宗像・五月会神事──消えた皐月神

更新日:2010/5/20(木) 午後 3:13

 宗像辺津宮(惣社)祭祀にとって、重大神事あるいは二大神事といわれるのが、五月五日の五月会[さつきえ]と八月十五日の放生会[ほうじょうえ]です。これらの重儀は、共通した祭事場(社殿)でおこなわれます。今は跡地しかありませんけれども、社殿名は時代の変遷とともに「浜殿(社)」「浜宮」「五月ノ浮殿」「皐月[さつき]社(五月社)」などと呼ばれていました。
 現在の釣川河口(左岸)には、社標に「宗像大社浜宮」と記される石祠があり、また、右岸の五月松原には「宗像大社五月宮」の跡地もあって紛らわしいのですが、『宗像神社史』は、「現在の神湊の浜宮(辺津神社)は古くは木皮社のことで、ここは浜降り修祓の行事を行ふ宮であつて、五月祭はここで行つたのでなく、江口の五月松原〔今の五月神社跡〕で行はれたものである」と、かつてあった「五月神社」への着目を促しています。
 五月会という神事名に関連する、その名も五月神社(かつての浜宮・浜殿社)ですが、この神事の概要をまずみておきます(『宗像神社史』下巻)。

 五月会の大神事は、この浜殿における神幸祭をもつて、最高潮に達する。元来は五月五日の端午節供の祝祭であるが、これが本来のサツキ、即ち早苗を植ゑる信仰と、外来の節供とが相重つて、一層盛大になつたものである。この日、田植・田楽の行はれてゐるところにこそ、この五月会本来の信仰を見出すべきである。その他この日を迎へるために行はれる武技・競技の如きは、この節供にともなふ京風の競馬会が、ここに移入されたものと看做すべきものである。
 正平年中行事に「五社神輿御幸、五月会大神事」、鎌倉期御供下行事に、浜殿の祭典を「五月会」、応安神事次第〔戊癸本〕にこれも同じく「五月会」〔甲本には「浜殿事」といつてゐるのは、五社の神輿が浜殿に神幸集合して開催される祭典が、「五月会」の頂点であつたことを示すものである。

 五月は早苗を植える季節で、田の予祝神事が基本であるものの、「浜殿における神幸祭」、つまり「五社の神輿が浜殿に神幸集合して開催される祭典」が五月会の最高潮・頂点であるとされます。ここでいう「五社の神輿」とは、宗像五社(第一宮・第二宮・第三宮・織幡神社・許斐神社)の神輿をいいますが、それらが浜殿(五月神社)に「神幸」することに、宗像・五月会の大きな特徴があります。
 織幡神社については先にふれました。これに加え、許斐神社を含めて宗像五社といいますが、許斐神社は熊野神をまつるとされます。もう少し正確にいいますと、文永二年(一二六五)の太政官符には「許斐熊野権現之本地弥陀如来」とあり、阿弥陀如来を本地とするのは熊野本宮神(熊野大神)で、その祭祀の初源をたずねるならば、これも宗像大神と縁深き神を秘めています。
 この宗像五社の神々が浜殿(五月神社)に「神幸集合」するという行幸行為が、いったい何を意味しているのかは、やはり重要な問いとなります。
 ところで、浜殿(五月神社)でおこなわれたのは、五月会・八月放生会の二大神事ばかりではありませんでした。神社史は、「浜宮の性質」として、次のように述べています。

 浜宮の性質について見るに、正平年中行事によると、第一大神宮では八月十四日五社〔第一宮・第二宮・第三宮・織幡・許斐〕の神輿がこゝに御幸あり、第二大神宮では五月五日に同じく御幸のことがある。また末社浜殿では、五月二日にこゝで温湯沸の神事が行はれる。次に応安神事次第によると、五月会と八月放生会とにこゝに御幸、三月春外祭と六月晦日の和儺[なごし]祓に、こゝで祓のことが行はれた。吉野期年中神事目録では、五月会と八月放生会とに、こゝに神幸のことが見える。以上を綜合すると、浜宮は一般祭祀上でいふ浜下りの祓を修するとともに、神幸の行はれるところであるといふ二つの性格を兼ね備へたものといつてよい。

 宗像祭祀にとって、浜宮(五月神社)が、いかに重視されていたかが、歴史時間的にも鮮明に伝わってくる記述です。五月会・八月放生会という二大神事のほかに、特に「三月春外祭と六月晦日の和儺祓に、こゝで祓のことが行はれた」とあります。
「三月春外祭」というのは、かつての出雲大社でも盛大におこなわれていた「三月会」という祓の神事でしょうし、「六月晦日の和儺[なごし]祓」もまたそうです。これらの両神事からいえるのは、浜宮には「祓」に関わる神がいなくては道理が合わないということのようです。
 しかし、延宝四年(一六七六)に成る「宗像宮末社神名帳」は、浜宮の神を「浜宮明神」とし、その祭神は「田心姫尊・湍津姫尊・市杵嶋姫尊」としていて、少し理解に苦しむ祭神表記をしています。また、幕末に成る『筑前国続風土記拾遺』にしても、皐月社(五月社)について「皐月松原に在。古へ田嶋の神の頓宮の地にして、五月五日大祭有。競馬をも執行す。今に小祠を建て、宗像三神を勧請し、毎年形計の祭をなせり」と、江戸期末には社の衰退が記録されると同時に「宗像三神」を祭神とする旨が記録されるのみです。
 神社史は、これらの記録を受けて、「近頃まで、こゝには宗像三神を祀る皐月神社があり、社地付近には往時の祭祀土器が多数散在し、特に社地から西南三十間程のところは、今も「土器山」といはれ、古くこゝに神幸のあつた際、供奉人等が神酒をいたゞいたところであると伝へられてゐる」とまとめています。
 往時、いくつもの神事の場であった皐月神社の地は、それら神事への奉仕者にとっては直会[なおらい]の場、あるいは神との団欒の場でもあったようです。
 そのように親しまれていた皐月(五月)神社は「近頃まで」存在していました。では、いつ、その姿を当地から消したのかですが、神社史は、これについては、大正十四年四月に、近くの「辻八幡宮」に合祀されたとしています。
 なお、五月会等の神事場には移動があったようで、神社史は「初めは田島宮社頭の釣川の川辺、後には釣川の河口に移つたことが知られる」と添えています。辺津宮はもともと海浜宮で、海岸線の後退にともない、この神事場の移動がみられるということのようですが、田島宮(辺津宮本社)から現在地へ離れても、本社神輿たち(神々)が浜殿・皐月(五月)神社へ「神幸集合」するという神事行為は不変でした。
 神社史の記述からは、皐月(五月)神社の祭神は「宗像三神」、あるいは宗像五社の神々以上にはみえてこないのですが、大正十四年、皐月(五月)神社を合祀した「辻八幡宮」の側からみると、その祭神構成に、別の一石が投じられることになります。
 昭和十八年に初版刊行された『宗像郡誌』(上巻)は、「辻八幡社」「神湊村大字江口字皐月にあり」、同社には「境内神社五社」があるとして、そのなかの皐月神社の項を、次のように書いています。

