気仙川河口流域の「氷上神」祭祀──消えた瀬織津姫神

更新日:2009/4/23(木) 午後 4:43



 延長五年(九二七)に成る『延喜式』神名帳の陸奥国気仙郡には、理訓許段[りくこた]神社・登奈孝志[となこし]神社・衣太手[ころもだて]神社の三社が記載されています。これらは「気仙三座」とされるも、その元の祭祀地は不明、現在、三社まとめて氷上神社(冰上神社)とされます(陸前高田市高田町)。
 氷上神社の社頭には、石川啄木の「命なき砂のかなしさよさらさらとにぎればゆびの間よりおつ」という歌碑が建立されています。また、境内の神池の小島には朽ちかけた祠ではあるものの、まるで弁財天(厳島神・宗像神)の祭祀のごとくに、なぜか信州の「戸隠神」(戸隠ノ明神)が勧請されてまつられています(写真1~4)。
 それはともかく、氷上神社は、本殿の東御殿に衣太手神、中御殿に登奈孝志神、西御殿に理訓許段神をまつり、「郷民氷上山を信仰の聖地として、三峰理訓許段・登奈孝志・衣太手の三宮を鎮祭し、氷上霊峰と称え尊崇す」とのことです(『岩手県神社名鑑』)。延喜時代、氷上山は「気仙山」と呼ばれていましたが、この氷上山頂の三宮に対する里宮として、現在の氷上神社はあるようです。
 祭神の衣太手神・登奈孝志神・理訓許段神ではどんな神様かわかりませんので、衣太手神=天照太神、登奈孝志神=稲田姫神、理訓許段神=素戔嗚神とも表示されるようです。出雲ゆかりの二神が配されているのは興味深いところですが、これは、昭和十七年に発行された『冰上神社』(氷上神社社務所)に記載された神名です。『陸前高田市史』第七巻によりますと、こういった記紀の神名を気仙三座にあてようとした最古の文献は、文化十二年(一八一五)四月に京都・吉田家に提出した「差上候社記」です。同年暮れには神道裁許状と免許状が下され、勅許の名のもとに「氷上三社大明神」は「正一位」の神階を得ることになります。
 しかし、市史は、「当氷上三社の由来については、気仙郡三座の「理訓許段神社」「登奈孝志神社」「衣太手神社」に比定する論争は、実は藩政時代からその賛否をめぐって、多くの学者によっておこなわれている」と、その賛否両論の説を紹介しています。
 この両論の説の詳細はおくとして、氷上神とはなにかを考える上で参考になりますので、市史のまとめの記述を読んでみます。

「ひのかみ」「ひかみ」は火神、更には氷上に通じている。「日神」とあるのが『気仙風土草』、「火伏之神」と記しているのが『邦内風土記』、そして「水徳鎮火之神」としているのが『邦内名蹟志』である。そしてまた、最近まで氷上神社の神札を氏子の各家では、これを授けられ、火除けの神札として台所のカマド付近に貼る風習があったことは、地元住民のよく知るところである。

 氷上神は「日神」「火伏之神」「水徳鎮火之神」の三説によって語られる神のようです。しかし、同社氏子(地元住民)の信仰を元にすれば、氷上神は「火伏之神」「水徳鎮火之神」というのが生活の実感に根づいた神徳とみられます。
 文化十二年(一八一五)初見の氷上三神(天照太神・稲田姫神・素戔嗚神)が、その後の氷上神社祭神として現在に至るのですが、江戸時代初期、まさに「水徳鎮火之神」を奉祭する分社が創建されます(奥州市江刺区梁川字舘下)。その名も氷上神社といいます(写真5~9)。
 ここは、室町時代作の聖(正)観音との同居祭祀がなされていましたが、神社の由緒標識には、以下のように意外なことが記されています。

