宇佐・宗像神としての瀬織津姫神──厳島神社(出水市)の祭祀から

更新日:2009/6/25(木) 午前 2:40



 鹿児島県出水[いずみ]市に、瀬織津姫祭祀を考える上でとても興味深い神社が二社あります。一社は、延喜式内社かつ薩摩二の宮である加紫久利[かしくり]神社(戦前は県社)、もう一社は、戦前の社格は村社であった厳島神社です。
 加紫久利神社境内の案内によれば、現祭神は、次のように表示されています(写真1~4)。

主祭神:天照皇大神…主神は伊勢の内宮と同一神であり、日の神と尊び仰ぎ〔後略〕
相  殿:比売大神(宗像大社の祭神)…交通安全の神
      八幡大神(宇佐神宮の祭神)…安産・子育ての神
      住吉大神(住吉大社の祭神)…航海・交通の神
      伊邪那岐・伊邪那美尊…生命の祖神・延命長寿の神

 主祭神(天照皇大神)の相殿筆頭神に「比売大神(宗像大社の祭神)」が記載されています。
 明治期初頭の神社調べの記録(『鹿児島県神社明細書』鹿児島県立図書館所蔵)をみますと、「加紫久利大明神」の項には「日輪太神宮」のあとに「姫太神」と記され、この姫太神の下に「宇佐明神湍津姫命 胸肩明神田心姫命 厳島明神市杵島姫命」と割注形式で書かれています。しかし、「遺書」(由緒)の項には「第一之御殿者日神大神宮第二御殿ハ姫明神ト奉リ候則宇佐明神田霧姫命也第三底筒男中筒男表筒男也第四神功皇后也」とあり、宗像大社と宇佐神宮に共通してまつられる比売大神(姫明神)の神名をどう表示するかという点で統一性を欠いていることがわかります。
 アマテラスとスサノオの天真名井における「誓約[うけひ]」で誕生したとされる三女神ですが、明治期の神社調べにも記されていたように(「宇佐明神湍津姫命 胸肩明神田心姫命 厳島明神市杵島姫命」)、この三女神を宇佐・胸肩(宗像)・厳島の三社に振り分ける考え方があったことは、便宜上のこととはいえ、これも注目してよいかもしれません。
 三女神を「宇佐明神」「胸肩(宗像)明神」「厳島明神」の三社三明神に振り分けるというのは、大分県速見郡日出町に鎮座する八津嶋神社の縁起書「影向山八石宮八津嶋大明神縁記」(『日出町史』所収)にもみられます。同「縁記」は、やはりアマテラスとスサノオの「誓約」で誕生した三女神を「第一田心姫命。筑紫胸肩神。第二湍津姫命筑紫宇佐嶋神。則是以湍津姫命為当宮降臨本神矣。第三市杵嶋姫命。安藝国厳嶋神也」と記していて、三女神の三社への振り分けを加紫久利神社の場合と同じにしています。また、「第二湍津姫命筑紫宇佐嶋神」つまり「湍津姫命為当宮降臨本神矣」と、八津嶋神社へ降臨した根本神は宇佐嶋神である湍津姫命だとしています。
 さて、この「誓約三女神」(仮称)の総称として「比売大神」はあるのですが、この神は奈良の春日大社でもまつられ、春日大社内部においては、「比売大神」と「宗像神社の祭神」は同神という認識があったことはすでにふれました(宮崎県「橘大神と瀬織津姫神」)。
 比売大神の三分神である「三女神」を出水市でまつるのが厳島神社ですが(写真5・6)、鹿児島県神道青年会編『ふるさとのお社─鹿児島県神社誌』は、同社祭神・由緒について、次のように記しています。

厳島神社
鎮座地   出水市上大川内三八五一
御祭神   市杵[ママ]比売尊 田心比売尊 瀬織津比売尊
例祭日   三月十七日 十一月七日
境 内   三四七・六五坪
現等級   六級社(旧村社)
神事・芸能 十一月六日(前夜祭)~神舞奉納
由 緒
 天正以前の創建で、広島厳島神社・福岡宗像神社の分霊を上・下川内の産土神として勧請したと伝えられる。
 言い伝えによると、昔一人の下僕がおり、毎日農事から帰る度に微酔いであったという。主人が不思議に思い問い糺してみると、大変おいしい水の湧き出るところがあって、それを飲んで帰るのだという事であった。翌日、下僕に案内させると、確かに酒の匂う水が溢れていた。主人は欲を出し更に掘ってみたが、枯れはててしまった。しかし、下僕が行く時は変わらず湧き出たという。これは、下僕が常日頃厳島大神を信仰しており、その御心に叶うものだけに授けられたからであった。この下僕が後に冨を得て、御神徳に報いるために一社を建て崇め奉ったという。
 また一説には、この地の人々は平家の落人で、氏神である厳島大神を産土神として勧請したともいう。

 出水・厳島神は「広島厳島神社・福岡宗像神社の分霊」とあります。記紀神話の誓約三女神を表示するならば、「瀬織津比売尊」のところは「多岐津比売尊」とでもなるはずですが、それをしていないところがいいです。「瀬織津比売尊」を宗像・厳島神の一神として表示するのは、おそらく勇気の要ることだったとおもいますが、さすが「隼人の国」の心意気というべきでしょうか。
 なお、タギツヒメの代わりに瀬織津姫神を表示するというのは、ほかにも例があることで、出水・厳島神社一社のみが異端・特異な孤立表示をしているわけではありません。たとえば、滋賀県野洲市比江に鎮座する長澤神社にも、この特異表示はみられます(写真7)。
 出水・厳島神社の由緒中、「一説」として、「平家の落人」が「厳島大神を産土神として勧請した」という別説が書かれていましたが、神社境内の案内を読みますと、この「平家の落人」による勧請説を採用していることがわかります(写真8)。
 瀬織津姫神が「誓約三女神」の一神・タギツヒメと置き換わるだけではなく、「瀬織津姫命・本名、市寸島姫命またの名を狭依昆姫[ママ]命と申し上げ」云々と由緒書に記されている例もあります(静岡県・瀬織戸神社)。また、一般的に弁財天との習合神としてイツキシマヒメが語られますが、瀬織津姫神もまた弁財天と習合する例は瀬織戸神社をはじめ複数社にみられ、この神が、誓約三女神のうち、少なくとも二神と深く関わっていることは神社祭祀から指摘できます。
 残りのタコリヒメ(タギリヒメ)については、同様な祭祀事例はまだ確認できていませんけれど、たとえば『宗像神社史』(上巻)における、次のような記述は示唆すること大きいかもしれません。

