闇無浜神社考【Ⅰ】──『豊前志』にみる瀬織津姫神

更新日:2009/5/13(水) 午前 4:36



 歌人・柿本人麻呂は、左遷・流罪の不遇もあったでしょうが、七世紀末から八世紀初頭という古い時代にしては、驚くべき広範囲にわたる列島各地の生活光景を歌に残していました。
 次は『万葉集』巻第三に収められている歌で、「柿本朝臣人麻呂、筑紫国に下りし時、海路にて作れる歌二首」と詞書のあるうちの一首です。

  大君[おほきみ]の遠[とほ]の朝廷[みかど]とあり通[がよ]ふ
    島門[しまと]を見れば神代し思ほゆ(歌番三〇四)

 ここで詠まれている「遠の朝廷」は、陸奥国ならば多賀城が該当しますが(実際は人麻呂の死後の築城)、詞書から筑紫国への下向時の歌とわかりますから大宰府ということになります。
 また、『万葉集』巻第九には、「或は云はく、柿本朝臣人麻呂の作なりといへり」と注される歌で、次のような一首もあります。

  吾妹子[わぎもこ]が赤裳[あかも]ひづちて植ゑし田を
    刈りて蔵[をさ]めむ倉無[くらなし]の浜(歌番一七一〇)

 中西進氏は、「いとしい子が赤い裳を濡らして植えた田を、刈って収めるような倉の、倉無しの浜よ」と解釈しています(『万葉集』講談社文庫)。
「倉無」を文字通り「倉が無い」とする「貧」のイメージでの解釈がほかにないわけではありませんが、おそらく、それとは逆で、収穫した稲束を「倉」に収めきれないがゆえの「倉無」とみるのが自然な解釈です。人麻呂の眼(歌)は、彼が恋情を抱いているらしい早乙女(吾妹子[わぎもこ])が、たくしあげた赤い裳裾を泥にまみれさせながら田植えする姿を映像のワンシーンのようにとらえています。彼女が植えた稲がのちに豊穣をもたらすであろう、この土地を、少し誇張するかのように、「倉無[くらなし]の浜」と詠んだものとおもわれます。つまり、「倉無の浜」は、実り豊かな収穫を(神によって)約束された豊穣の土地であっただろうことが、人麻呂の歌から想像されます。
 さて、この「倉無の浜」は、のちに「闇無浜[くらなしはま]」と地名表記されることになりますが、その地名を社名にもつのが「闇無浜神社」です(大分県中津市大字角木三〇四)。もっとも、闇無浜神社という社名となるのは明治五年(一八七二)からで、それまでは「豊日別国魂神社」という社名でした(『全国神社名鑑』下巻)。
 とはいえ、「豊日別国魂神社」という社名も、これ一つではなかったようで、『闇無浜神社─由緒と歴史』(同社務所)によれば、その異名は、豊日別宮・龍王宮・太神龍宮など、さまざまに呼ばれていたようです。
 闇無浜神社に瀬織津姫がまつられていることは『全国神社名鑑』ほかにも明記されていることで、それはそれでよいのですが、ただ、戦前から明治・江戸期へと遡上して由緒・祭神をさぐりますと、戦後の瀬織津姫祭祀からは想像しえないことがみえてきます。
 わたしが闇無浜神社に関する文献と最初に出会ったのは、シリーズ「大日本地誌体系」の一書『豊前志』(雄山閣)においてでした。これは、勤皇の国学者・渡辺重春を原著者とし、その子・渡辺重兄が増訂・出版したものの復刻版です。原著は文久三年(一八六三)に脱稿されていて、重兄が、その原著原稿に増補・校訂を加えて初版出版されたのが明治三十二年(一八九九)のことでした。
『豊前志』においては、闇無浜神社は「龍王社」と呼ばれていましたが、瀬織津姫祭祀を考えようとするとき、この『豊前志』の記載内容は、じゅうぶんに暗澹たる実態を感じさせるものでした(旧字・異体字は新字に改めて引用)。

龍王社
 中津闇無浜にあり。祭神、豊玉彦、豊玉姫、安曇礒良なり。〔中略…神功皇后による新羅遠征時に礒良出現の記載がはいる〕さて、遙かに下りての後の御代にこそ、始めて豊日別国魂神を合殿に祭りつれ。然りしより豊日別龍王宮とは称しき。然るを古史伝に、『豊前国中津郷に、今現に豊日別宮と称ふ社あり。此の社の伝起に、祭神は豊日別国魂神と比咩大神と二座にて、豊日別神と申すは伊邪那岐命の霊神なり、比咩大神と申すは瀬織津姫神なる由、委曲に記せり。云々、』と書かれたるは、事の縁をも知らぬ徒の説を聞きて信用かれたる謬なり。今の社司にも聞くに、瀬織津姫神を祭れる事なしと云へり。平田翁は、如何なる癡徒の偽作せる伝起を見て、しか記されたるにか、疑はし。

