天女の行方──六角牛神社と綾織・光明寺伝説

更新日:2012/1/1(日) 午後 6:43


▲常堅寺境内・十王堂(最上段に閻魔大王がみえる)

 六角牛山の天女(天人児)伝説には、二つの後日譚があるようだ。『遠野物語拾遺』第三話の末尾に、それは暗示されているといってよいかもしれない。天女が天へ帰る羽衣を取り戻すために、手自ら織った「曼荼羅」と、水浴をしていて羽衣を盗まれたという池(沼)の神にまつわる話である。

曼荼羅は後に今の綾織村の光明寺に納めた。綾織という村の名もこれから始まった。七つの沼も今はなくなって、そこにはただ、沼の御前[ごぜん]という神がまつられている。

 沼は六角牛山からの伏流水の湧出によってできたものだろう。第三話は「七つの沼も今はなくなって」と書いていたが、第四十三話には、そうではないらしい話が書かれている。

 青笹村の御前の沼は今でもあって、やや白い色を帯びた水が湧くという。先年この水を風呂にわかして多くの病人を入湯せしめた者がある。たいへんよく効くというので、毎日参詣人が引きもきらなかった。この評判があまりに高くなったので、遠野から巡査が行って咎[とが]め、傍にある小さな祠まで足蹴[あしげ]にし、さんざんに踏みにじって帰った。するとその男は帰る途中で手足の自由が利かなくなり、家に帰るとそのまま死んだ。またその家内の者たちも病気にかかり、死んだ者もあったということである。これは明治の初め頃の話らしく思われる。

 読み飛ばすには穏やかでない話が書かれている。天あるいは六角牛山へ帰っていなくなった天女の代替のようにしてまつられた「沼の御前という神」(水神)だったが、それが「多くの病人」を救う神徳をもつ一方で、たとえ「巡査」という公権力であろうとも、神への不遜行為がなされたときは強烈な怒りを発するという劇的な変貌が暗示的に書かれている。「これは明治の初め頃の話らしく思われる」とは、柳田國男の所感だが、「明治の初め頃」という推定が、話をよりリアルなものにしている。明治期初頭には、皇国(天皇の国家)の神まつりにふさわしくない庶民の神々は邪神・淫神とみなされ、政府による廃神意図の猛威が全国に荒れまくっていたといってよく、そういった国家の神祇策を、遠野郷の現場末端で体現していたのが、物語における「巡査」だった。

 ところで、六角牛山の山神をまつる社として、六神石神社と六角牛神社がある。六神石と六角牛はともに「ろっこうし」と訓むが、しかし、両社には、その祭祀姿勢に大きなちがいがある。


▲六神石神社【社頭】


▲太瀧神社(六神石神社本殿の真裏にまつられる)

 六神石神社は、由緒に「大同二年(八〇七)時の征夷大将軍坂上田村麻呂、蝦夷地平定のため蒼生の心伏を願い、神仏の崇拝をすすむ。時に六角牛山頂に薬師如来、山麓に不動明王、住吉三神を祀る」としている(『岩手県神社名鑑』)。しかし、江戸期の宝暦九年(一七五九)、盛岡藩による社堂調べの記録『御領分社堂』には、六角牛山大権現の項に、別当は「真言宗善応寺」、「縁起無之、但開基大同年中ト申伝候」とあり、時代がだいぶ下った昭和十四年の『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)においては、同社祭神を「大己貴命、誉田別命」としている。田村麻呂が住吉三神ほかをまつったとする現行の由緒がつくられるのは、昭和十四年以降、あるいは戦後という可能性さえあるのである。
 この六神石神社の本殿の真裏には太瀧神社がまつられているが、そこの説明板には、「大同年間坂上田村麻呂将軍が六角牛山麓に祀られたのがはじまりと云われ、祭神は日本武尊[やまとたけるのみこと]で、昔は不動明王と云い、お不動様と親しまれて来た」などと書かれている。太瀧神が「お不動様と親しまれて来た」ことは事実だろうが、その「お不動様」と習合する滝神を「日本武尊」とする不自然さは目に余る。


▲六角牛神社【社頭】


▲六角牛神社【拝殿】


▲社殿から六角牛山を望む

 もう一方の六角牛神社は小さな社だが、ここは六神石神社とはちがい、社殿を拝む先には六角牛山が聳えている。つまり、山岳信仰の基本的な姿がここには認められる。境内の「記念碑」と題された石碑の文面を読んでみる。

 六角牛山は、太古より遠野郷三山の三姉妹の大姉神が鎮座せられる御山で、現在此の社にはふくよかな薬師如来立像、脇士に飛天が御祀りされてあります。
 昔、私達の先祖が御山に様々な祈願を致しましたが、現在も同じく、時代を越え、子子孫孫まで未来永劫、六角牛山の美しい山霊に敬神の心を捧げ、昭和六十二年十月吉日社殿を再建し記念として神前に此の碑を建立するものであります。

 六神石神社の祭祀からはみえてこなかった六角牛山の天女(天人児)は、ここ六角牛神社においては「飛天」の名でまつられている。「六角牛山の美しい山霊」が、ここではくっきりと信仰の対象となっている。「遠野郷三山の三姉妹」の母神として瀬織津姫神があり(上郷町来内・伊豆神社)、その瀬織津姫(不動尊を本地とする滝神でもある)の分神(子神)が、この小さな社において大切にされている。六神石神社とはあまりに対照的である。
 別当の小水内氏の案内で内陣を拝見させていただいたところ、そこにはなぜか薬師如来はみあたらないものの、内陣奥に飛天(天女)像がまつられている。その像姿は、神遣[かみわかれ]神社の三女神石像の一神(六角牛山の女神像)と同系のようだ。


▲六角牛神社の飛天(天女)像


▲神遣神社の三女神石像(向かって右が六角牛山の女神像)

 さて、六角牛山の天女(天人児)が織った「曼荼羅」は、「今の綾織村の光明寺に納めた。綾織という村の名もこれから始まった」としていたのは『遠野物語拾遺』第三話だったが、それとの関連話としてある、第四話も読んでみる。

 綾織の村の方でも、昔この土地に天人が天降[あまくだ]って、綾を織ったという言い伝えが別にあり、光明寺にはその綾の切れが残っているという。あるいはまた光明寺でない某寺には、天人の織ったという曼荼羅を持ち伝えているという話もある。

 遠野郷における天女伝説は、天女が自ら織った織物(「曼荼羅」「綾の切れ」)が実在しているとする。伝説をただの伝説に終わらせないとするのは、遠野物語の全体的傾向でもある。


