野宮神社(岐阜県岐阜市近島829-1)

更新日:2009/3/21(土) 午後 3:35



 野宮神社(岐阜市近島829-1)の紹介です。
 野宮神社は、隣りの集落に鎮座する葛懸[かつらがけ]神社(縣大明神)の「禊祭り」のとき、集落の境界までですが、必ず挨拶をしにこられる社でもあります。葛懸神社(写真1~6)は美濃市の洲原神社(洲原白山神社)の分社といった古伝承もあり、野宮神社(祭神)は白山信仰とも縁があるようです(菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻)。
 さて、野宮神社という社名からまず想起されるのは、京都・嵯峨野に鎮座する野宮[ののみや]神社です。同社HPの説明を読んでみます。

野宮神社(京都市右京区嵯峨野宮町1)
祭神:野宮大神(天照皇大神)
 野宮はその昔、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。
 嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。その様子は源氏物語「賢木の巻」に美しく描写されています。
 野宮の場所は天皇の御即位毎に定められ、当社の場所が使用されたのは平安時代のはじめ嵯峨天皇皇女仁子内親王が最初とされています。斎王制度は後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱で廃絶しました。その後は神社として存続し、勅祭が執行されていましたが、時代の混乱の中で衰退していきました。
 そのため後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ、皇室からの御崇敬はまことに篤いものがありました。

 野宮は「天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところ」で、ここは禊ぎの霊神が本来の祭神とおもわれますが、同社は「野宮大神(天照皇大神)」と、微妙な表示をしているようです。
 岐阜の野宮神社(写真6~8)の由緒については、境内の石碑に刻まれていて、参詣者の多くは、この石碑文面を読む(読んで信じる)ことになりそうです。この由緒文が大きな問題を秘めていることは後述しますが、まずは、その全文を読んでみます(適宜句読点を補足して引用)。

野宮神社御縁起
野宮神社は壇林皇后(西暦七八六─八五〇)を主神とし、速開津比売神、瀬織津比売神、気吹戸主神、速佐須良比売神の四祭神を合祀し殖産興業の祖神として、また子弟の勉学を司る神として古くから崇敬を集めているお社であります。
主神の壇林皇后は贈太政大臣正一位橘清友公の御息女橘嘉智子姫で嵯峨天皇の皇后です。幼少より聡明寛和絶世の美人で仏教への信仰も篤く、京都嵯峨に壇林寺を建立繍文の袈裟を作りこれを僧慧萼に託し唐(現在の中国)の寺院に多数寄贈されている、また学館院と称する学校を創設する等教育面においても大きなご功績を残されました。又主君嵯峨天皇は桓武天皇第一皇子(第二皇子の誤記。第一皇子ならば平城天皇…引用者)にて経書史文詩の学者で今も学界で有名です。私達の祖先が縁あってこの地に壇林皇后を野宮神社の主神としてお迎えし御鎮座申し上げたのは天正元年(西暦一五七三)九月で、爾来今日まで代々守護神として崇拝して来ました。この地方の産業の興隆発展と子孫の繁栄は大神の広き厚き御神徳の然らしむる所で、この御神徳を心に刻み、尊き御神威を愈々宣揚せんと希うものであります。
  昭和六十年十月吉日

 野宮神社の主神は「壇林皇后」で、「速開津比売神、瀬織津比売神、気吹戸主神、速佐須良比売神」という祓戸四柱神を「合祀」したとされます。壇林皇后その人は開明的な女性で魅力的な存在ですが、そのことと野宮神社の主神として正統かどうかはまったく別の話です。
 長く氏子総代を務めてきた藤井氏のお話によりますと、合祀された神のほうが「氏神」で、現在の主神・壇林皇后(嵯峨天皇の皇后)こそが合祀されたとのことです。このくいちがいは何なのでしょう。
 藤井氏からいただいた「野宮神社のしおり」でも主神は壇林皇后とされていますが、そこには、「野宮(野々宮ともいう)神社は、藤井氏の氏神として建立された。藤井氏の先祖に深い縁故があった野々宮大明神(近江国)の御尊像を御神体として祭祀した」とあります。
 野宮神は「藤井氏の氏神」として祭祀されたのがはじまりです。「野宮神社のしおり」は藤井氏の系図も収録していて、それには、藤井氏の「先祖」は、藤原房前[ふささき](六八一~七三七)の第五男魚名[うおな](七二一~七八三)とあります。つまり、藤井氏はもともと藤原氏なのです。魚名の父・房前は、藤原不比等(六五九~七二〇)の次男にあたり、藤井氏は藤原氏直系の末裔ということになります。
 藤原魚名は、桓武朝廷の最初の左大臣に就任するも、延暦元年(七八二)、氷上川継[ひかみのかわつぐ]の謀反嫌疑に連座して在職一年で罷免、翌年には他界しており、藤原氏の影の経歴を負っている人物といえます。おそらくこのことが、藤井氏が当初「太田氏」といった変名を名乗った理由かとおもわれます。
 それはともかく、藤原氏の「氏神」をまつる神社といえば、いうまでもなく春日大社(奈良市)です。現在、春日大社の第一殿には武甕槌命、第二殿には経津主命、第三殿には天児屋根命、第四殿には比売神がまつられているわけですが、このうちの第四殿の比売神が、ここでも問題となってくるようです。この「比売神」が瀬織津姫神の変称化された神名であることはすでにふれてきました(長野県・神林神社の項、風琳堂HP「熊野大神の原像」)。
 藤井氏─藤原氏の「氏神」に相当する野宮神社祭神のなかに、祓戸四柱神の一神とされて影が薄くなってはいるものの、春日の比売神こと「瀬織津比売神」の名があります。
 野宮神社は「瀬織津比売神」(春日比売神)の単独神をまつるというのがはじまりだったとおもわれますが、しかし、野宮神社の元々の祭神は「壇林皇后」としているのが石碑由緒です。こういった石碑由緒がだれ(どこ)の主導によって刻まれたのかはともかく、かつての氏子総代家はまったく逆の「合祀」を主張していることを記しておきます。
 さて、「野宮神社のしおり」は、野宮神をどこから勧請してきたかについて、それは京都の野宮神社ではなく、「野々宮大明神(近江国)」としていました。
 近江国の「野々宮大明神」は、現・東近江市八日市金屋1-5-12に鎮座する野々宮神社のことです。こちらの由緒も読んでみます(滋賀県神社庁HP)。

