北上・多岐神社(新山宮)──妙見信仰の残照【Ⅰ】

更新日:2011/8/24(水) 午後 3:20

 菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻の巻末に「瀬織津姫神全国祭祀社リスト」が収録されています。これは、佐賀・熊本・沖縄を除く44都道府県にまつられる全444社の祭祀リストで、資料は2008年1月現在のものです。
 この資料から今日現在まで三年半ほどが経過していて、その後、ブログ等のネット上に新たな祭祀情報が載せられることなども散見されます。また、「全国の村史(誌)等には、瀬織津姫神の祭祀社がまだ多く記載されていることが予想され」と後書きしましたが、心ある読者によって、資料的にもきちんと押さえた上での新たな祭祀情報も寄せられています。ネット上の情報については、全体を把握するのは困難というのが現状ですが、現在、瀬織津姫神をまつる神社数が444社をはるかに超えるものであることはまちがいありません。
 以上は「瀬織津姫」という神名をそのまま表示している(文献資料的に確認できる)ものという条件での数ですが、しかし、この神は、天照大神荒魂・八十禍津日神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、鳥海山では大物忌神など、多くの異称でまつられる場合も多く、それらを含めた全体祭祀の把握はこれからの課題といえます。
 前記祭祀社リストは基礎リストといった性格であり、瀬織津姫神をまつることが最多的に確認されている岩手県においてさえ、新たな「発見」があります。以下、その新「発見」の社を紹介します。

 大正八年に刊行された『和賀郡誌』立花村(現在:北上市黒沢尻立花)の項に、次のような記述があります。

村社多岐[タキ]神社
橘内にあり。稲倉魂命を祭る。由緒に曰く、
坂上田村麿東征の砌東光水といふ霊泉を祈る。後藤原仲光の祈願所として尊崇厚し。後一條天皇の御代関白藤原頼通朝廷に奏聞し三井兼平を遣し御堂再建、其使者の詠に、
  都にて聞きしにまさる多岐の宮
    峰の古木に照す月影
とあれば、当時境内は古木鬱蒼たりしが如し。現社は文政五年の改築にして、彫刻精巧、鞘堂を以て之を覆ふ。

 社号「多岐[タキ]神社」と祭神「稲倉魂命」という表示にはどこかミスマッチの感が残ります。なぜならば、多岐[タキ]は滝であることが考えられるからです。多岐神(滝神)が「稲倉魂命」(稲荷神)とされる不自然さに加え、「都にて聞きしにまさる多岐の宮/峰の古木に照す月影」といった歌が、現行表示される神にはまったくそぐわない印象を増幅させています。ありていにいえば、ここには本来の多岐神(滝神)がまつられていたのではないかという疑念が消えません。
 こういった疑念を晴らすには現地へ足を運んでみるしかありません。社への道順を尋ねた村人曰く、社殿の背後には小さな滝があるとのことで、多岐=滝であることはまちがいないようです。
 多岐神社は、手持ちの岩手県地図帳に記載がなく、きっと小さな社だろうと想像していましたが、意外なことに、境内には神池もあり、『和賀郡誌』の短い由緒が語るように、ここには「聞きしにまさる」神がまつられていたとしても不思議はないようです。




