宗像大神の神徳──『宗像神社史』の限界記述を読む

更新日:2010/4/9(金) 午前 1:08

▼禊場(熊野市・大馬神社)


 全国に宗像神をまつる社がどのくらいあるかですが、『宗像神社史』(上巻)には、「今日、全国に六千二百有余に上る奉斎社を見る」とあります。ここでいう「今日」とは『神社史』(上巻)が発刊された昭和三十六年(一九六一)時点で、現在もそう変わるものではないでしょう。この「六千二百有余」の社には、神仏混淆が常態であった江戸時代までの弁財天の祭祀が、明治期の神仏分離によって神社化したものが相当数含まれているものとみられます。人々は「弁天」さんに、どんな神徳(ご利益)を期待していたかといえば、それはおそらく、広義の「水」の神徳だっただろうとおもいます。
『神社史』いうところの、「宗像大神」の神徳についての記述を読んでみます。

 さて(宗像)大神は、上代つとに胸肩君や水沼君の奉斎を受けさせられたが、大神がこれら両氏族からはもとより、広く一般から生業の守護神としても仰がれ給うたことは、神徳光被の一面として見易いところであり、また大陸との交渉が頻繁となるや、航海守護の神としても、神威を仰がれるに至つたことも、当然であらう。かくして西海北辺の守護、海外交通に関する神威のほどは、時とともに発揚せられ、かの神功皇后の征韓の役に神威を顕はされることとなり、応神天皇の御宇には、呉の工女兄媛[えひめ]を大神に奉られ、履中天皇の御宇には、三女神の御教により、車持君の神民を奪うたのを復せられ、雄略天皇の御宇には、使を遣はして大神を祠らしめる等、〔以上日本書紀〕相ついで朝廷がこれを祭祀して神徳を仰がれる面の深くなつたことが史上に見える。これらの事実こそ、皇室が宗像大神を祭祀せられる神勅の精神が実際に発揚せられたことを示すものといへよう。

 ここには、宗像大神の大きな神徳として「生業守護」と「航海守護」が指摘されています。これらの神徳は、庶民の生活と関わる広義の「水」の神徳に包括されると考えますが、『神社史』は、大神の神徳の発展形として、「かくして西海北辺の守護、海外交通に関する神威のほどは、時とともに発揚せられ」と、国家の海外交渉と関わる神徳を語りはじめます。その象徴が「かの神功皇后の征韓の役に神威を顕はされること」ですが、この神功皇后の記述につづき、応神天皇・履中天皇・雄略天皇条に登場する宗像大神を素描し、割註で「以上日本書紀」、本文で、これらは「史上に見える」と結んでいます。さらに「これらの事実こそ」云々と、神功皇后以下の各天皇紀に記されたことは「史上に見える」「事実」、つまり「史実」だというように話を展開しています。
 これら一連の記述で気づくのは、ここには、少なくとも「虚史」が一つ含まれていることです。それはいうまでもなく、「かの神功皇后の征韓の役に神威を顕はされること」です。『日本書紀』は、神功皇后の新羅征討譚(「征韓の役」)の記述に多くの紙面を割いていますが、そこには、軍船の先鋒神として天照大神荒魂および住吉大神荒魂の名はみられても、宗像大神(三女神)はただの一度も登場することはありませんでした。にもかかわらず、『神社史』は、神功皇后の新羅征討譚を「征韓の役」とする史実化の認識を示し、その上に宗像大神の関与を書きつけています。
 これはとても不思議な話なのですが、『神社史』の作者も、この「不思議」にはうすうす気づいていたらしく、次のように書き足すことをせざるをえなかったようです。

特に神功皇后征韓の際の神威については、時代はやゝ下るが、清和天皇貞観十二年(八七〇)二月十五日の宣命〔三代実録〕にも、
我皇大神波、掛毛畏岐大帯日姫[ママ]乃、彼新羅人乎、降伏賜時爾、相共加力倍賜天、我朝乎救賜比崇賜奈利。
といはれ、後々まで外寇防禦について、その神徳の称[たゝ]へられた様を窺ふことができる。この外寇防禦に関する宗像大神への信仰は、事ある度に深められた。

 朝廷(太政官)から、神功皇后の新羅征討における宗像大神の加護が初めて認められた記録が、『日本三代実録』貞観十二年(八七〇)二月十五日の「宣命」でした。書紀が記す神功皇后新羅征討の時代は卑弥呼の時代に設定されていて、『神社史』の作者が「時代はやゝ下るが」としてこれを引用するのは、ほんとうは「やゝ下る」どころか「大いに下る」というべきものです。『日本書紀』が成る養老四年(七二〇)からいっても、一五〇年も経ってから、初めて宗像大神(「皇大神」)の神徳が朝廷に認知されたという「史実」を真摯に受け止める必要があります。
 その上で指摘できるのは、貞観十二年(八七〇)の時点、朝廷の内部に、宗像大神を神功皇后の新羅征討と結びつける認識があったということです。くりかえしますが、『日本書紀』には一切そういった記述がなかったにもかかわらず、です。この「宣命」は、朝廷内の無意識の「正直」な認識が表れたとみるべきで、宗像大神とは何かを考えるとき、決定的ともいえる記録といえそうです。『神社史』は、宗像大神の神徳を顕彰するために、次のような「太政官符」の引用を重ねてもいます。

天元二年(九七九)二月十四日大宰府へ下された太政官符〔類聚符宣抄〕には、
此宮〔宗像宮〕従世初之時、已為日本之固、其奇異縁起不可勝計〔中略〕藤原純友凶乱和平之後、登坐正一位勲一等之階。
とあつて、古来鎮護国家の霊験を仰がれ、天慶の乱にも神恵浅からず、遂に極位に敍せられ給うたことが述べられてゐる。