野々宮神社
祭神:瓊々杵尊 大己貴命 少彦名神
延暦二年、野野子庄十三ヶ村の総社として、坂本日吉神社第六殿所祭の祭神三柱及び聖徳太子御自彫の子安延命地蔵尊を併祀した。当時蓮花寺、光林坊、正覚坊、団子坊、浄荘庵の五別当坊があったが、弘化元年の兵火によって焼失した。明治までは十禅寺大権現とも称した。天明四年の文書には本社十禅師とあり、末社として現在の境内社が記され九尺四方の釣鐘堂、地蔵(蓮花庵)があったとある。明治元年野々宮神社と改称した。明治九年村社に列し、明治四十二年神饌幣帛料供進指定となる。

 一読、ここで面喰らうのは、野宮神社の祭神と同じ神が野々宮神社には一柱もまつられていないということでしょうか。この露骨な異祭神表記は何なのでしょう。
 岐阜・野宮神(野々宮神)のルーツ探しをここで「不明」としてストップさせる手もあるのですが、しかし、近江国の野々宮神社の由緒は、祭神・由緒が大きく変更される明治期以前の貴重な祭祀伝承を記していました。
 曰く、野々宮神は、「坂本日吉神社第六殿所祭の祭神三柱」を勧請したもので、「明治までは十禅寺大権現」といわれ、「天明四年の文書には本社十禅師」といった記載もあるとのことです。
 野々宮神のさらなるルーツは「坂本日吉神社第六殿」にまでたどることが可能なようです。この「坂本日吉神社」は現在の日吉大社のことですが、その「第六殿」というのは、神仏混淆時代の「山王七社権現」の第六殿をいいます。
 この第六殿について、室町期の『神道集』(巻第三)には、「六ノ宮ハ十禅師権現ト名ク、本地ハ地蔵菩薩也」とあり、『仏像図彙』なる書には、「十禅師」の項に「桓武天皇御宇延暦二年降リ玉フ」、神名は「天ノ児屋根ノ尊」「春日大明神」、「本地地蔵」とあります(以上、本地垂迹資料便覧HP)。
 第六殿(六ノ宮)は、本地仏を地蔵菩薩とする「十禅師権現」がまつられていました。野々宮神社の由緒が「明治までは十禅寺大権現」「天明四年の文書には本社十禅師」と記していたことと正確に対応しています。また、藤井・藤原氏の氏神「春日大明神」の名もみられます。
 日吉山王社(日吉大社)の第六殿は、現在「樹下[じゅげ]神社」と呼ばれ、同社社殿は神泉の真上に建てられていることでよく知られます。この神泉の存在が象徴していますが、ここは井泉神(水神)の祭祀とみられます。
 この樹下神社の祭神は「鴨玉依姫命」とされ、「第六殿所祭の祭神三柱」とは整合しないものの、「鴨玉依姫命」と、ことさらに「鴨」を冠省していることから、この「第六殿」のさらなるルーツは、京都・賀茂御祖神社(下鴨神社の本殿)にあることがわかります。
 賀茂御祖神社(下鴨神社)は東西に本殿を構え、東本殿に玉依媛命、西本殿に賀茂建角身命(八咫烏)をまつっています。
 同社公式HPによれば、「玉依媛命は、『風土記』に御神威が伝えられている。婦道の守護神として縁結び、安産、育児等、また、水を司られる神として著しい御神徳を発揚せられている」とあります。風土記にみえる「御神威」とは、著名な「丹塗り矢伝説」をいいますが、それはおくとしても、下鴨神社(東本殿)も樹下神社も「水を司られる神」の神徳が共通しています。
 下鴨神社が古来、最重要な神事としてきたのが「樹下神事」でした(新潟県・長瀬神社の項を参照)。この神事を司る神は、本社祭神・玉依媛命ではなく、境内社・井上社(通称:御手洗社)の祭神「瀬織津比売命」とされます。井上社も御手洗川の水源(井泉)の上に鎮座していて、日吉大社の樹下神社と同系の祭祀がなされています。
 岐阜の野宮神のルーツをたどってきて、結果、賀茂御祖神社(下鴨神社)までたどってきて、ようやく野宮神社本来の祭神の名がみえてきたようです。もっとも、このルーツ探索からすれば、この神は下鴨神社本殿(東本殿)にまつられてしかるべきだとなりましょう。
 下鴨神社社家の家に生まれた鴨長明でしたが、彼が出家後、下鴨神社を訪れて詠んだ歌は印象的です(『鴨長明全集』風間書房、所収)。

    出家の後、かもにまゐりて、みたらしに手をあらふとて
  みぎの手もその面影もかはりぬる我をばしるやみたらしの神
    古へにあへりし事を忘れずば袖のなみだのかゝらましやは

 歌のひらがな部分を漢字に置き換えて記せば「右の手もその面影も変はりぬる我をば知るや御手洗の神」となります。この歌の解釈については、下鴨神社宮司・新木直人『神游の庭[かんあそびのゆにわ]』(経済界刊)は「右の手に数珠を掛け、僧衣僧髪姿に変わってしまったが、御手洗[みたらし]の神は、おわかりになるであろうか、という意味である」としています。
 鴨長明が下鴨神社を再訪したとき、自分が神徒ではなく仏徒に変わってしまった、そんな「面影」も変わりはてた自分を「おわかりになるであろうか」と問いかけた神が、下鴨神社本殿の神ではなく、境内の御手洗社(井上社)の神であったことは重要です。この長明の歌は、先の野宮神のルーツ探索と相俟って、本来の「賀茂御祖神」について示唆すること、すこぶる大きなものがあります。

