伊豆・三嶋大社へ──生きている越智氏崇敬の神【Ⅲ】

更新日:2011/4/15(金) 午後 11:42

 かつて、桜川の中島、つまり、これも御島ですが、こういった島神祭祀は芸予諸島の津島や大三島、そして、淀川の川中島(神島)と、共通してみられるものです。
『三嶋大社』は「祭神」の項で、次のように記しています。

 大山祇[おおやまつみ]命、積羽八重事代主[つみはやえことしろぬし]神の二柱を奉斎し、三嶋大神と奉称している。
 大山祇命は、伊弉諾[いざなぎ]尊の御子神であり、山の神で林業、農産を始め殖産の神、衣食住の守護神であり、富士山の木花開耶姫[このはなさくやひめ]命の御父神でもある。
 積羽八重事代主神は、俗に恵比須様とも称えられ、魚漁航海の神、又商売繁昌の神としても崇められている。出雲の大国主[おおくにぬし]命の御子神である。
 三嶋大神とは、御島[みしま]の神の謂[いい]であり、上代富士火山帯に属する伊豆諸島地区(大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島等の七島が代表的に称されるが、小島嶼、岩礁まで数えると、百余りある。)の噴火、造島[ぞうとう]が盛んに行われ、これを神業[かみわざ]としたことは、国史以下にしばしばその記事を見ることが出来る。
〔中略…『日本書紀』ほか国史にみえる造島記事がはいる〕
 これ等の熾烈な噴火、造島を司祭せられる神として仰がれたのが三嶋大神である。
 以上の様に三嶋は御島[みしま]で、七島など神造[しんぞう]の島々を尊んで言ったものに外ならない。

 富士山神として木花開耶姫命が語られ出すのは江戸時代以降のことで、そういった祭祀経緯や百済からの渡来神であるという風土記の記述を伏せておいて、大山祇命は「伊弉諾尊の御子神」で「富士山の木花開耶姫命の御父神でもある」と、まことしやかに書かれています。
 三嶋大神が大山祇命と積羽八重事代主神を総称したものというのは苦しい説明といわねばなりませんが、「熾烈な噴火、造島を司祭せられる神として仰がれたのが三嶋大神である」というのはそのとおりでしょう。また、「三嶋は御島[みしま]で、七島など神造[しんぞう]の島々を尊んで言ったものに外ならない」というのも、まさに御島大神=三嶋大神を表徴しています。
 時代は下りますが、三島大社年表の正慶元年(一三二二)五月には、「花山院師賢、下総国に配流の途次三嶋大明神に参詣し献詠す」とあり、『櫻雲記』なる書が出典として挙げられています。『三嶋大社』からの孫引きとなりますが、『櫻雲記』所収の献上歌は興味深いです。

(正慶元年)五月、先帝(後醍醐)の近臣、或は殺され、或は流さる。師賢[もろかた](花山院)も下総千葉に配流す、(中略)伊豆の三嶋大明神に読みて奉納す
  ちぎり有[あり]て 今日は三嶋の 御手洗[みたらい]に
     憂影[うきかげ]うつす 墨染[すみぞめ]の袖

 南北朝の争乱で負け組となった、南朝方の臣・花山院師賢が出家して東国へ配流されたときの歌です。この歌は「三嶋大明神」に奉納されたものの、しかし「三嶋の御手洗」、つまり御手洗神(祓所大神)を二重写しにして詠まれています。師賢は、この神が、南朝が依拠した吉野の桜神の「憂影[うきかげ]」において、自身と重ねて詠んだとも読めます。
 桜川の小さな中島も「御島」で、ここにもう一つの御島大神=三嶋大神がまつられていたのでした。祓所神社の親称は「浦島さん」とあり、これは卜部たちがまつるゆえに浦島神社だったのでしょう。三嶋大社の一「境内末社」とされる祓所神社ですが、同社が単独に氏子を抱えていることもほかに例がそうあるものではなく、この社が、ただの祓所神社ではなかったことを雄弁に語っています。
 新参鎮座の三嶋大社にとって、瀬織津姫神がけっして軽視できない神であったことを告げる社がもう一社あります。三島市川原谷にある瀧川神社です。
『三嶋大社』は「三嶋大社社領調」として、神領地寄進・安堵の記録を載せています。その最初のところには、次のようにあります。

天長四年(八二七)二月十五日 三島一郷〔朝廷〕
治承四年(一一八〇)八月十九日 三薗郷、川原谷郷〔源頼朝〕

 記録の最初には、朝廷による「三島一郷」を神領地として寄進するとあります。この「三島一郷」が現在地のこととしますと、これは祓所神社の鎮座地を含む一帯ということになります。
 二番目は、源頼朝によって「三薗郷、川原谷郷」が神領地として寄進・安堵されたという記録ですが、ここにみえる「川原谷郷」は、現在の「三島市川原谷」に、その地名を継いでいます。
 川原谷地区は、三嶋大社から北東に二キロほどのところですが、瀧川神社の鎮座地には、箱根山系からの湧出水が滝となって流下し山田川に注いでいます。現在は、滝の中程にわさび田がつくられていて、滝の規模は小さくみえますが、もともとは相当の滝だったとおもわれます。滝前に設置された案内板を読んでみます。

