室根山探訪◆後日譚──北条時頼と奥羽天台宗【Ⅳ】

更新日:2011/10/13(木) 午前 7:51

 弘仁十三年(八二二)四月、最澄は円仁ら門弟に遺言して、次のように告げたとされます(佐伯有清『円仁』所収、「叡山大師伝」)。

我が命、久しく存せじ。若[も]し我が滅後に、皆服(喪服のこと)を著すること勿[なか]れ。亦、山中の同法、仏の制戒に依つて、酒を飲むことを得ざれ。若し此[これ]を違ふことある者は、我が同法にあらず。亦、仏弟子にあらず。早速[すみやか]に擯出[ひんしゆつ]して、山家[さんげ]の界地を践[ふ]ま令[し]むることを得ざれ。若しくは合薬(薬用としての酒)の為めにも、山院に入るること莫[な]かれ。又、女人の輩を、寺側に近づくることを得ざれ。何[いか]に況[いはん]や、院内清浄の地を哉[や]。毎日、諸々の大乗経を長講し、慇懃精進に法をして久住令[せし]めよ。国家を利せんが為め、群生を度せんが為めなり。努力[つと]めよ、努力めよ。我が同法等、四種三昧を懈倦[けげん]為[す]ること勿れ。

 これは、最澄の遺言の全文ではないとのことですが、それにしても、唖然とする内容です。死を目前にした天台宗開祖・最澄が、円仁をはじめとする門弟たちに、酒を飲むな、比叡山寺域に女人を近づけるなと遺言している姿は異様というしかありません。こういった戒めを読みますと、当時、酒を飲み、女人を寺域に呼び入れている仏僧らが比叡山にすでにいたゆえのことかともおもわれてきますが、最澄の遺言の真意を斟酌すれば、つまるところ、これらを戒めて大乗経を自分のものとせよ、それは「国家を利せんが為め、群生を度せんが為めなり」にありましょう。
 国家を利することを第一とし、群生(衆生・民)を済度することを第二として努力せよとする最澄の「遺言」のことばは、現代の政治家の多くが口にする「国家・国民のために」という常套句にまで生きているようです。「国民・国家のために」と、国民を第一とすることを自らに誓い表明した政治家は寡聞にして知りません。おもえば、小説『時宗』中の時頼のことば「幕府は武者のためにあるのではない。内裏が捨て置いている民のためにこそある」の「幕府」を国(国家)に置き換えてみれば、「今はまだその国が出来上がっておらぬ」という時頼のことばは、小説空間を超え、かつ、小説的歴史時間を超え、戦後現代の国家観にまで届いているものといえます。戦後の擬制的「民主・天皇」国家を生きざるをえないわたしたちですが、この時頼のことば(認識)は、高橋文学からの大きなメッセージの一つでもあります。
 天皇の国家を「利する」ことを「主眼」とした最澄─円仁の天台宗です。奥羽の天台宗寺院は、円仁の名のもとに思想的な共同歩調を示していて、つまり、天皇の国家体制(国体)護持に奉仕することを使命とする円仁の天台宗に、強権をもって鉄槌を下したのが北条時頼だったといえます。
 小説『時宗』は、松島寺の山僧(僧兵)のこととして、「近隣の村はその僧兵らによって好きに蹂躙されている」「もはや僧とはいえまい」、「松島寺と立石寺は奥州の天台の要」だが、立石寺においても、この僧兵の横暴は目に余る、「天台の者らは一様に腐り切っている。末法の世と言って嘆いておるが、己れらがその末法を代弁しておるようなもの」と、奥羽天台宗を僧兵に象徴させて、その堕落・横暴を痛烈に批判しています。
 鎌倉時代の僧兵の堕落・横暴まで円仁に因があるとしては、円仁その人に気の毒な面もありますが、しかし、円仁の名のもとに組織されている奥羽の天台宗寺院が、自ら抱える僧兵を野放しにしていたとすれば、そこには、衆生済度(最澄の遺言中の「群生を度せん」)は形骸の題目でしかなかったということになります。いいかえれば、天台仏教を、天皇の国家に奉仕することを「主眼」として変質させた、最澄─円仁の日本型天台宗(国家仏教)の根本問題は残るといえます。
 室根山(本山満徳寺)が、延暦寺や松島寺・立石寺などのように山僧(僧兵)を抱えていたのかどうかの記録はありません。しかし、「奥羽天台宗寺院廃滅令」の廃滅対象として室根山の寺院があったことは「史実」として語られています。最澄─円仁の天台宗(日本型天台宗)は、護国思想、つまり、天皇の国家を護持する思想を、その宗教理念の核にもっていました。「国譲り」という虚構神話によって、天皇の国家による列島の支配・統治の正当性をうたったのが『古事記』『日本書紀』で、そこで語られていることを史実化するように創設されたのが、天皇の祖神をまつる宗教施設としての伊勢神宮です。時間的な経緯をいえば、記紀神話よりも天皇の祖神廟としての神宮の創設が一見先行していましたが、しかし、両者は並行して創作・創設されたものとみられます。
