黒嶋(黒島)神社──堂々たる瀬織津姫祭祀

更新日:2011/1/12(水) 午前 0:42

 伊予国一宮・大山祇神社や讃岐国二宮・大水上神社における瀬織津姫祭祀の、ある種「不遇」のさまをみてきた眼からすると、意外とも当然ともいえるのですが、境内の石碑に堂々と顕彰するように「瀬織津姫神」の名を刻んでいるのが、観音寺市の黒嶋神社(黒島神社)です(観音寺市池之尻町二八一)。














 参道の社標には「延喜式内讃岐二十四社之一 黒嶋神社」とあり、しかし、大鳥居や本殿扁額には「黒島神社」と「池宮神社」が並記され、両社の合祭をもって「黒嶋神社」といっているようです。
 池宮神社(祭神:瀬織津姫神)は明治期に黒嶋神社に合祀された社とのことですが、しかし、氏子崇敬者の人たちは両社に優劣をまったくつけておらず、両社を「同格」とみなしていることが扁額の並記表現に表れていますし、これは、境内の「記念碑」の文面からも読み取ることができます。以下に、全文を写しておきます(適宜句読点を補足)。



記念碑
 黒島神社は、創建年代は詳らかではないが、清和天皇貞観式(八七一年)讃岐国五社の一と伝えられ、延喜式(九二七年)讃岐国二十四社の一として県内有数の格式を誇り、古より地域内外を問わず深い信仰を集め、明治五年村社に列し、大正六年郷社に昇格、その神威高きたたずまいを損なうことなく、今日までこの地の産土神として、変わらぬ崇敬を寄せられている。
 御祭神は闇山津見神・瀬織津姫神の二柱を祀る。
 旧社殿は、明治二十七年の大火の折造営され、爾来幾星霜を経て老朽損傷が甚だしく、氏子崇敬者より社殿建設を望む声が高まり奉賛の寄進を得て、本殿の屋根葺替・修築、釣殿・幣殿・拝殿の新築、並びに参道整備に取り組み、着工以来二年、斯くも厳しく成し終え、後世に誇るべき平成の造営として、茲にめでたく竣工に至った。
 これを記念して、この碑を建立する。
    平成十四年四月吉日

 氏子崇敬者による、わが「産土神」への信奉の強さと、それに基づいて「後世に誇るべき平成の造営」を果たした自負がよく伝わってくる文面です。合祀された池宮神社ならば境内社にまつってもよかったはずですが、石碑文面は、池宮神=瀬織津姫神を黒島神社の主祭神の一神であるかのごとき主張をしています。「御祭神は闇山津見神・瀬織津姫神の二柱を祀る」との断言に、瀬織津姫神をただの合祀した神とみなしていない氏子の人たちの思いが込められているようです。
 ちなみに、静岡県御前崎市佐倉にある桜ヶ池、この池神・水霊神をまつる池宮神社にも瀬織津姫神はまつられています。御前崎の池宮神社においては、瀬織津姫神は水霊神であると同時に桜神でもありますが、黒嶋神社(黒島神社)においても、この神を単純に大祓神としていないところがいいです。讃岐地方における「池」は、多くが空海ゆかりのため池のことでしょう。このため池の守護神は、生活の上からいってもとても大事にされていただろうことが想像されます。
 ところで、黒嶋神社(黒島神社)祭神のもう一柱「闇山津見神」ですが、この神を主祭神格でまつる神社は全国的にも珍しいようにおもいます。この神は、最初から黒嶋神社(黒島神社)にまつられていたのだろうかといった、不遜かもしれませんが、やはりそういった疑問は残ります。
 闇山津見という神については、『古事記』に、次のような記述があります。イザナミが神々を生んだ最後にカグツチを生むも、陰部を焼いたため亡くなったことに怒ったイザナギが、カグツチを斬り殺したあとの話です。

殺さえし迦具土神の頭[かしら]に成れる神の名は、正鹿[まさか]山津見神。次に胸に成れる神の名は、淤滕[おど]山津見神。次に腹に成れる神の名は、奥山津見神。次に陰[ほと]に成れる神の名は、闇[くら]山津見神。次に左の手に成れる神の名は、志藝[しぎ]山津見神。次に右の手に成れる神の名は、羽山津見神。次に左の足に成れる神の名は、原[はら]山津見神。次に右の足に成れる神の名は、戸[と]山津見神。

 殺された迦具土神の体から成った神として、山神(山津見神)を細分化した神々の名が八神ほどみられますが、迦具土神の「陰[ほと]に成れる神の名は、闇[くら]山津見神」とあります。蛇足ながら、迦具土神には「陰[ほと]」があるらしく、この神には女神伝承もあったのかもしれません。
 さて、錯綜とした山神八神のなかから、特に闇山津見神をもって祭神とするには、なにか理由がなくてはいけません。ちなみに、『日本書紀』では、一書(第六)に、「(カグツチを斬った)剣の頭[たかみ]より垂[したた]る血、激越[そそ]きて神と為[な]る。号[なづ]けて闇龗[くらおかみ]と曰[まう]す。次に闇山祇[くらやまつみ]。次に闇罔象[くらみつは]」と書かれます。
 闇山津見神=闇山祇神の母胎はカグツチという神にあるようですが、『書紀』一書(第七)には、イザナギがカグツチの体を三つに斬ったとして、次のような記述もあります。

一書(第七)に曰はく、伊弉諾尊、剣[つるぎ]を抜きて軻遇突智[かぐつち]を斬りて、三段[みきだ]に為[な]す。其[そ]の一段[ひときだ]は是[これ]雷神[いかづちのかみ]と為る。一段は是大山祇神[おほやまつみのかみ]と為る。一段は是高龗[たかおかみ]と為る。

 岩波書店版『日本書紀』の「大山祇神」に関する頭注は、「ヤマツミとは、山の神。第六の一書の剣の頭から垂る血によって成る神のクラヤマツミにあたる」としています。一書(第六)には「闇龗[くらおかみ]」、一書(第八)には「高龗[たかおかみ]」の名がみられましたが、両神は貴船神社の祭神としてよく表示されます。この二つの「一書」は類縁の伝承を拾ったものとしますと、闇山津見神と大山祇神は、頭注がいうように、ほぼ同神と見立ててよいのかもしれません。
 このような仮説を黒嶋(黒島)神社にあてはめてみますと、同社祭神は大山祇神と瀬織津姫神となり、これはとても奇妙な表示ということになります。なぜなら、九州の求菩提山・鬼神社や北海道の樽前山・樽前山神社にみられたように、明治期、それまでまつっていた瀬織津姫神を消去・差替するためにつかわれたのは、ほかでもない大山積神(大山祇神)だったからです。消去しなければならない神と、そのための方便の神が並んでいるのは、ちょっと具合がよくないだろうとなります。
 明治期(以降)、黒嶋(黒島)神社においても、その主祭神表示から瀬織津姫神を消去するようにという、当局関係者の圧力がなかったとはとてもおもえません。「記念碑」の刻文は、そのあたりの過去の経緯を露わに語りませんけれども、現在、黒嶋神社(黒島神社)の「御祭神は闇山津見神・瀬織津姫神の二柱を祀る」と断じていて、ここには祭神名をうたうことにおいて、衒[てら]いは微塵もないようです。
 この一行には、氏子崇敬者諸氏による、池宮神も黒島神も同神であるという主張が暗に込められているのではないかとも読め、あるいは、一歩退いても、瀬織津姫神への氏子諸氏の信奉の強さが確実に込められているとはいえそうです。
 参拝者の多くは、この石碑の刻文を読むこともあるはずで、このように神の名が明記されてこそ、そこにまつられる神は「浮かばれる」というものでしょう。関係者だけわかっていればそれでよいといった閉鎖的な神社祭祀が多いですが、祭神の表示なきは、そこに神はまつられていないのとほとんど一緒です。その意味で、黒嶋神社には、参拝者一般に開放的に告知している姿勢があり、ここにまつられている神々もさぞ喜んでいるにちがいないとおもわれたのでした。

