍財[たから]を棄捨[す]つ。都[かつ]て益[ま]す所無くして、損[おと]り費[つひ]ゆること極て甚し。是[ここ]に、葛野[かどの]の秦造河勝、民の惑はさるるを悪[にく]みて、大生部多を打つ。其の巫覡等、恐りて勤め祭ることを休[や]む。時の人、便[すなは]ち歌を作りて曰はく、
  太秦[うつまさ]は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲[きた]ますも

 不二河(富士川)近くに住む大生部多からはじまった、利福と不老(若返り)に利益[りやく]あるという常世神・常世虫の信仰が、大いに民を惑わすものとなって都にまで波及してきたため、「葛野の秦造河勝」が、それを鎮めたという内容です。最後の歌謡にみられる「太秦」は河勝のことで、神のなかの神ともいわれる「常世の神」を懲らしめた太秦(秦河勝)は大したものだというのが歌意ですが、秦河勝が民からの信望を得ていたことを伝える歌とも読めます。
 この河勝の時代にあたる推古十六年(六〇八)、隋の煬帝[ようだい]は倭国に裴世清[はいせいせい]を派遣したのでしたが、『隋書』倭国伝は、その道筋(航路)の記録で、竹斯国(筑紫国)の東に「秦王国」があり、「其の人華夏に同じ」と書いています。「華夏」は中華・中夏・中国と同意とのことで、大和氏は、この「秦王国」は豊前国にあったと考証しています。
 大和氏は、この「秦王国」と秦河勝は関係があるとみて、次のように述べています。

「秦王国」の秦部・勝は、五世紀代から六世紀代にかけて、豊前に移住して来た主に加羅系の人たちで、加羅が新羅に併合されたので、後に新羅系渡来人といわれるようになったが、出身地から、同郷の秦造の統率下に入っていたのであろう。
「秦王国」を海上から見た隋使が来た推古朝(五九三~六二八)は、聖徳太子の寵臣秦河勝が活躍していた時代である。秦河勝を太子が重用したのは、河勝の才能がすぐれていたこともあるが、豊前国に「秦王国」があったように、全国的に強力な勢力を維持していた秦集団の指導者であったことも、一因であろう。