瀧川神社
鎮座地 三島市川原谷七五五ノ一番地
御祭神 瀬織津姫神
例祭日 二月二十八日
由緒
 当社は、祓戸の神である「瀬織津姫命」をお祀りする神社であるが、その昔は民間信仰の場として瀧不動とも云われ、水の信仰を集め、同時に修験者の集まる禊[みそぎ]道場でもあった。
 三嶋大社でも祭典の前日に神職がこの瀧に入り禊をしたと伝えられる。
 この境内の立木全体に藤が繁茂し、その時期には境内全面藤の花が咲き参拝者の目を楽しませる。

 短い由緒文ではあるものの、瀬織津姫神が「水の信仰」と関わる神であることにふれていますし、さらに興味深いのは、「三嶋大社でも祭典の前日に神職がこの瀧に入り禊をした」といった貴重な伝承を記していることです。


▲瀧川神社─社頭


▲瀧川神社─由緒


▲瀧川神社─滝とわさび田


▲瀧川神社─社殿

 三嶋大社境内には祓所神社があり、桜川で禊ぎをしてもよさそうなものなのに、神職はわざわざ、この瀧川神社の地にまでやってきて禊ぎをしていたようです。滝に打たれて禊ぎをするというのは、禊ぎあるいは滝の霊神と対話するということでもありますから、三嶋大社神職の心中はいかばかりであったかと想像されもします。
 ところで、三嶋大社代々の神職の系譜について、『三嶋大社』は「祭祀の系譜」と題して、次のように述べています。
 三嶋大社の祭祀は、伊豆国造若建命[わかたけのみこと]より累代矢田部氏が主宰して、第七十代現宮司に至る。
 矢田部氏はその源を遠く物部連の祖、天御桙命[あめのみほこのみこと]に発し、第九代若建命、第十九代日下部直益人が伊豆国造に任ぜられた。〔中略〕
国造は専らその国の神を祭祀し、兼ねて民事を治める職掌であって、矢田部氏の先祖は遠く二〇〇年代の始めには既に、三嶋大社の祭祀を主宰し、第二十二代古麿が伊豆姓を名乗り、其の後国衙の少領、大領などの官人として祭祀に関わり、第三十代貫盛に至って三嶋神主となり祭祀を専らとし、康和五年(一一〇三)第三十三代神主伊豆国盛の三嶋宮司補任の庁宣も現存する。
 其の後、元禄年中(一六八八~一七〇三)第五十一代盛直が、矢田部姓に改めて今日に至った。

 現宮司の矢田部氏は、「その源を遠く物部連の祖、天御桙命[あめのみほこのみこと]に発し」とあります。物部氏同族ということでいえば、伊予国の越智氏とも同族ということになります。また、三嶋鴨神社の「略年譜」の最初には、古墳時代中期に仁徳天皇の創建を記し、つづけて「百済より大山祇神を迎えて摂津御島に淀川鎮守のやしろをつくる(唐崎のあたりにいた物部の韓国連が協力する)」とあり、ここでも物部氏の存在が記録されています。
 津島越智氏がまつっていた瀬織津姫神は、物部氏がまつる神でもあったわけで、それが三「三島」に共通してみられます。矢田部氏の祖として語られる「物部連の祖、天御桙命」は、わたしには「新羅系渡来集団の象徴」(金達寿)とされる天日桙(天之日矛)と重なってみえます。

伊豆・三嶋大社へ──生きている越智氏崇敬の神【Ⅱ】

更新日:2011/4/15(金) 午後 11:35

 オオヤマツミ(大山祇・大山積)神と瀬織津姫神──。前者をまつる三「三島」のうち二社に、その主神表示とは裏腹に瀬織津姫神(祭祀)の影が色濃く落ちているようです。三「三島」の残りの一社が伊豆・三嶋大社です。伊豆七島の三宅島から伊豆半島南端・下田の白浜神社(伊古奈比咩命姫神社)へ、そして中伊豆の広瀬神社を経て三島市の現在地へと遷座してきたと伝承されるも、同社発行『三嶋大社』自身、「此の地に御鎮座の時代は明らかではない」としています。
 遷座過程や時期、また、そもそもの本社は大三島なのか三島鴨神社なのかを自らのことばで語らない三嶋大社です。明治期初頭、祭神不確定のまま、「官幣大社」という最高位の社格を付与されたというのも奇異というしかありません。
 そのような不明性・謎をいくつも秘めた三嶋大社ですが、社が鎮座する三島市の現在地はどのような所なのでしょう。『三嶋大社』いうところを読んでみます。