三嶋龍神という滝神──讃岐二宮・大水上神社を訪ねて

更新日:2011/1/9(日) 午前 9:57

 大山祇神社元社地、その旧跡地まで遡及しますと、大山積神の原型神は「みたらしの井戸」の霊水を司る水神であったことがみえてきました。この水霊神は大山積神と「∴」の関係にある御手洗神・瀬織津姫神であった可能性は、やはりすこぶる高いと考えられ、その検証を補足しておきたくおもいます。
 大三島では、地主神「大蛇」放逐の代替のようにまつられた龍神(五龍王)でした。『三島宮御鎮座本縁』は、この龍神と大山積神をあくまで別の神とみなすことばを費やしています。しかし、大山積神と、これも「∴」の関係にある三島明神の本体(本姿)は大蛇(龍体)でした。少し複雑な「神まつりの構造」を読み取るしかないのですが、大山積神の新たな祭祀は、自身の蛇神・龍神的性格を自己否定することによって成立したものといえます。これは、大三島の最重要な神が、朝廷の祭祀思想の体系に組み込まれたことを意味しています。もっとも、こういった祭祀変質は、一人大三島に限られるものではなく、誤解をおそれずにいうならば、伊勢の皇祖神(アマテラス)の創作祭祀を脅かす各地の神まつりすべてが、その変質化対象とみなされたものと考えられます。
 七世紀末から八世紀初頭にかけて、天皇を中心とする律令国家をつくるという構想が本格的に稼働しはじめます。これは、藤原不比等の構想といっても過言ではなく、また現在の日本国家の原型がつくられた時代にあたります。この不比等の国家構想の中心には天皇が置かれ、藤原氏はその影の主役となるといった構想も付着していましたから、必然的に、天皇の「祖神」構想を中心とする神々の大系化が図られ、その脇に、藤原氏(中臣氏)の祖神も随所に散りばめられることになります。朝廷支配に従ったほかの有力豪族の祖神も、皇統譜の展開を補佐するように配置されます。
 しかし、不比等の構想には、特に神まつりのことに関して、大きな陥穽がありました。それは、信仰は「心」の問題だということに深い思慮が至らなかったことです。人は、強権支配に対しては面従腹背という方法で対処するのはよくあることで、この「腹」の部分に「心」は宿っています。庶民層にまで降りれば、その傾向はより顕著になります。
 記紀神話には、そのままの名ではまったく登場しなかった瀬織津姫という神ですが、にもかかわらず、全国の広範囲に、現在にまで、その祭祀がみられます。朝廷の祭祀思想からすれば、この神は、まつられるにしても、その性格は大祓神(祓戸大神)でなくてはいけませんでしたが、しかし、全国の祭祀実態の過半は、大祓神とは無縁の水源神・水霊神としてまつられてきたものです。
 朝廷権力は、この神の要所要所の神まつりには「勅命」によって祭祀変更を迫ることになりますが、それが大宝時代あたりから顕在化してきます。大宝元年(七〇一)に勅命によって新たな神まつりが執行されたのが大山祇神社でした。これは、全国的にみれば氷山の一角のような例ですが、日本の「正史」(『日本書紀』)が内外に公にされるまでに、『書紀』の記述と齟齬するような神まつりは変更される必要があったはずです。『書紀』が成るのは養老四年(七二〇)ですが、八世紀初頭のおよそ二十年間は、列島の神まつりにとっては、かつてない変質の激動時代になります。
 そのあとも折々につけ、この変質は朝廷支配の拡大に応じて全国に拡がってゆくとしても、伊勢の皇祖神祭祀の立ち上げから『書紀』が成るまでは、第一期激動のピークといえましょう。その後、並行するように、神仏習合によって、新手の神隠しがなされるも、長きにわたる神仏習合時代は、仏が前面に出ていた分、消され残った神はその背後に温存、あるいは冷凍保存されて、明治期を迎えます。神まつりの大きな変質の第二のピークは、大宝から養老時代前後と比べはるかに徹底したものでしたが、明治期初頭の神仏分離からはじまる国家神道の勃興期にみられます。神仏習合時代の修験者(のある人々)は、たとえば求菩提山の賴厳上人のように、仏の背後の神への信奉の心を失っていなかったことも添えておきます。
 さて、大山祇神社が伊予国で、おそらく忸怩たる自己撞着の祭祀を展開していた一方、讃岐国では、大山積神と「∴」の関係にあった三島明神を「龍神」としてまつる社があったことも紹介しておきたくおもいます。大水上[おおみなかみ]神社といいます(鎮座地は香川県三豊郡〔現三豊市〕高瀬町大字羽方)。







 大水上神社という社号からもわかりますが、ここは水源神をまつる社です。境内の由緒案内紙には「悠久の昔、水の恵を求め岩畳なす清流の源に神を祀り、大水上と称えた」とあります。
 同社の過去の祭祀経緯については具体的にふれえませんけれども、現由緒案内は、本社祭神ほかについて、次のように述べています。

延喜式内社・讃岐二宮 大水上神社
御本社 祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
 太古より水霊の神として信仰が厚く、延喜式内社で、讃岐二宮と称えられている。社の鎮座する宮川流域は弥生文化の遺跡が多く、境内は古代祭祀遺跡の宝庫。御本社の奥に夫婦岩と称する磐座がある。


▲夫婦岩

 ここは水源神・水霊神をまつる社ですから、仮に筆頭祭神を三番めの宗像大神としていたならば、さして疑問を抱くことはないでしょう。しかし、大水上神社の主祭神は、あくまで大山積命なのです。この大三島の神が、大水上神社においては水源神・水霊神とみなされていることは、とても興味深いといわねばなりません。
 大水上神社は多くの境内社を抱えていますが、本社祭神の神徳とみてよい「水霊」に深く関わる社が「滝の宮神社」です。この社は、次のように説明されています。

滝の宮神社 鰻渕の神 祭神 滝田比古[たつたひこ]命・滝田比売[たつたひめ]命
 古くは三嶋龍神と称されていた。雨の神として信仰が厚く、古代からの祈雨神祭遺跡で白鰻・黒鰻の伝えがある。




