名古屋事務所閉鎖→移転のお知らせ

更新日:2011/5/31(火) 午前 11:09

 東に早池峰山、西に(秋田)駒ヶ岳、南に南昌山、北に岩手山が聳え、北上川と雫石川が合流する川合の地──。前九年の役における奥州安倍氏終焉の厨川柵近くに建つ、しかも岩手県立図書館まで歩いて五分という好立地に建つ、この高層マンションの一室はかなり気に入っていたのですが、いかんせん、同居人の自称「遠野のヤマンバ」の一言「空中生活はイヤだ」で、あっさりと撤回することになりました。
 盛岡に職住一体の場を索めるならばココしかないだろうとおもっていたものの、もともと永遠[とわ]の住み家といった幻想をもたない自分ですから、この盛岡案が消えたことは、自分の人生観をあらためて確認させることになったようです。それに、今回の大震災です。
 遠野の小さなアパート(1DK)に風琳堂編集室を設けて、来年でちょうど二十年になりますが、地震による室内の散乱やコピー・ファクスなどの損傷・停止を回復するのに一週間ほど時間を要しました。ほかに、柱の四本に縦の亀裂が生じたものの、これを機会に、31箱分の不要資料・本を廃棄してみると、ずいぶんと広くなりました。要するに、狭いながらも、当面、ここに住めないことはないわけで、引越難民になりかけていた感覚をどうにか修正できたようです。
 とはいえ、名古屋の家は三世帯がかつて暮らしていた古家で(室町時代の日本刀や戦前・帝国時代のサーベルなどがあったことにはびっくり)、そこで愛用されていた生活道具をまるごと1DKに入れることはできません。しかも、風琳堂の出版在庫(本)もかなりあります。荷物を移す先の空間(スペース)が決まらないことには、整理のしようもありません。
 遠野は現在、震災後、沿岸被災地の後方支援基地といった役割を果たしていて、震災景気を心ならずも享受しているのは不動産業と宿泊施設かもしれません。現在、遠野で物件を探すのは困難であることは先に書きましたが、こちらの事情に限れば、五月末という引越期限が迫ってきて、しかし、転居先が決まらないということがぎりぎりまでつづいていました。ある読者から熊野(新宮市)の駅近くに一軒家があるからこちらへ来てはどうかというありがたい申し出もあって、浮気性の自分はそれも面白いなとおもったのですが、これも自称「遠野のヤマンバ」の却下で消えました。
 遠野の知人から、十畳の倉庫ならば空いているという連絡をもらったのが五月中旬のことで、贅沢をいえる立場にはありませんから即「決定」とし、名古屋の荷物はそこに仮置きすることにしました。
 沿岸各地を歩いてきた「眼」は、家具などモノへの執着を自分に捨てさせたようです。自称「遠野のヤマンバ」にも因果を含めるように、つまり、なかば半強制的でしたが、基本的にすべて捨てようという合意をとりつけました。身の回りの最低限のモノに限り、あとは「本の山」をどう処理するかに絞って「仕分け」を開始したのが五月十六日でした。富士山には詩の女神がいると詩[うた]っていた、明治期初めの北村透谷という先鋭的詩人の自死した日が「今日」だったななどとおもいながら、仕分け→荷造りがはじまったのでした。
 遠野の片付けで本(特に文学本)を廃棄するときにおもったのでしたが、それは、「本を棄てる基準」が自分には二つあるなということです。一つは、今回の震災そして復興のプロセスに耐えられない「ことば」(本)は棄てるということ、もう一つは、この先、五年か五十年かはわかりませんが、読み返すことはおそらくないだろうとおもわれる本は棄てる、というものです。


