荒雄川神社(宮城県大崎市岩出山町池月字上宮字宮下10)

更新日:2009/2/22(日) 午後 4:39



 荒雄川神社(大崎市岩出山町池月字上宮字宮下10)の紹介です。
 荒雄川神社は、延喜式神名帳では「陸奥國玉造郡 荒雄河神社」と表記される古社ですが、今回紹介する荒雄川神社のほかに、大崎市鳴子温泉鬼首字久瀬3にも同じ社名の神社が鎮座しています。この鬼首[おにこうべ]・荒雄川神社のほうは、祭神に瀬織津姫を掲げることなく、こちらは主祭神を「大物忌命」としています。同社社伝によれば、「往古、荒雄川の水源である荒雄岳(984m)の山頂に鎮座していたが、明治五年に現在地に遷座」とあり、鬼首・荒雄川神社は比較的新しい祭祀といえます。
 さて、岩出山・荒雄川神社ですが、ここは境内に縄文中期の遺跡(荒雄川神社遺跡)を抱えるといった特異な立地にあるも、神社と遺跡の関係を語る史料は伝えられていないようです。それはおくとして、まずは、社頭の由緒案内を読んでみます。

荒雄川神社
 延喜式神名帳(延喜七年に編集された代表的な神社台帳)にのっている玉造三座の一つで、鬼首の荒雄岳上の社を奥宮と称したのに対して里宮と称され、神宮寺も併設されて、この地方の信仰の中心となっていた。
 祭神は、須佐雄尊と瀬織津媛尊で、応徳三年(1086)ころに、源義家が征東の際、戦勝を祈って黄金の剣を奉納したと伝えられている。
 また、嘉応二年(1170)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし、室町時代には、奥州探題の大崎義隆が大崎五郡の一の宮として、崇敬し、江戸時代に至っては、岩出山伊達家の氏神となった。
 寛保三年(1743)に、幕命によって江合川(荒雄川)沿いの三十六所明神を合祀したので、三十六社様とも称されている。                   岩出山町教育委員会

 地元の教育委員会が表示した由緒案内には、「祭神は、須佐雄尊と瀬織津媛尊」とあります。しかし、神社本庁による祭神表示(『平成祭データ』)は、主祭神については、鬼首・荒雄川神社と同じく「大物忌神」とし、配祀神の項に、由緒案内にあった「建速須佐之男命」と「瀬織津姫命」ほか七柱の神を記していて、瀬織津姫は主祭神扱いされていないようです。
 荒雄川神社の主祭神は、はたして「大物忌神」なのか、それとも、地元の主張である「須佐雄尊と瀬織津媛尊」なのかという、基本的な問題点がまずあります。
 以下、中央側ではなく、地元の記録・伝承から、荒雄川神社の主祭神について検証してみます。
 由緒案内には、荒雄川神は「寛保三年(1743)に、幕命によって江合川(荒雄川)沿いの三十六所明神を合祀したので、三十六社様とも称されている」とありました。この「三十六所明神」「三十六社様」に関して、『玉造郡誌』は、鬼首・荒雄川神社の項において、出羽の鳥海山の関係とともに、次のように記しています。

【鬼首村】村社荒雄川神社 本村字小向にあり、参道及境内には老杉枝を交へ鬱蒼たる中に鎮座まします。祭神は大物忌命にして祭日九月九日となす。
縁起由来。(高橋鉄治所蔵)玉造郡鬼首村鎮座荒雄川神社。祭神 大物忌命。恭しく惟ゐるに大物忌命は、奥州玉造郡荒雄山上と、出羽の飽海郡鳥海山上とに鎮座す。共に神祇官の神名帳に登載せられ、朝廷より幣帛乃奉進ありしなり。荒雄山上に鎮座ましますを荒雄川神社と称へ奉るは、山上に霊石(大物忌石と申す)あり、荒雄川の源水となるが故なり。即ち世に言ふ嶽宮にて、其の里宮は荒雄川の流域三十六箇所に及ぶを以つて、後世三十六所明神とも言ふ。 (『玉造郡誌』、文末は句点に変更)

 荒雄岳(荒雄山)には鳥海山と同じ神が鎮座し、この神の「里宮」は「荒雄川の流域三十六箇所に及ぶを以つて、後世三十六所明神とも言ふ」とされます。つまり、「三十六所明神」「三十六社様」という荒雄川神社の異称は、荒雄川流域の「三十六箇所」に及ぶ「里宮」を意味していました。
 大崎市古川大崎字名生館68に鎮座する大崎神社は、かつては「三十六所神社」と呼ばれていました。むろん、荒雄川神社里宮の一つです。以下は、これも『玉造郡誌』の記載です。

三十六所神社。 東大崎伏見土淵と称する地にあり、明治四十二年十二月熊野神社白山神社等是に併社して大崎神社と改称せり。往古葛西城主葛西監物の時代荒雄川の沿岸に三十六ヶ所の神社を建社して瀬織津姫命を祭れるなりと。