▲滝の宮神社

 祭神の「滝田比古[たつたひこ]命・滝田比売[たつたひめ]命」は、「滝田」をあえて「たつた」と訓じているところをみますと大和国の龍田神社の祭神に擬したものでしょうが、それはおくとしても、滝宮神が「古くは三嶋龍神と称されていた」という伝承の一言には注意がいきます。「古くは」がどれほどさかのぼる古さなのかは不明ですが、「三嶋龍神」が滝神であったことは、大三島・大山祇神社(の由緒)がけっして語らないことです。大山祇神社の元の旧跡地の水霊神を御手洗神こと瀬織津姫神とみますと、この神こそ「滝神」でもありましたから、大水上神社の伝承は貴重です。
 ところで、滝宮神は「鰻渕の神」とあり、また「雨の神」(祈雨神)でもあったようです。鰻渕は宮川上流、大水上神社本殿右背後にあり、そこには、次のような案内板が立っています。

うなぎ淵(竜王淵) 雨乞神事遺跡
 昔から旱ばつ時、参籠潔斎の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨、白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれた。
 明治・昭和初期斎行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が執行された。


▲鰻淵(竜王淵)と本殿

 うなぎ(鰻)淵は「竜王淵」の異称をもっていたわけですが、「竜王淵」は、ここに「三嶋龍神」がまつられていたことによる名称でしょう。
 この竜王淵の近くには「大師参拝の神言」とされる、大師(弘法大師)こと空海の歌を刻んだ石碑があります。



往来は心安かれ空の海
   水上清きわれは竜神

 空海は大水上神社へ参拝して、その境内社の神をわざわざ詠んだわけではないでしょう。空海は、大水上神社の本来の神を「水上清きわれは竜神」と、神(三嶋龍神)になりかわって詠んだものと読めます。まさに「神言」の歌です。
 大三島・大山祇神社は、「勅命」によって元宮「横殿宮」から現在地へと遷宮し、新たな社殿祭祀をはじめるにあたって、三島明神の本体・本姿である大蛇・龍体を自己否定して、朝廷公認の大山積神の祭祀を展開することになります。
 大水上神社も、その祭祀変遷はよく似ているというべきか、本社に大山積命をまつると、三島明神でもあろう三嶋龍神を、境内の「滝の宮神社」に降格してまつったとみられます。
 ただし、大山祇神社と大水上神社で一見異なるのは、その本源の水霊神(三嶋龍神)について、大山祇神社においては、その古宮の霊跡地から御手洗神とみなせるところを、大水上神社においては、滝宮の神、つまり滝神といっていることです。
 御手洗神といい滝神といい、また水霊神というも、それらの神格を総合的に包含する神はいよいよ限られてくるというものです。では、大山祇神社の元宮あるいは古祭祀からみえてきた瀬織津姫という神は、大水上神社においてはどのような祭祀がなされているのかということになりますが、ここでみえてくるのが、境内社・祓戸社の存在です。先の由緒案内には、次のように書かれています。

祓戸社 祭神 瀬織津比売神・速開都比女神・気吹戸主神・速佐須良比女神
 人々の身心を祓い清める神々。

 伊予国では大山積神と「∴」の関係で語られていた御手洗神・滝神こと瀬織津姫神は、讃岐二宮・大水上神社においては境内の「滝の宮神社」からさらに降格されて「祓戸社」の神、しかも、単独神の祭祀ではなく、大祓祝詞に出てくる祓戸四柱神の一神としてまつられています。
 この祓戸社の四柱神祭祀は明治期以降のものとおもわれますが、ここには、日本の神道世界がいまだに内省・自己相対化をしていない、いわば国家神道の根幹的な意向の残映祭祀がみられます。つまり、瀬織津姫神は、天皇の国家の外部に向けてのみ「祓い」の神威を発揮することと限局し、しかし、単独神ではなく延喜式の「六月晦大祓」で規定されている四柱というセット神の一柱とのみみなそうとする、神宮(皇祖神)創祀からはじまる国家神道的意向の残滓があります。
 滝神(滝宮神)としての三嶋龍神は、大山祇神社の元宮祭祀における御手洗神・瀬織津姫神のことと断じて、不都合・不合理なことはまったくありません。
 大水上神社境内には、先の由緒案内紙とともに「にのみや音頭」なる川柳的俗謡が張り出されています。そのなかに、次のような一節があります。

御手洗さんの庭から望む
   瀬戸の小島の春霞み

 ここで「御手洗さん」と親称されているのは大水上神のことでしょう。「庭」は「にのみや(二宮)」のそれ(斎庭[ゆにわ])であって、まちがっても、境内の一隅にひっそりとまつられる祓戸社の「庭」を詠ったものではありますまい。


▲禊場と祓戸社(右奥)


▲祓戸社

 大水上神社が、三嶋龍神の伝承と空海の「神言」歌、それと「滝の宮」という社号を残していたことは、後世あるいは外部から同社の祭祀を考える上で、大きな手がかりとなったようです。
 以上のように、大水上神社の祭祀を読み解いてきますと、滝の宮神社の祭神に「滝田比売命」を入れ、それをあえて「たつたひめ」と訓じていたというのは、やはり意味深長な主張だったというべきかもしれません。なぜなら、江戸期(延宝時代)に成る『和州旧跡幽考』には、「瀧祭神と廣瀬龍田神、則ち同躰異名にして、水氣の神なり」といった貴重な記録がみられるからです。円空は「龍田比売」を外宮神と見立てて金剛界大日如来の瀟洒な像を彫り、さらに「龍田姫かさしの玉のおほよわ見ミたれにけりとけさの白露」という、解読がとても困難な歌を詠んでいました(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。全体の歌意はうまく読み解けないにしても「ミたれ」は「水垂」で、掛詞であるにしても、水垂は垂水の倒語で、これは滝のことですから、円空も「龍田姫」を滝神と認識していたのかもしれません。


▲大日如来座像

 内宮境内五十鈴川河畔に、苔むした小さな川石一つを神体としてまつられる「瀧祭神」は、五十鈴川源流の滝神をまつったもので、これは内宮(正殿背後)にまつられる荒祭大神こと瀬織津姫神のことです。一見奇異ともみえる滝の宮神社の祭神表示ですが、滝宮神・三嶋龍神がどのような神を秘めていたのかを明かす暗号のようなものでしたから、これは、大水上神社の最後の抵抗であったと読むこともできそうです。

大蛇としての三島明神──大山祇神社元社地を訪ねて【Ⅱ】

更新日:2011/1/6(木) 午前 8:15



みたらしの井戸
○所在地 上浦町瀬戸
 牛の鼻にとおす環・鼻刳[はなぐり]の形に似た地形から名付けられたと云う、大三島と伯方島の間の急流・鼻刳瀬戸[はなぐりせと]の海浜に四六時中清水がわき出る井戸があり、土地の人々は「大山祇神社の神饌水」として、毎年秋の大祭に献上する慣しであった。
 井戸の前に「みたらしの水」と「水神大山積大明神」の二本の石碑が建つ。
 春になると山から里へお降りになって田の神となり、やがて秋の稔りをたしかめて山へお帰りになる。山神と田の神の信仰は全国各地にみられる。田の神大山積は水の神でもある。その御神徳によって御田植祭・抜穂祭が大三島々内各地の人々の奉仕により毎年盛大にとり行なはれる。

