安倍伝説と瀬織津姫神──松島大明神をまつった安倍実任

更新日:2009/12/11(金) 午前 9:17



 敗戦をどうにか生きながらえた者、歴史を語る場から追放された者が、なお自分たちの歴史を後世に伝えようとしたのが「伝説」だとしますと、その伝説が「史実」レベルでいうならたとえ荒唐無稽にみえても、そこには敗者側の一片の「真」が含まれているはずで、ゆえに後世に語りつがれることにもなります。いいかえれば、伝説を受けつぎ語りつぐ人々は、伝説がもつ、字面上の荒唐無稽さとは別の「核」の部分に共感しているからこそ、伝説は死なないということなのでしょう。
 九州に配流された前九年の役(一〇五一~一〇六二年)の敗者側の一人・安倍宗任[むねとう]という人物ですが、関係書物によりますと、彼は九州の各地で、特に松浦党と関係をもつ安倍氏末裔を自認する人々のなかで系図伝説の主人公として語られてきたようです。しかし伝説が系図の外に出ますと、宗任ばかりでなく、彼の子とされる安部実任[さねとう]なども、九州各地に出没して語りつがれることになります。
 九州の地で、この宗任─実任に象徴される「安倍氏」の伝説は、その末裔を名乗る安倍・安部・阿倍氏等と同じく、実に広範囲に分布しています。九州の人々の心情風土に「安倍氏」がかくも根づいて語られる意味はなにかというのは、やはり考えてみる価値がありそうです。
 ところで、早池峰山頂には、前九年の役で戦死した貞任(宗任の兄)が「安倍貞任之霊神」としてまつられています(大迫・『早池峯神社社記』)。また、貞任・宗任の母親が住んでいたとされる窟伝説なども早池峰にはあります。
 さらにいえば、遠野郷には、前九年の役のとき、宗任の妻子が遠野まで落ちのびてきて、その娘の一人「おはつ」が早池峰大神(瀬織津姫命)と「合祀」された、また、母親(宗任の妻「おない」)にしても、死後、彼女は伊豆権現(瀬織津姫命)に「合祀」されたとする伝説があります(『綾織村誌』、伊豆神社由緒)。
 安倍氏の信仰意識のなかで、早池峰大神はとても大きな比重を占めていただろうことが考えられますが、これは、その後の奥州藤原氏にも継承されていて、このことは、初代奥州藤原氏とされる藤原清衡[きよひら]の信仰にまずみられますし(岩手県「滝ノ沢神社」)、さらには、宗任の娘と二代・基衡[もとひら]の間に生まれた藤原秀衡[ひでひら]にも顕著にみられます。秀衡は、白山信仰と早池峰信仰を別物とはみていませんでしたし、彼が嘉応二年(一一七〇)に鎮守府将軍となったとき、「奥州一の宮」に定めたのはほかでもない、瀬織津姫神をまつる荒雄川神社でした(宮城県「荒雄川神社」、『円空と瀬織津姫』上巻)。
 大和王朝がもっとも畏怖する神、しかも歴史と祭祀の表に出すことを執拗に忌避しつづける神を奥州総鎮護の神とみなした秀衡、彼の奥州独立構想を支える信仰意識は別格です。これは奥州藤原氏の前身・安倍氏にさかのぼってみられるもので、当然ながら、早池峰大神こと瀬織津姫神(あるいは、その背後の男系太陽神)への信仰意識は、九州に配流された宗任(とその弟たち)や従者、さらには彼らの末裔の人々の内部にも継承されていたことが考えられます。
 伝説には人々の深層心理に根づく希望・期待が込められています。源義経の「北行伝説」にも匹敵するのではないかとおもわれる安倍氏にまつわる伝説が、九州の地にはあります。前九年の役の最中、天喜五年(一〇五七)に戦死した宗任の父・頼時ですが(『陸奥話記』)、伝説は頼時を奥州の地で死なせなかったようです。古賀稔康『松浦党祖考』(芸文堂)には「頼時伝説」の紹介があります。

 宗任は父頼時と共に康平五年松浦に流配され、頼時は松浦市志佐町白浜に、宗任は小値賀島に流された。頼時は白浜に庵を結び、同地に祀られている景行天皇と神功皇后の妹余等比咩命の社に日夜家運再興の祈願をこめ、庵で生れた六人の児の幸を祈った。寛治二年一族流配の刑を解かれ、宗任は松浦、彼杵二郡および壱岐島の司頭職となった。頼時は神助を感謝して淀姫神社を造営し、海浜に王島神社を建立、壱岐島より杜氏を招いて神酒を献じて家運再興を奉告し、六人の子に所領を分配した。〔後略〕

 史家からすれば、これらの記述が史実かどうかといったことがまず問われますから、仮に「史実ではない」ことを証明するにしても多くの労力が必要となります。そして「史実ではない」ことが明らかとなって、この話は初めて「伝説」として認知されることになります。
 もっとも、頼時生存説自体、『陸奥話記』を信ずればすでに史実と異なりますから、たとえば安川浄生『安倍宗任』(みどりや仏壇店出版部)などは、「ここまで発展すればもう伝説以外の何ものでもないわけで、史料を探す気にもならない」と、これは歴史史料としてはまったく参考にならない「伝説」にすぎないと見切りをつけられることになります。
 松浦市白浜には、安倍頼時の墓と称されるものが実際にあるとのことで、伝説が伝説を超えて現実化している様が伝わってきます。お墓というのはシンボリックな造型物ですから、それなりのインパクトを与えますが、ただ、上記の頼時伝説にもし深層の「核」があるとすれば、わたしは、頼時に仮託された「安倍氏」総体がもつ、つまり「景行天皇と神功皇后の妹余等比咩命の社に日夜家運再興の祈願」、その後の「神助を感謝して淀姫神社を造営」といった信仰の面を読みたくおもいます。この余等比咩(淀姫)と呼ばれる神こそ、早池峰大神と同体神でありましたから(和歌山県「川上神社と肥前国一之宮」)、この伝説には、頼時生存の願望論のさらなる奥の核に、安倍氏の神信仰が図らずも語られていることになります。
 さて、生きていたと伝説化されたのは安倍頼時ばかりでなく、宗任の兄・貞任もまたそうでした。貞任は、康平五年(一〇六二)の厨川の戦いで戦死しているはずですが、甘木市(現:朝倉市)佐田では、彼は当地まで落ちのびてきて、あろうことか、ここでまた一戦を交えている伝説があります。甘木市教育委員会建立の碑文には、次のように書かれています。

千人塚
 その昔、東国で源頼義との戦いに敗れた安倍貞任はこの地に落ちのび、鳥屋山に城を築き追っ手を迎え討ったと伝えられている。ついに城も落ち、一族を引き連れ山を降り逃れたが、ここに至って追っ手の軍勢により千人以上が討ち死にをしたという。里人がその死骸を集めとむらい、以後この地を千人塚と呼ぶようになったといわれている。
 塚の上には齢を重ねた一本の老木がまるで守人のように枝を広げ道行く人々を静かに見守っている(写真1)。

