気仙川流域の瀬織津姫祭祀【Ⅰ】──清瀧神社

更新日:2009/4/18(土) 午後 1:41



 陸前高田市横田町には、瀬織津姫命を滝神としてまつる神社が複数あります。気仙川に流れ込む沢の上流部の滝に、この神は不動尊とともにまつられています。もっとも、社守(別当さん)、ましてや氏子のだれもが、この瀬織津姫という神の名を聞いたことがないようで、ここは現在も不動尊信仰が優先されているといえます。
 明治期の神仏分離によって不動堂が神社化したとき、それまでの不動尊と習合してきた滝神(瀬織津姫命)を祭神としたものの、神事を司る神官が、この神の名を氏子諸氏に説明してこなかったというのが、瀬織津姫という神名が周知されていない主因かとおもわれます。それと、どの社も自前の由緒書をまったく保持しておらず、したがって、祭神はいうにおよばず、その創祀経緯も、氏子諸氏にはまったく不明とされます。
 この露骨な不明性は、遠因としては、明治期に由緒書原本を国家に提出するも、実態としては、そのまま没収となったことが挙げられます。遠野・早池峰神社が昭和三年に国に提出した「早池峰神社昇格申請書」には「維新ノ際社録ノ没収トナリ」云々と真っ正直に書かれていました。この「社録ノ没収」は他社全般(特に瀬織津姫祭祀社)にもあったはずで、横田地区も例外ではなかったとおもわれます。
 しかし、『陸前高田市史』第七巻は、『横田村誌』を元に「横田町内の地域奉斎神社」を一覧表にまとめていて、そのなかに、祭神を「瀬織津姫命」とする神社が五社確認できます。詳しい由緒はやはり不明ではあるものの、今回紹介する清瀧神社(陸前高田市横田町字槻沢)の項を読んでみます(表示形式を変更して引用)。

清瀧神社
祭神:石像不動明王・瀬織津姫命
例祭:三月二十八日・九月二十八日
勧請年月日:元禄年間
鎮座地:槻沢
備考:別当 荻原家外六名  寛政七年 不動明王尊像奉納

 不動尊と瀬織津姫命がセットとなる祭神表示ですが、滝神を瀬織津姫命とするのは早池峰山周辺の多くの滝の祭祀と同じです。
 清瀧神社あるいは槻沢集落の入口には、意外にも大きな鳥居が建立されていて、氏子衆の厚い信仰がよく表れているようです。神社への案内板には、滝名は「大滝」と書かれています。清瀧神社あるいは大滝はかなり山中にあり、砂利道の林道を車で行くにはジープが最適ですが、ここで車種を変更するわけにもいかず、マフラーを石にこすりながら登っていきました。
 社殿内部には、市史が記すように「石像不動明王」が鎮座していて、社殿背後には、大きいかどうかはともかく「大滝」があります。滝は禊ぎの修行をするにはちょうどよい流れで、いかにもここが修験者の祭祀場であったことをよく伝えています。
 なお、集落名の「槻沢」ゆかりとおもえますが、社殿前には神木の槻[つき](ケヤキ)があり、祭神の瀬織津姫命と槻(ケヤキ)の関係はここでも深い縁があるようです(愛知県・槻神社の項を参照)。また、瀬織津姫の神徳で顕著なものの一つに安産守護・女性守護がありますが(北海道・川濯神社の項を参照)、ここ清瀧神社のケヤキも安産守護の神木とされ、同じ信仰を共有しているようです。
(つづく)

早池峰神社(岩手県紫波郡矢巾町大字土橋第五地割字新山野40)

更新日:2009/4/17(金) 午後 0:31



 早池峰開山伝承は、遠野側の四角藤蔵による大同元年(八〇六)、大迫側は藤原成房と四角藤蔵の同時開山で大同二年(八〇七)とされます。この大同時代から少しさかのぼりますが、延暦十四年(七九五)、紫波郡の北上川流域に、のち(明治期)に早池峰神社(写真1~7)を名乗ることになる神々の降臨・創祀があったようです。社頭の案内板に詳しい由緒が記されていますので、まずはそれを読んでみます。

早池峯神社
通 称  新山社    旧社格 村社
鎮座地  紫波郡矢巾町大字土橋第五地割字新山野四十番地
祭 神  瀬織津姫命  例祭 八月十七日
由 緒
 本神社は平安時代前期延暦十四年(七九五)に三柱の姫神を新山大権現として、創祀したと伝えられ、古より土橋地域また地域を超えて広く崇敬されている。社地広大で樹木鬱蒼と繁茂し、参拝者は自から荘厳の気に満たされる。往古社殿のない時代の斎場と推察される岩石三箇が本殿の後方にあり社殿のない神社の神跡を今に伝える当地方稀に見る古跡である。土橋村廣田家の祖先、廣田宗実が漢学修業のため早池峰山に籠り文学を研究し、その後天文二年(一五三三)八月十七日社殿を此の地に建立し早池峯神社と改め創祀した。天保十年(一八三九)に社殿を再興し、明治十二年十二月村社に列格された。〔中略〕
略縁起
「そもそも新山大権現の本地を申し伝え奉れば、人皇五十代桓武天皇延暦十四年(七九五)乙亥三月十七日三柱の姫神天降り坐し坐す、新山と申すは、古き松杉苔むし老木の枝にはつる草茂り、かすかに、洩月の見える、木魂ひびき鳥の声あたかも深山幽谷の如し、南に北上川の底清く水音高くして御手洗水の雲井に栄え、登る月影浪に光を浮べ北は千尋に余る広野に萩薄生い茂り是を名付けて新山野と申すなり。四方青垣山にして宮殿棟高く御床津比の動き鳴る事なく、豊明に明らひ坐しまして、祢宜の振鈴弥高く声あらたし、今も生え茂変らぬ三ツの石あり三柱姫神達鎮座坐す也故是を影向三神石と申す也……」略
 この略縁起は天保十年(一八三九)に当社再建の際写されたものである。

