宗像辺津宮「惣社」の成立──「宗大神」の託宣

更新日:2010/4/19(月) 午前 11:33

 宗像三宮、すなわち沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、田島の辺津宮に、宗像大神の三分身(分神)である三女神が個々にまつられます。これが宗像三女神の祭祀の基本ですが、各宮の中心神(主神)には他の二神が「配祀」されていて、けっきょくは三宮がそれぞれ三女神(宗像大神)をまつっているという印象を受けます。
 三宮の中心祭祀の神(主神)を三女神のどの神に見立てるかは、そもそも記紀の記述にしてからが一定しておらず、祭祀者側の頭を悩ませてきたようです。たとえば、三女神のなかで唯一異称神名をもたないタキツヒメ(湍津姫神)の祭祀宮を例にみますと、『古事記』は辺津宮とし、『日本書紀』本文は中津宮、紀の一書(第一)は中津宮、一書(第二)は辺津宮、一書(第三)は中津宮といった具合です。なお『先代旧事本紀』は、神祗本紀・地神本紀ともに辺津宮の神としています。
 このように、三女神の祭祀宮の不定性がみられるのは、宗像における三女神の祭祀が、もともと確たるものではなかったゆえだろうと想像されるところです。しかし、書紀という「正史」に三女神祭祀が記載されていたことは、宗像側からすると、呪縛ともいえるような大きな祭祀制約となったはずで、三女神三宮祭祀は、その不定性の揺らぎを抱えながらも具体化されることになります。これは奈良時代の前半期のことでしょう。
 ところが、奈良時代の末には、三女神を三宮に配するといった祭祀が、新たに複雑化したようです。辺津宮内に「惣社」が設置されたからです。このあたりの事情については、次のように解説されています(神道大系編纂会『神道大系』神社編四十九「宗像」解題)

奈良時代末に、当社の三神奉斎の状況に変化を来した。即ち元来の辺津宮はその域内の第三宮といわれるに至ったものであるが、天応年中、辺津宮の地に、従来の第三宮とは別に、新たに惣社が設けられ、ここに三神を合祭した。従って左のような奉斎状況となった。

 沖津宮 (主神)田心姫神 (配祀)湍津姫神・市杵島姫神
 中津宮 (主神)湍津姫神 (配祀)田心姫神・市杵島姫神
 辺津宮(現在辺津宮の第三宮) (主神)市杵島姫神 (配祀)田心姫神・湍津姫神
 惣 社(現在辺津宮本社)   (主神三座)田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神

 沖津宮・中津宮については、まだしもシンプルな祭祀とみることができますが、かつての辺津宮は、新たにやってきた「惣社」に、その祭祀場を譲ったかたちとなったようです。したがって、従来の辺津宮は、「惣社」(現在の辺津宮本社)の境内社という位置づけとなり、この旧辺津宮は、「第三宮」とも「地主宮」とも呼ばれることになります。
 以上の概要は、鎌倉時代末に成る『宗像大菩薩御縁起』中の「宗像三所大菩薩一所仁御遷座事」に記載されていることでもありました。解題は、惣社の誕生を「天応年中」としていましたが、『御縁起』は、「氏男大宮司之時代」、つまり「光仁天皇御宇〔或桓武天皇御宇、云々。〕天応元年辛酉有御託宣」と、天応元年(七八一)に、宗像大神(表記は「宗大神」)による宗像氏男大宮司への託宣(神託)があったことを告げています。
 大神のこの託宣はなかなか迫力に満ちていて、大宮司の驚愕の様は半端ではなかったようです。

虚空仁声有天云、為示吾宗大神之居、号始此所於宗像畢。早氏男之屋敷仁造社、可崇吾。以汝開発田、為当社領、而可致祭祀。即以汝垂迹以来為氏人、致子々孫々、可執行社務。執印者任相伝之理、社務者不可有他家之望。若背此旨者、吾必去社、可住虚空矣。氏男驚此御音、即点屋敷於社壇、以茅草葺之、奉崇三所之神明於一所之処仁、依光仁天皇叡夢之告、被造厳重之社以来、為鎮護国家之霊神矣。

