熊野の滝姫神【下】──音無滝と瀬織津姫神

更新日:2009/11/9(月) 午後 2:50



 かつては「一ノ瀧下流」に「瀬織津比咩神社」の社殿を有してまつられていた瀬織津姫神でした。しかもこの神は「熊野那智神宮創建」に「紀伊国神名帳授従四位(上)瀧姫神也」とも記されるように「瀧姫神」、つまり、滝姫・滝神とみられていました。
 篠原四郎『熊野大社』(学生社)には、熊野本宮大社の「境内の摂末社」が列挙されていて、そのなかに、この滝姫社の名があります。しかし、祭神欄における滝姫社の項は空白となっていて、この空白は「祭神不詳」をいうのでしょう。篠原氏は本の発刊時(昭和四十四年)、「熊野那智大社宮司」で、自社史料「熊野那智神宮創建」に目を通す機会はあったのではないかともおもわれますが、「瀧姫神」はなぜか空白のまま放置されています。
 ところで、本宮の境内というときの本宮は、現在の社地に移転する前の本宮をいいます。『参拝の栞』(熊野本宮大社)は、本宮の「社地の移転」について、次のように書いています。

 太古より熊野牟婁郡音無里[おとなしのさと](本宮町本宮)大斎原[おおゆのはら]に鎮りましたが明治二十二年熊野川未曾有の大洪水の際、上中下各四社の内上四社を除く外非常なる災害を蒙り、明治二十四年三月現地に遷しまつり、従来の地を別社地と称し、其所に仮に石祠二殿を造営し、西方に中四社下四社、東方に本境内摂末社を合祀申上げて居ります。

 中古以降、熊野十二社権現とも呼ばれてきた「熊野権現」でしたが、明治二十四年に新社地に遷ったのは筆頭の四社「上四社」のみで、残りの八社にあたる「中四社下四社」、および「境内摂末社」は、東西の石祠に合祀されて旧社地(大斎原)に分離祭祀がなされているというのが、現在の熊野本宮大社の姿です(写真1~12)。
 滝姫社は「境内摂末社」の一社ですが、現地の案内には「他」に含まれているようで(写真11)、滝姫社が重視されていないことがよく伝わってきます。
 しかし、『参拝の栞』には、本宮の「摂末社十三社」の一覧表が掲載されていて、そこには滝姫社の名がみられます。『栞』の記載は、次のようになっています。

滝姫神社  湍津姫命[みづつひめのみこと]

 滝姫神は宗像三女神の中心神である「湍津姫[たぎつひめ]命」に変更され、しかし、訓みは「みづつひめのみこと」とあります。こういった異称の訓みを付すというのは、熊野の滝姫神は宗像神のそれとは別神だと暗にいいたいのかもしれませんが、瀬織津姫神が「湍津姫命」と置き換わって祭神表示されるのは、たとえば、滋賀県野洲市比江に鎮座する長澤神社や鹿児島県出水市に鎮座する厳島神社にみられることです(本ブログ・鹿児島県「宇佐・宗像神としての瀬織津姫神」参照)。また、岩手県八幡平市荒屋新町に鎮座する桜松神社は、公的な場面では「滝津姫命」と表示されるも(『岩手県神社名鑑』)、現場では「瀬織津姫命」としてまつられているといった例もあります(本ブログ・岩手県「桜松神社」参照)。
 本宮大社の『参拝の栞』が滝姫神を瀬織津姫神ではなく「湍津姫命」と表示する史料根拠は、おそらく「熊野那智神宮創建」かとおもいます。そこには、那智大滝(一ノ瀧)下流における瀬織津姫祭祀を記すだけでなく、「本宮御鎮座」分として、さらに「又後」として、二つの「瀧姫社」の記述があります。

「本宮御鎮座」分
瀧姫社  瀬織津姫命
「又後」
瀧姫社  多岐都比売命

 多岐都比売命は『古事記』における表記で、『参拝の栞』の湍津姫命は『日本書紀』のそれですが、こういった史料をみますと、「みづつひめのみこと」という訓みはかなり無理があることは明白です。
 なお、瀬織津姫神が熊野の滝姫神であったことは、他史料でも、たとえば「熊野那智神宮創艸畧記并熊野年代記」では「瀧姫ノ社 瀬織津姫命」、「熊野神廟記」では「瀧姫社  瀬織[ママ]姫[セヲリツヒメノ]命」とみえ(以上、『神道体系』神社編四十三「熊野三山」、所収)、これほど複数の史料が証言しているにもかかわらず、滝姫神を空白(不詳)としたり、多岐都比売命(湍津姫命)という宗像神に置換して瀬織津姫神に関する注記の一つもないというところに、熊野における、文字通りの「暗さ」が表れているといえそうです。ちなみに、瀬織津姫神は現在の本宮においては「祓戸大神」の石碑となったり(写真3)、境内社「満山社」に「祓いの神」という名でまつられているようです(写真6・7)。
 本来、熊野本宮神(上四社、第三殿=証誠殿の神)として瀬織津姫神があったことの考証は菊池展明『円空と瀬織津姫』(風琳堂)に譲りますが、同書には、次のような記述もありました。

鳥井源之丞『熊野道中記』(享保七年)に、熊野参詣の途次、「瀬織津姫社」に立ち寄った記録がある。鳥井は、この瀬織津姫社は「社なし榊一本あり本宮より四町西にあり本宮末社也」と書いていて、瀬織津姫という神が、榊神、あるいは榊に憑依する神であることをよく伝えている。

 享保七年(一七二二)の時点、熊野本宮より「四町西」に「瀬織津姫社」があったとのことです。当時の一町は現在の約一〇九メートルで、四町とは約四三六メートルとなります。享保七年時点、すでに「社なし榊一本あり」と書かれていますので、これは、瀬織津姫神の社殿祭祀が消去されてゆく過渡の記録といえるかもしれません。
 また、似たような記録は、幕末に成る『紀伊国名所図会』(熊野編巻之二)にもあります。