元来タギリ・タギツはともに山川の水が瀧のやうに落ち、或は逆巻き、湧きかへつてゐる様についていつたものである。従つて湍津(たぎつ)・多紀理(たぎり)比売とはさうした水の姿、働きに擬へて神格を表現したものである。延喜式大祓詞に、「高山の末、短山の末よりさくなだりに落ちたぎつ、速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」という神格に通ずるものがあるやうに思はれる。

 記紀神話における「誓約三女神」と、記紀神話から除外された瀬織津姫神が、因果浅からぬ関係にあることはまちがいありません。
 ところで、出水市立歴史民俗資料館編『神社史物語(出水)』は、神社側が瀬織津比売尊としているところを、なぜか「多岐津比売尊」と記載しています。その表示意図・経緯は不明ですが、厳島神について、「農作物もよくお守り下さる神であって旱魃や風水害等は、他の村域に比べて非常に少ないと言われる有難い氏神様」と説明しています。
 また、「この神社は昔からの村の氏神であり、美味しくてつめたい安全な水を常に供給してくれる有難い神社」、「いまでも、きれいな湧水池が、神社の境内にあり澄みきった清水が沢山の家庭に導かれています」と、水神・水源神としての神徳も強調されています。
 蓮は泥水に咲くといいますが、清冽な水に咲くものもあるようです。(鹿児島関連資料・写真:日向の白龍)

橘大神と瀬織津姫神──松熊神社の発見

更新日:2009/6/23(火) 午前 9:22



 宮崎市内の地図を見ていますと、橘・小戸・阿波岐原といった地名が目につきます。これらの地名は、『古事記』が記すところの伊邪那岐命の禊祓のシーン、つまり「竺紫[つくし]の日向の橘の小門[をど]の阿波岐原に到り坐[ま]して、禊ぎ祓ひたまひき」を典拠としていることは明らかです。『日本書紀』は、同箇所を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはきはら]」と記していて、小戸(小門)、橘、檍原(阿波岐原)は、イザナギの禊祓におけるキーワード的地名といってよいかとおもいます。
 これら三地名には、それぞれ所縁の神社がまつられています。小戸(小門)については、その名も小戸神社、橘については、橘大神をまつる宮崎八幡宮、檍原(阿波岐原)については、阿波岐原町鎮座の延喜式内社・江田神社です。
 これら三社の由緒等を先にみておきます。
 宮崎市鶴島町に鎮座するのが小戸神社(祭神:伊奘諾大神)です(写真1・2)。同社の縁起書「日向国之小戸神社由緒略記」には、「第十二代景行天皇の勅により創建と伝える」と記され、古くは「旧宮崎市街地全域を小戸と称し」たと書かれています。また、「太古伊奘諾大神が禊祓をされた“祓の神事”由縁の地」、「古くより大淀川河口の沖合小戸の瀬は、小戸神社御鎮座の清浄地」だったが、「寛文二年の西海大地震」によって、「上別府の大渡の上」への移転を余儀なくされ、その後また変遷あるも、「昭和九年橘通り拡張により御由縁深き大淀川の辺りの現社地へ遷座し現在に至る」と、その変遷経緯を記しています。
 小戸神社の最初の鎮座地は「大淀川河口の沖合小戸の瀬」だったようです。ここは埋め立てがなされるも、現在は宮崎市小戸町という名で、由緒深い地名ということだからなのでしょう、その名(小戸)を町名として残しています。
「橘の小門」あるいは「小戸の橘」と記される「橘」ですが、宮崎市内を南北に走る幹線通りとして「橘通」の名がみられます。また、小戸神社の戦前の鎮座地は「橘通二丁目」でした。この橘ゆかりの「大神」をまつるのが宮崎八幡宮です(写真3・4)。
 宮崎八幡宮の由緒記によれば、祭神は、次のように記されています。

  誉田別尊(応神天皇)・足仲彦尊(仲哀天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)
  伊邪那岐命・伊邪那美命
  橘大神

 創建由緒については、「宮崎八幡宮は今より九百年前の永承年中(西暦一〇五〇)頃にこの地方の開拓にあたった海為隆が、昔しよりお祀りしていた橘大神と共に、宇佐八幡大神をこの地に勧請し、開拓にあたったと言われています」と書かれています。
 橘大神の祭祀がすでにあったところへ「宇佐八幡大神」が勧請されたわけですが、ここに「宇佐八幡大神」の大元神(御許神)である比売大神の名がないという不思議を指摘できそうです(後述)。また、「この地方」の地主神ともいえる「橘大神」の名がありますが、では、この「橘大神」とはどんな神様かという関心が湧いてくるのはわたしだけでないでしょう。しかし、社務所からの応答は、古い神様であるものの詳細は不明とのことです。
 この謎の橘大神ですが、戦前の神社記録を集めた『宮崎県神社誌』をみますと、主祭神は現行表示の五柱神と同じですが、表示最後の「橘大神」の名はなく、その代わりというべきか、相殿の項に、次のように書かれています。

  相殿 荒御魂神 和御魂神直日ノ神

 この相殿神は、現行の表示にはみられませんので、これが現在「橘大神」と表示されている神の内実ということがわかります。「和御魂神直日ノ神」と対偶関係をもつ「荒御魂神」とは、『古事記』の禊祓の伝でいえば「八十禍津日神・大禍津日神」、『日本書紀』の伝でいえば「八十枉津日神」となります。この「禍(枉)津日神」とは、瀬織津姫神の貶称神名「八十禍津日神」と同体である「天照大御神荒御魂神」(内宮第一別宮・荒祭宮の神)のことで、この「天照大御神荒御魂神」から「天照大御神」を削除して、ただ「荒御魂神」と表示していたのが宮崎八幡宮の戦前表記でした。橘大神には、少なくとも「荒御魂神」こと瀬織津姫神が秘められていることになります。
 ところで、『宮崎県神社誌』の表紙には、その題字について「宮崎県知事木下義介閣下御染筆」とあり、この県知事・木下義介の赴任時期は昭和六年(一九三一)から昭和八年(一九三三)ですから、この時期の「神社誌」ということがわかります。もう少し添えておくなら、昭和天皇の「御大典」(天皇即位の大典)があった昭和三年(一九二八)に向けて神社祭神・由緒の再洗い出し(祭神の再変更を含む)が全国的になされていましたから、その結果をまとめたのが、この『宮崎県神社誌』とおもわれます(ちなみに、遠野の早池峰神社の由緒書が、明治維新時に継ぐ二度目の没収をなされたのもこのときです…『エミシの国の女神』)。
 さて、三社め──。宮崎市阿波岐原町産母[やぼ]に鎮座するのが江田神社です(写真5)。「江田神社由緒記」によれば、同社祭神は「伊邪那岐尊・伊邪那美尊」とのことですが、「但し伊邪那美尊は安徳天皇寿永二年正月配祀」と注記されていて、主祭神は伊邪那岐尊ということになります。同社の由緒を読んでみます(適宜句読点を補足して引用)。