▲多岐神社

 境内には、郡誌の要約由緒とはちがい、大元らしい長文の由緒が掲げられています。少し長いですが、全文を書き写してみます(段落ごとに字下げを施し、適宜句点を補った)。

多岐神社由来
(北上市)指定文化財 正一位 多岐大明神
 抑[そもそも]、多岐大明神と申し奉るは、往昔人王五十代桓武天皇の御宇、征夷大将軍坂上田村麿、勅命を奉じ東国の鬼神首領、悪路王高丸其の外これに組する鬼神共を退治の為、陸奥に下りけり。
 稲瀬の奥なる三光岳に潜居する岩盤石と申す鬼神、悪路王に組して、余多の手下(を)擁して其の勢力大なるに、将軍三百余騎を差し向けて攻めるも、巌窟峻険にして容易に攻め難く、止むなく北東に迂回して背後より攻め破らんとせしも、路に迷いて難渋、加えて六月中場の炎天、軍兵渇して疲れ倒れる者出る始末なり。
 このとき八十余の翁、薪を背負いて通るを、此の辺りに清水の湧き出づる処無きやと問うに、此の先に清水の湧き出づる泉あり、下流に瀧有りと申したれば、その瀧に到りて陣をとり、渇を癒しければ、兵勇気百倍となり士気大いに揚がる。而かして翁の案内にて三光岳を急襲至しければ、流石の岩盤石も三百余打討られ北方へと逃げされり。
 将軍翁を召して其の功を賞し、砂銀を当分として与えたり。
 其の後将軍、鬼神悪路王其の他の鬼神共を討伐、帰京のみぎり、当所に立ち寄りて、かつての翁を尋ぬるに、村人申すには其の様な翁の住居も無く知る者も無しと、かへりみるに此の地に東光水と申す瀧ありて、この水にて妻の木の枝なるを煎じて用いれば病気直ちに全快するとの霊地あり、翁は其の瀧の化神に非ざるかと申し上げたれば、将軍不思議に思い、瀧に参りて見渡すに……瀧の下なる石に砂銀置かれ在るを見る、些ては矢張り翁は化神にて征軍の難渋しあるを見兼ね、自づから御導引きになられたに相違ないと、その有難さに、瀧の落つるに向いて三度礼拝し、命じて一社を御建立、多岐宮と号し崇め玉もう。
 ときに、延暦二十一癸未年八月の事なり。
 後代に至り藤原仲光、立花村高舘に住みし頃、干ばつ冷温が屡々有りたれば村民困窮の処、東光水の流れる処は独り五穀実りしは多岐宮を祈誓護持し参りし仲光の至誠通じたるか、神の恵みに村人その有難さに参詣怠らずとか、云々。此の由、都に聞こえければ、関白藤原頼通、帝に奏上成りたれば、帝此れを嘉みし、三井兼平を勅使として御遣わしになられたり。
 依つて御堂三間四面を再建され、境内二丁四方、山林十丁を附属して神社守護の礎とし、稲倉大明神と改号せり。
 御堂再建を祝つて三井兼平
  都にて聞きしに満さる多岐の宮
     峯の古木に照らす月影
と詠みたり。
 時に長元八年四月、後一条天皇の御宇なり。
 文政七年に至りて、此れまでも神社の修復、改築は数度行われてきたのだが破損甚だしくなりたれば、南部家の地頭桜庭十郎衛門の助力と近隣の寄附により建立したのが現存の神社にして、彫刻の精巧さは稀少の物とされている。
  多岐神社例祭
    宵祭り  九月十四日
    本祭り  九月十五日

 坂上田村麻呂(麿)時代には「多岐大明神」であったものが、関白・藤原頼通の時代に「稲倉大明神と改号せり」とあります。こういった「改号」を由緒は記録するも、現在は「正一位 多岐大明神」と戻されていることに注意がいきます。
 田村麻呂伝説のなかで語られる「鬼神悪路王」は、『続日本紀』延暦八年(七八九)六月三日条に「賊帥[ぞくすい]夷[えみしの]阿弖流為[あてるゐ]」と初出される、朝廷軍に敢然と立ち向かった蝦夷[えみし]の首魁・阿弖流為を偽悪化した表現です。
 阿弖流為を悪路王の名で偽悪化するというのは、裏返せば田村麻呂の美化(伝説化)とセットというべきで、東北の多くの寺社が、この田村麻呂伝説を自らの縁起・由緒として取り込んでいます。多岐神社の由緒の前半などは、その典型といえましょう。
 ところで、悪路王という名の初出を文献的にいうならば、それは、鎌倉期に成る『吾妻鏡』かとおもいます。奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉への帰途、平泉南西にある達谷窟[たっこくのいわや]に立ち寄ります。『吾妻鏡』では、達谷窟は「田谷窟」と表記されていますが、文治五年(一一八九)九月二十八日条に、次のようにあります。

是(田谷窟=達谷窟)田村麿、利仁等の将軍、綸命を奉りて夷を征するの時、賊主悪路王並びに赤頭等、塞を構ふるの岩屋なり、〔中略〕坂上将軍、此窟の前に、九間四面の精舎を建立して、鞍馬寺に模せしめ、多聞天の像を安置し、西光寺と号して、水田を寄附す、

 中央側の史書(『続日本紀』)に明記されていた「阿弖流為」の名が「悪路王」として『吾妻鏡』に記されているところをみますと、坂上田村麻呂の伝説化(美化)は平安期にすでに形成されていたとみることができます。この伝説化の発信地はいうまでもなく、田谷窟=達谷窟(の西光寺)で、この伝説化(美化)は「達谷窟毘沙門堂縁起」に端的に表されています。
(つづく)

