瀬織津姫社(石川県金沢市別所町ヲ83)

更新日:2009/3/11(水) 午前 1:03



 瀬織津姫社(金沢市別所町ヲ83)の紹介です。
 鎮座地名にみえる「別所」の由来ははっきりしていませんが、ここは「竹の里」として知られています。北陸農政局HPの一文を読んでみます。

別所集落は、金沢市東南部の丘陵地に位置し、加賀野菜に指定されている「たけのこ」の産地で有名である。たけのこ栽培の歴史は古く、集落では、地域の歴史、伝統を守る担い手の育成を図っている。全世帯数は34戸、農家戸数は8戸、耕地面積15haである。

 別所集落は、「たけのこ」のほか竹細工の里でもあります。集落の「全世帯数は34戸」で、この小さな集落の産土[うぶすな]神として瀬織津姫社の祭祀がつづいています。
 旧参道(現在の裏参道)を歩いてみますと、ここが「竹の里」といわれるのはもっともだとおもえるほど、竹林のなかの参道となっています(写真1・2)。
 この竹林の参道をようやく抜けようとするところに、小さな社殿がみえてきます(写真3)。これは、瀬織津姫社の境内社とされる諏訪神社なのですが(写真4)、この境内社の由緒ははっきりしません。ただ、ここに瀬織津姫神と諏訪神がまつられていることで思い出すのは、高岡市波岡・速川神社で聞いた、瀬織津姫命とお諏訪さん(タケミナカタ)が夫婦神とされる伝承でしょうか。この伝承を頭において、瀬織津姫社が境内に諏訪社を抱えていることをおもいますと、なにかほっとする感覚にもなります。
 さて、ここで表参道側にまわってみます(写真5)。階段を上がった小高いところに建立された社殿は、まだ新しいようです(写真6)。本殿の千木・鰹木のあしらえは内宮仕様のようで(写真7)、祭神が内宮第一別宮・荒祭宮の神であることを意識した造りのようにみえます。氏子総代さんの話では、社殿の建替えにあたって、三十軒ほどの氏子の人たちがそれぞれ百万円ほど拠出したとのことで、この「別所」の地で、どれほど瀬織津姫神が大切にされているかがよく伝わってきます。
 拝殿前からは、金沢平野の一角が望め(写真8)、新しい社殿に住まいする祭神はきっと満足していることでしょう。
 と、ここで祭祀紹介を美談的に終える手もあるのですが、この瀬織津姫社もまた、神社世界の「陰気」に包囲されていて、そのことにもやはりふれておく必要がありそうです。
 瀬織津姫社という社名からすれば、祭神は当然ながら瀬織津姫神のはずです。しかし、『石川県神社誌』は、市姫社と同様といってよいのですが、ここでも奇妙な祭神表示および由緒紹介をしています。

瀬織津姫社
主祭神 大禍津日神
例 祭 十月九日
境内地 三三一坪
主要建物 本殿 幣殿 拝殿 
由 緒 創立年月日不詳。明治初年村社に列せられたが年月等は不明である。(明治五年石川県調査の神社書上帖に記載してある。)〔後略〕

 由緒については、「不詳」「不明」とされ、詳しいことは「明治五年石川県調査の神社書上帖に記載してある」からそれを読めといわんばかりの書きっぷりです。
 それと、社名は「瀬織津姫社」であるにもかかわらず、主祭神を「大禍津日神」としていて、『石川県神社誌』は、よほど瀬織津姫という神名を表に出すことを嫌っているようです。氏子総代さんも、なぜ、うちの神様が瀬織津姫神ではなく「大禍津日神」とされるのか理解に苦しむとのことで、これはもっともな疑問でしょう。
 長野市内で千曲川と合流する川が犀川(上流は梓川)ですが、金沢市内を流れる川もまた犀川で、瀬織津姫は、犀川の洪水鎮護の神という性格でまつられていたとのことです。総代さん曰く、大禍津日神と瀬織津姫神を同神として整合させる説明を石碑に彫って建てたとのことで(写真9)、その苦心の石碑の文面を読んでみます。

瀬織津姫神社之由緒
主祭神 大禍津日神
 瀬織津姫の御神名を社号とする神社は全国でも余り例を見ない。
 当社の主祭神は「大禍津日神」であり別称「瀬織津比咩神」でもある。
 二柱の御名は「古事記」「大祓詞」に示されており、神道に於ける極めて重要な考え方に関わる神であらせられ、その御働きについては「世の中の罪穢を清め凶事を除き去る神」である。
 伊奘諾尊が禊祓の時、「上つ瀬は速し、下つ瀬は瀬弱し」とて始めて中つ瀬に降りて■〔氵に篠〕がれた時、最初に成りました神が禍津日神で、落湍[おちたぎ]る速川の瀬にいて諸々の罪穢を大海原に持ち出されるという。
 当社は古くは犀川近くの通称「みやだ」に御鎮座されていたと伝えられ、清らかで時には激しい水流の様に思いをいたし、それに神々の御働きを重ね合わせて見た古人の信仰が社号や祭礼等で掲げる幟旗「川濯御神」に表れていると考えられる。
平成十五年十月吉日

