ホツマツタヱ(秀真伝)と中宮・瀬織津姫

更新日:2010/3/31(水) 午前 1:55

▼並祭社殿(朝熊神社・同御前神社)


 読者から非公開の質問を二ついただきました。一部個別に返答したことではありますが、ほかにも同じか近い疑問を抱いている方もいそうな気がしましたので、公開のかたちで少し書いておこうとおもいます。
 まずは質問内容から──。

質問一、瀬織津姫様は神格のとても高い神様、風琳堂主人はどうおもっているのか?
質問二、ホツマツタヱだけが瀬織津姫を肯定的に描いている、その理由は何か?

 いずれの回答も瀬織津姫神についての関連書にはくっきりと書かれていないことで、また、相互に関連する問いでもありますので、これらは考えてみる価値がありそうです。
 質問一については、瀬織津姫神の「神格」の高さが認められるとして、では、それは何によってそういいうるのかということがまずあるようにおもいます。
 平成二十五年(二〇一三)は、伊勢神宮の第六十二回めの式年遷宮の年にあたります。現在は東に建つ内宮正殿ですが、この年には西の古殿地(空地)へ「遷宮」します。正殿背後の荒祭宮は現在、西に建立されていて、こちらは、東の宮地(現在の空地)へ「遷宮」することになります。平成二十五年の遷宮後の両宮の関係は、荒祭宮の前に正殿がつくられた最初に近いかたちが再現されることになります。
 荒祭宮と正殿が東西交互に遷宮するというのは変則にみえます。これに関しては、 山崎闇斎[あんさい]の『中臣風水草』(中臣祓に対する研究の集大成の書)中に「私記曰」として、次のような、きわめて重要な伝承・記録を載せています(『大祓詞註釈大成』上巻、内外書籍、所収)。

元ハ荒祭宮一所ニ並坐ス。東多賀宮。西荒祭宮。此ノ故ニ今ニ至リテモ、荒祭東西遷宮ハ本宮遷座ノ例ニ違ヘリ也。

 荒祭宮は西に、多賀宮は東に「一所ニ並坐」していたのが、本宮(正殿)ができる前の姿でした。参拝者がどれほど意識しているかどうかはわかりませんが、本宮(正殿)を拝むことは、背後の荒祭宮を拝むことと同じだということになります。そういった信仰ラインが、よりはっきりとわかるのが平成二十五年といえます。
 荒祭宮あるいは神宮祭祀と瀬織津姫神を無縁とみなす言説、つまり、瀬織津姫神はあくまで祓戸四神の一柱にすぎないという論調は現在でもみられます。(藤原享和「『延喜式』巻第八「六月晦大祓」の祝詞に見える祓戸四神について」、岡田精司編『古代祭祀の歴史と文学』塙書房、所収)。
 伊勢神宮から直接その分霊を勧請したとする山口大神宮(旧社号:高嶺神社)は、荒祭宮祭神を「天照大御神荒魂・瀬織津姫命」としていて、瀬織津姫神が神宮祭祀と無縁とする主張は成り立たないことを雄弁に告げています。また、神宮祭祀と無縁の祓戸神だとするならば、識者は、瀬織津姫神の各地における祭祀消去の理由を明確に説明する必要があります。
 皇祖神を拝むことは「天照大御神荒魂・瀬織津姫命」を拝むことと同じだというのが、この神の「神格」の高さを示唆しています。しかし、こういった「神格」の高さで瀬織津姫という神をみるのは、この神を新たな「聖域」に封じることにもなりかねません。ここからわたしの瀬織津姫イメージの話となりますが、わたしは、「神格」の高さ云々よりも、この神が「水祖神」とも称されるように、「水」と深く関わっていることを重視しています。また、和泉式部が熊野詣でのときに熊野大神を仮装して詠んだ歌に、この神の魅力はよく表れています(『風雅和歌集』所収)。

もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりは何かくるしき

 この歌は、「月のさはり」で熊野詣でをためらった和泉式部に、自分(熊野神)は「もとよりもちりにまじはる神」(もともと俗世・庶民と交わって生きている神)であり、「月のさはり」(不浄の観念)など気にせずにどうぞお参りにいらっしゃいという意味です。俗世・庶民と等身大の場を生きて、なおピュアであるのは、この神が水の霊性を内に秘めているからだとおもえます。瀬織津姫神は、皇祖神のように高みの聖域に封じられると、おそらくその魅力は半減されます。また、この聖域思想は、大は天皇制発生の温床でもありますが、これは排除の思想を伴っていて、小は村八分・イジメの発想とも地続きといえます。自覚せずにいると、つい排除側を演じてしまうこともあり、あらゆる聖域思想・思惑と一線を画して自らを保つのは案外大変なことかもしれません。それはともかく、俗を生き、しかし俗を超えるピュアの魅力をもっている「ちりにまじはる神」というのが、わたしの瀬織津姫神に対する基本イメージです。
 さて、質問二については、ホツマツタヱ(秀真伝)一書のみが、ほかの諸書にみられる貶称、つまり、瀬織津姫神を天照大神荒魂や八十枉津日神(八十禍津日神)とみなす貶称規定を無視していて、しかも、この神を天照大神の正后・中宮とする仮構をしていたのはたしかに特異です。なぜホツマの作者は、讃辞の意を込めて、このように瀬織津姫神を描くことができたのでしょう。
 これは難問にちがいないのですが、「自分はこう考える」という、おおよその道筋だけは書いておこうとおもいます。
 昨年の夏、遠野の知人・千葉富三さんが『甦る古代 日本の誕生』(文芸社)という全一二二七ページという分厚い本を出版しました。そのサブタイトルは「ホツマツタヱ──大和言葉で歌う建国叙事詩」と付され、第一部には秀真伝の対訳が収められています。訳文は千葉氏のそれを使わせてもらいます。
 ホツマツタヱ(秀真伝)の序は「秀真伝を述ぶ 大直根子[おおたたねこ]」と題され、序には大直根子が景行天皇に本書を捧げたことが書かれています。大直根子は、崇神天皇紀に、祟りをなす神の三輪山・大物主大神をまつることになる「大田田根子」と同一人物とおもわれますが、この大直根子(大田田根子)がホツマの奉呈者兼「人の巻」の作者(と仮構されていること)はやはり大きなヒントのようにおもえます。
 せっかくですから、天照大神が瀬織津姫を正后にする場面を読んでみます(第六章)。

宮仕え その中一人
素直なる 瀬織津姫の
雅[みやび]には 君(天照大神)も階段[きざはし]
踏み下りて 天離る日に
向津姫 終に入れます
中宮[うちみや]に

 ここは、宮中に数ある妃がいるにもかかわらず、天照大神が瀬織津姫の素直とあまりの雅さに感動・一目惚れして中宮に入れる場面です。かつて、瀬織津姫神を祓戸神とし、一方で禍津日神とみなす否定的な文献ばかりを目にすることがつづいていて多少ウンザリしていたときに、ホツマのこの場面を読んだときはおもわず喝采したことを思い出します。ホツマの作者、やるじゃないかというおもいだったようです。
 秀真伝を「偽書」とみなすかどうかはまったく問題ではありません。偽書をどう定義するかという問題はありますが、直観的にいうなら、瀬織津姫神にとって『日本書紀』こそ最高かつ陰険な偽書ですから、問題の本質は、そこにどれだけ「真」に迫る伝承が内在・記載されているかどうかで、書の外部からの検証に耐えられた部分が真書的伝承となります。
 ホツマは、天照大神と瀬織津姫を対偶関係のもとに物語化していて、また、瀬織津姫を「向津姫」とも称していて、これは書紀いうところの撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]の「向津媛」と重なります。
『新撰姓氏録』河内神別地祗の条に「宗形君 大国主命六世孫阿田片隅命之後也」、また右京神別下地祗の条には「宗形朝臣 大神[おほみわ]朝臣同祖。阿田片隅命之後也」とあります。宗形君・宗形朝臣と大神朝臣は「阿田片隅命」を共通の祖とする同族というのが系図上からいえます。大和国神別の条では「大神朝臣 素佐能雄命六世孫、大国主命之後也」とも書かれますが、興味深いのは『先代旧事本紀』地神本紀の系図です(系図は『宗像神社史』下巻から孫引き)。