皐月神社 
祭神 瀬織津姫命 宗像三柱神 速秋津姫命 神功皇后
由緒 祭神瀬織津姫命、宗像三柱神、速秋津姫命ハ無格社皐月神社トシテ、大字江口サツキニ祭祀アリ。古ヘ田島宗像宮ノ頓宮地ニシテ、五月五日大祭アリ。競馬ヲモ執行シアリシト。又祭神神功皇后ハ大字江口字原ニ、無格社原神社トシテ祭祀アリシヲ、大正十四年四月一日許可ヲ得テ合祀ス。

 神社史の記述からだけではみえませんでしたが、皐月神社には、かつて宗像大宮司が私祭(秘祭)していた貴船神、その貴船神が秘める瀬織津姫という神の名が明記されています。あるいは、織幡神は保留とするにしても、熊野本宮の初源祭祀にいる神の名がみられるというのも重要です。
 現在、辻八幡宮を訪れても、どの境内社が皐月神社なのかは分明でなく、また、祭神表記もありませんから、この『宗像郡誌』の記録はとても価値があります。
 宗像五社の神々がそろって、浜殿・皐月神社へなぜ「神幸集合」するかという問いの答えが、ここにはあるといえます。

宗像三女神祭祀の不定性──湍津姫祭祀の現在

更新日:2010/5/13(木) 午前 3:05

▼宗像大社(辺津宮)境内図(平成十八年『むなかたさま』所収)


 宗像大神あるいは三女神は、『日本書紀』が記すところの神功皇后による新羅征討譚には神助を与える神としては一切登場していませんでした。にもかかわらず、貞観十二年(八七〇)二月十五日の「宣命」(『日本三代実録』所収)には、ときの天皇による宗像大神の神助を謝する内容が記されていました。

我皇大神波、掛毛畏岐大帯日姫[ママ]乃、彼新羅人乎、降伏賜時爾、相共加力倍賜天、我朝乎救賜比崇賜奈利。

 宗像大神は、天皇・朝廷からは「我皇大神」と尊称される神であり、神功皇后の新羅「降伏」へ向けての出征においては、神助をもって日本(「我朝」)の危機を救ってくれたという認識が示されています。この「宣命」には、天照大神荒魂と宗像大神を同体とみなしていた朝廷内の認識が図らずも露呈されていると読むしかないのですが、しかし、この認識は宗像祭祀側も内々に抱いているものでもあったはずです。
 時代は鎌倉末期(あるいは室町期)にまで下りますが、この「宣命」の認識を縁起化するように、「宗像大菩薩」の名ではあるものの、神功皇后の新羅征討に積極的に加担する宗像大神の姿が描かれることになります。宗像祭祀における最古の縁起書『宗像大菩薩御縁起』の誕生です。
 ただし、『宗像大菩薩御縁起』の全体からいえば、宗像大菩薩の新羅征討への加護といった縁起譚は、その核を構成するとはいえ、それ一色で書き上げられたわけではありませんでした。
 たとえば、『御縁起』が記す、宗像辺津宮の「惣社」祭祀において、湍津姫の下に「小神」と小さな字で記載されていたのが「織幡」、つまり織幡神で、このように、記述は宗像祭祀全般に及んでいます。
 ところで、この織幡神についてですが、『御縁起』は、神功皇后紀の新羅征討譚を独自にアレンジした「強石将軍〔今宗像大菩薩〕依神功皇后勅命、三韓征伐事」という強石将軍=宗像大菩薩の活躍譚を仮構する中で、「武内大臣赤白二流の旗を織り持ちて」云々と、皇后の船に駆けつけた武内大臣を描いています。武内大臣が織ったとされる「赤白二流の旗」は、潮満珠・潮干珠の霊力と一体となって、新羅降伏に重要な役割を果たします。この『御縁起』の記述に基づいて、織幡神社の主祭神は武内大臣とみなされることになりますが、武内大臣となる前の織幡神がどんな神の名をもっていたかを明記する史料はみられないようです。なお、織幡神社は九二七年に成る『延喜式』神名帳には式内「明神大社」とされたように、朝廷が破格に重視する社でした。『御縁起』は、この破格の「明神大社」の神を「小神」の名で湍津姫の下に置いていたわけですから、宗像三女神それぞれに付属する「小神」には、「小神」という字面通りには受け取れない神が眷属神化されていた可能性があります。
 先に、貴船神としての瀬織津姫神が、宗像地方では浪折(波折)神と表示されていた事例を紹介しましたが、この浪折神もまた、第三宮(地主)の「左間」にまつられる田心姫の下に「小神浪折〔本地観音〕」と記載されていました。
 その後、正平二十三年(一三六八)の宗像宮の年中行事の記録では、「小神」は「眷属小神」と記されることになります(『宗像神社史』)。
 さらに時代は下って、「明治」と改元される慶応四年(一八六八)の「宗像大宮司書上帳」では、「眷属小神」は「従神」と書かれることにもなります。同書上帳は、辺津宮惣社(第一宮)・辺津宮第二宮(中殿)・辺津宮第三宮(地主)における、各々の三女神(主神)に対して、「従神」の名で、それまでの小神(眷属小神)に対して、移動・取捨等の整理をしています。
 この明治期の整理では、主神(三女神)の個々に対して「従神」をそれぞれ二神、計六神を配することがなされます。以下に一覧してみます。