 三十六所神社(荒雄川神社)は「往古葛西城主葛西監物の時代荒雄川の沿岸に三十六ヶ所の神社を建社して瀬織津姫命を祭れるなり」とあります。ここには、鳥海山の神(大物忌神)の名は出てこず、ただ「瀬織津姫命」の名が記載されるのみです。
 ちなみに、同じ内容ですが、『古川市史』(下巻)は、次のように記述しています。

三十六所神社  大崎名生館六八
 その昔、葛西監物という者が荒雄川の沿岸三十六ヶ所に神社を建立し、瀬織津姫を祀ったといわれる。明治四十二年二月、熊野神社・白山神社等を併せ大崎神社と改称された。

 葛西城主・葛西監物なる人物の考証は別途必要でしょうが、荒雄川神社(三十六所明神)の本来の祭神は「瀬織津姫命」であると、地元の記録・伝承は、このことを確実に伝えていました。荒雄岳の神(荒雄川神)と鳥海山の神は同神ですから(「奥州玉造郡荒雄山上と、出羽の飽海郡鳥海山上とに鎮座す」)、大物忌神(命)とは、どんな神の名の不自然な異称かということまで判明してきます。
 明治期、荒雄川神社の祭神はスサノオとされ、瀬織津姫の名は一旦消去されるという経緯があったようで、それが、社頭案内に「須佐雄尊」の名が並記された理由かとおもわれます。
 明治国家あるいは中央の祭祀思想が、荒雄川神社の主祭神に「瀬織津姫命」をもってこないようにする努力(?)あるいは圧力も、地元の強力な伝承は、これをはねのけたようです。北海道の樽前山神社は、この理不尽な圧力に屈してしまいましたが、玉造郡の民は、荒雄川流域三十六ヶ所に「瀬織津姫命」をまつっていた記憶を消去しなかった結果といってよいかとおもいます。
 さて、「瀬織津姫命」が、これほどの信仰の対象神とみなされた理由を考えますと、その大きなルーツは、社頭案内にあったように、つまり、「嘉応二年(1170)に、藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に、奥州一の宮とし」て「崇敬」したということにみてよいのでしょう。
 秀衡の前に、源義家が「戦勝を祈って黄金の剣を奉納」といった社歴も記載されていました。この義家伝承なども、岩手県の大沢滝神社の祭祀伝承とリンクされてくるようで興味深いものがあります。
 奥州藤原氏の初代・清衡にまでさかのぼっても、「瀬織津姫命」は、秀衡と同じく崇敬の対象神でした(岩手県・滝ノ沢神社の項を参照)。
 ともかく、奥州藤原氏三代・秀衡が、荒雄川神社を「奥州一の宮」と定めたのは、ことのほか大きな意味があります。
 鎌倉軍(源頼朝軍)によって奥州藤原氏が滅びたとき、平泉の家臣たちのある者は、北へ敗走、新天地を渡島(江戸期の蝦夷地、現在の北海道)に求めて津軽の海を渡った者も少なからずいたはずで、それが、和人がまつった最古の神として、北の大地に「奥州一の宮」の神「瀬織津姫命」の祭祀を伝えた理由でもありましょう(菊池展明『円空と瀬織津姫【上巻】──北辺の神との対話』参照)。
 また、「瀬織津姫命」は、秀衡が重視した白山信仰とも深く関わってきますし、東北各地に、この神の祭祀(とその残影)が濃厚にみられるというのも、おそらく、奥州藤原氏(あるいは、さかのぼって安倍氏)の崇敬と、少なからず無縁ではなかろうとおもわれます。
 藤原秀衡が、中央の祭祀思想によってひたすら消去の対象神とみなされてきた神を、あえて「奥州一の宮」の神、つまり、奥州の総守護神としようとした意図とは何だったのでしょう。この秀衡の「未完の構想」は、考えてみるに値するものだろうことを示唆しているのが、岩出山・荒雄川神社です。