 虚空にいた大神は「宗大神」と名乗り、ここを「宗像」と名づけると、氏男の屋敷に、自分を崇め祭る社を造れと託宣したようです。さらに、汝(氏男)の開発田を社領にあて、「氏人」たる汝は、子々孫々に至るまで、「他家之望」を交えることなく、その社務を「相伝之理」によって司れ(執行せよ)とも託宣しています。大神の託宣が強烈なのは、もしこれに背いたならば、自分(吾)は社から去って虚空に住む(帰る)ぞと釘を刺していることでしょうか。
 大神の託宣を聞いた氏男の驚きは余人の想像を超えますが、彼は、ともかくも屋敷に社壇を造り、屋根には茅を葺いて、その「一所之処」に「三所之神明」を「奉崇」したようです。この大神の強烈な託宣は、おそらく大宰府から光仁天皇のもとへと伝奏されたとみてよく、氏男の驚愕は光仁天皇のそれでもあったのでしょう、天皇もまた「叡夢之告」という夢告のもとに、氏男が急拵えでつくった茅葺きの社壇を「厳重之社」に造りかえさせ、大神を「鎮護国家之霊神」とみなしたようです。
 以上、拙い要約ながらも、この「宗大神」の託宣を読みますと、三女神のいずれかの神の託宣とはどうも考えられないようです。これは、やはり、とても異様な託宣だなという印象が残ります。おもえば、宗大神の「宗」は、主とすることとか中心となるものといった意味ですから、この虚空の謎の「宗大神」を、三女神の主神・中心神あるいは大元神と読みかえてみますと、託宣の主旨は、わが分身(分神)たちをばらばらにまつるな、一緒にまつれ、いいかえれば、「宗大神」を宗大神のままにまつれといった「神勅」だったのかもしれません。
 これは辺津宮「惣社」誕生の秘話ともいえそうです。しかし、この託宣以後、「惣社」の名のもとに大神が三分身(分神)されたままの祭祀はつづきますし、現在の辺津宮本社の祭祀にまでそれは変わりありません。「宗大神」の託宣の主旨は、はたして充分に実現したのだろうかという小さな疑問が残るようです。
 この疑問は、わたし一人のものなのかどうか──。
 宗像氏男大宮司の時代のことか、そのあとのことかははっきりしませんが、辺津宮惣社(本社)境内の大宮司屋敷の鬼門(丑寅)には、惣社(本社)の宗像三女神とは別個に、貴船大明神をまつることを記していたのも『宗像大菩薩御縁起』でした。しかも、この貴船神は「氏人擁護之誓」のもとにまつるとされます。
 辺津宮惣社(本社)の宗像三女神を「氏人擁護」の神とすることなく、宗像大神とは一見無縁であろう貴船神を、自ら(氏人・大宮司)の守護神(鬼門除けの神)としてまつるというのは、いったいどういうことなのでしょう。宗像大神(三女神)は、異敵降伏の最強の神威をもっていたはずです。それをさしおいての、大宮司自らによる貴船神祭祀ですから、これは一考するに値することのようです。

『宗像大菩薩御縁起』の誕生──中世という時代

更新日:2010/4/17(土) 午後 6:30

 後鳥羽天皇による追討の宣旨を受けて、文治五年(一一八九)四月三十日、源義経を衣川館に襲った藤原泰衡でしたが、その泰衡も同年七月十九日には郎党の裏切りによって亡くなり、ここに奥州藤原氏が滅びます。源頼朝が、後追いですが、朝廷から「征夷大将軍」を任じられ、鎌倉に初の武家政権をつくるのは建久三年(一一九二)のことです。しかし、承久元年(一二一九)には源氏三代将軍・実朝が甥の公暁に殺され、その公暁も幕府郎党に討たれます。ここに、たった三十年にして頼朝源氏は滅び、鎌倉政権の実権は北条氏に移ります。
 文治五年のときの朝廷の最高権力者は後鳥羽天皇、承久元年のときは後鳥羽上皇が院政を敷いていました。源氏の滅亡を機とみた上皇は、承久三年(一二二一)五月十五日、北条義時追討の院宣を諸国に下し倒幕を画策します。いわゆる「承久の乱(変)」ですが、上皇に味方するものはわずかでした。けっきょく、同年七月八日に後鳥羽上皇は出家して「法皇」となるも、それだけではすまず、幕府は同月十三日、後鳥羽法皇を隠岐に遷します。朝廷の最高権力者を、実質、流罪処分にするというのは前代未聞のことで、これは、時代が確実に変わったことを示す象徴的な「事件」だったといえます。
 神の「祟り」の現れの一つに落雷がありますが、この落雷の直撃によって亡くなったとされるのが天智天皇の側近中の側近(内臣)・中臣鎌足でした。鎌足は没後、天皇によって「藤原」の姓をもらい、この鎌足の子である不比等が、実質的に藤原氏の祖となります。ただし、阿闍梨皇円の『扶桑略記』は、不比等を鎌足の子ではなく、天智天皇の子とする異伝を告げていて、真偽のほどは霧の中というべきですが、その後、不比等の末裔が天皇の補佐権力の中枢に君臨して、日本の古代政権を運営していきます。その藤原氏による、平安期の摂関政治の終焉とともに、天皇権力の後退を象徴するのが、後鳥羽法皇の隠岐流罪事件でした。
 平安期、天皇・藤原王権とともに歩んだのが、最澄・空海の両巨頭を戴く天台・真言の護国・国家仏教でしたが、平安末期から、天皇権力の後退とともに輩出してくるのが、法然をはじめとする鎌倉新仏教です。これは、国家仏教の後退という背景があっての輩出で、いいかえれば、仏教が天皇・朝廷守護に奉仕するといった呪縛・建前から解放されたことを意味してもいました。
 鎌倉武家政権の誕生と歩調を合わせるように、仏教は武士と庶民のエネルギーを吸収して元気を取り戻します。神は、それまで(古代)の護国・国家仏教のもとに神仏混淆という方法によって仏の下位に位置づけられていましたが、神に寄り添うも、神と一線を画す仏教徒、正確にいえば旧仏教から解放された仏教徒というインテリたちによって、多くの寺社縁起がつくられるというのが中世でした。
 それまでのくびき(呪縛)から自由になった中世という時代は、荒唐無稽ともみえる闊達な寺社縁起をつくりだします。たとえば、室町期に成る『神道集』収録の「諏訪縁起の事」では、甲賀三郎を虚構の主人公とするも、一方のヒロインである春日姫を、大祓祝詞の女神として描き、しかも、この姫神を下諏訪(諏訪大社下社)の女神(本地は千手観音)とするといった、諏訪祭祀の根本秘伝にふれることをさりげなく縁起化しています。物語(縁起)の前半は、春日姫と生き別れた甲賀三郎による、異界=地底の国々を切り抜ける人生波乱のドラマを描いていて、こういった冒険活劇は「文学」としても読めますが、物語の作者(仏教徒)は、最終的に諏訪の姫神とはなにかを敢然と明かすことに躊躇していなかったようです。
 中世というカオス(混沌)の時代は、それまでの王権時代に封殺されていた「自由」の感情を噴出させたようで、多くは荒唐無稽の物語を仮構するも、その行間には、同じく封殺されていた「神」の真相を埋め込むといった二重仮構を施した面は否定できません。
 古代、親百済の大和王権は、怨敵国(仮想敵国)を新羅に想定してきましたが、中世、この新羅の後身国である高麗と日本は、共通の敵国と遭遇することになります。元(蒙古)です。日本の楯となるように激戦を展開した高麗の先鋭軍・三別抄の悲劇のあと、元軍は烏合の高麗軍を従えて九州に襲来します(元寇)。九州の菊池軍を中心とする鎌倉幕府軍は、文永の役(一二七四年)でかろうじて元軍を追い返すも、元軍は第二波の襲来をうかがっていました。この第二波の弘安の役(一二八一)もかろうじて防ぎきった幕府軍でしたが、これら両役には大風が吹いて元軍を撤退させたことから、後世、この大風を「神風」と呼ぶことになります。列島の諸社は、朝廷・幕府の命を受けて異敵撃退を自社祭神に祈ることをしていて、以後、「神風」は自社祭神の神徳によるものという由緒・縁起が付加されることになります。
 これは宗像祭祀も例外でなく、というよりも、西海鎮護の先頭神とみなされていた宗像神でしたから、この異敵撃退が現実化したことは、宗像神の神徳によるものという信仰は、自他ともに強化・定着しただろうことは想像に難くありません。
 二度の元寇の間にあたりますが、文永九年(一二七二)九月三日の「宗像大神宮神官僧官御燈衆等起請文」には、「当神者降伏異国之大将、鎮護国家之霊神也」といった自社祭神の神徳を高唱する一文がみられます(『宗像神社史』所収)。ここでの「降伏」すべき「異国」は、時代のタイミングからいえば新羅ではなく、元(蒙古)以外にありません。二度の元寇における、奇跡的な元軍の撤退は、宗像神の「鎮護国家之霊神」としての神徳の「真」が証明されたようなものですから、それを縁起化する動機はここに過不足なく満たされたといってよいでしょう。
 さかのぼる貞観十二年(八七〇)二月十五日の「宣命」(『三代実録』所収)には、朝廷からすでに次のような認証が示されていました。

