裏伊勢・高宮祭祀考──消えた北崎明神

更新日:2010/6/10(木) 午前 0:10

 脱「放生会」的に再構成された現在の秋季大祭ですが、この大祭の最後の神事は「高宮神奈備祭」と呼ばれているようです。『むなかたさま』は、次のように書いています。

高宮神奈備祭(十月三日)
「みあれ祭」でお迎えした宗像三神に、秋季大祭の無事斎行を感謝し、三神の神威の無窮を祈念して秋季大祭最終日の三日午後六時より、高宮祭場で行われます。このお祭りは約七百年前まで行われていた「八女[やおとめ]神事」を平成十七年に再現したものです。松明、提灯の明かりの中、宮司以下神職、巫女に氏子青年会員が参進して、祝詞奏上、神楽舞の奉奏そして静寂の中雅楽の調べが鳴り響き幽玄の世界そのものです。

 祝詞奏上・神楽舞・雅楽といった「幽玄の世界」に幻惑されかねませんが、神事の本質は「三神の神威の無窮を祈念」することにあると読めます。ここには、宗像三神の祭祀が定着・恒常化されたという認識があることはいうまでもありません。
 ところで、秋季大祭(みあれ祭)の最後の神事場として設定されているのは辺津宮本殿ではなく、高宮です。ここには宗像大社(辺津宮)祭祀の原点があるということなのでしょう。『むなかたさま』の説明を読んでみます。

高宮祭場
 辺津宮の後方には境内の森があります。昔からの樹相を今に残すものですが、森を抜けて進むと、一帯の右後方に木々に覆われた小高い丘があり、そこに神籬[ひもろぎ]・磐境[いわさか]の高宮祭場があります。しんと静まり返った森の中には、神さまを迎えてお祭りをする磐座[いわくら]が置かれ、神社にまだ御社殿というもののない時代、古代の宗像の祭りは、この磐座に神さまをお迎えして行われていた姿がそのままに残されています。
 ここはその昔、宗像の姫神が高天原から、降りてこられたところであるとも伝える古い祭場跡です。いまでもここでは、昔ながらの祭りが続けられています。まだ、神社が現在のような社殿の整った様式を整える以前から祭りの行われた神聖な場所です。

 高宮は「神聖な場所」である、それは、ここには「磐座」があり、ここは「その昔、宗像の姫神が高天原から、降りてこられたところ」だからだといった論法が読み取れます。ここで気づくのは、「その昔」、高宮(磐座)に降り立った「宗像の姫神」は三女神ではなかったということです。記紀神話や『先代旧事本紀』が辺津宮の神を三女神の一神としていることからそういえるというだけではありません。
 これは想像(イメージ)の世界の話ですが、秋季大祭(みあれ祭)で集合した三女神は、高宮の「磐座」に降り立った「その昔」の「宗像の姫神」の前に進み出ると、そこで神職関係者から「八女[やおとめ]神事」ほかの祝祭を受けているという光景が浮かびます。
 秋季大祭の最終神事が、辺津宮本殿ではなく高宮(磐座)で執行されることの語られぬ意味がここにはあります。高宮(磐座)は、三女神とかつての「宗像の姫神」との邂逅の場であることにおいて、その「神聖な場所」という定義をより深化させるといえます。
 ここで「その昔」にさかのぼってみます。
『宗像大菩薩御縁起』によれば、宗像大神(大菩薩)の託宣に、「吾は昔、五千九百余の従神を率ゐ、二千余万里の風浪を凌いで、異国の凶賊を征討した」とあります。ここにみられる「五千九百余」は修辞上の虚の数字かもしれませんが、そうであるにしても、津々浦々の神々を引率する神、つまり、神の中の神が宗像大神であるといった意識・認識が縁起の作者にあっただろうことは想像がつきます。ちなみに、平安期(九二七年)に成る『延喜式』神名帳は、全国の天神地祇三千百三十二座(二千八百六十一社)を収録していて、これら式内神の数よりも、宗像大神が率いる「従神」の数のほうがはるかに多いということになります。
 神々の盟主としての宗像大神を考えますと、もう一方の盟主であろう伊勢の天照大神はどういう位置づけになるかという問いも浮かびます。宗像大社(辺津宮)境内に掲げられた祭神説明板は、この伊勢・天照大神と自社祭神(宗像三女神)との関係に深くこだわっているようです。

御祭神について
当大社は天照大神の御子神
  田心姫神(沖津宮)
  湍津姫神(中津宮)
  市杵島姫神(辺津宮)
の三女神が、日本書紀に伝えられているように天孫降臨にさきだち天照大神の御神勅を奉じて鎮座されました。この九州北辺の要衝の地に三柱の女神が勅祭された意義はまことに尊く、道主貴[みちぬしのむち]の御別称が示すように国民道の祖神として歴代の皇室を守護され国家鎮護の御神徳を発揚され今日に至っております。また古くから皇祖天照大神をおまつりする伊勢神宮に対して裏伊勢とも称せられ皇室をはじめ国民の崇敬も厚いお社です。宗像大神をおまつりする神社は全国に六千余社ありますが、当大社はその総本宮であります。
                                   宗像大社々務所謹誌