 現由緒にしても天保十年(一八三九)の「略縁起」にしても、延暦十四年(七九五)における「三柱の姫神」の降臨伝承を伝えています。
 この延暦時代というのは、宝亀五年(七七四)にはじまる、朝廷による蝦夷[えみし]征討(三十八年戦争)時代の最中にあたっています。ただし、朝廷軍によって胆沢城が構築されるのは延暦二十一年(八〇二)、さらに北の紫波城が構築されるのは翌年の延暦二十二年ですから、「三柱の姫神」の降臨があった延暦十四年(七九五)という年は、紫波の地は、まだ戦乱前の平穏な時間に包まれていただろうことが想像されます。
 ところで、この由緒書きには、その内容において、とても大事なことが書かれていることがわかります。と同時に、とても大事なことが書かれていないことも気になるところです。妙なものいいかもしれませんが、この「書かれていること」と「書かれていないこと」について少しこだわってみます。
 まず、「大事なこと」で書かれているのは、祭神が「瀬織津姫命」と表示されるも、その創祀は「三柱の姫神」の降臨伝承をもっていることです。そして、「大事なこと」で書かれていないのは、この「三柱の姫神」がなぜ「瀬織津姫命」となるのか、その経緯について、あるいは、「三柱の姫神」と「瀬織津姫命」との関係について、由緒は一行の説明もしていないことです。
 また、天保期の略縁起は「三ツの石あり三柱姫神達鎮座坐す也故是を影向三神石と申す也」、現由緒も「往古社殿のない時代の斎場と推察される岩石三箇が本殿の後方にあり社殿のない神社の神跡を今に伝える」としています。ところが、本殿背後の「影向三神石」「岩石三箇」は、実際は四箇の「神石」で(写真6)、これも謎めいているとはいえそうです。
 神道世界において、一般的に「三柱の姫神」とされるのは二つの場合しかありません。一つは宗像三女神、もう一つは祓戸三女神です。前者は記紀神話、後者は大祓祝詞(六月晦大祓)を出典としています。いずれにしても、両者に関わってくるのが瀬織津姫神ですが、延暦十四年の創祀にこだわれば、朝廷の祭祀思想とはまだ無縁な紫波地方ですから、ここに瀬織津姫神が祓戸神としてまつられる必然は少なかろうとおもわれます。
 考えられるのは「三柱の姫神」を宗像三女神とみなした場合ですが、こちらの仮定に立ってみますと、いくつか符合する事例がみえてきます。
 神が「石」に降臨する、あるいは神が「石」の姿となって降臨するというのは、どこまでさかのぼりうる古い観念なのかはわかりませんが、しかし、紫波・早池峰神社が「影向神石」の伝承をもっていることは重要におもえます。祓戸三女神が三つの「神石」に「影向」したという伝承は寡聞にして知りませんが、しかし、宗像三女神ならば、これはあります。
 大分県速見郡日出町に八津島神社があります。社名の「八」は、アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」によって誕生したとされる五男三女神の総柱数「八」に由来します。しかし、「八津嶋宮 影向山八石宮八津嶋大明神縁起」によれば、天平六年(七三四)九月八日、「津嶋宮霊地」に空から八つの霊石が天下ったとされます。この「八つの霊石」にはそれぞれの名が付けられていますが、縁起は、祭祀者を宇佐朝臣高春とし、この五男三女神の降臨とは別に、「昔日湍津姫命量知降臨影向旧跡」として、「御神降石[ミヲキイシ]」の先行祭祀があったことを伝えています。
 この「御神降石」に宗像三女神の一神「湍津姫命」が憑依していたようで、この神の祭祀は「津嶋宮」の名でなされていました。しかし、天平六年、そこに五男三女神の神石(霊石)が新たに降ってきて、社名は「八津嶋宮」へと変更されたようです。
 ここで気づくのは、先行降臨していたはずの「湍津姫命」は、天平六年にも新たに降臨していて、二度の降臨をしていることでしょうか。
 これは一見奇妙な話なのですが、宗像三女神というも、その大元神は「湍津姫命」一神であり、あるいは、総称神として「湍津姫命」があったと理解すれば、この二度の降臨という奇妙な話が示唆していることは、それほど奇異な話ではなくなってきます。つまり、津嶋宮→八津嶋宮という社名変更が象徴していますが、天平六年、記紀神話に準ずるように宗像三女神という分化神に五男神を合わせた新たな祭祀が津嶋宮にはじまったと理解できます。これは、中央からの強制による祭祀変更であった可能性が高いですが、そう断じる決め手の文献は存在しませんから、祭祀者・宇佐高春が、こういった祭祀変更を受容したであろうことが想像されるのみです。しかし、縁起は、五男三女神の八霊石の降臨を記すも、ここには「湍津姫命」の先行祭祀があったことを書き残さずにはいられなかったとはいえます。
 現在、「湍津姫命」ゆかりの「御神降石」の所在は不明ですが、もしこの神石が現存確認できれば、石は八つではなく九つとなり、「八」の数字はいよいよ怪しくなってくることでしょう。わたしはここで、紫波・早池峰神社の「影向三神石」が三つではなく四つだということを想起せざるをえません。なぜなら、湍津姫命と瀬織津姫神は、もともと異称同体だからです。あるいは、瀬織津姫という神名のルーツがこの湍津姫(タキツヒメ・セツヒメ)であったとおもわれるからです。
 紫波・早池峰神社由緒の行間沈黙部分が語ることを想像すれば、おおよそ以上のようになりますが、そもそも五男三女神の誕生神話そのものがとてもいかがわしいといえなくはありません。「伊豆山略縁起」は、五男神の一神・天忍穂耳尊を「伊豆大権現」とし、その他の七柱神(四男三女神)を「七尾七社大明神」と呼んでいます。その説明には「天照太神、素盞烏〔嗚〕尊と誓盟[ちかは]せ給ひし時、化生[なりいで]玉ふ所の五男三女の御神なり、別当一人の外[ほか]、他の人に伝へざるの神秘口訣あり」としていて、五男三女神の創作動機、あるいは真相の動機は、まさに「神秘口訣」だったのでしょう。
 ところで、紫波・早池峰神社は、通称「新山社」、また由緒では「三柱の姫神を新山大権現として、創祀した」と書かれていました。この「新山」ですが、由緒は「深山幽谷」から転じたような書き方をしていましたが、早池峰信仰を中心にみますと、円仁創建の妙泉寺、その境内の「新山宮」が本拠とおもわれます。それが「新山大権現」という権現呼称をもっていたことから、いかにも仏教的(神仏混淆的)です。
 明治期、この新山権現背後の神を「瀬織津姫命」とする新山神社が誕生しますが、権現呼称を踏襲、社名を新山神社とし、祭神を「瀬織津姫命」と表示しえたのは、紫波郡南の旧和賀郡・江刺郡に絞れば五社が確認されます。このうち、最古の由緒伝承をもつのは現・奥州市江刺区広瀬鎮座の新山神社です。その由緒内容は、以下のようになっています(『岩手県神社名鑑』岩手県神社庁)。