 宗像大神は「天慶の乱」の鎮圧に加護を与え、その功によって正一位という「極位」が授与され、名実共に国家鎮護の最高神として認められたということのようです。その神階昇叙の経緯はともかく、朝廷が宗像大神を「日本之固」と認識していたことは、先の、神功皇后の新羅征討における「我朝乎救賜比崇賜奈利」(我が朝を救いたまい、崇めたまうなり)という認識の延長上にあるとみることができます。
 それにしても、朝廷から「日本之固」の神として宗像大神が認識されていたことは、自社由緒で自画自賛的に主張(自己申告)する神徳とは異なり、やはり、大きな意味をもっています。朝廷と神社の関係の内々において、そのような讃辞と認識を受ける神として、宗像大神があったというのは重要です。
『宗像神社史』は、そのような宗像大神がどういう神であるのかをあからさまに語ることをしませんが、それでも、ぎりぎりの記述をところどころにしているようです。たとえば、『神社史』は、別に「海外交渉」の章を設けて、上記のことを、次のように総括的に述べています。

 さて宗像大神の神威が、遠く夙く赫奕たるものがあつたことは、天元二年(九七九)二月十四日の太政官符〔類聚符宣抄〕に引く宮司胸形朝臣氏能並に氏人等の解状〔天延二年二月五日〕に、宗像宮は「世の初の時より、すでに日本の固めとして、その奇異の縁起勝[あ]げて計[かぞ]ふべからず。」とある通りで、そのことは決して誇称でないこと、以下に敍述するところによつて明らかで、上代夙[と]く海外との交渉にともなひ、幾多の事実をとどめてゐるのである。
 先づ史上に著しいのは、神功皇后征韓の時の霊威の発現である。このことは当時の史書には缺けてゐるが、三代実録〔貞観十二年二月十五日の条〕に載せられてゐる。【先述の「宣命」の内容と重複するので省略】これによつて宗像大神が、征新羅の役に際し、住吉神等とともに、神功皇后の功業に神力[しんりき]を副へ給うたことが語り伝へられてゐたものと考へられると同時に、大神の神護のもと、宗像氏族の活躍したことも容易に想察せられるのである。

『神社史』は、神功皇后紀の新羅征討譚に宗像大神が書かれていないことを「当時の史書には缺けてゐるが」と認めるも、『三代実録』貞観十二年(八七〇)二月十五日の「官」の記録を根拠に、「宗像大神が、征新羅の役に際し、住吉神等とともに、神功皇后の功業に神力[しんりき]を副へ給うたことが語り伝へられてゐたものと考へられる」と想像(「想察」)しています。
 雄略天皇紀にみられる宗像大神は、天皇の新羅親征を戒める託宣をした神として描かれています。神功皇后紀は、その前の仲哀天皇紀から連続するもので、これらはセットで読まれる必要がありますが、そこには、やはり天皇の新羅親征を暗に戒める託宣をしていた神が描かれていました。この神は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)といいます。『神社史』は、「宗像大神が、征新羅の役に際し、住吉神等とともに、神功皇后の功業に神力[しんりき]を副へ給うたこと」とするも、「住吉神等とともに」あった書紀記載の「天照大神荒魂」の箇所に、宗像大神の名を挿入しています。『神社史』という性格上、このあたりが限界記述なのかもしれません。
 あと一つ、『神社史』にみられる、これも「限界記述」だなとおもえる箇所を読んでみます。宗像三女神の一神である湍津姫命についての神名解釈です。

 今タギリ・タギツの意味について、万葉集以下二十一代集等の歌文に見える例を通覧すると、元来タギリ・タギツはともに山川の水が瀧のやうに落ち、或は逆巻き、湧きかへつてゐる様についていつたものである。従つて湍津(たぎつ)・多紀理(たぎり)比売とはさうした水の姿、働きに擬へて神格を表現したものである。延喜式大祓詞に、「高山の末、短山の末よりさくなだりに落ちたぎつ、速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」という神格に通ずるものがあるやうに思はれる。

 湍津姫命を瀬織津姫命の名でまつる神社は複数にわたって確認されています。瀬織津比咩神は、神道世界の常識では禊祓いの神とされますが、この禊ぎの神格を宗像神に重ねている記述も紹介します。

宗像三女神奉斎の原初的祭祀の一つは、タギリ・タギツが水辺の水の湍[たぎ]る様を言ひ現してゐることとともに、海島・海上・海辺において、これら神々の神助により身の汚れを禊ぎ清める巫女がをり、さらにそれによる禊[みそぎ]並に憑神[よりがみ]の信仰をもつてゐたであろうことを窺はしめるのである。〔中略〕沖ノ島に上陸するに際しては、七日間の潔斎をしてからでなければ、その沖津宮に参られぬとした厳重な物忌潔斎の存在は、ミヌマの根本信仰(引用者注…前段の「この三女神を奉斎した筑紫の水沼君のミヌマといふ語が、禊の水神を奉斎する君(姓)であるとされること」を指す)から当然みちびかれる水辺祭祀の遺風であり、これが斎島姫[いちきしまひめ]・狹依姫[さよりひめ](玉依姫)の古い祭祀信仰を後世にまで伝へたものと考へてよいであらう。

 ここには「宗像三女神奉斎の原初的祭祀の一つ」として、「この三女神を奉斎した筑紫の水沼君のミヌマといふ語が、禊の水神を奉斎する君(姓)であるとされること」とする「ミヌマの根本信仰」とともに、宗像祭祀における「水辺祭祀の遺風」が語られています。ここでいわれている「ミヌマの根本信仰」は「禊ぎの根本信仰」と理解できますが、その上でいえるのは、三女神を内包する宗像大神の「水」の神徳には、当然ながら、「禊ぎ」の神徳も含まれているということでしょうか。

