閑話休題──アイナメと三陸の海

更新日:2010/7/16(金) 午後 8:53



 倉庫事務所を移転する話を書きましたが、これは不動産の整理ということも伴っています。不動産(の売買)世界についてはこれまでまったく関心がなく、いわば未知・無知の世界でしたから、仕方なくにわか勉強をはじめたところです。
 不動産整理についてはともかく、移転先の案は、編集室のある遠野と盛岡の二案があり、知人からいい物件があるとのことで、駆け足でみてきました。
 遠野は勝手知ったる地で、そういう意味では新鮮さは感じませんが、盛岡の物件は駅から歩いて八分、雫石川と北上川の合流部で、近くに前九年町・安倍館町といった名がみられるように、そこは奥州安倍氏最期の地でもあります。ここからは(上階に上がる必要はありますが)、早池峰が遠望できるとのことで、その立地がいいなとおもいました。
 わたしが訪ねたときは天気がわるく、あいにく眺望はかないませんでしたが、ここから早池峰がみえるということは、現在のように街のビルもない、また空気も澄んでいただろう平安時代のことですから、安倍貞任たちの厨川[くりやがわ]柵からも早池峰がくっきりみえていたということになります。
 安倍氏の早池峰信仰についてはときどきふれてきましたが、安倍氏最期の居城から早池峰が実際に視認できていたことを考えますと、その信仰がよりリアルなものに感じられてきます。早池峰山頂に瀬織津姫神たちのほかに「安倍貞任霊神」をまつる由緒書をもつのが大迫[おおはさま]・早池峰神社ですが、厨川柵で非業の死を遂げた貞任の魂魄が向かった先が早池峰であることに、奥州安倍氏の信仰は極まるのかもしれません。早池峰は祖霊の住む山、あるいは祖霊を受容する懐をもつ山でもありました。
 遠野に出版編集室を構えて十八年ほどになりますが、当初は「なぜ遠野に?」と、遠野の知人等からよく質問されたもので、そのときは、三陸の海では大きなアイナメが釣れるからと嘘のような理由を述べてとぼけていました。遠野との因縁・血縁を正直に語ったならばみなすんなり納得したでしょうが、そういう入り方には自分に抵抗があって、あくまで「物好き」、この場合は「釣り好き」で押し通しました。
 もっとも、アイナメを釣るというのは、わたしの釣りの原点でもあり、これはこれで本気で三陸の海に通うということをつづけていました。
 かつて三陸の沿岸各地を釣り歩いていて、やっと自分だけの釣り場をみつけましたが、今回、これを無視して物件見学だけで素通りするのはもったいないとおもっていたのは事実で、車にはちゃんと釣り道具一式を用意していたことはいうまでもありません。
 名古屋の倉庫事務所では、投げ釣りの新たな仕掛けを考えていて、要するに、根掛かりでオモリ等の仕掛けをとられることを完全にクリアできるものはないかと日頃考えていて、その実地実験をしてみたいというおもいもありました。伊勢湾の釣りでは、この実験はほぼパーフェクトに成功するようになっていましたが、三陸の秘密の釣り場は、仕掛けを数個は必ず失うという岩場の激戦区でしたから、自分の考案した仕掛けがここでも通用するならばホンモノだろうというおもいでした。
 結論だけをいえば、いささか「自慢しい」の話ですが、この新仕掛けはホンモノであることを確信しました。数えきれない根掛かりは相変わらずでしたがことごとくクリアしましたから、これはいよいよ特許ものかもしれないなと自信を深めました。この新仕掛けの話を聞いていた親しい知人の案によれば、登録商品名は「根掛かりトレール」、風琳堂の恒常的経営不安定を救う切り札となるだろうと気の早い予言です。
 三陸の秘密の釣り場のポイントは限られていて、沖合70メートルほどの二つの岩の間に仕掛けを放り込むことができれば、根掛かりは多発するも、まずアイナメが釣れてきます。かつて50センチほどのアイナメが釣れてくれたこともありましたが、今回はその半分くらいの大きさが五匹ほどでした。梅雨どきの雨中の釣りでもあり、よく釣れてくれたなとおもいました。
 アイナメは基本的に北の魚ですが、ほぼ全国に棲息しているものの、大きいものはやはり東北(三陸の海)で記録されています(わたしの知るかぎりでは、最大長67センチ)。
 ただし、釣り人が優先的に食する魚種というべきか、あまり一般にはなじみがない魚かもしれません。この魚は人相(魚相?)があまりよくありませんが、白身で美味です。かつてサントリーのCMに「アイナメの煮付けで一杯」というセリフがありましたが、煮付けの前に刺身よし、天麩羅よし、焼いてよし、はたまたムニュエルよしといった万能的食材です。滋養豊かな魚とみなされていた江戸時代、将軍への献上魚でもあったことをどこかで読みましたが、まだ養殖はされていないはずで、天然ものしかないところもいいです。
 朝日新聞の広告による注文対応のこともあり、遠野から盛岡へ60数キロ、そして厨川柵(?)から盛岡インターにはいって配送倉庫の事務所の玄関まで911キロ、計約980キロを一気に走ってきました。愛車は1993年式という年代物ですが、18年目にはいっても、その走りはなお新車然としています。走行距離は地球約5周(約20万キロ)ほどになりますが、このうちの八割くらいは瀬織津姫と円空の探索で走ったはずで、『エミシの国の女神』にしても『円空と瀬織津姫』にしても、この年季のはいった車の御蔭でできたようなものだと考えますと、なかなか新車に変える気にはなれません。
 現在、朝日新聞の広告による反応をみますと、前回に記したとおりといいますか、インターネット世界とは無縁の読者がたしかに圧倒的に多いようです。直接購読の申し入れを受けた方々のなかには、円空あるいは瀬織津姫に一家言・二家言をもっている方も多いことが、電話口からよく伝わってきます。いずれ内容の問い合わせもきそうな気がして、こちらもあわてて本を再読している始末です。