 祭神を「大禍津日神」と表示するというのは、決して氏子サイドの意思・希望ではありません。石碑由緒があくまで「社号」にこだわるのも、そこにこそ自分たちが認める祭神名が表れているからですが、「大禍津日神」などといった不自然な祭神表示をここに強いた力こそが、神社世界が内蔵している「陰気」の正体といえます。
 この「陰気」の力は、かつて社名変更をも迫るということもあったはずです。しかし、祭神を「大禍津日神」とすることを受容しても、本来の祭神がわかる社名の変更までは応じなかった、拒否を貫いた氏子のご先祖さんがここにはいたはずです。そのおかげで、今、「別称」ながらも、ここに「瀬織津比咩神」の神名復権を見ることができますし、こうして、この瀬織津姫社の紹介ができるわけです。
 ところで、「祭礼等で掲げる幟旗」には「川濯御神」と染められていることが、石碑由緒に記されていました。北海道福島町の川濯神社も主祭神の曖昧化を余儀なくされていましたが(北海道・川濯神社の項を参照)、「川濯御神」としての瀬織津姫神の祭祀は、ここ瀬織津姫社のほか、福井・滋賀県などにもみられます。伊勢(内宮)においては、瀬織津姫神の異称に「御裳乃濯川比女」(五十鈴川の禊ぎの姫神の意)という名もあったことを添えておきます。

市姫社(石川県七尾市中島町上町カ78)

更新日:2009/3/9(月) 午前 11:53



 市姫社(七尾市中島町上町カ78)の紹介です。
 各地の神社を訪ねていって、由緒や祭神を境内などに表示している場合というのはむしろ珍しいくらいで、たいていは、どんな神様をまつっているのかなどは、部外の訪問者には皆目わからないということになります。また、神社近くの氏子さんに尋ねてみても、自身の氏神社であるにもかかわらず、まつっている神の名さえ知らないなどということもよくあります。
 この「神の名さえ知らない」というのは、氏子衆が、それを特に知る必要性を感じていないことが第一の理由ですが、もう一つの理由としては、神官が、第一の理由に便乗して、祭神の名も性格も氏子衆に説明していない、あるいは、極端にいえばですが、隠しているという場合もあります。つまり、神官だけが知っていればそれでいいというスタンスです。
 市姫社は、まさにその典型のような社かもしれません(写真1~3)。
 菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻の巻末には、「瀬織津姫神全国祭祀社リスト」(全四四四社、二〇〇八年一月現在)が収録されていて、そこには「市姫社(高瀬神)」とあります。
 しかし、市姫社境内のどこにも、瀬織津姫祭祀に関する由緒等の表示はありません。それを確認するには、関係資料の探索をする必要がありそうです。
 神社本庁の下に各都道府県の神社庁が組織されていますが、この神社庁の編纂で、それぞれの神社誌が発行されています。たとえば『石川県神社誌』(昭和五十一年発行)の「市姫社」の項をみてみます。

市姫社
主祭神 市姫大神
例 祭 九月八日
境内地 三五三坪
主要建物 本殿 拝殿 祭器庫
由 緒 創立、由緒は不明であるが、古来より上町の産土神として崇敬される。
宮 司 清水直記

 なんともあっさりとした記載ですが、主祭神「市姫大神」という表示にまず困惑するのはわたし一人ではないでしょう。「瀬織津姫神全国祭祀社リスト」によれば、ここには瀬織津姫がまつられているはずで、『石川県神社誌』が正しい表示をしているとすれば、「リスト」は誤りということになります。このくいちがいはいったい何なのでしょう。
 近くの図書館に駆け込み、担当者の方と、市姫社の由緒探しをして、やっとみつかったのが中島町教育委員会発行の『お熊甲祭』(昭和五十九年三月三十一日発行、平成六年九月一日改訂)です。『お熊甲祭』における市姫社の記述を読んでみます。

市姫社
〔鎮座地〕 石川県鹿島郡中島町字上町カ部七八
〔主祭神〕 市杵島姫命・瀬織津姫命
〔例祭日〕 四月八日 九月八日
 字上町テ部三十番地に鎮座の市姫社(市杵島姫命を祀る)と現在地の高瀬社(瀬織津姫命を祀る)を合祀。

