遠野三女神と早池峰神社

更新日:2010/4/30(金) 午前 1:21

 日本の神まつりで、三女神の構成がみられるのは、宗像三女神と祓戸三女神が知られます。前者の中心神は湍津姫神、後者の中心神は瀬織津比咩神とみられますが、この二神が異神でないこと、あるいは、表裏一体の神だというところに、三女神信仰を考えるときの鍵となる問題があるようです。
 岩手県遠野市は柳田國男『遠野物語』の里として全国的に認知されているといってよいでしょうが、この物語の第二話には、遠野版の三女神が登場してきます。この話は『遠野物語』の実質的な巻頭譚といってよく、柳田の遠野へのこだわりが表れています。

四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯[はやちね]という、北の方附馬牛[つくもうし]の奥にあり。東の方には六角牛[ろっこうし]山立てり。石神[いしがみ]という山は附馬牛と達曾部[たっそべ]との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫目覚[めざ]めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはその妬[ねた]みを畏[おそ]れて今もこの山には遊ばずといえり。(『遠野物語』第二話、『柳田國男全集』所収)

 大昔、ある女神が「三人の娘を伴ひて」やってきて、「来内村の伊豆権現の社ある処」に泊まった、その「夜」の夢幻譚から、娘の三女神は早池峰山・六角牛山・石神山(石上山)の山神となったとされます。この母神と三山三女神を神社空間に降ろして神名を特定してみますと、とても大きな不思議がみえてきます。つまり、母神をまつる伊豆神社も、その子神の一神をまつる早池峰神社も、ともに祭神を瀬織津姫命としている不思議です(詳細はブログ「伊豆神社」に譲ります)。
 ここで興味深いのは、宗像三女神・祓戸三女神・遠野三女神のいずれにも、瀬織津姫という神が関わっていることです。しかも、遠野郷(伊豆神社)では、三女神の母神(大元神)を「瀬織津姫命」と伝えていて、あくまで伝説譚のヴェールに包むも、遠野側の静かな大元神の主張の射程は、はるか玄界灘にまで届いている印象を受けます。
 早池峰神社へ向かう途中の峠を神遣[かみわかれ]峠といい、ここから三女神はそれぞれ三山へ分かれていったとされます。この峠には神遣神社がまつられ、石に三女神像が刻まれています。
 道の駅「遠野風の丘」の情報コーナーのところに、「水の神様 瀬織津姫」と書かれたイラスト入りの早池峰神社案内が貼られています。神社世界では、この神の名を表に出すことが少ないですから、こういった至極まっとうな表示を発見したりすると、やはりほっとします。
 このポップ案内につられて、早池峰神社へ出かけてみました。神社には三種類の案内板があるのですが、それらのどれにも「水の神様瀬織津姫」の名がありません。

 比較的詳しく由緒が書かれたものを書き写してみます(適宜句読点を付し、段落分けをして引用)。



本社早池峰神社
 霊峰早池峰の山霊を祀り併せて早池峰山と共に遠野三山とよばれる石神、六角牛の山霊を祀る。草創は大同元年(西紀八〇七[ママ])三月八日、猟師藤蔵(後に始閣と定む)が早池峰山頂に於て権現垂跡の霊容を拝して発心、山道を拓いてその年の六月十八日、山頂に七尺有余の宮を創建して祀ったのがこの社の始まりである。山頂の社は本宮と称し、承和十四年(西紀八四七)六月十八日、藤蔵薙髪して普賢坊の長子長円坊が本宮の傍に新たに建立した若宮と共に現在この早池峰神社の奥宮として祀る。
 嘉祥年間、天台の高僧慈覚大師奥州巡歴の途次この地に至り、宮寺妙泉寺を創建して坊を大黒坊と称し不動三尊・大黒一尊各々本尊を別に新山宮と号し三間四面の宮を建立し早池峰大権現を祀り、脇士として薬師・虚空蔵菩薩を併祀、坊には高弟持福院を住職とし、神宮には長円坊を別当として神徒として仕うべきを命じた。祭祀は神仏混淆で盛大に行われて信仰は県外に及び、阿曽沼親綱の時代に百二十石その後南部直栄より六十五石計二百石封祿寄進され、明治維新に至り排仏棄釈により妙泉寺は廃され新山宮改め早池峰神社として現在に至った。
 その間、寛治年中妙泉寺の宗派が天台宗から真言宗にかわり、文治五年火災にて全焼する等の変革を経て、現在の社殿は享保三年の建築で東西四十三尺一寸、南北三十三尺七寸有り。用材は主として楢・栗等を使用している。その他、神楽殿、神門、黒門、社務所等の備有り。神門は文化年中の建立で、もと仁王門と称し仁王を安置していたが、妙泉寺の廃寺と共に土渕の仏師田中円吉作の随神像に替えた。昔は古例として年七回の祭儀を執り行ったと伝えられる。今は年一回旧暦六月十八日に例祭を行っているが、近くの滝川に神輿を渡御して川の水を濯ぐ行事は京都の祇園御霊会の神輿洗いの行事と同じく、上代に於け(る)祓式を存じ他に余り例が無いと云われている。