宗像大神と三女神──大海命という第四の宗像神

更新日:2010/4/7(水) 午前 1:11

▼男女龍神(海神)像(津軽・正法院所蔵)


 太田亮『高良山史』(神道史学会)所収の「(訂正)筑後国神名帳」には、御井郡に「宗形神」、三潴郡に「宗形本神」の名がみられます。宗形神と宗形本神──、この表記の使い分けはいったい何だろうという問いが浮かんできます。
「本神」が「もとつかみ」(元神)の意だとしますと、宗形神はおそらく三女神を表し、宗形本神は三女神の元神をいっていることが考えられ、少なからず想像をかきたてられます。あるいは、宗形本神は宗形太神(大神)の誤転記かもしれませんが、それにしても、宗形太神(大神)と宗形神の表記には尊意のちがいが反映しています。
 宗形神と宗形本神の、その後の祭祀内容の変遷を追跡するのは困難ですが、宗像三女神と宗像大神を、かつては区分けする意識があったとしても不思議ではありません。後世あるいは現代には、宗像三女神をまとめて宗像大神と呼称することに少しも抵抗を感じなくなりますが、宗像大神の分身=分神として三女神があること、いや正確には、三女神誕生へと至る過渡の伝承を記していたのが『筑前国風土記』(逸文)かもしれません(引用は、岩波書店版『風土記』による)。

西海道[さいかいだう]の風土記に曰[い]はく、宗像大神、天より降[くだ]りまして埼門山[さきとやま]に居[ゐ]ましし時、青蕤[あをに]の玉を以[も]ちて、奥津宮[おきつみや]の表[しるし]に置き、八尺瓊[やさかに]の紫玉[むらさきだま] を以[も]ちて中津宮[なかつみや]の表[しるし]に置き、八咫[やた]の鏡を以[も]ちて辺津宮[へつみや]の表[しるし]に置き、此の三つの表[しるし]を以[も]ちて神のみ体[み]の形[かた]と成[な]して、三つの宮に納め置きたまひて、即[やが]て隠[かく]りましき。因[よ]りて身形[みのかた]の郡[こほり]と曰[い]ひき。【欠文】後の人、改めて宗像[むなかた]と曰[い]ふ。其の大海命[おほあまのみこと]の子孫[このすゑ]は、今の宗像朝臣[あそみ]等、是[これ]なり。云々(防人日記)

 ここには、宗像三宮(奥津宮・中津宮・辺津宮)の三つの神体の具体が書かれています。曰く、奥津宮(沖津宮)は「青蕤の玉」、中津宮は「八尺瓊の紫玉」、辺津宮は「八咫の鏡」です。これら三宮の三神体には、それらに憑依する神の名がまだあてられておらず、ゆえに、わたしはこれを三女神誕生前の「過渡」の伝承と読むのですが、しかし、この風土記の記載で特に注意がいくのは、宗像大神が埼門山に降臨したあと、以上の神体を「三つの宮に納め置きたまひて、即[やが]て隠[かく]りましき」と書かれていることです。「隠れる」というのは「死ぬ」ことを表した隠語ですから、岩波書店版『風土記』の訓読に従えば、三つの神体を納めたあと、宗像大神は「死んだ」ということになります。
『宗像神社史』は、この風土記の成立時期について「天平四年(七三二)以後、天平十一、二年以前」と推定していて、わたしも妥当と考えます。この時期は、藤原不比等の三男・宇合が按察使[あぜち]として西下した時期で、宇合は西海道の諸風土記の多くを『日本書紀』の記事に整合するように書き替えたとはすでに指摘されていることです(秋本吉郎『風土記』解説)。しかし、秋本氏は「九州の風土記に今一種のものの存すること」も指摘していて、つまり、宇合の風土記修訂前の原風土記に相当するものが、引用の風土記とおもわれます。ここには、書紀の記述の影響が微塵もみられないことから、そう判断できます。
『日本書紀』が成るのは養老四年(七二〇)のことですが、これは、大隅国における隼人の一大蜂起の最中のことでもありました。書紀には、スサノオとアマテラスの「誓約[うけひ]」による三女神誕生が、本文のほかに「一書に曰はく」(第一から第三)のかたちで縷々記載されていますから、書紀成立後、いや隼人征討後、西海道の治安回復がなったそう遠くない時点で、宗像大神は「死んだ」、つまり、その祭祀が「死んだ」という想定はできるかもしれません。宗像三女神の祭祀出現の正確な時期の特定は不可能であるにしても、原初的な宗像大神の「死」のあとに記紀記載の三女神(の祭祀)が誕生しただろうことは、その祭祀変遷の時間軸の法則からもいえるものとおもいます。
 ところで、引用の風土記文中に【欠文】と表示しておきましたが、『宗像神社史』は、当社所蔵の『宗像大菩薩御縁起』中に記載された風土記同文の箇所の裏書に朱書で、この【欠文】箇所にはいる、次の一文が書かれていたことを明かしています。