瀧姫社  祭神は瀬織津姫命、小森村にあり
本国神名帳に云、従四位上瀧姫神、旧は本宮の乾、音無瀧の下に在り、今は社なくしてたゞ榊一株あるのみなり。

 熊野本宮は、「太古より熊野牟婁郡音無里[おとなしのさと](本宮町本宮)大斎原[おおゆのはら]に鎮りました」とされ、その「音無里」には音無川が流れ、この川の「音無瀧」の滝姫神としても「瀬織津姫命」はまつられていました。もっとも、ここも「今は社なくしてたゞ榊一株あるのみ」とあり、先の「瀬織津姫社」と同社かと一見おもえますが、よく読みますと、この「瀧姫社」は、「本宮の乾(北西)」「小森村にあり」とありますので、『熊野道中記』が記す「瀬織津姫社」とは別の祭祀だったようです。
『紀伊国名所図会』からは一五〇年ほど経っていますが、今は社はなくとも「音無瀧」は存在するだろうと訪ねてみました。しかし、これがすでに地元の人も知らない滝らしく、「幻の滝」だという人さえいます。手掛かりは「小森村にあり」だけで、天保十年(一八三九)に成る『紀伊続風土記』(巻之八十五)には、次のような記述もあります。

○紅葉瀧  大谷瀧
小名小森領音無川筋にありしに本宮炎焼の年山崩れて今はなし

 かつての熊野本宮は音無川と熊野川(と岩田川)の合流部の中州(島)にありましたが、熊野本宮にとって、音無川はとても重要な川で、この認識は、北の大地(北海道)の駒ヶ岳の神をまつる内浦神社(砂原町)における駒形大神に奉納された歌にもよく表れていました。『円空と瀬織津姫』(上巻)の記述を引用します。

内浦神社神官奉納の棟札にも「熊野路の音無川に水増して悪魔を流しくにを守らん」の一首が記されていて(『砂原町史』第二巻)、駒ヶ岳の神は、その神の原郷を熊野にみてよいのかもしれない。〔中略〕
 歌にある「音無川」は、熊野詣でにおける、俗界と熊野の霊地の境界の川であり、また禊の川でもあった(写真9・10)。「熊野路」を歩いてきた参詣者は、この川で禊ぎをすることで、熊野本宮という絶対霊地に入ることができたのである。この歌には、内浦岳=駒ヶ岳の神が熊野の禊祓いの神であることが的確に詠みこまれている。

 ここに出てくる「駒ヶ岳の神」は瀬織津姫神のことですが、この神は熊野の地では音無川の川神・滝神としてありました。また「熊野三山年中行事」(『熊野大社』所収)の熊野本宮の項には、「六月晦日 大祓(音無川名越大祓)」とあり、瀬織津姫神は禊祓神としてもありました。この神が「熊野路の音無川に水増して悪魔を流しくにを守らん」と詠まれていることは重要です。
 さて、「音無瀧」ですが、この滝の現在を確かめるには本宮の乾(北西)にある「小森村」(本宮町小森地区)へ出向くしかないということで、中辺路を沿うように山間の細道を車で登っていきました。「音無瀧」は音無川本流の滝で、小森地区にある(あった)というのが唯一の手掛かりでしたが、小森の住人のだれ一人、この滝名を聞いたことがないということでした。しかし、そのうちの一人が趣味でアマゴを滝壺に釣りに行くということで、小森の音無川の滝ならばそこしかないだろうとのことです。しかし、そこへ行くには陸路はなく、川を遡行するしか行けないところだとのことで、その用意はあるかと心配されもしましたが、ここまで訪ねてきて途中で引き返すわけにはいかないなということで久しぶりの川歩きとなりました。
 最初は膝下くらいの緩やかな幅広い流れでしたが、四~五〇〇メートルほど遡上すると、大岩がごろごろと散乱する異様な景色となり、川幅が狭まってきます。大岩に隠れていてみえませんでしたが、先のほうでなにやら滝の音がかすかにしてきました。水かさは腰のあたりまできていましたが、大岩の横から覗くと、そこにはまさに「音無し」の静寂な滝がありました。崩落等で昔日の面影はないのかもしれませんが、小森地区の音無川本流の滝はここしかありませんから、たとえ本宮町の地元の人が「幻の滝」といおうとも、これが「音無瀧」であることを確信しました(写真13・14)。
「音無瀧」の探索紀行のような話になりましたが、わたしがこの滝に強い関心をもったのは、実は、出雲国の熊野山(現在の天狗山)にも、同名の滝があるからです。
 宝暦十四年(一七六四)二月の日付をもつ「熊野大社并ニ村中諸末社荒神指出帳」は、幕府(→松江藩)の命によって出雲国意宇郡熊野村の祭祀を詳細に調べて提出したものですが、ここにも音無滝の記述があります(『神道体系』神社編三十六「出雲・石見・隠岐国」、所収)。同「指出帳」は「出雲国比婆山熊野大社」(熊野大社内では、風土記時代の「熊野山」は「比婆山」とされていた)には「十一末社」があり、五合滝神社(祭神:立彦霊神)を記したあとに、次のような瀬織津姫祭祀の記録がみられます(〔 〕内は原文割注)。

音無滝神社〔則比婆山ノ麓ニ有リ。亦ハ白滝トモ、シラヌタキトモ云。祭日九月八日、〕
 所祭神 瀬織津姫命
右之社、滝坪(壺)之右、山之内ニ御座候得共、大破仕、唯今ハ社跡斗御座候。川上ニ此音無滝在故、熊野川ノ流ヲ音無川ト申候。〔後略〕

 出雲国の熊野山の音無滝神社は、これも今は社がありませんが、篠原四郎『熊野大社』に「出雲の神と熊野の関係は、今一度考えなくてはならない」とあるように、これは重要な問いとなります。熊野本宮大社宮司・九鬼家隆(「鬼」の字は田の上のツノ(`)がないのが正字)『熊野信仰について』(熊野本宮大社)は、出雲国と紀伊国の出雲神祭祀の共通性について、「偶然の一致とみた方がよい」、「熊野は熊野として、出雲と直接の関係などなく、独自に発達して来た地とみるのがよい」としていますが、古代、出雲・熊野には、希代の秘滝神・水神をまつる共通項さえありますから、「偶然の一致」というのはやはり難しかろうとおもいます。天真名井を抱える籠神社の故地である丹後半島の「熊野」を含めて、そこには海人族を基盤とした連動祭祀(神宮祭祀の根幹を揺るがす祭祀)がかつて広範にあっただろうことが想像されます。