▲遠野編集室の散乱

 遠野での片付けで会得(?)した、この二つの「本を棄てる基準」あるいは方法は、名古屋での整理においても適用されるもので、そうとなれば、あとは力仕事みたいなものです。遠野は約二十年、名古屋には三十年余にわたる本の集積時間があり、物量ということでいえば、名古屋の方が圧倒的に多くの「本の山」を抱えています。
 十畳という倉庫スペースを想像しますと、隙間無く荷を詰め込むならば、かなりはいるようにおもいます。しかし、もともと必要なモノに絞ってのことですから、必要に応じてすぐに取り出せるためのスペースも確保しなくてはなりません。そう考えますと、荷の占有空間は実質六畳分といったところでしょう。引越業者と相談すると、2トンロングのトラックがちょうど六畳分に相当するとのことです。
 名古屋からの立ち退き期限は五月末で、残された時間は二週間、「仕分け」して箱詰めするには余裕があるとはおもえず、荷造りのゴールが見えるまで二十四時間体制でいくことにしました。仮眠しては荷造りといった日々がはじまったわけですが、書棚には卒業アルバムや古い文集なども紛れ込んでいて、忘れていた遠い過去に向かっての「仕分け」もしているようで、これは遠野のそれと異なることでした。なにやら人生そのものを整理しているような感覚にとらわれるときもありましたが、懐旧的な感覚も「仕分け」の対象としました。
 持っていくモノは六畳分ということで、S引越業者から提供された段ボール箱を六畳の寝室に積み上げていきました。箱にはパンダの絵が描かれていて、箱が積み上げられていくと、パンダたちが一斉にこちらをみつめているような、あるいは、自分がパンダたちの親にでもなったような感覚が生じたのは不思議でした。不要なモノはスーパーからもらってきた段ボール箱に詰め、こちらはこちらで、出入口付近から順に積み上げていきました。


▲パンダたち

 ようやく本の「仕分け」がみえかけたとき、家の解体業者から、解体の開始を六月九日に変更させてくれという連絡がはいりました。こちらの体力は限界に近くなっていましたので、これは「渡りに舟」でした。さっそく引越業者の担当者に連絡をして、引っ越しの日の先延ばしは可能かどうか打診したところ、五日ならばトラックの空きがあるとのことです。荷造り完了の期限が四日延びたことは大きかったです。
 出入りに蟹歩きするしかないほどでしたから、「紙のリサイクル」をうたう紙業者に連絡をし、「本の山」つまり「紙の山」を引き取ってもらうことにしました。やってきたトラックは、なぜか同じ2トンロングで、二時間半ほどかけて荷台に「紙(本)」を並べていきました。運びながら、昨年の夏にも同じことをしていたのを思い出しました。仕事が終わった紙業者曰く、2トンはあるなとのことでしたが、昨年のうちに二人の故人分の私物を含め、第一次本の整理をすでに終えていたこと──、おもえば、これも大きいことでした。


▲仕分けされた本たち

 本というのはモノを考えるときの契機・媒体にすぎず、わたしの場合、決して「財産」ではありません。しかし、「仕分け」にあたって、岩手ゆかりの、たとえば石川啄木や宮沢賢治・高村光太郎の本などはやはり棄てられないなとおもいましたし、遠野に限定しても、柳田国男や佐々木喜善、柳田との関係でいえば折口信夫や南方熊楠など、早池峰信仰あるいは日本の信仰史を再考する参考・関連本も棄てられません。
 荷造りしながら、「六畳空間」ということばをブツブツつぶやいている自分がいました。鴨長明『方丈記』とは少し異なりますが、「六畳」という空間に思考の宇宙が存在していると考えると楽しい気分にもなりました。
 風琳堂名古屋事務所の消滅・撤去にあたって、そのドタバタと志向のプロセスについて少しでも残しておきたくこれを書きましたが、読者にどこまで伝わるのかはまったく想像がつきません。
 ともかく、六月六日には、奥州安倍氏時代からの「隠れ里」であっただろう遠野の、さらに小さな隠れ家のようなアパートの一室に、ある老女とともにいることだけはまちがいなさそうです。あとのことは、そこでまた考えてみることにします。

島にもどった「ひょうたん島」──陸前高田から大槌へ【Ⅲ】

更新日:2011/5/15(日) 午後 4:53

 重い鈍器で心臓部を突かれたような感覚が消えませんが、見慣れた釜石の市街地へはいっていくと、これまた一変していました。目的地は大槌「ひょうたん島」なのですが、釜石港の近くには今瀧神社もあったことを思い出し、やはり寄ってみることにしました。
 かつて(震災前)、この社にたどりつくのには少し苦労しました。なぜなら、ほんの近くに住んでいる人に尋ねても、何人もの人から「知らない」という返事ばかりだったからです。わたしは現在もカーナビとは無縁で、記憶をたどるようにして、瓦礫を横目に全半壊の家々を頭のなかで復元しながらゆっくりと車を進めました。
 今瀧神社は車一台が通れるくらいの細い道の坂の途中にあり、津波はここまでは届かなかったようです。社号は「神社」を名乗ってはいますが、社殿はお堂の姿で、江戸期までは不動堂だったとおもわれます。『岩手県神社名鑑』には、通称「不動様」、旧社格「無格社」、祭神「瀬織津姫命」、例祭「七月十八日」、由緒「元禄年間(一六八八~一七〇四)佐野家にて創祀」とあります。