 平田翁(平田篤胤)は、その著『古史伝』に「豊前国中津郷に、今現に豊日別宮と称ふ社あり。此の社の伝起に、祭神は豊日別国魂神と比咩大神と二座にて、豊日別神と申すは伊邪那岐命の霊神なり、比咩大神と申すは瀬織津姫神なる由、委曲に記せり」と書いていて、『豊前志』の著者によって、これを完全否定されています。また、ご丁寧にも、「今の社司にも聞くに、瀬織津姫神を祭れる事なしと云へり」などと追記してもいて、これでは龍王社(闇無浜神社)における瀬織津姫祭祀は幻の話となりかねません。
 増補校訂者・渡辺重兄は、巻頭の「豊前志を出版するに就きて」で、「本書の中、まゝ、己が拙き心に任せて、原稿を或は削り、或は書き加へもしたる処有り。そは、一々其の由を記さず」と書いていましたが、「今の社司にも聞くに」云々の「今」は、原著が成った文久三年(一八六三)というよりも、重兄による出版が成る明治三十二年(一八九九)時点の「今」とおもわれます。
『豊前志』の著者によって、「平田翁は、如何なる癡徒の偽作せる伝起を見て、しか記されたるにか、疑はし」と、ずいぶんと貶められた平田篤胤でした。「癡徒」とはひどい愚か者という意味ですが、その「癡徒の偽作せる伝起」に平田翁はまんまとだまされたというのです。
 しかし、平田翁が見た「伝起」は、実は「偽作」とは真反対で、ただ秘伝書たる性格から、一般に知られることなく闇無浜神社宮司家に長く秘蔵されてきたものでした。
 平田翁(平田篤胤)が『古史伝』に記していたことは、すべてこの秘伝書に書かれていることで、平田は、おそらく特別の計らいで、この秘伝縁起を眼にした上で、上記『古史伝』の記述をなしたものとおもわれます。
 勤皇の国学者であった『豊前志』の著者・渡辺重春は、明治六年、官幣大社広田神社大宮司に就任しています(『豊前志』解説)。これは国からの派遣大宮司ですが、渡辺重春が広田神社の祭神を認識していなかったとは考えられないことです。その広田神社と同神をまつる郷里の闇無浜神社の秘伝縁起は、なぜか渡辺には、その存在がまったく伏せられていたようです。闇無浜神社側からすれば、この秘伝縁起を見せてもよい人物とそうでない人物を峻別していたはずで、平田篤胤は前者、渡辺重春・重兄父子は後者に該当したといえます。
 戦後近年の平成十二年(二〇〇〇)に刊行された『闇無浜神社─由緒と歴史』に、この秘伝縁起は初めて一般公開されるように収録されています。縁起の正式名は「豊日別宮伝記」といいます。この「伝記」は、永享元年(一四二九)に成ったものを永正十二年(一五一五)に書写したもので、伝記原本の鑑定から、それは「巻頭の筆記、紙質は鎌倉末期から室町初期のもの」とされるものです。江戸期に平田篤胤がすでにこの「伝記」を見ていたことは、『豊前志』が逆に証明してもいて、後世の偽作というのはあたりません。
『豊前志』の著者が「癡徒の偽作せる伝起」と決めつけていたことは撤回される必要がありますが、この「豊日別宮伝記」が長く公刊されずにきたのは、平田翁の短い紹介「比咩大神と申すは瀬織津姫神なる由、委曲に記せり」とあったように、まさに瀬織津姫神に関する「委曲」を尽くす内容をもっていたからです(後述)。
 古風土記として、隣国の『豊後国風土記』がある程度まとまって読めるのに対して、豊前国にはそれが伝えられることなくきましたので、その散逸の風土記の代替として『豊前志』は編纂されたようです。原著者・渡辺重春による、その史料探索の労は並々ならぬもので、また、地誌としての価値はすこぶる高いものがあります。しかし、そのことと、「龍王社」の記述が無批判に肯定されることとは別です。
『豊前志』のもつ地誌的価値を認めた上で、この「龍王社」の記述は、ここに否定される必要があります。いや、正確にいえば、「否定」されるのは、平田篤胤『古史伝』の引用部分ではなく、それを「否定」しようとした外縁のことばたちです。
 ただし、『豊前志』は、龍王社の祭神を「豊玉彦、豊玉姫、安曇礒良なり」と記していて、これが江戸時代末の公的な祭神認識だったとすれば、これはこれで貴重な記録ということになります。
 しかし、明治十三年(一八八〇)に、下毛郡角木村戸長・吉田近蔵から大分県大書記・小原正朝へと提出された「神社明細帳」(大分県立図書館所蔵)には、「郷社」闇無浜神社の祭神は「豊日別国魂神」一神とされ、『豊前志』の祭神表示を基点としてみるなら、その祭神名の変動は激しかったことがうかがえます。なお、この明治十三年の「神社明細帳」では、闇無浜神社の異称は「龍王社」「太神ノ社」と記されていました。
 豊日別国魂神社から闇無浜神社への社名改称がなされたのは明治五年(一八七二)のことでした。その八年後の明治十三年時点では、すでに社格が「郷社」と記載されています。おそらく、明治五年時点、新たに社格を定めるという名目で、最初の「神社明細帳」が提出されていたはずですが、これは残念ながら、その存在を現在確認できていません。ただ、明治十三年時点における公的祭神表示(の申請)が「豊日別国魂神」一神となっていて、社伝にあった「二座」のうちのもう一神「瀬織津姫神」の名が、ここからは「消えている」という事実を確認しうるのみです。
 平田篤胤が『古史伝』で記していた「祭神は豊日別国魂神と比咩大神と二座」、「比咩大神と申すは瀬織津姫神」のこととする秘伝伝記に記載されていた「瀬織津姫神」は、明治期の神名消去以降、昭和二年(一九二七)に刊行された『下毛郡誌』においても、郷社・闇無浜神社は「崇神天皇の世鎮座の古社にして豊日別国魂神を祀る」と書かれていますので、おそらく、明治期以降、昭和二十年(一九四五)まで、「瀬織津姫神」の消去は継続したものと考えられます。神社の祭神表示に、「瀬織津姫神」の名が復活表示されるのは戦後(昭和二十年以降)のことといえます。この復活表示を果たす論拠・根拠となったのが、闇無浜神社秘蔵の社伝「豊日別宮伝記」の存在であることはいうまでもありません。
 おもえば、九州・大分県からすればはるか北の北海道においては、「明治天皇の勅命」の名のもとに瀬織津姫祭祀が消去されていた事実さえあります(北海道・樽前山神社の項を参照)。列島の北と南で、このように神名消去が同時期になされていることが告げているのは、瀬織津姫神の祭祀消去が全国規模でおこなわれていた、つまり、国家的(な神祗策の方針の下)に、この消去がなされていたという一点でしょうか。
 現在の神社由緒・祭神表示をまるごと鵜呑みにして「神様・神社談議」をするとすれば、それは、かなり危ういものになります。なお、北海道・大分以外でも、こういった史料探索がなされたならば、相当数の瀬織津姫祭祀の残像記録あるいは消去記録が、全国的に出てくるだろうことはまちがいないものとおもいます。(『豊前志』以外の資料提供・写真:豊国の風)
(つづく)

比枝神社(大分県杵築市大田小野字鳥居原)

更新日:2009/5/9(土) 午前 5:13



 杵築市大田町は、町村合併前は「西国東郡大田村」でした。ここは、国東半島・両子[ふたご]山の南西麓に位置するも、六郷満山の「六郷」には含まれていなかったようです。この旧大田村小野地区に鎮座する比枝[ひえ]神社の「ひえ」は、「日吉」の古訓「ひえ」にちなむものです。ここは、本殿背後ほかに立派な石垣を組むなど、山奥の小社一般のイメージとはだいぶ趣を異にしています(写真1~9)。
 氏子衆の厚い信仰を感じさせる小野・比枝神社ですが、ここは明治期の神仏分離以前は「山王権現宮」と呼ばれていて、これは古鳥居(二の鳥居)の額字にまだみられます(写真2・3)。『大田村誌』所載の由緒を読んでみます。