 宗像三女神(田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神)は「天照大神の御子神」であり「道主貴[みちぬしのむち]の御別称が示すように国民道の祖神」だとあります。その上で皇室守護・国家鎮護の神徳が称揚され、「古くから皇祖天照大神をおまつりする伊勢神宮に対して裏伊勢とも称せられ」たとあります。
 丹後半島の籠神社をはじめ「元伊勢」を自称する社は全国に多くありますが、「裏伊勢」の呼称をもつのは宗像大社のみでしょう(もっとも清明界・陽を専らの建前とする伊勢の神宮祭祀と対極の幽冥界・陰の祭祀をつづける出雲大社は、これも別様の「裏伊勢」と呼ぶことは可能ですが)。
 出雲祭祀ほどの冥[くら]さはないにしても、伊勢(神宮)祭祀に対して「裏」の祭祀を本質とするのが宗像祭祀としますと、その「裏」の内容とはなにかということになります。
 宗像三女神が「天照大神の御子神」であるかぎり「裏伊勢」には相当しませんが、高宮に降り立った「その昔」の「宗像の姫神」を想像しますと、つまり、三女神背後(裏)の「姫神」に焦点を合わせますと、この神は天照大神背後(裏)の「姫神」でもあるという両祭祀に共通する秘祭構造が浮かび上がってきます。
 この構造を可視化するために社殿祭祀で語るならば、皇大神宮(内宮正殿)の背後(裏)に鎮座する荒祭宮を挙げることで、みえてくることが多々あります。天武・持統時代に皇大神宮(内宮正殿)が立ち上がる前は、現在の荒祭宮の祭祀地で、向かって左に荒祭宮、右に高宮がまつられていました。ここで誤解のないように添えておきたいのは、荒祭宮は最初からこういった社名ではなかったはずだということです。皇祖神をまつる社殿ができ、祭神も天照大神荒魂と変更規定されるのと連動するように、社名が荒祭宮となったと考えるのが自然です。
 では、荒祭宮の前の社名は何だったのかとなりますが、ここで参考となるのが、皇大神宮別宮とされ、並祭祀を今につづける瀧原宮・瀧原竝宮でしょうか(三重県度会郡大紀町滝原)。瀧原宮は天照大御神和御魂、瀧原竝宮は天照大御神荒御魂をまつるというのが現在の祭神表記ですが、この社名の命名法を、高宮と並んでまつられていた荒祭宮に応用しますと、「高竝宮」あるいは「高宮竝宮」とでもなりましょう。しかし、高宮が外宮のほうへ遷された(撤去された)時点で、「竝宮」(並宮の呼称)は成り立たなくなります。天照大神荒魂(天照大御神荒御魂)という神名規定とともに社名も変更がなされたものとおもいます。
 宗像祭祀の現在は、たとえば『むなかたさま』の記述を読むかぎり、高宮は一つしかないように書かれますが、厳密には、現在の高宮はかつての下高宮で、背後の宗像山頂上には上高宮があり、両高宮をもって高宮祭祀が営まれていました。『宗像神社史』の、次の記述は重要です。

 昭和三十年四月一日に整地して、現在のやうに下高宮祭場を磐座式祭場として整備したが、古代はとにかく鎌倉時代以降、ここに社殿が設けられ、江戸初期延宝三年に、辺津宮の諸社が、第一宮境内に整備されるまでの、下高宮の状況は、現状とは全く別であり、その向きも違つてゐる。〔中略〕下高宮も附属の北崎明神社も、共に旧参道の位置と里人の口碑とから推せば、西北に面してゐたとすべきである。これは第一宮・上高宮と同様の向きである。昭和三十年ここを整地する以前の写真を見ても、下高宮と北崎明神社との址だけは、神聖地として、一段高く壇をなして残されてゐた。双方ともその叢林・萱を伐つたり、ここに入り込んだりすると、祟りがあるとされてゐた。

 現在、「宗像大社の教科書」「バイブル」として編纂された『むなかたさま』は、こういった高宮の重要な履歴を無視・等閑視しています。社殿をもたぬ古代祭祀への悠久のロマンふうに語られる高宮祭場ですが、これは、戦後に整地・整備された人工的な祭祀空間だったようです。
 神社史は、現高宮祭場とは「全く別」であった当時(中世)の社殿配置の推定復元図を載せてもいます。それによると、向かって左に北崎明神社、右に下高宮が同格のごとく、並びまつられるように描かれています。「附属の北崎明神社」とは書かれるも、北崎明神社が単純な「附属」の社でないことがみえます。「下高宮と北崎明神社との址だけは、神聖地として、一段高く壇をなして残されてゐた。双方ともその叢林・萱を伐つたり、ここに入り込んだりすると、祟りがあるとされてゐた」という「里人の口碑」が語ることも、この北崎明神社の高宮祭祀上における特別の重要性を告げるものといえましょう。
 現高宮祭場が醸し出す古代ロマンの幻惑を除けてみつめなおしますと、そこは、かつての下高宮と北崎明神社の祭祀空間でした。ここで当然のごとくに浮かぶのは、「北崎明神とは何か」という問いです。
 神社史は中世(以前)の北崎明神の神名は不明とするも、江戸時代の延宝四年(一六七六)に成る「宗像宮末社神名帳」の記載を再録しています。そこには「北崎四所明神 玉柱屋姫命〔四神〕」と書かれ、「四所明神」の内実はおくとしても、筆頭祭神に「玉柱屋姫命」の名がみられます。この玉柱屋姫命については、これも皇大神宮の別宮とされる志摩市磯部町の伊雑宮祭神に関して、次のような指摘がすでになされています(『円空と瀬織津姫』下巻)。

 伊雑宮の御師・西岡家に伝わる文書には、中世以降に伊雑宮の祭神とされた「玉柱屋姫命」については「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれるも、同じ箇所には「瀬織津姫神天照大神分身在河」とあり、玉柱屋姫命(神)は「郷」に在るときの名、瀬織津姫神は「河」に在るときの名で、いずれも「天照大神分身」だという。つまり、玉柱屋姫と瀬織津姫は鎮座顕現する場による呼称のちがいにすぎず、両神は異称同体という認識が記されている。

 玉柱屋姫命(神)と瀬織津姫神が「異称同体」であることは、内宮の地でかつて高宮と並んでまつられていた「高宮竝宮」(仮称)こと荒祭宮の神とも「異称同体」ということになります。それが、宗像においては、高宮(下高宮)と並んでまつられていた北崎明神社にみられることは、これもなにごとかです。
 宗像大社(辺津宮)祭祀から消えた大宮司秘祭の貴船神、放生会における枢要の皐月神、そして北崎明神──。皇室守護・国家鎮護の神徳のもとに、あるいは宗像三女神という表層祭祀の背後(裏)で隠しまつりつづけてきた神に、共通して神宮祭祀の基層神が重なり、あるいは見え隠れしています。戦後における高宮祭場の新たな整地・整備は、北崎明神の祭祀消去において、古代祭祀のロマン幻想とは裏腹に、宗像本来の神に対する背徳の匂いを漂わせています。