伊豆神社(岩手県遠野市上郷町来内6-32-2)【下】

更新日:2009/2/21(土) 午前 9:22



(つづき)
 伊豆神社由緒が語る、「おない」という俗名伝承の唐突さを、上記のように、綾織の別伝承で補足して解釈しなおすことで自然な印象を受けるとすれば、やはり、坂上田村麻呂伝承と「おない」とは切り離して考えたほうがよいのかもしれません。
 もっとも、厳密には、『綾織村誌』も伝説の域を出ないだろうとはいえます。「おない」についてはともかく、三人の娘たちを遠野三山・三女神伝説に付会しようとしているからです。村誌の「おない」伝説から読み取れる骨格的伝承があるとすれば、それは、「来内の伊豆権現」を先行して記し、その上で「(遠野)三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山」と記した点にあるというべきでしょうか。
 では、伊豆神社由緒に史料的価値がまったくないかといえば、そんなことはありません。
 由緒は自社祭神・瀬織津姫命を「遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の守護神の親神」と説明していました。しかし、三山のうち「早池峰山の守護神」は、これも瀬織津姫命(早池峰神社祭神)です。親神(母神)と子神(の一神)が、ともに瀬織津姫命という不思議・矛盾を修正することなく伝説化し、その不思議・矛盾をそのままに現在に伝えていることにこそ、この由緒および遠野郷の伝承がもつ逆説的価値がありそうです。
 この母神と子神(の一神)を同一神とする矛盾を内在させた、一親神三女神伝説が意味することとは何なのでしょう。
 わたしの考えはいたってシンプルで、つまるところ、ほかの子神二神も母神の分神であり、この一親神三女神伝説の根源神は、つまるところ、母神一神に還元・集約されるものではないかとおもっています。
 日本の神まつりで、三女神の構成をもつのは、宗像三女神と祓戸三女神がよく知られます。ところが、この二つの三女神に共通して関わる神が一神います。それが、遠野郷の一親神三女神伝説の中心神でもある瀬織津姫だというのは偶然ではないようにおもえます。
 一神を三神に分神化するというのは、古いところでは古事記・日本書紀や中臣祓(大祓祝詞)の手法といってよく、遠野側はそれを一見踏襲するも、記紀神話や中臣祓の中央的祭祀思想とはただ一点、大きく異なる方法によって伝説化したようです。遠野郷あるいは伊豆神社の由緒伝承は、「大昔」の女神伝説を一親神三女神と伝えるも、親神と子神に同一神を配するという一見矛盾することをあえて残しました。三女神という分神化前の大元神の名を伏せなかった、隠さなかったのは、遠野郷の秘された意思表示ではなかったかとさえおもわれてきます。これは、遠野側の伝説・伝承が現在にまで伝える最大の価値ではないかというのがわたしの理解です。
 伊豆神社の拝殿内には、遠野三山・三女神の神像図や早池峰神社境内図、また早池峰山図などが掲げられています。ここが、早池峰信仰の根源社だといえばそれまでなのですが、特に三女神図をあらためて見ていて気づいたことがあります。
 絵の中心の「早池峯大神」が手にしているのは、伊豆神社由緒や『遠野物語』が記すとおりの蓮華(蓮の花)ですが、脇の「石上大神」は左手に玉(宝珠)をもち、「六角牛大神」は古代の剣らしきものを手にしています(ちなみに、神遺峠に鎮座する神遺神社の三女神石像も、同じ構図です)。
 早池峰大神の本地仏は十一面観音で、この観音は左手に水瓶をもち、そこに蓮華を挿すというのが儀軌的な構図で、それと関わっているだろうことが、蓮華を手にしているように描かれた理由でしょう。問題は、やはり、残る脇神の持ち物です。
 ここで想起されるのは、北海道の滝廼神社や川濯神社における祭神「瀬織津姫命」の神像です。この神像は、左手に水徳の象徴である玉(宝珠)、右手に武徳の象徴である剣をもつ像でした。この神像が手にしていた二つの持ち物が、遠野の三女神図では、早池峰大神の脇神二神に配されています。瀬織津姫神は、玉(宝珠)と剣に象徴される神徳をもつといった理解が、神道世界の内部にはあったものとみられます。
 この遠野の三女神図は見慣れたものでしたが、北海道における瀬織津姫の神像とあらためて対比してみますと、遠野三女神の主神(中心神)かつ親神(母神)、つまり根源神といってよいとおもいますが、それが「瀬織津姫命」一神に集約されるだろうことがイメージ的にも鮮明化してきたようです。
 早池峰神社も伊豆神社も、そこにはおびただしい剣(古代の剣を擬したもの)の奉納がみられます。これは武運長久を願っての奉納だろうといった理解も可能ですが、しかし、より根源的には、水の神徳のほかに、剣(武)の神徳をもつ祭神といった認識があったゆえの奉納とおもわれます。

(追伸)
 この伊豆神社は、わたしが瀬織津姫という神(の名)と初めて出会ったところで、この神の祭祀を考えようとするとき、基点・原点となる社でもあります。
 上記のほかに、ここが神社となる前は「伊豆権現」(来内権現)と呼ばれていたように、「伊豆」の問題もあります(伊豆神社の鳥居や拝殿には、今でも「伊豆大権現」の額が掲げられています)。
『遠野市史』によれば、「伊豆権現は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神」とされます。伊豆神社由緒も「伊豆走湯関係の修験者がはるばる此の地に来て権現の由来を基に獅子頭を御神体として奉ったものである。故に伊豆大権現と称され千二百年以上にわたり広く信仰を得て来た」と記していて、伊豆との関係をつよく伝えています。
 この遠野の伊豆権現のルーツは、静岡県熱海市の伊豆山神社(かつての走湯権現・伊豆権現)です。しかし、遠野の伊豆神社の本社筋にあたるといってよい熱海の伊豆山神社からは、現在、「瀬織津姫命」の名は出てきません。これをどう考えるかについては、あまりに話が長くなりますので、ここでは省略いたします。

