滝社(富山県富山市上滝48)【中】

更新日:2009/3/3(火) 午前 7:53



(つづき)
 常願寺川流域あるいは立山信仰における瀬織津姫祭祀には、二つの異祭祀の傾向がありました。一つは、滝神祭祀(勝妙滝社、滝社)、もう一つは祓戸神祭祀(祓度社、祓戸社)です(『富山県神社祭神御事歴』)。このうち、「滝社」以外は、大正十三年以降のいつの時点かはともかく、現在、廃絶・消滅しています。立山信仰の内部には、瀬織津姫神を「滝神」とみる勢力と「祓戸神」とみる勢力がいたようです。
 常願寺川流域における瀬織津姫祭祀について、三川神社の短い由緒以外で自前の由緒のことばをもっているのが、この「滝社」です(写真1~3)。
 ガラス越しの撮影で少し読みづらいですが、「滝社御由緒」から創祀に関する由緒部分を引用します(写真4、■は判読不明字)。

滝社御由緒
 本社は応永二年(一三九五年)の創建にして、神亀二年(七二五年)僧行基の作と伝えられる不動尊磨崖仏の東方三枚滝を背にして■■され、瀬織津姫神を祭神とし、五百有余年の歴史と共に近在■■崇敬殊に厚く、相殿に内宮天照大神、外宮豊受大神の二柱を伊勢の国より勧請し上滝村の産土神として奉斎される。〔後略〕

 立山近在では、行基作の「不動尊磨崖仏」で著名なのは大岩不動(真言宗大岩山日石寺:中新川郡上市町)ですが、この滝社にも行基伝承があったようです。行基は「三枚滝」の西に不動尊を磨崖仏として彫ったとされますが、これは現在摩滅していてよくは判別しづらい状態です。
 それはともかく、この「三枚滝を背にして」、瀬織津姫神を祭神とする滝社が創建され、それは「応永二年(一三九五年)」のことというのが、創祀伝承の骨格です。その後、いつの時点かはわからないものの、「相殿に内宮天照大神、外宮豊受大神の二柱を伊勢の国より勧請し上滝村の産土神として奉斎」というのが、滝社がもつ主な祭祀経緯です。
 この「三枚滝」は、「不動滝」とも呼ばれているようです(道路端の案内板)。行基がもしほんとうに「不動尊磨崖仏」をここで線刻したとしてですが、それは、この滝があったゆえの行為だったはずです(わたしは、この行基伝承は、のちの付会と考えます。理由は後述)。現在みられる三枚滝(不動滝)は水量少なく、しかもとても小さな滝で(写真5)、聖域の滝とはほど遠いイメージですが、それでも、ここは「滝社発祥の地」でした(写真6)。標柱には、滝社由緒として「滝社は滝の精の神であり大川寺の守護神であった」とも書かれています。
 瀬織津姫神を、中央の祭祀思想に盲従して大祓神(祓戸神)などとするのではなく、あくまで「滝の精の神」とするのは、この神についての正統な理解といえます。
 また、滝社(瀬織津姫神)は「大川寺の守護神」ともあり、これも念のため大川寺ご住職に確認したところ、「守護神」云々については「知らない」とのことで、少しちぐはぐな印象が残りました。それはおくとしても、寺号の「大川」は、現在の常願寺川のことをいいます。
 滝社の祭祀経緯で興味深いのは、主祭神・瀬織津姫神の相殿に「内宮天照大神、外宮豊受大神」を勧請していることでしょうか。瀬織津姫神は、内宮においては、皇大神宮(内宮)第一別宮・荒祭宮の神でもあり、その別宮神と内宮・外宮神とが同居祭祀しているというのは、ほかにあまり例がありません。
 こういった勧請意図とは何だったのかを考えると話が長くなりますが、勧請した人物が、伊勢の基層祭祀によほど通じていただろうことは想像できます。「外宮豊受大神」の祭祀を仮にはずしてみますと、そこには、瀬織津姫神と天照大神の祭祀がみえてきますし、「外宮豊受大神」にしても、その故地である丹後半島・籠神社の祭祀をみると、この神は宗像の姫神というのがルーツで、これも瀬織津姫神と無縁の神ではなくなってくるからです。
 滝社(の祭祀)は、日本の神まつりとは何かを考える上で、示唆することすこぶる多いのですが、もう一つ、この社の沈黙の主張で唖然とすることがあります。それは、滝社の神紋を、ここは「桜」としていることです(写真7)。滝社には、瀬織津姫神が伊勢の桜神でもあったことを熟知していた人物がいたようです。
 さて、これほどの、ある意味「仕掛け」を施しているのが滝社です。その社名にしても、ふつうなら「滝神社」としてもよさそうなものですが、ここは「滝社」なのです。つまり、「滝=神」で、ことさらに「神」を挿入する必要はないといった主張が、その社名の命名からもうかがえます。
 常願寺川流域で、「滝=神」とみなしうる神滝があるとすれば、それは「称名滝」をおいてほかにありません。この称名滝の古名が「勝妙滝」で、ここには、現在は廃絶されて存在しませんが、大正期までは「勝妙滝社」が鎮座していて、その滝神こそが瀬織津姫神でした。
 称名滝の古名である「勝妙滝」については、『今昔物語』に、次のように記されてもいました。