田心姫命………【従神】織幡大明神・許斐権現
湍津姫命………【従神】地主明神・所主明神
市杵島姫命……【従神】浪折明神・正三位明神

 従神にみられる権現・明神号は、明治四年にはすべて「大神」に変更されることになります。それはおくとしても、たとえば織幡神をみますと、中世(『御縁起』)には湍津姫の眷属神だったのが、ここでは田心姫のそれに変わっていますし、浪折神にしても、かつては田心姫の眷属神、それが、明治になると市杵島姫の従神へと変更されていることがわかります。眷属神がこのように流動・移動してしまうのは、もともと三女神祭祀の不定性に因があるとみるしかないようです。
 小神→眷属小神→従神といった名称の変遷後、一覧のように眷属神の配置が整理されるわけですが、そもそも「眷属」というのは、辞書的にいえば、①「血のつながっているもの。親族。一族」、②「従者。家来。配下の者」といった意味をもちます(『日本国語大辞典』小学館)。
 中世、「眷属小神」として、織幡神は湍津姫の下に記載されていました。「明神大社」という織幡神の別格的神格を考えますと、②の従者・家来というよりも、①の親族・一族に類する神とみるのが自然でしょう。としますと、湍津姫と類縁の神とみなされていたのが織幡神だったということになりそうです。
『筑前国続風土記拾遺』は「織幡神社、古へは御池の中島に社在しと云」と書いていて、辺津宮惣社境内の御池の中島に勧請・祭祀されていたのが織幡神でした。また、「田島宮社頭古絵図によると、楼門の西南方にある小池の中島に鎮座されてゐる。鐘崎の織幡神社とは古くから密接な関係があった」ともされます(『宗像神社史』)。池中の中島にまつられるというのは弁財天あるいは水神祭祀の特徴で、宗像宮と「古くから密接な関係があった」織幡神を、神功皇后の側近・武内大臣とみなすのは、やはり不自然の感は否めません。
 明治期、主神との類縁(一族)の神としての「眷属小神」は、②の従者・家来の意を多分ににじませた「従神」というように表記変更がなされます。しかし、『宗像神社史』は、この「従神」を主神に対する家来神といった下位の神というように単純にみなすことなく、逆に、その重要性への喚起をうながしていて好感がもてます。

第三宮(地主宮…引用者)の主神に付属する小神としては、浪折明神と正三位明神との二神がある。浪折明神は正平年中行事及び応安神事次第によると、辺津宮三社(第一・第二・第三宮)の神幸の際には、必ず供奉するといふ特殊な関係を結んでゐる。第一宮の殿内小神たる織幡・許斐二社の祭祀上における位置と同じ在り方にある。また正三位明神は正平年中行事に「大行事」といはれてゐるやうに、これまた辺津宮祭祀の執行に重大なる地位を占めてゐたもので、それはあたかも第二宮の地主・所主と同じやうな関係にあつたといへよう。思ふに第一・第二・第三宮とも、その殿内にあつて、従神の地位にある神々は、本社の祭祀上、これに特別に参加するか、それとも地主(所主)的存在として重んぜられる神々である。かくの如く従神は、それぞれの宮と特別な関係のある神々に限られてゐる点は注目に値しよう。

「応安神事次第」にみられる従神六神(あるいは、中世にはみえるも、「応安神事次第」では消えた小神=従神)のすべてを個々に検証することはかないませんけれども、本稿の流れからいいますと、主神では湍津姫命、従神では浪折明神に、やはり関心が集中します。理由は、両神が、宗像大宮司が「私祭」していた貴船大明神と同体の瀬織津姫神を明らかに秘めた神名だからです。
 ここで、あらためて湍津姫命に着目しますと、この神の「従神」には、抽象的な名ではあるものの、ほかとは明らかに異なる地主明神・所主明神が配置されている特徴に気づきます。神社史は、「従神の地位にある神々は、本社の祭祀上、これに特別に参加するか、それとも地主(所主)的存在として重んぜられる神々である」と、「地主(所主)的存在」を重要度の基準として挙げています。それらを「従神」としているのが湍津姫命であることは、やはり注目してよいようにおもいます。
 ところで、第三宮(地主宮)の主祭神は、明治期から『宗像神社史』(上巻)の発刊時点(昭和三十六年)までは市杵島姫でした。しかし、その後「第二宮・第三宮を再建」とされる昭和四十九年(一九七四)のときとおもわれますが(宗像大社発行『むなかたさま──その歴史と現在』年表)、第三宮祭神は湍津姫と変更され、第二宮(こちらは田心姫と変更)と社殿を並べてまつるというように大きな変動がみられ、これが現在の第二宮・第三宮の社殿配置です。
 このように、辺津宮惣社(本社)における三女神三宮祭祀の配置の不安定性は戦後現在にまでみられるわけですが、ただし、第三宮(地主宮)祭神にかつての第二宮(中津宮)の湍津姫を移動させたことは、現在、宗像三女神祭祀における地主神をどう認識するかという点で、本流に立ち戻ったとみえなくもありません。また、宗像大社(辺津宮)本殿(主祭神:市杵島姫神)の背後には境内末社の祠群がまつられていますが、本殿の真裏に相当するのは、多くの末社のなかでも特に浪折明神(浪折神社)の祠が配置されているというのもなにごとかです。
 以上は、社殿配置からみえる湍津姫神および瀬織津姫神への祭祀重視の傾向を拾ってみたものですが、宗像大社(辺津宮)を実際に訪れても、たとえば浪折神社の祭神として瀬織津姫という神の名が表示されているわけではありませんし、境内の「祓舎」においてさえそうです。下調べ(事前の知識)なくただ参拝したならば、瀬織津姫という神が宗像大社と深く関わっていることなどはだれにも想像しようもないことで、これは、伊勢神宮ほかも同様といえます。
 当事者祭祀の内部では仮に崇敬の「誠」をもって接するも、祭祀外部(一般の眼)からは、まったく伏せるという日本の神まつりの二重方法に、たとえば、外国からみたときの日本人のわかりにくさ、つまり、本音と建前が大きく異なる日本人といった不可解さの原点が象徴されているようです。天皇というシステムがもっている「陰圧」の浸透を理解できたとき、やっと「日本」(人)がみえてくるといったところでしょうか。