 北に霊峰富士を仰ぎ、東から南に箱根、天城の連山を望み、西に駿河の海に程近く、国立公園伊豆温泉郷の表玄関口に当る三島の地は、清冽な泉が所々に湧き出でて、幾條かの清流が市街地を北より南に貫流する。気候温暖で緑豊かな三島市の中央に鬱蒼とした森に包まれ、千古の老木の現存する荘厳な神域三嶋大社は、史蹟、名石、名木等が点在し、境内の外苑部は春から椿、梅、桜、さつき等が次々に咲き誇り、夏は緑陰に、秋は紅葉にと、年間を通じて市民の良き憩の場でもあり、祈願に参詣に、観光にと賑[にぎわい]を呈する。
 此の地は古くより伊豆の国府で、その文化の中心地であった。
 平安の始め、富士山の噴火により、足柄路は廃され、新に箱根路が開かれると、東西交通の要衝として、然も箱根西麓に位置し、自然に当社の名声を世に著わすこととなった。

 三島市内を一度でも歩いたことのある人は、ここが「水の都」であることをだれもが認めるでしょう。広瀬神社がまつられる楽寿園の小浜池は枯渇していますが、ここを除けば、まさに「清冽な泉が所々に湧き出でて、幾條かの清流が市街地を北より南に貫流する」とあるとおりです。


▲白滝公園の湧水池(奥の祠は愛鷹山水神社)


▲桜川水源の湧水

 ところで、歴史的な視点で引用文を読みますと、「此の地は古くより伊豆の国府で、その文化の中心地であった」とあり、また「平安の始め」の箱根路の開設により「東西交通の要衝」の地となり、「自然に当社の名声を世に著わすこととなった」とあります。これだけをみますと、三嶋大社は、国府時代の古[いにしえ]から、ここに鎮座していたというように読めます。
 三嶋大社は、そのような印象で自社由緒を語りたがっていますが、現在地への鎮座時期は、それほど古いものではありませんでした。たとえば、李沂東『高天原は朝鮮か』は、次のように指摘しています。一部重複する長い引用となりますが、大事な指摘とおもわれますので、以下に読んでみます。

 三島神は伊豆白浜に上陸し鎮座したが、やがてその後、中伊豆の発展にともない、伊豆田方郡大仁町田京の広瀬神社のあたりへ勧請されて来て、ここに何百年か鎮座していたようである。大仁町田京の口碑によれば、「三島明神は牛の背に乗って移ってこられた」と伝承されており、広瀬神社には三島明神と最も関係の深い瀬織津比売が祭られている。伊豆白浜から三島神社がこの地に移って来て鎮座されていたことは事実で、次の文献でも明らかである。
 中伊豆の三島神社が文献に現われるのは『吾妻鏡』の治承四年(一一八〇)八月十七日の条であるが、それには、「北条殿が申されて云うには、今日は三神(島…引用者)明神の神事(祭り)である。郡参の輩下の向う間は、定めて衢[ちまた]に満つ。よって牛鍬大路を廻る者は通交違反者と為し、咎[とが]とされ[ママ]べく、之の間、蛭嶋[ひるがしま]をゆっくり行く可[べ]し」というおふれがあって、群衆が出るので、牛鍬大路を通らず、蛭嶋を行くようにと書かれていることである。蛭嶋とは現在の田方郡韮山町蛭ヶ小嶋のことで、ここに源頼朝は十八歳の時より流されていた。そして三十一歳の時この地で源氏再興の旗揚げをして、韮山の山木の平氏を討った頼朝は、三島明神の森に結集したわけであるが、蛭嶋と三島明神は近い距離にあったのである。ここから三島市までは一三キロあって、この当時はまだ現在の三島市には三島神社はなかったのである。
 ところが三島市史は、三島神社が古来から現在の地にあったとし、反対に『延喜式』でいう加茂郡(賀茂郡…引用者)の三島神社の所在地を三島市にある三島神社の飛地と見なしている。これは正論である県史やその他の書の説に頑固に反対するものといわなければならない。

 平安時代末の治承四年(一一八〇)の時点、「まだ現在の三島市には三島神社はなかった」という指摘です。『三嶋大社』巻末の年表には、文治三年(一一八七)のこととして、「頼朝、三嶋社、社殿を造営す」、翌年「頼朝、三嶋社に参詣す」とありますので、このあたりに三嶋社の現在地への遷座・遷宮を認めてよいのかもしれません。


▲三嶋大社─大鳥居


▲三嶋大社─舞殿


▲三嶋大社─拝殿


▲三嶋大社─本殿

 現在の三嶋大社の由緒がこれを認めていないことは、『三島市史』にも反映されているようです。延長五年(九二七)に成る『延喜式』神名帳には、伊豆国賀茂郡の伊豆三嶋神社(明神大、月次、新嘗)と記され、三島市のある現在地は田方郡にあたりますから、この賀茂郡の三嶋神社に対して、『市史』は「飛地」であるという説明をしているようです。
 三嶋大社年表の延長五年(九二七)前後の記述を書き出してみます。

貞観四年(八六二) 田方郡主政真宗従七位上に叙す。
貞観六年(八六四) 三嶋神に正四位上を授く。
元慶七年(八八三) 朝廷、旱災により、三嶋大神神勅を奉じて馬二匹、鋤二丁を献ず。
仁和三年(八八七) 伊豆国府、新生島図一張を献ず。
延長五年(九二七) 伊豆三嶋神社、明神大社に列し、月次、新嘗祭に案上の奠幣に預り、神料稲束二千束を奉らる。
永延二年(九八八) 田方郡大領厚正、外従七位上に叙す。

