高宮(辺津宮)姫神考──『先代旧事本紀』の伝承

更新日:2010/8/21(土) 午後 4:55

 宗像大神の三分神化(三女神化)を記した最古の文献は『古事記』(七一二)、つづいて『日本書紀』(七二〇)ですが、異称化・分化された三女神が、『記紀』が語るように神代から三所三宮にまつられていたわけではありません。もともと一柱であった祓戸大神が『延喜式』に収録される祝詞(「六月晦大祓」)のように三分神化(三女神化)されたのは大宝律令制定の頃(七〇一)とみられ、それと遠くない時期に朝廷内で構想されただろうことが仮説的に想定されます。
 宗像大神が三分神化されたことを認めるのは『宗像神社史』(上巻)も同じくで、その時期の特定への言及は避けるも、次のような仮説推定は傾聴に値します。

西海道風土記逸文には「宗像大神」の神体[かむざね]が三島に分置奉安されたといふ伝承を記すが、これは日本書紀に三神を称して「道主貴」といひ、「海北道中」に鎮め奉つたといふ所伝のあることに思ひをいたせば、宗像大神は海北道中の道主貴として、三所に鎮座せられ、且つ三所でそれぞれ祭祀の行はれたことを意味する。これが恐らく最も古いありのまゝの姿であつたかと考へられる。

 もともと三所に鎮座していた宗像大神に三つの神名を付与した最古の文献として『古事記』がありますから、まずは当該の記述を読んでみます。

各天安河を中に置きて宇気布[うけふ]時に天照大御神、先づ建速須佐之男命の偑[は]ける十拳劒[とつかのつるぎ]を乞ひ度[わた]して、三段[みきだ]に打ち折りて、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り滌[すす]ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹[いぶき]の狭霧[さぎり]に成れる神の御名は、多紀理毘売命。亦の御名は奥津島比売命と謂ふ。次に市寸島比売命。亦の御名は狭依比売命と謂ふ。次に多岐都比売命。〔中略〕
多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す。次に市寸島比売命は、胸形の中津宮に坐す。次に田寸津比売命は、胸形の辺津宮に坐す。此の三柱の神は、胸形君等の以[も]ちいつく三前の大神なり。

 ここには、宗像大神が三分神化された神名ばかりでなく、奥津宮(沖津宮)・中津宮・辺津宮という社号までが明記されています。これは『日本書紀』も同じくなのですが、ここで気づくのは、辺津宮の地における中核的祭祀場(宗像大神降臨の地)としては、すでに高宮があったということです。高宮は、正確には宗像山頂の上高宮と山麓の下高宮を総称しますが、『記紀』の神話作者は、辺津宮の地における宗像祭祀にとって最重要な高宮を、まったく記すことをしていませんでした。
 ここで想定しうるのは、八世紀初め、つまり『記紀』が成る時代、高宮を辺津宮と見立てる認識があったということでしょうが、では、このとき、高宮=辺津宮の宗像大神とは何かという問いも連鎖して生じてきます。『古事記』は、ここでの宗像大神は多岐都比売命(田寸津比売命)と、異説を記すことなくシンプルなものでしたが、『日本書紀』となりますと、辺津宮神はさまざまに記されることになります。曰く、本文では市杵嶋姫、一書(第一)では田心姫、一書(第二)では湍津姫、一書(第三)では田霧姫といった具合です。このように錯綜とした異伝を並べることで、『古事記』のシンプル表記を相対化、あるいは曖昧化することに腐心している感さえうかがえます。
 高宮=辺津宮の神を一つみるだけでも、宗像祭祀における祭神配置の錯綜感は半端ではありません。いきおい日本の「正史」とされる『日本書紀』の本文表示を採用して、祭神不定に決着をつけることになりますが、『宗像神社史』(上巻)は、その決定経緯について、次のように書いています。