比枝神社
祭神 大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊
   伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊
   猿田彦尊・事代主尊
   大山祇尊・中山祇命・林鹿山祇命・木花佐久夜姫命・句々廼智命・罔象女命
由緒
 当所(小野)は往古より多くは水田と雖もかんばつのため取入れることが出来ず、村民は云うべからざる困難に遭遇すること連年なりしかば、
 弘仁元年(八一〇─平安時代)庚寅十月十五日、近江国滋賀郡坂本村鎮座の日吉神社(旧社号は山王権現と称せり)の御分霊を(同社より供奉の僧名は旧記紛失に付不詳と雖も、境内に浄心禅門天長三(八二六─平安時代)丙午二月の碑石あり)勧請して鎮守と奉斎す。〔中略〕
 旱ばつの時は、村民こぞって、本郡高田村(現在の豊後高田市)より潮を汲みて祈雨をなす、その都度霊験著しく、降雨忽然たり、故に五穀豊熟民庶各々飢餓を免るるの幸福を蒙るに至れり。
 爾来これを例として祈雨の時は、村民ことごとく海浜に出て潮を汲み、高田村より小野瀬(小野瀬とは当小野村より出し地名にして、近古まで鳥居も同所に存在せし由なり)を経て川に沿うて、神前にその潮を奉りて懇祈する時は、顕著なる神験あること普く人の知るところなり。〔後略〕

 比枝神社の本社は近江国の日吉神社(山王権現)で、そこからの分霊勧請は弘仁元年(八一〇)十月十五日とされます。現表記の祭神は全一六柱とにぎやかです。このうち、二柱(猿田彦尊・事代主尊とおもわれる)は旧神職の奉祭してきたもの、また、六柱(大山祇尊・中山祇命・林鹿山祇命・木花佐久夜姫命・句々廼智命・罔象女命)は明治四十二年(一九〇九)に比枝神社へ合祀された神々で、村誌が「往古」は八柱の祭祀だったとするように、残る八柱(大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊・伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊)が日吉神社(山王権現)からの勧請神です。
 近江の日吉神社(山王権現)は、比叡山・天台宗の鎮守・守護神とみなされ、当初は大比叡神・小比叡神という二所権現(両所明神)からはじまるも、宇佐神ほか関係神を神仏混淆化・眷属神化していきます。総称「山王権現」の名のもとに、上七社・中七社・下七社、いわゆる「山王二十一社」が整備されてゆくわけですが、それら一社一社に本地仏をあてはめ、また、本地垂迹による神々の定義(あてはめ)がなされますので、部外の眼からみると、とても奇異・複雑な神仏混淆祭祀の展開と映ります。これら二十一の垂迹神についても、文献によって異なるものも散見され、天台宗内部にしてからが、垂迹神の解釈に統一性を欠いていたようです。こういった恣意的ともみえる神仏混淆と本地垂迹による神(神名)の新たなあてはめは、結果的に本来の神の「価値」の下落に加担したといった指摘もできそうです。
 このように、統一的な神名をたどることが困難な山王権現(の思想)ですが、ただいえるのは、さまざまな垂迹神が語られるも、そこに「瀬織津姫尊」の名が記録されることは一度もなかったということです。にもかかわらず、比枝神社は、その勧請神のなかに、この神の名を入れているというのは興味深いことです。
「山王二十一社」のなかで、これまでみてきたところで「瀬織津姫尊」が秘祭されていた可能性がある社を抽出するなら、上七社のうち樹下神社(樹下宮)と(本ブログ・岐阜県「野宮神社【補遺】」を参照)、下七社の巌滝社(竹生島弁財天をまつる)があります(『円空と瀬織津姫』下巻)。その他、上七社には宇佐宮や白山姫神社も含まれていて、いずれも関係なしとはいえないのですが、現在、「山王二十一社」のどの「社」に「瀬織津姫尊」の元祭祀があったかを特定するのは、新たな史料でも出てこないかぎり、やはり不可能というしかなさそうです。
 そういった「不可能」の上で、村誌記載の比枝神社由緒を再読してみますと、その勧請動機は「往古より多くは水田と雖もかんばつのため取入れることが出来ず、村民は云うべからざる困難に遭遇」とあり、つまり、この「かんばつ(旱魃)」による生活苦難の克服への願いが、ここに「神」(山王権現)を勧請した最大の動機だったことがわかります。
 日吉神社(山王権現)からの勧請神は、村人総意の「祈雨」の願いに、失望させることなくよく応えたようです。村誌の由緒にみられる、「旱ばつの時は、村民こぞって、本郡高田村(現在の豊後高田市)より潮を汲みて祈雨をなす、その都度霊験著しく、降雨忽然たり、故に五穀豊熟民庶各々飢餓を免るるの幸福を蒙るに至れり」といったことばから、勧請神への村人の深い感謝の気持ちが伝わってきます。
 こういった「祈雨」に神威あらたかな神が比枝神でしたが、このことを念頭において、山王権現の垂迹神八柱(大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊・伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊)を眺めてみますと、「祈雨」の神徳を顕著に有する神が一神いることに気づきます。いうまでもなく「瀬織津姫尊」です。
 たとえば、瀬織津姫命を単独神としてまつる瀬織戸神社の由緒には、「古くより「雨乞い」の神として、近郷近在の信仰を集め」云々と書かれていました(静岡県・瀬織戸神社の項を参照)。
 また、近いところの豊前国においては、同じく瀬織津姫神を主祭神としてまつる闇無浜[くらなしはま]神社(江戸期までの社名は「豊日別国魂神社」、大分県中津市)の縁起にも、「雨乞い」の顕著な神徳が語られています。『闇無浜神社─由緒と歴史』(同社社務所)には古伝縁起「豊日別宮伝記」が収録されていて、そこには、弘仁八年(八一七)のこととして、次のような「雨乞い」の記述がみられます。

嵯峨天皇弘仁八〔丁酉〕年夏五月、大旱[おほひでり]す。国中の四民甚だ愁[うれ]ひて、当宮に雩[あまご]ひす。五日にて雨ふらず、因りて辰麿(神主…引用者)、中御崎より神体を船に乗せ奉り、分間崎[ままのさき]に到り、三日三夜神人相ひ共に誠情を抽[ぬきん]じて祈る。■(■は日に之)に陰雨厚く布[し]き、其の雨国中に洽[あまね]し。諸民大いに悦[よろこ]びて幣料を進[たてまつ]り、郡吏飾鉾[かざりほこ]を献ず。