 養老二年(七一八)、室根山にまつられた熊野神(熊野本宮神)でしたが、この神は、熊野や白山にまつられていただけではなく、伊勢の地にもすでにまつられていました。伊勢に、天皇の祖神をまつることになるのは持統女帝の時代(七世紀末)で、これはほぼ定説といってよいかとおもいます。しかしながら、天皇の祖神をまつるというも、代拝させることはあっても、伊勢の地に自ら足を運んで参拝したのは、歴代天皇のなかで明治天皇が最初でした(明治二年)。神宮創祀からおよそ千年にわたって、各天皇は自らの祖神をまつるはずの神宮への参拝を避けていたとすれば、これは由々しきことといわねばなりません。ただし、明治天皇以前を概覧しますと、皇位関係者では唯一の例外として、桓武天皇が皇太子時代に親拝しています(宝亀九年)。
 多くの史家が指摘するところですが、桓武天皇の二大事業として、平安京遷都と陸奥国・蝦夷平定があります。蝦夷の側からすれば、ほんとうは「事業」などということばは無神経にしか聞こえませんが、それについてはここではふれないとして、この蝦夷平定は、延暦二十一年(八〇二)における阿弖流為の降伏・斬首を画期としていました。以後も閉伊などの蝦夷の平定はつづくも、朝廷側の記録では、蝦夷側の組織的・大規模な抵抗はみられませんから、延暦二十一年は、桓武朝廷からすると、蝦夷平定(阿弖流為斬首)という積年の悲願が実現した、やはり画期の年であったとおもわれます。
 以上は、桓武天皇あるいは桓武朝廷の「二大事業」のうち、蝦夷平定の概要を振り返ったにすぎませんが、わたしはこれらに加え、第三の「事業」もあったのではないかと考えます。それは、延暦二十一年の二年後の同二十三年(八〇四)、桓武は、大中臣真継を編纂責任者として『皇太神宮儀式帳』を奏上させているからです。皇太子時代の宝亀九年(七七八)に神宮への参宮をしていた桓武は、皇祖神祭祀の基盤整備を徹底化する必要を感じていたのかもしれません。
 陸奥国・蝦夷を軍事的に平定したあと、桓武朝廷にとって、民心の掌握あるいは信仰的服属をどうなしてゆくかは大きな課題だったにちがいありません。大和の地が「安国」として平定される前、そこは「大倭日高見之国」でした(大祓祝詞「六月晦大祓」)。当然ながら、大和の東国にあたる伊勢の地も日高見国でしたから、そこには、もともと日高見国・蝦夷の神々の祭祀がありました。
 日本古典文学大系本『古事記 祝詞』(岩波書店)の頭注によれば、「日高見の国は、太陽の高くかがやく国の義」とあります。この注を是としますと、伊勢には皇祖神として新たにまつられた女系太陽神とは異質な太陽神の祭祀がもともとあったものとおもわれます。太陽が勢いよく燃えさかる、輝くさまを形容する語句として「饒速日[にぎはやひ]」がありますが、この形容句をもって神名化された神が別系の太陽神であったといえます。この太陽神の妻神として「大日孁[おほひるめ]」ということばがあります(折口信夫「天照大神」、『折口信夫全集』第二十巻、所収)。折口は、ヒルメ(ヒヌメ)の「音韻転化した神名」としてのミヌメ・ミルメ・ミヌハ・ミヌマ・ミツマは「水の女神を示す」と、とても鋭い指摘をしてもいます。火=日神と水=月神の両神が、日高見国・蝦夷の民が信仰する神々でした。陸奥国には「日高見水神」をまつる(『日本三代実録』貞観元年条)、その名も日高見神社があることを添えておきます。
 明治時代というのは、「王政復古」の号令に象徴されるように、天皇を中心・頂きとする国家の復古的再編および強化を目指していて、それを「明治維新」というならば、平安期の桓武天皇は「平安維新」を実践した天皇と呼ぶことができます。この桓武の「維新」の意向に迎合し、天皇の国家に奉仕する日本型天台宗として、比叡山全山を宗教的に組織化しようとしたのが最澄といえます。
 最澄直系の門弟といってよい円仁は、師・最澄の護国思想を継承しただけではなく、奥羽の地に狙いを定めるようにして、護国思想の定着化・徹底化を図ろうとしました。円仁(の名)によって天台宗寺院が創建されたゆえに、そこが聖地・聖域化したというのは大きな誤解で、もともと神々の霊域であったところへ寺院を建てたというのが実態です。円仁開基・中興を伝える天台宗寺院が一六二寺あるという異様な数字は、逆にいえば、それだけ日高見・蝦夷の神々がまつられていたということを示唆しています。
 室根山に円仁がわざわざやってくる必然性はどこにあるのでしょう。朝廷による蝦夷平定の祈願・悲願が成ったあとの室根山には、伊勢の「日高見神水神」でもあった神がそのまままつられていたはずで、しかし、もはや「用済み」の神は封じるというのが、円仁の来山の意味です。これは早池峰山においてもいえます。早池峰は遠野側の山麓にすでに里宮七社がまつられていましたが、円仁(の名)によって、この七社は十一面観音をまつる観音堂に変えられます。のちに「遠野七観音」というのがそれです。
 円仁の色(護国思想)によって染めあげられた奥羽天台宗の寺院です。それらがどういった神々の祭祀地に創建されているのか──、それを全寺院にわたって洗い出すのは容易ではありませんが、しかし、少なくとも、室根山・早池峰山が共通して語っていることは一つです。