新山神社(奥州市江刺区広瀬)
由緒:文政九年(一八二六)九月の風土記によると、当時は新山権現であり、本地仏は千手観音で慈覚大師の作と伝えられている。
 嘉祥年中(八四八~八五一)慈覚大師の開基、本体は七体の観音像で大師が浅井の毘沙門像の末木で彫刻したといわれているが、その形体は今は定かではない。
 棟札によれば、嘉祥三年(八五〇)九月初九日、国君の武運長久と五穀成就、村内安穏の祈願をこめて創祀したもので、一間四面南向の社であった。
 元禄三年(一六九〇)九月九日、大檀那藤原の朝臣綱村卿により再建された。

 慈覚大師(円仁)の名がここでもみられますが、彼は「新山権現」の本地仏を「千手観音」とみなしていたようです。円仁と新山権現との関係は濃厚とみるしかなさそうです。奥州市水沢区(旧胆沢郡)姉体の新山神社にも円仁伝承がありますが、こちらは現在、筆頭祭神を「天津彦穂邇邇芸命」としています。その由緒を読んでみます。

 桓武天皇、延暦二十一年(八〇二)に坂上田村麻呂東奥を鎮定し、胆沢城に関東より四千人を配して当地方に郷村を開発せしとき、郷中に肇国の神霊を勧請して開拓発展の守護神とする。
 大同二年(八〇七)に郷中の新山林の地に初めて社殿を建立し、新山神社と尊称して郷村民崇敬す。
 嘉祥三年(八五〇)に慈覚大師が東奥巡錫のとき新山大権現と改め、天台の寺格を創立して城脇山新山寺と称す。以来両部をもって奉仕す。

 円仁の関与は、ここでも「新山大権現と改め、天台の寺格を創立して城脇山新山寺と称す」に表れていますが、当初、田村麻呂がまつったとされる「肇国の神霊」「開拓発展の守護神」は、はたして最初から「天津彦穂邇邇芸命」であったかどうか──、その真は、今は闇の中といったところでしょうか。
 紫波・早池峰神社拝殿内には天照皇大神の祠が勧請されていて、そこには「瀬織津姫大神」(の神札)も同居しています。この祠の下には、「豊年守護」と題して大年神と御歳神の絵がかけられています。絵の上部には、穂を咥[くわ]えている鳥が描かれていて、今にも穂を落とそうとしているかのようです。稲作のはじまりを告げる、この「穂落とし」が大年へと転じることを絵の作者は熟知していることがわかりますし、一般的に大年の子神とされる御歳神にしても、ことさらに女神として描かれています。両神は一対の姿をとっていて、これらは、上檀祠の天照皇大神と瀬織津姫大神の関係を匂わせる演出がなされているようです。大年神は、かつては志摩の伊雑宮にまつられていた男神でしたし、御歳神は、早池峰信仰では「厄を落とす」という御歳神の札として年末に氏子に配られていました(『エミシの国の女神』)。紫波・早池峰神社には、その由緒内容ばかりでなく、日本の神まつりの基層をさまざまに照らしだそうとする仕掛けがなされているようです(写真8・9)。

田中神社(岩手県花巻市大迫町内川目47-30)

更新日:2009/4/11(土) 午前 4:40



 早池峰の開山伝承は複数あり、遠野側が四角藤蔵によるものとするのに対し、大迫[おおはさま]側は、藤原氏の末裔・藤原成房(のち山蔭・山陰と姓を改める)による開山伝承をもっています。遠野側の早池峰山里宮が伊豆神社ですが、大迫側のそれが田中神社です(写真1~4)。
 田中神社宮司・山陰氏は、大迫・早池峰神社の宮司をも兼ね、同家はこの地域の旧家中の旧家でもあります。大迫町の人々の多くが早池峰大神を瀬織津姫神と認識しているのは、山陰氏の宣揚によるものとおもわれます。
 境内の由緒案内を読んでみます。

田中神社草創沿革記
 当社ノ草創ハ遠ク人皇五十一代平城天皇ノ御宇大同二年(八〇七年)三月八日郷ノ真中ノ地ニ一宇ヲ建立シ瀬織津姫命ヲ勧請シ東根嶽ノ里宮真中明神ト称シタリ
 即チ当社神主ノ先祖山陰兵部省藤原成房ト云ウ者コノ地ニ来リ大同二年三月狩猟ノタメ東根嶽ニ向ウ 折シモ山麓ニテ額ニ金星ヲ頂キソノ体ハ雪ノ如ク真白ナル奇鹿ニ遭遇セリ 成房之ヲ追テ雪ヲ渡リ遂ニ東根嶽山頂ニ至リ彼ノ鹿見失イケリ 時モ折遠野郷来内ノ四角藤蔵ナル者同シク奇鹿ヲ追テ山頂ニ来リ合セ共ニ神明影向ノ瑞相ヲ拝ス 成房藤蔵ノ二人等シクコノ奇異ニ深ク想ヲ巡ラシ山頂ニ宮ヲ建立シ奉ラムト談合セルモ今ハ雪深ク事成リ難シサレバ雪消ノ候ト約シ二人各々ノ猟具ヲ後ノ標ニト残シ下山セリト斯クテ雪消ノ六月東根嶽ニ登リ一宇ヲ建立セリト伝ウ コレ東根嶽ノ開山創始ナリ
 而シテ成房三月八日郷ノ真中ニ一宇ヲ建立シ真中明神ト崇メ自カラ神主トナリテ祭祀ヲ司トレリコレ即チ真中明神ノ創始ニシテ成房ハ山陰家開祖第一代ナリ真中明神ハコノ後同家三十九代ノ頃真中ニ水田ヲ拓クニ及ヒ田中明神ト改メ更ニ明治初年ノ神仏分離ニヨリ神号ヲ田中神社ニ改ム
 斯クテ山陰兵部省藤原成房真中明神創始以来実ニ千百数十余年当地域百家ノ宗トシテ現神主山陰幸三氏ニ至ルマデ連綿五十七代ニ亘リ歴代神主当社ノ盛衰ト共ニアリ祭祀ニ懈怠ナカリキ
  平成四年九月吉日         雲南住   山本一楽 謹書