 おおよその由緒はわかりますが、「霊峰早池峰の山霊」とは書かれても、その山霊の名(神名)が具体的に書かれていない特徴があります。神職・関係者のみがわかっているということかもしれませんが、神の名が記載されないというのは、そこに神は存在しないのと一緒ですから、わたしは早池峰神社に瀬織津姫神は「いない」のだろうとおもいます。
 早池峰神社は、明治の神仏分離のときに、江戸時代までの妙泉寺の建物をそのまま神社化しています。また神仏分離から廃仏毀釈が断行され、早池峰大神(瀬織津姫神)の本地仏(十一面観音)をはじめとする関係仏もここにあるわけではありません。もっといえば、宇佐八幡宮の刀剣鍛冶(神息)が鍛えたとされる早池峰神社の宝剣もなく、社殿はまさに伽藍のようにみえます。
 ただし、「水の神様 瀬織津姫」が習合していたのは、十一面観音ばかりでなく不動尊もありました(早池峰は修験の霊山でもあります)。神社境内の神木・夫婦イチイの雌木の根元には、この不動尊がまつられ、湧水がここに引かれているというのが、「水の神様瀬織津姫」のせめてもの名残[なごり]といえるかもしれません。
 ところで、東北地方の民間伝承神といってよいオシラ神(オシラサマ)や座敷童子(ザシキワラシ)と習合関係をもっていたのが瀬織津姫神でもありました(『エミシの国の女神』)。本殿内の大きな鏡の前には、座敷童子(ザシキワラシ)たちが眷属神のように居並んでこちらをみつめているようで、少しドキリとさせます。

源義家と瀬織津姫──鎌倉岳北麓の雷八幡神社

更新日:2010/4/28(水) 午前 8:21

 福島県石川郡古殿[ふるどの]町に、小振りながら富士山のような、いわゆる神奈備型の鎌倉岳(六六九㍍)が聳えています。この山は、延喜式内社(の論社の一つ)、町内の永倉神社の鳥居正面に聳えています。
 鎌倉岳という山名の前は「見岳」あるいは「鎌倉見岳」、さらなる前は「古開[こかい]山」と呼ばれていました。この「こかい」は蚕養[こかい]のことで、この山には養蚕神がもともとまつられていました。それが時代の変遷で駒形神とも呼ばれるも、神仏習合時代は、その本地仏をまつる十一面観音堂が信仰の中心だったようです。
 古開山=鎌倉岳は、いくつもの峯・嶽から成り、それらの総称として、現在、鎌倉岳と呼ばれています。これらの峯・嶽には、それぞれの「神」が鎮座していたようです。
 永倉神社宮司・鎌田家の文書は豊富です。たとえば明治六年の「神社明細帳」をみますと、この山の最古の神は、天平元年(七二九)に勧請とある「櫛ヶ峯太神」です。この神名の前後の文字が判読しづらいのですが、そこには「天櫛玉命、櫛明玉命」と書かれ、両神を「櫛ヶ峯太神」と呼んだように読めます。なお、江戸末期まで、永倉嶽の主神としてあった駒形大明神は、明治六年の「官令」によって「稲倉魂命」と決定されました。
 明治期の神仏分離から神社化する際の祭神変更の猛威は全国的なもので、当地も例外ではありませんでした。ただし、鎌田家手控えの明細帳には、十一面観音および不動尊と関わる、鎌倉岳中の「嶽」も記録されています。「清明嶽」といいます。この嶽神は「清明明神」と表記されるも、その祭神は「瀬織津姫命」と書かれています。なお、正確な年月はわからないのですが、古開山に十一面観音堂を「造立」するにあたって、その山名を「鎌倉嶽」と名称変更したのは「源基光」だと文書は記しています。
 瀬織津姫神が水源にまつられる十一面観音と習合する例は早池峰・白山ほか各地にみられます。また、瀬織津姫神を駒形大神とするのが早池峰でもあります。この早池峰神が古殿の鎌倉岳では「清明明神」とも呼ばれていたことに、人々の信仰のおもいがよく表れていたといえるかもしれません。朝廷側は、瀬織津姫をマガツヒノカミといった禍[わざわい]の神とみなそうとしましたが、庶民の信仰感情からいえば、この神ほど「清明」の神はなかろうとおもわれるからです。
 鎌倉岳における、瀬織津姫神の明治期以降の祭祀変遷がはっきりしないのですが、明治六年の「神社明細帳」は、それまでの永倉神社所管の「雷八幡大神」として、「祭神誉田和気命 瀬織津姫命」と記録しています。
 鎌田氏によると、鎌倉岳の一帯は落雷の多いところで、岳の中腹には雷除けで雷神をまつっている、また鎌田家の氏神も雷神さんとのことです。ただし、その雷神の具体的な神名は伝わっていないようです。

 さて、この「雷八幡大神」の短い由緒には、「康平六年癸卯八幡太郎義家公御勧請ニ御座候」とあります。つまり、康平六年(一〇六三)、源義家が「誉田和気命瀬織津姫命」を勧請したとありますから、両神は、義家こと「八幡太郎」命名ゆかりの石清水八幡からの勧請とみてよさそうです。さりげない由緒ですが、これが何を示すかはとても大きな意味があります。また、社名の「雷」(神)が「祭神誉田和気命 瀬織津姫命」のどちらの神を指してのものかはいうまでもなさそうです。
 鎌田氏によれば、「雷八幡大神」をまつる社はまだ現存しているとのことで、これは訪ねないわけにいきません。現社名は「雷八幡神社」といい、近在の十数家の氏子が護る小さな社だとのことです。
 その社は、鎌倉岳北麓の丘陵地にあり、ここは古殿町民の憩いの公園になっています。その丘陵地・公園の端に社は鎮座しているのですが、訪ねてみれば、それはそれはひっそりとまつられています。社の坂を下ったところには、かつて集落が真水を得ていた湧水が今もホースで引かれています。
 鎌倉岳の本来の比咩神、大いなる水徳をもった神がここにまつられていることを、おそらく今はだれも知らないかもしれない、また、こういった忘れられかけている瀬織津姫祭祀の場を訪ねることが多いななどとおもったものです。
 ところで、源義家が瀬織津姫神をまつったのは、これで二例めということになります。一例めは、岩手県花巻市東和町の大沢滝神社です。ここは、義家と安倍貞任(安倍氏)との親近関係をよく伝える由緒をもっています(ブログ・岩手県「大沢滝神社」参照)。
 安倍氏ばかりでなく、源義家にとっても、瀬織津姫という神は重要な信仰対象としてあったこと──、この雷八幡大神の勧請伝承を知ったことで、わたしのなかでは、確信に変わったようです。

