奥州安倍氏と鬼神【中】──安倍実任の信仰

更新日:2009/12/30(水) 午前 3:30



 彦山権現の深層にある神は、伊勢・白山・熊野と深い縁で結ばれていました。また、御許山の宇佐神(比売大神)ともそうです。さらにいえば、奥州においては、この神は「松島大明神」とも呼ばれる神でもあったことは重要におもえます(千時千一夜「彦山信仰と安倍氏」、「円仁と円空──北の旅の終焉地・松島へ」『円空と瀬織津姫』上巻、所収)。
 山田宇吉氏は『安倍宗任と緒方惟栄』で、「実任の信仰は何[ど]ういふ動機から起つたものか、余り深い理窟[ママ]のあつたわけでもあるまい」などと無理解の極みを正直に書いていました。これは、彦山や御許山の「神秘」の神に対する無理解を遠因としてのことばと読めます。江戸時代初期、蝦夷地・奥州における円空の地神供養の旅の最後は松島の地で、彼はそこで、松島明神(松島の地主神)をおもって、仏像の儀軌にない釈迦如来を獅子の上に乗せるという破天荒な像を彫っていました(松島・瑞巌寺宝物館所蔵)。円空が、その信仰生涯を捧げたのが松島の地主神でもあった神(姫神)でした。しかし、円空のこの信仰については、実任のそれと同じく、いまだ無理解の夜にあるようです。
 彦山の最古の縁起書『彦山流記』は、彦山山頂の信仰的光景として、とても印象的な描写をなしていました。

抑[そもそも]当山は、巒岩[らんがん]の石薜蘿[へきら]の松、色を千歳の春に増し、齢[よわい]を万代の秋に送る。磥峨[らいが]の峯、流砂の谷、雲霧腰を廻り、瀧泉頂きに灑[そそ]ぐ。

 硬派の漢語がちりばめられていますが、彦山山頂(写真7)には「瀧泉」が降りそそぎ、いつも浄域・聖域をなしているということが書かれています。この「瀧泉」は、彦山祭祀が「神秘」とする神の性格を象徴する語といってよく、この「瀧泉」を司る神にこそ、実任は奥州安倍氏本宗の信仰を重ねていたものとみられます。
 さて、実任が御許山南麓に移る前に住んでいたとされるのが、豊後国の白木の地でした(現:大分市神崎町白木)。ここには、安倍伝説を圧縮したような縁起をもつお寺があります。龍岸寺の寺名を改めた龍雲寺といいます(写真1~6)。また、この寺を別当寺としていた鬼神社もあります。なぜ「鬼神」なのかという問いも浮かんでくるところですが、この白木の地には、貞任の末裔の来住伝承もあって、白木から広がったのでしょう、大分県には貞任・宗任の裔が渾然となって多くのアベ氏を名乗って現在に至っています。
 安川浄生『安倍宗任』は、「奥州六郡の太守安倍貞任の嫡流」を家伝としてきた安田幹太氏の著『安部系図覚書』を要約して、貞任の子の白木来住に至る驚くべき伝承を紹介しています。

 康平五年秋半ば、最後の決戦を控えて混乱する厨川の陣屋を後に、一人の童児を擁して西に走る兵士の一団があった。率いるところの将は厨川城主安倍貞任の長臣山田太郎貞矩、奉ずるところの幼児は貞任の二男千賀麿、三歳であった。一行は追手の眼を逃れ、越後を越えて北へ、佐渡に渡り、その地において島の有司安田蔵人光定に身を寄せた。千賀麿を迎えた光定は、これを厚く遇し、猶子として安田三郎貞言と号せしめた。
 千賀麿貞言は佐渡に止まること十五年、長じて後、叔父宗任が西国にあることを知って会せんことを思う。筑前名島(福岡市)に閑居していると聞きてその地に至る。亦命をうけて豊後に来り、日出浦に着き、実任の在所に至り、それより追分白木に赴いて仮住す。実任の世話によって権守惟用に紹介され、惟用は情厚くしてこれに扶助を加えた。そこで白木において食地に寄する。由緒を以て家号を安田とし、居所地を亦安田と改めて村号とした。

 安倍氏の末裔が安倍氏を名乗らないところに、この所伝のリアリティがあるといえます。『陸奥話記』は、前九年の役のあとの「国解」記載として、「貞任の家族は遺類有ることなし」と書いていましたが、貞任の子の一人は厨川の柵の戦火の前に脱出していたようです。
 この貞任の子が叔父の宗任を西国に訪ねてやってくるというのもありうることで、さらに、どんな内容かは不明であるものの、「千賀麿貞言」は宗任の「命をうけて」豊後の実任のところにやってきたとされます。また当地では「実任の世話」によって「権守(緒方)惟用」の優遇のもと「白木において食地に寄する」ともされます。
 安川浄生氏は「安田氏の註」として、その後の貞任の末孫の転変のさまも記していて、これもリアリティがあります。

 豊後追分安田に本拠を置いた安田氏は、始祖の貞言から二代目、貞隆を経て、三代目述嗣のとき、初めて豊後守護大友能直[よしなお]に仕え、白木において二千貫の食地を与えられた。その後は平穏無事に十八代貞享に及んだが、十九代貞近のとき守護大友氏に対する田原・田北両家の叛乱に連座して本拠喪失の厄に遭遇することになった。本拠追分を失った一族は、乱を逃れて豊後高田山中、宇佐神宮領草地荘に至り、ここに武門をすてて農となった。時に天正八年(一五八〇)五月。草地安田の始祖である。

 系図・家伝内容の真偽を見分けるには、そこにどれだけ「負」の事実の記載がみられるかどうかにあるだろうとわたしなどはおもっています。日本という国は偽系図の王国といっても過言でなく、その典型はいうまでもなく、日本の「正史」(『日本書紀』)にみられる万世一系の家系図・皇統譜の創作・虚構でしょう。この偽系図が相対化されることがないうちは、庶民が庶民の数だけ偽系図を創作しても、だれも非難することはできないはずです。
 さて、白木が、安倍氏と深い縁故の地であることがみえてきました。龍雲寺境内には貞任の供養堂があり(写真4)、ここには、貞任・宗任の位牌(写真5)や貞任像(写真6)があります。この宝珠山龍雲寺(かつての龍岸寺)は、謎めいた「鬼神社」の別当寺として創建されたのでした。
 山田宇吉『安倍宗任と緒方惟栄』は、龍雲寺(龍岸寺)について、次のように書いています。