▲光明寺

 拾遺の第三話・第四話に共通して出てくるのが綾織の「光明寺」である。同寺は、曹洞宗の寺で、正確には照牛山光明寺という。いただいた案内によると、曹洞宗・照牛山光明寺としての開創は永禄三年(一五六〇)だが、本尊・釈迦牟尼仏の脇本尊とされる阿弥陀如来立像(遠野市文化財)は室町時代のものとされ、また『善明寺文書』には、金光上人(一二五七年寂)が綾織の光明庵に立ち寄ったという記録があり、草創はかなりさかのぼることが考えられる。
 宗派のことはともかく、かつての光明庵、あるいはその前身となる寺の本尊が阿弥陀如来だったのかもしれない。『いわてのお寺さん──南部沿岸と遠野』(テレビ岩手事業部)によれば、この阿弥陀如来は、永禄三年の光明寺開創時、廃寺跡の土中より掘り出されたもので、光明寺本尊・釈迦牟尼仏の「裏本尊」として祀ったとされる。現在は「脇本尊」といっているが、いずれにしても、光明寺との仏縁の深さを伝えている阿弥陀如来である。


▲お曼荼羅

 光明寺へうかがえば、この天女伝説ゆかりの「曼荼羅」を見せてもらえる。案内「お曼荼羅と地名『綾織』の由来」には、次のように書かれている。

 この《お曼荼羅》光明寺に伝わった経緯は詳らかではないが、光明寺に伝わる伝説によれば、その昔、天女(天人児=てんにんこ)が天から舞い降りて来て、猿ヶ石川の御前淵で羽衣を岸辺の松の枝に掛けて水浴をしていたとき、そこを通りかかった猟師が見つけて、その羽衣を遠野の街に持って行き商人に売り、その代価で酒を飲み、良い機嫌で帰ってきた。
 一方、羽衣がなくなったことに気がついた天女は、猟師を待ちうけて「あの羽衣がなければ私は天に舞い戻ることができません。どうか返して下さい」と猟師に頼みました。それを聞いた猟師は大変気の毒なことをしてしまったと思いましたが、羽衣を売ったお金で酒を飲んでしまい、羽衣を買い戻すことができず、ただ謝るばかりでした。
 そこで天女は「それでは羽衣よりも立派な織物を織りますから、それと羽衣を取り替えてもらって下さい」といい、それから天女は蓮沢の沼(今の長岡部落にある地名、蓮沢という屋号の家もある)の蓮から糸をつむぎ、川向いに平屋(今も向部落の駒形神社の手前に平屋という屋号の家がある)を建ててもらい、そこで機織りをして立派な織物を織って猟師に託しました。
 猟師は早速それを遠野の商人のところへ持って行き、羽衣と取り替えて天女に返しました。天女は喜んでその羽衣を身に着けて天に舞い戻ったといいます。
 その時に天女が織ったという織物が、今ここに伝わる《お曼荼羅》です。この織物が生地に斜めの線が入った「あやおり=綾織」であったことから、現在の地名「綾織」が生まれたと伝えられています。

 この話は「光明寺に伝わる伝説」とあり、仮に物語拾遺に全文が採録されていたとしてもおかしくないかもしれない。この伝説は「綾織」の地名譚ばかりでなく、地元の屋号とも関連づけられ、より緻密なリアリティーを伝えている。その意味で、伝説としては完結の円環を閉じようとしている。
 ところで、光明寺へうかがって興味深いとおもえるのは、この寺が南面ではなく東面していることだ。つまり、東に聳える六角牛山と対面するように建立されている。山と寺を結ぶ東西のラインを考えると、想起されるのは、六角牛山には薬師如来がまつられていたことだ。とすると、光明寺からみて、六角牛山(の彼方)は薬師如来の浄土(東方浄土)ということになる。さらにいえば、光明寺の前身本尊は阿弥陀如来だったから、六角牛山からみれば、光明寺(の彼方)は阿弥陀如来の浄土(西方浄土)ということにもなる。これら東西の浄土を結ぶようにして天女伝説が存在していると仮定してみると、地上の束縛とは無縁の天女、それを象徴する自在な飛行姿も想像されてくる。
 曼荼羅の織物の上には、優美な天女像が描かれた額が架けられている。その横には、次のような解説が書かれている。

天女のいわれ
 天女とは、天上界に住み、仏を守りたたえる天人のことで、空中に舞うことから飛天ともいいます。絵画として描かれるようになったのは、中国の唐時代のことで、今から一四〇〇年前に敦煌壁画に見られます。これは、かつての中国の首都・西安よりさらに奥地に入ったところにあるシルクロードの敦煌・莫高窟の一一二窟に描かれている「舞楽図」の一部です。平成十二年に住職が敦煌をたずねた時に、保存のため写真撮影が一切禁止されているため現地の絵師に正確に模写をしていただいたものです。
 敦煌・莫高窟の壁画には、この外にも多くの飛天が描かれていますが、この飛天の絵像が遣唐使や遣隋使などにより、日本の法隆寺に伝わり、各地の羽衣伝説の主人公になったと思われます。


▲敦煌壁画の天女図(模写、光明寺所蔵)

 仏教世界には複数の天女がいるが、この画像の中心にいる天女は琵琶を背にして奏[かな]で、また、これが「舞楽図」の一部とあり、あるいは、日本で最もポピュラーな弁財天女(弁才天女)の原像であるかもしれない。光明寺へうかがう目的が伝説の「お曼荼羅」の拝見にあるにしても、この敦煌壁画の模写絵と対面できるのは、別様の価値があるだろう。
 曹洞宗本山・永平寺の鎮守は白山妙理大権現だが、日本あるいは早池峰・遠野郷には、仏(仏教)の守護神ともなり、白山妙理大権現かつ弁財天女(弁才天女)と深く関わる天女神(水神)が一神いることをあらためておもう。

遠野の小さな隠れ家へ──囲炉裏のある談話室【案】

更新日:2011/12/23(金) 午後 3:23


▲早瀬川と六角牛山

 転居先も決まらないまま、以前から借りていた遠野のアパートへ転がりこんで半年以上経った。この間に倉庫兼用のアパートをもう一つ借りたものの、二つ合わせての賃貸料──、これがバカにならない。
 小さくてよいから土地がないものかとあちこちの細道・路地を歩いていて、やっとよしとおもえる立地の土地をみつけ、さいわいに譲ってもらうことになった。少し細長い土地だが、これは名古屋の倉庫事務所で慣れているのでまったく問題はない。
 場所は早瀬川の土手に南面していて、要するに川原(河川敷公園)にすぐに下りられ、散歩やサイクリングするのによさそうだ。その気になれば釣りもできるが、盆の花火を鑑賞するには特等席となる立地のようだ。南は視界をさえぎるものがなく、川の向こうに物見山ほかがみえ、川の上流(東)方向には、遠野三山(三女神鎮座伝説)の一山である六角牛[ろっこうし]山がいい恰好で聳えている。
 これから日常の風景の一齣となる早瀬川と六角牛山なのだが、早瀬川については、『遠野市史』第一巻に、次のような歴史伝承が記されている。