遠野花火──月との饗宴

更新日:2011/8/16(火) 午前 10:23


▲月と一輪の花火草


▲花火の中の月(花火の欠けは隣家の影)

 8月15日は「遠野納涼花火大会」とかで、早瀬川原から花火が打ち上げられます。
 花火の音を聞きながら新しい部屋の片づけをしていたのですが、室内から、写真程度の花火は鑑賞できます。
 遠野で手に入るという条件ですが、岩手のおいしい純米地酒をみつけました。紫波郡の月の輪酒造店がつくっている、その名も「月の輪」といいます。酒蔵あるいは杜氏(南部杜氏か)の酒づくりの「本気」が伝わってくる一品で、今宵はできすぎの「月の宴」になりました。

津波に耐えた川口神社

更新日:2011/8/10(水) 午前 3:20

■はじめに──引っ越しはつづく
 1DKに収まりきらない名古屋からの荷を倉庫に置いたままで、このことが気がかりの種でしたが、遠野で不動産業を営む知人のM氏から、アパートへの入居のキャンセルが突如あった、入る気があるかどうかという打診の電話を受けました。こちらの事情としては、古アパートだろうが古民家だろうがなんであってもかまわないということもあって、物件をみることもなく借りる意思を伝えたのでした。
 この新物件は2LDKで、意外にも築二年という新しさ、しかも、1DKアパートからは歩いて十分ほどの近さで、なんといっても風呂の空間が一坪あり、M氏にいわせると、遠野のアパートのなかでもっとも贅沢な風呂だとのことです。風呂のことばかりではありませんが、いわばマンション仕様で、倉庫荷物をただ移す空間としては、たしかに贅沢なアパートというべきです。
 震災後四ヶ月以上経った現在、アパートの空室を待っている人は二十人余とのことで、M氏からの入居打診は破格の特別優遇とおもわれます。このことを伝えますと、M氏曰く、「4月から空室の問い合わせをもらっていたから順番にすぎません」とのことで、彼のさりげない気遣いのことばもありがたく、ここは甘えることにしました。
 同居人の自称「遠野のヤマンバ」は、きっと早池峰の神様の図らいでありがたいことだと瀬織津姫をまつる自作祭壇に手をあわせていましたが、信心が皆無のわたしとしては、アパート確保のありがたさの反面、また引っ越しかという思いもあります。ともかく、倉庫荷物を移すことに加え、古アパートの荷をも移すということになりました。
 ここでいう「荷」とは、ほとんどが本のことなのですが、おもえば、昨年の夏からはじめた本の「仕分け」でした。この6月に名古屋事務所を解体・撤去するまでに、「資源ゴミ」として処理した分を含めて、おそらく5トンは下らない本を箱詰めしてきたはずで、おかげで座骨が1㎝ほど飛び出すことになり、遠野へたどりついたあとは、仰向けに寝ることのできない夜がつづいていました。
 愛知県知多半島・内海町の「白砂の湯」という温泉に、わたしが信頼している整体の達人がいます。土地の引き渡しや法人関係の事務整理の必要もあって名古屋へ出向いた折、時間の合間をみつけて知多半島へ車を走らせました。「かみや整体」といいます(本店は半田市)。整体師の神谷さんは歪んだ脊髄を直すプロというのがわたしの密かな評価で、整体の最中に話される人体論・人骨論はなかなか説得的、カラダのメカニズムを再考させてくれます。日頃、カラダのことはあとまわしの自分ですが、彼のおかげで、ウソのように座骨は引っ込み腰痛は和らいだのでした。
 新アパートへの荷運びは自分一人の仕事で、腰痛の再発はご免だということもあって、腰への負担を軽くするため、本は段ボール箱ではなくリュックサックに小分けして運ぶことにしました。結果、荷運びの回数(時間)は倍以上かかりましたが、ともかく本だけは運び終えて一段落したところです。
 生き別れていた名古屋所蔵本と遠野所蔵本を合わせて棚に入れていきますと、同じ本が何冊もあることに気づきます。こんなところに、名古屋・遠野の「距離」が表れているようです。必要な一冊をどちらかに取りに行くにはやはり「遠い」ですから、いきおい買ったほうが速いということになります。
 この新倉庫&編集空間は、先にも書いたように実質マンション仕様で、生活するという点からいえば、わたしがこれまで住んできたどの空間よりも先端的な設備が整っていて快適です。その象徴が、先にふれた一坪風呂でしょうか。ある意味、ここは「遠野らしくない」空間ですが、この新アパートに、風琳堂の出版(社)機能を徐々に移行していくことにしました。
 東に六角牛山、南に物見山、西に高清水山(その奥に石上山)、北に天ヶ森(その奥に早池峰山)を望み、猿ヶ石川と早瀬川の合流・川合の地にあるというのが、この新アパートのおおよその立地です。
 室内の片づけはまだ半分程度なのですが、引っ越しばかりにかまけていては面白くありませんので、遠野にいるという「地の利」を活かしたことを少し書いていきます。