HP掲示板「千時千一夜」の記録化へ

更新日:2010/6/7(月) 午前 1:37

 まだうまくなじんでいるとはいえないのですが、おもえば、わたしがインターネットの世界に足を踏み入れたのは2000年12月からで、このときはブログなるものもまだない時代でした。これは、同年10月に『エミシの国の女神』(サブタイトルは「早池峰─遠野郷の母神=瀬織津姫の物語」)という本を出版したことが大きな契機でした。一般によく認知されているとはいえない神様に関する本でしたから、読者とのコミュニケーションを図りながら、瀬織津姫という神の未発掘の祭祀情報の収集・公開やら、この神に対する考察を深化あるいは進化させることを読者と共有しようという目的で、掲示板「囲炉裏夜話」を立ち上げました。この掲示板は2004年1月まで公開(自由書き込み)形式でつづき、全812話(欠番を含む)の熱気ある意見のやりとりがありました。
 瀬織津姫という神は、全国に散在するように封印祭祀がみられますから、囲炉裏夜話に寄せられた数々の熱気あふれる意見は、ときに主宰者をたじたじとさせることもありました。瀬織津姫を「知りたい」「理解したい」というおもいが充満すると、その反動のような現象も呼び込むことになりますが、それも熱気のなせることでした。
 おそらく、わたし自身が一過性の意見交換に多少疲れてきたのかもしれません。自分一人の継続する思索を深めたい、あるいは、囲炉裏夜話の後半くらいからみえはじめてきた円空と瀬織津姫の「関係」への思索を新たに試みるというおもいもあって、囲炉裏夜話に終止符を打ち、新たに「千時千一夜」という掲示板を立ち上げたのが2004年1月のことでした(千時千一夜の第一話のタイトルは、図らずも「円空と瀬織津姫」で、円空と彼の信仰へのたどたどしい思索がどのようにはじまったかは、ここに刻印されています)。
 自分が技術的に対応可能だった掲示板世界は「文字」だけの世界で、参照用に画像を載せられたらいいなというおもいはときどきに抱いていました。そこで、新たにブログ世界にも足を突っ込むようになりますが、これは2009年2月のことです。しかし、掲示板とブログという「二足のわらじ」というのは案外やっかいで、二つのツールを適当に使い分ける、あるいは書き分ける器用さが自分にはないと悟る(?)ことにもなります。
 それでも、この「二足のわらじ」は一年余つづきました。しかしギブアップは時間の問題だったようで、2010年3月24日には、ブログ版「千時千一夜」への移行のお知らせをすることになります。
 この時点で、囲炉裏夜話の全話は、ホームページに「過去の記録」としてすでに載せてあり、千時千一夜の前半部の話も『円空と瀬織津姫』の出版を機に、「過去の記録」として載せてありました。
 3月24日の移行時点における掲示板「千時千一夜」の最終話は№611で(欠番を含む)、「過去の記録」の後半未整理分にしても意外にたまっていることが気になっていました。現在、3月24日の告知からすでに二月以上経ちましたから、移行の告知は徹底されたものと判断し、このたび、千時千一夜の後半部の話も「もくじ」化とともに「過去の記録」化することにしました。
 これら二つの「過去の記録」は全体を読み返すには膨大な量ですが、ここには、瀬織津姫という神と円空に関する思考・思索の全過程が刻まれているとはいえるはずです。また、いまおもえば、浅慮・誤認・言い過ぎ(?)もそのままに「記録」されていることとおもいます。
 人は「過去」を忘れることはできても消すことはできませんから、ならば、いつでも取り出せるように「過去」を可視化しておこうという主旨です。万が一(?)熱心な読者がいて、「お前、あのときはああいっていたじゃないか」などとグサッとやられる場面(とき)がくるかもしれません。都合のわるい「過去」は無かったことにしたり、あるいは秘密化したり、はたまた美化(嘘化)したりしてしまえば、日本あるいは神道世界の歴史と一緒になります。
 自分の性癖には、ほかにもいくつか小さな「こだわり」がありますが、「変わる」ときにはその過程(プロセス)を明らかにしておくことは大事だろうというのも、小さな「こだわり」の一つです。掲示板「囲炉裏夜話」「千時千一夜」からブログ版「千時千一夜」へといたる、継続読者がどれくらいいるのかはわかりませんが、今回は、その少数であろう読者への「お知らせ」ということになります。

(追伸)
 風琳堂電脳顧問のサコウさんによれば、掲示板「千時千一夜」の後半全文をHP内にデータ化したら、契約サーバがパンクしたとのことで、サーバ上の隠れファイルほかを削除したり、HP上の写真を小さくしたりしてどうにか入れ込んだとのことです。ただし、トジのカギ括弧」が《になるといった化け字が出ているとのことです。
 以上は、主人の電脳音痴の頭では理解も対処もはるかに超えることがらで、おおよそこういえば、今の読者ならば理解できるだろうとのことですので、そのまま補足しておきます(化け字問題は追っつけ修正されるようです)。
 ブログでもっともそうに記事をアップするのとは大違いの難解さが、従来のホームページ(http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/)にはあるようです。素人丸出しの話ですみません。

宗像放生会の現在──「長手神事」から「みあれ祭」へ

更新日:2010/6/1(火) 午後 3:23

 現在、放生会は、その仏教的匂いを避けるように、宇佐宮では「仲秋祭」、宗像宮では「秋季大祭」と呼称変更されています。『むなかたさま』の説明を読んでみます。

秋季大祭(十月一日~三日)
 古くから田島放生会と呼ばれ、国家の平穏、五穀の豊穣、海における大漁を祈り、感謝する祭りで、宗像大社の最も重要な例大祭の日でもあります。
 大祭にはまず、前日大島の中津宮に御移しした沖津宮の神さまと中津宮の神々の神璽[しんじ]を奉安した輦台[れんだい](神輿)をのせた御座船によりお迎えする神迎えが行われます。この神迎えの神事では、大島はじめ宗像七浦の漁船が総出でお供して、色とりどりの旗や幟で船を飾って約三〇〇隻の大船団で海上神幸しますが、この「みあれ祭り」は古く行われてきた御長手神事(長い竹に布を付したものを神のしるしとして、辺津宮に迎えた神事)を復興したもので、まことに壮観なもので全国有数の祭りです。

 放生会の本義であろう「放生」の核が語られることなく、沖ノ島と大島の神々が海上神幸して辺津宮に集合すること(「みあれ祭り」)に、大祭の重義が移っているように読めます。これは、脱放生会といえますが、「みあれ祭り」は「御長手神事」を復興したものとあります。この「長手」というのは、「長い竹に布を付したもの」で、それが「神のしるし」、つまり、神の依代とみなされているようです。
「御長手神事」の復興は昭和三十七年(一九六二)のことですが(『宗像神社史』)、同書は、かつての「御長手神事」がどのようなものであったかを復元するように、次のように書いています。