 東根嶽(のちの早池峰山)の神霊は、「額ニ金星ヲ頂キソノ体ハ雪ノ如ク真白ナル奇鹿」へと変身し、自らの祭祀者として、藤原成房と四角藤蔵の二人を山頂に呼び寄せたようです。四角藤蔵は、東根嶽の神霊に、自らの守護神としての伊豆御神を感得したのでしたが、藤原成房の伝承には、四角藤蔵の守護神のルーツにあたるものが表されておらず、ただ「瀬織津姫命ヲ勧請」したと書かれるのみです。
 山陰氏よりいただいた由緒書によれば、この成房という人物について、「開祖は大織冠鎌足公二十五代の孫、内大臣藤原道隆公の四男道長十六代の孫政房の末孫藤原実房の子、兵部省藤原成房といふ人(其後故ありて山蔭と改む)此の地に来たり」云々とあり、中臣=藤原氏の流れを汲むようです。
『早池峯神社社記』では「大織冠藤原鎌足の後裔実房と云える人、何か故ありて奥州稗貫郡大迫郷に流浪し来り、此の地に在住することと定めた。其の子兵部卿成房(後に田中兵部、又は山蔭兵部とも云う)狩猟を好み」云々とされ、大迫郷にやってきたのは成房の父・実房としていますが、前者では「故ありて山蔭と改む」、後者では「何か故ありて奥州稗貫郡大迫郷に流浪し来り、此の地に在住」と、中央・主流の藤原氏とは異なる道を歩んできたことが伝わってきます。
 各由緒書は、「故ありて」の「故」(理由)を明記しませんが、藤原氏も一枚岩ではなく、たとえば、朝廷の中枢にいて、日本の神まつりに変質をもたらすことに腐心した藤原不比等系もあれば、こういった中央的祭祀思想から切れたところで、本来の氏神を奉じて朝廷思想の外に出た藤原氏もいたようです。そういえば、美濃国に流れてきて、その後藤井氏を名乗る藤原氏もいました(岐阜県・野宮神社の項を参照)。この藤原→藤井氏が自身の氏神として奉祭していたのが瀬織津姫神でしたが、大迫郷では、藤原→山蔭・山陰氏もまた、瀬織津姫神を奉祭していて、それを東根嶽の神霊に重ねるように感得したことが想像されます。
 神霊のいる山(高山)の周囲にはいくつもの郷村があり、当初は、郷村ごとに独自の信仰をつくっていたはずですが、遠野郷の東根嶽信仰に早くから介入してきたのが円仁率いる天台宗でした。円仁は自身の高弟・持福院を残して妙泉寺を建立し、四角藤蔵を脇にのけて一社家にしました。妙泉寺は、大迫の岳地区にも分院の妙泉寺を設け、おそらくこのことが、東根嶽山頂で四角藤蔵と藤原成房が偶然に出会うといった奇縁を縁起に取り入れることをさせた理由かとおもわれます。
 大迫・岳の妙泉寺も、境内に新山宮を設置していて、明治期の神仏分離から廃仏毀釈へと時代が大きく変わったとき、寺は廃絶、境内の新山宮が早池峰神社を名乗ることになるのは遠野側と一緒です。いや、正確にいっておくなら、岳妙泉寺の新山宮は、明治九年の『岩手県管轄地誌』には「早池峰神社遙拝所」、祭神は「姫神」と記されています(『大迫町史』教育文化編)。
 ちなみに、『岩手県管轄地誌』は、田中神社(戦前の社格は村社)のみ祭神を「瀬織津姫命」と記しています。田中神社が自社由緒において「東根嶽ノ里宮」、また「早池峰里宮」というも(写真1)、早池峰神社里宮といわないのは、田中神社側の早池峰信仰に、一方的な介入をしてきた妙泉寺の存在と歴史があったからなのでしょう。妙泉寺にも史的興亡があり、のちに真言宗の寺となりますが、田中神社はもともと神仏混淆を望んだわけではなかったものとおもわれます。
 岳妙泉寺が廃絶したあとにできた早池峰神社(花巻市大迫町内川目1-1)を訪れると(写真5~9)、おそらく多くの人が気づくでしょうが、参道の斜め左手に早池峰山が望まれることです。それはいいのですが、拝殿・本殿にしても、早池峰山を遙拝するようには建立されていないことがいささか奇異です。遠野郷の早池峰神社は、拝殿・本殿の先に前薬師(現在の薬師岳)から早池峰山頂を拝むように建立されていて、山岳信仰のオーソドックスな社殿建立をしています。やはり、大迫・岳の早池峰神社の建立方法は特異といえます。方位磁石は、岳・早池峰神社の拝殿・本殿を拝む方向は東南東を指していて、地図で確認すると、この方向には遠野・早池峰神社が鎮座しています。明治九年の地誌が「早池峰神社遙拝所」と記していたのは、どうやら、遠野・早池峰神社の「遙拝所」という意味だったようです。
 この遙拝所が早池峰神社と名乗り、のち(大正時代末)に「県社」という社格を国から認定されます。それまで「遙拝」されていた遠野・早池峰神社は「村社」据え置きという不自然さについての分析は『エミシの国の女神』に譲りますが、一つだけ指摘しておけば、遠野・早池峰神社は一貫して祭神を「瀬織津姫命」としていたのに、その「遙拝所」(岳・早池峰神社)は祭神を「姫神」(昭和十四年時点では「姫大神」…『岩手県神社事務提要』岩手県神職会)としていたことです。
 明治期から敗戦時(昭和二十年)までは、岳・早池峰神社の祭神は「姫神(姫大神)」でしたが、しかし、戦後は「瀬織津比売神」と本来の祭神名にもどされています(これは、神社本庁との関係からいえば、勇気の要るカムバック表示だったとおもいます)。
 岳・早池峰神社の境内には枝垂[しだ]れ桂が植栽されていますが、この桂には早池峰の女神ゆかりの「ちょっといい話」が伝わっています(境内案内板)。