▲今瀧神社─社頭


▲今瀧神社─社殿


▲社殿背後の奉納剣


▲社殿背後の不動尊

 社殿の背後には小さな滝跡がみられ、そこには剣と不動尊の石像の奉納がみられます。社を創祀したとされる「佐野家」には、藤原鎌足を祖とする巻物の系図が伝えられています。藤原氏(=中臣氏)が瀬織津姫神をまつったとしますと、これは、春日大社の第四殿祭祀をはじめ、岐阜の野宮神社をまつった藤井氏(藤原魚名を祖とする)などにもみられます(『円空と瀬織津姫』上巻)。中臣=藤原氏と瀬織津姫神の祭祀関係は豊前国(の豊比咩あるいは比売大神の祭祀)にまで辿ることができそうですが、しかし、両者の関係には複雑な歴史の綾糸が絡みついています。
 七世紀末から八世紀初頭にかけ、天皇を中心とした国家統一を構想した藤原不比等の存在が頭をよぎりましたが、大槌へという思いが勝って車を走らせました。


▲大槌町立図書館

 廃墟と化した街を抜け、港の先端部へと車を走らせました。散乱する瓦礫の中を捜索する若い自衛隊員に眼で挨拶しながら気づいたのは、窓を開けた車内に入りこんできた「異臭」です。これは、テレビの画像が決して伝えないものです。
 遺体を一日でも早く家族の元に帰したい──、こういった現場隊員の声・思いが伝えられてくるとき、受ける側は、それに見合うだけのことばをもっていないことに気づかされます。また、テレビは、身元不明のまま火葬された人の着衣を洗うことを志願した、ある老婦人の声・思いも伝えています。泥の付着した衣服を手洗いし、骨壺に添えるという孤独な仕事を黙々とつづける婦人がいます。
 震災の現場には神も仏もいない光景が広がっています。神といい仏といい、これらは、生者あるいは生き残った者の心にしか存在しないもので、これらを心に抱ける者はまだしも幸いというべきかもしれません。根っからの無神仏論者である自分でも、そのあたりまでは理解しているつもりで、瀬織津姫神についても、これは例外ではないと断言できます。


▲島にもどった「ひょうたん島」


▲震災前の「ひょうたん島」(長い突堤があった)

 震災前のひょうたん島(蓬莱島・弁天島)へは突堤が伸びていて、満潮でも歩いて渡ることができたのですが、今回の津波は、この突堤をも流し去ったようです。文字通り「島」にもどった姿を、遠くの埠頭から望見するしかありません。
 無神仏論者といいながら、島にはいまだ十全に語られたことのない「神」がいるなと一方でおもっている自分がいます。この島の先の沖合には、おびただしい数の死者が海底に沈んでいるはずです。あたりはいつのまにか夕暮れてきて、闇路となる前に無言の帰路についたのでした。

島にもどった「ひょうたん島」──陸前高田から大槌へ【Ⅱ】

更新日:2011/5/15(日) 午後 4:41

 大船渡から三陸町を抜けると、釜石市唐丹[とうに]町にはいります。この唐丹地区にも瀬織津姫神ゆかりの社があります。社号は「常龍山大神宮天照御祖神社」といい、先にふれた、天照御祖神社三社の一社です。
 同社神域内に、釜石市による「津波避難場所天照御祖神社境内」の標識がみられるように、社は少し小高い丘の上(常龍山)にあり、震災時、唐丹の人々はここへ駆け上がったのでした。


▲常龍山(正面右の森)


▲天照御祖神社─二の鳥居


▲天照御祖神社─拝殿

 社号からもわかるように、主祭神は「天照大御神」です。この社がなぜ瀬織津姫神と関係があるかですが、それは、由緒書に「主な配祀の神々」として、以下の表記があることに、とりあえず読み取ることができます。

