滝ノ沢神社(岩手県花巻市東和町東晴山16-56)

更新日:2009/2/17(火) 午前 9:11



 滝ノ沢神社(花巻市東和町東晴山16-56)の紹介です。
 この神社の近くには民家が一軒あったものの、今は廃屋で、社を訪ねてゆくには少し難儀します。神社と滝が山中にひっそりとあり、周辺は、まるで隠れ里といった印象がつよいです。
 この滝ノ沢神社は、今は人々から忘れられかけた社となっていますが、意外な伝承をもっています。
 瀬織津姫神を集中してまつる早池峰─遠野郷ですが、遠野の西隣の東和町に、明治期まで不動尊(と十一面観音)を主尊とする丹内権現(明治期に丹内山神社となる)があります。同社は本殿背後の「アラハバキ大神の巨石(胎内石)」を御神体としていることで知られる古社ですが、同社の由緒をまずは読んでみます。

 この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神多邇知比古を祭神として祀っており、承和年間(八三四~八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。(丹内山神社境内案内)

 丹内山神社の祭神は「多邇知比古」とありますが、この神名「タニチヒコ」は、丹内を「タニチ」と読みかえ、それにヒコ(彦神)を付加してつくられた神名のようです。
 これも、明治以降の、いわば「公的」な由緒表現とみられますが、由緒の実質的骨格は、「承和年間(八三四~八四七)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置」し、その不動尊を「大聖寺不動丹内大権現」と称して「神仏混淆による尊崇」がつづいたということにあるようです。
 この公的由緒は、丹内山神社の「創建」伝承を「約千二百年前」「承和年間(八三四~八四七)」としていますが、この社の創祀はもっと前にさかのぼります。
 丹内山神社を訪ねると、まず境内にある「御神木爺杉の根株」の巨大な切株に眼がとまります(写真左)。説明板には、「この杉の根株は、根元回り12.12メートル、高さ約60メートル、樹令2000年の古木と伝えられています。大正二年、延焼により焼失」云々と書かれています。株の中央は空洞となっていて、「樹令2000年」というのは、それほどの古木・神木と理解してよいのでしょう。ともかく、この神木の存在一つをみても、「承和年間(八三四~八四七)」をはるかにさかのぼる祭祀がここにあったことを想像できます。
 丹内山神社は、上記由緒とは別の由緒案内も境内に掲げていて、ユニークです。本殿(明治期までは本堂。写真2)背後にまわりますと、そこには、アラハバキ大神ゆかりの巨石があり(写真3)、これが、同社祭祀の実質的な「御神体」です。この巨石の説明板には、次のように書かれています。

アラハバキ大神の巨石(胎内石)
千三百年以前から当神社霊域の御神体として古から大切に祀られている。地域の信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く、領域の中心的祈願所であった。安産、受験、就職、家内安全、交通安全、商売繁昌等の他、壁面に触れぬようにくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨岩である。

 明治期に丹内山神社の祭神が「多邇知比古」とされたときの創建年代は「約千二百年前」と書かれていましたが、「アラハバキ大神の巨石(胎内石)」の説明では「千三百年以前から」と、百年の時間差がさりげなく記されています。田村麻呂の東北遠征がちょうど「約千二百年前」にあたりますが、その前のアラハバキ大神に対する信仰が当社の始まりだということなのでしょう。おそらくこのことに関わるはずですが、前者の由緒には登場していなかった崇敬氏族として「物部氏」の名があるということは注意しておいてよいかとおもいます。
 さて、不動尊と習合していたらしい丹内山大神については、遠野の民俗学者である伊能嘉矩によって、貴重な古老伝が紹介されていました。以下は、丹内山大神の出現についての記述です。

 当社(丹内山神社)の大神は地祇なり。同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す。赤子にして猿ヶ石川を徒渉し、岸上の峻山に這ひ登り、其の巓の円石を秉[と]りて誓つて曰く、「当に今此石を以て礫に擲[な]げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし」と。則ち礫に擲ぐ其の石現地に落ち止まる。因りて万代の領地と定め、該石を以て神璽と為して後世に伝ふ。然るに蒙昧の世、其の祭式を伝へず、惟り奇物あり天然の小石数十今に境内に存す。按に大神円石を愛し、以て神璽と為す。故に神愛を追慕して奉納を為す所か。近世に至る此の例あり。其の這ひ登る山を赤児這[アカゴバヒ]山と謂ふ。今赤這と謂ふは訛れるなり。郷民其の巓を小峻森[チヨンコモリ]と称して之を敬ふ。(「谷内権現縁起古老伝」…伊能嘉矩『遠野のくさぐさ』)