 こちらも短い記述ですが、しかし、『石川県神社誌』が主祭神を「市姫大神」としているのに対して、こちらは、主祭神を「市杵島姫命・瀬織津姫命」と明記しています。
『神社誌』が記していなかったことはほかにもあります。それは、現在の市姫社祭祀の経緯、つまり、その「合祀」に至る内容です。
『お熊甲祭』によれば、現在の市姫社の社地は、もともと「高瀬社(瀬織津姫命を祀る)」の鎮座地で、そこに「市姫社(市杵島姫命を祀る)」を「合祀」するも、高瀬社の社名を廃して市姫社としたものとわかります。
『石川県神社誌』は、市姫社の「創立、由緒は不明」、主祭神は「市姫大神」としていて、「高瀬社」という社名も「瀬織津姫命」という神名も伏せています。これは、はっきりいいますが、意図的なものとみられます。つまり、これも「陰気」の一例です。
 瀬織津姫祭祀に対する神社世界の警戒姿勢は、北の樽前山神社の祭祀が象徴していましたが、近くでは雄神神社ほかにもみられたように、全国的な傾向といえます。『石川県神社誌』の市姫社に関する記載は、この「全国的な傾向」と無縁ではなさそうです。
 それにしても、『神社誌』は、なぜ、このような見え透いた作為(偽装表示)をしたのでしょう。
 理由は、おそらく二つあるとおもいます。
 一つは、瀬織津姫神の存在をなるべく消去しようとする神社世界の暗黙の意志を、石川県においても具体化・実践化しようとしたこと。もう一つは、第一の理由とも連動していますが、瀬織津姫が「高瀬社」の祭神でもあったことは、やはり大きな消去理由だったとおもわれます。
 なぜなら、「高瀬社」は、越中国一宮とされる高瀬神社(戦前は国幣小社)の分社だったからです。遠野の伊豆神社は、その本社とは異なって「瀬織津姫命」の祭祀をつづけていますし、長野県の春日神社にしても、本社(奈良の春日大社)が「比売神(枚岡大神)」としているところを「瀬織津姫命」としていました(長野県・神林神社の項を参照)。このように、村社・無格社レベルの分社祭祀が、本社祭祀の元の姿を照らしだすということは往々にしてあります。「高瀬社」(市姫社)もまた、その例に該当するのでしょう。
 富山県南砺市高瀬に鎮座する高瀬神社は、なるほど越中国一宮とされるように、たいそうな社殿を誇り(写真4~7)、また、弥生時代の鎮座という気の遠くなるような古い由緒を主張しています。ここは主祭神を大己貴命(大国主命)としていて、つまり、高瀬神を出雲大神としているようです(写真8・9)。
 高瀬神社を訪れたときの神官さんの談では、高瀬神を瀬織津姫命とする社伝はないとのことでしたが、しかし、高瀬神は庄川の守護神とのことでした。
 高瀬神が庄川の守護神ならば、「雄神神社」にまつられる神とも関わってくるはずです。ここで想起されるのは、元雄神神社境内に建立されていた石碑由緒の文面です。石碑(「弁財天社略縁起」)には、庄川洪水鎮護のための神の祭祀地をどこに定めるかにあたって、「大宮司藤井秀範 雄神高瀬の神前に祈願」、七日後「御託宣ありて市杵島姫命保食神を祭るべき地を川辺に求む」云々と刻まれていました(元雄神神社の写真6)。
 わたしは最初「雄神高瀬の神前」を「雄神神社・高瀬神社の神前」と読んでいたのですが、高瀬神社の分社(市姫社と合祭される高瀬社)祭神も雄神神社祭神も、ともに「瀬織津姫命」で、「雄神高瀬」は、元々一社一神を表していたものなのでしょう(藤井大宮司が異神をまつる二社に「祈願」するというのも、考えてみれば妙な話です。これでは二股祈願になってしまいますから、神様がそれを知ったなら、おそらく機嫌を損ねる、あるいは、そっぽを向いて「託宣」なんて御免だよなんてことにもなりかねません)。
 瀬織津姫が大己貴命に変更された祭祀例は、熊野那智大社の別宮・滝宮、つまり、那智大滝の滝神祭祀の表示変更にみられます。熊野大神(熊野本宮神)および熊野・那智大神(滝神)の神名変更は、明治期といった近い時代の話ではなく、古代にまでさかのぼります。七尾市の「高瀬社」(市姫社)は、「創立、由緒は不明」とされていましたから、高瀬神社については、その祭神変更の経緯は、今のところ「不明」としておくしかなさそうです。

速川神社(富山県高岡市波岡94)