ソノ地獄ノ原ノ谷ニ大ナル滝アリ、高サ十余丈ナリ、コレヲ勝妙ノ滝ト名付ケタリ、白キ布ヲ張レルニ似タリ。

 勝妙滝社と滝社が同じ神をまつるというのは、それなりの祭祀意図があったものと考えます。
 滝社創建時、社殿は「三枚滝を背にして」建立されました。これは、社殿背後の滝を拝むということで、つまりは、「三枚滝」を御神体とする祭祀を意味します。しかし、この「三枚滝」は小さな滝で、現代の眼からすれば、あまりにみすぼらしい滝です。この貧相な滝が、なぜ滝社にとって重要だったのでしょう。
 滝社の現在の社殿は、境内の「三枚滝」を拝むようには建立されておらず、拝する先は東方、つまり立山です。もっと正確にいえば、立山の手前断崖にかかる勝妙滝(現在の称名滝)を拝むように建立されています。
 勝妙滝(称名滝)は落差三五〇㍍という大きな滝です(写真8の左の滝)。ちなみに、熊野の那智大滝は落差一三〇㍍で、勝妙滝にみる壮大な水の光景は圧巻です。この滝は常時水を落下させていますが、雪解けと梅雨時にだけ姿を現すため「幻の滝」といわれる「涅槃滝」もあり(写真8の右の滝)、こちらは落差五〇〇㍍とのことです。
 那智大滝にしても立山勝妙滝にしても、その滝神は瀬織津姫神でした。立山信仰には、熊野修験が、その信仰の一角を陣取っていた可能性があります。
 さて、滝社の「三枚滝」です。往時はそれなりの勇姿をもった滝だったはずですが、それをわざわざ「三枚滝」と命名した人物がここにはいたわけです。現在の貧相な「三枚滝」(不動滝)にも、それなりの「三枚」を想像しうる滝の段差がみられますが、この「三枚」を構成する滝の段差は、実は勝妙滝にもいえます(写真を比較してみてください)。
 滝名「三枚滝」は、勝妙滝のミニチュア的な姿をしていた、つまり、勝妙滝へ参拝するには山路あまりに険阻かつ遠く、また、芦峅寺の姥尊信仰地を容易に通過することもかなわず、上滝村の人々にとって、滝社は勝妙滝社の里宮、三枚滝は勝妙滝の「里滝」とみなされていたのではないかと想像されます。三枚滝が、滝社の御神体とみなされたほんとうの理由があるとすれば、やはり、勝妙滝の存在を欠かして考えるのはむずかしいようにおもいます。
(つづく)