瀧澤神社秘話──亀岡八幡宮と瀬織津姫神

更新日:2010/5/9(日) 午後 2:15

 杜の都・仙台の街中(仙台駅から歩いて十分くらいでしょうか)、背後にはホテルが聳え建つところに小さな社殿・神域の瀧澤神社があります。社名に「瀧」がつくように、ここに滝神・瀬織津姫神がまつられています。境内には和歌三神を合祀した碑などのほか、だいぶ年代を感じさせる不動尊の石像もみられます。ここにも、瀬織津姫神と不動尊の習合関係を認識していた人物がいたようです。
 ただし、瀧澤神社の現鎮座地近くに滝も沢もみあたらないのは、ここが都市整備されて景観が変わったからということではないようです。仙台在住の今野政明氏(ブログ「はてノ鹽竈」主宰)から、『仙臺市史』第七巻(昭和二十八年発行)に、次のような記述があることをかつて教示いただき、それがずっと気になっていました。

瀧澤神社
 大佛前に鎮座する。元川内瀧澤、今の龜岡神社の地に鎮座していたのを慶長七年(一六〇二)伊達政宗の仙臺城築城に際し、伊達郡梁川に鎮座の龜岡八幡の神祠を大佛の前に遷座し、天和二年(一六八二)綱村の時、社地交換の上瀧澤神社を此處に遷座したもので、〔後略〕

 ここには、伊達綱村の時代、天和二年(一六八二)に、瀧澤神社は亀岡八幡宮(亀岡神社)と「社地交換」をして現在地へ遷ってきたことが書かれています(瀧澤神社世話人の方によりますと、正確には現社地前の公園内が遷座地で、そこから今の地に再遷宮したとのことです)。
 瀧澤神社のもともとの鎮座地の地名は「川内瀧澤」とあり、社名とのゆかりをみることができますが、仙台藩誕生あるいは亀岡八幡宮の遷宮とほぼ同時におこった、この「社地交換」は、しかし、決して等価「交換」でなかったことは、亀岡八幡宮の社域の広大さと比べてみれば瞭然です。瀧澤神・瀬織津姫神に対する、伊達綱村の処遇は看過できないものがあります。
 瀧澤神がもともとまつられていた、現在の亀岡八幡宮の鎮座地は、仙台城の北方にあたる丘陵地(現在は亀岡山といっています)にあります。神社境内の由緒案内における縁起関係文を読んでみます。

 亀岡八幡宮の縁起は、文治年間(一一八五─九〇)伊達朝宗が福島県伊達郡梁川[やながわ]に鶴岡[つるがおか]八幡宮を勧請して建立したのにはじまる。その後伊達氏が仙台藩主になるにおよび、慶長七年(一六〇二)、社人山田清里・重之兄弟は、神体を戴いて仙台に入り、藩に庇護をもとめた。藩では、寛永十七年(一六四〇)、同じ町に仮社殿を建てて奉祀した。その後、天和三年(一六六三)、仙台藩主伊達綱村(四代)は「青葉が崎の岫[そま]つづき」の現在の地点に壮麗な社殿を造営し、八月遷宮式を挙行した。神社の傍に別当千手院(真言宗・仁和寺末寺)も移り、門前町もつくられた。

 仙台藩第四代藩主・伊達綱村が亀岡八幡宮の「壮麗な社殿を造営」したのは天和三年(一六六三)とあり、『仙臺市史』は天和二年としていて一年のズレがありますが、それは大きな問題ではないでしょう。この縁起文で気づくのは、亀岡八幡宮の遷宮・造営にあたって、それまでの瀧澤神社の社地を譲り受けたことが一言も書かれていないことでしょうか。
 瀧澤神は伊達氏の当地への入部以前からまつられていた神で、いわば地主神でもありましょう。仙台という地名は、「川内瀧澤」の「川内」を好字表記したものとおもわれますが(鹿児島県には、かつて薩摩国の国府があった地として、川内川と縁深い、現在の薩摩川内[せんだい]市があります)、広瀬川は亀岡山を巻くように流れていて、この山はまさに「川内」にあるという立地です。この「川内」の山に、大いなる川神・水神でもある瀧澤神はまつられていたということになります。
 亀岡八幡宮の社域に、その先住神の痕跡は現在みられるのかという問いを立ててみますと、わたしは、少なくとも二つあるのではないかとおもいます。これは訪ねてみておもったことですが、その痕跡を少し拾い出してみます。
 一つは、参道横の小道の奥にみられる「山神」の祭祀です。一般の山神祭祀は境内に石碑がポツンとあるくらいですが、ここには、しめ縄で結界をわざわざ設ける丁寧さがみられます。亀岡山の山神として瀧澤神を認めるならば、この鄭重な山神祭祀に、その痕跡を感得できるのではないでしょうか。
 その上で、伊達綱村は、深慮ともいえる仕掛けをしていたことが考えられます。
 二つめの痕跡は、亀岡八幡宮の本殿横に、境内社として高良玉垂神社(高良明神さま)が、まるで配偶関係の祭祀をおもわせるように、小さな社殿ながらも鄭重にまつられていることです。同社祭神は「高良玉垂命」と表示され、社の由緒標識には、次のように書かれています。

 此の神社は今より三百十五年前、天和三年伊達綱村公、此の亀岡山に亀岡八幡宮を御造営御遷座と共に祀られた古き社にして在るも、昭和の大戦の災いに焼失され、三神峯陸軍幼年学校庭内社を以ちて復興するも、永年に亘る風雨の害有りて、此のたび平成の大御代畏くも、天皇在位二十年、両陛下御成婚満五十年の慶年を言祝ぎ改築せるものなり
    平成二十一年 秋