 もとより「秦王国」は独立国の意でみられていたわけではないでしょうが、その構成民が加羅系渡来人か新羅系渡来人かはともかく、『隋書』が「其の人華夏に同じ」と書いていたことを重視しますと、この秦王国には朝鮮半島南部から中国人も渡来してきて、それが秦氏と深く関わっているということのようです。
 秦王国は、その中心に秦氏の存在があってこその命名でしょうが、この秦氏が香春大神や八幡大神の祭祀に深く関わっていることはここではふれません。わたしが引用部分でひっかかるのは、加羅・新羅系渡来人が「同郷の秦造の統率下に入っていたのであろう」と書かれていることです。この「同郷の秦造」という表現は、倭国先住の秦氏も、その出自・故郷は加羅・新羅にあるという大和氏の認識が表れたものと読めます。
 中国人と同じ秦氏が、その故郷を加羅・新羅にもっているというのはなぜかという問いが浮かびますが、これについては、古くさかのぼって語るしかないようです。『三国志』魏書辰韓伝には、「辰韓は馬韓の東にあるが、古老が伝えていうには、秦の苦役を避けて韓国に亡命した人たちを、馬韓の東を割いて住ませた。それが辰韓だから、住人は秦人に似ており、秦韓というのもそのためだ」とあります(大和氏要約)。
 馬韓はのちの百済と重なり、辰韓=秦韓は新羅と重なります。馬韓と辰韓の間にはさまれるのが弁韓(弁辰)で、これは加羅(伽耶)と重なり、日本からは任那とも呼ばれる地域です。なお、『三国志』魏書弁辰伝には、「弁辰人と辰韓人は雑居し、衣服・言語・法俗は相似ており、蚕桑に通暁し、縑布を作る」と書かれてもいます。大和氏は、養蚕・絹(縑)織に秦氏も関わることから、秦氏は「弁辰出身であることがわかる」、「秦氏は加羅・新羅系渡来人」とほぼ断定しています。
 大和岩雄『秦氏の研究』で、ときに批判的に引例されている諸氏の秦氏研究、および、大和氏の秦氏論(「秦氏の渡来時期の上限は五世紀前後」、「秦氏は加羅・新羅系渡来人」)を読みますと、越智─河野氏の家伝から秦氏を考えようとする視点とは大きなズレがあることに気づきます。
 先学の秦氏研究のすべてに眼を通したわけではありませんから、ここはゆるやかにいうしかありませんけれども、たとえば、魏書辰韓伝における「古老」の伝「秦の苦役を避けて韓国に亡命した人たちを、馬韓の東を割いて住ませた。それが辰韓だから、住人は秦人に似ており、秦韓というのもそのためだ」を考えますと、「秦の苦役を避けて」、組織的に脱国した人物に徐福がいたことが想起されてきます。徐福伝承は韓国の済州島や慶尚南道の巨済島にもあり、徐福一団のある人々は朝鮮半島にも渡った可能性があります。
『秦氏の研究』は、「韓国でもっとも秦氏が多いのは済州島(四四二世帯)」、ただし「済州島の秦氏は慶尚南道の各地から移住して来た」という韓国研究者の報告を紹介していますが、この慶尚南道は、かつての加羅(併合されたあとは新羅)の地です。
 魏書辰韓伝の古老伝は、秦からの脱国民が「馬韓の東」に住みついて、それが辰韓だとしていて、この辰韓のあとが新羅ですから、新羅文化の基層には、秦に滅ぼされた徐福の故国である斉[せい]や隣の燕[えん]の文化があってもおかしくありません。
 日本の秦氏研究の総体は、徐福への視点を欠落させているのではないか──。『古事記』や『日本書紀』の応神天皇条の影響ともおもわれますが、五世紀時点に歴史視野の上限をおくかぎり、「秦氏は加羅・新羅系渡来人」ということはまちがってはいません。しかし、徐福の末裔は「今に至るも子孫皆秦氏という」と記していた『義楚六帖』の伝承も考慮した秦氏論があってしかるべきでしょう。
 秦氏のさまざまな先端文化の一つといってよい養蚕・絹織についても、弁辰(のちの加羅)出身の秦氏の傍証につかわれるだけでは収まらない問題を秘めています。なぜなら、五世紀どころか、それよりも二百年も前に、卑弥呼は国産の絹を魏王に献上しているからです(『三国志』魏書倭人伝)。この弥生の女王は、なぜ養蚕・絹織の技術をもっていたのか──、これも魅惑的な想像課題といえましょう。
 さて、七世紀初頭の秦氏、その族長的存在として秦河勝がいることから、秦氏研究の現在的課題にまで、つい言及が広がってしまいましたが、この河勝の祖はだれかということになります。『新撰姓氏録』に依拠するかぎり、左京諸蕃の太秦公宿禰にみられるように、始祖は秦始皇帝であるというのが通説(河野氏の家伝書のことばでいえば「外伝」・「飄説」)です。
 時代は戦国の世まで下りますが、東の織田信長に匹敵するほどの西の勇将といって過言ではない、四国・土佐の長宗我部[ちょうそかべ]元親[もとちか]がいます。この長宗我部という名は珍しく、飯野孝宥『弥生の日輪』によれば、物部守屋追討に秦河勝が貢献したとして、聖徳太子が「土佐国守として河勝に三千貫の荘園を下賜、蘇我部の長、秦長蘇我部を名乗らせた」ことにはじまるとあります。また、「この一族は、始めに高知の曾我の荘園を預かったことから、子孫は曾我、香曾我部等の名を継いで代々栄え、戦国時代には四国一円を制圧した雄、秦長曾我部元親を生み出した」と説明しています。
 土佐の長曾我部(長宗我部)氏は大阪夏の陣で豊臣方として戦い、家長の盛親は京都の六条河原で斬首刑に処されたというのが通説ですが、それは影武者で、陣を脱出した盛親は肥後熊本五十四万石の加藤忠広の許へ落ちのび、そこで、親代わりの家老・久武氏を名乗って生涯堅く口を閉ざしたまま死んだとされます。肥後藩は加藤氏から細川氏に代わるも、盛親の子は家来として仕え、その久武家に長曾我部氏の系図が残されているらしく、そこには秦河勝の名が記されているだけでなく、「竜祖」(始祖)を秦徐福としています。
『弥生の日輪』は、孝霊天皇の勅命によって徐福が書いたものとされる「宮下富士古文書」の内容を、いわば小説仕立ての文体で賛美的に紹介していて読みづらいですが、長曾我部氏の系図のほかにも、秦河勝から秦始皇帝を祖とする羽田家の系図も写真紹介していて、その調査行には敬服します。『新撰姓氏録』の主流的記載からすれば、秦河勝の始祖は秦始皇帝となるはずで、長曾我部氏一人が、それに異を唱えるように秦徐福としていたことは貴重です。
 ただし、歴史の皮肉というべきか、戦国末期、天正時代に、同じ徐福を祖とする隣国伊予の越智─河野氏を四国から放逐したのも長曾我部氏でした。長曾我部の残党家臣たちは、幕末まで下積みの「下士」として山内家に仕えますが、そこから坂本龍馬・中岡慎太郎・岩崎弥太郎などが登場してきます。
 越智氏は、『新撰姓氏録』では「越智直、石上同祖」と記されています。この「石上同祖」については、「左京神別」に「石上朝臣、神饒速日命之後也」とあり、これは『水里玄義』の編者が「外伝」として述べているとおりです。問題は、本書の「内伝」部分、つまり、「秦の徐福吾が朝に来たりて裔をととめ、其の孫功有りて与州越智郡を領す故に越智を以て姓となす」です。『水里玄義』は、越智氏の祖についての記述のあと、先にも引用しましたが、次のように続けていました。

饒速日の後胤小市[ママ]田来津[おちたきつ]、天智天皇の二年癸亥御宇、太[ママ]唐百済を攻む。田来津を将軍として百済に向かはしめ、ここに於て卒す(私[ママ] 田来津は守興の事か。予、和漢の年表を考ふるに、天智二年、日本、百済を救ひて太唐と戦ひしことを録せり)。

 わたしは「小市田来津[おちたきつ]」に関心がいきすぎて、天智紀を再読することをしませんでした。今回、それが気になって『日本書紀』を読み返してみたところ、天智天皇即位前紀の本文割註に、「或本に、〔中略〕小山下[せうせんげ]秦造田来津を使して、百済を守護[まも]らしむといふ」という記述をみつけました。また、『書紀』本文では、「朴市[えち]田来津」の名で、百済王豊璋に、却下されるも戦術指南をしている姿も描かれています。『書紀』の頭註は、「田来津の姓は朴市秦造であり、近江の依智秦造であろう」としていますが、越智氏の家伝(内伝)は、これらとリンクしているものだったようです。