閑話休題──ヤモリ、大物を獲る

更新日:2010/7/9(金) 午前 10:49



 円空そして瀬織津姫という神を「閉ざす」のではなく、「開く」方向へと関心を共有できないものだろうか──。
 ブログ等を含め、インターネットの世界に関わることをつづけていますが、円空にしても瀬織津姫にしても、自分のブログ記事もそうですが、この世界では多くの情報・考察・感想が飛び交っているようです。
 これまで、瀬織津姫祭祀社のいくつかを訪ね、また、氏子総代さんなどとお会いする機会もあるわけですが、そこで気づくのは、出会った人たちの多くがインターネット世界と無縁の生活をしているという事実です。
 高齢者が多いからだろうといえばその通りなのですが、しかし、インターネットや携帯電話がなくても生活は成り立つということ──、このことは忘れてはならないといつも自分に言い聞かせるようにしています。
 わたしの友人などは、ニュース程度はインターネットで知ることができるため、新聞購読をしなくなったということをときどき耳にします。この傾向はこれからなお拡大するだろうとおもいますが、それでも某全国紙などは発行部数900万部超といった数字を挙げていますから、減少傾向にあるとはいえ、それなりの読者の支持を今も得ているとはいえそうです。
 高齢化社会のなかで、インターネット世界に関わっている人口割合がどれくらいかといった統計数字は寡聞にして知りませんが、わたしの周囲の高齢者(70歳以上)の知人を思い浮かべてみると、例外は一割くらいで、ほとんどの人がやはりインターネットの「外」の世界で生きているようです。
 出版は、読者がいてくれてこそ成り立つ世界ですから、ブログやホームページの閲覧者数の多寡は、相対的な目安とはなっても、絶対的な基準となるものではありません。ましてや、テーマがメジャー的ではない出版となれば、その出版情報の着地場としては、まさに仮想空間に情報を放つようなもので、不定感覚はいつでもつきまとうといえます。
 深夜にヤモリの白いお腹を横目にみながら、たとえば上記のようなことを考えています。そんな日の翌日だったのですが、懇意の広告代理店から全国紙への出広(広告を出す)の誘いが舞い込んできて、予算の範囲内でしたから、インターネット世界の「外」に向けて『円空と瀬織津姫』の出版広告を入れることにしました。
 広告原稿を考えていて、やはり円空の歌「文[あや]なれや予[わが]ことなさで滝の宮心の声を神かぞと念[おも]ふ」は紹介したいとおもいました。次に、この歌のあとに、どういったキャッチコピーを入れるかということがきます。狭いスペースに収まるようなコピー文面を考えるということで、にわかコピーライターを演じることになりました。
『円空と瀬織津姫』という本の出版情報と初めて出会った人が、この本に関心を向けてもらうに最適なコピー文を考えるというのは案外容易でなく、深夜にヤモリとの対話をしながら、いくつかの試案をメモしたりしていました。結果──、