明治以降は官社祭神考証の説によつて、表記名こそ異なれ、古事記の説を採つて、当社の祭神としてきた。しかし、当社の由緒の研究が進められるにともなつて、奈良時代以降千余年間公辺において認められ、かつ当社古来の伝承とも符合する日本書紀本文の説が、再吟味されることとなつた。こゝにおいて、昭和三十二年八月二十日、当社は神社本庁統理鷹司信輔の承認を得、当社の祭神は記紀二典の優劣によつて、これを決定するのでなく、鎌倉時代以降、神社の伝統として、奉祀して来た祭神説にもとづいて、決定することとなり、併せて宮内庁掌典職にも届け出でて、その諒承を仰いだ。かくて当社の祭神の序列及び表記名は、
  沖津宮 田心姫神
  中津宮 湍津姫神
  辺津宮 市杵島姫神
として決定を見るに至つた。

 この三宮の祭神の「決定」は現在にまで踏襲されますが、神社史は、単純に『日本書紀』本文説に依拠したのではなく、「鎌倉時代以降、神社の伝統として、奉祀して来た祭神説にもとづいて、決定」したのだと主張しています。しかし、鎌倉時代以降の「神社の伝統」、その根拠となる文献こそ『宗像大菩薩御縁起』で、この縁起書にみられる祭神説が『日本書紀』本文にすでに依拠していましたから、結果は同じことといえます。
 まだしも、明治期の「官社祭神考証の説」、つまり『古事記』に依拠して辺津宮=高宮の祭神は多岐都比売命(田寸津比売命)とみなす説の方が、よほど妥当性があったのではないかとわたしなどは考えます。そう考えるのは、物部氏の手に成るとおもわれる『先代旧事本紀』に、得難い記述・伝承があるからです。
『先代旧事本紀』巻第四「地祇本紀」は、「(大己貴神が)先(に)宗像の奥都嶋に坐す神田心姫[たこりひめ]命(多紀理毘売命と同神…引用者)を娶りて一男一女を生む」、その子神を、『古事記』と同じく「味鉏高彦根神」と「下照姫命」とするも、つづけて、「高照光姫[たかてるひめ]大神」に関わる神統譜を記しています。曰く、「次に辺都宮に坐す高津姫神を娶りて一男一女を生む」というものですが、こちらの「一男一女」の一男は「都味歯八重事代主[つみはやへことしろぬし]神」、そして、その妹神(一女)が「高照光姫大神命」とされます。
 高照光姫大神の母神とされる「辺都宮に坐す高津姫神」なのですが、この神の異称は、次のように列記されてもいます(大野七三編・訓註『先代舊事本紀』)。

次に湍津姫[せつひめ]命亦の名は多岐都姫[たきつひめ]命亦の名は遺津嶋姫[をきつしまひめ]命。宗像の辺都宮に坐す。是海浜[わたつはま]に居所[ましませる]者[かみ]なり。

 辺都宮(=辺津宮)にいるとされる高津姫神です。この神名にみられる「津[つ]」は「~の」と同意の助詞で、タカツヒメ(タキツヒメ)はタカノヒメ(タキノヒメ)の意です。それが、「湍津姫命亦の名は多岐都姫命亦の名は遺津嶋姫命」の異称をもっているとのことです。
 辺津宮はもともと高宮のことで、この高宮の姫神の意で「高津姫神」の表記はあったはずです。
『記紀』はいうまでもなく、宗像祭祀側の根本縁起書(『宗像大菩薩御縁起』)も記さなかった、タキツヒメ(タギツヒメ)の異称「高津姫神」の名を、物部文書といってよい『先代旧事本紀』一書のみがなぜ記しえたのでしょう。
 鎌倉時代末期に成るとみられる『宗像大菩薩御縁起』には、宗像祭祀の秘伝を受け継ぐ神官を特に「七戸大宮司」と呼んでいます。筆頭大宮司はいうまでもなく宗像氏(宗像滋光とされる)ですが、第二大宮司は物部福実とあります。
『古事記』は「此の三柱の神は、胸形君等の以[も]ちいつく三前の大神なり」と記していましたが、「胸形君等」の「等」には、物部氏同族の水沼[みぬま]氏ばかりでなく、物部氏そのものが「第二大宮司」として関わっていたことは重要におもえます。『先代旧事本紀』が宗像祭祀の内部にも通じていたのは、ここに物部氏も深く関わっていたからだとみるしかないようです。
 中央祭祀の視点からいいますと、宗像三宮祭祀は横並びであるはずもなく、その中心となる宮は、天応元年(七八一)に辺津宮惣社(総社)が創設されるように、また地勢的にいっても辺津宮(高宮)でした。その高宮の姫神をタキツヒメ(タギツヒメ)と記していたのが『古事記』でしたが(『先代旧事本紀』はセツヒメ)、皇大神宮における高宮竝宮(仮称、のちの荒祭宮)の祭神と同神が、そのまま記されることはあってはならなかっただろうと想像されます。『記』のあと「正史」として公刊される『日本書紀』が、辺津宮(高宮)の祭神をことさらに曖昧化せざるをえなかった必然的理由は、やはりあったというべきかもしれません。