  元和三年(一六一七)気仙高田氷上神社より分霊奉遷 祭神瀬織津姫命

 本社・氷上神社は、明治期を待たずに自社祭神から瀬織津姫命の名をはずしたようですが、分社・氷上神社は、この祭神の名を現在にまでよく伝えたものです。
『岩手県神社名鑑』によりますと、本社・氷上神社境内社の項には、雷神宮・稲荷神社・清神社・道祖神社・風宮神社・八千矛神社・森神社・御禊神社の八社が記載されています。分社祭神の瀬織津姫命がまつられる社として考えられるのは、その最有力社としては「御禊神社」、次に「清神社」の可能性がありますが(境内社としては不記載の戸隠社もありえますが)、いずれにしても、氷上神社のかつての祭神であった瀬織津姫命の名は、本社祭祀からは消えています。
 これも「陰気」の話の一つですが、各地に散見された明治期以降の露骨な「陰気」は、その前へさかのぼっても確認できることを、この分社・氷上神社は告げているようです。
 本社・氷上神社の由緒記録からは消去されるも、気仙川河口流域には、かつて、瀬織津姫命の祭祀があったことは事実とみられます。この神の祭祀を、もし延喜式内気仙三座(氷上三社大明神)のいずれに比定しうるかを想像しますと、やはり衣太手神社が相当するのかもしれません。そうおもう理由は、この衣太手神が「天照太神」とされていること、および「衣太手[ころもだて]」という社名・神名が「機織」とゆかりありそうだとおもわれるからですが、むろん、このことに強くこだわるものではありません。
 ところで、分社・氷上神社境内には、「憲法公布記念」と刻まれた「大年神」の石碑が建立されています。これは全国的にみてもとても珍しい石碑ではないでしょうか。「憲法公布記念」には、日本の歴史上、初の民主社会(民主憲法をもつ社会)の到来を寿[ことほ]ぐ意識が刻まれているとおもわれます。それにしても、なぜ「憲法公布記念」として「大年神」(男系太陽神「日神」・稲作初源神の異称神名)が、瀬織津姫を祭神とする神社境内に勧請・建立されるのかを考えますと、これはとても意味深長だなとおもえてきます。石碑建立者は、日本の民主社会到来を「記念」して、それまでの瀬織津姫命の単独神祭祀に、かつての伴侶神を奉納(プレゼント)したものともみられるからです(岩手県紫波郡・早池峰神社の項を参照)。
 分社・氷上神社の氏子衆あるいは関係者に、こういったリベラルな信仰・感情があったことと、自社祭神を本社のように変更することなく現在まで伝えてきたこととは、おそらく無縁ではないのでしょう。
 源流部から河口流域まで、瀬織津姫祭祀の影や思い(信仰)が濃厚にみられる「気仙川」です。

気仙川源流の「天の岩戸の滝」──柳原白蓮と瀬織津姫神

更新日:2009/4/22(水) 午前 1:21



 気仙川流域の滝神として「瀬織津姫命」の名が複数確認できます。社名も清瀧神社・四十八瀧神社・多藝[たき]神社・大瀧神社と、まさに「滝神の社[やしろ]」ばかりです。また、「瀬織津姫命」は気仙川の洪水鎮護の神としてもまつられていたとおもわれます(舞出神社)。
 しかし、これらの社の宮守(別当家)も氏子の皆さんも、現在、この神の名を聞いたことがない、知らないといいます。これは、市史をみれば明白な記載があるのですが、この神の名がまだまだ世に普通に知られていないことの象徴とはいえます。
 気仙川の源流部の洞窟(滝観洞[ろうかんどう])のなかに「天の岩戸の滝」という神秘的な滝があります。この滝の名付け親は、柳原白蓮という歌人です。
「天の岩戸の滝」でよく知られるのは、志摩・伊雑宮の奥宮とおもわれる瀧祭窩[たきまつりあな]という洞窟の中の滝です。この滝水は、北に分水すると五十鈴川、南に流れると神路川となります。これは伊勢・志摩の滝神のご神体といってよい滝で、それが「天の岩戸の滝」と命名されています。
 この滝神が、内宮においては滝祭宮および荒祭宮の神であり、伊雑宮においては、戦前には「天照大神荒御魂」と認識されていた神です(神宮皇學館館友会『神宮要綱』昭和三年)。
 柳原白蓮は、気仙川源流部の洞窟の滝を「天の岩戸の滝」と命名しただけでなく、そこに、次のような意味深長な歌も詠み残していました。