素戔嗚命──大己貴神(大国主神)──都味歯八重事代主神──天日方奇日方命──健飯勝命──健甕尻命──豊御気主命──大御気主命──阿田賀田須命(胸肩君祖)

 阿田賀田須命は阿田片隅命のことですが、旧事紀は、この阿田賀田須命の兄弟に「健飯賀田須命」がいるとし、その子に「大田田禰古命」の名を記しています。つまり、ホツマの奉呈者(オオタタネコ)は、胸肩君と同族だという系譜になります。
 パソコンの機能制約から、男系の系譜のみを記しましたが、旧事紀は、大己貴神(大国主神)には配偶関係の二柱神がいたとしています。一神は田心姫命で、この神との間には味耜高彦根神が生まれ、もう一神は高津姫神で、この神との間の子を都味歯八重事代主神としています。オオタタネコは事代主神の系譜上にありますから、オオタタネコからみますと、その母系祖神は高津姫神ということになります。
 田心姫命はいうまでもなく宗像三女神(アマテラスとスサノオの「誓約三女神」)の一神ですが、では高津姫神はどういう「神」なのでしょう。
 旧事紀は、「先(に)宗像の奥都嶋に坐す神田心姫[たこりひめ]命(多紀理毘売命と同神…引用者)を娶りて一男一女を生む」とするも、「次に辺都宮に坐す高津姫神を娶りて一男一女を生む」と書いています。この「一男一女」の一男は「都味歯八重事代主[つみはやへことしろぬし]神」、そして、その妹神(一女)は「高照光姫大神[たかてるひめおほかみ]命」というのが、旧事紀の記載ですが、「辺都宮に坐す高津姫神」は「宗像三神の内の湍津姫命の別名」とされます(大野七三『先代旧事本紀』脚注)。
 神統譜一般はあまり真に受けるわけにいかないのですが、オオタタネコの母系祖神に高津姫神がいて、この神が湍津姫命と同神というのは、やはり立ち止まらざるをえません。なぜなら、この湍津姫命は三女神の一神でありながら、大分県の八津島神社の由緒が示すように、三女神の根本神でもあり、さらにいえば、滋賀県の長澤神社や和歌山県の熊野本宮などが伝えるように、湍津姫命と瀬織津姫神は同神関係にあるとみられるからです。
 ホツマの奉呈者兼作者(オオタタネコ)は、自らの母系祖神を、天照大神(男系日神)の正后・中宮として物語化するなかで、諸書の貶称をすべて反転させて大いに称揚したということがいえそうです。オオタタネコは、あるいは、オオタタネコを仮装した作者もまたオオタタネコにつながるはずで、自らの母系祖神を肯定的に描く切実な動機があったものとおもいます。
 持統天皇六年(六九二)、女帝の謎の伊勢行幸を「職を賭して重ねて諫め」た重臣にオオタタネコの末孫「中納言大貮三輪朝臣高市麻呂[たけちまろ]」がいます。その二年前の四年(六九〇)は、持統が天皇に即位した年で、この年、神宮(正殿)の第一回遷宮が行われています。持統女帝は、新たな神宮の姿が気になっていたとも想像されますが、新神宮が誕生するというのは、背後の荒祭宮・多賀宮(高宮)の祭祀が改竄されたということを意味してもいますから、そのことと関連しての三輪朝臣高市麻呂の「諫め」だった可能性があります。オオタタネコにつながる三輪氏の末裔が、ホツマの真の作者だろうというのが私見です。
 いずれにしても、秀真伝一書のみが、既成の神道世界に一矢報いるように、オオタタネコの母系祖神でもある高津姫神(湍津姫)=瀬織津姫神を断固肯定的に描いていたことは事実です。本書に、これまでの貶称にまみれた瀬織津姫観を反転させる先駆的栄誉をみることは、やはり動かないとおもいます。

「cut」と印された小河天神──神明社小河天神社合殿

更新日:2010/3/27(土) 午前 1:52

 愛知県安城市小川町志茂に「神明社小河天神社合殿」という不思議な社名の神社があります。どちらかを主神にすれば、一方は合祀・配祀のかたちとなり、社名は一つとなりますが、この「合殿」というのは、神明社と小河天神社のいずれにも優劣を設けない、あくまで対等とみなしての祭祀のようです。







 平成四年(一九九二)に成る『愛知県神社名鑑』(愛知県神社庁)は、同社祭神を「天照大御神・小河天神」とし、その由緒を次のように書いています。

 社伝に、この地小川郷と称して第二十六代継体天皇の皇子菟王の後裔、小川真人が住居せられしにより郷名となる。第三十三代孝徳天皇の大化年中(六四五─五〇)小川郷に悪疫流行し百姓多く患うをもって小川氏長、その氏人小川龍威の占事により、天照大神と祖の菟王を祀る。菟王は三河国内神名帳の従五位上の小河天神是れなり。〔後略〕

 創祀は「孝徳天皇の大化年中(六四五─五〇)」とあり、かなりの古社のようです。その祭祀動機は、当時、小川郷に悪疫が流行し、これを鎮めるためでしょう、小川龍威が神占(占事)をして天照大神と菟王をまつったとのことです。なお、「菟王は三河国内神名帳の従五位上の小河天神是れなり」とあります。
 この名鑑の記載によれば、神明社祭神は「天照大御神」、小河天神社祭神は「継体天皇の皇子菟王」ということになります。由緒は、大化時代に天照大御神と菟王をまつったと記すも、平安期に成る「三河国内神名帳」には「小河天神」と記されるのみで、この由緒の文面には整合感がなく、小さな棘のような疑問が残ります。さらにいえば、大化時代にこだわるならばですが、このときの天照大神は皇祖神・アマテラスという女神ではなく、まだ男系の日神(アマテル)とみられますので、その祭祀背景には少し複雑な事情もあることが想像されます。
 満州事変が起こる昭和六年(一九三一)、愛知県教育史料編纂部は、県下の小学校(教員)を使って地域の神社調べをさせています。名目は「神社に関する調査」というものですが、同調査による由緒欄をみますと、戦後の名鑑と同内容の記載となっています。それはそれで一応一貫した由緒にも受け取れます。しかし、ここから少しきな臭い話になりますが、この調査のチェックマン(愛知県教育史料編纂部担当者)の手によるものでしょう、小河天神社の上になぜか「cut」という鉛筆メモが残っています。