■八戸・川口神社へ
 岩手県領域における三陸沿岸部の震災状況については、神社を中心に少しふれてきました。この「神社」を瀬織津姫祭祀社というように限定してみたとき、三陸沿岸の最北にまつられる川口神社の存在・消息はとても気になるところです。なぜなら、川口神社は青森県八戸市の港内の岩礁のような小島(現在は陸続き)にまつられているからです。
 八戸港を襲った津波の高さは約6メートルとのことで、岩手以南のそれに比べれば小さくも感じますが、港湾部を中心に八戸市も津波による被害は甚大であったといえます。川口神社を所管する御前神社の宮司さんの談によれば、地震時、御前神社境内の地面が大きく波打っていた、周囲の人は避難したが自分は神社を守る覚悟でいつづけたものの、まったく生きた心地がしなかったとのことです。


▲御前神社

 川口神社が無疵ということはありえない、ひょっとすると流出して何もないかもしれない、それをこの眼で確かめるだけでもいい──、どうしても川口神社を訪ねたいというヤマンバと車中でそんなことを話しながら、神社へと向かったのでした。
 しかし、これはわたしたちの杞憂であったというべきか、川口神社の社殿は、先年にわたしが訪れたままの姿でそこにありました。震災から四ヶ月余も過ぎているということもありましょうが、津波に襲われた痕跡を外観にみつけることはまったく困難でした。御前神社の宮司さんにこのことを話すと、「よく聞いてくれました」といって、氏子の皆さんと一緒に泥の搔きだしや清掃でほんとうに大変だったという苦労話を拝聴することになりました。川口神社健在があまりに意外だったからなのでしょう、ヤマンバはすでに参拝のときから眼を真っ赤にしていて、宮司さんの話を傍らで聞いていて、また真っ赤赤です。


▲健在だった川口神社

 わたしたちは、御前神社特製の御神酒と「川口神社略記」をいただき辞したのでしたが、この略記は、わたしが初めて眼にするもので、瀬織津姫という神が八戸の海民にいかに信奉・崇敬されていたかがよく伝わってきます。以下に全文を紹介します。

川口神社略記
祭神 速瀬織津比売神・速秋津比古神・速秋津比売神
由緒・沿革
 川口神社の鎮座するここ湊川口は、今はそのおもかげはありませんが、かつて馬淵川と新井田川とが合流して太平洋に注ぐ、天候によっては船の出入りの極めて難儀する岩石重塁する処でありました。
 当初は地元の漁師たちの崇敬する一小祠であったようですが、水戸(港)の出入口でしたので、海に依存する地域の人々にとっては、航海安全・大漁成就を中心とする信仰とともに、災いや汚れを祓う神としても崇敬され、別名『川口大明神』とも又『川口の龍神さま』とも呼ばれ尊称されてきました。
 流れゆく潮のように、罪や汚れを祓い清める水戸[みなと]の神である主祭神の他に、さらに川口神社には海の幸を生み育てる大綿津見神及び食物の神である豊受比売神の二坐をも合祀しています。
 社伝によりますと、創建は万治2年(1659)と言われ、寛保3年(1743)には、当時の藩主より「御屋根柾十五丸寄進」があり、川口勇猛善神と称号した旗二流の奉納があったということです。
 藩政時代は、水揚げの十分の一を納税するいわゆる「十分一役所」が近くに置かれたこともあり、寺社奉行大目付役等の御代参が毎年あったとも伝えられています。
 近くは南氷洋の捕鯨漁業の盛んであった折りには、毎年南郷村出身の多くの乗組員がここ川口神社のお守りを身につけ、地球の裏側南半球の厳しい氷の海で大活躍したことも忘れられない神社の歴史の一コマです。
 昭和30年代前半は、八戸港のいか釣り船が最も多かった時代ですが、盛漁期の毎夕数百隻が川口神社に見守られながらここ川口をひしめくように勇躍出漁していったあの光景は、今の古老の方々にはなんとも懐かしい思い出となっていることでしょう。
                平成十二年秋 記