高賀山滝大明神と円空【滝神社・補遺】

更新日:2009/3/18(水) 午後 8:22



 円空にとって高賀山での滝大明神(瀬織津姫神)との出会いは、この神を終生の信仰的伴侶とする大きなきっかけとなったのではないかとわたしなどは考えています。
 また、高賀山六社のうち、現在確認できるという条件でいっても、たとえば高賀神社や星宮神社には平安期の男女神像が所蔵されていて、円空の最初期の彫像(天照皇太神と阿賀田大権現という男女神像)に明らかに技法的な影響を与えているようです。彼はその後も天照皇太神像をいくつも彫ることになりますが、これらがすべて鬚をはやした男神像であることはよく知られるところです。
 円空は天照大神という神を明らかに男神と認識していたわけで、この男系・天照大神と一対となる女神(高賀山滝大明神と同神)の存在も当然ながら熟知していました。しかし、これらは神道世界においては秘神・秘祭化されることが歴史的な常態といってよく、それは高賀山信仰圈では「乙狩之社」を唯一の例外とするも、高賀山他社においてもいえます。
 円空にとって、信仰的故郷として高賀山があったことはまちがいありませんが、乙狩・滝神社の神のおかれた立場をおもえば、円空の心中、おだやかならざるものがあったと想像されます。
 高賀山の山域には円空の修行場がいくつもあります。たとえば、星宮神社近くの山中には、円空岩、円空洞と伝えられる、おそらく円空一人のための行場があります。
 円空岩の前は清流で、籠るときの水の確保は容易だったでしょう(写真1・2)。円空洞は、案内によれば(写真3)、洞の横には約十メートルほどの滝もあったようです。ここも水を得ることに不自由はなかったでしょう。わたしが円空洞を訪ねたときは、滝跡しか確認できませんでしたが(写真4)、円空のおもう滝神(高賀山滝大明神)は「心の声」とともにありましたから、この小さな滝にも自らの「心の神」を投影していただろうことはまちがいないものとおもいます。
 北ははるか蝦夷地(現在の北海道)にまで、円空は美濃国から彫像行脚をしていて、彼が彫る、特に十一面観音は、各地で秘神・秘祭化された山岳霊地の神、つまり「心の神」の鎮魂供養のおもいから彫られたものでした(円空の、この鎮魂供養を主眼とする全国行脚の旅の追跡は『円空と瀬織津姫』に譲ります)。
 円空は、幾度も高賀山へもどってはまた彫像の旅に出ることをしていました。そして、最晩年、すべての鎮魂供養をなした自覚のもと、「入定」の心準備のために千日籠ったのもやはり高賀山でした。円空の「旅」は、高賀山にはじまり高賀山におわるといっても過言ではありません。
 ところで、「滝の権現」(熊野の滝神)は、自分は高賀山に「幾世久しくわれありと知れ」という「御神歌」を残していました(美並町・熊野神社)。
 この「滝の権現」は、乙狩の滝神社においては「高賀山滝大明神」といわれ、悪魔祓いの弓矢の神といった性格が強調されていました。高賀山に、この神は「幾世久しくわれあり」でしたから、現在、たとえ瀬織津姫祭祀が高賀神社から表面上消えているとしても、そこには、この神の祭祀痕跡がなくてはなりません。
 高賀神社には、文化九年(一八一二)九月吉日の(改書の)日付をもつ「高賀宮記録」という由緒書があります。巻末には、「文治二年(一一八六)四月改書写」にはじまる書写の歴史が列記されていますが、そこには、次のように記されています(「高賀癒しの郷」HP)。

永正十四年六月二十三日夜大火で、蓮華峯寺、護摩堂、諸堂坊三ヶ寺悉く焼失。同年八月十五日弓矢神の祭りに立ち会ってこれを記す。

 永正十四年(一五一七)八月十五日という放生会の日に「弓矢神の祭り」がなされていたようです。また、文化九年九月吉日の項にも、次のようにあります。

この書は大般若経の中にあったので久しく見る人が無く、今年の八月中旬より弓矢のお祭りでこれを見れば、高賀宮の記録であった。神社伝来の宝物等を失った事を憂いて今般表紙箱を求めてお宮に奉納した。〔後略〕

 ここでは「八月中旬より弓矢のお祭り」とあります。江戸期までのことですが、高賀神社には「弓矢神の祭り」「弓矢のお祭り」が確認でき、「滝の権現」の「御神歌」(託宣)はどうやらでたらめではなかったようです。
「高賀宮記録」の内容から、この「弓矢神」の祭祀をさぐってみますと、次のような記述が眼にとまります。

若宮は、福部ケ岳へ降臨した神が、下津盤根の河原の辺りで弓を作って来るように言われ、この弓をご神体として、甲弓山鬼大王神、月弓の神、八幡大神ご本神として鎮座、この宮を高賀宮弓矢の神社と言う。天暦元年正月二十八日に遷宮。
高賀宮弓矢之神社 号高賀山若宮大明神

 乙狩の高賀山滝大明神(悪魔祓いの弓矢の神)は、「甲弓山鬼大王神、月弓の神、八幡大神ご本神」といくつもの名で記されるも、この神は「高賀山若宮大明神」と号され、「高賀宮弓矢之神社」にまつられているようです。
 それにしても「甲弓山鬼大王神」とは鬼神に対する最大級の讃辞を込めた神名でしょうし、「月弓の神」は月読神、つまり月神をいったものでしょう。また、この月神が「八幡大神ご本神」でもあったとしますと、この「ご本神」は宇佐神宮(宇佐八幡)の比売大神を表していることになります。
 熊野の「滝の権現」、つまり「高賀山滝大明神」こと瀬織津姫神は、宇佐(八幡)の比売大神でもあったことはすでに、これも秘伝史料(「鎌田家文書」)が伝えていることでした。また、宇佐の比売大神は月神であり宇佐氏の祖神であるとは、宇佐大宮司家の末裔・宇佐公康氏が語っていることでもありました(『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』木耳社)。
「高賀宮記録」は、弓矢神の名として瀬織津姫神の名を書き記すことはしていなかったものの(高賀山滝大明神としては記載)、神道世界、あるいは神道の裏世界にある程度通じている者にはわかるように、異称を列記するという仕掛けをしていたようです。
 甲弓山は高賀山の転かどうかはともかく、「鬼大王神」は、一方で鬼神でありながら、一方で悪魔祓いの弓矢神でもあるという両義性をもつ神とみられ、この両義性は、「粥川鵼[ぬえ]縁起神祗大事」において、すでに円空が把握・認識していることでした。
「甲弓山鬼大王神、月弓の神、八幡大神ご本神」つまり「高賀山若宮大明神」をまつるのが「高賀宮弓矢之神社」でしたが、では、この「弓矢之神社」は、いったい高賀神社内のどの社をいうのかという問いも浮かんできます。
「高賀宮記録」は、高賀山信仰の関係社を、以下のように列記しています。