 この「調査」の五年後の昭和十一年(一九三六)、愛知県神職会によって『愛知県神社要覧』がつくられます。「調査」は、これをつくる基礎資料となったものと考えられます。新たな要覧における社名は「調査」と同じく「神明社小河天神社合殿」、祭神欄には、「天照大神、誉田別尊、天津児屋根命」となっています。たしかに「小河天神」の名が「cut」されていることがわかります。
 小川町郷土史刊行会『小川の歴史をさぐる』(平成十年)によれば、明治四十三年五月に「当村(小川村)字山中八幡宮誉田別命を合祀」(昭和二十二年五月十九日に復社)とあり、ほかに合祀社の記録はありませんから、昭和六年に「cut」された小河天神は、昭和十一年には「天津児屋根命」の名で表記されたことがわかります。
 それにしても、「小河天神」は、なぜ「cut」(削除)の対象とされたのでしょう?
 昭和六年に「神社に関する調査」を命じたのは愛知県教育史料編纂部でしたが、それに応えて実際に記入したのは、おそらくは各社の神職だったでしょう。掛け持ち社は別として、一社一社の記載が、それぞれ筆跡が異なっていますから、そう想像するわけですが、当時の神職は自社祭神・由緒等を、それなりに正直に記したものとおもわれます。
 神明社小河天神社合殿は、昭和六年当時の社格は「郷社」でしたが、小川地区には「村社」格の小河天神社がもう一社ありました。「調査」は社名を「天神社」とし、神社所在地の欄に「桜井村大字小川字天神一番」とあるのがそれです。天神社ならば、菅原道真をまつると考えがちですが、ここはそうではなく、「天照大御神」一柱の表記です。しかも、神名の下には、「三河水穂抄ニ小河天神瀬織津姫命トアリ」と括弧付きで注記されています。その後、この天神社からは「小河天神瀬織津姫命」の名は消されて現在に至りますが、ここは、天神社神職の「正直」が表れたところといえましょう。



 一般感覚からしますと、天神・天満神(天満大自在天神)をつい菅原道真と決めつけてみがちですが、これは、牛頭天王との習合神を当然のごとくにスサノオとみてしまうのとよく似ていて、ちょっと立ち止まって考えてみることを、小河天神は教えてくれているのかもしれません。
 この天神・天満神の関連でみますと、小川地区ではありませんが、桜井村大字村高に、天神社がもう一社あり、こちらの祭神欄には「菅原道真・瀬織津姫命」と書かれています。ただし、境内の石碑案内によれば、「瀬織津姫命」は楠森社の神で、明治四十三年(一九一〇)に合祀されたとのことです。菅原道真と瀬織津姫は、その怒りの発現が雷神の姿をとることが共通していて、ほかにも一緒にまつられる例が散見されます。





 このほか、六ツ美村の八幡社は神亀二年(七二五)八月十四日の勧請を掲げる古社で、祭神欄には「応神天皇・玉柱屋姫命」と書かれています。『六ツ美村史』(大正十五年=一九二六年)は、神亀二年にまつったのは玉柱屋姫命で、その後八幡大神を相殿にまつり「正八幡宮」と称したと説明しています。村史は、玉柱屋姫命は「此一柱(明治の)明細帳記載漏」とし、ここに復活表記したことを明らかにし、また「志摩国一之宮伊雑神社之祭神也」とする『神祗宝典』の一文ほかを紹介してもいます。八幡大神(応神天皇)に配する八幡比咩神に玉柱屋姫命の名をあえて表示していたとしますと、これは奇しくも、なかなかの主張にみえます。



 また、碧海郡の「調査」報告で興味深いのは、橋井村の諏訪社は創立不詳とされるも、祭神欄にはタケミナカタなどの一般的な諏訪神が登場することなく、「饒速日命」一柱とあることです。諏訪地方には物部守屋の所領地がありましたから、記紀神話から自由な眼でみるなら、これはありうる祭神表示だといえます。



 小河天神は、三河国の大河・矢作[やはぎ]川流域にまつられています。この川の流域は、ほかに天白神を瀬織津姫命としてまつる社が複数みられ、謎とされる天白神を考えるときに大きなヒントを与えてくれています。天白神は伊勢から東に多くまつられますが、それを瀬織津姫命と主張し、また変更することなく通してきた三河の信仰風土には侮れないものがあります。
 ところで、明治新政府は「維新」時、全国に神社書き上げを命じ、それを元に多くの祭神・由緒変更をした上で「神社明細帳」をつくりました。明治維新から数えれば六〇年以上たった昭和六年時点ですが、こういった興味深い「調査」記録をみますと、その祭神等の変更について、愛知県に限ればということかもしれませんが、まだ徹底したものではなかったことが浮かびあがってきます。
 昭和六年の「調査」は、さらなる徹底化を図るために、祭神・由緒の提出を各神社に命じたものだろうことは、上記「小河天神瀬織津姫命」の「その後」をみれば明白です。小河天神を本来の瀬織津姫命にもどしてみますと、この神は天照[アマテル]大神と「合殿」、つまり、一つ屋根の社殿に同居していることになります。そのように想像しますと、わたしなどは微笑ましい印象をもちますが、一方、そういった天照大神との親近関係をもっとも忌避する神宮思想が主勢力であるとき、小河天神が本来の神の名のままにまつられるのは、やはり不可能に近いことだったのでしょう。
 戦前に一度消えた小河天神でしたが、戦後は一見復活したかにみえます(「天津児屋根命」の名はあっけなく消えます)。『小川の歴史をさぐる』は、神明社小河天神社合殿の氏子諸氏による著作ともいえますが、同書の本文記載では一貫して社名を「小河神社」としています。戦後、祭神に小河天神の名を復活させたのは、それだけ地元に親しまれた名だったということがあります。しかし、神社庁編纂の現由緒では、小河天神を「継体天皇の皇子菟王」とみなす主張を定着させたがっているようです。『小川の歴史をさぐる』記載の創祀経緯も読んでみます。

 七世紀の大化年中、小川郷間に悪疫が流行し住民の多くが病気で苦しんで困っていたとき、小川氏長、その氏人小川龍威の占事により、天照大神とともに祖兎王[うさぎのおやみこと]を奉祀した。菟王は三河国内神名帳所蔵[ママ]の従五位上小河天神のことをいう。〔中略〕
 神明社として加美の集落内に創建、鎮座されたが、人家に接して神域を汚すおそれがでてきたので、江戸時代の初期に現在地に遷座された。その遺跡を今でも古宮と呼んでいる。