 これを読みますと、大山積大神は「水神」でもあることを認めているようですが、ここは大山祇神社(元宮)の本源の霊跡であるという『三島宮社記』の認識があった井戸です。このことにふれることなく、「大山祇神社の神饌水」という意義づけのみが語られているようです。

 古代、真水(清水)が湧くところは、生活上、とても重要だったはずです。しかも、大三島においては、それが海浜(海中)から湧出しているわけですから、これはまさに不思議の「霊水」として信仰の対象となっていたことが想像されます。大山積大神の神徳の本質は、社誌『大三島詣で』も(一応)認めるように、この霊水を司る「水神」的性格にあります。「水神大山積大明神」という石碑は、その明神名にこだわらなければ、半分の真を語っているとはいえそうです。
 ところで、社誌はふれていませんが、石碑「水神大山積大明神」の下部には、次のような文字が刻まれています。


横拔の井戸
御滴しの水

 現在、「みたらしの井戸」とされるも「横拔の井戸」の異称もあったようです。ただし「横抜きの井戸」では意味がつかめません。この「拔」は「秡」の誤記ではなかったかと考えられます。としますと、この井戸名は「横秡の井戸」であり、現表記「みたらし(御手洗)の井戸」と意味が通じてきます。なぜなら、「秡」は「祓」のことですし、御手洗は「禊祓」の意をもっているからです。
 問題は「横秡」の「横」で、この字は、先にみたように「蛇」の訓に相当しますから、「横秡の井戸」とは「蛇祓いの井戸」を表しています。
 そもそも「横」という音は、あまりいい意味には使われてこなかったようです。たとえば、あいつはヨコシマな奴だとか、ヨコヤリを入れるとか、あるいは音読みにして横着者といったことばなどが浮かびます。日本の神話では、討伐される地主神は「大蛇」と比喩される傾向がつよく、スサノオによる八岐大蛇の退治譚などは典型的といってよいでしょう。蛇が「ヨコ」と訓まれるとき、琵琶湖の北にある、日本三大天女伝説の一つとして知られる余呉湖の「余呉」など、これも「ヨコ」の意味を含んでいるのかもしれません。
 ヨコの全国的検証はともかく、ここ、大山祇神社の元宮「横殿宮」は、「今此旧跡湖中に存在、霊水の威現る」と注されていました。横殿宮は「蛇殿宮」の意を含んでいたはずで、つまり、大三島の地主神を蛇神と見立ててまつる宮が横殿宮の本義だったとみられます。その蛇神を「秡う=祓う」霊水・井の神が、「水神大山積大明神」の本姿ということになります。
 大宝元年、小千(越智)玉澄は、勅命によって、この横殿宮から遷宮をはじめますが、移転先には大蛇が先住していて、この大蛇を追放する、いいかえれば「秡う=祓う」ために、南山(安神[あんじん]山)の頂上に五龍王をまつったとされます。南山(安神山)は大山祇神社の三神体山の一つです(ほかの二つは、鷲ヶ頭[わしがず]山と小見[おみ]山)。大山祇神社本殿右後方にみえる神体山である安神山の頂に龍王神=龍神をまつることで、社地から大蛇がいなくなったとされるわけで、ここでは大蛇=蛇神を龍神に昇格させてまつることで、龍神の荒魂=悪神(大蛇)を鎮めたというように理解できます。
 悪神=蛇神とも善神=龍神ともなる神が大三島にはいたこと、つまり、蛇神・龍神は「横=蛇」祓いの霊水を司る御手洗神「水神大山積大明神」とも関わってきます。これでは自分で自分を祓うことになりますが、こういった措定が説得性をもつためには、大山積神が意外にも「大蛇」であったという伝承があることをみておく必要もありましょう。
 越智氏が河野氏を名乗るのは、引用にみられる小千(越智)玉澄が河野(風早郡)に住んだことによるものですが、河野氏の嫡子がそれぞれ「通」の字をつかうようになる最初は、平安時代末の通清のときからとされます。この「通」字使用にあたって、「汝(通清の母)に深甚秘々の通字を与うべし。よく子孫を制せよ」と託宣したのが三島明神でした(『与陽盛衰記』…『大山祇神社略誌』による)。
 この三島明神による神託は、嫡子断絶のおそれがあることを憂いた通清の母(「大山殿」)が、三島明神に子授け祈願として籠もりの願をかけた七日めに得たとされます。大山殿について『与陽盛衰記』は、「容色艶にして、女性ながらも聡敏なりければ、父母も分きて寵愛し給いけり。常に倭漢の書を見て、是非得失を明らめ、道理に迷うことなし」と、才色兼備の女丈夫・賢婦人だったことを讃えています。
 大山殿の必死ともいえる子授け祈願七日めに、その必死の祈願が通じたのでしょう、三島明神は、先の「通」字使用の神託のあとに、「神秘を授くるには、本体を顕わすべし。曽って恐るること勿れ」と、大山殿の前に、その「本体」(本姿)をみせることになります。
 このあたりの描写は文学的にも迫力のある表現で、『与陽盛衰記』の作者の力量を感じさせますが、それはともかく、三島明神の「本体」が初めて明かされる場面を読んでみます。

 大山殿少しも憶せず「かく祈願を立てる上は、存亡共に神慮に任せ奉る。何ぞ心身動ずることや候」とて、拝してぞい給いけるに、忽ち十丈余りの大蛇と現じ給い、宝殿に満ちて、血汐の如くなる紅の舌を振り、黒漆の髧髯宮中にそよぎ、両角鋭にして古木の如く甍を抜けて苔生し、眼は赫々たる鏡を掛け、牙は百の剣を植え、鱗は数千の団扇をはうつが如し、吐く息は橐籥[たくやく]に似て烈々たり。これは有難しと思いながら、生きたる心地はせざりけり。しばらくにらまえ給う如くにして、北の方(大山殿…引用者)を三匝纏いて、即ち飛行し給う。その気色恐ろしきとも仲仲申す言葉はなかりけり。

 三島明神の本体は「十丈余りの大蛇」だったようですが、「両角鋭にして」云々の描写を読みますと、これは龍体でもあったようです。この大蛇=龍体を間近に拝したならば、大山殿ではなくとも卒倒しかねないだろうことを想像させる描写というべきかもしれません。
 気丈夫の大山殿にしても、このあと「魂消し息絶えし」、つまり気絶したと書かれます。三島明神の最高神職「大祝」によってようやく正気をとりもどすと、彼女は大祝に謝礼を払い、風早郡の「高縄の館」に帰ったとされます。大山殿の大願成就については、次のように書かれます。