一云、天神之子有四柱。兄三柱神教弟大海命曰、汝命者、為吾等三柱御身之像、而可居於此地。便一前居於奥宮、一前居於海中、一前居於深田村高尾山辺。故号曰身像郡云々。

 これは「一云」とあるように、別伝・異伝ですが、記紀神話が「誓約」三女神の誕生・降臨を書いていたところを、ここでは「天神之子有四柱」と、三柱神ではなく四柱神としていることに大きな特徴があります。兄(姉)の「三柱神」は、弟(妹)の「大海命」に対して、自分たち三柱の像(神像?)をそれぞれ「奥宮」「海中」「深田村高尾山辺」にまつることを命じたようです。「奥宮」は沖ノ島の沖津宮、「海中」は大島の中津宮、「深田村高尾山辺」は辺津宮の現在地に相当するとみられますが、謎めいているのは「大海命」の存在です。
 先の風土記の【欠文】の箇所に、この一文を挿入してみますと、「其の大海命[おほあまのみこと]の子孫[このすゑ]は、今の宗像朝臣[あそみ]等、是[これ]なり」とつづいて、「天神之子有四柱」のうちの一柱神「大海命」は、「今の宗像朝臣等」の祖神ということがみえてきます。
 なお、「大海命」の訓みですが、岩波版風土記は「おほあまのみこと」としていましたが、『神社史』は「わたつみのみこと」としています。「三柱神」は「兄」と書かれるも、これは三女神のことですから、「兄」は「姉」の意でつかわれています。したがって、「弟大海命」の「弟」をそのまま「男弟」とみなしてよいかどうかは軽々に決めつけるわけにはいかないようです。
 宗像朝臣の系図をみても、この「大海命」の名はみあたりません。ちなみに、『新撰姓氏録』河内神別地祗の条には「宗形君 大国主命六世孫阿田片隅命之後也」、また右京神別下地祗の条には「宗形朝臣 大神[おほみわ]朝臣同祖。阿田片隅命之後也」とあるのみですが、『先代旧事本紀』地神本紀の系図では、大己貴神(大国主神)と高津姫神との間に生まれた都味歯八重事代主神の裔孫・阿田賀田須命(阿田片隅命)を「胸肩君祖」としています。
 記紀神話は、三女神のどの神の異称にも「高津姫神」の表記をあてる例はなく、これは『先代旧事本紀』(旧事紀)独自の伝承表記です。「高津姫神」は「たきつひめ(の)かみ」と訓じられます。また、旧事紀は、「先(に)宗像の奥都嶋に坐す神田心姫命を娶りて一男一女を生む」としたあと、「次に辺都宮に坐す高津姫神を娶りて一男一女を生む」と書いていて、『神社史』は、書紀(第二の一書)が記す湍津姫命(「海浜[へつみや]に居す者」)と「高津姫神」は同神とみなして「亦名」の一覧に入れています。
 宗像(宗形)朝臣の祖神「大海命」を「女神」とみることが許容されるならば、この神は高津姫神(=湍津姫命)のもう一つの「亦名」であったことも考えられてきます。
「大海命」を「わたつみのみこと」と訓んだとき、これだけでは、神の性別は不明というしかありませんが、しかし、どういった関係性のもとに、この名が登場してくるかは重要です。
 宗像(宗形)朝臣の男系図にはまったく登場してこない「大海命」です。しかし、父母の名を唯一並記した男女祖神の母位置に高津姫神(=湍津姫命)の名が記され、欠文に充当される一文中では「兄」は「姉」の意で書かれていて、「弟」もまた「妹」の意でつかわれていた可能性を残しています。
 湍津姫命の「亦名」には、『神社史』は記さないものの、瀬織津姫命(瀬織津比咩神)もあります。明治期初頭の神仏分離に伴って、北海道内の神社(神体)調べをおこなったのは、札幌神社(のちの北海道神宮)権宮司兼開拓使・菊池重賢[しげかた]でした。彼は『明治五年壬申八月・十月巡回日記』の「樽前神社」の項で、ここにまつられていた瀬織津姫について、次のように記しています(『函館市史』史料編第二巻、所収)。

祭神瀬織津姫ト申伝有之候由ノ処、従前当社ハ樽前山神ヲ祭ル趣、瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事。

 この神社調べのあと、「明治天皇の勅命」の名のもとに、樽前(山)神社から瀬織津姫の名は消されますが、この神について、菊池重賢は「瀬織津姫ハ海神祓戸神」だという認識を書きつけています。たしかに、瀬織津姫神(湍津姫命)は宗像神でもありますから、この姫神を「祓戸神」というだけでなく「海神[わたつみのかみ]」ともみなしていた菊池の見識(神理解)はよしとしなければなりません。
 また、瀬織津姫という神の存在を、わが「心」のこととして深く理解していた円空の、次のような海神を詠んだ一首も印象に残るところです。

法の舟
  天の川原の月なれや
    遍[アマネク]照せ渡住の神

 円空は海神を「渡住の神」と表記し、この神をどうやら月神ともみていたようです。歌は、吉野・天河の地で弁財天と習合する神を想って詠まれたものですが、弁財天と習合するのは、いうまでもなく宗像神です。円空もまた、海神(「渡住の神」)を女神と認識していました。
 弁財天の多くは市杵島姫を垂迹神としますが、なかには瀬織津姫を弁天さんと呼び、さらには、市杵島姫は瀬織津姫の別名だとする由緒を手放さない神社もあります(静岡県・瀬織戸神社)。
 謎の宗像第四の神「大海命」──、その神名の意は「大いなる海神」とみられます。三女神の神託は、「吾等三柱御身之像」をそれぞれ宗像三宮において祭れというものでした。
 最後に、逆転の仮定・仮説を一つ──。「大海命」をあくまで男神とみなしますと、諸系図(男系図)の記載を否定することになりますが、特に父祖神にあたる「大己貴神(大国主神)」の存在はとても怪しいということになります。この仮説では、「大海命」は、大いなる海の男神となり、わずかながらも、語られぬ海洋系太陽神の匂いも生じてきます。また、三女神と一男神の四神という組み合わせは、六月晦大祓という祝詞の構成と同じになります。この大祓祝詞には、瀬織津比咩神・速開津比咩神・速佐須良比咩神という三女神と気吹戸主神という一男神が登場します。宗像三女神の一神が祓戸三女神に含まれているというのは示唆すること大きいといわねばなりませんが、気吹戸主神は神宮祭祀では荒祭宮(瀬織津比咩神)と一対となる多賀宮=高宮の神でもあります(『倭姫命世記』)。海神の男女神は、日本の龍神信仰と習合することにもなります。
 六月晦大祓と宗像祭祀は深く関わっていることが考えられますが、それは今はおくとして、この第四の宗像神を記した別伝は、宗像祭祀を新たな発想で考えることを教えてくれているようです。風土記別伝の真意について、ここで結論を述べることはできないものの、大いなる海の女神の姿にふれえたのは幸いというべきでしょうか。