閑話休題──モノは壊れる

更新日:2010/8/18(水) 午前 0:10

 今年の猛暑は全国的なものですが、38度にもなろうかというときに車のエアコンが壊れるということがありました。この18年目の車については、先回に新車然とした走りをすると褒めたところでしたが、エアコンの故障は想定外でした。ちょうど盆時期で修理もならず、助手席に扇風機を置いてみるも車内も車外もほぼ同じ暑さですから、あまり効果は望めません。夜行性の専用車になったようです。
 モノが壊れるというのは連鎖するらしく、「著作権談議」の記事をアップした日には、今度は8年ほど使ってきたパソコンが動かなくなり、けっきょくハードディスクが壊れていたようで、進行中の仕事データやらメール住所録、かなりの登録をしていた日本語辞書など、バックアップしていなかったデータはすべて消えるという、事件(?)も起こりました。
 IT関係にはまったくの素人に近い自分でしたから、このパソコンダウン事件には少なからずパニック的な感覚になりました。風琳堂の電脳アドバイザーから修復は不可能と宣告され、量販店から新パソコンを購入してはきたものの、これを通常的に稼働させるようになるまで、これまたマンガ的なドタバタの日々で、その一々は書きませんけれども、盆休みの最中であったことがせめてもだったようです。
 新パソコンには最新のオペレーティングシステム(Windows7)が搭載されているとのことですが、これが旧のOS(WindowsXP)とはずいぶんとちがっていて、戸惑うことが多いです。
 八幡比咩神について本にしようという企画で編集を進めていたものの、これも作業途中のものはパソコンダウンで消えてしまい、最初からやり直しになりました。
 編集を新パソコンで再開してみて気づいたことが一つあります。編集段階では、本の仕上がり見開きの状態、つまり縦書き見開きの状態で2ページ分を画面表示していたのですが、その旧データを新Wordに載せてみると、見開きのページが左右逆に表示されるという由々しきことになっています。縦書きの本をまず左ページから読み、その続きを今度は右ページで読むなどというのは、編集の感覚としては許容できるものではありません。
 ここからがIT素人の哀しさというべきか、左右逆に、つまり正常に画面表示する機能がどこかにあるはずだと勝手におもい、詮ない格闘がはじまります。結果、そういった機能も変換ソフトもないという結論に至るのですが、これは、横書き文化の発想でつくられたWordにこそ問題があるのでしょう。
 この際、Wordは捨てるしかない──、日本語処理は日本でつくられた日本語ソフトがいいだろうということで、そこで出会ったのが一太郎─ATOKの組み合わせでした。無料体験版で、画面表示を確認してみると、今度はWordのようなお馬鹿表示はないことが確認されましたので、これを新たに導入することに決めました。
 新ソフトで初めてつくるのがこの記事なのですが、文字入力についてはまったく問題はなさそうで、個々の機能については、追々に「慣れる」しかないといったところでしょうか。
 モノはいつか壊れるわけですが、次にできあがるモノは過去よりもよくなくてはいけません。革命が革命たるには、そこに人の経験と願望と意志が活きていてこそのはずで、この夏、風琳堂の内部で起こった小さな革命は、多くの示唆を与えてくれたようです。

著作権談議──盗作の自覚と反省を【下】

更新日:2010/8/11(水) 午後 6:29

 以上がsimon氏の当該日記記事の全文です。赤字表示したところは、「千時千一夜◆思索の宴」という書庫にはいっている「2009/4/23(木)午後4:43」付けの「気仙川河口流域の『氷上神』祭祀──消えた瀬織津姫神」に相当し、黒字表示がsimon氏自身のことばです。
 世の中には、一読それとはわからないような巧妙な盗作はありますが、これほどわかりやすい、いいかえれば露骨な盗作は、ある意味珍しいとさえいえますが、むろん盗作の事実に変わりがあるわけではありません。
 しかも、simon氏は大きなミスの上塗りを二つ犯しています。一つは、次の箇所です。