 闇無浜神社そのものの紹介は稿を改めますが、比枝神「瀬織津姫尊」が「祈雨」に並々ならぬ神威をもっていることは、瀬織戸神社や闇無浜神社の二例にとどまるものではありません(東北の早池峰山ほか)。
 また、先の村誌の記述とこの伝記に共通しているのは、祭神へ雨乞い祈願をするとき、必ず「海」(潮)が重要なファクターとして語られていることでしょうか。これは、瀬織津姫という滝神・水源神が、その原郷を「海」にもっていることを告げているようにみえます。八戸市・御前神社に伝わる瀬織津姫讃歌「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」も海浜(「浪打」)をうたっていました(青森県・川口神社の項を参照)。
 なお、『大田村誌』は、霊蹟「下馬石」の項で、この比枝神の神威のただならぬ強さを記してもいました。

下馬石
 神殿の真向に当り、霊石あり、乗馬するもの、ここにて墜落す、よって神のたたわりと称し、一の柱石を祭りしものと古老よりいい伝う、旱ばつの時は松かがりを焚き祈念の場所とす。

 ここの比枝神は、神殿の前を乗馬のまま過ぎようとする者(庶民ではありません)を無礼として落馬させるほどの神威強烈な神だったようです。ゆえに「たたわり(祟り)」の神とも伝えられていたようですが、この祟り神ゆかりの「下馬石」は、「旱ばつの時は松かがりを焚き祈念の場所」でもありました。
「祈雨」と「たたわり(祟り)」という二つの神徳・神威を兼ねもつ神を、比枝神八柱(大己貴命・国常立尊・天忍穂耳命・国狭土尊・伊弉册尊・瓊々杵尊・惶根尊・瀬織津姫尊)にあらためて探ってみますと、いよいよ「瀬織津姫尊」一神がそこから浮かび立ってくるようです。
 六郷満山の諸寺はすべて天台宗でした。近江国では、この天台宗(比叡山)の守護神が山王権現(日吉神)です。比枝神社は、瀬戸内海(周防灘)へ流れ込む「桂川」最上流部の谷間[たにあい]に開けたかつての小野村に鎮座していますが(「小野」は「近江国滋賀郡坂本」の北にもみられ、ここは小野氏の本貫地でもあります)、この桂川を下ると、仁聞[にんもん]菩薩開基の草創六寺の一寺「馬城山伝乗寺」(本尊:阿弥陀如来)がありました。馬城山は、宇佐・比売大神ゆかりの御許[おもと]山の異称でしたが、「伝乗寺」はすでに廃寺、現在は「真木王堂」の名で、その法灯を継いでいます。
 小野村の村民による「祈雨」神勧請の懇望を受けて、当村へ「山王権現」を勧請したのは、あるいは、その勧請の縁をとりもったのは、今はなき馬城山伝乗寺の僧であったのではないかと想像されます。もっとも、村誌は「供奉の僧名は旧記紛失に付不詳」としていて、これも今は幻の想像ということになります。
 小野・比枝神社本殿の真裏には、古い石祠が大切にまつられています(写真9)。この祠にまつられる神がとても気になるところですが、村誌の記載からは、ここにどんな神がまつられているのかはわかりません。
 現在の氏子・村民の方々が、瀬織津姫という神をどれほどご存じかはわかりませんけれども、宇佐神宮の強大な祭祀・経営の影響下にある地で、また、天台宗の神隠しの思想をかいくぐるようにして、小野・山王権現の中心神は、人々の切実な「祈雨」の願いによく応えていたことだけはたしかなようです。(資料提供・写真:豊国の風)

関大神社と早吸日女神社【補遺】──六所権現と宇佐・比売大神

更新日:2009/5/7(木) 午前 2:38



『安岐町史』は、佐賀関大神としての瀬織津姫神が清巌寺(西岸寺)近くへ飛来・降臨したのは、六郷満山ゆかりの「六所権現の再来」と読める記述をしていました。
 この「六郷満山」ですが、これは、国東半島の六郷二十八谷にくまなくみられる仏教文化・仏教寺院を総体的にいうことばとおもわれますが、『国東町史』は、「本寺二十八か寺をはじめ、六十五の寺々は六郷満山に建立され、堂庵・岩屋・神祠も加えて、平安末期の最盛時には、霊場九百余か所を数えた」と、その「満山」ぶり(?)を伝えています。
 清巌寺は「六郷満山の末山本寺十カ寺の一つ」でありました。この「末山」については、「宇佐宮に近い方を本山とし、漸次遠ざかるにしたがって中山・末山としたなど、全く八幡宮の神宮寺の内容を有している」と書かれる、その「末山」にあたります。また、本山・中山・末山についてですが、本山は本寺八か寺で構成され「満山を総括し、衆徒の教育、学問の機関、学僧の養成所」、中山は本寺八か寺を有し「峰入りの修業僧がいたところ」、末山は本寺十か寺で、「在家とのつながりが主で、僧と一般大衆が接するところ」とされます(『国東町史』)。
 宇佐神宮(八幡宮)の神宮寺としての意味合いをもつ六郷満山諸寺で、宇佐からもっとも遠いところの「末山」の一寺地に、瀬織津姫神は佐賀関(早吸日女神社)から関大神として「飛来」したのでした。この飛来・鎮座が「六所権現の再来」としますと、六郷満山の各寺が鎮守神としてまつってきた「六所権現」もみておく必要がありそうです。
 六郷満山の諸寺がすべて天台宗の寺となる、その機縁は、天台宗開祖・最澄にあります。『国東町史』は、「延暦二十二(八〇三)年に、最澄が渡海の安全を祈って宇佐神宮に参詣して以来、宇佐八幡は天台宗と結び山岳仏教に転換」したと指摘しています。もっとも、「転換」とあるように、宇佐神宮に神仏混淆の思想を先行的に持ち込んだのは、八世紀初頭の法蓮でしょうか(虚空蔵寺につづく弥勒寺の建立)。この法蓮のまいた種を、のちに「東の比叡山、西の西叡山(あるいは六郷山)」と呼ばれるごとく、つまり、天台宗一色に染め上げるように仏教文化を開花させた機縁となる人物が最澄なのでしょう。
 ただし、六郷満山の草創六寺(両子寺・富貴寺・伝乗寺・岩戸寺・天念寺・千燈寺)をはじめとする諸寺は、法蓮の師匠でもある「仁聞[にんもん・じんもん]」という伝説的菩薩(上人)による養老二年(七一八)の開基を主張していて、最澄の天台宗色が単純な一色というわけでもなかったことがわかります。このことを象徴的に表しているのが、諸寺が申し合わせたかのように、自寺の鎮守として「六所権現」をまつっていることでしょうか。
『国東町史』は、「六郷山(六郷満山)の寺院には、必ず六所権現なる鎮守が存在するが、これは六郷山信仰上の重要な問題」と指摘しています。
 町史は、この六所権現の「本地は何か」として、次のように述べています。