 丹内山神社境内には「早池峰山拝石」があります(写真4)。この「谷内権現縁起古老伝」には、丹内山大神は「同郡(和賀郡)東晴山邑滝沢の滝に出現す」とあります。伊能嘉矩は、この「滝沢の滝」の神について言及していませんが、ここに鎮座しているのが、早池峰大神でもある「瀬織津姫命」です。この神を「東晴山邑滝沢」の地でまつるのが滝ノ沢神社で、社殿横には「滝沢の滝」(不動滝)があります(写真5)。
 滝ノ沢神社は現在の社名のようで、扁額には「瀧神社」とあり、いかにも滝神の祭祀であることを告げています。また、同社には「不動明王」と書かれた額もあり、丹内山神社の神仏混淆時代の権現称号「大聖寺不動丹内大権現」へとつながっているようです。
 丹内山神社の境内由緒だけではみえてきませんが、この滝沢の「瀧神」(瀬織津姫命)こそが、丹内山大神でした。
 滝ノ沢神社の社守をしている方の談では、「滝沢の滝」(不動滝)は大きな崩落があって昔の面影が今はなくなってしまったが、昔はすばらしい滝だったとのことです。たしかに、滝壺には大きな岩があり、その崩落のさまを今に伝えているようです(写真6)。
 ところで、アラハバキ大神の巨石の説明で、丹内山大神の崇敬氏族のなかに「藤原一族」とありました。これは、奥州藤原氏のことですが、その初代・藤原清衡が、この丹内山神社(大神)をことのほか崇敬していたことが、これも境内案内に記されています(東和町観光協会作)。

丹内山神社と藤原清衡公の由来
 当神社は地方開拓の祖神として栄え、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷の際に参籠される等、日ごと月ごとに霊験あらたかで、嘉保三年(一〇九六)頃から当時の管領藤原清衡公の信仰が篤[ママ]に厚く、耕地二十四町歩を神領として寄進され、また山内には御堂百八ヶ所を建立し、百八躰の仏像を安置した社と伝えられています。藤原清衡は隣の郡である江刺の餅田の館に居住していたことから、当神社に距離も近く、毎年の例祭には、清衡自ら奉幣して、祭りを司っていたと言われています。その後は、安俵城主小原氏(平清義、時義、義清)、更には、南部藩主南部利敬公の崇敬が厚く、藩主の祈願所として栄え、現在に至っています。

 これを読むと、丹内山神社の実質的な「祭主」は藤原清衡であったようです。奥州藤原氏初代・清衡の丹内山大神への崇敬は、三代・秀衡にも顕著にみられます(宮城県・荒雄川神社)。瀬織津姫神と奥州藤原氏のただならぬ関係は、伝承だけでいえば、その前の安倍氏の早池峰信仰にまでさかのぼります。早池峰大神・丹内山大神こと瀬織津姫神(と背後のアラハバキ大神)は、安倍氏─奥州藤原氏の累代にわたる崇敬・信仰の対象神だったと考えられます。

日住白山神社(秋田県由利本荘市鮎瀬字石橋山124)

更新日:2009/2/16(月) 午前 3:38



 日住[ひすみ]白山神社(由利本荘市鮎瀬字石橋山124)の紹介です。
 同社氏子総代さんからいただいた、明治時代末に政府へ提出した由緒書(控え)の写しには、次のように書かれています。