「ひのかみ」「ひかみ」は火神、更には氷上(ヒノカミ)に通じています。
 「日神」とあるのが『気仙風土草』、「火伏之神」と記しているのが『邦内風土記』、そして「水徳鎮火之神」としているのが『邦内名蹟志』です。
 そしてまた、最近まで氷上神社の神札を氏子の各家では、これを授けられ、火除けの神札として台所のカマド付近に貼る風習があったことは、地元住民のよく知るところです。
 ここの当該部分の原文は、『陸前高田市史』第七巻から引用したもので、文体は「である」調なのですが、simon氏は「地」の文と誤読し、ご丁寧に「ですます」調に統一するように書き替えています。当該文の前には「市史のまとめの記述を読んでみます」と断ってあることをまったく見落としたようです。
 二つめのミスは、「(岩手県紫波郡・早池峰神社の項を参照)」という、ブログ千時千一夜においてこそ意味のある参照表記を、そのまま自文に残してしまったことです。
 この日記の最後は、気仙川「源流部から河口流域まで、瀬織津姫祭祀の影や思い(信仰)が濃厚にみられる「気仙川」を眺めてみましょう」と締めくくられています。
 気仙川源流部の話は書庫「千時千一夜◆思索の宴」中に「気仙川源流の『天の岩戸の滝』──柳原白蓮と瀬織津姫神」として、流域の瀬織津姫祭祀については「岩手県」の書庫に「気仙川流域の瀬織津姫祭祀」Ⅰ~Ⅳとしてすでに記事があります。
 文末のことばは、さらなる盗作の予告とも読み取れます。

(追伸)
 本稿は、わたしが知りえたsimon氏に関する個人情報は伏せてあり、氏に限定した盗作実態の事実を指摘するに留めてあります。
 今回の件は、実は法的措置(訴訟)の可能性まで視野に入れていますが、simon氏には常識的な善処を望んでいることはいうまでもありません。

著作権談議──盗作の自覚と反省を【上】

更新日:2010/8/11(水) 午後 6:22

 紙の媒体が表現の場であれば、そこには多かれ少なかれ「他者」の眼が光っていて、盗作問題が起こる可能性は少なかったようにおもいます。一般の雑誌・書籍では、この「他者」の代表は編集者が演じますし、同人誌レベルにしても、書き手(同人)は、互いに顔が見える関係にありますから、ここではほかの同人が「他者」の視線をもっていたといえるかもしれません。
 ところが、インターネット上の表現空間においては、だれもが即物的な表現者となりうる利点があるも、その分、ノーチェックのままの自己表現が「公」の眼にさらされることになります。表現者個々が自らの内部に他者(編集者)を抱えていないと、ときに自らが盗作者を演じてしまっていることさえ自覚もないままに、盗作(的)表現を自己表現と倒錯する事態が発生することになります。盗作と倒錯──、だじゃれですまない事態が、この新しい表現空間で日常化されている感さえあります。

 つい先日のことですが、ある読者の方から、次のようなメールをいただきました。

http://mixi.jp/show_photo.pl?id=12163801
風琳堂主人さんの
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/15296412.html
この記事を、ちょっと変えてコピーしていてびっくりしました。
すでに許諾があったのなら余計なことしてすみませんでした。

 この文面のあとに、問題の記事の複写がつづくのですが、それはあとでふれるとして、わたしの返信と読者からの応答は次のようなものでした。

このたびは貴重なお知らせをありがとうございました。
「simon」なる方からは掲載許諾の問い合わせもなく、文面を拝見するかぎり、明らかに著作権を侵犯している、つまり「盗作」といってよさそうですね。
mixi 世界からはすでに脱退していて現物を拝見できませんが、このmixi 世界というのは会員制秘密クラブみたいな印象をもっています。
閉じられた親和的な関係を心地よくおもう人も多いのかもしれませんが、その分、他者の批評の眼(視線)も廃除されがちで、野放図な甘えの表現世界ができる傾向にあり、今回などはその典型かもしれません。
「気をつけた方がいいですよ」というアドバイスをそっとできる人がsimonさんの周りにいるといいのですが……。

