槻神社(愛知県北設楽郡東栄町大字月字寺甫七)

更新日:2009/2/12(木) 午前 1:50



 槻神社(北設楽郡東栄町大字月字寺甫七)の紹介です。
 以下は、槻神社境内に掲げられている由緒表示板の全文です。

由緒記
一、神社名 槻神社
一、鎮座地 東栄町大字月字寺甫七番地
一、祭 神  瀬織津姫命(従五位上、元槻神社・郷社)
        伊邪那岐命(元熊野神社・村社)
        建御名方命(元宝大明神・村社)
一、由 緒
 当槻神社は神階延喜式内国内神名帳に従五位上槻村天神の名称をもって記載されている。当初大字月字引田十一番地に鎮座ましまし祭神は瀬織津姫命を祀るも奉祠年月日は明らかではない。慶安三年庚年九月之を再建、更に享保十九年甲年三月再度社殿の建替えをする。古来月部落の産土神であると共に且また東栄町内東部々落一円の崇敬社としてかなり隆盛を極めた時あるも、その後、時代の変遷と共に月部落の産土神としての特色を持ち氏子よりひたすら崇敬されていた。明治五年郷社に列しその后、明治四十二年四月七日村社熊野神社の所在地である現在地に移転され村社熊野神社と合祀して、社名を槻神社と称しその后、大正四年十一月大正天皇御大礼の砌、記念事業として本殿並に拝殿を改め改築、その後[ママ]更に再々の改築、改修を経て現在に及ぶ。
一、御神徳
 古来、至誠神に通ずると申されている如く真に赤心を持つ事により神霊はそこに降臨されるものである。
 花祭りの折、一力、添花等、各種の立願果[ママ]きに見られる如く念願成就の神として、世に広く信仰を集めている。
 また日常生活の守護神として、特に交通安全や家内安全、開運除災など、幾多霊験奇跡を有し、氏子はもとより近年は遠離地よりの崇敬者も極めて多い。
一、祭 典
 例祭   四月第一日曜日(元四月七日)
 歳旦祭  一月一日
 御神楽祭 春旧正月一日、秋十一月中旬(元二十八日)
 花祭   十一月二十二日~二十三日
 祖霊祭  九月彼岸日
   境内坪数 一、四一七坪(約四、六八四平方メートル)

