龍神と瀬織津姫神【Ⅱ】──八幡浜・鳴滝の龍神伝説

更新日:2010/10/17(日) 午後 6:56


▲地之大島(地大島)から三王島(左の小島)と大島を望む

 大島の龍神伝説は現在、龍神・八大龍王の伝説として語られるのみで、同島の神まつりとクロスする道筋を浮かびあがらせるのは容易ではありません。これは、地之大島(地大島)の龍王神社と三王島の三王神社の祭祀が、あたかも無縁であるかのごとくにそれぞれ独立してみえることとも関わっています。
 ところで、龍王池(大入池)のある島は、大島(本島)に対して地之大島(地大島)と「地」をあえて冠省して呼ばれています。この「地」の意味は、江戸期に開島された大島に対して、藤原純友伝承にみられるように、開島が古く先行するものであったことを示す命名でしょう。また、このことを神まつりの視点からいいかえれば、地之大島(地大島)には大島全島の「地」の神(先住神)が存在し、それが龍神・龍王と信仰されたきたものともみられます。全島が「神の島」(神域)とされる三王島ですが、この島神は、龍神・龍王とともに、「大島の海(宇和海)の守護神」とみなされていることから、三王神社には、龍神・龍王と習合していた神も、ともにまつられているはずでしょう。
 神は仏や仏教の守護神(大島では龍神・龍王)と長く習合・一体化し、明治期のことですが、今度は神と仏の強制分離がなされます。そこで分離されてはじまる神まつりが、元の神の祭祀の復元を果たしているかといえば、それはほとんど稀で、多くは「神の変質」「神の差し替え」がなされて現在に至っています。これは、龍王神社の現祭神が「闇御津羽神」とされることに象徴されますが、島の人々はただ「龍神さん」と親称してきたもので、この龍神・龍王と習合していた神を「闇御津羽神」と人々が認識してきたものではないでしょう。
 龍王池にまつられる龍王神社の古い石柱には「八幡濱龍神」と刻まれています。大島(地之大島・地大島)の龍神・龍王は八幡浜のそれであるという認識が、この石柱の建立者にはありました。
 八幡浜の郷土史研究者・菊池住幸氏の著の一つに『やわたはま龍王傳説』があります。氏の探索は当然ながら大島にまで及んでいますが、本書の最大の特徴は、八幡浜の「龍神発祥の地」を仙井山保安寺とすることなく、龍神伝説発祥の初源(地)が語られていることです。大島の龍神伝説は、この八幡浜のそれから派生し、より伝説化されたものですが、以下に、「もう一つの龍神伝説」を紹介します。

 昔むかしの事です。千丈鳴滝の近くに、胎宝院様という若くて偉い方が住んでおられました。
 或る日の事です、胎宝院様が滝の近くを通ると、それはそれは美しい一人の姫に会われました。その美しさに心を奪われた胎宝院様は、次の日も又、次の日も滝の姫に逢いに行かれました。姫の名は「瀬織津姫[せおりつひめ](比賣[ひめ])」と云い、まもなく二人は結ばれ幸な日々を送り、やがて姫は身ごもりました。

 現在「千丈鳴滝」(通称は「鳴滝」)は林道によって分断され、また水量も減り、その「千丈」の滝の景観は過去のもので今は想像するしかありませんが、これは現存する滝です。その「滝の姫」として瀬織津姫神の名が刻まれています。
 徳の高い「胎宝院様」は修験者・仏教徒の一人でしょうが、彼と滝姫神の交合・婚姻に、すでに神仏習合の傾向が比喩されています。瀬織津姫の懐妊のその後は、次のように語られます。