滝社(富山県富山市上滝48)【上】

更新日:2009/3/2(月) 午前 11:02



 滝社(富山市上滝48)の紹介ですが、ここは少し遠回りをした話になります。
 世界一の急流といわれるのが、立山を水源山の一つとする常願寺川です。明治新政府は、オランダ人土木技師のヨハネス・デ・レーケを招いて、国内の河川改修・治水工事を依頼しましたが、デ・レーケが木曽三川の治水工事(二五年に及ぶ)を終えたあとに取りかかったのが常願寺川のそれでした。このときのエピソードですが、デ・レーケは常願寺川を称して「川ではない、これは滝だ」と言ったとされます。瀬織津姫神は、常願寺川流域の複数社にまつられていて、滝社もそのうちの一社です。
 常願寺川流域で、現在においてもなお、この神の祭祀がみられるのは、下流部の三川神社(富山市上赤江町380)、上流部の立山多賀宮(中新川郡立山町岩峅寺74)、そして、この滝社の三社ですが、大正十三年(一九二四)時点においては、この神の祭祀は五社ほどあったことが史料確認できます。
 以下は、富山県神職会『富山県神社祭神御事歴』(大正十三年五月二五日発行)に記載される、常願寺川流域にみられた瀬織津姫祭祀社の一覧です(番号を付して抜き出してみます)。

①上新川郡上滝町上滝村社滝社
②同 広田村東上赤江村社三川神社
③中新川郡立山村立山勝妙滝社
④同 同 同 祓度社
⑤同 同 芦峅寺祓戸社

 計五社のうち、①滝社、②三川神社は現存していますが、③~⑤の各社は現在、その所在・行方が不明となっています。もっとも、ここに掲載のない立山多賀宮が新たな瀬織津姫祭祀社としてありますので、③~⑤のいずれかの社(あるいは二社もしくは三社)が、大正十三年以降に立山多賀宮に合祀されたものとおもわれます。念のため、立山多賀宮の社守の方に確認してみたのですが、詳細は不明とのことです(立山多賀宮:写真1・2)。
 消えた③勝妙滝社、④祓度社、⑤祓戸社の三社のうち、一社は滝神の祭祀、ほかの二社は祓戸神(大祓神)の祭祀であったことは、その社名から容易に想像できます。
 下流部の三川神社は、旧社格は村社でしたが、氏子さんたちの崇敬の気持ちの表れでしょう、玉垣に囲まれた立派な社殿を有しています(写真3・4)。同社境内の石碑「三川神社の由来」には、簡単ですが、次のような由緒が刻まれています(写真5)。

三川神社は万治三年(一六六〇年)に当赤江村に初めて建立され、瀬織津姫神・水波能売神の御二方を祭神として奉祀してあります〔後略〕

 三川神社の拝殿屋根にみられる千木[ちぎ]は内削ぎ(平削ぎ)で内宮仕様、鰹木[かつおぎ]は九本で外宮と同数です。ちなみに、内宮正殿の鰹木は十本ですが、三川神社は、内外宮を一体化したかのような千木・鰹木を屋根に乗せているようです。
 さて、三川神社の創建は「万治三年(一六六〇年)」とのことでした。同社氏子の方の話によりますと、祭神は常願寺川(大川)の上流から流れてきたとのことです。一六六〇年といえば江戸期初期で、こういった新しい創建由緒は、常願寺川の洪水を機縁とした祭祀のはじまりをいうのでしょう。古来、流路定まらぬ「暴れ川」が常願寺川でした。
 さて、常願寺川をさかのぼったところに鎮座しているのが「滝社」です。この滝社近くの常願寺川沿いには、常西水神社も鎮座していて、これが、一般の水神社とはおもえない立派な社殿を構えていてびっくりします。本殿の千木は外削ぎ、鰹木は七本と外宮仕様、鳥居は、皇大神宮と同じ形式で、これらの神社外観は、ここがただの水神社ではないことを雄弁に告げています(写真6~8)。
 先に紹介した『富山県神社祭神御事歴』には、「上新川郡福沢村東黒牧村社貴布禰社」の項に「元無格社水神社と称し、瀬織津姫命を祀りしを、村社貴布禰社に合祀せり」といった注があります。上新川郡には、瀬織津姫命を祭神とする「水神社」が、かつては存在していました。
 瀬織津姫命を「合祀」した「貴布禰社」は現存しています(富山市東黒牧885-3)。貴布禰神もまた水神で瀬織津姫神と無縁ではありませんが、この貴布禰社と常西水神社を比べると、貴布禰社の社殿はあまりに質素な造りといえましょうか(写真9)。
(つづく)