文[あや]なれや予[わが]ことなさで滝の宮
      心の声を神かぞと念[おも]ふ(円空)
謎の「水・滝」の精霊神は、伊勢・熊野・白山ほかの大地母神でもあった。
歴史の闇底に息づく、母なる「神」に捧げられた円空の信仰生涯を明かす。

といった文面に落ちついたのですが、「歴史の闇底」は「天皇制の歴史の闇底」とはっきり書くべきところだったかもしれないなとは、掲載当日(本日、朝日新聞東日本版。西日本版は7月13日)の深夜丑三つ時のヤモリとの対話で気づいたことです。
 ヤモリは相変わらず根気よく獲物をねらっていたのですが、わたしが広告文面に冴えない思いをしていたとき、これまでにない大物の蛾が窓にやってきて、ちょっと大きすぎるだろうとみていたら、しかし、ヤモリは窓をあちこち獲物をねらって追いかけています。
 あれよあれよという間のことでしたが、ヤモリは追いかけた末についにパクリと仕留めたものの、逆さに窓にへばりついて呑み込むにはかなわない大きさだったようで、そそくさと、たぶん塒[ねぐら]に、引き上げていきました。それからは姿をみせることはありませんでしたが、ヤモリの果敢さに圧倒された一夜でした。

(追伸)
 この広告を機に、次の新刊『隼人の蜂起と八幡祭祀──八幡比咩神=宗像大神と瀬織津姫神』(仮題)の編集を本格化することにしました。
 今にしておもえば、瀬織津姫神の入門書的性格をもつ『エミシの国の女神』は、初版以来ほぼ十年が経ちます。現在、当初に想定していた読者数をはるかに超えていて、それはそれで経営的にはありがたいのですが、在庫残部が無くなった時点で、所期の役割はすでに終えたものとし増刷はしない(絶版とする)ことにしました。
『エミシの国の女神』がもつ、後世に伝えたい認識や史料提示は『円空と瀬織津姫』が深化・継承しています。この十年にわたる瀬織津姫神への思索的関心・知の蓄積は大きな財産で、新たな世界への展開を試みたいとおもっています。