 それより懐胎あって、満つる月に至って男子出生ある。これを河野四郎と云い、この時より神託の儀を以って通の字を当家の嫡家徹字とし、即ち通清と云いしはこれなり。

 河野氏の嫡男(嫡家)が「通」を「徹字」とするというのは、必死の祈願をもって神(三島明神)に対面すれば、心願自ずと通ずという意味の「通」と理解してよさそうです。このあと、通清が三島明神の化身かのごとき魁偉異貌の描写がつづきますが、大山殿(河野氏)の三島明神への帰依ともいえる信仰心が並でなかったことは伝わったものとおもいます。
 以上、文学的描写とはいえ、三島明神が「大蛇」であったことは、「築山本河野家譜」にも書かれていて、河野家の家伝においては、これは真伝となっていました。
 さて、大山祇神社の縁起に話を戻しますと、たとえば『三島宮御鎮座本縁』では、大宝元年に新社殿を造営するにあたって、先住の「大蛇」を大三島から放逐したことになっていました。この大蛇は、大山殿(河野氏)が帰依する三島明神の本体(本姿)でもありましょう。としますと、勅命によって大宝元年以降に新たにまつられる大山積神と、河野氏が信奉する、大蛇を本体(本姿)とする三島明神とは、似て非なる神ということになります。
 では、大山殿(河野氏)が信奉する三島明神とは何かということになりますが、ここで想起されるのが、「大山積神∴(瀬織津比売命)」です。瀬織津姫という神が大山祇神社の元宮・横殿宮の祭神であった、つまり、霊跡「みたらしの井戸」の霊水を司る神であったとみますと、「水神大山積大明神」は「水神瀬織津姫神」を秘した称号であったことがみえてきます。また、京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)の御生[みあれ]神事と深く関わる境内社・井上社は、その異称を御手洗社といいますが、同社祭神として瀬織津姫神がまつられているように、御手洗神は瀬織津姫神のことです。大山祇神社の最たる本源の霊跡が「みたらしの井戸」と命名されていること──、これも理あっての命名とみられます。
 伊予国・八幡浜の山中に霊瀑・鳴瀧がありますが、ここは八幡浜地方における龍王伝説発祥の地とされます。鳴瀧神社にまつられる神、あるいは鳴瀧の滝神として瀬織津姫神はいますが、この神が蛇体から龍へ、そして龍王・龍神へと変身する話は、当地の民話として活写されています(菊池住幸『やわたはま龍王傳説』)。
 大山祇神社の縁起・由緒は、同社祭神・大山積大神の本姿を口が裂けても大蛇であるとはいわない(いえない)でしょうが、元宮の御手洗神にまで遡及するならば、大蛇ともなり、大蛇を祓う神でもある水霊神がみえてきます。
 朝廷(持統太上天皇と藤原不比等)は、元宮・横殿宮からの遷宮をなぜ命じたかについても神社由緒は語ることがありませんが、瀬戸内海における航海守護の神徳をも兼備する神、しかも、皇祖神の創作をもっとも脅かす神がここにまつられていたと仮定しますと、新殿造営に伴う祭神変更を命ずることが「勅命」の真意だったとなりましょう。
 こういった勅命を受容した越智氏(越智玉澄)の心中の苦衷は察して余りあるというべきですが、三島大明神を信奉する越智郡の民は、大宝元年からすれば千二百余年後の昭和の時代になっても、なお「大山積神∴(瀬織津比売命)」と主張していたのでした。
 社誌『大三島詣で』は、大山積大神の神徳について、「山神である一方海神・渡航神としての神徳を兼備、鉱山・林業は無論のこと農業神として、さらに瀬戸内海を航海する人々の篤い信仰をあつめてきた」と書いています。これに、元宮における水神・祓神の神徳を加えてもよいですが、山神・海神・渡航神・農業神(水神)と多様に列挙される神徳は、もともと大山祇神社元宮の神のものであったとみても、一つも矛盾するものはありません。『三島宮御鎮座本縁』は大蛇を「悪神」とも書いていましたが、朝廷の祭祀思想から公認される大山積大神と否認される瀬織津姫神の境界は、大蛇=悪神ともなりうるか否かにあるようです。むろん、ここでの「悪神」は、中央祭祀にとっての「悪神」とみてよく、それを求菩提山のように「鬼神」と呼んでも、なんら変わるものではありません。
 大山積神と瀬織津姫神が「∴」の関係にあることの妥当性については、七割程度の考証を果たしたかとおもいます。越智郡渦浦村の史料の価値は、やはり大きいといわねばなりません。
 戦後現在、越智郡津島(今治市吉海町津島)の大山積神社からは、求菩提山や樽前山と同様に、瀬織津姫神の名は消去されているようです。しかし、方便として言い換えられる大山積神の内実的性格は、朝廷の祭祀思想がもっとも忌避する神のものであったとはいえそうです。たとえ神名や社号を変え、また「日本総鎮守」を標榜しようとも、その元神固有の神徳までは変えようがない、創作しようがないといったところでしょうか。神徳とは、民衆が生活の内部で実感的に認めたもののみが生き残りますから、上意下達によって決められる筋合いのものではないということです。

大蛇としての三島明神──大山祇神社元社地を訪ねて【Ⅰ】

更新日:2011/1/5(水) 午前 3:27

 豊前国の求菩提[くぼて]山では犬ヶ岳の霊神・鬼神をまつる鬼神社の祭神、宇佐神宮では地主神をまつる亀山神社の祭神として表示される大山祇(積)神です。大三島・大山祇神社は、社名には「祇」、神名には「積」をと、使い分けているとのことですので、以下、原則としてこれに従いますが、それにしても、「鬼神」と表示され、あるいは宇佐八幡の「地主神」と表示されるというのは、やはり、安易・安直の感は否めません。それと、北海道苫小牧市の樽前[たるまえ]山神社では、明治期初頭までは、求菩提山・普賢窟の霊神「岩瀧大明神」でもあった「瀬織津姫命」を明らかにまつっていた史料があるにもかかわらず、それを、官命(正確には「明治天皇の勅命」)によって、ここでも大山積神に変更させています(菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻)。
 瀬織津姫という神は、少なくとも求菩提山・犬ヶ岳と樽前山においては、明治期初頭まで確実にまつられていました。それが、かように、いとも安易・安直に大山積という神に変更されていることを考えますと、日本の神道(伊勢神宮を「本宗」と仰ぐ神社神道)世界はどうなっているのだという根本的疑念は深まるばかり、といったところでしょうか。
 この疑念は、大三島・大山祇神社を中心とする伊予国(愛媛県)の祭祀にもいえるもので、たとえば昭和十二年頃に成る「神社に関する調査」には、次のような表示がみえます。越智郡渦浦村津島字向山(当時)に鎮座する大山積神社の祭神に関する項です。