村社 日住白山神社
祭神 天照皇大神 伊邪那岐神 伊邪那美神 菊理姫神 瀬織津姫神 大彦命 天宇津女命
由緒 創立仁明天皇ノ御宇嘉祥三庚申年ニシテ僧円仁巡錫ノ時祠ヲ樋脇白山ノ地ニ建テ伊邪那岐神 伊邪那美神 菊理姫神ヲ奉祀シ神像一体ヲ石ニ刻シテ奉安セリト云フ即チ白山妙理大権現ト公称ス後チ瀬織津姫神ヲ合祭シテ 皇室ノ御尊栄ト国家ノ安泰トヲ祈リ奉ル此時ニ当リ遠近四方ノ人民来リ集リ其附近各処ニ村落ヲナシ産土大神ト尊称セリ慶長十六辛亥年楯岡豊前守神田五段歩ヲ奉納セリト云フ而シテ由利領内守護神トシテ深ク尊崇セリ〔後略〕

 この明治期の由緒は、『秋田県神社名鑑』にも同内容で収録されていて、いわば「公的」な由緒内容のようです。日住白山神社は、嘉祥三庚申年(八五〇)、円仁が白山妙理大権現の「神像一体ヲ石ニ刻シテ奉安」したときをもって「創立」とし、「後チ瀬織津姫神ヲ合祭」したというのが「公的」な祭祀経緯のようです。
 瀬織津姫神は「合祭」された神で、決して同社の主祭神ではないといった印象を一見受けますが、しかし、由緒はつづけて、「此時(「合祭」時)ニ当リ遠近四方ノ人民来リ集リ其附近各処ニ村落ヲナシ産土大神ト尊称セリ」と記していて、瀬織津姫神は、この地方の「産土大神」とも関わるらしいことが示唆されています。
 この明治期の由緒は、引用の主文のほかに、合祀記録も残していて貴重です。一覧してみます。

明治四十一年五月五日  村社宮比神社(由利郡石沢村滝ノ沢字滝ノ沢)を合祀
同               無格社古四王神社(同郡同村鮎瀬字沢田)を合祀
明治四十三年一月二日  無格社日住神社(同郡同村滝ノ沢字日住山)を合祀
明治四十四年一月十四日 無格社大日霊神社(同郡同村上野字上野)を合祀

 由緒が記していた祭神は七柱で、ここから白山三神(伊邪那岐神、伊邪那美神、菊理姫神)を除いた四柱が、この合祀社四社に対応しています。筆頭祭神の天照皇大神は大日霊神社、大彦命は古四王神社、天宇津女命は宮比神社の神で、瀬織津姫神は日住神社の神ということになります。日住神社鎮座地の地名は「滝ノ沢字日住山」で、日住山には、いかにも滝神・瀬織津姫神の祭祀があったこともうかがえます。
 明治期の由緒(控え)は、日住神社の合祀記録の箇所にのみ、小さな字ですが、特別な添書きをしています。

(日住神社は)文武四庚子年ノ創立ニシテ国司武将ノ崇敬最モ深ク寛永元甲子年以後ハ領主六郷家第一ノ崇敬社ニシテ本荘領一ノ宮ト称ス

 日住白山神社の公的な由緒では、「創立」は嘉祥三年(八五〇)、円仁によるものだったはずですが、日住神社は、文武四年(七〇〇)の創立、「国司武将ノ崇敬」を受けたとあります。その後、江戸期においては「本荘領一ノ宮ト称ス」とまで書かれています。
 添書きは、日住神=瀬織津姫神の創祀のほうが、円仁による白山妙理大権現の創祀よりも150年もさかのぼることを告げていて、しかも、この地方の崇敬の対象神であったことをも記録しています。
 公的な由緒文面では、瀬織津姫神は、この地方の「産土大神」と関わることが示唆されるのみでしたが、氏子衆の思いのなかでは、日住神=瀬織津姫神こそが重視・崇敬の対象神(主神)であったようです。
 ところで、円仁は、すでに日住神の祭祀があった場所に、なぜ、白山妙理大権現の祭祀をかぶせてきたのかという問題がありますが、ここでそれを記すにはあまりに長くなりますので略します(詳細は、菊池展明『円空と瀬織津姫』に譲ります)。
 日住白山神社の社殿は北向きで、社殿背後(南方)には出羽富士こと鳥海山(二二三六㍍)が聳えています。ここは、鳥海山を遙拝するように社殿が建立されているようですが、社名にみられる「日住」の名称をもつ日住山(六〇七㍍)もまたミニ富士山のような、いい形の山です(写真右)。日住山は鳥海山に対して「里山」といった関係でみられていたのかもしれません。