本神社は太古の御創建にして、其の創立の年代は詳かならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸の阿波岐原として伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と伝承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。禊祓の際、天照皇大神、月読尊、素佐鳴[ママ]尊と住吉三神の神々が御降誕あらせられたる霊域の地と伝え、即ち上代に於ける中ツ瀬と称せる御池、本社を去ること約五丁の東北に現存す。後、世人入江を開墾して江田と称し、里人俗に産母様と称えて今日に至る。〔後略〕

 江田神社の「約五丁の東北」には「上代に於ける中ツ瀬と称せる御池」があるとのことです(写真9)。この「中ツ瀬」の名残りらしい「御池」には、江田神社とは別に「みそぎ御殿」なる社殿があります。
 檍原ではなく阿波岐原という表示から、江田神社あるいは「みそぎ御殿」は『古事記』を典拠とする祭祀を展開していることがわかります。『古事記』は、イザナギが「日向の橘の小門[をど]の阿波岐原」の「中ツ瀬」の禊祓で誕生した多くの神々の筆頭神を「八十禍津日神」と記していました。江田神社とは別に祭祀される「みそぎ御殿」のユニークなところは、「天照皇大御神」を筆頭神として全九柱の神宮祭祀関係神をまつっていて、最後に、『古事記』記すところの八十禍津日神ではなく「瀬織津姫命」と表の神の名を表示しているところでしょう(写真6)。
 なお、江田神社の主祭神は「伊邪那岐尊」とされるにもかかわらず、ここは「里人俗に産母様と称え」ているとされます。鎮座地の字名にも「産母」がみられます。配祀神の伊邪那美尊が「産母様」といわれるならば、それなりの説明は一応つきますが、同社由緒記は、由緒の最後を、「古くより近郷近在の人々が当社を産母様と尊称してお祓い縁結び安産の守護神として最も崇敬しているお社であります」と結んでいます。
 阿波岐原町産母の西隣りには村角[むらすみ]町橘尊という地名もみられます。江田神を「産母様」というのは地母神(地主神)のイメージを伴います。「お祓い縁結び安産の守護神」という神徳をみますと、伊邪那美尊の神徳にあてはまるのは「縁結び」一つで、この三つの神徳をすべて備えているのは、むしろ当地の地主神・橘大神こと瀬織津姫神とみたほうが無理がありません。江田神社も、どこか風通しのわるい祭祀を展開しているようです。
 以上、小戸(小門)、橘、檍原(阿波岐原)ゆかりの三社を概覧してきました。小戸神社の古祭地は「大淀川河口の沖合小戸の瀬」でした。ここは現在、宮崎市小戸町と表示されていますが、同地に、神社本庁には非所属・非登録とおもわれる松熊神社が鎮座しています(写真7)。
 大淀川の最源流部(鹿児島県曽於郡末吉町:現在、曽於市末吉町)には、そこにも「桜谷」の地名がみられます。現在、大淀川河口部の「小戸」に鎮座する松熊神社の境内案内によれば、小戸神社と同じく景行天皇時代の創祀で、また小戸神社と同じく「松熊山」に鎮座していたとのことで、祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神、速秋津彦神、瀬織津咲神と表示されています(写真8)。
 この「瀬織津咲神」の「咲」は瀬織津比咩神の「咩」が誤転記されたものかとおもわれます。あるいは、意図的に「咲」をつかった可能性もないわけではありませんが、いずれにしても、イザナギの禊祓の伝承地に、八十禍津日神でも八十枉津日神でもなく、いわば本来の神名がわかるように祭祀されていることは、先にみた、江田神社と一線を画す祭祀をしている「みそぎ御殿」と同様に貴重といえます。日向国一之宮・都農神社を頂きとする「神話の国宮崎」(「小戸神社由緒略記」のことば)で、日向姫(天疎向津媛)を消さずにきた気骨祭祀が垣間見られるのは、多少の安堵といったところでしょうか。
 最後に、宮崎八幡宮が「宇佐八幡大神」を勧請したとき、当地に比売大神のみを勧請しなかった理由についてですが、ここに興味深い記録があります。生野常喜『日向の古代史』(私家版)は、東大阪市の枚岡神社および奈良市の春日大社の祭神の一神「比売神」についての疑問を抱き、次のような聞き取りを収録しています。

比売神は宇佐神宮を始め県内(宮崎県内…引用者)でも数社見られるので、宮崎県神社庁参事の黒岩竜彦氏に照会したところ、早速奈良の春日神社まで問い合せて下さり、比売神は、宗像神社の祭神で天児屋根命の妻となられた方だとご返事をいただいた。

 春日神社(春日大社)の認識では、同社の「比売神」は、「宗像神社の祭神」と同体とのことです。また、「天児屋根命の妻」という対偶関係ですが、これは、神武天皇東遷時に宇佐(表記は「菟狭」)へ寄ったとき、「勅[みことのり]をもて、菟狭津媛[うさつひめ]を以て、侍臣[おもとまへつきみ]天種子命に賜妻[あは]せたまふ。天種子命は、是中臣臣の遠祖[とほつおや]なり」という『日本書紀』の記述が反映したものです。勅命によって中臣氏の遠祖神の「妻」とされたとあるように、この記述は、中臣=藤原氏の意向を受けた書紀編纂・創作者の露骨な作為が読める箇所の一つです。
 宇佐神宮(宇佐八幡)の比売大神は宗像三女神と同体とされます。春日大社の「比売神」が、瀬織津姫神を秘した抽象神名であったことは、すでに複数の記録があり、また考証されていることでした(本ブログおよび『円空と瀬織津姫』上・下巻)。
 宮崎八幡宮が、橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神の既祭祀地に「宇佐八幡神」の比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。したがって、比売大神を「勧請しなかった」のは、「勧請する必要がなかった」というのがありていのところなのでしょう。
「日向の橘の小門(小戸)の阿波岐原」の地主神「橘大神」の祭祀にも、日向姫(天照大御神荒御魂神=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の祭祀が根底にあったことはとても重要です。(資料提供・写真:日向の白龍)