更新日:2009/3/8(日) 午前 3:56



 北海道・樽前山神社とよく似たケースですが、江戸期まで、瀬織津姫神を祭神としていたものの、明治期以降、この神の祭祀を消去した(消去された)神社が速川神社(高岡市波岡94)です(写真1・2)。
 この高岡市波岡[はおか]の速川神社は「養老元年の勧請」とされ、祭神は現在、「国常立尊、天照大御神、建御名方命」の三神とされています(『富山県神社誌』)。
 延喜式神名帳には「越中国射水郡 速川神社」と記され、ここは「一座」の祭祀でしたが、この式内社・速川神社を自社のことと主張している神社(論社)は、ほかに二社あります。一社は早川八幡社(高岡市早川924)、もう一社は速川神社(氷見市早借字滝尾880)です。
 同じ高岡市内に鎮座する早川八幡社は、自社由緒を境内に掲げていますので(写真3・4)、まずはこれを読んでみます。

早川八幡社 由緒書
勧請年月不詳ナレ共往古小矢部川守護神トシテ鎮座アリ、誉田別命、瀬織津姫命ヲ奉祀ス。旧号延喜式内速川神社ト稱セシハ之ノ故ナリ。
中古小矢部川大出水アリ社殿古記録等盡く流失ス。其後八幡社ヲ奉斎スルモ旧速川神社ノ祭神ヲモ併祀ス。
鎮座ノ由来古キト共ニ氏子ノ信仰心篤ク世態ノ移変ニモ動揺スルコトナク春秋ノ祭儀ヲ始メ旧来ノ神事ハ怠ナク執行セリ。
 昭和五十壱年九月拾日                早川八幡社奉賛会

 速川神の創祀は「勧請年月不詳」とされるも、この神は「往古小矢部川守護神トシテ鎮座」したとのことです。速川神社は八幡社(誉田別命)との「併祀」となっていますが、早川八幡社は、速川神を「瀬織津姫命」とし、「鎮座ノ由来古キト共ニ氏子ノ信仰心篤ク世態ノ移変ニモ動揺スルコトナク春秋ノ祭儀ヲ始メ旧来ノ神事ハ怠ナク執行セリ」と、誇りをもって速川神(瀬織津姫命)の祭祀をしているようです。
 氷見市の速川神社ですが、ここへの道は少しわかりづらく、わたしがようやく訪ねたときはすでに夜になっていました(写真5)。フラッシュの光量も少なく、おもうように社殿等の撮影ができませんでしたが、それでも、由緒を刻んだ石碑だけはなんとか撮影できました(写真6)。この一枚の写真が撮れただけで今日はよしとするしかないかと、車に乗り込んだことを思い出します。
 氷見・速川神社の由緒を読んでみます。

延喜式内社 速川神社の由緒
 瀬織津比売命は、従来現地鎮座速川神社の祭神にして、当社速川神社は延喜式内の社にして久目川(今の上庄川)の守護神として尊崇され、川岸村落早借等八ヶ村の総社にして、天正年間までは早借の領主岩田采女(子孫今に金沢市に在住)の祈願所にして社領二百五十石を寄進、神官・社僧も数多く奉仕せしも兵乱度々に及び社殿等も焼失し社人も退散せり。〔後略〕(適宜読点を補足)

 石碑由緒は「瀬織津比売命は、従来現地鎮座速川神社の祭神」、「久目川(今の上庄川)の守護神として尊崇され、川岸村落早借等八ヶ村の総社」と、速川神を「瀬織津比売命」とすることにいささかのためらいもないことが伝わってきて好感がもてます。
 早川八幡社においては、瀬織津姫神は「小矢部川守護神」、氷見・速川神社においては「久目川(今の上庄川)の守護神」とあり、この神が、それぞれの川の守護神として崇敬されていることがわかります。瀬織津姫神は、少なくとも、東の常願寺川の川神・滝神であり、庄川の守護神(「庄川の洪水から守る水神」)でしたから、越中国の広範囲に川神(川の守護神)としてまつられていたようです。
 氷見・速川神社および早川八幡社が、いずれも速川神を瀬織津姫としているのに、高岡市波岡の速川神社一社のみが、祭神を「国常立尊、天照大御神、建御名方命」としています。わたしが、この波岡・速川神社を訪れたときは、ちょうど祭礼の日で、拝殿での直会の席に上げてもらい、そこで氏子さんたちの貴重な主張を聞くことができました。
 曰く、明治期に、瀬織津姫さんは国常立尊に変更されたが、自分たち氏子の全員は、今でも瀬織津姫さんを自分たちの神様だと信じている、現在の祭神表示はまったく納得していない、というものでした。側にいた宮司さんの肩身の狭そうな表情が印象的でしたが、祭神をもどすには神社本庁の許可をとる必要があり、それが難儀だとのことでした。表向きはどうあれ、氏子衆一同が自分たちの神様を瀬織津姫命とおもっているのは動かしがたいことで、瀬織津姫にとっては、それが何よりかもしれませんねなどと話したのでした。
 あと、興味深い話は、瀬織津姫さんとお諏訪さん(タケミナカタ)は夫婦[めおと]神とも言い伝えているとのことでした。これは、諏訪祭祀における八坂刀売命(下諏訪神、諏訪湖の湖水神)とはなにかを再考することを促す話かもしれません。
 さて、大祓祝詞(延喜式収載では「六月晦大祓」)には、「高山[たかやま]・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比咩といふ神」との文言がありました。
 越中国射水郡の「速川」神社各社は、自社祭神の性格を中央思想的に語ることもせず、つまり「国家」(天皇の国家)の災厄を祓う大祓神(祓戸大神)などと無理な性格規定をすることもなく、あくまで自分たちの生活の地平に立った「川の守護神」と伝えてきました。
 祭神名から、かつて崇敬する神の名を消されたにもかかわらず、氏子衆の心には、今現在も自分たちの神様は瀬織津姫命さんだと、誇りをもって主張しつづけるのが波岡・速川神社です。この誇りをもった祭祀はほかの速川神社二社も同じで、このように瀬織津姫祭祀の心が共通してみえるとき、どの社が「延喜式内社」だったかなどは、ほんとうはどうでもいいレベルの話なのでしょう。