閑話休題──ヤモリの根気

更新日:2010/6/27(日) 午後 1:30



 別にマスコットというわけではないのですが、晴れた日の日没から夜明けにかけて、倉庫事務所の勝手窓にヤモリがやってきます。昨年も同じで、一緒のヤモリなのかどうか確かめようもありませんが、ひとまわり大きくなったようですので、同じヤモリだろうと決めました。
 事務所の勝手(流し)の前で、深夜から朝方にかけて資料を読んだり、釣り竿の手入れをしたり仕掛けの新案を練ったり、あるいは晩酌しながら、ああでもないこうでもないといったことを考える習慣があるのですが、そのライトが誘蛾灯の役目をしていて、小さな虫たちがやってきます。それを目当てにヤモリもやってきます。
 ヤモリは、窓の上の暗い部分に逆さにへばりついて、昆虫たちをねらっているのですが、捕食はそううまくいかないようで、ときどき失敗します。ヤモリの動きは微妙で、虫を発見すると、そろりそろりと近づいて、窓を走るようにしてとびかかります。つい目撃してしまったのですが、窓を斜め下に一気に駆け下りたとおもったら、なにやらペタッといった音がします。要するに、失敗して窓の下に落ちたらしいのです。
 だいじょうぶかと気になってみていると、十五分くらいするとはい上がってきて、妙に安心した気分にさせられます。ヤモリにも学習能力が備わっているらしく、新たな獲物に対して、今度は、相当に距離を縮めて、自分の口の三倍はあろうかという蛾をパクッと咥えた瞬間を目撃したときは、おおやったなと拍手してしまいました。
 他愛もない話なのですが、ヤモリは深夜のガラス越しの友人となったようで、日没から朝日が照り出すまでの十時間以上、そこにじっとへばりついている「彼」の根気には脱帽です。
 今月25日の未明は、ワールドカップ・サッカーの試合があるということで、世の中がなんとなくざわついていました。潮の状況や天気予報をみると、これが絶好の釣り日和で、しばらくぶりに釣りに出掛けました。たぶん釣り人もサッカー観戦でいないだろうという読みで、朝三時に事務所を出ることにしたのですが、ヤモリは相変わらずガラスにへばりついたままです。灯りを消すには忍びなく、そのままにして出掛けましたが、きっとヤモリのおかげだったのでしょう、たくさんの釣果をいただきました。
 今、倉庫事務所の移転・整理を計画中なのですが、あの深夜の友人にどう説明すべきか、どうもよいことばがみつからないようです。

中観音堂と円空──弁財天と習合する神

更新日:2010/6/23(水) 午後 11:35



 人の多くは血縁・地縁という関係の場で「生」をはじめるわけですが、円空の生誕地(現在の岐阜県羽島市)を考えますと、そこには瀬織津姫という神と出会う機会がすでにあったのではないかという想像が可能なことに気づきます。
 寛文時代、北海道・東北の彫像行脚を終えると、一部足跡の不明な時間もありますが、円空は一旦生誕地にもどって、神明社の隣に観音堂(中[なか]観音堂)を再興します。彼は、北の地で試みた十一面観音の単独像の総決算のような大作像(像高二・二メートル)を、このお堂の本尊にまつっています。
 円空の生誕地は、長良川と木曽川にはさまれていたため、そこは洪水の常襲地帯でもありました。地元の伝承では、円空が幼いときに、彼の母親が洪水で亡くなったと語られます。中観音堂の大作・十一面観音は、亡き母親の鎮魂・供養の思いで彫られたというのは、ほぼ定説化されていますが、長良川を司る白山の神への思いも二重化されていたとは『円空と瀬織津姫』の説です。
 中観音堂の本尊はいうまでもなく、脇に添えられた諸尊・諸像のどれもが丁寧に彫られていて、円空がここをとても大切におもっていたことがよく伝わってきます。



 ところで、本尊に添えられた脇尊には、円空の「こだわり」ともいえる二つの像もみられます。少し長いですが、『円空と瀬織津姫』から引用します。

 円空はその後も何度かここ(中観音堂)を訪れたとみられ、堂内には主尊の十一面観音のほかに、鬼子母神、弁財天、不動尊、阿弥陀如来、胎蔵界大日如来、聖観音、大黒天、南無太子像、稲荷神、金剛神、護法神、そして天照皇太神とみられる謎の男神像などを彫像・奉納していった。
 このなかの男神と弁財天の二座像について、『円空─羽島の円空仏』(円空上人遺跡顕彰会)は、「像の底部の年輪のようすから推測されること」として、「(ヒノキの)根元の部分でつくられた二体の坐像は、いずれも割り面を表にして彫られており、男女の対になっていて興味深い」と指摘している。これまでみてきたところでいえば、不動尊とも弁財天とも十一面観音とも習合する秘神が瀬織津姫神で、この神と「対」の関係をもつ男神が天照皇太神であった。これは、円空の最初期の彫像(郡上市美並町根村・神明社における天照皇太神と阿賀田大権現の一対神の彫像)から一貫した円空の認識であった。
『円空─羽島の円空仏』は「明治二四年の濃尾震災以前は、観音堂は萱ぶきの屋根で三つの間[ま]からなり、今の南向きとはちがって東向きに建っていた」と記録している。また、観音堂の南隣りには、江戸期まで神明社が鎮座していて、これも東面していたとされる(観音堂・加藤氏談)。円空は神明社の北隣りに観音堂を建立したことになり、この謎の男神像は、隣接する神明社の神、つまり「天照皇太神」として彫像されたとみてよかろう。