高千穂関連記事の削除について──瀬織津姫神の行方

更新日:2009/6/23(火) 午前 1:30



 各地の瀬織津姫祭祀に光をあてようということで、遅々たる歩みですが、いくつかの紹介記事を書いてきました。
 今回、高千穂の瀬織津姫祭祀、および関連する「宮崎県の瀬織津姫祭祀」の全稿を削除しました。理由は、基本資料の押さえがまだ徹底されていなかったということに尽きます。足下の危うい場で思考・想像をめぐらしても、いずれ地盤沈下して空疎なことばたちが砂上の蜃気楼のように残るだけだからです。
 宮崎県には「日向の高千穂」が二箇所あります。どちらが天孫降臨の場の真蹟かといった論議はまったく意味がないのですが、しかし、この神話に基づいた神社祭祀が、さも当然のごとくに展開されているのが宮崎県・日向国です。
 八世紀初頭の神話作者は、「天孫降臨」の場をなぜ「日向の高千穂」に設定したのかという問いによく応えた論考があるのかどうか、わたしは寡聞にして知りません。皇統譜の思想を地上へ降ろそうとするなら、むしろ日本一の高山・霊峰である富士山あたりがふさわしいのではないかとおもうのはわたしだけでしょうか。
 もっとも、『古事記』『日本書紀』には、たとえば、ヤマトタケルの東征神話に富士山が登場してきてもよさそうなものですが、記紀の作者はそれをしていません。八世紀初頭の時点、富士山には王化(皇化)とは無縁の神、しかし「日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」(万葉集歌番三一九)が健在鎮座していたことが、この山を神話作者が無視せざるをえなかった理由だとしますと、そのような山に、「天孫降臨」の神話を設定することはやはり不可能だったとみることもできます。
 すでに、表面上は王化(皇化)に服していた西海道の諸国でしたが、しかし、たとえば『日本書紀』が成る養老四年(七二〇)には日向・大隅の隼人の大乱が『続日本紀』に記されるように、決してまだ安定したものとはいえませんでした。熊襲[くまそ]が皇化思想を受け容れ服属を誓った証が「隼人舞」で、隼人は、皇化思想を受容した東北の和[にぎ]蝦夷に相当します。
 日向国を割いて大隅国が建てられるのは和銅六年(七一三)で、大隅国はもともと日向国でした。「正史」である『日本書紀』の神話に「天孫降臨」の場として「日向の高千穂」はすでに記されていましたから、その「日向」の地から、すでに服属し恭順を誓っていたはずの隼人の反乱がおこったことは、朝廷の支配層を震撼・激怒させたにちがいありません。乱の制圧には八幡大神も狩り出されることになります。隼人の犠牲者は多く、宇佐で「放生会」がはじまるのも、この乱とその制圧を機縁としています。
 ところで、隼人舞が朝廷への服属の証としますと、神まつりの場面での服属の証はなにかといえば、それは、皇化思想と抵触する神の祭祀を変更・消去することではないでしょうか。
 今回、高千穂を中心に宮崎県の瀬織津姫(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)祭祀の入口を徘徊してみて気づいたことが一つあります。それは、この向津媛(日向姫)の祭祀が、記紀の神話に準拠した神社祭祀によってひどく伏されている、あるいは、消去されているということです。当初、こういった新たな神社祭祀を祭祀当事者が自主的に受け容れたものか、あるいは、中央の祭祀権力の強制が暗にあってのことか、これについては文献的に明かすことは至難ですが、ただいえるのは、現地の祭祀当事者が、自らが大切にしてきた神とその祭祀を嬉々として変更したなどというのはありえないだろうということです。
 この神まつりの変更(服属の証)ということでいいますと、高千穂は、日向国では最後まで中央側に抵抗したところではないかとおもわれます。なぜそうおもうかを、以下に少し書いておきます。
 九世紀の時点ですが、日向国で最高位の神階をもっていたのが高千穂皇神です。『続日本後紀』承和十年(八四三)条には「日向国無位高智保皇神、無位都農皇神、並に従五位下を授け奉る」、『日本三代実録』天安二年(八五八)条には「日向国従五位上高智保神・都農神等に従四位上、従五位上都萬神、江田神、霧島神に並に従四位下を授く」とみえるように、高千穂皇神(高智保皇神・高智保神)は都農皇神(都農神)とともに日向国の最高神階を有する神でした。しかし、延長五年(九二七)に成る『延喜式』神名帳には「日向国四座」のなかに高千穂皇神の名はありません。
 これだけの神階を有していたにもかかわらず、朝廷からの奉幣対象神としてはずされた高千穂皇神でした。かつてはそれなりの神階を与えられながら、延喜式内社として認定されない場合を考えてみますと、おそらく三つのケースがあるようにおもえます。
 一つは、延喜時代にはすでに祭祀そのものが衰退あるいは消滅してしまっていた場合、二つは、神仏混淆化が進みすぎて、ほとんど神社の体をなさないほどに神の祭祀が仏教色に覆われていた場合、あと一つは、朝廷の祭祀思想に同化することのない神まつりをおこなっていた場合、です。
 高千穂皇神がいずれの場合に該当するのかは、資料的に精査してみる必要がありますが、高千穂宮天真名井の御神水ゆかりの神として、記紀神話がもっとも忌避する瀬織津姫神(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の祭祀が当地にあったことは特筆すべきで、これは、第三のケースを想定させるに足るものかもしれません。
 現在、高千穂皇神は「天孫降臨」神話ゆかりの天津彦彦火瓊瓊杵尊とその妻神・木花開耶姫命ほか四柱神の計六神とされます(「高千穂宮御由緒」)。もし延喜時代にすでに「天孫」をまつる祭祀をしていたならば、延喜時代以前の神階の高さの延長で、おそらく式内社からはずされることはなかっただろうとおもわれます。
 ちなみに、高千穂宮の社殿は南面ではなく東面(日向)しています。この社殿の向きが示唆することの意味は大きいです。
 日向国における瀬織津姫祭祀を語るには、相応の下調べと史料探査をよりていねいにする必要がありそうです。あわてずに一歩一歩というところでしょうか。(写真:日向の白龍)