 この神事(みあれ祭り)は中世に行はれた長手神事を再興したものである。「長手」とは「長妙[ながたへ]で、長い布を竹の旗竿に附したものをいふ。沖ノ島から長い竹に布を附したものを宗像の神の象徴として辺津宮に迎へ、祭を営んだものである。この神事は、古くは辺津第一宮と、その附属の政所社と、その本社である息御嶋社(沖津宮)との三者の間で行はれたこと、またこの長手は沖津宮から第一宮に迎へ入れられ、その時期は、春(三月十五日・二十日)、夏(六月二十日)、秋(九月二十日)、冬(十二月十六日)の四回にわたつて行はれたことなど、すでに述べたところである。従つてこれを再興するとすれば、春夏秋冬の四季に、それぞれ行ふべきものであるが、江戸時代には夏四月と冬十月(後には十一月)の二回に変更された例にならひ、今回再興されたのは、秋一回とし、十月二日の秋季大祭(古儀の放生会)の前儀としてこれを行ふこととなつた。これを沖津宮から迎へる日を九月下旬に定められたのは、当社の例祭が十月二日なので、その十日前に、海上の都合を見て、沖津宮から神迎へすることにしたものである。またその祭儀の名称を「みあれ祭」としたのは、「神のみ生[あ]れ」、即ち宗像大神の御神威の一層の発現を祈求する意味に出たものである。

 かつての長手神事は、春夏秋冬の四季におこなわれ、それも「古くは辺津第一宮と、その附属の政所社と、その本社である息御嶋社(沖津宮)との三者の間で行はれた」とあります。その古態神事からいえるのは、辺津宮の第一宮(沖津宮と政所社)と沖ノ島の沖津宮(本社)との間でおこなわれていたもので、中津宮(第二宮)も辺津宮(第三宮)も、この神事には関与していなかったようです。
 それが、宗像三神一体の思想からなのでしょう、三神合一の神事として変更・復興されたために、旧称「長手神事」は新称「みあれ祭」となったものと読めます。
 ところで、この神事にみられる「長手」は「長妙[ながたへ]」という「長い布を竹の旗竿に附したもの」で、神事自体は「沖ノ島から長い竹に布を附したものを宗像の神の象徴として辺津宮に迎へ、祭を営んだ」とされます。ここで「宗像の神の象徴」、つまり、宗像大神の依代・神籬[ひもろぎ]とみなされているのが「長妙」(長い布)です。
 この「長妙」を語義とする「長手」ですが、『宗像大菩薩御縁起』では「手長」と倒語される例がみられ、しかし傍訓は「ナカテ」とあることが指摘されています(神社史)。いずれにしても、これが「長い布」であることに変わりなく、長手(手長)が「宗像の神の象徴」とされることは重要におもえます。
 神社史もいうところですが、この長手(手長)が具体的に描かれているのが、『宗像大菩薩御縁起』中の神功皇后による三韓征伐(新羅征討)譚です。神功皇后に同行した強石将軍(宗像大菩薩)は、武内大臣が織ったとされる「赤白二流の旗」を「御手長」(この場合は竹竿)に付け、船の前陣に捧げて進軍する様が描かれています。御縁起は、これから軍[いくさ]に旗をかざすことがはじまったとしています。
 以下、神社史の要約を借用します。

 次いで皇后(神功皇后)の勅命により、宗大臣〔強石将軍と同じく宗像大菩薩の化現〕が「御長手」を振下ろし給へば、藤大臣即ち高良大菩薩が乾珠を海に入れて潮を乾し、次に宗大臣が同じく「御手長」を振上げ給へば、藤大臣が満珠を乗入れて潮を満ち上らしめられる奇瑞を現はされたとある。

 この海潮の劇的干満の奇瑞によって新羅兵は水没し、新羅は降伏することになるわけですが、この乾珠満珠の働きは、「御手長」(旗竿)に付けられた「赤白二流の旗」の上げ下げに連動しています。
 ところで、古代海人族にとって、赤旗(幡)は太陽、白旗(幡)は月を象徴するものとみられていました(松前健『日本神話の新研究』)。この赤白の概念をここにあてはめますと、「赤白二流の旗」に憑依するのは、海人族が奉祭する日月神とみることができそうです。
 ここで想起されるのは、宗像祭祀の内部においては、宗像大神は長妙・長手(旗・幡)を依代とする神だというように伝承・認識されていたことです。「赤白二流の旗」を宗像大神の依代とみますと、ここでの宗像大神は、日神と月神の総称となります。しかし、記紀神話に依拠する宗像「三女神」祭祀ですから、赤旗(幡)を依代とする日神が露わに語られることはありません。
 宗像祭祀の小さな亀裂の痕跡を告げる「赤白二流の旗」といえそうですが、この亀裂イメージをさらに拡大してみることは可能です。それは、神功皇后の勅命によって、宗像大神が憑依する「赤白二流の旗」の上げ下げをしていたのは、ほかならぬ宗像大菩薩(宗大臣・強石将軍)だったということです。ここには、宗像大神と宗像大菩薩という至近の関係に、大きな亀裂があることがみえるのではないでしょうか。
 御縁起には、この亀裂をそのままに放置しておかなかったことも書かれています。神社史のいうところを読んでみます。

 次に凱旋後、その御旗に強石将軍と書付けさせたとある。当時旗には神名等の銘文を書くことの行はれてゐたことが知られる。

 宗像大神の「御旗」だったものが、「凱旋後」、強石将軍(宗像大菩薩)のそれに置き換わったことが書かれているといってよいでしょう。御縁起は、帰国後の強石将軍(宗像大菩薩)のさらなる不思議な行為も書きつけています。

 また凱旋の後、強石将軍は、白旗と赤旗とを筥崎の浜に立て置かれた。その跡を「赤旗の社」、「旗鉾之御堂」と称したが、その後、大神は「根本御影向之地、息御嶋」に「御長手」を立て置かれた。これ即ち「異国征伐ノ御旗杵(竿)」で、毎年絶えず、「三竹之瓶中」に増減なく、生長する不思議があるといふ。