 現在、新たに建て替えられた観音堂は鉄筋コンクリート製で、横には円空資料館が併設されています。一般の観音堂のイメージからはずいぶんと異なりますが、主尊はじめ円空作の諸像を大切に公開する姿勢が変わることがないのは、訪ねてみればわかります。
 話は円空の時代にさかのぼりますが、中観音堂は当初は「東面」していたこと、これは、同じく「東面」していた神明社の北に隣接されたという指摘がみられます。天子は南面すという思想からいえば、伊勢系の神明社が「東面」していたというのは、引用ではふれられていませんが、ここには南面ではなく東面する神、つまり、天照大神ではなく、その荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)がまつられていたのかもしれません。
 天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)、つまり、瀬織津姫神には、十一面観音ほか複数の諸仏との習合関係がみられます。円空が神像(男系天照大神)と一対像として弁財天像を彫っていたというのは、彼が神仏習合の世界によく通じていたことを表しています。
 一般に、弁財天(弁才天)と習合関係をもつ神として語られるのは宗像神です。宗像大社発行『むなかたさま』は、次のように書いています。

宗像三女神が祀られた全国の神社を見ると、いくつかの特徴が挙げられます。宗像の三女神が高天原から筑紫の地に、海の神様として鎮まられた御由緒にちなんで、圧倒的に多くの宗像神社が海や湖沼、川などの水の豊かなところにお招きされていることです。宗像三女神は水の神さまとしての神格が強く意識されたからでしょう。この水の神さまの信仰が中世になると、各地で七福神の一つ、弁才天にたとえられるようになります。一般に水の神といえば弁天さまを指しますが、この弁天さまと宗像の大神さまが重なって、庶民信仰をも生みだしました。これはまず、室町時代に厳島神社の資料などから出てきた傾向でありますが、厳島神社と神奈川の江島神社、近江の竹生島[ちくぶじま]神社を一くくりして三大弁天と称したり、さらに大和の天の川、陸前の金華山を加えて日本五弁天と称したりしたことなどから、庶民信仰の一端が伺えます。宗像の姫神さまは、世の中で最も大切な水を自由につかさどる、おそらくすばらしく美しい神さまだったのだろう。そんな思いが七福神の弁天さまと結びついて、皇室の統治を見守られる神さまから、庶民のもっとも身近な福の神さまへと及んでいったのだろうと想像されます。