闇無浜神社考【Ⅷ】──「歴史」と交差する伝記

更新日:2009/5/25(月) 午前 1:13



 伝記(「豊日別宮伝記」)は瀬織津姫神(姫太神)が「中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍[たいしんりゅう]と称し奉るなり」と、「太神龍」、つまり、姫太神の白龍姿を尊称する異称を記していました。また、瀬織津姫神が託宣を終えて飛び去るとき、その姿は出現時と同じく「白龍」に変じたとも書かれていました。白龍が「水」の姿と現じれば「白瀧」となり、これは、各地にみられる白龍神・白瀧神の祭祀にも関係してきそうで、興味深い変身譚といえます。
 伝記の表題にみえる「豊日別宮」が社号としては正式なのでしょうが、しかし、伝記中にはさまざまな異称社号が記されていました。仮に、豊日別を冠するもの、太神龍(龍)を含む社号、その他(姫太神系)と分類してみますと、おおよそ次のような社号がみられます。

豊日別系……豊日別宮・豊日別荒魂宮・豊日別龍太王神宮・豊日別龍王宮
太神龍系……龍王宮・龍王社・太神龍宮・伊曽良龍王宮
姫太神系……太神宮・神宮

 瀬織津姫神(姫太神)が「太神龍」と尊称されていたというのは、その社号に「龍」を含む異称社が十社中六社あることからもよく伝わってきます。また、瀬織津姫神(姫太神・太神龍)の祭祀が社号に反映しているかどうか必ずしも分明ではないとおもわれるのは「豊日別宮」ですが、豊日別国魂神と瀬織津姫神が異神ではなかったことはすでにみたとおりです。
 伝記は、「伊奘諾尊日向の小戸の橘の檍原[あはぎはら]に祓除[はらへ]し給ふ」ときを瀬織津姫神の誕生としていて、これはいうまでもなく記紀神話に依拠したものです。しかし、厳密にいえば、『古事記』は「日向の橘の小門の阿波岐原」、『日本書紀』は「日向の小門の橘の檍原」と表記していましたから、その語順や漢字表記からすると、伝記が依拠・参照していたのは『日本書紀』ということがわかります。また、伝記は「六月晦大祓」という国家祓の祝詞の内容と対抗するように、瀬織津姫神の「祓」の神徳の転換を図ることもしていて、これら中央側の二つの文献を伝記と対比させることができるようです。
「六月晦大祓」の原型祝詞が成るのは天智天皇八年(六六九)、『日本書紀』が成るのは元正天皇養老四年(七二〇)で、伝記の記述が、「縁起」に加え「歴史」の匂いがしてくるのも、この天智時代くらいからだろうというのが私見です。天智と、それにつづく天武時代の伝記の記述を読んでみます。

天智天皇七年〔戊戌〕九月、栗前王[くるくまのおほきみ]命令[みことのり]して、神官に当宮を祭らしむ。九州平安の願心なり。自ら願文[ぐわんもん]を書し神剣を奉納す。
天武天皇元〔壬申〕年、大宰師[だざいのそち]栗隈王年々幣使を当宮に立て、天下国家の平安を祈らしむ。同六年〔丁丑〕八月、明鏡一面・牛王[ごわう]一・匕首刀[びしゆたう]一柄[いちへい]を神庫に納めて神宝と為す。同七年〔戊寅〕当宮の神前に於て、天神地祗を祭らしむ。九州[きうしう]の諸家に命じ祓禊[みそぎはらへ]せしむ。同年十月、大地震度々[たびたび]なり。当宮に祈る。同十一月、下毛郡中三十戸を以て神供の料に封ず。

 天智七年(六六八)と天武元年(六七二)という二条の記述には、古代史最大の内乱、それも天皇位争奪の内乱(壬申の乱)が背景としてあります。天智天皇が亡くなるのは天智十年(六七〇)十二月のことで、以後、天智天皇の皇太子・大友皇子と大皇弟(のちの天武天皇)の関係は一気に悪化します。
 六七二年、乱の勃発時、近江朝(大友皇子)は、筑紫の栗前王=栗隈王に援軍の要請をおこないますが、栗隈王は「筑紫国は、元より辺賊[ほか]の難[わざはひ]を戍[まも]る、其れ城[き]を峻[たか]くし溝を深くして、海に臨みて守らするは、豈[あに]内賊[うちのあた]の為ならむや。今命を畏[かしこ]みて軍を発[おこ]さば、国空しけむ。若[も]し不意之外[おもひのほか]に、倉卒[にはか]なる事有らば、頓[ひたぶる]に社禝[くに]傾[かたぶ]きなむ」云々と、筑紫で自分は外敵の防御の任に就いてることを理由に援軍を送れないと応えています。
 栗隈王の中立・静観の選択が天武方に有利に働いたことは明らかですが、天智七年のときは「九州平安の願心」から豊日別宮に祈願させていたのが、壬申の乱の最中には、同じ祈願でも「天下国家の平安」となるのも、この国内の大乱が影響しています。
 近江朝が滅んで、天武天皇による国内再統治の施策が打ち出されますが、伝記は、天武七年(六七八)の条に「当宮の神前に於て、天神地祗を祭らしむ。九州[きうしう]の諸家に命じ祓禊[みそぎはらへ]せしむ」とあるのも、その一つです。書紀は、同年「是の春に、天神地祗[あまつかみくにつかみ]を祠[まつ]らむとして、天下悉[ことごとく]に祓禊[おほみはらへ]す」と記録しています。
 九州で内乱に加わらなかった栗隈王(橘諸兄の祖父)が亡くなるのは天武五年(六七六)六月ですが、同年八月十六日に、天武は「四方[よも]に大解除[おほはらへ]せむ」と、大解除(大祓)執行の命を出します。これは天武紀に記される初の大祓の記事で、それが「八月十六日」とされていますので、このときは、「六月晦大祓〔十二月[しはす]はこれに准[なら]へ。〕」にみられる六月・十二月の大祓が、まだ定式行事化されていなかったことがわかります。
 伝記は「同年(六七八年)十月、大地震度々[たびたび]なり。当宮に祈る」とつづけています。書紀は同年十二月条に「是の月に、筑紫国、大きに地動[なゐふ]る。地裂くること広さ二丈[ふたつゑ]、長さ三千余丈[みちつゑあまり]。百姓[おほみたから]の舎屋[やかず]、村毎に多く仆[たお]れ壊[やぶ]れたり」と記録しています。伝記は十月から「大地震度々[たびたび]なり」と記し、書紀は十二月に「筑紫国、大きに地動[なゐふ]る」と記していて、ここには十月と十二月という時間差がみられます。この時間差は、書紀の記述との整合性を図ろうとする作為がないことを示していて、わたしはここに、伝記にみられる「史書」としての記述の正確さを読みました。
 ところで、豊日別宮が、国家祓(六月晦大祓)と無縁のところで自社「神道」を生きていたわけではないことも、伝記は記していました。