 強石将軍(宗像大菩薩)が白旗と赤旗を立てたところが宗像の神湊ではなく「筥崎の浜」であるという小さな奇異はおくとしても、ここに「赤旗の社」「旗鉾之御堂」は書かれても、「白旗の社」の記載がないのは注意されるところです。白旗と赤旗は一対の神の依代だったはずですが、それを分離するように、「赤旗の社」「旗鉾之御堂」の神を「根本御影向之地、息御嶋」に移したもののようです。息御嶋(沖ノ島)の神は、三女神の一神という三神祭祀の規定を受けて女神化しますが、神仏混淆の思想において、この神の本地が大日如来とみなされることに、息御嶋(沖ノ島)における日神祭祀の残影をみることができるかもしれません。
 なお、沖ノ島で「三竹之瓶中」に増減なく生長する不思議について、神社史は「今も三竹の瓶中に増減なく生長するものといへば、その旗竿は竹で、沖ノ島に生長するところのものを、神威の憑りましとし、これが尊重され、且つこれを神籬[ひもろぎ]の如くに採り用ひたものである」と解説しています。「三竹の瓶中」の意が必ずしもクリアになったわけではありませんが、沖ノ島に生える「竹」が長妙(旗・幡)の旗竿となることは理解できるといえそうです。
 以上、『宗像大菩薩御縁起』の細部表現に少しこだわりすぎたかもしれませんが、「みあれ祭」の古儀としての「長手神事」が、神功皇后の新羅征討譚に、その神事の根源があったことはみえてきたとはいえましょう。
 その上でいえるのは、宗像大神も宗像大菩薩も、神功皇后の新羅征討譚を語る「正史」のどこにも登場することがなかったこと、にもかかわらず、宗像祭祀における最重儀である放生会にしても、また、その「前儀」とされる「みあれ祭」=「長手神事」にしても、皇后の新羅征討譚に関係づけて神事化がなされていたということです。これは、『宗像大菩薩御縁起』が成る中世以前にさかのぼる神事はなお不明であることを、暗に伝えているという「読み」を惹起させるものといってよいかもしれません。
 古代(三女神化される以前)の宗像祭祀には、日神を「神迎え」する神事があっただろう痕跡を留めているのが、中世に成る『宗像大菩薩御縁起』ということになりそうです。いいかえれば、この御縁起にキーワード的にみられる「赤白二流の旗」は、宗像祭祀にとっては本義の宗像大神、つまり宗像の「地神」二神を象徴するものであったともいえましょう。
 この「赤白」に着目するならば、たとえば、現代にまでつづく「大祓」の神事とも関連してくる可能性があります。『宗像大社』(宗像大社社務所)は、次のように書いています。

大祓(十二月三十一日)
 年の終りにあたり、諸々の罪・穢[けがれ]を祓い清めて清々しく新年を迎えるためのお祭り。赤白の紙の人形[ひとがた]に托して罪・穢を流しやる神事であります。

 旧暦六月晦日(現在は七月三十一日)におこなわれる「夏越の大祓」(かつての「和儺[なごし]祓」)でも同様に、大海へ人形を流す神事がおこなわれますが、この人形の「紙」がなぜ「赤白」なのかは考えさせるところです。
 六月晦日と年末の「大祓」の祝詞に登場する筆頭神は「瀬織津比咩といふ神」で、この神は神宮・宗像の元祭祀に深く関わる神でもあります。また、青森県八戸市の御前神社に伝わる秘歌「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」にみられるように、宗像祭祀(あるいは御縁起)ではついに語られぬ「白旗(白幡)の神」でもあります。
 しかし、宗像祭祀で、さらに深く語られぬ神(「お言わず」の神)こそ「赤旗(赤幡)の神」でしょう。神宮(内宮)の元祭祀に関わる荒祭宮の神ですが、この宮とかつて並祭されていたのが多賀宮(元は高宮)です。
 宗像大社(辺津宮)境内には、鄭重に設置された祭神案内板があります。ここには、「裏伊勢」ということばがみられますが、これは、宗像祭祀の最後の大いなる自己主張とも読めます。神宮の元神祭祀に関わる「高宮」(荒祭宮と一対の宮)と同名社を抱えるのが宗像辺津宮祭祀で、これなど、まさに「裏伊勢」に相当するものといえそうです。
 放生会から「みあれ祭」へと脱放生会の様相を示す「秋季大祭」ですが、しかし、その締めともいえる神事が、この高宮祭場でおこなわれます。

宇佐・宗像放生会と浮殿神──「重々秘訣」の神の沈黙

更新日:2010/5/26(水) 午前 9:19

『宗像郡誌』(上巻)は、明治期の神社明細帳を引いてのこととおもわれますが、筑前大島・津和瀬地区にある八幡神社の項を、次のように書いています。

一、祭神 宗像大神 応神天皇
一、由緒 不詳。例祭十月三十日

 津和瀬八幡神社の戦前までの社格は無格社で、その由緒は「不詳」とするも、筆頭祭神に、応神天皇ではなく宗像大神を記しています。一般の八幡祭祀からいいますと、この宗像大神の箇所は「比売大神」と記してもよかったはずですが、それをあえて「宗像大神」としたことは考えさせます。
 宇佐八幡祭祀の中核には比咩神(比売大神)があり、宗像祭祀は、その比咩神(比売大神)を宗像大神あるいは宗像三女神の名で特化した祭祀を展開しています。
 宇佐宮も宗像宮も共通の神を祭神としていて、両宮の親縁性は、たとえば同じ神事を最重儀としていることにも表れています。放生会です。
『宗像神社史』(下巻)は、次のように書いています。

放生会の文献に見えるはじめは、政事要略十二石清水宮放生会事の条に、旧記を引いて、奈良時代、隼人征伐に際し、隼人を多く殺した報謝の意味で行はれたとしてゐるものこれである。そして宇佐八幡宮にはじまり、次いで石清水八幡宮に移り、延いて全国の八幡宮に伝播したものといはれてゐる。
 これを当社放生会の由来の別伝に見ると、宗像大菩薩御縁起に、第一宮の御託宣に、「吾れ昔、五千九百余の従神を率ゐ、二千余万里の風浪を凌いで、御手長(旗竿)を振ひ、異国の凶賊を害した。是れ則ち国のため民のためといへ、若干の殺罪を犯すところである。よつて早く放生供養すべし。」とあつたことを伝へ、また第三宮の御託宣に「帰命満月海、浄妙瑠璃尊、薬能救衆生、因中十二願」とあつて、毎年欠かさず、大般若・金剛般若経等を模写し、八月十三・十四・十五の三日間、開題・講讃の梵序を展[の]べて、放生大会が行はれるのはこの故によるのであるとしてゐる。
 先の宇佐八幡系統の縁起が本会の始めを隼人征伐に掛け、当社ではこれを新羅征伐に掛けてゐる違はあるが、放生会を行ふ意味においては、両者とも殺罪報謝・供養のために行ふとあつて同一である。