宗像祭祀の根本義──国風祭祀への回帰

更新日:2010/4/5(月) 午前 1:45

 日本の神社、あるいは神社神道の祭祀には、七世紀末あたりから、新たな建国構想あるいは国家意志というものの強い反映がみられるようになります。
 以後の大枠の歴史見取り図をいえば、平安期には最澄・空海を主峰とする仏教徒たちが先頭に立ち、仮に名づければですが、「神仏混淆神道」の時代をつくります。中世には、最澄たちの護国仏教・国家仏教の影は薄まるものの、しかし、この混淆神道は、その後のさまざまな仏教・修験諸派のなかに生きつづけ江戸幕末までつづきます。
 明治期には、神仏分離の名のもとに、仏の背後の神の洗い出しがなされ、「皇朝ノ神祗」にふさわしくない神と認められた場合は差し替えが多くなされます(苫小牧市・樽前山神社ほか)。明治期以降、まさに「王政復古」的に、国家神道が国内(と植民地)に徹底化されてゆきます。これは強烈なマインドコントロールを伴う思想・信仰教化でしたが、一九四五年の日本の敗戦は、それまでのコントロール(国家神道)から自由になるよい機会ではあったものの、その機会が現実化することはなかったようです。いいかえれば、神道・神社世界に、さわやかな風が吹き抜けることはどうもなかったようです。
 ところで、なかには、明治期の神仏分離を待つことなく、早い時期に自主的にそれをおこなった神社もありましたし、神仏混淆そのものに一線を引いて、神祗祭祀に徹してきた神社もあります(大分県・闇無浜神社)。前者の例には、今ふれつつある宗像神社(宗像宮)があります。後者の闇無浜神社は、宇佐・宗像ほかの祭祀が、その祭祀中枢からはずした瀬織津姫神を主神としてまつりつづけてきた古伝由緒を公開しています。
 宗像宮(辺津宮)が神仏分離をおこなうのは江戸前期という早い時期でした。『宗像神社史』は、次のように書いています。

寛文五年(一六六五)以降、当社が吉田神道により、唯一神道に帰したことは、当社の祭祀の中から仏事を一掃させ、神道一本の祭祀に復帰する道を促進させるに至つた。

『神社史』は、この寛文五年をもって「国風祭祀の姿を回復する端緒を得た」とも記していますが、こういった早い時期の「神仏分離」から「国風祭祀」への回帰がみられるのは、ほかに出雲大社の寛文七年(一六七七)もあります。千家尊統『出雲大社』(学生社)の一文も読んでみます。

神仏習合の弊をのぞき、境内地にあった堂塔を廃して拡張整備し、社殿を高さ八十尺という古来の正殿式に復興して寛文七年(一六七七)にはほぼ現在のようなどうどうたる規模の偉容が完成した。出雲大社の神仏分離は、じつにこの時に行われたのであって、神仏分離といえば一般には明治初年のことと思いがちであるが、当社ではこのようにきわめて早い時代の事であった。

 神仏分離から国風祭祀への回帰は、つまるところ、「正史」所載の神話記述に依拠した祭祀を復興・再現するということを意味します。ちなみに、大島・中津宮の神仏分離は元禄十一年(一六九八)のことで、辺津宮の寛文五年から数えると三十三年後になります。この時間のズレは、辺津宮(惣社)と中津宮(と沖津宮)の祭祀が一体のものではなかったことを微証しているようです。
 ところで、『神社史』は、宗像大神には「御使命」があるとして、次のような国風祭祀への復古解釈を述べています。

 思ふに天神[あまつかみ]・高皇産霊神[たかみむすびのかみ]・伊奘諾尊[いざなぎのみこと]・天照大神の下し給うた神勅は、皇統・国体の根源を定め給うた天壌無窮の神勅をはじめとして、古事記上巻や日本書紀神代巻にいくつか見えてゐるが、それ等はいづれも上代国民信仰の方向を示すものとして、古来仰がれて来たところであること、今さらいふまでもない。而して右の天壌無窮の神勅とならんで特に重要なのは、天孫降臨に先だつて、天照大神が宗像大神を海北道中に鎮まりまさしめ給うた神勅である。この神勅は当社由緒の根本をなすものであり……〔後略〕

『神社史』は、「皇統・国体の根源を定め給うた天壌無窮の神勅」は「上代国民信仰の方向を示すものとして、古来仰がれて来た」との認識を記し、その「天壌無窮の神勅とならんで特に重要なのは、天孫降臨に先だつて、天照大神が宗像大神を海北道中に鎮まりまさしめ給うた神勅」だとつづけています。この二番めの神勅が「当社由緒の根本をなす」とされるわけですが、『神社史』は、この宗像大神への神勅は「日本書紀神代巻、瑞珠盟約章第一の一書」にみえるとして、当該文を引用していきます。『神社史』の引用は書紀の原文(漢文)で少し読みづらいですから、便宜上、岩波書店版の訓読文を次に掲げます。

日神、〔中略〕先[ま]づ所帯[みはか]せる十握剣[とつかのつるぎ]を食[を]して生[な]す児[みこ]を、瀛津嶋姫[おきつしまひめ]と号[なづ]く。また九握剣[ここのつかのつるぎ]を食して生する児を、湍津姫[たぎつひめ]と号く。又八握剣[やつかのつるぎ]を食して生す児を、田心姫[たこりひめ]と号く。凡[すべ]て三[みはしら]の女神[ひめかみ]ます。〔中略〕乃[すなは]ち日神の生[な]せる三[みはしら]の女神[ひめかみ]を以[も]て、筑紫洲[つくしのくに]に降[あまくだ]りまさしむ。因[よ]りて教[をし]へて曰[のたま]はく、「汝[いまし] 三[みはしら]の神、道の中に降[くだ]り居[ま]して、天孫[あめみま]を助け奉[まつ]りて、天孫の為[ため]に祭[まつ]られよ」とのたまふ。