高賀宮 高賀神社大本宮
高賀宮 高賀山若宮大明神
磐座社 高賀山峰児大明神
雲居社 高賀山地蔵嶽大明神
大平社 高賀山福部ヶ岳大明神(別所六ヶ所)
菅谷社 高賀山矢作大明神
乙狩社 高賀山滝大明神
形智社 高賀山蔵王大明神
粥川社 高賀山星宮大明神
藤谷社 高賀山本宮大明神
岩屋社 高賀山新宮大明神     末社百三十七社也

 高賀宮(高賀神社)は「高賀神社大本宮」と「高賀山若宮大明神」(高賀宮弓矢之神社)の二社で構成されていることがわかります。
 元禄九年(一六九六)の高賀神社の社殿図(洞戸村教育委員会『ほらど村の円空』所収)をみますと、向かって左の「八幡宮社」と右の「虚空蔵社」が並祭・一対の形式で大きく描かれています。『洞戸村史』は「神社本殿には御神体の男女神像二躯がある」と書いていましたが、同社案内には、この男女神像をまとめて「高賀権現」としています。並祭社殿は、この一対の男女神像に対応するものとみられます。
 江戸末期の「高賀宮記録」では、元禄時代の八幡宮社が高賀山若宮大明神へ、虚空蔵社が高賀神社大本宮へと表記変更され、つまり、神仏混淆を廃して神道化された表記に変更されていることがわかります。高賀山若宮大明神は「八幡大神ご本神」とも説明されていましたから、八幡神の祭祀は江戸期を通して継続していたこともわかります。
 現在の高賀神社をみますと、その本殿も実は二殿構成で、高賀山若宮大明神は、向かって左の社殿をいいます。「平安末の作」とされる「御神体の男女神像」が「高賀権現」とみなされていることに高賀山祭祀の本質はありますが、それを示唆するのは並祭社殿のみというのが現在の姿のようです。
 ただ、神仏習合時代における高賀山をみますと、本殿横には蓮華峯寺という別当寺があり(明治期に撤去)、案内によれば(写真5)、この寺は「行基作の大日如来を安置するための本地堂」だったとのことです。また、ここには「天暦元年(九四七)の銘が入った十一面観音」もまつられていました。乙狩神明宮の本地仏は大日如来、乙狩滝大明神のそれは十一面観音(と不動尊)でしたから、高賀神社にも同系の、つまり一対となる神々の祭祀があったとみることができそうです(写真6~9)。
 それはともかく、高賀山滝大明神(瀬織津姫神)は、その名を幾重にも伏せられてはいるものの、高賀神社本殿(右殿、向かってならば左の社殿)にまつられていることはたしかなようです。参道・社頭の鳥居とはちがって、本殿(二殿)前の鳥居がともに神宮と同形式の鳥居であるというのも示唆すること大きいといえましょう。
 ところで、瀬織津姫神は、かつては熊野本宮および那智・滝宮の神でもありました。神仏混淆時代は熊野三山・三所権現の「奥の院」、現在は「熊野奥宮」といわれているのが玉置神社です(奈良県吉野郡十津川村玉置川1)。
 熊野三山・三所権現のうち二山・二所に瀬織津姫神の祭祀がかつてあって、その「奥の院」「奥宮」と、この神の祭祀がまったく無縁とはとうてい考えられません。玉置神社の現祭神は、国常立尊ほか伊弉諾尊・伊弉冊尊・天照大神・神日本磐余彦尊とされますが、玉置神社には、その例大祭(十月二十四日)に奉納される「弓神楽」という特殊神事があります。これは祓いの神事でもありますが、この「弓神楽」で詠われる歌詞が、御神符(お札)に、次のように記されています。

  熊野成玉置宮弓神楽弦音須礼波悪广退散
  (熊野なる玉置の宮の弓神楽弦音[つるおと]すれば悪魔退散[しりぞ]く)

 歌詞中「熊野なる玉置の宮」は「大和なる玉置の宮」と詠われる場合もあるようですが、いずれにしても、高賀山乙狩の悪魔祓いの弓矢の神(高賀山滝大明神)は、熊野奥宮・玉置神社においては、弓神楽の奉納神事に詠まれる悪魔退散の弓神と過不足なく重なってきます。
 瀬織津姫神が神宮(伊勢)で秘祭神化されて千三百年ほどたちますが、この神についての理解は長く深い霧に閉ざされてきたものの、江戸時代初期、おそらく千年に一人ともいえる希代の深き理解者として円空が登場してきます。円空創作の縁起と歌が放った「神通し」の矢は、はるか熊野の奥宮にまで届いていたようです。

滝神社(岐阜県美濃市乙狩字クエクテ2218)【下】

更新日:2009/3/17(火) 午前 0:47



(つづき)
 円空は「粥川鵼[ぬえ]縁起神祗大事」の巻末で、高光に託宣した「不思議の神」、つまり「悪魔を払う」「神通の矢」をもつ「弓矢の神」が高賀三山(高賀山・瓢ヶ岳・今淵ヶ岳)に関わる神であることを、次のように明かしています。

  三つの御山(高賀三山)の其の中に
  南の岳(今淵ヶ岳)の遠近[おちこち]の
  重々[かさなる]雲に数々[しばしば]と
  刹那の内か谺[やまびこ]の
  弓矢の神か乙狩の
  残る草木は神弁[じんべん]の
  祝[いわい]留[とど]めて万代[よろずよ]に
  福部ヶ岳(瓢ヶ岳)に伝えたり
         応化薬叉御神鎮守再拝々々

 円空は、「不思議の神」は乙狩[おとがり]の「弓矢の神」かとしています。乙狩渓谷の最奥部(「南の岳(今淵ヶ岳)」の南)にあるのが、円空歌に詠まれてもいた「滝の宮」(滝神社)です。しかし、この社を、また権現滝(赤滝・乙狩滝)を訪ねても、そこに由緒も祭神の名も表示されているわけではありません。
 もし滝神社の由緒ほかをほんとうに知りたいならば、ここも基本的な文献探索が必要となります。各地の公共図書館は、こういった探索のためにこそ存在価値があるといっても過言ではありません。そこに、文献・資料探索に親身となって協力してくれる、いわばプロフェッショナルな図書館人が一人でもいてくれればベストですが……。
 さて、訪問しただけでは謎の滝神社ですが、ここには「此の書は甚だ大切なる巻なれば乙狩より他に一切出すことなかれ」と付記された、秘伝の縁起書「高賀山滝の洞乙狩神社由来」が伝えられていました。同縁起の「乙狩之社」の項には、次のような由緒・祭神が記されています(『美濃市史』所収、要約文に適宜読点を補って引用)。