妙泉寺しだれ桂
 岩手県には世界的にも例のない、枝葉の垂れ下がった「南部しだれ桂」という珍木がある。しだれ桂の大木は盛岡市などにあり、現在では三本が国の天然記念物に指定されている。このしだれ桂は、もともとは岳の妙泉寺の境内にただ一本生育していたものであったという。この妙泉寺のしだれ桂には、大変面白い伝説が残っている。
 岳の妙泉寺では、お盆が近づくころになると、桂の緑葉を採って干し、粉末香にしてその年に使う分を作るのが習わしであった。
 さて、いつものようにお盆も近づいて来たある日、和尚は寺の小僧に境内にある桂の枝を切るように言いつけた。ところが、この桂の大木は毎年毎年枝を切るので、手のとどかないような高いところにしかなくなってしまっていた。小僧は梯子をかけて必死に枝を切ろうとしたが、どうしたはずみか足を滑らせて、枝を手にしたまま地面にドウとばかり落ちて気絶してしまった。
 そのとき、気絶した小僧の枕上に、早池峰山の女神「瀬織津姫」が現れて、
「お前はよく師匠の言いつけを守って、毎年この桂の枝を採っているが、このままでは下枝がなくなり、ついにはどんなに長い梯子をかけても及ばなくなろう。岳の水無沢の東、参道の所から二十歩ほどの岩のくぼみに、一本の枝のたれた桂を育てておいたから、それをもって来て寺の境内に植えて置くがよい」
と申されたのである。
 小僧はふと目をさまして、あたりを見回したが誰もいない。不思議なこともあるものだと、その出来事を和尚に話すと、「それは誠に有り難いことだ」といって大変喜んだ。和尚と小僧が明朝早く出掛けてみると、神様のお告げの場所に、お告げのとおりの枝のたれた桂が一本あった。二人はこれを寺の境内に移し替え、それからは毎年たくさんのお香を作ることができたという。
 このしだれ桂は、それから二、三百年を経て実にみごとな大木となったが、寺の普請のために切られてしまった。しかし、その株から出た新梢は、各地の寺院などに分けられ、後に国の天然記念物に指定された南部しだれ桂の原木となったという。

 早池峰山の女神「瀬織津姫」は、寺の小僧さんの難儀をみかねて、「一本の枝のたれた桂を育てておいた」とされます。このさりげない一言から、「瀬織津姫」は以前から小僧さんの難儀に気づいていたことも伝わってきて、なんとも心憎い気配りをしていたものです。この伝説の謎の作者による早池峰山の女神に寄せる思いは、「天照大神荒魂」や「八十禍津日神」などといった異称神名に込めようとした中央側の思いとはあまりに対極的なものです。

空海と伊豆山祭祀【下】

更新日:2009/4/9(木) 午前 4:36



(つづき)
 走湯権現の「走湯」については、これは読んで字のごとくで、まさに「走り湯」という湯水の勢いよく流れるさまを表したことばです。『伊豆国風土記』(逸文)の「走湯[はしりゆ]」の記載を読んでみます。

普通尋常の出湯[いでゆ]ではない。昼のあいだに二度、山岸の岩屋の中に火焔がさかんに起こって温泉を出し、燐光がひどく烈しい。沸く湯をぬるくして、樋をもって浴槽に入れる。身を浸せば諸病はことごとくなおる。(吉野裕訳)

 わたしもこの「岩屋」の洞窟の中に入ってみたことがありますが、その地熱と蒸気で、噴出口の写真はうまく撮れませんでした(写真1)。この走り湯はかつては「滝」となって熱海の海に落下していましたから(古絵図には「瀧湯」として描かれる)、走湯の霊神は滝神でもあります。
 文武三年(六九九)、「妖言」の罪で伊豆(大島)に「配流」(島流し)されてやってきた役小角(役行者)でした。「伊豆山略縁起」は、次のように描写しています。

四十三代文武天皇三年戊戌、役行者、当国大嶋に配流の時、此山の巓[いただき]、常に五彩の瑞雲たなびくを遙[はるか]に見て、霊神の在[います]ことを知り、其年竊[ひそか]に此磯部に渡り来て、まづ霊湯に浴せんとしけるに、波底より金色八葉の蓮華湧出し、千手千眼の尊像、其中台に坐し玉ひ、菩薩天仙囲繞せり、又波間に金文の一偈[げ]浮び現れぬ、其偈に曰[いハく]、
  無垢霊湯 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄
行者、此文[もん]を感得し、諸[もろもろ]の法を聴聞して、瑞喜[ずいき]に堪[たへ]ず、権現を崇尊し、三仙斗藪[とさう]の旧典を慕ひ、修歴遍路しければ、是を当山第四祖とす、〔行者、初到之地建草堂祀之、寛政中遷於下之檀上〕、此偈の意[こゝろ]をいはゞ、無垢霊湯ハ清浄の義、大悲心水は誓水のこゝろ、されば眼耳鼻舌身意[げんにびぜつしんゐ]の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽[ことごと]く消滅し、心の底までも垢を除くの謂[いはれ]あり、豈[あに]身にある病をや、況[ま]して深信[じんしん]の輩[ともがら]、いかなる三業の病にても、容易[たやすく]除愈[じよゆ]せざらんや、走湯[はしりゆ]の古歌数多[あまた]あり、鎌倉右大臣の歌に、
玉葉集  伊豆の国山の南にいつる湯のはやきは神の験[しるし]なりけり
金槐集  はしりゆの神とはむべもいひけらし早きしるしのあれば也けり

 役小角が感得した「金文の一偈[げ]」については、この走湯は無垢霊湯の誓水(「大悲心水」)で、「眼耳鼻舌身意の六根より造れる罪過も、沐浴すれば尽く消滅し、心の底までも垢を除く」という縁起の作者の解釈はそのとおりでしょう。
 小角は「(走湯)権現を崇尊」し、この権現が宿る、あるいは司る「霊湯」は、すべての罪滅と心身の清浄化を果たすものだと、「偈」に込めたようです。この罪滅清浄を神道的にいいかえれば、すなわち禊祓[みそぎはらえ]となり、走湯の霊神、あるいは走湯権現(の性格)を、小角はぶれることなく理解していたようです。
 なお、役行者は走湯山の「第四祖」とされていました。ちなみに、第一祖は松葉仙人、第二祖は木生仙人、第三祖は金地仙人、第五祖は弘法大師(空海)とされます。
「走湯山之記」は、走湯山には「八またのおろち」がいて、役小角が「金杵」で「おろちをつたつた(ずたずた)」にしたあと「磐石」にて地下に封印したとする逸話を「偈」の話に加えています。スサノヲと役小角がだぶる話ですが、この「おろち」は、走湯山の地主神の龍体(大龍)をいったもので、出雲においても同じことなのでしょう。
 役小角による「八またのおろち」退治譚のあとには、次のように書かれています。

是よりさきに松葉・木生・金地とて、ミたりの仙人次第に来り、御やつことなりて、数百年有しか、後には皆脱体羽化せしかは、人のめにこそ見えねとも、定て今も猶此山に徘徊して、神にミやつかへ奉らんかし、しかれは此小角を、第四代の別当とす、其後弘法大師詣て給ふに、御神現形ましまして、妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ

 万治二年に松軒なる人物の手になる「走湯山之記」ですが、この記載を信じるならば、役小角の時代までは、走湯山(伊豆山)には大きな祭祀変動はなかったようです。伊豆の「御神」に、「妙なる神道の深秘、仏法の奥儀をかたみに演説し給ふ」た空海でした。空海によって、一方的な「神道の深秘、仏法の奥儀」を「かたみ」に授けられ封じられた神こそ、役小角の時代までは健在であった走湯(伊豆)の霊神(御神)だったとおもわれます。
「走湯山之記」は、「(走湯)権現を崇尊」していた役小角の心を後世に残そうとしたのでしょう。次のような文面もみられます。

彼偈(役小角の偈)を見れは、此湯(走湯)ハ、薩埵の大慈・大悲のミちあふるゝ所より流出くる瀧なれは、一たひゆあひかミあらふものは、うちつけに身もつよく心もすくやかに成て、諸病立ところに愈、後の世ハ無始劫来のつみとか、うたかたとともに消て、南方無垢世界に生ん事、疑あるへからす、かほと妙なる霊験をしる人、稀に成ぬれは、あはれ此文を瀧殿にかけて、普参詣のともからにしめさまほしき事也、

 走湯の「瀧」は、諸病に効き、過去の一切の罪咎(「無始劫来のつみとか」)を消す、それほどの稀にみる霊験をもつとされます。松軒はまた「はやきハ神のしるしそと、音に聞へし走湯の瀧津流」とも書いていて、「走湯の瀧」は、罪滅浄化(禊祓)に顕著な霊験を有しているのでした。
 この罪滅浄化(禊祓)に関わる走湯権現あるいは滝神をいうなら、空海以前に遠野郷へやってきた伊豆権現(瀬織津姫命)をおいてほかにありません。
「伊豆山略縁起」における「善悪・邪正を裁断し玉ふ」神を考えましても、「糺の弁天さん」の親称をもってまつられる、いわば正邪を糺す神として瀬織津姫の名を確認できますし(京都・下鴨神社の井上社=御手洗社)、さらに、『古事記』允恭天皇条に記載の、古代の真偽裁判法「盟神探湯[くがたち]」を司る神が「言八十禍津日」の神であったことを挙げてもよいです(八十禍津日神は瀬織津姫神の貶称神名)。
『伊豆国風土記』(逸文)は、「日金嶽に瓊瓊杵尊の荒神魂を祭る」としていました。この風土記がいつの時点の成書かは不明ですが、ここで「祭る」といっているのは、それまでの神に代えて「新たに祭る」ということで、これは、伊豆山祭祀に朝廷の力が暗に行使されたことを表すものとも読めます。
 風土記に天忍穂耳尊ではなく「瓊瓊杵尊の荒神魂」と書かれていたことは、縁起を神道的に解釈・書き直しをしようとする者たちにとっては、かなり難儀な創作・改稿となっただろうことが想像されます。
 空海以前の走湯神・伊豆御神の神徳の残像は、これまでみてきたように、縁起の全体からすべて消し去ることは不可能でした。縁起において罪滅浄化(禊祓)の神徳が強調されるとき、その上で祭神が忍穂耳尊や瓊瓊杵尊とされることになりますと、これはとても理にあわない、不自然なことになります。
『神道体系』神社編二十一は「走湯山秘訣氏人上首一人外不口伝」上・下(以下「秘訣」と略称)という秘伝書も収録しています。これは、空海の影響下につくられた各縁起とは一線を画すもので、伊豆山祭祀に携わってきた地元の「氏人上首」ならではの伊豆権現への思いがぎりぎりの表現となって書かれています。
 記紀神話では、月神はツクヨミ(月読)とされますが、「秘訣」では、日神と並ぶ月神は天忍穂耳尊で、この神は湯の泉を「家」とし、月の鏡を「心」としているとされます。日神・天照大神は「国の皇主」、月神・天忍穂耳尊は「くにの政主」と役割が異なることが記されるも、日月が相並ぶとすれば、天照大神と天忍穂耳尊とが同格となります。「秘訣」上巻の作者は、「みつ(水)はもと月の精なり、火はもと日の精なり」として「水火和合」の思想を説いてもいます。記紀神話を念頭においてこれを読みますと、かなり不自然な話となりますが、天忍穂耳尊を仮に伊豆本来の神(瀬織津姫神)に置き換えて読んでみるなら、ここで述べられている月神のこと、また水火和合の思想はじゅうぶんに肯定できる内容です。「秘訣」の語りの主体は、月神の子である月光童子とされます。なお、月神は天忍穂耳尊でしたから、その子神・月光童子は瓊瓊杵尊ということになります。
 以上は、後半が「白紙」となっている上巻の概要ですが、この文書の真骨頂はどうやら下巻にあります。
 月光童子は、氏人の祖とされる日精・月精とともに久地良山(伊豆山の古名)巡りをするのですが、「久地良の山の巌窟」に入ってゆくと、そこには「みかつくのとの(三日月の殿)」と「みつ葉の殿」があり、前者には「御とし五十あまり」の謎の男神がいて、後者には「御とし四十路あまり」の「女体すまゐたまへり」とされます。
「秘訣」は、男神にはあまり関心がないようで年齢にふれるのみですが、この女体神については「十五はしらの神子」を従え、「世の政治、人のよしあしき法をのへたまふ、またいつくしみ、にくみすへき則をのへ給ふ」としています。この神徳は、先にみたところでいえば、地底における早追権現、および、地上における伊豆権現のそれでもあります。つまり、この謎の女体神は、早追権現・伊豆権現・走湯権現が共通して秘めている神と、等質の神徳をもっていることになります。
 また、日金山(久地良山)の地底には、千の鱗に千の「明眼」をもつ「生身千手千眼」の大龍がいるとされていましたが(「走湯山縁起」第五の裏縁起)、「秘訣」においては「その身に千々のいろこ(うろこ)あり、いろこにしなしなの絵あり、耳・鼻・眼・口より湯の瀧なかる(流る)」と描写されます。走湯の湯瀧の根源が久地良山(伊豆山)の地下にあることを、ここでも述べたものでしょう。
 この「秘訣」の巻末は、「日精・月精の氏人と共に、権現をかしつきたてまつる、これは氏人の中に、上首一人はかり、面授口伝すへし、筆のあとにもとゝめさるならひことなり、ゆめゆめしらすへからす」と閉じられます。ここで「かしつきたてまつ」られている「権現」は女体神(伊豆山の本源神)ですが、ではこの女神の名は何かといえば、それは「面授口伝」すべきもので、筆の跡にも留めることはない、つまり、書き残すことはしてはならないとのことです。「走湯山秘訣」の絶対的秘伝性は、ここに極まるといえます。明治期「祭神之事、古来一定仕ラス」とされた理由は、この「面授口伝」の絶対的秘伝性にあったのでした。
 さて、「配流」という罪人の立場でありながら走湯の霊神(面授口伝の秘神)を尊崇した役小角と、「勅命」を奉じ「神道の深秘、仏法の奥儀」によって走湯の霊神を封印した空海は、あまりに鮮明な対極関係にあったようです。
『日本霊異記』によれば、小角は、昼は伊豆にいるものの、夜には富士山で修行したとされます。「走湯山縁起」第五(の裏縁起)は、伊豆山(日金山)の「八穴道」の一路が通じている聖地として富士山頂を挙げていました(「六路は富士山頂に通ず」)。
 役小角は、飛行の仙術を駆使して伊豆から富士山へ通っていたのではなく、この「八穴道」の一路を通って富士山頂へ出かけていたのではないか──と、そんな想像もできなくはありません。あるいは、伊豆山の地主神(走湯の霊神)とともに、地底を疾走する小角さえイメージできそうです。
 富士山頂には、富士山の天女がいて、伊豆山には、天扇をもつ天女(女体権現)がいて、さて、これらの天女神は、はたして異神であったかどうかという問いがやはり残りそうです。