大山積神(瀬織津比売命、来名戸祖命、
(合祀)津島神社─天照大神、饒速日命、天道日女命∴

 この「調査」は国家の命によるもので、地区の氏子総代か神職によって書き上げ・提出されたものですが、それにしても、この祭神表記の仕方は特異です。
「来名戸祖命」は、ここからこっちへは来るなといった意味をもつ、いわば黄泉との境界の神のことですが、これは、大祓神として定義づけられた「瀬織津比売命」をいいかえたものとみられます。
 瀬織津姫という神は、天智天皇八年(六六九)に大祓祝詞(のちの中臣祓)を創作したとする滋賀県大津市の佐久奈度神社の由緒によれば、「三途川」の神、いわば彼岸と此岸の境界神といった貶称的定義もなされていましたから、「来名戸祖命」は「瀬織津比売命」の大祓神・境界神的性格を特化した神名とみられます。つまり、両神は別神ではないにもかかわらず、氏子総代あるいは関係神職は、それまでの祭祀伝承に基づいて、並記するという不自然さを承知の上で、正直に「瀬織津比売命」の名を申告したものと想像されます。
 したがって、ここから「来名戸祖命」をはずしてみますと、大山積神社の祭神は「大山積神∴(瀬織津比売命)」となり、大山積神と瀬織津姫神は「∴」、つまり、「言い換え」を意味する記号で語られるとすれば、両神は親近の関係にあるということになります。
 ところで、記紀神話で、もっともわかりにくい点を一つ挙げよといわれたなら、わたしは、神と人との間に境界線が引かれていないことを真っ先に考えます。八世紀初頭、天皇の祖神としてのアマテラスが創作・策定され、それが天孫降臨というグレーゾーンの仮構を経て、いつのまにか天皇の連綿たる系譜(皇統譜)をつくるという展開をみせます。こういった創作・仮構が、さもあたりまえのように「正史」に書かれているというのは異様ともみえ、また、このことが、天皇の臣下たちの祖神─氏族という系譜創作にも反映しているようです。
 ここで問おうとしている大山積という神にしても、単純に考えれば「大いなる山の神」といった意味の神名にすぎないにもかかわらず、神話は、この山神の娘とされる木花開耶姫と天孫(瓊々杵)との婚姻関係を創作していて、皇統譜の最初期の重要場面に大山積神の存在を記しています。大山祇神社々務所発行『大三島詣で』は、こういった皇統譜神話を承けて、自社由緒の一齣あるいは自己顕示・矜持として、次のように記すことになります。

 天孫瓊々杵尊の皇妃として迎えられた木花開耶姫命の父にあたる大山積神は、皇室第一の外戚として日本の建国に大功をあらはし、全国津々浦々にその分社が祀られている。大正四年十一月十日、四国唯一の国幣大社に昇格するのも右の由緒によるものである。

 文中「木花開耶姫命の父にあたる大山積神」とあり、大山積神は父=男神であることが当然のごとくに書かれています。しかし、これは必ずしもそうとはいえないことで、『日本書紀』をよくよく読みますと、その本文には「天神の、大山祇神を娶[ま]きて」生まれたのが木花開耶姫だとあります。娶るというのは女性を対象とする語ですから、『書紀』本文は、「大山祇神」を「女神」としていました。にもかかわらず、『大三島詣で』は、『書紀』の異伝を採用したものか、自社祭神を「男神」と決めているようです。
 大山積神は男神か女神かといった基本・対極的な問いがまずあるように、この神は、まさにグレーゾーンにいる神といってよさそうです。もっとも、皇統譜とは無縁の、いわば「神」の位相に限定するならば、各地の民間伝承においては、山神は「女神」と認識・伝承されているというのが圧倒的主流です。
 天孫降臨譚における吾田国(薩摩半島)の大山積神については、項を改めてふれることになりましょうが、ここでは、瀬戸内海・大三島の大山祇神社に限定してみてみることにします。以下は、大山積神と瀬織津姫神が「∴」の関係にあること、その検証の試みとなります。
     *






犬  現在の大山祇神社は、戦前の社格で「国幣大社」だったことに見合う社殿の豪壮さを誇り、鳥居扁額には「日本総鎮守大山積大明神」などとうたっていますが、『大三島詣で』は、大山積神には元の祭祀地があったことを、次のように書いています。

『三島宮御鎮座本縁』によれば、はじめ島の東側にあたる瀬戸にまつられたが、のち現在の大三島町宮浦字榊山一番耕地に大宝元年から霊亀二年まで首尾十六年をかけて大造営をなし、養老三年四月二十二日正遷座が行なはれたと記されている。

 旧社地から新社地(現在地)への遷宮にあたって、「大宝元年から霊亀二年まで首尾十六年をかけて大造営」をなしたとされます。まさに「大造営」であったわけですが、霊亀二年(七一六)に造営を終えるも、「正遷座」は「養老三年(七一九)四月二十二日」とされ、三年ほどの空白時間があるようです。この空白時間の理由は不明ですが、ここにはスムーズな遷座をはばかる事柄がはいるのでしょう。
 この造営・遷座の時間に関する出典根拠は『三島宮御鎮座本縁』とあり、同縁起を読んでみますと、大宝元年(七〇一)の条には、この大造営が大山祇神社側の自発的意志によるものではなかったことが、次のような逸話とともに書かれています(『神道大系』神社編四十二、所収)。

四十二代文武天皇御宇大宝元辛丑年、小千玉澄奉勅命、横殿宮同嶋乾方遷礒辺之浜。此所悪神在為災。依之玉澄五龍王南山頂鎮座。此時礒辺大蛇有万物或呑人。此蛇乾方飛去。其飛去所蛇嶋[ヨコシマ]云。
同御宇八月十五日同二十三日迄、伊予国中民寄集、神為功、於此地初而放生会始云々。

 前段部分を要約しますと、文武天皇大宝元年、小千玉澄は勅命を奉じて、横殿宮を大三島の乾(北西)の方にある磯辺の浜に遷す。(しかし)ここに悪神がいて災いをなしたため、玉澄は南山に五龍王を鎮めまつった。このとき、あらゆる物や人を呑む悪さをしていた磯辺の大蛇は、そこから乾(北西)の方へと飛び去った。その飛び去った所は、蛇嶋[ヨコシマ]である──。
 後段は放生会を当地で初めて執行したことが書かれていますが、養老四年(七二〇)の隼人の蜂起を鎮圧したあとに放生会をおこなったとする宇佐神宮、それが放生会の最初とされるのが通説ですから、あるいは、大山祇神社の方が先行していたのかもしれません。もっとも、隼人殺害を契機として放生会をはじめたとする宇佐に対して、大三島では放生会開始の契機を大蛇放逐としていることには、少し注意がいきます。
 ここでは放生会の起源問題については言及しませんが、引用の縁起文を読みますと、文武天皇時代の大宝元年(七〇一)からはじまる「大造営」が「勅命」によるものであったことがわかります。この「勅命」は文武天皇の名によるものでしょうが、しかし、文武の背後には、実質的な朝廷権力の保持者である持統太上天皇と藤原不比等がいることはいうまでもありません。また、移転先(現在の社地)には人々に悪さをする「大蛇」がいたと書かれ、それを鎮めるために「南山」(現在の安神山)頂上に「五龍王」をまつったとしています。大蛇は、この龍王の祭祀によって、大三島の北西に飛び去ったため、そこを「蛇嶋[ヨコシマ]」というと、地名譚まで添えられています(現在の横島は大横島と小横島で構成される)。
 ここで語られている大蛇は、大三島の地主神のことでしょうが、その地主神を放逐して現行祭祀の礎ができたということのようです。さらに、この縁起文で興味深いのは、大蛇が去った島を「蛇嶋」とするだけでなく、蛇を「よこ」と訓じていることです。大山祇神社の別由緒『三島宮社記』には、大蛇は「毒蛇」とも書かれ、割注では、わざわざ「蛇訓余古」(蛇を余古[よこ]と訓む)としています。
 蛇を「よこ」と訓むというのは重要におもえます。なぜなら、「蛇嶋」の現在の表記は「横島」ですが、大山祇神社(『延喜式』では大山積神社)の元社の社号が「横殿宮」と称されていたこととの関連が考えられるからです。横殿宮は、大三島の地主神をまつる「蛇殿宮」の意を秘めていたものとおもわれます。
 大山祇神社の元宮について、『大三島詣で』は、次のように解説しています。