 林正夫『高木の史跡と伝説』(私家版)には、貞任が佐田村に落ちのびてきたとする村内の口伝を拾った貝原益軒『筑前国続風土記』(巻之十一)が紹介・引用されていて、貞任生存伝説は江戸期の前にさかのぼる可能性があります。なお、佐田には、貞任の子とされる立仙なる人の墓もあります(写真2)。貞任の子に立仙なる人物がいたのかどうか、また、どういった経緯でここに葬られているのかはわかりませんが、これらの伝説は、安倍氏(とその関係者)の末裔の人々が語りついで現在に至っているようです。
 佐田における安倍氏の伝説は、江戸時代にはかなり広く知られた伝承だったことは、伊藤常足『太宰管内志』筑前之廿・上座郡祚田村の項に、割注形式ですが、次のように記されていることに表れています。

或書に佐田村に安部[ママ]貞任ノ子孫ありて貞任より後十三代を現人神に祝ひて木像十三あり、第十三を孫太郎専当と云今の庄屋は其の子孫なり、凡村中に安倍氏のもの十四家あり、又安倍氏の産沙神なり(と)て松島大明神を祭る、貞任が子りうせんと云し人の墓と云もあり、安倍氏十二月晦日こゝに流され来たりし故正月の用意なし、其子孫其例にならひて今に正月の年縄木を用ひずと云、さてこの佐田と云村は美奈木より三里山奥にあり、佐田の本村より一里おくに田代とて佐田の枝村あり佳景なり、

 いつの時点か明記がないので断定はできませんが、「安倍氏十二月晦日こゝに流され来たりし故正月の用意なし、其子孫其例にならひて今に正月の年縄木を用ひずと云」といった伝承はリアルで、あるいは宗任の配流を暗に述べているのかもしれません。『太宰管内志』は、佐田村における「貞任ノ子孫」の居住は認めても、さすがに貞任が落ちのびてきた話(『筑前国続風土記』に紹介された口碑)は無視しているようです。
 ところで、この佐田村を貫流するのが佐田川(筑後川支流)で、「佐田と云村は美奈木より三里山奥にあり」と『太宰管内志』が記す「美奈木」(現:三奈木、佐田川中流域)に鎮座しているのが、延喜式内社(の論社の一つ)・美奈宜神社です(写真3~12)。同社の現祭神は天照皇大神を筆頭に住吉大神と春日大神をまつり、神功皇后と武内宿禰を配祀していますが、その境内社・龍神社には筆頭祭神として八十枉津日神(表示は「八十枉日神」)がまつられています。八十枉津日神は天照大神荒魂・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同体の瀬織津姫神の貶称神名で、それが「龍神」(水神)とみなされています。
 美奈宜神社境内の樹林説明板には、「扇状台地に流れ出ず佐田川の水口信仰に始まる美奈宜神社は下座郡十村の産神で、古くは美奈木の川上池辺というところにあった。その後、文武天皇の神託により現在地に移した」とあります。「佐田川の水口信仰」とは要するに水神信仰といえます。美奈宜神社拝殿内の扁額には「喰那尾大明神」と書かれていますが、『甘木市史』は、この美奈宜神の原像について、「まず佐田川の上流でヒモロギを立てて神を招き、それを喰那尾山頂に祀ったという、最も古い水分神の姿である」と指摘しています。水分[みくまり]神・水神を美奈宜神の本来の姿としますと、神社における現祭神「天照皇大神」とは整合してこなくなってきます。ちなみに、美奈宜神の本地仏は、表情は冴えないものの、早池峰・白山信仰と同じく、これも十一面観音とされ、境内の観音堂にまつられています(写真11・12)。美奈宜神社において、この十一面観音と習合する神(水神)は、境内社に降格されてはいるものの、やはり龍神社の八十枉津日神(龍神)と表示されている神とみられます。佐田川の下流域にまつられていた水神社(無格社)の祭神が「瀬津姫命」と表記されていたこと(『福岡県神社誌』)、これも無縁ではないようです。
 佐田川のさらなる上流(源流)部の佐田村では、「安倍氏の産沙神なりとて松島大明神を祭る」とされます。佐田村に流れついた安倍氏(の一族・関係者)が、佐田川の水神(龍神)を「松島大明神」としてまつりなおしたことも想像されてくるところです。
 ちなみに、『高木の史跡と伝説』は、「大字佐田字木和田、安倍茂氏宅に保存されたるものをそのまゝ記録せるもの」として「安倍貞任先祖及筑紫軍記」を紹介しています。ここには、宗任の子・安倍三郎実任が松島大明神をまつった伝承が書かれています。

〔前略〕三郎(安倍三郎実任)或る夜夢中に老翁来り告げ曰く三尊(弥陀薬師観音)は松島大明神、当所に移し尊ぶ可し必ず末葉を守るべしと、実任夙に起きて弥々[いよいよ]信仰肝に銘しつゝそれより当所に霊宮を建造しけり、熊群り居りたるより熊群山と称し松島大明神と崇め奉り朝三暮四のこん行(勤行)七三縄[しめなわ]の永き世新金の土も木も動かぬ御世の松島大明神かたかりし事共なり。

 これは大分県庄内町の熊群山東岸寺縁起とほぼ同内容ですが、一つ異なるのは、大分の方では、実任がまつったのは松島大明神ではなく彦山大権現とされていることです。これはとても興味深いことで、別にふれることにします。
 安倍伝説の背後には、おうおうにして安倍氏の信仰がみえかくれしています。宗任の長子とも三男ともいわれる実任ですが、史家からの、その実在を疑う言説はまだないようです。父・宗任(安倍氏)の信仰を継承した人物として、奥州藤原氏(基衡)と同時代を生きた実任には、伝説を含めて、もう少し光があてられてよいようにおもいます(郷土資料・写真:白龍)。

水祖神祭祀と安倍氏信仰の影──矢部川を挟む二つの釜屋神社

更新日:2009/12/3(木) 午後 3:20



 福岡県八女郡立花町田形と同郡黒木町湯辺田には、矢部川をはさんで二つの釜屋神社があります。両社は同時にまつられたものではありませんので、まずは古いほうの田形・釜屋神社からみてみます(写真1~5)。『八女郡史』(大正六年)は、詳細な由緒を記しています。

釜屋神社  無格社  同村(光友村)大字田形字釜屋
 祭神は罔象女神、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱とす、矢部川の下流南岸に水の隈あり、一大磐石岸に峙ち、磐根三四丈、高さも亦相等し、流水之に激し、深淵にして臨む可からず、是を山下手継の淵に比するに、更に一層の奇勝を覚ゆ、急流北衝、崖下に抵て西折す、崖上に叢祠を建つ、即ち本社なり、其神徳河伯の難を除き、且つ牛馬の病に奇応あり、士民の神仰他に越えたり、社家の記によれは、嘉応年中、薩摩国根智の城主、勅に依て当国上妻郡黒木城主となりて、黒木大蔵大輔源助能と云ふ人、河上に此社を建て、水祖の神を祭り、これを釜屋大明神と崇め、武運長久、領地安泰の祈願所とす、殊に水徳の広大なる事を重んじ、神領及祭祀を修営す、毎年十一月廿八日(一に十八日)の神事には、風流、流鏑馬、神楽等を執行す、〔中略〕其後米柳の封界を分つに及びて河水を挟て、北岸湯辺田村にも此神を勧請して社檀を建つ、〔後略〕