越智氏と秦氏【Ⅰ】

更新日:2010/11/29(月) 午前 3:47

 越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、一方、「外伝」として、公的な氏姓の出自認定書ともいえる『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には神饒速日命を祖とする越智直の記述があると書かれています。
 この家伝書の編者・土井通安は、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ、熊野連は同神の孫味饒田命の後なり」と、「神饒速日命」を共通の祖とする例を『新撰姓氏録』から抽出して並べています。
 ここで「秦忌寸」が「神饒速日命より出つ」として引例されているのは重要です。なぜなら、『新撰姓氏録』を概覧しますと、そこには合計十四の「秦忌寸」の記述がありますが、「神饒速日命」を祖とするのは一例しかみられないからです。試みに、「秦忌寸」の全記述を一覧してみます(栗田寛『新撰姓氏録考證』、『神道大系』古典編六、所収)。

①【山城国神別】秦忌寸、神饒速日命之後也、

②【左京諸蕃】秦忌寸、同王(秦始皇帝五世孫、融通王)五世孫、丹照之後也、

③【左京諸蕃】秦忌寸、同王(融通王)四世孫、大蔵秦公志勝之後也、

④【右京諸蕃】秦忌寸、太秦公宿禰同祖、功満王三世孫、秦公酒之後也、

⑤【右京諸蕃】秦忌寸、太秦公宿禰同祖、□□王之後也、

⑥【右京諸蕃】秦忌寸、太秦公宿禰同祖、(一本云、始皇帝十四世孫、尊義王之後也、)

⑦【右京諸蕃】秦忌寸、始皇帝四世孫、功満王之後也、

⑧【山城国諸蕃】秦忌寸、太秦公宿禰同祖、秦始皇帝之後也、物智王弓月王、誉田天皇(諡応神)十四年来朝上表、更帰国率百二十七縣狛姓帰化、亦献金銀玉帛種々宝物等、天皇嘉之賜大和朝津間腋上地、居之焉、男真徳王、次普洞王、(古記曰、浦東君)〔後略〕

⑨【山城国諸蕃】秦忌寸、始皇帝十五世孫、川秦公之後也、

⑩【山城国諸蕃】秦忌寸、始皇帝五世孫、弓月王之後也、

⑪【大和国諸蕃】秦忌寸、太秦公宿禰同祖、

⑫【摂津国諸蕃】秦忌寸、太秦公宿禰同祖、功満王之後也、

⑬【河内国諸蕃】秦忌寸、秦宿禰同祖、融通王之後也、

⑭【和泉国諸蕃】秦忌寸、太秦公宿禰同祖、融通王之後也、

 秦忌寸の複数が「太秦公宿禰同祖」と記されていますが、太秦公宿禰については、左京諸蕃の筆頭に、次のようにあります。

太秦公宿禰、秦始皇帝三世孫、孝武王之後也、男功満王、足仲彦天皇(諡仲哀)八年来朝、男融通王、(一曰弓月王、)誉田天皇(諡応神)十四年来朝、率百二十七縣百姓帰化、献金銀玉帛等物、大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世、以百二十七縣秦民分置諸郡即使養蚕織絹貢之、天皇詔曰秦王所献糸綿絹帛、朕服用柔軟、温煖肌膚、賜姓波多公、秦公酒、大泊瀬幼武天皇(諱雄略)御世、糸綿絹帛悉積如岳、天皇喜之、賜号曰禹都萬佐、

 秦忌寸と太秦公宿禰の十四氏が、その鼻祖を秦始皇帝としているようです。これについては、ほかの秦氏──秦姓・秦冠・秦勝・秦公・秦宿禰・秦人(三例)・秦造・秦長蔵連も同じくで、①の秦忌寸以外の秦氏は、例外なく秦始皇帝の末裔をうたっています。
 栗田寛は、『新撰姓氏録』収録各氏の出自の考証を個々に付していますが、①の「山城国神別」にみられる「秦忌寸、神饒速日命之後也」については、「秦は、諸蕃の別にて、忌寸と云ふ姓も、多くは蕃別にたまふものなるを、此に秦忌寸あるは、いかなるにか考へかたし」と、この秦忌寸に限って、考証放棄の言を吐露しています。
 それにしても、ただ一例を除いて、秦氏を秦始皇帝の末裔とするというのは尋常ではありません。『新撰姓氏録』と同時代に成る中国の『義楚六帖』は、日本僧(真言密教僧)・弘順大師の「徐福ここ(富士山)にとどまりて蓬萊といえり。今に至るも子孫皆秦氏という」と、日本の官製姓氏録とはあまりに異なる秦氏の出自伝承を記していました。『新撰姓氏録』と『義楚六帖』、あるいは『新撰姓氏録』と越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の、いずれの秦氏伝承が「正しい」のかは検証に価する問いにちがいありません。
 神社由緒や家系図などの真偽をみるときの基準があるとすれば、それは、自社あるいは自家の歴史を優位にみせようとしているか否か、いいかえれば、体制の意向にたとえ違うといえども自社・自家ではこう伝わっているという負の歴史が示されていた場合、わたしは原則、こちらを信用するようにしています。したがって、『新撰姓氏録』と『水里玄義』を対比したとき、疑いの視線は、当然ながら官製の『新撰姓氏録』に向けられることになります。
 そもそも、『新撰姓氏録』とは何か、あるいは何のためにつくられたのかということがあります。弘仁六年(八一五)の日付を記した「序」に、この書の性格と成立経緯を読み取ることができます。田中卓氏の要約文を読んでみます(前出『神道大系』所収)。