 槻神社の主祭神は「瀬織津姫命」で、この神社はもともと「大字月字引田十一番地に鎮座」していたとあります。旧鎮座地近くでの聞き取りによれば、ここには槻(ケヤキ)の大木(神木)がかつてあったといいます。また、その根元からは、良質の清水が湧き出していたが、この神木を伐採したあと水も枯れてしまったとのことです。
 由緒によれば、槻神=瀬織津姫命の祭祀は、「古来月部落の産土神であると共に且また東栄町内東部々落一円の崇敬社としてかなり隆盛を極めた時あるも、その後、時代の変遷と共に月部落の産土神としての特色を持ち氏子よりひたすら崇敬されていた」とされます。山深い奥三河の地で、この神はとても大切に信奉されていたようです。
 現在は、「月部落の産土神」として限定されるものの、氏子衆による「崇敬」の気持ちが変わっていないことは、月集落でおこなわれる花祭り(新暦十一月二十二日~二十三日)をみてもわかります。
 公民館に設けられた花祭り会場の神座[かんざ]正面には、集落の氏神である槻神が勧請され(写真右)、二日間にわたって(夜を徹して)、氏子衆から花祭り(の舞い)の奉納を受けることになります。
 槻神社は御殿山の中腹に鎮座していて、そこまで参拝する人はそう多くないようで、この花祭り当日は、槻の神様にとって、もっとも近くに氏子衆と接することができる機会かもしれません。
 ところで、この花祭りの「花」についてですが、これが何を意味するのかは定説がないようです。
 したがって、以下は「私見」ということになりますが、花祭りの「花」について、少しおもうところを記しておきます。
 花祭りには、神が「鬼」の姿となって現れ舞いを繰り広げ、神座の前にしつらえられた舞庭[まいど]の中心に据えられた湯釜の湯を周囲の観客にふりかけるという所作が、祭りの一つのクライマックスを構成しています。これは、無病息災あるいは疫病魔退散を願ってのものとおもわれます。
 また、一般観客が立ち会うことは禁じられているのですが、花祭りの前段階の神事に「滝祓い」があり、祭りは、実質、この神事からはじまるといっても過言ではありません。この神事によって汲まれた「滝水」が、湯釜の湯の元となる「神水」です。
 水は火によって「湯」となります。花祭り同系の霜月神楽などには、最初に呼び出される神として、水王様[みーのうさま]・火王様[ひーのうさま]といった名もみられますが、ここに水火神への尊意を読み取ることは可能かもしれません。
 ともかく、この水火和合の「湯」を、神が鬼の姿となって観客(古くは村人でしょう)にふりかけるわけです。このときの湯釜の湯はぐつぐつと煮えたぎっていて、しかも寒い季節ですから、湯煙は相当なものです。この煮えたぎる湯に、鬼が手にもった枝の葉(たしか笹の葉)を浸して、人々に適度に冷めた湯をふりかけるときも、もうもうとした湯煙が会場に充満します。
 人々は逃げまどいますが、この湯を振りかけられることをほんとうは期待してもいるようです。舞庭に立ち上る湯煙、ふりかけられる湯の煙を、少し距離をおいてみていますと、会場に、あるいは花祭りのクライマックスに、「祓い」の利益[りやく]を秘めた湯の「花」が咲き乱れているなというのがわたしの印象でした。
 祓いの神事は神社・神官の独占するところですが、花祭りの運営主体はかつては修験者、現在は氏人(村人)で、奥三河の花祭りは、一般的な神社世界の「祓い」の神事に封印された神々(水火神)をここで解放し、これらの神と一体となろうとする、村人の「歓喜」の感情をもまた「花」と呼称したフシがあります。
 月集落の花祭りの場合、会場の「祓い」にまつわる「歓喜」を、神座正面でながめているのが、その当の祓いの大元神(祓戸大神)・滝神であるというのが特異です。会場に特別ゲストとして迎えられた槻の神様は、おそらく、この氏人・村人の歓喜・祝祭の光景をうれしくおもってみているのではとおもわれたのでした。

瀬織戸神社(静岡県静岡市清水区折戸1-16-6)

更新日:2009/2/11(水) 午後 2:41



 瀬織戸神社(静岡市清水区折戸1-16-6)の紹介です。
 神社は、天羽衣・富士山の天女伝説で知られる「美保の松原」の西に立地しています。
 案内板には、祭神の瀬織津姫は「天照大神の第二王女」とあり、また「辨天様」だとも明記されています。この王女云々は、アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」神話によって誕生したとされる宗像三女神の「第二王女」を言っているようです。
 氏子総代さんからいただいた由緒書もふるっていて、これには、瀬織津姫を「本名」として、別名は「市杵島姫命」「狭依昆姫[ママ]命」だと明記されています。なるほど、これなら、瀬織津姫が「辨天様」と習合するのは理路整然と説明がついてしまいますが、それはともかく、瀬織津姫という神が宗像の姫神でもあることを、この瀬織戸神社の由緒伝承は雄弁に告げているようです。