  神代よりかくしおきけむ滝つ瀬の世にあらわるゝ時こそ来つれ

 白蓮は「神代よりかくし(隠し)」おかれてきた滝神・瀬織津姫の存在を相当に理解していたものとおもわれます。この歌は、日本神話における「天の岩戸」に隠しおかれてきた滝神の存在を直視した上で、この神が「世にあらわるゝ時こそ来つれ」(世に現われる時よ来い)と強く願望されているように読めます。
 柳原白蓮と「天の岩戸」の秘神──。両者はどこに接点、あるいは心の交流があったのでしょう。白蓮の人生を少し振り返ってみます。
  *
 ゆくにあらず帰るにあらず戻るにあらず生けるかこの身死せるかこの身──これは、処女歌集『踏絵』に収められている歌で、柳原白蓮(柳原燁子[あきこ])が絶体絶命の自らをみつめて詠んだ一首です。また、燁子=白蓮が自らを相対化し、一人の「個性」をもった女性として生きはじめる始まりの歌でもあります。
 当時、有夫の身であった燁子は、動きのとれないわが身の救済者として宮崎龍介(宮崎滔天の息子)を択びます。宮崎龍介は、白蓮のことを「自分の中に一つしっかりしたものを持っている女性」(永畑道子『恋の華・白蓮事件』)、つまり、しっかりした「個性」をもっている女性として燁子を認め、それゆえに二人は出奔=駆け落ちをしたのでした。大正十年(一九二一)十月二十日のことで、まだ姦通罪があった時代です。
 二人の駆け落ちは当時のマスコミの話題の中心となったことはいうまでもありませんが、出奔した燁子をかくまい援助した一人が、大本教・出口王仁三郎でした(林真理子『白蓮れんれん』)。
 出口王仁三郎の年譜には、「節分人型行事中、自ら太鼓を打ち七五三調を五六七調に改め、速佐須良比賣の大神として瀬織津姫の先頭に立ち和知川に」云々とあります。王仁三郎は、瀬織津姫の露払い役として「速佐須良比賣の大神」に化身して「節分人型行事」を執行していたようです。王仁三郎が伊勢の元神を強く意識していたことは、丹波の元伊勢の社(元伊勢内宮・皇大神社:福知山市大江町)の奥社(天の岩戸)の滝水をわざわざ聖水として汲みに出かけに行っていることや、丹後の元伊勢といわれる籠神社ゆかりの沖合いの夫婦島を聖地とみなしていることからうかがうことができます。また、列島の聖地の一つとして出羽の鳥海山をわざわざ訪れていることを挙げてもよいです。鳥海山はニギハヤヒの降臨伝承をもつ山ですが、同山の大物忌神は、これも伊勢の元神である瀬織津姫神とみられます(宮城県・荒雄川神社の項を参照)。
 白蓮は歌集『踏絵』を「われはここに神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり」という歌で始めています。絶体絶命のわが身を救う神はいずこにいらっしゃるのだろうかという意です。
 白蓮が宮崎龍介と出奔(駆け落ち)したとき、彼女は前夫(九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門)への絶縁状に「私は、私の個性の自由と尊貴を守り培ふために、あなたの許を離れます」と三行半[みくだりはん]を明らかにします。これは、近代が、その名とは裏腹に秘めている男優位の社会への絶縁状でもありました。これに対する前夫・伊藤伝右衛門の反論のなかに、次のような言葉があります。