 釜屋大明神は嘉応年中(一一六九~一一七一)に、薩摩国の「黒木大蔵大輔源助能と云ふ人」によってまつられたとあります。この田形・釜屋神は「罔象女神、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱」で、その神徳は「河伯の難を除き、且つ牛馬の病に奇応あり」とあり、また水徳広大で「水祖の神」ともされます。現在の神社由緒板には、瀬織津姫神とともに大祓神の一神と通説される「速秋津姫命」の名は表示されておらず(写真4)、大正期から戦後現代にかけて祭神の変遷があったようです。その上でいいますと、では「水祖の神」とみられていた神とは「罔象女神、瀬織津姫命」のうちどちらの神なのかといった問いも浮かんでくるところです。
 この田形・釜屋神社からは、矢部川の北対岸に大きな樹勢の木の神域がみえます(写真6)。ここに湯辺田・釜屋神社が鎮座しています(写真7~12)。『八女郡史』は、次のように由緒を記しています。

釜屋神社  無格社  同村(豊岡村)大字湯辺田字神道
 祭神は罔象女神、瀬織津姫神、速秋津姫神の三柱とす、南田形釜屋宮と矢部川を隔て南北に対峙せり、元和七辛酉年、久留米柳川二封に分れ、北湯辺田は有馬家領となり、南田形は立花家領に帰したれば、当地には幸ひ往昔より楠神木有りたれば、寛永二乙丑年、新に社殿を建築せり、社職大石対馬は、柳川領釜屋宮の社を嫡子丹後に譲り、退隠して本社の社職を勤む、これ田中氏時代なりと云ふ、天正の頃、黒木の家臣椿原式部、当社へ参詣の砌り、酒興の上、大石の子孫対馬丹後兄弟と口論し、対馬兄弟は妻子を残し、暫く筑前国糟屋郡別府村付近に立退き、其後本郷に帰りしと云ふ、伝説によれば当社神木を慶長年間根伐せしに、不思議なる神変ありて中止せりと、其斧跡今猶在りと云ふ、旧藩時代には、祈祷所にて今尚遠近信仰の社なり、例祭は九月十五日、(開基帳には十一月十三日とあり)〔後略〕

 湯辺田・釜屋神社には推定樹齢約六〇〇年といわれる楠の大木(神木)があります。この神木をはさむように拝殿と本殿が建立されていて、釜屋神の神木としてこの大楠はみられているようです。もっとも、湯辺田・釜屋神社の創建は寛永二乙丑年(一六二五)と大楠の樹齢からすればはるかに新しく、寛永二年以前は、対岸の田形・釜屋神の神木だったのでしょう。
 ところで、湯辺田・釜屋神社境内には、明治初年時の神仏分離にともなう政府への神社報告書写しをもって同社由緒表示に代えています(写真12)。

 当社は桓武天皇の延暦元年(七八二)本分村に祀られていた中瀬神社を黒木助能が建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた。祭神は祢都波能売神(水神)。寛永二年(一六二五)神木のある現地に社を建て、湯辺田村の氏神釜屋宮と称する。

 明治期初頭、祭神は「祢都波能売神(水神)」の一柱で、それが大正六年の『八女郡史』においては「罔象女神、瀬織津姫神、速秋津姫神」の三柱、そして現在は、少なくとも、田形・釜屋神は「罔象女神、瀬織津姫神」の二柱とされます。湯辺田・釜屋神社の境内案内は黒木町教育委員会によって作成されたもので、教育委員会は大正期の『八女郡史』の記載、および現在の祭神も並記すべきでしょう。この境内案内のみですと、湯辺田・釜屋神社には「祢都波能売神(水神)」のみがまつられていることになります。
 明治期初頭というのは「王政復古」の号令のもと皇国化が再編され、瀬織津姫神にとって、その神名消去・変更の猛威が全国的に荒れ狂った時代です。『八女郡史』が著された大正時代は、俗に大正デモクラシーといわれるように、多少民主的な揺り戻しのあった時代でもありました。そのおかげというべきでしょうか、郡史に瀬織津姫祭祀が復権表示されたものとおもわれます。つまり、明治期初頭、瀬織津姫神は一旦は「祢都波能売神(水神)」と変更されるも、神社氏子衆の内部における祭神の記憶はその後も消えておらず、ために水神が二神(あるいは三神)並ぶという妥協表示が現出したものとみられます。
 黒木町教育委員会による案内表示は、祭神説明に関しては欠落を指摘せざるをえませんが、しかし、この案内には、郡史が記していなかった貴重な由緒が記されています。曰く、釜屋神社は、延暦元年(七八二)に本分村にまつられた「中瀬神社」が元の社名で、それを「黒木助能が建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた」とされます。
 イザナギの禊ぎゆかりの「中瀬(中ツ瀬)」が元の社名とすれば、その祭神はミヅハノメではなく、禊祓いの神である瀬織津姫神とみるしかありません(ブログ・宮崎県「橘大神と瀬織津姫神」参照)。さらにいえば、「水祖の神」にしても、列島の真水の大元水として神話伝承される「天真名井」を高千穂で司る神もまた瀬織津姫神でしたから、水祖神をいうなら、これも瀬織津姫神となります。
 さて、中瀬神を「建磐竜神と相祀り、田形村に移し、釜屋宮と改めた」のは黒木助能(黒木大蔵大輔源助能)とのことで、建磐竜神は阿蘇山の男神ですから、あるいは黒木助能は、阿蘇の姫神祭祀を再現しようとしたものかもしれません。それはともかく、天保十二年(一八四一)に成る伊藤常足『太宰管内志』(歴史図書社による復刻本)は、この釜屋神社に一項を割いて、郡史記載の田形・釜屋神社の由緒の元となる『筑後地鑑』なる書を引用紹介しています。伊藤は末尾で、「社家の伝説に黒木氏を薩摩より来たりしと又源姓なる由記せるはうけがたき事なり似たること有て其名を取ちがへなどにてもあるへし」と、黒木助能が薩摩からやってきたこと、および彼が源姓をもっていたことは信ずるに足りないと注記しています。
 謎めいた黒木氏ですが、この黒木氏については『鎮西要略』に興味深い記述があります(古賀稔康『松浦党祖考』芸文堂、所収)。

五年(康平)九月、源頼義、義家父子奥州合戦に打克ち、夷将安部貞任父子を殺し一族亡び東国悉く源氏に属す。貞任の弟宗任、則任を俘と為す。宗任を松浦に配し則任を筑後に配す。筑後の所謂川崎氏、宮部氏、黒木氏等は則任の種流也。宗任の子孫を松浦氏と称う。

 宗任とともに九州に配流された弟・則任ですが、この「則任の種流(末裔)」に黒木氏があるようです。古賀稔康氏は、「(則任の種流とされる)川崎氏は福岡県八女郡川崎、宮部氏は同県三池郡宮部、黒木氏は八女郡黒木に拠った豪族で戦国期に最もよくあらわれる」と指摘しています。
 宮部氏が拠った三池郡宮部は現在の大牟田市宮部ですが、川崎氏と黒木氏の二人が拠ったのが八女郡とされます。川崎は現地名で確認できませんけれども、黒木は八女郡黒木町にみられます。
『太宰管内志』の著者は、黒木氏は薩摩とは無縁だろうとしていましたが、九州に配流された安倍宗任の足跡伝説に拡大してみてみますと、薩摩と安倍氏末裔とはまんざら無縁でもないような伝説的伝承もあります。たとえば『続筑前風土記』には、次のように書かれています(古賀稔康、前掲書所収)。

宗任初め讃岐(伊予の誤)に流され、後さらに筑前大島に流され終に卒す。三子有り。長子松浦に適(謫)す。松浦党の祖也。次男を薩摩に適(謫)す。三男は即ち大島に在り。大島三郎季任と称す。