 宗像三女神あるいは宗像大神は「水の神さま」で、同じく「水の神」である「弁天さま」と重なったことが端的に語られています。しかも、この重なり(習合)は「室町時代に厳島神社の資料などから出てきた傾向」だとあります。
 円空は中観音堂において、男系天照大神との一対関係として弁財天像を彫っていたわけですが、では円空は、自らの弁財天に重ねていたのは宗像三女神(宗像大神)であったのかという問いが生じてきます。円空が生涯の信仰的伴侶とみていたのは瀬織津姫神でしたから、この問いは必然的に瀬織津姫神は宗像三女神(宗像大神)か、あるいは宗像三女神(宗像大神)とどういう関係にあるのかという新たな問いを呼び込まずにはおきません。
 円空の信仰的こだわりは、日本の既成神道の世界に対しては「異端」にみえるかもしれません。第一、弁財天(弁才天)と習合する神は宗像三女神(宗像大神)とされるも、近代以降では三女神のなかの特に市杵島姫神とみなすというのが通説化されているからです。この通説には円空の信仰的伴侶の名がはいる余地はありませんが、しかし、稀少ではあるものの、瀬織津姫神が弁財天と習合する例は複数みられます。
 引用中、宗像三女神(宗像大神)と弁財天(弁才天)との習合は「室町時代に厳島神社の資料などから出てきた傾向」とありましたが、その当の厳島神社の分霊をまつった鹿児島県出水市の厳島神社は、三女神のなかのタギツヒメの箇所に瀬織津姫神を入れて祭祀を現在に伝えています(同じ祭祀表示は滋賀県野洲市比江に鎮座する長澤神社にもみられます)。また、京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)境内社の井上社や静岡市清水区折戸に鎮座する瀬織戸神社は、いずれも瀬織津姫神の単独神祭祀をつづけていますが、前者は「井上弁天」あるは「糺[ただす]の森の弁天さん」と親称されていましたし、後者の由緒にしても「一般には、『辨天さん』と呼ばれ親しまれております」と明記されています。
 その他、瀬織津姫神と弁財天との習合関係の事例を追加列挙することは可能ですが、しかし、全国的にみれば十社に満たないかもしれません。宗像神をまつる全国六千余社からすれば、微々たる数ということになりますが、それでも、円空の信仰的こだわり、あるいは彫像の思想が、単純に奇をてらう「異端」に発するものでないことは伝わるでしょう。それに、下鴨神社の井上社は延喜式記載の「出雲井於[ゐのへ]神社」の論社の一つで、しかも宗像大社の分社ではないということも重要です。先の問いは、宗像大神・賀茂(鴨)大神・出雲井神(水神)とは何かという、日本の神まつり全体に関わる壮大ともいえる問いへと連鎖してもきます。
 伊勢神宮を「本宗」と仰ぐ既成神道がもつ祭祀思想を是とするなら、円空の信仰・思想は否定あるいは無視の対象となります。このとき、円空の信仰的伴侶である瀬織津姫という神も同じく否定・無視の対象となります。円空という「個」が生涯を賭けた信仰の核をみつめますと、人間的「信」がどちらに置けるかは、わたしのなかでは比較するまでもありません。
 円空は生誕地・中観音堂において、日本の神まつり全体に対する大きな問いとなるだろう男神像(天照大神像)と弁財天像(瀬織津姫神像)という象徴的な両像を彫り上げていました。しかし、円空の信仰的伴侶の神を重ねた主尊・十一面観音の「脇」に、これら両像が配されていたことに、円空思想のさらなる大きさが表れてもいます。
 なお、中観音堂の弁財天像は、右手に宝剣(剣は紛失)、左手に宝珠をもつ像として彫られています。北海道檜山郡厚沢部町の滝廼神社にまつられる瀬織津姫神の神体像も同じく右手に宝剣、左手に宝珠をもっていて、これらは瀬織津姫神を像化するときの象徴的持ち物だった可能性があります。円空が同形式の造像をしていたことは、決して偶然ではないようにおもわれます。