宇奈己呂和気神社の意志

更新日:2010/4/26(月) 午前 9:52

 宇奈己呂和気[うなころわけ]神社(郡山市三穂田町八幡字上ノ台七六)は、『延喜式』神名帳に「陸奥國安積郡 宇奈己呂和氣神社名神大」と記される古社です。また、「名神大」(名神大社)とあるように、朝廷からは、その祭祀が特に重視されていた社でもあります。当時の名神大社は全国で二二四社、うち陸奥国には一五社あり、宇奈己呂和気神社はその一社です。
 全国の名神大社二二四社のなかで、瀬織津姫神の異称表示、たとえば、「天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)」を祭神名とする摂津国・廣田神社などとは異なり、その祭神名を瀬織津姫神のままに表示する社は、滋賀県大津市の佐久奈度神社があるのみです。佐久奈度神社は大祓祝詞(延喜式収録時は「六月晦大祓」と呼称)の創作を伝える社で、したがって、ここが瀬織津姫神をその名のままに表示するというのは不思議ではありません。その点、この神を祓戸大神とすることもなく、そのままの名でまつる唯一の名神大社が陸奥国・宇奈己呂和気神社で、これは異例中の異例といってよいでしょう。
 福島県神社庁郡山支部編『あさかの神社誌』記載の宇奈己呂和気神社由緒を読んでみます。

宇奈己呂和気神社
祭 神 瀬織津比売命、誉田別命
鎮座地 郡山市美穂田町八幡字上の台七六
社 格 延喜式名神大社、奥州二ノ宮、安積三十三郷総社
由 緒
 当社旧記によれば、宇奈己呂和気神社創草は第四九代光仁天皇代、陸奥国の蝦夷はびこり騒がしきために朝廷は天応元年(七八一)一月、陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を任命し下向させるが実効なく、翌年延暦元年(七八二)六月、新たに即位した桓武天皇は、新しく大伴家持を陸奥出羽按察使兼鎮守府将軍に任命下向させたが、蝦夷の勢いたくましく盛んのため、家持は高旗山頂に登り潔斎神々を祀り祈念するや神霊顕われ、安積郡の山々八ツ旗山の奇瑞を現わす。家持神験を得て雄々しく蝦夷平定の軍を進め、更服常なき蝦族を威服させ、陸奥、出羽の騒乱を鎮め民心安穏を得ることが出来た。家持神恩を感じ高旗山頂に荘厳な社殿を構築鎮守神として崇めたが、時経るの間に荒廃に至り、その後、山崎の地(現在地)に宮殿は移されるに及んだ。

 宇奈己呂和気神社の創祀は延暦元年(七八二)六月、「陸奥出羽按察使兼鎮守府将軍」に新任した大伴家持によるとのことです。家持は「蝦夷平定」の神力を宇奈己呂和気神に求めたというのが由緒の記載概要です。
 ところで、この由緒は、祭神を「瀬織津比売命、誉田別命」と並記しています。誉田別命(応神天皇)は八幡大神と解釈されるのが通例ですが、この八幡大神と「瀬織津比売命」が一緒にまつられているというのは珍しいケースかもしれません。宇奈己呂和気神社では、現在、この八幡大神(誉田別命)を配祀神としていて、主祭神はあくまで「瀬織津比売命」としています。
 大伴家持は、『万葉集』の原・編纂者でもありますが、その彼が、桓武天皇の命により「蝦夷平定」のため陸奥国に下向し、その祈願を「高旗山頂」にておこなったとされます。家持は、瀬織津姫という神の別格の神威・神力をよくよく認識していたようです。
 以上は、神社庁公認という、いわば公的な由緒表現から読み取れることですが、郡山の郷土史家・田中正能氏は、「あさかの神々」で、次のような別「社伝」を再録し、さらに、瀬織津姫神と蝦夷平定との関係についても一つの推測を書いています(『あさかの神社誌』所収)。

 宇奈己呂和気神社の社伝には、欽明天皇十一年(五五〇)安積郡高旗山頂に瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト)の垂跡があって祭祀され信仰が続いた、とある。この神は伊邪那岐命が黄泉の国から帰られ筑紫、日向の橘の小門の阿波岐河原にて禊祓のとき、河の中ツ瀬にて禊祓のとき降誕の八十禍津日命(ヤソマガツヒノミコト)と名付けられた神で、世の中の罪とけがれを清め、凶事を除き去る神として伊勢皇太神宮の荒御魂であるが、反復常ない陸奥国における政策として祭祀になったものであろう。同じく社伝に延暦三年(七八四)、大伴国道(七六七~八二八)が高旗山より現在地の美穂田村八幡字山崎の地内に遷座された、とある。