 今の龍雲寺は、最初宗任が其兄貞任の遺骨を供養するために創建したもので、宝珠山龍岸寺と称したのは、仏教の功徳は、提婆[だいば]と雖も捨てず、龍女と雖も作仏[さぶつ]の彼岸に到達せしむ、況んや一時朝敵の汚名を負へる、貞任の極楽往生を辞[いな]むものならんやと云ふ、意味であることは前に東岸寺縁起別本の文を引いて、それを示した通りである。

 宝珠山龍岸寺の創建意図が、貞任の「極楽往生」のためというのは、山田氏のうがった解釈です。このことは、平泉・中尊寺の創建意図が、奥州の戦乱で亡くなった敵味方双方の供養にあったことを対比させてみれば瞭然で、したがって、宗任が兄一人のために龍岸寺を創建したなどということは考えにくいですし、もっといえば、安川浄生氏も指摘するように、この創建者は宗任ではなく実任であった可能性の方が高いといえます。あるいは、宗任の「命」を受けた貞任の子「千賀麿貞言」であった可能性も捨てきれません。龍雲寺の貞任供養堂にある貞任と宗任の位牌の戒名ですが(写真5)、貞任のほうは「宝山院殿月心常観大居士」、宗任のほうは「珠林院殿中峰円心大居士」とされます。院殿号が贈られるというのは最高の讃辞を表していますが、龍岸寺の山号「宝珠山」が、貞任の「宝山院」の「宝」と宗任の「珠林院」の「珠」とを組み合わせて成ったものであることは明らかで、これ一つをとっても、龍岸寺の創建者を宗任とする不自然さを指摘できるかもしれません。
 さて、「宝珠山龍岸寺と称したのは」という、寺名の呼称のことについていえば、「龍女と雖も作仏[さぶつ]の彼岸に到達せしむ」という山田氏の解釈は正確ではありません。山田氏が典拠とした「東岸寺縁起別本の文」をみますと、「仏光普く照らして龍女岸に到る、(ゆえに)寺を宝珠山龍岸寺と号す」(筆者読下し)と書かれ、龍女が仏土の彼岸にたどりつく仏の威光をおもって龍岸寺という寺名ができたことが記されています。したがって、「龍女と雖も」といった一例を軽く示す解釈では、寺号命名の本旨を読み誤ることになります。
 寺号命名や寺の創建意図の核心には、おそらく「龍女」とはなにかという問題があるようにおもわれます。一般的な仏教説話では、地主神・地母神が龍女となって仏教に帰依し救いを求める、あるいは仏教の守護神となるといった定型譚が語られることが多いわけですが、安倍氏が創建した龍岸寺においてもそれがいえるのかどうかという点については、一考するに価値ある問題を孕んでいるようにみえます(写真:白龍)。
(つづく)

奥州安倍氏と鬼神【上】──安倍実任の信仰

更新日:2009/12/29(火) 午前 11:40



 安川浄生『安倍宗任』(みどりや仏壇店出版部)によれば、安倍宗任の子・実任を「祖」とする安倍氏の末裔が現存するとのことです。その「本家」の安倍政任(正士)氏の系図には、実任は永保年中(一〇八一~一〇八三)に肥前国松浦から豊後国追分郡白木へやってきて住み、その後、豊前国宇佐の冨山に移ったとあり、安川氏は「本家安倍政任(正士)氏系図によれば」として、以下の宇佐冨山における実任伝承・伝説を紹介しています。

(実任)あるとき秋天を待って山に猟す。冨山峰に行って、熊の集るを見る。実任静かに岩岸を伝い寄って射んと欲し、よくよく見れば、彼の熊、人影やさとりけん、ことごとく消散して行方知れず。実任、跡を尋ねんと巌に上る。思わざりきことにや石の上に弥陀、釈迦、観音の三仏、光明を放って照座あり、三郎奇異のこととして三仏を携えて宿所にかえり、四つ足堂に安置す。またその夜、夢の中に老翁来たりて告げて曰く、金幣三社は是英彦山大権現の御験しなり、汝、御許山の峰にこれを守護すべし、子孫久しく怠る勿れ。とありて夢覚むる。信心肝に銘じて当山の峰に草庵を結んでこれをまつる。実任、永長元年(一〇九六)正月薙髪して妙雲と号し、草庵を妙雲山東岸寺と号す。英彦山と同体の霊場なり。

 原文に「英彦山」と表記されているとしますと、この系図文は、彦山が英彦山と名称変更される享保十四年(一七二九)以降の作となります。だからといって、これがそう古くない創作伝承だというのではなく、この「妙雲山東岸寺」の縁起に記される、実任の霊夢、つまり「老翁」の託宣として「汝、御許山の峰にこれ(彦山権現)を守護すべし、子孫久しく怠る勿れ」に、この伝承の核はあるにちがいありません。御許山は宇佐八幡信仰の要[かなめ]となる山で、そこに彦山権現をまつり守護せよとする託宣は意味深長といわねばなりません。
 引用の系図伝承では、「実任、永長元年(一〇九六)正月薙髪して妙雲と号し、草庵を妙雲山東岸寺と号す。英彦山と同体の霊場なり」とありますが、この「妙雲山東岸寺」は廃寺となり、現在、宇佐冨山(宇佐市熊)における安倍家の菩提寺は勝光寺とされ、ここには実任の墓があります(写真1)。また、近くには熊地区の氏神である熊神社があり(現祭神の是非はここでは問いませんが)、境内の「特別献納者」の石碑に刻まれた献納者に多くの「安倍」の名がみられ、ここがいかにも安倍氏の里であることがよく伝わってきます(写真2)。
 実任の本家系図の伝承では、実任は肥前国松浦から豊後国白木、そして豊前国宇佐へと移動したとされます。実任(妙雲)は、宇佐の地で没したようで、その終焉の地に到る前の豊後国の白木の地に着目しますと、ここにもたしかに実任(あるいは安倍氏)の伝承が色濃く残っています。
 また、白木の地から豊後の山中にはいったところ(熊群山…写真3)にも、実任の開基伝承をもつ「熊群山東岸寺」がかつてありました。明治期の神仏分離によって、豊後の東岸寺は廃寺となり神社化するも、「熊群神社」の名で現存しています(写真4~14)。
 山田宇吉『安倍宗任と緒方惟栄』(私家版、大正十三年)は、実任は「天性遊猟を嗜[たしな]み、且つ彦山権現の信仰者であつたらしい」、「実任に関する事蹟は、遊猟を好みし事と、寺を建立せることの外は、多く伝はる処がない」、「実任の信仰は何[ど]ういふ動機から起つたものか、余り深い理窟[ママ]のあつたわけでもあるまい」などとするも、熊群山東岸寺縁起(別本)を参照してのこととおもわれますが、以下のような実任伝承を紹介しています。