空海と伊豆山祭祀【中】

更新日:2009/4/7(火) 午後 9:34



(つづき)
 さて、空海が伊豆山へやってきた弘仁十年(八一九)の記録には、引用において「中略」とした部分に、次のような逸話が挿入されていました(最初の部分から引用します)。

弘仁十年己亥、弘法大師、社殿に詣し、結檀念誦し玉ふこと三夜に及ぶ時、二人の神童現れて曰[いはく]、吾は是権現の王子なり、世澆季[すへ]に及び、人弊漫[へいまん]を懐[いだ]くが故に、権現今神宝を深くをさめんとし玉ふ、和尚[くわしやう]こゝに来る事さいはひなりといひて、秘所八箇の神穴に誘引しければ、大師乃[すなハち]神鏡を赤色[しやくしよく]の九條衣につゝみ(「つゝみ」は当該漢字がなくひらがなにて表示…引用者)、南の窟[いはや]に納め、神体をば東の窟に蔵[をさ]め、法華経二部を書写して、前[さき]の両窟に安置す、こゝにをひて又、宝珠・霊剣を埋[うづ]めて、邪徒を降伏[かうぶく]し、四域を結界し、神窟の前にをひて、心経[しんぎやう]秘鍵[ひけん]を講誦[こうじゆ]し玉ひければ、窟中[くつちう]鳴動すと、云云、〔豪忠記、縁起第三之大意〕、(大師重[かさね]て勅命を奉じ、当山を管[つかさど]り云々とつづく)

 空海(弘法大師)が「三夜に及ぶ」社殿での「結檀念誦」のとき、「二人の神童」が出現したとされます。彼らは「(伊豆)権現の王子なり」と自己紹介し、空海の来訪を歓迎する旨を述べます。神童たちは「(伊豆)権現今神宝を深くをさめんとし玉ふ」ゆえに、その納品を空海に託すとして、「秘所八箇の神穴」に案内し、空海は、南の窟と東の窟にそれぞれ「神鏡」と「神体」を納め、さらに「法華経二部を書写して」、南・東の両窟に「安置」したとされます。空海はまた、「宝珠・霊剣を埋めて、邪徒を降伏し、四域を結界」し、そこで心経(般若心経)の奥義を講説すると「窟中鳴動す」と書かれ、この逸話は終わります。
 これを空海の夢想譚として読み飛ばすことも可能ですが、しかし、「秘所八箇の神穴」や「南の窟」は、伊豆山のほかの縁起書にも重要な聖域として散見されますので、神童(権現の王子)たちの出現をわざわざ仮装した空海の夢想譚は、それなりに重要な意味があったものとおもわれます。
 たとえば「秘所八箇の神穴」については、「走湯山縁起」第五(の表縁起)が記すところの、「根本地主」の一神「早追権現」が「日々夜々」往来しているとされる日金山(久地良山…伊豆山)地底の「八穴道」のことでしょう。
「走湯山縁起」第五(の裏縁起)では、龍体が「生身千手千眼也」と明かされたあとに、この「八穴道」がどういうものなのか、具体的に書かれています(以下、筆者読み下しで引用)。

この山(日金山)は、これ補陀洛山九峯院の内別院、明鏡これなり。この山底に八穴道がある。一路は戸蔵(戸隠)第三重巌穴に通ず、二路は諏訪の湖水に至り、三路は伊勢大神宮に通ず、四路は金峯山上に届き、五路は鎮西阿曽(阿蘇)の湖水に至り、六路は富士山頂に通ず、七路は浅間の巓に至り、八路は摂津州住吉(に通ず)、