『神社史』がいう、宗像宮の「由緒の根本」をなす「天照大神が宗像大神に降し給うた神勅」とは、引用文中「汝[いまし] 三[みはしら]の神、道の中に降[くだ]り居[ま]して、天孫[あめみま]を助け奉[まつ]りて、天孫の為[ため]に祭[まつ]られよ」を指します。特に「天孫の為[ため]に祭[まつ]られよ」(原文は「而為天孫所祭也」)の解釈が妥当かどうか微妙なものがありますが、『神社史』は、この神勅の「 」内のことばについては、次のように訓じています。

汝[いまし]三神[みはしらのかみ]、宜しく道中[みち(の)なか]に降居[くだりま]して、天孫[あめみま]を助け奉[まつ]りて、天孫に祭[いつ]かれよ。

『神社史』は、この訓読をもって「最も妥当のものとすべきであらう」と自己肯定しています。これは、宗像三女神が「天孫に祭[いつ]かれ」るのは、書紀が記すところの天照大神の神勅によるもので、当然なことだという自己解釈になります。『神社史』の認識のことばを読んでみます。

 按ずるに、日神はいふまでもなく天照大神である。道の中は、神代紀のこの章、他の一書に、「海北道中[うみのきたのみちのなか]」とあるに同じく、朝鮮への道中、即ち九州北辺の海中のところ、こゝでは具体的には沖ノ島・大島及び海辺の田島をさすと考へられる。天孫は皇統正系の方々〔具体的には歴代天皇〕である。即ち三女神は永く海北道中に鎮り坐[ま]して、天孫の聖業を輔翼し、国家を守護せられるとともに、それに対して、歴代皇室の渥[あつ]い祭祀を受けさせられよ。換言すれば、皇室は宜しくこの三女神に対し奉つて、特に奉祀の途を執らせらるべきであるといふことに外ならない。

 ここには、読みようによってはかなり危うい認識が書かれているといえます。書紀の一書(一文)の「神勅」のままに、宗像宮はその三女神の祭祀を励行してきた、その神勅には、天孫(歴代天皇)もまた三女神に崇敬の気持ちをもって奉祀することが書かれている、したがって、「皇室は宜しくこの三女神に対し奉つて、特に奉祀の途を執らせらるべきである」といった論理展開となっていて、これでは神勅を楯にした皇室への崇敬喚起、あるいはやわらかな恫喝とさえ読めるからです。戦前、宗像宮はこの神勅解釈を以て「官幣大社」の社格に上りつめますが、この解釈は宗像祭祀に関する「結語」においてもくりかえされています。

宗像祭祀の根本義は、天照大神の三女神に下された神勅、即ち海北道中に道主貴[みちぬしのむち]と坐[いま]して、「天孫を助け奉りて、天孫に祭[いつ]かれよ。」と仰せられたことにあるは、言ふを須[ま]たない。而して、その具体的な祭祀としては、わが国は今日、天皇を日本国並に日本国民統合の象徴として、これを仰ぎ奉つてゐるから、皇室を助け奉り、皇祚の無窮を祈る祭祀が第一義であることは当然であり、これに次いでは、天孫に祭[いつ]かれる、即ち皇室がこの三女神を親しく祭らせらるべきことである。さらにこれに加へて、海北道中の道主貴と仰いで、海内・海外の守護と交通の安全とを祈請する祭祀を斎行することである。これらのことは、換言すれば、敬神愛人の祭祀であり、人倫的には互助互譲の祭祀であるといへる。されば、これを根底として、汎[あまね]く国の内外の永遠の平和と繁栄とのために、不断に懇祈を抽[ぬき]んでるところに、その根本義が存するのである。

 祭祀者側が自認する「宗像祭祀の根本義」は、ここに尽きているといってよさそうです。ただし、この「根本義」の認識の成立は、宗像祭祀にとって、とても大きな代償を払った上でのことです。そんな代償など最初から払いもしなかったかのごとくに、「敬神愛人の祭祀」や「人倫的には互助互譲の祭祀」といった美談的、つまり、空疎な祭祀認識を上塗りしていっても、宗像祭祀のもう一つの「根本義」、あるいは秘伝的「根本義」にまでは、ついにことばが届くことはありません。江戸期の仏徒のことばのほうが、まだしも「正直」を含んでいたようです。
『宗像神社史』は、巻頭の「凡例」において、本書の「編纂に当つては、学問的研究的なることを旨とし」云々と、その編纂方針・姿勢を明言しています。これは大変重要な編纂方針・姿勢の表明ですから、よく記憶しておきたくおもいます。