 これを読みますと、小河天神社は(も)「神明社として加美の集落内に創建、鎮座された」と読めます。同書は社の概歴の最初に、維新前の社号を「神明社」としていて、明治九年(一八七六)に、現社号に改称したとしています。小河天神は、神明社から分離・独立したときの祭神だったようです。
『小川の歴史をさぐる』(平成十年)は『愛知県神社名鑑』(平成四年)のあとにつくられていて、当然、名鑑の由緒記述を視野に入れて編纂されたはずです。名鑑が菟王を「継体天皇の皇子」としていたことに、『さぐる』がまったくふれていないことに注意がいきます。いや、そればかりでなく、「天照大神とともに祖兎王[うさぎのおやみこと]を奉祀した」と、名鑑の菟王解釈をやんわりと訂正さえしています。「うさぎのおやみこと」は月神(月の女神)のことだろうと直感した読者はかなり鋭いです。なお、『さぐる』は、小河天神を瀬織津姫命とする説(「三河水穂抄」の説)があったことも書き忘れてはいません。
 名鑑は神社庁の編纂によるもので、ある意味、公的な由緒・祭神を刻印するといった性格を帯びています。名鑑の類は各県ごとにつくられていますが、そこには、氏子の思いと大きく離反する由緒・祭神が平然と載せられている場合もあります。これは、神社本庁を頂点・中心とする「神社神道」がもつ、伊勢神宮を「本宗」と仰ぐ思想の反映といえます。『小川の歴史をさぐる』は、氏子の側から小さな抵抗の一文を刻んだものと読めます。
 北は北海道苫小牧市の樽前山神社においては、明治期初頭、あろうことか「明治天皇の勅命」の名によって消された「瀬織津姫命」の例もあります。この神の側に立って日本の神道世界・歴史をみますと、そこには、可愛げの一欠片[ひとかけら]もない思想が千年(以上)前とほとんど変わらずにあるようです。昭和初期の小河天神「cut」問題も同根の思想によるものというべきですが、わたしが許容しがたい、あるいは醜悪[グロテスク]だなとおもうのは、この旧態の思想が、神道世界・神社世界においては一切内省(自己反省)されることなく、戦後現在にまで延命してきていることです。
「神」を身近に感じ、信じ、日々の友とする、心の支えとするという人間の心の自然な有り様を、不断に歪めてきた日本の神祇思想は、まったくもって罪底深いといわざるをえません。既成の神まつり(神社世界)に「信」を置けないとするのはありうる感情で、そこで歴史感情よりも信仰感情を優先させるならば、これは、いわゆる新興宗教の母胎的土壌ともなります。
 だれもが多かれ少なかれ抱くであろう「信仰」の心を歪めてきた歴史の上に成り立っているとするなら、それがどんな「天壌無窮」の聖域であろうとも、砂上の楼閣、海上の蜃気楼以外ではありません。この聖域は遠い将来、自然消滅・自己消滅するのは必然でしょうが、瀬織津姫という神が「水祖神」(福岡県・釜屋神社)、「海上一切之水君」(青森県・御前神社)であるかぎり、この神のほうがはるかに長命だろうことはまちがいないでしょう。

真清田神社の三明神

更新日:2010/3/22(月) 午前 10:01



 尾張国一ノ宮・真清田[ますみだ]神社(愛知県一宮市真清田)は天火明命をまつる、尾張氏ゆかりの社というのが一般的な認識だとおもいます。「真清田神社御由緒」という無料案内には、「御創祀神武天皇三十三年」とうたっていて、こういった表示が意味することは、垂仁時代に創祀されたとされる伊勢神宮よりも真清田神社のほうが古く、由緒があることを暗に主張していると理解できます。
 同案内の境内図をみると、本殿の真裏らしきところに三明[さんみょう]神社という「本宮荒魂」をまつる社があります。神職の談によると、内宮・荒祭宮に準ずる神とのことです。女神さんですねと念をおすように尋ねるとにっこり顔で「そうです」とのことです。熱田神宮の禁足地には「天照大神荒魂」をまつる一之御前神社が秘祭され、尾張氏は、天火明命のほかに、神宮祭祀枢要の神を秘かにまつることに共通性があるようです。
 この三明神社の写真撮影を願いでると「どうぞ」とのことで、門の鍵をあけ、敷地内へ案内していただきました。小さな社殿ですが、たしかに本殿真裏に、とても大切にまつられています。



 田中卓監修『真清田神社史』(平成六年)から、三明神社の関連記事を拾ってみます。
 近世初頭の真清田神社境内社に「祓除殿社」があります。同社の説明は、「楼門内側の西方に東面する。祓殿神の瀬織津姫・速秋津彦・速秋津姫・速佐須良比売[ママ]・本宮荒魂の五柱を祀る。古くは八十八末社の一つ」という記述が眼にとまります。
 三明神(本宮荒魂)は瀬織津姫たちと並んで「祓殿神」とみなされていたようです。また、「三月三日の桃花祭の祭礼車もこの社(祓除殿社)の前にて祓殿囃を行ふ慣例であつた。大正元年十月二十二日に愛鷹社に合祀した」と書かれ、桃花祭という真清田神社の最重要な祭礼時には「祓殿囃を行ふ」というように、真清田神から厚い礼を尽くされるのが「祓除殿社」であったことがわかります。
 佐分清円『真清探桃集』(享保十八年〔一七三三〕)に記載とのことですが、ここには三明神社は「三明神宮」、真清田神社の「第一別宮」とされ(現在は摂社)、別格祭祀がなされていたことがわかります。『真清田神社史』の記述を読んでみます。

三明神宮(第一別宮)
 当社は別名、「印珠宮」「三明印珠宮」とも称され、三種の印珠を秘蔵することに由来するといふ。四所別宮の中で最も重視されて別宮の第一とされた。祭神は本宮の荒魂であり、古来、神官林三之権が担当した(『真清探桃集』巻二)。三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた。
 室町時代の『真清田神社古絵図』によれば、この社は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物であるといふ。この社殿も享徳四年(康生元年、一四五五)の火災によつて焼失したらしい。江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御になつてをり、いつしか本宮の中に御正体が祀られるに至つたらしい。『古代建物調書指出』(明治十八年八月)によれば、「三明神又ハ印珠宮ト云。地蔵寺第四世成海法印、本宮之内陣ニ遷座ス。永享八十一月沙門成海ト書付置。」とあり、その遷座は永享八年(一四三六)十一月に地蔵寺の成海法印によつて執り行はれたものと推測される。この三明神の遷座が地蔵寺の僧侶によつて行はれたことは、同社が地蔵寺・般若院の管理下にあつたとも解せられるもので、注意する必要があらう。江戸時代には拝殿の西側で北より三番目に祀られ、独立した社殿を有してゐたが、大正元年に末社犬飼社に合祀されるに至つた。由緒のある当社は平成五年三月に再建された。

 祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀には変遷があったことがよく伝わってきます。しかし、真清田本宮神(天火明命)と同格祭祀がなされていたことは、「三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた」、「江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」という記述によく表れています。
 桃花祭は、真清田神が当地にまつられたのが三月三日であるとされ、真清田神社の最重要な例大祭とされます(現在は四月三日)。三月三日という桃の節句は、「人々は三月三日に桃の木で身を祓ひ、それを川(木曽川)に流してゐた」とされるように、その初源は祓いの神事で、真清田神・三明神がいかに「祓い」と縁故深い神であるかがわかります。
 真清田神社の神仏混淆時代、同社境内には二つの神宮寺(東神宮寺・西神宮寺)がありました。東神宮寺は真清田神社「本宮」に対応するも、本尊は東西神宮寺とも阿弥陀如来、脇に地蔵尊と観音を配していたとされます。室町時代の社殿配置、つまり「この社(三明神社)は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物」とされる『真清田神社古絵図』の記録は貴重です。また、地蔵寺の存在が示唆していますが、三明神の本地仏は阿弥陀如来でもあったものの、どうやら地蔵尊ともみなされていたと考えられます。
『真清田神社史』は、「なほ三明神と称される社が当社の近くの丹羽郡・中島郡等に集中して分布してゐることとの関係は十分注意する必要があらう」とも付記しています。
 三明神に関する短い説明のなかに「注意する必要があらう」という文言が二つみられます。『社史』は「注意」の具体的内容を詳細に語りませんが、丹羽郡・中島郡等への集中分布に関する「注意」は、祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀ではあるものの、当地域(丹羽郡・中島郡等)において、むしろ真清田本宮神よりも広く(深く)信仰されていたことを示すことへの注意喚起と読めます。『尾張国神名帳』には、「正一位」の神階をもつのは真清田大明神・大縣大明神・三明神大明神・熱田皇太神宮・八剱明神の五神とあります。この「三明神大明神」は尾張国二之宮・大縣神社の別宮とされる三明神のことですが、いずれにしても、真清田神や熱田神と並ぶ正一位という極位の神階にあったのが三明神でした。
 もう一つの「注意」は、神仏混淆に関するものとみられます。『真清田神社史』も指摘していることですが、当社の神仏混淆は平安時代初期、天台宗によってはじまります。これは、境内に天台宗ゆかりの「常行堂」があったことに端的に表れています。天台宗における「祓殿神」の本地仏について、比叡山「回峰手文」(村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』所収)に「祓戸神本地弁才天或地蔵或釈迦」とあり、神仏混淆の天台宗的方法が真清田神社の三明神(祓殿神)の本地仏・地蔵尊に反映していることがわかります。室町期にまとめられた『神道集』にも「尾張国一宮、真清田大明神是也。本地々蔵也」とあり、三明神こそが「真清田大明神」であった可能性もあるようです。
 真清田神とはなにかという問いもあらためて喚起されるところです。『真清田神社史』によれば、真清田神を天火明命(天照国照火明命)とするのは明治以降のことで、その前はというと「ほぼ中世に大己貴命、ほぼ近世には国常立尊とする説が強かつた」とされます。『社史』は、『諸社根元記』所引の『諸国一宮神名帳』には「伊射波神社 号真清田大明神、大己貴命也俗国玉ノ社ト云ハ是也 尾張国中嶋郡」とあり、神宮文庫所蔵の『大日本国一宮記』には「伊射波神社 真清田大明神此也、大己貴命 志摩国答志郡」と、これも貴重な記録を再録しています。
 内宮別宮・伊雑宮の「伊雑[いぞう/いざわ]」は「伊佐波」「伊射波」からきたもので、志摩国一ノ宮・伊射波神社(鳥羽市安楽島町字加布良古)は伊雑宮の元社とみられます。伊射波神社の主祭神は、多紀理比売、配祀神は多岐津姫、狭依姫、つまりスサノオとアマテラスの「誓約三女神」がここにまつられています。加布良古[かぶらこ]崎に鎮座するこの伊射波神は、志摩大明神、加布良古さんと、地元の海の民に今でも親しく呼ばれています。江戸期に伊雑宮の祭神として伊射波登美命の名がみられますが、伊射波神=伊雑神がもともと宗像神でもあったことをよく伝えているのが伊射波神社です。









 この伊射波神=伊雑神と真清田神が同神とみられていたというのは、示唆することあまりに大きいといえます。
 伊雑宮と関わりある「祓殿神」ならば、これは祓戸三女神化される前の瀬織津姫神とみるしかありません。その「祓殿神」が「真清田大明神」と呼称されていることはとても重要です。真清田神社において、本宮神(天火明命)と三明神(本宮荒魂神)は、東西神宮寺の存在や「本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」とあったように、一対の関係祭祀がなされていました。これは、伊雑宮や神宮の基層祭祀の姿でもありました。
 室町時代後半期に成立したとされる『真清田神社縁起』の「一年中神事記」には、六月と十二月に「千度祓」(中臣祓を千度くりかえし唱える)という大祓の重神事が記されています。近世の真清田神は国常立尊、中世は大己貴命とされるも、その前については「平安時代初期の承和十四年(八四七)までは、真清田神社についての確かな史料は皆無」とのことで、神社側の文書記録に具体的な祭神名は確認できません。しかし、社に継続・伝統化された神事・祭礼や本地垂迹の関係をみるかぎり、真清田神の性格が「祓神」とみなされていたことだけは色濃く伝えられています。
 古縁起(『真清田神社縁起』)には、文武天皇時代に義淵が勅命によって来社・祈祷をし、桓武天皇時代には同じく勅命による最澄の来社があり、そして嵯峨天皇時代には空海がやってきて雨乞い祈祷をし「霊雨」を降らせたことが記録されています。
 文武天皇(持統太上天皇)時代に祭神の曖昧化がすでにはじまっていたことも考えられますが、より決定的なのは、平安期初頭、天台宗の関係者(最澄に象徴される)が真清田神社へ下向して、おそらく勅命の名のもとに真清田大神(の女神)を、いかにも仏教的神名である「三名神」という「祓殿神」と呼称したことでしょうか。以後、三名神は社内で流浪的に変遷祭祀がなされるも、現在は、天火明命(本殿)背後の最重要な場所に復興祭祀がなされているといえそうです。

籠守勝手神社と末社・熊野社

更新日:2010/3/21(日) 午前 1:54

 肥前国一之宮・河上(與止日女)神社は、祭神を與止日女神とし、この神について、『佐賀縣神社誌要』は、「一宮記に曰く」として、「八幡叔母神功皇后の妹なり」と紹介しています。與止日女神はほかに、淀姫、世田姫、與止姫、豊姫など、多くの表記がなされます。この肥前国一之宮から分霊を勧請したのが和歌山県田辺市上秋津鎮座の川上神社ですが、しかし、同社には、本社で「八幡叔母神功皇后の妹」とされる與止日女神ほかの名はなく、主祭神は「瀬織津比売神」とされ、とても大事にまつられています(ブログ・和歌山県「川上神社と肥前国一之宮」)。
 本社と分社での祭神のくいちがいはときどきみられることで、多くは分社の祭祀が、本社におけるのちの祭神変更の実態を照らしだすといったことになります。佐賀と和歌山という遠隔地の祭祀は、これをよく示すといってよいでしょう。
 愛知県一宮市木曽川町黒田に鎮座するのが籠守勝手神社ですが、ここは、佐賀と和歌山の例を念頭においてみますと、とても不思議な祭神構成といえます。『木曽川町史』の神社紹介の書き出し部分は、次のようになっています。

籠守勝手神社
所在地 木曽川町大字黒田字往還東ノ切一一番地
祭 神 瀬織津比咩命、淀比咩命
社 域 約九〇三五平方メートル



 佐賀と和歌山で生き別れた神の祭祀が、ここでは独立した二柱神として同居しています。境内石碑「天皇陛下御在位六十年記念 籠守勝手神社特殊神事御由緒」は、「淀比咩命」について、次のように説明しています(適宜句読点を補足して引用)。



景雲祭  十月二十日
 御祭神の淀比咩命(神功皇后の妹)が三韓出兵で大功を立てられた事によって、称徳天皇は景雲年間の十月二十日に官幣を奉られました。
 以来、神輿に淀比咩様をお迎えしてお籠守様から熊野社へ渡御せられる様になった神事で、厄男が奉仕し、厄祓いと五穀の豊饒を祈念して祭が斉行せられます。