 高良玉垂神社は、伊達綱村によって「亀岡山に亀岡八幡宮を御造営御遷座と共に祀られた」とあります。亀岡山から瀧澤神社が去ったのと入れ替わるように、八幡本殿の横にまつられたのが高良玉垂神社でした。
 率直にいって、この高良玉垂神社の勧請は唐突の感が否めません。宮司氏に、そのあたりの事情がどのように伝わっているかを尋ねても、亀だから甲羅(=高良)でもあるまいし……と、はっきりしないようです。そういえば、手水舎の水は「龍」の口から流れ出しているのが一般的な光景ですが、ここはそれが「亀」で、しかも、鶴岡八幡宮を模したものでしょう、「鶴」のオブジェが添えられてもいて、それなりのユーモアのセンスがここにはみられます。同じように綱村が洒落っ気のある人物であったかどうかはわかりませんが、彼が神道世界にかなり通じていた人物らしいことは、宮司氏も認めるところです。
 瀧澤神社の代替のようにまつられた高良玉垂神社ですが、そもそも高良神(高良玉垂神)とはどういう神なのかという問いも浮かんできます。
 高良玉垂神社の本社はいうまでもなく、旧筑後国三井郡(御井郡)に鎮座する高良宮(高良大社)です。ここが物部氏の氏神をまつることを指摘していたのは太田亮『高良山史』(神道史学会)でした。太田氏は同書巻頭で、高良山(標高三百十二米)の異称に高牟礼山や不濡山の名があったとし、この「山の東南・高良川の渓谷を隔てゝ明星嶽(標高三百六十二米)がある。或は云ふ、古へは此の山をも含めて高良山と称し、此の山を一の嶽と云ひ、今の高良山を二の嶽と云つて、其の中間の山に抱かるゝ地を高良内村と呼んだと伝る。明星の称は高良祭神を明星天子の子と称したのに関聨があろう」と、かつては明星嶽を含んで高良山といったこと、および、明星信仰下の高良山祭祀を指摘しています。
 太田氏はまた、高良山の彦神の配偶神に「豊比咩命」があり、「当地豊比咩命神は天安二年紀に拠りて、彦神と相並びて鎮座せられし事が明白」と、物部氏による配偶神の祭祀を示唆してもいます。この「豊比咩命」は河上大明神とも呼ばれますが、この神と瀧澤神こと瀬織津姫神は同体神ですし、そこまで措定しうれば、伊勢の明星信仰に深く関わる神もまた瀬織津姫神であったことに思い至ることになります。
 神道世界に通じていた伊達綱村は、その神名を露わにすることはなかったものの、八幡宮本殿横に、瀧澤神への敬意の痕跡は残したと「読む」ことは可能なようです。
 なお、高良大社の奥宮は「霊水が湧く聖地」で、この湧水を司る神こそ豊比咩命ともみられます。亀岡山の山頂に造営された亀岡八幡宮および高良玉垂神社でしたが、宮司氏によれば、高良社横の崖には、湧水が今でもあるとのことです。
 ところで、亀岡八幡宮の境内由緒は、先の引用につづけて、次のように書いています。

 亀岡八幡宮司山田土佐守・千手院興祐らも、俳諧を嗜[たしな]み、仙台俳壇の開拓者大淀三千風に師事していた。貞享三年(一六四六)十月「日本行脚文集」の旅で仙台を再訪した三千風は、亀岡八幡宮に滞在し(翌四年三月まで)、その間貞享四年正月、社殿からの眺望を主題に、「奥州亀岡八幡宮遠眺詞并二十八景品定」の俳諧興行を行なっている。
 元禄二年五月六日(陽暦六月二十二日)、「おくのほそ道」の旅の芭蕉と曽良は、亀岡八幡宮に参詣した。「曽良旅日記」には、
一 六日 天気能[よし]。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手(大手門)より入、俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止[ヤミ]テ帰ル。
としるしている。亀岡八幡宮は「おくのほそ道」の行文には書かれなかったが、境内から遠望した金華山をはじめとする光景は、芭蕉の心に深い印象を与えた。
 昭和二十年七月九日の夜から十日未明へかけて、仙台はB29の焼夷攻撃をうけた。その結果、亀岡八幡宮の、社殿と宝物のすべてが焼失した。往時の面影は、大鳥居と石階に残っているにすぎない。

 瀧澤神社の元社地に鎮座した亀岡八幡宮を訪れた文人として、円空と同時代人でもある松尾芭蕉がいます。境内由緒文は、曽良の旅日記から、この芭蕉の訪問があったことを記すも、「亀岡八幡宮は『おくのほそ道』の行文には書かれなかった」と、多少残念な思いをにじませた書き方をしています。ビルもなく、空気も澄んでいた芭蕉の時代は、ここから金華山が遠望できたようです。
 亀岡八幡宮にまつられる神々は、応神天皇・玉依姫命・神功皇后とされます。宇佐神宮では、このなかの「玉依姫命」を八幡比咩神(比売大神)とし、アマテラスとスサノオの「誓約」神話によって誕生した三女神のこととしています。この三女神は宗像三女神でもありますが、その中心神は湍津姫神とみられ、この神もまた瀧澤神と交差してきます。
 太平洋戦争(第二次世界大戦)における空襲は、亀岡八幡宮にも惨禍をおよぼし、「往時の面影は、大鳥居と石階に残っているにすぎない」とされます。しかし、神橋わきの「しだれ桜」は樹齢三百年を超えるものですから、この桜も「往時の面影」を伝えるものといえます。桜が語る神のことばを想像しますと、やはり感慨深くもなります。


 さて、一見唐突・錯綜とした「神」の分散秘匿祭祀を配置していた亀岡八幡宮ですが、綱村流の先住神への尊意は、それなりに刻印されていたというべきでしょうか。あるいは、「社地交換」後に零落し、その神名が不明となってもおかしくはなかった瀧澤神の祭祀ですが、今日に、その本来の神名が氏子諸氏によく伝わっていることから、瀧澤神への崇敬は根強いなという印象も残ります。氏子世話人の方の談によりますと、瀧澤神社のホームページの作成が進行中とのことで、これも楽しみです。