 安倍宗任の九州配流後の足跡は定説がなく、その係累にまつわる伝説はさらに伝説を生み、さまざまに肥大・交錯して語られるというのが実態です。しかし、弟の則任については、先にみた『鎮西要略』のほかにそう伝説があるわけでなく、これはこれで貴重かもしれません。
 松浦地方には、渡辺綱(源頼光の家来「四天王」の一人とされる)にはじまる渡辺源氏ではなく、嵯峨源氏の流れである源知[しる]が土豪化して勢力をもっていたことが『松浦党祖考』で考証されています。この源知の末裔と宗任(あるいはその末裔)が婚姻関係をもったことが、宗任(安倍氏)と松浦党を結びつけ、後世、さまざまに系図化されることにもなるようです。したがって、宗任の末裔が源姓を名乗ることは松浦党関係系図にはよく記されるところで、理路整然と実証的に語ることは困難にしても、黒木氏が安倍氏ゆかりの系にあるだろうことは、古賀氏の指摘とも相俟って感慨深いところがあります。
『太宰管内志』筑前之廿・上座郡祚田村の項には、安倍貞任の子孫が「安倍氏の産沙[うぶすな]神なりとて松島大明神を祭る」という記述があります。この松島大明神については、宗任ゆかりの筑前大島にもまつられていることが安川浄生『安倍宗任』(みどりや仏壇店出版部)に書かれていますが、松島大明神は男女二神から成り、その女神については、これも瀬織津姫神であったとはすでに指摘・考証されていることです(菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻、風琳堂)。
 安倍氏本宗の信仰を黒木氏が継承していたとしますと、八女郡において、黒木助能が中瀬神を釜屋神・瀬織津姫神として丁重にまつりなおす動機はじゅうぶん以上にあったとみることができます。もっといえば、中瀬神は、その社名から、おそらくマガツヒノカミの名でまつられていた可能性もあり、とすれば、黒木助能は、本来の神名にもどしてまつりなおしたことも想像されてくるところです。
 湯辺田・釜屋神社においては祭神表示に曖昧の霧がかかっているものの、その元社である矢部川対岸の田形・釜屋神社(写真13)においては、かつての中瀬神という禊祓神ではなく「水祖の神」として瀬織津姫神がまつられつづけているのは、これも黒木助能(安倍氏)の信仰の流脈が生きているとわたしにはみえます(郷土資料・写真:白龍)。

桜谷と瀬織津姫神──長崎の櫻谷神社

更新日:2009/11/25(水) 午前 8:19



 長崎市東立神町にも櫻谷神社が鎮座していて、「桜谷」と瀬織津姫神の関係についてあらためて考えることになりました。九州の地に限定しても、宮崎県高千穂町、同県西都市、鹿児島県曽於市に「桜谷」がありましたが(以上、ブログ・鹿児島県「大淀川源流部の『桜谷』」)、数えれば三例となり、しかも、それらはいずれも瀬織津姫祭祀ゆかりの「桜谷」でした。今回は九州で四例めの「桜谷」ということになります。
 九州の外に目を転じれば、鳥取市桜谷には、その名も「桜谷神社」が鎮座し、祭神はやはり瀬織津姫神とされます。この「桜谷」は、一見どこにでもある普通名詞・地名のようにおもえるものの、いざ探ってみると、そこには、瀬織津姫という神の存在・祭祀が陰に陽に見え隠れしているようです。
 少しふりかえってみれば、もう数年以上前になりますが、「桜谷」と瀬織津姫祭祀に深い因果・因縁関係があることをわたしに確信させたのは、ある文献との出会いでした。それまでも、うすうすにはそうじゃないかというおもいはあったのですが、この文献中のたった一行が、わたしに「桜谷」を決定的に印象づけたことはまちがいありません。
 それは、滋賀県蒲生郡日野町大字安部居に鎮座する賀川神社(祭神:瀬織津姫命)を調べているときでした。ここは、大津市大石に鎮座する佐久奈度神社(大祓詞の創作で知られる)の分社なのですが、社前を流れる川は佐久良川といい(日野川支流)、また、この地一帯は桜谷といい、賀川神と「桜谷」の関係で、『東櫻谷志』(東桜谷公民館発行)は、次のように書いていました。

 文献上で「桜谷」という地名が出てくるのは江戸中期で、『淡海温故録』という本に次のように出てくる。
 桜谷・桜谷ノ明神旧跡ノ社也 瀬織津姫ノ垂迹也

『東櫻谷志』は、「実はこの『さくらだに』という地名はここらの地に人々が住みはじめるより以前から、既にそう呼ばれていたらしく思われる」と、この地名の古さに言及してもいます。これは、「神と死霊の黄泉の領域」と「人間の住む現世の領域」との「境界」に対する古代人の「心」をおもってのことばと読めます。賀川神社本社の佐久奈度神社は「佐久良太利[さくらだり]大神宮」とも呼ばれていたことが興福寺史料に記されていますが、『東櫻谷志』は、「人々はその境界を設け、死への恐怖から人々が無闇に黄泉の国へ入り交わらないようにと、この二つの国の領界を司る神を祀った。その神を『さくらだりの神』という」と、「さくらだり」が転じたものとして「さくらだに」があるのではないかとしています。
 瀬織津姫神は、『延喜式』収録の「六月晦大祓」(大祓詞=中臣祓)においては「高山[たかやま]・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐[ま]す瀬織津比咩といふ神」と記されます。跡部光海『中臣祓清浄草』は、この「さくなだり」と瀬織津姫神の関係について、次のような推論を展開していました(『大祓詞註釋大成』昭和十六年、所収)。

佐久那太理ハサケナダリナリ。那太理ハ長ク垂ルゝノ略、サケテ流ルゝナリ。山ノ頂ヨリサケナガレテ、滝ト落ルナリ。前ノ罪咎、祓具トモニナガレ落ルヲ云。一ニ佐久良谷トアリ。谷ハ山ノ拆[サケ]タル形ナリ。山ノサケタル谷ト云コトニシテ、良ハ助字ナリ。凡テ谷ヲ称シテ云ナリ。近江国桜谷社アリ。是瀬織津姫ヲイハヒマツルトコロナリ。コノ詞ニヨツテ、瀬織津姫ノ社ヲ桜谷ト号スルナラン。

 跡部光海は「さくなだり」を「山が裂けた谷」といった解釈をしていて、これはこれでイメージ的には当を得ているとおもわれます。ただ、像的というよりも、意味論的に解釈するなら、『東櫻谷志』がいう「さくなだり(さくらだり)」は「境界」の意というのもありうるものとおもいます。「さくなだり」をどう解釈するかの結論・断定は保留するとしても、ここで「近江国桜谷社アリ。是瀬織津姫ヲイハヒマツルトコロナリ。コノ詞ニヨツテ、瀬織津姫ノ社ヲ桜谷ト号スルナラン」という跡部の指摘は、先にみた「桜谷・桜谷ノ明神旧跡ノ社也 瀬織津姫ノ垂迹也」と地続きのもので、瀬織津姫神が「桜谷」と深い縁故にあることはまちがいないといえそうです。
 ところで、「近江国桜谷社」とは、現在の佐久奈度神社(興福寺文書では「佐久良太利大神宮」)のことで、風土記では「八張口の神の社」と記されていました。『近江国風土記』逸文(秋元吉郎校注『風土記』岩波書店、所収)は、次のように書いていました。