実任は元永三年(即ち保安元年)二月十五日、一寺を熊牟礼山に開基し、之を熊群山東岸寺と名づけ、開山の僧は観雲和尚にて、又た実任の五男五郎と云ふものを剃髪させ、玉泉房と名乗らせて、之に住せしめたのであつた。熊牟礼権現の境内に十二坊ありて、其内の成光院[じゃうくわうゐん] といふのが、玉泉房旧住の遺蹟だといふことである。

 明治期の「大分県神社明細牒」の熊群神社の項には、祭神を「事解之男命・伊弉冉尊・聖宮尊」の三柱とし、由緒の項には「元永年中安部宗任ノ末子同実任群熊ノ夢告アリテ勧請ス」とあります。これらの祭神は現祭神とは大きく異なっていますが(写真7)、それはおくとしても、熊群神社参道横の案内板には、庄内町観光協会・同自然保護対策審議会による、もう少し詳しい由緒が書かれていますので(写真8)、そちらも読んでみます。

由緒
 人皇八代孝元天皇二十代(西暦二百十四年)の末裔安部三郎実任皇第七十二代鳥羽院の御宇の草創で彦山権現同体分所の神であるという。元永三年二月十五日安部三郎実任は豊後国阿南荘に幽邃な住居を作り猟漁を業とした。
 此の地を猪の狩倉という(現在加倉)。弓矢を持って野山で狩をした時一匹の大熊が嶺より下りて来るので、実任之を射ようとしてみれば、数多の熊が群がっていた。実任は矢を放とうとしたが熊は忽ち姿を消した。その場所に行ってみると弥陀薬師観音の三尊妙瑞光明さんらんとして明[ママ]われたので、実任は引矢を投げ捨て台地に拝伏した。するとまた忽ち相を変じて三面の鐘[ママ]となった。実任は驚いて(後に此の地を御群の台という)当山に宮殿を建立し、三鐘[ママ]を奉祀した。更に彦山仏匠式部卿滕光に願って三法身を彫刻してもらって崇拝した。これから熊群山東岸寺二[ママ]所大権現と号し二月、六月、八月、十一月の十五日に祭礼をすることになった。
 その後幾度か兵火(天正八年田北銘鉄[ママ]の叛、天正十四年島津、大友の合戦)風害にかかったが再建せられ府内藩の御祈願所として尊崇せられ、明治六年神社となった。
 参道には有名な鬼の作った九十九段の石段がある。

 伊藤常足『太宰管内志』豊後国七巻所載の「東岩寺(東岸寺)縁起」には、引用文中「三面の鐘」は「霊鏡三面」、これらの鏡は「彦山三所権現之神体」とあります。この由緒文にはいくつか誤記が目立つものの、実任がまつった熊群神が「彦山権現同体分所の神」とされることが注視されます。筑前国上座郡佐田村の実任伝承(「安倍貞任先祖及筑紫軍記」)では、この熊群山東岸寺縁起を踏襲した縁起が伝えられていました。

〔前略〕弥陀薬師観音の三尊光を照して坐しける、三郎(実任)甚だ奇異の思いをし、頓[やが]て守り奉り宿所に帰り僅かなる所に安置しける、三郎或る夜夢中に老翁来り告げ曰く三尊(弥陀薬師観音)は松島大明神、当所に移し尊ぶ可し必ず末葉を守るべしと、実任夙に起きて弥々[いよいよ]信仰肝に銘しつゝそれより当所に霊宮を建造しけり、熊群り居りたるより熊群山と称し松島大明神と崇め奉り朝三暮四のこん行(勤行)七三縄[しめなわ]の永き世新金の土も木も動かぬ御世の松島大明神かたかりし事共なり。

 豊前国御許山南麓の実任伝承においては、実任は「弥陀・釈迦・観音」を本地とする彦山権現を「御許山の峰」に「守護」神としてまつり、豊後国熊群山の実任伝承においては、「弥陀・薬師・観音」を本地とする彦山権現を「熊群山東岸寺三所大権現」としてまつったとされます。引用の筑前国佐田の伝承においては、同じく「弥陀・薬師・観音」を本地とする松島大明神を熊群山にまつったとされます。これらは、伝承の錯綜のようにも一見おもわれますが、彦山の本地仏は、たしかに「弥陀・釈迦・観音」とも「弥陀・薬師・観音」ともされていました。また、「弥陀・薬師・観音」は熊野三所権現の本地でもありますが、これらの伝承から抽出できるのは、実任の彦山権現への強い執着ということでしょうか。
 明治六年以降、熊群山東岸寺は熊群神社を名乗ります。かつての本地仏「弥陀・薬師・観音」の内、薬師如来は行方知れずのようですが、阿弥陀如来と観世音菩薩(十一面千手観音)は、境内の旧護摩堂に移されています。由緒によれば、これらは「彦山仏匠式部卿滕光」が彫ったとされ、素人目にも、なかなかの彫りの技が感じられる仏たちです。護摩堂のもともとの本尊は不動明王で、そこにかつての熊群山祭祀の本地仏や奉納仏が並ぶ様は圧巻です(写真9~14)。なかでも、やや太めの十一面観音などは、熊群山の信仰が意外と庶民的であったことをよく伝えているようです(写真:白龍)。
(つづく)

彦山信仰圏の二つの瀬織津姫祭祀──汐井社と瀬成神社

更新日:2009/12/23(水) 午後 4:13



 鎌倉幕府の源氏最後の将軍となる源実朝の時代、建保元年(一二一三)、彦山最古の縁起書とされる『彦山流記[るき]』がつくられます。同縁起には、彦山四方の結界を「四至」とし、次のように書かれています(広渡正利『英彦山信仰史の研究』文献出版、所収)。