日月神祭祀を秘める石神山──幻の滝の存在

更新日:2010/5/7(金) 午後 0:07

 遠野三山三女神の母神である伊豆大権現(瀬織津姫神)の分神がいるはずの石神山(現行の地図表記は「石上山」)の祭祀社は石上神社といいます。なにやら奈良の物部氏ゆかりの石上神社(石上神宮)を想起させる社名ですが、これがまんざら無縁でもなさそうです。というのも、戦前の記録には、祭神が「経津主命、伊邪那美命、稲蒼魂命」と記されていて(昭和十四年『岩手県神社事務提要』岩手県神職会)、このなかの「経津主命」が物部氏と関わってきます。同神は香取神宮の主神や春日大社四神の一神とされ、藤原氏がまつる神というのが一般理解かもしれませんが、西海道の風土記(『肥前国風土記』)では「物部経津主神」と書かれています。
 遠野郷の西隣りの東和町には、アラハバキ大神の神体石(巨岩)を有する丹内山神社が鎮座していて、その古い崇敬氏族に物部氏の名もみられますから、猿ヶ石川を遡上するようにして、遠野郷にも物部氏の流入があったとみても、地理的には不思議はないといえます。
 石神山は、その山容からいえば、それほど秀逸な姿とはいいがたく、また突出した高山というわけでもなく、この山が遠野三山の一山にセレクトされた理由は、その山容だけからすると、あまり説得的な理由をみつけるのはむずかしいかもしれません。
『遠野物語小事典』(ぎょうせい)記載の石神山の説明を読んでみます。

『物語』(遠野物語)にみえる石神山は、現在は石上山と書かれる。附馬牛と達曽部の間にあるとされているが、正確にはその南部にある綾織町に頂上がある。遠野市西部山岳地帯でもっとも高く、1038mあり、北部の主峰早池峰山、東南部の六角牛山などとともに遠野盆地を作りあげている。周辺の人々は、綾織町■(身に鳥)崎(みささぎ)の砂子沢(いさござわ)に石上神社を祀り、水源として、薪炭の樹木や獣を供給してくれる山として信仰し、雨乞いにはこの山へ登り千駄木を焚いて祈った。
 石上山が、早池峰、六角牛と並び遠野三山と呼ばれて、三山信仰の対象となったのは、中世、遠野の地頭阿曽沼氏が松崎に横田城を築いてからのことではないかといわれている。
 この山は女人禁制であったが、その理由を『物語』2は、昔、女神に3人の娘があり、それぞれ早池峰、六角牛、石神を得、今もそれを領しているため、その妬みをおそれて、と説明している。また、昔1人の巫女が、私は神をさがす者だからさしつかえないといって、牛に乗りこの山に登ったが、大雨風に吹きとばされて石になってしまったと語られ、女人禁制の厳しさを確認するかたちになっている(『拾遺』12)。これに対し、男は15歳になると遠野三山を「お山かけ」(登拝)して、成人になったと認定されたものだった。

 早池峰を含む遠野三山の成立は中世のことではないかと書かれていますが、これは、近世・江戸期まで下るだろうことについてはすでにふれました。それはともかく、事典の記述で注意がいくのは、石神山は「水源として、薪炭の樹木や獣を供給してくれる山として信仰し、雨乞いにはこの山へ登り千駄木を焚いて祈った」とあること、および女人禁制の山という点でしょうか。
 石神山には水源神かつ雨乞いの神がいるとしますと、三女神の母神の神徳と過不足なく重なります。また、女人禁制(修験)の山岳霊山の神とみても同様です。ここで、一つはっきりといわれていないのは、六角牛山と同様ですが、その水源神の正確な神の名でしょう。
 ところで、石神山への登拝口には一基の鳥居が建立され、そこから山に向かっていく道路際には社標があります。このように誘導の道標はあるのですが、石上神社は、さらに山に向かってかなりの道程をすすむ必要があります。やっとたどりついた社殿は、背後の石神山を拝むように建立されていて、早池峰神社や六角牛神社と同様に、ここも山岳遙拝の信仰ラインを形成しています。
 石上神社の拝殿内の左右には二つの祠がみられ、向かって左は稲荷らしく、これは戦前の祭神「稲蒼魂命」に対応しているのかもしれません。としますと、右の祠は「伊邪那美命」をまつるのかもしれませんが、それらを特定しうる表示があるわけでもなく、石上神社の祭祀には少し荒れた印象があります。先年、同社宮司氏を訪ねて、祭祀事情を聞かせてもらおうとおもったのですが、文書もなく不明ばかりが際立っていて、少し痛ましい感想をもったことを思い出しました。
 以上は、石上神社の本殿祭祀についての小感想ですが、わたしがここで興味深いとおもったのは、境内から右手の山のほうへ分岐した細い参道があり、そこに朽ちかけた鳥居が二基みられることです。この参道を上がっていきますと、そこには、かなりの大きさ(古さ)をおもわせる、おそらく杉であろう切株がまだあり、その横に、これも同じく朽ちかけた小さな社殿(祠)があります。この巨きな古切株が暗黙に語る祭祀時間の古さは馬鹿にできません。
 祠内には一枚の奉納木札(棟札?)があり、そこには「日月大神」の名が読めます。どうやら、この祠は、日神と月神を「大神」としてまつるらしく、石上神社の原型祭祀がここにある(あった)のかもしれません。
 しかも、社殿の横には、相応の巨岩がみられ、岩の下には「山神」の石碑もありますから、この岩が信仰の対象としてあったことはほぼまちがいないでしょう。
 石神山は、先にふれたように、よくいえばなだらかな山でやさしい印象を受けますが、山容自体は霊山の風格とは縁遠くどこか凡庸でもあります。しかし山名にも表れていますが、ここは「石神」が座す山とはいえます。
「石」を依代とする神という祭祀観念は、物部氏の専売特許というわけではなく、広く海人族のそれかとおもいます。遠野三女神の母神は、志摩の伊雑神=伊射波神をまつった磯部氏からいえば物部氏の祭祀を指摘できますが、一方で宗像氏・宇佐氏に象徴される海人族が奉斎する石神でもあり、さらにいえば、物部氏は宗像祭祀にも深く関わっています(『宗像大菩薩御縁起』中の「七戸大宮司事」で、第二大宮司として「物部福実」の名が記される)。