 また、遠野町で猿ヶ石川に注ぐ早瀬川の源にある沓掛窟[くつかけあな]は、田村麻呂が征夷の時、観音像を安置した所といわれている。田村麻呂が夷賊大武[おおたけ]丸の余党を、観音の加護によって奥州七か所で討ったので、後に奥州七観音を建てたと伝えられるが、その一つが南部三閉にある、というのと関連があるのかも知れない。

 早瀬川は来内[らいない]川を合流して猿ヶ石川に注いでいる。来内川の上流にあるのが来内権現こと伊豆権現、現在の伊豆神社である。同社は、早池峰神社の元社・親社ともいわれ、遠野三女神の「母神」でもある「瀬織津姫命」をまつっている。早瀬川の同義略語といってよい早川・速川だが、富山県高岡市波岡や同氷見市早仮字滝尾の速川神社、また宮崎県西都市南方の速川神社などに関係の社号がみられ、いずれも「瀬織津姫命」を祭神としている(高岡市の速川神社については氏子諸氏の総意として「瀬織津姫命」の名を伝えている)。これらは「六月晦大祓」という大祓祝詞にみられる「高山・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比咩といふ神」を根拠とした社号といえよう。
 遠野郷の「速川」でもある早瀬川は、その源を「沓掛窟[くつかけあな]」としていて、ここに、坂上田村麻呂伝承によって語られる観音祭祀がある(あった)。曰く、「田村麻呂が征夷の時、観音像を安置した」というものだが、田村麻呂が早瀬川の水源地にまで行って、わざわざ観音(正確には十一面観音)をまつる可能性はまったくない。そこが蝦夷の巣窟であり、その蝦夷を田村麻呂が討伐して観音をまつったとする縁起(伝説)を当地に置いていったのは、達谷窟ほかと同じく円仁に象徴される天台宗徒とみてよい。高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版、吉川弘文館)は、「田村麻呂建立寺社伝説は、田村麻呂本人の与[あずか]り知らぬこと」と断じていて、わたしもそうおもう。ここには、早瀬川の水源神を観音(十一面観音)に置き換え、それを田村麻呂の所業とし、自らの作為を伏せた者がいるということだろう。
 早瀬川は、その上流の青笹・上郷地区においては、六角牛山を水源とする河内川・中沢川・赤沢川・猫川を合流して本流をなしているが、この六角牛山にしても、創作的な田村麻呂伝説に彩られている。同山の山神をまつる六神石神社の由緒に、それは顕著に表れている(『岩手県神社名鑑』)。
 しかし、民間伝承の世界へ降りてみると、そこには強ばった田村麻呂伝説ではなく、いわゆる天女(羽衣)伝説が語られることになる。たとえば、『遠野物語拾遺』第三話にはこうある。

 昔青笹には七つの池があった。その一つの池の中には、みこ石という岩があった。六角牛山のてんにんこう(天人児)が遊びに来て、衣裳を脱いでこのみこ石に掛けておいて、池にはいって水を浴びていた。惣助という男が釣りに来て、珍しい衣物[きもの]の掛けてあるのを見て、そっと盗んでハキゴ(籠)に入れて持って帰った。天人児は衣物がないために天に飛んで帰ることができず、朴[ほお]の葉を採って裸身を蔽うて、衣物を尋ねて里の方へ下りて来た。〔中略……天人児は、惣助の家で、蓮華の花から取った糸で「曼荼羅」という機を織り上げ、この別の織物をつかって本物の羽衣の衣裳を取り戻す話がはいる〕それ(衣裳)を隙を見て天人児は手早く身につけた。そうしてすぐに六角牛山の方へ飛んで行ってしまった。

 この話には後日譚もあるが、詳しく知りたい人は『遠野物語拾遺』を読んでいただきたい。六角牛山が天女(天人児)の山であり、この天女が織姫的性格をもっていることが伝わってくれたかとおもうが、早瀬川の上流域には、これら田村麻呂伝説や天女伝説に加え、金や鉄にまつわる鉱産伝説もある。幾層もの伝説の闇から流れ出してくるのが早瀬川とすると、その川沿いリバーサイド(井上陽水の歌詞にあった)に風琳堂事務所を構えるというのは、これもなにかの縁かもしれない。
 ここのところラフの建築間取り図をつくっていて、おもえば、名古屋で「都会の小さな隠れ家【案】」をすでに考えていたことがたたき台となっている。決して豪邸を建てるわけではない、あくまで使い勝手を優先した小さな家・事務所──、おおよその原案ができてみると、ここから少し「欲」が出てくる。それは、せっかく遠野にいるのならば、囲炉裏のある小さな部屋ができないものだろうかということだ。むろん予算のことがあるから確定とはいえないが、これはお願いする建築家との相談になる。

 しかし気が早いもので、遠方からの来客時などは、囲炉裏の火を囲んで、地酒・地肴で、早池峰神についてや伝説・歴史談議でもしたら楽しかろうなどと考えはじめている。
 ここ数日、雪が降ったり止んだりで、白の光景が日常の風景となってきた。沿岸部の冷え込みを肩代わりするわけにはいかないが、きっと季節に影響されてのことだろう、やはり囲炉裏の火に気持ちが傾いてきた。


▲雪化粧の六角牛山

早池峰信仰圏の措定──奥州藤原氏と新山祭祀【Ⅳ】

更新日:2011/12/13(火) 午後 5:39

 奥羽山脈の東、紫波郡紫波町土館に、新山[にいやま]という霊山がある(標高五五〇㍍)。現在は山頂付近に新山ゴルフ場ができて聖域・霊山の感は望むべくもないが、しかし、山名として「新山」と呼ばれるのは、ここに新山寺および新山堂(のちの新山神社)があったことによる。奥州藤原氏の時代、この両寺堂の信仰下に多くの坊舎があった。当地はかつての志和村で、ここには五〇〇戸の早池峯神社の崇敬者が記録されてもいた。
 新山寺は現存しないが、これは「近世の初頭になって盛岡城下に移転」したためである(佐藤正雄『紫波郡の神社史』岩手県神社庁紫波郡支部)。残る新山堂(新山権現)は、明治になって新山神社と改称、神仏習合の仏教色を廃し、そこから新たに神社としての単独祭祀がなされることになる。新山神社の由緒概要を知るには、『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁)の記述が、一応は参考になろう。