 宇佐宮が、養老四年(七二〇)の隼人蜂起─征討を機に放生会をはじめるのは聖武天皇の奈良時代のことですが、宗像宮において放生会がはじまるのはいつからかということがあります。神社史は、「恐らく平安末期には、当社においても、これ(放生会)を採り入れて行つてゐたものと考へられる。特に鎌倉時代に入り、幕府の守護神として八幡信仰が隆盛になるや、当社大宮司もその御家人たるの一面から、この信仰をも併せ盛んならしめたと想像することは、あながち牽強のこととは言へないであらう」としています。
 平安時代末に、かつて神功皇后の新羅征討に随行し神助を垂れた宗像大神は、新羅人を殺生したことを悔いて、それで放生会をはじめたと読めるわけですが、ここには、大きな不思議を、少なくとも二つ指摘できます。一つは、これまでにも指摘してきたことですが、『古事記』『日本書紀』の神功皇后新羅征討の記述のどこにも宗像大神の存在はみられません。にもかかわらず、宗像大神は「新羅征伐」時、「若干の殺罪を犯すところである」と殺生の罪を悔いているとされる奇異さです。二つは、平安時代末という時代に、何百年も前の時代の殺生の罪を悔いて放生会をはじめるという、あまりに唐突といいますか、あまりにタイミングのずれた開始時期の奇異さです。
 こういった二つの不思議・奇異さが認められるにもかかわらず、このことは宗像祭祀の現在にまで不問に付されているようです。いや、不問どころか、「宗像大社の教科書」「バイブル」として新たに編纂された『むなかたさま』(宗像大社、平成十八年改訂版)の年表では、四世紀後半~六世紀のこととして、「神功皇后の新羅の役に、宗像大神、神助を加え給う」と、史実化されてもいます。
 宗像大神は八幡比咩神(比売大神)と同体でもあります。記紀の神功皇后新羅征討の記述に登場することがなかったのは、八幡神も同様でした。「神功皇后の新羅の役に、八幡比咩神(比売大神)、神助を加え給う」といった年表表現が宇佐八幡側にみられないのはいうまでもありません。しかし、「(六郷)満山之秘書也」とされる「六郷開山仁聞大菩薩本記」(嘉永六年書写を明治二十二年再書写、『国東町史』所収)における放生会の記述は、きわめて興味深いです。

 神亀元申子年秋八月放生会之御修行始ルナリ 八幡宣ク、我レ累世ニ折伏摂取ノ慈悲ヲ以テ世ヲ治ムレハ多ク生命ヲ殺ス。是ヲ救ン為ニ放生会ノ大法ヲ修セント思フ。昔吾前生ノ祖三韓征伐ノ時、乾珠満珠ノ二■(王に果)ヲ海中ニ投入玉ヱハ、螺蛤ヲクダキ魚鱗多ク焼ケ亡ブ。夷賊モ滅亡スルコト甚多シ。又今大隅日向ノ隼人等モ慮[ママ]ニテ悉ク海中ニ沈没ス。〔中略〕此等カ為ニ最勝王経流水品放生陀羅尼ヲ誦メ生天得脱ニ擬セント欲ス。和間ノ浜ニ頓宮ヲ建テ法会ヲ修行セシムヘシト。

 ここでの「八幡」は、隼人殺生のことばかりでなく、「前生ノ祖」の記憶として、「三韓征伐」(新羅征討)のときは「乾珠満珠」を海に投じたことで、夷賊ばかりでなく螺蛤・魚鱗といった魚介類まで殺してしまったと語られています。
 この「乾珠満珠」を海に投じるという「八幡」の姿は、『宗像大菩薩御縁起』においては、強石将軍(宗像大菩薩)の姿として書かれています。
 引用にみえる「八幡」は八幡大菩薩のことですが、いずれの縁起も仏教徒の作で、その荒唐無稽の創作仮構の奥には、語ることを封じられた「神」がいるといえます。八幡大菩薩と宗像大菩薩──、これらを神功皇后の新羅征討譚に結びつけて語るというのは、何を表しているのでしょう。
 放生会執行の場は、宗像においては五月浜の「浮殿」(のちの皐月神社)、宇佐においては和間ノ浜の「頓宮」とされます。宇佐の「頓宮」は、現在の和間神社「浮殿」ですが、八幡・宗像の両放生会が、ともに「浮殿」という特別ステージで執行されていたことには注目しないわけにいきません。
 なぜなら、宗像の皐月神社(浮殿)には、記紀における神功皇后の新羅征討譚に登場していた天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の異名をもつ瀬織津姫神がいたからです。宗像祭祀の関係書は、この神の存在を真正面から認めることはないでしょうが、宗像の二大神事(五月会・放生会)、それと六月晦日の和儺[なごし]祓は、いずれも皐月神社(浮殿)への「神幸」をもって成立するものだったことは重要です。
 宗像大神を比咩神(比売大神)の名で抱える八幡祭祀ですから、和間神社(浮殿)にも、同じ神がいるだろうと想像してもおかしくはないでしょう。



 しかし、宗像祭祀側が皐月神社(浮殿)の神を「宗像三神」と主張していたのと同じというべきか、境内案内は、和間神社(浮殿)の神を八幡大神・比売大神・神功皇后、つまり「八幡三神」としていて、いささか面喰らいます。由緒部分を読んでみます(適宜改行し、句読点を付して引用)。

 この地は神武天皇御東征の寄港地であり、また神功皇后の三韓征伐の軍船をつくられたなど宇佐と共に古い神蹟である。
 七一九年養老三年、南九州の隼人の乱をしずめるため、国司は宇佐神宮を奉じて軍をすゝめたが、強く反抗したので策をかまえ、人形が相撲をする舞を見せて亡した。この為に隼人の怨みがあらわれていろいろの病災があったので、勅命でこの慰霊の祭を放生会と称して行なわれることとなった。
 現今全国各地で秋に放生会をするが、七四三年天平十六年に宇佐神宮が古代から由緒ある神域和間の地で勅大祭が行なわれたのが、この祭り、また和間神社のおこりである。〔後略〕

