闇無浜神社考【Ⅵ】──「祓」思想の転換

更新日:2009/5/21(木) 午前 2:00

 豊前国中津の地は「神代より豊日別国魂神、姫太神垂迹[あとたれ]たまふ霊区[あやしきちまた]」でした。この謎の「姫太神」は、次のような託宣のことばとともに、自身の名を明かしていました(「豊日別宮伝記」)。

吾は天照太神の荒魂[あらみたま]、瀬織津姫神[せおりつひめのかみ]なり。此の豊日別神と同じ宮に鎮り座して、遠き蕃[ほとり]の寇[あだ]を防ぎ、天の災地の災をも攘[はら]ひ除かむと思ふ。

 また、伝記作者は、この「天照太神の荒魂」について、「所謂[いはゆる]祓戸神瀬織津比咩神是れなり。中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍[たいしんりゆう]と称し奉るなり」とも補足していました。
 瀬織津姫神は、たしかに「いわゆる祓戸神」なのですが、では「誰のために何を祓うのか」という問いを立ててみますと、闇無浜神社秘蔵の社伝「豊日別宮伝記」が、おそらくほんとうに伝えたかった信仰・思想の内実がみえてくるようにおもえます。
 伝記は、垂仁天皇条に集中させるように、いくつかの記事を載せています。たとえば、この垂仁時代に新しい社殿をつくったときの記述を読んでみます。

同(垂仁天皇)三十七年〔戊辰〕春二月、武彦豊国造と議[はか]りて、神宮を営[みつく]りせむと欲[おも]ひて、即ち国民に命[みことのり]して良材[よきき]を求め新宮を造る。日ならずして成る。貴賤諸人大いに喜びて吉日を撰び、四月五日の夜、神体を新宮に遷し奉り、終夜神楽を奏す。遠近の諸人群をなす。明日巳[み]の剋[とき]、赤白の空華[くうげ]神前に降り、地上を去る事五尺余許[ばかり]にして消[け]ぬ。諸人これを見て感嗟せずと云ふ事無し。時に武彦御謡[みうたよみ]して曰く、豊国の丘の宮柱太敷立ち千木[ちぎ]高知り加■[かみ]の美古等[みこと]の■都■都[みづみづ]し曽良[そら]も波留気[はるけ]く阿摩[あま]満つる波奈[はな]。これを聞く人、甚だ美嘆す。此の時、国造神官武彦と議りて数箇所の土地を撰び、神戸[みとしろ]と定めて神人巫祝[ふしゆく]に分ち賜ふ事、各々差[しな]有り。(■は氵に弥)

 新宮が完成すると、「貴賤諸人大いに喜びて吉日を撰び、四月五日の夜、神体を新宮に遷し奉り、終夜神楽を奏す。遠近の諸人群をなす」と、その祝賀の光景が目に浮かぶようです。また、人々の祝賀の気持ちに「神」が応えたのでしょう、「明日巳[み]の剋[とき]、赤白の空華[くうげ]神前に降り、地上を去る事五尺余許[ばかり]にして消[け]ぬ。諸人これを見て感嗟せずと云ふ事無し」とも書かれています。
 この神と人の交歓はほほえましくもみえますが、わたしが立ち止まったのは、神官・武彦の「御謡[みうたよみ]」として記載された、「豊国の丘の宮柱太敷立ち千木[ちぎ]高知り加■[かみ]の美古等[みこと]の■都■都[みづみづ]し(■は氵に弥)」云々という文言です。これを、意味の通る漢字に置き換えると、おそらく次のようになるかとおもいます。

豊国の丘の宮柱太敷立ち千木高知り神の命(御言[みこと])の瑞々[みづみづ]し

 この「御謡」のことばに酷似した文言が、実は「六月晦大祓」という、瀬織津姫神を「祓戸神」として、その名を刻んだ祝詞にあります(『延喜式』収載)。その文言も読んでみます。

大倭日高見之国を安国と定めまつりて、下津磐根に宮柱太敷立て、高天原に千木[ちぎ]高知りて、皇御孫の命の瑞[みづ]の御舎[みあらか]仕へまつりて

「六月晦大祓」(大祓祝詞)中の「大倭日高見之国」は「豊国(豊日別国)」に、「皇御孫の命」は「神(瀬織津姫神)の命(御言[みこと])」にと、まるで換骨奪胎か本歌取りのように記されていたことがわかります。「瑞々しい」は、「皇御孫の命の御舎」(内裏)の形容ではなく、豊国においては「神(瀬織津姫神)」(とその託宣のことば)だとも読める内容です。
 伝記作者は、中央側(中臣氏)によって創作された「六月晦大祓」(のちに「中臣祓」とも呼ばれる)を踏まえた上で、この「御謡」を記していたことが考えられます。
 伝記作者が中央側の瀬織津姫祭祀関連史料を意識していたことは、次のような、いわば「姫太神の神道」を称揚する場面にもみることができます。

垂仁天皇御宇三十三〔申子〕年八月、太神宮始めて秋祭を行ふ。行幸還御の次第、春祭に同じきなり(此の時、旅所中御崎なり)。御神体本宮に還御の後、武彦神前に於て、供奉[くぶ]の神人参集の貴賤に向ひて曰く、神明は天地開闢の先に在[いま]して、国つ神なり。人亦、其の神の一霊[ひとつみたま]を禀[う]けて生長[いきながら]へて、しかも人なり。其の踏む所立つ所居る処思ふ所、皆悉く神道[しんとう]なり。〔中略〕常に神の道を失はず、心神明なれば、天つ神地祗[つちつかみ]の守護を享[う]くるが故に、行ひとして道に中[あた]り、進みて得、退きて道を得、殆きに助けを得て、心の之[ゆ]く所に任せて、しかも神の道なり。道に従ふの本、諸[もろもろ]の業[わざ]焉[いづく]んど弘きは莫[な]し。是れ神代の古風[のり]なれば、吾が神宮の諸人、亦此の御祭に参り集[つど]へる人達、聞請[ききう]け思慮[おもひはかり]を受けて、遍く恵み慈悲[いつくしみ]の心深く広く、月日の宮のごと身を守り給はば、天の災地の災人の災昆虫[はふむし]の災をも除き防ぎて、五穀満ち足り益人[ますひと]等安寧[やすし]と。

 太神宮(姫太神宮)の「神明」は「天地開闢の先に在[いま]して、国つ神なり」と宣言されています。この「神明」を「心」として生きるならば「天つ神地祗[つちつかみ]の守護を享[う]くる」ゆえに、この「心の之[ゆ]く所に任せて」生きるならば、つまり、「遍く恵み慈悲[いつくしみ]の心深く広く、月日の宮のごと身を守り給はば、天の災地の災人の災昆虫[はふむし]の災をも除き防ぎて、五穀満ち足り益人[ますひと]等安寧[やすし]」と結ばれています。
 これは、神官・武彦による独創の神道論といえますが、「天の災地の災人の災昆虫[はふむし]の災をも除き防ぎて」云々は、先にみた瀬織津姫神の託宣のことば「天の災地の災をも攘[はら]ひ除かむ」に対応していることは明らかですから、これは、神官・武彦による瀬織津姫神神道論といっても過言ではありません。
 ところで、「天の災地の災人の災昆虫[はふむし]の災をも除き防ぎて、五穀満ち足り益人[ますひと]等安寧[やすし]」に出てくる「災」は、あの「六月晦大祓」という祝詞にも近似の表現としてみられるものでした。
 大祓祝詞では、「(皇御孫の命の)知ろしめさむ国中に、成り出でむ天の益人[ますひと]等が過ち犯しけむ雑雑[くさぐさ]の罪事」と書かれ、この「罪事」は「天つ罪」と「国つ罪」に分類されます。「豊日別宮伝記」が「災」と書いていたところを、「六月晦大祓」は「罪」ということばで述べています。
 この「災」と「罪」のちがいは、字面以上に、いわば、「祓」の思想の質において、真反対ともいえる内容を含むことになってきますので重要です。
 朝廷の統治思想において、この「罪」の問題がどれほど重視されていたかを端的に語るのが「六月晦大祓」という祝詞です。書き出し部分を読んでみます。