伊豆神社(岩手県遠野市上郷町来内6-32-2)【上】

更新日:2009/2/21(土) 午前 9:19



 伊豆神社(遠野市上郷町来内6-32-2)の紹介です。
 ここは、早池峰信仰を中心とする遠野三山伝説の発祥と深く関わる社で、早池峰神社(遠野市附馬牛町上附馬牛19-81)との関係は、伊豆神社(旧称:伊豆権現社)側が元社・親社とみられていました。『遠野市史』(第一巻)は、両社の関係について、次のように述べています。

 三山発祥地は市内上郷町来内とし、早池峰山新山宮神社(現在の早池峰神社…引用者)では、来内の伊豆権現社(現在の伊豆神社…引用者)を親神と呼び、この別当が到着しなければ祭りはできないという掟[おきて]があった。

 伊豆神社(の神)は、早池峰神社(の神)の「親神」とあり、早池峰神社の祭礼時、伊豆神社の「別当が到着しなければ祭りはできないという掟があった」とされるように、ここには厳格な親神・子神といった関係がありました。
 伊豆神社には神官が常駐しておらず、拝殿には、由緒書きがまとめて置いてあり、参拝者がだれでも自由にそれを持って帰れるようになっています。伊豆神社の由緒を読んでみます。

神社名 伊豆神社
鎮座地 遠野市上郷町来内六地割三十二番地ノ二
祭 神 瀬織津姫命(セオリツヒメノミコト) 俗名 おない
    遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の守護神の親神
例祭日 旧暦九月十七日、現在では十月の第四日曜日と改められた。

 坂上田村麻呂が延暦二年(西暦七八三年)に征夷大将軍に任命され(「任命」は延暦十六年=七九七年…引用者注)当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた。三人とも、高く美しい早池峰山の主になることを望んで、ある日この来内の地で母神の「おない」と三人の姫神たちは、一夜眠っている間に蓮華の花びらが胸の上に落ちた姫神が早池峰山に昇ることに申し合わせて眠りに入った。夜になって蓮華の花びらが一番上の姉の姫神に落ちていたのを目覚めた末の姫神がみつけそっとそれを自分の胸の上に移し、夜明けを待って早池峰山に行くことになり、一番上の姫神は六角牛山へ(石神山へとの説もある)二番目の姫神は石神山へとそれぞれ別れを告げて発って行った。此の別れた所に神遣神社を建立して今でも三人の姫神の御神像を石に刻んで祀っている。
 大同年間(八〇六─八〇九年)早池峰山を開山した四角藤蔵(後に始閣と改めた)が来内権現の霊感を得て故郷の来内に戻り、自家の裏に一草堂を建てて朝夕これを崇拝したとのことである。当時この話を聞いた伊豆走湯関係の修験者がはるばる此の地に来て権現の由来を基に獅子頭を御神体として奉ったものである。故に伊豆大権現と称され千二百年以上にわたり広く信仰を得て来たものなり。明治維新後に伊豆神社と改めて現在に至っている。
平成四年八月記                           伊豆神社 宮司 中田一正

 まず、祭神の項には「瀬織津姫命」を明記するも、「俗名 おない」と付記されていることが特徴でしょうか。また、祭神は「遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)の守護神の親神」とも記されていて、ここにも「親神」ということばがみられます。
 由緒は、祭神の「俗名 おない」を坂上田村麻呂と関係づけて、「当地方の征夷の時代に此の地に拓殖の一手段として一人の麗婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた」云々と、三山三女神伝説を展開しています。この「おない」という「麗婦人」が、いったいどんな男(神)との間に「三人の姫神」をもうけたのかを、由緒は記すことがありません。
 伊豆神社由緒が記す遠野三山・三女神伝説を読んでいるのみですと、田村麻呂時代の伝説かといった感想で終わりそうです。
 柳田國男『遠野物語』第二話は、遠野三山・三女神伝説を、次のように記していました。

四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯[はやちね]という、北の方附馬牛[つくもうし]の奥にあり。東の方には六角牛[ろっこうし]山立てり。石神[いしがみ]という山は附馬牛と達曾部[たっそべ]との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫目覚[めざ]めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもうゆえに、遠野の女どもはその妬[ねた]みを畏[おそ]れて今もこの山には遊ばずといえり。(『遠野物語』第二話、『柳田國男全集』所収)

 第二話は、「大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来内[らいない]村の伊豆権現の社ある処に宿りし」云々と、伊豆神社由緒が記していた坂上田村麻呂と「麗婦人」「おない」の関係にはまったくふれていません。第二話からは、母神が一人で来内村にやってきて、ここで三人の姫神を産んだとしか読みようがありません。ちなみに、伊豆神社近くに住む古老の女性によれば、瀬織津姫様は神様ではなく姫様だと信じているとのことです。満月の夜、南の蕨峠を越えて来内の地まで流浪するようにやってきたと、どうやら実在の「人間」の姫様と受け止めているようでした。
 それはともかく、はたして「おない」は、田村麻呂が「拓殖」のために遣わした女性なのだろうかという小さな疑問も生じてきます。その名が「おない」という「俗名」をもっていたというのも、妙に生々しい印象を受けます。
『遠野市史』は、伊豆権現の創祀について、こちらも坂上田村麻呂伝承を排して、次のように説明しています。