室根山探訪◆後日譚──北条時頼と奥羽天台宗【Ⅲ】

更新日:2011/10/12(水) 午前 7:40

 円仁(たち天台宗徒)によって、室根山が全山天台宗の仏教祭祀に染まったことが真因でしょうが、延長五年(九二七)に成る『延喜式』の神名帳には、室根神社は奉幣の対象外とされます。
 大正八年四月、内務大臣・床次竹二郎宛てに提出された「県社昇格願」(『マツリバ行事』所収)には、元正天皇の勅命祭祀にはじまり、「延暦二十年坂上田村麻呂将軍また登山して夷賊降伏の神慮を仰ぎ」、さらには、「天喜年中源頼義、其の子義家、降りては嘉応中藤原清衡、基衡、秀衡三世ほとんど九十年間崇敬厚く」云々と、錚々たる崇敬・祈願者の名が並べられています。「県社昇格願」は、これらの名とは別立てで、円仁あるいは北条時頼については、次のように書いています。

 初め当社は神職を置きて管掌せしめたりしが、仁寿中釈円仁(慈覚大師)此所に来りて、護摩壇を築きて、護摩法を修業したる以来一山悉く天台に帰依し、満徳寺を建て本山となし、宝鏡寺、栄泉寺、龍雲寺等を末寺となし、慈覚院、光明院、円通院、一乗坊、浄円坊、慈近坊、左近坊、永楽坊、角面坊、宝寿、清水、峯野、大覚、滝本寺の諸坊四十八院八十八坊其の他宮門廊[楼]閣堂塔伽藍相交りて、頗る偉観を極めたりと雖も、彼の北條時頼の松島寺僧を訪うや、甚だ礼を失うを以て、余波延いて当山に及ぼしたるは、かえすがえすも実に慨嘆に堪えざるなり。

 一読、ここには、なにかとても痛ましい錯誤あるいは不明性が書かれている印象を受けます。
 文面によれば、「初め当社は神職を置きて管掌せしめたりし」とあるように、そもそも神道によって室根山祭祀がはじまったことを自認しています。しかし、円仁が来山すると、「一山悉く天台に帰依」し、結果、仏教祭祀として「頗る偉観を極めた」と謳歌されるも、北条時頼によって、室根山の寺院が焼亡・廃滅され、それを「実に慨嘆に堪えざるなり」と結んでいます。
 室根山の神職ほかが天台宗に帰依するというときの天台宗は、円仁の天台宗(のちの山門派、由緒のことばでいえば「比叡山真流」)のことで、それと対立・分派する三井寺(園城寺)の円珍の教義に基づく天台宗(寺門派)のことではありません。神職たちが円仁の天台宗に帰依したということは、そこに先住の神の祭祀がそのままに生きる余地を封じるものといってよく、この時点で、室根山(本宮)の神は「不詳」の道を歩きはじめたといえます。
 室根山にまつられる神の名は、この「県社昇格願」がなされる大正八年まで「不詳」扱いでした。北条時頼が室根山祭祀にとっての「悪」と言いたいならば、それは、時頼の命による焼き討ちによって、祭神を正確に語りたくとも、それを記した「古記」等が焼失してしまったことを真っ先に「慨嘆」すべきで、寺院の壮観さが失われたことを嘆くというのは、神道的感性というよりも仏教的なそれです。穏当にいいかえれば、このときの神職には、まだ神仏混淆の曖昧な感性が優先されていたということになります。
 この曖昧さは、「北條時頼の松島寺僧を訪うや、甚だ礼を失うを以て、余波延いて当山に及ぼしたる」と、松島寺(延福寺)の天台僧による時頼(最明寺入道)への無礼、それを因として「奥羽天台宗寺院廃滅令」が発令され、そのとばっちり(「余波」)で室根山の寺院も焼失したといった認識にも表れています。時頼が、こういった単純な私憤・怒りにまかせて奥羽の天台宗寺院を廃滅させたのかどうかは、ちょっと立ち止まって考えてみる必要もありそうです。
 北条時頼は鎌倉幕府執権を務めた人物です。幕府御家人たちのまとめと、国政執行の最高責任者でもあった人間が、一私憤に動かされるとはおもえません。
 高橋克彦『時宗』(NHK出版)は全四巻の歴史小説で、標題は時頼の子・時宗を冠していますが、前半二巻は父・時頼を主人公にしているばかりか、後半二巻にしても、主人公・時宗を影(天)で動かしているのは時頼だろうと読ませます。蒙古襲来(元寇)というかつてない国難に、日本は、あるいは「武者」(幕府御家人たち)はどう立ち向かったかというのが小説の主要テーマです。高橋文学のキーワードの一つに「武士」ではなく「武者」があり、時頼・時宗も「武者」を生きようとしています。
 この時頼・時宗父子による、「武者」をめぐる興味深いやりとりがありますので、以下に拾い出してみます。

「武者とはなんでありまする?」
 時宗が時頼に訊ねた。
「人のために死ねる者だ。その覚悟なくして戦場に出ることはできぬ。人は国にも置き換えられる。しかし、今はまだその国が出来上がっておらぬ。それゆえ死すべき国がない。そなたの役目はそれだぞ。皆が命を懸けても守らねばと思うような国とするのが大事」

 武者とは「人のために死ねる者」、「人」は「国」と言い換えられるが、その「国」がまだできていない──、時頼は子・時宗に、武者が命を懸けても守るに値するような、そんな「国」をつくることを託すという父子のやりとりです。
 小説全体を読みますと、ここでいわれている「人」は「民」とも言い換えられるようです。それは、別場面における時頼の「幕府は武者のためにあるのではない。内裏が捨て置いている民のためにこそある」や「民らは戦さとは無縁。いや、そうさせるのがおれの役目。そのために武者がある」といったことばによって明らかでしょう。あるいは、御家人の結束を促す場面における、ある御家人の「武者とは皆の楯じゃ。刀を持たぬすべての者らの楯となってやらねばならん」の「皆」「刀を持たぬすべての者ら」も「民」の意です。
 高橋文学における「武者」の理念は、のちの封建体制における「士農工商」の最上位におかれた「士」という身分、つまり「武士」のそれとは似て非なるものです。この武者の理念は、たとえば、蝦夷の民・国を「命を懸けて」守ろうとした阿弖流為にもいえますし、平安期の安倍氏・藤原氏はいうまでもありません。さらに、時代が下った戦国末期における、関白・豊臣秀吉の「奥州征伐」における官軍十万という軍勢に、わずか五千という少数で立ち向かった九戸政実にもいえます。