我皇大神波、掛毛畏岐大帯日姫[ママ]乃、彼新羅人乎、降伏賜時爾、相共加力倍賜天、我朝乎救賜比崇賜奈利。

 神功皇后(大帯姫)の新羅征討に関して、異敵(新羅)降伏の加護を示した「皇大神」として、宗像大神はすでに朝廷から認知される神でした。日本の「正史」はこのことを一切記していませんでしたが、朝廷から、こういった認識が示されたことの意味はとても大きいといえます。宗像大神が航海守護の神徳を超えて異敵降伏の神徳をもち、それが元寇を撃退したといった神徳と一体となったとき、宗像大神は、宗像大菩薩・強石将軍の名ではあるものの、神功皇后の新羅征討に随行・援助する活劇物語に仮構されるのは必然だったともいえる道筋がみえてきます。
 以上は、鎌倉時代末期に成るとされる、『宗像大菩薩御縁起』成立に関わる時代背景と動機の点描ですが、この点描で、一つ指摘しておきたいことがあります。
 頼朝に滅亡させられた奥州藤原氏、なかでも三代・秀衡が、奥州鎮護かつ奥州一之宮の神として奉祭していたのが、宗像三女神の一神・湍津姫と同体の瀬織津姫神でした(大崎市・荒雄川神社)。藤原氏の郎党の一部は、平泉の陥落後、北の蝦夷地(北海道)へ逃げのびた者もいたようで(「渡党」と呼ばれる)、そこで、この神は新天地の祭祀を受けることにもなります。
 頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼす前には平氏をまず滅亡させていましたが、平氏が氏神として奉祭していたのが安岐国の厳島神社でした。頼朝(正確には義経というべきかもしれませんが)に滅ぼされた平氏の郎党には、南の薩摩国に落ちのびた者もいて、そこで、厳島神をまつりなおします(鹿児島県出水市・厳島神社)。同社祭神を宗像三女神と想像するのはたやすいのですが、その三神表示は「市杵島比売尊・田心比売尊・瀬織津比売尊」とされます。
 源氏の氏神は八幡大神(八幡大菩薩)です。しかし、八幡比咩神(比売大神)は宗像三女神と同体とされますから、表示上、湍津姫神も八幡祭祀に含まれています。古代から中世へと変わる動乱の時代、勝者・敗者の双方がまつる神に、共通して湍津姫神=瀬織津姫神がみられます。
 こういった事実を虚心に受け取りますと、神は、本質的に中立的存在だといえるようです。したがって、異敵降伏の神徳は、まつる側の一方的な思惑の範囲を越えるものではないということになります。
 それでも、宗像大神は、朝廷から、この異敵降伏の神徳をひとえに期待されていましたから、それに応えるように、この神徳を基調とする『宗像大菩薩御縁起』がつくられます。ただし、そういった基調が認められるのは一方の事実であるものの、やはり中世という時代の産物でしょう、ここには、記紀神話や朝廷中心の国家神道がもつ既成観を大きく逸脱すること、あるいは、でたらめと一概に無視・一蹴できない神まつりの「真」に関わることも書かれていました。
 一例を挙げれば、本縁起には、次のような記述がみられます。