相 殿─西宮大神
鎮魂殿─石上大神
禊祓殿─祓戸大神

 あとでふれますが、これは意味深長な配祀の仕方です。由緒書ははっきりと述べていませんけれども、瀬織津姫神が「禊祓殿─祓戸大神」に関わっていることはいうまでもありません。
 由緒書の「御神徳」の項には、主祭神の天照大御神について、「古来、皇祖神、日本民族の総氏神、大御祖[みおや]神さまとも仰がれ、総本宮として伊勢の大神宮に祀られております。全国、神社の本宗[ほんそう]と称えられる伊勢の神宮は日本人の心をささえる中心の御柱[みはしら]であらせられます。当神社の主神はこの神さまであります」と、神宮を「本宗」と仰ぐ神社本庁・神社神道の思想、あるいは戦前の国家神道と通底する典型的な祭祀思想が語られています。
 こういった皇祖神祭祀の思想は唐丹・天照御祖神社一社に限られるものではありませんが、しかし、ここはやはりエミシの国というべきか、その祭祀経緯を語る段になると、別様の祭祀史がみえてくることになります。

御由緒
 当社は、古くからこの地方の開発鎮護の総守護神としてあがめられている。即ち当社の鎮座する聖なる丘常龍山は、太古より神々の鎮まり坐す丘、御山[おやま]と尊ばれ、山上の古大木跡は神々の憑依する神籬[ひもろぎ]、神霊のやどるしるし勧請木で、その周辺も含め特別な祈願を籠めた祭場[まつりのにわ]であった。よって当社は、太古神殿はなく、神籬としての大木と磐座[いわくら]に神々を祭った古代祭祀形態の信仰であった。
 古代祭祀の斎庭[ゆにわ]のこの御山を参拝する者は、御手洗[みたらし]川(現片岸鮭川、昔は大鳥居のすぐ前を流れていた)にて潔斎し、手を洗い登った。常龍山碑によるとそれが今より約壱千百七十余年以前(大同二年)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷軍の総帥大蟇王[タモノキミ]を滅ぼし、その残党である常龍鬼(鬼とは大和軍が敵対する強い大将に名付けた言葉で常龍鬼とは真の蝦夷の大将であった)を唐丹の村で討したのだった。
 ところがこの霊は怨霊[おんりょう]として荒びた為、この霊を慰めしずめることを祈って、山上の一角に十一面観音像を安置した小さな堂を建立し、それまで祀ってきた天照大御神をはじめ天神地祇[あまつかみくにつかみ]と共に合せ祀るようになった。
 この堂建立により神仏習合の信仰となり、神社付属の別当寺として常龍山光学寺の成立も、のちにあったが、その後星霜を経て寺は荒廃した。
 社の祭祀家として続いた河東家の修験覚善院は、江戸初期社殿を造営。元和四年には山下の片岸地区で祀っていた岩沢権現の獅子頭が常龍山に移管奉納され、山上に移し安置されて常龍山大権現と尊ばれ権現神楽が舞われるようになった。また太古より神々の光飛来臨の伝統は寛文の頃も続き、南部領平田村の新山権現の神が国境を越えて再三飛来したと縁起にある。
 文化年中葛西昌丕[まさひろ]は二十四人とはかり境内を広め神殿拝殿等を造営、更に、河東[かとう]大覚院[だいがくいん]が本郷の村上音吉外七人と共に伊勢神宮に詣り神祇官に請うて神霊を受け神々の御分霊を奉遷した。
 明治二年、政府は神仏混淆を禁じ、十一面観音像は本郷の福寿庵に移し祀った。かつ修験を廃し、純神道とし社号を天照御祖神社とし、明治五年村社となった。〔後略〕