 いよいよ臨月の時、姫は胎宝院様へ不思議な約束をさせました。それは「私に子供が生まれても、どうか室[へや]には入らないで下さい。」と申すのです。生まれたはずの赤子の顔さえ見れぬ、泣き声さえ聞こえぬ姫の室への不審は募るばかりです。とうとうある夜、そっと姫の室を覗いた胎宝院様は肝を潰さんばかりに驚きました。室には姫の姿はなく、一匹の大きな紅い蛇が盥をかかえ、中に居る数拾匹の蛇の子と戯れているではありませんか。実は、姫とは鳴滝の精霊で、蛇の化身だったのです。正体を知られた姫は、最早胎宝院様のそばに居る訳にはまいりません。翌朝、姫は悲しげに胎宝院様に別れを告げ滝に帰って行きました。滝に帰った姫の悲しみは一方ではありません。遂に姫は胎宝院様への想いを断つべく鳴滝を去る決心をします。滝壺には雌渕[めんぶち]という蛇の抜穴があり、郷川へと続いていたのです。

 姫(瀬織津姫)は「鳴滝の精霊で、蛇の化身だった」と明かされ、この「蛇」の転身のドラマが伝説の基調をつくります。鳴滝には郷川へとつづく「蛇の抜穴」があったとありますが、「郷川」は現在の千丈川の上流部の名称です。以下、流浪する「蛇」の伝説物語がつづきます。

 この郷川に出た蛇は千丈川を下ります。松尾川では暫し佇み滝の山を仰ぎ、郷里[ふるさと]へ胎宝院様へ、最後の名残りをおしみます。(この場所は鳴滝神社からは鬼門の方角に当り、小さな祠が祭ってある。)北茅、南茅の川を下り、五反田川を少し上り、川沿いにある保安寺の庭の池でしばらく住んでいたといいます。〔中略〕
 成長するにつれて寺の池がだんだん狭くなって来ました。或る日、寺の和尚はやさしく蛇にいいました。「お前は蛇ではなく龍神の子であろう。おまえが安住するによい所がある。」と申され、大島の大入池を教えられました。

 流浪する「蛇」は、「保安寺の庭の池」をしばしの安住の地としますが、だんだん体が大きくなってきて、庭の池では狭くなってきたようです。保安寺の和尚は、「お前は蛇ではなく龍神の子であろう」と見抜き、最後の安住地として「大島の大入池」の存在を教えます。大島の龍神伝説では、保安寺には「男の龍神」がいて大入池(龍王池)へと渡ってきたとされますが、八幡浜の伝説では、「滝の姫」としての「蛇」が語られます。この流浪の蛇姫は「大島の大入池」へと向かうことになります。

 蛇は新しい棲家をめざし海へと旅立ちます。粟野浦~舌間~川名津と海岸の浅瀬を伝いながら、穴井と周木との間にある「池の浦」へと辿り着きました。もうここまで来ると大入池のある大島は間近に迫ります。沖には鮫が屯[たむろ]し、容易に渡る事が出来ませんでした。この池の浦に住む頃の蛇の体のしまは鱗と変り、すっかり小龍神に成長していました。

 保安寺の五反田川から千丈川を下って海に出た蛇姫は、浅瀬の海岸をたどって、大島の真向かいにある「池の浦」へとたどりつき、そこにしばらく住んでいたようです。体はさらに大きくなり「すっかり小龍神に成長していました」とも語られます。大島の龍神伝説では、保安寺の「男の龍神」、池の浦の「女の龍神」、両龍神が渡海して大入池で夫婦の龍神となるという伝説に変わりますが、八幡浜の伝説では、すべて「女の龍神」の話のようです。
 鳴滝の滝姫は蛇体から小龍神へと成長し、ついに大島へ渡ります。その渡海にあたって、善良な漁師の協力を得たことは大島・八幡浜の両伝説で語られるところですが、成長した龍神が雨にまつわる神力(神通力)を身につけることが、八大龍王への変身譚として語られ、伝説はここで終盤を迎えます。伝説の最後は、雨乞いの史実の匂いを残して結ばれます。

 大入池に移った龍神は天に昇る修行を積みやがて神通力を得、雲を呼び、雨を降らす飛龍、八大龍王の一つ娑伽羅龍王(娑竭羅龍王とも書く)となったのです。龍神は五反田の保安寺に住み大入池を教えてもらった御礼に仙井山保安寺住職は一代の内、三度までは大島の大入池まで雨乞いに参籠すれば、どんな日照り続きの夏でも雨を授ける事を告げ、「雨乞いの寺」「龍神の棲んだ寺」として古くから人々に知られ、藩政時代、宇和島藩からの雨乞いの礼状や記録が現在でも寺に保存されています。