天智天皇の御代、庚午の年(六七〇)に戸籍が作成せられ、ここに人民の氏骨[うじかばね]は、各々その宜しきを得た。それより以降、歴代帝王は時に随ってこれを改正せられ、聯綿として絶えなかったが、天平勝宝年間、恩旨を以て諸蕃にも願いのままに賜姓せられ、(それは天平勝宝九年四月のことであろう、)これより氏姓の混乱が生じた。即ち蕃俗と和俗との差別が困難となり、万万の庶民が高貴の枝葉と名乗り、或いは三韓の蕃賓も日本の神胤と称するに至った。そこで天平宝字の末、(天平宝字五年に撰氏族志所の宣あり、)かかる混乱を解明するために『氏族志』の撰述が企てられたが、それも半ばならずして挫折に終わった。やがて桓武天皇は、この問題を御軫念になり、勅を下して本系を撰勘しようとされたが、(延暦十八年十二月の勅である、)しかしこれも未だ完成せぬ間に崩御に及んだ。今上嵯峨天皇は、前志を追慕して事業を継承するために、その旨を万多親王等六人に勅命せられたので、勅を奉じて臣等は、古記を探り旧史を観るに、互いに精粗矛盾するものあり、新進の本系また故実に違うことが多い。そのため、日ならずして成さんとの当初の意図も空しく、ここに十歳を経たが、しかもなお京畿の本系はその過半が上進して来ていない。そこで今、上進して来た分をとりまとめて類別作成したのである。即ち収むるところ一千一百八十二氏、すべて三十巻となし、これを『新撰姓氏録』と名づけるのである。と。

 本書成書の初源は天智天皇の戸籍調べにまでさかのぼるようですが、弘仁時代の現在ということでいえば、その目的は、天平勝宝年間に「諸蕃にも願いのままに賜姓」したため「蕃俗と和俗との差別が困難」となった、その後も「差別」化は中途挫折していた、だから今、これを正すのだということにあるようです。ここでいわれている「諸蕃」「蕃俗」というのは渡来系の民をいうわけですが、天皇や編者自身がそもそも「和俗」を出自としているかどうかの問題を棚上げしていることはおくとしても、この「蕃」系氏族の最大勢力として秦氏はあるといってよいでしょう。
 また、最古・最大の渡来移民である徐福一行について、『新撰姓氏録』はいうまでもなく、それが最大典拠としている『日本書紀』においても、そこには徐福の徐の字も記されていませんでした。天上のアマテラスから「天孫降臨」へ、そして「和俗」(海人族)との婚姻によって天皇の系譜を語り出す皇統譜の創作思想にとって、徐福の存在を記すことは、この皇統譜の創作作為性を明かすことになりますから、徐福の名は絶対禁忌として伏せるしかなかったとおもわれます。ここには、皇祖神・アマテラスの創作思想を脅かす「神」を絶対的に伏せようとしてきた、日本の王権思想が抱える同根の問題があります。
 引用の秦忌寸や太秦公宿禰の「祖」のなかに、融通王=弓月王の名がみられます。この弓月王は「弓月君」の名で『日本書紀』応神十四年条に記されていますが(「弓月君、百済より来帰[まうけ]り」)、『古事記』応神天皇条においては「弓月君」という名は記されることはなく、ただ「秦造の祖」が渡来したと書かれています。
 大和岩雄『秦氏の研究』は、「記・紀は秦氏の祖を弓月君とは書いていない」ことを指摘し、「『日本書紀』と『古事記』だけを見ていれば、弓月君と秦造の祖は結びつかない。結びつけたのは、大同二年(八〇七)に書かれた『古語拾遺』、弘仁六年(八一五)に上表された『新撰姓氏録』である」と、『古語拾遺』と『新撰姓氏録』の作為性にまで踏み込んでいます。「もし、弓月君が秦氏の始祖なら、弓月君を秦氏の祖とする『新撰姓氏録』(左京諸蕃上)の太秦公宿禰条でも」、「融通王〔一は弓月王と云ふ〕」の箇所は「弓月王〔一は融通王と云ふ〕」と書かれたはずで、「本来は弓月君渡来伝承と秦氏渡来伝承は、別であった」というのが、大和氏の批評的意見です。
 この大和氏の指摘は、あまりに微細なことへのこだわりにみえるかもしれませんが、わたしは、融通王を主、弓月王を従とした『新撰姓氏録』の表現は、大きくは、秦氏の始祖伝承を秦始皇帝の末裔系譜に取り込もうとする作為の表れだろうと考えます。
 以後、秦氏は、秦始皇帝を鼻祖とする系譜で語られることが主流となり(中国の史家は秦始皇帝の日本における末裔系譜を否定するはずですが)、一方、紀元前三世紀、秦始皇帝の圧政から逃れるように列島へ渡海してきた徐福を祖とする越智─河野氏の家伝は、異端・傍流、あるいは多勢に無勢の感で、一見、孤立しているようにみえます。しかし、越智─河野氏にとっては、家伝で語られることはありませんでしたが、援軍的伝承をもつ近い氏族が同じ四国にいました。