▲九戸城戦闘要図(宮城県栗駒町・九ノ戸神社所蔵。岩手県二戸市九戸城下有志奉納)

 安倍氏の柵の地に建てられた九戸城は難攻不落の要塞で、現地官軍六万五千の猛攻に対しても落城しませんでしたが、最後は蒲生氏郷の策謀(ウソの和議のもちかけ)によって開城することとなります。しかし、結果、城に残った者の助命はウソで女子供を含めてすべてなぶり殺しにされ、政実自身も官軍総大将・豊臣秀次の陣(栗駒山麓の三ノ迫)に囚人扱いで送られ斬首されます。高橋氏は、こういった奥州の「武者」の理念・伝統を、理不尽なもの・力には決して屈しない「蝦夷[えみし]の心」として、一貫して作品化してきたといえます。
 北条時頼(最明寺入道)は私憤の人に非ずということを示したいために、高橋文学を援用させてもらいましたが、『室根神社史実録』にも、時頼は「天下万民の邪正を明らかにし、世の太平をはからん」として諸国の巡見をした、特に「奥羽の諸寺を巡見しけるに、何れの寺院も不正多きに驚きたり」、また「中にも奥羽の天台は仏教の教義に反する」といった時頼の巡見後の認識が語られています。
 時頼の発令した「奥羽天台宗寺院廃滅令」ですが、天台宗の寺院は全国に数多くあったにもかかわらず、それが特に「奥羽天台宗寺院」に限定されていたのには注意がいきます。佐伯有清『円仁』(吉川弘文館)は、奥羽地方(東北地方)の円仁伝承をもつ寺院の数について、次のように書いています。

東北地方の寺院で、円仁の開基と伝えている寺院は百四十寺、中興とするものが二十二寺、円仁に関係する仏像などの遺芳[いほう]があるのは百六十九寺もあって、この数値は、他の地方を圧している。

 これは、伊沢不忍『慈覚大師と東北文化』(山寺村役場)に記載の数字とのことですが、奥羽地方(東北地方)の天台宗寺院のほとんどに円仁の開基・中興伝承があるとみてよさそうな数字です。つまり、時頼の「奥羽の天台は仏教の教義に反する」として発令された「奥羽天台宗寺院廃滅令」は、あらわに名指しされることはなかったものの、円仁の天台宗の否定を意味してもいました。
 円仁の師はいうまでもなく最澄(伝教大師)で、最澄がどういった天台理念をもっていたかは、円仁に継承されているはずです。元天台宗教学部長・山口光円『比叡山延暦寺──伝教大師・慈覚大師伝』(教育新潮社)は、最澄の天台宗の特異性を、次のように述べています。

 日本の天台宗というのは天台大師の教えを根本としたから天台宗というので、名は中国の天台宗と同じでも、その内容は大いに異ったものがあります。奈良六宗という従来の仏教は中国から伝えられたままのものであるが、これを大師(伝教大師=最澄)は不満に思い、日本と中国とは国体がちがい、また風俗も国民精神もちがう、それに教えだけが同じであるということは不思議なことである。日本には日本の精神、日本の風俗があるから、日本の仏教がなくてはならぬというのが大師のお考えであったのであります。
 すなわち大師は天台大師の教えを根本としてこれに真言の法と禅の学問を、そして大乗戒という人として行ない守るべき道を教えることを加えて、天台、真言、禅、戒の四宗を合わせて一天台宗をつくりあげた。この天台宗が他のどの宗よりも日本化していて、日本の国家をまもり鎮めるということを主眼としており、弟子の教育もその目的のために、国のため、人のためになる人間をつくることであったのであります。

 最澄の天台宗は日本独特のもので、それは日本の「国体」「風俗」「国民精神」に合わせてつくられたものだとあります。また、この日本型天台宗は、「日本の国家をまもり鎮めるということを主眼」としたものともいわれます。最澄にとって、「国体」とは桓武天皇の朝廷国家を意味していることはいうまでもなく、この天皇の「国家をまもり鎮めるということを主眼」としていたことは、そのまま門弟・円仁の護国思想に受け継がれたものと理解してよいでしょう。
(つづく)

室根山探訪◆後日譚──北条時頼と奥羽天台宗【Ⅱ】

更新日:2011/10/11(火) 午前 7:17

 室根山八合目にまつられる室根神社へうかがっても、本宮・新宮の社殿は確認できるものの滝宮がどこにまつられているのかは案内もなくわかりません。室根町の教育委員会に問い合わせると、山中の「姫瀧」のところにまつられているのがそうだとのことです。室根神社までは現在、車で行けるのですが、この姫瀧へ行くには参道を登っていけば途中に標識があるとのことです。
 室根神社へつづく参道は石段があるわけでもなく、急斜面の山道を登っていくしかありません。ここで引き返すわけにもいかず、山の中腹にある参道鳥居から歩きはじめました。この参道=山道を登って神社へ参拝する人とは一人も出会うこともありませんでしたが、かつて信仰厚き人たちは苦にもせず、この道を往復したとおもえば文句はいえません。