土御門院元久元〔甲子〕年六月晦日[つごもり]、茅輪[ちのわ]の祭始めてこれを行ふ(名越祓[なごしのはらへ]、又は六月[みなづき]祓共云ふ)。神輿北御崎の海浜に渡御し、五十串[いぐし]を立て神壇を構へ、神官遠近の衆人をして、茅輪を越えしむなり。七月朔日[ついたち]還御、此の時より毎歳これを行ふ。郡吏諸民の願心に因[よ]るなり(六月に閏月[うるふづき]これ有る年は、閏月を用ふる社例なり。然[さ]れども、時に依りて前月を用ふる事これ有り)。

 豊日別宮においては、元久元年(一二〇四)に茅輪祭(名越祓・六月祓)がはじまったとのことです。この祭の開始は「郡吏諸民の願心に因るなり」とあり、豊日別宮神官の積極的な意志ではじめられたものではなかったようです。鎌倉時代ともなりますと、当初の国家祓(大祓)は、朝廷行事の枠を越えて、多分に大衆化してきたことがよく伝わってきます。もともと「大いなる祓神」をまつる豊日別宮ですから、「諸民」(益人)の希望ならば、類似の祓行事も受容しうるものだったのでしょう。
 伝記は、もう一つの祓行事「七瀬祓」の受容も記しています。

後小松院明徳三〔壬申〕年、多々良朝臣義弘皇統安泰武将永久の為に、神主義矩[よしのり]をして七瀬祓[ななせのはらへ]を行はしむ。義矩命を承[う]けてこれを行ふ。所謂[いはゆる]七瀬は、中津瀬広津瀬瀧津瀬鵜来津瀬[うきつせ]熊津瀬大之瀬広瀬以上七箇瀬なり。瀬毎に川社を造り八座置[やくらおき]の神壇を構へ、神供幣帛を兼備して、一箇瀬に神官十二人宛[づつ]六箇瀬これに同じ。七瀬の内、中津瀬を以て本処と為す。故に神主大膳正[だいぜんのしやう] 義矩これを勤む。件[くだん]の大祓神宮の大祀なり。

 伝記の後注には、七瀬祓について「古代以降、宮中では毎月または臨時に吉日を卜して行われた陰陽道の祓。七つの瀬に人形[ひとがた]を流した」とあります。この宮廷行事にしても、神主義矩は「命を承[う]けてこれを行ふ」とあり、彼が七瀬祓という祓行事を能動的にはじめたものではなかったことを伝えています。
 ところで、七瀬のそれぞれには「川社」を設けるとのことです。この七瀬のなかの「瀧津瀬」で想起されるのは、『山城国風土記』(逸文)の「宇治の瀧津屋は祓戸なり」という一行です。宇治川に設けられた「瀧津屋」(川社)の上流に鎮座するのが佐久奈度神社で、ここで「六月晦大祓」の原型の祝詞がつくられたわけですが、『近江国風土記』(逸文)は、佐久奈度神社についても、次のように記録していました。

八張口の神の社。即ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌みて、瀬織津比咩を祭れり。

 風土記(岩波書店版)の注は、「八張口の神の社」について、「滋賀県大津市大石の桜谷(俗に鹿飛という地)にある式内社佐久奈度神社(桜谷明神)。瀬田川の急流の落ち口にある」と説明しています。また「佐久那太李」については「水流が急で激しく流れ下るのをいう」としています。大祓祝詞にも「高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」とありました。ただ、風土記は「伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌みて、瀬織津比咩を祭れり」としていて、「伊勢の」という限定をしているところにやはり注意がいきます。「忌みて」の「忌む」については「神の霊力を畏れ憚るの意」と注されていますが、伊勢(五十鈴川)の瀧神の霊力を畏れ憚って「瀬織津比咩」をまつっているのが「八張口の神の社」(佐久奈度神社=桜谷明神)ということのようです。
 伝記の後小松院明徳三年(一三九二)の記述は「件[くだん]の大祓神宮の大祀なり」と結んでいます。この明徳三年の記述は、伝記全体の最後の条でもあり、「件の大祓神宮の大祀なり」というのは、伝記最後のことばでもあります。
「件の大祓」が、「六月晦大祓」を指すものではなく、ましてや、あとから追加的にはじまった茅輪祭や七瀬祓を指すものでもないことは明らかです。「件の大祓」は、豊日別宮伝来の「神道」に基づく「大祓」(神宮の大祀)をいうはずで、伝記は、原点の祭祀に立ち返る記述をもって、一巻を結んだといえます。
 最後に、少しほっとする話を伝記から拾っておきます。

同(聖武天皇)御宇、行基法師中津に来り、豊日別宮瑞垣[みづがき]の辺[あたり]に一七日[いちしちにち]参籠して、誦経[ずきやう]持念[ぢねん]す。或る夜、太神神主冨麻呂に託して曰く、大法器[みのりのし]吾が前に来る、久しく法味[ほふみ]を受く。吾れ、加護す。汝告げて帝都に帰へす可し。大なる賜[たまもの]を得むと。冨麿[ママ]神託を以て行基に告ぐ。益[ますます]神宮を拝し帰洛す。是より先、行基国中遠近の古跡に居るとき、仏像を刻みて所々に安置す。亦、御長[おんたけ]三寸の薬師神像を当宮に奉納す。神主曰く、古[いにしへ]従り仏像を宮中に納め奉る先例無し、因りて衆議して神官の私蔵にこれを納む。

 ここには、天平の名僧・行基(の法徳)を一旦受け容れ、しかしそれをも包む太神(姫太神)の懐の広さが描かれていて出色です。とともに、神仏混淆を受け容れなかった豊日別宮(神主・冨麻呂)の見事な応対ぶりまで記録されています。伝記は、不徳の仏徒をたしなめ恐縮・再拝させる太神(姫太神)の逸話をほかにも記していますが、太神(姫太神)に崇敬の念を抱いていたのは、行基以前に限定しても、役小角や泰澄がすでにいました。「豊日別」の国においては、宇佐神宮ゆかりの法蓮を加えてよいかもしれません。
(写真1:闇無浜神社中央社殿(本社)、写真2:住吉社(左社殿)、写真3:祇園八坂社(右社殿)、撮影:豊国の風)