 仙井山保安寺住職は、「大島の大入池まで雨乞いに参籠」するとありますが、この渡海の前段階の雨乞いの行を記していたのも『やわたはま龍王傳説』でした。

 雨乞いの行事が決まると、(保安寺)和尚は先ず鳴滝の水で身を清め「火物断」と称し火を使って料理したものは一切取らず精進潔斎し、寺内に奉る八大龍王の前で七日七晩、昼夜の別なく祈念します。更に「神ヶ森」に登り遙か大島大入池を拝します。

 保安寺住職(和尚)だけは、大入池の龍神(八大龍王)誕生の故地である「鳴滝」を忘れていないことが伝わってきます。「先ず鳴滝の水で身を清め」るという行為から、鳴滝の滝姫(鳴滝の精霊)である瀬織津姫神が禊神としてもあることをよくよく認識していたものと想像されます。『やわたはま龍王傳説』の最後には、著者・菊池氏による八幡浜の龍神伝説の「まとめ」のことばが読めます。

 龍神発祥の地「鳴滝」は土地の人からは「鳴滝様」といって親しまれ、遠い昔より水が涸れた事がなく、滝をすべる水は龍の形に似て、落ちる水はあたかも龍が吼えるが如く林に響き渡っています。全国で唯一ヶ所「瀬織津姫(比賣)」を奉るこの神社は、善男・善女を引き逢す縁結びの神でもあり、瀬織津とは速い流れの水の意味で、諸々の悩み、汚れを大海原に早く押し流すと云う悩みを解消する神であり、また子供に恵まれない夫婦にとっては、胎宝院様は子授けに御利益ありとされ、「胎宝」の字の如く健康な母胎で安産必定、子宝に恵まれ子孫繁栄、世はまさに万々歳であります。
 縁を結び、子宝を授け、海の幸、山の幸を人々にもたらし、護国豊饒、この霊験灼[あらた]かなる龍王の功徳は大きく真に計り知れないものがあります。

 京都の貴船神社─橋姫神社の伝承では、瀬織津姫神は「縁切りの神」とみなされていましたが、八幡浜の千丈鳴滝(鳴滝神社)では逆で、ここでは「善男・善女を引き逢す縁結びの神」とされます。引用の最後にみられる、龍王と化した瀬織津姫神のもつ神徳(功徳)の数々に、わたしも同意するものです。
(つづく)

▼大入池(龍王池)と龍王神社

龍神と瀬織津姫神【Ⅰ】──宇和海・大島の龍神伝説

更新日:2010/10/14(木) 午後 9:58


▲大島全景

 愛媛県八幡浜[やわたはま]市の宇和海沖合に、戸数約二○○戸、人口約三五〇人が住む「大島」があります(平成二十年現在)。八幡浜と大島は一日二往復の定期船によって結ばれていて、片道の所要時間は二五分ほどですから、離島の印象はそれほどつよくないかもしれません。
 この宇和海の大島は、厳密には大小五つの島から成り、その主島は東から地之大島・三王島・沖之大島の三島、ただし、人が住むのは西の沖之大島(大島本島)のみで、あとの二島は「神の島」の観があります。もっとも、寛文二年(一六六二)に「開島」される前の大島の歴史をいえば、かつて朝廷を震撼させた天慶の乱(九三九~九四一)の主役・藤原純友の支塞が地之大島にありましたから、純友にとっての「神の島」は三王島に限られましょうし(写真:真ん中の小島)、これは、現在の島民の信仰にとっても変わらないようです。
「島から昇り、三王島に沈む太陽は神秘性を秘め、人々に神の宿りを信仰させた」──、これは、山本巌「大島の歴史と信仰」の書き出しのことばですが(『八幡濱史談』第三七号所収)、三王島の信仰的特異性をよく表現しています。
『八幡浜市誌』をはじめ山本氏もそろって指摘するところですが、三王島には大島「開島以前の古社」とされる山王神社があります(現地の石碑は「三王神社」と刻む)。市誌の記載を読んでみます。