高谷神社(長野県東筑摩郡筑北村大沢新田214)

更新日:2009/3/1(日) 午前 1:44



 高谷神社(東筑摩郡筑北村大沢新田214)は、犀川(上流は梓川)の支流の支流である東条川をさかのぼった山間の谷、そそり立つ岩壁の前に社殿が建てられ、その前を流れる川が滝になっています。ここを訪れたときは、たまたま祭礼の日で(九月二十八日)、氏子の人たちが手作りのお重ほかを持ち寄っての直会[なおらい]に参加させてもらいました。
 神社の詳しい由緒ははっきりしないようですが、瀬織津姫神は「水の神様」とのことです。直会の席では、わたしも御神酒をたくさんいただいてしまい、瀬織津姫という神様についての四方山話に花が咲きました。ここでは、瀬織津姫はとても大切にされていて、それがわかっただけでじゅうぶん、由緒の詮索などどうでもいいとおもった、数少ない神社の一つです。
 地名の「大沢新田」からも想像がつきますが、この山間の集落の成立は古くさかのぼるものではなさそうです。高谷神社は、この村の産土[うぶすな]神をまつる社で、社名は、背後の高谷山にちなむようです。
 ここが、ほかの多くの瀬織津姫祭祀社と一味異なるのは、氏子の皆さんが瀬織津姫という神の名を「知っている」ということでしょうか。直会の宴は延々とつづき、「自分のところの神様がイチバン」といった氏子さんたちの笑顔が実によかったです。わたしも付和雷同(?)して、肝腎の「滝」の写真をつい撮りそこねました。
 祭礼の社殿には竹枝に手作りの紙の花を咲かせた造花が何本も立てられ、祭りが終わると、この竹花を丸めて輪にして、それぞれの家の戸口にかけておくそうです。これで一年間無病息災・厄除けとのこと、わたしも一本もっていけといただいてきました。この厄除けの花輪は茅輪にも通ずるものなのでしょう。
 古代および近代(昭和前期まで)、瀬織津姫神は、その神威を、天皇の国家にふりかかる災いを祓うために一方的に利用されましたが、庶民の地平に降りれば、無病息災・厄除けを願う心は普遍的なものですから、瀬織津姫の神威は頼もしくも受け入れられることになります。「水の神様」に加え「厄除けの神様」というのが、ここ高谷神社における瀬織津姫神のありていの姿といえそうです。

神林神社(長野県松本市大字神林1459)

更新日:2009/2/28(土) 午前 1:29



 神林神社(松本市大字神林1459)の紹介です。
 地図上での川筋を厳密にたどると、梓川(下流は犀川と名を変え、長野市で千曲川=信濃川に注ぐ)の源流山は飛騨山脈(北アルプス)の槍ヶ岳(三一八〇㍍)なのですが、川の中・下流域から上流部を望んだときに視野にはいってくるということが大きかったのでしょう、信仰的な水源山としては乗鞍岳(三〇一四㍍)とみられていました。これは、岐阜県の長良川や富山県の庄川とよく似ていて、そこでは、白山こそが信仰的な水源山と認識されていました。
 さて、その梓川流域には、岩岡神社(松本市梓川倭岩岡3290、写真1・2)や、春日神社(安曇野市豊科高家2410、写真3・4)などに瀬織津姫神がまつられていて、神林神社も、この梓川流域の一社といえます(写真5~7)。
 境内の由緒案内には、次のように記されています。

神林の総鎮守 神林神社
祭神(三座) 誉田別尊(八幡大神)、建御名方命(諏訪明神)、瀬織津姫命(梓水神)
 縁起によれば、承安三年(平安末期、一一七三)、地頭平野刑部がこの地に鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりといわれ、その後諏訪明神を合祀し、さらに神林堰の開鑿によって梓川の水を引き、神林の地が豊かな穀倉地帯となったことを感謝して梓水神を併せ祀ったという。〔後略〕