元雄神神社(富山県砺波市庄川町庄1211)

更新日:2009/3/6(金) 午前 9:02



 元雄神[もとおがみ]神社(砺波市庄川町庄1211)の紹介です。
 雄神神社は、延喜式神名帳に「越中国礪波郡 雄神神社」と記される古社で、当時は「一座」の祭祀でした。
 砺波市庄川町庄6466に鎮座する雄神神社と、この元雄神神社の二社がありますが、宝永七年(一七一〇)、庄川の氾濫により、元の祭祀地の中州・中島から東対岸へ遷座・創建されたのが雄神神社です(写真1・2)。
 この新・雄神神社が元々鎮座していたところ(庄川の中州・中島)には、旧社もまつられているゆえに「元雄神神社」と呼ばれるわけですが、この雄神神社二社の祭祀は、少し陰気です。
 まず、新・雄神神社ですが、現祭神はタカオカミ・クラオカミ(貴船神と同神)の二神を主祭神とし、瀬織津姫神は、その「配祀」とされています。瀬織津姫神は、あくまで主祭神ではないというのが神社側の主張なのですが、興味深いことに、三三年ごとの「式年祭」においては、配祀神の瀬織津姫神だけを元雄神神社に一週間ほど遷座させるとされ、いわば「里帰り」の神事を欠かしていません。
 さて、元雄神神社を訪ねてみますと、社標の石柱には「庄川弁財天 元雄神神社」と刻まれていて、ここが弁財天の祭祀であったことを告げています(写真3)。鳥居・社殿は、新・雄神神社に比べたら質素なものですが(写真4・5)、瀬織津姫神が弁財天と習合するという事例は、静岡県・瀬織戸神社にもみられましたから、ここもそうかという印象を受けます。
 しかし、神社側が建てた石碑の由緒文を読みますと、そこには瀬織津姫神の名はなく、代わりに市杵島姫命(と保食神)の名が刻まれています(写真6・7)。大正十三年発行の『富山県神社祭神御事歴』には、瀬織津姫祭祀社として「東礪波郡雄神村庄金剛寺郷社雄神神社」「(同地鎮座の)元雄神社」と記されていましたし、神社本庁への現祭神登録においても、ここには瀬織津姫神がまつられているにもかかわらず、参拝者のだれの眼にもつく石碑由緒では、その名が表記されていないのです。
 石碑由緒はさらに、「抑も市杵島姫命は水脉を司り給ひ保食神は五穀を守り給ふ」云々とも刻んでいます(写真8)。瀬織津姫神は、まさに「水脉(水脈)」を司る神ですが、それを、ここでは市杵島姫命(宗像三女神の一神)に変更・代替させています。
 元雄神神社には、庄川町教育委員会による神社由緒を記した案内板もあります。こちらは、祭神名を明記することはないものの、前述の雄神神社の「式年祭」や弁財天社の創祀経緯について、作為なく記されていて好感がもてます。