山王神社(大島三王島)
主祭神 市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命・須瀬理姫命・大物主神・木花開那[ママ]姫命・綿津見神
例 祭 旧六月初申の日
建造物 本殿・拝殿・鳥居・石灯籠
由緒・沿革 勧請年代は不詳である。開島以前の古社であり、棟札などによると一五七二(元亀三)年に修造、一七三九(元文四)年に再建、一八一二(文化九)年に再建されたといわれる。

 神社境内の「三王神社再建」石碑(裏)の「三王神社由来記」も、ほぼ同内容の沿革記事を刻んでいますが、島名・社号に共通してみられる「三王」は、どうやら三女神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)に由来するようです。このことは、石碑(表)の筆頭祭神に「三女神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)」と刻んでいることに表れてもいますが、しかし、石碑祭神をよくよくみますと、市誌の記載とは微妙に異なる祭神名が刻まれていることに気づきます。それは、「須瀬理姫命」ではなく「瀬理姫神」と石碑に刻まれていることです。
 主祭神に配祀されている筆頭神に、この「瀬理姫神」があり、「大物主神」がつづきます。
 山本氏の先の論考の副題を含めたタイトルは、「大島の歴史と信仰──“太陽神信仰”と『大島の伝説』」とされるも、氏は「太陽神」への直接的な言及は避けています。しかし、その書き出しや副題をみるかぎり、大島(三王島)には秘された太陽神がいるだろうことを示唆・暗示しています。
 このことをもう少し際立たせてみます。
 江戸期、大島の「開島」あとの元文元年(一七三六)、沖之大島(大島本島)にまつられた神社に「若宮神社」があります。市誌によれば、その主祭神は「天児屋根命・太玉神・手力雄命・天宇受女命」とされます。大島の全島民が氏子といわれる若宮神社ですが、島民の生活とは交差しようもない神々の名が並んでいます。しかし、記紀神話を想起するならば、これらが、岩戸隠れした天照大神を岩窟から引っ張り出すのに活躍した神々であったことに気づくはずです。
 大島開島以前の古社である三王神社の石碑「三王神社由来記」には、祭神は「大島の海の守護神」また「安産の神」とも刻まれています。島民にとって、若宮神社の神々よりも三王神社のそれに、生活に根ざす信仰がより深くあるだろうことはいうまでもありません。この古社に対して新たに創建されたがゆえに「若宮」を名乗ったとみられ、その祭神表示には、専門神職の思惑が働いているだろうと想像するしかないようです。その上で指摘できるのは、大島の神まつりには、岩窟から出てきたはずの「天照大神」がどこにも存在しないということです。
 山本氏が論考の巻頭で「三王島に沈む太陽は神秘性を秘め」と記していたことを受けますと、三王神社の配祀神に、「瀬理姫神」とともに「大物主神」という秘められた男系太陽神がいたことは重要にみえます。三輪山伝説はつとに知られるところですが、大物主神の本身が蛇体(大蛇)であったこととおそらく無縁ではない、大蛇(龍神・龍王)伝説を色濃く伝えるのが大島でもあります。
 以下に、大島に伝わる龍神伝説を、山本論考から引用します。

 いつのころか、五反田保安寺裏の小池に男の龍神が住んでいた。成長するにつれ池が小さくなり、何処かへ居を移したいと考えていたが、大島の大入池に目をつけた。ある日、龍神は娘に化身し、舌間の海岸に出た。一人の貧乏な漁師が通りかかった。親切な漁師は、龍の化身の娘が大島に渡りたいと話すと、快く引き受け船を漕ぎ出した。船は今にも沈みそうに重く、やっとの事で大島に着くことが出来た。船から下りる時龍神は身の上を打ち明け、お礼として「わたしの事を誰にも話さなければ、この船はいつも大漁にする」と告げて別れた。それから、この漁師は大漁続きで大分分限者になった。ところが人に問い詰められるままに、龍神渡海の事を話したので、たちまち不漁続きとなり、またもとの貧乏な漁師に戻ったという。