 鶴岡八幡宮の創建は建久二年(一一九一)で、案内が記す承安三年(一一七三)の勧請というのは少し怪しいですが、それはおくとしても、瀬織津姫命は「梓水[あずさかわ]神」と記されています。また、同社拝殿の祭神説明には「建御名方神(諏訪明神)郷土開拓の祖神、瀬織津姫神(梓明神)穀倉開発の水神、誉田別神(八幡大神) 郷土鎮守の神」と記されています(写真8)。
 由緒案内の文面からは、梓水神としての瀬織津姫命の勧請がいつ・どこからのことかははっきりしませんが、ただ、祭神の性格として、この神を、中央の祭祀思想による大祓の神(祓戸神)といった規定ではなく、梓川の「穀倉開発の水神」(川神)とみていたことは、神林神社の大きな特徴です。
 なお、岩岡神社の奥宮は燧[ひうち]岩神社(岩明神)といい、これも瀬織津姫命とされます。この「奥宮」は、梓川の川中の岩場にまつられていたとのことです(『梓川村誌』)。燧岩神(岩明神)は、その鎮座立地から、梓川の洪水鎮護・守護を祈っての祭祀とみられます。
『安曇村誌』は「梓水神の鎮座地は霊山としての乗鞍岳」としていて、信濃国においては、梓水神(瀬織津姫命)は乗鞍岳の神とみられていたようです。
 梓川が犀川と名を変える豊科町の犀川の近くにまつられているのが春日神社で、境内には水神社がとても大事にまつられていますが、この水神社とは別に、『南安曇郡誌』は、春日神社祭神を、「天児屋根命、経津主命、武甕槌命、瀬織津姫命」とし、「大同四年大和国奈良より勧請したと伝承されている」と注記しています。ここには梓川と瀬織津姫命との関係は記されていないものの、郡誌のこの記載は、奈良の春日大社祭祀の元の姿を、地方・遠方の分社が図らずも照らしだすといった証言的記録となっています。
 藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社は、延喜式神名帳においては「春日祭神四座」と表記され、これは現在の社殿構成にそのまま反映しています。つまり、四殿構成の本殿で、第一殿は武甕槌命(鹿島大神)、第二殿は経津主命(香取大神)、第三殿は天児屋根命(枚岡大神)、第四殿は比売神(枚岡大神)をまつるとされます(『春日大社のご由緒』春日大社)。この第一~三殿の神々については『南安曇郡誌』の記載と重なりますが、郡誌は、第四殿の「比売神(枚岡大神)」のみを「瀬織津姫命」としています。大同四年(八〇九)時点においては、「春日祭神」の第四殿にまつられていた神は「瀬織津姫命」だったようです。しかし、春日大社第四殿の「瀬織津姫命」は、いつの時点からか、本殿では「比売神(枚岡大神)」とされ、境内の祓戸神社においてのみ「瀬織津姫神」と、その名をとどめることになりました。これは、瀬織津姫神をあくまで祓戸神とみなそうとする、明らかな降格祭祀といえましょう。
 なお、「元春日」の異称をもつ枚岡神社(延喜式では名神大社)の現鎮座地は「東大阪市出雲井町」ですが、この「出雲井町」は同社境内の神泉「出雲井」の存在ゆえの町名です。この「出雲井」の神が「比売神(枚岡大神)」でもあったのでしょう。京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)においては、瀬織津姫神は、同じく出雲井の神(出雲の御井神)の伝承をもっていましたから、『南安曇郡誌』の記録が、いかに大きな証言価値を秘めたものかがわかろうというものです。一見、遠方の点と点、つまり、個別無縁にみえた祭祀が、おもわぬところで、一本の太い線で結ばれることもありうるといった事例でしょうか。
 さて、「梓水神の鎮座地は霊山としての乗鞍岳」とのことでした(『安曇村誌』)。乗鞍岳の東は信濃国、西は飛騨国で、この山は境界山・水分[みくまり]山でもあります。信濃側で「梓水神」と呼ばれていた神は、飛騨側では、「日抱尊[ひだきそん]」の名で呼ばれていました(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。
 神事などで魔除けの弓として使われる「梓弓」の材料木がアズサですが、古来、このアズサが信濃国からの朝廷への献上品でした。梓川上流部は、このアズサの採取地で、これが「梓川」という川名の由来とされます。
 今、「梓水神」として瀬織津姫という神があることを知りますと、円空が高賀山において創作した縁起書「粥川鵼[ぬえ]縁起神祗大事」も想起されてきます。そのなかのフレーズには、「悪魔を払う蕪矢[かぶらや]の/是神通の矢といいて/弓矢の神の告げ給う」、また「弓矢の神か乙狩の」云々とあり、円空は、高賀山乙狩滝大明神(美濃市・滝神社の神)を悪魔祓いの弓矢の神と認識していたようです。この乙狩滝大明神と梓水神もまた同じ神であったというのは、はたして偶然の一致でしょうか。