一、貴船大明神於大宮司館〔鬼門方丑寅角〕被安置玉事
此神本名宜布禰也。奉改名字於貴船事者、一切衆生溺生死海故、浮神船令玉到彼岸。故名貴船也。本地不動也。大神宮外宮者、本地不動、仍一体也。上社者大荒神也。本地聖天也。是則伊奘諾、伊奘諾册[ママ]尊也。天照大神父母、宗像神者、祖父母也。仍在氏人擁護之誓。故大宮司館仁被安置玉歟。
貴船者賀茂大明神土一体、故上下両社仁有之。又名山神。白山一体故也。白山仁大汝小汝二神有之、是又伊奘諾、伊奘諾册[ママ]之二神也云々。〔鷹或白狐為使者也。〕

 これは、宗像宮境内の宗像大宮司の館、その鬼門(丑寅)に貴船大明神をまつることについて述べたものです。この神の本名は「宜布禰」だったが、それを「貴船」と改めたのは、一切衆生は、この世の「死海」に溺死するものもあり、彼岸へ容易に到達するために、「神船」の意を込めて、そのように名を改めたということのようです。
 要約をつづけますと、この貴船大明神の本地は不動尊で、伊勢の「大神宮外宮」の本地も不動尊で一体である、宗像の(高宮)上社は「大荒神」で本地は聖天(歓喜天)で、これは伊奘諾・伊弉册尊をいう、この「大荒神」は、天照大神の父母神で、宗像神にとっては祖父母の神である、氏人擁護の誓いがあるゆえに、よって大宮司の館にまつるものか──。
 後段も要約しますと、貴船大明神は賀茂大明神と一体である、ゆえに賀茂の上下両社にこれをまつる、また、貴船大明神を「山神」とも呼ぶ、これは白山(権現と)一体だからだ、白山には大汝小汝の二神がある、これもまた伊奘諾・伊弉册尊の二神である──。なお、貴船大明神は鷹あるいは白狐を神使とする──。
 要約の誤りについては読者の指摘を待ちますが、貴船大明神と賀茂大明神・白山権現等を「一体」とみなす認識は、一見唐突で乱暴にみえるも、日本の神まつりの秘伝的「真」を突いていたとはいえるようです。
 一つ一つをここで考証することはしませんけれども、中世という時代ゆえの縁起表出、そのことばの息吹きが侮れないことだけは伝わってきます。

「祟る」神としての宗像大神

更新日:2010/4/15(木) 午前 7:13

 神功皇后紀の記述で興味深いことの一つは、神に対する不敬を改めなかった仲哀天皇を「死」に至らしめた神、つまり、わが国最初の「祟る所の神」として、その筆頭に「神風の伊勢国の百伝[ももづた]ふ度逢県[わたらひのあがた]の拆鈴五十鈴宮[さくすずいすずのみや]に所居[ま]す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]」を挙げていたことです。この神は天照大神荒魂とも呼ばれ、皇大神宮(内宮)の第一別宮・荒祭宮や西宮市の広田神社ほかにまつられています。
 書紀は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)と宗像祭祀との因果関係を直接には語りませんが、宗像神もまた「祟る所の神」であったらしいことを抽出していたのは、正木晃『宗像大社・古代祭祀の原風景』(NHKブックス)でした。正木氏は、履中天皇紀と雄略天皇紀を引いて、次のように述べています。

『日本書紀』の「履中紀」五年(四〇四)三月の条に、こう書かれている。筑紫(胸肩)の三神が宮中にあらわれ、天皇を詰問して、「なにゆえに、我が民を奪うのか。いま、汝にははずかしめをあたえるであろう」と語りたもうた。しかし、天皇はこれを無視した。すると、皇妃が突然、薨去してしまった。驚いた天皇は前非を悔い、筑紫で不正な行為があった事実を究明して、三神に、奪われていた民を返還したという。
 また、同じ『日本書紀』の「雄略紀」九年(四六五)三月の条には、こう書かれている。天皇がみずから新羅を討とうとしたところ、胸方神がいさめて「行ってはいけない」と託宣したので、天皇は新羅討伐を中止したと書かれている。ということは、このころは、新羅討伐のような、対外的な戦争行為におよぶ際は、勅使をつかわして、胸方神の神意を聞き、それによって、行動を決定したらしい。
 この二つの記述を見ると、大和政権にとって、宗像の神々は、その言葉を無視すれば、容赦なく「祟る」神であり、至高の権力者にほかならない天皇の行動まで、規制する強大な力をもっていたようだ。