川口神社(青森県八戸市湊町字下条30)

更新日:2009/2/15(日) 午前 1:58



 川口神社(八戸市湊町字下条30)の紹介です。
 八戸市には、御前[みさき]神社という古社があります。同社は、江戸期には「御浜御前」といわれ、ここに伝わる江戸期の由緒書(「東国正鎮守御浜御前」)には、次のような瀬織津姫を讃える「古歌」が記されています(八戸市『八戸の神社寺院由来集』所収)。

みちのくの 唯[ただ]白幡旗[しらはた]や 浪打に 鎮りまつる 瀬織津の神

 明治四年の「神社調べ」においては瀬織津姫の名は消去されますが、江戸期までは、御浜御前(御前神社)の神は「瀬織津の神」という認識があったようです。また、この御浜御前神に対して、次のような、屈折した賛意を込めた添え書きも収録されています(筆者読み下しで引用)。

根[もと]を元として本心[もとのこころ]に任[まか]す。神、非礼を受け賜[たまは]ず。生を豊穣津島の神国に受け、情を全うす。而して、必ず神に成り賜[たま]へ。上五常五戒、悉く具ふ。

 この江戸期の由緒は、明治期初頭の新由緒においては内容も祭神も大きく変わってしまいますが、ここには、御浜御前「瀬織津の神」に対して、「神、非礼を受け賜[たまは]ず」とあり、ひょっとすると、明治期の「神社改め」(祭神変更)の直前か同時期に、こういった添え書きがなされたのかもしれません。
 明治期、御浜御前は「三前神社」と社名が変更されます(現在は御前神社)。この明治四年「神社調」の項に記載されている「新しい」由緒を読んでみます(『八戸の神社寺院由来集』所収)。

一、祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命 (相殿)神功皇后、武内宿祢、八幡宮、大雷神
底筒男神中筒男神上筒男神三神ハ往古武内宿祢勅命ヲ奉テ東夷平定スルノ時当時階上ノ郷ニ降リ玉ヒ此浦小浜ニ安座シ天下泰平国土安穏ノ大諄辞ヲ海神ノ御前ヘ祈請ス、然ルニ三神浪上ニ出現シ相諾ヒ玉ヒテ天下泰平皇城ヲ守護シ奉ラント誓ヒ給フカ故竹内(武内)更ニ祠ヲ造営シ三神ヲ鎮メ奉リテ三前御前ト仰キ奉リ、常磐ニ堅石ニ万世迄此山ニ[左目崎ト号ス]鎮座(シ)テ皇城ヲ守護シ賜ヒト斎ヒ奉レリ、亦三神小浜ニ[旧跡今ニ存ス]出現有シ故ニ御浜御前ト号ス、亦云三神白涛ニ出現シ玉フ故ニ山名ヲ浪打ト号ス、干時人皇五十代桓武天皇ノ御宇阪上田村丸東夷ヲ平ラクル時此山ニ参籠有リ、社殿ヲ再興シ玉フ、左ノ相殿ニ神功皇后右ノ相殿ニ武内宿祢ヲ勧請シ奉レリ、其後伝教大師一刀三礼ノ彫刻三神ノ神体ヲ安置セシヨリ以後本地垂迹ヲ立両部習合シ浪打山光伏寺ト号ス、亦当社ノ側ニ祠ヲ造営シテ慈覚大師一刀三礼ノ作八幡ノ尊像ヲ安置ス、然ルニ天和三癸亥年洪水ニテ地中ニ埋マリシニ元文三丙辰年三月四日霊夢ニ依テ社ノ側ラノ土ヲ穿テ土中ヨリ八幡ノ神像出現ス、既ニ土中ニ有ルコト五十四年也、再ヒ当社ノ相殿ニ安置セリ、亦当社地ニ旧古ヨリ雷神鎮座ス、元禄年中迄正社有之処破壊シテ当社ノ相殿ニ安置ス、当今ハ凡テ社中ニ七座勧請ス、是レ階上郡正鎮守タリ
一、祭日 毎月四月十五日、大祭ハ三月四日四月十五日也、祭神神功皇后ニ付櫛引村鎮座八幡大神毎年四月十五日当社へ神輿渡有之処近年川向ヒニテ祭式有之