長瀬神社(新潟県加茂市上条895)

更新日:2009/2/26(木) 午後 3:54



 長瀬神社(加茂市上条895)の紹介です。
 ここは、延喜式神名帳「北陸道神越後国蒲原郡」の項に記載される「長瀬神社」(一座)の論社です。拝殿正面に向かう参道の鳥居の脇には、看板案内によれば「樹齢推定千年」のケヤキの古木・神木が立ち(写真1)、その前を加茂川が流れています。
 同じ社名の長瀬神社(式内社論社、現祭神:伊奘諾尊・伊弉册尊・速玉男命・事解男命)が、この加茂川の上流の小高い山(熊野山:写真4)にもあります(加茂市宮寄上1557、拝殿:写真5)。どちらが式内社かはともかく、両社は、ともに加茂川沿いに鎮座していて、その社名の「長瀬」からも想像できますが、長瀬神は、加茂川の水神祭祀を原像としているようにみえます。ちなみに、加茂川の水源山は粟ヶ岳[あわがたけ](一二九二・七㍍)です(写真6)。
 まずは、社頭の由緒案内を読んでみます。

長瀬神社(八幡宮)
 長瀬神社は、今から一四〇〇年前欽明天皇の勅命により、上条、狭口両村の産土神として、瀬織津姫命・言代主命・気長足姫命・誉田別命・玉依姫命の五柱を祀る式内社である。
 約三五〇年前の元和・寛永の頃には、青海庄八ヶ条(北は田上町湯川から南は三条市の塚之目に及ぶ四十一村)の一の宮と称され、庄内の神社を統轄したといわれる。
 幕府・寺社奉行・藩主の当社に対する崇敬は厚く、社殿鳥居神具祭器等の造営購入に当って寄進や御免勧化の特免が寄与され、祭礼や造営見分などには出張役人を派遣した。
 拝殿は寛政年間(約一八〇年前)に建て直され(現在は新築、写真2)、本殿は弘化年間(約一三〇年前)に越中の名工松井角平によって四年間の歳月をかけて建造されたもので(写真3)、釘を使わない建築であり、各所にみられる彫刻とともに芸術品である。
 六月十五日の神幸に参列する金色して六角の大神輿は弘化五年に新調されたもので、全国でも珍しい宝物である。                     加茂市・加茂市観光協会

 長瀬神社は「欽明天皇の勅命」によって創祀され、祭神は「瀬織津姫命・言代主命・気長足姫命・誉田別命・玉依姫命の五柱を祀る式内社」とあります。延喜時代(九〇一~九二三年)、ここは「一座」の祭祀でしたから、「五柱」というのは整合しませんが、長瀬神は、もともと「瀬織津姫命」の一神(一座)でした。また、社名には「長瀬神社(八幡宮)」とあり、八幡宮の祭祀が重なっていたようです。それが、祭神「五柱」のなかに「気長足姫命・誉田別命・玉依姫命」の一般的な八幡神三神を記載する理由なのでしょう。
 この八幡神の祭祀が最初からのものでなかったことは、花ヶ前盛明『越佐の神社―式内社六十三』(新潟日報事業社)の神社紹介からもわかります。こちらも、参考までに読んでみます。