乙狩之社
 高光公が岳に悪魔を求めて攻め入られた時、高山の八合目の処より黒雲をひきまわし暗夜の如き一つの岳を見て猿田彦尊、素盞嗚尊、大国主神、八百万之神をお祈りになり、墨の様な黒雲めがけて矢を放たれた。其の時坐られた岩を座具岩といい、弓を立てられた岩を弓立岩といい、そこを神矢洞引目仕という。
 高光公が黒雲の中に攻め入られると雲はだんだん晴れて遂に妖魔を追払うことが出来た。その夜、高光公の夢に此の洞の妖魔どもが滝の中より現われた神々に追い払われるのを、ありありと御覧になり、此の村に妖魔が重ねて住まないように奥口ともに社を建立された。

高賀山滝大明神 御神体 矢と剣
 祭神 水園象女[みなさめ]之尊、瀬織津比咩[せおりつひめ]尊、八百万神
高賀山乙狩神明宮
 国元谷戸の社は皇太神宮御鏡を御神体とし、其他須佐之男神社、天神社、新宮神明社をまつる。

 この「高賀山滝の洞乙狩神社由来」には、高光が「悪魔」「妖魔」退治の加護を祈ったのは神々であり、他社の縁起とちがって、八幡大菩薩も虚空蔵菩薩もまったく登場してきません。そして、けっきょく悪魔・妖魔を追い払ったのは「滝の中より現われた神々」だとされ、これらの神々は「高賀山滝大明神」の名のもとに「水園象女之尊、瀬織津比咩尊、八百万神」と表記されます。また、この高賀山滝大明神の御神体は「矢と剣」とされ、円空がこだわった乙狩の「弓矢の神」がここにリンクしてきます。
 高賀山滝大明神は「奥口ともに社を建立」の「奥」にまつられたわけですが、「口」(国元谷戸)にまつられたのが「高賀山乙狩神明宮」でした。
 この縁起書が「甚だ大切なる巻なれば乙狩より他に一切出すことなかれ」とされる理由は、おそらく二つあります。
「滝大明神」に相当する滝神は「水園象女之尊、瀬織津比咩尊、八百万神」と表示されるも、厳密には滝神は「瀬織津比咩尊」一神に限られます。高賀山六社のなかで、あるいは、美濃側の白山信仰圈に拡大してもよいのですが、自社由緒に、瀬織津姫神という伊勢(神宮祭祀)の秘神の名を書き残していた、唯一の社が乙狩・滝神社でした。
 これだけでもじゅうぶんに秘伝書たりえますが、縁起書はさらに、この滝大明神と一対の祭祀として「皇太神宮御鏡を御神体」とする「高賀山乙狩神明宮」をも記していたのでした。乙狩の「口」にまつられた神明宮は、はたして女神・天照大神(アマテラス)だったのでしょうか。
 現在、乙狩神明宮境内入口の鳥居はたしかに内宮仕様(神明鳥居)となっていますが、拝殿背後の本殿前の小さな鳥居はまったくちがいます(写真1)。ここには、内宮系の女神・天照大神(皇祖神)とは異質な、いわば国津神系・男系の天照大神の祭祀を表そうとした鳥居建立者がいたようです。
 乙狩の縁起書は、以上、神宮創祀以前の日本の神まつりにおける基本祭祀を告げる内容を含んでいたため「此の書は甚だ大切なる巻」と書かれたものとおもわれますし、このため、長く乙狩集落の内部にのみ伝えられてきたのでしょう。
 円空もまた、この秘伝の由緒書を眼にしていたことはじゅうぶんに考えられます。高賀山滝大明神と呼ばれる神をおもってこそ「文なれや予[ワガ]ことなさて滝の宮心のこゑヲ神かそと念」と詠われたのでした。
 円空は、自作縁起書の巻末を「応化薬叉御神鎮守再拝々々」と締めくくっていました。彼は「夜叉」(妖鬼・妖魔・妖怪)とも変ずる「御神」に向けて、「再拝々々」という深い敬意のことばを最後にしたためていました。
 熊野三山神の祭祀を含む高賀山六社でしたが、熊野三山祭祀のなかで、熊野本宮神もかつては瀬織津姫神でした(風琳堂HP「熊野大神の原像」参照)。滝神社と同時にまつられたはずの本宮神社は、それを語る自前の由緒をもっていませんでしたから、熊野・那智の滝神として瀬織津姫神の名を秘伝してきた滝神社の縁起書のもつ価値はことのほか大きいです。瀬織津姫という神を熊野の滝神として伝える静岡県・熊野神社(富士宮市上井出278)の祭祀も、もう一社だけの孤立祭祀ではなくなったようです。
 ところで、本宮神社も新宮神社も杉の巨木を抱えていましたが、熊野と杉の関係で注目すべき社、同じく高賀山信仰と深く関わる社が、郡上市美並町に鎮座する熊野神社です。新宮神社の杉は岐阜県指定の天然記念物に指定されていましたが、この熊野神社の大杉は国のそれに指定されているように、はるかに古木・巨木です(写真2、看板案内によれば「周囲九・五メートル樹齢は約一〇〇〇年」)。
 熊野神社(写真3・4)には、寛政二年(一七九〇)書写の日付をもつ「熊野大権現御縁起」という縁起書が伝えられています。同社は、応和元年(九六一)に熊野の比丘尼・俊応によって、熊野の「滝の権現」(那智の滝神)をまつったことにはじまり、この比丘尼の杖が育ったのが、「神の御杖杉」と呼ばれる巨木です(『美並村史』)。
「御縁起」の詳細は略しますが、ここにまつられた「滝の権現」による神官「盛弘に告給ふ御神歌」は貴重です。