 ここには、瀬織津姫という神についての「辞典」的解説(通説的解釈)が記され、その「伊勢皇太神宮の荒御魂」という神威を蝦夷平定の「力」に結びつけようとする解釈がなされています。しかし、やはり注目すべきは、「欽明天皇十一年(五五〇)安積郡高旗山頂に瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト)の垂跡があって祭祀され信仰が続いた」とする別社伝があったことでしょう。伊勢皇太神宮は、欽明時代には成立しておらず、したがって、「伊勢皇太神宮の荒御魂」などという概念もまだ存在していませんでしたが、公的な由緒では、この欽明時代の創祀と信仰の継続を記す社伝が伏せられていたようです。
 田中氏はさらに、宇奈己呂和気神社を取り巻く陸奥国の歴史解説をしていて、これも神社紹介の参考となりますので引用します。

 陸奥国の古社、安積郡の名神大社として崇敬され「続日本紀」に見られる。宝亀十一年(七八〇)三月、陸奥国に伊治公呰麻呂(アザマロ)の反乱が発生して、陸奥出羽按察使紀広純を討ち取る騒ぎが天下を震わす。天応一年(七八一)一月に藤原小黒丸が後任を命ぜられ下向し、翌延暦一年(七八二)六月、大伴家持と交替、八月に都に凱旋しているが、陸奥国の蝦夷反乱はこのあとも坂上田村麻呂、百済俊哲などまで、永い年月を要するに至り鎮定することなく続く。この間は陸奥出羽の諸社に神階奉幣がさかんに行なわれた時代であった。
 当社の伝承に、藤原小黒丸が延暦三年(七八四)現在地に高旗山上より勧請とあるが誤りで、藤原小黒丸の赴任下向時のことであろう。現社に祓川、化粧坂などの伝承、祭礼毎に社人が高旗山上の古祠に奉幣行事が伝わっている。昔から安積郡の総社として国司、領主の崇尊と保護を受け、古い安積郡地域全般住民の信仰をあつめた神社である。

 宇奈己呂和気神社の創祀伝承には、古いところでは欽明天皇十一年(五五〇)の降臨(出現)説、次に大伴家持による延暦元年(七八二)の創祀説の二つがあり、ここでは、(家持が高旗山の頂きで感得→創祀した)神霊を、藤原小黒丸(小黒麻呂)が里(現在地)に「勧請」したと書かれています。先の引用箇所では、「延暦三年(七八四)、大伴国道(七六七~八二八)が高旗山より現在地の美穂田村八幡字山崎の地内に遷座された」とあり、「里宮」創祀にしても、伝承の混乱があるようです。
 里宮創祀の正確な時期についてはともかく、瀬織津姫神の創祀時期における二つの社伝の存在──、そのどちらを信ずべきかは判断がむずかしいのですが、わたしは、大伴家持の時代よりも前に、この神の祭祀が当地にあったとしてもなんら不思議はないとおもっています。
 ところで、当地方の信仰的霊山について、『郡山の歴史』という本には「安積郡の人々は、安達太良山を神霊のやどる山として崇敬した」、「安達太良は、郡山地方の心のよりどころであり、またその生活を支えてくれる豊かな資源の山」という記述があります。先年、宇奈己呂和気神社宮司(故大原康朝さん)から、宇奈己呂和気神は安達太良山の神でもあるという話をうかがったことがあります(社殿は、たしかに背後の安達太良山を拝するように建立されています)。
 安達太良山の神をまつるのが安達太良神社ですが、同社の現在の「由緒書」によりますと、祭神は、高皇産霊[たかみむすび]神、神皇産霊[かみむすび]神、飯豊和気[いいとよわけ]神、飯津比売[いいつひめ]神、陽日温泉[あさひいでゆ]神、禰宜大刀自[ねぎおおとじ]神の諸神とされます。谷川健一編『日本の神々』によれば、これら多くの祭神のなかの筆頭の二神(高皇産霊神、神皇産霊神)が宇奈己呂和気神とのことです。宇奈己呂和気神社・主祭神である「瀬織津比売命」の名はみえないものの、たしかに、宇奈己呂和気神は安達太良山の神ともみなされています。
 安達太良神社由緒書はさらに、「当社は久安二年(一一四六)四月朔日近衛天皇の御代、安達太良山に鎮座されていた飯豊和気神、飯津比売神、陽日温泉神、禰宜大刀自神、俗に甑明神、矢筈森明神、剣山明神、船明神と、大名倉山に鎮座されていた宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神とを合わせ祀って安達太良明神と称し奉り、本目村を本宮と改め、安達郡総鎮守として尊崇され、現在におよんでいる」としています。「宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神」は、安達太良山の一角「大名倉山」に鎮座していたとのことです。
 それにしても、安達太良神社においては、宇奈己呂和気神社の「瀬織津比売命」、相殿(配祀)神とされる「誉田別命」も、ともに祭神名には表示されておらず、「高皇産霊神、神皇産霊神」、「宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神」と、神名の著しい相異が認められます。宇奈己呂和気神社側の主張を信ずれば、安達太良神社側の祭神主張は否定的にみるしかありません。式内明神大社という由緒が認められていた宇奈己呂和気神社が、明治期、もし自社祭神をほかに変更することといった交換条件を受容すれば、最低でも県社以上の社格を認定されたにちがいなく(戦前は郷社)、それをせずに、中央の祭祀思想がもっとも忌む神の名を今日に伝えつづけた宇奈己呂和気神社(関係者)の敬神の意志は尊いとおもいます。安達太良神社と宇奈己呂和気神社──、わたしがどちらを肯定的にみているかはあらためていうまでもないでしょう。
 ところで、宇奈己呂和気神社の前には真言宗の八幡山護国寺があります。ここは、室町時代まで宇奈己呂和気神社の神宮寺でした。本尊は虚空蔵菩薩とのことです。瀬織津姫神の本地仏として虚空蔵菩薩があるとしますと、これは、白山(別山)・高賀山や伊勢の朝熊山と同じにみえます。神仏習合時代、当地にも明星信仰があったのかもしれません。