 由緒は、祭神の出現について、「三神小浜ニ[旧跡今ニ存ス]出現有シ故ニ御浜御前ト号ス、亦云三神白涛ニ出現シ玉フ故ニ山名ヲ浪打ト号ス」と記しています。ここの「三神」は、明治期以降の祭神「底筒男命、中筒男命、上筒男命」(住吉三神)ですが、これらの神は「白涛ニ出現」したもので、「故ニ山名ヲ浪打ト号ス」とされます。
 この明治期の由緒表現と、瀬織津姫の古歌「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」を突き合わせますと、浪打(山)に鎮座していた神が、「瀬織津の神」から「底筒男命、中筒男命、上筒男命」に変更されたことがわかります。
 では、消えた「瀬織津の神」はどこへ行ったのかとなりますが、由緒には「亦当社地ニ旧古ヨリ雷神鎮座ス」とありましたから、あるいは、相殿の「大雷神」に名を変えたのかもしれません。有名な屏風図も浮かびますが、天上においては雷神と風神は一対の関係にあったようです。風神との対偶関係を地上にみるなら、日本書紀の天武・持統紀が記すように、龍田の風神、廣瀬の水神(大忌神)がよく知られます。ここ御前神社(三前神社)では、水神が「昇天」した姿が雷神となったかと、少し皮肉な想像もされてきます(御浜御前が「水神」とみられていたことは後述)。
 由緒全体については、武内宿祢、阪上田村丸(坂上田村麻呂)、伝教大師(最澄)、慈覚大師(円仁)と、これだけ「忠君」の士を並べ、かつ「皇城ヲ守護」といったキーワードを二度も盛り込んでありますから、これでは、たとえ荒唐無稽とわかっても当局は文句もいえないだろうといった内容になっています。
 ところで、上記引用の由緒表現のあとの摂社の項に「川口神社」の名があり(写真中央)、祭神は「速秋津比咩神、速秋津比古神、瀬織津比咩神」と記載されています。「速秋津比咩神、速秋津比古神」の二神は、これも明治期の追加祭神とおもわれますが、このように三神化という主祭神のぼかし・曖昧化を許したものの、ここに御浜御前「瀬織津の神」の名をかろうじて残したことには感心します(青森県で戦後現在まで、瀬織津姫を祭神名として伝ええたのは、この川口神社と新川神社[八戸市沼館二丁目 城下公園]の二社のみですから)。
 明治期には御前神社(三前神社)の「摂社」として登録されていた川口神社でした。御前神社の宮司さんに確認したところ、現在、御前神社と川口神社は、本社と摂社といった関係にはないとのことです。
 本社(御前神社)からは切り離された川口神社ですが、江戸期の「湊川口之図」(川口神社境内に表示)をみますと、同社は馬淵川の「川口」(河口)の海に浮かぶ小島(岩)の上にまつられ、近くを多くの船が行き交うさまが描かれています(地引き網らしき絵も含まれています)。
 川口神社の現社殿の背後は今でも海ですが、絵図には、御浜御前(川口神)を取り囲むように、海の生活光景が描かれています。みちのくの白き波打に鎮座する白幡(白旗)神「瀬織津の神」は、八戸の海の民に親しく信奉されていただろうことがよく伝わってくる絵図です。
「東国正鎮守御浜御前」によれば、江戸期、御浜御前は「龍神之宮」ともみられていたようです。「龍神之宮」は竜宮とも理解できそうですが、当時の御浜御前神官は、御浜御前(祭神)とこの龍神との関係についても明確な認識をもっていました。神官曰く──、諸人は御浜御前を龍神之宮と呼ぶが、ほんとうはそうではない。龍神(八大龍王)は、当社「太神」「海上一切之水君」の「眷属之神」である(「東国正鎮守御浜御前」、筆者要約)。
 御浜御前(「瀬織津の神」)を「太神」と尊称し、その性格を「海上一切之水君」、つまり、大いなる水神とし、龍神は、この「太神」の「眷属之神」だというのが、当時の神官の主張でした。龍神とはなにか、あるいは、龍神の背後の神とはなにかを考えようとするとき、これは大きなヒントとなる意見かもしれません。