横殿社
○鎮座地 上浦町瀬戸
『三島宮御鎮座本縁』によれば、今からおよそ一、四〇〇年前、推古天皇が即位されて二年目の甲寅[きのえとら]の年(五九四)、三島逈戸浜(現在の上浦町瀬戸)に大山積神社が建てられ、その神社を「横殿宮[よこどのみや]」と呼んだと記されています。
 その後、養老三年(七一九)に現在の大三島町宮浦字榊山に社殿が建てられ、遷座祭がおこなはれましたが、地元の人々は「もとみや」として篤い信仰を続けています。平成元年社殿の改築が行なはれた。
 潮音山向雲寺(上浦町瀬戸)の境内には横殿神社の祭神大山積神の本地仏である大通智勝仏の仏体御神像を安置する十劫山大通庵の御堂がある。



犬  大山祇神社の元宮、そのさらなる旧跡地には、海中にあるも「霊水」が湧いているとされ、この「霊水」こそが大山積神の神威の発現とみてよさそうです。「霊水」の湧く井戸は、現在「みたらしの井戸」と呼ばれていますが、この井戸についての『大三島詣で』の説明も読んでみます。
(つづく)

求菩提山・犬ヶ岳──生きている鬼神伝承【Ⅴ】

更新日:2011/1/1(土) 午後 2:19

 ところで、この「鬼ヶ洲」(権現森)について、『豊刕求菩提山修験文化攷』は、次のように説明しています。

記録に、「権現森、往古求菩提山遙拝所」とある(築上郡椎田町鬼ヶ洲〔島〕)。また、犬ヶ岳、求菩提、権現森(島)を結んだ、一直線上の極楽谷に門柱がある。

 鬼ヶ洲(権現森)・極楽谷の門柱・求菩提山・犬ヶ岳が一直線上に並んでいるという指摘です。鬼ヶ洲(権現森)は「往古求菩提山遙拝所」でもあったようですが、このレイラインは机上のモノサシによるものではなく可視的なものです。蛇足ながら、「求菩提山遙拝所」は、ここでも犬ヶ岳をスポイルしていて、もともとは犬ヶ岳遙拝所というのが正確なのでしょう。鬼ヶ洲の「鬼」は、求菩提山ではなく犬ヶ岳にこそ認められるからです。

▲鬼ヶ洲(鬼塚)の浮殿



 現在、鬼ヶ洲(権現森)は「鬼塚」と呼ばれ、案内板によれば、ここはもともと浮洲だったようです。ここには「浮殿」と呼ばれる小さな祠がみられ、国玉神社(求菩提山護国寺が明治期に神社化したもの)による浜降り神事における神幸先の地(社)とされます。犬ヶ岳の遙拝山である求菩提山には、養老四年から白山権現を中心とする神仏祭祀が大々的に展開されることになりますが、犬ヶ岳の霊神が初めて降り立った地・鬼ヶ洲を、求菩提山信仰がけっして忘却していないことがわかります。鬼神と称されるも、犬ヶ岳の霊神は、白山権現(白山天女神)や八幡大神(比売大神)を引き寄せるだけの親縁的神威を有する神であり、妙見神とも習合する神でした。
 以上は、神仏習合時代の縁起による解読ですが、明治期に求菩提山護国寺は国玉神社に変身します。つまり、仏教色を払拭するかたちで神道(正確には神社神道=国家神道)的由緒を新たにつくることになります。『福岡県神社誌』収録の国玉神社の項にみられる由緒は、江戸時代の神仏習合縁起から仏教色を消したかたちでつくられたものです。先の引用部分に対応する由緒を読んでみます。

元正天皇養老四庚申歳伊弉諾命伊弉册命の二柱の神を相殿として崇祭し給ふ。同御宇蒙古渡海にして天下大に驚動す。朝廷諸社に奉幣して彼の敵兵調伏の事を祈らしむるに当り、当社も亦勅宣を蒙り祈願の事を奉ず、事治るの後朝廷藤原朝臣武知麿を以て報賽せらる。其後宣旨を稟け鎮護国家の道場となし山を求菩提と改めたり。