辺津宮=第三宮(地主)のご神体

更新日:2010/4/23(金) 午前 2:03

 天応元年(七八一)、辺津宮の地に「惣社」ができます。それまで、沖津宮・中津宮・辺津宮に三女神をそれぞれ分配祭祀していたものを、ここに三女神をまとめてまつる社殿ができたということのようです。
『宗像大菩薩御縁起』をみますと、この惣社の祭神配置と本地仏の関係は、以下のように記されています。

第二者 湍津姫、居左間。本地釈迦如来 小神織幡
第一者 田心姫、居中間。本地大日如来
第三者 市杵嶋姫、居右間。本地薬師如来 小神許斐
    已上奉号惣社。

 惣社の中心神は第一宮(沖津宮)の田心姫(本地大日如来)で、第二宮(中津宮)の湍津姫(本地釈迦如来)と第三宮(辺津宮)の市杵嶋姫(本地薬師如来)、これらは配祀の形式をとり、それぞれに「小神」(従神・眷属神)の名が登場してきます。
 惣社において、三女神が同格祭祀でなかったことは、この惣社と同時に「中殿」、つまり第二宮(中津宮)を中心とする社殿もつくられたことに表れています。『御縁起』の記載を引きます。

第一者 居左間。本地大日如来 小神地主明神〔本地普賢〕
第二者 居中間。本地釈迦如来
第三者 居右間。本地薬師如来 小神所主明神〔本地文殊〕
    已上奉号中殿。

 中心神(ここでは第二宮=中津宮の湍津姫)には「小神」(従神・眷属神)を置かず、左右の配祀二神のみにそれを置くという特徴がみられます。もっとも、この「小神」の付加は、宗像祭祀の外部からの眼でいいますと、少し複雑になってきた印象を受けます。しかも、その「小神」が地主明神・所主明神などと表記されていて、この二神は別神なのかどうかもはっきりしない怪しい表示とみえます。
 惣社と中殿の中心神には「小神」を配さないという特徴が指摘できるも、従来の辺津宮(地主宮)においては、この法則(?)は適用されなかったようです。

第一者 居左間。本地大日如来 小神浪折〔本地観音〕
第三者 居中間。本地薬師如来 小神正三位(是志賀大明神)〔本地文殊〕
第二者 居右間。本地釈迦如来 小神御鎰持〔本地毘沙門〕
    已上奉号地主。    小神上袴〔本地不動〕

 旧辺津宮の宮地に「惣社」と「中殿」がまつられ、旧辺津宮は第三宮として「地主」(宮)とみなされました。これら三宮がそれぞれに三女神をまつり、しかも、本地仏と小神を配していますから、とても複雑な祭祀にみえます。神仏の、こういった複雑な配置に、どれだけ合理的理由があるかといえば、わたしは相当に怪しいとおもいますし、あるいは、あまりに恣意的ではないかとさえおもえてきます。
『宗像大菩薩御縁起』は、以上の三社殿祭祀の複雑さを記したあと、次のように書いています。

如御託宣、三神一所仁有御遷座。此則居海辺、向異国事者、顕三神一体、倶体倶用、一致幽明霊徳、尽未来際施本朝鎮護異国征罰(伐)之霊験也矣。

 要約しますと、宗大神の御託宣のごとくに、三女神を一所に遷座した。これは田島の海辺にあって異国に向かい、「三神一体、倶体倶用、一致幽明霊徳」をもって、未来永劫にわたって「本朝鎮護異国征罰(伐)之霊験」を施すためだといった内容でしょうか。
 三女神三殿祭祀とそれにまつわる神仏の複雑な配置関係には「無理解」を通させてもらいますが、その複雑祭祀の意図が「鎮護国家」や「異国征罰(伐)」の「霊験」の発露にあったということは、宗大神がそれを望んだかどうかは別のことですが、一応「理解」はできます。
 さて、以上の怒濤の複雑祭祀を一身に受けることになった、かつての辺津宮(第三宮)の神ですが、この旧辺津宮が特に「地主宮」とみられていたことに、少し掘り下げの理解をしてみたいとおもいます。
 鎌倉時代末に成る『宗像大菩薩御縁起』でしたが、『宗像神社史』は、この『御縁起』ができる前の健治三年(一二二七)成書の「宗像三所大菩薩宮々御在所御座次第」には、惣社・中殿・地主宮の各「御正体」(御神体)の記述があることを紹介しています。それによりますと、惣社・中殿には菩薩像がみられるも、「第三宮(地主)の御正体は石体で、床上に彩色した三重の地盤があり、その上に奉安せられ、その傍には青瑠璃色の石箱がおかれてゐる」とされます。第三宮(地主)だけは「石体」を「御正体」としているらしく、したがって、「第三宮は最も古態を存する」との指摘もなされ、いかにも「地主宮」にふさわしい神体のようにおもえます。神社史の記述を読んでみます。

第三宮(地主)の大菩薩は御正体が石体にましまし、他の二所(惣社・中殿…引用者)のやうに造像でなく、加ふるに傍らには「その内においては、人これを知らず。」(前掲御座次第)といふ神秘の石箱が置かれてゐる。右の御正体である石体は、今日も辺津宮境内摂社第三神社の内陣に奉安せられてゐる。ピラミッド型のもので、高さ七寸程の海石の如く拝される。ただし青瑠璃色の石箱は今日は残されてゐない。