▲室根神社参道


▲姫瀧入口

 どのくらい歩いたかははっきりしないのですが、ようやく姫瀧への案内標識を確認できたときはほっとしました。滝への細い山道をさらに歩いていくと、これを滝と呼んでよいものかとおもうような水の流れがみえてきます。小さな滝の沢を渡ろうとして、ここでうかつにも足をすべらせ沢に仰向けで倒れ込んでしまい、われながら苦笑ものでしたが、このときカメラを岩にぶつけ、しかも、沢水に漬けてしまい、カメラはまったく使えなくなりました。
 せっかくきたのだから、禊ぎでもしていきなさいという滝の神のメッセージだったのか、半身びしょぬれで、しかし誰もいませんから、濡れた衣服を乾かすのに遠慮もなく、しばらく滝神との対話をすることになりました。
 小さな滝壺横の案内板には、次のように書かれています(以下は携帯電話のカメラで撮影)。

姫瀧
 室根神社境内の西側、三十三観音の下から湧き出る清水が源で、白絹をのばしたような小さい滝で姫瀧とよばれています。
 新緑のころ、青葉に見え隠れする姿は見る人の心をなごませてくれます。
芦東山[あしとうざん]籠岩[こもりいわ]
 室根山をこよなく愛した大東町渋民生まれの儒学者芦東山(一六九六~一七七六)が、岩窟[いわあな]にこもって思索したと伝えられ、大きな岩には人がかがんで入れるような空間があります。
平成八年七月建立                     室根村教育委員会


▲姫瀧

 かつて、北条時頼の命により焼けた室根山の天台寺院でしたが、このとき、「本尊は御沢の岩窟に秘蔵せしは、宝鏡寺円泉坊なり」とあった「御沢の岩窟」は「御沢の滝の岩窟」でした。室根山に滝と岩窟がセットであるのは、ここ姫瀧の地以外にありません。したがって、本尊(十一面観音)を隠しおいたとされる「御沢の岩窟」「御沢の滝の岩窟」は、現在の「芦東山籠岩」のこととおもわれます。


▲芦東山籠岩

 室根山の全寺院が火をつけられたとき、本尊(十一面観音)だけは救わんと、おそらく命がけで運び出し、「御沢の岩窟」「御沢の滝の岩窟」に隠しおいたのは宝鏡寺円泉坊でした。円泉坊が、室根山最大の危機・火急のとき、室根神の御神体でもあろう本尊(十一面観音)の隠匿・保護を頼んだのが「姫瀧」という滝の神のいる地でした。これは考えさせる行為といわねばなりません。


▲滝宮

 現在、滝壺の横には小さな石祠が無言のままあります。この石祠が「滝宮」です。室根神社の関連年表には、寛保元年(一七四一)の項に、次のようにあります。

滝宮と農王権現の宮が共に野火のため延焼したるを以て、穂積茂教は此の年九月十九日両宮を石宮に造営せり。此の時滝に熊野三尊及び不動明王の石像を安置す。

 現在、姫瀧の地には、石宮(滝宮)は確認できるも、「熊野三尊及び不動明王の石像」はみあたりません。ただし、滝宮の横には、小さな石像一体が「安置」されていて、その像種は、愛らしい表情をした十一面観音です。室根山本宮の本地仏・本尊は十一面観音で、それと同じ観音像が滝宮に奉納・安置されています。これも考えさせる行為といわねばなりません。室根本宮神と滝宮神の関係を、よくわかっていた人物がここにはいたようです。


▲姫瀧・滝宮の十一面観音石像

 ところで、姫瀧の水源について、案内は「室根神社境内の西側、三十三観音の下から湧き出る清水が源」と記していました。この三十三観音が室根山にまつられるのは安永五年(一七七六)のことで、いうまでもなく、この湧水は山そのものの歴史とともにあるといってよいでしょう。いや、もっと正確にいえば、この湧水あるがゆえに、熊野本宮神は室根神として、室根山中のこの湧水の地を選んでまつられたはずです。
 明治十四年書写とされる「室根山神社由緒明細記」には、「牟婁峯山本宮由緒」が収められています(『室根神社祭のマツリバ行事』所収)。同由緒には、「神宮廣前ニ飛泉有リ此水ヲ祓川ト云」とあります。室根神社境内の湧水が流れくだって姫瀧となり、そこに熊野・那智から勧請された滝宮がまつられています。境内湧水─姫瀧の沢が「祓川」と呼ばれることに象徴されるように、室根神社大祭時、神職たちは、この湧水によって、禊ぎの厳重潔斎をおこなっています。


▲三十三観音と湧水

 江戸時代、安永五年に、滝宮ゆかりの湧水の地に三十三観音(の石像)がまつられるというのも、これも熊野・那智を意識したものでしょう。三十三観音巡礼という信仰行脚、その発祥の地こそ熊野・那智でした(西国三十三観音巡礼第一番札所が那智山青岸渡寺)。
 養老二年(七一八)、蝦夷征討の祈願神として熊野本宮神を勧請してはじまった室根山祭祀です。熊野三所権現の本地仏──、つまり、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智宮は千手観音とされるわけですが、室根山は、本宮神の本地仏を阿弥陀如来ではなく十一面観音とし、それを最後まで変更せずにきます。これは、熊野三所権現の本地仏が上記のように設定される前の祭祀思想を表しているのかもしれません。
 しかし、正和二年(一三一三)に熊野新宮を勧請するにあたっても、その本地仏は薬師如来ではなく正観音としていて、明らかに熊野三所権現の本地仏が決められたあとの勧請にもかかわらず、独自の本地仏思想を展開していたのが室根山です。本宮を「姉宮」、新宮を「妹宮」とする伝説が語られるのも、本宮・新宮ともに観音を本地仏としていることに関連があるのでしょう。室根山麓において、この「姉宮」「妹宮」の「母神」として御袋権現(御祓権現)が伝説的に語られるというのも、禊祓の根本神への屈折した崇敬心がなせるものといえそうです。
(つづく)