長瀬神社
 加茂市上条八九五番地(旧上条村字八幡)に鎮座。JR加茂駅東方二・五㌔。社地の岡を巡って加茂川が流れ、景色最美なり、この川瀬によって長瀬の社号がつけられたという(『特選神名牒』)。宮司は小池清彦氏である。
 祭神は瀬織津姫・言代主命・気長足姫命(神功皇后)・誉田別命・玉依姫。
 堀河天皇の長治二年(一一〇五)、源頼義の次男加茂次郎源美濃守義綱は、石清水八幡宮を勧請し、瀬織津姫命・言代主命をまつる長瀬神社に気長足姫命・誉田別命・玉依姫命を合祀したと伝える。
 近年まで、八幡宮をとなえてきた。寛永三年(一六二六)の神道裁許状に「八幡宮之祠官小池河内守藤原吉光」とある。

 石清水八幡宮からの八幡宮の勧請は長治二年(一一〇五)のことで、それは「源頼義の次男加茂次郎源美濃守義綱」によるものとあります。ここには、「瀬織津姫命・言代主命をまつる長瀬神社」とあり、延長五年(九二七)に成書となる『延喜式』から約八〇年の間に、新たに「言代主命」が祭神として加わったようです。
 八幡太郎・源義家の弟が加茂次郎・源義綱で、この義綱の「加茂」は、彼が京都の賀茂神社で元服したことによるものです。義綱は、陸奥国の丹内山神社では、兄の八幡神社の勧請にならうかのように加茂神社の勧請をしてもいました(岩手県の滝ノ沢神社・大沢滝神社の項を参照)。義綱は、ここでは、兄ゆかりの石清水八幡宮を勧請したのでしょう。
 以下はわたしの想像ですが、この八幡宮勧請のとき、義綱は、自身の「加茂」とゆかり深い加茂川沿いに鎮座する長瀬神をおもって、その神木としてケヤキを植樹したのかもしれません(この神木の樹齢は「推定千年」とあり、義綱による植樹とみても、年代的には合いそうです)。
 賀茂御祖神社(下鴨神社)で、賀茂の社人にとって最重要な神事は、葵祭といった官祭ではなく「樹下[じゅげ]神事」だと述べていたのは、現下鴨神社宮司・新木直人氏でした(『神游[かんあそび]の庭[ゆにわ]』経済界刊)。この「樹下神事」は、御生[みあれ]神事の原型ですが、神事は、「御手洗川の湧水のほとりの御井のかたわらの大槻のもとでおこなわれた」とされます。この「御手洗川の湧水のほとりの御井」の神をまつるのが、井上社(通称:御手洗社)で、その祭神は、長瀬神社の主祭神と同神です。「大槻」の槻[つき]はケヤキの古名で、義綱が下鴨の御井の神を、ここ長瀬の神に重ねていたとしても不思議ではありません。義綱による長瀬神社の槻(ケヤキ)の植樹を想像する理由です。ちなみに、瀬織津姫祭祀と槻との濃厚な関係は、愛知県北設楽郡の、その名も「槻神社」にもみられます(愛知県・槻神社の項を参照)。
 ところで、長瀬神(瀬織津姫命)は、「欽明天皇の勅命」によって、その祭祀が開始されたとされます。福島県郡山市の宇奈己呂和気神社の社伝には、「欽明天皇十一年(五五〇)安積郡高旗山頂に瀬織津比売命の垂跡があって祭祀され信仰が続いた」とあり、奇しくも、同じ欽明天皇時代の創祀を告げています。
 長瀬神社においては、「瀬織津姫命」の祭祀に「言代主命」が加えられていました。『古事記』は、出雲の国譲りの段で、「八重言代主神」とも「事代主神」とも表記していましたが、越後国の長瀬神社に、大国主に代わって出雲の国譲りを最終決断したとされる神(言代主命)がなぜまつられているのか、由緒は、その祭祀理由を記すことをしていません。
 瀬織津姫命のかたわらに出雲神・言代主命がまつられる理由がもしあるとすれば、それは、何なのでしょう。
 おもえば、下鴨神社の井上社(御手洗社)にしても、延喜式神名帳における「出雲井於[いのへ]神社」の論社の一つで、瀬織津姫命は、山城国愛宕郡においては出雲井神(出雲の御井神)ともみなされていました。長瀬神社の元の祭神二神が、いずれも「出雲」と縁ある神だというのは、示唆すること深いものがあるようです。