 年表には記されていませんが、貞観六年(八六四)には富士山の大噴火があり、同年に「三嶋神に正四位上を授く」とあります。朝廷側は、富士山の噴火と三嶋神を関係づけて認識していたのはありうることです。富士山には「祟り」をなす神がいて、それを三嶋神とみなしていたとしますと、図らずもですが、ここには三嶋神の本姿が垣間見える叙位といえます。
 それはおくとしても、延長五年時点の田方郡に三嶋神社の神職がいて、しかし、伊豆三嶋神社は賀茂郡にありました。賀茂郡というのは、伊豆半島の南部から伊豆七島を含む広大なもので、延長五年あるいは延喜時代、賀茂郡のどこに三嶋神社が鎮座していたかは不明です。
 そのことの推定をここでしたいのではなく、当時、伊豆国府のあった地には、現在の三嶋大社は存在せず、しかし、『三嶋大社』はすでに当地に存在していたと暗に主張し、『三島市史』にいたっては、賀茂郡の「飛地」に三嶋神社を擁していたとしています。
 延喜時代、現在の三島の地に三嶋神がすでにまつられていたとしますと、それはどのような神だったかという疑問が湧くのは必定です。この疑問に答えるのが、おそらく、現在、三嶋大社の「境内末社」とされている祓所[はらへど]神社の存在です。


▲祓所神社(浦島さん)

 祓所神社は三嶋大社西門のところにまつられています。現在は池の中島に鎮座していますが、この島は、かつては川(桜川)の中島でした。同社の案内板全文を読んでみます(句読点を補足して引用)。

三嶋大社境内末社
祓所[ハラヘド]神社(通称浦島さん)
 御祭神
瀬織津姫神
速秋津姫神
気吹戸主神
速佐須良姫神
 御由緒
 昔、桜川の清流が流れ込み島を迂回して見るからに清々しい所であった。
 国司の庁が此の島に祓所大神[ハラヘドノオオカミ]を鎮祭し、国司が三嶋大社参拝の折必らず国の卜部[ウラベ]をしてお祓いを行なわしめたのが祓所神社の起源であると伝えられている。
 以来、桜川は祓所川とも呼ばれ、又此の島の西側にその昔卜部が住んでいた所として裏町[ウラマチ]また祓所町[ハラヘドマチ]又宮川町[ミヤガワマチ]等と呼ばれて此の社の氏子区域となり祭典行事を行っている。
 御祭典
  六月三十日
  十二月三十一日
 御造営
 古い事は不明であるが、一遍聖絵(鎌倉時代)古絵図にも相当規模の御社殿の様子が知れる。
 最近に於いては、明治元年五月廿日、時の神主矢田部式部盛治が大社御社殿群と共に落成させ、昭和十一年七月八日内務省が復旧改築した。
 御本殿
  春日造り 四合四勺
 御拝殿
  入母屋造り 六坪
                  以上

 平安期以前の国府時代、「国司の庁が此の島に祓所大神[ハラヘドノオオカミ]を鎮祭」した、それが「祓所神社の起源」だとあります。祭神は大祓詞に準じて四柱神表示となっていますが、いつの時点で、このように四柱化したかはともかく、もともと祓戸大神というのは瀬織津姫神一柱をいいます。淀川上流は宇治川から瀬田川と名を変え琵琶湖に至りますが、瀬田川の桜谷で大祓詞の初期創作をしたと伝えるのが佐久奈度神社です。佐久奈度神社の分社は各地に散見されますが、瀬織津姫神は桜谷明神の異称をもっていましたし、この桜谷ゆかりの川名として「桜川」はあります。さらにいえば、神宮の異称は「桜宮」で、これは皇祖神背後にまつられる荒祭宮の神、つまり、天照大神荒魂と不明化された瀬織津姫神ゆかりの社号で、瀬織津姫神は桜神でもありましたから、それにちなむ「桜川」ともいえます。
 祓所神社は、「一遍(上人)聖絵」に「相当規模の御社殿」で描かれているとのことですが、伊豆・三嶋大社は、この桜谷明神こと瀬織津姫神がまつられる地に、あとから遷座・遷宮してきたということになります。
(つづく)

伊豆・三嶋大社へ──生きている越智氏崇敬の神【Ⅰ】

更新日:2011/4/15(金) 午後 11:25

 瀬戸内海芸予諸島・来島海峡の津島における越智氏がまつっていた瀬織津姫神と、大三島において、同じく越智氏がまつっていたオオヤマツミ(大山祇・大山積)神でした。両者に、どのような違いがあるかといえば、少なくとも、大三島の祭祀は「勅命」によるそれであったということが挙げられます。逆にいえば、津島の祭祀は、越智氏による自由意志に基づく神まつりであったといえそうです。
 伊予国の大三島にまつられる大山祇神社、摂津国の淀川(かつての川名は山背[やましろ]川)の中島(御島)にまつられていた三島神社(現在、右岸の高槻市に遷座祭祀がなされている三島鴨神社)、そして伊豆国の伊豆半島付け根の三島市にまつられている三嶋大社は、俗に三「三島」とまとめていわれます。
 三島鴨神社発行『三島鴨神社史』には、昭和三年に国に提出した「神社昇格願」の全文が資料として収録されています。ここには、自社祭神「大山祇命」がどうして当地にまつられたか、その動機が記されていて注意がいきます。