闇無浜神社考【Ⅶ】──瀬織津姫神「神徳」の諸相

更新日:2009/5/23(土) 午前 1:20

「六月晦大祓」(の原型)を創作したのは中臣金(のちの近江朝右大臣)で、それは天智八年(六六九)のこととされます(滋賀県大津市・佐久奈度神社由緒)。現在読めるのは『延喜式』収載のものですが、このようなかたちに整えられるのは大宝律令制定の頃(七〇一年頃)というのがほぼ定説です。ちなみに、当初は、佐久奈度神(大祓神)は瀬織津比咩神一神でした(『円空と瀬織津姫』下巻「琵琶湖の水神と大祓神」)。
 瀬織津姫神の中津への出現時の託宣「遠き蕃[ほとり]の寇[あだ]を防ぎ、天の災地の災をも攘[はら]ひ除かむと思ふ」には、外敵・異敵の「寇[あだ]」を防ぎ祓う意志も示されていました。これは、「吾は天照太神の荒魂、瀬織津姫神なり」と自己規定して名乗った「天照大神の荒魂」の作用がいわせたものでしょう。
 天照大神「荒魂」ということばの文献的初出は『日本書紀』神功皇后条です。この「荒魂」の登場には伏線があって、それは、神功皇后の夫であった仲哀天皇へ「死」を託宣した神、つまり、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神が天照大神「荒魂」の原像としてあります。
 この「荒魂」は、神功皇后の新羅遠征に随行させられたようです。帰還時、難波の手前で皇后の船がくるくる廻って進むことができないという怪異がおこり神占すると、天照大神から「我が荒魂をば、皇后に近[ちかつ]くべからず。当[まさ]に御心を広田国に居らしむべし」という託宣を受けます。この託宣を創祀根拠としてまつられたのが広田神社です(西宮市大社町)。同社の現祭神表示は「天照大御神荒御魂(御祭神の御名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉る)」、創祀由緒については、次のように記されています(広田神社公式HP)。

 廣田神社は、神功皇后摂政元年(201)、国難打破の道を教え、皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り、軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照皇大神荒御魂の御神誨により、御凱旋の帰途、神功皇后により武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に御創建されたことが、我が国最古の国史書「日本書紀」に記されている兵庫県第一の古社です。

 由緒には「軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照皇大神荒御魂」とあり、この「荒御魂」の神は「建国初の海外遠征」にさも積極的に加担したかのように書かれています。国家の「海外遠征」とは海外侵攻・侵略が実態で、瀬織津姫神は、そのような国家行為に加担する神であろうかという疑問が残ります。
 こういった疑問を頭において「豊日別宮伝記」を再読しますと、最初の託宣「遠き蕃[ほとり]の寇[あだ]を防ぎ、天の災地の災をも攘[はら]ひ除かむと思ふ」にしても、「寇[あだ]を防ぎ」とあるように、いわば「海外遠征」してくる「異敵」の襲撃を防ぐという、現代風のことばでいえば「専守防衛」的神徳が特徴で、これは一貫していることを指摘できます。倭国による「海外遠征」の一つ、百済救援の遠征における歴史的大敗(白村江の戦い)を書紀は記していましたが、ここには、遠征海路に鎮座する「道主貴」(宗像三女神)も、かつて「軍船の先鋒」とみなされた「天照大神荒魂」も登場することはありませんでした。書紀の作者は、この「神の沈黙」をまったく理解できていなかったようです。闇無浜神社の伝記は、「建国初の海外遠征」の当事者・神功皇后の条を設けることなく、つまり、無視するという姿勢で書かれています。
 天照大神荒魂という神名創作の原点をみますと、そこには、たとえ今上天皇といえども、「この天の下は、汝の知らすべき国に非ず。汝は一道[ひとみち]に向ひたまへ」と託宣できる神威をもつ神が立っています(『古事記』)。天孫あるいは天孫族の支配思想にとって、もっとも恐怖・畏怖する神として、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=天照大神荒魂、つまり、瀬織津姫という神はあります。
 この神の強力な神威を内(天皇・朝廷)に向かわせないためにはどうすべきかというのは、当時、天皇の統治を悠久なものとすることを考えていた者にとっては大きな問題だったはずです。そこで、彼らの頭に浮かんだのが、この神を国家祓(大祓)の専門神に仕立てるということでした。つまり、この神(の名)は正史に載せることなく、国家祓(大祓)の専門祝詞(「六月晦大祓」)に封印し、その強力な神威だけは利用するという発想があっただろうことが想像されます。この発想の書紀的表現が、神功皇后の「海外遠征」譚にみられるといえます。
 しかし、闇無浜神社の秘蔵伝記(「豊日別宮伝記」)ほかが伝えるように、瀬織津姫神は、天皇の国家のために大祓神として奉仕させられる以前に、その信仰の裾野はすでに広範囲にみられ、つまり、倭国庶民の心に根づいていたことが考えられます。天皇・朝廷の支配思想は、この倭国庶民の「心」をも潜在的「異敵」としてしまったようです。
 支配思想にとって、「敵」は国外ばかりにあるわけではなく、国内にも、いくつもの異敵国が存在していました。瀬織津姫神は、すでに倭国庶民(海民)の「心」を「神の住まい」としていましたから、たとえば「朝敵」とみなされたエミシの国にまで、この神の信仰が広がっていたことは、大祓祝詞が創作される前、たとえば斉明天皇の時代(六五五~六六一)にまで溯ってもみられるものでした(『円空と瀬織津姫』上巻)。この神を抱えるエミシの国側からすると、一方的に侵入してくる朝廷軍こそ「異敵」でしたから、瀬織津姫神の神威がどちらの国(軍)に加護を与えるかは、天皇・朝廷の支配思想からすれば重大問題で、それが、たとえば出羽国の鳥海山の神に対する遇し方(神名は「大物忌神」と伏せるも神階だけは上昇付与する)によく表れています。
 さて、西国においても、瀬織津姫神がもつ異敵退散の神威が認められていたこと、あるいはアテにされていたことは、「豊日別宮伝記」にも記されていることでした。