 ところで、神社からさらに石神山へ向かったところにある、山への登山案内図をみますと、山中には「幻の滝」があるらしく、前薬師─早池峰山の又一の滝、六角牛山の大瀧(不動滝)と同じように、ここにも「滝」があることがわかります。


 遠野三山に滝神を追跡するような展開となってきましたが、「幻の滝」とはいかなるものかは気になるところで、好奇心半分、滝(神)と対面したい気分半分で、石神山中に訪ねてみました。
 ゆるやかな登拝路を歩くことおよそ一時間少しといったところでしょうか、轟々たる滝音もしないので視認するしかありませんけれども、階段状に白い水筋が落ちている光景が目にはいってきます。
 案内標識には「不動岩(幻の滝)」とあり、どうやら、早池峰山・六角牛山と同様に、ここも不動信仰がある(あった)ようです。わたしが訪ねたのは雪解けの季節で、その水がかろうじて滝を形成しているのでしょう、乾期ならば、ここは黒い岩肌がみえるのみだろう、ゆえに「幻の滝」と命名されたのだろうと想像しました。
 下から見上げると、滝は、ゆるやかな勾配の一枚岩盤の階段状の岩肌を這うように流れくるといった印象です。案内標識の表現を信じるならば、不動岩というのは、単独の「岩」ではなく、この滝に洗われる大岩盤こそをいうのでしょう。垂直落下のイメージとは異なりますが、不動岩を洗う、浄化する滝は、先の引用のことばを借用するならば、ここもまた「水源」の滝でもありましょう。
 遠野三山には、それぞれ個性的な滝が存在していて、そのどれもが不動信仰を伴っています。その滝神・山神の名をくっきりと今に伝えるのは、伊豆神社─早池峰神社の信仰ラインを動脈としているようです。
 石神山は、山を降りた綾織の里では、瀬織津姫神が天女・織姫の伝説で語られるとの話も耳にしますが、山の祭祀空間に、この神の名を拾うのは、六角牛山と同じく、現在は困難といえます。
 少し「まとめ」的な話になりますが、遠野三山の祭祀には、最初から「三女神」をまつるといった観念はなかっただろうとおもわれます。固有の祭祀者と祭祀が個別に先行していたところへ、三女神の三山居住といった伝説譚によって、早池峰信仰を中心とする信仰の伝説化・組織化が図られようとしたのでしょう。もっとも、これは、遠野三山に同一神の祭祀が先行してあったことが前提でないと成り立たない伝説化でもありましょう。また、この伝説化は、早池峰信仰を強化・伝播するために、おそらく遠野妙泉寺の関係者によって構想されたものとおもわれます。それは江戸期のことでしょうが、としますと、伝説というには意外に新しい話ということになります。
 しかし、誤解のないように繰り返しておきたいのですが、この三女神三山居住の伝説譚からみえてくることで重要なのは、早池峰信仰の強化という点もありますが、より本質的には、神社祭祀の観点を交差させることで、三女神背後の大元神(母神)と、その子神三神の一神が同一神であるという矛盾がみえてくることにあります。この世には、肯定的に評価しうる重要な矛盾もあるということのようです。
 記紀神話が記す三女神誕生神話は、その創作動機が伏せられていて、とてもわかりにくい闇・沈黙を抱えています。
 おそらく、この闇・沈黙と深く関わっているのが、遠野三山における滝神の存在です。
 石神山の滝は、さいわいに「幻」ではなく存在していました。今は、三山それぞれの滝の音のちがいに、耳を澄ましてみるしかなさそうです。

二つの六角牛山祭祀──日本武尊の不動滝

更新日:2010/5/3(月) 午後 1:24

 遠野三女神の母神あるいは中心神である瀬織津姫神は、早池峰の山霊(山神)であると同時に「滝」の神でもあります。この滝神としての瀬織津姫神が習合するのが不動尊(不動明王)で、たとえば多藝神社(陸前高田市横田町字小坪)の由緒は、この神の本地仏を「不動明王」と明記さえしています。不動尊(不動明王)は修験者の絶対的守護神とされ、早池峰信仰圏の滝々においては、不動尊と瀬織津姫神は二重化されてまつられる姿をよく確認できます。
 ところで、遠野三山・三女神伝説がつくられるのはいつごろのことかについては、わたしは、八戸南部氏(南部直栄[なおよし])が、阿曽沼氏が衰亡した遠野へ国替えされる江戸時代初期(寛永四年=一六二七年)より前にさかのぼるものではないだろうとおもっています。この八戸からの国替えによって誕生した遠野南部氏は、しかし、南部氏の主流ではなく、南部藩の実権は盛岡南部氏、つまり、豊臣秀吉の「奥州仕置き」(九戸政実の滅亡)に加担した南部信直にありました。
 秀吉の天下統一に貢献した信直が、紫波郡・和賀郡のほかに稗貫郡をも正式に拝領したため、岳妙泉寺(大迫妙泉寺・稗貫妙泉寺とも)は盛岡南部氏(祈願寺の永福寺)の支配下にはいります。円仁(慈覚大師)による早池峰祭祀の神宮寺としてはじまった遠野妙泉寺も永福寺の支配下にはいりますが、両寺の優遇度には露骨な差があったようです。『嶽妙泉寺文書』(花巻市教育委員会)の解題(小野義春氏)は、次のように書いています。

 新義真言宗豊山派盛岡山永福寺は南部家の祈願寺であり盛岡藩の冠寺として城下寺院の筆頭に位置、岳妙泉寺はその支配下として席順は城下七箇寺目とされ、盛岡城においては御敷居内に入ることを許されたが、遠野妙泉寺は平土の座に据えられている。豊山派は奈良長谷寺を総本山とする。