 少し長い引用となりましたが、いくつか興味深いことが書かれています。たとえば、社号の天照御祖神社は明治二年からのもので、それまでは、岩沢権現とも常龍山大権現とも呼ばれる神仏混淆の時代がつづいていたことです。では、この神仏混淆はいつからはじまったのかといえば、大同二年(八〇七)からで、それは坂上田村麻呂が蝦夷軍の「残党である常龍鬼」を討ったところ、常龍鬼は怨霊と化して祟りをなしたため、それを鎮めるために十一面観音をまつったというものです。
 この由緒内容でもっとも興味深いのは、田村麻呂が十一面観音を堂にまつったとき、同時に「それまで祀ってきた天照大御神をはじめ天神地祇と共に合せ祀るようになった」と書かれている一方で、文化年中(一八〇四~一八一八)に「河東大覚院が本郷の村上音吉外七人と共に伊勢神宮に詣り神祇官に請うて神霊を受け神々の御分霊を奉遷した」と書かれていることです。つまり、伊勢神宮の神霊であろう天照大御神は、大同二年以前から当地にまつられていたと書かれているのに、文化年中に、新たに当地に勧請されたようなのです。
 ここで、疑問を端的に提示しておけば、大同二年以前に当地にまつられていたのは、はたして皇祖神・天照大御神だったのかどうか、ということになります。
 社務所からいただいた「古代からの常龍山祭祀斎庭[ゆにわ]と拝殿」という論考には、大同二年の十一面観音の創祀時に起源をもつ霜月例祭(「おみそぎ祭りお塩取り祭り」ともいわれる)について、「海水で身体をお清めして御山参詣する。このおみそぎ祭が太古よりの一番古い祭」と書かれています。この例祭が「おみそぎ祭」と呼ばれ、それが「一番古い祭」とされることは重要で、ここに配祀神の一神である「禊祓殿─祓戸大神」が関わってきます。
 もとより坂上田村麻呂伝承が神社由緒として語られることは後世の付会が多く、しかも「常龍鬼」といった名で蝦夷の「残党」あるいは「真の蝦夷の大将」が語られること自体、後世の修験的縁起の匂いを残しています。少し強引にいってしまえば、当地には十一面観音と習合する神がすでにまつられていたということなのでしょう。
 十一面観音と習合し、しかも「おみそぎ祭」と深く関わる神とは何かと考えてみますと、そこからは、皇祖神・天照大神とは似て非なる神が浮かんできます。気仙沼以北から宮古あたりまでの三陸沿岸部は早池峰信仰圏といってよく、そこに含まれる釜石・唐丹です。早池峰大神の本地仏こそ十一面観音でしたし、また、この大神こそ「禊祓殿─祓戸大神」でもありました。
 早池峰大神こと瀬織津姫神は、神宮においては天照大神「荒魂」とも異称されます。当社本殿(天照大御神)の相殿神として、摂津国(兵庫県)の西宮大神が配されているというのは一見奇異にみえますが、西宮神社をかつて摂社としていたのが廣田神社で、この廣田神社が天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)をまつっていることを考えますと、それらを擬したものとも考えられます。
 残る配祀神である「鎮魂殿─石上大神」と「禊祓殿─祓戸大神」ですが、前者については、原田常治『上代日本正史』に「日本書紀、古事記によって歴史から消された天照国照大神饒速日尊の鎮魂祭が、現在、毎年十一月二十二日の夜皇居で行われている」とあり、「鎮魂殿─石上大神」は、この「天照国照大神饒速日尊の鎮魂祭」と関わっています。『上代日本正史』は異論の多い書ですが、こういった事実の指摘は貴重です。この「鎮魂殿」の神と「禊祓殿」の神を並べてみますと、これらが伊勢神宮の基層にいる(いた)地主の神々であることもみえてきます。両神を祖型・母胎として皇祖神が創作されていたことをおもいますと、当社が天照神社あるいは神明社ではなく、あえて天照「御祖」神社を社号としているのも半ばうなずけるといえるかもしれません。
 ところで、「当社は、太古神殿はなく、神籬としての大木と磐座[いわくら]に神々を祭った古代祭祀形態の信仰であった」と由緒にありました。現社殿のある常龍山(神社境内)には、この磐座を拝む場所がありますが、かつての祭祀地であった磐座は、山を降りたところにあります。
 先の論考によれば、岩沢権現がまつられていた磐座は、奥座石・前座石・左座石・右座石の四つから成るとのことですが、今回の津波は、左座石・右座石を持ち去ったものの、奥座石と前座石は、かろうじて残っていました。


▲天照御祖神社─旧社地の磐座


▲参道から(右は唐丹小学校)

 神社への石段参道からは、唐丹集落を襲った津波の残映がみえます。この石段を唐丹の人々は駆け上がったわけですが、祭神論の是非はともかく、常龍山(神社境内)によって多くの生命が救われたならば、もって瞑すべしでしょう。
(つづく)

島にもどった「ひょうたん島」──陸前高田から大槌へ【Ⅰ】

更新日:2011/5/15(日) 午後 4:29

 高田松原の「一本松」あたりから北東の方向へふりむくと、廃墟と化した建物の背後に氷上[ひかみ]山がみえます。この山を神体山とするのが冰上神社です(社号は「冰上」の漢字をつかっていて、以下、それにならいます)。