 明治政府は「権現」を名乗ることを禁じましたから、白山権現の名はここにありません。その代わり、白山権現の垂迹神とされる伊弉諾命・伊弉册命を養老四年に勧請したとされ、継体天皇時代にまつられたとされる顕国霊神の「相殿」神とみなされているようです。
 本来の神を権現の名で封じ、しかし、その垂迹神が語られるとき、まったく異なる神が元々の神だったかのように現れてくるというのは、本家の白山においてもいえます(『円空と瀬織津姫』下巻)。ここには、巧妙な神の差し替えの問題がありますが、それはおくとしても、この由緒には、養老四年に「蒙古渡海にして天下大に驚動す」と書かれています。これは、『求菩提山縁起』がすでに書いていたことですが、養老四年の大乱とは、日向・大隅の隼人の蜂起のことでしょう。それが「蒙古渡海」とされているのは、隼人が新羅の援軍のもとに蜂起したと伝承されていて(中津市・古要神社由緒ほか)、ここでの「蒙古」は元寇のそれではなく、倭国とは不倶戴天の異敵国・新羅を意味しています。
 かつての筑紫国造磐井も、新羅と濃厚な関係を背景に、朝廷に叛旗を立てたことが想起されますが、養老四年の隼人の大乱の背後にも新羅の影があることは、朝廷にとっては由々しきことだったにちがいありません。また、養老四年には『日本書紀』が成り、その神話創作では、隼人は天皇への永遠の服属を誓ったと描写されていましたから、朝廷からすれば、このタイミングでの隼人の蜂起がどれほどの驚愕だったかは想像に余りあるというべきでしょう。
 磐井をかくまった犬ヶ岳の霊神は、もともと新羅とは親和的な関係を有する神であり、心情論理上、隼人にも守護・加勢の神威を示すことはじゅうぶん以上に考えられます。国玉神社に「敵兵調伏」を祈願し、それが功を奏したとして、隼人蜂起の平定がなったあと、「朝廷藤原朝臣武知麿を以て報賽せらる」とありました。ここに名がみられる「武知麿」は藤原武智麻呂のことでしょう。朝廷が不比等の子をわざわざ「報賽」(お礼)の使いとして派遣してきたのが史実としますと、逆に、それだけの謝恩と安堵が朝廷側の思想心情にあったと読めるというものです。
 犬ヶ岳の遙拝山である求菩提山は、もともと神仏習合という方法によって「鎮護国家の道場」、いいかえれば、犬ヶ岳の霊神を封ずることが「鎮護国家」の目的にかなうというように策定された「護国」至上の宗教空間でした。明治期(以降)、この神仏習合のダイナミズムを語ることが禁じられたなかで自社由緒を作成するのは、さぞかし難儀なことだったとおもわれます。由緒が記す「敵兵調伏の事を祈らしむる」対象は、厳密にいえば、まだ存在していない国玉神社ではなく、求菩提山護国寺でした。
 行善和尚が当山に白山権現を勧請した理由を、鎮護国家のための霊験を必要としたといった外的要因以外で考えますと、少なくとも二つの内的要因があったことを指摘できそうです。
 その一は、当山が「星嶽」の名称からはじまる、いわば妙見・北辰信仰の山であったことです。白山権現も妙見・北辰神も、ともに本地仏を十一面観音としていて、その親近的共通性がまず指摘できます。しかし、本地仏の共通性だけではなく、求菩提山の信仰においては、白山権現自身が北極星と見立てられていたということがあります。なお、本家の白山の縁起(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)においても、「本地十一面観世音。七星の中の破軍星是なり」という文言がみられ、この「七星」は北斗七星のこと、「破軍星」は北斗七星七番目の星のことですから、求菩提山の妙見・北辰信仰は白山と共有するものであったといえるかもしれません。
 求菩提山の妙見・北辰信仰について、『山伏まんだら』は、『求菩提山雑記』末流等覚寺条を引きながら、「上宮の白山妙理大権現は、中国の太白山に住む妙理符君星としているが、妙理符君星は北極星を意味する」と指摘していて、要するに、求菩提山信仰の内部では、白山権現は妙見神・北辰神とみなされていました。これらは、求菩提山・犬ヶ岳の霊神と白山権現に秘められた霊神が、同体とみなされていたことを告げるものといえそうです。
 その二は、求菩提山における最重要な霊窟として五窟の一つ・普賢窟(胎蔵窟)があったことに関わります。この霊窟の神は、神仏習合時代(近世末の「諸堂記」)には「普賢窟、小社、右岩瀧大明神安置、明神ト称号ス」と書かれていました。この普賢窟の小社には岩瀧大明神がまつられていたわけですが、明治期初頭の求菩提山に伝わる史料には、この岩瀧大明神の神名が、次のように書かれていました(『豊刕求菩提山修験文化攷』所収)。

岩瀧宮  瀬織津姫命

 求菩提山信仰の内部では、普賢窟(胎蔵窟)の霊神・岩瀧大明神が、滝神・水霊神を本質とする「瀬織津姫命」と伝えられていたことの意味は、とても大きいといわねばなりません。なぜなら、賴厳上人の師でもある阿闍梨皇円が、弥勒の世の到来(下生)まで、自分は眷属の龍神となって側にいることを誓って入定をとげた静岡県・桜ヶ池、その池神・水神こそ、この「瀬織津姫命」だったからです。さらにいえば、「その一」とも深く関わりますが、白山権現という権現称号の背後に秘められた霊神もまた、この「瀬織津姫命」でした(以上、『円空と瀬織津姫』)。
 日本の神道史で「深秘」とされる神の筆頭に、この瀬織津姫という神はいます。明治期初頭の神仏習合の禁止(明治五年の修験道の禁止)は、より具体的には「神仏分離」による神々の洗い出し、さらに正確にいえば、皇国・日本の神まつりにふさわしくない神々の洗い出しを伴うものでした。国内の全神社が、祭神・由緒書を国家へと提出させられ、そこで消去・差替の対象となる神々が洗い出されました。皇祖神の創作祭祀の秘密を、その存在によって証言してしまう瀬織津姫という神は、伊勢神宮を頂点とする国家神道の整備を意図する祭祀思想からしますと、もっとも過激な消去対象の神でした。このことは複数の事例がみられますが、求菩提山も例外ではなく、「明治十三年二月」の日付をもつ「神社明細書」からは、この神の名は消されることになります(『文化攷』)。
 途中、中世の動乱など盛衰があったにしろ、長きにわたって神仏習合を空気のような自然態の祭祀としてきた修験の霊山は、明治期初頭、例外なく未曾有の大混乱・大激動の渦中にありました。求菩提山側は、行善和尚から賴厳上人へと伝わる「深秘の尊体」とも関わる霊神の名を、そのままにしたためて国家に提出したものとおもわれます。
 その結果が岩瀧宮そのものの消去という結果とはなりましたが、明治期初頭の、ほんのわずかな時間とはいえ、この神の名が記録に残ったことは評価せざるをえません。また、朝廷の意向からすれば、この神の神威は天皇・朝廷の外に対してのみ向けられる必要がある、つまり、天皇・朝廷にふりかかる災いを祓う国家神(大祓神)としてのみ、その存在を許すとしていたのでしたが、求菩提山は、そういった朝廷の意向・思惑に準ずることなく、人々の生活の守護神でもある水源神としての祭祀を密かにつづけてきたことも、大きく評価できることといえます。
 最後に、瀬織津姫が「鬼神」とみなされる理由を挙げておきますと、記紀の神功皇后条が端的に語っていましたが、この神の荒ぶる心が発現すると、不徳・不信心の為政者ならば、容赦なく「死」を与えるといった神威の強さが朝廷側に認められていたことがありましょう。しかも、この神は、神宮の地主神(の一神)でもありました。『日本書紀』は、この神威別格の神の名を「天照大神荒魂」とも「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」とも記していました。求菩提山信仰においては、犬ヶ岳の鬼神は「深秘の尊体」というように、一方的な忌避・貶称の対象とはみなしていませんでした。行善から賴厳への、この神に対する逆説的な信仰は、地下流水のごとくに脈打つ伝統としてあったと認めてよいのではないかとおもいます。
 現在、白山天女神や八幡大神(比売大神)とともにいるだろう犬ヶ岳の霊神の眼には、自らの遙拝山である求菩提山における、朝廷側の一方的思惑による一連の動きは、どのように映っているのでしょう。鬼神と貶称されるも、犬ヶ岳の神が「鬼」に値する報復の祟りをなしたなどという話は一度も聞いたことがありません。この神を恐れる感情は、いつでも支配者側に限られるというのも特徴です。民心に対する懐の深さ・広さは、どうやら犬ヶ岳の霊神のほうに、今も沈黙をつづける鬼神のほうに、「ある」とみてよさそうです。求菩提山修験の真髄は、このことを告げているようにみえます。