熊野の滝姫神【上】──那智大滝と瀬織津姫神

更新日:2009/11/1(日) 午後 3:03



 早池峰─遠野郷の聖域を象徴する「又一の滝」は、その名称を熊野那智の「一の滝」(那智大滝)に負っています(本ブログ・岩手県「早池峰信仰圏の滝神祭祀」参照)。滝そのものを「神」として崇めるというのは遠野郷も熊野那智も一緒なのですが、しかし、「神」と見立てられたその滝神の名を現在にみますと、遠野郷では瀬織津姫命、熊野那智では大己貴命とされています。
 滝の「規模」という点からいえば、早池峰─遠野郷のそれは熊野那智の「大滝」に及ぶものではないでしょうが、本来の滝神をいうなら、まったく別な話となります。
 少し観光案内的になりますが、現在「那智大滝」がどのように紹介されているかを、『那智詣』(熊野那智大社)に読んでみます。

 那智山の奥山、大雲取[おおくもとり]山から流れ出る本流に、西側の舟見峠から出る西谷の流れなど、いくつもの流れが重なり合いながら、そして「那智四十八滝」といわれるほどの沢山の滝を奥深い山中に残しながら、遂には高さ一三三メートルの断崖をいっきに落下しているのが「那智大滝」であります。四十八滝中の「一の滝」であり、銚子口(滝の落ち口)の岩盤に三つの切れ目があって、「三筋の滝」ともよばれています。
 幅十三米の銚子口に注連縄[しめなわ]が張られているのをあおぎみることができますが、ここにおまつりしている大己貴命の御神体としてこのお滝をうやまいあがめているあかしであります。毎年七月九日と十二月二十七日の二回、古来から神事にのっとって「御滝注連縄張替行事」が行なわれます。〔中略〕
 お滝壺は、昔は広く深かったと伝えられていますが、落下する岩石のためだんだん狭くなり、深さも十メートル程です。

 一三三メートルの落差をもつ「那智大滝」はたしかに壮観です(写真1~5)。しかし、かつての大滝の壮観さは現在の比ではなかったようです。文化九年(一八一二)から嘉永四年(一八五一)にかけて成った『紀伊国名所図会』は、「熊野編巻之二」に、次のような記事を載せています。

那智瀑布
三国(日本、震旦、天竺)無双の名瀑にして、扶桑に於ても独立絶対のものなり、長さ三十丈に余り、幅四丈二尺、宛然天漢[あまのがは]を注下するが如し、而して三段に落下す、就中一の瀧最も大なり、俗伝によれば神躰は大己貴命にして飛龍権現と称す、障壁の如く屹立せし二ツの大巌石の間を迸り落つ、其の昔は中程に突出でたる岩ありて落下の水勢はこれに激し、一層の美観なりしも、宝永の大地震に遭ひて惜むべし崩壊し、今は其影も止めずさながら筧の水の如く銚子口より直下するのみ、されど其の白く潔きこと吹雪の如くまた素練の如し、落ち口に二個の岩あり故に三線に分れて落つ、中程より以下に至れば岩を打ちて飛び散るさま恰も雲霧に異ならず、衣襟おのづから湿ふ、暑熱の候と雖も瀧の辺りに居る時は快き寒冷を覚ふ、而してまた熊野灘を行く船中に於ても遠く望むを得べく実に天下の壮観たり。

 わたしたちが現在目にしている「那智大滝」は、「宝永の大地震」によって滝の中程に突出した岩が崩落したあとの姿だということになります。「宝永の大地震」というのは、宝永四年(一七〇七)十月四日に「諸国に大地震」と記録されているそれかとおもいますが(『日本文化総合年表』岩波書店)、前年の九月十三日には「江戸大地震」とあり、宝永三年から四年にかけて、各地を大地震が襲ったようです。これら一連の大地震との関連でしょう、宝永四年の十一月二十三日には「富士山大噴火」とも記録されています。
 ところで、『那智詣』もそうでしたが、『紀伊国名所図会』は「俗伝によれば神躰は大己貴命にして飛龍権現と称す」と記しています。「飛龍権現」は「飛瀧[ひろう]権現」と記されるのが一般ですが、それにしても、早池峰の「又一の滝」の神の名は登場してきません。
 もっとも、これは表面上のことで、たとえば「熊野那智山結宮並滝本年中行事」(『熊野市史』上巻、所収)には、次のような記載がみられます。

三月二十一日  川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬にてみそぎ祓いの式典あり。
九月十三日   滝本河中神供三膳
〔注〕 滝行者身体を滝壺に入り、析板[へぎいた]の上に海の幸、洗米、畑物、山の物、神酒を乗せて押し流す作法。日天秘法ともいう。弁才天供養、竜神祭ともいう。
 夏中水に不自由せぬ水神に御礼の行事。また水や滝に感謝し敬う大事な祭典。

 那智においては、瀬織津姫神は「弁才天」とも習合していたようですが、この弁才天供養(日天秘法、竜神祭とも)の神事は「夏中水に不自由せぬ水神に御礼の行事。また水や滝に感謝し敬う大事な祭典」という認識がありました。『那智詣』も「水や滝に感謝し敬う」気持ちを捨てていないようで、たとえばこんな記述が目に留まります。

 命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大滝」を、この地方に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神としてうやまっていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大滝を「神」としてあがめ、そこに、国づくりの神である「大己貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。

 また、『熊野那智大社の信仰と歴史の道』(熊野那智大社)においても、那智大滝の「水」への信仰がいわれています。

 水は生命の母であります。この水はすべてのものをはぐくみ育てゝくれます。この水の霊力、霊感によって或は開運、延命幸福を感受したのであり、取りわけ今もこのお滝に詣で「滝のしぶき」に触れ延命長寿を受けようとする人が絶えません。

 那智大滝の「水」への信仰は、古文書にあった「川中の神(河中神)」である「瀬織津姫ノ神」への崇敬ではなく「国づくりの神である「大己貴命」(大国主命)」へのそれだといいかえられています。
 瀬織津姫神の名は、ほかの古文書にもみることができます。成書年は不明ですが、「熊野那智神宮創建」(『神道体系』神社編四十三「熊野三山」、所収)には、この神をまつる神社があったことが明記されています。