新山[にいやま]神社
  旧社格 村社
  鎮座地 紫波郡紫波町土舘字和山一番地
祭神 稲倉魂命
例祭 九月十七日
由緒
 大同二年(八〇七)三月十七日、征夷大将軍坂上田村麻呂が凶賊征伐の祈願として新山上平に勧請せり。その後康平五年(一〇六二)九月、源頼義・義家が安倍氏を征する時志和に陣し崇敬せりと伝えられる。
 天仁二年(一一〇九)鎮守府将軍藤原清衡新山寺を建立、その参道に十八カ所の坊舎を建てたが、火災のため烏有に帰したるがその跡現存す。
 文治五年(一一八九)九月、源頼朝陣ヶ岡に陣する時、寺領を寄進。頼朝の臣小山朝祐禅門に入り浄円と称し、竜雲山妙音寺、能化山安徳寺を建立し、嘉禄二年(一二二六)三月二十一日、安徳寺に寂す。
 また南部氏も特に崇敬深く寺領百二十石を寄進、明治三年(一八七〇)新山神社と改称す。
 現在の里宮境内地は、神社氏子家号前渡り阿部保三氏が面積五反一畝二十三歩を境内地として奉納、里宮を建立せり。その後明治百年記念事業として拝殿を新築、境内地を整備現在に至る。
 奥宮境内地より発掘された神鏡及び懸仏は明治三十九年(一九〇六)国宝参考簿に登録され、現在右二点の他に、計五点が岩手県文化財に指定されている。
 また陸中八十八カ所五十二番札所として広く崇敬されている。〔後略〕


▲新山神社(里宮)【社頭】


▲新山神社(里宮)【拝殿】


▲新山神社(里宮)【奥宮遙拝所】

 一読、虚実混在の由緒表現となっている。佐藤正雄『紫波郡の神社史』は、史学家の実証主義の視点で書かれた神社史で、国家神道はいうまでもなく、戦後の神社神道とも無縁に書くことを貫いていて好感がもてる。同書は、神社に関する古記録を巻末資料として収録してもいて、紫波郡内の神社史を考えるにあたって大いに参考となる。同書収録の明治十二年の神社明細帳をみると、当時、新山神社の祭神・由緒ともに「不詳」とあり、引用のように、虚実多弁な由緒がつくられるのは、明治十二年以後のことである。
 新山寺が盛岡城下に移転したあとのこととなるが、宝暦九年(一七五九)の「御領分社堂」(南部藩内の寺社調べの記録)には、新山神社の前身が、次のように書かれている。

 日詰通御代官所志和
一、新山権現 二間四面板ふき
一、羽黒堂  一間四面板ふき
 右何茂由緒不相知両社共新山寺持

 ここからわかるのは、新山寺が移転した跡地には羽黒堂がまつられていたことである。つまり、この羽黒堂が移転した新山寺を引き継ぐようにして新山権現を鎮守としてまつっていたとみられる。羽黒堂は明治期の神仏分離時に廃絶されるわけだが、その遺構からの出土物が、引用の由緒に書かれていた「奥宮境内地より発掘された神鏡及び懸仏」である。『紫波郡の神社史』によれば、この懸仏の像種は十一面観音である。
 佐藤氏は、その出土遺物の制作年代や羽黒堂の存在、および、ここには「藤原秀衡直属の刀鍛冶」がいて、藤原氏滅亡後、この刀鍛冶は「出羽の月山に移住して月山丸の銘刀を残した」といった伝承があることなどから、この新山権現社は「出羽三山系統のものではなかったか」と推定している。これは、そのとおりだとおもう。
 先に稲瀬・新山神社の由緒をみたが、そこには、「平泉奥州藤原氏は郷内の平安と繁栄を羽黒大権現に願請し奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立した」とあった。その「新山寺六百カ寺」のうちの一寺として、この紫波郡の新山寺(→羽黒堂)があるとすると、その鎮守である新山権現は羽黒山から勧請されたもので、これも羽黒権現ということになる。その創祀に関与していたのが藤原清衡と名指しされていたわけで、これは重視してよいこととおもわれる。
 羽黒権現の本地仏は、古くは十一面観音、のちに聖観音になるという変遷がある(戸川安章「出羽三山信仰にみる浄土観」、岩田書院『出羽三山と修験道』所収)。戸川氏によれば、聖観音の垂迹神として「倉稲魂神」が語られるようになるという(現在の出羽神社の祭神でもある)。土館・新山神社は、明治十二年時点では祭神不詳としていた。しかし、その後(現在)、自社祭神を「稲倉魂命(倉稲魂命)」としているのは、本社・出羽神社の祭神表示に整合させたものとみることができる。
 土館・新山神社の里宮は、境内由緒板には、昭和十年三月の創建とあり、決して古いものではない。この里宮があることで、新山山頂付近にある社は奥宮と表記されるが、その祭祀の本姿をみようとするならば、この奥宮(本社)を訪ねてみるしかない。