近江[あふみ]の風土記に曰[い]はく、八張口[やはりぐち]の神の社[やしろ]。即[すなは]ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌[い]みて、瀬織津比咩[せおりつひめ]を祭[まつ]れり。

 ここにみえる「伊勢の佐久那太李の神」というのは、『日本書紀』でいえば、わが国最初の「祟り神」ともいえる神威別格の「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」のこととおもわれます。この伊勢の撞賢木云々の神(の名)を「忌みて、瀬織津比咩を祭れり」ということなのでしょう。したがって、天照大神荒魂とも別称される撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と瀬織津姫神が異名・異称関係にあるという理解が成り立つわけです。なお、この「八張口の神の社」については、岩波版風土記の注は、次のように述べています。

滋賀県大津市大石の桜谷(俗に鹿飛という地)にある式内社佐久奈度神社(桜谷明神)。瀬田川の急流の落ち口にある。

 以上、「桜谷」と瀬織津姫神が深い関係のもとにあるだろうと推断する根拠文献をみてきたわけですが、このことは、長崎の櫻谷神社にもいえるのかどうかを探ってみたいとおもいます。
 昭和四年に初版発行された『長崎市史』によれば、櫻谷神社の祭神は「天照太神」とされ、ここに瀬織津姫神の名を直接的に確認することはできません。しかし、その微証がないわけではありません。市史は、この「天照太神」という祭神の注記で、「明治九年五月提出の明細帳に当社祭神は大和武尊とあり、然らば従来祭神を改めしものか、将た明細帳の誤りか」と、明治以後の祭神表示の不定性への疑念を隠していません。
 市史は、櫻谷神社の祭祀立地については、次のように書いています。

 此の地は旧立神郷桜谷と称し人家を距ること約拾参町の山中に在りて、坂路頗る急峻であるが道路には石階を施したれば登攀容易に且左右は老木枝を交へて山気自ら人を襲ふものがある。

 ここは「旧立神郷桜谷と称し」とあり、かつて「桜谷」は地名としてもあったことがわかります。参道はたしかに「急峻」ともいえましょうが、市史もいうように、石段(「石階」)が組まれていて登攀が困難ということはないようです(写真1・2)。これだけの石段を配するというのは、それだけ深い崇敬に裏打ちされてのものとみることができます。
『長崎市史』は、立地の記載につづけて、櫻谷神社の「沿革」と題して、次のように述べています。

 創立の時代詳ならず、維新前は摩利支天及び不動明王の石像を安置し桜谷権現と称へて居た、維新の際神仏混淆を禁ぜらるゝと共に天照太神を祭神とし権現の称号を廃し、旧本尊は堂と共に社側に移した。
 明治十二年二月 平山安次郎等の発議によりて石祠を新築し、同十六年拝殿朽頽に瀕して居るので此を解取り現在の拝殿を新築した。〔後略〕

 天照太神が櫻谷神社の祭神とされる明治維新前(江戸期まで)は、ここは摩利支天と不動明王を本地仏とする「桜谷権現」と称されていたと読めます。桜谷権現の本地仏の一つに不動明王があったことは重要です。この明王が背後に秘めていた神が、天照大神荒魂の異称をもつ瀬織津姫神であったことは、岩手の早池峰信仰圈や岐阜の高賀山滝神社などに複数の事例が確認できます。逆にいえば、皇祖神のアマテラス(天照大神)が不動尊と習合することはないということです。
 あと一つの本地仏とされる摩利支天ですが、瀬織津姫神の関連祭祀において、この天部像が登場してくるのは珍しいといえます。摩利支天とはなにかということで、田中義恭・星山晋也『目でみる仏像』(東京美術)から引用します。

摩利支天
 陽炎を神格化したインドの女神マリシ(摩利支)が、仏教に採り入れられ護身の神となり、また人に知られず利益[りやく]をもたらす女神として信仰された。その形には二臂[にひ]の天女形と忿怒相の三面六臂ないし八臂像があり、天女形では左手に天扇[てんせん](身を隠す象徴)を持つ。三面像では一面が猪面であるか、あるいは猪の背の三日月上に立つ。
 わが国では、この像を本尊として護身、隠身などの修法である摩利支天法が修せられ、中世に武士の守護神として忿怒形の摩利支天の信仰が広まり、日蓮は法華経信者を守る神として日蓮宗に採り入れ、江戸時代になると蓄財、福徳の神ともなって特に商工業者の間に信仰された。石仏でも造られており、その場合、ほとんどが猪の上にのる三面六臂像である。

 摩利支天はインドの女神で、仏教の守護神とされたようです。また「護身の神」で「人に知られず利益をもたらす女神」だともされます。その像形は、「二臂[にひ]の天女形」と「忿怒相の三面六臂ないし八臂像」があるとのことです。
 沿革の項には、明治期の神仏分離の際、旧堂の地に新たに神社社殿が建築されるも「旧本尊(櫻谷権現の本地仏)は堂と共に社側に移した」とありましたが、この移されたお堂(写真5~10)には、たしかに摩利支天(忿怒相の三面六臂)の石像(写真8)や不動明王が確認できます。
 新たに神社化された旧のお堂の地には、神社本殿横に井戸(跡)があり(写真4)、桜谷権現は「井の神」ともみられていたことを伝えているようです。そういえば、瀬織津姫神は高千穂・桜谷においては「天真名井」の神であったことも想起されるところです。
 なお、移されたお堂には、まさに神仏混淆時代を証言する仏たちが現在もまつられていますが、わたしが特に興味深くおもったのは、この新たなお堂は拝殿も兼ねているようで、つまり、お堂の背後には、天照太神を新たにまった神社本殿とは別に、もう一つの本殿を新設していることです(写真9)。また、このお堂・本殿の背後には二つの石を神籬とする祭祀もみられ(写真10)、これらは、石祠(本殿)にみられる「日月」に象徴される一対神の祭祀を象徴させているのかもしれません。
 櫻谷神社に、瀬織津姫神の秘祭のほかに、この神と一対となる、同じく秘された男系太陽神が存在しているとすれば、それは、神社本殿背後の巨石(写真11)に影向する神であろうことが想像されます。『長崎市史』は、「社殿の背後に屹立する奇巌あり、高三丈もやあらん恰も柱を立てたる如くこれを望むに碩屏の如く一見頗る奇である」と、その奇岩ぶりをいうのみですが、わたしは、この神体石こそ、町名の「立神」の元となるものでもあっただろうとおもっています。
 長崎の櫻谷神社においては、神名として瀬織津姫神の名を明証することはかなわないというのが現在ですが、しかし、その微証は少なからず残存しているとはいえるのではないでしょうか(長崎郷土資料・写真:白龍)。

山田神社──安倍宗任ゆかりの地に

更新日:2009/11/15(日) 午後 10:11



『松浦市史』によれば、伊万里市立花町の岩栗神社の鳥居には、「宗任松浦郡司、岩栗大明神の神号と荘園を寄進す」の一文が刻まれているとのことです。
 この伊万里市に南接するのが西有田町ですが、ここに、佐賀県では稀といってよいかとおもいますが、瀬織津姫という神名、そのままの名の祭祀が記録されている神社があります。山田神社といいます。奥州の安倍氏が奉祭していた早池峰大神、つまり、瀬織津姫神が、安倍宗任ゆかりの「松浦」の地にみえるというのは、やはり大きな感慨をともないます。
 この祭祀記録は、佐賀県神職会『佐賀県神社誌要』(大正十五年)に収録されています。同神社誌で、ただ一箇所、ここにだけ瀬織津姫神の名が出てくる神社です。