一ノ瀧下流〔紀伊国神名帳授従四位瀧姫神也〕 瀬織津比咩神社

 那智関連文書複数に、瀬織津姫神の祭祀があったことが記されていますので、那智大社側に、文書にある「瀬織津比咩神社」の祭祀地、また、もし廃社となっているのならそれはいつのことかと問い合わせてみましたが、いずれも「不明」という回答を繰り返すばかりでした。
 上記引用中、瀬織津姫神は「紀伊国神名帳授従四位(上)瀧姫神也」とあり、この神は「熊野那智神宮創建」時、「瀧姫神」でもあったのでしょう。このことは、「嘉永六丑年出セル柿園詠草ト題セル和哥山諸王ノ那智瀧ノ歌ニ」という詞書きをもつ、次のような一首とも関連しているはずです(「熊野那智山〔古文書古書社記抜書古歌集并絵図〕」『神道体系』、所収)。

瀧姫ノ御衣ノ白妙幅ヒロミサクイカツチヤオモヒカケゝン

 那智大社側の応答はけっして誠意あるものではありませんでしたが、那智大滝の「瀧姫」は、瀬織津姫神とはいわない(いえない)ものの、「大己貴命」(大国主命)とすることで、暗に出雲大神でもあることを示唆していると受け取っておくことにします。
 なお、那智に伝わる古歌集には、漂泊の歌人・西行の歌も収録されています。

  月照瀧            西行法師
雲キユル那智ノタカ子ニ月タチテ光ヲヌケルタキノ白糸
(雲消ゆる那智の高嶺に月立ちて光を抜ける瀧の白糸)

身ニツモル詞ノ罪モアラハレテ心スミヌルミカサ子ノタキ
(身に積もる詞の罪も顕れて心澄みぬる三重ねの瀧)

 富士山麓には「白糸の滝」がありますが、この滝神をまつる熊野神社は瀬織津姫神の単独祭祀ですし(本ブログ・静岡県「熊野神社」)、「那智四十八滝」にちなむ、その名も四十八瀧神社も瀬織津姫神をまつっています(岩手県「気仙川流域の瀬織津姫祭祀」Ⅰ~Ⅳ)。ほかにも、岐阜県美濃市乙狩の滝神社の瀬織津姫祭祀を挙げてもよいですが、瀬織津姫という神が、熊野・那智の滝神(「瀧姫」神)であったことを告げる社は複数あります。
 なお、西行の二首めの歌の「三重ねの瀧」は、一の滝・二の滝・三の滝をまとめていうときの名称ですが、西行が「身に積もる詞の罪も顕れて心澄みぬる」と詠うとき、この滝に「詞の罪」の浄化(禊ぎ)の働きを感得していた西行の思いが表れています。いいかえれば、那智の滝神が禊祓の神でもあることを熟知した(悟った)上での一首と読めます。
 かつて飛瀧権現とよばれた那智大滝の神は、熊野那智大社(写真6~8)においては第一殿の滝宮にまつられてもいます。『那智詣』は「第一殿(滝宮)は鎮守社で、第四殿(西御前)におまつりしている熊野夫須美大神・伊弉冉尊が当社の御主神」と、滝神とは微妙に異質な祭祀を展開していることを主張していますが、熊野那智信仰が「滝」「滝神」からはじまることはいうまでもありません。
 仁徳天皇時代、この大滝に最初「観音」を感得したのはインドから流れ着いた僧・裸形上人とされ、その後、推古天皇の時代に大和から生仏上人がやってきて入山すると、彼は裸形作の観音を胎内に納めて如意輪観世音を安置し創建されたのが、那智大社の東に隣接している青岸渡寺(のちの西国第一番札所)とされます。この青岸渡寺の付帯塔である三重塔には、大滝神の本地仏・千手観音や修験者にとって大滝神と同体といってよい不動尊が移管されまつられています(写真9~13)。
 秘められた神を露わにいうことなく神仏混淆・権現信仰に終始してきたのが熊野信仰の魅力の一つですが、「大己貴命」(大国主命)の背後にもう一つの神まつりを秘めている(「神神習合」させている)のは、出雲(大社と熊野大社)と一緒というべきでしょうか。
 那智大社境内には、藤原秀衡の手植えとされる山桜が「白山桜」の名で現在もみられます。秀衡における白山神(瀬織津姫神)への崇敬・信仰と鎮魂の気持ちが、この手植えによく表れています。
 瀬織津姫という神の祭祀が、那智からは遠方の各社にみられるばかりでなく、これも熊野側の資史料が語ることですが、熊野三山の一角である熊野本宮においてもみられることにも、やはりふれておく必要がありそうです。
(つづく)

桐原神社──産土神としての瀬織津姫神

更新日:2009/10/24(土) 午前 1:00



 三重県南牟婁郡紀宝町桐原、二つの川(傍らの用水を含めれば三つの川)が合流する、まさに川合の地に桐原神社が鎮座しています。地元の古老の女性によれば、ご祭神はたいへん格の高い神様だと聞いているとのことです。
 平成十六年の編纂・発行という比較的新しい町誌ですが、『紀宝町誌』の桐原神社の記述を読んでみます。

桐原神社
鎮座地 紀宝町桐原一六〇三番地
祭 神 大己貴尊(おほなむちのみこと)
     瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)
     熊野櫞樟命(くまのくすびのみこと)
本 殿 神明造
●由緒
 大己貴尊は創村の際、白髪の翁現われ「予を祀らば村内繁栄、五穀豊穣ならしめん」という。村人これを祀れりと伝えられている。瀬織津姫命は首長なる者、毎朝川端へ出て信仰せしかば、水上に神現われ、それより村社に併せ祀りしとある。熊野櫞樟[ママ]命は新宮矢倉辻の社から勧請せりとあり、鎮座地は蔵光を源とする相野谷川と片川からの入谷川と岡地川が合流する地点で、ちょうど出先の様相を呈しており、洪水に悩まされることしばしばで、水害を鎮めんために祀ったとも考えられる。
明治四十一年(一九〇八)十月十日(現)相野谷神社に合祀されたが、昭和二十六年三月十五日に旧鎮座地に復した。合祀の際は雷が鳴り大暴風雨の由聞いていたが、復旧の日はうららかな小春日和であった。