▲氷上山

 冰上神社の現行案内書から、その由来を書き出してみます。

冰上神社の由来
 冰上神社は、西暦九二七年に制定された式内社(時の官政府が認めて神名帳(官社帳)に記録、登載した神社)で、衣太手神社、登奈孝志神社、理訓許段神社の三社を祭神とした由緒ある神社です。
 古記によりますと氷上山はお山と呼ばれ、近郷の信仰の聖地でしたが、統治化により「気仙山」と名づけられ、後に「日の上山」と改められ、現在の「氷上山」と呼ばれるようになりました。
 この氷上山の三つの峰それぞれに、東・中・西の御殿と称するお社があり、その祭神として、衣太手神社(東御殿)、登奈孝志神社(中御殿)、理訓許段神社(西御殿)が祀られ、この三神社を総称して氷上三社と呼び、近郷住民の厚い信仰をうけておりました。
 この氷上三社が式内社に認定された(仙台藩領内から六十四座、気仙地域ではこの三社のみが認定)ことから気仙総鎮守といわれるゆえんであり、今もなお全国各地から冰上神社として多くのみなさまから高い崇敬をあつめご参拝をいただいております。


▲冰上神社─拝殿


▲冰上神社─本殿

 冰上神社は氷上山麓の少し小高いところにあり、海岸部にあたる陸前高田の市街地の人々にとっては非難場所でもあったようです。したがって、地震の影響はあったものの、津波はここまではやってきませんでした。
 冰上神社の現在は、この新しい「由来」からも読み取れるように、延喜式内社の三社(衣太手神社・登奈孝志神社・理訓許段神社)の合祭社としてあるものの、その「祭神」については、神名ではなく「衣太手神社、登奈孝志神社、理訓許段神社の三社を祭神」としている、つまり社号を「祭神」としているという不思議な特徴がみられます。これは裏返していいますと、祭神不明をいっていることになります。


▲分社・氷上神社の標柱

 わたしがここで冰上神社にふれるのは、奥州市江刺区にある冰上神社分社が主張するように、ここにはかつて瀬織津姫神がまつられていたからです。このことにはすでに言及したことがありますが(「気仙川河口流域の「氷上神」祭祀」)、今回、神社を訪ねて宮司の熊谷さんとお会いし、地震・津波の話以外に、その祭神(不明)のことに話題が及んだとき、熊谷さんから「調べてみます」という一言をいただきました。瀬織津姫神の名を出すと途端に表情をこわばらせたり、過剰に無視したがる神職が多いですから、熊谷さんの一言は大きかったです。
 高田松原の「希望の松」を確認し、また、冰上神社で少し安堵したこともあり、ふと北の大槌町の「ひょうたん島」も自分の眼でみておきたいとおもい、沿岸部を北上するように車を走らせることにしました。
 陸前高田市の北隣は大船渡市で、ここも沿岸部は大津波の爪痕が生々しいといわねばなりません。市街地の国道を走っていくと、早池峯神社入口といった小さな案内が横目にはいり、これは素通りするわけにいきませんので、車をあわててバックさせました。