越智─河野氏の祖神──秦徐福と神饒速日命

更新日:2010/11/20(土) 午前 0:23


▲神倉神社とゴトビキ岩(徐福はかつて神倉山頂にまつられていたという…『太古のロマン徐福伝説』)

 明応八年(一四九九)に成る河野氏の秘伝的家伝書『水里玄義』ですが、本書の特徴の一つとして、その編纂を第三者(河野教通の家臣・土井美作守通安)がおこなっていることが挙げられます。土井通安はときに批評的な感想を交えながらも、河野家の家伝・秘伝をそのままに伝えようとしているようです。
 通安は「序」において、「書の体たるや、心を以て先となして形これにつく、それ、形は見るへからす、故に内伝有りて真説を述へ、外伝有りて飄説を記せり」と書いています。ここでいわれている「内伝」が秘伝部分に相当するとおもわれます。なお、「飄説」の「飄」はつむじ風のことで、これは、世に流布する一般論と理解でき、通安は、一般論を添えるも、河野家に伝わる内伝(秘伝)の「真説」をここに述べると宣言しているようです。
 なお、書名の命名については、「大守刑部侍郎公(諱は教通、法名は道基)、意[こころ]を家譜に寄せて年あり、或は堂上貴客を会し、或は旧里の老翁に対し、深きを問ひ遠きを探し、遂に功を成し、ようやく就きて水里玄義と名つけたり」と書いています。主君・河野教通の「家譜」に関わる真説の探索は「深きを問ひ遠きを探し」とあり、真摯な姿勢が伝わってきます。この真摯な探索の結果としての「水里玄義」とのことです。「水里」は河野の二字の扁をとったものとしますと、河野家の玄義=奥義というのが書名の意味ですから、この玄義は、先の内伝の「真説」をいいかえたものとも読めます。
 河野氏の家譜に関わる内伝・真説・玄義を考えるとき、これは家譜一般にもいえることですが、その「祖」を明らかにすることからはじまります。越智氏の流れを自認する河野氏が、この越智氏の「祖」をどう「内伝」してきたかは興味あるところです。これは、当然ながら、神まつりの基盤を考えることとも関わりますが、次のような「内伝」と「外伝」の記述は、現代にも通用する歴史的な問いかけを含んでいて、本書の大きな価値を構成しています。

越智姓
神饒速日命より出つ。伝に曰く、秦の徐福吾が朝に来たりて裔をととめ、其の孫功有りて与州越智郡を領す故に越智を以て姓となす、云々と。福(徐福)の廟は熊埜[くまの]神の前に在り。姓氏録に云ふ、秦忌寸[はたのいみき]、神饒速日命より出つ、越智直[あたい]も同神に出つ、熊野連[むらし]は同神の孫味饒[うまにき]田命の後なりと。
古説かくの如く、徐福と饒速日と一祖両説にしてかつ和漢を隔つ、これ不審を生する所なり。然りといへとも、秦・越智・熊野は一気同統にして二説符合せり。一説に曰く、穂積臣は漢司将軍の裔なりと。本朝の史[ふひと]を考ふるに、則ち饒速日の後の伊香我色命の裔なり、これ漢司将軍は徐福なるか。又、一遍上人は河野通広の子なり。初め時宗を興す時、熊野に詣てて祈誓す、これすなはち今に於てかの宗鎮寺となすは熊野権現なるなり。又、与州宇和郡土井氏は紀州穂積氏なり、云々と。
これを以て考ふるに、則ち熊野に依るもの多し、上古は深説有るにや。然りといへとも、両説一意にしていまた是非をわかたす、後賢を待つのみ。

 序文にある「内伝有りて真説を述へ、外伝有りて飄説を記せり」ということばは、この引用部分のためにこそあったのではないかとおもいたくなるような内容です。
 越智氏の出自について、「伝に曰く、秦の徐福吾が朝に来たりて裔をととめ、其の孫功有りて与州越智郡を領す故に越智を以て姓となす」とあります。この「伝」が内伝に相当します。
 一方、外伝は「姓氏録(新撰姓氏録)に云ふ」に相当し、「秦忌寸、神饒速日命より出つ、越智直も同神に出つ、熊野連は同神の孫味饒田命の後なり」が抽出・引用されています。編纂者・土井通安が、ここに秦忌寸をもってきたのは、秦氏は徐福の末裔であるという認識ゆえかとおもいます。このことは、九世紀に中国の斉州開元寺の僧・釈義楚が著した『義楚六帖』に、日本の真言宗の僧・弘順大師から聞いたこととして、「徐福ここ(富士山)にとどまりて蓬萊といえり。今に至るも子孫皆秦氏という」とあることと一致するものです。徐福の末裔は「皆秦氏」を名乗っているというのは、ある種「常識」だったようです。
 河野家の家伝(内伝)では、越智─河野氏の祖は「徐福」と伝わっているのに、外伝(公的な書・姓氏録)では、それが「神饒速日命」とされている、このくいちがいはいったい何だろうということになります。
 編纂者・土井通安もよくよく考えた末のことでしょう、「徐福と饒速日と一祖両説にしてかつ和漢を隔つ、これ不審を生する所なり。然りといへとも、秦・越智・熊野は一気同統にして二説符合せり」と、「徐福と饒速日と一祖両説」論を提示しています。通安は、別の箇所でも「饒速日・徐福はひとり姓の上に就きてこれを云ふのみ」と書いていて、あたかも饒速日と徐福を同体異名とみなそうとさえしています。
 それでも通安には一片の不安は残っていたようで、「上古は深説有るにや。然りといへとも、両説一意にしていまた是非をわかたす、後賢を待つのみ」と、保留の姿勢を述べ、後の世の賢察にまかすとしています。
 この家伝でさらに興味深いのは、「秦・越智・熊野は一気同統」という指摘に加え、「一説に曰く、穂積臣は漢司将軍の裔なりと。本朝の史[ふひと]を考ふるに、則ち饒速日の後の伊香我色命の裔なり、これ漢司将軍は徐福なるか」と、穂積臣が徐福の真裔にあたるかとしていることです。
 ここに列挙されている「秦・越智・熊野」そして「穂積臣」は、いずれも、その祖は「神饒速日命」だというのが日本側(姓氏録)の言い分です。これらの氏族は、総じて物部系氏族といえます。
 ここで「物部」をあえて出すのは、『日本書紀』の神武神話において、先住の長髄彦[ながすねひこ]から奉斎を受けながらも、ついには、長髄彦を裏切るかたちで神武天皇に帰順・服従した神として、次のように饒速日が描かれていたことによります(宇治谷孟現代語訳)。