瀬織戸神社の御由緒
鎮座地 清水市(現:静岡市清水区)折戸一丁目十六番六号
    旧三保街道に面し、折戸の西側にあります。(十一級社)
面 積 一八八七平方メートル(約五七二坪)
御祭神 瀬織津姫命・本名、市寸島姫命またの名を狭依昆姫[ママ]命と申し上げ、天照大神と建速須佐之男命の第二王女。
御由緒
 この神社は、「神護景雲元年丁未(七六七年)瀬織津姫ヲ祭ル所也」(駿河雑志)とありますので、今からおよそ千二百三十年前に祭られた社です。
 一般には、「辨天さん」と呼ばれ親しまれておりますが、印度仏教でいう七福神の「辨財天」とは全くの別神で、才色に秀いで、非常に美しく、よく似ているところから、「瀬織津姫」を祭神とする神社をいつの時代からか「辨天さん」と呼ばれ、わが国の三辨天(竹生島、江ノ島、厳島神社)もこの市寸島姫が主祭神であり、辨財天を合祀しています。
 そして、水辺に祭られ、「水難をさけ、航海の安全、豊漁、招福、修学」の神ですが、「家内安全、無病息災」を合せ祈願する神様です。また、この折戸の産土神(うぶすなかみ)であり、男子生まれて三十二日、女子は三十三日の初宮まいり、そして、七五三宮参りと、地元では、古来より信仰を厚くしております。
 駿国[ママ]雑志には、「村中ニ辨天社アリ、産土神トス。コレ瀬織戸神社也」とみえております。
 神社拝殿前に無数の白い小石を見うけますが、これは、美女の祭神が醜い「いぼ」をとってくれるからで、ここでお祈りし、いぼがとれたら、そのお礼に浜の白い小石を、自分の年の数だけあげたものです。
 また、この神社は、古くより「雨乞い」の神として、近郷近在の信仰を集め、水(雨)は農民の命であった。享保年中(八代将軍・吉宗の時代)日照りとなると、近郷二十一ヶ所の庄屋、百姓代表はこの神社で「雨乞い」の祈祷を行なった。そして祈祷すれば、必ず雨が降り、御利益があったので、各村々では、「享保十一年七月十八日、御宮寄進し、落成、御遷宮ありて、村々御はらい申し候」と織戸村古今年代記に詳述されています。
 境内に庚申塔がありますが、これは、「享保十七年一月建立」されたもので、庚申の祭神「青面金剛菩薩」はこの神社に合祀されております。
 現在の神殿は明治四年建立され、大正七年大改修を行ない、昭和に入って二度修理され、平成八年地震対策のため、屋根を軽い銅板にとふきかえ内外共に大修復しました。拝殿は老朽化に伴い、昭和五十八年十月、氏子の浄財により新築されました。
 境内松の大樹は、約四百年を経たといわれ、清水市の保存樹林に指定されております。
 この神社には古くから太鼓が奉納されており、「折戸太鼓保存会」があって十数曲を代々受けついでおります。
 平成元年十月、町内有志により「辨天神輿」が奉納され、秋季例祭の祭典日には町内旧道を練り歩きます。
御例祭 春季例祭 毎年の一月六日
    秋季例祭 毎年の十月十六日を中心とした日曜日
    辨天神輿の引き回しと、隔年ごとに演芸大会が行なわれます。
  平成十年十月吉日                         瀬織戸神社氏子総代会

 由緒には、瀬織津姫は「水辺」に祭られ、「水難をさけ、航海の安全、豊漁、招福、修学」の神とあり、また、「美女の祭神」ともみなされていたようで、「いぼ」取りや雨乞いの神徳まで語られています。
 ここには、庶民が信仰する瀬織津姫という神の等身大の「像[イメージ]」が語られているようです。それが、中央の祭祀観では、天照大神荒魂・八十禍津日神、あげくは三途川の脱衣婆などと、庶民信仰とは対極のイメージによって語られたりします。このイメージの両極端性は、いったい何を意味するものなのでしょう。

熊野神社(静岡県富士宮市上井出278)

更新日:2009/2/11(水) 午後 2:22



 熊野神社(富士宮市上井出278)の紹介です。
 本社の創祀経緯は定かではありませんが、宮司さんとの談話で、少なくとも、以下の二点は、この神社の大きな特徴といえそうです。

 一つは、ここ熊野神社は、瀬織津姫命の単独神祭祀であること。
 二つは、富士山西麓の「白糸の滝」の滝神として、祭神の性格を今に伝えていること。

 宮城県唐桑半島の瀬織津姫神社もそうでしたが、富士宮市の熊野神社もまた、瀬織津姫神を熊野神として伝えていることは重要におもえます。
 また、富士山の伏流水が湧出・流下する「白糸の滝」は、現代では観光名所としてあまりに俗化されてはいますが、本来は熊野の那智大滝と同じく、滝神の神域として、この滝空間は絶対聖域とみなされていました、その滝神として、ここに熊野の滝神(瀬織津姫命)がまつられていたのでした。
 社殿は、白糸の滝の北に、仮住まいのように建造されています。祭神の本来の住まいが、こういった仮設住宅ではなく、「白糸の滝」にあることはまちがいないものとおもいます。