樽前山神社(北海道苫小牧市高丘6-49)

更新日:2009/2/14(土) 午前 1:19



 江戸時代まで(明治期初頭まで)、瀬織津姫を明らかにまつっていた神社を紹介しておきます。
 苫小牧市高岳に道内屈指の豪壮な社殿・社域を誇る樽前山神社があります(写真左・中央)。まずは、ここの由緒から掲げます(『北海道神社庁誌』北海道神社庁編)。

樽前山神社
所在地 苫小牧市字高岳六番四九
祭 神 大山津見[おおやまつみ]神、久々能智[くくのち]神、鹿屋野比売[かやのひめ]神
由 緒 「樽前の神の稜威は幸沢に 満ち足るが如く 満ち溢るるが如し」と昔より称えられし霊峰樽前山に対する信仰は古く、山麓に神祠を設け祀ったのが創祀と言われている。明治八年に明治天皇の勅命により祭神「大山津見神」に加え「久々能智神」「鹿屋野比売神」三神が定められ、山麓より町の中心地に御奉遷この地の総鎮守郷社として奉斎された。爾来、苫小牧地域の開発発展に御神徳著しく、昭和十一年には県社に昇格し、道内屈指の名社に数えられるに至った。〔後略〕

 樽前山(1041㍍)を「霊峰」と仰ぐのが樽前山信仰ですが、同社案内パンフによれば、この山は、アイヌ語で「タオロ・マイ・エトコ・ヌプリ」(樽前川の水源の山)とのことです。
 引用の由緒文中、祭神表示に関して、「明治八年に明治天皇の勅命により祭神『大山津見神』に加え『久々能智神』『鹿屋野比売神』三神が定められ」云々とあり、現在、これら三神が「樽前山神」として定着しているようです。
 由緒は「昔より称えられし霊峰樽前山に対する信仰は古く、山麓に神祠を設け祀ったのが創祀」、また「明治天皇の勅命」によって、「山麓より町の中心地に御奉遷」と記していて、この樽前山麓の「神祠」も訪ねてみました(写真右。新樽前山神社の鳥居と、こちらのそれとの形式のちがいにも注目してください)。
 この樽前山麓の「神祠」に、実は、瀬織津姫がまつられていたのでした。
 明治の神仏分離に伴って、道内の神社(神体)調べをおこなったのは、札幌神社(のちの北海道神宮)権宮司兼開拓使・菊池重賢[しげかた]でした。彼は『明治五年壬申八月・十月巡回日記』の「樽前神社」の項を、次のように記していました(『函館市史』史料編第二巻、所収)。

樽前神社  木像 仏体 改祭
        観音裏ニたろまゑのたけトアリ年号訳兼。
祭神瀬織津姫ト申伝有之候由ノ処、従前当社ハ樽前山神ヲ祭ル趣、瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事。
勇払 白老 千歳三郡産土神ト奉斎シテ郷社ト被為成度段出願有之。
 祠白木五社造 前巾六尺 横二尺 幣殿九尺ニ三間
 拝殿間口三間半 奥行二間半 神門一基
 社地間口七間 奥行十六間
 起元不詳 元治元甲子年再営、以前旧請負人私祀、其後同所出稼人中寄附由。
同所漁場出張番家守護神