 養老三年(正史は養老四年とする)の隼人の蜂起─征討が「宇佐神宮」の神助とともに語られています。この征討で殺された「隼人の怨み」は「病災」をもたらしたとあります。これは、殺された隼人(の霊)の祟りといえますが、その慰霊のために放生会が実施され、と同時に「古代から由緒ある神域和間の地」にまつられたのが和間神社とのことです。
 隼人の怨み→祟りは、豊前国の国司をはじめとする征討関係者を震撼させたのはいうまでもありませんが、その怨念・祟りは、国司に征討命令を出していた中央の朝廷をも震撼させたはずで、ゆえに「勅命」によって放生会が開始されたのでしょう。この放生会が「勅大祭」とも呼ばれる所以です。
 ところで、和間神社では古くから「御祓会」(夏越祓)もおこなわれていました(中野幡能『宇佐宮』)。この「御祓会」(夏越祓)は宗像での「和儺[なごし]祓」と同じ神事ですから、ここには、隼人の「慰霊」にふさわしい神威をもち、かつ、宗像の皐月神社(浮殿)と同じく、「祓」の神がいなくては道理が合いません。
 和間神社の境内案内(由緒)ではふれられていませんが、放生会のとき、同社浮殿に納められるものに「官幣大神」の異称をもつ宝鏡(銅鏡)があります。香春・採銅所で鋳造された宝鏡(銅鏡)が豊日別神社に一旦奉納されると、そこで鏡は「官幣大神」の依代となります。宇佐放生会の特色は、この大神依代の鏡の奉納神事も一緒におこなわれることです。
 銅鏡(官幣大神)を神輿に乗せ、和間神社(浮殿)に奉納しにやってくる豊日別神社(草場神社)ですが、同社には多くの文書が伝わっています(行橋市教育委員会『行橋市草場郷神社文書』に収録)。このなかに、成書時期は不明であるものの、「豊日別宮官幣太神伝記」という興味深い文書があります。



 豊日別神社の神輿が宇佐の凶士塚で八幡神輿と合流したあと、両社の神輿は一緒に和間浜の浮殿へ向かい、同殿で官幣大神の宝鏡が「日本最祖八幡大神」に奉呈されるのですが、この宝鏡の受け渡し時の「社務」の割注には「重々秘訣秡神祝口伝有」とあります。「秡神」は祓神のことですが、この受け渡し時のことは「重々秘訣」で、しかも祓神を祝[はふ]る口伝(あるいは祝[はふり]の口伝)があると書かれています。口伝の内容は分明でないものの、浮殿には「重々秘訣」の祓神がいることは、この文書によって証されるといってよいでしょう。
 宗像の浮殿(皐月神社)とは異なり、宇佐では浮殿(和間神社)祭神の正確な名を拾いだすのは困難です。しかし、「重々秘訣」の祓神に皐月神こと瀬織津姫神を重ねてみることに、つゆほどの矛盾もないといってよいでしょう。
 宗像祭祀も八幡祭祀も、ともに浮殿の神を自社祭神名でおおいかぶせるように表記するという共通性があり、しかし、そこには、同じ祓神が秘祭されていたようです。八幡祭祀には、豊日別大神とはなにかという問いもかぶさってきますが、宗像三神および八幡三神が「神幸」する(表敬の挨拶に出向く)浮殿に、たしかに「重々秘訣」であろう同じ神がみえることはなにごとかです。

峠にて──招かざる客とのある夜の問答

更新日:2010/5/23(日) 午後 6:39

客 君もよく知っているだろうブログ(「はてノ鹽竈」)で、最近、あるコメントをきっかけとした、瀬織津姫に関するマイナスのやりとりがなされている。君の名もついでに出てきたりしているが、どうおもっているんだい?

主 主宰者の今野氏はメールでなんどかやりとりをしたことがあり、義憤を表に出すというのは珍しいなとおもっていた。それと、論議の場を当該サイトから自分のところに移したというのは、彼の紳士性(騎士道精神)と真摯性がよく出ていたとおもう。

客 何を他人事みたいな。

主 たしかに。おもえば、瀬織津姫という神をめぐって、敵対する感情が交差するというのは今にはじまったことではない。ただ、その敵対の構図が、自分が体験してきたのとはずいぶんと様変わりしてきたなという印象は残った。自分の名が話題上出されて、持ち上げられたりこきおろされたりするというのは他でもあるだろうことで、特にコメントする気にはならない。

客 敵対の構図の変化について、もう少し説明しろ。

主 最近はだいぶ減ったが、わたしのところへ陰気にやってくるのは、ほとんどが反瀬織津姫派の輩だった。それが、今は瀬織津姫という神に親しい感情(シンパシー)をもっている者同士で敵対感情の構図がつくられようとしている。

客 反瀬織津姫派というのは、いわば広義の右翼ということか。

主 ああ、本人も自覚していないということを含めての「広義」ということだ。彼らは、この二十一世紀となった現在も、まだ歴史の舞台から退場したわけではない。しかし、この新しい敵対感情の構図では、それがまったく構図の外にあるという構図になっている。

客 君は反天皇制、つまり左翼だろうという噂を聞いたことがある。

主 またウワサか、馬鹿馬鹿しい。かつての左翼くずれだろう反右翼派もコンタクトをとってきたことがあるが、右翼・左翼といった単純な対立は、状況によって、いつでも入れ替わる補完性を秘めている。明治期、自由民権派が日清戦争を機に国権派に転じていき、なお民権派を自称していたことを想起してみよ。それを考えれば、しいていえばだが、左翼・天皇制・右翼など、みな超克すべきものだというのが自分の思想的・人生的ポジションだ。どんな「翼」だろうと、徒党を組んで新たなムラを再生させる気は一切ないから、今後のためにも明言しておく。

客 ところで、君は瀬織津姫研究に関して「第一人者」といわれたりしているようだ。先に、特にコメントする気にはならないといったが、こうみなされることをどうおもうか、あえて聞く。