▲大船渡・早池峯神社─社頭


▲大船渡・早池峯神社─社殿


▲大船渡・早池峯神社─由緒板

 大船渡・早池峯神社は小さな社殿で、小高い丘(天神山)の崖の中腹にへばりつくように建てられています。社殿の中にある由緒板には、祭神として「姫大神」とあり、その下に少し小さな字で「瀬織津姫命」と書かれています。これは、姫大神と瀬織津姫命の二神をまつるという意味ではなく、姫大神と瀬織津姫命は異称同体であることをいったものですが、姫大神といった抽象神名で語られる春日大社など各地の神まつりにも、この異称同体はいえるものです。
 大船渡の海岸部には早池峰山遙拝の石碑もあったことを思い出しましたが、未確認ながら、これはおそらく無事ではないとおもわれます。遙拝の石碑はともかく、海からの早池峰信仰を端的に語っているのが、この小さな早池峯神社です。
 由緒板は、嘉永七年(一八五四)春の勧請を書いていて、江戸時代末という勧請時期がわかります。では、どこから勧請したのかとなりますが、これについては、神体の「鏡」の横にある神札に「遠野郷鎮座早池峯神社」とあり、遠野郷と沿岸部・大船渡とのつながりが伝わってきます。
 天神山には天照御祖[あまてらすみおや]神社が鎮座していて、この早池峯神社は境内社扱いになっているようです(岩手県神社庁『岩手県神社名鑑』)。当初、沿岸部の瀬織津姫祭祀社を訪ねるといったことは考えていたわけではありませんでしたが、天照御祖神社の関係社(末社・境内社等)として、岩手の太平洋沿岸部には、少なくとも三社の天照御祖神社と関係するように瀬織津姫神がまつられています。
 海からの早池峰信仰についてはあらためて考えてみる必要があるなとおもいながら、神社の階段を下りようとすると、咲きかけた桜の木の下に、一輪のカタクリの花が眼にとまりました。桜神としての瀬織津姫神ではありますが、東北では、桜よりもこのカタクリの方が瀬織津姫神にはよく似合うとおもっているのは、たぶん自分だけかもしれません。
(つづく)


▲大船渡・早池峯神社─カタクリの花

希望の松──陸前高田市・高田松原の「一本松」

更新日:2011/4/22(金) 午前 6:59

 気仙川河口域にある陸前高田市の高田松原海岸は、岩手では、白妙の砂浜がつづく海水浴場として知られています。今回の大地震による大津波は、この海岸風景をも一変させました。
 砂浜には約七万本の松が生えていたのですが、そのなかでたった一本だけ生き延びた松があり、ニュースでは「奇跡の松」と報じられています。七万分の一ということを考えますと、たしかに「奇跡」というしかありません。
 この「奇跡の松」は、大槌町における「ひょうたん島」と同じく、高田の人々にとっては復興のシンボルとみなされ、したがって「希望の松」とも呼ばれています。
 陸前高田市の図書館には、かつて資料探索などでお世話になったこともあり、また、気仙総鎮守とされる氷上神社を訪ねたこともあり、遠野から車を走らせてみました。
 陸前高田市横田町の気仙川流域には、清瀧神社・四十八瀧神社・舞出神社・多藝神社・大瀧神社の五社に瀬織津姫神がまつられていますが、これらを過ぎたあたりの川岸に、打ち寄せられた瓦礫がみえます。家々の柱や畳、なかには湯たんぽや水筒など、また根をつけたままの松などの大木が散乱しています。


▲気仙川の瓦礫

 ここは、気仙川河口の高田松原からは七~八キロ遡上したところで、津波はここまできたようです。瓦礫から目を転じると、名を知らない(たぶんわたしだけ)水鳥二羽が川面をゆっくり泳いでいて、一方、川の土手には水仙がなにごともなかったように黄色い花を咲かせています。





 街にまっすぐつづく道は通行止めで、迂回の指示に従って車を進めますと、これが現実であるとはなかなか了解しづらい光景の連続が目に飛び込んできます。
 信号はいうにおよばず道標もありませんので、今、自分がどのあたりにいるのかさっぱりわかりません。たまたま消防署の残骸を撮影していた消防団の人がいましたので、図書館への道をきくと、それは意外にもすぐ近くでした。


▲陸前高田市立図書館(右)

 立ち話ながら、彼は、行方不明者の多さや遺体捜索の困難さ、瓦礫の片付けには二年か三年はかかる、これらの瓦礫撤去がならないとなにもはじまらないといったことなどを、穏やかな表情で淡々と率直に話すのでした。わたしは最後に、あの「希望の松」はどこにありますかと尋ねると、あそこにみえるのがかつての道の駅で、その先の水門の近くにあると、指さして教えてくれました。指さしで位置がわかってしまうということに、あらためて震災の現実が迫ってきます。
 また、彼によれば、一本松の樹皮には傷がみられ、さらに潮水をかぶっているため根枯れしてしまう恐れがある、しかしなんとしても保存に努めたいとして有志がすでに動いているとのことです。
 その「一本松」は、津波で壊れた水門近くにたしかにありました。この水門によって津波の力が弱まったことでかろうじて残ったのかもしれませんが、そんな理由の詮索はどうでもいいことでしょう。七万分の一という奇跡的確率で、この松は生き延びて今ここに立っていること、そして、なお生きつづけようとしていることがなにごとかなのでしょう。


▲壊れた水門と「希望の松」