 大島における龍神伝説は八幡浜・五反田村の「保安寺裏の小池」からはじまります。引用の伝説だけを読みますと、さして面白みもない話ですが、「男の龍神」には「女の龍神」がつきものというべきか、次の伝説が加味されて話は展開します。

 三瓶町周木にある池の浦は、大きな池であった。この池にもいつのころからか、女の龍神が住んでいた。大島の大入池と池の浦は、海をはさんで真向かいにあり、呼べば応えるほどの近距離である。やがて男女の龍神の互いに思い合う心は一つになり、ついに、女の龍神がある夜美しい娘に化身し、漁師に渡してもらい、大入池に入ったのである。以来両龍神は大入池の主となり、仲良くここに住んでいるという。

 男の龍神には連れ添いの女龍神ができ、二龍神の安住の地(池)として「大島の大入池」が語られます。この大入池は、大島のなかの「地之大島(地大島とも)」に実在する池で、異称は龍神ゆかりの「龍王池」ともいわれます。
 龍王池(大入池)の前には龍王神社がまつられ、市誌によれば、その祭神は「闇御津羽神」、「勧請年代は不詳」とされ、祭神が男女龍神に対応していないところが、まさに「伝説」の域を出ない伝説話かともおもわせます。
 しかし、大島の龍神伝説の根幹には、引用とは別に雨乞い伝説があるようで、伝説の結部は、次のような話でしめくくられます。

 大入池に入った龍神は、かって育ててもらった保安寺に対して、いつも恩を感じていた。そのお礼として、保安寺の住職が雨乞いをする時は、七日間の断食の上、大島へ渡り祈願すると、どんな干ばつでもたちまち雨を降らせてやる事を、一世三度に限り約束した。以来、数回の雨乞いに雨の降らぬ事は一度もなく、保安寺の雨乞いは、この地方の人々に信頼されてきた。

 鶴ならぬ龍神の恩返しは、ここでは保安寺の雨乞い譚を陰でサポートしていたと読めますが、ここで神仏習合の観点からいいますと、龍神と習合する「神」に対する忘却の度合いに応じて、伝説はより伝説化される法則を指摘すべきかもしれません。
 大島在住の松本竜子氏は、平成十八年八月八~十日の三回にわたって『八幡浜新聞』に「大島の龍神伝説」を寄稿しています。このなかに、佐多岬・三崎町の龍神異聞として、大島の龍神は三崎町井野浦地区の阿弥陀池に住まいを移そうとしたが住民から断られ、やむなく大島に帰ってきたという逸話が紹介されています。松本氏は、「大島の龍王池に帰った龍神は夫婦龍として、仲良く池畔にその影を映し島人や宇和海の守護神として尊崇されている」と逸話を結んでいますが、この「宇和海の守護神」とみなされる龍神の神徳は、三王神社の「大島の海の守護神」という神徳と重なります。
 大島の海(宇和海)の守護神として、龍王池の龍神と三王神社の神がともに語られることが意味するのは、両神の秘められた習合関係の存在でしょう。では、三王神社にまつられるどの神と龍神は習合関係をもっているのかという問いとなりますが、これについては、大島の外にまで伝承・伝説探索の視野を広げてみることが必要のようです。
 ところで、この新聞連載記事において、「神」は龍神から八大龍王へと変身するさまが書かれるも、その初源(の神)に遡及されることがないのは、おそらく「龍神の生地と伝えられる仙井山保安寺」との筆者の認識が示すように、大島の龍神伝説は保安寺からはじまることを伝説考証の前提としているからなのでしょう。
 しかし、大島の龍神伝説は、保安寺からはじまるのではなく、保安寺に至るまでのもう一つの龍神伝説の過程があってこそ誕生したものでした。その「もう一つの伝説」にこそ、大島の龍神と習合する初源の「神」の名がみられるのは重要です。
(つづく)