 かつての辺津宮である第三宮(地主)の「御正体」である「石体」について、その形状は「ピラミッド型のもので、高さ七寸程の海石の如く拝される」と書かれています。この形状の「石体」から、わたしが酷似しているなとおもったのは、内宮の禊ぎ場(御手洗場)近くにポツンとまつられている滝祭宮の「石体」です(『エミシの国の女神』の裏表紙に写真)。滝祭宮と荒祭宮は同体の神をまつるもので、前者は石体、後者は鏡を神体としています。
 なお、第三宮(地主)には、この「石体」の隣りに、中味は「人これを知らず」とされる「神秘の石箱」があったというのも興味深いです。神社史は、この石箱の中味について、「敢て推測するならば、西海道風土記逸文に見える「表[みしるし]」の類が奉安せられてゐたのではあるまいか」と、傾聴すべき指摘・推測をしています。風土記逸文を再読してみます。

西海道[さいかいだう]の風土記に曰[い]はく、宗像大神、天より降[くだ]りまして埼門山[さきとやま]に居[ゐ]ましし時、青蕤[あをに]の玉を以[も]ちて、奥津宮[おきつみや]の表[しるし]に置き、八尺瓊[やさかに]の紫玉[むらさきだま] を以[も]ちて中津宮[なかつみや]の表[しるし]に置き、八咫[やた]の鏡を以[も]ちて辺津宮[へつみや]の表[しるし]に置き、此の三つの表[しるし]を以[も]ちて神のみ体[み]の形[かた]と成[な]して、三つの宮に納め置きたまひて、即[やが]て隠[かく]りましき。〔後略〕

 風土記時代(天平時代)、奥津宮(沖津宮)・中津宮には二種の「玉」がまつられ、辺津宮には「八咫の鏡」がまつられたようです。鎌倉時代には、すでに「その内においては、人これを知らず」と、その中味を見ることが禁忌(タブー)とされていたらしい辺津宮(第三宮=地主宮)の「神秘の石箱」の中に、この「八咫の鏡」が納められていたと想像しても、それほどの狂いはなかろうとおもいます。なお、この「八咫の鏡」を見ることの禁忌性とも関わるはずですが、『宗像大菩薩御縁起』は、西海道風土記(逸文)を引用して、そのあとに、次のような付記をしていました。

或記曰、此八咫鏡者、三種之神器之中、内侍所鏡土同体異名也、云々。仍当神與内侍所一体異名也。然則本朝鎮護之霊宝、三韓征伐之霊神也。天下仁有怪異時者、此二玉一鏡霊光於放玉恵利。

 要約を試みますと、辺津宮にまつられる八咫鏡は、三種の神器のなかの鏡(と同体)をまつる宮中内侍所の鏡と「同体異名」である。よって、当神(辺津宮の神または宗像大神)と内侍所にまつる神とは「一体異名」である。すなわち、この鏡は「本朝鎮護之霊宝」であり、これに憑依するのは「三韓征伐之霊神」である。天下に怪異あるときは、この「二玉一鏡」は霊光を放ちたまえり──。
 内侍司は、女官のみで構成される後宮十二司の一つで、天皇の勅命等を太政官に中継ぎ的に告げる(逆もありですが)、いわば天皇の第一秘書といった役割を担っています。そこに、三種の神器の一つである八咫鏡と同体鏡が奉安されていて、その鏡に憑依する神と辺津宮の神は「同体異名」「一体異名」だとの認識が語られています。宗像大神が神宮祭祀といかに深く関わっているかがよく伝わってきますが、「或記」はさらに、この辺津宮神(宗像大神)は「三韓征伐之霊神」だともつづけています。
 辺津宮=第三宮(地主)の主神(中心神)は『日本書紀』本文に準拠して「市杵嶋姫」とされています。しかし、この神を「三韓征伐之霊神」とする所伝は、「正史」のどこを探しても出てくるものではありません。ただし、書紀の前の成書である『古事記』をみるならば、辺津宮の神は「多岐都比売命」とあり、また、この記の所伝は書紀の一書(第二)にも採用されていますから、それらの所伝を重視して、辺津宮神を多岐都比売命=湍津姫命とみなすならば、「三韓征伐之霊神」と無縁ではないという認識は成り立ちます。もっとも、これには、湍津姫をまず同体異名の瀬織津姫神に読みかえ、さらに、この神を「三韓征伐之霊神」と見立てられた天照大神荒魂に読みかえるという、二つの面倒な手続きを経る必要があります。あるいは、辺津宮神とされる「市杵嶋姫」を瀬織津姫命の「別名」とする静岡市の瀬織戸神社の由緒を挙げれば、もっとシンプルな話になるのかもしれません。
 以上は、宗像三女神の祭祀にはいくつもの揺らぎや不整合性があるということの一考察ですが、湍津姫を「海浜[へつみや]に居す者」と記していた書紀一書(第二)の所伝で想起されるのは、やはり、青森県八戸市の御前神社に伝わる、かつての祭神・瀬織津姫についての歌(秘歌)です。

みちのくの 唯[ただ]白幡旗[しらはた]や 浪打に 鎮りまつる 瀬織津の神

 陸奥[みちのく]の東海の「浪打」(海浜・海辺)に鎮祭された、「白幡旗[しらはた]」(白幡・白旗)を依代とする「瀬織津の神」へ捧げた、御前神社宮司の万感を込めた歌の意は、宗像田島の海浜(辺津宮)にまでよく届いているものとおもいます。