饒速日命は、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。またかの長髄彦は、性質がねじけたところがあり、天神と人とは全く異なるのだということを教えても、分りそうもないことを見てこれを殺害された。そしてその部下達を率いて帰順された。天皇は饒速日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。

 先住の王であろう長髄彦は「天神と人とは全く異なる」ことを理解しない、ゆえに饒速日によって「殺害」されるという物語の展開にはやはりどこか無理があります。殺害の根拠として、あまりに薄弱だからです。こういった神武神話にみられる物語の虚飾・潤色部分をすべて剥いでみますと、ここには、天皇の思想に「帰順」した先住の太陽神がいて、それを奉斎する物部氏もまた「帰順」するのは当然であるという「正史」の編纂・創作思想があるのみです。
 饒速日を「先祖」とする物部氏が『日本書紀』に記されていたこと、これに、河野家の「内伝」を重ねますと、物部氏のルーツは徐福にあるということになります。これは、徐福の裔の一派が物部氏を構成するということでもあります。
 徐福伝承は列島各地にみられますが、この伝承をもっとも色濃く今に伝えているところは、佐賀県の金立山一帯と和歌山県の熊野でしょうか。前者は徐福の上陸地に比定され、後者は徐福の終焉地の伝承をもっています。金立山の東、佐賀平野をはさむように聳える高良山は物部氏の祭祀霊場ですし、熊野も同じくです。
 引用の家伝には「与州宇和郡土井氏は紀州穂積氏なり」、「則ち熊野に依るもの多し」とあり、編纂者の意識の重点は、紀州熊野に置かれているようです。


▲阿須賀神社と徐福ゆかりの蓬莱山(境内に徐福之宮をまつる)



 紀元前三世紀、童男童女三千人および百工(あらゆる職人)を引き連れ、秦の始皇帝の圧政から脱出するようにして、船団を組んで渡海してきた徐福一行です。これは、たんなる渡来ではなく集団移民というべきですが、そのタイミングを考えますと、稲作を中心とする弥生文化の開花期に重なっています。
 中国側の近年の研究の蓄積は、徐福は伝説の人ではなく歴史の人として確定していますし(池上正治編訳『不老を夢みた徐福と始皇帝』勉誠社)、その「東渡」の地である日本側においても徐福伝承は濃厚です。もし日本側で伝承・伝説以上に明かされていないことがあるとすれば、それは、徐福あるいは徐福一行の「氏族」に関わる「その後」でしょう。
 この「その後」に、物部氏あるいは物部系氏族をみることで、矛盾することは特にみつかりませんし、それどころか、多くのことが符合してくる、解けてくるといってもよいかとおもいます。河野家の秘伝的家伝書にみられる「内伝」証言は、このことを示唆して余りあるといえます。
 徐福の故国は、秦(始皇帝)に滅ぼされた黄海沿岸部の斉[せい]の国で、ここには「太古からの神々であり、斉の地方の伝統的な神たち」である「斉の地の八神」がまつられているとのことです(林仙庭・李歩青「徐福東渡の動機について」前掲書所収)。この「八神」は、「四時(四季)の主、陰の主、月の主、陽の主、日の主」の五神に「東平[とうへい]の兵の主、臨淄[りんし]の天の主、泰山の地の主」の三神を加えたものらしく、これらが徐福がいた時代にはすでにまつられていました。
 日本では、徐福自身、雨乞いの神・医薬の神・農業の神などとしてまつられますが、徐福が奉斎していたのが故国「斉の地の八神」としますと、そこには「日の主」が含まれますから、日本において徐福と饒速日を無媒介な等号で結ぶことはむずかしいかとおもいます。朝廷の祭祀思想は、徐福が奉斎する「日の主」をニギハヤヒと呼び、それを徐福の末裔であろう物部氏の「先祖」として神話内に取り込んだ可能性があります。また、天孫ニニギの兄弟としてニギハヤヒと近似の神名である「天照国照彦火明命」の名を記し、それを「尾張連らの遠祖」などともしています(第八の一書)。
 いずれにしても、皇祖神・天照大神の下位に置かれたニギハヤヒという男系太陽神でした。物部氏あるいは徐福の末裔氏族のなかには、それを認めない者もいたはずで、その思いが、先 住の海人族の奉斎する太陽神と合体させた「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」という最大級の賛辞を並べた神名の創作となるようです。この名を記す『先代旧事本紀』にみえる、ニギハヤヒの降臨に随伴する神々の多さは半端ではなく、そこでの神々の集団降臨は、さながら、徐福一行の大船団の列島への到来のイメージと重なります。日本の古代史最大のタブーといってもよい徐福の存在です。弥生文化の一切の種をもち大挙して渡海してきた徐福一行が、日本の歴史のなかで顕彰も検証もされることがないというのは尋常ではありません。
 中国最古の史書(司馬遷『史記』)は、徐福は渡海したあと「王となり帰らず」と書いています。日本では、徐福の到来は孝霊天皇時代と伝承されますが、紀元前三世紀に、日本に統一国家はまだ存在しませんから、八世紀の「正史」の作者は、徐福を孝霊天皇として「万世一系」の皇統譜に組み込んだことも考えられてきます。