六月晦大祓〔十二月[しはす]はこれに准[なら]へ。〕
「集侍[うごな]はれる親王[みこたち]・諸王[おほきみたち]・諸臣[まへつぎみたち]・百[もも]の官人[つかさびと]等、諸[もろもろ]聞[きこ]しめせ」と宣[の]る。
「天皇[すめら]が朝廷[みかど]に仕へまつる、領巾[ひれ]挂[か]くる伴[とも]の男[を]、手襁[たすき] 挂くる伴の男、靭[ゆき]負ふ伴の男、剣[たち]佩[は]く伴の男、伴の男の八十伴の男を始めて、官官[つかさづかさ]に仕へまつる人等[ひとども]の過ち犯しけむ雑雑[くさぐさ]の罪を、今年の六月[みなづき]の晦[つごもり]の大祓[おほはらへ]に、祓へたまひ清めたまふ事を、諸聞しめせ」と宣る。

 天皇の朝廷に仕える全員の「過ち犯しけむ雑雑[くさぐさ]の罪」を、この「六月晦大祓」によって祓い清めることが宣言されています。祝詞は、朝廷関係者ばかりでなく、先にみたように、「(皇御孫の命の)知ろしめさむ(治める)国中に、成り出でむ天の益人[ますひと]等が過ち犯しけむ雑雑[くさぐさ]の罪事(天つ罪と国つ罪)」も「祓」の対象に加えています。「益人」というのは人間(百姓[おほみたから])の美称とされますから、国内の庶民すべての「罪」も「祓」の対象とされています。
 この祝詞は、天皇および祝詞を唱える人物(中臣氏)の「罪」だけは問わないことを大きな特徴としていますが、それはおくとして、この祝詞を「天つ神」と「国つ神」に聞かせたなら、「皇御孫の命の朝廷を始めて、天の下四方[よも]の国には、罪といふ罪はあらじ」と前半が締めくくられます。
 これで、すべての「罪」は出揃ったということなのでしょう。ここで、「いわゆる祓戸神」の瀬織津比咩神が登場させられます。

遺[のこ]る罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を、高山[たかやま]・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比咩といふ神、大海の原に持ち出でなむ〔中略…速開都比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神による「罪」の分担消去の記述がはいる〕かく失ひては、天皇が朝廷に仕へまつる官官の人等を始めて、天の下四方には、今日より始めて罪といふ罪はあらじ

 古来、天変地異や疫病の流行などは、統治者の「徳」の問題としてとらえられていましたが、この祝詞は、統治者の「徳」の有無を問わずに、人々の「罪」の有無の問題にスライド変換したという特徴を指摘できます。統治者(天皇)が「罪」を問われないというのは、その「徳」が問われないことと等価です。ここには、劇的かつ巧妙な天皇保全の思想装置が働いているといえます。この祝詞の誕生以降、天皇の朝廷(国家)にふりかかる危難・厄難は、天皇の「徳」の問題とは無縁となり、庶民(益人)をはじめとする人々の「罪」に起因するものとされたようです。その「罪」の総体を「瀬織津比咩神」ほかの祓戸神に祓い清めさせ、無化させるというのが、「六月晦大祓」という祝詞の主旨です。
 このように、統治者の内省の契機を無化して、一方的といえましょうが、人々の「罪」の洗い出しとそれを祓うという思想はどこか倒錯的といえます。この点、闇無浜神社(豊日別国魂神社)においては、人々の「罪」を祓うとされた神を、人々の「罪」を問うこととは無縁の神、つまり、人の「罪」ではなく、生きている人々の「災」を祓う神というように、その「祓戸神」の性格を本来の姿にもどしての祭祀をしていたようです。
 このことは、「六月晦大祓」が「天の益人等が過ち犯しけむ雑雑[くさぐさ]の罪事」を挙げていたのに対し、「天の災地の災人の災昆虫[はふむし]の災をも除き防ぎて、五穀満ち足り益人[ますひと]等安寧[やすし]」といった対置表現に端的に表れていました。瀬織津姫神が「誰のために何を祓うのか」という問いにおいて、伝記作者は、瀬織津姫神の本来の神格をじゅうぶんに理解していたものとみえます。
 以上は、「此の豊日別神と同じ宮に鎮り座して、遠き蕃[ほとり]の寇[あだ]を防ぎ、天の災地の災をも攘[はら]ひ除かむと思ふ」という瀬織津姫神出現時の託宣に、すでに述べられていることでもあります。祓う対象が「罪」か「災」か──。瀬織津姫神が「六月晦大祓」の枠の外で、新たな、あるいは本来の「祓」の神徳を生きていることを、秘蔵伝記はわたしたちに語りかけているようです。
(つづく)

闇無浜神社考【Ⅴ】──航海守護の神徳

更新日:2009/5/19(火) 午前 10:52



 倭大国魂神から、この国の神まつりの「源根[もと]」(天照大神と倭大国魂神の二神による天上界の神々と各地国魂神を分担して治めること)を先皇(崇神天皇)はよく理解していなかった、それを反省し慎み深く「源根[もと]」を知ってまつるならば汝の寿命は延びるだろうと託宣された垂仁天皇でした。しかし、同天皇二十五年には、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪[しきなみ]帰[よ]する国なり。傍国[かたくに]の可怜[うま]し国なり。是の国に居らむと欲[おも]ふ」という寂しげな神託のもと、伊勢国にまつられたのは天照大神一神でした。のち、雄略時代のこととして、元伊勢・籠神社から「豊受大神」を自身の食事係として呼び寄せるまで、天照大神の一人(一神)暮らしがつづくことになります。
 垂仁は、倭大国魂神の託宣をどうも真摯に受け止めることなく、崇神による宮外への分離・放逐祭祀の方針をそのまま引き継いだようです。また、崇神条にみられる倭大国魂神と天照大神の宮外への放出祭祀の仕方をみますと、ここでの天照大神は、まだ「皇祖神」としてのアマテラスに昇格する前の別の「天照大神」だったともいえそうです。
 こういった倭国中枢の神まつり劇をよそに、西の豊前国で、この倭大国魂神(瀬織津姫神)の祭祀を大切につづけていたのが闇無浜神社(豊日別国魂神社)でした。瀬織津姫神(姫太神)の神格規定である「祓戸神」・「天照大神荒魂」といった「天下化生の名」を受容するも、「豊日別宮伝記」は、瀬織津姫神の神徳が「祓」ばかりではなかったことを、それも垂仁天皇条の一つに記していました。