鬼門の貴船神──宗像大宮司が私祭する神

更新日:2010/4/21(水) 午前 9:45

 九州北部の神社祭祀の特徴の一つに貴船神社が各地にまつられているということがあります。高原三郎『水(雨)の神の系統と分布の研究』(私家版、大分県立図書館所蔵)によりますと、貴船神は、福岡県に九五九社、大分県に四八一社、熊本県に一〇社、鹿児島県に九社、長崎県に八社、宮崎県に六社、佐賀県に五社が確認できるとのことです。福岡・大分の二県で一四四〇社という多さで(九州全域の九七%)、この二県に限られた貴船神の集中祭祀は尋常ではありません。なお、この調査は、神社本庁所管の神社明細帳(昭和二十八年)に基づくもので、福岡・大分両県については「明治の神社明細牒や郷土資料で小社まで補記」したと注されています。他県も同じように追加調査をすれば「補記」分として増えるかもしれませんが、それにしても、祭祀分布に大きな変動があるとはおもえません。
 福岡・大分両県に、なぜこれほど貴船神が集中してまつられているのか──。ちなみに、京都にある貴船神社本社ですが、こちらの社伝では、全国への分社は五〇〇余社としていて、福岡・大分両県で一四四〇社という異例の祭祀数ですから、九州北部では、貴船神が一人歩きしてまつられている、あるいは、一人歩きして民衆祭祀の場でまつられているということになりそうです。
 高原氏の研究タイトルにみえるように、貴船神は「水(雨)の神」として知られます。宗像大神もまた「水」の神徳をもちますから、祈雨・晴雨に関わる水神祭祀を望むならば、なにも京都の貴船神をまつらずとも、地元の宗像大神をまつることで足りたはずです。しかし、宗像大神は、本来の「水」の神徳よりも、朝廷から「鎮護国家之霊神」といった国家神的性格を強く期待される傾向にあり、また祭祀側もそれを自認していましたから、雨乞いなどの民衆祭祀の場に降りてくるにはそぐわない神だったのかもしれません。あるいは、漁民の神ではありえても、農民の神となるには一線が引かれていたということかもしれませんが、いずれにしても、これは宗像大神にとっては不幸ともいえる神格の限定だったことにちがいはありません。
 ところで、宗像大神を三女神として「惣社」にまつるも、自らの屋敷の「丑寅(艮)」の方位、つまり「鬼門」には「氏人擁護之誓」のもとに「貴船大明神」をまつっていた宗像大宮司でした(『宗像大菩薩御縁起』)。ここでいう「氏人」は大宮司のことですが、これは大宮司屋敷の鬼門の神、かつ大宮司の守護神(擁護神)として貴船大明神をまつっていたと理解できます。つまり、辺津宮惣社の三女神祭祀という公的祭祀(公祭)に対比させますと、これは明らかに「私祭」といえます。
 宗像大宮司にとって「貴船大明神」とはどのような神であったのかについては、『御縁起』ほかが直接的に語ることはありません。つまるところ、貴船神とは何かということになりますが、これについて考えるには、ほかのアプローチが必要のようです。
 昭和六年(一九三一)から同十九年(一九四四)にかけて、伊東尾四郎の編纂による『宗像郡誌』全三巻が刊行されます(一九七二年に名著出版より復刻版が刊行される)。上巻の第一章には、宗像郡内の神社が、官幣大社(宗像神社)から村々の無格社に至るまで網羅的に収録されています。伊東の編纂姿勢は、私見を交えず、あくまで資料・史料によって、その記録を残すといった方法だったようで、江戸期から昭和前期に至る、各社の祭神・由緒の変遷をみるには好著です。
 神社収録における脱漏の問題についてはここで判断できませんけれども、宗像郡内に限定しても、貴船神社は相当数まつられていたことがわかります。ただし、その多くが明治期から昭和前期にかけて他社に合祀されたり、境内社とされたりしていて、しかも「由緒不詳」がほとんどといった特徴があります。貴船神は、村々の小祠にまつられていたということのようですが、多くの由緒不詳の貴船神祭祀のなかで、例外的に長い由緒がみられる社があります。「津屋崎町大字津屋崎字古小路にあり」とされる波折神社です。
 寛政五年(一七九三)、福岡藩黒田家家臣・加藤一純の編著で、『筑前続風土記附録』が藩主に献上されます。同書は「波折宮」の名で、次のように書いています。

波折宮〔コシヤウジマチ浦〕〔神殿五尺間三間社、拝殿二間半三間半、祭礼九月十九日、石鳥居一基、奉祀惣ノ市。〕
産神也。祭る所住吉明神、志賀明神、貴船神なり。社家の説に、神功皇后此神を祭り給ひし所なりといふ。或云。古しへ此浦の漁夫三人、海洋に出てゝ釣りせしに、俄に風起りて浪高く、船覆らんとす。時に漁人風難を凌ん事をいのりけるに、海中より三神出現し、護助し給ひ、浪花[ナミ]を折て〔折とは凌といへる意なるへし。〕やうやく鼓嶋に漂着し、風波の穏かなるを待けり。時に又神出現し給ひ、飢を救ひ給ふ。かくて其神は立さり給ひぬ。其跡に船中に三つの霊石を得たり。漁夫等奇異の思ひをなし、奉持して神体とあがめ、社を建て斎きまつれり。因て波折宮と号すとなん。〔後略〕

 ここにみられる貴船神は、住吉明神・志賀明神とともに神功皇后の祭祀に関わるらしく、難破した漁夫三人を救った神としての由緒が語られています。ここでの貴船神には「水(雨)の神」といった要素はあまりないようで、神徳的にいえば、航海守護の神といってよいでしょう。
 文化十一年(一八一四)から幕末にかけて、加藤一純と同じ黒田家家臣・青柳種信の編著による『筑前続風土記拾遺』が刊行されます。こちらは社号を「浪折神社」とするも、ほぼ前記『附録』と同内容を掲げ、「所祭住吉明神、志賀明神、貴布禰明神也」と、貴船神は「貴布禰明神」と表記されます。また、明神たちの「奉祀は此浦の巫女なり」と書かれているのが特徴です。
 以上、江戸期の史料をみるかぎり、貴船神・貴布禰明神は波折神の一神だったことがわかります。郡誌は、その後の明治期・大正期の史料は割愛するも、昭和前期の「神社帳」を収録しています。ここでは、貴船神の名は消え、意外とも当然ともいえる神の名が表記されることになります。