大山祇神社分社の主張と不明

更新日:2010/11/14(日) 午前 11:14

 大山積神の本地仏・大通智勝仏の子に十六王子がいて、それに対応させるように十六王子神が神仏習合的に設定されているということは、これら十六王子神は大山積神の分身ということにもなります。
『大山祇神社略誌』は、「正安四年(一三〇二)本社境内にまつられてからの祭神は、奉斎の順位とともに不動のものとして県内各地に勧請された」、その勧請社「十六神社の祭神ならびに奉斎の順位が不動であったこと」を強調しています。
 ここでいわれている「奉斎の順位」というのは、先の一覧で番号を付した「順位」をいうようです。たとえば、宇津神社の文保二年(一三一八)の棟札には「七郎王子宮御社」とあり、この「七郎」が、一覧表の宇津神社が七番目に記されていることに対応しています。
 こういった「奉斎の順位」が「不動」であったかどうかについてはあまり意味があるとはおもえませんが、ただ勧請された十六王子神の「祭神」もまた「不動」であったとされることを念頭において、略誌の次のような記述を読みますと、いささか棘[とげ]の刺さった印象を抱くのはわたしだけではないでしょう。

 別表(省略)伊予三島市(現四国中央市)三島神社の十六神社、北条市(現松山市)高縄神社の十六王子社、松山市阿沼美神社の十六皇子神社と本社大山祇神社の十六王子神それぞれの祭神を比較すると、神名の用字法にわずかな相違が、また阿沼美神社に瀬織津姫神を欠くが(諸山祇神を一柱に数えて十六柱とする)、まず同一の神々を順位もそのままにまつられたと見て間違いない。

 略誌の著者は、十六王子神の分霊祭祀において、軽い例外のように「阿沼美神社に瀬織津姫神を欠く」、具体的には「諸山祇神を一柱に数えて十六柱とする」と書いています。阿沼美[あぬみ]神社一社だけが、なぜ十六王子神の祭祀法則を逸脱してまで、瀬織津姫神を諸山祇神に変更しているのかは、やはり大きな問題を秘めているようにおもいます。
 阿沼美神社は松山市に二社あり、いずれも『延喜式』に載る「伊豫國温泉郡 阿治美神社 名神大」を自社のことと主張していますが、境内に十六皇子神社を抱えるのは、松山市平田町に鎮座する阿沼美神社です。
 阿沼美神社の十六皇子神社は、「諸山祇神」をもって瀬織津姫神の代行神としているわけですが、大山祇神社境内社の十七神社は「一の王子、十六王子」の構成で、筆頭の「一の王子」に相当するのが諸山積神社でした。祭神は「大山祇命、中山祇命、麓山祇命、正勝山祇命、志藝山祇命」と表示され、一見、複雑さがみられますが、これは、諸々の「山祇命」を寄せ集めた集合名を「諸山祇神」といっているにすぎません。この諸々の山神の筆頭に「大山祇命」の名があることに象徴されますが、つまるところ、大山積神のことといえます。瀬織津姫神を「大山津見神」に差し替えた北海道・樽前山神社と同じ事例がここにはみられます。
 阿沼美神社の十六皇子神社一社のみ、なぜ瀬織津姫神を消した(差し替えた)のかを直接語る資料は未見ですが、瀬織津姫神を表に出したくない祭祀心理が阿沼美神社に働いていただろうことを想像しますと、逆説的にみえてくることがあります。
 阿沼美神社は、古来、阿沼美神をまつってきたが、中世、河野氏によって「三島神」の分霊が勧請され「阿沼美三島大明神」を名乗ることになります。河野氏の没落後は「三島新宮」とのみ称したという社号の変遷がみられます(『愛媛県神社誌』)。
 現在の主祭神は「大山祇命」、配祀神は「月読命、高靇命、雷神」とされますから、大山祇神社の本殿・上津社・下津社の祭神を除きますと、「月読命」が阿沼美神ということになります。阿沼美神は月神という根本性格があるゆえに「月読命」と祭神表示がなされているとしますと、ここは「景行天皇の裔、別王が阿沼美の神を奉祀」という古祭祀を由緒にもっていますから、月神は記紀神話において仮構された男系神の「月読命」ではなく、海人族が奉斎する月の女[ひめ]神であった可能性があります。もっと端的にいえば、九州・豊前国においては宇佐氏が奉斎する比売大神に相当する神が阿沼美神の原像であった可能性があります。
 阿沼美神社は、自社境内社の十六皇子神社から瀬織津姫神を消去しているという断定的仮説からいえること、あるいは考えられるのは、以上のようなことです。あるいは一歩引いて、十六皇子神の勧請において、最初から瀬織津姫神を除外していたという第二の仮説を立ててみますと、それはそれで、いずれにしても阿沼美神とは何かという根本的な祭祀問題に関わってくることでしょう。
 しかし、これは、阿沼美神社一社に限られる問題かといえばそうではなく、伊予国においては、大山祇神社の祭祀にこそ、より淵源の問題は横たわっているはずです。大山積神の分身・分神としての十六王子神が設定され、そのなかに、阿沼美神社からは消去された瀬織津姫神がいること、これは、大山積神と瀬織津姫神の分身・分神関係を、大山祇神社が暗に主張していることを意味しています。
 大山積神と瀬織津姫神が至近の関係にあることは、たとえば、昭和十二年の愛媛県の「神社に関する調査」に拾い出すことができます。国によるこの「調査」は、愛知県においても確認でき、全国的になされたものとみられます。その調査意図は、明治期に神宮祭祀と抵触する神まつりの変更がなされたものの、それが全国的に徹底されているかどうかの再々確認にあり、不具合の発見は以後の祭神変更につながっていきます。