 お前の趣味性を満足させるだけの話相手もない幸袋の家ではと思つて、博多には友達も多く気が紛れて良からうと、天神町に別荘を新築して、お前が欲しいといふので浄めの室といふ立派な祭壇を拵へてやつた。世間ではあかがね御殿と云つた。(永畑道子、前掲書)

「われはここに神はいづくにましますや」の「神」とみてよいかどうかはまだわかりませんけれど、この「浄めの室」の神、つまり、燁子の日々の身の穢れ(性的穢れ)の意識を浄化してくれる禊の神が、この「室」にまつられていたことはたしかでしょう。燁子は「浄めの室」に誰も入れさせませんでしたから、燁子にとって、ここは絶対聖域・再生の空間でした。
 姦通罪の恐怖と危機をくぐりぬけて龍介と添うようになってからの白蓮の「個性」は、まったく遠慮のないものでした。たとえば、白蓮の恋愛論は、(当時の文芸誌編集長)菊池寛を「たじたじ」とさせ、菊池寛曰く「削らざるを得なかった」ほどのものだったようです。白蓮は「恋愛は朗らかにも実現されてゐない」として、次のように書いています(永畑道子、前掲書)。

愛人同志は、日比谷公園の暗やみや、ホソイ露地を、かくれるやうに歩いてゐます。愉快なホテルの一夜も、臨検をおそれるために、ビクビクものですごさなければならない有様。〔中略〕
 思ふに、若い男女が、現在、青春時代のよろこびを、胸いつぱいに呼吸し跳躍するのは、若い男女を駆つて、ひたすらに、帝国主義的な挙国一致、国家総動員に参加せしめようとしてゐる誰かの、御意に召さないのでございませうか。

 これがいつ書かれたものか明確な日付を欠いていますけれど、文面に「国家総動員」という言葉がありますから、昭和初期とみることができます。「誰かの、御意に召さない」といった文言は、菊池寛を、たしかに「たじたじ」とさせたにちがいありません。
 白蓮の祖父は、幕末の日米修好通商条約の批准書交換のために、ポーハタン号でアメリカへ渡った外国奉行・新見豊前守正興[まさおき]で、白蓮の母・おりょう、つまり、正興の娘は、薩長軍による幕府の壊滅とともに浅草の芸妓に身を落としていました。幕府の重臣の家族といえども、このように落魄の境遇に落としたのが「明治維新」でした。花柳界に身をおいた白蓮の母親・おりょうを取り合ったのが、明治の藤原不比等とも言える伊藤博文と、藤原北家嫡流の柳原前光[さきみつ]でした。おりょうが、幕府崩壊を主導した薩長軍の長州の伊藤を選ぶはずもなく、彼女は「女たらし」伊藤博文を振って柳原前光の「妾」となり、そこに生まれたのが燁子(白蓮)でした。彼女には藤原の血も半分入っていることになりますが、当時の天皇を中心とした時代・社会思潮に対して、物怖じせずに表現できる「個性」をもっていた稀有な女性でもありました。
 燁子が十代半ば、柳原家からの最初の追放的結婚によって嫁いだ北小路家は、一時、京都鞍馬の地に家を構えていましたから、おそらく、燁子は貴船神社にも参っていたことでしょう。二度目の、これも追放的結婚によって九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門へ嫁いだとき、そこには燁子だけの「浄めの室」がつくられていました。そして、そこからの出奔、駆け落ち時には、大本教の出口王仁三郎にかくまわれることになります。いくつかの伏線はありますが、日本の神まつりに精通していたであろう出口王仁三郎との出会いは、白蓮に瀬織津姫という神の存在を決定的に知らしめた大きなきっかけとなったものとおもわれます。
 白蓮の波乱の前半生をざっと振り返ってみただけでも、瀬織津姫という神が彼女のすぐ側にいただろうことがみえてきます。こういった前史があって、白蓮は戦後、気仙川源流の洞窟で「天の岩戸の滝」の神をおもって、また自身の「心」を重ねてもいたでしょう、あの極めつけの歌を詠めたのだとおもいます。
  *
 わたしも八百メートルほどの洞窟を歩いてみました。途中、這うように進むところもあるからと、入るときにヘルメットを渡されましたが、たしかに、これをかぶっていないと、頭はたぶんギザギザになっていたことでしょう。
 途中の小滝や観音像に挨拶しながら奥までたどりつくと、そこには、なるほど別世界とおもわせる、つまり「神々しい」という形容がふさわしい滝がありました。白蓮もおそらく同じ場所に立っていたとおもいますが、この気仙川の源流部の「天の岩戸の滝」に、志摩・伊雑宮の奥宮かつ五十鈴川源流の同名の滝が重なったことはいうまでもありません。滝の撮影にはフラッシュの光量が足りず、ほとんど判別しづらい「闇の滝」の画像となってしまいました。
 まだ、この「神代よりかくし」おかれてきた滝神を取り巻く状況は相変わらずで、せめて、気仙川流域における、この滝神の祭祀を「世にあらわ」すくらいしかできそうもないなと、洞窟の外の光のなかでおもったものでした。