 神功皇后・比咩神・隼総別皇子・大葉枝皇子・小枝葉皇子・■鳥皇子(■は此に鳥)の六神で、その本地は観音となっている。宇佐宮は比咩大神・神功皇后および若宮四神であることから、六郷の六所権現には宇佐比咩大神の信仰の延長──人聞(仁聞)菩薩の比咩神の神格化が延長して、ここに神功皇后とその眷属として若宮四神を含む六神をもって、六所権現を成立せしめているのである。六所権現の信仰は初期の比咩神のみに対する、人聞(仁聞)信仰を発展せしめて、若宮を含む新しい人聞(仁聞)信仰へと発展して、新たな人聞(仁聞)信仰を形成した。この六所権現の神は、敵国降伏に功ある神として古来多くの霊験をあらわされている。

 少しわかりづらい文面ですが、「六所権現の信仰は初期の比咩神のみに対する」ところからはじまり、それが人聞(仁聞)菩薩の信仰と重なり、宇佐神宮祭神の神功皇后ほかを追加して成立しているということのようです。また、町史は「六郷満山の信仰は、一つには寺院であり、一つには神社であって、原始信仰と仏教信仰が融合して、人聞(仁聞)菩薩の信仰となってきた、とあわせて比売神は神功皇后・四所若宮と合体して、六所として成立し六所権現信仰を現出した」とも書いています。
 ここでは、六所権現信仰は、宇佐神宮の比咩神(比売神)「のみに対する」信仰からはじまっているという、原点的な一点をおさえておけばよいかとおもいます。ただし、この比売神が比売神以上の名で語られないことに、日本の神まつりの風通しのわるさがあるとはいえます。
 さて、満山諸寺の六所権現をすべて調べるのは至難ですが、試みに、平安期から鎌倉期にかけて六郷満山「六十五の寺々」を統括していた西叡山高山寺(廃寺)の法灯を現代に継ぐ長安寺(豊後高田市加礼川)をみてみます。
 この長安寺の鎮守・六所権現は、現在、六所神社とか六柱神社といった社名ではなく、なぜか「身濯[みそそぎ]神社」という名でまつられています。ちなみに、明治期まで、この六所権現は不動明王をまつっていたとするも、その祭神については不詳とのことです(住職談)。『国東町史』は六所権現の「本地は観音」としていましたから、それが不動明王というのは例外なのかとみえないわけではありません。
 仁聞開基の草創六寺の一つである天念寺の前を流れる川には、川中の巨岩に不動明王像(不動三尊像)が彫られていて、ここは「川中不動尊」と呼ばれています(写真1)。「川中不動尊」はユーモラスな像で、豊後高田市の一つの観光名所ともなっていますが、川の岸側・崖にまつられているのが、長安寺と同じく身濯[みそそぎ]神社です(写真2・3)。由緒表示板によれば、ここも旧称は「六所権現」で、天念寺の鎮守神だったようです。ただし、祭神については「八幡神と関わりの深い神々」と書かれるのみです(写真4)。
 それにしても、「身濯神社」の「身濯[みそそぎ]」は「禊ぎ」と同意で、六所権現(に秘められた神)が禊神とみられていたこと、および、その「本地」が不動明王らしいとは興味深いことです。また、「八幡神と関わりの深い神々」で、「身濯」(禊ぎ)と縁深い神とはなにかという問いも生じてくるところです。
 身濯神社(六所権現)の神(あるいは神々)の名が今ひとつはっきりしませんが、現在確認できる範囲でいえば、一社のみ、それを明記しているところがあります。それは、無動寺(豊後高田市真玉町)の鎮守・身濯神社です(写真5~8)。由緒案内を読んでみます(祭神と由緒のみ抽出して引用)。

身濯神社
祭神 伊奘諾尊 大直日命 八十猛津日命 表筒男之命 中筒男之命 底筒男之命
   (菅原神 大物主命) 明治十八年五月合祀
由緒
 桓武天皇の延暦年中に此の地に鎮座。承平、応和の頃本地垂迹説の所産として六所権現と称されたが明治初年の神仏分離令により身濯神社と改称。明治十八年、菅原神、大物主命を合祀。昭和十六年村社に昇格。

 この旧六所権現の祭神中「八十猛津日命」の「猛」は、記紀記載の八十禍津日神・八十枉津日神の「禍・枉」をいいかえたものとみられます。また、これら祭神六柱の祭祀は、六柱神社の異称をもつ早吸日女神社の六神祭祀ととてもよく似ているようです。早吸日女神社の祭神表示順に合わせて、身濯神社のそれを並べて対比してみます。

早吸日女神社…八十枉津日神・大直日神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・大地海原諸神
身濯神社………八十猛津日命・大直日命・底筒男之命・中筒男之命・表筒男之命・伊奘諾尊

 異なっているのは、「大地海原諸神」と「伊奘諾尊」ですが、早吸日女神社の主祭神は八十枉津日神で、六所権現は比売神信仰を原点としていますので、身濯神社においても、早吸日女神社と同じく「八十猛津日命」という禊ぎの比売神が主祭神といえるでしょう。
 早吸日女神社は八十枉津日神を「災いの根源神」と呼んでいましたが、それは神名中の「枉(禍)」の一字がよく表すものですから、身濯神社は、それをきらって「猛」と変更表示したもののようです。この「猛」は、町史指摘の「六所権現の神は、敵国降伏に功ある神として古来多くの霊験をあらわされている」に対応しています。
 六郷満山における六所権現信仰の原点は、宇佐の比咩神(比売神)信仰からはじまっています。六郷満山信仰には「峰入り」という行[ぎょう]もみられ、これは、「六郷山の僧侶が、むかし仁聞修業当時の霊場巡りをして修業すること」で、その具体について、『国東町史』は、次のように書いています。

 一行の行者はたいてい十二~三人で、宇佐の御許山から出発、漸次六郷満山の本寺二十八か寺を巡って、仁聞修業の跡を訪ねて、峯々谷々から岩窟の間を巡り、飛岩飛石の行はすべてこれ仁聞の行なった通りを行じ、読経の所、陀羅尼を唱うる所、水垢離をとる所と、それぞれきまっている。