 川口神社の「創建は万治2年(1659)」とありますが、この「創建」は「分社創建」という意味で、「速瀬織津比売神」は江戸期まで本社・御前神社の神でもありました。これについてはすでにふれたことですから、ここではくりかえしません(青森県「川口神社」参照)。
 昭和前期(戦前)のいつの時点かは不明ですが、手書きの「神社調」の御前神社(「神社調」の社号表記は三前神社)の項には、川口神社は「摂社」とあり、また、御前(三前)神社ともども「式外」と記されています(八戸市立図書館所蔵)。平安期の延喜式内社には記録されなかったものの、当時すでに存在していたとされる式外社としてあるとしますと、御前神・川口神の祭祀は相応に古くさかのぼるものであることを伝えようとしていたのかもしれません。
 それはともかく、藩政時代(江戸時代)、藩主から「川口勇猛善神」の称号を贈られていたというのも、瀬織津姫神に対するものと理解できますが、中央祭祀において、この神が「天照大神荒魂」の異称をもっていたことをおもえば、これは、なるほど「言い得て妙」の称号です。
 ところで、川口神社の祭祀地について、「かつて馬淵川と新井田川とが合流して太平洋に注ぐ、天候によっては船の出入りの極めて難儀する岩石重塁する処」だったとあります。この「岩石重塁する処」については、現社殿の背後にその面影を確認できますし、江戸時代末期の俳人三峰館寛兆[さんぽうかんかんちょう]が描いた八戸の風景図の一齣によってもわかります。


▲社殿背後の岩礁


▲江戸時代の川口神社(左岩礁の上にまつられる)

 瀬織津姫神が航海守護の霊神として崇敬されていたことは、西国・宗像や佐賀関、また瀬戸内海・大三島の祭祀などにも顕著にみられることで、それが、はるか北の陸奥国の沿岸部にまで伝わっていたことに、わたしたちはもっと真摯に驚いてよいのかもしれません。
 御前神社に伝わる、かつての宮司氏の作とおもわれる古歌がありますが、引用の略記にはふれられていませんので、これも再録しておきます。

みちのくの 唯[ただ]白幡旗[しらはた]や 浪打に 鎮りまつる 瀬織津の神

 戦前の「神社調」における御前神社の由緒を読みますと、平安期にはじまる神仏習合時、同社の神宮寺は「浪打山光伏寺」といったとのことです。その後の廃寺過程についてははっきり書かれていませんが、一つ興味深いのは、この神仏習合時、「当社ノ側ニ祠ヲ造営シテ慈覚大師一刀三礼ノ作八幡ノ尊像ヲ安置ス」とあることです。
 慈覚大師(円仁)が浪打山光伏寺(御前神社)へやってきて、「八幡ノ尊像」を彫りおいたという伝承が何を意味するのかについての解釈はさまざまでしょうが、御前神社の神が八幡祭祀と無縁でないことが、円仁伝承に仮託して語られていること、このことはやはり注意を引きます。御前神社の初源の神が八幡祭祀とも深く関わっていること、つまり、八幡大神がもともと白幡(白旗)神でもあったことなどが想起され、引用の瀬織津姫賛歌が含意することを考えますと、やはり深慮の歌という印象は消せないようです。