 瀬織津姫神の出現について、「首長なる者、毎朝川端へ出て信仰せしかば、水上に神現われ」とあり、この神の原像的性格が川神・水神であることをおもいますと、ありうる出現の仕方のようにおもえます。また、この出現の仕方とも関わりますが、氏子の語り部の古老の方からは、昔、疫病が流行ったとき、神主が毎朝川で水垢離し神に祈ったところ、疫病が鎮まったという話も聞きました。疫病という災いを祓う神力を瀬織津姫神が有している伝承はほかにも聞きますし(大分県「闇無浜神社考【Ⅶ】─瀬織津姫神「神徳」の諸相」参照)、これもありうる話のようにおもえます。
 ところで、町誌は、桐原神社の変遷について、「明治四十一年(一九〇八)十月十日(現)相野谷神社に合祀されたが、昭和二十六年三月十五日に旧鎮座地に復した」と記しています。明治四十一年(一九〇八)から昭和二十六年(一九五一)までの四三年間、桐原神社は明治政府の神社合祀策の影響下で、被合祀という受難をこうむっていたようです。
 ちょうど、この被合祀期間内にあたる大正十五年(昭和元年=一九二六年)に、三重県神職会によって『三重縣神社誌』が編纂・発行されています。この書は、十年ほど前まで桐原神社の神主をされておられた方の所蔵で、ご自宅で閲覧させていただいたのですが、そこには、桐原神社が合祀されていた「相野谷神社」の瀬織津姫神について、次のような記述があります。

瀬織津姫命ハ大字桐原桐原神社境内社中村神社ノ鎮座ナリシガ由緒ハ「明細帳」ニ「昔首長ナル者毎朝川端ヘ出信仰セシカバ水上ニ神顕レ夫レヨリ村社ヘ併セ祭リ初メシヨシ」トアリ

 瀬織津姫神の出現については町誌と同内容の記載がみられますが、この神をまつる社について「桐原神社境内社中村神社ノ鎮座ナリシ」と、「中村神社」の名を明記しています。この点について、元神主氏に尋ねたところ、意外にも、桐原神社はもともと中村神社だったとのことです。
 これは、中村神社の鎮座地に、他村から「大己貴尊」が合祀され社名を桐原神社と改称し、その地の元神社が境内社となったということが想像されます。つまり、元神は本来の神域を新しい神に「譲った」ということになります。こういった変則的な祭祀が各地に横行したのは明治期初頭だろうことが考えられます。そこに「名」が無ければ神も人も亡きに等しいですから、たとえ境内社に降格されても、そこに瀬織津姫神の名を残しえた桐原の人たちの崇敬の心に共感するものです。
 桐原神社が、昭和二十六年に「旧鎮座地に復した」とき、社殿を再建するにあたって、本殿を「神明造」としたことに、神主・氏子衆の旧祭祀(瀬織津姫祭祀)を再現しようとする思いがよく表れていたといえます。なぜなら、主神「大己貴尊」を最重視するなら神明造の本殿は成り立たないからです。もっといえば、千木を平削ぎ、鰹木を六本とするのは、内宮の荒祭宮と同一形式で、瀬織津姫神が荒祭宮の秘神であることについて、復社・再建当時、関係者はよくよくわかっていたことが想像されます。
 瀬織津姫神が荒祭宮の神であることは神主氏もご存じで、この神が当地のもともとの産土神であったことにも同意をいただきました。
 ところで、復興した現社地を訪ねてみますと、本殿の左右に不明の境内社が二社あることに気づきます。町誌をみるかぎり、現行祭祀においては境内社は存在しませんので、これらは被合祀時の名残りともいえる祠なのかもしれません。
 わたしがとても気になったのは、本殿に向かって右側に鎮座する「石神」の祭祀です。なぜ「石神」というように断定的にいえるかですが、肥前国一之宮の河上神社=與止日女神社の祭神(風土記記載の「石神」)の鎮まり方で、『佐賀縣神社誌要』は次のように書いていたからです。

本社より里程凡二十丁、川の東北に山あり梅の上と云ふ。此山の半腹に石神鎮座せり、神体は三面の大石にして高さ丈余二面は壁立し、一面は其上を蓋ふ。古来より土人石神と称して……〔後略〕

 肥前国の河上神は「石神」で、その「神体」の大石は「二面は壁立し、一面は其上を蓋ふ」とあります。桐原神社境内の石神祭祀は、「大石」ではないものの、二つの石を壁のごとくに立て、その上に三つめの石を載せる形態は肥前国の石神祭祀とまったく同じです。
 もう一社の境内社は本殿に向かって左側にあります。社殿表示はどこにもありませんでしたが、祠のなかには「守護大明神」と刻まれた「石」がまつられています。この石は、右の「石神」祭祀と同材質(御影石)とみえます。
 元神主氏には聞きそびれましたが、この二つの境内社は、氏神を合祀によって無くしたときの氏子衆の心をつなぎとめてきた名残りの祭祀ではないかとわたしはおもいました。
 町誌は、桐原神社(中村神社)が相野谷神社に合祀されたとき、「雷が鳴り大暴風雨の由聞いていた」と興味深い逸話を記していました。祭神・瀬織津姫神が怒ると雷電豪雨のかたちをとるというのは神宮側の伝承にもあり、これも桐原神社一社の伝承ではないようです。
 そして、町誌は、祭神が元の社地に還ってくるという、その「復旧の日はうららかな小春日和であった」と結んでいます。これは被合祀時の雷・大暴風と対比されていて、こういった記述を読みますと、祭神が氏子衆からどれほど大事におもわれていたかがよく伝わってきます。桐原神社の社殿はけっして豪壮なものではありませんが、境内は掃除もゆきとどいていて、とても大切にされている印象を受けました。
 元社地に復帰するときの「うららかな小春日和」の気持ちが、社殿とおそらく同時に建立されたであろう狛犬の表情にも、実によく表れているようです。

川上神社と肥前国一之宮──瀬織津姫神の勧請

更新日:2009/10/23(金) 午前 0:56



 和歌山県田辺市上秋津、会津川の左岸に、肥前国(佐賀県)一之宮(河上神社・與止日女神社)を勧請した川上神社が鎮座しています。
 まずは『紀伊国名所図会』(熊野篇巻之二)の記述を読んでみます。