 ここでも「神功皇后の妹」とされていますが、しかし、「淀比咩様」がなぜここにまつられたのか、その祭祀経緯は、この説明では理解できませんし、景雲祭と称して「淀比咩様」が「熊野社へ渡御」するというのも説明不足で唐突の感が否めません。
 ましてや、町史が明記している一方の祭神「瀬織津比咩命」については、この「天皇陛下御在位六十年記念」の石碑はまったくふれていません。石碑は、祭神との関連を示すことなく「稲籾祭」という特殊神事も紹介しています。

稲籾祭  旧暦三月上丁日
 此の日、稲籾・鮮魚・食塩を供え、其の稲籾を氏子一同に分け与え、其の歳の種子として各戸苗代田に蒔き豊饒を祈念する祭でした。

 稲籾祭は、「瀬織津比咩命、淀比咩命」のどちらの神ゆかりの神事だったのでしょう。
 町史は、長文の「籠守勝手神社由緒碑文」を活字化して収録しています。「天皇陛下御在位六十年記念」の石碑の文面よりははるかに詳しく、資料的価値もありますので、少し長いですが、全文を紹介します(明らかな誤植等は修正し、読みやすさを考慮して適宜句読点を付し、段落分けをして引用)。

籠守勝手神社由緒碑文
尾張国上門間ノ荘松枝ノ郷黒田ノ里ハ、往昔木曽川下流ノ幾条トナキ流域ニ介在シ、降雨ノ都度濁水氾濫ノ為、田園ヲ流出シ、曽テ五穀ノ豊穰ヲ見ス。毎年ノ雨期、里人ハ此処彼処ニ蹲リ旦彷徨シ、施ス可キ術ヲ知ラサリキ。
皇極二癸卯年三月上丁ノ日、始メテ瀬織津比咩命淀比咩命ノ御神札ヲ行フ。爾後、里人ノ尊信次第ニ加ハリ、終ニ神霊ノ冥護ニ依リテ、積年ノ水害モ漸ク免ルルヲ得タリ。今其神徳ヲ温ヌレハ、瀬織津比咩命ハ世ノ中ノ罪穢ヲ清メ凶事ヲ除キ去リ給フ神ナリ。淀比咩命ハ豊姫豊比咩命又ノ名淀姫又王妃命トモ謂フ。神功皇后ノ御妹ナリ。三韓征伐ノ時、干珠満珠ノ両顆ヲ得、皇后ニ奉リテ異国ノ凶徒ヲ海中ニ覆没セシメ大功ヲ立テ給フ。
四十八代称徳天皇景雲年間及五十九代宇多天皇寛平年間ノ両度、官幣ヲ奉ラレシカハ、爾来景雲祭ト称シ、現在ニ臻ル神礼ヲ執行シツツアリ。
六十二代村上天皇ハ、天暦五年春、洛中其外大疫病流行シ蒼生ノ悲惨極リナク宸襟ヲ悩マシ給ヒテ勅使ヲ遣シ、病気平癒ヲ御祈念マシマセリ。斯クテ御裔胄ニアラセラルル。久我雅定卿ヲ始メ御代々御崇敬厚ク、候爵従一位久我建通卿ハ、籠守勝手神社ト彫鏤ノ額面、及猶常通卿ニハ先々代建通卿御所用ノ立櫻直衣ヲ御寄進アリ。
天正十年三月黒田城主澤井左衛門尉雄重、深ク当神社ヲ御崇敬セラレ、本殿ヲ再建シ武運長久ヲ祈願セラレタリ。
尾張国式社考書ニ黒田神社坐門間荘黒田村北宿松枝郷黒田ハ久呂太ト訓ムヘシ地ノ名ナリ、国帳元亀本ニ正四位黒田ノ天神、民部省図帳ニ尾張葉栗郡黒田明神神田三十五束外以海鮮食塩為横貢。皇極二年三月初行神札、神霊淀比咩命瀬織津比咩命二座也。久我家相続以使祭之三月上丁ノ日ト有リ。愛知県神社明細帳ニ延喜式神名帳所戴黒田神社也ト、又張洲府誌尾張誌等ニモ黒田明神ハ籠守勝手神社也ト見ユ。此社往古ヨリ裡語籠守勝手大明神ト申伝フ。尾張名所図絵ニ黒田神社黒田村ニ在リ当所ノ生土神ニシテ延喜神名式ニ葉栗郡黒田神社、本国帳ニ従三位黒田天神ト記セリ。例祭九月九日、国内神名帳明治神社誌料葉栗郡紀要ノ諸書ニ記載セラル。
大泊瀬幼武ハ、市邊押磐皇子ヲ誘ヒ、興ニ猟シ是ヲ射殺ス。皇子ニ二子有リ、億計弘計ト謂フ。二皇子ハ危害ヲ懼レ、丹波ヨリ尾張一宮真清田神社ヘ遁レ給ハントテ、其途路当神社ノ鬱蒼タル森林中ニ畏クモ御籠檻ノ儘御寝息坐シマセリ。因ニ後世ニ至リテ黒田山黒田明神ヲ籠守勝手大明神ト尊称サレタリ。
明治五年壬申五月、愛知県下第四大区十二小区九ケ村郷社ニ制定セラレ、翌六年十月二十七日、郷社制定奉祝祭執行ニ付、黒田村内割田村外割田村玉ノ井村三ツ法寺村里小牧村北方村中島村曽根村ノ各村ヨリ神楽餅投ケ相撲ノ余興ヲ奉納セリ。爾来氏子崇敬者ノ信仰弥高ニ弥広ニ、日夜改善ニ腐心シ社殿モ宏壮ニ祭文殿廻廊拝殿神橋鳥居埒門社務所神馬舎斎館神庫等ヲ新築シ、神苑ヲ拡張シ、神域ノ壮厳ヲ加ヘ、又神社財産ノ増加ヲ企画充実セシメ、今日ニ臻レリ。
昭和五年九月九日建之;                  公爵久我常通 書

 大泊瀬幼武(のちの雄略天皇)からの難を逃れて真清田神社を頼ってやってきたとされる億計王(のちの仁賢天皇)・弘計王(のちの顕宗天皇)の伝承は実に興味深いですが、ここではおくとして、神の創祀経緯に関わる部分を要約しますと、当初、この黒田の地は木曽川のいくつもの流れが入り込んでいて洪水が絶えず、人々は田を失うことがつづき苦しんでいた。そこで、皇極天皇二癸卯年(六四三)三月上丁ノ日(稲籾祭と同日です)に、「瀬織津比咩命淀比咩命」をまつり、その後、「神霊ノ冥護」のおかげで、「積年ノ水害」もなくなったということに尽きるようです。
 つづく両神の説明「瀬織津比咩命ハ世ノ中ノ罪穢ヲ清メ凶事ヲ除キ去リ給フ神ナリ。淀比咩命ハ豊姫豊比咩命又ノ名淀姫又王妃命トモ謂フ。神功皇后ノ御妹ナリ。三韓征伐ノ時、干珠満珠ノ両顆ヲ得、皇后ニ奉リテ異国ノ凶徒ヲ海中ニ覆没セシメ大功ヲ立テ給フ」は、神道世界の一般常識を述べたものといえます。
 当初は洪水鎮護の神徳が切望されるも、村上天皇の時代には全国的に疫病が蔓延し、その「病気平癒」を祈念して勅使が派遣された記録もあるようです。
 瀬織津比咩命と淀比咩命は異神ではありません。にもかかわらず、こういった二神表示がなされているのはなぜか──、これはやはり知りたいとおもい、籠守勝手神社に詳しいといわれる前氏子総代さんに尋ねてみましたが、どうも古記録がなくはっきりしないようです。ただ断定はできないものの、奈良県吉野の子守神社(吉野水分神社)・勝手神社(吉野山口神社)の水神を勧請したのだろうとのことで、これはありうる話におもえました。
 籠守勝手神社の祭礼時、熊野社へ神幸があるというのも、吉野との関連があるのかもしれません。町史記載の熊野神社の説明も引用します。