宗像祭祀の解読へ──はじめに

更新日:2010/4/3(土) 午後 4:07

田島三所太神宮ノ事ハ、極テ秘密ノ事ナレバ、白地ニ申ベキニアラズ。

 田島三所太神宮とは宗像宮(辺津宮)のことです。引用は、沙弥宗仙が元和三年(一六一七)に著した『宗像記追考』中の一文ですが、その元となる『宗像記』は慶長八年(一六〇三)に沙門祐伝によって著されたのでした。その誤りを正し、足らざるを補うとして、『宗像記追考』が書かれたようです(『神道大系』神社編四十九「宗像」解題)。
 神職ではなく沙弥・沙門が宗像宮(田島三所太神宮)について書いていること自体、神仏混淆の姿を象徴していますが、それにしても、祭祀側が「極テ秘密ノ事ナレバ、白地ニ申ベキニアラズ」というのはいささか面喰らいます。
「白地に申す」というのは、そのままに、正直に申すということで、それをすべきでない祭祀がここにはあるということのようです。しかし、一歩引いて日本の神まつりを俯瞰するならば、「極テ秘密ノ事」という極秘祭祀を内々に展開しているのは、一人宗像宮に限るものではなく、日本の神まつりの筆頭神格に位置づけられている伊勢神宮をはじめ、宇佐八幡宮・出雲大社ほか、わたしたちが即座に名を挙げられる諸社のほとんどに、この極秘祭祀はあてはまるといえそうです。まがりなりにも氏子崇敬者を抱える神社祭祀側が、肝心の「極テ秘密ノ事」を伏せたままにしておいて、氏子の信心だけはいただこうとするのは大きな自己矛盾でもあります。
『宗像記追考』は、先の一文につづけて、次のように書いています。

故ニ本書ニ記ス処、大概ナリ。サレ共当社ノ氏人等、不学ニシテ、年序ノ移ルニ従ヒテハ、子細ヲ取失ン事ヲ思ヒテ、今更ニ大概ヲ記ス者也。凡テノ事秘密シテ、唯受一人一子相伝ナドト云事ハ、終ニハ泯滅ノ基ナリ。神明ノ御事ナレバトテ、泯滅ニ到ラン事ハ、却テ其恐レアル事ト覚エテ、伝授ノ奥儀ハ暫ク残シテ、有増ヲ誌ス者也。

 ここで「不学」と断じられている「当社ノ氏人等」というのは、氏子のことではなく、神職・社家を指しています。仏徒優位の祭祀が展開されていることから、専門神職が「不学」とみなされているようです。『追考』の作者は、「凡テノ事秘密シテ、唯受一人一子相伝ナドト云事ハ、終ニハ泯滅ノ基ナリ」と、「唯受一人一子相伝」という秘伝だけでは、宗像祭祀の「大概」までが消滅(「泯滅」)する危機感を述べ、その「大概」「有増」(あらまし)を誌すとしています。
 上記は、近世・江戸期初頭、宗像宮における、祭祀側の二重当事者構造に亀裂がみられる箇所ですが、以下の宗像祭祀の「大概」「有増」の記述は、『日本書紀』の三女神誕生神話の復習といった様相で展開されることになります。
 わたし(たち)の関心は、『追考』の作者が「伝授ノ奥儀ハ暫ク残シテ」と保留にしていた、その「伝授ノ奥儀」、あるいは宗像祭祀における「極テ秘密ノ事」に向けられていることはいうまでもありません。祭祀側が「一子相伝」の秘伝としていることを、祭祀の外部から論究するというのは、一見越権行為かもしれません。しかし、一社の秘伝・秘密によって封じられている神が、一人宗像だけのものでないとしますと、日本の神まつり全体に関わる負価を宗像祭祀が象徴的に担っていることを意味しますから、ここは考究に価するものと考えます。
 宗像祭祀を考えようとするとき、小島鉦作を編纂委員長に迎えてつくられた『宗像神社史』上・下巻(宗像神社復興期成会、上巻は昭和三十六年、下巻は同四十一年)は、大いに参考となります。また、鎌倉末期に成る『宗像大菩薩御縁起』は、神仏混淆の姿ながら、宗像祭祀に関する最古の縁起書であり、これらは宗像祭祀を考えるときの根本資料といえます。
 宗像の三女神祭祀が、一人宗像宮の問題に留まらないことに関して、たとえば『宗像神社史』は、次のように述べています。

宗像三女神と水及び農耕信仰との関係を見ると、伊勢神宮の古伝にも徴すべきものがある。即ち鎌倉時代の神宮雑例集に引く伊勢神宮の旧記なる大同本記によると、天照大神が雄略天皇の御夢に現はれ、「吾は五十鈴川上に鎮座したが、吾一人では御饌[みけ]も安く聞こし召されない。よつて吾が高天原にゐたとき、素戔嗚尊の剣を執つて三女神を生み、これを葦原中国の宇佐島に天降らせ、その道中にゐて、天孫を助け奉り、天孫に祭[いつ]かれよと詔を下した神が、今丹波国与佐の比沼[ひぬ]の真井[まなゐ]に御饌都神[みけつかみ]止由居[とゆけ]の神としてをられる。その神を吾がをる伊勢国に連れて来て欲しい。」(要約)と教へさとされた。天皇はその御教に従ひ、これを招き奉られたのが、伊勢の豊受大神宮で、今その御饌殿の中において、東方に天照大神の御座、西方に豊受大神とその相殿御伴神[みとものかみ]三神との御座が、同殿に坐しますのは、その故であると記されてゐる。
 これによれば伊勢神宮では、古くから豊受大神を宗像三女神とも、また同相殿神たる御伴神三神を、三女神ともする説の存したことが知られる。〔中略〕宗像三女神は、書紀の一書に、筑紫の水沼君[みぬまのきみ]のもち斎[いつ]く神とされてゐるのに対し、伊勢のこの所伝では丹波国の比沼[ひぬ]の真井[まなゐ]に坐[ま]す神とされ、豊受大神と同一神或は関係のある神とされてゐる。その鎮座地名が比沼の真井といつて、井水と関係があり、また豊受大神が農耕の神であることから考へると、この三女神も農耕水利の神とされ、筑紫をはじめ丹波・伊勢等の各地に、その信仰が種々の形で、流布されてゐたやうに思はれる。