 この女神たちの泊った宿は、当時来内村といった現遠野市上郷町来内の伊豆権現社である。伊豆権現は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神である。藤蔵は、太平洋沿岸沿いに北上し、この来内に居を構えた、という。
 現在、この地には三人の女神が生まれたお産畑、お産田が残っている。田は五角形で、女が田植えをすると雨が降るといって男が田植えをする。一坪(三・三平方メートル)くらいの小さな田で、不浄であってはならないと肥料はしないし、田植えの時も畦[あぜ]から苗を三把ずつ植えて内に決してはいらない。この田からとったイネで餅をつくり、大出の新山宮(現在の早池峰神社…引用者)に供え、余りはお守りとして各戸に配っている。付近には、このほか襁褓(おむつ)を干したという三国という名の岩、藤蔵の屋敷跡、後代に造った墓なども残っている。(『遠野市史』第一巻)

 瀬織津姫命(伊豆権現)は「早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神」とあり、神社由緒を語ろうとするとき、坂上田村麻呂に結びつけるよりも、こちらのほうがリアリティがありそうです。
 ところで、由緒に記されていた「おない」という名で気になるのは、『綾織村誌』が記していた、前九年の役(一〇五一~一〇六二年)を背景とした、安倍氏の女性たちの伝承・伝説です。村誌は、次のように記していました。

安倍宗任の妻「おない」の方は「おいし」「おろく」「おはつ」の三人の娘を引き連れて即ち今の上閉伊郡の山中に隠る。其後おないは人民の難産難病を治療することを知り、大いに人命を助けその功によりて死後は、来内の伊豆権現に合祀さる。娘共は三人とも大いに人民の助かることを教へ、人民を救ひしによりて人民より神の如く仰がれ其後附馬牛村神別に於て別れ三所の御山に上りて、其後は一切見えずになりたり。其おいしかみ、おろくこし、おはやつねの山名起れり。此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山なれば、里人之を合祀せしものなり。

 村誌は、伊豆神社由緒が記していた瀬織津姫命の「俗名 おない」という女性を「安倍宗任の妻」としています。彼女は、当地で人命を助ける(難産難病を治療する)と、その功によって、死後「来内の伊豆権現に合祀」されたとされます。
 また、「おない」の三人の娘たちも、死後、三山の姫神に「合祀」されたとあります。村誌は「此の三山は神代の昔より姫神等の鎮座せるお山」としていて、「おない」たちの前に、すでに「姫神等」の祭祀があったことを告げています。
 伊豆神社が、祭神を「瀬織津姫命」とするも「俗名 おない」と記していたのは、『綾織村誌』が記すように、「おない」という俗名をもつ女性をあとから「合祀」したと考えると自然な印象としてつながります。
 瀬織津姫命と、ある女性(の霊)が一体となる(合祀される)というのは、大沢滝神社の真砂姫(安倍貞任の娘)伝説にもみられます。おないにしても真砂姫にしても、彼女たちの霊が神と一体となるというのは、彼女たちが信奉する神と、彼女たちの霊が等質のものとおもわれたからなのでしょう。
(つづく)

早池峰神社(岩手県遠野市大工町1-3 瑞応院境内)

更新日:2009/2/19(木) 午後 6:08



 早池峰神社(遠野市大工町1-3 瑞応院境内)の紹介です。
 ここは、早池峰神社(遠野市附馬牛町上附馬牛19-81)の分社というわけではなく、お寺の鎮守様・守護神として、自主的に早池峰大神(瀬織津姫神)をまつってきたようです。
 瑞応院は遠野南部氏ゆかりの寺ですが、この南部氏の故地は八戸(青森県)で、そこでは八戸南部氏と通称されていました。
 八戸南部氏の崇敬社は櫛引八幡宮でしたが、この櫛引八幡の神(応神天皇)が、毎年、「神輿渡」という挨拶を欠かすことのなかった社が御浜御前でした。櫛引八幡宮のほうが社格は上なのですが、それが社格下位の御浜御前にわざわざ挨拶に出向くというのは異例です。御浜御前(現在の御前神社)の明治期の由緒も、この奇妙さに気づいたらしく、「祭神神功皇后ニ付櫛引村鎮座八幡大神毎年四月十五日当社へ神輿渡有」云々と、子の応神天皇(八幡大神)が母親の神功皇后に挨拶にやってくるのはさも当然だろうとする「解釈」を由緒に記すほどでした。
 しかし、これは明治期以降の祭神付加(配祀神として神功皇后を表示)をともなう転倒した「解釈」というべきです。なぜなら、江戸期までは、御浜御前神は瀬織津姫神で、櫛引八幡神が表敬の挨拶に出向く対象神は、この瀬織津姫神であったことが考えられるからです。
 では、なぜ櫛引八幡神は御浜御前(瀬織津姫神)にわざわざ表敬の挨拶をしにくるのでしょう。
 このことに関して、福島県古殿町教育委員会所蔵の「鎌田家文書」にふれないわけにいかないようです。この文書には、瀬織津姫に関する唖然とする記述が含まれています。鎌田家は、松尾神社(延喜式内社「永倉神社」)の神職の家筋で、同家に伝わる多くの文書のなかに、表紙に「文化年中写之者也」「他見堅無用」と書かれたものがあります。ここには、松尾神社が管理する小社を含めた「棟札」の写しが数多く収められていて、そのなかの、八幡宮の「棟札」の写しの三枚、つまり、貞享四年(一六八七)、享保五年(一七二〇)、および日付不祥の三枚に、八幡宮の主神(比売大神)として、瀬織津姫の名が記されています。
 なるほど「他見堅無用」の文書というべきですが、八幡の比売大神を瀬織津姫と伝える文書が存在すること(棟札があったこと)は、宇佐(八幡)の比売大神とはなにかをあれこれ憶測・推測するレベルの話ではなくなってきます。
 八戸においても、おそらく御浜御前(瀬織津姫神)は宇佐の大元神・比売大神と認識されていたはずで、そこに、応神天皇を祭神とする新しい八幡神が「神輿渡」という表敬の挨拶をしにくるというのが、本来の姿だったとおもわれます。
 さて、御浜御前(御前神社)には、「みちのくの唯[ただ]白幡旗[しらはた]や浪打に鎮りまつる瀬織津の神」という古歌が伝えられていました。この「白幡」を社名にもつ神社が遠野にもあります。遠野の白幡神社について、『遠野市史』は次のように説明しています。