気仙川流域の瀬織津姫祭祀【Ⅳ】──大瀧神社

更新日:2009/4/21(火) 午後 1:11



 大瀧神社(陸前高田市横田町字本宿)の紹介です。
 道標には「大瀧不動尊」とあり(写真1)、ここも神社らしくない予感がします。それでも鳥居はあり、そこには「大瀧神社」の額がかかっていて、一応神社であることを主張してはいます。鳥居の向こうには滝らしき水の流れもみえます(写真2)。
 鳥居をくぐって進んでいくと、意外なことに、ここは社殿をもたない祭祀をしていることに気づきます(写真3)。
 正面右手にはお世辞にも大滝とはいいがたい水の流れ、左手には槻(ケヤキ)の古木の下に不動尊が鎮座しています。この「大瀧不動尊」を拝むことは、背後のケヤキを拝むということでもあり(写真4)、ここは滝自体の信仰は影がうすいようです。
 不動尊とケヤキを横からみますと、ケヤキは「石」を包むように生えています。いいかえれば、ケヤキが「石」(石神)を今にも出産しようとしているような姿とみえなくもありません(写真5)。そういえば、清瀧神社のケヤキは安産守護の神木でしたし、この大瀧神社の神木・ケヤキも同じ信仰とみられます。
 不動尊と神木の右上方を見上げますと、そこにはヒキガエルのような格好をした特徴的な大岩があります(写真6・7)。
 わたしはおもわずあっと声を上げそうになったのですが、この岩は、熊野の神倉神社のご神体石である「ゴトビキ岩」とあまりに酷似する姿をしています。熊野三所権現の一社である熊野新宮(熊野速玉大社)の「新宮」は、熊野本宮に対する「新宮」ではなく、神倉神社に対する「新宮」の意味で、つまりは、熊野新宮の元宮が神倉神社なのですが、その神体石と酷似する岩がここにはあります。
 熊野那智大社の元宮は飛滝社で、ご神体はいうまでもなく那智大滝です。
 大瀧神社神域には、熊野の新宮・神倉神社の神体石と那智・飛滝社の神体滝が、まるでミニチュアのごとくに配されているようです。
 では、熊野本宮に相応するものはあるかとなりますが、この点については、五来重『熊野詣』(講談社学術文庫)に、示唆に富む記述があります。

(熊野本宮)主神家津御子大神は「木の国」紀伊に関係ふかい「木の御子」の意といわれ、木種[こたね]を生んだ素盞嗚尊に比定する説と、伊奘諾・伊弉冉二神にあてる説とがある。