伊豆三島神社伊豫大山積神社摂津三島鴨神社此三社ハ御祭神同一神ニ坐マス則チ伊豫風土記ニ仁徳帝ノ時自百済帰来坐津国御島坐云々トアリ因テ推ルニ当神社創祀ノ年代不詳ナレトモ右ハ仁徳帝ノ御宇此神ヲ津国ニ奉祀セラレタルヲ謂ヘルモノニシテ此神此島ニ住マレ給ヒシニハ非ジ此御代ハ難波高津宮ニ遷都シ給ヒシ御代ナレバ其上流タル淀川ノ川中島タル此神島ニ奉祀シタルモノナルベシ蓋シ同帝ノ最モ叡慮ヲ垂レ給ヒシハ淀川ノ氾濫ニシテ浸水ハ帝都及ビ難波国ノ一大恐怖タリシナリ而シテ堤防守護ノ神トシテハ此大山祇神ニ越シタル神ハ坐サズサレバ此神ヲ淀川川中島ニ奉祀シタルニテ大水上ノ神ニ坐セバ河身奉祀ノ意義モ合理ニ坐セリ

 一般に流布する『伊予国風土記』(逸文)は、大山積神は百済からやってきて津(摂津)の御島にいると書かれています。しかし、「神社昇格願」の文章は、風土記の異本でもあって参照したものか、あるいは意図的な改竄なのかは分明ではありませんが、「自百済帰来坐津国御島坐」、つまり、百済よりやってきた(渡来した)のではなく「帰り来て」云々としています。おそらく、「神社昇格願」の作者は、自社祭神を百済よりの渡来神、つまり異国の神と認めたくなかったというのが実態なのでしょう。
 この渡来神問題はあらためてふれるとして、オオヤマツミ神は淀川の洪水鎮護・堤防守護の神であるという認識は肯定できます。そのようなオオヤマツミ神は「大水上ノ神」であるとも書かれているわけですが、「神社昇格願」の別の箇所では、その水神的神徳が、次のようにくりかえし強調されています。

(三島鴨神社祭神・大山祇命は)御一名ヲ大山積御祖神トモ崇メ又海上守護神トシテ御名ヲ和多志大神トモ草莱ノ開拓水利山林造酒等ノ御神徳ニヨリテ大水主神トモ大里神山神酒解神トモ申ス御名ノ多キハ語原ノ功業ト謂フ義ナルガ如ク全ク御神徳ノ極メテ偉大ナルニヨレリ

 ここで縷々記述されている「御神徳」の数々ですが、その主語を大山祇命から瀬織津姫神に変更したとしても、そのままあてはまるものばかりです。特に「大水上ノ神」「大水主神」といった水神的神徳についてはすでにふれたことがあります(「三嶋龍神という滝神──讃岐二宮・大水上神社を訪ねて」)。
 大三島や淀川の「神島」(川中島)で語られるオオヤマツミ神の神徳が瀬織津姫神のそれとなぜ二重写しとなるのかですが、それはおそらく、瀬織津姫神の元祭祀にオオヤマツミ神の新たな祭祀(勅命祭祀)がかぶっているからと理解するしかないようです。
 三島鴨神社の「神社昇格願」はけっきょく却下され、戦前は「郷社」のままでしたが、現在の『三島鴨神社史』はとてもリベラルな視点から新たに編纂されていて、好感がもてます。たとえば、こんな記述があります。

  玉江(三島江…引用者)の御島[みしま]に鎮座された大山祇神を日頃あがめまつっていたのは、淀川を舟でのぼりくだりした人たちでしょう。当時は淀川ではなくて山背[やましろ]川と呼んでいました。川をのぼりくだりした舟は、山崎をこえて、山背盆地の木津川、宇治川、桂川の流域に居住しはじめた渡来人たちではないでしょうか。秦氏の系統が多かったはずです。

 淀川の御島神は、この川をもっともよく利用していた秦氏の崇敬に関わっていただろうという推定は説得的です。では、この御島神を日々まつっていたのは秦氏かとなりますが、『三島鴨神社史』はそうではないとして、次のように書いています。

 さらに又、御島の神に毎日、ご奉仕する人たちがいたはずです。それは、朝廷に命じられて、大山祇神にご奉仕する神人[じにん]の役割りをもたされていた「玉江の主」ともいうべき一族です。

 三島神に奉仕していた「玉江の主」でもあった一族とは「三島王族」と呼ばれる人たちで、この一族については、次のように書かれています。

 玉江、玉川湖沼、安威川の流域は三島王族の根拠地でした。朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族は、当時の都や河内の朝廷をはじめとする大勢力が無視できないような大きな勢力をもっていました。それは「鴨族」とも呼ばれていました。