二つの解体──遠野六畳空間から

更新日:2011/6/23(木) 午前 0:26

 現在、六畳二間・1DKのアパートが遠野における住空間のすべてということで、ここで自称「下宿人」を一人抱えるというのは、それなりの自由空間を創り出すためには創意工夫を重ねる必要があります。下宿人は六畳和室の半分と押入を、自分の居住空間としてすでに確保・整備していて、残りの三畳分が、段ボール箱に囲まれたわたしの寝所ということになります。
 倉庫に一時保管してある荷物を引き取る期限は半年以内という契約で、長いような短いような猶予時間はあるものの、日々を生活する感覚は、やはり少しでも快適性を求めることになります。下宿人の当面の要望は、テレビ・洗濯機・電子レンジの三点と新聞の購読とのことで、特に洗濯機を置くスペースをつくるには、また一工夫する必要が出てきました。なぜなら、そこは書庫空間・物置として利用してきたところだからです。
 地震による室内散乱の片づけで、本の「仕分け」をかなりしたつもりでしたが、新たに運び入れた段ボール箱を少しでも減らしたいということもあって、さらなる「仕分け」を断行しました。
 せっかく片づきかけた六畳分の編集室(DK空間)でしたが、そこにはまた荷の山が積まれ、それらを睨みながら、深夜に独り酒を飲んでいる自分がいました。このDK空間は、出版社・風琳堂の編集室として対外的には開かれた場でもあり、ここを倉庫然として放置しておくわけにはいきません。
 デッド・スペースはないか──、と室内を睨んでいて気づいたのが、わたしの椅子の背後の天井までの空間でした。着想・方針が決まれば、あとは実行してみるのみです。キッチンの食器棚や和室ほかの書棚・物入れとしてバラバラにつかってきたカラーボックスを集めて積み上げていきますと、最上段の棚と天井の間は2㎝弱で収まり、これにはちょっと感動しました。かつて同じ色合いの箱をそろえて購入していたことが、ここにきて活きたというべきか、それなりにコーディネートされた書棚の雰囲気となってきました。決して高級仕様ではないが、要はセンスの問題である──、これは多分に自画自賛的な言い分ですが、自分が生活的な上昇願望をもっていないことをあらためて確認したようです。


▲遠野編集室

 暫定的な仮空間ではあるものの、編集室として少しサマになってきたかと一人悦に入っている一方で、名古屋事務所の解体は着々と進んでいるのでした。植木も木で、伸びたいように放っておけとしてきましたので、近所からはやや顰蹙を買ってきた、かつての名古屋事務所でした。都会の中の小さな森の様相を呈していた職住一体の建物も、ユンボという現代の強力機械にかかると、実にあっけないことになります。
 解体・整地の一切をまかせていたSさんから、その作業過程の一連の写真が添付メールで送られてきて、それらを眺めていたら、これも「記録」として残しておきたくおもいました。