応神天皇九年〔戊戌〕二月、武内大臣[たけしうちのおとど]来りて当宮の神縁を問ふ。神主本宮国魂神・瀬織津姫尊・志賀海神[しかわつみのかみ]並びに第二第三殿の神徳を演説す。大臣則ち神前に詣りて、奉幣して万民の康楽異域の降伏の事を祈る。是の後、知賀雄[ちかを]に命じて神宮を西に向かはしむ。西蕃鎮護の神徳を顕すなり。
恙[つつが]無き也[や]、賊徒等神罰なる事を畏み、遠国に退去す。

 武内大臣(武内宿禰)といえば、仲哀天皇が亡くなったとき、神功皇后の神占を審神者[さにわ]として伝えた側近中の側近でもありました。これは『古事記』の記述ですが、『日本書紀』が成ると、この審神者は中臣烏賊津使主[いかつのおみ]の任に変更されます。蛇足ながら、書紀は要所要所に「中臣」の祖神たちを登場させることに腐心していて、これは、中臣(=藤原)氏がいかに神代から天皇近くで重要なポストに就いてきたかを「正史」に刻んでおこうとする編纂意図に基づくものです。書紀編纂の背後に、藤原不比等の眼があることはいうまでもありません。その意味で、書紀は「藤原思想」の体現としての「正史」とみることも可能です。
 さて、「豊日別宮伝記」は、景行天皇四年に志賀海神の出現とその祭祀、同十二年に、物部夏花の命によって武甕槌神・経津主神・中臣神(天児屋根命)・別雷神の四神を「本宮の左右」にまつったと記していて、それが、武内大臣の「神縁」の問いに対して「神主本宮国魂神・瀬織津姫尊・志賀海神並びに第二第三殿の神徳を演説す」という記述の背景となっています。したがって、「西蕃鎮護の神徳」を瀬織津姫神一神に帰することはできませんが、その中心にいる神とみることに支障はないでしょう。もっとも、東夷・西戎・南蛮・北荻といった中華思想の焼き直しのような「西蕃鎮護の神徳」は、瀬織津姫神の神徳の総体からすると傍流に属するものとはいえます。
 瀬織津姫神の神徳に「祓」をみるとき、それは多くは「災」を祓うもので、この「災」は、先にみたように、「益人」(庶民)の生命と生活に関わる「災」を祓うというのが基本としてありますし、また、それを自社「神道」として語っていたのが「豊日別宮伝記」でした。
 伝記には、瀬織津姫神のさまざまな「災」を祓う(祓った)神徳が書かれています。航海守護の神徳はすでにみました。また、祈雨の神徳もありました(大分県・比枝神社の項を参照)。ほかに、疫病魔退散の神徳もいくつか記載されています。一例を読んでみます。

欽明天皇七年〔丙寅〕四月、国中疫癘[えきれい]有り。故に当宮に祈る。大神告げて曰く、中津川に出でて祓除すべし。亦、神符を授く、人々にこれを掛けしめよと(此の神符、神家に有り)。国中の家々これを用ふ。疾疫忽ち癒ゆ。〔後略〕

 瀬織津姫神は、朝廷から「益人」の「罪」の「祓」を命じられてそれを執行する「大祓神」ではなく、ここでは、「中津川に出でて祓除[はらへ]すべし」とあるように、必要なときには「祓」(祓除)を神官に命じる(神託する)神として描かれています。自身の「祓」の神徳を、「災」に難儀する「諸民」(益人)のために能動的に行使する神として、瀬織津姫神はここにいます。
 垂仁天皇三十三年八月条に記されていた、神官・武彦による豊日別宮の「神道」論は「天の災地の災人の災昆虫[はふむし]の災をも除き防ぎて、五穀満ち足り益人等安寧[やすし]」と結んでいました。天変地異は「天・地の災」ですが、「人の災」もあります。この「人の災」の西国における典型の一つが藤原純友の乱(天慶の乱)かもしれません。西国が動乱に揺れていたとき、朝廷からの追捕使として小野好古[よしふる]と源経基[つねもと]が派遣されます。両将は、豊日別宮へ純友討伐の祈願のために参詣していて、このときの「太神」の託宣を読んでみます。

太神嬰児[みどりご]に託して曰く、天神地祗に逆[さから]ひ、天皇の勅に従はず、百姓[ひやくせい]を毀[そこな]ふ者は己が心より其の身を亡[ほろ]ぼす人なり。如何[いかん]ぞ、皇位に在らむや。軍士疑ふ勿れと。

 ここで激励されている「軍士」とは小野好古と源経基(清和源氏の祖)の両将ですが、太神(姫太神)の託宣のことばの重点は、「天皇の勅に従はず」にあるというよりも「天神地祗に逆ひ」「百姓[ひやくせい]を毀[そこな]ふ者は己が心より其の身を亡[ほろ]ぼす」にあります。この「百姓」は、大祓祝詞や豊日別宮の「神道」のことばでいえば「益人」に置き換えられます。
 太神(姫太神)こと瀬織津姫神の「心」が動き、「祓」の神徳を作動させるときとは、まさに「百姓」(益人)が毀[そこな]われるときといえます。天皇といえども、「百姓」(益人)に「災」をもたらすときは「一道[ひとみち]」(死)に向かわせるほどの神威を秘めもつ神ですから、「天皇の勅に従はず」は、この託宣をサニワした神官の意識が投影したことばとみられます。
 闇無浜神社の伝記は、姫太神・瀬織津姫神への崇敬意識を基底にして書かれています。つい忘れがちになりますが、全国の瀬織津姫祭祀の実相に眼を向ければ、ときには「天皇の勅」によって、この神の祭祀が封印・封殺された例もあり、伝記が語る瀬織津姫神の存在感、その輝きは、この神に対する中央側の祭祀観をはるかに凌駕しています。
 これまでみてきたように、瀬織津姫神のさまざまな神徳は、一言でいえば「祓」の神徳によって包括的に語ることができそうです。航海守護も裏返せば海難の「災」を祓うことですし、祈雨にしても旱魃の「災」を祓うことです。異敵降伏も異敵侵攻の「災」を祓うことです。それら天・地・人の諸相で、「百姓[ひゃくせい]」(益人)を襲うさまざまな「負」の要素を「災」と呼び、それを祓う・除くということが「祓」の神徳として語られるとき、この神は、文字通りの「大祓神」(大いなる祓神)となります。闇無浜神社の秘蔵伝記が語る瀬織津姫神のさまざまな神徳譚は、このことを告げているようです。
(つづく)