川上神社  境内周囲百三十二間
上秋津村にある同村の産土神なり。土俗相伝へて云ふ。当社は其の昔、肥前国佐賀郡よりの勧請なりと。因みに考ふるに、肥前国佐嘉郡、與止日女神社は、延喜式神名帳に載するところにして、祀神は、水神速秋津比女神なり。当社は即ちこれ此の神を祀れるならん。また土地の号を秋津と称するは、秋津姫の神号に因みて呼ぶなるべし。秋津村の龍王社は正に速秋津比古神なり。

 図会は文化九年(一八一二)から嘉永四年(一八五一)にかけて成ったもので、作者は、この川上神社の主祭神を、その本社・與止日女神社がまつる「水神速秋津比女神」と同じだろうと推測しています。江戸時代末、肥前国の與止日女神社の祭神が「水神速秋津比女神」と伝承されていたことは興味深いことですが、紀州の川上神社については、図会の作者の認識とは少し異なっていました。
 和歌山県神社庁田辺市西牟婁郡支部と同総代会田辺市西牟婁郡支部の共著となる『西熊野の神々』は、川上神社の項を次のように記しています。

川上神社
主祭神  瀬織津比売神 速秋津比古神 速秋津比売神 他十二神
由緒
当神社は会津川流域、奇絶峡口の左岸、字岡代に鎮座する。
元は河上大明神と称へ、又、川上明神社とも記し、現在は川上神社と称へ奉る。
往古より五ケ字の産土神にして明治六年村社に列し、同四十四年十一月三十日、神饌幣帛料供進神社に指定せられて一村の代表的神社となる。
当社勧請の年代に就いては、仁和二年(八八六年)と、天文十六年(一五四七年)の両説あるが、享保十年の書上に依れば「往昔肥前国佐賀郡より勧請仕候由申伝候」と現われてより徳川の末期に至るまで其の勧請年代の記録は見当らない。
但し、古神職家の田中氏歴代の伝承する所に依れば、天文十六年(第一〇五代、後奈良天皇の御代)野村氏が当村に来たりて定住すると同時に(当時大村地の戸数は四十五戸なりしと云う)肥前国佐賀郡より勧請して田中氏が神主となって三代。天保五~六年に尤之助が其の勧請の祝詞を紛失したと伝えられる。然るに明治十三年神社明細帳には、勧請年代を仁和二年と記しているが、古書に拠る可き処もない。〔後略〕

 ここには、『紀伊国名所図会』の推測とは異なって、筆頭祭神に「瀬織津比売神」とありますし、図会が記していた「秋津村の龍王社」の速秋津比古神を本殿の祭神とし、三柱が主祭神と表示されています。
『西熊野の神々』は、川上神社所蔵の古資料も収録していて、それらをみてみますと、元禄七年(一六九四)および享保十年(一七二五)の「田辺領神社改」ではともに「川上大明神」、寛政四年(一七九二)の「田辺領神社書上」では「河上大明神」、天保十年(一八三九)の『紀伊続風土記』では「川上明神社」と記され、江戸期の記録を読むかぎり、具体的神名の確認はできません。しかし、明治十三年(一八八〇)の「神社明細帳」に、祭神「瀬織津姫神・速秋津姫神・速秋津彦神」と表示されることになります。
 瀬織津姫神が祭神名として登場するのは明治期ですが、では、この神の祭祀は明治期にはじまるものなのかという小さな問いも残ります。つまり、川上神社の主祭神として瀬織津姫神を確定的に述べるには、同社氏子衆の内部伝承を知る必要がありそうです。
 上秋津小学校育友会が発行した『ふるさと上秋津──古老は語る』に、「川上神社物語」が収録されています。ここには、「河内の国野村の郷に住んでいた、野村久太夫好久」が、戦国時代、難を避けて、家族五人を連れて秋津の里に流れ住んだことが記され、「氏神さまが無ければ、心細いので、遠く、佐賀県佐賀郡川上村に祀られてあった、河上神社から分霊をいただいて、川中口にお祀りしたのが川上神社の始まり」と記されています。この分霊に瀬織津姫の名が記され、「瀬織津姫とは清らかな川の流れをききながら、毎日織物をつづけておられる尊いお姿の姫さまが想像されましょう」と、織姫としての瀬織津姫神が語られます。また、「秋津日子、秋津日女は秋津を拓いて下さった、遠いご先祖」と記されています。
「川上神社物語」には、昭和五十六年(一九八一)、川上神社の総代一行が、「元宮さん」(佐賀県の河上神社=與止日女神社)へ念願の挨拶の参詣をおこなったことも記されています。しかし、與止日女神社の神主の口からは、「このお宮さんは今から千四百年も前に建てられ、ご祭神は與止日女さまです。この方は神功皇后の妹さんで」云々、また、この神は「もともと国難をお救い下さった軍[いく]さの神様だったのですが、広く水の神様、農業の神様、なまずの神様として尊崇されて来ました」という話しか聞くことができなかったようで、「佐賀の河上神社に参拝して帰ってから、川上さんへお詣りして気付くことは、ご祭神が変ってあると言うことです」と、「元宮さん」との祭神のくいちがいによる戸惑いも書かれることになります。
 元宮の祭神の神徳は「軍さの神様」「水の神様」「農業の神様」「なまずの神様」とあり、境内案内によれば、このほか「海の神」「川の神」「厄除開運、交通安全の守護神」といった神徳もあるようです。これらは、瀬織津姫神の神徳としてみても矛盾するものは一つもありませんが、元宮はこの神の名をついに自らの口からは明かそうとしないようです。「川上神社物語」は、「しかし私達は今の織姫さまを信じて居ります」と、「元宮」はどうあれ、自分たちの信心の対象は「織姫さま」(瀬織津姫神)であることを断言していて、ある痛ましさを感じさせます。
 佐賀の河上神社=與止日女神社まで念願の参拝にうかがった一行に対して、釈然としない祭神説明に終始したこと(せざるをえなかったこと)に、日本の神まつりの歴史的いびつさがよく表れているようです。
 川上神社(写真1~7)の氏子総代さんのご厚意で社殿内に案内していただいて、三柱の中心に瀬織津姫神がまつられていること(写真4)、また、内陣の祠も速秋津日子(写真5)と速秋津日女(写真6)の真ん中で瀬織津姫神(拝殿内表示は「瀬織津比咩命」)のそれが別格に重視されていること(写真7)を確認できました。さらに、川上神社主祭神が瀬織津姫神であることを口頭でも確認しましたが、與止日女神と瀬織津姫神が「神神習合」していることを告げる川上神社の祭祀はとても重要です。
 ちなみに、瀬織津姫神の本地仏の一つとして十一面観音がみられますが(『円空と瀬織津姫』にて詳述)、このことは佐賀の河上神社=與止日女神社(写真8~15)においてもいえます。同社のすぐ北に実相院というお寺があります。実相院の由緒については、境内案内に、次のように記されています。