四至在り。東は豊前国上毛郡雲山国中津河〔大井手口〕を限り、南は屋形河壁野豊後国日田郡屋崇〔同大肥里〕を限り、西は筑前国上座郡内杷岐山〔同西島郷〕并びに下座郡内円幸浦尻懸石、同国嘉摩郡八王子ノ道祖神を限り、北は、豊前国田河郡巌石寺、蔵持山法躰巌を限る。

 中世、彦山四至は、東は豊前国上毛郡、南は豊後国日田郡、西は筑前国上座郡・下座郡・嘉摩郡、北は豊前国田河郡にまで結界霊域を設けていたようです。この広域な結界圏のなかに、西の結界の一つとして「筑前国上座郡内杷岐山」があります。
 この「杷岐山」の山名は、現在町名の「杷木」にみられます。福岡県上座郡杷木町(現:朝倉市杷木町)松末にある汐井社に瀬織津姫神の名を確認できます(『福岡県神社誌』)。
 汐井社は戦前までは「無格社」という最下位の社格で、ここは神社というよりも祠といったほうがよい小社ですが、地元の人からはとても大切にされています(写真1~3)。逆にいえば、「無格社」であったからこそ、この神の名はそのままに残ったともいえましょう。
 ちなみに、杷木町の東隣りの大分県日田市山田字奥谷にも、同じく無格社だった汐井社があります。同市田島に鎮座する大原八幡宮(かつての大波羅神社)は、宇佐神宮と同様に放生会の神事を励行していて、その神事に先立つ禊ぎ場として、この汐井社があります。汐井社は現在、社とはいっても社殿はなく、川中の石を神籬[ひもろぎ]とするだけですが(写真4)、この汐井神は彦山修験者がまつったものと伝えられています。明治期の「大分県神社明細牒」は、汐井社祭神を「瀬織津姫命」と明記しています。
 かつての彦山修験者にとって、汐井神がどういう神であるかは、おそらく熟知されていただろう痕跡として、これらの汐井社はあるとみられます。彦山川が源流部の彦山内にはいると、その川名は汐井川と呼ばれることになりますが、現在、彦山の山内に、汐井神・瀬織津姫神の名を確認することはできません(彦山信仰と瀬織津姫祭祀との関係については、千時千一夜№599「彦山信仰と安倍氏」でふれてありますので、関心のある方はそちらもご覧ください)。
 杷木・汐井社の境内案内には、その祭神名の記載はないものの、汐井社に関わる「お水取り」の説明がなされています(写真3)。

汐井社
 神の庭は昔から汐水[しおみず]で清める風習があった。そのためかなり遠方まで海岸へ汐汲みに出かけたが、いつの間にかそれが製塩を散布してお清めをするようになった。
 一方清冽[せいれつ]な清水も又汐水の代用として、神庭お清めの水として捧げられるようになった。
 お清めの水の湧き出る所、お汐井社は近隣の神の社[やしろ]から必要ある毎に「お水取り」と称して汲みに通ったものである。
 今はそのしきたりも忘れられ、祠[ほこら]の前を清らかな水が流れている。

 神の庭を清める汐水(潮水)の代用となった「清冽な清水」、その「湧き出る所」に瀬織津姫神がまつられているというのは、この神が水源神としての性格をもっていることを如実に語る典型祭祀とも読めます。汐井社の「清らかな水」が人々の飲用の真水でもあるとき、この神は生命の守護神ともなることでしょう。
 ところで、彦山と至近の地にありながら、彦山信仰とは一線を画してきた地域があります。現在の福岡県田川郡添田町の中元寺地区です。彦山を水源山とする彦山川と並行して流れる中元寺川ですが、両川がおよそ一二〇〇メートルの近さに接近する「ハシ神淵」にある瀬成[せなり]神社(写真5~9)に、瀬織津姫神の名がみられます。
 村上龍生『ふるさと中元寺』(陣屋ダム対策協議会)は「瀬成の宮」と題して、実に興味深い鎮座譚(民話的鎮座伝承)を書いています。少し長い引用となりますが、以下に紹介します。

 瀬成神社も、中元寺はおろか、筑豊一円に広く、農耕、牛馬の神として、尊敬されたお宮です。
 御祭神は、
   豊宇気姫神
   瀬織津姫神
   速開津姫神
の御三神にまします。
 当社の縁起によれば、
 昔、中元寺の里は、大原庄虫生[むしお]と称していました。
 東方に高台があって、毎夜何となく騒然とするので、遠望して見ると、実に美しい大厦高楼が軒をならべ、数千の灯が宮殿の中のように燦いて見えます。近づいて見ようとすると、それは水絵のように消えて、全く何も見えなくなります。不思議という外はない現象が、毎晩起りました。
 ある日、村の子供が一人行方不明になりました。父母は我が子を失って、気の狂わんばかりに嘆き悲しみ、村人も同情して、方々を探しましたけれども、その夜は遙として行方がわからず、悲嘆にくれました。
 ところが翌朝飄然として帰って来ましたので、村民はびっくりして訳を尋ねました。
 村童の語るところは次のようです。
 私は、昨夜独り門前にたゝずんで居ますと、素晴らしくきれいな服をまとった天女のような人があらわれて、
「私について来なさい。あなたに沢山の天女が羽衣を織っているところを見せてあげましょう。でも、ものを云ったりしてはいけません。」
と、云いました。
 私は、その女についていきました。
 着いて見ますと、大きな家が軒を連ねてたち並び、どの家もこの家も、金銀の燭台に、あかあかと灯がともって、昼をあざむくような灯のもとで、多くの天女が竝んで、銀の梭[おさ]で機[はた]を織っているではありませんか。腕にまとった錦の衣が、ひらひらと翻ってまるで胡蝶が舞っているようです。歌う声は迦陵頻伽[かりょうびんが]のようでした。
 私はこの美しい光景に見とれて、恍惚[こうこつ]となっていました。
 しばらくして、一人の老女があらわれ、
「あなたは、帰ったら村の人に告げなさい。私たちは、天祖の神勅を奉じて此の地に来ました。中心に居られた方は、豊宇気[とようけ]姫神と申されます。蚕を飼い、繭をつくり、糸をとり、機を織っています。今あなた方の着られている着物もみなそうですが、この神の御恩によるものです。
 けれども、村の人はこの神様の事を知らず鎮座する御殿もありません。相談して、速やかに神殿を建てゝ祀りなさい。」
 こう云われましたと、云ったとたんに彼の村童は倒れて、数日間人事不省におちいりました。
 村の人々は、之をきき大へん恐れ多く感じて、真心こめて宮殿を村の真中に建てゝお祀り致しました。
 これがこの神社の起原です。
 それより、蚕を飼ったところを「飼野」、繭をつむいだところを「繭野」、機を織った所を衣原または錦原と云うようになりました。また、飼野と繭野は地つゞきになっていますので、飼繭などと呼んでいますが、誤り伝えられたものということです。
 その後、
 宣化天皇の御代に、鷹羽の巫子伊智女が、神勅を蒙ったと云って、中元寺の里に来ました。
 彼女が云うには、私は或る夜、一人臥していますと、夜半に枕上に神様が現われて、
「私は、虫生庄に鎮座する豊宇気姫神です。吾が庄には、小さな川がありますが、毎年大雨が降りますとすぐに激流と変わり、沿岸をこわし、住民に溺死する者ができ、之を見るたびに、私の胸は悲しみに痛んでなりません。私の側に、水の霊神を祀って下さい。」
との、お告げがありました。
 私は、始めは怪しんでとりあいませんでしたが、三夜続けて枕上に立たれましたので、恐れて此の村に来て見ますと、地形が神の仰せと少しも違うところがありませんので、お知らせしますと云うことです。
 村の人々は之を聞いて、「神慮の有難さには疑う余地もありません。」と云って神勅に従い、瀬織津姫神と速秋[ママ]津姫神の二神を、豊宇気姫神の社に合祀することにしました。
 伊智女は、一七日の潔斎をして、うやうやしくお祭りを執行致しました。
 それより社号を、瀬成神社と改めました。瀬成とは、瀬(水の浅い流れ)が無くなるの意で、水が氾濫せず、以後村内に溺死者を出すようなことはなくなりました。〔後略〕