 樽前山神について、同社氏子衆は菊池に対して「祭神瀬織津姫ト申伝有之候」と伝えたことがわかります。また、この神は「同所漁場出張番家守護神」からはじまり「勇払白老千歳三郡産土神ト奉斎」してきたもので、社格決定にあたっては「郷社」とされるようにと申し出ていたこともわかります。
 ところで、菊池の「巡回日記」には、「瀬織津姫ハ海神祓戸神」という認識が書かれていました。瀬織津姫を「祓戸神」ととらえるだけでなく、この神が「海神」ともみられていたというのは興味深いです。ここは、札幌神社の「権宮司」という神職の立場も兼務していた菊池ならではの、深い認識が表れたところでもあります。なぜなら、瀬織津姫は、伊勢の内宮第一別宮・荒祭宮を経た先においては、静岡県の瀬織戸神社の由緒も伝えていたように、この神は、九州・宗像祭祀における「姫大神」でもあったことが考えられるからです。
 この話は今は深追いしませんが、ともかく、この明治五年時点、「勇払白老千歳三郡産土神」と広く信奉されていた「祭神瀬織津姫」でした。当時の氏子衆の認識・主張は相当に強かったものとおもわれますが、当局はこれを認めることがなかったようです。それが、現樽前山神社由緒の「明治八年に明治天皇の勅命により祭神『大山津見神』に加え『久々能智神』『鹿屋野比売神』三神が定められ」云々という文面によく表れています。
 当時の氏子衆の主張は「明治天皇の勅命」の名のもとに封殺されたことになり、氏子衆および祭神のそのときの無念の心中は察してあまりあるというべきですが、かくして、「瀬織津姫」の名は、樽前山神社からは消去されたのでした。
 ところで、菊池の神社(神体)調べで、「木像 仏体 改祭」「観音裏ニたろまゑのたけトアリ年号訳兼」と記されていた木像の仏体(観音)は、円空が蝦夷地(北海道の旧称)滞在時に彫った座像観音のことです(現錦岡樽前山神社所蔵)。
 円空の時代(江戸時代初期)、「たろまゑのたけ」(樽前山)の神は、まちがいなく「瀬織津姫」でした。現由緒には、「樽前の神の稜威は幸沢に満ち足るが如く満ち溢るるが如し」という「樽前の神」への尊意表現・讃歌が書かれています。また、「昔より称えられし霊峰樽前山に対する信仰は古く」ともあります。こういった「樽前の神」への大いなる讃歌は、明治期の新しい祭神たちよりも古い祭神、つまり、「霊峰樽前山」に鎮まる古昔からの「樽前の神」が兼備していた「稜威」にこそ捧げられたものでしょう。
 瀬織津姫は海から川を遡上した水神・滝神(宗像の海の姫神)でもあり、つまり、水源を司る山神ともなります。樽前山のアイヌ語山名「タオロ・マイ・エトコ・ヌプリ」(樽前川の水源の山)のみが、この神の祭祀の残影を、かろうじて今に伝えているのかもしれません。

川濯神社(北海道松前郡福島町字福島219 福島大神宮境内社)

更新日:2009/2/13(金) 午前 1:30



 川濯神社(北海道松前郡福島町字福島219 福島大神宮境内社)の紹介です。
 この社は、立派な鳥居や神木まで有していて、一般的な「境内社」の印象からはずいぶんとはみだすような、独立した祭祀がなされているようです。
 まずは、福島大神宮の境内案内から──。

川濯[かわそ]神社
祭 神  伊奘諾尊・伊弉册尊・瀬織津姫命
創 立  明応元年(一四九二年)
例祭日  一月十五日(小正月)
特殊神事 女性守護神「女だけの祭礼行列」が奇祭として全国的に知られる。

 川濯神の故祭地は、海岸部の現月崎神社(旧月ノ崎観音堂)の地とされ、そこの案内も読んでみます。

川濯神社は、明応元年(一四九二)月ノ崎観音堂再建の際、摂社として建立され、同年五月十六日女石神海中より上がり、これを御神体としたといわれる。古くは十羅女[とらめ]堂ともいわれ、女性が信仰深く古来女講中によって例大祭が執行されてきた。明治に至り現在の福島大神宮に境内社として遷社。