熊野神社
所在地 木曽川町大字黒田字錦里二四番地
祭 神 伊奘諾尊、伊弉冉尊
社 域 約一二五平方メートル
 大宝元年(七〇一)、紀州熊野本殿に願望を持って勧請したものと伝えられている。
 籠守勝手神社の末社となって、当社のお旅所ともなっている。
「お熊さん」の名で人々に敬称され、西小路の産土神として信仰され、氏子全員が輪番で神域を掃き清め、美しい神域を保っている。
 昭和四九年一二月、石垣、玉造を修理し、一層立派になり、毎年一月五日には例祭が催される。家内安全、商売繁昌、病気平癒等々祈りを捧げる人々が多い。



 この熊野神社は大宝元年(七〇一)の勧請とのことです。小さな神域ではありますが、たしかに掃き清められていて、ここは氏子の皆さんに大切にされていることがすぐにわかります。
 養老二年(七一八)には、瀬織津姫神は熊野本宮神として東北・エミシの地へと勧請された伝承もあり(宮城県気仙沼市唐桑町・瀬織津姫神社)、また、勧請時期は不明であるものの、祭神として「瀬織津姫命」を今に伝える熊野神社もあります(静岡県富士宮市上井出鎮座)。大宝元年時点をいえば、あるいは、祭神の「伊奘諾尊、伊弉冉尊」は後世の変更表示の可能性もありそうです。籠守勝手神社と神幸関係があるのは、その祭神の類縁性によるものとも想像されます。

奥州安倍氏と鬼神【下】──安倍実任の信仰

更新日:2009/12/31(木) 午前 4:25



 山田宇吉氏は、龍岸寺の命名譚ゆかりの龍女を、貞任・宗任の母とされる「新羅の前」と重ねているようです。山田氏は、「新羅の前は辰の年辰の月辰の刻の生れで、幼名を龍の乙女と言つた」という興味深い伝承を紹介し、さらに、この龍女ともなる「新羅の前」を「鬼神」とみなす所説を展開しています。

 又た龍雲寺の山の上に、鬼神と云ふ小祠がある、是れは古昔は矢張り龍雲寺(龍岸寺…引用者)の監督に帰したもので、宗任が其母の亡後に建[たて]たのであるが、それを村人が鬼神と称へたのであつた。

 龍女は宗任の母(「新羅の前」)と習合し、それが「鬼神」と呼ばれていたようです。しかし、話がここで終わらないのが日本の神まつりで、山田氏の首を傾げさせることにもなります。氏曰く、「昔からこゝに祠があつたゝめに、無下に取除くこともならざりしにや、明治十二年頃旧位置よりは、やゝ山麓の方へ移して、祭神を大己貴神としてある」、「サテ大己貴神が何んで鬼神であるか、チト請取りにくい」と、もっともな疑問の吐露となります。
 鬼神社は山麓へ降ろされるも単独祭祀ではなく、天満社(向かって右)と並祭祭祀となっています(写真1~9)。ただし、天満社の扁額に対応するはずの鬼神社のそれは「大己貴命」とあり、「鬼神社」の社名自体が忌まれているようです。それはともかく、鬼神社の旧跡地には、かつての祭祀を秘かに伝えるように、しかも、東面する小さな石祠がまつられています(写真10)。この「東面」にはやはり意味があるものとおもいます。
 鬼神を大己貴神とするというのは明治期以降のことのようですが、『安倍宗任と緒方惟栄』は、いつの時代の人物か不明であるものの、荷田春満[をだあづまゝろ]の「鬼神の祠に詣でたる長歌」を紹介していて、そのなかには、次のような祭神別伝が詠まれています。

豊国の、みちの後[しり]なるうつ木綿[ゆふ]の、白木の里に暗龗[くらおかみ]、鬼の社と斎[いつか]るゝ、神は何神、言問へど、知る郷人[さとびと]も絶々の、雲間を遠み天さかる、鄙[ひな]の長路[ながじ]の陸奥[みちのく]の、名に負ふ柵[とりで]厨川[くりやがは]、くり僂指[かゞな]へは八百歳[やをとせ]の、昔なりけめ〔後略〕

 厨川の柵の戦いは康平五年(一〇六二)のことで、それから「八百歳」とすれば幕末あたりの歌のようです。大己貴神の前はクラオカミと伝えられていた鬼神でしたが、荷田春満は、この神はどういう神(「何神」)であるかと問うても、郷人はよく知っている人はいなかったと詠んでいます。しかし、荷田は、この鬼神がただの神ではないことを直観していたようで、長歌の返歌として、次の一首を添えています。

  鬼の名に聞き怖[お]ぢ莫[な]為[せ]そすめ国の
     みちはいとこそ神は護[まも]らめ

 歌意は、「鬼の名を聞いても怖がることなかれ、この鬼神は皇国(治国)の道(将来)をよく護りたまえ」とでもなりましょうか。
 山田氏は、「新羅の前の生前、仏門にも心は深かりしも、皇神を敬するの念、更に篤かりしかば、宗任はその志に背かじとて、龍岸寺は神仏習合の天台宗に定めたのであつた」とも書いています。宗任の母が信仰する「皇神」をおもって、また、その母の敬神の「志」に背くことなく、龍岸寺を神仏習合の天台宗の寺と定めたというのは示唆すること深いです。
 たとえ宗任の母が伝説の域にあるとしても、安倍氏の女系が奥州で信仰していたのは、早池峰大神こと瀬織津姫神でしたし、この神こそ「皇神」に相当するとおもわれるからです。クラオカミは谷の龍神・水神の意というのが通説で、この神の祭祀社としては京都・貴船神社がつとに知られます。この龍神を龍女神とみれば、龍岸寺という寺名に直結してくることになります。そもそも貴船神・クラオカミと瀬織津姫神は無縁ではありませんし(ブログ・鹿児島県「隼人の乱と瀬織津姫神【Ⅷ】」)、「龍女」祭祀を彦山祭祀圏内に拾うならば、豊国の大地母神であろう神の明神称号である「豊国玉竜女大明神」とも通じているだろうことも考えられます(千時千一夜№599「彦山信仰と安倍氏」)。
 豊前国の彦山・宇佐八幡の祭祀圏内にありながら、瀬織津姫神の祭祀を孤高ともいえる執念で護ってきたのが中津市の闇無浜神社です。同社に伝わる古縁起「豊日別宮伝記」には、瀬織津姫神が龍女(神)ともなることが明記されています。

瀬織津姫神は、伊奘諾尊日向の小戸の橘の檍原[あはぎはら]に祓除[はらへ]し給ふ時、左の眼[みめ]を洗ふに因りて以て生[あ]れます。日の天子大日孁貴[おほひるめのむち]なり。天下化生[けしやう]の名[みな]を、天照太神の荒魂と曰す。所謂[いはゆる]祓戸神瀬織津比咩神是れなり。中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍[たいしんりゆう]と称し奉るなり。