 以上の神社縁起は『添田町誌』にも収録されていて、瀬成神社の定説縁起といってよいかとおもいます。縁起内容の解釈についてはさまざまに可能でしょうが、彦山の「神秘」の神でもあった瀬織津姫神の祭祀を中心にみますと、この神は、宣化天皇の時代(五三六~五三九)に勧請され、その性格は「水の霊神」であったと抽出できます。豊宇気姫神と速開(秋)津姫神との関係についてはここでふれませんが、瀬織津姫神を「水の霊神」と見立てた縁起の作者の認識には敬意を表したくおもいます。
 また、瀬成神社は、「中元寺はおろか、筑豊一円に広く、農耕、牛馬の神として、尊敬されたお宮」とのことで、この「牛馬の神」の「馬」と関係深い河童伝説もここにはあります。参道入口には、「瀬成リ河童ノ詫証文」と題された民譚碑が建てられていて、これも読ませます。

瀬成リ河童ノ詫証文
 ムカシ昔、中元寺ノ村ガ虫生ノ里ト言ワレテイタ頃ノコトデス。瀬成様ノ前ノ中元寺川ニ河童ガ住ンデイマシタ。
 アル日ノ夕方、河童ガ「今夜ハ大雨ガ降ッテ大事ガ起ルカラ早ク山ノ側ニ逃ゲテオクレ」ト民家ヲ一軒一軒マワッテイイマシタ。
 河童ノ言ッタヨウニソノ晩、大雨ガ降ッテ川ノ水ガハンランシテ中元寺ノ里ハ水ニツカッテシマイマシタガ、河童ノ知ラセデ村人ハ一人モ災難ニアイマセンデシタ。コノ事ヲ聞イタ瀬成様ハ河童ヲ大ソウホメテヤリマシタ。
 マタ、村ノ人カラモ可愛ガラレマシタ。
 トコロガダンダン思イアガッテ、田畑ヲ荒シタリ、子供ヲ川ニ引キズリコンダリシテイタヅラ好キニナッテシマイマシタ。コノコトヲ聞イタ瀬成様ハ大ソウ怒ッテ、キビシク叱リツケマシタ。河童ハコノ一言ガコタエタラシク石ノ詫ビ証文ヲ書イテ瀬成様ニ奉納シテ許サレマシタ。ソレ以後ハ子ドモノ水難事故ナドナクナッタト伝エラレテイマス。
 参道ニ向ッテ右側ニアタルコノ地ニ証文ノ石ガ「ハゼノ木」ノ根元ニ巻キコマレタヨウニナッテ残ッテイマス。神幸ニハ氏子タチガココニ立チ寄ッテ詫ビ証文ノ石ニオ祓ヲシテ瀬成様ニ奉納相撲ヲスルコトガ習ラワシトナッテイマス。(適宜句読点を補足)

 洪水の危険を村人に知らせた河童は「瀬成様」にほめられ、また村人から感謝されて少し思い上がったようで、今度は村の迷惑者になったところを「瀬成様」にきつく叱られ、ついに詫び証文を書くことになったようです。先の鎮座譚といい、この河童譚といい、『遠野物語』に収録されていてもまったく異和感のない話ですが、ここには、河童の後悔の心中を見事に表現した河童像があり、中元寺地区の人々のユーモアのセンスが光っています(郷土資料提供:添田町役場、写真:白龍)。

厨川の柵、炎上【下】──奥州安倍氏の滅亡から伝説へ

更新日:2009/12/16(水) 午前 9:22



 実任の父・宗任が投降し、伯父・貞任が戦死した前九年の役の最終戦である厨川の柵の戦いの実態をうかがうには、京の地で書かれた作者不詳の『陸奥話記』を参考にするしかありません。これは官軍側の立場、つまり勝者側の視点で書かれた軍記文学といってよく、安倍氏側からもし書かれる機会があったとすれば、まったく異なった内容・表現になったはずだろうことをおもった上で、厨川の柵の戦いの場面を読んでみます。
『陸奥話記』が記す厨川の柵の戦いの場面は、おそらく三つの小場面に分けることができるようにおもいます。最初は、安倍氏側の優勢を描き、次に柵の攻略に行き詰まった官軍の将軍・源頼義の秘策とその功、そして、柵の陥落による斬首・投降の記録です。
 まずは第一段落ともいうべき、安倍氏陣営の優勢を描いた部分──(原文は優れた漢文で、以下の読下し文の引用は、梶原正昭校注『陸奥話記』現代思潮社版による)。