主 権威じみた呼称はまったく意味がない。基本的にそうおもっている。

客 瀬織津姫という神は、中央側の文献では『延喜式』に収録されている「六月晦大祓」という日本最古の祝詞に登場してくるだけだろう。この文献に依拠するかぎり、瀬織津姫という神は、天皇の国家のために奉仕する「大祓」の神以上でも以下でもない。そのイメージで、なぜ君は終始しなかったのかも聞いてみたい。

主 各地の神社伝承・神道史料等を自分の手で洗い出してみればすぐにわかることだが、大祓の祝詞で規定されたこの神のイメージとは異なることを記した文献が各地には多々ある。そこには、まったく異なる瀬織津姫像がみられることになる。無難な中央思想側の規定像を盲目的に受容するか、各地に刻まれたこの神の新たな異像[イメージ]のどちらを信用するか。思考上、やはり岐路の選択を迫られることになる。自分は、後者を選択したにすぎない。

客 しかし、瀬織津姫というのは「神」だから、こういったみえない「もの」を語ろうとすると、どうしても「信仰」の感情がはいってくるのではないか。

主 それは否定できないが、自分は、自分の「信仰」対象として、この神を独善的に語ったことは一度もないつもりだ。

客 しかし、現在、瀬織津姫という神は、新興の「信仰」対象とみられている面は否定できまい。

主 そもそも「信仰」は「心」の問題と密接に関わっているから、この神を新たな信仰的対象として受容する傾向は、現代という時代と心の不安関係を考えるならば、この受容傾向は、ある種、必然の相としてあるだろうことは認める。

客 オウム真理教の発生と、その根がよく似ているのかもしれないな。

主 似てはいるが、現実として、社会に影響を及ぼすような巨大教団化には至っていないだろうし、麻原のような教祖的人物や、その取巻きで組織化する人間(オルガナイザー)もいるとはおもえない。

客 明確な教団化はみられないにしても、祖師的人物として二義的に信奉される人間はいるらしい。君も気をつけたほうがいいが、その祖師的人物を信奉する第三の人物による、瀬織津姫関連サイトへの意味不明・妄想に近い小コメントが、今回の論議の発端らしい。

主 そのサイトに寄せられたコメントの現物を見ていないので、「はてノ鹽竈」の論議過程のことばから想像するしかないが、そこで持ち上げられた祖師的人物は、すでに本の「著者」を演じてしまっているようだ。このことの意味は意外と大きいという気がする。

客 ウェブ上の表現と本の表現とに差異があるのか。

主 ある。ネット上の表現者は、最終的に「逃げ」が可能だからだ。しかし、本あるいは著者は、そうはいかない。賛否を含む公的批評・批判の対象となりうることを前提にしてこそ、出版は成立する。したがって、本の内容あるいは著者は、ネット上を含むあらゆる場で、好き嫌いから批評・批判、ときには揶揄・罵倒まで、どんな言説にも耐えるしかない。あるいは、必要に応じて反批判の論を展開するしかない。

客 もし、その著者が、自分の名を語った自らの信奉者による妄想コメントを知ったならば、どう対処すべきだろう。

主 著者は、その第三者(読者のはずだ)のコメントの存在を知ったならば、これに対して、自らの考えを率直に表明しておくのは必要だとおもう。自分ならばそうするだろうというしかないが、それをしておかないと、自分(の本)にとっても、また、その本のほかの読者に対しても、不要な負荷・不信を抱かせると考えるからだ。

客 それにしても、ネット世界に散見される誹謗・妄想的中傷の類が重なると、この世界に表現倫理・自粛の規定を設けよといった発想にもつながってゆくだろう。

主 もうすでに動きはあるだろうが、原則的にいえば、第三者の大きな力を頼みにするというのは、気に入らないな。今は、このネット世界が成熟する、オトナになる時間がもう少し必要ということなのだろう。せめて自分だけは浅慮(ガキ)の感情表現はしないことと言い聞かせておくしかない。

客 この世界は一見自由な分だけ、匿名が横行して新たなムラ社会があちこちにつくられている。

主 村はずれの峠からふりかえるような話だが、村八分の集団感情がどれほど陰気にはびこっているムラでも、ついなつかしくおもってしまう感情はくせ者だ。それに、峠の向こうにもまた別のムラがあるわけで、これは峠という境界に、ひとつの世界をつくるしかないのかもしれない。

客 瀬織津姫という神を思索の対象とみるか、あるいは新興的な信仰の対象とみるか、その境界もまた、もう一つの峠かもしれない。

主 招かざる客だが、たまにはいいことをいうじゃないか。日本の大学アカデミズムの世界も一種のムラで、瀬織津姫という神は、学究的な対象としてみると、まだまだ深い孤立をつづけているというのが現状だ。

客 しかし、この神はチマタでは流行(ブーム)になっているという……。

主 その流行によって、瀬織津姫という神の孤立イメージが多少とも解消されるというのはありえないようにおもう。この神には、まだ語られていない深い謎があって、現段階では、それが全体的に解明されたとはとてもいえないからだ。

客 もともと神は謎めいたものだといった一般論では片づかない類か。

主 ああ。たとえば金達寿のように、この神は新羅の姫神というとらえかたもある。新羅となぜ関係づけて語られるのかという一点を取り上げただけでも、容易に説明がつかないだろう。あるいは、この神(の名)の発生はいつのことかという問いを立ててみるがいい。

客 君が今考えていることのようだな。

主 おそらく大祓祝詞の神格規定と関わるはずだが、瀬織津姫という神は境界神、峠・関の神でもあった。

客 分水嶺にもいたし、海に降りれば海峡の神でもあった。川を遡行すれば水源神・滝神か。どうやら「水」全般に関わる神らしいというのは大きな魅力のようだな。

主 意外に理解しているじゃないか。

客 この神はムラ社会からはみえないところにいる、流行(ブーム)ではとても語り尽くせない神ということになりそうだな。

主 円空もまた、峠・境界の旅人といってよく、尾根づたいに歩いていく彼のイメージが浮かぶ。しかも、彼は独りよがりの孤高でも孤独でもなかったというところがいい。

客 円空は典型だが、あらゆる帰属からゆるやかに距離をおく心の態度だけが、今は共感・信用できるといったところか。

主 流行(ブーム)には馬耳東風、鈍感でいいということだ。新興的信仰とはまったく異次元の場所で、この神が長く大切にされてきたことは、少し虚心に、この神の祭祀場を訪ねてみれば、ときどきに出くわす信仰光景だろう。