  明[あさひ]指すこがの高根にあらハれて
    幾世久しくわれありと知れ
  神代より月さし渡す赤池の
    水のミきわに志るしてそおく

 ここで取り上げてみたいのは、前歌「明[あさひ]指すこがの高根にあらハれて幾世久しくわれありと知れ」という一首です。熊野の「滝の権現」は「こがの高根」つまり高賀山の頂に出現して幾世久しく自分はここにいると知れといった「神歌」です。
「明[あさひ]指す」ということばが高賀山にかかる枕詞のように使われているのは、藤原高光の鬼神退治後の歌「朝日さす高賀の山をかきはらいおとろになるも我が名わすれそ」にもみられます(星宮神社の縁起書)。
 熊野の「滝の権現」は、自分は高賀の高根に幾世久しくいる、高賀の高根には「われありと知れ」と熊野神社の神官に告げたのでした。現在、高賀神社の祭神に、この「滝の権現」(熊野の滝神)の祭祀を確認することはできませんが、高賀山には「滝の権現」がまつられていることを神自身のことば(神歌)として伝えていたのが、美並町・熊野神社です。現在、その当の熊野神社の祭祀においても、この「滝の権現」(那智の滝神)の祭祀は消えていて、現在にそれを伝えているのは、乙狩・滝神社の秘伝縁起のみで、滝神社(の氏子さん)が、よくこの秘伝縁起を公開したものと感心します。
 美並町・熊野神社には「高賀山服部ヶ岳由来」も伝えられていて(服部ヶ岳は瓢ヶ岳)、同社は高賀山六社ではないものの、高賀山信仰と縁深い社です。円空は、十一面観音や不動明王など多くの彫像を奉納してもいて、ここは円空とも特別にゆかり深い神社として知られます。
 さて、円空は自作縁起書で、乙狩の「弓矢の神」を記し、乙狩の滝神(高賀山滝大明神)をおもって意味深長な歌を残してもいました。
 星宮神社(写真5)には、「悪魔」を「神通」した弓矢を納めたとされる「矢納ヶ渕」「矢納ヶ滝」があります。ここには星宮神社奥宮「神明社」(写真6)が鎮座しているものの、鳥居の前は参道ではなく矢納ヶ滝で、この滝から社殿を拝するように鳥居が建立されていて、あるいは滝そのものを拝むように鳥居が建立されていて特異です(写真7)。
 なお、星宮神社には、次のような円空歌の石碑も建立されています(写真8)。

  引結ふ君か取矢の神ならは納る御世の花かとそ見る

 乙狩の「弓矢の神」(高賀山滝大明神)は、ここでは「君」「取矢の神」と詠まれ、円空は、この神を「納る御世の花」と讃えるように幻視しています。
 この石碑建立者も円空の「心の声」と「神」を、よくよく理解していたものとおもわれますが、円空の瀬織津姫という神に対する深い思いには、あらためておどろかされます。円空の信仰・思想はまだまだ無理解な雲霧の中にありますが、あるいは、円空をもっとも理解している神がもしいるとするなら、それは、この「取矢の神」をおいてほかにはいないともいえましょう。
 星宮神社では、円空は「神」ともみられているようで、ここには小さな祠ながらも「円空神社」が水神祭祀のようにまつられています(写真9)。粥川地区あるいは美並町の人々の、円空に寄せる尊意は格別のようです。相殿に、滝神社の神を勧請してきてまつったなら、円空もきっと喜ぶのでは、などといった妄想も湧いてきます。

滝神社(岐阜県美濃市乙狩字クエクテ2218)【上】

更新日:2009/3/15(日) 午後 3:21



 滝神社(美濃市乙狩字クエクテ2218)の紹介です。
 白山山系の南に高賀[こうか]山(一二二四㍍)という霊山があります。白山のお前立あるいは里山といった立地とみられますが、この山を中心に、高賀神社・本宮神社・新宮神社・星宮神社・金峰神社・滝神社の六社(「高賀山六社」)が配置されています(写真1)。
 滝神社を含む高賀山六社の創祀について、高賀神社境内の案内は、次のように説明しています(写真2)。

 霊亀年間(715~717)に夜な夜な怪しい光が出て当地の方向に飛んでいくのを都の人々が目撃し驚いた。そこで高賀山の麓に神壇を飾ったところ、この光が出現しなくなった。これが高賀山本神宮の始まりである。その後、牛に似た妖怪が住みつき、村人に被害を加えていたので、承平三年(933)に天皇の勅命を受けた藤原高光がこれを退治し、高賀山麓に神々を祀ったという。また、天暦年間(947~956)にも妖怪が出没し、再び藤原高光が退治した。この時、高賀神社、那比神宮〔新宮…引用者〕神社(八幡町)、那比本宮神社(八幡町)、星宮神社(美並村)、滝神社(美濃市)、金峰神社(美濃市)六社が祀られた。

 高賀山には霊亀時代(七一五~七一七)の「怪しい光」にはじまり、承平三年(九三三)と天暦年間(九四七~九五六)の二度にわたる「妖怪」退治があったとされます。「天皇の勅命」によって、この「妖怪」退治をしたのが藤原高光とのことです。
 藤原高光は、藤原北家の嫡流・師輔の八男で、生年は天慶二年(九三九)、没年は正暦五年(九九四)というのが通説です。高光は応和元年(九六一)、比叡山延暦寺横川にて出家したとされ、晩年は多武峰に草庵を結んだようです。『拾遺和歌集』に二二首の歌が収められていて、彼は三十六歌仙の一人としてよく知られます。
 高賀山における第一回の「妖怪」退治がなされた承平三年(九三三)には高光はまだ生まれていませんが、第二回の天暦年間(九四七~九五六)は、彼が出家する応和元年(九六一)の前にあたっています。
 この高賀山伝説が単純な「伝説」とはいえないらしいことは、高賀山六社がこぞって藤原高光の「妖怪」退治に自社由緒を結びつけて語っていることに表れています。滝神社を除く各社は、高光が高賀山の鬼神・妖魔を退治するにあたって、虚空蔵菩薩あるいは八幡大菩薩の加護のもとにそれをおこなったと語っています。
 ただし、この虚空蔵信仰が高賀山にはいってくるのは中世以降のことで、これは高賀神社の案内にも、以下のように記されています(写真2)。

 高賀神社・高賀山信仰は、現存する文化財から次のような歴史が言われています。平安時代末期には既に仏教道場として繁栄し、観音信仰があったと考えられ、また、鎌倉時代後期には虚空蔵菩薩信仰が導入され「高賀山修験」が成立したと言われている。また、鎌倉時代以降から明治時代の神仏分離までは、神道の神の姿をとらず、本地仏としての虚空蔵菩薩を主神としてきたとされ、岐阜県と石川県に跨る白山を中心とした白山信仰に見るように、人々の生活を守る神自然崇拝の神としてではなく、高賀山麓一帯の農耕に大切な水や雨を司る神の山として尊ぶその信仰がこの地に成立した。