お返事ありがとうございます。
最近mixiは招待制ではなくなったのですが、キャッシュには残らないので書き放題なところがあります。〔後略〕

 メールのやりとりはもう少しつづくのですが、「キャッシュには残らないので書き放題」という、この「キャッシュには残らない」云々の業界用語がわたしにはまったく理解できていないことを告白しておきます。
 さて、問題の盗作記事は、mixiという部外の者が閲覧できない世界に書かれたもので、表現者は「simon」と名乗る人物、記事(日記)アップの日付時刻は2010年8月1日12:42です。念のためスタッフのT君にも出力してもらい確認した、当該の日記記事全文を引用します。「アイヌが信仰していたという『理訓許段[りくこた]神社』に続いて『氷上神社』の由来を尋ねてみよう」として書かれたものです(写真は削除、段落間の一行アキは詰めて引用)。

既に、ご案内した通り、延長五年(九二七)に成る『延喜式』神名帳の陸奥国気仙郡には、理訓許段[りくこた]神社・登奈孝志[となこし]神社・衣太手[ころもだて]神社の三社が記載されています。
これらは「気仙三座」とされるも、その元の祭祀地は不明、現在、三社まとめて氷上神社(冰上神社)とされます(陸前高田市高田町)。
 氷上神社の社頭には、石川啄木の「命なき砂のかなしさよさらさらとにぎればゆびの間よりおつ」という歌碑が建立されています。
また、境内の神池の小島には朽ちかけた祠ではあるものの、まるで弁財天(厳島神・宗像神)の祭祀のごとくに、なぜか信州の「戸隠神」(戸隠ノ明神)が勧請されてまつられています。

 さてさて、氷上神社は、本殿の東御殿に衣太手神、中御殿に登奈孝志神、西御殿に理訓許段神をまつり、「郷民氷上山を信仰の聖地として、三峰理訓許段・登奈孝志・衣太手の三宮を鎮祭し、氷上霊峰と称え尊崇す」とのことです(『岩手県神社名鑑』参照)。
 延喜式時代、氷上山は「気仙山」と呼ばれていましたが、この氷上山頂の三宮に対する里宮として、現在の氷上神社はある
のです。
 祭神の衣太手神・登奈孝志神・理訓許段神ではどんな神様かわかりませんので、衣太手神=天照太神、登奈孝志神=稲田姫神、理訓許段神=素戔嗚神とも表示されるように承ります。
 ここに出雲ゆかりの二神が配されているのは興味深いところですが、これは、昭和十七年に発行された『冰上神社』(氷上神社社務所)に記載された神名です。
 然し、『陸前高田市史』第七巻によりますと、こういった記紀の神名を気仙三座にあてようとした最古の文献は、文化十二年(一八一五)四月に京都・吉田家に提出した「差上候社記」です。
 同年暮れには神道裁許状と免許状が下され、勅許の名のもとに「氷上三社大明神」は「正一位」の神階を得ることになり
ました。
 しかし、『市史は、「当氷上三社の由来」については、気仙郡三座の「理訓許段神社」「登奈孝志神社」「衣太手神社」に比定する論争は、実は藩政時代からその賛否をめぐって、多くの学者によっておこなわれている』と、その賛否両論の説を紹介しています。
 この両論の説の詳細は脇におくとして、そもそも氷上神とはなにかを考える上で参考になるので、市史のまとめの記述を読んでみます。
すると、
「ひのかみ」「ひかみ」は火神、更には氷上(ヒノカミ)に通じています。
 「日神」とあるのが『気仙風土草』、「火伏之神」と記しているのが『邦内風土記』、そして「水徳鎮火之神」としているのが『邦内名蹟志』です。
 そしてまた、最近まで氷上神社の神札を氏子の各家では、これを授けられ、火除けの神札として台所のカマド付近に貼る風習があったことは、地元住民のよく知るところです。
 氷上神は「日神」「火伏之神」「水徳鎮火之神」の三説によって語られる神のようです。しかし、同社氏子(地元住民)の信仰を元にすれば、氷上神は「火伏之神」「水徳鎮火之神」というのが生活の実感に根づいた神徳とみられます。
 文化十二年(一八一五)初見の氷上三神(天照太神・稲田姫神・素戔嗚神)が、その後の氷上神社祭神として現在に至るのですが、江戸時代初期、まさに「水徳鎮火之神」を奉祭する分社が創建されます(奥州市江刺区梁川字舘下)。その名も氷上神社といいます。
 ここは、室町時代作の聖(正)観音との同居祭祀がなされていましたが、神社の由緒標識には、以下のように意外なことが記されています。