 奈良・長谷寺を総本山とする新義真言宗豊山派で想起されるのは、郡山の宇奈己呂和気神社の神宮寺・護国寺も同派ということです。真言宗豊山派が二つの瀬織津姫祭祀に神仏習合的に関わっているのは偶然ではないようですが、それはおくとしても、遠野妙泉寺からすると、藩政時代にはかつての分寺の岳妙泉寺の下位におかれていて、これは、早池峰祭祀権にも影響を及ぼしかねない事態を想像させます。
 遠野妙泉寺が岳妙泉寺に対して、自身をあらためて「本寺」と主張せざるをえない状況があり、これは、早池峰山頂の祭祀に対して自らの存在主張をする必要に迫られていたということでもあります。それが、早池峰開山における四角藤蔵の単独行為という縁起(岳妙泉寺側は藤蔵と田中兵部の二人による開山縁起をもつ)に表れましたし、一方で、早池峰を含む遠野三山・三女神伝説を創作した理由とみえます。
 早池峰はもともと太陽神と習合する薬師如来の山で、その早池峰の前立ての山といってよいかつての鶏頭山は、ゆえに『遠野物語』(第二十九話)では鶏頭山を「麓の里では又前薬師と云ふ」と書かれていました。この前薬師は、現在、薬師岳と呼ばれますが、早池峰に薬師如来、鶏頭山=前薬師に十一面観音をまつったのが最古の神仏習合の姿でした。したがって、遠野側が三山三女神を主張するならば、鶏頭山=前薬師と六角牛山・石神山を遠野三山というのが自然で、早池峰は、この遠野三山に対して奥院・奥山というのが信仰的位置づけだったとおもわれます。
 しかし、南部藩政時代になりますと、この奥山祭祀が遠野妙泉寺から離脱しかねない危機が出来し、それが岳妙泉寺との本末寺論争へと発展することになります。
 以上、遠野三山三女神伝説の創作動機を概覧してきましたが、わたしがここで問題にしてみたいのは、遠野側が決して一枚岩の祭祀思想を通したわけではなかったということです。なぜそうおもうかといいますと、三女神伝説では、遠野三山には母神・瀬織津姫神の分身・分神がいるとされるも、伊豆権現と早池峰山の信仰ラインにおいてはそれはいえるにしても、ほかの二山(六角牛神山)においては、分身・分神祭祀が徹底されていたわけではなかったからです。
 その揺らぎがもっともよくみられるのは六角牛山の祭祀でしょうか。
 六角牛山には、その登拝口に二つの祭祀規模の異なる神社があります。また、社名についても、一つは六角牛神社、もう一つは六神石神社といっています。
 大槌街道側からの登拝口にある六角牛神社には、その石碑に三女神伝説を刻んで、「遠野郷三山の三姉妹」の姉神を、敬意をもってまつるとしています。社殿の背後には六角牛山が聳え、ここは早池峰神社と同様に、山岳遙拝の信仰ラインがあります。
 一方の六神石神社は南の釜石街道からはいりますが、社殿は東方を拝むように建立されていて、その信仰ラインの先には六角牛山はないという特徴があります(六角牛山は社殿の北東に聳える)。また、現由緒では「六神石(ろっこいし)神社は、大同二年(八〇七)時の征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷地平定のため人びとの信伏を願い、六角牛山頂に薬師如来、山麓に不動明王、住吉三神を祀ったのが始まり」としています。ちなみに、昭和十四年に発行された『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)には、同社祭神は「大己貴命、誉田別命」と記載されていて、六神石神社の祭神の不定性が目立ちます。
 神社を訪ねてみますと、本殿の千木は平削ぎ、鰹木は四本で、これは一般的には女神の祭祀を告げるものですが、わたしが特に興味深くおもったのは、本殿の真裏にまつられる境内社が「大瀧神社」だということです。説明板には、次のように書かれています。

大瀧神社
大同年間坂上田村麻呂将軍が六角牛山麓に祀られたのがはじまりと云われる。
祭神は日本武尊で、昔は不動明王と云いお不動様と親しまれて来た。
邪悪、病魔、災難を癈除し活気を与えて呉れる酉年生れの者の守本尊である。
御縁日 毎月二十八日

 早池峰信仰圏、しかも遠野三山の一角を構成する六角牛山の祭祀で、不動尊(不動明王)と習合する滝神が「日本武尊」と表記されています。このザラザラとした読後感覚は何なのでしょう。
 田村麻呂による滝神勧請を伝える社に、一関市滝沢の滝神社があります。同社由緒には「大同年間(八〇六~八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安」とあり、この滝神・祓戸大神は「瀬織津姫命」、つまり、早池峰大神と同体です(ブログ・岩手県「滝神社」参照)。
 六神石神社は六角牛山を拝むようには建立されておらず、しかも、本殿真裏には大瀧神社をまつり、その大瀧神を「日本武尊」としているという奇異さが気になり、神社近くの古老に尋ねてみました。すると、六神石神社は四百年ほど前は別の所にまつられていた、大瀧は不動滝といっているが、その旧社地の奥にあるとのことです。
 こういう話を聞いてしまいますと、やはり訪ねないわけにいきません。目印はなにかありますかと尋ねると、六角牛山中の旧参拝道沿いに大きな一本杉があり、そこが旧社地だとのことです。
 一本杉は初めてでもわかりそうだとおもいましたが、滝の場所については少し不安もあり、別の方に尋ねると、谷底の滝へ降りる道はたぶんわからないだろうからといって、親切にも案内してくれるとのことで厚意に甘えました。
 六角牛山の大瀧(不動滝)の神が「日本武尊」であるはずがないと呪文のように心に呟いていましたが、旧社地の一本杉は中沢川沿いに聳えていて、この川の上流数百メートルのところに大瀧(不動滝)はありました。
 旧参道(山道)から下をみながら歩いていきますと、谷底に大瀧神社の廃屋と化したような社殿と滝がみえてきます。たしかに道なき道でしたが、谷へどうにか降りると、小振りながらも品のよい滝で、山頂への参拝者が、かつてはこの滝で禊ぎをしてから登頂しただろうことはまちがいないと確信しました。
 六角牛山にも、遠野三山三女神の母神である伊豆大権現(瀬織津姫神)の分神がいるとみてよく、遠野三女神伝説が、たんに伝説ではない祭祀を告げていることもみえてきたようです。