同(垂仁天皇)四十二年〔癸酉〕秋八月、長州豊浦津[とよらのみなと]従[よ]り舩[ふね]を発[たた]して、豊前中津に到る者有り。海上にして日没す。遽[にはか]に暴風に遇ふ。舟漂蕩して、殆ど水主[かこ]等これを如何ともする事無し。時に一人、当宮の神に祈りて火光を得たり。忽ち松明の如き火、海上に燃え風波静なり。因りて直ちに火の往[みちのり]を指して、即ち岸に着く事を得たり。船中の衆人水主等、喜びて神家に詣[いた]りて海上霊感の事を告げ、幣帛を神宮に献じ神楽を奏す。此の後、渡海の舩風浪の難に遇ふ、則ち必ず祈る、祈る寸[とき]は則ち必ず火光を得る。因りて郷里の諺に曰く、太神の火光は海の隈[くま]に到り、神主武彦は国家四民の導きなりと。云々[しかじか]

 日没(闇)の海で、しかも暴風のために翻弄される舟にしがみついている水主たちの姿がみえるようです。伝記は「時に一人、当宮の神に祈りて火光を得たり。忽ち松明の如き火、海上に燃え風波静なり。因りて直ちに火の往[みちのり]を指して、即ち岸に着く事を得たり」と、まるで奇跡が起こったかのような話をつづけています。ここで祈られた「神」は、後半部分で「太神の火光は海の隈[くま]に到り」云々と書かれていますから、姫太神(太神)、つまり瀬織津姫神のことだとわかります。
 瀬織津姫神は、川を遡上すると滝神・水源神・山神ともなりますが、もともとは「海」を祭祀発祥の原郷としていましたから、たとえば、渡海の難所・佐賀関では海峡の女神とみられていたように、こういった航海守護の神徳を兼ね備えていたとしても不思議ではありません。
 難儀する海の民を救った瀬織津姫神ゆかりの話は、豊前国の隣りの筑紫(筑前)国にもあります。
 田中香苗『津屋崎風土記』(私家版)には、「当町(津屋崎町)の産土神波折神社の縁起」が抜粋されています。同縁起によれば、波折神社の創祀は「神功皇后凱旋されし時、祭神の瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神が鼓島に現われ給うた」、皇后は河原ヶ崎の地に「祠を建て神垣を巡らし、祭りを行われた」と、神功皇后伝承と波折神の創祀を結びつけていますが、次のような別伝もありました。

 いつの世代か、津屋崎の漁夫三人、沖に出て釣りをしていたが、にわかに風起こり、波は高くなり、雷さえ鳴り渡り、船は転覆しそうになったので、一心に神の助けを祈ったところ、三神(瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神の三神ならん)隆起する波穂の上に立ち給いて、大波を御袖をあげて打ち払い給うかに見えたところ、逆巻く荒津波は、遙かな海に折り過ぎ暫しの間海上が静かになったので、船は辛うじて鼓島に漂着した。
 そうして鼓島に風待ちすること三日間、食物はなくなり飢えていたところ、再び先の三神、船上に現われ給うて御手づから飲食を与え給うたので、漁夫三人はたちまち人ここちつき立ち上って力の限り波涛を折って(折るとは凌ぐ意であろう)ようやくこの岸に着いた。
 ふと見れば船上に三つの石あり、奇異の思いをしつつ漁夫等この霊石を捧持して帰り、神の御形として祭り、この時より“波折神”と称し奉るようになった。(三つの霊石は今も御神体である)

 暴風のため船はあわや転覆かというとき、「一心に神の助けを祈ったところ、三神」が波の上に現れ、「大波を御袖をあげて打ち払」うと、逆巻く荒波は鎮まり、船はどうにか「鼓島」に漂着することができたというのが前半の奇跡譚です。
 島(鼓島)へ難を逃れたものの、そこには食べる物がなかったため、今度は飢えが襲ってきたが、「再び先の三神、船上に現われ給うて御手づから飲食を与え給うた」、ゆえに漁夫は力を盛り返し、荒波のなか、どうにか船をこいで岸にたどりつけたといいます。船上を見ると、なぜか「三つの石」があり、これを「波折神」の「御形」(御神体)としてまつったとされます。
 縁起書は、この「三つの石」を御神体とする神々に、瀬織津姫大神、住吉大神、志賀大神の三神をあてているようです。しかし、三神は「大波を御袖をあげて打ち払い給う」とありますので、あるいは、この三神は宗像三女神とした方が自然におもえますが、それはおくとしても、少なくとも、津屋崎の漁夫の海難を救った神々に宗像三女神ゆかりの「瀬織津姫大神」がいたことは認めてよいでしょう。
 漁の網に霊石がかかり、それを「女石神[めいしがみ]」と呼び、この霊石を御神体として瀬織津姫神をまつったというのは、北の大地にまでみられることでした(北海道・川濯神社の項を参照)。
 宇佐神宮庁編『宇佐神宮由緒記』には、「三女神(三柱の比売大神)は道主貴[みちぬしのむち]となって宗像大社や厳島神社などに祭られ、海洋神として神威をあらわされた」と書かれていますが、闇無浜神社と波折神社の伝記・縁起が伝えている瀬織津姫神の航海守護の神徳は、海原の道中を護る、まさに海洋神「道主貴」の神徳でもあります。(写真:豊国の風)
(つづく)

闇無浜神社考【Ⅳ】──倭大国魂神と天照大神

更新日:2009/5/17(日) 午後 1:23



『社記』の「概要」を再読しますと、崇神時代のこととして「豊日別国魂神の示現を得て、一社を建てて祀りました。豊日別宮─闇無浜神社の創祀です」とあります。また、同じく巻頭の「豊日別宮補遺」においては、「豊日別宮伝記は、豊日別国魂神と太神龍(瀬織津姫神)の神縁の書」と書かれています。
 ここでいわれている「豊日別国魂神の示現」「豊日別国魂神と太神龍(瀬織津姫神)の神縁」とは何を意味するものなのでしょう。この「示現」「神縁」について考えてみます。
『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月条に、天照大神がようやく伊勢に安住の地をみつけてまつられるといった記載があります。この記載で終わってもよさそうなものなのですが、書紀の作者は、本文のあとに「一に云はく」として、倭大神(倭大国魂神)による垂仁天皇への託宣を、次のように載せています。

是[こ]の時(天照大神を伊勢国渡遇宮[わたらいのみや]に遷しまつったとき……引用者)に、倭大神、穂積臣の遠祖大水口宿祢に著[かか]りたまひて、誨[をし]へて曰[のたま]はく、「太初[もとはじめ]の時に、期[ちぎ]りて曰はく、『天照大神は、悉[ことごとく]に天原[あまのはら]を治[しら]さむ。皇御孫[すめみま]尊は、専[たくめ]に葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親[みづか]ら大地官[おほつちつかさ]を治さむ』とのたまふ。言[いふこと]已[すで]に訖[をは]りぬ。然[しか]るに先皇[さきのみかど]御間城天皇、神祗[あまつかみくにつかみ]を祭祀[いはひまつ]りたまふと雖も、微細[くは]しくは未だ其の源根[もと]を探りたまはずして、粗[おろそか]に枝葉[のちのよ]に留めたまへり。故[かれ]、其の天皇命短し。是[ここ]を以て、今汝[いまし]御孫[みまの]尊、先皇の不及[かけたること]を悔いて慎み祭[いは]ひまつりたまはば、汝尊の寿命[いのち]延長[なが]く、復[また]天下[あめのした]太平[たいら]がむ」とのたまふ。