 瀬織津姫神の尊称異名として「太神龍」の名が語られています。龍岸寺・鬼神社ゆかりの「龍女」、しかも安倍氏本宗の信仰と深く関わる神(氏神)をいうなら、たとえ幕末にその正確な神名が曖昧になっていたとしても、鬼神社の本来の祭神は、この「太神龍」「龍女」と異称される神をおいてほかに想定は不可能とおもわれます。
 白木の地名は、貞任・宗任の母とされる「新羅の前」にちなむ地名だとは山田氏の説ですが、白木にはやはり新羅の意も含まれているのではないでしょうか。前九年の役のとき、宗任たちとともに投降したなかに金為行・同則行・同経永の名がありましたが(『陸奥話記』)、この金氏は新羅系の渡来氏族ともいわれます。百済に親泥する朝廷の支配・祭祀思想からすれば、百済を滅亡させた新羅は累代「鬼」の代名詞みたいなもので、九州の地では磐井の乱にみられるように、古代に「朝敵」とみなされた側がおうおうにして親新羅の傾向にあることは偶然とはいえないでしょう。こういった朝廷の支配・祭祀思想がもっとも恐れ忌避する神として瀬織津姫神こと撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・天照大神荒魂はありましたから、この神が「鬼神」とみなされる道理はじゅうぶん以上にあったといえます。
 白木は、宗任の子・実任が住み、そして貞任の子・千賀麿こと貞言ともゆかりの地で、宗任が没した西の筑前大島とともに東の豊後白木は、奥州安倍氏の末孫たちのセンター的・シンボル的な土地であったようです。
 時代が下り、衰退して廃寺近くになっていた龍岸寺を再興したのも安倍氏、正確には「実任十四世の孫」とされる貞観[じょうかん]でした(山田宇吉、前掲書)。山田氏によれば、貞観は近江国・三井寺(園城寺)での修行を終えると、弘和三年(一三八三)、父・貞次の生国である豊後白木の地にやってきて、「白木龍岸寺の廃虚に住すること十二年目」に、「大守大友親世[ちかよ]に請ひ龍岸寺の改築復興と共に、寺名をも龍雲寺と改め、もとは天台修験宗たりし寺の宗旨を、時代の要求に応じて、臨済宗となした」とされます。しかし、貞観は「鬼神の神社は依然として彦山修験者の儀式に従ひ、習合の本旨を失はず、護国の念呪をすてなかった」とされます。『太宰管内志』は、熊群山東岸寺(東岩寺)について、「熊群山は速見郡隠村にあり天台宗にして彦山の末山なり今も二坊あり」との伝聞を拾っています。実任開基の寺々が、共通して彦山修験の神仏習合思想による性格づけがなされるという特徴を指摘できそうです。これは、逆にいうなら、実任が彦山修験に深く通じていたこと、あるいは彦山修験者の側面をもっていたことを示すものかもしれません。
 安倍氏の信仰の核には、早池峰大神・松島大明神でもある瀬織津姫という神、彦山祭祀においては「神秘」とされる神が深く根を張っています。豊後における宗任伝説で、「新羅の前の生前、仏門にも心は深かりしも、皇神を敬するの念、更に篤かりしかば、宗任はその志に背かじとて、龍岸寺は神仏習合の天台宗に定めたのであつた」とされます。宗任の母の「皇神を敬するの念」に対して、「宗任はその志に背かじ」とあり、この「志」をさらに宗任から継承したのが実任だったといえます。
 安倍実任・貞言の時代、白木の地の前には、現在みる別府湾の茫洋とした海とはまったく別様の光景がありました。目の前の海には、瓜生島(跡部島とも)があったからです。この島は慶長元年(一五九六)の豊後大地震によって全島水没しますが、実任たちが眼前にみていたのは、この瓜生島を中心とした島々でした。『豊陽古事談』所載の「瓜生島図」という古絵図をみますと、島にはたくさんの松が描かれていて、宗任による築城伝説をもつ高崎山(写真14)の麓には瀬織津姫神と縁深い「櫻川」の名もみえます(現在の鳴川)。別府湾に浮かぶ瓜生島の景色は奥州の松島と重なったのではないかと直観しました。
 速見郡大字内河野字潰祓[つぶればらい]には松嶋神社が鎮座していて(写真11~13)、同社の由緒案内には「元亀年中(一五七〇~七二)大友氏の臣で内河野村地頭安倍備後の勧請せし所なり」とあります。安倍備後なる人物の勧請によって松嶋神社の祭祀がはじまったわけですが、大正十四年に成る『速見郡史』には、次のように書かれています。

村社 松島神社
祭神 大山祗命六柱
 社は中山香村内川野に在り。元亀年中奥州安倍氏の族安倍備後、大分郡笠和郷白木より内川野村地頭となりて来るに際し、同地に氏神として鹽竈明神を勧請せり。是れ松島神社にして、祠は寛文八年に至り社殿を造立し、元禄六年修理を加へ、更に寛永四年造替し、享保四年又之に修理を加ふ。

 短い由緒文ですが、ここには、重要な事項がいくつか書かれています。まず「奥州安倍氏の族安倍備後」の故地は「大分郡笠和郷白木」とされることです。先にみたように、安倍貞任の子・貞言の孫・述嗣の伝として、「初めて豊後守護大友能直[よしなお]に仕え、白木において二千貫の食地を与えられた。その後は平穏無事に十八代貞享に及んだ」とありましたから、安倍備後は貞言に連なる出自をもっていたことが想定されます。次に、この白木の地から「内川野村地頭となりて来るに際し、同地に氏神として鹽竈明神を勧請せり」とあり、これは、白木の鬼神は、安倍氏内部の認識では「鹽竈明神」とみなされていたことを想像させます。三つめは、この「鹽竈明神」をまつって、「松島神社」という社号を付したことです。これは、松島明神と鹽竈明神を同体とみなす安倍氏内部の認識があったことを示しています。この松島・鹽竈明神を同体とする安倍氏の認識は、白木の鬼神社のように、現在からは傍証的痕跡を集積して推定するしかありませんけれども、結論的には正確であるといわざるをえません。
 日本の神まつりの表層からはたとえその名が消去されているにしても、安倍氏本宗の信仰意識は自らの「氏神」を忘却することがなかった、その一点の信心によって、日本の神まつりの深層を照射しているといえます。
 貞任の子・貞言の直系にあたる安田幹太氏は、『安倍宗任』の著者・安川浄生氏に、いくつかの所見を開示したことが同書に記載されていますが、そのなかに、「伊予佐田岬と鼻突き合わせる豊後佐賀関に古くから在る神社の世襲宮司は、代々安倍を名乗って(い)る」とあります。この佐賀関の古社とは早吸日女神社のことで、同社に確認をとったところ、世襲宮司ではないが、代々の神職としてたしかに安倍氏がいるとのことです。早吸日女神社の表層祭祀を洗い出してみますと、ここには関大神、つまり豊予海峡(速吸瀬戸)という海峡の女神として、瀬織津姫神、つまり安倍氏の氏神の名がみえてきます(大分県・「関大神社と早吸日女神社」)。
 安倍氏は、筑前大島においては宗像神の祭祀にも仕えていて、安倍氏の「皇神を敬するの念」の「志」は、北部九州の東西を貫いている感さえあります(郷土資料・写真:白龍)。