 熊野本宮の祭神二説についてはここでは言及しませんが、熊野本宮神とされる「家津御子大神」が「木の御子」とみなされているという指摘は興味深いものがあります。この「木」とゆかり深い神が熊野本宮神としますと、大瀧神社神域には、たしかに、この「木」も重要な祭祀スポットとして、しかも不動尊と一体の姿で配置されていることに気づきます。
 つまり、大瀧神社神域には、熊野三所の象徴的・源初的な神体・物象がみられることから、四十八瀧神社が熊野那智を語るのとは別様の仕方で、ここが総体として「熊野」を再現・主張しているとはいえそうです。
『陸前高田市史』第七巻のわずかな由緒情報を読んでみます。

大瀧神社
祭神:不動明王・瀬織津姫命
例祭:三月二十八日
勧請年月日:勧請不詳
鎮座地:本宿
備考:石像 不動明王像 別当 菅野家

 ここには、「熊野」を匂わせるような記述は皆無で、ただ祭神が「不動明王」と習合する「瀬織津姫命」だということが読み取れるのみでしょう。しかし、現地に足を運ぶと、鳥居の向こうの神域には、消しようもなく「熊野」の三つのシンボルが息づいています。この総体としての「熊野」の神として「瀬織津姫命」が祭神とされていることから、大瀧神社もまた、したたかな主張をしていたと考えられます。
 ちなみに、現在、少なくとも清瀧神社および大瀧神社二社は、横田鎮守とされる熊野神社(陸前高田市横田町字本宿)の祭祀管轄下にあります。市史によりますと、横田・熊野神社の宮司家(紺野家)の先祖は、もともと「本山派触頭並院 宝珠院」という修験者だったようです。「触頭」という役職を担っていたことから、個々の社の別当家を束ねる任をも兼ねていたことでしょう。
 市史は「気仙地方の修験支配」と題して、次のように総括しています。

 藩政時代には、本山派は伊達藩によって庇護され、藩内の修験を支配したといわれているが、気仙においては、本山派の優位性は認められない。むしろ羽黒派の数が多く、村々の祈願檀家も羽黒派によって占められる傾向にあった。
 また、両派に共通することは、仏教を中心とする堂社ではなく、日本古来の神祗を御神体として奉斎し、不動尊を守護仏としていることである。この神祗を奉斎していたことが、明治維新以後における神仏分離政策を容易にし、修験者の神道への帰入を導くことができたのである。

 横田地区の修験は、気仙地方では少数派の本山派によって統轄されていたわけですが、羽黒・本山「両派」の共通点として「日本古来の神祗を御神体として奉斎し、不動尊を守護仏としていること」が指摘されています。この「日本古来の神祗を御神体として奉斎」を、気仙地方横田地区の修験の際立つ特徴としていい直せば、「不動尊を本地仏とする瀬織津姫命を奉斎」していたとなります。
 大瀧神社は、その社名からいえば「大滝」が祭祀対象たるべきものとおもいますが、しかし、ここの「滝」は、ほかの滝神社三社とはちがい、そのご神体的存在としてはあまりにかすんでみえます。その代わりというべきか、三つの熊野、しかも源初的な熊野祭祀の三つの姿[シンボル]を神域内に再現するかのごとくに配置しています。
 大瀧神社が社殿祭祀をせずにきたということと、このプリミティブな「熊野」の再現祭祀は、やはり関係があるようにおもわれます。

気仙川流域の瀬織津姫祭祀【Ⅲ】──舞出神社・多藝神社

更新日:2009/4/20(月) 午前 10:36



 横田町内の瀬織津姫祭祀社五社のうち、ほかはすべて不動尊と習合する祭祀ですが、舞出[まいで]神社(陸前高田市横田町字舞出)一社のみは別系統の祭祀だったようです。市史記載の由緒を読んでみます。