▲新山神社(奥宮)【鳥居と参道】


▲新山神社(奥宮)【拝殿】


▲新山神社(奥宮)【本殿】

 里宮の境内由緒板は、「平泉の藤原氏が山王海に金鉱を営み、この地に数多くの寺院を建立せり」と書く一方で、「文治五年、源頼朝が寺領を寄進、頼朝の臣、小山朝祐が浄円と称し新山寺を建立」などとしている。里宮では、新山寺の創建者は、『岩手県神社名鑑』の記載とは異なり、つまり、藤原清衡ではなく「頼朝の臣、小山朝祐」だとしていて、読む者を少し困惑させる。しかし、奥宮(本社)の由緒表示板には、「平安時代の後期、天仁二年(西暦一一〇九年)に藤原清衡が建立した新山寺[しんざんじ]が前身」とある。同じ新山神社内において、新山寺の創建者伝承一つをとっても不定感は消えないが、その点、奥羽全体に新山寺をまつらせたのは「平泉奥州藤原氏」と明言していた稲瀬・新山神社の由緒は貴重である。
 奥宮(本社)は、鳥居・参道・拝殿・本殿が一直線上に配され、社殿は南面ではなく東面している。社殿に向かって左横には羽黒堂(旧新山寺)の遺構礎石も残存しているが、『紫波郡の神社史』は「さらに山頂付近には上ノ寺や尼寺の跡も確認できる」と報告している。出羽三山のなかでも女人参詣を拒んでいないのは羽黒山のみで、羽黒堂・新山権現の上に尼寺が建立されているところをみると、ここは女性の信仰に開かれていたとの推定も可能だろう。つまり、「熊野的」でもある。
 同じ羽黒権現を新山権現としてまつり、しかし、稲瀬・新山神社は祭神を「瀬織津姫命」とし、土館・新山神社は明治十二年の「祭神不詳」から現在「稲倉魂命(倉稲魂命)」としている。土館・新山権現の本地が十一面観音とすると、早池峰信仰圏においては、この仏を本地としていたのは早池峰権現(新山権現)こと「瀬織津姫命」であったことが想起される。たとえば、早池峰山はいうまでもなく、北上市口内町の新山神社の由緒には、「本神社は、元新山権現と称し瀬織津姫を奉祀し、水押村の氏神として崇敬していた。御神体の仮表として十一面観音丈四尺の木像があるが、誰の作なのか不明」とある。また、奥州市江刺区広瀬の新山神社(祭神:瀬織津姫命)では、「文政九年(一八二六)九月の風土記によると、当時は新山権現であり、本地仏は千手観音で慈覚大師の作と伝えられている」などとされる(以上、『岩手県神社名鑑』による)。千手観音は十一面千手観音のことである。これらに、室根山祭祀における本地・十一面観音を加えてもよいが、早池峰信仰圏において「瀬織津姫命」と習合するのは、十一面観音か不動明王であることが圧倒的に多い。土館・新山神社の「祭神不詳」の背後に、どのような神がいたのかは気になるところだろう。


▲北上市口内・新山神社【社殿】


▲北上市口内・新山神社【由緒表示板】


▲江刺区広瀬・新山神社【社頭】


▲江刺区広瀬・新山神社【社殿】

 ところで、奥宮(本社)の新山神社が南面ではなく東面して建立されているというのには、おそらく、祭祀上における信仰的な意味が秘められているものとおもう。拝殿を背に参道を降りてきて気づくのは、正面の林が切り払われていて、視界が東に開かれていることだ。その正面(東)の遠方にみえるのが、早池峰山(と薬師岳)である。土館・新山神(新山権現)が早池峰山と対面するようにまつられていたのは、やはり示唆すること大きいといわねばなるまい。
 羽黒権現の垂迹神として「稲倉魂命(倉稲魂命)」をまつる出羽神社について、『出羽三山史』は、次のように説明している。

 出羽神社は出羽国の国魂の神である伊氐波神即ち稲倉魂命を祀る。伊勢外宮の豊受大神又稲荷大神と御同神で我々の寿命を保つ衣、食、住を司られる神で、その御神徳は普く世の人の知る処である。

 羽黒権現の本地を十一面観音から聖観音に変え、それと連動するように語られだすのが「伊氐波神即ち稲倉魂命」説である。しかも「伊勢外宮の豊受大神又稲荷大神と御同神」だという。こういった説明で、本来の「出羽国の国魂の神である伊氐波神」が納得するのかどうか。熊野三山を擬した出羽三山信仰発祥の根本にあたる羽黒山においては(も)、古層の祭祀として十一面観音と習合する羽黒権現がいた。そもそも羽黒権現とはなにか、あるいは、羽黒権現と習合する神とはなんだったのかという問いが、やはり残るようだ。


▲新山神社(奥宮)から望む早池峰山(奥左)と薬師岳(奥右)

早池峰信仰圏の措定──奥州藤原氏と新山祭祀【Ⅲ】

更新日:2011/12/12(月) 午後 4:49

 高田町の天照御祖神社は、その飛び地の末社を「大瀧神社(→禊瀧神社)」として、自らの親社であろう神宮(伊勢)の地主神(の一神)を「禊瀧神」としてまつっている。気仙郡の代表的河川といってよい気仙川(江戸期は「今泉川」と呼んでいた)流域の諸村が、昭和の初めの記録ではあるが、早池峰信仰圏であることを表明してもいた。気仙川流域が、早池峰大神こと瀬織津姫神を滝神として集中してまつってきた姿は、より鮮明になったのではなかろうか。もっとも、その祭祀には、修験者・山伏が深く関わっていた。
 昭和三年(一九二八)は昭和天皇の即位式「御大典」の年で、明治維新にはじまる国家神道の補強・再興期にあたってもいた。各神社の氏子にとって、それまでの社格が不本意のとき、この昭和三年に向けて、遠野・早池峯神社のように、社格の昇格申請のために多くの情熱が動員されている。伊勢神宮を頂きとする社格大系の階段を一つでも上にという志向は、なにも遠野・早池峯神社ばかりではなかった。
 和賀郡更木村(現:北上市更木町)に鎮座する新山神社(祭神:瀬織津姫命)は、明治期に「無格社」とされ、それが氏子諸氏にとっては不本意で、ここでも社格昇格の申請がなされている。こちらの申請書の標題は「社格変更願」、早池峰信仰の内実もよく伝えていて、これも貴重な資料といえる。以下、その申請文を書き写しておく(宮司・遠藤氏よりご提供、漢字は基本的に新字体に改めて引用)。

社格変更願
  岩手県和賀郡更木村大字更木第三十二地割百四十一番地
  無格社  新山神社
右神社延文二年里閭篤信ノ人々ノ請ヒニテ当神社現社掌ノ祖先ナル修験者ニ依リテ本県第二位高山タル早池峯ニ鎮座サルゝ新山宮ヲ勧請シタル由口碑相伝フ
早池峯ハ本村ノ高地タル水乞森(水乞森ニハ早池峯遙拝所アリ)ヨリ東北ノ彼方遙ニ雲表ニ聳エ岩手山ト相双ビ古来郷人崇敬ノ標的ニシテ男子一度ハ必ズ登山参拝スルノ慣例今ニ依然タリ
斯カル由緒アル神社ナルヲ以テ古来郷土ノ崇敬篤ク天正三年寛政七年 及び 慶應元年ノ三回社殿ノ改造毎ニ其ノ規模構造ヲ大ニシ来リタルノミナラズ同神社ノ御縁日ハ村ノ祭日トナリ社殿ノ修繕等ハ殆ント更木村一円ニテ負担シ社格ハ無格社ナルモ事実ハ村社ニ等シク殊ニ旧藩時代ハ藩主南部氏ノ支族南家ノ祈願所ニテ社領一石ノ寄進アリ例祭日ニハ代参者ヲシテ神饌幣帛ヲ供進サルゝヲ例トシ供進使ノ参着ヲ待チテ開扉スルノ慣ヒニテ維新前ニ至ル
斯カル由緒アル本神社ノ無格社トシテ今日ニ至リタルハ維新当時ノ大変動期ニ際シ適任ノ社掌ヲ欠キシ為メニシテ氏子一同之レヲ遺憾トシ来リシガ近年敬神思想ノ勃興ニツレ氏子ノ熱誠ナル敬神表示ハ列格申請ノ計画トナリ大正八年ヨリ新山講ヲ組織シテ基本金ノ造成ヲ企テ本年ニ至リテ第一次ノ予定額金一千二百円ニ達シタルト同時ニ境内地並ニ山林畑等ノ寄附ヲ見ルニ至リタルヲ以テ茲ニ村社列格ノ申請ヲ議決仕リ候
右事由ニ依リ社格変更相成度 由緒 境内及工作物図面氏子数 維持方法 基本財産調相添ヘ此段願上候也
 大正十四年
  岩手県和賀郡更木村大字更木第三十二地割百二十七番地
               社掌             遠藤重治郎【印】
       (以下、村内各地区の氏子総代者七名の署名・捺印がつづくが略す)