 元和三年(一六一七)気仙高田氷上神社より分霊奉遷 祭神瀬織津姫命

 本社・氷上神社は、明治期を待たずに自社祭神から瀬織津姫命の名をはずしたようですが、分社・氷上神社は、この祭神の名を現在にまでよく伝えたものです。
『岩手県神社名鑑』
によると、本社・氷上神社境内社の項には、雷神宮・稲荷神社・清神社・道祖神社・風宮神社・八千矛神社・森神社・御禊神社の八社が記載されています。
 分社祭神の瀬織津姫命がまつられる社として考えられるのは、その最有力社としては「御禊神社」、次に「清神社」の可能性が
あるのですが(境内社としては不記載の戸隠社もありえますが)、いずれにしても、氷上神社のかつての祭神であった瀬織津姫命の名は、本社祭祀からは消えています。
 これも「陰気」の話の一つですが、各地に散見された明治期以降の露骨な「陰気」は、その前へさかのぼっても確認できることを、この分社・氷上神社は告げているようです。
 本社・氷上神社の由緒記録からは消去されるも、気仙川河口流域には、かつて、瀬織津姫命の祭祀があったことは事実とみられます。この神の祭祀を、もし延喜式内の気仙三座(氷上三社大明神)のいずれに比定しうるかを想像しますと、やはり「衣太手神社」が相当するのかもしれません。

 その様に思う由縁は、この衣太手神が「天照太神」とされていること、および「衣太手[ころもだて]」という社名・神名が「機織」とゆかりありそうだとおもわれるからですが、むろん、このことに強くこだわるものではないと思われます。
 因みに、分社・氷上神社境内には、「憲法公布記念」と刻まれた「大年神」の石碑が建立されています。
 これは全国的にみてもとても珍しい石碑
です。「憲法公布記念」には、日本の歴史上、初の民主社会(民主憲法をもつ社会)の到来を寿[ことほ]ぐ意識が刻まれているとおもわれます。
 それにしても、なぜ「憲法公布記念」として「大年神」(男系太陽神「日神」・稲作初源神の異称神名)が、瀬織津姫を祭神とする神社境内に勧請・建立されるのかを考えると、これはとても意味深長だ
なあと思えてきます。
 かかる石碑建立者は、日本の民主社会到来を「記念」して、それまでの瀬織津姫命の単独神祭祀に、かつての伴侶神を奉納したものともみられるからでしょう(岩手県紫波郡・早池峰神社の項を参照)。
 分社・氷上神社の氏子衆あるいは関係者に、こういったリベラルな信仰・感情があったことと、自社祭神を本社のように変更することなく現在まで伝えてきたこととは、おそらく無縁ではないと
思われます。
 源流部から河口流域まで、瀬織津姫祭祀の影や思い(信仰)が濃厚にみられる「気仙川」を眺めてみましょう。
(つづく)