閑話休題──両石湾の三貫嶋神社

更新日:2010/9/10(金) 午後 8:52



 自営業の特権は自分の時間がより多く確保できるということかもしれず、生活における、ある上質の水準を望まなければ、これはこれで、居心地がわるいものではありません。
 風琳堂の場合、社員が一人もいませんからなおさらで、いただいた本の注文に対して荷造り・発送を済ますと、あとは主人一人の時間ですから、どのようにこの時間を使おうともだれに文句を言われることもありません。
 車には注文対応用の本を積み込んで動いていて、出張先・出先で荷造り・発送するなどということもよくあります。これをわたしは密かに「移動出版社」と自認していますが、車を中心に考えますと「移動出版車」という呼び方も可能かもしれません。
 車には本のほかに、モバイル用のパソコンを積んでいて、インターネット・メールへの対応も基本的に可能で、それに携帯電話がありますから、出版社を一所に固定的に構えつづける必要はないという、少し風変わりな出版社スタイルをいつのまにかつくってきたようです。むろん、これは「電波が届く」範囲内という条件を伴いますが、携帯電話の「走り」のときに比べたなら、全国の大概のところは、この条件を満たすようになってきましたから、時代は風琳堂スタイル(?)に追い風となっているともいえそうです。
 1993年型の愛車には仕事用のモノのほかに、釣り道具一式も積まれていることはいうまでもありません。三陸の海でアイナメが釣れたりすると、釣り場から遠野の友人に電話をして、その日の夜は、これをなじみの小料理屋さんでさばいてもらって、瀬織津姫談議の宴会などということもよくあります。
 大槌湾の南、釜石湾の北に両石湾がありますが、ここに仮宿[かりやど]という隠れ里のような小漁港があります。ここの岩場の釣り場へよく出掛けますが、7月は雨中の釣りで、今回は天候良好の日を選んで出掛けました。
 ここも港の守護神は「弁天さん」で、漁民(古代海民の裔)の信仰対象として宗像大神があることは根強い印象を受けます。社名は「三貫嶋神社」といいますが、三貫嶋は沖にある「神の島」で禁足地となっています。釣り場(港)からは視認できませんけれども、「ひょっこりひょうたん島」のモデルともなった島です。
 神社は漁港の北の高台にまつられていて、弁天さんによって、この港が守護されているという祭祀立地がうかがえます。境内には「三巻嶌辨財天女」の石祠もあって、島名の漢字表記には揺れがあるようです。また、同じく境内には「鷹神」の石碑もあって、この鷹神とは何だろうという問いも湧いてきますが、地元の古老に尋ねるも、まだ納得のいく神イメージを語ってもらえる人には出会えていません。
 社殿内の内陣の前には「鏡」が置かれていて、ご神体の実像は不明ですが、ここには琵琶を抱く弁天像(の額)が奉納されています。大槌湾の奉納弁天像もそうでしたが、人々は「弁天さん」に眉目秀麗な女神像を投影させていたとはいえるかもしれません。
 先回の釣りは7月の梅雨の季節でしたが、今回は三陸の海も残暑の夏空に明るく輝いています。大槌湾の釣りでは「四拍手」でご利益(?)があったなと、ほんとうに都合のいいように解釈しましたが、今回も背後の三貫嶋神社の弁天さんに、つい「四拍手」です。この釣り場は、これまでにも大きなアイナメを釣ることを経験していましたが、それは6月のことです。8月・9月は新子[しんこ](生まれたて)の10センチほどの小さなアイナメばかりで、大きなものは一度も釣れた記憶がありません。そんな釣れない季節の釣りですから、多分に「神頼み」ということになります。
 案の定、釣れてくるのは新子サイズで海に返すことをしていましたが、ここのところのわが信心深さ(?)が弁天さんに通じたのか、30センチほどの太っちょのアイナメが釣れてくれました。
 先に移動出版社・風琳堂と書きましたが、実際は、その背後で無償で協力してくれる人がいてこそですから、今回は遠野での瀬織津姫の宴会はパスで、この希少なアイナメはクール宅急便でトラックに揺られることになりました。
 このブログ記事アップの三日後には、四国あたりを「移動出版車」が駆けているか、あるいは宇和島あたりで大きなキスを釣ろうと竿を出している予感がしています。八幡祭祀の通説理解(欽明天皇時代の創祀)は、四国(の瀬織津姫祭祀)から相対化されるだろうことをおもっての四国行です。