(康平五年九月)十四日、厨川の柵に向ふ。十五日酉[とり]の尅[こく]に到着、厨川・嫗戸[うばど]の二柵を圍む。相去ること七八町許[ばか]りなり。陣を結び翼を張りて、終夜之を守る。件の柵、西北は大澤、二面は川を阻[へだ]つ。河の岸三丈有余、壁立[へきりつ]途[みち]無し。其の内に柵を築きて、自ら固うす。柵の上に樓櫓[ろうろ]を構へて、鋭卒[えいそつ]之に居る。河と柵との間、亦た隍[みぞ]を掘る。隍の底に倒[さかさま]に刃を地上に立て、鐵を蒔く。また遠き者は弩[いしゆみ]を発して之を射、近き者は石を投げて之を打つ。適[たまたま]柵の下に到れば、沸湯[ふつたう]を建[た]てゝ之を沃[そそ]ぎ、利刃[りじん]を振ひて之を殺す。官軍到着の時、樓上の兵官軍を招きて曰く、「戦ひ来れ」と。雑女[ざうじよ]数十人樓に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪[にく]む。十六日の卯[う]の時より攻め戦ふこと、終日通夜。積弩乱発[せきどらんぱつ]し、矢石[しせき]雨の如し。城中固く守りて之を抜かれず。官軍死する者数百人。

 厨川の柵の西北には大きな沢があり、「二面は川を阻[へだ]つ」とあります。厨川は雫石川の古名といわれ、西から流れくる雫石川と北からの北上川との合流部の高台につくられた、まさに自然地形を活かした難攻不落の要害が厨川の柵だったようです。しかも柵と川の間には堀(隍[みぞ])をつくり、その底には刀を逆さに立てて渡ることができないようにしていて、攻撃する側の官軍は難儀し、甚大な被害をこうむったことが描かれています。
 攻めあぐんだ官軍の将軍(源頼義)は、秘策をおもいつきます。

十七日未[ひつじ]の時、将軍士卒に命じて曰く、「各村落に入り、屋舎を壊[こぼ]ち運び之を城の隍[みぞ]に填[み]てよ。又人毎[ひとごと]に萱草[かやくさ]を苅り、之を河岸に積め」と。是に於て壊[こぼ]ち運び苅り積むこと、須臾[すゆ]にして山の如し。将軍馬より下り、遙かに皇城を拝し誓つて言く、「昔、漢の徳未だ衰へず。飛泉[ひせん]忽ち校尉が節に応ず。今、天威惟[こ]れ新[あらた]なり。大風老臣が忠を助くべし。伏して乞ふ八幡三所、風を出し火を吹きて彼の柵を焼くことを」と。則ち自ら火を犯し、「神火」と称して之を投ぐ。是の時鳩あり、軍陣の上に翔[かけ]る。将軍再拝す。暴風忽ち起り、煙焔[えんえん]飛ぶが如し。是より先に官軍の射る所の矢、柵面樓頭に立つこと猶ほ蓑毛[みののけ]の如し。飛焔[ひえん]風に随つて矢の羽に着く。樓櫓・屋舎一時に火起る。

 源頼義は、柵陥落の策が功を奏するように、「遙かに皇城を拝し誓つて」自らの忠臣ぶりを訴え、そして「八幡三所」の加護を祈ると、その願いが聞き入れられた象徴として、八幡神の神使いとされる「鳩」が軍陣の上を翔たと表現されています。厨川の柵は、頼義の祈願に応えた八幡神の「神火」によって炎上したと書かれるわけですが、ここには、養老四年(七二〇)に起こった隼人の乱を鎮圧するために、その鎮圧の加護に加担した八幡神と同じ姿があります。
『八幡宇佐宮御託宣集』は「石清水記に云く」として、「凡そ垂迹の後、託宣せしめ給ふ事は、只朝廷を守り扶け奉るべき事よりの外、更に一事無し」と、八幡大菩薩(八幡大神)の朝廷守護を絶対使命として生きようとする性格を記していましたが、かつての「朝敵」隼人が、ここでは奥州安倍氏ということになります。
 厨川の柵の炎上に伴う城内の阿鼻叫喚の描写は、まさに「文学」の表現というしかありませんが、『陸奥話記』は、頼義が、自らを裏切って安倍方についた藤原経清(藤原清衡の父)には憎悪を込めて、苦痛を長引かせるためでしょう、わざわざ「鈍刀」による斬首刑に処したとし、貞任の最期については、次のように描写しています。

貞任は、剣を抜きて官軍を斬る。官軍鉾[ほこ]を以て之を刺す。大楯に載せて、六人して之を将軍の前に舁[か]く。其の長[たけ]六尺有余、腰の囲[まはり]七尺四寸、容貌魁偉[ようぼうかいゐ]にして、皮膚は肥白[ひはく]なり。将軍罪を責む。貞任一面して死す。

 この戦争は、安倍氏側からすれば、頼義側から仕掛けられた受け身の戦で、『陸奥話記』の作者もそれはわかっていたのでしょう。頼義将軍が官軍に逆らった「罪を責」めると、貞任は「一面して死す」と書かれています。貞任の無念がよく伝わってくる表現というべきでしょう。なお、『陸奥話記』がいかにも軍記「文学」だなとおもわせるのは、この貞任の死につづく場面描写かもしれません。

又弟重任を斬る。〔字は北浦六郎。〕但し宗任は自ら深泥[しんでい]に投じ、迯[に]げ脱[のが]れて已[すで]に了[をは]んぬ。貞任が子の童[わらは]、年十三歳。名づけて千世[ちよ]童子と曰ふ。容貌美麗なり。甲[よろひ]を被[き]柵の外に出でて能く戦ふ。驍勇[げうゆう]祖の風あり。将軍哀憐[あいれん]して之を宥[ゆる]さんと欲す。武則(清原武則)進みて曰く、「将軍小義を思ひて巨害を忘るゝことなかれ」と。将軍頷き、遂に之を斬る〔貞任は年卅四にして死去す。〕城中の美女数十人、皆綾羅[りようら]を衣[き]、悉く金翠[きんすい]を粧[よそほ]ふ。烟[けぶり]に交つて悲泣[ひきふ]す。之を出して各[おのおの]軍士に賜ふ。但し柵破るゝの時、則任が妻[め]独り三歳の男を抱き、夫に語つて言ふ、「君将[まさ]に歿せんとす。妾[せふ]独り生くることを得ず。請ふ、君の前に先づ死なん」と。則ち乍[たちまち]に児を抱きて自ら深淵に投じて死す。烈女と謂ひつべし。其の後幾[いくばく]もあらず、貞任が伯父安倍為元〔字は赤村介。〕・貞任が弟家任帰降す。又数日を経て、宗任等九人帰降す。