 役行者を修験の開祖とするのと酷似するように語られる「仁聞」とはだれか、あるいはなにかという問いは残りますが、ここでは「峰入り」の始発点を「宇佐の御許山」としていることを指摘するにとどめます。宇佐の比咩神(比売神)が降臨したのが、この御許山(馬城峯とも)でした。
 宇佐の比咩神(比売神)を宗像三女神の総称神とするのが宇佐神宮ですが、八十枉津日神と貶称されるも、宗像三女神に深い縁をもつ神は、安岐・関大神社の「瀬織津姫神」をおいてほかには存在しません。また、この神は「白山瀬織津置倉宮は東馬場の麓の宮に坐す。東夷異国の征伐を為し神宮を東の麓に卜す」と書かれていたように(「白山大鏡」)、「六所権現の神は、敵国降伏に功ある神」とみられていたことにも相応しています。
 無動寺・身濯神社の鳥居に掛けられた扁額の字は宇佐神宮宮司氏の「謹筆」で(写真6)、また、拝殿内の額字も同じくです(写真8、天念寺・身濯神社の扁額にも宇佐神宮宮司氏の謹書がみられます)。
 宇佐神宮の祭祀で、「中央の二之御殿(比売大神…引用者)の祭祀だけが、天地順逆の理による順理すなわち正道にかない、一之御殿(応神天皇)と三之御殿(神功皇后)の祭祀は逆理すなわち邪道」であると、勇気ある断言をしていたのは、ほかのだれでもありません、宇佐神宮大宮司本家の末裔・宇佐公康氏でした(『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』木耳社)。
 八十枉津日神ではなく、せめてもの気持ちから「八十猛津日命」と神名表記をした人物が、この無動寺・身濯神社にはいました。
 無動寺の近くには、ほかにも身濯神社があります。明治期以降、六郷満山諸寺の鎮守・六所権現がすべて身濯神社となったわけではありませんが、宇佐神宮宮司氏が、自らの手と筆で「身濯神社」と書したことは、やはり重いものがあります。
 たった一社の祭神表示例ですが、この無動寺・身濯神社の一例は、単純に例外扱いされる筋合いはありません。早吸日女神社(佐賀関大神・関権現)から関大神社へとたどってきて、関大神社における「六所権現の再来」を六郷満山信仰の方へ敷衍[ふえん]してみますと、六郷満山の谷の霧のなかに、かつて一度たりとも十全と語られることがなくてきた、宇佐・比売大神の立姿がみえてきたようです。(資料提供・写真:豊国の風)

関大神社と早吸日女神社──海峡の女神

更新日:2009/5/4(月) 午後 6:51



 関大神社[せきだいじんしゃ](大分県国東市安岐町掛樋799)の紹介です。
 大分県国東[くにさき]半島の両子[ふたご]山(七二一㍍)は、養老二年(七一八)からはじまる神仏混淆(のちに「六郷満山」と呼ばれる)の中心的霊山で、関大神社は、この山の南麓へ流れる両子川が安岐川に注ぐ地に鎮座しています(写真1~4)。
『安岐町史』所載の関大神社由緒を読んでみます。

関大神社
祭神 天照皇大神・瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神。
由緒 元禄十五年(一七〇二)八月二十九日、塩屋村の海上より大光飛来しこの地の西岸寺の側に落つ。これを見れば人面三体・明珠一顆なり。神記により海部郡佐賀関大神の飛来したものと知り、村民社殿を造営して奉祀する。明治六年(一八七三)村社に列す。〔後略〕

 祭神は「天照皇大神・瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神」とのことで、「天照皇大神」を除く三柱は、大祓祝詞(『延喜式』収載の「六月晦大祓」)の祓戸四神のうち三神ですが、残る一神の速佐須良姫[はやさすらひめ]神がなぜここにまつられていないのかという素朴な疑問がまず浮かびます。
 また、「関大神社」の神は、元禄十五年(一七〇二)八月二十九日に「海部郡佐賀関大神の飛来したもの」とされます。関大神の故地は佐賀関[さがのせき](佐賀関半島)らしく、そこに鎮座する神であるゆえに「佐賀関大神」なのでしょう。
 この「佐賀関大神」をまつるのが「早吸日女[はやすひめ・はやすいひめ]神社」です(大分市大字関3329、写真5~9)。早吸日女神社は、『延喜式』神名帳に「豊後国海部郡 一座小」と記される「古社」です。早吸日女神社の由緒を読んでみます(同社公式HPから記載順を整序して引用)。

早吸日女神社
祭神 八十枉津日神・大直日神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・大地海原諸神
社格 式内小社 旧県社
由緒
皇暦紀元前7年(西暦紀元前667年)、初代神武天皇ご東遷の途次、速吸の瀬戸に於いて、長い間大蛸により守護されていた神剣を海女の黒砂、真砂が海底より取り上げて天皇に献上された。
その神剣を神体として、古宮の地に天皇御自ら祓戸の神を奉斎し、建国の大請願をたてられたのが創祀である。
大宝元年(701年)、神慮により古宮の地から現在の社地に遷座。
古来から諸災消除・厄除開運の神として、皇室、諸大名を始め諸人の崇敬をあつめ、荘厳な社殿や数多くの建造物が献納されている。

 同内容の由緒は境内にも表示されていますが(写真8)、『古事記』・『日本書紀』に記される神武東征神話に自社由緒を露わに関連づけていることがわかります。祭神「八十枉津日神・大直日神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・大地海原諸神」の六柱にちなんで、「古宮の地」には「六柱神社」が再建されていますが、早吸日女神が最初にまつられた「元宮」は「六柱神社」の地ではなく、半島の北部海岸にあり(この神は「北」からやってきたと考えられます)、今は「早吸日女神社旧蹟地」と刻まれた石碑が建っています(写真9)。
 さて、祭神についてですが、同社「ご祈祷のご案内」には、「主祭神の八十枉津日神は、災いの根源神ともいえる大変力強い神です。その神をお祀りしている当社は、古来より祓いを司る神社として崇められてきました」と書かれています。
 早吸日女神社の「主祭神」は「八十枉津[やそまがつ]日神」で、これは、瀬織津姫神の貶称神名です(『古事記』は八十禍津日神、『日本書紀』は八十枉津日神と表記)。この神が「災いの根源神ともいえる大変力強い神」だと書かれるとき、ここには、誰にとって、あるいは何にとって「災いの根源神」なのかという説明が伏せられています。ここで伏せられている「誰」については、それが「庶民」でないことは、これまでの瀬織津姫祭祀の紹介から明白です。また「何」については、天皇の祖神をまつるとされる「伊勢神宮」(の思想)というしかありません。早吸日女神社が、この伊勢神宮と縁故浅からぬことは、由緒表示板における、次のような文面からよく伝わってきます(写真8)。