村社 山田神社   西松浦郡大山村大字山谷(現:西有田町山谷)
祭神 伊奘諾尊
   大山祗命 武甕槌命 大己貴命 瀬織津比咩命 少彦名命
   宇賀魂命 菅原道真 天照皇大神 松浪森
 唐船山城主松浦丹後守有田盛並に平戸相浦飯盛山城主松浦丹後守源親の両氏相謀り、武運長久家門繁昌領民安泰守護の為め、永禄四年六月二十六日勧請創建し、山田野三所大権現と奉称せり、爾来領主藩主の崇敬甚た厚く、殊に山谷邑民は産土鎮守神として崇敬の誠を絶たず、明治維新に至り山田神社と改称し、大正八年十一月二十七日村社に昇格せり。無格社合祀により大山祗命外祭神八柱追加す。
  大正八年十二月九日神饌幣帛料供進指定
  氏子戸数  三百三十五戸

「瀬織津比咩命」は、(大山村の)いずこかの「無格社」にまつられていて、大正八年に山田神社が(無格社から)「村社」へと昇格したときか、そのあとの大正十五年までに、ここに「合祀」されたもののようです。
 ところで、『佐賀県神社誌要』にみられる山田神社の由緒と祭神構成には、奇異ともいえる不整合性を指摘できます。それは、山田神社がもともと「山田野三所大権現と奉称」されていたと由緒に書かれるも、その「三所大権現」に対応する祭神が三柱ではなく「伊奘諾尊」一柱しか記載されていないことです。
『西有田町史』(下巻)は、『西松浦郡誌』(大正十年)記載として、大山村の神社は、大木神社・山田神社・八坂神社・白山神社・鉄輪神社・天満宮・稲荷神社があったとしています。このうち、天満宮・稲荷神社は複数社があったとのことです。
 山田神社は、由緒にもあるように、松浦党ゆかりの唐船城、この城があった唐船山(写真1)に鎮座しています。唐船山は唐船城があったことから「城山」とも呼ばれますが、郡誌の表現を引用すれば、「白山神社、城山の頂上にあり」、「無格社八坂神社同城山の北半腹にあり」とされます。
 山田神社は現在、境内に「山田神社由緒」を掲げていて、その祭神表示は大正期のそれとは大きく異なり、次の三社・四柱を主祭神としているようです。

本宮   伊奘諾尊・伊弉冉尊
八坂社  素盞嗚尊
白山社  白山比咩命

 境内由緒によれば、この三社を「山田野三所大権現」というとありますので、大正期の公的由緒の修正がここになされていることがわかります。ただし、「白山比咩命」の新たな登場と「瀬織津比咩命」の消去にはなにか因果なものを感じさせもします。
 それはともかく、本宮の創祀について、境内由緒は次のように書いています。

松浦市今福に坐す「年の宮」は近江国一の宮諾冉二尊を祀る多賀明神を勧請するもの、松浦党が篤い崇敬を寄せた古社である。
党祖源久公、嫡直公、その第三子を栄公とす。公、有田郷分知、唐船城を築き年の宮を勧請す。当社の創祀なり。(平安末或は建保頃とも)

 唐船城を築城し、ここに松浦市今福の「年の宮」を勧請したのは源栄だとあります。この「年の宮」については、『松浦市史』に、次のように記されています。

歳の宮
多賀明神滋賀県犬上郡多賀大社分霊を、嘉穂元年(一〇九四)今福住民勧請
源久の妻である宗任の娘、市野御前社が今福寺上にありたるを大正五年に合祀

 松浦党の「党祖源久」(源太夫判官久)は、丹波・大江山の鬼退治(酒呑童子の説話)でよく知られる源頼光の家臣「四天王」の一人・渡辺綱の末裔という系譜をもっていますが、彼は「上下松浦党党祖、従五位下、検非違使、御厨検校」と注記される人物です(松浦党系図、『松浦市史』所収)。その源久が「宗任の娘、市野(御前)」を娶っていることがここには記されています。
 宗任系図(松浦党系図、『松浦市史』所収)によれば、同じ「久」の名をもつ同族の「渡辺源次別当久」(渡辺綱の子)の娘・真百合と宗任の間に生まれた娘が市埜(市野)とされます。境内由緒に「党祖源久公、嫡直公、その第三子を栄公とす」とあった嫡男の「直」は市埜(市野)の子で、宗任からすれば孫、またその子の「栄」、つまり唐船城の初代城主は、宗任からすれば曾孫ということになります。
 この唐船城(唐船山)の山頂にまつられていたのが白山神社で、その「北半腹」にまつられていたのが八坂神社でした。境内由緒は、「(本宮=年の宮に)八坂白山の二社を加え、山田野三所大権現の鎮祭を行う。時に永禄四年六月」とし、「八坂社は熊野本宮の、白山社は加賀白山の勧請神なり」としています。
 熊野本宮からの勧請ならば熊野神社となりそうですが、祭神の「素盞嗚尊」(京都・八坂神社の祭神でもある)に付会してのことでしょう、八坂社とされたようです。この八坂社については、山田神社参道の脇に、うら寂れてはいますが、まだ社殿がみられます(写真4~6)。
 大正八年まで、山田神社は「無格社」でしたが、それが「村社」に昇格したとしても、その神域の規模をみますと、ここが一「村社」だったというのは、これも奇異の一つといえます。このことは神社側も自覚するところだったようで、このあたりの経緯も境内由緒に書かれています。

明治、諸般一新。神社は国家管理となり、山田神社と改称し、郷社格の申請をするも、資料不備却下。大正期、平戸、大村、佐賀に史実を探ねて再申。八年十一月、村社列格、又由緒正しきの証、神饌幣帛料供進の指定あり。同年明治に収公の唐船山一帯のうち、北面二町歩の譲渡を受け、社殿をその中央に移し、荒地を拓き、神苑を造成し、桜を植え、その余は神社基本財産の神社林とす。

 こういった社格昇格の努力は、一般的には「県社」レベル以上を得るときのものでしょう。全国に「村社」は数多[あまた]ありましたが、結果「村社列格」を得るために、これほどの努力をした山田神社は、全国的にみても数少ない一社だったとおもわれます。
 近代日本の神祗策は、社格昇格申請の名のもとに各社の祭神・由緒を提出させ、そこで、「皇国」の祭祀にふさわしくないとされる祭神の洗い出しをするというのが隠れた主意でした。この洗い出しのあと、不都合な場合は祭神変更を強制していたことは各地にみられることです(本ブログ・北海道「樽前山神社」ほか参照)。
 さて、安倍宗任の孫・源栄の存在がみえてきましたが、宗任と松浦党については、丹後守家の記録『今福古捜記』に、次のような興味深い注記があるので紹介します(『松浦市史』所収)。

世に松浦党といふは阿倍[ママ]宗任の流れといえり、是れ又松浦四十八党の連署なり。兄貞任打死して宗任降人となり、源頼義、奥州合戦数年、士卒の為菩提大赦を行う、此時、嫡八幡太郎義家宗任を扶助して、家臣とす。廿年の給仕怠事なし、其忠もっとも重し、上松浦を賜り、永保三年下向、子孫繁栄、下松浦上松浦元源家の由緒あるに依て、連署して後四十八党と成処、世に知るところなり。