一、祭神 住吉大神 瀬織津姫神 志賀大神 菅原神 宇気毛知神

「神社帳」は、由緒の項を「伝曰、往昔息長足姫命三韓ヨリ凱陣シ給ヒシ時、此三神鼓嶋ニ現シ給ヘリ、因テ姫命此海辺ノ河原ニ神籬ヲ造リテ、斎祠アリ」と書き出し、江戸期の由緒に記されていた難破譚を再録しています。
 昭和前期、波折神は、住吉大神以下五柱神として記載されていますが、「神社帳」は由緒記載のあとに、「菅原神」と「宇気毛知神」については「大正五年十一月二日許可ヲ得テ合祀セリ」と明記していますから、江戸期までの貴船神・貴布禰明神は、昭和前期には「瀬織津姫神」と表示されたことがわかります。
 貴船神は、神道世界の一般認識からいえば、タカオカミ・クラオカミといった名で表示されることが多く、それを瀬織津姫神とする波折神社の祭祀事例は例外的にみえます。しかし、ほかに同例がないわけではありませんから、以下、それらにもふれておきます。
 宗像神社は、古来、宗像郡内の末社七五社、一〇八の神々を所管祭祀するとされます。ここで興味深いのは、この津屋崎・波折神社は、その末社群から除外されていたことです。ただし、波折神社は、田野郷鎮座の同名社もあり、こちらが末社扱いとなっています。
 天応元年(七八一)に辺津宮が惣社化されると、それまでの辺津宮は第三宮(地主宮)として境内社化されます。『宗像大菩薩御縁起』は、惣社の田心姫を中心とする三女神祭祀に加え、中殿には湍津姫を中心とする三女神祭祀を記すとともに、この第三宮(地主宮)にも、市杵嶋姫を中心とする三女神祭祀を記しています。その配祀神の第一神(田心姫)の眷属神として「小神浪折〔本地観音〕」の名がみられます。
『宗像神社史』(上巻)は、「延宝末社帳」なる延宝時代(一六七三~一六八一年)の神社調べには「浪折明神 神直日命」との記載があり、下って明治八年(一八七五)の「宗像神社辺津宮末社取調書」には「浪折神社 住吉大神・志賀大神・貴船大神」と書かれるようになるといった変遷記載を収録しています。神社史は、さらに、明治八年以後の「明細帳」(郡誌の「神社帳」)の記載を要約して、「(浪折社)祭神を瀬織津姫命・住吉神・志賀神とする。大正十三年十月八日、許可を得て、同村(池野村)の依嶽神社(旧村社)の境内社として合祀された。現在同社の向つて右後方の三小殿のうち、右端の社がそれである。旧址は向田野のウヱダケにある」と、その合祀過程の詳細を明らかにしています。
 神社史にみられる、「浪折明神 神直日命」→「住吉大神・志賀大神・貴船大神」→「瀬織津姫命・住吉神・志賀神」といった祭神変遷からいえるのは、浪折(波折)神はもともと一神だったこと、それと、ここでも貴船大神が瀬織津姫とみなされていたということです。
 貴船神として瀬織津姫神をみなす事例は、以上の二例ばかりではありません。
 福岡県豊前市久路土字白旗森に鎮座する石清水八幡神社に、明治四十三年(一九一〇)に合祀された貴船神社があります。この貴船神社の由緒について、『豊前市史』(下巻)は、次のように記しています。

貴船社  元村社  広瀬字ワサ田

 諸社御鎮座祭記縁記に「豊前国上毛郡黒土庄広瀬村社 貴船社祭神瀬織津姫・高#40855;・素盞嗚尊 一、瀬織津姫神者古時日向小戸檍原ヨリ御影神也高#40855;・素盞嗚尊者人王五十九代宇多天王[ママ]丁巳歳在神託同殿合祭也〔後略〕」

 福岡県外にまで視野を拡げれば、瀬織津姫神と貴船神を同神とする祭祀事例がないわけではありませんが、宗像大宮司の鬼門の守護神としての貴船大明神がどういった神を秘めていたかを断定するには、以上の三例でじゅうぶんかとおもいます。宗像三女神の一神・湍津姫神と同体ともされる瀬織津姫神を、宗像大宮司が特に「私祭」していたこと──、このことが何を示すかは、ここに多くのことばを費やす必要はないでしょう。公祭と一線を画す私祭は「秘祭」に相当するはずです。この「秘祭」がその後どう変遷していったかは、諸書がよく語ることではないようです。
 ちなみに、『宗像大菩薩御縁起』は、田心姫と市杵嶋姫については、その神威・霊験の説明をしていませんでしたが、湍津姫については、次のように書いています。

第二神者、示玉於居於中海之息。今号大嶋是也。厳重之奇瑞多之。居玉中瀛。是於奉号湍津姫。

 玄界灘の中海の大嶋(大島・中津宮)にいる(宗像)神は「厳重之奇瑞」が多く、これを湍津姫と名づけ奉るといった内容です。「厳重之奇瑞」を示す神として、湍津姫が特定されていることから、宗像氏男大宮司に強烈な託宣をしていた「宗大神」とは、この神だったとみてよいのかもしれません。