室根山探訪◆後日譚──北条時頼と奥羽天台宗【Ⅰ】

更新日:2011/10/10(月) 午前 6:38


▲室根神社(鐘楼に神仏混淆時代の面影を残す)

 嘉祥三年(八五〇)、円仁は「勅願を以て」室根山へやってきたとされ(「八大山金剛寺之由緒」)、以後「室根山全山天台宗(比叡山真流)」「衆生済度天下長久国家安全鎮護の大霊場」と化したという歴史が語られます(千葉房夫『室根神社史実録』)。
 本山満徳寺をはじめとする五寺ほか、四十八院八十八坊があったとされる室根山ですが、今日、山にその寺院群の面影を探るのは容易ではありません。これらの寺院・坊がほとんど姿を消したのには理由があります。『史実録』は、このあたりの事情について、次のように書いています。

 本山満徳寺は室根山の総本山として、その支配下の寺院を統制し、日増に隆盛の一途をたどったのである。然るに人皇八十九代後深草天皇の御代、前執権北条相模守時頼入道して、最明寺と号し、天下万民の邪正を明らかにし、世の太平をはからんとして二階堂入道を召しつれ唯二人にて、諸国雲水修行漫遊の旅に出でられ、段々奥州路を指して降りける。此の時奥羽両国天台寺院総触頭は、陸奥国松島の昔雲山円福寺なり。時頼入道松島に降り一宿を乞いけれども常の雲水坊と同様に見誤りて、寺前の草庵に一泊致させ、僧正対顔もなかりしと云う。時頼それより奥羽の諸寺を巡見しけるに、何れの寺院も不正多きに驚きたり。時頼鎌倉に帰着の後、天下万民の正邪を悉く賞罸す。中にも奥羽の天台は仏教の教義に反するを大いに怒り、遂に奥羽天台宗寺院廃滅令を発す。それ故天台宗の寺院悉く焼亡し一寺も残るものなし。当室根山にも鎌倉より廃寺の使者早瀬川宗昭、二階堂佐馬介の両大将は、文応元年三月二十七日に到着し、兵士に命じて火を放ち四か寺四十八院八十八坊は勿論古記珍宝及び社宇八十八の末社迄悉く焼亡して茫々たる焼山となりしと云う。なおこの時本尊は御沢の岩窟に秘蔵せしは、宝鏡寺円泉坊なりと伝う。
 口碑に伝わる勅書勅額の類すべて灰燼となり、勅願の霊場慈覚大師開基の堂塔伽藍悉く焼失して、寂寞たる焼野が原となる。この時本宮の草堂のみ残りしは、元正天皇勅願の貴きにより神霊の偉大なりしを物語るものならん。寺院の僧侶は山谷に潜伏し、又は諸郷に散在するに至りしなり。

 鎌倉幕府の前執権・北条時頼は出家して最明寺入道を名乗り、諸国の巡見をおこなったことはよく知られるところです。時頼の眼は、特に奥州について、円仁(たち天台宗徒)が組織的につくりあげたといってよい奥羽の天台寺院の現実に対して、「何れの寺院も不正多きに驚きたり」、「中にも奥羽の天台は仏教の教義に反するを大いに怒り」とされます。
 奥羽の天台宗は特に「不正」が多く、また「仏教の教義に反する」という時頼の驚愕と断罪意識は、ついに「奥羽天台宗寺院廃滅令」を発するという過激なこととなります。
 時頼の巡見時、「奥羽両国天台寺院総触頭は、陸奥国松島の昔雲山円福寺なり」とある「円福寺」は、現在の松島・瑞巌寺のことで、天台宗から臨済宗へと転宗してからは「松島青龍山瑞巌円福禅寺」というのが正式名です。『瑞巌寺の歴史』(同寺発行)によれば、天長五年(八二八)に創建された当時は「青龍山延福寺」、通称「松島寺」といい、ここも「開山」者を円仁としています。青龍山延福寺(円福寺)は、奥羽地方における多くの円仁創建伝承をもつ寺院のなかで最古の創建伝承をもっています。
 時頼は、松島の延福寺(円福寺)を筆頭とする天台宗諸寺に対して「廃滅」を命じ、室根山においては、「四か寺四十八院八十八坊は勿論古記珍宝及び社宇八十八の末社迄悉く焼亡」と書かれます。
 ちなみに、早池峰山は、太治二年(一一二七)に「妙泉寺の宗派、天台より真言になる」とあり、「奥羽天台宗寺院廃滅令」の対象外だったようです(「早池峯山妙泉寺世代年表」)。早池峰山と室根山を対比しますと、両山ともに円仁による古祭祀への介入が認められるも、「全山天台宗(比叡山真流)」と化していた室根山だっただけに、時頼の「廃滅令」によるダメージは深刻でした。
 室根山が焼き討ちとなった文応元年(一二六〇)からおよそ半世紀後の正和二年(一三一三)、奥州探題・葛西清信が室根山を再興したとされます。『史実録』は、「室根山由来記」の記すところとして、葛西清信による再興動機を、次のように書いています。