 宗任の娘・市野と源久の婚姻によって、のちの松浦四十八党(別説に松浦五十三党)成立の種を胚胎したことが、「世に松浦党といふは阿倍[ママ]宗任の流れといえり」ということですが、しかし『今福古捜記』は、「安倍松浦は終に松浦を名乗らず、其子孫相続き有りしを秀吉公高麗御陣の節、命違う事あって家運全うせず。其枝葉は終に之有といへども知人なし。為に於て家絶えたりとなり」とも注記しています。松浦党に関わった安倍氏は「家運全うせず」、今は断絶したということのようです。しかし、松浦党から離脱した宗任の子もいました。
 宗任の男子は六人いたようですが、そのなかの一子・実任(市野の兄)は出家し、また、宗任の思いをよく汲んでいたとおもわれることが、その経歴に表れています。『松浦市史』は「東岸寺記録」として、実任の姿を伝えています。

実任下松浦城主後大分郡(現大分市)白木に行き、御許山(現存)座主佐伯清信の女を娶り、熊が群れ遊ぶ夢を見て、寺を建て熊牟礼東岸寺に居り妙雲と号す。綾部、昆、高木、佐志田、河野、草野の祖なり。

 この熊牟礼東岸寺は、熊群山東岩寺ともいい、「東岩寺縁起」には、同寺は「彦山の末山」で、実任は当地に彦山三所権現をまつったことが書かれています。宗任の子・実任が、御許山と彦山に強い信仰的繋がりをもっていたらしいことが伝わってきます。
 ちなみに、やはり実任ゆかりの龍岸寺は龍雲寺と名を変えるも、大分市下白木に現存する寺で、その住職はやはり「安倍」氏とのことです。『松浦市史』はさらに、「宗任は伊予から母の新羅前と共に九州に渡り、高崎山に館を構え、貞任の遺骨を弔った寺を龍岸寺(現在龍雲寺)と伝えられ、尚墓もある」、また、「新羅前を祀った、鬼神社は頭の病を治して下さると現在も参詣人が非常に多い」と、「貞任の遺骨」の弔いや、「鬼神」としてまつられる宗任の母(新羅前)のことまで注記していて驚かされます。
 貞任は前九年の役で敗死し、その首は京都に運ばれたことが想像されますが、生き残った宗任は、兄・貞任の首の遺骨を抱いて九州の地に向かったとすれば、これは超一級の歴史秘話ということになります。しかし、史実はどうなのかは闇のなかで、ここでは断定できませんので、こういった伝説的伝承もあることを紹介するにとどめます。いずれにしても、市史の補記は、多くの想像をかき立ててくれるようです。
『松浦市史』は、宗任は松浦の郡司を経て、その後「福岡県の大島郡司となって松浦を去った」と書いています。大島には宗像大社中津宮がまつられ、この島には宗任の菩提寺・安昌院もあります。宗任の死地が大島であることについてはほぼ史実といえましょうが、宗任の九州における足跡・系図は異伝承が錯綜・交錯していて、これも一筋縄での理解はむずかしそうで、いずれ別項で考えてみる必要がありそうです。
 なお、『松浦市史』は、「宗任を祀った『宗任神社』が茨城県結城郡千代川村字宗道にあり、宮司は松本秀勝氏である」といった注記もしています。この茨城県の宗任神社には「手水社」という名ですが、早池峰大神こと瀬織津姫神がまつられているというのは偶然とはいえないでしょう。
 山田神社の境内の石祠群のなかでは、「水神」と刻んだ新しい石祠が特に目立ちます。大正期、「瀬織津比咩命」は山田神社にたしかにまつられていました。この神が「白山比咩命」と名を変えたか、あるいは「水神」と名を変えたか、はたまた両方に関わっているかといったことは、今は新たな探索を待つほかなさそうです(郷土資料・写真:白龍)。

(追記)
 東岸寺(東岩寺)と龍岸寺(龍雲寺)は別寺で、事実誤認がありましたので、訂正いたしました(2009年11月21日)。

田手神社(田手太神宮)──白村江の戦いのあとに

更新日:2009/11/13(金) 午前 0:13



 筑後川の支流の一つ・田手[たで]川の上流に吉野ヶ里遺跡がありますが、遺跡のすぐ南に、また田手川沿いに田手神社(田手太神宮とも)が鎮座しています。ここには、瀬織津姫神の異称の一つである撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(社での表示は「天疎」が略されています)の名での祭祀がみられます(写真1~7)。佐賀県神職会『佐賀県神社誌要』(大正十五年)は、以下のような由緒を掲げています。

村社 田手神社   神埼郡三田川村大字田手(現:三田川町田手)
祭神 撞賢木厳之御魂向津媛命
 天智天皇筑紫に暫く皇居せられし時に、御心願ありし此地を撰ひ、皇大神の荒魂撞賢木厳之御魂向津媛命を奉斎ありたりと、又一説に斉明天皇とも伝ふ、後嵯峨天皇寛喜年中(寛元年中の誤記…『三田川町史』)、陶荘司次郎矩武なる人、筑紫御笠の郷にありしか志を得す、仁治年間此地に逃れ来り住しけるに、年四十四に至るも子なし、されは伊勢大神宮に心願して一子を挙け大に悦ひ、神恩の辱きことを感謝し仙壽丸と名つけたり、此児極めて怜悧身体強健姓を杉と改め杉十郎熈傳と称す、而して此地に大神の荒魂を斎きし所あるを知り、其跡を尋ね荒廃せる霊地を修め社殿を建てゝ再興せむとし、屢勢州に赴き願へるも許されす、遂に三十三回の多に達したれは、其誠心に感せられ、神璽、瑤鏡、宝剣の三種を下賜せられ茲に始めて所思を遂けたりと、此三種の神宝社殿に安置す、天文の頃より疱瘡の流行ありて万人大に悩みけるか、神徳により平癒せし者多かりしより、疱神として霊威四方に響き、疱瘡流行の初に当り祈願し、終息に至り奉賽御蔭参りと称へ、遠くより参詣するもの夥しく、為に社前市をなす、是即ち今の田伝宿にて後田手と改む。社格制定に当り村社に列せらる。合祀により応神天皇外三柱の祭神を追加せり。
  明治四十年二月十五日神饌幣帛料供進指定
  氏子総数  三百十五戸

 一読、この由緒書には興味深い話が三つ含まれているようにおもえます。
 一つは、「天智天皇筑紫に暫く皇居せられし時に、御心願ありし此地を撰ひ、皇大神の荒魂撞賢木厳之御魂向津媛命を奉斎ありたりと、又一説に斉明天皇とも伝ふ」とあるように、社の創祀に天智天皇あるいは斉明天皇が関わっている点。
 二つは、社が鎌倉時代に再興されるにあたって、「杉十郎熈傳」(境内案内では「杉野隼人」「杉野十郎煕伝」)が三十三回も伊勢神宮に再興願いに通ったという尋常ならざる熱意とその実現経緯が語られていること。
 三つは、祭神「皇大神の荒魂撞賢木厳之御魂向津媛命」が疱瘡神(「疱神」)としての神徳をもっていること。