 五世紀に宗像大神が「三神(三女神)」であったとは考えられず、履中紀の「三神」表記は、神代紀のスサノオとアマテラスの「誓約」神話による誕生譚と整合させようとした書紀編者の推敲作為とおもわれますが、それはおくとしても、宗像大神の神威の別格性はよく伝わってきます。
 正木氏は、地元漁民の伝聞を交えて、次のようにつづけています。

 聞くところによれば、いまでも沖ノ島の周辺を漁場とする漁民のあいだでは、沖ノ島の神は、崇敬の念を失えば、たちどころに「祟る」神だと信じられているという。この「祟る」という性格は、慈悲を旨とするホトケには、絶対といっていいくらいない。しかし、神の場合は、崇敬の念をもって向き合わないと、その神威が高ければ高いほど、「祟る」力も強くなって、人間に跳ね返ってくる傾向がある。
 どうやら、沖ノ島をはじめ、宗像三女神は、女神という優しげなイメージとはうらはらに、じつは恐ろしい神なのかもしれない。もっとも、そうでなければ、国家を外敵から守護することなど不可能なはずで、大和政権としても、それを承知の上で、宗像三女神の祭祀を、宗像氏に依頼したのだろう。

 女神を女性と読みかえて、「優しげなイメージとはうらはらに、じつは恐ろしい」と日頃おもっている男性諸氏も多いかもしれません。「崇敬(ラヴ)の念」を失えば、当たらずとも遠からずということになりそうですが、「神」の話にもどしますと、宗像三女神は、もともと「国家を外敵から守護する」というように、その神威が「内」(天皇・朝廷)に向くことなく「外」(外敵・異敵)に向くようにつくられた神であったことを忘れてはいけないようです。
 三女神誕生神話における、天照大神(日神)の「神勅」のことば──、「汝[いまし] 三[みはしら]の神、道の中に降[くだ]り居[ま]して、天孫[あめみま]を助け奉[まつ]りて、天孫の為[ため]に祭[まつ]られよ」ということばを、直接の祭祀者である宗像氏と「天孫」双方がその後も遵守するかぎり、三女神の神威の鉾先は天孫(天皇)に向けられることはありません。したがって、「祟る」という性格は、宗像三女神のものというよりも、三女神に分化される前の大元の宗像大神に因るものとみられます。
 天皇・朝廷が畏怖する宗像大神の「祟る」という性格は、記紀神話で三女神を創作し、神威のヴェクトルを変換しても、それで完全に消えるはずもなく、この「祟る」という性格が、断片的ながらも表れたのが履中・雄略紀の記述でした。また、宗像大神における「祟る」神のイメージは、三女神創作の真意がみえないところでは、ことを正確に語らない神職から氏子大衆へと、その恐怖感のみが深層心理的に降りて生きつづけますから、引用にあったように、現代の漁民にもなお伝承されているとみることができます。
 不敬という油断をすると、いつ「死」の報いを執行するかわからない神、正木氏のことばでいえば、「至高の権力者」といえども「容赦なく『祟る』神」ですから、天皇・朝廷権力者からすれば、宗像大神ほど危険な神はないといえそうです。
 宗像大神を宗像三女神へと改変し、その危険な神威を無化せんとすることは、書紀編纂時点の朝廷関係者にとって、おそらく切実な創作課題だったことでしょう。しかし、この創作は、大元の宗像大神(の神威)への不遜ともいえる干渉であったことに変わりありませんから、「祟る」神に「祟られる」という恐怖は、以後、朝廷関係者の祭祀意識に宿命化されることになります。そういった「神」と間近に対面祭祀をせざるをえない現場の神職はたまったものではありませんが、三女神の背後から、三女神の名のもとに死んだはずの宗像大神が蘇ってくることは、天孫(天皇)の国家が崩壊することにつながりかねないという強迫的危惧感が、こういった我慢の祭祀を各地に継続させているようです。朝廷が、宗像大神を「日本之固」の神とみなしていたのは(天元二年(九七九)二月十四日大宰府へ下された太政官符)、その強迫的危惧感からすれば、たしかに正鵠を射る認識だったというべきかもしれません。
 しかし、本来の宗像大神は、非権力的な場を生きる庶民個人には、「祟る」神として現れる道理はありません。「祟られる」という負の深層感情がないところでは、「祟り」そのものが成立しないからです。その意味で、神は「心」の投影ですし、あるいは、厳粛に公明正大、かつ中立的な存在でもありましょう。