(白幡神社は)松崎町白岩字新張に鎮座し、堂社は大正七年(一九一八年)の建築である。もと遠野町一日市の東方にあって、中川原観音はその跡であるという。白幡観音とも称された。祭神は神功皇后とも、源義経の白幡ともいわれているが、今は単に白幡大明神を祭るとしている。鈴木家の氏神である。
 弘化四年(一八四七年)の三閉伊一揆の際、早瀬川原に集結した一万二千人余りの一揆は、この白幡神社から加茂神社の間に陣したと伝えられるが、この時の図面には熊野権現社ともある。いずれにしても、幕末には既に遠野から現在地に移されたようである。(『遠野市史』第四巻)

 ここには、白幡神社の祭神は「神功皇后とも、源義経の白幡ともいわれているが、今は単に白幡大明神を祭るとしている」と記され、どうもはっきりしないようです。しかし、白幡神の本地仏については、「中川原観音」「白幡観音」と呼ばれていたことがわかります。
 明治期初頭、おそらく神仏分離のとき、社外に出ることを余儀なくされた「白幡観音」を引き取ったのが瑞応院でした。この観音の像容は十一面観音で、像は現在も境内の観音堂にまつられています(金箔が新たに施されていて、やや古風を欠く印象を受けますが)。この観音堂はこった造りで、堂内の天井には見事な龍の絵も描かれていて、白幡観音をとても大事にまつってきたことを伝えています。
 瑞応院の古老のお話によると、当初は、観音堂と早池峰神社は並んで建っていたとのことですが、それはおくとしても、めぐりめぐって、早池峰大神(瀬織津姫神)と白幡観音(十一面観音)が、ここ瑞応院の敷地内で同居することになったというのは興味深いことです。早池峰大神の本地仏もまた十一面観音でしたから、当時の瑞応院住職は、白幡観音(十一面観音)と早池峰大神(瀬織津姫神)との神仏一体の「縁」をよほど理解していたものと想像されます。
 最後に、瑞応院の由緒についてもふれておきます。

瑞応院
 臨済宗妙心寺派で承応二年(一六五三年)の開山は沢室和尚、開基は瑞応院殿乾峰真貞大姉、本尊は釈迦。盛岡市聖壽寺の末寺である。
 慶安四年(一六五一年)十月南部直栄の娘万が死して聖壽寺に葬って瑞応院殿と称したが、直栄は哀惜のあまり承応二年一寺を建て、改葬し聖壽寺大鉄和尚の高弟沢室を招いて開山とした。明歴四年(一六五八年)山門を完成し、六世越舟の時の宝暦九年(一七五九年)に再興、七世閲堂は規模を拡張して安永七年(一七七八年)秋に完工したといわれる。伽藍は壮大で、書院、鴬張廊下など本格的な禅宗寺院建築である。また本堂欄間の双竜と天女の彫刻は稀にみる逸品で、創建のときに彫ったものと云われている。本堂は市の文化財に指定されている。(境内案内板・遠野市、一部読点を補って引用)

 瑞応院という名は、遠野の町の現在につづく基礎をつくった南部直栄[なおよし](八戸から移封)の最愛の娘「万」の戒名にちなむようです。寺院境内に、土地神=早池峰大神を守護神としてまつりつづけてきた理由を考えますと、あるいは、この「万」が信奉していた神が早池峰大神(瀬織津姫神)であったことに起因するのかもしれません。