 河上山神通密寺実相院は真言宗御室派の寺院で寛治三年(一〇八九)河上(與止日女)神社社僧円尋が神宮寺(神社付属の寺院)を建立したのが神通密寺の始まりで河上神社の座主(寺社の法務を統轄する管主の公称)を務めました。
 神通密寺実相院は河上一山の代表寺院で、室町時代には最も有力な勢力をもち今日に至っています。
                      大和町教育委員会

 河上神社のかつての神宮寺・神通密寺は明治の神仏分離時に廃寺となるも、ここにまつられていた本地仏(十一面観音)が実相院に移されています(写真14・15)。
 川上神社の「元宮」である河上神社=與止日女神社の由緒も読んでおきます(『佐賀縣神社誌要』大正十五年、佐賀県神職会編集・発行、平成七年復刻、洋学堂書店発行)。

県社 河上神社  佐賀郡川上村大字川上
祭神 與止日女神  大明神
 一宮記に曰く。肥前国佐賀郡與止日女神八幡叔母神功皇后の妹なりと。肥前風土記に曰く、此川上に石神あり、世田姫海神と云ふ、年常(謂鰐魚)逆流潜上して、此神の所に到る、海底の小魚多く之に従ふ、其魚を畏るゝ者は殃[わざわい]なく、其魚を捕食する者は死す、此魚二三日を経て還て海に入ると。今風土記の説を按するに、本社より里程凡二十丁、川の東北に山あり梅の上と云ふ。此山の半腹に石神鎮座せり、神体は三面の大石にして高さ丈余二面は壁立し、一面は其上を蓋ふ。古来より土人石神と称して、十一月二十日に祭祀す、而して社伝には、與止日女神と称し、風土記に此川上に有石神名曰世田姫海神云云淀の訓、世止と世田と相通す此を以て考ふるに、石神世田姫を鎮祭せしものならん、神名帳、頭注に豊姫とあり。世田姫は蓋し豊玉姫命ならんか。欽明天皇二十五年甲申十一月朔日甲子肥前国佐賀郡與止日女神有鎮座一名豊姫神社神名帳注に貞観十五年九月十六日正五位下を授くとあり、又三代実録に正四位下を授けられたること見えたり、其後弘長元辛酉二月廿日正一位を授けられたり。延喜式内の社にして、大日本国鎮西肥前第一之鎮守宗廟正一位河上山淀姫大明神一宮との後陽成天皇の勅額あり。明治四年十二月県社に列せらる。大明神は合祀により追加。

 文中、風土記を引用した「此川上に石神あり、世田姫海神と云ふ、年常(謂鰐魚)逆流潜上して、此神の所に到る」は、正確には「此川上に石神あり、世田姫と云ふ、海神年常(謂鰐魚)逆流潜上して、此神の所に到る」で、海神(鰐魚)に通われる石神として「世田姫」という神がいたというのが『肥前国風土記』の記すところです。
 また、『佐賀縣神社誌要』からも読み取れますが、この「世田姫」については、『肥前国風土記』逸文から、いくつかの異称があったことを確認できます(日本古典文学大系『風土記』岩波書店)。

 風土記に曰はく、人皇卅代欽明天皇の廾五年、甲申のとし、冬十一月朔日、甲子のひ、肥前の国佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一[また]の名は豊姫、一の名は淀姫なり。(神名帳頭註)

 風土記時代、祭神に「神功皇后の妹」説はまったく登場してこないことが認められますが、それはおくとしても、世田姫は、與止姫、豊姫、淀姫、そして社名としてもみられる與止日女と、さまざまに表記されます。これら多くの異なる表記のなかで中心となる表記をいうなら、わたしは「豊姫」だろうとおもいます。その理由は、河上山は彦山(英彦山)の末山で、彦山信仰と深い関わりがあったこと(彦山信仰の肥前国における拠点寺院・徳善院の初代住持は実相院の修験大徳幸純…長野寛「彦山と佐賀徳善院」、田川郷土研究会『増補英彦山』葦書房、所収)、その彦山の地主神が豊比咩命であったからです。
 広渡正利『英彦山信仰史の研究』(文献出版)は「宇佐神、香春神、彦山神が古来密接な関係をもっていたこと」を指摘し、次のような認識を記しています。

宇佐・田川など豊前国の人々が、宇佐八幡と同躰の豊比咩命を産神としていたことは、彦山の地主神北山殿や香春宮の神躰が豊比咩命と伝えられていることに符合する。

 豊姫=豊比咩は豊日別神(豊日別国魂神)でもありますが、この神が「宇佐八幡と同躰」ということは、豊姫神が宇佐八幡の比売大神でもあることをいいます。紀伊国から肥前国、そして豊前国へと川上神(豊姫神)を辿ると、瀬織津姫神が宇佐八幡の比売大神(宗像大神と同体)であった可能性が、ここからもみえてきます。遠地の分社祭祀が本社の本来の祭神・祭祀を照らしだすことはときどきありますが、紀州・川上神社も、その好例の一社といえそうです(佐賀県郷土資料・写真:白龍)。