沖ノ島の祭祀遺跡から──宗像大神と新羅

更新日:2010/4/13(火) 午前 9:30

 神功皇后の新羅征討に神威を示したとされる宗像大神でしたが(『宗像神社史』)、千歩譲って、これが「虚史」でないとしても、一つ、大きな不思議があります。
 それは、天智二年(六六三)八月、百済救援のために出征した倭国(日本)の水軍に、宗像神がどんな加護の神威も示した形跡がないことです。官軍(水軍)は白村江にて唐・新羅軍に大敗し、翌九月には百済が滅亡します。
 さかのぼる大化五年(六四九)、この頃「宗像(形)郡建置せられ、ついで神郡として宗像社に寄進せらる」とあるように(「宗像神社史年表」)、宗像神の祭祀は朝廷からすでに特別に重視されていました。『日本書紀』の作者・編者は、古代史最大の海戦へ向かうという国家の重大事のとき、そこに、宗像神の加護の神威の有無をなぜ記さなかったのでしょう。
 書紀には、書かれたことよりも書かれなかったことに、ときどき大きな意味が隠されていて、西海鎮護・航海守護の神徳がいわれる宗像大神が、白村江の海戦時に沈黙していることは一考に値するようです。なぜなら、雄略天皇紀にみられたように、宗像大神には親新羅の傾向があり、これは、白村江の海戦─敗戦時にも継続していたのではないかという仮定を考えさせるからです。
 宗像神社の沖津宮のある沖ノ島は「海の正倉院」といわれるように、ここには、四世紀後半から一〇世紀初頭までの約六〇〇年間にわたる、二十三の古代祭祀遺跡が集中し、それらからは、国宝に指定されただけでも八万点を数える出土品をみます(正木晃『宗像大社・古代祭祀の原風景』NHKブックス)。同書によれば、これら多くの古代祭祀遺跡群は、便宜上、その祭祀形態別に、次のように整理されるようです。

① 岩上祭祀(四世紀後半~五世紀)
② 岩陰祭祀(六世紀~七世紀)
③ 半岩陰祭祀・半露天祭祀(七世紀後半~八世紀前半)
④ 露天祭祀(八世紀~一〇世紀初頭)

 岩上祭祀は、文字通り岩の上における祭祀で、祭祀者は岩上(の斜面)から玄界灘の東方に向かって拝礼していたようです。これが沖ノ島における最古の宗像祭祀としますと、その拝する方向からいえば、太陽神を招く祭祀のようにもみえます。
 また、わたしが別に興味深いとおもうのは、「奇妙なことに、四世紀末から五世紀前半期にかけての前方後円墳が、宗像地方に於ては全く知られていない」と指摘されていることです(正木喜三郎『古代・中世宗像の歴史と伝承』岩田書院)。正木氏は「五世紀前半、前方後円墳が見られぬことは、宗像の盟主が大和王権より公認されなかった事情にあったといえよう」と想像しています。ただし、ここで誤解のないように添えておきたいのは、五世紀前半、宗像氏が大和王権と没交渉だったということではない、ということです。沖ノ島の岩上祭祀の出土品の分析から、沖ノ島における国家的祭祀は四世紀後半から開始されていたからです(『宗像大社・古代祭祀の原風景』)。
 以上からいえるのは、岩上祭祀の時代、宗像氏は大和王権と一線を画すも、しかし、王権からの大神祭祀への奉献品等を中継ぐ存在だったということかもしれません。宗像氏の祭祀、あるいは宗像大神は、大和王権が初期から軽々視できないものでした。
 次の岩陰祭祀時代(六世紀~七世紀)については、「出土品は、岩上祭祀の段階に比べれば、格段に豪華になっている」と指摘されます(正木晃、前掲書)。祭祀場が岩上から岩の陰に設定されるという変化は、岩そのものを神の依代とみなすという祭祀変化かもしれません。この岩陰祭祀時代の後半には、先にふれた古代史最大の海戦(→百済滅亡)の時間が含まれていますが、出土遺物については、次のような特徴がみられるとされます。

 これまでになかった物品としては、黄金製指輪をはじめ、金銅製馬具類(金銅製棘葉形杏葉[きょくようがたぎょうよう]・歩揺付雲珠[ほようつきうず]・金銅製帯金具)、鉄製馬具類(鉄製鞍金具)、金象眼付鞍金具、鋳造鉄斧などが姿を見せはじめる。これらの豪華な物品の多くは古新羅[こしらぎ]時代(朝鮮半島を統一する以前の新羅)の古墳から出土する作例とひじょうによく似ているところから、新羅からの舶載品とみなされている。

 古新羅時代とは三韓時代をいいますが、高句麗・百済ではなく「新羅からの(豪華な)舶載品」が多く検出されていることが大きな特徴のようです。六世紀から七世紀中葉にかけて、沖ノ島の宗像神の祭祀を新羅も重視していただろう傾向が、ここに顕著にみられるといえます。これは、宗像氏と新羅との友好的な交流関係を物語るものではないかとわたしなどは考えますが、そうではないという考えもあるようです。
 継体天皇二十二年(五二八)、筑紫国造磐井が火国(のちの肥前・肥後国)と豊国(のちの豊前・豊後国)に拠って大和王権に叛旗をひるがえします。磐井が新羅と友好的な関係をもっていたらしいことは書紀も記すところですが、問題は、宗像神あるいは宗像氏と新羅との関係です。『宗像大社・古代祭祀の原風景』は、次のように述べています。