大宝元年(七〇一年)、神慮によって現在の地に遷座〔中略〕遠近の諸人も伊勢神宮になぞえて関大神宮又お関様(関権現)とも称し、伊勢神宮に参拝することを参宮、当社に参拝することを半参宮ととなえ、多くの信仰をあつめて今日に及ぶ。

 瀬織津姫神は、伊勢神宮(内宮)においては、正殿背後の荒祭宮にまつられる神(神宮における現表示名は「天照坐皇大御神荒御魂」)ですから、この荒祭宮と同神を秘してまつる早吸日女神社に参拝することは、たしかに「半参宮」となります。
 ところで、早吸日女神社は「関大神宮又お関様(関権現)とも称し」とあり、この早吸日女神社の異称は、安岐・関大神社の「関大神」、また、天保期建立の鳥居扁額に刻まれた「関権現宮」にみられます(写真2)。
 関大神社と早吸日女神社は、単純な分社・本社関係にはありませんが、関大神社が早吸日女神こと八十枉津日神を、元の神名である「瀬織津姫神」へもどして祭神表記していることは貴重です。
 では、早吸日女神社から、祭神の「瀬織津姫神」が「八十枉津日神」へと、いつ変更となったのかですが、早吸日女神社由緒の古伝には、次のように記されています(山田宇吉『佐賀関史』大正十四年刊、所収)。

文武天皇の大宝元年、日向国造上京航海の時、異砂真砂姉妹の蜑[あま]、神託により海底の神剣を取り、国造に謂つて曰く願くは此剣を以て神となし、早吸の六柱の神を祭祀せよと、国造其情を得、遂に奏して曲浦の高風浦に神社〔今の古宮村社ヶ浦是也〕を建て奉斎す、是則鎮座の始なり、(〔 〕内は割注)

 古伝は、「神託」とするも「早吸の六柱の神」の祭祀の始まりを神武天皇の時代ではなく、大宝元年としています。大宝時代には「国造」の制はすでにありませんから、この古伝の由緒内容も信憑性がないと一蹴できないわけではありません。しかし、大宝元年(七〇一)というのは示唆すること多い象徴的な時間です(「木曽・御嶽から消えた滝神」参照)。神社一般にいえることですが、自社由緒をなるべく古くみせようとする傾向が大で、この古伝はその逆ですから、わたしは内容に信憑性はあると判断します。なお、現今の由緒では「大宝元年(七〇一年)、神慮によって現在の地に遷座」とありましたが、古伝では、この遷座を「醍醐天皇昌泰二年(八九九)」のこととしています。
 早吸日女神社は、境内社に「伊邪那岐社」をまつっていて、同社の説明を次のようにしています。

イザナギ(伊弉諾・伊邪那岐)は、日本神話に登場する男神。『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。
当地方の言い伝えでは、速吸の瀬戸(権現礁)に於いて、黄泉国の穢れを落とすために禊を行ったとされている。その時に遺していかれたのが当社のご神体となっている神剣である。

 イザナギ(伊弉諾・伊邪那岐)が「黄泉国の穢れを落とすために禊を行った」ところについて、「当地方の言い伝えでは、速吸の瀬戸(権現礁)」だとされます。ちなみに、『古事記』では「筑紫の日向[ひむか]の橘の小門[をど]の阿波岐原[あはきはら]」の「中瀬[なかつせ]」とし、『日本書紀』も同内容ですが、記紀いずれの注も、その所在地は不明としています。イザナギの神話時代(?)には日向国はありませんから、たしかに、現在の宮崎県に比定する必要はなさそうです。「日向」は、朝日の射すところの意ですし、現実の地名に神話をあてはめて比定すること自体、あまり有意義だとはおもえません。
 ただし、そこで誕生した神として「八十枉津日神」の祭祀が語られるとき、その地には「八十枉津日神」と貶称される前の神の祭祀があっただろうことはいえます。その意味で、貶称神名とはいえ、この「八十枉津日神」を主祭神としてまつりつづけてきた早吸日女神社の存在は、関大神社とは別様に貴重だとはいえます。
 ところで、神名・神社名にみられる「早吸」ですが、この言葉の初出は『古事記』の神武東征神話です。神武は「高千穂宮」から東征の旅に出て、「豊国の宇沙」「竺紫の岡田宮」「阿岐国の多祁理宮」を経て「吉備の高島宮」にまでたどりつきます。そのとき、亀の甲に乗って「釣[つり]」をしながらやってきた国つ神(槁根津日子[さをねつひこ]、書紀は「椎根津彦」と表記)と「速吸門[はやすひなと]」で出会い、神武は彼に東征の道先案内を頼むことになります。この「速吸門」は、現代の地図上でも「速吸瀬戸(豊予海峡)」と記され、大分県・佐賀関と愛媛県・佐田岬にはさまれた海峡をいいます。もっとも、吉備(岡山県)の話のあとに「速吸門」(豊予海峡)が記されるのは、いかにも現地の地理関係を知らない者の机上の創作であったことが伝わってきます(書紀では訂正されます)。
 それはともかく、海峡は海の境界・関でもありますから、その境界神・関神をまつるゆえに、早吸日女神社は「関大神宮又お関様(関権現)」と呼ばれたのでしょう。
 早吸日女神といい八十枉津日神というも、その本来の名である瀬織津姫神は、大祓の神である以前は、ここ佐賀関においては「海峡の女神」とみられていたようです。この神は、大祓祝詞では「速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」とされましたが、海を流れる「速川」が海峡・瀬戸の特徴です。
 ところで、関大神社の祭神(天照皇大神・瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神)で、「天照皇大神」を男系の天照大神とみますと、ここには、その対偶神(配偶神)である「瀬織津姫神」との同居祭祀、つまり、神宮の基層祭祀が再現されていることになります。この男系・天照大神は、大祓祝詞では「気吹戸主神」(早吸日女神社にみられる「大直日神」と同神)へと変じること、および、祓戸三女神の中心神は「瀬織津姫神」で、この神の分化神として「速秋津姫神」(および速佐須良姫神)があることはすでに指摘されていることです(『円空と瀬織津姫』下巻)。つまり、関大神社の祭神四柱には、次のような変成神の祭祀構造がみられるようです。

  天照皇大神(→気吹戸主神)
  瀬織津姫神(→速秋津姫神)