はじまりの瀬織津姫──権現瀧と円空

更新日:2010/6/17(木) 午前 0:31



 瀬織津姫という神(の名)と初めて出会う場は人それぞれでしょうが、わたしの場合、この神の名を初めて知ったのは遠野郷の伊豆神社(の由緒書)でした。十数年前のことですが、当時、神名そのものに圧倒的「美」を感じさせるという点で、カルチャーショック的衝撃が走ったようでした。
 少し調べてみればわかることなのですが、この神の性格が滝姫神(滝の精霊神)であること、つまり、宗像三女神の名でいえば湍津姫神(=滝津姫神)と等質であることは、やはり「滝」との関連で、この神と出会うのがいちばん自然のようにおもえます。わたしの場合は、早池峰の前(南)に聳える神奈備山である鶏頭山・前薬師(現在の薬師岳)にある「又一の滝」が瀬織津姫神の「住まい」の原イメージとしてあります。郷土誌は「滝そのものが神」と記していて、熊野の那智大滝(一の滝)とも重なります。
 わたしとは出会いの場も時代も関心の方向も異なりますが、瀬織津姫という神を生涯の信仰的伴侶として生きた人物に、江戸時代初期の修験僧・円空がいます。
 円空は仏像・神像を彫る技法をもち、歌も詠み、絵も描くといった多様な表現者でしたが、その根底には仏教・神道・修験の三世界への精通があって、彼の自由な表現世界は時空を超えて、現代においてもヴィヴィッドに訴えてきます。
 円空の信仰的伴侶への思いは深く、わたしなどの無信仰あるいは不純的関心はすぐに相対化されてしまいますが、円空の信仰生涯を明かすことで、彼に瀬織津姫という神を新たに語ってもらおうという試みが『円空と瀬織津姫』という本です。
 円空が滝神(瀬織津姫神)に深い思いを抱いていたことは、次のような歌によく表れています。

古滝や水白きぬ花と見て清祝の神かとそ思
(古滝や水白衣の花と見て清祝[きよめはふり] の神かとぞ思ふ)
文なれや予ことなさて滝の宮心のこゑを神かそと念
(文[あや]なれや予[わが]ことなさで滝の宮心の声を神かぞと念[おも]ふ)

 瀬織津姫神が禊ぎ神(清祝の神)でもあるという理解の上で、第一首は詠まれていますし、二首めからは、「滝の宮」の神を「心の声」として感得している円空がみえます。しかも、自分のことは後回しにして(予[わが]ことなさで)と詠んでいますから、円空の「滝の宮」の神への尊意は並・半端ではありません。ここには「僕の姫」「私の姫」といった現代ふうの囲い込み(私有)の発想とは似て非なる円空の「心」があります。
 円空と瀬織津姫の関係の原点を考えようとするとき、この「滝の宮」の歌はとてもシンボリックですが、「滝の宮」(瀧神社)の神は「高賀山滝大明神」とも呼ばれていました。美濃市乙狩に伝わる秘伝の縁起書(『高賀山滝の洞乙狩神社由来』)には、次のように書かれています。

高賀山滝大明神 御神体 矢と剣
 祭神 水園象女[みなさめ]之尊、瀬織津比咩[せおりつひめ]尊、八百万神

 三柱の祭神が記されていますが、滝姫神に相当するのはいうまでもなく「瀬織津比咩尊」をおいてありません。この高賀山滝大明神をまつるのが瀧神社ですが、その御神体は社殿近くにある「権現瀧」です。高賀山信仰と瀧神社の関係等についてはすでにふれましたが(岐阜県「滝神社」)、円空が滝行をしながら「心の対話」をしていた権現瀧は小振りながらもとても品のよい滝です。
 わたしにとって、瀬織津姫と円空は、この滝で二重写しになるという印象がつよく、円空の信仰を考えていてうまく解けないときなどは、よくこの滝に通ったものでした。先の歌を知りますと、円空にとって瀬織津姫という神への全国鎮魂行脚は、この権現瀧からはじまるというのは、ほぼ確信に近いものがあります。
 一方に瀬織津姫という神の大衆化現象があり、一方に、この神の封印化現象が神社神道の世界に恒常化しつつあります。前者は浮薄ともみえる現象ですが、それはほんとうの意味で大衆化の着地を果していないからなのでしょう。後者は、伊勢神宮を「本宗」と仰ぐ神社本庁の思想のもとに進行しつつある神社世界に限定された現象です。いずれも、円空の「心の声」とはクロスすることのない現象で、円空および瀬織津姫の孤立イメージは今しばらくつづくのかもしれません。
 今回の権現瀧へは久しぶりの訪問でした。乙狩谷の最奥部にある、この滝の水勢はいつきても大きな変化がないようです。人にはそれぞれに「はじまりの瀬織津姫」の場があるはずで、わたしにとっては、ここは「はじまりの円空」の場でもあるようです。