 倭大神(倭大国魂神)による託宣のことばを聞いた(受け取った)のは「穂積臣の遠祖大水口宿祢」でした。それにしても、この神は、垂仁天皇にアドバイスできるほどの神託力をもっていたようです。
 垂仁天皇は崇神天皇の第三子で、自分の父親・崇神(「先皇[さきのみかど]御間城天皇」)は、神まつりの「源根[もと]」をまったくわかっていなかった、この「源根」をおろそかにして枝葉の神まつりしかしなかったから、その命が短くなったのだと言われています。崇神の愚を悔いあらためて慎み深く神々をまつったならば、「汝尊(垂仁天皇)の寿命」も延長され、天下も太平となるであろうとも託宣されています。
 倭大神(倭大国魂神)の意識では、「太初の時」に堅く約束したことがある、それは、天照大神は天界(天原)を治め、天皇(皇御孫尊)は八百万の神々(八十魂神)をまつり治め、我(倭大神)は「大地官[おほつちつかさ]を治めるという、いわば分担統治の約束だったようです。倭大神(倭大国魂神)が治めるという「大地官」が少しわかりづらいですが、書紀の注は「いわゆる国魂のこと。即ち地主の神をさす」としています。
 諸国の国魂神・地主神を治めるのが倭大神(倭大国魂神)としますと、豊日別国魂神も、その「大地官」の一神ですから、倭大神(倭大国魂神)とは類縁の神とみることができます。
 それにしても、倭大神(倭大国魂神)から、神まつりの「源根[もと]」を知らなかった、だから命を短くしたのだとまでいわれた崇神天皇です。では、崇神が知らなかった根源に関わる神まつりとは何だったのでしょう。
 渡来天皇である崇神が、倭国の神まつり(の根源)をよく理解していなかったらしいことは、崇神天皇五年・六年条を読むとよくわかります。
 五年条には、国内に疫病が流行して、亡くなる民が半分を過ぎようとしていたとの記述があります。翌年の六年条には、疫病の影響で流離する民も多く、なかには天皇の統治に反逆する者も出てきたと書かれます。崇神は、自分の「徳」では統治ができないとして「神祗[あまつかみくにつかみ]」をまつったとも書かれます。以下は、それにつづく記述です。

是[これ]より先に、天照大神・倭大国魂、二[ふたはしら]の神を、天皇の大殿[みあらか]の内に並祭[いはひまつ]る。然[しかう]して其の神の勢[みいきほひ]を畏[おそ]りて、共に住みたまふに安[やす]からず。故[かれ]、天照大神を以[も]ては、豊鍬入姫[とよすきいりびめ]命に託[つ]けまつりて、倭[やまと]の笠縫邑[かさぬひのむら]に祭る。仍[よ]りて磯堅城[しかたき]の神籬[ひもろぎ]を立つ。亦、日本大国魂神を以ては、淳名城入姫[ぬなきいりびめ]命に託[つ]けて祭らしむ。然[しか]るに淳名城入姫、髪落ち體痩[やすか]みて祭[いはひまつ]ること能はず。

 倭大国魂神は「日本大国魂神」とも表記されていますが、崇神時代に「日本」はまだありませんので、これは書紀編纂者の「校正ミス」かもしれません。それはともかく、天照大神と倭大国魂神は、内裏で「並祭」され、天皇による直々の親拝を受けていたもののようです。しかし、崇神は、その「神の勢い」が強いのを畏れて、宮外にまつることを命じます。それも、「並祭」されていた二神を分離してまつるということをしたようです。
 この分離祭祀で、天照大神の御杖代(憑依体)は豊鍬入姫命、倭大国魂神(日本大国魂神)のそれは淳名城入姫命とされましたが、淳名城入姫命は、髪落ち体も痩せ衰えて祭ることができなかったとあるように、「神の勢い」の強さは、どうやら倭大国魂神のものだったようです。淳名城入姫のあとは、「大倭直[やまとのあたひ]の祖[おや]長尾市宿禰[ながおちのすくね]」が倭大国魂神をまつったとされます(垂仁天皇二十五年三月条の割注)。
 先にみたように、天照大神は天界(天原)を治め、倭大国魂神は各地の国魂神・地主神を分担して治めるという堅い約束は「太初[もとはじめ]」からのもので、この二神は強いつながりの元にありました。それが内裏での「並祭」にみられたわけですが、崇神天皇は、これら二神のつながりをよく理解することもなく、ただ「神の勢い」を畏れて宮外への放逐・分離祭祀に踏み切ったため、死後、倭大国魂神によって、崇神は神まつりの根源を知らなかった、ゆえに命を短くしたと託宣されることになったのでした。
 倭大国魂神は託宣神であり、天照大神と並び祭られるほどの神でありました。この倭大国魂神とはどういう神なのでしょう。
 神宮司庁編『神宮要綱』(神宮皇學館館友会、昭和三年)に、倭大国魂神を考える上で、興味深い記述があります。

豊受大神宮
大神(豊受大神…引用者)の御霊は歴世皇大神(天照大神…同)の御霊と共に内裏に奉斎せられしを、崇神天皇の御宇に皇大神に副へて丹波国に遷し奉られしを、上に云へる如く雄略天皇の御宇に皇大神の御誨(神託…同)によりて、此の地(外宮の現鎮座地…同)に迎へ奉られしなり。

 この記述を真としますと、倭大国魂神は外宮神・豊受大神のことだったとなります。この神は「崇神天皇の御宇に皇大神に副へて丹波国に遷し奉られ」たとされます。
 丹波国(のちに分離された丹後国)で豊受大神をまつるのが元伊勢・籠[この]神社ですが、同社宮司・海部穀定『元初の最高神と大和朝廷の元始』(桜楓社)には、豊受大神をまつりはじめたのは「和銅元年(七〇八)」という、とびきりの史料開示もみられます。豊受大神が、『古事記』(七一二年)が成る少し前にまつりはじめられたというのは、示唆することあまりに大きいものがあります。
『元初の最高神と大和朝廷の元始』には、ほかにも多くの貴重な史料が収録されていて、たとえば、明治維新を迎え、新政府の「王政復古」を手放しで歓迎し、また期待もした同社社家の文章などは、籠神社内部の秘伝承が部外の者にも読めるかたちとなっていて一級の史料といえます。籠神社社家(吉岡徳明、大原美能理等)撰述「皇大神四年鎮座考(与謝宮考)」(明治初年)には、次のように書かれています。

撞賢木厳之御魂と天照皇大神の四年の鎮座坐せし与佐の宮所を定かに知る人なく亦其を沙汰せし人もなきは悲しき事にて且又畏き事の極みなれば、〔中略〕明御神の大御祖とます皇神の御履歴[アト]を知らずてやはあるべき〔中略〕籠神社〔名神大月次新嘗〕これぞ倭姫命世記の謂ゆる崇神天皇の御宇に豊鋤入媛命四年の間天照大御神を斎き奉りし旧跡にそ有ける。