▲名古屋事務所の解体

 解体後、小判も人骨も出なかったとの報告でしたが、文字通り、ただの「土地」に還った空間をみていますと、最後の澱[おり]のように残っていた感覚も消え、踏ん切りというのはこういった感覚をいうのでしょう。
 名古屋事務所の閉鎖・解体と同時進行で進めていたのが、風琳堂のそれまでの経営形態である「法人」の解体でした。
 書店と出版社の間の「本の流通」を取り持つ問屋的存在を出版取次といいますが、この法人解体を電話で告げると、それまでの契約関係は白紙となり、精算のため本社(東京)へ一度出向くようにとのことで、久しぶりに酸素の少ない大都会へ行ってきました。
 風琳堂はこれまで、三社の出版取次会社と契約関係にありました。各担当者は例外なく、法人解体を出版の廃業とイコールと考えていたようで、法人を個人にもどすが出版はつづけるというと、少なからず面喰らったようです。
 アマゾンやブックサービスといった仮想(バーチャル)書店なども一般書店と同様で、出版取次との契約関係があってこそ、そこに本は流通しています。取次との契約関係がなくなると、こういった仮想書店から読者は本の購読ができなくなります。出版社にとって、販路が狭まるというのは一見不利となるようにみえますが、そのことを暗に踏まえた上なのでしょう、某出版取次の担当者は、なぜ法人を個人にもどすのか、その理由を聞かせよとの質問です。以下は、そのときの応答なのですが、風琳堂がこれまで出版世界と関わってきて、出版に対するどのような考えをもっているかの一端でも伝わってくれるかもしれません。
 法人を個人にもどすには二つの理由があります。一つは、読者と本の関係に関わります。つまり、読者にとって、必要な本、あるいは読みたいとおもう本の発行元・出版社が、個人経営であるか法人経営であるかはまったく関係がないということです。もう一つは、出版経営の純感覚に関わります。法人経営をつづけているかぎり、利益の有無にかかわらず、最低でも毎年18万近くを「税」として納めることが義務づけられていて、この18万を捻出するためには、いったい何冊の本を売る必要があるのかを考えますと、これは不条理ともいえることがみえてきます。つまり、極端な言い方になりますが、風琳堂は「お上」や国のために出版をしているわけではない、となります。この18万の負担ほかに耐えられず、多額の借金を抱えて文字通り廃業した出版社は数多くあり、風琳堂は同じ轍を踏むつもりはないということです。
 これら二点の理由は、地方あるいは東京からは僻遠の地にいて、なお全国を相手に出版をするといった、新たな出版の可能性を探るという「想い」とも関わっています。東北・岩手という地方にいて、いやどの地方にいてもかまわないのですが、さらにいえば、心ある読者の地平に立って、今回、新たに出版(社)をリセットしたいと考えている──。
 某取次担当者への応答の概要は以上なのですが、ここでおもわぬ展開となったことも書き添えておく必要がありそうです。
 担当者は「ちょっと失礼します」といってどこかへ姿を消したあと、経理責任者と精算のことを話していたのですが(読者からの注文対応以外に風琳堂は本の出荷をしておらず、取次からすれば買掛、風琳堂からすれば売掛の残額はかなりある)、打ち出したデータによれば、昨年の風琳堂への返本は6冊しかない、にもかかわらず、これだけの支払い保留をしていたことに初めて気づいた、来月早々に支払うといった約束話をしていました。取次への送料は出版社持ち、風琳堂は1冊の注文でも即対応で出荷してきた、待っている読者のことを考えて、少しでもスピーディな「本の流通」となるように是非内部改善をしていただきたい、最後だから、これだけはお願いしますといった話がなされていました。
 この間、十分か十五分くらいだったでしょうが、もどってきた担当者から、話を一八〇度ひっくりかえすようで申し訳ないが、契約は継続という決済が下りたとのことです。取次と出版社との契約は法人対法人が常識で、個人出版社との契約は前例がないが、上司の決断でそのように決まった旨を話すのでした。その上司の方は御社内で責任のある方ですねと念を押したあと、その英断に深謝したことはいうまでもありません。このあとは冗談話ですが、前例がなければつくればいいだけで、経営形式がどうかなどということは出版(社)の本質にはまったく関係がないことを再度述べて面談を辞したのでした。
 残りの二社は社内で検討後返事をするとのことで、現在、最終結論はまだ出ていないのですが、わたしには、一社でも建前契約を超える判断が示されたことで、帰りの新幹線は往きとちがってずいぶんと速く感じられました。
 名古屋事務所と法人の二つの解体をともかくクリアして、今、わたしは遠野の小さなアパートの一室で、これまでの荷を下ろしたことの余韻を肴にいっぱいやっています。
 遠野郷を、ある種ブランド化させてきたのは、いうまでもなく柳田国男『遠野物語』という書です。本書を文学の書として読んだのは三島由紀夫でしたが、一般には民俗学あるいは民話の書として読まれています。遠野自身、半公的機関として「遠野物語研究所」を立ち上げ、外部権威として大学の教授レベルの研究者を所長や顧問として招聘するという態度をつづけてきています。聞くところによれば、最近「遠野文化研究センター」なるものもつくられたとのことですが、古くは、1992年の世界民話博なるイベントや、現在でも観光のキャッチコピーとして「民話のふるさと遠野」がつかわれているように、遠野の「町おこし」に利用されているのが『遠野物語』という書です。
 本書の存在は遠野にとって、これからも未来への基調をなす重要な書です。わたしは『遠野物語』を、文学や民俗学の書ではなく歴史の書という読み方をしていて、いいかえれば、特に早池峰信仰あるいは遠野の歴史を考える上でとても重要な本だとおもっています。こういったわたしの読み方は、遠野の学問世界とはこれまで交差することはありませんでした。
 遠野の学問世界の研鑽成果は多くの活字(本)となっていますし、これからもつづくでしょう。ただし、官学的立場から自由になって「遠野文化」を本気で問うならば、縄文以後の古層の時間を考えても、早池峰信仰・文化をその歴史とともに考究することは避けて通れないはずです。遠野の保守的文化風土が転換を果たし、新たに「学問の自由」を生きるように動き出すのかどうか──、これについてはまた別に書く機会もありましょう。
 文化的・経済的・政治的を問わず、権威に弱い遠野、あるいは権威に媚びる遠野というイメージが消えませんが、しかし、これは平時のことで、大震災後の今は、沿岸被災地の後方支援の拠点地であることがなにごとかです。これから、日本の文化・思想がどういった途を歩むのか、遠野のそれと重ねて、この小さな空間から注視していきたくおもっています。出版の新たなステージに立つ準備が、少しずつですが、整備されつつあるのかもしれません。