庄川町指定文化財 弁財天とやぶ椿
 弁財天社は、庄川流域四万農家を庄川の洪水から守る水神として、流域の人々の崇敬を集めている。三三年ごとに行われる「御開扉[ごかいちょう]」には十万人をこす参詣者で賑う。
 弁財天の起源については古来諸説が多いが、天正十三年(一五八五)の大地震で庄川が大洪水になったおり、藩主前田利長が被災地の視察にこの地を訪れたとき、激流逆巻く流れの中に樹木が繁茂した小島が残り、被害を最小限にとどめた。
 利長公は不思議に思し召され、記念のため弁財天を祀り、小島を弁財天山と命名したと記されている。
 弁財天社は別称「元雄神神社」といい、庄川の洪水で雄神神社が東側山裾に移転を余儀なくされ、残された拝殿に本殿と同じ祭神を勧請した故に名づけたといわれている。
 周囲には、近隣に珍らしい大株のヤブツバキの群生が見られ、春には濃い緑の中に赤い椿の花が咲き誇っている。
 昭和六十二年三月                         庄川町教育委員会

 式年祭の「御開扉[ごかいちょう]」のときには、雄神神社から瀬織津姫神(の像)が遷座されているはずです。この像は弁財天像とおもわれますが、その拝観のため「十万人をこす参詣者で賑う」とのことです。しかし、このときの「十万人をこす参詣者」は、境内石碑の表記文面に従って、元雄神神社の神は市杵島姫命とはわかっても、瀬織津姫神だとはだれも気づかないでしょう。わたしが、この新旧・雄神神社二社の祭祀に「陰気」を感じ取る最大の理由です。
 教育委員会の由緒では「庄川の洪水で雄神神社が東側山裾に移転を余儀なくされ、残された拝殿に本殿と同じ祭神を勧請した」と書かれていました。元雄神神社には「本殿と同じ祭神」がまつられているはずです。「本殿」を移した新・雄神神社には、石碑が記していた「市杵島姫命」はまつられていませんから、こういった矛盾を認めることなく押し通そうとする神社界の暗い意志(陰気)は、現代においても相当に根深いといわねばなりません。
 瀬織津姫祭祀を語ろうとすると、こういった「陰気」にまだまだ直面することになりますが、それはそれとして、雄神神(瀬織津姫神)は、「庄川流域四万農家を庄川の洪水から守る水神」でした。これは、庄川の川神・守護神ということです。
 ところで、雄神神社の「雄神」についてですが、その漢字面[づら]から、男神とも錯覚しそうですが、この名は、延喜時代以前の奈良時代までさかのぼって確認できます。
 天平十八年(七四六)、越中国守として赴任してきたのが大伴家持でした。家持は、万葉集の代表的歌人の一人であり、その原編纂者でもあります。彼は、越中国に五年間滞在していましたが、その間に、いくつかの歌を詠んでいました。
 たとえば、立山の神をおもっては「立山に降りおける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」(巻十七、歌番四〇〇一)です。家持は後年、陸奥国へ鎮守府将軍として赴任するときには、瀬織津姫神の加護を祈念してもいました(福島県・宇奈己呂和気神社の項を参照)。彼は、瀬織津姫という神をかなり理解していた万葉歌人の一人とおもわれます。
 越中国への赴任中の歌のなかに、この雄神神社とも深く関わる歌が一首あります。

  雄神河くれなゐにほふ少女等し葦附とると瀬に立たすらし(巻十七、歌番四〇二一)

 歌中「雄神河」とありますが、これが庄川の古名です。雄神神社は、この「雄神河」に由来する社名で、雄神河(庄川)の「水脉を司り給」う神、また「庄川(雄神河)の洪水から守る水神」をまつる社であったゆえに雄神神社なのでした。
 雄神河(庄川)の信仰的水源山は白山で、雄神神社に、この白山の本源神(水神・滝神)と同神がまつられているというのは、まったく理にかなった祭祀だったといえます。

滝社(富山県富山市上滝48)【下】

更新日:2009/3/4(水) 午前 9:43



(つづき)
 勝妙滝(現在の称名滝)から流れ出す川は、地図上では「称名川」と表記されていますが、かつては、こちらが常願寺川の上流でした。滝社と勝妙滝を結ぶ常願寺川(大川)沿いに、立山(連峰)を神体山と仰ぐ雄山神社があります。
 雄山神社は、延喜式神名帳には「越中国新川郡 雄山神社」と記され、ここは「一座」の祭祀でした。
 立山連峰最高峰の雄山(三〇〇三㍍)頂上に「峰本社」、芦峅寺[あしくらじ]地区に「中宮祈願殿」、岩峅寺[いわくらじ]地区に「前立社檀」を配し、これら三社の総称として雄山神社はあります。
 大正十三年という限定時点ですが、岩峅寺から芦峅寺へ向かう常願寺川沿い、および芦峅寺から雄山山頂までの範囲にみられる瀬織津姫祭祀社は、次の三社がありました(『富山県神社祭神御事歴』、番号を付して引用)。