 崇神時代の天照大神の奉祭地、つまり四年間にわたる丹波滞在地が世に知られることもなく、籠神社こそが当該社であって、その認知・周知を願うというのが文面の主旨です。しかし、本稿の関心からいえば、「与佐の宮所」「与謝宮=吉佐宮」に滞在・鎮座していたのが「撞賢木厳之御魂と天照皇大神」の二神であったというのは、やはり大きな意味があります。なぜなら、倭大国魂神は外宮神・豊受大神とされるも、その実は、天照大神と対偶関係(並祭関係)にある「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」であったことがわかるからです。この「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」が、「天照大神荒魂」とも仮称される瀬織津姫神の異称であることはいうまでもありません。
 倭大国魂神は、内裏では天照大神と「並祭」され、神威格別で、天皇の生命の長短にまで言及する神でした。
『古事記』と『日本書紀』の仲哀・神功皇后の段には、仲哀天皇に対して、「この天の下は、汝の知らすべき国に非ず。汝は一道[ひとみち]に向ひたまへ」と宣告した神が出てきます。「汝(仲哀)にはこの国を統治する資格がない、まっすぐあの世(への一道[ひとみち])に向かいなさい」と託宣され、その通りとなるのですが、神功皇后が、この「祟る所の神」を占うと、最初に登場してくるのが「神風の伊勢国の百伝[ももづた]ふ度逢縣[わたらひのあがた]の拆鈴[さくずず]五十鈴宮に所居[ま]す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と明かされます。
 また、宮外に出された倭大国魂神を淳名城入姫のあとに鎮祭したのは「大倭直の祖長尾市宿禰」でした。この「大倭直」は「倭国造」でもありますが、神武東征譚において、「速吸門[はやすひのと]」で出会った「槁根津日子[さをねつひこ]」(書紀は「椎根津彦」)を東征の水先案内に立てたとされますが、この槁根津日子(椎根津彦)について「此は倭国造の祖」と書かれていたことも想起されます。「速吸門」、つまり「速吸瀬戸」の海峡の女神は早吸日女神(八十枉津日神)で、これも瀬織津姫神の異称でしたから、この海峡ゆかりの「倭国造」の祖・槁根津日子(椎根津彦)の末裔にまつられたゆえに、倭大国魂神がその「神の勢い」を鎮めたとするなら、その祭祀の因果の理路があまりに無理なく立ってしまいます。
 豊日別国魂神を含む各地の国魂神・地主神を治める倭大国魂神は、豊前国では姫太神・太神龍ともいわれる瀬織津姫神のことです。豊日別国魂神と瀬織津姫神──、両神はまさに「示現」「神縁」の深い関係にありました。
 闇無浜神社(豊日別国魂神社)が、自社主祭神を、瀬織津姫神という、ある意味「危険」な神名を表立てるのではなく、あくまで豊日別国魂神だとしても、社内の認識においては、両神は異神ではなく、深い「神縁」によって結ばれているということなのでしょう。それと、「豊日別国魂神は、豊国(豊前・豊後)の国魂、すなわち国土の霊を守る神、産土の神」と誇らかに書くことで、豊日別国魂神の神徳は、豊前国宇佐郡まで包括することになります。宇佐・比売大神は「八幡さまのあらわれる以前の古い神様、地主神」でした(宇佐神宮庁『宇佐神宮由緒記』)。豊国(豊前・豊後)の国魂神・地主神から宇佐の地主神への隠れたメッセージも、この「豊日別国魂神」の表示には含まれているのかもしれません。(写真【関崎から速吸瀬戸を望む】:豊国の風)
(つづく)

闇無浜神社考【Ⅲ】──豊日別国魂神の不思議

更新日:2009/5/16(土) 午後 4:44



「豊日別宮伝記」は、闇無浜神社の根本縁起ということはむろんなのですが、本伝記を収録する『闇無浜神社─由緒と歴史』(以下『社記』と表記)巻頭の「概要」には、「黒田侯(黒田孝高〔=黒田官兵衛=黒田如水〕…引用者)が大名として入部し中津城を築造するまで、約一六五〇年の中津地方の歴史は不明の部分が多い。しかし、闇無浜神社に伝来した古文書が唯一、信頼される歴史書」と書かれ、「豊日別宮伝記」は、縁起書と歴史書といった二相の価値を有するもののようです。
 伝記は、崇神時代の託宣記述からはじまり、以降編年的に何人かの天皇の時代における「太神」(姫太神)の託宣・神徳あるいは神社にまつわる記録を書き連ねています。どの天皇の時代の記述から「歴史」となるのか、その境界の線引きはむずかしいといわざるをえません。
 伝記の書き出しは、すでにみたように、姫太神・瀬織津姫神の出現譚といった内容で、本伝記の主役は、姫太神・瀬織津姫神といってよいのですが、では、この神が闇無浜神社の筆頭祭神かといえば、そうではないようです。同じく、『社記』巻頭の「概要」では、次のように書かれています。

 闇無浜神社(明治五年までは、豊日別国魂神社と称しました)の主祭神は、中央に祀る豊日別国魂神です。
 豊国─後に豊前・豊後の二国にわかれる─を、古くは豊日別国と言い、北九州小倉あたりから、田川郡を含み宇佐郡に至る豊前国、そして豊後国の国魂神─国土守護の神─として古昔より尊崇を受けて来ました。福岡県の一部と大分県全部の、国土安鎮守護の神です。
 重松家初祖中津彦雄が崇神天皇の御時、同僕二四名を従えて日向国から豊前国中津に移住し、豊日別国魂神の示現を得て、一社を建てて祀りました。豊日別宮─闇無浜神社の創祀です。

 伝記の書き出し部分には、ここは「神代より豊日別国魂神、姫太神垂迹[あとたれ]たまふ霊区[あやしきちまた]なり」と書かれていましたから、豊日別国魂神のみが「主祭神」として語られるというのは、いささか奇異な印象を受けます。
「由緒沿革」の項の記述も読んでみます。

 神武天皇の後裔第八代孝元天皇の御子大彦命の子の国津彦雄(後に中津彦雄と改む、闇無浜神社重松宮司家の始祖)が、第十代崇神天皇御代に日向国から同僕二十四人と共に中津の地に来り、在地の人を導き土地を拓き、神託により豊日別国魂神と瀬織津姫神(太神龍)を鎮祭。〔中略〕
 主祭神豊日別国魂神は、豊国(豊前・豊後)の国魂、すなわち国土の霊を守る神、産土の神です。

 引用前半では「崇神天皇御代」に「神託により豊日別国魂神と瀬織津姫神(太神龍)を鎮祭」と書かれるも、後半では、主祭神は豊日別国魂神と書かれていて、「瀬織津姫神(太神龍)」と「豊日別国魂神」の祭祀関係が今ひとつ不明な印象を受けます。
 また、伝記の冒頭では、「豊日別国魂神は天神第七代伊奘諾尊の霊神なり」と書かれていましたが、現在の『社記』は、豊日別国魂神を「福岡県の一部と大分県全部の、国土安鎮守護の神」、「豊国(豊前・豊後)の国魂、すなわち国土の霊を守る神、産土の神」としていて、伝記が記していた「伊奘諾尊」への言及は避けているようです。
 それはともかく、この豊日別国魂神は、崇神天皇時代の示現・鎮座とされていますので、「豊日別宮伝記」の姫太神・瀬織津姫神の出現譚につづく崇神天皇条を読んでみます。