大沢滝神社(岩手県花巻市東和町砂子4-107)

更新日:2009/2/18(水) 午前 1:07



 大沢滝神社(花巻市東和町砂子4-107)の紹介です。
 丹内山神社からほど近いところに(車で十分ほど)、この大沢滝神社があります(写真1・2)。ここは、古い参道を現在に残していて(写真3・4)、往時の信仰の厚さを現在に伝えています。
 丹内山神社には、八幡太郎義家(源義家)の勧請とされる八幡神社が境内社としてありますが(弟の加茂次郎義綱の勧請とされる加茂神社もあります)、大沢滝神社は、安倍氏の歴史悲話とともに、源義家による「瀬織津姫命」勧請を色濃く伝える社です。同社の境内に掲げられた由緒を読んでみます。

大澤瀧神社由来
一、祭神 瀬織津姫命、迦具土命
二、祭典 元旦祭 一月一日  春祭(火防祭)三月九日  例大祭 九月九日
三、由来
 康平五年(一〇六二年)陸奥守兼鎮守府将軍源頼義が、厨川柵を攻め滅ぼし、俘囚の長兼六郡の郡司安部(安倍とも…引用者、以下同)頼時の長男安部貞任を戦死させた。源氏の基盤を固めた前九年の役である。
 安部貞任が、一族の本拠地奥六郡から北の厨川へ、山峡を忍んで駒を進めたであろう、栄華の後の寂しい最後の逃避行となった。
 安部貞任の娘「真砂姫」が父貞任の後を追いこの地大沢の滝川にさしかかった。父の身を案じ、父の身代わりとの思いだったのであろうか、この滝川に身を投じてしまった。
 後に源頼義の子八幡太郎義家が「真砂姫」を哀れみ、現在の古滝大明神の地に社を建立して「瀬織津姫命」を勧請、姫の霊を弔ったと伝えられており、地区内外を問わず厚い信仰を集め今日に至っている。
 現在の社殿は文政年間(一八一八~一八二九年)の建立で二度目の改築と伝えられ、「迦具土命」との合祀となっている。特に縁結びの神様として地域社会の心の結び合いの所縁として親しまれており、毎年九月九日賑やかに例大祭を行っている。
 なお、当地「砂子」の地名は「真砂姫」に由来するとの説がある。
附記
 この地は遠く縄文時代の三〇〇〇年前から、清水を求めて人が住み着き、東和町では数少ない弥生時代(天ヶ沢や八日市場)の遺跡も残されており、水と共に暮らす人々の跡を止めているところです。神の依代であった大桧木とともに、水に浮かぶ真砂姫の心を思い浮かべながらお参りください。                   平成十五年三月九日 大澤瀧神社

 安倍貞任の娘「真砂姫」は、厨川へと敗退する父・貞任を追って、この「大沢の滝川」までやってくると、父の身代わりとなる思いで滝川に投身(入水自殺)したとされます(写真5)。
 義家は、のちの後三年の役の主役の一人となりますが、藤原清衡とは同盟的な関係を結んでいたようで、さかのぼれば、安倍氏との関係も、単純な敵対的心情ばかりではなかったようです。それが、彼に、真砂姫の鎮魂・供養の行為をとらせているようにおもえます。
 由緒によれば、義家は、「現在の古滝大明神の地に社を建立して『瀬織津姫命』を勧請」したとあり、この古滝大明神も訪ねてみました(写真6)。境内には「早池峯大神」の石碑もありましたが、社殿(祠)はなぜか二つ並んでいて(写真7)、この並祭される祠の神の一神は「瀬織津姫命」にはちがいないものの、一方の祭神については、もうだれも覚えていないようです。
 それにしても、真砂姫の霊を弔う行為として、義家は「瀬織津姫命」を勧請したとされます。真砂姫の霊を供養するために、なぜ「瀬織津姫命」がここに勧請される必要があったのかが説明されておらず、この勧請行為には、どこか説明の飛躍があるようにみえます。
 真砂姫の霊と瀬織津姫命が深く関係づけられていることはわかるのですが、これを自然な流れとして理解するには、少し想像力を必要とするのかもしれません。
 以下に、その理解の試み(想像)をしてみます。
 早池峰山頂には、早池峰大神が鎮座することはいうまでもないのですが、ほかに「安倍貞任之霊神」もまつられています(大迫・『早池峯神社社記』)。また、貞任の母親が住んでいたとされる窟伝説なども早池峰にはあります。遠野郷には、厨川の戦い(前九年の役)のとき、貞任弟・宗任の妻子が遠野まで落ち延びてきた、その娘の一人「おはつ」が早池峰大神(瀬織津姫命)と「合祀」された、また、母親(「おない」とされる)にしても、死後、彼女は伊豆権現(瀬織津姫命)に「合祀」されたとする伝説もあります(『綾織村誌』、伊豆神社由緒)。
 これらは伝説の域を出ないにしても、安倍氏の女たちが信奉する神として、早池峰大神こと瀬織津姫命はあっただろうと理解しても、それほど無理ではないだろうとおもいます。北海道福島町では、川濯神でもあった瀬織津姫命は「女性守護神」として、土地の女性たちに厚く崇敬されていましたし、安倍氏の女たちにしても、同じ心性にあったとしてもおかしくはないでしょう。
 こう考えますと、安倍貞任の娘である真砂姫にとっても、その信奉する神が瀬織津姫であっただろうことは、じゅうぶんに考えられることです。義家は、おそらく、このことをよく知っていたゆえに、真砂姫の霊の弔いのために、彼女が信奉していた「瀬織津姫命」を姫の霊と一体のものとして、ここに「勧請」したのだろうとおもわれます。
 では、義家は、瀬織津姫命をどこから勧請したのかとなりますが、わたしは、義家とも縁あった丹内山神社ではなかっただろうかと考えます。
 丹内山大神の出現地は「瀧神社」(現在の滝ノ沢神社)の「瀧」でした。真砂姫は「大沢の滝川」に身を投じたとされます。この大沢滝神社という社名も、正確には、大沢の「瀧神社」という意味です。大沢滝神社が、「瀧神」(瀬織津姫命)と真砂姫(の霊)をさも同体かのごとくに重ねて祭神とみていることは、由緒がよく語るところです。
 大沢滝神社が、「瀧神」をいかに重視してきたかは、古い山門に掲げられた額字「瀧大明神」にも表れていますし、山門の境内側には、昭和八年という新しいものではあるものの、その扁額には「瀧」一字のみが記されていて驚かされます(写真8)。「瀧」一字の扁額などというのは、寡聞にしてほかに知りませんが、ことさらに「神」を記すまでもなく、「瀧=神」という、つよい思いのこもった額字なのでしょう。
 ところで、義家と真砂姫の間には、なにがしか親和的な関係があっただろうことを想像させる別由緒も境内には表示されています。多少、文学的に脚色された印象を受けますが、以下は、エピソード・地名譚付き真砂姫の悲話の全文です。