 玉川・安威川は淀川の神島=中州のところに北から注ぐ支流ですが、それらの流域一帯(溝杙のあたり)に三島王族なる一族がいたとのことです。
 三島鴨神社の主祭神は大山祇神と事代主神の二柱で、これは伊豆の三嶋大社と同様です。三島=御島神はオオヤマツミ神であるのに、どうしてここに事代主神が一緒にまつられているのか、また、社号になぜ「鴨」がついているのかは大きな謎なのですが、『三島鴨神社史』によれば、三島=御島神、つまりオオヤマツミ神の祭祀に奉仕するのは三島王族=鴨一族が朝廷から命じられたもので(「朝廷から山背川の中州の大山祇神のおやしろを護持せよと命じられた三島王族」)、三島王族=鴨族の祖神はオオヤマツミ神ではなく事代主神(言代主神)だったからだと説明しています。『神社史』は、「大山祇神につかえる神主でもあった三島王が、みずからが尊崇していた言代主神を、御島の大山祇神のおやしろにともにお祀りしたのは、自然なことだった」と結んでいます。
 淀川河口流域の鴨族と、淀川上流部支流の賀茂川流域に祭祀を展開する鴨族とがどういう関係にあるのかがいまひとつはっきりしませんが、淀川河口の御島神=オオヤマツミ神が、勅命祭祀によるものだということに端的に表れているように、三島王族によって親しく祭祀される神でなかったらしいことは伝わってきます。


▲三島鴨神社─社頭


▲三島鴨神社─拝殿

 オオヤマツミ神と瀬織津姫神が二重化された至近の関係にあるのは、三島鴨神社にもいえるのかどうかということですが、現在、三島鴨神社に瀬織津姫神の名をそのままに確認することはできません。しかし、「三島鴨神社由緒略記」には、末社の項に、次のように書かれています。

唐崎神社 大山祇神(三島鴨神社若宮)

 本社に大山祇神をまつり、若宮にも同じ神をまつるという表示は奇異というべきで、しかも、その若宮を「唐崎神社」と呼んでいます。社号の字面とは反対に、本社祭祀に対するに、その地の先住神を若宮や客人[まろうど]社などにまつる例はいくつもあり、ここもそうだとしますと、それがさらに唐崎神社と呼ばれていることはなにごとかです。
 京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の境内社・井上社(御手洗社)の神は、唐崎神の異称をもっていて、これは瀬織津姫神のことですし、淀川の水源である琵琶湖沿岸においても、この神を唐崎神としてまつる例は複数あります(高島市マキノ町の唐崎神社ほか)。
 三「三島」の一つ、大三島の大山祇神社においては、その境内合祭社(十七神社)のなかに「早瀬神社」の名でかろうじて瀬織津姫神の祭祀を残していましたが、三島鴨神社においては、現在、本殿に向かって右横に、「末社」レベル以上の社殿で唐崎神社をまつっています。


▲唐崎神社

 三島鴨神社において、唐崎神を瀬織津姫神と伝える資料はないとのことですが、しかし、若宮神=唐崎神を大山祇神としていることは、重要な暗号表示と理解できます。
 金達寿『日本の中の朝鮮文化』全十二巻を通読していますと、ときに、瀬織津姫神に関する資料が引用されていて、おもわぬ発見をすることがあります。第六巻は「丹波・但馬・播磨・吉備ほか」と副題された巻ですが、ここには、延喜の時代、備後国御調[みつぎ]郡にまつられていた「加羅加波神社」について、『藝藩通志』の次のような箇所が引用されています。

 山中村の内、加羅加波谷というにあり。延喜式神名、御調郡一座、加羅加波神社とある、是なり。太玉命、瀬織津比咩命、天鈿女命を祭るといえり。或は大山祇社のことを祭るといえれど、恐らくは誤[あやまり]ならん。今或は加羅加波大王と称す。〔後略〕

 加羅加波神社とはいかにも渡来系の社号ですが、『藝藩通志』は文政八年(一八二五)に成る、安芸国広島藩の地誌です。本書の著者は「或は大山祇社のことを祭るといえれど、恐らくは誤ならん」と適当に推測していますが、ここにまつられる三柱神のなかで「大山祇社」に関わる神は「瀬織津比咩命」のみです。
(つづく)