崇神天皇御宇、太神児童[こわらべ]に憑[かか]りて宣[のたまは]く、吾れ西の海の中津瀬より化生[なりあれ]て、此の所に迹[あと]を垂る。今より此の処を中津川と号[なづ]くと。昔を想ふに悠[はるか]に遠く久し。今爰[ここ]に鎮り居て、中津川の川相[かはあひ]に澳津海[おきつうみ]の潮相の辺に、二日も三夜も到りて、今を以て古へを見むと歌舞して倒る。是に於て、郷人議して曰く、神託疑ひ無し。然れども未だ通ぜざる事有り、因りて奇彦児童と共に、北浜の御崎に至る。忽ち、白烏[しろからす]州崎の石上に飛び降る〔此の時より霊烏石[れいうせき]と号く有り〕。児童見て俄かに叫びて曰く、呼嗚[ああ]是れ川相潮相の処なり。告げて亦言[ものい]はず。郷里の耆老[ぎろう]神託に感じて、此の処に葦葺[あしぶき]の権殿[ごんでん]を構え、三月五日御神体を御崎の行宮[あんくう]に渡し奉る。神膳神酒等を献じ神楽を奏す。此の夜、権殿の海上に龍燈二行[ふたつら]に燃ゆ。祭庭白日の如し。聚[あつま]り観る者、甚[はなはだ]驚怪す。明日に至り、神供を龍神に献じ、龍箇瀬に至りて舟中より神楽を奏す。其の後、美女一人水晶の璞玉[あらたま]を紅き袖に包み、神前に献ず。神官怪みて其の名を問ふ。答へず。諸人の群中に紛[まぎ]れ入りて形を隠る。権殿止宿二夜三日にして還御、此の時より毎歳是の祭在り。

 実は、「豊日別宮伝記」中、もっとも解釈・理解がむずかしい場面が、この崇神天皇条の託宣シーンです。ただ、ここに登場している託宣神は「太神」(姫太神)のみで、『社記』が記す主祭神「豊日別国魂神」の影が少しもみえないとはいえます。
 伝記は、この「太神」は「吾れ西の海の中津瀬より化生[なりあれ]て」と書いていました。この「中津瀬」は、たとえば『日本書紀』ですと、イザナギが「筑紫[つくし]の日向[ひむか]の小戸[をど]の橘の檍原[あはきはら]」へやってきて黄泉国の穢れを禊ぐ場面に出てきます。

(イザナギは)興言[ことあげ]して曰[のたま]はく、「上瀬[かみつせ]は是太[はなはだ]疾[はや]し。下瀬[しもつせ]は是太[はなはだ]弱[ぬる]し」とのたまひて、便[すなは]ち中瀬[なかつせ]に濯[すす]ぎたまふ。因りて生める神を、号[なづ]けて八十枉津日神[やそまがつひのかみ]と曰[まう]す。

 崇神時代からすればイザナギの時代はたしかに「神代」のこととなり、「昔を想ふに悠[はるか]に遠く久し」という唐突の感慨のことばは、おそらく伝記作者のものなのでしょう。それにしても、日本の「正史」は、この「中津瀬」の禊ぎから最初に誕生した神を「八十枉津日神」としていました(『古事記』は「八十禍津日神」と表記)。
 豊日別国(のちの豊後国)では、早吸日女神社(大分市佐賀関)は自社主祭神に、この「八十枉津日神」を認め、現在もこの神の名で祭祀をつづけています。しかし、「速吸瀬戸」(豊予海峡)の神、つまり関・海峡の女神が、安岐町の関大神社に飛来してくると、ここでは「正史」の「八十枉津日神」という規定をふりはらって、瀬織津姫という元神の名でまつられることになります(「関大神社と早吸日女神社」参照)。
 同じ豊日別国(のちの豊前国)においても、この神は「姫太神」(太神)・「瀬織津姫神」の名として秘蔵社伝に刻まれていました。ただし、姫太神・瀬織津姫神は、その名を残す代償として、「祓戸神」という中央側による神格規定を受容したようで、その逡巡する受容過程が、この崇神天皇条に反映しているようです。
 伝記本文を読みますと、三月、中津川の「川相潮相」の地で、新たな祓いの祭り(「川相潮相」の祭り)がはじまったようです。その祭場は、「白烏」が降り立った霊石(霊烏石)の地とされ、そこに権殿(仮殿)が造営されたものの、その祭りの日には「此の夜、権殿の海上に龍燈二行[ふたつら]に燃ゆ。祭庭白日の如し。聚[あつま]り観る者、甚[はなはだ]驚怪す」と、異様な怪異(「驚怪」)を伴うものでした。また、「其の後、美女一人水晶の璞玉[あらたま]を紅き袖に包み、神前に献ず。神官怪みて其の名を問ふ。答へず。諸人の群中に紛[まぎ]れ入りて形を隠る」と、謎の「美女」の不思議な行動が記され、これもまた怪異とみてよいでしょう。
 これらの怪異に、この新たな祭りが、「太神」(姫太神)にとって喜ばしいものではなかったことが暗喩されています。
 最後は「権殿止宿二夜三日にして還御、此の時より毎歳是の祭在り」と締めくくられています。ここでいう「是の祭」(「川相潮相」の祭り)を、より具体化して述べたのが仁賢天皇条でしょうか。

仁賢天皇三年〔庚午〕三月、大神を中小路北の御崎に渡し奉りて、須[すべか]らく古の潮相川相の祭の祓除す。是れ上巳[じょうし]の祓の濫觴なり。此の時、中御崎を下宮と為す。

 仁賢天皇三年(四九〇)三月、「古の潮相川相の祭の祓除[はらへ]す」──。この「古の潮相川相の祭」が、崇神天皇条にはじまったとされる「是の祭」(「川相潮相」の祭り)を指しています。
 ところで、仁賢時代に定式化された「祓除[はらへ]」の祭りについて、「是れ上巳[じょうし]の祓の濫觴なり」と書かれていることは注目に値します。伝記の後注は、「上巳=五節句の一。陰暦三月初の巳[み]の日。後に三月三日の節句」と説明しています。つまり、桃の節句、三月三日の雛祭りは、この闇無浜神社(豊日別国魂神社)からはじまるというのです。
 雛祭りは、正確には雛流しの祭りで、この「雛」は、祓具の「人形[ひとがた]」を原型とするもので、時代が下ると、それが雛人形となります。人々の罪穢れを一身に負わされて「潮相川相」を流れゆく人形(雛)は、まさに祓神そのものの流れゆく姿で、そこまでみえれば、姫太神の表情の曇り(→怪異)もまた理解されるのではないでしょうか。
 くりかえしますが、豊日別国魂神が降臨・示現したのは崇神天皇時代でした。しかし、同天皇条には、姫太神の祓神化と、その祓の神事の記述しかみえません。『全国神社名鑑』は、闇無浜神社由緒の項で「崇神天皇の代に豊日別国魂神と瀬織津姫神の二神を鎮祭したのがはじまりという」と、伝聞形式の由緒を記すのみですが、闇無浜神社の根本縁起が豊日別国魂神の記述をまったくしていないというのは、やはり奇異というしかありません。
 崇神天皇時代は、伝記の傍注によれば紀元前九七~前三〇年とされます。そんな太古の時代に姫太神(瀬織津姫神)が祓神化されたというのはまったくのフィクションとみるしかなく、では、なにゆえに、こういった虚構の記述が崇神天皇時代のこととして、ここに記されたのかという問いも生じてきます。
 まったく影のうすい豊日別国魂神ですが、この謎の「国魂神」が「正史」(『日本書紀』)に登場するのも崇神天皇条です。「豊日別宮伝記」の作者は、この「正史」の記述を意識して、豊日別国魂神・瀬織津姫神の降臨・出現を崇神天皇時代のこととして設定・創作したことが考えられます。
(つづく)