▲更木・新山神社【社頭】


▲更木・新山神社【社殿】

 更木・新山神社は、延文二年(一三五六)、信心篤い郷人の要請に応え、当社神職の祖先である修験者が早池峰山の新山宮を当地に勧請したのを創祀とする。当村の「水乞森ニハ早池峯遙拝所アリ」とも書かれ、早池峰・新山宮の神には、水神的神徳が期待されていたようだ。また、この水乞森より東北に聳えてみえる早池峰山は、古来、岩手山とともに郷人の崇敬の対象であったという。
 この勧請譚で興味深いのは、早池峰山を崇敬する郷人の要請に修験者が応えていることだろう。ここには、民心に寄り添うように修験者が存在していた実態が証言されている。宮司・遠藤氏に、祖先の修験者について尋ねると、羽黒修験とのことである。田村麻呂伝説に仮託して自社由緒を語りたがることが圧倒的に多いなかで、これは信用できる勧請譚といえる。
 氏子の総意あるいは熱意が通じたというべきか、更木・新山神社は無格社から村社へと社格昇格が実現したようだが、祭神を瀬織津姫命とする新山神社をみると、この更木・新山神社を除けば、あとはすべて無格社のまま戦後を迎えている。そのなかで、由緒に修験者の勧請を記している新山神社がもう一社ある。『岩手県神社名鑑』の由緒記載を読んでみる。

新山[にいやま]神社
  通 称 峯崎の新山様
  旧社格 無格社
  鎮座地 江刺市(現:奥州市江刺区)稲瀬字広岡九八番地
祭 神 瀬織津姫命
例 祭 四月九日
由 緒
 鎌倉時代、京都の修験日曜山礒元法印が国家鎮護を祈願し、この地に祀ったといわれている。
〔中略〕
宝 物 聖観音座像懸仏(市指定文化財)
氏 子 三三〇戸
崇敬者 一五〇〇人

 氏子・崇敬者の数をみるかぎり、無格社ではなく村社であったとしてもおかしくはないが、それはおくとして、このあっさりとした由緒のなかに、勧請者として「京都の修験日曜山礒元法印」とある。
 しかし、社務所でいただいた由緒書には、詳しい創祀経緯が書かれていて、読むに値するのはこちらのほうだろう。

御由緒
 平泉奥州藤原氏は郷内の平安と繁栄を羽黒大権現に願請し奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立したという。その一寺に都より下向した修験日曜山大聖院[だいしょういん]礒元[いわもと]法印が聖観音を祀り広く郷内の信仰を集めた。安永二年(一七七三)の倉澤村風土記には鎮守峰崎新山権現社とみえ、境内には当時で幹径一丈三尺と一丈一尺の爺杉[おじすぎ]・婆杉[おばすぎ]が聳え立ち、まさにその歴史の古きを物語るものであった。また棟札より現在の拝殿は享保十二年(一七二七)の再建によるものと知る。明治の神仏分離・修験道の廃止により新山神社と御改称、現在に至る。


▲稲瀬・新山神社【社頭】


▲稲瀬・新山神社【社殿】


▲稲瀬・新山神社【境内にある早池峯塔】

 この「峯崎の新山様(瀬織津姫命)」の由緒には、わたしたちに新たな探索を促すといってよい、とても興味深いことが、少なくとも三つ書かれている。その一は、「平泉奥州藤原氏は郷内の平安と繁栄を羽黒大権現に願請し奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立した」とされること。その二は、この新山寺の鎮守として新山権現がまつられ、それが明治以降、新山神社に転じていること。その三は、早池峯権現=新山権現ではなく、羽黒山系新山権現の垂迹神として「瀬織津姫命」が祭神とされていること。
 その一の、奥州藤原氏による羽黒権現の崇敬については、『出羽三山史』(出羽三山神社発行)が「羽黒山はこの平泉の藤原氏を大坦那とし、深い崇敬を受けて、その繁栄を得たと思はれる事は羽黒の旧記に伝ふるところである」と書いているように、これはまちがいないとおもわれる。その信仰の内実として、藤原氏が「奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立」したとされる「六百カ寺」という寺数については確かめようがないが、この新山寺の鎮守として新山権現をまつり、それが新山神社となる経緯を勘案すれば、東北地方に新山祭祀が集中してみられる、もっとも納得のいく理由とはいえるかもしれない。
 この稲瀬・新山神社の境内には「早池峯塔」と刻まれた石碑があり、ここが早池峰信仰圏域にあることを示している。全国的な視野からいえば、瀬織津姫祭祀の最後の核[コア]としての圏域、それが早池峰信仰圏とみてよいのだが、平安時代末の奥州藤原氏は、自らが管領する奥羽全体の鎮護を羽黒権現に「願請」している。これは、早池峰権現の信仰は地域的に限局され奥羽全域に及ぶものではなく、奥羽全体の鎮護に耐えられるのは、出羽三山の中心にいる羽黒権現であるという認識が、おそらく奥州藤原氏にあってのことだろう。しかし、その羽黒権現(新山権現)の垂迹神として、早池峰神でもある瀬織津姫神をまつっているのが稲瀬・新山神社である。これは、羽黒山信仰あるいは出羽三山信仰とはなにかという新たな問いを喚起させずにおかないし、最後には、奥州藤原氏にとって瀬織津姫神とはなにかという問いにも還流されてくることになる。
 新たな探究は別項を立てて展開するとして、ここでは、稲瀬・新山神社のほかに、奥州藤原氏(その初代にあたる藤原清衡)が新山寺を建立したとする由緒をもつ新山神社があるので、それにもふれておくことにしよう。
(つづく)