舞出神社
祭神:瀬織津姫命・菖蒲姫
例祭:九月二十三日
勧請年月日:明徳年中
鎮座地:舞出
備考:気仙川灌漑用水舞出堰止工事人柱・菖蒲姫を祀る

 勧請年は南北朝時代末期の明徳年中(一三九〇~一三九四)とあり、横田地区の瀬織津姫祭祀としては古いほうかもしれません。
 舞出神社(写真1~5)は別当家(村上家)の裏山にあります。ご当主はすでに他界され、その奥様にうかがったところ、やはり祭神の瀬織津姫という名は初耳とのことで、人柱となった菖蒲姫がご祭神だとおもってきたとのことです。
 お話によれば、菖蒲姫は遠野の上郷から連れてこられて(「気仙川灌漑用水舞出堰止工事」の)人柱にされたとのことですが、この人柱伝説とは別に、舞出神社は当初、気仙川の中州にあった「ベゴ石」なる巨岩を見下ろす場所にあったという話もうかがいました。
 人柱・菖蒲姫の祟り鎮めのために瀬織津姫命をまつったものか、もともと洪水鎮護の神としてまつられていた瀬織津姫命の祭祀に、後代の人柱伝説が重なったものか、今となってははっきりしませんが、わたしはやはり後者だろうと想像しています。もっとも、現在の別当家に祭神・瀬織津姫命の名がまったく伝わっていないという事実は、やはり考えさせられるところです。
 ただ、かつての別当家ご先祖は、あるいはその関係者は、「舞出御前」の名で、当社祭神に相当の尊意を抱いていたらしいことは、奉納讃歌から伝わってきます(写真4)。また、境内には、大迫・早池峰神社祭神・瀬織津姫ゆかりの「枝垂れ桂」が植栽されていて(写真2・5)、この「舞出御前」が早池峰の神とも縁あることを知っていた人物が、かつてはいただろうことを告げています(岩手県・田中神社の項を参照)。

 多藝神社(陸前高田市横田町字小坪)の「多藝(多芸)」は「たき」と読み、「滝」と同義です。神社への参道には荻原翁の顕彰碑があり、この荻原氏は清瀧神社の別当家の姓でもあります。市史記載の由緒を読んでみます。

多藝神社
祭神:瀬織津姫命  本地仏 不動明王
例祭:三月二十八日・六月二十八日
勧請年月日:勧請不詳
鎮座地:小坪
備考:小坪川清流のほとりに小祠建立

 これまで、いくつかの滝神祭祀で、不動尊と一体となっていた瀬織津姫命、あるいは、不動尊の背後に隠れていた瀬織津姫命といった言い回しをしてきましたが、瀬織津姫命の「本地仏」を不動明王と明言しているというのは、わたしはここが初見です。全国に不動尊は膨大な数がまつられているはずで、それを「本地仏」とする神がもし表に出てきたら、世の中、いったいどういうことになるのだろうといった妄想も浮かぶところです。
 さて、多藝神社(写真6~9)は、市史記載通りで、「小坪川清流のほとり」の「小祠」です。地元の方は口をそろえて「お不動さん」で、滝神「瀬織津姫命」の名を口にする人とはついに出会うことがありませんでした。
 ご神体は火炎の後背をもつ赤色の不動尊像で、社殿の背後は、やはり「滝」です。流れ修験が気仙川流域(の山間)に定住地を求めたとき、いかに「滝」の存在を重視していたかは、これまでの不動尊祭祀からもいえるようです。彼らは、その滝の聖域に、あるいは滝そのものに、不動明王を「本地仏」とする、日本の神祇史でもっとも重要な神をみていました。少なくとも明治期初頭の神仏分離のときまでは、彼らは、この神の名を確実に伝えていたのでした。
「本地仏」の不動尊と瀬織津姫命との習合関係が集中して今に伝えられるのは、全国的にみても早池峰山周辺が顕著です。しかし、気仙川流域(横田地区)にも、この集中祭祀はみられるようで、もしや、「早池峰修験」の末流がここにあるのではないかと想像してみるのですが、それを伝える史料は今のところ発見できていません。
(つづく)