 貞任の十三歳の子「千世童子」は「容貌美麗」ではあったが、その勇猛さには「祖の風」がある、つまり、この少年戦士には、安倍氏の祖から受け継がれた威風が備わっていたとされるも、後の憂いの種を絶つためについに斬ったとされます。また、先に「雑女[ざうじよ]数十人樓に登りて歌を唱ふ。将軍之を悪[にく]む」と書かれていた「雑女」は、柵の陥落後は「城中の美女数十人、皆綾羅[りようら]を衣[き]、悉く金翠[きんすい]を粧[よそほ]ふ。烟[けぶり]に交つて悲泣[ひきふ]す。之を出して各[おのおの]軍士に賜ふ」と書かれ、この「美女」たちと対比するように、則任の妻の貞操を死守した「烈女」ぶりが讃嘆されています。
 これらは、読む者の涙腺と好奇の感性に訴える通俗性をうまく表現していて、『陸奥話記』が「史記」ではなく「話記」と題される所以でもありましょう。安倍氏の悲運が、のちにいかようにも情的に伝説化される可能性の種子をすでに孕んでいるのが『陸奥話記』です。しかし、本書が史記の面も捨象していないのは、たとえば「国解[こくげ]に曰く」として、国司から太政官あるいは所管の中央省庁へ上奏される公文書を引用していることにみえます。厨川の柵の陥落から三ヶ月後にあたる十二月十七日の「国解」には、安倍氏側の死者および降伏者の報告がなされたようです。

同(康平五年)十二月十七日の国解[こくげ]に曰く、「斬獲の賊徒、安倍貞任・同じき重任・藤原経清・散位平孝忠・藤原重久・散位物部維正・藤原経光・同じき正綱・同じき正元なり。帰降の者、安倍宗任・弟家任・則任〔出家して帰降す。〕・散位安倍為元・金為行・同じき則行・同じき経永・藤原業近・同じき頼久・同じき遠久等なり。此の外、貞任の家族は遺類有ることなし。但正任一人は未だ出で来らず」と云々。

 十二月十七日時点では行方知れずであった安倍正任でしたが、「後に宗任帰降の由を聞きて、又出で来り了[おは]んぬ」と書かれています。『陸奥話記』は、ほかに頼時の弟・良昭も行方知れずとするも、彼は出羽国で捕虜となったと補記しています。伯父の関係を除く貞任の兄弟にみられる降伏者は、宗任・家任・則任・正任の四人となりますが、宗任の子についての記述(公的記録)はないようで、あるいは「帰降の者~等なり」の「等」に含まれているのか、これは確定的にはいいづらいところです。ただ、頼義の憎悪を一身に受けて斬首された藤原経清の子(のちの清衡)は、この厨川の柵の戦いのときは九歳で、この経清の子らしき名も「国解」は記していないことを付記しておきます。
 実任が厨川の柵の顛末を実体験的に心に焼きつけたかどうかはわかりませんが、一歩引いても、父・宗任からの体験を耳にして追体験していたことはありえましょう。『陸奥話記』は、源頼義の朝廷への忠義思想と八幡信仰については記すも、安倍氏側の信仰については一言の記述もしていません。軍記という性格上、敗者側の信仰にまで言及しないのは当然なことではありますが、しかし、ただの敗者ではなく「朝敵」「賊徒」と規定された敗者側にとって、その後もなお生きてゆかねばならぬ者にとっては、信仰は自身をよりつよく支えるものとなってゆくはずと考えます。宗任も実任も出家した伝承をもっていて、この出家の深因・遠因としては、奥州における安倍一族・一党の凄惨な死別・離散があっただろうことは、想像しうるのではないでしょうか。

写真:松島湾の夜明け(「西行戻しの松」から撮影)

厨川の柵、炎上【上】──鳥屋山の安倍伝説

更新日:2009/12/16(水) 午前 9:01



 福岡県甘木市(現:朝倉市)佐田の伝説では、「源頼義との戦いに敗れた安倍貞任はこの地に落ちのび、鳥屋山に城を築き追っ手を迎え討ったと伝えられている」とされます(甘木市教育委員会による千人塚の案内)。
 前九年の役で戦死したはずの貞任が当地にまで落ちのびてきて籠城したと語られる鳥屋[とや]山(六四五メートル、写真1)ですが、甘木市観光協会による現地の案内板(写真2)は、鳥屋山は都野山とも表記し、「山紫水明の霊峰として、ひろく世に知られている鳥屋山は、中腹に古い歴史を秘めた都高院[とこういん]という庵があって、幾多の伝説があります」と前置きしたあと、この都高院(写真3・4)について、次のように由緒説明をしています。

 奥州衣川の戦い(康平五年=約九〇〇年前)に敗れて討死した安倍貞任の弟宗任は、八幡太郎義家に助命されて九州に逃れ、当時権勢を誇っていた英彦山を頼り、この地に安住を求めて庵を結び、先祖の霊を祀りました。それが都高院の起源であります。

 安倍貞任の「討死」は「衣川の戦い」のあとの厨川[くりやがわ]の柵の戦いのときで、また、安倍宗任の時代、「英彦山」は彦山と表記していましたが、そういった小さな「異」の指摘よりも、ここでは貞任伝説が語られることなく、それが宗任伝説に置き換わって語られているのがなにごとかでしょう。宗任は、この鳥屋山に「安住を求めて庵を結び、先祖の霊を祀」ったとされます。鳥屋山(都野山)の都高院には宗任の先祖供養のおもいが込められているようです。
 林正夫『高木の史跡と伝説』(私家版)には、「都野山都高院」に関する文書が収録されています。そのなかに、明治期初頭、鳥屋山(都野山)が官有となり、その払い下げと復興に関する「木版刷」の一文があります。文は、当山の「奥ノ院ハ熊群山大権現ヲ祭リ衆庶尊敬シ、霊験著シキコトハ多言ヲ要セス」とし、都高院の由緒について、次のように記しています。