早池峰信仰圏の措定──奥州藤原氏と新山祭祀【Ⅱ】

更新日:2011/12/9(金) 午後 7:33

 さて、早池峰信仰圏を総合的にみるならば、その信仰圏域は山の南方に展[ひら]けているといえそうだ。
 遠野側の「崇敬者調べ」の依頼に応じなかった早池峰山南域の村々の中にも、早池峯大権現を新山大権現の名でまつってきたところが複数みられる。祭神を「瀬織津姫命」としている新山神社(早池峰峯神社)について、この資料に表れていない村々を北から挙げれば、新山大権現から早池峯神社へと社号変更した紫波郡土橋村、新山神社をそれぞれ有する和賀郡更木村、同郡水押村、江刺郡広瀬村、同郡稲瀬村がある。
 遠野郷一町九ヶ村の町村長の連署による「崇敬者調べ」の依頼は、決して強制力をもったものではなかった。この資料は、早池峰信仰を総合的にみようとするときの一指標にすぎないのだが、それでも、多くの、あるいは遠方の町村が協力したことがみえる。
 資料は仮の指標ではあるものの、早池峰信仰圏を措定する参考にはなるだろう。たとえば、内陸部信仰圏の南端は西磐井郡日形村(現在の一関市花泉町日形)で、ここは北上川流域の村でもある。この日形村のすぐ北にある真滝村は現在の一関市滝沢となるが、四〇〇戸の崇敬者が報告されている真滝村の村社は瀧神社(拝殿の扁額は「熊野白山瀧神社」)で、ここには、坂上田村麻呂が祓戸大神としてまつったとされる瀬織津姫神の名がみられる(ほかに伊弉諾尊・伊弉册尊をまつる)。ここが祓戸大神・熊野大神・白山大神の三大神の合祭社にもかかわらず、社号を瀧神社としているところに、同社の密かな主張があると理解できる。この瀧神社の氏子諸氏は、早池峰信仰をも共有していたことが想像される。


▲一関市滝沢・瀧神社拝殿の扁額

 また、和賀郡立花村は二〇〇戸の崇敬者がいると報告されていたが、同村にある多岐神社は祭神を「稲倉魂命」とするも、本殿背後に秘するように「新山様(新山宮)」をまつり、そこには「新山様は子を授け安産護りの子孫繁栄の宮です」、「瀬織津姫ノ命を祀る女性の神様です」と説明されている(詳細は「北上・多岐神社(新山宮)──妙見信仰の残照」参照)。
 ところで、早池峰信仰圏域が内陸部に限定されるものでなかったことは、気仙郡の多くの村々が「崇敬者調べ」に応じていることに表れている。これは「海からの早池峰信仰」を考える指標ともいえるが、三陸沿岸部をいえば、気仙郡北隣の上閉伊郡沿岸部(釜石町・甲子村・大槌町・栗橋村・鵜住居村)も加える必要があろう。これらの合計は、二町一四ヶ村で七八三四戸の崇敬者となり、早池峰信仰圏が三陸沿岸部に深く浸透していたことを想像させる。
 三陸沿岸信仰圏の南端にあたる気仙郡の村々を地図帳に落とし込んでいくと、かなりくっきりとみえてくることが二つある。一つは、気仙川流域に早池峰信仰が濃厚であること(源流部から川に沿って下るように列挙すれば、上有住[かみありす]村・下有住村・世田米[せたまい]村・横田村・竹駒村・矢作[やはぎ]村と集中している)。二つは、唐桑半島の北対岸にあたる広田半島の二村(広田村・小友村)が早池峰信仰圏域としてあること(この両半島にはさまれた広田湾に注ぐのが気仙川である)。
 資料の「崇敬者調べ」の依頼は岩手県内に限定していて、広田半島対岸の唐桑半島は宮城県になり、県外にまで調べの依頼はなされなかったにちがいない。唐桑半島には、熊野本宮神として瀬織津姫神をまつる、その名も瀬織津姫神社があり(現状は二〇一一年三月十一日の大津波で流され現存しないが)、この社の親称は「室根さん」で、室根山の大元神をまつることを告げていた(詳細は「室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること」参照)。
 気仙川流域の横田村には、多藝[たき]神社・瀧神社・清瀧神社・四十八瀧神社・大瀧神社があり、いずれも滝神として瀬織津姫神をまつっている(滝神としてではないが、洪水鎮護、つまり川の守護を願ってまつられた舞出神社もある)。瀬織津姫神が集中してまつられる気仙川の河口にあるのが高田村(のちの陸前高田市の中心部となる)だが、この神は高田村にもまつられている(現:陸前高田市高田町洞の沢)。『陸前高田市史』第七巻は、高田村の総社は天照御祖神社で、同社の末社に大瀧神社を記載し、祭神を「瀬織津姫命」としている。現地を訪ねてみれば、大瀧神社という社号は「禊瀧神社」と変えられ、大地震の疵痕も深いが、その衰退は眼をおおいたくなるほどだ。

▲大瀧(禊瀧)神社拝殿


▲大瀧(禊瀧)神社拝殿内景

 この大瀧神社(→禊瀧神社)は天照御祖神社の北方の小丘陵地にあり、市史は、天照御祖神社について、「本社は明治以前は神明社と称し、高田古館の中腹に巽の方向を臨み、町の安穏繁栄を願って建立」、神主の先祖は「羽黒派修験」と説明している。現在は南面するように遷宮・建て替えがなされているが、明治期の神社明細帳らしき記録には「此神社勧請年暦相知不申候」とあり、その創祀は定かでない。大瀧神社については「但東瀧ニ鎮座」とあり、ここが当社の故地である。相原友直『気仙風土草』(宝暦十一年)は、「東瀑布。不動堂あり祭日三月二十八日。瀧の高三丈余岩壁上より直下す。水幅三尺余なり。其勝景胸次を凉ふし類ひ希なる壮観なり。昔此不動堂の別当を明王院と云。今其末葉修験清浄院」と説明している。大瀧神は不動明王と習合する神でもあった。
 大瀧神社が東瀧(東瀑布)の地から現在地にまつられるのは明治期のことらしく、その遷座経緯の詳細は実のところはっきりしない。ただし、大瀧神社(禊瀧神社)の宮司・村上家からの聞き書きを元に、管野不二夫氏によって書かれた「禊瀧神社(通称お不動様)由来」には、興味深い逸話が書かれている。曰く、明治二十九年(一九〇六)、高田村が大火に遭ったときのこととして、「現在の玉家のあたりの葛屋根の家だけ一軒焼け残った。回りが皆焼けた中で不思議に思い訪れて見ると、その家には火を払う神が祀られていた」──。この「一軒焼け残った」家が宮司・村上家らしく、その後、木曽の御嶽神による「氷上の中腹次郎太郎杉に本尊あり」という夢告があり、この杉近くの滝中から本尊を発見、それを現在地にまつり「禊瀧神社」としたという。夢告による創祀のことはともかく、「火を払う神」という神徳を瀬織津姫神がもっていた同話は、遠野郷綾織村の愛宕神社にも伝えられていた(昭和七年『綾織村誌』、『円空と瀬織津姫』上巻所収)。
 この大瀧(禊瀧)神社の前身は、相原友直によれば、東瀧(東瀑布)の「不動堂」で、ここは氷上山を水源とする川原[かわら]川(祓川)の上流になる(氷上神社の傍らを流下する)。