毎日新聞「余録」──名指しの「神頼み」を読む

更新日:2011/4/8(金) 午前 0:15


▲毎日新聞「余録」【20110406】

 2011年4月6日付『毎日新聞』朝刊の一面コラム「余録」に、福島の原発事故とからめて瀬織津姫の名が、次のように登場しています。

 神社で唱えられる大祓詞[おおはらえのことば]という祝詞には瀬織津姫[せおりつひめ]という神が登場する。この神は流れの速い川の瀬にいる。そして神々が遠い山の上から川に流す人の世の罪やけがれなどの禍事[まがごと]を大海原まで運ぶのだという。では海でその禍事はどうなるのか▲潮流の渦巻く海原には別の神がいて、それらを受け取ってのみ込んでしまう。罪やけがれはさらに別の神々がリレーのように引き継ぎ、海底から根の国──つまりあの世へ送り込まれて消滅する。人の世の禍事は川に流せば神々が異界へと運び去ってくれたのである▲生命の母なる海に囲まれ、豊かな水で潤される列島に暮らしてきた日本人だ。汚れた水も海に流して浄化してきたのだが、今度ばかりはそのご先祖も顔をしかめよう。福島第一原発事故での放射性汚染水の海洋流出である▲高レベルの放射性汚染水の漏出が続く原発では、その保管先を確保するために施設内の大量の低レベル汚染水が海へと放出された。高レベルの汚染水を施設内部にとどめ、原子炉の安定化作業を前進させるためにはやむをえない選択だったと東京電力は説明している▲なお続く高レベル汚染水漏出に対しても漏出部への止水材投入や、拡散防止のためのフェンス設置などあの手この手の対応が続く。専門家は今のところ海産物による健康被害のおそれはないというが、茨城県の漁協は放射性物質が検出されたコウナゴの漁を中止した▲人が流すさまざまな禍事を海へ運んできた瀬織津姫も放射能ばかりはごめんだろう。ここはどうか人の繰り出す処理策への加勢と、高レベル放射線を浴びる現場作業員への加護をお願いしたい。2011・4・6

 地震→津波、そして福島における原発事故、さらに放射能恐怖による風評被害と、被災が幾重もの層をなし、かつ波紋のように拡がっています。
 引用のコラムは、ともかく原発事故の収束をという気持ちで書かれたものでしょうが、それにしても、予期せぬ文脈で瀬織津姫という神の名が記されています。
 大祓詞には、「瀬織津比咩神」のほかに、「速開都比咩[はやあきつひめ]神」、「気吹戸主[いぶきどぬし]神」、「速佐須良比咩[はやさすらひめ]神」といった神々が登場してきます。コラムの筆者は瀬織津姫の名を記すのみで、あとの三柱神については「別の神」「別の神々」としています。
 筆者は末尾で、瀬織津姫神に対して、「禍事」を海へ流すといった役割を超えるものとして、「ここはどうか人の繰り出す処理策への加勢と、高レベル放射線を浴びる現場作業員への加護をお願いしたい」と結んでいます。こういった「加護」を願われる神という性格は、大祓詞にはみられないもので、コラム筆者はそれなりに瀬織津姫という神を理解しているようです。
 当初は、国家的な禍事を祓う神というように、朝廷・国家の都合で大祓詞に封印されたという経緯がありましたが、原発事故にからめて「加護」への願いが大新聞の一面に記されたことは、正直いって驚きです。
 白山の美濃側における秘蔵史料「白山大鏡」(上村俊邦編『白山信仰史料集』所収)に、「瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」という願いが書かれてはいましたが、これは朝廷・国家のご都合主義を理解・認識した上での信仰祈願でした。
 コラム筆者は、神道世界における大祓詞を既定のものとし、瀬織津姫一神に名指しの「神頼み」をしています。願いの趣旨はわからぬではありませんが、原発事故の収束問題は、基本的には、原子力政策に便乗してきた科学の存亡を賭けた課題のはずで、ここに「神頼み」をもちこむのは筋違いとおもわれます。政治的に創作された大祓詞からはみえませんけれども、瀬織津姫は、川神であるばかりでなく、もともと海の女神であることを添えておきます。

伊豆・三嶋大社へ──広瀬神のその後【Ⅲ】

更新日:2011/4/6(水) 午前 3:33

 ここで瀬戸内海・大三島の神を「三島明神」と仮称しますと、その東進を象徴的に表しているのが三嶋大社です。しかし、この明神が現在地(静岡県三島市)にまつられる過程は単純ではなく、金達寿氏は、その祭祀変遷を簡潔に提示するために、静岡県高等学校社会科教育研究協議会編『静岡県の歴史散歩』を引用しています(『日本の中の朝鮮文化』第七巻)。

 旧下田街道が国道一号線と分岐する位置に、伊豆一の宮三島神社がある。中世以後の伝説によると、伊予国大三島の三島明神が伊豆の三宅島に上陸、さらに賀茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁町の広瀬神社をへて現在地に鎮座されたという。これは三島神を信仰する瀬戸内海の集団が、その航海術を利用して伊豆半島にうつったとされる。祭神に事代主命が合祀されたのは明治になってからで、それまでは大山祇神だった。

 三島明神の遷座過程として、「伊予国大三島の三島明神が伊豆の三宅島に上陸、さらに賀茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁町の広瀬神社をへて現在地に鎮座された」といった遷座伝承が語られています。途中「大仁町の広瀬神社をへて」とありますが、この広瀬神社については、地元の郷土史家である李沂東[リキトウ]『高天原は朝鮮か』に、次のように書かれています。

 三島神は伊豆白浜に上陸し鎮座したが、やがてその後、中伊豆の発展にともない、伊豆田方郡大仁町田京の広瀬神社のあたりへ勧請されて来て、ここに何百年か鎮座していたようである。大仁町田京の口碑によれば、「三島明神は牛の背に乗って移ってこられた」と伝承されており、広瀬神社には三島明神と最も関係の深い瀬織津比売が祭られている。