 孝元天皇ノ王子太彦王ノ末裔安倍頼時ノ二男[ママ]鳥海ノ三郎宗任、人皇七十代後冷泉院ノ御宇康平五年(八百九十年前歴史上貞任奥州にて斬られたる年)九州豊後ノ国ヘ遠流セラレ其ノ末子ニ安倍三郎実任ナルモノ当山ニ来リ塁ヲ設ケ一名ヲ舞靍カ城ト唱ヘ南ニ男滝女滝アリ、男滝ハ実任入山ノ時始メテ手ヲ洗ヒ夫レヨリ御手洗ノ滝ト名ツケ一名ヲ白糸ノ滝ト云フ。今ニソノ下流ヲ御手洗谷ト言ヘリ、祖先同山ニ都高院ヲ建テ大師ヲ祭リ祈念ノ僧侶ヲ長ク居住セシメ霊験アラタナリシモ〔後略〕

 安倍氏の系図伝承の一つに、その祖を「孝元天皇ノ王子太彦王」とするものがあることは認めますが、その是非はおくとして、鳥屋山(都野山)には、貞任伝説に宗任伝説が重なり、その上に、宗任の子・実任の伝説が重層してあるようです。この伝説の「重層」は、「錯綜」ともいいかえられましょうが、ただ一点、確実にいえるのは、この鳥屋山が安倍氏ゆかりの霊峰であるということでしょうか。伝説は、歴史時間が下るほど「史実」の色合いを濃くすることになりますから、その先端に立っているのは、安倍実任ということになります。
 引用の都高院由緒で特に目をひくのは、やはり「男滝ハ実任入山ノ時始メテ手ヲ洗ヒ夫レヨリ御手洗ノ滝ト名ツケ一名ヲ白糸ノ滝ト云フ」という箇所です。ここには「御手洗ノ滝」「白糸ノ滝」の神(滝神)の名が明記されているわけではありませんが、京都・下鴨神社の御手洗社(井上社)の祭神が、また富士山西麓の、その名も「白糸ノ滝」の神をまつる熊野神社の祭神が、ともに瀬織津姫神というのは示唆すること大きいとおもいます。
『高木の史跡と伝説』は、都高院礼拝所台帳記載の「由緒沿革」の一文も載せていて、そこには、先の由緒と同じく、鳥屋山の「奥の院は熊群山大権現」とし、「実任入山の時(手を)洗い身を清め観世音を祭り夫れより御手洗の滝と名づけ」云々とあります。実任が御手洗神(御手洗滝神)に観世音(観音)を重ねていたことは興味深いといえます。鳥屋山の現在の「御手洗の滝」(白糸の滝・男滝、写真5)は水量少なく、残念ながら滝の情感はあまりありませんが、滝壺の前には不動尊を中心に多くの地蔵尊がまつられ(写真12)、さながら、この滝をみなで護っているかのようにもみえます。また、滝近くの不動堂(写真6~9)とは別に観音堂がありますが、こちらの主尊は十一面観音で(写真10・11)、これも示唆すること大きいといえます。
 奥州における安倍氏の信仰の要に早池峰の霊峰があるとみますと、この早池峰大神こと瀬織津姫神は、神仏習合時代、十一面観音と習合していましたし、早池峰信仰圏の滝々においては不動尊と習合するも、複数の滝神祭祀に、この神の名は今に伝えられています。
 ところで、鳥屋山の「奥の院」は「熊群山大権現」をまつるとされます。先にみた「安倍貞任先祖及筑紫軍記」には、実任は「当所に霊宮を建造しけり、熊群り居りたるより熊群山と称し松島大明神と崇め奉り」云々との記載がありましたから、鳥屋山の「奥の院」には、安倍氏の氏神とされる「松島大明神」が「熊群山大権現」の名でまつられていることになります。
 先の明治期の由緒文では、宗任は「九州豊後ノ国ヘ遠流」と書かれていましたが、鳥屋山奥の院の「熊群山大権現」にみられる熊群山は、この「豊後ノ国」の山です。そこにも実任伝承があり、彼は、豊後では「熊群山大権現」を彦山大権現とし、鳥屋山においては松島大明神として「熊群山大権現」をまつりなおしたようです。明神称号や権現称号で語られて一見紛らわしいですが、豊前国では彦山の地主神(北山殿にまつられる豊比咩命)は宇佐八幡の比売大神と同体とされ(広渡正利『英彦山信仰史の研究』文献出版)、としますと、彦山神(豊比咩命)は松島明神(の姫神)と異神ではありませんから、実任の二つの「熊群山大権現」の祭祀は、けっして矛盾するものでないばかりでなく、相当の認識が、これら二つの祭祀の背後にはあるとみられます。
 安倍氏本宗の信仰を内に抱えて九州の地に配流されてきた宗任、その信仰を直系的に継承したのが宗任の子・実任としますと、実任の信仰には、松島明神・早池峰大神への信仰が一本のぶれない軸としてあっただろうことが想定されます。
 安川浄生『安倍宗任』は、宗任が奥州から伊予国へ、そして九州へと配流されたとき、三人の男子を連れてきたという仮説を立てています。安川氏は、その一子である三男・季任[すえとう]がのちに実任を名乗り、肥前国松浦から豊後国へと移動したという仮説も立てています。実任が幼少のとき、奥州安倍氏の滅亡を自分の眼で目撃していたとしますと、伯父・貞任の厨川[くりやがわ]の柵の戦いにおける戦死のさまなどは終生忘れることはなかっただろうとおもわれます。
 実任が奥州で生まれたとしますと、藤原経清[つねきよ]の子(のちの藤原清衡)とは、幼いながらも戦乱体験の時間を共有していたことになります。実任や清衡たち少年の心に、父たちの最後の戦い(厨川の柵の戦い)はどのように映じたのか──、それをわずかでも想像するには、この戦いを描いた根本文献(『陸奥話記』)を読んでみる必要がありそうです(郷土資料・写真:白龍)。
(つづく)