①中新川郡立山村立山勝妙滝社
②同 同 同 祓度社
③同 同 芦峅寺祓戸社

 ②祓度社は「立山村立山」にありましたから、これは立山への登拝者用の禊祓所といった性格の社であったのでしょう。③祓戸社は「立山村芦峅寺」にあったようで、この芦峅寺にあるのが、雄山神社(「中宮祈願殿」)です。
 芦峅寺・雄山神社は自社境内に「祓戸社」をまつることをしてもよかったはずですが、なぜか、この「祓戸社」は大正十三年以降のいつの時点か、芦峅寺からは消滅してしまいました。
 雄山神社祭神は、延喜時代から増えたようで、現在、次の二神を主祭神としています。

立山大権現雄山神(伊邪那岐神) 本地 阿弥陀如来
刀尾天神剱岳神(天手力雄神) 本地 不動明王

 芦峅寺・雄山神社(写真1)は、祈願殿を中心に、西に「立山大権現雄山神(伊邪那岐神)」を立山大宮(写真2)の社名でまつり、東に「刀尾天神剱岳神(天手力雄神)」を立山若宮(写真3)の社名でまつっています。
 これらは明治期初頭の「神仏分離」による、いわば「神社化」したあとの祭祀ですが、それ以前の神仏混淆時代にこそ、芦峅寺における立山信仰のエッセンスはあります。
 この点について、廣瀬誠『立山黒部奥山の歴史と伝承』(桂書房)は、「立山山麓の宗教村落は岩峅・芦峅と併称されるが、岩峅に斎[いつ]くのは立山権現であった。これに対して、芦峅の信仰の中心は姥尊[うばそん]を祀る姥堂であった」としています(文中、姥尊・姥堂の「姥」のつくり「老」は「畾」ですが、ここでは「姥」で表記します〔以下全〕)。
 立山の芦峅寺地区における立山信仰の中核をなしていたのが、この姥尊・姥堂でした。現在の雄山神社の由緒(HP)においても、「明治維新の廃仏毀釈・神仏判然令により一大改新を加えられたため、布橋灌頂において重要な役割を果たした中宮寺ウバ堂は廃止され、天下三霊橋と誇った布橋も落ち、塔中諸坊も四散し芦峅寺は廃墟と化してしまった」と、明治期の「廃仏毀釈・神仏判然令」による甚大な破壊行為を記しています。
 姥堂は廃されたままですが、布橋だけは再建され、往時の面影をしのぶことができます(写真4)。この布橋は姥堂川にかかる橋ですが、この川を渡った先が「あの世」、その「あの世」の入口に姥尊が鎮座する姥堂がありました。つまり、姥堂川は三途川に見立てられ、姥尊は三途川の脱衣婆をも兼ねる存在でした。立山権現の本地仏が阿弥陀如来であったというのは、この三途川の先の「あの世」を「浄土」に変位させる仏ゆえの本地仏の選択だったようです。
 さて、芦峅寺から消えた祓戸社(瀬織津姫神)でしたが、芦峅寺・雄山神社には、謎めいた境内社が少なくとも一社あります。社名は「治国社(宝童社)」といいます(写真5・6)。「国を治める(神の)社」とはただごとではありません。『雄山神社芦峅中宮略記』の説明を読んでみます。

御祭神 新川姫神
 本来、大川(常願寺川)を司る神として祀られ、現今俗に耳垂れ地藏さまと申し、首から上の病気の守護神として、又、子育ての守り神として深く信仰さる。
 祭礼 春祭 四月十六日、秋祭 十月十六日

 常願寺川の源流部の大滝・神滝は勝妙滝で、この滝神は川神でもあるはずですが、略記では「本来、大川(常願寺川)を司る神」を「新川姫神」としています。
 明治期初頭に姥堂は廃されましたが、明治九年二月二十四日、芦峅寺の人々は、姥堂はもともと「新川神社」だったゆえ、その再興を願う嘆願書を当局に提出していました。少し長い史料ですが、読んでみます(『立山町史』上巻所収)。

旧社再興之儀ニ付願
 先般、諸神社御調湮埋ノ社地検覈[けんがく]致考証可差出旨御布達ニ付、御届申上置候、私共村内ニ往古ヨリ新川神社ト伝承仕候神形石五町ノ社地御座候、其勧請年月不詳候得共、貞観九年又同十八年両度ニ神階ヲ授ケ給ヒシ新川姫命トハ、正ニ此神社ニ御座候、然処、漸次仏法隆盛ノ機運ニ付、新川姫ト申御名ニ因テ老婆ノ木像ヲ彫刻仕、姥尊ト称シテ本殿ニ勧請シテ至重ノ神形石ヲ其境内清浄地ヲ撰ビ、柵ヲ構ヘテ安置仕、鳥居等取除候、奉仕ノ社僧三十三名神職五名都合三十八名罷在候、然処、建久年間頼朝卿治世ニ当テ社領御寄付ニ相成候、其後応仁ノ兵乱ニ神殿並其証書等焼亡仕候、〔中略〕明治二巳年三月社僧別当三十三名ノ者復飾ノ儀及出願候ヘハ、願之通旧藩ヨリ被申渡候〔中略〕於爰姥尊像並堂宇等廃棄仕候、右神形石ハ旧来村内御鎮座ノ大宮ニ遷座仕候、且ハ旧記及村中古老ノ伝承等取調並前田利光卿ノ判物写一通相副指上之候間、何卒御詮議ノ上、社号御免許被仰候ハバ、雄山神社末社大宮内ニ、新ニ建築鎮座仕度、依テ別紙絵図面相添上之候間、此段御聞済被下度、村中一同伏テ奉懇願候恐惶謹言