 国内では、従来の王朝とはいささか系統の異なる可能性がある継体王朝が成立(五〇七年)。次いで、失地回復をはかって、朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野[おうみのけな]率いる大和政権軍を、筑紫君磐井がはばみ、戦闘状態になるという「磐井の乱」が勃発した。
 なぜ、磐井の乱が起こったのか、をめぐっては、新羅からの賄賂という説をはじめ、朝鮮半島南部における利権抗争説など、古来いろいろの見解がある。その当否はともかく、舞台が九州だったことから、宗像氏にも大きな影響をあたえたにちがいない。
 しかし、原因がどのようなものであったにせよ、宗像氏が一貫して大和政権との関係を重視したことはまちがいない。結果的に、磐井の乱は、宗像氏の地位を、向上させることはあっても、その逆はけっしてなかった。絆はますます強化されたのである。

 磐井の乱は、結果として、宗像氏と大和王権との関係を強化したという断定がなされています。そのように断じる根拠が明白に語られているわけではないのですが、筑紫国・火国・豊国にまたがって展開された磐井の蜂起に、筑紫国内にいる宗像氏が一人大和王権側に加担したというのはありうるだろうかという疑問はぬぐえません。ましてや、宗像神あるいは宗像氏と新羅は、もともと友好的な関係にあった可能性が高いですから、引用の断定説には首肯できないものがあります。『古代・中世宗像の歴史と伝承』の説も読んでみます。

 宗像と新羅との関係は密接である。それは、宗像大神を新羅からの渡来神とされる素戔嗚尊の御子とする伝承からも窺える。沖ノ島神宝のうち岩蔭遺跡遺物の金銅製馬具・金製指輪・鋳造鉄斧も、新羅製としてほぼあやまりないものと指摘されている。宗像市相原古墳群二号墳からは新羅土器が出土している。体部片であるが、沈線で区画された中に、スタンプ円文やコンパスによる弧文などが描かれた新羅統一時代様式といわれている。

 新羅が友好的な関係域としているのは、なにも宗像地方に限られるものではなく、香春から宇佐地方にかけてもいえることで、あるいは日本海沿岸や九州全域に及んでいるとさえ考えられます。『三国史記』の建国神話を読みますと、高句麗・百済が北方の扶余族の建国であるのに比して、新羅の建国は、もともと海人族のそれによるもののようです。宗像氏や宇佐氏といった海人族が、その根(ルーツ)を共有している新羅と親近関係をもつのは、親百済の大和王権との服属関係を生きるも、つまり、面従腹背を生きるも、親新羅の関係感情は根強いものがあったのではないかとも想像されます。
 半岩陰祭祀・半露天祭祀(七世紀後半~八世紀前半)では、新羅からの舶載品(豪華な奉献品)がまったくみられなくなります。この極端な変質が何を語るのかを考えますと、やはり、白村江の海戦と百済滅亡は大きな契機となっただろうことは否めません。また、敗戦後、大和王権が律令国家へと脱皮する過程で、その祭祀思想を大きく変質化させてゆくことも要因として指摘できるかもしれません。
 大和王権の祭祀思想は、象徴的にいえば、壬申の乱(六七二年)までは地方豪族の祭祀に干渉することなく、一定以上認めるといった距離の取り方をしていたようです。
 斉明天皇元年(六五五)前後とおもわれますが、胸形徳善の女尼子娘[あまごのいらつめ]が大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となり、高市皇子を生みます。若き高市皇子が壬申の乱で活躍する姿は書紀がよく描くところですが、同じく海人族の尾張氏の加勢があって天武側は乱の勝利を得ます。持統天皇時代、高市皇子は太政大臣にまでなり、こういった事実関係から、宗像氏が朝廷権力に対して大きな力をもつようになったと解釈する説は根強いです。しかし、高市皇子が天皇位に就く可能性は最初から封じられていたといってよく(吉野の盟約)、もし彼がそれを望むような動きを少しでもみせたならば、おそらくは大津皇子と同じ処断の運命が待っていたことでしょう。高市皇子の子・長屋王に、その悲劇は持ち越されたといえるかもしれません。
 歴代天皇のなかで、新羅との関係(修復)を重視した例外的な天皇が天武でした。壬申の乱のとき、多くの海人族が天武側に加担する心性はありえたはずで、問題は、天武天皇が、皇后(のちの持統天皇)とともに乱後の国家構想を具体化してゆくなかで、海人族が暗黙に期待していただろう神まつりを裏切る方向へ舵を切ったことでしょうか。天武亡きあと、大和王権はまた新羅を不倶戴天の怨敵国とみなすことで、国内(朝廷内)統一を図る方向へ歩み出します。亡国百済の高官・遺民を多く受け容れていた大和王権が、その後「国史」を編纂するにあたって、皇祖神の創作(万世一系の仮構)と神功皇后の新羅征討譚を仮構することで、何を果たそうとしたかは、かなり暗い情念に満ちたものという指摘もできそうです。
 ところで、半岩陰祭祀・半露天祭祀には、二つの対極的な遺跡が確認されています。一つは「超一級の宝物を捧げた五号遺跡」、もう一つは「小規模で質素な二〇号遺跡」です。「ほぼ同じ時期の祭祀遺跡でありながら、二〇号遺跡と五号遺跡の極端なまでの落差は、いったいなにを意味するのだろうか」という疑問は当然です。『宗像大社・古代祭祀の原風景』は、「質素な品々しか奉献できない航海があった」と、航海の重要度のちがいを想定していますが、わたしの考えは別にあります。七世紀後半から八世紀前半という時代には、神宮祭祀の立ち上げを淵源とする、各地の神まつりの変質化(の強制)がはじまります。宗像祭祀も例外でなかったはずで、中央の祭祀意向を受容した位相と、古来の祭祀に固執した位相の二重祭祀が営まれていた結果が、「極端なまでの落差」をもつ二つの祭祀に反映しているとみます。
 最終期の露天祭祀(八世紀~一〇世紀初頭)からの検出遺物には、前祭祀にみられた中国からの舶載品も確認できず、「大量の国産奉献品で埋め尽くされた一号遺跡」といわれるように、中央の祭祀意向が強く反映しています。前掲書は、遣唐使の航海守護に加え、その「祭祀の目的が新羅の海賊対策にあったことはまず確実だろう」と推定しています。宗像大神の神威が朝廷側に向くことがなくなるという神威変質を前提にするならば、朝廷が大神に「新羅の海賊対策」を願う意向はたしかに成立しましょう。ただし、朝廷が、「正史」の非記載を無視し、宗像大神による神功皇后の新羅征討(外敵制圧)への加護を初めて内々に認めるのは貞観十二年(八七〇)のことで、ここでいわれる「新羅の海賊対策」への祈願は、それ以後のことだろうとおもいます。
 宗像大神が、書紀が記すところの新羅征討譚にまったく登場することのなかった事実と、沖ノ島の祭祀遺跡の検出物の変遷、そして、白村江の海戦時の大神の沈黙、さらに貞観十二年の「宣命」等を総合しますと、宗像大神と新羅との関係の深さは、まだ底が洗われていないという印象が残ります。