大澤瀧神社の由来
 大澤瀧神社には、次のような物語が言い伝えられている。
 今から九五十年ほど前、前九年の役と呼ばれる戦いで、安倍貞任[あべのさだとう]と源義家[みなもとのよしいえ]の軍が戦った。この貞任の娘「真砂姫[まさごひめ]」についての悲しい話である。
 義家の軍に追われ猿ヶ石川を渡った安倍貞任は、谷内峠から田瀬に越えると宮守の笹岡へと向かった。姫も父の後を追ってこの大沢の地までやってきたが、家来の直義のほか共に来る者もなかった。「今夜はここで休息しましょう。」という直義に対して、姫は「すでに父は戦いで死んだかも知れません。自分一人生きていてもどうなることでしょう。ただ、幼い弟・千代童丸の命だけは助けてほしいと義家公にお伝えして下さい。」と言って手紙を書き、切り取った自分の長い髪で義家からもらった一寸二分(およそ三・六センチ)の観音様を包むとそれらを直義に頼んだ。
 そのとき、姫が笠を掛けた松は今でも「傘[ママ]松[かさまつ]」と呼ばれている。
 それから姫は、自分が乗ってきた馬に「よくここまで私と共に来てくれました。これから先は自由に行きなさい。」と言った。するとその馬は涙を流しながら山の上まで行き、西に向かって二度鳴いてから倒れて死んでしまった。この馬の「大鹿毛[おおかげ]」という名前からその山を「大鹿山[おおじかやま]」と呼ぶようになった。
 そのあと姫は、大澤の瀧にある大石の上で法華経を唱えると、川の中に飛び込み姿が見えなくなってしまったが、滝壺の中から白い光が飛び出して東の空に消えたという。それは九月九日の夜の事だった。
 残された家来の直義は次の日、笹岡城へ行くと義家に昨夜の事を伝えた。義家が姫の事をあわれに思い、父である源頼義[みなもとのよりよし]に相談してみると、「大澤瀧大明神[おおさわたきだいみょうじん]として奉るのが良い。」と言われた。
 こうして、真砂姫の霊を「瀬織津姫神[せおりつひめのかみ]」としてはじまったのが大澤瀧神社であり、九月九日が祭りの日と決められている。
 また、真砂姫の名からこのあたりを砂子[いさご]と呼ぶ様になったと伝えられている。

 この由緒伝承では、「前九年の役と呼ばれる戦いで、安倍貞任と源義家の軍が戦った」とされますが、正確には、先の由緒も記すように、源氏側の棟梁は、このときはまだ義家ではなく、彼の父・源頼義でした。息子の義家は、心中、安倍贔屓[びいき]の思いを半ば引きずったまま厨川の戦いに臨んだようです。
 義家が、結果的には敵対することになる安倍氏(貞任)の娘・真砂姫に「一寸二分の観音様」をプレゼントしていたとは、ちょっといい話ではないでしょうか。前九年の役がもしなければ、義家は貞任の義理の息子になっていたという(文学的)可能性も、あるいはありえたかもしれません。