気仙川流域の瀬織津姫祭祀【Ⅱ】──四十八瀧神社

更新日:2009/4/19(日) 午前 9:55



 四十八瀧神社(陸前高田市横田町字橋ノ上)の紹介です。
「四十八瀧」は滝名で、ここは清瀧神社よりもさらに山中奥深いところにあります。滝は横田町のちょっとした観光スポットになっているようですが、地元の古老曰く、熊の出没もあり、あまり人は行かないとのことです。わずかな由緒情報ですが、『陸前高田市史』第七巻から引用します。

四十八瀧神社
祭神:不動明王・瀬織津姫命
例祭:三・六・九月の二十八日
勧請年月日:勧請不詳
鎮座地:橋ノ上
備考:不動水という信仰あり

 参道(林道)沿いには、滝から取水するためのパイプが延々とつづいていて、「観光地」の景観としてはやや難点がありますが、由緒に「不動水という信仰あり」とあり、それなりの名水なのでしょう。
 ところで「四十八瀧」という名称は、いうまでもなく、熊野那智の「四十八瀧」からきています(那智大滝を「一の滝」とし、その背後に四十七の滝があるとされる)。その滝神が「瀬織津姫命」とされているわけで、神社本庁に非登録、かつ『岩手県神社名鑑』にも不記載の小さな神社が、とても大きな主張をしていることになります(瀬織津姫を熊野の滝神とするのは、これまで紹介してきたところでいえば、ほかに静岡県・熊野神社、岐阜県・滝神社があります)。
 滝横の社殿にようやくたどりつきますと、一つ妙なことに気づきます。狛犬ではなくキツネの顔が出迎えるからです。朽ちかけた社殿に上がってみますと、内陣の祠の前にもキツネです(写真5・6)。ここは稲荷神社か?とだれもがおもうはずです。
 これはぜひとも確かめる必要があるとおもい、おもいきって内陣の祠の扉を開けてみますと、神体のつもりの鏡はすでになく、その左に、祭神の名を書いた札(板)があります。それも上段部分がきれいに切断されていて、下段部分にはたしかに神名が書いてあるものの、そこには祭神の「不動明王・瀬織津姫命」のいずれの名もありません(写真7)。

■■■■命 宇迦御魂命

 この神名表示板には、「宇迦御魂命」の名だけが確認でき、ここが稲荷社を主張していることと、ある意味では符合しています。しかし、ここは「滝神社」ですし、市史にも、滝神である「瀬織津姫命」は明記されています。板札には切り損ねたのか、わざと残したのか、「宇迦御魂命」の上に「命」という一字だけが不自然に残っています。
 この「命」の上に、切り取るしかない神名があったとすれば、これはかなり「陰気」な話となります。しかし、各地の瀬織津姫祭祀(に関するさまざまな「陰気」)をみてきた眼からいいますと、これはありうる切断だともおもわれます。
 この不自然な切断からいえることは、四十八瀧神社を稲荷社に変更しようとした何者かが、かつてここにいた(やってきた)ということです。こういったことをなそうとするのは、瀬織津姫という神の存在とその重要性を深く認識している神職関係者以外には考えようがありません。「彼」がなぜそうせざるをえなかったかを想像すれば、即物的な理由としては、ここがただの滝神社ではなく「四十八瀧神社」という社名をもっていたからだとなりましょう。なぜなら、そのままの祭神表示を放置すれば、先にふれたように、「瀬織津姫命」が熊野那智の本来の滝神でもあることを、四十八瀧神社が参詣者に主張しつづけることになるからです。
 いくら深山幽谷・山奥の小さな祠とはいえ、「瀬織津姫命」という神の名を表立てることはならぬという思想がみられることにおいて、逆説的な話ですが、この四十八瀧神社の存在は貴重です。
 しかし、この謎の「思想犯」にも一片の良心があったのでしょう、さすがに、「瀬織津姫」という神の「命」までは切断できなかったということかもしれません。
(つづく)