日曜美術館「仏像革命~円空の祈り~」を観る

更新日:2010/4/11(日) 午前 11:52

▼北海道・太田山(太田権現)
















 日曜美術館「仏像革命~円空の祈り~」のホームページで語られていた番組予告では、出演者を正木晃さん(宗教学者)、堀敏一さん(仏師)とし、その内容紹介を、次のように書いていました。

12万体の造仏を請願し、諸国の遊行で多くの仏像を彫った江戸時代初期の修験僧・円空(1632-1695)。現在発見されている仏像は、神像も含め全国で5300を超える。
なた彫りと呼ばれる荒い削り口。像がかもす素朴な微笑。それまでの仏像様式に全くとらわれない自由奔放なスタイルは、300年以上たった今も多くの人を魅了している。
円空の仏像には40代半ばから「護法神(ごほうじん)」という不思議な異形の仏が登場する。表面はなた彫りでザックリ。形は、髪の毛が逆立っているものから、木の切り株のようなもの、狐(きつね)か鳥のような顔まで、さまざま。いったいこれは…?
この自由で、あまりにも枠にとらわれない仏像を誕生させた円空の狙いとは何だったのか。“革命”ともいえる新たな仏像誕生には、円空が厳しい修行から得た独自の境地と日本古来の世界観がかかわっていた。浮かび上がってくるアニミズムの精神…。原初の神の姿を仏に刻んだ円空。異形の仏、12万体を彫り続けた、その祈りに迫る。

 ここには「異形の仏」ということばが二回つかわれています。これは「仏像革命」という斬新なことばとも呼応していますが、その象徴的彫像が「護法神」とみられています。また、「日本古来の世界観」「アニミズムの精神」との交流をなした円空を、「原初の神の姿を仏に刻んだ円空」とも呼んでいます。
 番組は、この予告通りにほぼ構成され、終えたといってよいでしょう。
 北海道の有珠山や太田山など、わたしが訪ねたところをふりかえる感じもあって、少し回顧的な気分も生じていましたが、番組を見終えての感想を一言でいうならば、円空(の信仰・思想)をじゅうぶんに語るのはむずかしいなということと、この感想と一体ですが、けっきょく番組を無難にまとめたなというものでした。
 高賀山の「土着の神」は、八世紀に、藤原氏によって歴史の中に封じられたといったナレーションがありましたが、円空(の信仰・思想)を本気で語ろうとするなら、ほんとうはここからはじまるのだろうとおもいます。しかし、宗教学者・正木晃さんのスタジオでのコメントは、小さな「土着の神」は各地にいっぱいいたというように、「土着の神」一般へと話を拡散して締めくくったようで、わたしが「番組を無難にまとめたな」とおもったのは、このコメントを聞いたときでした。
 円空が終生こだわった「土着の神」は、たしかに大いなる自然神でもあります。高賀山や白山などの霊地・霊山の「土着の神」には固有の名がありましたが、それは番組では出さない(出せない)ということは事前に聞いていましたから、そのことに何か述べるつもりはありません。
 ただ、円空の強い意志を感じさせる印象的なことばの一つに、「我山岳に居て多年仏像を造り其地神を供養するのみ」という、自身の彫像思想を明快に語ったことばがあります(『飛州志』)。高賀山・白山ほかの山岳霊地、そこには円空にとって「供養」の対象となる「地神」がいるというのが彼の認識です。アニミズム一般論ではすくいとれない円空の「想い」が、番組終了後、ますます異彩を放っている印象を受けました。「土着の神」と括られた神も、また長良川河畔の円空も、まだまだですと微笑んだ気がしました。