出版夜話──現実三昧

更新日:2010/8/9(月) 午後 2:50

 新聞広告による問い合わせ等の対応も一段落したようです。なかにはかなりきわどい(?)やりとりもあって、まったく「退屈」しません。
 ところで、不動産世界の素人にとって、土地を売買するには、信頼できる不動産業者とどう出会うかが最大のポイントなのかもしれません。たとえ小さな土地でもいざ売買となればそれなりの「お金」が動きますから、いろいろな思惑を秘めた関係業者と面談したり査定を依頼したりと、円空や瀬織津姫を語ることとはずいぶんと遠い日常世界に浸かっています。
 あれこれ検討した結果、ここなら任せてよさそうだとおもえる不動産業者と出会い一安心したら、土地所有者の名義人に死者の名が残ったままだと指摘され、数年ほど前にこの世から卒業した死者(父親)の名義を書き替えるために、今度は司法書士という、これも未知の世界の人とコンタクトをとることになりました。
 換金可能な土地があったことはさいわいというべきで、これはあとあと風琳堂の出版軍資金にするつもりですが、その前に、風琳堂の経営体質をスリムにすることにしました。具体的には、商法登記の「株式会社風琳堂」から「株式会社」を削除しようということなのですが、司法書士の方のアドバイスによれば、土地の整理をする前にそれはしておいたほうがよいとのことで、なにやら慌ただしさが加速したようです。
 土地の整理(→移転)に加え、法人組織を解体(解散)することになり、これらの慌ただしさを「現実三昧」と命名しました。当初は法務局と相談し、法人解体を自分の手でやろうと試みてみましたが、用意すべき資料や手続きの煩瑣にすぐにギブアップしてしまいました。
 風琳堂は1984年にオープンし、1993年に法人化したという経緯があり、現在までのいくつかの経営危機のたびに、これもさいわいというべきですが、どこからか必ず応援者が現れてくれて窮地を救われることを繰り返してきました。一般的にいえばですが、出版経営を潤沢に成り立たせるにはもっとも困難とされる学芸書を、出版企画の中心からはずさずにきましたから、自ずと累積赤字を抱えるという経営体質となります。
 また、なによりも法人(会社)経営者としての資質・性向がわたしに致命的に欠如しているという問題もあります。風琳堂の累積赤字の最初は、法人化した二年後あたりからはじまっていて、その前の自営業時代にはほとんど経験のないことでした。身の丈に合った出版をしていたということですが、では、なぜ法人化したのかといいますと、それは、一言でいえば、つくった本の書店への流通をよくするため、でした。
 出版社と書店の間には問屋(出版取次)があって、その大手取次と契約交渉に東京へ出向いたときに、こちらが「法人」であることを条件に出されたという経緯があります。これは、結果的に「騙された」となりますが、一旦法人にしてしまうと、解体(解散)にも相当額が必要との税理士の意見で、今日まできました。
 またもや応援者の出現があって、タイミングとしては、「今」しかないだろうということです。この法人整理に関わる背後の出版状況も大きく変化してきていて、本の購読者は書店ではなく読者であるという出版原点を再考することになりました。
 出版編集者にとって、つくった本(の一割にしても五割にしても)が書店→取次からボロになって返ってくるというのは本の廃棄を意味し、これは精神的にはかなりダメージがあります。このことは経営的にも同じですが、こういった既成の本の流れを絶つ必要を感じて、およそ十年前に、返本を自明とする書店への本の委託流通(書店営業)を取りやめました。『エミシの国の女神』からです。
 書店から風琳堂の既刊本が完全に消えるまでに一年余かかりましたが、当初は、書店を探しても本がないということで、いくつか苦情もいただきました。その理由を知りたいという読者にはその都度説明するようにしていましたが、おそらく現在では、風琳堂の本は書店には置かれていないことが当然になっただろうと(勝手に)判断しています。
 返本のない出版を『エミシの国の女神』で実験的にはじめてみて、風琳堂の累積赤字は別としても、この本から黒字に転じました。書店に本が置かれることがなくても、出版は可能であることを確認できたことにおいて、この本は画期だったなとおもいます。『円空と瀬織津姫』にしても、およそ二年で出版経費の回収のメドが立ちましたから、ここで読者にあらためてお礼を申し上げておきます。
 ところで、現実的な人間の信頼関係は連鎖するようです。逆もありで、最近は瀬織津姫関係でこれを経験していますが、それはともかく、信頼できる不動産業者から司法書士へ、そして税理士へと、信頼に足る人たちの連鎖的な出会いに驚いています。わたしの生活習慣からは異分野の人たちばかりですが、それぞれの分野で誠実に、かつ一家言をもち自立的に世間と渡り合っている姿勢がいいです。要するに、一緒にお酒をのんで旨いとおもえる人間の対等関係は、案外あるようでないのかもしれません。
 現実三昧の日々でしたが、読者から盗作問題の指摘をいただきました。むろん、わたしが盗作しているのではなく、この千時千一夜の記事が露骨に盗作されているということです。これについては、稿を改めて書きます。