【写真説明】
 ブログ写真の巨石は闇無浜神社境内にあるもので、伝記中の「白烏[しろからす]州崎の石上に飛び降る〔此の時より霊烏石[れいうせき]と号く有り〕」の「霊烏石」といわれます。『社記』には、一九八八年十月撮影の「霊烏石」の写真が掲載されています。これを見ますと、ブログの写真のような金銅色の大玉は石の上に乗っていません。
 この謎の玉は、一九八八年十月以降に乗せられたものとみられます。宮司さんによれば、ある信者が置いていったもので、そのままにしてあるとのことです。この信者の方の行為は、これも伝記中の「美女一人水晶の璞玉[あらたま]を紅き袖に包み、神前に献ず」を意識してのことだったのかもしれません。(写真:豊国の風)

闇無浜神社考【Ⅱ】──瀬織津姫神の出現

更新日:2009/5/15(金) 午前 6:20



 豊前国には二柱のヒメ(比売・比咩・姫)大神がいます。しかも、そのヒメ大神の鎮座地は、直線距離にして約二〇㎞という近さです。
 一方は、延長五年(九二七)に成る『延喜式』神名帳に宇佐郡三座として記される「八幡大菩薩宇佐宮 名神大」、「比売神社 名神大」、「大帯姫廟神社 名神大」、つまり、これら三社を一社に並びまつる現在の八幡総本宮・宇佐神宮で、もう一方は、『延喜式』神名帳には式内小社としても記載されることのなかった豊日別国魂神社(現在の闇無浜神社)です。一方は朝廷から「名神大」という破格の祭祀対象神とみなされ、もう一方は朝廷からの奉幣を受けることのなかった神でした。
 宇佐神宮は、自社のヒメ大神を「八幡さまのあらわれる以前の古い神様、地主神」といい、「社伝では、天照大御神と素戔嗚尊のウケヒによってあらわれ、素戔嗚尊の剣を物実[ものざね]とした、三柱の比売大神で、筑紫の宇佐島に天降った神」、また、この三女神は、宗像大社や厳島神社の祭神と同体としています(宇佐神宮庁『宇佐神宮由緒記』)。「天照大御神と素戔嗚尊のウケヒ」によって誕生した三女神というのは、八世紀初頭に成る『古事記』『日本書紀』の神話に書かれていることです。国家神への昇格の代償のようにして、こういった中央的に改変された神話記述に依拠して自社の最重要な神を説明するしかないところに、宇佐・ヒメ大神の不幸が感じられます。
 闇無浜神社は、自社のヒメ大神を崇神天皇時代の降臨とし、「神託により豊日別国魂神と同殿に鎮座するのが、天照太神(天照大御神)の荒魂[あらみたま]の顕現たる瀬織津姫神、すなわち祓戸神の一神」云々と説明しています(重松ツギ・正孝編『闇無浜神社─由緒と歴史』)。闇無浜神社が、天照大神荒魂とか祓戸神といった中央的規定を認めるも、ヒメ大神を「瀬織津姫神」とする独自の社伝を手放さなかったことは貴重です。
 正和二年(一三一三)、宇佐神宮の社僧・神吽[しんうん]によって「八幡宇佐宮御託宣集」が編纂されます。これは宇佐神宮の根本縁起書といえますが、それから遅れることおよそ百年後の永享元年(一四二九)、神職・重松刑部義房によって「豊日別宮伝記」が編纂されます。現在読めるのは、義房のあと、「重松家第四三代忠重」が永正十二年(一五一五)に書写したものです。
 闇無浜神社に長く秘蔵されてきた根本縁起書「豊日別宮伝記」ですが、一読して感じるのは、これは「八幡宇佐宮御託宣集」と同じく、自社祭神の「託宣集」であるということでしょうか。ここでいう「自社祭神」とは、表題にみられる「豊日別神」というよりも「瀬織津姫神」のことで、この神の神徳・託宣集であることにおいて、「豊日別宮伝記」は異彩を放っています。
 朝廷の祭祀思想からもっとも忌まれていた瀬織津姫という神の神託・神徳譚が、これほど満載された縁起はほかにありませんので、まずはそれらを、記述の流れを追って概観してみようとおもいます(豊日別国魂神と瀬織津姫神の関係とはなにか、また、両神の出現がなぜ崇神天皇の時代として記されたのかといったことについては後述)。
 神武天皇(「神日本磐余彦天皇」)の「後胤」である中津彦雄(当初は国津彦雄といった)は、(崇神天皇の時代に)日向国から二四人の伴の者を連れて当地へやってきて、ここの土地を開き、先住民には生活の新しい法を教え、彼ら「里民と業を同じく」するも、「昼夜神祗を敬」ったとされます。
 以上は「豊日別宮伝記」の書き出し部分の要約ですが、そのあとにつづく場面(謎の老人の登場と神託場面)から読んでみます(原文・訓訳文の異体字・旧字は新字にて表記、太神と大神の表記混在は原文通り、〔 〕は割注を表す、以下同)。

一朝彦雄此の地の北浜に到りて、祓除[はらへ]して悠然として座す。老人来り告げて曰く、汝知らずや、この地の西の河水繞[めぐ]り流れて、朝夕の潮沂[さかのぼ]り湛[たた]へて清浄なり。神代より豊日別国魂神、姫太神垂迹[あとたれ]たまふ霊区[あやしきちまた]なり。荊棘[うばら]を披払[はら]ひ境内[さかひ]を分ちて、斎[いつ]き奉る可しと謂[い]ひて、則ち老人、彦雄と相共に歩[あゆみ]を進め数百歩ばかりにして、祭祀を致すべき其の処に見[まみ]えしむ〔中津川東岸なり〕。老人亦曰く、大神の霊感ずる時に至り、潔斎[ものいみ]を発[いた]せ、忽ち神体を見る事有らむ。彦雄怪みて姓名を問ふ。老人曰く、吾が名は後に知らむ、吾が形は後に見む。或は乙女・童形となり、亦、老人・神龍となり、天に上り地に入り山海に止[とどま]り、至らざる所無くして、上は皇[すめらぎ]より下は万民を守護[まも]るなり。汝是れを以て、験[しるし]となすべしと謂ひて、懐中より明鏡二面を出し与へ去る。