 日金山(久地良山…伊豆山)の地底(山底)にある「八穴道」が通じているとされる八所(の聖地)が書かれています。先に、伊豆権現が伊豆山から失踪して籠っていたとされる戸隠山も「戸蔵第三重巌穴」と書かれています。
 ここには、全国の数ある聖地から特にセレクトされたであろう八所が書かれています。これら八所(の聖地)すべてをここで検証することはできませんが、たとえば空海が、自らの密教的聖地として大日如来を習合させた「伊勢大神宮」をみますと、その「根本地主」は、伊豆権現=走湯権現に秘されている(封印されている)神と同神であるとはいえます。戸隠山については先にふれましたが、「諏訪の湖水」をみるなら、ここと通底している伝承をもっているのが遠州の桜ヶ池で、この池神・水神をまつるのが池宮神社(主祭神:瀬織津姫神)です。つまり、「根本地主」の位相にまで降りるならば、伊豆権現(の地主神)と、これら八所(の聖地)の祭祀は、まさに「通底」している可能性があります。
 各地の表層祭祀とは異なる、いわば「根本地主」(神)の祭祀をみようとするとき、この「八穴道」の記載は、途方もないことを示唆しているのかもしれません。「走湯山縁起」第五(の裏縁起)が「深秘」「不可披見」とされる所以は、おそらくここにあるのでしょう。
 さて、空海が神鏡を埋めたとされる日金山中の「南の窟」についてですが、「走湯山縁起」第五(の表縁起)に、「密伝曰」として、「松岳南麓之地底十二丈」に「宮闕之閣」があり、その中心に「七星台」があって、そこに「千手観音」が坐す、すなわち「補陀洛山九峰の別院是也」との記載があります。
 この表縁起の作者(延尋)は、「この一ヶ条は、弘法大師が真済に語る口伝である」と記していて、そういえば裏縁起の「八穴道」云々にしても「已上高雄寺清涼房真済之記也」とありましたから、空海の夢想と密教理念は真済を媒介として「走湯山縁起」に多大の反映をもたらしているようです。
 それにしても、「補陀洛山九峰の別院」は表裏の両縁起に記されていますから、この二つの縁起からみえてくるのは、「根本地主」の一神であり、天下の善悪吉凶、王臣政務の是非を取捨勘定する「早追権現」(女形)は、その姿態は龍体とも千手観音(「千手千眼」観音)とも表現されていることです。
 延喜四年に記されたという「走湯山縁起」巻第三には、「夢中異人」のお告げとして「吾是走湯権現也、本地千手千眼」とあり、「二六時中に十方の善悪・邪正を裁断し玉ふ」(「伊豆山略縁起」)という神徳をもつ伊豆権現=走湯権現と早追権現は、その神徳ばかりでなく仏の姿態においても共通しています。
 ところで、「根本地主」二神のうち白道明神は「男形」、早追権現は「女形」でした。「走湯山縁起」巻第五(表縁起)は、「権現女体(の)事」の項を設けるも、その本性については「幽玄にして、人、これを知り奉らず」、また本地は「弥陀如来(阿弥陀如来)」だとしていて、ここでは千手観音ではありませんから、読む者を一瞬混乱させます。縁起は、権現が日金山頂にいるとき、嶺の東南に「女体社」を営み、そこに「弥陀如来」を安置し、山頂から「湯浜上」へ降りたとき、頂上の古社檀を「本宮」と号し、女体権現の御在所を「新宮」と呼んだとしています。また、この女体権現は、その形像は天女の如きで、手には天扇をもち、白蓮の花に坐していると、観音を連想させる美化の形容も忘れていません。
 縁起は、つづけて、この女体権現にまつわる不思議な逸話も記しています(筆者読み下しで引用)。

応和元年辛酉夏、ここに神託ありて、女体、雷電御宮に入御す、その後五箇年を経た康保二年、御本社に還御す、これ皆(女体権現の)神託によりて執行するところなり、

 女体権現がなぜ「雷電御宮」(本社若宮)に入御し、五年後にまたもとの「御本社」にもどったのか、その行為の理由がただ「神託」とされるのみで、もやもやとした話です。しかし、縁起の作者は、「女体、雷電御宮に入御す」のあとの割注で、「走湯権現、早追権現と通い交わるため、その嫉妬云々」と、これも歯切れのわるい注ではあるものの、走湯権現と早追権現の親交に、女体権現が「嫉妬」したらしいことが書かれています。
 ここには、神を神のままにまつらずに、それを権現に置き換え、さらに走湯権現と早追権現というように二様の権現へと分化させ、この二様の権現化に取り残された、元の神(女神)にもっとも近いイメージをもつ女体権現が「嫉妬」をしたとされています。こういった分化分身の発想は、空海が大日如来を二分身化した発想をベースとしています。このように、真言密教には、一つの単体(神)があるがままの姿を封じられ、部外の者には恣意的としかいいようのないものですが、無限分身化の発想があります。その結果、それぞれの分身が独自の存在理由・感情をもつとさえみられることにもなります。ここでは、そういった分身権現が独自の感情をもつと想像されたがゆえに、つまり「三角関係」といってよいのですが、そこに生じた「嫉妬」の感情関係が述べられているようです。
 権現たちの三角関係・嫉妬の話は、根本地主(神)に焦点を定めて読もうとすれば、もともと陰気な封印の上での話となりますから、下世話に笑う気にはなれません。
 ところで、空海の夢想譚には、神窟に「宝珠・霊剣を埋めて、邪徒を降伏」したと書かれていました。伊豆山には「邪徒」がいたことがわかりますが、ここでいう「邪徒」とは、空海の密教理念あるいは鎮護国家の思想に異を唱える者たちをいうのでしょう。もともと、伊豆権現=走湯権現の神体である「円鏡」は「東夷境所」を示現する「神鏡」だとありました。また、伊豆山の最古の縁起書である「走湯山縁起」にしても、その書き出しは、「走湯山は人王十六代応神天皇二年辛卯、東夷相模国唐浜礒部の海辺に三尺余の一円鏡現る」で、走湯権現の神体とされる「円鏡」は、「東夷」ゆかりの「神鏡」でした。
 空海が「邪徒」とみなした人々は、もともと「東夷」であったゆえに、「勅命」を奉じた空海は、王化のための仏法をもって教え諭す必要があったのでしょう。これは、いいかえれば、伊豆権現=走湯権現に封印されている「神」は、「邪徒」「東夷」の人々が信奉する神でもあったことを示唆しています。この鏡が「東夷境所」を示現する「神鏡」とされるのは、伊豆山が西からの王化と「東夷」との境界に位置する重要な祭祀場であったゆえとおもわれます。
 空海は、この「邪徒」(「東夷」)を「降伏」するために、神窟に「宝珠・霊剣」を埋めたとされます。この「宝珠・霊剣」をもつ女神の神像を有するのが北海道の滝廼神社や川濯神社ですが、両社ともに、遠野・伊豆神社と同神(瀬織津姫命)をまつっているというのは偶然とはいえないはずです(写真:滝廼神社神像、中心の女神像の両手の持ち物を参照ください)。
 伊豆山の根本縁起(最古の縁起)が「走湯山縁起」なのですが、その表題は伊豆山ではなく走湯山としていて、この「走湯」、つまり「走り湯」こそが伊豆山祭祀の要諦にある聖域観念、いいかえれば絶対神域の観念かとおもわれます。
 これまでにみてきたところでいっても、「根本地主」早追権現の龍体を述べたときのことば、つまり、尾は「筥根(箱根)之湖水」(芦ノ湖)にあるとするも、頭は「日金嶺之地底温泉沸所」にあるとされていました。この「温泉沸所」に龍体(地主神)の頭があるという観念[イメージ]に「走り湯」という神聖観念の淵源があります。
 この「走湯[はしりゆ]」(の神)に、もっとも親近・崇敬の感情をもって相対したのは、空海が伊豆山に「勅命」でやってくる弘仁時代の百年以上前、文武三年(六九九)、空海の立場とはまるで対極的ですが、伊豆(大島)に「配流」(島流し)されてやってきた役小角(役行者)でした。
(つづく)