 まず、社の創祀時を「天智天皇筑紫に暫く皇居せられし時」と限定していることについてですが、これは、天智二年(六六三)八月二十七~二十八日に起こる、いわゆる「白村江の戦い」に向けての筑紫行だったとおもわれます。
 このあたりの歴史経緯を『日本書紀』にみてみますと、斉明六年(六六〇)九月五日に遡りますが、唐・新羅軍の侵攻によって滅亡寸前の百済の現状、しかし、武将の鬼室福信らが孤軍抵抗中であるとの知らせが、百済使によって斉明天皇の元にもたらされます。書紀は、「是歳[このとし]、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲[おもほ]して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ」と、百済救援の意志表示と準備にかかったことがわかります。
 翌斉明七年(六六一)一月六日には、斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子が難波より征西の船出をし、しかし途中、「伊予の熟田津[にぎたつ]の石湯行宮[いはゆのかりみや]」(道後温泉)に滞在し、三月二十五日に「娜大津(博多港)に至る。磐瀬行宮に居[おはし]ます」と書かれます。この時点から、約二年半が、天智一行の九州滞在時間となります。同年七月二十四日には斉明天皇が没し、以後、中大兄皇子(のちの天智天皇)が日本軍(官軍)の最高責任者となります。
 天智元年(六六二)には、「是歳、百済を救はむが為に、兵甲[つはもの]を修繕[をさ]め、船舶[ふね]を備具[そな]へ、軍[つはもの]の粮[くらひもの]を儲設[ま]く」と書かれ、天智二年(六六三)三月には、諸将を派遣して「二万七千人を率[ゐ]て、新羅を打たしむ」と、開戦が本格化していく様がわかります。白村江で待機する唐の軍船は「一百七十艘」と書かれるも、先に日本の軍船も「一百七十艘」を派遣したことが書かれていて、こういった同数が書紀内に記される点をみますと、戦記物特有の潤色を感じさせますが、それはともかく、同年八月二十七~二十八日の白村江の戦いにおいて、日本軍(官軍)は歴史的大敗を喫することになります。この大敗後の九月七日には、百済が完全に歴史の舞台から消滅します。
 仲哀記や神功皇后紀を読みますと、また、広田神社(西宮市大社町)の縁起を重ねますと、倭国において最強の神威・神力をもつ神として、天照大神荒魂こと撞賢木厳之御魂天疎向津媛命がありました。斉明あるいは天智天皇は、古代史最大の海外戦争に赴くにあたって、この神の神威・神力に加護を求めたことはありうることで、それが田手神社の創祀の背景にあった事情だったと想像されます。
 神社の境内案内(由緒)には、「天智天皇筑後に暫く皇居された時、清浄晴沙の地を選んで、この地に皇太神宮、撞賢木厳之御魂向津媛命(天照皇太神宮)を勧請し、荘厳な一宇を建立された」と書かれています。広い九州のなかで、ここが特に「清浄晴沙の地」であったのかどうかは現在の感覚ではぴんとこないところもあるのですが、あるいは、南九州における親新羅の心情をもつ隼人たちのことを考えて、この神をここに手厚くまつって背面の憂慮を防いだものかもしれません。
 さて、白村江の戦いにおける敗戦、同盟国百済の滅亡を経て、天智天皇は相当な危機意識をもちながら大和へ撤退したことが考えられます。それは、同時に、新たな国家構想を伴うものでもあったはずで、それが近江国への遷都だったとおもわれます。また、この撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神を、国家祓の大神、つまり大祓神として策定するというのも(天智八年、佐久奈度神社由緒)、その構想に含まれていたものとおもわれます。
 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命にとって、日本の国家観が変貌する過程は、その厚遇祭祀とは対極の過程を生きるということだったはずで、それが、この神をまつる田手神社においては、「その後、時代の変遷と共に一時荒廃を招いた」という境内案内のことばに表れています。
 同境内案内によれば、杉野隼人(杉野十郎煕伝)が神の一恩に報いるために神社再興を果たしたのは文応元年(一二六〇)とされます。天智天皇が筑紫へやってきた時点からいいますと、およそ六百年後となります。九二七年に成る『延喜式』神名帳には田手神社の名はなく、延喜時代にはすでに社は「荒廃」していたものかもしれませんが、杉野隼人の、その再建の熱意は『佐賀県神社誌要』や境内案内に余すところなく書かれています。
 この境内案内の記載日は「平成十年一月吉日」とあり、記載者は「第三十四代当主 杉野進」とあります。かつて並々なる執念のもとに神社再興に尽力した杉野隼人の末裔が現在も田手神社に深く関わっていることは貴重です。
 祭神「撞賢木厳之御魂向津媛命」が、「疱瘡」という病をなおす神徳があると伝えられていたことについては、この神の異称である瀬織津姫神が疫病魔退散の神徳を有して各地に伝えられていたことと共通するものでしょう。たとえば、「豊日別宮伝記」(大分県中津市『闇無浜神社─由緒と歴史』所収)には、こんな記述もありました。

欽明天皇七年〔丙寅〕四月、国中疫癘[えきれい]有り。故に当宮に祈る。大神(瀬織津姫神)告げて曰く、中津川に出でて祓除すべし。亦、神符を授く、人々にこれを掛けしめよと(此の神符、神家に有り)。国中の家々これを用ふ。疾疫忽ち癒ゆ。

 天智時代、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は「天照皇太神宮」の代表神(の一神)としてまつられていたはずで、その名残りが、田手神社の鳥居扁額が「太神宮」と書かれることに表れています。「天照皇太神宮」が天皇家の祖神(アマテラス)をまつるようになるのは、天智・近江朝のあと天武・持統朝以降のことで、この新たな神宮祭祀の創祀によって、田手神は神宮においては本殿背後の第一別宮・荒祭宮に「天照大神荒魂」の名で封印祭祀がなされることになります。
 しかし、当地では、天照大神ではなく、その「荒魂」こそが現在も「太神」なのでしょう。『三田川町史』は、「田手神社(田手太神宮)」の項で、疱瘡神としての祭神の神徳を記したあとに、次のようにつづけています。

なお鍋島藩時代は領民の領外に出ることを防ぐため、伊勢参宮は、領内の神宮に代参することを布[ふ]れたが、佐嘉伊勢屋町の伊勢神宮と田伝宿の田手太神宮が指定されたので、氏子は神社のお札を領内各地に配って廻ったといわれる。

 神宮(内宮)における皇祖神をまつる正殿と背後の荒祭宮の二本立て祭祀が地方の祭祀に少なからぬ影響を与えている姿が浮き彫りにされています。両宮にともに敬意を払うという鍋島藩の「代参」の命令が意味することは、「田伝宿の田手太神宮」(田手神社)の祭祀が先行していて、当社への崇敬が領民に根づいていたということなのでしょう。
 なお、『佐賀県神社誌要』によれば、田手神社近くの八幡神社(神埼郡蓮池村大字見島〔現:佐賀市蓮池町見島〕)の境内社「神明宮」の祭神としても「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」の名がみられます。見島八幡神社の境内社「神明宮」の由緒は不明ですが、これは田手神社(田手太神宮)の分社とみてよかろうとおもいます。「神明宮」が八幡神社の境内社となるのがいつのことかもはっきりしませんが、しかし、現在の見島八幡神社には「神明宮」という境内社はなく、その代わりというべきか、境内社の石祠群に混じって「太神宮」の石祠がありますので、これが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の分社後の現在の姿だとおもわれます(写真8~12)。
 瀬織津姫神とはいわずに「撞賢木厳之御魂向津媛命」の名で祭祀をつづける田手神社ですが、春・秋の大祭の間に、夏の大祭として「夏越大祭大祓 七月二十六日」を設けています(境内案内)。この大祭が、自社祭神ともっともゆかり深い神事であることはいうまでもありません(佐賀郷土資料・写真:白龍)。