 彦雄の前に現れた謎の老人は、この中津川東岸は「豊日別国魂神、姫太神」ゆかりの霊地だと託宣します。老人の正体(姓名)は「吾が名は後に知らむ、吾が形は後に見む」として、まだくっきりとは明かされませんが、しかし、ときには「乙女・童形」の姿、ときには「老人・神龍」の姿となって現れるだろう、また、天皇から万民まで守護しようとまで告げていますので、この謎の老人が尋常の「人」ではないことがわかります。
 老人は彦雄に「明鏡二面」を渡すと、いずこへかはわかりませんが姿を消します。彦雄が「大神の霊」を感じてひたすら祈念していると、今度は謎の「神女」が登場してきます。以下は、上記引用につづく場面です。

彦雄斎戒して霊畤[まつりのには]を河の辺[ほとり]に定め、老人授くる所の鏡を松の枝に掛け、三日三夜北面してこれを祈る。満日の未明に日輪の像を戴ける神女、白雲に乗じ東方より三葉の松の上に降る〔此の時より三葉の松神木となす。今に存す〕。其の光四隅を照し、恰[あたか]も日中の如し。彦雄再拝稽首[けいしゆ]す。

 彦雄が鏡を松の枝にかけて祈念していると、そこに「日輪の像を戴ける神女、白雲に乗じ東方より三葉の松の上に降」ったとされます。闇無浜神社からみれば、「東方」は宇佐方向にあたりますが、それはともかく、この「神女」の降臨のとき、「其の光四隅を照し、恰も日中の如し」とされます。柿本人麻呂歌の「倉無の浜」から「闇無浜」(闇の無い浜)へと転じた、いわば地名譚とみてもよさそうな記述です。また、「日輪の像を戴ける神女」は、飛騨国の民からこよなく崇敬されていた「日抱尊」という女神を彷彿とさせます(『円空と瀬織津姫』下巻所収「円空の意志表示─両面宿儺と瀬織津姫神」)。
 彦雄が「再拝」していると、この「日輪の像を戴ける神女」は、ついに自らの名を明かします。つづきを引用します。

太神告げて曰[まほさ]く、汝は天神の遠孫[をちみまご]なる故に、心神も正直なり。日向国より此の国に来り、百姓[ひやくせい]を導き西の偏土[ほとりのくに]と雖も安く鎮め仕へ奉る事を、天祖の神知食[しろしめ]す。吾は天照太神の荒魂[あらみたま]、瀬織津姫神[せおりつひめのかみ]なり。此の豊日別神と同じ宮に鎮り座して、遠き蕃[ほとり]の寇[あだ]を防ぎ、天の災地の災をも攘[はら]ひ除かむと思ふ。先の日、汝に授けの明鏡は二柱の神の影[みかげ]なり。宜しく斎き祭礼[まつる]べし。万の事も二柱の神の告[みつげ]なりと云ひ訖[をは]りて、即ち、白龍と現じ金光映徹して飛び去る〔其の処、龍筒瀬と名づく。今に存す〕。彦雄感喜隨に徹し、頭面礼足す。神現形[げんぎやう]の日、諸人見て甚[はなはだ]奇異とす。故に衆人力を戮[あは]せ社を中津河の東に営み、神鏡を安置し奉りこれを祭る。

 最初の謎の「老人」は「神女」へと変じ、さらに、この「神女」と同体の「太神」は「吾は天照太神の荒魂、瀬織津姫神なり」と、自身の正体をここで明かします。「太神」(瀬織津姫神)が「吾は天照太神の荒魂」と自己規定する託宣をしていることから、この託宣縁起の記述が『倭姫命世記』に依拠していることがわかります。
 彦雄以外の「衆人」は、瀬織津姫神の出現(「現形」)を目撃し、力を合わせて霊地「中津河の東」に社殿を建立したとされます。「豊日別国魂神、姫太神(瀬織津姫神)」の創祀譚としてはここで終わってもおかしくないのですが、伝記はさらに、次のようにつづけています。

彦雄の子奇彦[くしひこ]、専ら神祠に仕ふる事を業とす。抑[そもそも]、当宮の二神日本に出現の初、豊日別国魂神は天神第七代伊奘諾尊の霊神なり。瀬織津姫神は、伊奘諾尊日向の小戸の橘の檍原[あはぎはら]に祓除[はらへ]し給ふ時、左の眼[みめ]を洗ふに因りて以て生[あ]れます。日の天子大日孁貴[おほひるめのむち]なり。天下化生[けしやう]の名[みな]を、天照太神の荒魂と曰す。所謂[いはゆる]祓戸神瀬織津比咩神是れなり。中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍[たいしんりゆう]と称し奉るなり。

「抑[そもそも]」以下で、伝記作者は「当宮の二神」に対する自身の認識を述べています。すなわち、豊日別国魂神は「天神第七代伊奘諾尊の霊神」、瀬織津姫神は、その伊奘諾尊の「祓除」によって誕生した神で「日の天子大日孁貴」だというのです。伝記の後注は、この「大日孁貴」について、「天照太神の別称。天照太神瀬織津比咩神同体説にて、中世神道説に基く」としています。
 しかし、「大日孁貴」は、はたして「天照太神の別称」かどうかという根本的な問題があります。オホヒルメノムチが、太陽神(皇祖神のアマテラス)のことではなく、太陽神(日神)の后神(妻神)と解釈する非「別称」説もあるからです。折口信夫は「天照大神」(『折口信夫全集』第二十巻所収)で、次のように述べています。

むち(貴)は女神の接尾語であり、ひるめは日之妻(ひぬめ)で、日神の妃といふことになる。神聖なる神女の地位を言ふものである。太陽神を女性とする神話も、他民族には例があるから、不思議はないが、日本の場合は日の神とひるめとには、対偶神としての存在を示す信仰があつた。

 この折口説は貴重で、「天照太神の別称」として「大日孁貴」をとらえてきた神道世界の通説に再考をせまるものともいえます。本伝記においても、瀬織津姫神は「日輪の像を戴ける神女」と書かれていたように、「日輪の像」(日神)と「神女」(瀬織津姫神)は異神として描写されていました。伝記作者は、「抑[そもそも]」の記述の前までは、後注が指摘する中世の「天照太神瀬織津比咩神同体説」を抱いていたのではなく、あくまで異神説に立っていたようです。「抑[そもそも]」以下は本文の流れからすると不自然で、後世の追記と読めそうです。
「豊日別宮伝記」が社内(宮司家)に秘蔵・秘伝されてきた、その「秘」の理由を考えますと、それは、本伝記が中世的な「天照太神瀬織津比咩神同体説」を含む内容だったからというよりも、折口いうところの「日神の妃」説を内包していたことによるものとみられます。神宮祭祀あるいは中央の祭祀観からいえば、むろん「天照太神瀬織津比咩神同体説」にしても許容できるものではないでしょうが、しかし、より本質的には、「日神の妃」説、つまり日神と、その妃神という「対偶神」の関係祭祀が語られることのほうが神宮祭祀の根幹を揺るがすことにつながりますので、その意味で、より「危険」ということになりましょう。
「豊日別宮伝記」は、この「日神の妃」・「大日孁貴」の「天下化生[けしやう]の名[みな]」、つまり、天下に化生(仮に化けて生きること)の「名」が「天照太神の荒魂」であり、「謂[いはゆる]祓戸神瀬織津比咩神是れなり」としています。伝記本文の主表記は「瀬織津姫神」、「祓戸神」という「天下化生の名」のときは「瀬織津比咩神」と書き分けていることに注意する必要がありそうです。(写真:豊国の風)
(つづく)