 藤原高光と高賀山信仰(「高賀山麓一帯の農耕に大切な水や雨を司る神の山」としての信仰)を結びつけたのは「高賀山修験」の徒だったかもしれません。
 この「修験」の視点で高賀山六社をみてみますと、ここには、本宮神社、新宮神社、滝神社という熊野三山を擬した熊野修験の反映、また、金峰神社には吉野修験の影響もみられます。星宮神社近くには役小角をまつった社もありましたし、「高賀山修験」の実体は、吉野・熊野修験の系列にあるようです。
 高賀山における熊野本宮に相当する本宮神社(写真3・4)、熊野新宮に相当する新宮神社(写真5~7)は、いずれも本殿前に、二本の杉の巨木を鳥居のように配しているのが特徴です(本宮神社は拝殿前にもみられます)。
 残る熊野那智社に相当するのが滝神社(滝宮とも)ですが、正確には、滝神社(写真8)は、那智大社ではなく、その別宮(地主神をまつる)とされる滝宮に相当します。滝の規模は那智大滝には及ばないものの、滝そのものを御神体とする信仰に変わりがあるわけではありません。現在の滝名は「権現滝」といいますが、「赤滝」「乙狩滝」の異称もあります(写真9)。
 江戸時代初期の修験僧・円空は、この高賀山一帯で修行を積んでいました。彼は、この権現滝(赤滝・乙狩滝)の滝神をおもって、次のような意味深長な歌を残してもいました(長谷川公茂編『底本 円空歌集』一宮史談会、所収)。

  文なれや予[ワガ]ことなさて滝の宮心のこゑヲ神かそと念(歌番一一四一)
  (文[あや]なれや予[わが]ことなさで滝の宮心の声を神かぞと念[おもふ])

 円空は、自分のことはさておいて(「予[わが]ことなさで」)、「滝の宮」の「神」と自身の「心の声」を重ねているようです。円空にとって、この「滝の宮」の「神」こそが、終生の信仰的伴侶となります。
 ところで、円空が高賀山の妖怪・妖鬼・鬼神をどのようにみていたのかですが、これについては、彼のオリジナルの縁起書「粥川鵼[ぬえ]縁起神祗大事」(『美並村史』所収)が雄弁に語ってくれるようです(粥川は星宮神社の前を流れる川で、同社の別当寺・粥川寺がありました)。以下は、「妖鬼」がヌエと化した姿を描いたあとにつづく部分で、ここに藤原高光が登場してきます。

  是は不思儀[(ママ)]の物とかや
  時ならざるに雨霰[あられ]
  雪や氷としぐれして
  空も俄[にわか]にかきくもり
  人のまなこを暗くして
  国も豊かにならざらん
  五穀もさらに実[みの]らざる
  人の悩みも数しらず
  夜々[よなよな] 都に至りては
  内裏[だいり]の障[さわり]となり給う
  雲の上人[うえびと]おどろきて
  悪鬼退治の為にとて
  勝[すぐ]るる武士に射させよと
  高光既に下向[げこう]して
  天子の勅意[ちよくい]にまかせつつ
  雲の深山を分け登る
  不思議の神の現れて
  悪魔を払う蕪矢[かぶらや]の
  是神通の矢といいて
  弓矢の神の告げ給う
  妖鬼化生[けしよう]の物なれば
  深山の奥を知らざらん
  多くの深山に形[かげ]うつす

 円空の創作縁起の特色の一つは、「妖鬼」「悪鬼」「悪魔」と変じた「不思儀[(ママ)]の物」を退治しにきた(藤原)高光に対して、「不思議の神」「弓矢の神」が出現して託宣をする場面が挿入されていることです。円空は、この「不思議の神」に、「不思儀の物」は「妖鬼化生の物なれば/深山の奥を知らざらん」、だから「多くの深山に形うつす」のだと、妖鬼に変じた「不思儀の物」の弁護をさせています。
 円空が、こういった不思議な託宣をあえて縁起に記した理由は、おそらく「不思議の神」と「不思儀の物」は元は一つだという認識によっています。
 縁起に記されていた「不思議の神」、つまり「悪魔を払う」「神通の矢」をもつ「弓矢の神」とは何なのでしょう。
(つづく)

河濯神社(福井県吉田郡永平寺町松岡椚57-12 明神社境内)

更新日:2009/3/13(金) 午前 1:32



 河濯神社(吉田郡永平寺町松岡椚57-12 明神社境内)の紹介です。
 石川県の瀬織津姫社の祭神は「川濯御神」とも尊称されていました。「川濯」というのは川で濯ぐ(川で禊ぎする)といった意で、瀬織津姫神は禊ぎを司る霊神でもありました。
 明神社(写真1)の境内に鎮座する河濯神社(写真2、向かって右の社殿)の由緒を知るには、その分社である川上神社(福井市志比口町1-3-9、写真3)が参考になります。同社の由緒案内を読んでみます(写真4)。

川上神社の由来
御祭神  美都波能売命 瀬織都[ママ]姫命 大己貴命 伊弉册命
慶長年間(一六一〇年頃)結城秀康公越前の国へ御入部になり、芝原用水を定められた時、昔、白山の麓に奉斎されていた、美都波能売命と、大野郡女神川上流に鎮座ましました、瀬織都姫命の二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座し、その後慶應元年(一八六五年)此の水神の信徒壱萬より芝原用水郷の中央の志比口「現在の地」に御移転を願い、大己貴命と伊弉册命とを合祀して川上神社と称へ、芝原用水郷、福井城地の町家の浄水とし、水神の徳沢を崇敬しました。
   諸々のなり出るもとは水の神
     もらさてめくむ御祖なりける
昭和二十年七月の戦災、三十二年漸く再建、四十五年四月不慮の火災で焼失し、翌年四月神殿、拝殿、玉垣、再び建立しました。
  清川の川辺に立ちてつみとがを
    其の日其の日にかきながさばや