 愛媛県の「調査」にみられる、越智郡渦浦村津島字向山(当時)に鎮座する「大山積神社」の項は貴重な歴史的証言をなしています。この大山積神社の祭神欄には「大山積神∴(瀬織津比売命、来名戸祖命)」とあり、次に「(合祀)津島神社─天照大神、饒速日命、天道日女命∴」とあります。合祀された津島神社の問題も大きいですが、大山積神と瀬織津比売命・来名戸祖命が無縁どころではないという証言記録は重要です。祭神欄に付された「∴」の記号は意味深長といわねばなりません。
 このように、大山積神と瀬織津姫神の至近・類縁の関係がみえてきますと、先に少しふれた伊予市の三島神社の祭祀も再考の余地があるようです。
 瀬織津姫神を主祭神・大山積神の配祀神とするとは『愛媛県神社誌』の記載でしたが、現地の拝殿に掲げられた由緒表示板には、この配祀神の名はみられず、参拝者の誰一人、ここに瀬織津姫神がまつられていることなどは気づきもしないでしょう。



 神社誌は、この三島神社の創建について、「元明天皇和銅五年八月勅詔により、神亀元年八月二二日越智郡大三島鎮座大山祇神社より勧請奉斎」と書いていました。和銅五年(七一二)は『古事記』が成った年で、その年に元明天皇は「勅詔」(勅命)を発したというのは示唆すること多いですが、それはおくとしても、正規由緒では、自社の創建年月日を「神亀元年八月二二日」と明記しています。神亀元年(七二四)は元正女帝が聖武天皇に譲位した年で、養老から神亀への改元は「白亀」出現の瑞祥によるものとは『続日本紀』が記載するところです。
 神社の創建年月日については、由緒表示板は一日ちがいの「神亀元年八月二十三日」としていて、神社誌の記載とは少し異なりますが、これはいずれが正しい日かといった詮索は無用におもいます。わたしの関心は、正規の創建伝承とは別の異伝、つまり、次のような記載に、やはり注意がいきます。

 伝説三島宮由来には、神亀改元春正月、亀の背に金幣を輝かし浮遊して渚に走り上り森の中に入る。万民この地に社を建てて祀ると伝える。

 伊予・三島神社は、正規の創建を「神亀元年八月二二日(二三日)」とするも、異伝として、この神亀元年八月の前にあたる「神亀改元春正月」に、金幣を背に立てた「亀」の出現があり、これによって創祀したとしています。
 この謎の亀は「渚に走り上り森の中に入る」とあり、どこか切迫した表現がなされています。これは、亀の行為というよりも、亀に乗ってきた「神」の行為と読んでみたいところです。
 神亀元年八月に大山積神がまつられる七ヶ月前に、謎の神(大三島ゆかりの謎の神)の創祀がすでにあったとは何を告げようとしたものかは、やはり興味深いといわねばなりません。
 以下は聞き書きです。わたしが会った複数の氏子さんは、大山積さんは亀に乗ってここへやってきたということをそろって口にします。だから、うちの狛犬は「亀」で、ほかの神社にはみられないだろうと、なかば得意げに語ってもいました。また、愚問とはおもいながらも、本殿の千木が平削ぎで女神仕様だなということもありましたので(ただし鰹木は奇数本で、正確には男女神祭祀兼用仕様ですが)、こちらの大山積さんは女神さんですねと尋ねますと、あきれ顔で、男神に決まっているといわんばかりの返答をされましたが、むろん、これも黙って聞き流しました。
 亀と縁ある神は、大山積神と瀬織津姫神のどちらかという問いも浮かびますが、これも愚問というべきでしょう。
 このとっておきの創祀伝説にちなんで建立された一対の亀が、狛犬よりも迫力のある表情で参拝者をにらんでいるのが印象的でした。あるいは、今にもかみつかんばかりの表情でにらんでいるのは、別のもっと巨きなものかもしれないなとふとおもいながら、神社をあとにしたのでした。