 川濯神社の創建は「明応元年(一四九二)」のことで、当初は、海中から拾いあげられた「石」を御神体とし、それを特に「女石神[めいしがみ]」と呼び、この女石神をまつる空間は「十羅女堂」と呼ばれていたようです。それが「明治に至り現在の福島大神宮に境内社として遷社」されたようです。
 以上の祭祀経緯をみますと、川濯神は「女石神」の異称をもっていたように、女神一柱の祭祀でした。それが、福島大神宮に「遷社」されると、なぜか祭神が「伊奘諾尊・伊弉册尊・瀬織津姫命」の三柱に増えています。
 川濯神社拝殿は施錠されておらず、中にはいってみますと、正面には神像を安置したとおぼしき厨子が一つありました。厨子は施錠されていて神像を拝観できませんでしたので、宮司さんに確認したところ、右手に剣、左手に玉(宝珠)をもつ女神立像とのことです。
 実は、滝廼神社(檜山郡厚沢部町字滝野355)で拝観した神像もまた右手に剣、左手に玉(宝珠)をもつ女神立像でした。滝廼神社の祭神は「瀬織津姫命」一柱ですから、川濯神社の神像も、三柱のうちの一柱である「瀬織津姫命」のものだとわかります。
 川濯神社においては、「伊奘諾尊・伊弉册尊」は新しく追加された祭神で、本来の川濯神は、滝廼神と同神、つまり「瀬織津姫命」と断じてまちがいはないでしょう。
 福島大神宮の旧称は福島神明宮で、「神明宮」の呼称からもわかりますが、同宮の祭神は「天照大神」です。福島大神宮の祭祀に、天照大神と瀬織津姫命という、神宮の基層祭祀と酷似する祭祀があったとすれば、明治期の国家祭祀担当者からすれば由々しきことで、とても放置しておけぬものだったはずです。それが、「伊奘諾尊・伊弉册尊」の新規追加による、主祭神の「ぼかし」を呼び込んだほんとうの理由とおもわれます。
 ところで、川濯神社は「明治に至り現在の福島大神宮に境内社として遷社」したとされます。川濯神社の御神木は「乳房桧[ちぶさひのき]」といいますが、この神木についての説明を読むと、明治期に「遷社」したことと整合しないことが記載されています。境内案内には、次のように書かれています。

乳房桧 北海道記念保護樹木(樹齢約五〇〇年)
 桧の分布は福島県が北限で本道の桧は、植栽されたもので、明応元年川濯神社創建の時、神木として奉植されたと伝えられる。母体安全、子孫繁栄の祈りがこめられており、松前家四世季廣の奥方も祈願したと伝えられる。

 樹齢約五〇〇年の乳房桧は「明応元年川濯神社創建の時、神木として奉植された」というのです。川濯神社の創建場所は海岸部だったはずで、そのときに「神木として奉植された」とすれば、川濯神社の故祭地にこの神木は生えていたことになり、明治期に福島大神宮に「遷社」されたとき、神木も一緒に遷して現在地に植えたのかという疑問が出てきます。宮司さんに、この点も確認したのですが、答えは、神木を遷したということはない、というものでした。
 川濯神社は、現在地(福島大神宮境内)に、明治期に海岸部から「遷社」してきた、しかし、川濯神社の神木は、福島大神宮境内に、すでに「奉植」されていたというのです。この伝承の矛盾が意味することは何なのでしょう。
 考えられることはおそらく一つで、つまり、当初から川濯神の名称だったかはともかく、瀬織津姫命は、明応元年時点、海岸部の創祀と同時に、神明宮にも神木の「奉植」とともにまつられたものとみると、以上の伝承の混乱・矛盾は説明がつくようにおもわれます。
 明治期、神明宮にすでにまつられていた瀬織津姫は、神木「乳房桧」を有する境内祭祀地で、海岸部で同神をまつっていた川濯神社の「遷社」を迎えて一つに重なった──。このことで、瀬織津姫は、福島大神宮へ、さもあとからやってきた神、しかも三神表示までなされていますので、ずいぶんとその存在がかすんでみえることになってしまったようです。しかし、旧社地の伝承では、川濯神に対する「女性が信仰深く」とありましたし、新社地の伝承においても「女性守護神」とあったように、当地の女性たちからは厚い崇敬を受けつづけていることがわかります。川濯神社の神木「乳房桧」もまた「母体安全、子孫繁栄の祈り」の対象でした。
 福島大神宮の由緒では明確に語られませんが、神木「乳房桧」の存在は、瀬織津姫という神の祭祀(にまつわる不条理)、および、にもかかわらず同神への(特に女性たちの)厚い信仰の心がつづいていることを雄弁に証言しているようです。人間とちがって、木はウソをつかないということでしょうか。