 宗像三女神が「豊受大神と同一神或は関係のある神」とする神宮側の古伝が紹介されています。『神社史』は、宗像三女神と豊受大神の同神説に、これ以上は論究していませんが、三女神が伊勢神宮の祭祀と深く関わっていることは重要です。宗像三女神も豊受大神も、その背後に最重要な母胎神を隠していて、これ以上の考究は自社祭神の三女神そのものを相対化する世界へ踏み込むことになりますから、『神社史』が踏みとどまるのは、書の性格上やむをえないところかもしれません。
 また、『神社史』は宗像宮(辺津宮)が八幡宮の社号をもっていたことを記録してもいます。天正十八年拝殿棟上注文・(天正年間)十二月三日井倉春右書状には「宗像八幡宮」、慶長十一年黒田長政寄進状・寛永十八年黒田忠之寄進状には「田島八幡宮」の名がみられるとのことです。『神社史』は、「近世初頭において、突如として約半世紀にわたつて何故当社が八幡宮と称せられたかの事情は、これを詳らかにしがたい」としていますが、宗像三女神と八幡比咩神が同体という認識が「事情」(因)を構成していただろうことは想像に難くありません。八幡祭祀固有の「放生会」を、宗像宮もまた自社の重祭祀としていたのは、社号に「八幡」が認められるはるか以前にはじまります。これは、宗像の社の内部に古く、伝統的に「八幡」同体意識があったゆえとおもわれます。
 ここで実定論的にいっておきますと、宗像三女神と八幡比咩神(比売大神)が同体であるという共通認識が双方の祭祀側に認められることにおいて、三女神祭祀の背後の比咩神の実体はすでに基本的に明かされていることです。したがって、宗像祭祀の考究は、現在、その傍証・補論の段階にきているといえます。
 また、この傍証・補論が、さらに、三女神祭祀背後の比咩神と一対となる男系太陽神にふれるところまでくるならば、おそらく、「極テ秘密ノ事」「一子相伝」の秘伝が示唆する宗像祭祀の「白地」の全体像を語ることにもつながるものと考えます。むろん、これは、記紀神話がまったく記さなかった事柄で、宗像は三女神をまつるだけではないのかという神話・神道通の一般常識は一度崩壊するかもしれません。
 日本の神まつりにみられる各社の秘伝的祭祀は、その因は伊勢にあり、その帰結も巡って伊勢にゆきつきます。宇佐も宗像も出雲も、その途上過程の祭祀(伊勢を代行・肩代わりする秘祭祀)を分担的に演じているといっても過言でなく、ただ、書紀神話と一体となった、あるいは拡張解釈した縁起・由緒が独自につくられ、それが各祭祀の「白地」の地平をみえなくさせているとはいえます。
 しかし、縁起・由緒というのは、そこに多くのことばを独自に費やした分だけ、逆に綻びを露呈させてくる面があり、たとえば「祭神・由緒不詳」を徹底されるのに比べれば、よほど「行間読み」が可能となります。ましてや、祭祀の現場が成り立っているのは、そこに生[なま]の人間がいてこそですから、中央祭祀と連動させる建前祭祀はあるものの、「白地」(本音)のことばをつい行間に忍ばせてしまうのも「神」への情のなせることです。
 宗像祭祀に関する眼前の資料は限られたもので、当然制約はありますが、それでも、この程度は読み解けるだろうという試みをしてみようとおもいます。

日曜美術館「円空」のご案内

更新日:2010/4/2(金) 午前 2:56

▼志摩市・少林寺観音堂の円空彫像たち(上から、善女龍王・聖観音・護法神像)










 4月11日のNHK日曜美術館で、円空が特集・放映されます。
 今までにない円空像を視聴者に届けたいとの企画で、『円空と瀬織津姫』を元に番組構成をしたとのことです。
 公共放送で瀬織津姫の名が出るならばこれは画期的なことですが、担当ディレクター氏の最終の報告によれば、やはり、この名は今は出しづらいとのことで「地主神」「先住神」と呼称することになったようです。氏によれば、当初企画の50%くらいの仕上がりかなとのことです。
 これは謙遜かもしれませんが、当初、従来の円空仏の鑑賞番組といった見慣れた枠を少しでも越えたいという並々ならぬ企画熱意を感じましたので、企画進行上、円空の和歌と彫像の関係、円空の神仏のとらえかた、ひいては彼の信仰そのものについて、本とは別に話す機会を何回かもちました(担当者氏はわたしの出演を前提に企画を立てていたようなのですが、まだ瀬織津姫神の祭祀関連についての調査・探索が進行中のため、これはお断りしました)。
 番組は、基本的に担当ディレクターの「作品」というのがわたしの考えで、円空の彫像と信仰をどこまで番組が新たな切り口で伝えているかは、わたしも一視聴者として関心あるいは好奇心をもっています。千時千一夜の読者には『円空と瀬織津姫』をお読みいただいている方もいるかとおもい、ここにご案内いたします。時間のタイミングが合うようでしたら、ぜひご覧ください。

【写真について】
 円空は延宝二年(一六七四)、大峯・天河から志摩・伊勢の地へと足を運んでいます。彼は志摩市志摩町片田の三蔵寺や阿児町立神の薬師堂で、大般若経の補修をしたり、その補修用の紙に墨絵(仏画)を描いたりしています。また、薬師堂の隣りには観音堂を建立してもいます。
 この観音堂は明治期初頭、少林寺境内に移されましたが、その本尊が、龍に寄り添う女性像(観音)で、材質は桜の古木とのことです。脇に添えたとおもわれる聖観音像や、それらをおそらく守る役目を受け持つ護法神像のユニークさには、作仏や彫像の儀軌・規範にとらわれない、自由な円空世界の開示が垣間見えるようです。
 ところで、地名の「立神」は、海岸部の「立石さん」と親称される立石神社の神体石に由来します。立石神社は「祓戸神」をまつるとされ(『阿児町史』)、この「祓戸神」の依代としての「石」が海中に今も立っています。「祓戸神」とされた神は、立神の産土神だったようです。