▲川原川(祓川)

 海側の早池峰信仰圏を貫流する気仙川流域には、現在、瀬織津姫神を滝神とする祭祀が、この大瀧神社を含めれば六社みられるのだが、ここに、少なくとももう一社を加えることができるので、それにもふれておく。この社は高瀧神社といい、気仙郡住田[すみた]町世田米字野形に鎮座している。『住田町史』第四巻は、次のように説明している。

高瀧神社
 世田米に野形という集落地帯があり、国道より奥地に沢伝いに入ると、氷上神社の分神だとするお社がある。大きな音を立てて滝が落下していることから「高瀧神社」、「大瀧神社」などと称する。また、この地に散在していた神々をこのお社に合祀したという伝えがあり、そのため「高瀧十柱神社」とも呼ばれている。
 明治四十二年(一九〇九)十一月再建とあるので、それ以前のかなり古くから建立されていたものであろう。このお社は当初から修験山伏(明治四十二年の棟札には「祭主藤原吉房法印」の名がみえる…引用者)が関与していたことは、奉納されている品々によって明らかである。宝剣(鉄製)や鳥居の絵馬などが、数多く献納されていて、当町のお社では珍しいほどである。大きい宝剣もあるが鉄製の「わらじ」一足もある。宝剣は、武運長久を祈願するため奉納される風習であるが、現在は家内安全、病魔退散など、それぞれ願いごとは異なるものの、守護神としての神仏習合の風習は消えていない。
 本尊は、「不動明王」ではなかったかと思われる。不動明王は修験山伏の信仰仏であり、右手に剣、左手に縄を持って岩の上に座す。背に火炎を負い、顔は水波のひだを引き、右牙は上に出して左牙は下に向き、怒りのお姿をしている。病魔退散や家内安全を守る仏として全国いたる所に祀られているが、特に水に縁が深く、川や滝のそばに御堂が建立されている例が多い。〔中略〕
 そして、水に神霊がこもっていると信じていたので「滝」は、すなわち神であった。その滝の水は、悪病を流して、悪魔を追い払うというので、「お滝さま」から水を貰ってきて、家中でこれを飲むという風習もあった。


▲高瀧神社【社殿】


▲高瀧神社 【社殿─内景】


▲高瀧神社 【権現様】


▲高瀧神社 【不動明王】


▲高瀧神社 【大瀧】

 町史は、これだけの説明をしていながら、高瀧神社(大瀧神社)の神の名を記していない。現別当の泉氏を訪ねてみるも、書かれたもの(社記の類)がまったくなく、祭神不明だという。これは奇妙な話だが、よくある話でもある。町史は明治期の神社明細帳等を参考として稿を起こしたものと推察されるが、しかし、文面には、高瀧神(大瀧神)は「氷上神社の分神」とあり、この伝承があることはとても貴重である。
 奥州市江刺区梁川に鎮座する氷上神社(祭神:瀬織津姫命)の由緒は、「本社の創建は元和三丁巳歳(一六一七)三月。別当内野三蔵院、気仙郡高田村(現陸前高田市)に鎮座せる氷上神社の御分霊を小梁川右膳地行の御除地たる烏帽子山頂に勧請せしに始まる」としている(『岩手県神社名鑑』所収)。同じように「氷上神社の御分霊(分神)」をまつる高瀧神社(大瀧神社)である。瀬織津姫神は滝神を根本性格としていて、高瀧神(大瀧神)が祭神不詳というのは、もう成り立たないだろう。
 ちなみに、氷上神社本社についていえば、神仏習合時代、氷上山頂では「氷上山大権現」、里宮では「氷上権現」と呼ばれていたらしい。『気仙風土草』には、「一、氷上山大権現。氷上山上にあり。又日神山とも書けり。当郡(気仙郡)の総鎮守也。後世伝を失て何れの神なる事を詳にせず」とあり、『気仙風土草』が成る宝暦十一年(一七六一)頃には祭神不詳が常態となっていた(『延喜式』神名帳の陸奥国気仙郡三座、つまり、理訓許段神社・登奈孝志神社・衣太手神社の祭祀を当社にまとめるというのはいかにも無理がある)。また、『風土草』は「本地仏東は薬師・中如意輪観音・西弥陀の円き板の面に。像を高く刻み付たるあり。古代の物なり。今朽損して其形分明ならず」と書いていて、熊野三山系の本地仏の懸仏があったようだ。中尊の如意輪観音は、熊野においては那智の青岸渡寺(西国三十三観音巡礼第一番札所)の本尊でもあるが、当地では、気仙三十三観音の「第三十一番 氷上本地」にあたり、その御詠歌は、次のようなものだ。

  つみきえて 登るうれしひのかみの たいひのつかひ たのもしきかな
 (罪消えて登る嬉し氷上(日神)の大悲の使い頼もしきかな)

 氷上神(の本地)には「罪滅」「大悲」の功徳が期待されているらしい。ちなみに、青岸渡寺(那智山如意輪堂)の御詠歌は、「補陀落や岸うつ波は三熊野の那智の御山にひゞく滝津瀬」である。氷上神(高瀧神・大瀧神)の故郷は、遠く熊野の那智にあるとみてよさそうだ。気仙川河口の気仙町は県境の町で、この県境を越えると宮城県気仙沼市唐桑町である。藩政時代(以前)は、ここも気仙郡だった。唐桑半島には、養老二年(七一八)に熊野大神が上陸し、その地に、那智の「滝津瀬」の神でもある(日輪天女とも秘称される)瀬織津姫神をまつる小さな社が二つみられる(業除神社・瀬織津姫神社)。これらの小さな古社から、熊野の大いなる滝神・神霊がまつられた先は、室根山一山ばかりではなかったのかもしれない。
(つづく)