北条時頼が文応元年室根山の神社仏閣を焼き払いしより、一山焼土と化し祭るべき御社は本宮のみとなりしかば、元正天皇勅願の神社、慈覚大師造立の霊場を破壊し、其の儘に捨て置く事朝廷に対し恐れありとて、当霊場勅願所の原由を幕府に奏聞して、当社を再興せんことを願う。将軍守邦親王出願の趣旨を許容し、再興料として金弐百拾料お下し賜う。此の時本宮の御堂を造営ありし上、熊野三社権現の勅願社なる本宮のみにして、新宮の御社なきは偏頗なりとし、大原村新山に鎮座し奉る正観音を移し祭り奉る。是れ即ち紀伊国熊野新宮大権現にて、御祭神は速玉男神である。

 葛西清信は、室根山再興にあたって、「熊野三社権現の勅願社なる本宮のみにして、新宮の御社なきは偏頗なり」として、熊野新宮(大権現)を勧請します。「熊野三社権現」というのならば、那智宮(あるいは滝宮)も語られる必要がありましょうが、なぜか熊野新宮のみが勧請されたとされ、これは、現在の室根神社の社殿構成にそのままみられます。


▲室根神社本宮(奥)と新宮(手前)

 ところで、北条時頼によって室根全山が焼亡したとされるも、「なおこの時本尊は御沢の岩窟に秘蔵せしは、宝鏡寺円泉坊なり」という伝承が書かれてもいました。室根山(本宮)の本尊は十一面観音で、この観音のみは、宝鏡寺円泉坊によって「御沢の岩窟」に移されて無事であったと読めます。
 室根山に那智滝宮がいつ勧請されたのかははっきりしません。勧請年代ははっきりしないものの、『史実録』は「室根山由来記」の記述とおもわれますが、「滝宮」と「御沢の岩窟」に関して、次のように書いています。

 抑々陸奥国磐井郡下折壁本郷の内室根山本宮、新宮、滝宮三所の本尊は、是れ即ち紀伊国熊野三所権現を遷し、滝宮は那智山を勧請し、其の祭神は事解男之命本地は千手観音なり。世に伝う熊野大権現は、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、滝宮は千手観音の三尊は、秘仏にして見ること許さずと云う。
 室根山は熊野大権現を勧請し、御本尊の秘仏は、御沢の滝の岩窟に秘蔵せりと云う。蓋し熊野本宮那智の滝は、日本第一にして直下百余丈(一三三米が実際の高さ)あり。神代より滝そのものを神として崇め深く信心して来たのである。この熊野三社権現を遷した室根山大権現も、その境内は永代に御除地として、御本堂より東西に各四百五十間、南北各千間とし、この地内を殺生禁断の所と定めた。

 室根山の「滝宮は那智山を勧請し、其の祭神は事解男之命本地は千手観音なり」とあります。室根山にまつられる神の名は大正八年まで明記されることはありませんでしたから、滝宮祭神が「事解男之命」と語られても、これが本来の滝宮神であるはずもなく、これは無視することとします。その上で興味深いのは、「御本尊の秘仏は、御沢の滝の岩窟に秘蔵せり」とあることで、しかも、そこに「滝宮」がまつられているらしいことです。「御沢の岩窟」は「御沢の滝の岩窟」であり、そこに熊野・那智から勧請された「滝宮」がまつられているならば、これは室根山を再訪するしかありません。
 岩崎敏夫「室根大祭の特色と意義」(『室根神社祭のマツリバ行事』所収)によれば、九月十九日の大祭当日の行事として「禊行事」があり、その内容は「午前二時、神職、薙刀振らの潔斎で滝宮の谷川で行う。塩持参七五三の数行う」とのことです。また、「祭り当日の十九日の未明には、神職や薙刀振は滝宮で特に潔斎を行う」ともあります。室根大祭当日(未明・午前二時)における、神職たちの特別厳重潔斎の場として「滝宮(の谷川)」はあるようです。
 熊野から勧請された室根山の「滝宮」にわたしがこだわるのは、同じ禊ぎ潔斎に関して、「熊野那智山結宮並滝本年中行事」(『熊野市史』所収)に、次のような記述があるからです。

三月二十一日 川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬にてみそぎ祓いの式典あり。

 熊野・那智の「みそぎ祓い」の神が室根山にまつられていないはずがありません。しかも、この神は熊野本宮の神でもあり、室根山本宮に本来はまつられていたのでした。瀬織津姫神は熊野本宮においては、音無川の滝姫神でもありました(和歌山県「熊野の滝姫神」参照)。
(つづく)