▲遠野運動公園の光景

引っ越し余話──瀬織津姫談議の原郷へ

更新日:2011/6/8(水) 午前 6:25

 名古屋事務所から遠野編集室までは、車のメータによれば約915キロあります。これは、中央・長野・北陸・磐越・東北自動車道を経由しての距離ですが、名古屋を五日朝10時過ぎに発ち、遠野着は夜11時過ぎでしたから、およそ13時間かけて走ってきたことになります。
 八六歳の自称「遠野のヤマンバ」には少し過酷な移動でしたが、本人は生まれ故郷に帰ってきたということもあり、いたってハイの気分を崩さずに遠野の初夜を迎えたのでした。諸国巡回の六部のように、瀬織津姫の手作りの祭壇を背負えるように工夫していたのには感心しましたが、部屋にはいると、まずこの祭壇を部屋の隅に設置して、「セオリちゃん帰ってきたね」などといいながらさっそく拝んでいます。
 信心の無さの極みを生きている自分ですから、彼女のような思い入れは自分にはありません。しかし、わたしにとって、瀬織津姫という神を知ったのは、あるいは出会ったのは、この早池峰─遠野郷においてでしたから、「帰ってきた」にはいくつかの意味がありそうです。
 おもえば、山神の名として、現在にまでその名を伝えている全国唯一の山が早池峰山で、これは、もう少し真摯に受け止めてよいことかもしれません。早池峰山を信仰の核とする周縁郷には、あたりまえのように瀬織津姫神の名を確認できるのに、一歩外に出ると、各地山岳霊地の祭祀表層からは「消された神」というのが実態です。南は九州から、北は北海道まで、小さな祠や家神祭祀が主流であるとしても、しかし、この神を守護し、また守護神としてきた多くの庶民の信仰的血脈は今も生きています。
 わたしにとって、瀬織津姫という神談議・探索は遠野からはじまりましたから、その意味で、ここは思考・思索の原郷といえるかもしれません。
 ともかく無事に辿り着いた──、と深夜の酒宴がはじまり、上のような瀬織津姫談議をサカナにヤマンバと酒を飲んでいるというのは、外からみたなら、かなり異様な光景かもしれません。色気も何もあったもんじゃないといえば、お互い様だといった軽口の応酬です。
 引っ越しのトラック便は半日遅れで到着するということで、翌日の午前中は時間が空いていましたから、市役所へ転入届け・印鑑登録をし、保険証・年金手帳の発行を受けるなど、日本国民・遠野市民といった一通りの戸籍登録の義務を終えました。ヤマンバは遠野市民となったことで感慨を覚えていたようですが、こういった事務的なことには、わたしの感動力はまったく反応しません。
 アパートは倉庫への道順の地にありましたから、すぐに使うものや本などの段ボール箱を途中下車で部屋に運び込み、当面使わないものについては倉庫に入れるということにしました。全体の荷量を極端に絞ったということで、引っ越し業者はドライバーの一人でしたから、わたしも荷運びを手伝うということになりました。本を詰めた箱は20キロ弱くらいの重さで、わたしは一箱持つのが精一杯でしたが、その担当者は一度に三箱持つという怪力の持ち主で、これにはびっくりしました。最初は、客に荷運びさせる引っ越し業者はありか?などとおもっていましたが、荷運びの力量の差は歴然で、文句をいう気分はすぐに消えました。
 1DKのアパートには40箱ほどを運び込んだものの、案の定というべきか、やはり狭い空間で、当面とはいえ、ここに同居人(本人は下宿人といっている)も暮らすわけで、この狭さの現実は笑うしかなさそうです。
 人は環境に応じて生活のフォルムをつくるもので、いわばヤドカリ的になるようです。無駄な空間をつくらないといった創意工夫をするしかなく、アイデアの出し合いで、ヤマンバも呆けているヒマはありません。どうにか寝るスペースを優先的に確保すると一段落で、あとは段ボール箱の本たちです。狭い廊下の半分をつかって積み上げ、残りは編集室として使っているDK(ダイニングキッチン)の六畳スペースに置くと、それなりの空間が確保できたようです。もっとも、これでは箱入りの資料を取り出すには少し難儀なのですが、それでも最低限の生活や仕事はできます。


▲少し片づいた編集室

 遠野の三日目の朝を迎えるまでに、小さな余震が何度かありました。3.11ほどの大地震は、少なくとも自分たちが生きている間はこないだろうと、あえて油断してみるしかなさそうです。