 広瀬神社にはかつてわたしも訪れたことがありますが、宮司氏によれば、瀬織津姫神をまつる記録はないとのことでした。広瀬神社の現主祭神は「三嶋溝杙姫命」とされ、ここも祭神の変遷があったものとおもわれます。その意味で、李沂東氏が拾ってくれた「大仁町田京の口碑」は大きな価値があります。ちなみに、下田の白浜神社(伊古奈比咩命神社)の境内社・二十六社神社のうちの一社は瀬織津姫命神社で、李氏いうところの「三島明神と最も関係の深い瀬織津比売」の痕跡を今にかすかに伝えています。
 それにしても、「三島明神と最も関係の深い瀬織津比売」とはただならぬ認識です。もう少し詳しく書かれていないかと、李沂東『高天原は朝鮮か』の全文を読んでもみましたが、李氏は、この貴重な口碑を書き留めただけのようです。
 実は、この『高天原は朝鮮か』という書の存在は、内海邦彦『わが悠遠の瀬織津比咩』において知ったのですが、内海氏は本書で、李沂東氏の「口碑」を読んで三嶋大社を訪ね、同社神官の言として、かつて三嶋大社のなかに広瀬神社がまつられていた、しかし、現在は境外の公園「楽寿園」に遷されていると、これまた貴重な証言を拾ってくれています。
 北上山地の山深い盆地である遠野郷まできますと、瀬織津姫神は伊豆大神・伊豆大権現として今に伝えられています(岩手県遠野市上郷町来内・伊豆神社)。しかし、本貫地といってよい伊豆地方をみますと、東の熱海・伊豆山神社はいうまでもなく、伊豆半島南端の白浜神社や中伊豆の広瀬神社の祭祀において、それらに伊豆大神としての瀬織津姫神の面影祭祀を拾うのは容易ではありません。
 瀬戸内海・大三島を中心に、これまで三島明神の祭祀をみてきましたが、かつて瀬織津姫神をまつっていた伊豆の広瀬神社は三嶋大社に一度はまつられていた、しかし、その後、いつのことかははっきりしませんけれども、広瀬神社は「楽寿園」に遷されたとのことが気になり訪ねてみました。
 園内の案内によれば、「楽寿園は1万4千年前の富士山噴火の際流出した溶岩(三島溶岩流)の上にできた自然公園」とあり、三島市教育委員会による別案内では、次のように説明されています。

楽寿園(国指定天然記念物・名勝)
 六万㎡におよぶ楽寿園は、小浜池を中心とする富士山の基底溶岩流の末端にあるという溶岩地形と、その溶岩中から数か所にわたって地下水が湧出している現象が天然記念物として指定されている。また、それとあわせて特殊な地形・地質に人工を加えて生み出された固有の美観が、名勝として指定されている。
 しかし、昭和三〇年代から環境変化の激しい国土の中で涌水現象が変化しつつあり、現在その方策を検討中である。
 明治二三年(一八九〇)に小松宮彰仁王の別邸がここに築かれ、その後明治四四年李王世殿下の別邸、昭和に入って個人の所有となったが、昭和二七年(一九五二)三島市立公園「楽寿園」として市民に公開された。


▲小浜池


▲宮島と広瀬神社


▲広瀬神社社殿

 楽寿園は小浜池を中心に構成されているものの、池は、高度成長期から枯渇がはじまり、現在は無残な池底をさらしています。富士山からの伏流水の水脈が断たれたためでしょうが、広瀬神社は、この小浜池の中島「宮島」に鎮座しています。
 富士山の伏流水をたたえた池中の島(御島)に、水霊神である瀬織津姫神がまつられていたと想像しますと、その祭祀はたしかに「絵になる」とはいえます。しかし、これは幻の話で、現在、社殿の横に「広瀬神社」という社号の標識はあるものの、ここにどのような神がまつられているのかは、だれにもわからないものとなっています。


▲広瀬神社の由緒書き

 楽寿園の受付で、広瀬神社の由緒書を所望したところ、頒布するものはないとのことで一枚のメモのような説明書をみせてもらいました。撮影は可とのことでしたが、それには、祭神の項に「倉稲魂命(若宇迦能売命)」とあります。また、「明治初年、三嶋大社の末社に指定」、「元摂社は田方郡田京村に鎮座」、「古くは四の宮と称した名社の1つ」、「現在は楽寿園の守護神(氏子はいない)」といった断片的なメモが記されています。
 田方郡田京村(大仁町)の広瀬神社の主祭神は「三嶋溝杙姫命」、それが三嶋大社経由で楽寿園にまつられると「倉稲魂命(若宇迦能売命)」となります。こういった祭神のあまりに安直な不整合表示が何からくるものかは、今更いうまでもありません。
 伊豆の広瀬神社(かつての三嶋大社摂社)からは消えた(消された)瀬織津姫神ですが、三嶋大社がこの神を完全に忘却したわけでなかったことは、大祓神(祓戸大神)に変質・限定するも、境内に「浦島さん」といった、これももう一つの御島神であろう古い親称名を残してまつっていることなどに表れています。