 芦峅寺の人々による姥堂の前身である新川神社再興の「懇願」を、けっきょく、当局は認めることをしませんでしたが、「私共村内ニ往古ヨリ新川神社ト伝承仕候神形石五町ノ社地御座候」、「新川姫命トハ、正ニ此神社ニ御座候」とあります。また、「新川姫ト申御名ニ因テ老婆ノ木像ヲ彫刻仕、姥尊ト称シテ本殿ニ勧請」ともあり、姥堂の姥尊は新川姫の異称だったことも書かれています。
 ここには、明治二年三月に「姥尊像並堂宇等廃棄仕候」とあり、当局の意向を受けた「旧藩」の命に従い、村民は「姥尊像並堂宇等」を「廃棄」したのでした。その上での新川姫をまつる新川神社再興の「懇願」でした。
 新川神社は芦峅寺では再興を公的に認められなかったわけですが、雄山神社境内に秘かに創建されたのが「治国社」だったようです。この嘆願書を元にすれば、治国社は、新川神社のことでもありました。新川神社を公的に名乗れないゆえに、治国社(宝童社)という社名となったものとおもわれます。
 ところで、芦峅寺においては新川神社は消えましたが、富山市内にも新川神社があります(富山市新庄町字屋敷割173、写真7)。由緒を刻んだ石碑には、「江戸中期から明治にかけ、雄山神社前立社殿として立山登拝者はよく参詣した」とあり、雄山神社前立社檀とは別に、こちらも立山信仰における「前立社殿」であったようです。
 新川神社の現祭神は「大己貴命・白山比咩命・天照大神・菅原道真」とされるも、石碑には「大己貴命は大新川命、白山比咩命は大新川姫命として尊崇された」とあります(写真8)。新川神社においては、新川姫は「白山比咩命」のことでした。
 新川姫神が白山比咩神でもあったとする神社伝承が意味することはとても大きいです。白山比咩神は、立山芦峅寺においては姥尊に変貌したことになります。
「立山御姥尊布橋大灌頂法会勤〔勧〕進記」(『立山町史』所収)は、文武天皇の大宝元年(七〇一)に、佐伯有若越中守の嫡男である有頼(=慈興上人)が立山開山をなしたあとのこととして、姥尊信仰の始まりが「勅願」によってなされたとみられることが記されています。

 人王四十三代元明天皇の和銅七年仲春の頃、禁裏に参内を遂げ、立山開峰の奇瑞の始末を奏聞するに、忝なくも御勅感ありて、数ヵ条のご綸旨を請け、誠に尊かな永劫毎歳秋の彼岸中日に布橋大灌頂執行のご勅願なり。〔中略〕
 そののち人王五十代桓武天皇再び御勅願有りて、天台・真言両宗兼学の御令旨を賜り、布橋大灌頂の秘法を修行せしむ。

 布橋大灌頂は、他界(あの世)への擬似的参入をし(擬死再生を経験し)、新たに生まれ変わるという信仰が主旨ですが、この他界参入・擬死再生を司るのが姥尊(という神)でした。つまり、新川姫神(白山比咩神)を「姥尊」に変貌させた背景には、元明天皇または桓武天皇の「御勅感」「御勅願」があったようです。
「大川(常願寺川)を司る神」として新川姫神(白山比咩神)はありました。常願寺川のもう一つの川神(滝神)は瀬織津姫神でしたが、この神は、白山の本源神でもあり、しかし、中央的神道思想においては「姥神」とみなされ、同じく中央的仏教思想(天台宗)においては「三途川の奪衣婆」とみなされていたことは、いくつかの史料とともにすでに指摘されていることでした(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。
 姥尊は、新川姫の「神像」でもあったはずで、明治期、完全には「廃棄」されなかったようです(現閻魔堂所蔵)。滝社の神(「滝の精の神」)は、芦峅寺の立山信仰においては、まるで対極のイメージですが、まさに「首から上の病気」の異貌の神「姥尊」として形象化されたのでした。