 川上神社の主祭神は「美都波能売命」と「瀬織都姫命」で、「美都波能売命」は「白山の麓に奉斎されていた」、また「瀬織都姫命」は「大野郡女神川上流に鎮座ましました」もので、慶長年間(一六一〇年頃)、この「二柱の神を芝原用水守護神として、この用水の上流松岡の地に遷座」したとあります。九頭竜川から芝原用水として取水するところが「松岡の地」で、ここにまつられていたのが「河濯神社」でした。この河濯神が、慶應元年(一八六五)に福井城下に「御移転」され、そこで大己貴命と伊弉册命を合祀して現在の川上神社となります。
 瀬織津姫神がもともと鎮座していた「女神[おながみ]川」の上流には「弁ヶ滝」があります。越前側の白山禅定道は、この女神川沿いを遡上する道筋となっていますので、ここに禊ぎを司る霊神(河濯神)として瀬織津姫神が鎮座していたということなのでしょう。
 また、白山禅頂道途中にある「小原峠」を越えた石川県側には、その名も「川上御前社」が鎮座しています(石川県白山市白峰)。「白山妙理大権現縁起」の禅定道七宿の項には、泰澄の夢の中に白山神が「天女」の姿となって現れ託宣する場面があります (上村俊邦『白山の三馬場禅定道』岩田書院、所収)。

 師(泰澄)この所に於いて一宿したまう。夢中に天女現じて曰く「吾ここにありて国中の水を守護す。中居の林中天然の横災起きるときは此処に移坐し、鎮まるときは彼こ[ママ]にまた還りて遊居す」と語りおえてうせたまう。
 大師驚き覚めて心静かに法施まいらす。幽谷の草木も奇異の色を顕わせり。是れを以て名となすと。後に大師一社を創建して河上大権現と崇め奉るなり。

 河上大権現(川上御前)、つまり白山の「天女」(白山比咩神)は、泰澄に「吾ここにありて国中の水を守護す」と夢告したといいます。「国中の水を守護す」とは、なんとも頼もしい託宣です。川上神社由緒にみられる奉納歌「諸々のなり出るもとは水の神もらさてめくむ御祖なりける」に詠われた「御祖」「水の神」は、白山比咩神のことと読んでもさしつかえないでしょう。
 一方、由緒には「清川の川辺に立ちてつみとがを其の日其の日にかきながさばや」と詠われてもいました。これは河濯神(禊ぎの霊神)としての瀬織津姫神を詠んだものとおもわれますが、この神と「美都波能売命」(白山比咩神)とが異神であったというわけではありません。白山比咩神もまた禊ぎの霊神であったことはすでに指摘されていることでした(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。
 さて、川上御前は、越前市大滝町では「越前和紙」の祖神(「紙祖神」)として、大滝神社本殿に岡太神の名でまつられています(写真5・6)。ここは大滝神の先行古祭祀がありましたが、境内案内によれば、大滝神社は「養老三年(七一九)、越の大徳と称せられた泰澄大師がこの地に来り、大徳山を開き、水分神[みくまりのかみ]であり、紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊と伊奘諾尊の二柱を主祭神とし」た、さらに泰澄は別当寺の大滝寺を創建、本地仏を十一面観音に定めたとされます。明治期まで、大滝神は「大滝兒大権現」とも「小白山大明神」とも称されていました。「小白山大明神」の小白山は、白山(別山)のことですが、ここも白山信仰のもとに祭祀が営まれていました。
 富山県・速川神社では、明治期、瀬織津姫は国常立尊と祭神変更され、石川県・瀬織津姫社では、伊奘諾尊の禊ぎによって生誕したとされる大禍津日神を瀬織津姫の「別称」としていたことも想起されるところですが、大滝神を「国常立尊と伊奘諾尊の二柱」というのはやはり無理があります。大滝神と紙祖神(岡太神)・川上御前が異神かのごとく表示されているのは、福井市・川上神社における「瀬織都姫命」と「美都波能売命」(水の御祖神、白山比咩神)の二神表示とよく似ています。
 泰澄は、大滝神の本地仏を「十一面観音」に定めたというのも示唆すること大きいです。なぜなら、白山比咩神の本地仏もまた十一面観音でしたから。
 養老元年(七一七)に白山を「開山」した泰澄でしたが、彼は、加賀の白山本宮(白山比咩神社)においては、「河濯命大権現像」を彫ってもいました。白山比咩神社の社域駐車場横には、伝・泰澄作の本尊を有する「河濯尊大権現堂」が、町の人々によって大切にまつられています(写真7・8)。お堂横の由緒案内を読んでみます。

河濯尊大権現堂之由来
当御本尊はむかしよりカハスソサマと称へられて難病を御済いくださると信ぜられ殊に下半身の諸病には御霊験あらたかにして祈願参拝の人又御礼詣りの人、日に日に盛んなり。伝説には泰澄大師御自作と謂と雖も往古より度々水火の難により大破損の為に信者之を大修繕を為す。〔中略〕元は神社地内白山参道脇の小祠に鎮座ましましたが明治の頃二回の火難の為に此の処に遷したてまつり現在に至る。遠近の敬信いよいよあつし。然れば病魔の苦しみある人は一たび御参拝なされて病魔退散の御利益をいただきなされ。ゆめゆめ疑う勿かれ。

 河濯尊大権現は、白山比咩神社(白山本宮)の社地内白山参道脇にまつられていたものの、「明治の頃二回の火難」にあい、そのために現在地へと遷座してきたとされます。また、「難病を御済いくださる」、「殊に下半身の諸病には御霊験あらたか」といった神徳も述べられています。河濯尊の「濯」つまり「そそ(すそ)」は「おそそ」にも通じるため、ついには「下[しも]」の病の神とみなされたものですが、この神徳は、各地の河濯尊(川濯神)の多くに共通して伝承されているようです。
 泰澄は、白山比咩神の本地仏(主尊)を十一面観音とする一方で、河濯尊(川濯神)をまつる(像を作る)ことをしてもいました。泰澄における、河濯尊(川濯神)、つまり瀬織津姫神に対する崇敬の気持ちが並々ならぬものであったことはほかにも事例があります(泰澄における白山の本源神に対する深いこだわりについての詳細は『円空と瀬織津姫』下巻に譲ります)。
 伝・泰澄作とされる河濯尊大権現像は、泰澄時代(奈良時代初期)のものではありませんが、しかし、人々が河濯尊(川濯神)をどうイメージしてきたかは、いくらかはその面影をしのぶことができそうです(写真9)。ここには禍々しい神(大禍津日神・八十禍津日神)といったイメージはなく、むしろ対極というべきイメージで、これは造像されているようです。一見女性地蔵尊ともみえる、このチャーミングな神像(本尊)は、やはり泰澄の抱くイメージでもあっただろうとおもいたいところです。