 関大神社に速佐須良姫の祭祀がないのは、ハヤスヒメとハヤサスラヒメという音の近さもありますが、あるいは、佐賀関から飛来することなく現地に残った早吸日女を速佐須良姫に見立てたものかもしれません。
 早吸日女神社は、その祭神数の六柱から六柱(六所)神社の異称もあります。宇佐神宮の神々を神仏混淆化した両子山の「六郷満山」信仰ですが、この山に林立していた寺々の多くは、その鎮守神を六柱(六所)神社(六所権現)としています。
 佐賀関大神が飛来した地は「西岸寺の側」でした。『安岐町史』は、関大神社の由緒につづく「附記」で、「清巌寺(西岸寺)は六郷満山の末山本寺十カ寺の一つで、広大な境内に仏閣僧坊が立ち並び、初夜晨朝の鐘の音は谷にこだまして、官僧平僧十許の輩が常住していた」、しかし、寛文九年(一六六九)二月に「火難に逢い、仏像・宝物・建物ことごとく焼失して一物も残らず焼野原」となったと書いています。また、細々と再建された西岸寺(清巌寺)には「六所権現」がまつられていた、これについては「六郷満山の寺は皆そうなっている」と指摘してもいます。
 町史は「(清巌寺が)焼失して三三年、元禄の時代に関権現が飛来したことは何を意味するか」という鋭利な問いを記し、これは「(清巌寺にかつてまつられていた)六所権現の再来と見てよい」と書いています。
「六所権現」は、早吸日女神(六神)を権現化したものですが、早吸日女神の根本神は、安岐・清巌寺(西岸寺)への「飛来」の途中、「祓戸の神」(八十枉津日神)という不本意の名を脱ぎ捨て、本来の名でここに鎮座したとはいえるようです。(資料提供・写真:豊国の風)

滝神社(岩手県一関市滝沢字舘下108)

更新日:2009/4/29(水) 午後 8:52



 滝神社の紹介です(写真1~7)。
 社頭案内板の由緒には、当社は「伊奘諾、伊弉冉尊を祀る」、以前は「熊野白山滝神社」という社名だったと書かれています(写真8)。社名のことはおくとして、一般参詣者は、ここに「瀬織津姫命」がまつられているなどとはまったくわからない表示です。一関・滝神社にも、どうやら「陰気」が漂っているようです。
 もう一つの由緒を記載する『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁編)も読んでみます。

瀧神社
  旧社格 村社
  鎮座地 一関市滝沢字下(舘下…引用者)一〇八番地
祭神 伊奘諾尊・伊弉册尊・瀬織津姫命
例祭 九月九日
由緒
 延暦十年(七九一)坂上田村麻呂東夷征伐の折、磐井郡司安倍黒人が田村麻呂に従い追討のため荒滝に来て賊を討ち、住民を安んじた。この時白山大神を桂峯に、熊野大神を延寿原に奉祀した。寛治二年(一〇八八)熊野大神を桂峯に奉遷して熊野・白山二神を合祀した。
 また大同年間(八〇六~八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安し、後この三神を合せて一村の鎮守とした。
主要建物 本殿 神明造二坪、拝殿 八坪、神楽殿 八坪
境内神社 八雲神社
境内地  六、三五四坪
氏子   四一〇戸
崇敬者  一、三〇〇人
宮司   欠員〔後略〕

 延暦八年(七八九)における朝廷軍の歴史的大敗のあと、坂上田村麻呂は、延暦十年(七九一)に征夷副将軍(征東副使)に任命されます。このとき、当地に白山大神と熊野大神をまつったようです。その後、彼が征夷大将軍に任命されるのは延暦十六年(七九七)で、蝦夷[エミシ]の首魁阿弖流為[アテルイ]や母礼[モレ]を滅ぼすと、延暦二十一年(八〇二)には胆沢城を築いて北上しています。田村麻呂は、延暦二十三年(八〇四)に再び征夷大将軍に任命され陸奥国へやってきます。白山大神と熊野大神の先行祭祀では不足だったのか、このときに祓戸大神が追加祭祀されたようです。
 由緒が記す歴史時間を追走しつつ神々の祭祀を重ねると以上のようになりますが、由緒の祭神欄に記される伊奘諾尊・伊弉册尊と由緒内容中の白山大神・熊野大神の対応関係がはっきりしないものの、瀬織津姫命を祓戸大神とみなすことができるのは神道の一般常識といえましょう。
 ところで、社頭の案内板の末尾には「昭和六十三年十一月二十六日」と書かれていて(写真8)、名鑑の発刊は奥付によると「昭和六十三年六月十日」ですから、案内板の作成者(表示は「滝神社社務所」)は、祭神の一神を「瀬織津姫命」とする名鑑の記載を知っていたとおもわれます。もっとも、名鑑の発刊時点では、滝神社宮司の項は「欠員」となっていて、これも謎めいたことになってきますが、ともかく、案内板の作成者(新宮司?)は、意図的に「瀬織津姫命」を表示しなかったようです。
 拝殿の扁額には滝神社ではなく「熊野白山瀧神社」とあり、三社三大神の祭祀を今も主張しているようです(写真5)。熊野大神・白山大神・祓戸大神の三大神の祭祀というのは、ある意味、とても豪華・贅沢な祭祀で、全国的にみてもここ一社かもしれません。
 名鑑の由緒は、「大同年間(八〇六~八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安」と記していました。坂上田村麻呂が「賊徒の強暴」を鎮めるために「祓戸大神」の神威に頼ったことがわかりますが、その真偽はおくとしても、ここには、祓戸大神と滝神が同神であることが書かれていて、さりげない記述ではあるものの、これはなかなかの神認識だといえます。
 また、熊野大神・白山大神・祓戸大神をまつっていた「熊野白山瀧神社」が、現在「瀧神社」一社に社名が統合されていることも示唆的といえばいえます。少なくとも、これら三大神の中心神は滝神・祓戸大神ということなのでしょう。
 すでに明かされているように(『円空と瀬織津姫』)、その本源祭祀においては、熊野大神も白山大神も、滝神・祓戸大神(瀬織津姫命)と異神ではありませんから、二つの由緒が説明を避けているにしても、「熊野白山瀧神社」を「瀧神社」一社に統合表示することで、祭神相互に齟齬が生じることはまったくありません。
 案内板作成者(新宮司?)が、せめて「瀬織津姫命」という神名を消したくなったとしても「むべなるかな」といったところでしょうか。
 本殿上に咲きかけていた山桜が印象的でしたが(写真7)、灌木林の参道傍らに、一服の清涼を感じさせるカタクリの花が番[つがい]で咲いていたのも印象的でした。桜とカタクリが同時に開花するというのは、エミシの国ならではです。