閑話休題──大槌湾の弁天島

更新日:2010/9/4(土) 午前 9:10



 瀬織津姫の「せ」を考えることもまだなかった時代、つまり神様ごとにまったく関心がなかった時代ですが、わたしが三陸の海で最初に釣りにいったのは、大槌湾に浮かぶ小さな「弁天島」でした。
 弁天島には大槌湾を行き交う船のために赤い灯台も建っています。もっとも「島」というのはかつてのことで、この岩場のような小島へは200メートルほどの小堤防で陸続きになっていて歩いて渡ることができます。
 こういった要衝の小島には航海安全・大漁を祈願する「神」がまつられるというのはごく自然なことで、大槌においては、この神は、島名にみられるように「弁天さん」でした。
 明治期以降、各地の弁天祭祀は神社化され、たとえば厳島神社とか市杵島姫神社といった社名を名乗るようになるのが一般ですが、大槌では、それまで親しまれてきた「弁天さん」にこだわったものでしょう、社名を「弁天神社」としたようです。
 小さな岩場の小島ですから、社殿を建てるにも苦労があったはずで、規範通りに南面するようにはなっていません。また、社殿の奥にご神体の弁天像が鎮座しているわけでもなく、むかって左横にそれがまつられています。この弁天像を拝む先は真北ではなく、方位感覚からいえば、西の遠野郷、もう少し正確にいいますと、早池峰を拝むような信仰ラインを意識しているようにもみえます。
 ご神体の弁天像はガラスケースに納められていて、その脇には龍王・龍女の神像もみられます。社殿内にはとぐろを巻く「蛇」の額や「宇賀弁財天」と書かれた「剣」(の額)などが奉納されていて、宇賀神が龍神・蛇神であることも意識されているようです。
 社殿内の奉納物のなかで、特に目立つのは、二匹の白龍に守護される女神像の額、しかも同一の構図の額が三つあることです。像に添えられた達筆の文字は三額とも同一人物のものとみてよく、これはよほどの信心の表れです。
 大分県中津市の闇無浜神社の古社伝では、瀬織津姫神は「太神龍」の異称で尊称され、しかも「白龍」に化身することが書かれていましたが、白龍は、ここでは眷属的に守護神を演じているようです。二匹の白龍に守護される女神という構図のモチーフは重要で、宗像大神あるいは八幡比咩神(比売大神)を具象的に視覚化したときの一つの原イメージといっても過言ではないとおもいます。額に「白龍大神」の字が認められるのがいいです(あるいは「日龍大神」とも読めるか?)。
 まだ瀬織津姫の名を知らないときに、わたしは、この比咩神(の視線)を背にして釣りをしていたことになります。
 法人を解体するにあたって、取引先にはそれなりの説明が要りますし、新たな「個人」風琳堂の通帳をつくる必要もあって、今、遠野にいます。「八幡比咩神とは何か」という問いは、ここ一年以上にわたって頭を離れることのなかった問いですが、その大枠がみえた現在、この比咩神の視線を背にして無邪気に釣りをしていた自分に思い至り、三陸の釣りの「原点」ともいうべき弁天島を再訪したのでした。
 かつては見向きもせずに弁天神社の前で釣りをしていたわけですが、あれからすでに十数年経っています。たとえ釣れなくてもかまわないといった気持ちで竿を出していましたが、釣れてくるのは手のひらよりも小さなカレイばかりで、アイナメはまったく釣れません。子ガレイは皆海へ返したものの、ここからが釣り人の「欲」で、一匹だけでも持って帰りたいという気になってきます。
 日頃、信心深さの対極を生きている自分ですが、ふりかえって弁天神社につい「四拍手」をしたりして、我ながら微笑ましくもあるとおもったりしていました。ところが、この「四拍手」が通じたのか(?)、そこで奇跡的に釣れたのが写真の魚です。
 この魚、名はソイ(黒ソイ)といい、典型的な北の魚です。人相(魚相)はオコゼ系といってよく、アイナメと甲乙つけがたい美味といえましょう。人相のよくない魚はほとんど例外なく美味で、一面、人間世界とも通ずるところがあるなというのは、内緒の独り言です。