室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること【Ⅴ】

更新日:2011/10/4(火) 午前 7:06

 蝦夷の国の異称(あるいは真称)として日高見国の名があることについては先にふれましたが、この国名は常陸国の旧名としてあっただけではありません。瀬織津姫神を、天皇・国家にとっての災い(異敵・朝敵といいかえてもよい)を「祓う」神として、国家の都合のよいように限定・封印せんとして策定された大祓祝詞(「六月晦大祓」)には、「大倭[おほやまと]日高見の国を安国と定めまつりて」云々の文言がみられます。天皇の国家が発生するのは大和の地からで、当初、この地も日高見国でした。それを平定して「安国」としたのだという祝詞作成者の認識があるわけですが、これが神武東征伝説(あるいはニギハヤヒ─ナガスヒコ伝説)と内応していることはいうまでもありません。
 瀬織津姫神が、一方で「蝦夷側の神」としてあり、一方で蝦夷征討の祈願神(国家神)としてあるという相反する両義性は、この「蝦夷側の神」(皇祖神をまつる伊勢神宮の基層神あるいは母胎神でもある)を朝廷・国家側が大祓祝詞に封じたことに遠因・真因をみるしかありません。室根神(熊野本宮神)が勧請されたのも、熊野の本源神が大祓神としての神徳機能をもっていることが国家的に認知されていたからとみなさざるをえません。「国家側と蝦夷側との神仏信仰のいわば乗り入れ関係」を、より具体的に示せば、以上の解釈に尽きるはずです。
 室根神社の関連年表には、天喜五年(一〇五七)に「源頼義、義家父子、室根神社に参詣緋桜を植える」、康平五年(一〇六二)に「源頼義、義家、阿倍頼時を滅し祈願成就のため神社を造営し、社領三万刈を寄進す」とあります(『室根神社祭のマツリバ行事』)。これらの記述は、前九年の役における源頼義・義家の信仰行為を表したものですが、この役で滅んだ安倍(阿倍)頼時・貞任父子たちは、いわば「逆賊」で、彼ら蝦夷の霊を鎮魂するのは禁忌とされます。しかし、瀬織津姫神を山神として奉祭する全国唯一の山・早池峰山では、山頂に安倍貞任霊神がまつられています(大迫・早池峰神社由緒)。「逆賊」安倍貞任を「神」としてまつるという、これまた逆賊的信仰行為を受容できるのも、この山が「蝦夷側の神」をまつる最後の霊山であるゆえとわたしにはみえます。
 室根山側は、源頼義・義家という中央側の勝者を主役として伝承を年表風に語ります。しかし、唐桑側に眼を転じますと、一味も二味も異なった伝説を拾うことができます。

▲折石と八幡岩(右)


▲折石


▲貞任岩

 唐桑半島の観光的名所(景勝地)に、巨釜[おおがま]・折石[おれいし]という奇岩が並ぶ海蝕断崖があります。折石の近くの海中には、八幡岩・貞任岩といった名称の岩があります。現地の案内板には「前九年の役と唐桑浜里の伝説」と題して、次のように書かれています。

 康平五年(一〇六二)九月、鎮守府将軍、源頼義、義家親子の官軍は出羽の豪族、清原氏の援軍を受けて奥六郡の長、安倍貞任の拠点小松の柵、衣川の柵を攻撃した。大軍団の前に柵は次々と打破られ、さすがの勇猛な蝦夷軍団も退却を余儀なくされ、安倍の将兵達は陸奥の山野に身を隠す事になった。此の時、衣川から見て東の海道の浜里である唐桑は奇岩怪石の連なる恰好の隠栖地であり、川崎の柵(岩手県東磐井郡川崎村)や黄海[きのみ]の柵(岩手県東磐井郡藤沢町)から退散してきた兵員達は山海の産物に恵まれ、風光明媚な此の唐桑の地を安住の場所と定め身を潜めたものと言われる。
 此の為町内には前九年の役の縁の地名や名称が付いた場所が点在し、遙かな陸奥の海道伝説の浜里として現在でもそのロマンが語り継がれている。

 川崎の柵や黄海の柵から敗走する安倍軍の兵たちが、唐桑の地を「隠栖地」とし「安住の場所と定め身を潜めた」としますと、これは、唐桑の人々が彼らをかくまったということを意味してもいます。伝説の基調には蝦夷・敗者への共感(シンパシー)があります。室根山の伝説的伝承が欠落させているものを、唐桑の人々が持ち続けてきたことは、その祭祀伝承にもいえますが、やはり対照的です。
 年表的にいえば、源頼義・義家の前には、蝦夷征討の英雄として多くの美化伝説をもつ坂上田村麻呂がいます。『日本の神々─神社と聖地』(白水社)の第12巻は「東北・北海道」編ですが、同書「室根神社」の項には「延暦二十年(八〇一)坂上田村麻呂が蝦夷征討を祈願」といった伝説的伝承が拾われています。この延暦二十年のこととして、「坂上田村麻呂、達谷窟に蝦夷の巨頭[かしら]悪路王を倒し残党残らず平げ、満願成就の時牟婁峯神社に詣で将軍母衣[ほろ]を負い県主等と共に騎馬で祭礼を行う」と記していたのは『室根神社祭のマツリバ行事』でした。
 こういった悪路王─田村麻呂伝説を室根山に持ち込んだ者は誰かという問いを念頭において本稿を書き始めたわけですが、達谷窟毘沙門堂の本尊や境内社・弁財天社の本尊を彫ったのは円仁とされ、この伝説発信地が同じく「天台宗」の達谷西光寺ですから、円仁(天台宗)またかという思いは禁じえません。
 達谷窟と室根神社に共通してみえる人物の名として、坂上田村麻呂と円仁、そして源義家の名があります。室根山に、田村麻呂と対抗関係にある悪路王伝説を史実かのごとくに伝えた者がいるとして、それが伝説に登場する本人・田村麻呂であるはずもなく、ましてや源義家であるはずもなく、必然的に残る人物は円仁(天台宗徒)ということになります。円仁(たち)は、悪路王─田村麻呂伝説を伝えただけではなく、伝説そのものを創作したことさえ考えてみる必要があるのかもしれません。