宝剣が結ぶ宇佐と早池峰

更新日:2009/8/31(月) 午後 0:30



 早池峰という霊峰は、今では東北地方の一名山といった程度に認識されるにすぎませんけれど、古代にまでさかのぼると、現代の感覚でおもうよりもはるかに「北の霊峰」であった痕跡があります。
 斉衡年中(八五四~八五七)、早池峰大神の祭祀を仏教的に改変したのは比叡山仏教(天台宗)によるところですが、この大神の祭祀の「宮寺」として創建されたのが妙泉寺でした。時代が下ると、つまり寛治年中(一〇八七~一〇九四)、初代奥州藤原氏・清衡の台頭の時代に、妙泉寺は天台宗から真言宗の寺へと変わります。
 延享元年(一七四四)に成る「早池峯山妙泉寺世代由緒書上」は、「当寺之霊宝」として、その筆頭に「陰光」という銘をもつ宝剣(神剣)を挙げています。

一 宝剣〔銘有陰光〕一腰
  当寺開祖奉納

 この宝剣は「当寺開祖」が奉納したものだとあります。「当寺」(妙泉寺)の「開祖」は、常識的に考えれば慈覚大師=円仁の名が浮かぶのですが、この「世代由緒書上」は、開山(一世)は普賢坊、二世は長円坊、三世は持福院とつづけています。
 開山(一世)の普賢坊は、来内村の四角藤蔵が早池峰山上で神霊を感得して、その祭祀に専従するために改名したものとされ、二世の長円坊については「普賢坊の長子兵庫。薙髪し長円と名を改め、遺跡を受く」と書かれています。早池峰祭祀の草創は、四角藤蔵父子によるものというのが「世代由緒書上」が記すところです。
 つづく三世の持福院については「円仁師の高弟なり。斉衡年中、当山の住職を受く」とされ、妙泉寺は実質的にはここからはじまります。このとき、二世の長円坊は、妙泉寺という「宮寺」の横で新山宮の「社人」となるわけですが、実際のところ、宝剣を奉納した「開祖」とはだれのことなのかははっきりしません。ただし、この「書上」は、普賢坊=四角藤蔵を妙泉寺の初代別当に据えていて、彼を、この宝剣の奉納者だと語りたがっているようにみえます。
 なお、四角藤蔵父子が普賢坊・長円坊という、いかにも仏教的な坊名を名乗るのは、当初からのことではありませんでした。「世代由緒書上」は、長円坊の項に「山号、寺号、院号、坊号、円仁士之[これ]を改む」と、「円仁士」の意図(あるいは命)によるものであったことを記していて、円仁が、早池峰大神の祭祀に深く干渉していたことがよく伝わってきます。
 ところで、『早池峰山妙泉寺文書』には、上記「書上」のほかに「早池峯山大権現御宝剣由来」も収められています。

太刀刀ニ鉄[カネ]ヲ加事神息ヨリ好ト云
筑紫鍛冶
【宝剣図…ツカ部分に「宇佐八幡宮神息」の銘】
神息 和銅之比 宇佐宮住兼銅細工云々
平城天皇第七宮御護刀ヲ作ル 其銘ニハ宇佐住八幡宮神息ト長銘ニ打モアリ 此鍛冶ハ竜神化現只人ニアラスト云 是ヲ以テ剣用トス 然ルニ神息ハ利剣ヲ作分太刀ト用也 宝剣ヲ作ツケテ刀ト云フ 此神息太刀ヲ作ル事九十九振ト云 此内八振ハ銘アリト云申
私之伝ニ曰
早池峯山大権現之御宝剣ハ 筑紫宇佐八幡宮神息細工スト云 陰分ニ細工成就スルカ放ニ銘ハ陰光ト打 前代未聞之宝剣也ト云申
右御宝剣妙不思議数度有之由 由来伝ル者也〔後略〕

 宇佐八幡宮の神息[しんそく]は社僧で、平安時代における実在が確認されていますが、引用の文書によれば和銅時代や大同時代(平城天皇時代)にもその名を伝えられているようですので、世襲の刀剣鍛冶であったのかもしれません。それにしても、神息について「此鍛冶ハ竜神化現只人ニアラス」といった伝承があったようで、そういえば、岩木山の刀剣名鍛冶・鬼神太夫が刀をこしらえる姿も「大きな竜が口から火を吹いて刀を打っていた」とされ、刀剣鍛冶は竜神と一体となってこそ名刀を鍛えることができたのかもしれません(竜神と岩木山神の関係については「岩木山の鬼神信仰」で詳述、『円空と瀬織津姫』上巻、所収)。
 なお、神息の宝剣は宇佐神宮宝物館にも展示されていて、何代めかはともかく、その神息銘の宝剣が「早池峯山大権現」(瀬織津姫神)に奉納されていたのは興味深いことです(早池峰の宝剣の現所蔵者は不明)。
 宇佐神宮の神息銘の宝剣は、同社社伝によれば「宇佐の御霊水で鍛えたと伝えられる名刀」とのことです。
 宇佐神宮神官氏に、この「宇佐の御霊水」とはどこの水かと質問してみたところ、それは、菱形池に湧出する霊水と伝わっているとのことです。菱形池は八幡大神出現ゆかりの霊池で、本社の三社殿の背後(社殿を拝む先)に菱形池が立地しているというのも、この池が八幡祭祀にとって重要な霊域であることを示しているようにみえます(池中の小島には「水分神社」の祭祀もみられます)。
 ところで、引用文中、神息銘とは別に「陰分ニ細工成就スル」とあります。神息は、この「細工成就」が成ると、そのとき(手放すとき?)わざわざ「陰光」と銘打ったようです。
「陰光」とは陽光(太陽光)とは対極の「月光」を意味していて、早池峰大神に奉納された宝剣は「陰光」(月光)と深く関係しているということなのかもしれません。
 宇佐神宮(宇佐八幡宮)の宝剣は「宇佐の御霊水で鍛えた」とされ、神息が鍛えた宝剣は、月神・水神の「霊」が憑依する神剣だったとみられます。宇佐氏が奉祭する比売大神こそ月神であると伝えられていたことはくりかえしませんが(本ブログ「隼人の乱と瀬織津姫神【Ⅴ】」)、神息と陰光(月光)と銘打たれた宝剣が「早池峯山大権現」(瀬織津姫神)に奉納されていたことから、この謎の奉納者は、瀬織津姫神と宇佐比売大神の秘められた関係をよく知っていた人物であったとはいえるようです。「陰光」(月光)の銘をもつ宝剣には、神息の比売大神(とその背後の神)に対する特別の思いが刻まれていたとみられます(菱形池と水分神社、撮影:白龍)。