閑話休題──子ヤモリの訪問

更新日:2010/8/26(木) 午後 9:13

 習うよりも慣れるしかないとおもい、ともかく新パソコンを毎日いじっていますが、IT音痴の自分ながら、二つ気づいたことがあります。それは、前の機種に比較して、画像がやたらときれいだということ、それと、処理速度が格段に速くなったということです。これらは、たぶん動画にも対応できるようにパソコンが設計されているからなのでしょうが、動画については、今のところ自分には縁がないようです。
 ブログをはじめるようになって、デジタル写真(静止画像)の世界だけは、ずいぶんと身近になってきました。どうせ載せるならば、なるべくきれいな写真をとおもうのはあたりまえで、デジタルカメラの世界も気になるようになってきました。
 最新のデジタルカメラは「3D[スリーディー]」対応といった機種も登場してきたようですが、この「3D」の世界のどこが魅力なのかさっぱりわからない自分には、肉眼がとらえた視界に限りなく近く撮影できるものが「よいカメラ」という基準しかありません。
 この「基準」を自分なりのことばで具体的にいいますと、たとえば、被写体に極端な濃淡(コントラスト)があるときでも、濃淡部分双方の質感を損なうことなく一枚の画像に定着できることとなります。明るいところが白く飛ぶ(ハケル)こともなく、また、影の部分が真っ黒になる(ツブレル)こともなく、全体がバランスよく一枚の写真に収まっているというのは、案外ありそうでないという気がしています。
 ここのところ、「閑話休題」にかこつけてヤモリの話をときどき書いていますが、先日は、なじみのヤモリよりも一回りほど小さなヤモリがしっぽを振りながら大ヤモリを追いかけているところを目撃しました。カメラを構えたときはすでに視界の外で、ツーショットの撮影はかないませんでしたが、いつもの深夜の友人にも、やっと「彼女」ができたかとうれしくなったものでした。
 それから、二匹が同時にやってくることは今のところないものの、ある夜は大ヤモリ、ある夜は小ヤモリというように、二匹が交互にいつもの窓にやってくるようになりました。
 小さい方を勝手に「彼女」と呼んではみたものの、ヤモリのオスとメスをどこで見分けるのか気になりだして、インターネットで調べてみますと、どうも自分は大きな勘違いをしていたことがわかりました。ネット情報によれば、オスは生殖器を格納する部分がこんもりとしていて、メスにはそれがないということらしいのです。窓にへばりついているヤモリの腹部をみますと、あのなじみのヤモリはどうやらメスで、しっぽを振って追いかけていた小ヤモリはオスだということが判明しました。
 彼らは交互に同じ窓にやってきますから、よほど連絡がとれているとみられ、二匹は仲のよい夫婦なのだろうと決めました。大小からいえば、二匹は「ノミの夫婦」ということになりますが、カミさんの方は、あの大きな蛾を仕留めたパワーをもっていますから、ここも女性上位です。
 彼らの子どもかどうか、昨夜は4㎝ほどの、産まれてまもないとおもわれる子ヤモリの訪問がありました。築40年以上になる廃屋に近い事務所ですから、小さな隙間はあちこちにあります。人間を恐がることを知らない子ヤモリで、好奇心旺盛というべきか、室内をあちこち徘徊しています。
 いつもはヤモリのお腹しか見ていないので気づかなかったのですが、ヤモリというのは目が真っ黒に澄んでいるなとおもいました。魚のシロギスも真っ黒なきれいな目をしていますが、わたしのカメラでは(わたしのカメラ技術では)、この純な黒をうまく写しだせないようです。
 深夜の殺風景な倉庫事務所に、ヤモリの家族の誕生、あるいは、この子ヤモリの無邪気な訪問は、なかなかの味わいというべきかもしれません。
 新パソコンに写真データを取り込み、それを加工してブログに載せるにはどうすべきかという基本的なところで躓いている自分がいます。
 瀬織津姫や円空に関心をもってくれている読者には肩すかしのようで気が引けますが、この子ヤモリの写真を、新パソコンによる画像アップの実験に使わせてもらうことにしました。